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暴行被告事件
事件番号令和3(う)70
事件名暴行被告事件
裁判年月日令和4年3月29日
法廷名広島高等裁判所
結果破棄自判
原審裁判所名広島地方裁判所
原審事件番号令和3(わ)194
全文全文
最高裁判所〒102-8651 東京都千代田区隼町4番2号 Map
裁判日:西暦2022-03-29
情報公開日2022-06-09 04:00:11
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令和4年3月29日宣告

広島高等裁判所

令和3年(う)第70号

暴行被告事件

原審

令和3年

広島地方裁判所

第194号

主文
原判決を破棄する
被告人は無罪

第1
1由
控訴趣意等
本件控訴の趣意は、弁護人寺垣玲作成の控訴趣意書、控訴趣意補充書及び控訴趣意補充書⑵に記載されているとおりであり、
これに対する検察官の答弁は、
検察官島村浩昭作成の答弁書に記載されているとおりであるから、これらを引用する(なお、弁護人は、第1回公判期日において、控訴理由は訴訟手続の法令違反、事実誤認及び法令の適用の誤りである旨釈明した。)。

2
原判決が認定した罪となるべき事実は、被告人は、令和3年4月7日午後5時45分頃、広島県東広島市a町b番地c付近路上において、A(当時45歳)に対し、自己の上半身をAの上半身にぶつけ、Aの身体にしつように抱き付き、Aの背後からAの着衣を両手でつかんで後方に引っ張る暴行を加えた。というもの(暴行)である(以下、令和3年の日付については、年の記載を省略する。)。

第2
1
訴訟手続の法令違反の論旨について
論旨は、原裁判所が、原審弁護人による証拠開示請求、すなわち、①証拠物のうち未開示のもの全て、②A及びAの息子であるBの未開示の供述録取書並びに③証拠物の押収手続記録書類について行った証拠開示請求について、何らの理由を示すことなくこれらの請求を認めなかった点に、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があるという。

2
そこで、記録を調査して検討すると、原審弁護人は、上記証拠開示請求に当
たり、被告人が、原審被告人質問において、原審で採用され取調べがされた原審甲9、10に係る動画の撮影時点よりも前の段階で、Aからその腕を被告人の首に巻かれる暴行を受けた旨の供述をしていることから、そのような暴行の有無は正当防衛の成否に影響を及ぼすため、上記①~③の証拠開示が必要であると主張している。
しかしながら、原審弁護人が行った上記証拠開示請求は、飽くまで原裁判所の訴訟指揮権に基づく証拠開示命令の職権発動を促す意味を持つものにすぎず、同命令を発するか否かは、原裁判所の広範な裁量に属する事項というべきである。そして、原裁判所は、上記証拠開示請求がされた時点における証拠関係に照らし、後記第3の2⑶のとおり、被告人の上記供述に係るAの暴行はなかったものと認め、上記証拠開示の必要性がないと判断して職権を発動しなかったものと解されるところ、被告人の上記供述が信用できないことは後記第3の5のとおりであるから、原裁判所が職権を発動しなかった点に、裁量の逸脱がないことは明らかである。
論旨は理由がない。
なお、当審において、当審弁護人が改めて上記①~③について証拠開示請求を行い、このうち②③に関し、検察官から任意の証拠開示を受けた上で、Aの検察官調書の一部及びここに引用された動画の記録媒体を当審弁号証として事実取調べを請求し、これらは取調べ済みであるが、当裁判所が上記事実の取調べをしたのは、後述の検討からも明らかなとおり、同証拠は、A供述の信用性判断のほか、正当防衛の成否の判断に影響する可能性が高いと判断したことによるものであり、その意味で原裁判所の判断には妥当を欠く部分があったとはいえる。
第3
1
事実誤認の論旨について
論旨は、被告人の暴行はAによる急迫不正の侵害に対する正当防衛行為であり、仮に正当防衛でないとしても誤想防衛行為であって無罪であるのに、いず
れの成立をも否定して被告人を有罪とした原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認があるというものと解される。
そこで、
記録を調査し、
当審における事実取調べの結果も踏まえて検討する。
2
原判決は、第1の2記載のとおり被告人の暴行行為を認定した上で、要旨、次のとおり説示し、被告人には正当防衛も誤想防衛も成立しないと判断した。⑴

関係証拠によれば、次の事実が明らかに認められる。
Aは、被告人の自宅の近隣における建物の新築工事(以下本件工事ともいう。)を請け負っていた会社の経営者であり、工事の責任者であった。被告人とAとの間では、工事を行う時間帯等をめぐって従前からトラブルがあった。本件当日午後5時40分過ぎ頃、被告人は本件工事の現場に行き、同現場にいたAに対して工事に関する苦情を述べ、
両名の間で口論になった。
被告人は話を終えて自宅に向かって歩き出したが、Aはまだ話したいことがあると考え、被告人を追い掛けて被告人の前方に回り込んだ。被告人はなおも歩行を続け、進路前方にいたAに対して判示の行為に及んだ。



Aは、自宅に向かって歩いていた被告人を追い掛けて進路前方に回り込んでおり、これによって被告人の進行を妨げる形になっているものの、これは工事をめぐるトラブルに関して被告人と話を続けようとして行った行為であり、その過程において、Aが被告人の身体をつかんだり、腕を広げて立ちはだかるなどの積極的な通行妨害行為はしていなかったと認められる。


これに対し、被告人は、本件工事現場付近の路上において、Aが左腕で被告人の首を巻く暴行をしてきた旨供述するが、Aが撮影した動画には、Aが本件工事現場の敷地を出て被告人を追い掛け、被告人の前方に回り込むまでの状況が録画されており、これによれば、Aが被告人に対して上記のような暴行をした事実はなかったと認められる。なお、被告人は、捜査段階で検察官からBが撮影した動画を見せられ、その動画に上記暴行が録画されていた旨述べるが、DVD-R中の動画(Bが撮影したもの)には、被告人による
判示の行為の後、Aが被告人の首に腕を巻き付ける場面が録画されており、被告人は当該場面を判示の行為より前のものと誤解していると考えられる。⑷

以上によれば、被告人による判示の行為に先立ち、Aが被告人に対して違法な通行妨害行為をした事実はなく、急迫不正の侵害はなかったと認められるから、正当防衛が成立する余地はない。



また、被告人において、Aが違法な通行妨害行為をしたと誤信するような事情があったともうかがえないから、誤想防衛も成立しない。

3
原判決の認定判断について見るに、前提事実の認定に関してはおおむね正当といえるものの、被告人による暴行やAの内心の意図の認定に一部是認し難い点があるほか、法的評価として、本件において急迫不正の侵害がなかったと認定した点についても是認し難い。当裁判所としては、被告人に正当防衛が成立するものと判断したので、以下、その理由を説明する。

4
関係証拠によれば、次の事実が認められる。


前提事実

本件工事は、被告人の自宅の3軒隣にある建物の新築工事であり、1月に開始され、本件当時も継続中であった。
Aは、本件工事の請負会社の社長であるとともに現場責任者であり、本件当時45歳の男性、身長約170cm、体重約70kgであった。被告人は、本件当時87歳の男性であり、身長約160cm、体重約62kgであった。


被告人は、本件工事を行う時間帯を午前9時から午後5時までに収めてほしいとの要望を持っており、1月頃から、Aに対し、本件工事の開始時刻が早過ぎる、終了時刻が遅過ぎるなどと苦情を述べ、Aは、午前9時から午後5時というのは時間的には守れないとの対応を続けていた。その後、
本件当日に至るまで、被告人は、ほぼ毎日、本件工事現場を訪れてはAや作業員との口論を繰り返していた。


Aは、本件後、4月22日に行われた検察官の事情聴取(以下本件後の事情聴取という。)において、本件に至る前の心境として、私や現場で働いている作業員は、毎日のように現場を訪れては大声で一方的に文句を言って去っていく被告人にとてもイライラしていた。被告人は、私たちが言い返すとすぐに『警察呼ぶぞ。』『行政に言うぞ。』と言ってきており、もし警察や市役所の担当者が来て問題のある会社だと思われると信頼を失い会社の業務に影響があると思っていたので、むげにはできなかった。そのため、工事の開始時間を少し遅らせたり、終了時間をできるだけ早めたりするように努力していたのだが、被告人は、何も考えずに一方的に怒鳴り散らし続けていたので、正直、被告人に腹を立てていた。などと供述している。



3月15日及び同月25日の状況

3月15日、被告人が本件工事現場を訪れ、

9時前はやめえ。

などと言ったところ、Aが、被告人の面前に立って数秒間にわたって笛を吹いた後、「痛いのう。」「殴った。

ぶつかってきたじゃないか。

などと被告人に対して発言する様子が動画としてAの息子によって撮影されている。上記動画において、Aの上記発言前後の時点では被告人の身体はAの身体の陰にあり、Aの身体の動き等を見ても、被告人の身体がAの身体に接触した様子を確認することはできない。
この点について、Aは、本件後の事情聴取において、動画上分かりにくいが自分の左肩付近に被告人の右肩が当たった感覚があり、被告人が肩をぶつけてきたことは間違いないとしつつ、殴られてはいないことや、被告人に対する怒りの気持ちから3月15日当日にした「痛いのう。」「殴った。」などの発言が少しおおげさなものになったことを自認している。

3月25日、
本件工事現場での口論の後、
自宅に帰ろうとする被告人に、
Aがついていき、被告人の自宅の門の前付近まで至り、自宅に入ろうとす
る被告人の正面に立っていたところ、被告人は、Aの胸に自分の胸を押し付けて一旦離れ、
再度、
Aの左肩付近に自分の胸等を押し付けた。
この際、
Aは、「いてっ。」と言いながら後方に飛び跳ねるように転倒し、

警察呼んでくれい。

などと言い、被告人が

あっち行け。

出てけ。

ついて来んでもええやが。

などと言って自宅内に入った後も被告人の自宅前に立ち、

警察呼んでくれや。

殴っただろお前今。

などと言っている様子が動画としてAの息子によって撮影されている。
Aは、本件後の事情聴取において、被告人に暴力を振るわれたことをアピールして、しっかりと分かるように動画に残そうと思い、おおげさに転倒したことを自認している。


本件当日の状況

4月7日午後5時45分頃、被告人が本件工事現場を訪れ、

5時だから帰れ。

などとAに告げ、Aと口論になった。その後、被告人は、自宅に帰ろうと幅員5.2mの市道を歩き出した。


これに対し、Aは、手に持ったスマートフォンで被告人を動画撮影しつつ、

わーわーわーわー言いなさんな。

と言いながら被告人の跡を追うと、被告人は振り返り、

うるさいけ。

と言い捨て、そのまま立ち去ろうとした。


これに対し、Aは、

唾飛ばすな。汚いの。

と言い、被告人が、「何。この。」と答えると、Aは、

頭おかしいんか。この野郎。

と言い、被告人は、一旦振り返り、「なんだと。」などと答えたものの、自宅の方を向いてそのまま立ち去ろうとした。


これに対し、Aは、

この間の暴力謝れよ。

と言いながら、被告人を追い越し、被告人の正面に回り込み、正対する状態となった。なお、この際、Aは、左右の手を広げるなどの行為には及んでいない。


これに対し、被告人は、正対するAを避けてう回することなくそのまま
自宅に向けて市道を前進し、被告人の右肩をAの左胸辺りにぶつけた。これを受け、Aは、「わ、痛っ。」と声を上げて後ずさりしたが、再度、被告人の前に正対して立ち、

わ、痛いのお前。

などと言うと、被告人が、

お前がぶつかってきたんじゃないか。

などと言いながら、更に前進してAの腹部に被告人の胸と頭部を1回、押し当てた。

その後、被告人とAは一旦離れたものの、被告人がそのまま前進してAに近づくと、Aは、被告人に対して正対した状態から、素早く自己の身体を右回りに反転させるとともに自身の左腕を被告人の左上腕に巻き付け、被告人に背を向けて自分の背中を被告人の胸部等に密着させ、被告人の左上腕を左脇に挟み込む形で抱きかかえながら、Bに対し、

おい、撮っとるか。

警察呼べ、警察、警察、警察、警察、警察呼べ。

などと告げた。


これに対し、被告人は、Aに左上腕を抱きかかえられ、背後からAに密着する体勢となったが、その体勢のまま、Aに抱きかかえられた左腕をAの腹部付近に巻き付け、Aの着衣の右肩の後方部分を右手でつかんだほか、自己の身体を左右に揺らすなどした。


その後、Aは、後方に転倒した。その際、Aは、「うわ。痛っ」と言ったほか、周囲に向け、

ちょっと待って。手出すな。

警察呼んでください。

などと叫んだ。

被告人は、再度帰宅するため前進しようとしたが、Aが前に立ち塞がって被告人の身体や首に右腕を回したり、被告人の胸に右手のひらを当てたりして制止するなどした。被告人は、Aに向かって

何でお前、手出すんだ。

現行犯だ。」「暴行だ。」などと言い、引き続き自宅に帰ろうとしたが、Aは、被告人の首に右腕を巻き付けたり、被告人に自分の背中を向けて被告人の進路を塞いだりしながら被告人とともに移動し、被告人の自宅の門の前まで至った。その間、Bが、「帰んなや。」と被告人に告げ
るなどしたほか、Aは警察に電話し、

3回目なんですよ。

今ね、つかまれよんですわ。

などと言って被告人から暴行を受けた旨の通報を行った。被告人は、「どけよ。

邪魔するなよ。

などと言いながら自宅へ帰ろうとし続け、自宅の門の前で、立ち塞がるAを押しのけて自宅に帰ろうとしたところ、Aと被告人が共に転倒した。
その後もAは被告人の自宅の門の前に立って被告人の前に立ち塞がり続けたところ、被告人がAを押し、再びAが転倒するなどした。被告人は引き続き自宅に帰ろうとしたものの、
Aによって制止され、
両者はもみ合い、
口論となった。その中で、Aは、被告人に対し

相手見てけんかしたほうがいいぞお前。ただの現場員じゃないけんね俺は。やめとけ。

警察呼んだけえ、待てって言うんじゃ。などと言ったほか、

殴られとんじゃ。


とも言い、被告人が

うそを言うな。

などと答えると、

証人が一杯おるで。

などと言った。その後、被告人が、自宅の前に立って立ち塞がるAに対し「どけや。」などと言うと、Aが

どけよじゃねえ。

何歳やお前は。

などと怒号するなどした。また、Aは、仲裁に出てきた被告人の妻に対し

殴られています。頭打っとるし。病院行くから俺ね。

と言ったほか、被告人らに対し

今日だけじゃないからさ。

3回目じゃけんね。殴られとるのは。

お前な、俺が本気出したらお前、何もできんのんで。分かっとるのお前、我慢してやりようるのに。

などと言うなどもした。被告人は、Aらに対し、「出てけ。

さっさと出てけ。

悪質業者が。

などと怒号するなどもしている。コ5
その後、被告人は、臨場した警察官によって現行犯逮捕された。

上記4のうち事実経過の認定については、捜査報告書添付のDVDに保存された各動画(以下、これらをまとめて本件各動画ともいう。このうち2点の動画については、原審においてその一部が採用されず、撤回済みであったことから当審において残部を取り調べた。)のほか、当審において取り調べたA
の検察官調書、3月15日、25日にAの息子によって撮影された各動画に依拠した。
このうち、本件各動画について、被告人は、その原審供述において重要な部分が削除されているなどとして改ざんのおそれを指摘するが、A撮影の動画であるDVDに保存された動画と、B撮影の動画であるDVDに保存された動画には、短時間ではあるが同じ場面を別の角度から撮影している部分があり、上記場面等における両動画の整合性等を含めて検討しても、両動画の改ざんのおそれはうかがわれず、高度の信用性が認められる。被告人は、各動画に先立つ部分が削除されているとも供述するが、そのような改ざんの形跡も見当たらない。
そして、被告人は、原審において、㋐

自宅の方に向かって歩いていると、まず、Aが、左腕で被告人の首を巻いてきた。

、㋑

Aは、立ち塞がった際、手を広げるような格好をしていた。

などと供述するが、㋐については明確に本件各動画の内容と矛盾しているほか、㋑についても、本件各動画の内容からはAにそのような行動があったとはうかがわれず、本件各動画と整合せず信用できない。他方、Aの原審供述について見ると、従前の経緯に照らしても被告人に対する処罰感情等による虚偽供述のおそれが大きい上、上記4⑶カの状況についても、本件各動画によれば、Aが自ら自己の身体を反転させていることが明らかであるのに、左側に回り込まれた感じと表現するなどしており、たやすく信用できない。そのため、本件当日の状況については、基本的に動画に基づく認定にとどめた。
6
ところで、原判決が認定した被告人による暴行は、❶自己の上半身をAの上半身にぶつけた行為❷Aの身体にしつように抱き付いた行為❸Aの背後からAの着衣を両手でつかんで後方に引っ張った行為の三つから成る。⑴

このうち、
❷は、
上記4⑶キの行為をそのように評価したものと解される。そして、被告人が、上記4⑶キにおいて、Aの着衣の右肩の後方の部分を右
手でつかんだほか、Aに抱きかかえられた左腕をAの腹部付近に巻き付ける行為に及んでいることなどから、被告人の上記行為を、Aの身体に抱き付きと評価することが誤りとはいえない。しかしながら、被告人がこのような行為に出たのは、上記4⑶カで認定したとおり、Aから左上腕をAの左脇に挟み込む形で抱きかかえられていたことから、これに対する対抗措置として行われたものと認められる。そして、被告人の上記行為は、Aが転倒するまで数秒間継続しているものの、この間、被告人は、身体を左右に揺らして左腕をAの左脇から抜こうとし、Aから離れようとしている様子も見受けられるところであり、上記行為が数秒間継続したのは、
被告人の左上腕がAによって抱きかかえられており、
離れることができなかったことによるものであるとの疑いが強い。このような状況を指して、Aの身体への抱き付きをしつようと評価した原判決の認定判断は、不合理であって是認し難い。


また、❸については、原判決は、上記暴行をいかなる証拠に基づいて認定したのか明示していない。本件動画には、被告人が、Aの着衣の右肩の後方部分を右手でつかみ、自己の身体を左右に揺らす様子が撮影されているが、両手で引っ張る様子については撮影されておらず、この点についてはAの原審供述があるのみである。そして、Aの原審供述は、前述のとおり全体として信用性が低いことに加えて、❸の行為については、Aの背後で行われていることであって視覚による確認はできていないはずのところ、Aが、この際の被告人の手が両手であると判断した根拠はその供述中に示されていない。以上によれば、この点についてもAの原審供述を信用することはできない。❸について、両手でつかんだという原判決の認定判断についても、Aの原審供述の証拠評価を誤った不合理なもので是認し難い。以上から、本件で被告人の実行した暴行としては、❶自己の上半身をAの上半身にぶつけた行為、❷Aの身体に抱き付いた行為、❸Aの背後からAの
着衣を右手でつかんで後方に引っ張った行為の三つの行為が認められるにとどまる(以下、❶を体当たり行為、❷を抱き付き行為、❸を着衣引っ張り行為ということがある。)。7
上記4で認定した事実経過によれば、本件当日、口論の後、被告人が帰宅するのに対し、Aがこれを追い掛け、被告人の前に回りこんで立ち塞がったことを受けて生じたのが❶体当たり行為であり、その後、Aが被告人を取り押さえようとし、
被告人がこれに抵抗してもみ合う中で生じたのが、
❷抱き付き行為、
❸着衣引っ張り行為であったといえる。

8
そこでまず、Aが被告人の前に回り込んで立ち塞がった行為(以下立ち塞がり行為ということもある。)が、被告人に対する急迫不正の侵害に該当しないかについて検討する。


原判決は、前述のとおり、Aの立ち塞がり行為を急迫不正の侵害に該当しないと判断している。その根拠は、原判決の説示によれば、ⓐ工事をめぐるトラブルに関して被告人と話を続けようとして行った行為であること、すなわち、行為の際のAの目的に加え、ⓑその過程において、Aが被告人の身体をつかんだり、腕を広げて立ちはだかったりするなどの積極的な通行妨害行為はしていなかったこと、すなわち、行為の態様であると解される。しかしながら、この判断は、論理則、経験則等に照らし不合理なものであって是認し難い。その理由は、以下のとおりである。

立ち塞がり行為の際のAの目的について、原判決が上記ⓐのように認定した根拠は示されていないが、記録によると、この点に関する唯一の直接証拠である

従前、被告人に暴力を振るわれたことについて被告人を謝らせたいというものであった。とのAの原審供述に基づくものと解される。

そして、原判決は、Aの上記供述が信用できると判断した根拠についても明示していないが、原判決のこの判断は、その結論自体、論理則、経験則等に照らし不合理なものであって是認し難い。

すなわち、そもそもAの原審供述が全体として信用し難いことは既に指摘したとおりである。これに加え、上記4⑶で認定したとおり、Aは、被告人を追跡する際、
手に持ったスマートフォンで被告人を撮影しつつ、

唾飛ばすな。汚いの。

頭おかしいんか。この野郎。

などと、ばり雑言ともいうべき挑発的発言を繰り返しながら、背を向けてその場を立ち去って帰宅しようとする被告人を追い掛け、被告人の前に回り込んでその正面に立って行く手を阻み、被告人から体当たりを受けてもその場を退避することもなく、自宅へ向かう被告人が再び近づくと、素早く自己の身体を反転させて被告人の左上腕を左脇に挟み込む形で抱きかかえ、

撮っとるか。


警察呼べ。」などとBに告げるなどしている。自宅に帰ろうとしている被告人を撮影し続けながらあえて挑発的発言をして被告人を感情的にさせている状況や、被告人から暴行を受けるや即座に被告人の左腕を挟み込む形で抱きかかえ、撮影の有無を確認して警察への通報を指示している状況が認められるのであって、立ち塞がり行為の際のAの目的が被告人に従前の暴行を謝らせたいというものであったとのAの原審供述は、上記行動状況と整合せず、信用できない。立ち塞がり行為が、工事をめぐるトラブルに関して話を続けようとして行った行為であるとの原判決の認定判断についても、Aの上記行動状況にそぐわず、不合理なものといわざるを得ない。

原判決は、上記ⓑの点を、立ち塞がり行為が急迫不正の侵害に該当しない理由として挙げる。
確かに、上記で認定した事実関係によれば、Aは、立ち塞がり行為の過程において、被告人の身体をつかんだり、腕を広げて立ちはだかったりするなどの積極的な通行妨害行為には及んでいない。
しかしながら、そうであったとしても、当該立ち塞がり行為が、被告人が自宅に帰るために自宅に向けて市道を前進するという行動の自由を侵
害するものであることに変わりはなく、上記ⓑの点が、急迫不正の侵害に該当することの妨げとなるものではない。
この点についても、
原判決の判断は、
不合理なものであって是認し難い。


当裁判所の判断

上記⑴アで見たとおりのAの行動状況等に照らせば、立ち塞がり行為の際のAの目的は、被告人を挑発してAに対する暴行に及ばせ、その証拠を確保し、警察に通報して被告人を検挙させることにあったものと推認される。
この点について、検察官は、Aの立ち塞がり行為の目的が、話合い目的という社会的に許容されるものであったと主張し、Aが、立ち塞がり行為に先立って「謝れよ。」などと言っている事実(上記4⑶エ)から、Aが、被告人を謝らせようとした意図が推認されるなどという。
しかしながら、真に話合いを持つ意図であったのであれば、被告人を話合いに応じさせるために努めて冷静な発言を行うはずであるところ、立ち塞がり行為に先立つAの発言は、「謝れよ。」というものを含め、いずれもその口調や内容に照らし、被告人を挑発し感情的にさせることを意図したものとしか解されないし、被告人が体当たり行為に及んだ後のAの速やかな対応は、被告人が暴行に及ぶことを十分に想定し、そうなった際にどう対応するかということをあらかじめ考えていたことを推認させるものである。こうしたAの一連の行動状況に照らせば、上記検察官の主張を考慮しても上記判断は左右されない。
そして、被告人を挑発して暴行に及ばせ、その証拠を確保し、警察に通報して被告人を検挙させるという目的は、社会的に見て正当なものといえない。このような不正な目的の下に、自宅へ帰ろうとする被告人の前に立ち塞がったAの行為は、社会的相当性を逸脱したものとして、不正の侵害に該当することは明らかである。

検察官は、Aの立ち塞がり行為は、刑法の構成要件に該当せず、態様も平穏であるとして、これが不正の侵害に該当しないなどと主張する。しかしながら、不正の侵害は、刑法上の犯罪に限られるものではないと解されるし、上記で認定したとおりの、当時のAの言動内容等を見れば、到底平穏な態様ということはできない。
検察官は、当時、Aは左手にスマートフォンを持ち、右手も大きく横に広げているわけでもなく、被告人がAの脇を通り過ぎることは十分に可能であって、Aにぶつからなければ帰宅できないものではないなどとも主張する。
しかしながら、後記9で検討するとおり、本件においては、Aに上記の不正の目的があったのであるから、被告人がAの脇を通り過ぎることが十分に可能であったかは疑問であり、仮にそれが可能であったとしても、Aが更に被告人の前に立ち塞がってくることは想像に難くない上、そもそも被告人にAを避けてう回する義務はないのであるから、Aの脇を通り過ぎることが可能であったからといって、Aの立ち塞がり行為が不正の侵害に該当しないということはできない。
なお、急迫性については、特に検察官も争っていないが、Aは、正に帰宅中の被告人の正面間近に立ち塞がり現にその通行を妨害したものといえる上、被告人に、その場で直ちに公的機関による法的保護を求めることが期待できたとも解されないから、問題なく認められる。

ところで、検察官は、被告人の暴行には、通行妨害を排除するという意図は全く認められず、単に暴力を振るったにすぎないなどとして、同暴行は防衛行為とは認められないと主張する。
しかしながら、体当たり行為の際、Aは現に被告人の進路に立ち塞がっており、そのことを被告人が認識し、これに対応する意思でそのまま前進し、Aに体当たりしたことは明らかであり、被告人が体当たり行為
の際、専ら攻撃の意思のみを有していたものとは認められない。
また、検察官は、弁護人の

首に腕を巻く行為や手を広げる行為がAになかったとしても、Aの行為は急迫不正の侵害であり、被告人には正当防衛が成立する

との所論に対し、このような弁護人の理屈からすると、進行方向に誰かがいれば、この者の主観は考慮せず、行為者が自己の進行の邪魔であると判断すれば、暴力によってでも排除が可能となってしまい、これは正当防衛の趣旨からは大きく外れることは明らかであると主張する。
しかしながら、本件においては、Aは、単に被告人の進行方向にいたにとどまるわけではなく、被告人を挑発し暴力を振るわせて警察に検挙させようとの不正の目的を有していたと推認される上、帰宅しようとして歩く被告人を追い掛け、実際に挑発的な発言をした上で被告人の前に回り込み、正面に立ち塞がっているのであり、さらに、上記ア

のとお

り、被告人がAの脇を通り過ぎて家路につくのもそれほど容易な状況ではないのであって、このような経緯、状況等に照らせば、Aの上記行為が不正の侵害に該当し、これを押しのけようと体当たりする被告人の行為は防衛行為に当たるというべきである。このように解することが、刑法36条の趣旨に反するものとはいえない。
以上のとおりであり、検察官の主張を検討しても、当裁判所の判断は左右されない。
9
次に、防衛行為の相当性について検討する。
Aによる本件侵害の程度を見るに、侵害それ自体は、決して重大なものということはできないが、Aの上記の不正の目的のほか、従前からの経緯や、3月25日にはAが玄関前までついて来ているということを考慮すれば、Aによる通行妨害は、一旦う回すればそれで終了するようなものであったとは解されない(実際、その後、Aは、警察に通報したとして被告人の帰宅を妨げ続け、被
告人の自宅の玄関前までついて来ている。)。
他方、被告人の防衛行為の程度について見るに、被告人は、上記4⑶オのように体当たり行為を行っているが、げんこつによる殴打等の加害行為には及んでいない。また、体当たり行為について多少勢いを付けている様子は見られるものの、それまでの進行方向である自宅の方向に向けてそのまま前進し、進路に立ち塞がって通行妨害をしているAに体当たり行為をしたのであり、通行妨害となっていないAのいる方向にあえて進行方向を変更して衝突しようなどとしたものではない。さらに、従前の経緯やAからのばり雑言ともいうべき発言内容等からしても、通行妨害をするAに対し、被告人が口頭による説得をしたところで、これが奏功する見込みがあったとも解されない。
加えて、被告人とAとの間には、上記で認定したとおりの年齢差、体格差があるところであり、結局、体当たり行為によっても、被告人は、立ち塞がるAを排除することはできず、
その後もAに立ち塞がられるなどしたものであって、
その結果、本件工事現場の僅か3軒隣という至近距離にある自宅の門の中に到達するまでに約5分を要している。
以上の事情を総合考慮すれば、被告人による体当たり行為は、Aによる立ち塞がり行為との関係において、防衛手段としての相当性の範囲を超えたものということはできない。
以上のとおりであるから、被告人の体当たり行為は、Aによる急迫不正の侵害に対し、やむを得ずにした行為として、正当防衛に該当する。そして、このような状況は、Aが自ら作出したものである。
そうすると、Aが被告人の左腕を自己の左脇に挟み込む形で抱きかかえた行為についても、現行犯逮捕として正当化されるものではなく、Aによる被告人に対する違法な暴行として急迫不正の侵害に該当するものであり、これに対応して被告人が行った、❷抱き付き行為や、❸着衣引っ張り行為についても、Aによる不正の侵害に対する防衛行為といえる。

この点、被告人の❸着衣引っ張り行為の後、Aは転倒しているが、当時のAの目的が被告人を警察に検挙させることにあったものと推認されることや、3月15日、同月25日にもAがおおげさに反応していた状況からすれば、この転倒についても、Aが、被告人を暴行罪によって検挙させるべく、おおげさに反応したものである疑いを否定できない(転倒の点については、そもそも検察官も公訴事実の内容に含めておらず、原判決も、罪となるべき事実から除外している。)。
そして、
上記のとおりの被告人とAとの間の年齢差、
体格差等を考慮すれば、
被告人の❷、❸の各行為についても、被告人の左腕を自己の左脇に挟み込む形で抱きかかえるという侵害行為に対する関係において相当性を逸脱するものではなく、やむを得ずにした行為として正当化されるものといえる。そうすると、その余の論旨について検討するまでもなく、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認及び法令適用の誤りがあり、破棄を免れない。

第4

破棄自判
よって、刑訴法397条1項、382条、380条により原判決を破棄し、同法400条ただし書を適用して更に次のとおり判決する。
本件公訴事実はおおむね上記第1の2のとおりである(ただし、暴行の態様は、Aの身体にしつように抱き付くなどの暴行を加えたというものであるが、原審第1回公判期日において、原審検察官は、上記などの暴行とは、

自己の上半身をAの上半身にぶつける暴行、両手でAの着衣をつかんでAの身体を左右に揺らす暴行

であると釈明した。)ところ、被告人の暴行は刑法36条1項の正当防衛に該当し、罪とならないから、刑訴法336条により、被告人に対して無罪の言渡しをすることとして、主文のとおり判決する。
(原審検察官の求刑

罰金15万円)

令和4年3月31日

広島高等裁判所第1部

裁判長裁判官


裁判官

裁判官

波宏仁富張真紀廣瀬裕亮名
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