判例検索β > 平成30年(う)第744号
殺人
事件番号平成30(う)744
事件名殺人
裁判年月日令和4年3月9日
法廷名東京高等裁判所
結果棄却
全文全文
最高裁判所〒102-8651 東京都千代田区隼町4番2号 Map
裁判日:西暦2022-03-09
情報公開日2022-05-11 04:00:10
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令和4年3月9日宣告

東京高等裁判所第10刑事部判決

平成30年(う)第744号

殺人被告事件

主文
本件控訴を棄却する

第1


事案の概要及び本件控訴の理由について

1
本件に関する横浜地裁の原判決は、介護付有料老人ホームAの職員であった被告人が、①

平成26年11月3日から同月4日までの間に、施設4階40

3号室北西側ベランダで、甲(当時87歳)の身体を両腕で抱えてフェンスを乗り越えさせて、
約10.
5m下の裏庭に転落させ地面に激突させて殺害した、



平成26年12月9日、上記のベランダで、乙(当時86歳)の身体を腕
で抱えてフェンスを乗り越えさせて、裏庭に転落させ地面に激突させて殺害した、③

平成26年12月31日、施設6階601号室北西側ベランダで、丙
(当時96歳)の身体を腕で抱えてフェンスを乗り越えさせて、約16.8m下の裏庭に転落させ地面に激突させて殺害したという事実を認定し、被告人を
死刑に処した。
以下においては、原判決にならい、①を第1事件、②を第2事件、③を第3事件と呼ぶ。
2
本件控訴の理由は、次のとおりである。


原審が任意性に疑いのある自白調書を証拠採用した点、被告人の取調べの録音録画記録媒体を証拠採用した点、関連性の認められない証人Bを採用した点、証人Bがした伝聞証言及び関連性のない証言を排除しなかった点、証人Cの伝聞証言を排除しなかった点には、いずれも判決に影響を及ぼす訴訟手続の法令違反がある。



第1事件から第3事件までの各事件について、いずれも被害者自ら転落した可能性を否定できず、被告人は各事件の犯人ではないから、原判決には判1
決に影響を及ぼす明らかな事実誤認がある。
3
これに対する検察官の答弁は、各事件はいずれも殺人事件であり、それらの犯人が被告人であることは明白である上、原審には何も訴訟手続の法令違反が認められないから、本件控訴には理由がなく、棄却されるべきであるというものである。

第2

訴訟手続の法令違反の各主張について

1
自白調書の証拠採用について


弁護人は、原審が任意性に疑いのある自白調書を証拠採用したことは訴訟手続の法令違反であり、この違反が判決に影響を及ぼすことは明らかである
として次のように主張する。

被告人は、平成27年8月以降、本件施設での甲らの死亡について、日常生活に困難を来すほどの苛烈な取材をマスコミから受けており、取調べ当時もマスコミを恐れていたところ、マスコミのことは心配しなくていい母ちゃんや妹のことは警察が守るというD警察官の発言を信じ、Dに迎合して虚偽の自白をした可能性は否定できない。


Dの発言は、被告人がマスコミを恐れていたことを利用して利益誘導をして自白を求めたものであり、
被告人の知能は軽度知的障害の水準にあり、
発達障害、自閉スペクトラム症と診断されていることからすると、その精神特性により、自白により将来の刑事手続上不利な状況となることを十分に考えられなかった可能性や、警察官であればマスコミから自らや家族を
守ってくれると強く思い込んだ可能性があり、利益誘導の影響をさらに強くさせた可能性は否定できない。

したがって、被告人の自白等は、利益誘導により求められたもので、任意でされた供述でない疑いがあるから、刑訴法319条1項、322条1
項ただし書によって証拠として採用できないものであるのに、被告人の供述調書及び上申書を証拠採用した原審には、訴訟手続の法令違反がある。2


しかし、次のとおり、原審の手続には法令違反は認められないものと判断される。

被告人の当審における供述を含めた被告人の公判供述を前提としても、D警察官が被告人に接触した平成28年1月29日の当時、被告人や家族に対するマスコミの取材が押し寄せていたという状況は見受けられず、む
しろ、その頃にはかなりマスコミからの取材は落ち着いていたのであるから、被告人にとって、報道機関の攻勢が差し迫った脅威となっていたということ自体疑わしい。

また、それ以前のマスコミの攻勢についても、被告人が語る具体的なエピソードは数えるほどに過ぎず、その内容を見ても、報道機関による取材
で家族が一歩も外に出られないとか、報道により家族が外に出ることができないほどの脅威を感じる言動をされたことがあるといったものではない。これらのことは、マスコミからの取材が多かった時期に、被告人が緊急性のそれほど高くない理由で外出をしていることにも裏付けられている。ウ
その一方で、被告人の供述内容を精査しても、Dが、マスコミを脅威に感じている被告人の状況を利用したり、被告人に対して自白をすればマスコミから守るなどと発言して、自白をするよう誘導した事実はうかがわれない。


被告人は、自白に至るまでに一定程度の時間を要しており、被告人自身も当公判廷で殺害を認めたくなかったと述べ、嘱託殺人を認めた平成28
年2月7日から2月15日に至るまでは、殺人であることを認めていなかったというのであるから、自白をしたことによって重い刑が科せられる可能性があることも思い至らなかったとも疑われない。

被告人の精神的な特性を踏まえても、被告人が、虚偽の自白をすることにより、その不利益を上回るほどの利益がある事態であると誤信するような状況があったことはうかがわれず、被告人の自白等の任意性に疑いのな3
いことは明らかで、弁護人主張の各証拠を採用した原審の訴訟手続に法令違反は認められない。
2
被告人の取調べの録音録画記録媒体の証拠採用について


弁護人は、原審が被告人の取調べ状況の録音録画記録媒体を証拠として採用したのは違法であり、この違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである
として次のように主張する。

捜査段階の取調べでは、身体拘束の上、一方的な発問で進められるものであり、供述態度等により任意性、信用性判断において誤りを生じさせる危険性が非常に大きいところ、今市事件控訴審判決(東京高判平成30年8月3日)が指摘するとおり、取調べの録音録画記録媒体により、取調べ
を受ける被告人の様子を観察することは、
供述調書の信用性判断において、
直感的、主観的な判断に陥る危険性が高く、強い疑問がある。

本件においても、取調べの録音録画記録媒体は実質証拠として判断に影響を与えた可能性は否定できない。


本件では録音録画が実施されていない期間があり、録音録画が実施されていない段階での違法・不当な取調べの影響を考慮できず、しかもそれが初期の取調べであり、自白に至る過程を欠いているから、類型的に事実認定の判断を誤らせる危険性を排除できず、法律的関連性を欠き、かつ自白の信用性判断において何らの推認力を有するものではない。



当裁判所としては、次に述べるとおり、原審の手続には違法があるといわざるを得ないものと考える。

原審の公判前整理手続において、原審弁護人は、自白の任意性を争わず自白の信用性を争う予定であるなどと言明し、原審裁判長からの求めに応じ、被告人は、取調官の圧力や自分及び家族がメディアスクラムにさらされているという状況から追い詰められた心境にあったところ、更に取調官から圧力を受けたり家族を守る等の配慮を示されたりしたことによって、4現状から解放されて楽になりたいと考えて、取調官に迎合し、その意を汲んで客観的状況に合致するよう想像して虚偽の内容の自白をしたもので信用性がないという趣旨であると主張した。イ
検察官は、録音録画記録媒体を証拠請求し、実質証拠として取り調べる必要があり、その必要がないとしても、自白調書の信用性を担保する証拠
として取り調べる必要があるなどとする上申書を提出した。

被告人質問において、被告人が取調べ状況に関して供述し、被告人の取調べ状況を立証趣旨としてD警察官の尋問がなされた後、裁判長は、被告人質問で被告人の自白調書の内容がほとんど顕出されなかったため、DVD取調べの必要性など、その採否を検討するのに被告人の自白調書の採否
及び取調べを現段階で行う必要があるとして、乙号証の採否の決定をし、採用証拠の取調べを行った上で、録音録画記録媒体の一部範囲を信用性の補助証拠として採用した。

任意性には争いがないものの、
被告人の自白の信用性を判断するために、
自白調書を採用した上、必要範囲を限定した上で、補助証拠として録音録
画記録媒体の取調べを行った原審の一連の手続自体には法令違反の疑いはないというべきである。

弁護人が主張するように、本件の取調べにおいては、録音録画が実施されていない期間があるものの、被告人が嘱託殺人を認めた次の日(2月8
日)の取調べから2月15日に殺害を認めるまでの間の取調べは録音録画されており、また、採用された媒体の録音録画対象は、採用した調書等の信用性判断と直接関連する部分であって必要性が比較的高いと認められる上、弁護人により録音録画されていない期間中に警察官から圧力をかけられたという主張もされていたことを前提とすると、採用された録音録画記
録媒体に、補助証拠として採用すること自体が許されないほどの類型的な危険があるともいえない。
5カ
もっとも、原判決は、録音録画記録媒体からうかがえる取調べ状況という項目の下、この取調べにおける被告人の供述内容を見ても、自白に至った心情や遺族への気持ち、被害者らを殺害の対象とした動機について詳しく述べている上、各犯行を行う際にはライン表の内容に基づいて他の夜勤担当者の行動状況を予測し、他の夜勤担当者の様子をうかがいながら見つからないように各犯行に及んだことや甲の身体を持ち上げて落下させる際に甲の身体の重心が移動して自らに掛かる体重がふっと軽くなった様子など、実際に体験したからこそなし得ると認められる具体的かつ迫真的な供述部分が見られ、第3事件当時601号室居室扉が施錠されていたために看護介護職員室に鍵を取りに戻った状況や入室してすぐに鍵を施錠し、丙を転落させた後、601号室のナースコールを押して自ら応答し、あらかじめ掃出し窓を開錠しておいた602号室を通って室外に出たこと、Eは眠っていてやりとりはしていないにもかかわらずCに報告を入れたことなど、601号室居室扉の施錠状況等と完全に符合する内容の供述をしている。これらの事情に鑑みると、被告人の自白の信用性は相当に高いものと認められると記載している(Eは601号室の入居者Eのことであり、Cは当夜の夜勤担当者Cのことである)。
ここに言及された供述内容は、採用された被告人の供述調書等の記載の範囲を超える内容をも含んでおり、被告人が録音録画されている取調
べ中に語ったことを指すものと解される。
ここでは、採用された調書等の信用性が最終的な判断対象とされているものの、このように、録音録画されている被告人の語りの内容が、詳細であるとか、具体的かつ迫真的である、客観的状況と符合しているなどと指摘した上で、被告人の自白の信用性が高いと判断することは、その検
討内容からすれば、まずは録音録画されている被告人の語りの内容の信用性を判断し、そうして得られた信用性判断を介して調書上の供述内容の信6
用性を判断するに等しいものと評価できる。
補助証拠として採用した録音録画記録媒体における録音録画内容をこのような実体的な判断の用に供しているかのように扱うことは、実際にはこれを実質証拠として使用しているものと評価せざるを得ず、このような原判決の判断手続には、違法があるといわざるを得ない。



しかし、被告人の捜査段階の供述調書等の信用性は、後記第3の3⑶において判断するとおり、原判決の上記判断部分を除いても認められるものであり、したがって、これに関する法令違反は、判決に影響を及ぼすものとはいえないから、主張は採用できない。

3
B証人の採用及び証言内容について


弁護人は、原審が証人Bを採用し、その伝聞証言及び関連性のない証言を証拠排除しなかった点には、判決に影響を及ぼす法令違反があるとして、次のように主張する。

Bの立証趣旨は事件捜査状況等とされ、証言には伝聞や推測・意見が含まれて裁判員の事実認定に影響しかねない危険性が高く、関連性がな
いのに、これを採用した原審には訴訟手続の法令違反がある。

Bの証言のうち、伝聞及び関連性のないものについて証拠排除しなかった点は違法である。
原審弁護人が、
これらにつき異議を述べなかったのは、
証人尋問の冒頭で異議を述べたもののこれが棄却されたことから、訴訟の進行を妨げ、裁判員の心証に悪影響を与えることのないよう異議を述べな
かったのであり、
瑕疵が治癒されると捉えるのは不当である。
したがって、
原審の手続は、裁量権を逸脱し、刑訴規則207条の解釈適用を誤ったものである。

原判決はB証言を証拠の標目に掲げていないが、法廷で裁判所の耳に触れた以上、判決に影響を及ぼしていないとはいい切れない。



B証人の立証趣旨は事件捜査状況等であり、証人尋問中の原審裁判長7
の発言からすると、原審の公判前整理手続の段階で、供述内容から争点を立証していく性格の証人ではないことが確認されており、捜査状況の証言により争点に関する他の証拠関係の位置付けの理解の一助とできるなどという補助証拠的な意味で、証人としての採用に関連性や必要性がないわけではないものといえる。許されない伝聞や推測事項にかかる証言のもたらされる危険
性も、訴訟指揮や当事者の異議等によって適切に対処することができないほど高度のものとは考えられない。
また、弁護人が伝聞であると主張するBの証言部分は、いずれも捜査機関がなぜそのような捜査を行ったかという前提経過の説明であって、内容の真実性が要証事実となっているとは考えられない上、原審弁護人からも異議が
述べられておらず、異議を述べることが困難であったといった事情もない。また、弁護人が関連性がないと主張するBの証言部分についても、同様に、原審弁護人が異議を述べておらず、異議を述べることが困難であった事情もない。これらの証言につき、裁判所が職権で証拠排除すべき義務を負っていたとはいえない。

4
C証人の供述について


弁護人は、証人Cが、

(被告人が)自分はやっぱり死に神だとか、そういう発言をしていたよっていうのを又聞きで聞いた

と述べる部分は伝聞証言であるのに、これを証拠排除しなかった原審には訴訟手続の法令違反があり、判決理由に直接引用されていなくても、当該証言が認定の過程で影響し
た可能性は排斥できないと主張する。


Cの尋問中、
原審弁護人は、
当初当該部分の伝聞による証拠排除を主張し、
異議申立てをしたが、検察官は、

立証事実としてそれを言っていたということではなく、証人がそれを聞いたということを今伺っているところです


と意見を述べ、これに対して原審弁護人が、

そうであれば必要性、関連性がありませんので、排除を求めます

と排除を求める理由を差し替え、その8
後関連性・必要性についての意見の交換があったものである。したがって、伝聞証言であることを理由として裁判所が証拠排除を行わなかったことに問題は認められない。
なお、施設におけるうわさの蔓延状況等は、争点の立証との関連性・必要性はなく、関連性・必要性についての原審弁護人の異議には理由があり、こ
れを棄却した原審の手続には違法があるといわざるを得ないが、原判決は、第3事件後の被告人の言動を、被告人が犯人であることを認定する間接事実としていないことは判決文から明らかであり、上記の証言部分についての訴訟手続の法令違反は判決に影響を及ぼすものではないと認められる。第3

事実誤認の主張について

1
原判決の認定
原判決が、各事件の罪となるべき事実を認定した理由の概要は以下のとおりである。


各事件の被害者が何者かに転落させられたかどうかについて
原判決は、甲及び乙は403号室ベランダから、丙は601号室ベランダ
からフェンスを乗り越えて転落して死亡したと認められるところ、以下のような理由から、乙及び丙は何者かによって転落死させられたものと認定し、甲も第三者の犯罪行為の関与が極めて強く推認されるとした。

第3事件について


丙は、当時96歳で身長約142cmであり、平素からシルバーカーを用いて歩行しており、シルバーカーや手すりなど体を支えるものがない状態で歩行することは困難であり、居室浴槽を自力で跨ぐことも困難な状態であった。601号室ベランダには足場となるような物がなく、約115cmというフェンスの高さや、約45cmの浴槽の高さを乗り越える
こともおぼつかない丙の身体能力を踏まえると、自身で足をフェンスに掛ける姿勢をとることは困難であり、腹部から腰付近をフェンス手すり9
に乗せ、上半身を外側に出すことができるような腕力や握力があるかも甚だ疑問であり、何ら足場もないベランダにおいてフェンスを乗り越えることは不可能である。


平成26年12月30日午後10時30分頃、当夜の夜勤担当者であったFは、601号室の入居者であるEに睡眠導入剤を飲ませ、同室の
鍵を閉めており、翌日31日午前3時頃に警察官の実況見分のため、生活相談員のGが同室を訪れた際にも同室の鍵は閉まっていて、Eは就寝しており、この間継続して寝ていたと考えるのが自然であり、被告人が応答した同日午前1時台の601号室からのナースコールをEは押していないと認定できる。丙もナースコールを押したとは到底考えられない
こと、被告人以外の夜勤担当者2名は上記時間帯に601号室に行っていないこと等からすると、丙やE以外の何者かがナースコールを押したことが強く推認される。
丙が601号室ベランダに行くには、601号室又は602号室の居室扉を経由するほかないが、両室とも第3事件当時は施錠されていた。
第3事件の実況見分時に丙のシルバーカーが丙の部屋で発見されていることを踏まえると、仮に扉の鍵が開いていたとしても、丙が自室から廊下を経て、601号室に入り、室内を通過しベランダに出たとは想定し難い。
これらの事情を総合すると、丙が事故又は自殺により転落した可能性
は全くなく、第三者の犯罪行為によるものと認められる。


原審弁護人は、丙がもう死にたいなどと発言していたことから、
丙には自殺願望があり、認知症の影響から他の入居者居室に入ることもあったから、転落は自殺によるものという合理的な疑いがあると主張す
るが、丙の身体能力や上記各事情を考慮すると自殺は不可能である。また、上記発言は自殺に直結するものとは捉えられてなかった上、自殺を10

うかがわせる痕跡もないこと、事件の前も丙の様子が変わりなかったことなどを踏まえれば、丙が自殺を企図していたとも認められない。イ
第2事件について


第2事件当時、乙は、杖や歩行器を用いず自力で歩行することはできるものの、すり足で、ふらつきがあり、何かに掴まっていないと危なっ
かしいものであった。手の力についても、職員は、食器程度の物しか手に持っているところを見たことがない。乙が当時86歳であり、身長が約145cmであったこと等を考慮すれば、丙と同様、何らの足場なしに自らフェンスを乗り越えられないと考えられる。


警察官による実況見分時に、403号室及び404号室のベランダの両室の境目付近のフェンスから約90cm離れた位置に座面が開いた状態のパイプ椅子があったが、信用性の高いH証言によれば、当夜の夜勤担当者であったHが乙の転落を発見した際には、このパイプ椅子は実況見分時の位置とほぼ変わらない位置にあったと認められる。
しかし、乙の身体能力及び身長等を踏まえると、自力でこのパイプ椅
子の座面に上がることができたとしても、パイプ椅子を足場としてフェンスを乗り越えることは想定できない。乙がフェンス近くに設置したパイプ椅子に乗ってフェンスから転落する際に椅子を後方に蹴った結果、椅子が移動した可能性についてはかなり小さなものと考えられる上、そもそも、約4㎏近くのパイプ椅子を居室から持ち出して設置し、補助す
る者なく自力で上がることはいずれも困難であると考えられ、そのような経過による転落はあり得ないものといわざるを得ない。
以上から、乙が事故又は自殺により転落した可能性はあり得ず、第三者の犯罪行為によるものであると認められる。


乙には、自殺につながる言動はうかがえないし、認知症の影響で自己の居場所がわからなくなり突発的に転落するような事態も想定し難い。11


第1事件について


甲は、平成26年の骨折の影響で、自力歩行はできていたが、前屈みですり足で歩くようになっていた。第1事件当時、入浴介助が設定されており、浴槽を自力で跨げないこともあった。加えて当時87歳という年齢及び約162cmという身長等を考慮すれば、フェンスに足を掛けて
乗り越えることはおよそ考えられず、また、左足大腿骨転子部と腰骨を骨折していることからして床面を蹴る力はそれほど強くないものと推察され、何ら足場になるような物もない中、自力で体全体を上方に引き上げ、床面を蹴って重心を外部に移動させてフェンスを乗り越えることが絶対に不可能であったとまでは断定できないが、相当困難であると認め
られる。


甲が事件の数日前に家族の訪問を受けた際、自殺をうかがわせるような発言はなかったこと、転落が確認される約3時間前に当夜の夜勤担当者であるIに対して

寝てるのに何だ、この野郎

と述べていたこと、遺書等自殺をうかがわせる痕跡もなかったことなどに鑑みれば、甲が自
殺を企図していたとは認められない。帰宅のために2度無断外出をしているが、それらは日中の時間帯であり、甲は日常、エレベーターを利用して施設建物1階まで降りており、不自然な行動を取ったことは従前なかったことなどを踏まえると、第1事件のときに限って、認知症の影響により深夜起き出して帰宅しようとベランダに出て、フェンスを乗り越
えようとしたとはにわかに想定し難い。


以上のとおり、甲が事故又は自殺により転落した可能性もほぼなく、第三者の犯罪行為の関与が極めて強く推認される。


同一施設で約2か月間に3件転落があったことについて
約2か月という短期間に、同一施設内の裏庭という同一の場所で、いずれも深夜の時間帯に転落が発生したことは、偶然では説明困難な異常な頻12

度ということができ、少なくとも、第2事件及び第3事件については、これらの転落が第三者の犯罪行為によるものであることを推認させる事情に当たるといえる。

犯人の犯意
高所から高齢の被害者を転落させるという各事件の犯行態様からすれば、
その犯行に及んだ犯人には相当強い殺意があったことが認められる。⑵

被告人が各事件の被害者を転落させた犯人であるかどうかについて原判決は、以下のアのような客観的事情並びにイ及びウのような被告人の言動を総合すれば、第3事件については被告人が犯人であることに疑念を差
し挟む余地はなく、第1事件及び第2事件についても、特段障害となる事情がなければ認定できる程度まで被告人が犯人であるという強力な推認が働くと判断した。

客観的事情による犯人の特定
各事件が犯罪行為によるものという前提に立つと、これらは、約2か月
という短期間に、同一施設内の裏庭という同一の場所で、いずれも深夜の時間帯に発生した入居者の転落死であることから、同一犯による犯行であるという相当に強い推認が働く。


夜間から早朝の時間帯は電子施錠の暗証番号を知らない者が夜勤担当者に気付かれずに施設建物内に侵入することは困難な状況にあったこ
と、各事件当時、施設建物には侵入をうかがわせる形跡は見られなかったこと、鍵の管理状況等から、当該居室の入居者を除き、職員等以外には施設内の施錠場所や施錠された入居者居室への出入りは困難であったこと、1階避難口扉は外部から入る際はシリンダー錠を開錠する必要があり、外階段と通じる各階扉から建物内部に入る際も、電子施錠がされ
ていること、各事件当時、夜勤担当者らが被害者らの転落を発見して裏庭に出る際、洗濯室の片開き扉の電子施錠、洗濯室入口扉は現に施錠さ13

れていたこと、各事件当時、正面玄関のインターホンを押して施設を訪れた者はなく、夜勤担当者らが、職員PHSにより正面玄関を開錠したことも、施設建物内で夜勤担当者ら以外の者を見かけたこともないことからすると、施設と関係がなく建物の状況に明るくない外部の者が各事件を起こしたとは認められない。

また、そもそも夜勤担当以外の職員や元職員が夜間に本件施設を訪れるのはまれであったこと、正面玄関以外の電子施錠による出入口から侵入するには、施設内で管理されているシリンダー錠の鍵も必要となること、建物に窓ガラスの破損等侵入をうかがわせる形跡がみられないことに加え、正面玄関から侵入した場合、1階事務室にコールが鳴る仕組み
になっていること、夜勤担当者の業務内容からすると、夜勤担当者と全く出会わないまま、施設内の鍵を入手して犯行に及ぶのは非常に難しいこと、現にいずれの夜勤担当者も夜勤担当者ら以外の者を目撃していないことなどを考慮すると、夜勤担当者以外の施設関係者による犯行の可能性も否定される。

また、本件施設内の入居者らは、少なからず支援を要する高齢者であることからすると、看護介護職員室等に立ち入って鍵を入手した上で、被害者らをベランダまで誘導してその体を持ち上げるなどしてフェンスを乗り越えさせることはおよそ想定することが困難である。入居者の家族も、電子施錠の暗証番号を知っている例は珍しく、各事件当時家族が
入居者居室に居残っていなかったこと、各事件当時、正面玄関のインターホンを押して施設を訪れた者はなく、夜勤担当者らが、職員PHSにより正面玄関を開錠したことも、施設建物内で夜勤担当者ら以外の者を見かけたこともないこと、第3事件については鍵の入手等も必要であることからすると、入居者及びその家族による犯行の可能性もない。


以上からすると、各事件の犯行の機会があったのは、各事件当時の夜14

勤担当者に限られること、被告人以外の夜勤担当者6名は、夜勤を担当した日以外の他の2事件については、犯行の可能性が否定されること、各事件が犯罪行為によるものであれば、同一犯による犯行であるとの相当強い推認が働くことを併せて考慮すると、これらの者が犯行に関与した可能性は基本的に低いと考えられる。

第1事件については、被告人自身の供述、当夜の夜勤担当者であったJの介護の繁忙度等、同じく当夜の夜勤担当者であったIの動静や犯行実現性についての疑問などの事情から、J及びIに犯行の機会はほぼなく、第2事件については、103号室の入居者の状況、当夜の夜勤担当者であるK及びHの業務に関する供述が介護記録と矛盾もなく十分信用
できることなどの事情から、Kには犯行の機会がほぼなく、Hが犯行に関与した可能性も極めて薄い。第3事件については、隣家のL及びCの各証言から、犯行時刻はLが転落と思われる大きな音を聞いた平成26年12月31日午前1時30分頃から40分頃の間であり、C及びFは同月30日午後10時30分頃以降、
丙が裏庭で発見されるまでの間に、

601号室を介護等のために訪れたことはなかったことが争いなく認められ、犯行時刻からみてC及びFに犯行の機会はない。


第3事件については、本件当夜の鍵の施錠状況等によれば、犯人は、1階事務室で保管されたマスターキー又は6階看護介護職員室で保管された入居者居室扉の鍵を保有していたと認められるところ、被告人は、
犯行時間帯において、夜勤担当者でなければ入手困難な施設建物6階入居者居室の鍵を保有して601号室又は602号室の居室扉の鍵を開閉することのできる唯一の人物であり、現に施設建物4階から6階までの介護業務を担当していたから、第3事件の犯人であることを優に認定できる。



以上の検討によると、被告人の言動等を除く客観的事情からのみでも、15

第3事件については被告人が犯人であると認められるほか、第1事件及び第2事件についても、
被告人が犯人であるとの相当高度の推認が働く。

犯行を予告するような言動及び各事件当日の被告人の言動等


Gは、被告人が、第3事件の約1週間から2週間前に、丙と他の入居者1名の名を挙げて

僕、分かるんですよね、そろそろやばい人が


どと予言めいた発言をしていたと、また、施設職員であるMは、被告人が、第2事件及び第3事件に近接した時期に、夢を根拠にそれぞれ乙及び丙について

そろそろ危ない、次落ちる

などと話していたと、それぞれ証言しており、若干の相違はあるが被告人自身もこのような話をしたことを認めていて、これらの供述は信用できる。乙や丙の身体能力か
らしてベランダフェンスを乗り越えることは困難であるのに、被告人がこのような発言をするのは相当に不自然であり、これは一定程度その犯人であることを推認させる事情の1つである。


Fは、第3事件当時、他の職員から丙について不穏行動があるという引継ぎは受けておらず、自身が丙を見かけた際も普段と変わりない様子
であったのに、被告人が、夜勤開始時の会話や職員PHSでの連絡等の機会に、数回にわたって、丙の様子がおかしいと述べていたと供述しており、この供述は信用できるが、自力で転落する可能性がない丙について、第3事件直前にこのような言動をするのは不自然であり、程度は強いものではないにせよ、被告人が犯人であることを推認させる。



丙の娘であるNは、第3事件直後に駆け付けた病院において、被告人から、事件当時の601号室のベランダに丙の履き物が残されていたことや、ベランダから下をのぞくと転落した丙の姿を確認したことなどについて説明を受けたと述べており、被告人と警察官等とを混同したこと
は考え難く、その信用性は高いと認められるところ、被告人は、公判廷で、N供述を否定し、ベランダを確認していないことを前提とする供述16

をしているが、この矛盾は601号室から転落を確認したことを糊塗するために被告人が虚偽の事実を述べたと推察され、被告人が第3事件の犯人であることを強く指し示す事情といえる。

被告人の家族に対する犯行告白とされる言動


被告人は、平成28年2月7日に行われた取調べ終了後、警察車両の中で、D警察官に促され、迎えに来た母に対し、各事件に関して手伝ったと述べ、同日帰宅後、逡巡した上、母と妹に対し、再度各事件について手伝ったと述べた。
被告人は、同月15日には、母に電話をかけ

お母さん、本当のことが聞きたい?

手伝ってない。自分がやったんだ

と述べ、電話を替わ
った妹にもごめんねと言って泣きながら何度も謝った。


3件もの嘱託殺人又は殺人を認める供述を家族という身近な存在に対して真意でないのに行ったとは考え難いこと、手伝ったという告白から殺害したという告白まで約1週間の期間があり、身柄拘束もされていない中、発言を撤回して真相を告げる機会はあったにもかかわらず告白
を維持し続けていることからすると、これらは被告人の自白の信用性を補強するとともに、被告人が犯人であることを強くうかがわせる独立した事情である。

客観的事情による検討の結果に、イ・ウの被告人の言動を加えると、第3事件については、被告人が犯人であることに疑念を挟む余地はなく、第
1事件及び第2事件についても、被告人に対する嫌疑は高度なもので、被告人が犯人であるという強力な推認が働く。


事件性及び犯人性を認める被告人の供述の信用性について
原判決は、以上のとおり、第3事件については被告人が犯人であると認め
られ、第1事件及び第2事件についても、特段障害となる事情がなければ認めてよい程度にまで、被告人が犯人であるという極めて高度な嫌疑が認めら17

れる状況にあるところ、被告人の捜査段階の自白及び公判供述について、被告人を各事件の犯人と認定するについて特段の障害となる事情があるか否かを検討するとして、以下のとおり判断した。

自白に至る経緯


被告人は、平成28年2月7日、D警察官による取調べを受けたが、各事件について、被害者らから頼まれて転落するのを手伝ったという趣旨の自白をし、
当該内容の上申書1通
(原審乙第13号証)
を作成した。



被告人は、同月8日、9日、10日、12日及び13日、Dによる取調べを受けた。同月8日以降、被告人の取調べの状況は録音録画されている。

なお、同月14日には、被告人と母との間で、母らが居住するマンションには住めなくなるだろう、母は仕事を変えたり辞めたりしないといけないかもしれない、妹は学校をやめなければいけないかもしれないということが話し合われた。


被告人は、同月15日、Dによる取調べを受けた結果、各事件について、被害者らを転落させて殺害したという趣旨の自白を行い、被害者3名についての殺害を認める旨の上申書1通(原審乙第16号証)を作成した。
また、第1事件について、日頃から甲を目障りに感じており、平成2
6年11月3日午後9時頃に甲が4階食堂にあるテレビを壊したことでため込んでいたストレスが爆発してしまい、殺害を決意した、Iの甲に対する介助が終わるのを確認して403号室に赴き、寝ていた甲の両手首を掴んで引っ張って無理矢理起こし、自分の指紋がつかないように甲の手首を自らの手で握って掃き出し窓の鍵と扉を開けさせてベランダへ
出て、甲の両手首をベランダの手すりに乗せさせ、その腰辺りに抱きついて甲の体を前方へ押し出すように持ち上げて落としたという内容の供18

述調書(原審乙第2号証)が作成された。


被告人は、平成28年2月16日、警察官による弁解録取時の取調べを受け、その結果、第1事件について甲を転落させたことを認める弁解録取書(原審乙第17号証)が作成された。
被告人は、
同日、
検察官による弁解録取時の取調べを受け、
その結果、

第1事件について犯行を認める供述調書(原審乙第3号証)が作成された。
被告人は、同日、Dによる取調べを受け、その結果、第1事件について犯行を認める供述調書(原審乙第18号証)が作成された。
なお、原審弁護人であるO弁護人、P弁護人が、それぞれ同日、初め
て被告人と接見し、これ以降連日、弁護人は被告人と接見していた。㋔

被告人は、同月17日、Dによる取調べを受け、その結果、第2事件について、部屋の中にあった椅子をベランダに持っていき、乙をこれに立たせた上で転落させたなどと乙を転落させたことを認める供述調書(原審乙第8号証)が作成された。

また、第3事件について、ベッドで横になっている丙を起こして手を引いて、施錠されていた601号室を合い鍵で開錠して室内に入り、ベランダまで連れていって、丙の体を掴んで持ち上げて転落させたなどという内容の供述調書(原審乙第10号証)も作成されたが、被告人は、殺したという表現をしている箇所について、すべて訂正を申し立てた。


被告人は、同月18日、Dによる取調べを受けたが、このときから黙秘に転じ、同月19日のD及び検察官による取調べに対しても、被告人は黙秘した。


被告人の自白調書の信用性


第1事件について、403号室のベランダ手すりの状況は甲を投げ落とした態様と矛盾がなく、第2事件については、乙に手を貸してパイプ19

椅子上に立たせたという内容は、乙の身体能力と矛盾がない犯行態様である。各事件について述べる内容は、事件現場の客観的状況や他の夜勤担当者らの供述から認められる客観的事情と合致しており、自然で合理的なものとなっている。


録音録画記録媒体からうかがえる取調べ状況
録音録画記録媒体からうかがえる取調べ状況によると、D警察官が被告人に対して高圧的な態度をとったり、厳しく問い糺したりしていく場面はみられず、被告人への発問も終始いわゆるオープン・クエスチョンの形式により進められており、応答の仕方を一定の方向に限定して被告人を誘導していこうとするような姿勢は特段うかがわれない。被告人の
応答状況も身振り手振りを交えた自発的かつ円滑なものであって、Dの問いかけに対しても、記憶にないところはその旨応答しており、自己の記憶に基づいて述べている様子がよく看取でき、自らが記憶した状況とDがまとめた自己の供述との趣旨が異なる場合にはこれを訂正するなど、積極的に取調べに応じていることが認められる。

(録音録画記録媒体で被告人が語った内容の原判決の評価は、前記第2の2⑵カに引用したとおりであるので、ここでは省略する。)
これらの事情に鑑みると、被告人の自白の信用性は相当に高いものと認められる。


弁護人の主張について
弁護人は、被告人は、録音録画されていない平成28年2月7日の取調べまでの間に、D警察官から事実を認めるまでは家に帰れないなどと言われて圧力を感じるとともに、報道機関の過熱取材により恐怖感を抱いていた中、
母ちゃんや妹のことは警察官が守る
などと配慮され

たことから、Dに従わなければ、取調べから解放されることはない上、報道機関から家族を守ってもらうこともできないと考え自白をしたと主20

張する。
しかし、同月8日以降の取調べ状況には、Dが高圧的な態度をとったり、供述を誘導した場面は見当たらず、被告人にも萎縮した様子はみられない上、黙秘に転じてからも、被告人は、Dだから本当のことを言ったなどとDに対する感謝の気持ちを述べている。ごく短時間の取調べ以
外の場面でDが被告人を誘導するに足りるような働きかけをしたとも考え難い。同月7日午後の時点で、被告人は、被害者らの嘱託を受けて殺害に関与した旨供述していたものであり、同月8日以降の取調べ状況や家族に対する上記の犯行告白を前提にする限り、それ以前のDの威圧的な言動の影響によって同月15日に殺人を認めるようになったという主
張には無理があり、採用できない。
被告人がDの取調べを受けていた時期には、報道機関の取材等を受けたことはなく、報道機関の攻勢が現実に差し迫った脅威と感じていたかは疑問である上、各事件を自白して逮捕されるような事態となれば、取材等が過熱することは容易に想像できるのに、逮捕された後、報道機関
の取材が再度始まったことを感じながら、程なく黙秘に転じていることを踏まえると、被告人の対応は報道機関の取材の状況とそぐわない著しく不合理なものである。

被告人の公判供述
被告人は、各事件について関与を否認する供述をしているが、上記アのとおり、捜査段階において供述態度を次々と変遷させ、公判前整理手続では、各事件当時の健忘を主張して鑑定を請求し、健忘を否定する鑑定結果が出るとその主張を撤回し、公判廷において、各事件当時の自己の行動を詳しく供述して各犯行を否認し、健忘を主張する際のエピソードも否定す
るに至っている。変遷の理由を縷々述べるものの、記憶していて当然なはずの特徴的な出来事について言葉を濁すなど、常識的な見地から得心のい21

くものであるとは到底いい難い。
加えて、第3事件当時の自己の行動状況や入居者居室の施錠状況についての供述は明白な虚偽と認められること、関係者らが供述した被告人の言動につき、自己の不利になると考えられる部分は否定してこれとそごする不合理な供述をしていると認められることなども踏まえると、被告人の弁
解は全体として完全に破綻しているといわざるを得ない。

結論
被告人の捜査段階の自白及び公判供述を子細に見ても、その余の事情により形成された被告人の各事件への犯行関与に関する嫌疑はより高まるばかりで、被告人の犯罪行為によるものであることに合理的な疑いを差し
挟む余地は全くなく、被告人が各事件の犯人であると明白に認められる。2
弁護人の主張
控訴の趣意及び当審における証拠調べを踏まえた弁護人の主張の概要は、以下のとおりである。



各事件の被害者が何者かに転落させられたかどうかについて

第3事件について


丙がフェンスの下部に両足を掛ければ、胸部付近にフェンスの上部がくる上、403号室のベランダよりも物干し竿がかけられていない部分の幅は大きく、フェンスを越えやすいので、腕の力で身体を引き上げて転落することは不可能ではない。

丙の身体能力についての原判決の認定は、医学的若しくは物理的な知見に基づくものではない。ケアプランによれば歩行も入浴も自立して可能で、フェンスを乗り越えることが不可能という認定は誤りである。㋑

丙には希死念慮をうかがわせる行動が多々見られ、徘徊的な行動も出ていたから、転落する行動に出た可能性を否定することはできない。


Fには、丙の死の一因になりかねないことから、自信がないにもかか22

わらず601号室を施錠したと断定する動機がある。Fが、睡眠導入剤をEに飲ませたのかも定かではなく、そうだとしてもEが継続して睡眠していたとも断定できないから、Eがナースコールを押した可能性は排斥できないし、丙が押していないと断定する根拠も乏しい。犯人がナースコールを押すこと自体むしろ不可解である。

丙は自力で601号室に侵入することができるのであるから、第三者の犯罪行為によるという結論にはならない。


第三者による犯行であれば、丙は相応に抵抗したはずであるが、そのような痕跡は全くといってよいほど見られない。


第2事件について


乙がフェンスの下部に両足を掛ければ、腕の力で身体を引き上げて転落することは不可能ではない。
乙の身体能力についての原判決の認定は、医学的若しくは物理的な知見に基づくものではない。乙の身体能力は日常生活自立度判定基準によれば、上記の転落方法が不可能であるほど低いものではない。


乙が履いていた靴の底面と同様の足跡がパイプ椅子の座面上にあること、フェンス上部に両手と思料される指掌紋があったことなどから、パイプ椅子に乗った上で転落した可能性も否定できない。事件直後のパイプ椅子の位置が実況見分時のとおりであったのかは断定できない。位置がHの証言どおりであったとは断定できないし、他の者が動かした可
能性もある。乙がパイプ椅子を居室から持ち出し、自力で上ることは困難であるという原判決は、前提である乙の身体能力を誤っている。㋒

乙がアルツハイマー型認知症を患っており、現状認識ができず、徘徊を繰り返していたことからすると、突発的に転落するような事態も想定し難いとはいえない。



居室内及びベランダの足跡が1種類のみであったことや、乙が抵抗し23

た痕跡がないことも、第三者の犯行ではないことを表している。

第1事件について


甲がフェンス下部に両足を掛け、背伸びをするように両腕の力で上体を持ち上げるなどすれば、自ら転落することは可能である。独立歩行が可能であり腕の力が強かったこと等から、十分転落は可能である。


アルツハイマー型認知症を患っており、正常な認知機能を有していなかった甲が、強い帰宅願望により、ベランダから飛び降りた可能性は十分ある。帰宅願望は日中しか生じないとするのも論理の飛躍がある。


手すりその他に抵抗したような跡がないことは、自らの転落を推認させ、第三者による犯行ではないことを表している。


約2か月間に3件の転落があったことについての推認力の評価
偶然や模倣犯の可能性があることからすると、第1事件の事件性についての推認力はほとんどなく、第2事件、第3事件の推認力も大きくない。

被告人が各事件の被害者を転落させた犯人であるかどうかについてア
外部からの本件施設建物内部への侵入可能性
第三者でも、①
潜伏する、②


出入り可能な時間帯に正面玄関から入り、犯行時まで

暗証番号を用いて、正面玄関、洗濯室裏口から侵入する、

施錠し忘れた又はあらかじめ開錠しておいた厨房裏口、食堂掃き出し
窓から侵入する、④

施錠されていない各室の窓から侵入する、⑤

あら

かじめ開錠しておき、特別浴室高窓、更衣室窓、相談室窓、事務室窓、廊
下突き当り窓から侵入する、といったことが考えられ、必ずしも当日の夜勤担当者のみが犯行を行えたとは限らない。

夜勤担当者に発見されずに犯行を行うことの可能性


とりわけ現職員であれば夜勤担当者の行動は把握しやすく、施設建物内に身を潜める場所は様々ある。暗証番号を知っていれば非常階段内に身を潜めておくことも可能である。
24



夜勤担当者のうち1名が休憩に入っていることも多いため、本件施設で夜勤担当者と遭遇する確率は低めであり、現職員でなくとも行動や足音をうかがいながら移動することは十分に可能である。非常階段の暗証番号を知っていれば、なお夜勤担当者と鉢合わせるリスクが低い。入居者の居室の扉は、それぞれの判断で施錠するかどうかが決まって
おり、
601号室についても事件当時施錠されていたとは認められない。ウ
他の者の犯行可能性


入居者は、各事件当時犯行が容易な立場にあるが、アリバイは立証されていないし、犯行が不可能であることを基礎付ける証拠はない。原判決が、入居者が被害者らをベランダまで誘導し、フェンスを乗り越えさ
せることをおよそ想定困難であるとしたのは過剰推認である。


現職員であれば潜伏も侵入も容易である上、業務ラインを知り得る立場にあるから、身を潜めて犯行現場に移動することも可能で、見つかった場合の言い訳が立ちやすい。第3事件において601号室が施錠されていたとしても、現職員であれば開錠可能である。

すべての職員についてアリバイが立証されたわけでもない。本件施設においては、過去に職員による入居者の虐待があり、虐待が高じて殺人に至る可能性も否定できない。また、職員が暴言・暴力のあった甲を恨んでいてもおかしくない状況であった。
原判決が職員の犯行ではないことを裏付けるというその他の事情も理
由とはならない。フェンスの扉を開錠しなくとも裏庭への侵入は可能であり、洗濯室裏口は暗証番号による開錠が可能である。職員であればあらかじめ開錠しておくこともでき、
侵入の形跡がないことと矛盾しない。

夜勤担当の日であれば、施設建物への侵入や身を潜めることを考えなくてよく、さらに犯行が容易である。原判決は各事件が同一犯による犯行であるという強い推認から、それぞれの夜勤担当者が犯行に関与した25

可能性は基本的に低いとするが、上記のとおり、夜勤担当者でなくとも犯行は可能である上、同一犯だとは限らないから強い推認は働かない。前記1⑵ア㋑のとおり、原判決は、第1事件時の夜勤担当者であるJ及びIには犯行の機会はほぼないと考えられるとするが、被告人の原審公判供述を誤解しており、前提とする夜勤職員時系列表(原審甲第13
1号証)の記載が正しいという担保もなく、ナースコールの受電記録も証拠として提出されていない。繁忙な業務に当たっていたことは、被告人も同じである。また、Iが女性であるという理由のみで、犯行が可能であったかやや疑問と評価することも不合理である。
また、原判決は、第2事件時の夜勤担当者であるKに犯行の機会はほ
ぼなく、Hが犯行に関与した可能性も極めて薄いとするが、当時裏庭は相当暗かったといえ、乙の発見時の体勢や発見時の位置からすれば、転落場所に面している103号室のベランダでたばこを吸っていたQが気付かなくても不思議ではなく、それ以降に乙が転落したと推認することは不合理であるほか、第1事件と同様の反論が可能である。

原審弁護人から第1事件、第2事件に関する被告人以外の夜勤担当者らに係る事情を疑わせる事実等は何ら提示されていないという原判決の判示は、立証責任を転換させるようなもので極めて不当である。
原判決は、第3事件時の夜勤担当者であるC及びFは犯行に関与していないとするが、その前提とするLの証言は、大きな音が聞こえたとい
うだけで、それが丙が転落した際のものとは限らないし、Lが自宅にいなかった時間帯に転落したとすれば音は聞こえない。C及びFが平成26年12月30日午後10時30分頃以降丙が発見されるまでの間に601号室を訪れたことはなかったことについても、証拠や信用性の検討がなされていない。



暗証番号を知っていれば、
正面玄関、
洗濯室裏口から侵入可能であり、
26

2年もの間暗証番号が変わっていなかったのであるから、かなりの者が開錠可能な立場にあり、現に退職者が暗証番号を使用して施設へ出入りした出来事があった。退職者は、業務ラインを把握できる立場にないこと、発見された場合現職員よりは言い訳が効きにくいこと、日中の時間帯にあらかじめ開錠しておくことが比較的困難な立場にあることなどの
事情はあるが、犯行が不可能とはいえない。


入居者の家族その他の関係者も、暗証番号を覚えておいたり職員から教えてもらったりすることで、侵入し、夜勤担当者に発見されずに犯行に及ぶことも可能である。アリバイが確認されているわけでもない。原判決は、G証人の供述に基づき、入居者の家族に犯行関与の可能性
はないと判示するが、あくまでGは自分の印象を証言したに過ぎず、家族は施設建物内にいなかったとも認められない。

3件の事件は同一犯によるものであるといえるか
原判決は、第1事件が犯罪行為によるものだと断定していない上、各事件が犯罪行為によるものとしても、手口には特殊性がなく、犯人の同一性
をうかがわせるような事情は存在しない。模倣犯の可能性もあることからすると、各事件の犯人が別である可能性があり得る。特に第3事件だけは前の2件とはかなり毛色が異なっている。

被告人が犯人であることを認める積極的事実がないこと
アリバイがないことは、被告人が犯人であることを積極的に否定する事
情がないことを意味するに過ぎない。3件とも被告人が現場にいた事実をもって犯人であると認めることもできないし、むしろ被告人が犯人であれば3件ともその現場にいたのは不自然である。複数犯の可能性もあることからすると、消去法で被告人を犯人とすることはできない。

犯行予知について


そもそもG証人は、第3事件前に被告人がRの名前も挙げていたと述27

べ、
被告人も丙やR以外の人についても危ないと話したと供述しており、被告人が自己アピールできる場面に自己の存在感を見い出していたという原判決の認定にそぐわないし、犯人であれば、実際に転落した丙以外の名前を出すのはいささか不自然、不合理である。被告人の発言は、偶然と考える方が自然である。

被告人は、入居者の日頃の言動から、一定の者に事故が起きそうだと考えていた可能性がある。被告人が犯人であるとすればそのような話をGに行うこと自体あまりに不自然である。
そもそも、犯行動機が自己アピールというのは、あまりに不自然であるし、被告人にそのような性格傾向があるという証拠もない。



第3事件直後に、被告人から丙の転落を発見した際の状況について説明されたとするNの証言部分は、聞いたという体験についてであり、記憶違いが生じやすい。被告人もそのような説明はしていないと供述しており、証言は信用できない。仮に信用性が認められても、入居者が亡くなったという事態に動転するなどして、被告人が事実と異なる説明をし
た可能性も十分に想定できる。他の様々な仮説が入る余地があるから、強い推認力が認められるものとはいえない。


被告人の供述の信用性について

被告人の自白調書等の信用性


平成27年8月以降、被告人及びその家族は、マスコミに自宅を囲まれたり、妹が駅まで追いかけられるなど、日常生活に困難が生じるほど苛烈な取材を受けており、強い恐怖や不安を与えられ、D警察官らによる取調べ当時も、その経験から取材を恐れていた。マスコミによる攻勢は、被告人及び家族にとって差し迫ったものであった。Dも、任意取調べ当時から取材があり得ることを認識していた。



被告人は、任意取調べの際、Dからマスコミのことは心配しなくて28いい母ちゃんと妹のことは警察が守ると言われたこと等から、Dが
マスコミから自分自身や家族を守ってくれる存在だと思い、その期待を裏切ってはならないなどと思うようになり、期待どおりのストーリーを作出して、虚偽の自白供述をした。
Dは、警察署に入る際に配慮したり、自宅を早朝に出るような取調べ
時刻を設定したり、マスコミがいたという情報を被告人の母に電話するなど便宜を図っていたのであり、マスコミから守ってやるという言動をしたと考えるのが自然である。


被告人の知能は軽度知的障害といえる水準であり、発達障害・自閉スペクトラム症の精神特性や、自白供述当時、弁護人等から助言を得てい
なかったことからすると、虚偽の自白供述により重大な不利益が生じるという見通しを持てないまま、目の前の利害のために捜査官の期待に迎合してしまったということは十分にある。
被告人には人を順位付けする傾向があり、Dを、自分より上位で、マスコミの取材などを抑えられる人物であるとみなしたとも考えられる。
原判決は、被告人の対応が報道機関の取材状況とまるでそぐわないと判示するが、上記障害からすれば不合理とはいえない。


虚偽自白によりマスコミの取材が過熱することが予想され、自白を撤回すればDらに守ってもらえなくなることが容易に想像できたことから、被告人はこれを撤回することができなかった。

また、
被告人は、
移行することへの柔軟性に欠ける思考を有しており、
一旦した自白を撤回することは困難であった。


被害者らの殺害を認めるまでに約2週間以上が経っており、被告人は、Dから一定の犯行態様を暗に示唆されて意図をくみ取り、できる限り自
然かつ合理的とみえる内容の自白をしようとしたと考えられる。
また、被告人は、犯行現場で働いていたから、客観的状況、被害者ら29

の生前の言動・身体能力について十分に分かっており、業務ライン表などからの予測により、体験していなくとも一見自然かつ合理的な供述を行うことも不可能ではない。自白は、本件施設に勤務していた者であれば考えつくようなものであるし、ことに甲を落下させる際の状況は、勤務していない者でも想像で供述できるようなものにすぎない。

被告人の自白を裏付ける客観的証拠はなく、被告人の自白には秘密の暴露もない。原審で採用されている捜査段階の自白調書及び上申書はいずれも犯行場面について具体的・詳細に供述されているわけではなく、実体験に基づかない虚偽の自白であっても説明が可能である。
しかも、被告人の第1事件の自白の内容からすれば、甲は相当の抵抗
をしていたはずであるが、この時にだけ大きな抵抗をすることなく従ったというのはあまりに不自然であるし、抵抗の内容と自身の行動の記載もない。大声を聞いたという職員の証言もない。


虚偽の自白の原因はマスコミの脅威から守ってもらうことにあり、取調べ時における取調官の高圧的態度や一方的誘導が直接的な原因ではな
い。


当審において証拠採用されたS教授の鑑定書及び証言は、捜査段階の取調べについて、重大な誘導に結び付いているとは考えられないが、クローズドクエスチョンが多用されており、

形式上問題があったことや、

被告人の供述には、判断対象となるターゲット供述と被告人が実際に体験した可能性の高い箇所を抽出した
ベースライン供述
との間に、
他者の希薄化の有無という構造的な差異が存在しているところ、これが生じた理由の無理のない説明の一つとして、被告人における犯行体験の不在が考えられることを指摘している。S教授が用いたスキーマ・アプ
ローチは、供述者が体験者として出来事を説明する際に使用する供述者特有の文体や談話の展開パターン(スキーマ)という客観的特徴を分析30

し、当該供述が体験を適切に反映していない可能性を検討するという手法であり、一般人も理解しやすいし受け入れやすく、合理的で、一定の信頼性を獲得しているといえる。S教授は、その心理学の専門家としての能力に疑問はなく、供述の信用性評価について長年にわたり研究し、本件手法の共同開発者の一人であり、鑑定は合理的である。被告人の精
神特性や性格傾向に着目せずに鑑定しているが、これは精神特性や性格傾向は属人的なものであり、それ自体は語り方の差異に表れるものではないからである。

母等に対する犯行告白について


被告人の1回目の母への犯行告白は、虚偽の自白をした後、D警察官にお母さんにもちゃんと話をするんだぞと言われたことにより、断ると家族のことをマスコミから守ってくれなくなるのではないか、取調べに戻るのが怖い、家に帰れないのではないかなどという恐怖心を抱いていた中、母が警察車両に乗車し、沈黙のあと、Dから何か話すことはないかと言われ、一層の恐怖心を抱いたことから行われたもので、虚偽
の犯行告白をしたと考えられる。
2回目の告白についても、被告人は、虚偽の自白を続けていた状況であった上、警察署からD立会いのもと電話で告白したもので、断ることは困難であり、虚偽の話をした可能性は否定できない。
いずれの告白も、取調べと時間的にも場所的にも連続した機会で、取
調官であるDが立ち会った状況で行われたものであるから、その影響下にあったといえる。


被告人は告白を撤回する機会をうかがっていたが、話す時間を作ってほしいという被告人の要望を母が拒否したため機会がなく、被告人の心
理状態を考慮すれば、犯行告白を撤回することは困難であった。また、被告人は、犯行告白を撤回すれば、Dがマスコミから被告人自身や家族31

を守ってくれないのではないかという危惧を持ち続けており、障害特性もあり、撤回を迷い、現実としてはできなかった。


犯行告白の内容も具体的、詳細ではないし、犯人でなければ知り得ないような事実を伝えるものではなく、被告人が犯人であることを強く推認させたり、自白を補強するような内容のものでもない。

3
当裁判所の判断


各事件の被害者が何者かに転落させられたかどうかについて
各事件の被害者がいずれも何者かによって転落させられたものであるかどうかについての原判決の判断は、論理則、経験則等に照らし概ね相当である
が、第1事件については、甲が事故により転落した可能性や自殺により転落した可能性はほぼないと認められるという限度にとどまるというべきである。以下控訴の趣意を踏まえながら、当裁判所の判断を補足して説明する。ア
第3事件について


丙の身体能力について
原判決が指摘するとおり、丙の事件当時の身体能力は、C、F、M及びNの各公判供述が整合することにより、シルバーカーや手すりなど体を支えるものがない状態で歩行することが困難であり、高さ約45cmの居室浴槽を自力で跨ぐことも困難な状態であったことが認められる。自力で601号室まで歩いて行くこと自体困難である上、601号室のベ
ランダのフェンス下部に足を掛けたとしても、フェンス上部の手すりに手を掛けて腕の力で身体を引き上げることも困難であるし、足を約115cmの高さのフェンスに掛けて自力で転落する方法をとることは不可能であるといえる。
弁護人は、丙の身体能力に関する各供述が、医学的知見等に基づくも
のではないと主張するが、
Cらは、
日頃から丙の介助に携わっている上、
96歳という丙の年齢からみても、その供述内容は自然であり、娘であ32

るNの供述にも沿うものであって信用できる。また、事件の約1か月前の時点での丙の身体能力について、客観的な資料はない。


601号室の状況等について
原判決は、FやCの証言の信用性を認めた上で、前記1⑴ア㋑のとおり認定しているが、F及びCは当夜の夜勤担当者であって、第3事件が
犯罪行為によるものであるとすれば、犯行の機会において被告人と大きな差異がない立場にあり、601号室の施錠状況等は、後記⑵イ㋓③においても触れるとおり、被告人しか犯行の機会がなかったことに直結しかねない問題であるから、当夜の状況についての信用性判断は慎重に行うべきである。Fの証言自体に不審はうかがわれないものの、客観的に
601号室が施錠されていたことを裏付ける証拠もないことから、原判決の指摘する実況見分時の施錠状況やEの就寝状況を踏まえても、第3事件当時601号室・602号室ともに施錠されていたことや、被告人以外の夜勤担当者、丙及びE以外の何者かがナースコールを押したとまで断定することは難しい。

もっとも、原判決が指摘するとおり、丙のシルバーカーが丙の部屋で発見されていることからすると、その身体能力を考えれば、丙が、シルバーカーも利用せずに、深夜、自室を出て、たまたま施錠されていなかった601号室に入り、Eのいる室内を通過して、ベランダに面した掃き出し窓を開けてベランダに出ること自体想定できない。特に自力で自
殺しようと考えた場合に、シルバーカーも利用せず、わざわざ他の人の居室に行って自殺しようとするなどということは、およそ考えられないところである。

丙の事件前の言動について
弁護人は、丙が希死念慮をうかがわせる行動や、徘徊的な行動をしていたことを指摘するが、原判決が指摘する施設職員の間での受止め・情33

報共有状況や、Nの証言により、丙が自殺を企図していたとも認められないとした原判決の判断が論理則、経験則等に反して不合理ともいえない。


これまでに述べたことからすると、丙が事故により転落した可能性や、自殺した可能性は疑われないといえる。

そして、丙の転落に関わった者がいる場合に、転落させた態様からすればその者に殺意があったことも明らかである。
弁護人は、抵抗の痕跡が見られないと主張するが、犯人と被害者に体格差や体力の差などがあれば、丙が大した抵抗ができなくても何ら不自然ではないし、日常的に介護している者など信頼している者が犯人であ
れば、転落させられる瞬間まで疑いを抱かず、さしたる抵抗をしないことも十分に考えられ、認定の妨げとはならない。


なお、原判決は、第1事件についての事件性を直ちに推認させるとまでは評価できないものの、偶発的に起こった第1事件を模倣して何者かが犯行に及ぶような事態が考えられ、第2事件、第3事件については、
第三者の犯罪行為によるものであることを推認させると述べるが、第1事件に事件性があるかどうかにかかわらず、同一施設内の深夜における入居者の裏庭への転落という態様が共通しているというだけで第1事件が何者かによる犯罪行為であるということはもちろん、第2事件及び第3事件についても犯罪であると推認できるとして重視することは危険で
あるものと考えられる。

第2事件について


乙の身体能力について
原判決が指摘するとおり、乙の事件当時の身体能力は、H、K、M、
孫であるTの各公判供述が整合することにより、杖や歩行器を用いずに自力で歩行することができるものの、すり足で、何かに掴まっていない34

と危ういものであったことが認められる。足の筋力があまりないことに加え、乙の年齢や身長を踏まえれば、ベランダのフェンスの手すりに手を掛けて腕の力で身体を引き上げて自力で転落する方法をとることや、何らの足場なしにフェンスに足を掛けて自力で転落する方法をとることは不可能である。乙が顔を外に出してのぞき込むようにしただけでは落
下しないことは明らかであるから、乙が事故により転落した可能性や自力で自殺した可能性を疑うことはできない。
弁護人は、乙の身体能力に関する各供述は、医学的知見等に基づくものではないと主張するが、
Hらは、
日頃から乙の介助に携わっている上、
Tの供述にも沿い、信用できるといえる。弁護人は、日常生活自立度判
定基準によれば、乙は、介助により外出し、日中はほとんどベッドから離れて生活することができるとも主張するが、上記の各供述の一致状況を考えると、この基準が自力による転落が不可能であることに疑いを生じさせるものではない。


パイプ椅子を用いた転落の可能性について
なお、Hは、403号室のベランダで乙の所在を探した際、パイプ椅子を動かしたことはない、フェンスに近接した位置にパイプ椅子があれば即座に転落を疑って確認したと思うが、そのような記憶はないなどと述べるところ、必死に入居者を探している中、意識せずにぶつかってし
まってパイプ椅子を動かしてしまうという可能性もないとはいえないが、自分の意思でわざわざ動かしたり、ぶつかって椅子の位置が大きく移動すれば記憶に残っていてしかるべきと考えられる。Hは当夜の夜勤担当者であり、乙が自力で転落した可能性を消すような証言を行うことは自己の不利にも働きうることであるから、上記のとおり具体的に述べるH
の供述は信用できるというべきである。したがって、実況見分時の状況が事故直後の状況どおりであるとまではいえないものの、事故直後にも35

パイプ椅子はフェンス寄りになかったと認められる。
乙が仮にパイプ椅子を使って自力で飛び降りたとすれば、踏み込む力でフェンス寄りにあったパイプ椅子が後ろ方向にずれることも考えられるが、乙がすり足で移動するような状態であったことからすると、誰からも介助されることなくパイプ椅子の座面に上がることは不可能である
と認められる。
したがって、パイプ椅子がベランダにあったことをもって、乙が事故又は自殺により転落したことが疑われることにはならず、転落は第三者の犯罪行為によるものであると認められる。


乙の事件前の言動について
乙は、第2事件の前から認知症を患っていることから、自己の居場所が分からなくなったという可能性は否定できないものの、だからといって、ベランダのフェンスを乗り越えて転落するような行動をとれるとは考えられないし、乙が一人で転落したとなると、自分でベッドから降りて、
窓の鍵をあけて、
パイプ椅子を居室から運び出してベランダに出て、

その上に上がるといった動作が必要であり、これをおよそ現状認識が十分できない者の突発的な行動とみることはできない。


以上から、乙が事故により転落した可能性や自殺した可能性は疑われないというべきである。

そして、乙の転落に関わった者がいる場合に、転落させた態様からすれば、その者に殺意があったことは明らかである。
弁護人は、ベランダのフェンスの手すりに指掌紋が付着していることからすると、乙が抵抗している状況ではなかったと主張するが、第3事件と同様、乙が抵抗できなかった可能性や、転落の瞬間まで転落させら
れることに気付かなかった可能性もあり、
抵抗していないからといって、
上記の認定に疑いは生じない。また、弁護人は、乙の居室内及びベラン36

ダから採取された足跡は1種類のみであったと主張するが、そのような証拠はうかがわれず、前提において採用できない。

第1事件について


甲の身体能力について
甲は第1事件当時、腰部への負担を避けるため自宅階段を上がらなく
なっていたとはいえ、自力歩行はできていたこと、すり足で歩くようになっており、浴槽を自力で跨げないこともあったとはいえ、身長が約162cmであり、腕の力が強かったことからすると、フェンスの下部に両足を掛けて両腕の力で上体を少し持ち上げて前に倒すなどして、自ら転落することは不可能とはいえない。



甲の事件前の言動からみられる事件性について
甲がその頃自殺をうかがわせる発言をしておらず、当日の言動をみても自殺につながるような言動をしていなかったことなどから、自殺を企図したとは認められないとした原判決の認定は経験則、論理則等に照らして不合理ではない。また、甲は認知症を患っていたが、これまで帰宅
のために危険性の高い行動に出たような状況にはなく、認知機能が全くない状態ではなかったことからすると、強い帰宅願望があるからといって、深夜起き出して、帰宅しようと窓の鍵を開錠してベランダに出て、フェンスを乗り越えようとするとは考え難い。


甲の身体能力や事件前の言動等からすれば、甲が事故により転落した可能性や自殺により転落した可能性もほぼないと認められる。
仮に、甲の転落に関わった者がいる場合には、転落させた態様からすればその者に殺意があったことは明らかである。
弁護人は、手すりに抵抗したような跡がないことは、自ら転落したこ
とを推認させ、他にも痕跡がないことは、第三者による犯行ではないことを表していると主張するが、甲がよもや犯人が自分を転落させようと37

考えているとは疑わなかったなど、転落の瞬間まで気付かなかった可能性も十分あり、抵抗していないからといって、自殺したとか事故であったといった可能性が特に高まるものとは考えられない。


被告人が各事件の被害者を転落させた犯人であるかどうかについて原判決は、前記1⑵冒頭・⑶冒頭のとおり、被告人は、第3事件について
は犯人であると認められ、第1事件及び第2事件においても特段障害となる事情がなければ犯罪成立を認めてよいほど犯人であるという高度な嫌疑があると判断したが、当裁判所は、以下のとおり、被告人は、第1事件については犯行の機会があり、かつその実現可能性が最も高いグループに属するとしか認定できないが、第2事件において被告人が犯人ではない可能性はほぼないに等しいといえ、第3事件においてそれは合理的な疑いとはいえない程度に小さいといえるものと認めた。

各事件が同一犯による犯行であるという相当強い推認が働くか
原判決は、前記1⑵ア冒頭のとおり、各事件が犯罪行為によるものとした場合、同一犯による犯行であるという相当に強い推認が働くと指摘する
が、前記3⑴ア㋔で指摘したことは、犯人の同一性についても当てはまるというべきである。たしかに、短期間のうちに3件の転落が、同一施設内で、いずれも深夜に起きていることからすると、同一犯による可能性が相応に認められるといえそうではあるが、各犯行の手口に複雑困難な点や特殊な点がないことからすると、
3件のうち1件、
若しくは2件については、

弁護人が指摘する模倣犯の可能性も含め、別の者による犯行であるという疑いを軽視することは危険である。なお、弁護人は、各事件について犯人は複数である可能性もあると主張するが、本件における各証拠を精査しても、そのような痕跡は全くなく、そこまでの疑いは生じない。

犯行の機会のある者について


外部から本件施設建物に侵入することが可能な者
38

原判決は、前記1⑵ア㋐のとおり指摘し、施設と関係がなく建物の状況に明るくない外部の者や、夜勤担当者以外の施設関係者、入居者及びその家族による犯行の可能性がないと判断している。
自動的に電子施錠がなされる正面玄関等については、基本的には暗証番号を入力しなければ開錠できないが、施設の元職員であれば暗証番号
を入力することが可能であり、また、入居者家族が暗証番号を知っている例があったことが認められる。また、電子施錠のない出入口については、Gが日常の施錠状況について証言するものの、各事件の際に、実際に全て施錠されていたことを裏付けるに足りる証拠はない。Gは、各事件当時、窓ガラスや鍵の破損等の侵入をうかがわせる形跡がなかったこ
とを供述するが、上記の状況からは、そのような形跡を残すことなく、本件施設建物に侵入することが可能であったことを否定できない。㋑

施設関係者ではない全くの第三者の犯行の実現性
もっとも、施設の関係者ではない全くの第三者であれば、たまたま施錠されていないところを発見して侵入することとなり、それ自体がまれ
なことであろうと思われる上、暗証番号を知らないため非常階段を使うことができず、また施設内部の状況もよく分からず、夜勤担当者の業務ラインも知りえないから、施設建物で職員に見つからずに移動したり潜伏したりすることは困難であり、そうした者が各事件のいずれかを実行できたという疑いは、合理的といえるレベルでは存在しないといえる。


犯人である可能性がありうる者の範囲について


本件施設関係者の中でも、入居者の家族については、夜間の職員の業務ライン表を見ることができる立場ではなく、夜勤担当者の移動状況を把握することは難しい上、何の承諾もないまま夜間にいることが
想定されていない者であり、夜勤担当者に見つかるととがめられる立場であることからすると、前記㋑と同様犯行の実現は合理的な疑いと39

しては想定できないというべきである。


各事件当日に本件施設内にいた入居者は、要支援2から要介護5までの者であり、要支援2の者であっても、立ち上がりや片足での立位保持などの複雑な動作に何らかの支えを必要とすること、独歩が可能な者は複数名いるものの、いずれも高齢であり、歩行や立ち上がり等
について介護や支援を必要とする者であることからすると、
それぞれ、
各被害者の部屋まで行き、これも身体能力に制限のあった各被害者にフェンスを乗り越えさせて転落させるような犯罪を実現することはほぼできないと認められる。


元職員は、暗証番号を知っている可能性がある上、内部の状況を把握し、非常階段を使用することもできると考えられるから、業務ライン表を見ることができず、夜勤担当者の行動を把握していないという制限から犯行実現性は高くはないものの、犯行の可能性は否定できない。



夜勤担当者以外の現職員については、暗証番号を知っていると思われる上、日中に本件施設にいることも自然であり、そのまま施設建物内に潜伏することも十分可能である。そして、業務ラインを容易に知り得る立場にあるから、身を潜めたり、職員に気付かれずに移動し、犯行に及び、その場を離れることもそれほど困難なことではなく、犯
行の実現性もそれなりにあるというべきである。
原判決は、建物に破損等の侵入の形跡が見られないこと、夜勤担当者以外の職員が訪れることはまれであったこと、正面玄関から侵入した場合には、1階事務室のコールが鳴る仕組みであることを挙げるものの、正面玄関以外から入ったり、日中からそのまま施設建物にい続
け犯行に及ぶことは可能である。また、原判決は、夜勤担当者と全く出会わないまま、施設内の鍵を入手して犯行に及ぶのは非常に難しい40

とするものの、各事件当時の業務ライン表をみると、夜勤担当者3名の動きに気を付けなくてもよい時間帯があることも認められ、犯行を実現することが非常に難しいとまではいえない。


各事件時の夜勤担当者については、夜勤の日には、他の2名の夜勤担当者の目を避ければよいだけで、夜勤担当者以外の職員よりも犯行
の実現は容易である。夜勤ではない日についても、前記④と同様であって、犯行の可能性等は否定されない。


原判決が各事件時の夜勤担当者の犯行可能性を否定した理由等について
原判決が、各事件について、前記1⑵ア㋑のとおり、各事件時の夜勤
担当者の犯行への関与を否定した理由等は、以下のとおり採用できず、各事件時の夜勤担当者の犯行可能性は否定できない。


原判決は、第1事件については、被告人以外の夜勤担当者に犯行の機会はほぼないとするが、被告人が音に気付かなかったと述べたからといって被告人しか犯人たりうる者がいないことを断定できるもので
はないし、
被告人も同様に介護等の業務に従事していたのであるから、
JやIが述べる業務内容等が介護記録に一致しているからといって、被告人にだけ犯行の機会があるいうことにはならない。また、普段から甲を介護しているIが、女性ではあっても甲を抱えてフェンスを乗り越えさせることが困難とまではいえない。



原判決は、第2事件についても、被告人以外の夜勤担当者に犯行の機会はほぼないか、
関与した可能性が極めて薄いと指摘する。
しかし、
103号室のベランダでたばこを吸っていたQが、それ以前に転落があれば必ず気付いていたとまで断言できる事情はうかがわれず、犯行
時間を限定することも難しいと考えられるばかりか、KやHが述べる業務内容等が介護記録に一致しているからといって、被告人にだけ犯41

行の機会があるということにはならないことは前記①と同様である。③

原判決は、第3事件について、被告人以外の夜勤担当者は犯行に関与していないと認めるが、隣家のLが夜中にドーンという大きな音を聞いていることからすると、その時に丙が転落した可能性は高いものの、C及びFが601号室を訪れたことがなかったという点について
は、前記①と同様、介護記録の記載と供述が一致しているからといって、被告人にだけ犯行の機会があるということにはならない。
また、
原判決は、
第3事件に関して、
前記1⑵ア㋒のように指摘し、
被告人が601号室等の居室扉の鍵を開閉することのできた唯一の人物であるとするが、当日に601号室の鍵が施錠されていたと断定で
きないことは前記⑴ア㋑のとおりであって、鍵の施錠状況等から被告人を第3事件の犯人と認めることはできない。

犯行を予告するような言動及び各事件当日の被告人の言動について㋐

被告人が、前記1⑵イ㋐・㋑のとおり、第2事件及び第3事件に近接した時期に被害者の転落を予見する内容を述べていたことは、被害者ら
の身体能力から事故で転落することが通常考えられないことを考えると、そのような犯行をしようと考えていたからこそ当該発言をした可能性も高いと評価できる。
もっとも、
被告人が述べたという内容は
やばい人
次落ちるといった抽象的な表現であり、また、上記のとおり丙には死にたいなどという発言や認知症の影響がうかがわれ、乙にも認知症が
あったから、これだけでは、被告人が犯人ではない可能性を無視してもよいとするまでの事情とはいえない。


さらに、第3事件直後に病院において、被告人から601号室のベランダに丙の履き物が残されていたと聞いたなどとする前記1⑵イ㋒のN
供述は、被告人から話を聞く以外にその時点で入手することができない情報を含んでいて、信用性が高いものと認められ、これを否定する被告42

人の供述は採用できない。被告人は、丙が転落してから病院へ行くまでの間救急搬送に同行しているのであって、そのような話を誰かから聞く機会があったとは考え難く、被告人自身が犯行に関わっていないのに偶然にこのような供述を行う可能性は極めてまれであるといってよい。弁護人はNの記憶違いの可能性があるなどと主張するが、上記に加え
て、Nがそのとき被告人を施設職員だと思った理由について述べているなど、記憶が明らかで具体的な内容を伴う供述であることからすれば、被告人からベランダに置いてあった履き物の話を聞いたとする供述部分の信用性にも疑いは生じない。弁護人は、被告人が動転するなどして事実と異なった供述をした可能性があると指摘するが、ベランダで履き物
を見ていないにもかかわらず、気が動転したからといって、履き物を見たと供述するということは、上記のとおり可能性として極めてまれであるとしか考えられない。

前記イで検討したとおり、各事件については、被告人を含めた当日の各夜勤担当者、施設の現職員、元職員、入居者に犯行の機会があることは否
定できず、その犯行実現可能性は述べた順に高いものと認められる。被告人は、各事件において、最も犯行実現可能性の高い夜勤担当者のグループに属するところ、それだけで他の者の犯行可能性が否定できないことは当然であるが、第2事件については、前記ウ㋐のような言動が、第3事件については、ウ㋐に加えて㋑のような言動があったことが認められ、
もともと、犯行の機会があった者の範囲が限られている中で、犯人ではないのにこれらの発言をする可能性はまれ又はごくまれであることを加味すると、被告人が犯人ではない可能性は第2事件においてはかなり小さくなり、第3事件においては合理的な疑いとはいえない程度に小さいといえる。



被告人の自白の信用性について
43

以上のとおり、第1事件においては、甲が事故により転落した可能性や自殺により転落した可能性がわずかながら残り、これが事件である場合には被告人には犯行の機会があり、かつその実現可能性が高いとしか認定できず、第2事件について被告人が犯人ではない可能性も残るといえるところ、被告人の捜査段階における自白調書等は、以下に述べるところから信用できるものであり、したがって、被告人は各事件においてそれぞれの被害者を殺害した犯人であると認めることができるものである。

捜査段階の自白調書等の信用性について
被告人の捜査段階の自白調書等は、
前記1⑶ア㋒~㋔のとおりであるが、

これらについては、以下のとおり信用性があるものと認められる。㋐

弁護人が主張するように、被告人の捜査段階の調書等における自白には、秘密の暴露があるようなわけではなく、自白自体も詳細なものでもないが、前記1⑶イ㋐における、客観的事情と合致していることなどがその信用性を高めるという原判決の指摘は、経験則に照らして不合理とはいえない。



また、前記1⑶イ㋑に示された取調べの状況についての原判決の判断も、第2の2⑵で検討したとおり、録音録画記録媒体のうち補助証拠として採用された部分における被告人の供述についてその内容に立ち入って判断を示した部分は維持できないものの、
それ以外の部分については、

経験則に照らして相当であると判断される。
つまり、取調べについての次のような各事情からすると、被告人は、録音録画されていない時間帯を含め、他からの強制や圧力等を感じることなく、自発的に供述を行っており、これらは作成された被告人の自白調書等の信用性を支えるものといえる。



D警察官が被告人に対して高圧的な態度をとるなどして、その意に反した供述を求める姿勢はうかがわれない。
44



Dの発問も、基本的にはオープン・クエスチョンの形式によっており、誘導的な発話は、当初の被告人による説明を受けて、これを踏まえた形で深掘りするためになされており、被告人がDの誘導的な発話に影響される形はみられず、内容を変更するなど迎合しているような状況も見受けられない。
後記イで検討するS教授の鑑定書及び証言は、

Dの発話形式が不適切であると指摘しているが、その形式のみならず質問の実質的な位置付けを加味すれば、そのようには考えられない。③

被告人は、Dが次の質問に進もうとしている場面でも、Dが直前に自己の供述をまとめた内容と自己の記憶が異なっているとして、訂正するなど、自己の記憶どおりDが理解し、そのとおり調書が作成され
ることを意にかける姿勢を示している。


録音録画されていない時間帯における何らかの働きかけが、録音録画されている部分における被告人の態度に影響を及ぼしていると疑われる様子は何もみられない。



自白をめぐる経過は、原判決が前記1⑶アで認定したとおりであるところ、被告人は、身柄拘束もなく、取調べのスケジュールも被告人の意向が十分に反映されているような状況下における2回目の取調べにおいて、嘱託殺人であると述べ、それ以降の取調べが録音録画されるようになった中、依然身柄は拘束されておらず、取調べの日時に被告人の意向
が十分反映されている状況下で、3件の殺人を認めるに至っている。そして、原判決が認定したとおり、平成28年2月7日に警察車両の中で母へ犯行告白をした後、被告人は、帰宅後、母と妹に対し、各事件について手伝ったと述べており、その後、自宅において母や妹と生活していたが、2月15日に、警察署から母に電話をかけて、母に本当
のことが聞きたいかどうかを聞いた上で

手伝ってない。自分がやったんだ

と述べ、母が手伝ったんじゃないんだと言った後、妹にご45めんねと泣きながら何度も謝っている。これらの自白そのものの経緯と、家族への告白内容や告白時の被告人の態度は、被告人が虚偽を述べたとすれば、理解し難いものである。㋓

以上を総合すれば、被告人の捜査段階における各事件の被害者を殺害したという自白調書等には信用性が認められるというべきである。

S教授の鑑定書及び証言を根拠とする弁護人の主張について
弁護人は、自ら依頼したS教授の鑑定書(当審弁第15号証)及びS教授の当審における証言等に依拠して、被告人の自白には信用性がないと主張する。しかし、次のとおり、これは採用できない。



S教授はスキーマ・アプローチと呼ぶ手法により、録音録画記録
媒体における第1事件及び第3事件について被告人が詳細な供述をしている記録部分のうち、
犯行行為に関わるものを
ターゲット供述
とし、
その他の部分から被告人が実際に体験した可能性の高いと考えられるものをベースライン供述として、両者における供述の文体や展開パタ
ーンといった構造的な諸特徴の差異を、尋問への供述者の参加様式、
つまり、供述者が体験者として出来事を説明する際に使用する供述者特有の文体や談話の展開パターン(スキーマ)に注目して分析し、ターゲット供述が体験に基づくものかどうかを検討している。
S教授は、第1事件及び第3事件の各ターゲット供述においては、被
害者及び関係の入居者が、被告人の働きかけに対して極端に受動的な希薄化した存在として取り上げられているのに対して、ベースライン供述による他者は原則として能動的な存在として扱われている、というギャップがあると指摘した上、その原因として、①

被害者らが能動的に行

為し、
それに被告人も対処したが、
被告人が取調べ時に説明しなかった、


被害者らが能動的に行為し、それに被告人も対処したが、被告人が
それを記憶していない、③

被害者らが実際に極端な受動性を示してい
46

た、④

被告人がターゲット供述で説明されている出来事を体験してい

ない、ということが考えられるが、④がより無理なく上記のギャップを説明できるとする。


これに対して、検察官は、スキーマ・アプローチの手法による供述分析は、確立された信頼性のある分析手法ではない、文体や展開パターン
という外形的なものだけを分析対象としていて、供述者の参加様式を視点としたといえるのかすら疑問である、表現・叙述の前提となる知覚・記憶の問題点が考慮されず、分析結果が的を射たものとならない、検察官による取調べに関するものが録音録画記録媒体を含め一切含まれていないし、原審におけるU医師の精神鑑定の結果も弁護人から示されてお
らず、判断資料が不十分である、などと主張する。
また、原審におけるU医師の精神鑑定によれば、被告人の特性である状況認知や想像性の弱さ、人間関係に対する関心や共感性、情緒性の乏しさ、規則性やこだわりなどの強迫傾向が犯行動機に大きく影響し、犯行態様にもその特徴が強く表れていること、さらに知的能力が低いこと
も発想の未熟さに影響しているから、入居者への共感性が乏しかったことが想定され、関心のない出来事は詳細に観察したり記憶することもなく、
後に想起する際も断片的にしか記憶喚起できないこともあり得る上、犯行前後の同僚の動きが能動的であるのに対し、各被害者は介護サービスが必要な高齢者であるから、犯行直前の言動が受動的であっても不自
然ではないし、そもそも、日頃から能動的に活動している同僚との関わりの場面と、介護・福祉サービスの受益者であった高齢者との関わりの場面とは、関わる相手も情況も全く異なり、文体等の特徴を比較する以前の諸条件が等しくないから、信頼性の高い比較は行えない、などとも主張する。



まず、S教授が指摘する、ターゲット供述における被害者らの極端な47

受動性については(ここではS教授の鑑定書及び証言について評価を行うので、前記第2の2⑵で検討した場面と異なり、被告人の語る内容に立ち入ることは許されるものと解するが)被告人も、

録音録画記録媒体
中の取調べ場面において、被害者らがそれなりに反応を示していたことを語っており、S教授が指摘するほど極端な受動性までは見当たらないという評価も可能であると考えられる。
また、被害者らは、いずれも本件施設の入居者であり、それぞれの状況は上記のとおりであって、深夜にベランダまで連れ出されるなどの日常とは異なる事態に対して積極的な反応や抵抗に出られなかったことも
十分考えられる。
さらに、原審鑑定人のU医師の証言によれば、被告人は自閉スペクトラム症(ASD)であり、その特性として、状況認知や想像性の弱さを抱え、人間関係に対する関心や共感性、情緒性が限定的であることが認められ、その興味関心の偏り等により、被害者らの反応については、そ
もそもそのような特性を持たない者であれば知覚できるものであっても観察対象とならなかったり、知覚されないということもありうるし、あるいは、記憶されない、忘却の対象となる、想起されないといったことも十分あり得るものと考えられる。
S教授は、被告人が、被害者らへの働きかけについては相当詳細に記
憶しているにもかかわらず、被害者らが能動性を示した場面のみ選択的に記憶が失われている可能性は極めて低いとか、身体的機能や心的機能に様々な問題のある高齢者であっても、相互行為の最中に被告人が想定していない様々な反応をする可能性が十分にあり、被告人としてもその都度対応しなければならない細かな混乱は生じた可能性はあったと考え
られるなどとして、前記㋐の②の可能性は極めて低く、③の可能性はそれほど高くはないと指摘するが、以上に考慮したような本件における被48

告人の特性や被害者らの特性等の要素を総合すれば、仮に、ベースライン供述とターゲット供述の間にギャップがあるとしても、㋐の④の原因によるという可能性はむしろ低く、これのみが無理のない説明であるとは到底いえないものと判断される。


このように、そもそも、ターゲット供述における他者の希薄化自
体が上記のとおり供述内容の評価にかかっており、それは、被害者らの当時の状況についての事実認定をも考慮しなければならないものである。また、そうした特徴が仮にあるとして、その原因が供述者が体験していない事実を語っていることによるものかどうかの判断も、被害者らの当時の状況、供述者の精神特性とその体験内容との関係の評価にかかって
いるものと考えられる。叙述された結果の分析から体験記憶の有無又は真偽の蓋然性をさかのぼって判断しようとしても、少なくとも本件においては、その前提となる事情の評価が、相互に独立していない事象の総合評価を含め、事実認定者の判断領域である供述の信用性の吟味そのものと同様の作用となってしまう。これらについて前記㋒のように考えら
れるところから、S教授の鑑定書及び証言を考慮しても、被告人の自白調書等に信用性が認められるという前記アの結論は揺らがないものというべきである。

その他の弁護人の主張について


弁護人は、マスコミによる取材攻勢が被告人及び被告人家族に差し迫っていたと主張するものの、第2の1⑵で指摘したとおり、被告人が自白した当時は取材が押し寄せていた状況はなく、それ以前のマスコミの取材状況からも強い脅威を感じていたとはうかがわれず、被告人が、平成28年1月末から2月にかけて、マスコミの取材状況を思い出し、自
ら行っていない重大な3件の転落死に関与したことを認めなければならないほど、恐怖心を増大させていたとは到底考えられない。
49

D警察官ができる限りの配慮をしたことをもって、Dは自分や家族をマスコミから守ってくれているのではないかと被告人が考えた可能性は否定できないが、被告人の供述内容を精査しても、Dが、マスコミを脅威に感じている被告人の状況を利用したり、被告人に対し、自白をしなければマスコミから守らない、自白をすればマスコミから守るなどと述
べて、自白をするよう誘導した事実はうかがわれない。また、Dは、自白をしていない段階においても、マスコミの取材を受けないよう一定の配慮をしているのであって、被告人が、Dの期待どおりに供述しなければマスコミから守ってもらえなくなると思ったとも考え難い。
弁護人は、被告人の障害特性が虚偽自白の一因となった可能性を指摘
するが、その知的水準の程度や精神特性を踏まえても、重大な犯罪を自分が行ったと認めて逮捕されることになれば、被告人や家族に対する報道機関の取材が以前よりも増大することは容易に想像でき、マスコミの取材攻勢がない段階で、
警察官にマスコミから守ってもらいたいと考え、
自白をするという発想に至ることは考えられない。自白に至るまでに時
間があることからすれば、自白をしたことによって重い刑が科せられる可能性があることも思い至らず、目の前の利害のために警察官に迎合したという主張も採用できない。
弁護人は、さらに、被告人の障害特性により、一旦した自白を撤回するのは困難であったと主張するが、
原判決が指摘するとおり、
被告人は、

各事件について嘱託による殺人であると述べた後、殺人であることを認め、
翌日には、
殺害したという言葉のみを否定し、
さらにその翌日には、
黙秘に転じるなどしており、これらの経過を考えれば、自白を撤回するのが困難であったという事情も見受けられない。


弁護人は、家族への犯行告白については、被告人はこれを撤回する機会をうかがっていたが、話す時間を作ってほしいという被告人の要望を50

母が拒否したことから撤回の機会がなかったと主張するが、母が要望を拒否した理由は、被告人が犯行に関与したと被告人から聞いたからであり、前提を撤回しても母が耳を傾けないと信じる根拠もなく、母の態度を理由に話せなかったとは考えられない。また、被告人は、犯行告白を撤回すれば、母からD警察官にそのことが伝わり、マスコミから守って
くれなくなるのではないかと思っていたとも弁護人は主張するが、被告人自身はそのような供述はしていない上、上記のとおりマスコミへの脅威がそれほど差し迫っているものではなかったことや、Dに恐怖心を感じていたこともうかがわれず、その主張も採用できない。


また、第1事件の自白の内容にも不自然であると考えられる点はうかがわれない。


被告人の公判供述について
被告人は、原審公判廷においては、各事件当時の自己の行動を詳しく供述して各犯行を否認し、当審においても、各犯行を否認する供述を維持している。被告人は、殺人を認めた理由について、マスコミから守ってもら
うため、警察官から圧力を感じたためなどと述べるが、これらについてはすでに前記ウ㋐において検討したとおりであり、被告人の供述も、虚偽の自白をするに至った経緯やそれを翻した理由について合理的な説明をしているとはいえない。

第4

したがって、被告人の自白調書等には信用性が認められる。

職権による判断
本件の事案の重大性を踏まえ、控訴の理由にはないものの、原判決が判断を示した被告人の責任能力と各犯行の動機について及び量刑について検討するが、以下のとおり、いずれについても原判決の判断を維持できるものと判断した。
1
被告人の責任能力及び各犯行の動機について


原判決は、原審鑑定人であるU医師が、十分な専門的識見を有し、各種の51

鑑定資料を基礎に、心理検査を含む医学的検査を踏まえて、確立した診断基準により鑑定を行ったもので、その前提とする事実や推論の過程にも不合理な点はなく、十分な信用性が認められるとした。


U医師の鑑定意見の中には、被告人が各事件を否認しているため仮定のものとして説明された動機を根拠とする部分がある。

原判決は、①

この動機は、それまでに検討した各犯行当時の客観的事情

や被告人の言動等の前提事実、認定事実と整合的で矛盾はなく、これらを前提としてみれば被告人の言動を始めとする諸事情を合理的に理解できることからしても、事実であると認められ、これを前提として責任能力を検討してよいものと考えられると判断しているばかりか、②
第2事件及び第3事件

の動機として、罪となるべき事実において上記の被告人が語った仮定のものとしての動機に沿う心臓マッサージを行っているところを他人から見られるなどして周囲から評価されたいと考えなどと認定している。しかし、このような動機は、上記のU医師に対する仮定の説明として被告人が語った内容を抜きにすると積極的に認定することはできないものであり、
U医師の証言の立証趣旨は責任能力に関するものであることを考えると、これを根拠に、前記②のように、第2事件及び第3事件について罪となるべき事実を構成する上記動機部分を認定することは許されないものといえる(なお、第1事件の動機については、被告人の自白調書等の中で明示されているものであって、これを認定したのは相当である)


もっとも、後記2のとおり、この点をおいても本件の量刑判断は維持することができるから、この訴訟手続の法令違反は、判決に影響を及ぼさないものと判断される。

これに対して、
原判決が前記⑵①のように記載する部分の判断については、立証趣旨の範囲内である責任能力に関する限りにおいては、
責任能力の否定

制限につながるかもしれない仮説の検討は行われてしかるべきであり、具体52

的な判断内容次第では相当といえる場合もあるものと思われる。
U医師は、被告人の経歴や行動観察等により、被告人は自閉スペクトラム症(ASD)であるが、その程度は比較的軽い方であると診断した上で、被告人が仮定で述べた動機等を前提に、動機を形成する過程を促進したという意味でASDの特性が大きく影響し、犯行手順や前後の行動にもASDの特徴が強く表れている一方、介護業務等に対する精神的負担はASDの影響を考慮しなくても理解できること、犯行に関係する行動にはASDの影響としては説明が困難なものが認められ、ASDの各犯行に対する影響は著しいとまではいえないと指摘している。

したがって、U医師も、被告人が仮のものとして語った動機を前提としてそこにASDの影響がみられるとして、責任能力の判断の前提となる犯行に至る機序の中で、責任能力の否定・制限につながるかもしれない仮説としてその動機を考慮しながら、犯行に関係する行動にはASDの影響が著しいとまではいえないなどと指摘し、責任能力を肯定する方向となる要素の指摘中
では、被告人が仮のものとして語った動機を考慮していないとみうる。原判決も、このU医師による鑑定を基礎に、ASDの障害の程度が比較的軽度であること、被告人が事前に生じた犯意に基づいて殺害するという目的に沿った合理的な行動をとっている面が多々あること、事後の行動や捜査段階及び公判廷での供述状況から、被告人が人を殺害する行為をそれと理解し
て実行し、その罪責を十分理解した上で行動していたことは如実にうかがわれるところであるとし、ASDの影響は顕著なものとまではいえず、被告人が各事件当時に善悪の判断能力や行動制御能力を欠いていて、各事件を思いとどまることが著しく困難であったとは到底認められないとしている。この原判決の判断は、被告人がU医師に対して仮のものとして語った動機
を、責任能力の判断において不利な方向では判断していないことや、その他の判断部分も、U医師の鑑定結果に依拠して合理的で相当と認められる内容53

であることから維持できるものであり、被告人が、各事件当時、善悪を判断する能力や行動を制御する能力において著しく減退した状態にあったとは疑われない。
2
原判決の量刑について


原判決は、本件が、職員として勤務していた被告人が介護付有料老人ホームの入居者3名を転落させて殺害した殺人3件の事案であることを前提に、被害者らには何ら落ち度がないこと、自らが夜勤業務を担当する機会に介護職員であるという立場を利用していること、
相当強い殺意が認められること、
冷酷な犯行態様であること、各犯行において一定の手順を踏んだ計画性がう
かがわれること、事後に職務上の記録に虚偽の記載をしたり、自殺と見せかけた状況を作出するなど犯行を隠蔽する工作を施していること、窃盗罪による確定裁判と同様の入居者に対する窃盗を繰り返し敢行していたのと同時期に、かつ、わずか約2か月という短期間に3回にもわたって殺害行為を繰り返したことなどを指摘し、
被告人の犯行は厳しい非難が妥当すると指摘した。

そして、動機については、必ずしも全てが明らかではないものの、日々の業務から生じていた鬱憤を入居者の言動を契機に高じさせて第1事件を敢行し、その際の経験から、かねてより執着していた救命救急措置を披露して賞賛を得る機会として第2事件及び第3事件に連鎖的に及んだものとみられ、被告人は、被害者にいなくなってほしい、あるいは、自己顕示のため、自ら
のゆがんだ執着や欲求を実現しようとの身勝手な動機により3件もの殺人に手を染めたとした上、精神障害が動機の形成過程や犯行に係る行動に一定程度影響を及ぼしたことは否定できないにせよ、動機・経緯に責任非難の観点から大きくしんしゃくすべき事情がないことは明らかであり、以上から被告人の罪責は誠に重大なものといわざるをえないと指摘した。

さらに、被告人は更生の出発点に立ち得ておらず、更生の可能性を期待できる事情は乏しいこと、精神障害の影響もさほど大きなものであるとは評価54

できないこと、これまで被告人にその精神特性に配慮した対応がとられないまま本件に至った点は不幸な経過といい得る側面はあるが、一般情状事実にすぎないこと、被告人には上記の確定裁判以外には前科がないことなどを挙げ、被告人のために酌量しうる事情を検討しても、その刑事責任を大きく引き下げるに足りる事情は認められず、被告人に対しては極刑をもって臨むこ
とがやむを得ないと認められると結論した。


原判決の指摘のうち、第2事件及び第3事件の動機に関する部分についてそのまま維持できないことは前記1⑵のとおりであるが、その一方で、第2事件及び第3事件に関して、本件全証拠を総合しても被告人のために考慮で
きるような動機があるものとはうかがわれない。
また、
第1事件においては、
被告人が自白調書で述べる内容には前後を含めた状況との整合性があり、原判決が認定するとおりの動機等があったと認めることができるところ、介護の職務に当たっていた被告人がそのような動機から入居者を殺害すること自体に同情すべき余地はない。

ただし、被告人の動機形成過程を促進したという意味でASDの特性が大きく影響したという上記のU医師の指摘等を考慮すると、上記のとおり責任能力を否定するまでには至らないものの、本件の経緯に関しては被告人に対する責任非難を過度に行うことはではないと考えられるが、原判決も動機、経緯に大きくしんしゃくすべき事情がないと述べており、その結論的評価は
維持できるものである。
そして、原判決が指摘するように、本件の被害者が3名にものぼること、被告人がこれらをわずか2か月の間に敢行していること、各事件において被告人の殺意が強固であったといえること、犯行の態様が、介護付有料老人ホームの入居者であった各被害者を転落させるという残酷なものであったこと、
被告人がその職員である立場を利用していたことなどを考えれば、複数名を殺害した事案の量刑傾向の中でも、本件事案の重大性、悪質性は際立ってい55

るというその評価は相当である。
以上から、最大限慎重な検討を重ねた上、被告人に対しては極刑をもって臨むことがやむを得ないと判断した原判決の評価は揺らがず、被告人を死刑に処した原判決の量刑が重過ぎて不当であるとはいえない。
第5

結論及び法令の適用
以上のとおり、
本件控訴には理由がないので、
刑訴法396条により棄却し、
刑訴法181条1項ただし書を適用して当審における訴訟費用を被告人に負担させないこととして、主文のとおり判決する。
令和4年3月15日

東京高等裁判所第10刑事部

裁判長裁判官

細田啓介
裁判官

野口佳子
裁判官

堀田佐紀
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