判例検索β > 令和2年(わ)第1020号
業務上過失致死被告事件
事件番号令和2(わ)1020
事件名業務上過失致死被告事件
裁判年月日令和4年3月25日
法廷名福岡地方裁判所
全文全文
最高裁判所〒102-8651 東京都千代田区隼町4番2号 Map
裁判日:西暦2022-03-25
情報公開日2022-05-10 04:00:08
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令和4年3月25日宣告
令和2年(わ)第1020号

業務上過失致死被告事件
判決主文
被告人を禁錮1年6月に処する
この裁判が確定した日から3年間その刑の執行を猶予する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、歯科医師及びA小児歯科院長として、A小児歯科の歯科診療業務及び同業務を統括する業務に従事していたものであるが、平成29年7月1日午後4時18分頃から同日午後5時9分頃までの間、福岡県春日市ab丁目c番地所在のA小児歯科において、B(当時2歳)の主治医として、非常勤歯科医師であるCに、リドカインを主成分とする歯科用局所麻酔剤を使用したBの歯科治療をさせ、治療を終えた前記Cを退勤させたところ、リドカインを主成分とする歯科用局所麻酔剤の使用後には患者が急性リドカイン中毒を含む偶発症に陥る危険性があり、とりわけ小児に対するリドカインの安全性は確立されていなかったため、Bの予後には十分に注意しなければならず、かつ、同日午後5時10分頃、A小児歯科において、Bの実父であるDから、顔色が悪いなどのBの異変を訴えられたのであるから、問診、視診若しくは触診によりBの全身状態を十分に確認し、又はパルスオキシメータによる動脈血中酸素飽和度及び脈拍数の測定等を行い、これらの確認及び測定により偶発症の可能性を否定できない場合には直ちに気道確保及び酸素投与等の応急処置を行うとともに医療機関にBを救急搬送するなどの救命処置を講じるべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、Bが疲れて眠っているだけであると軽信して問診、視診又は触診によりBの全身状態を十分に確認せず、パルスオキシメータによる動脈血中酸素飽和度及び脈拍数の測定等も行わず、そのためBが急性リドカイン中毒に陥っていることを看過して救命処置を講じなかった過失により、漫然とBを急性リドカイン中毒に基づく低酸素性脳症に陥らせてこれを進行させ、よって同月3日午後零時29分頃、福岡市d区ef丁目g番h号のE病院において、Bを急性リドカイン中毒に基づく低酸素性脳症により死亡させた。
(事実認定の補足説明)
第1

争点等
B
(以下
患児
という。が、

判示小児歯科
(以下
本件歯科医院という。

を出た約15分後、別の病院で生命に危険のある状態となっており、その後低酸素性脳症により死亡したことは争いがない。
弁護人は、患児が低酸素性脳症に陥った原因は急性リドカイン中毒ではなく、仮に急性リドカイン中毒であったとしても、被告人は視診等による適切な状態確認を行っており、本件歯科医院にいた時点で患児に異常はなかったのであるから、患児が急性リドカイン中毒に陥ったことを認識することはできず、死の結果も予見できず、無罪である旨主張し、被告人もこれに沿う供述をする。本件の争点は、低酸素性脳症の原因が急性リドカイン中毒か(争点①)、被告
人において、患児が急性リドカイン中毒を含む偶発症に陥っている可能性があり、放置すれば死に至る可能性があることを認識し得たか(争点②)、及び適切
な処置を行っていれば患児の死を回避できたか(争点③)である。当裁判所は、患児が低酸素性脳症に陥った原因は急性リドカイン中毒であり、被告人において、患児が急性リドカイン中毒を含む偶発症に陥っている可能性及び放置すれば死に至る可能性を認識し得、適切な処置を行っていれば患児の死を回避することができたものであり、判示のとおり業務上過失致死罪が成立すると判断した。以下、その理由を述べる。

第2

前提事実
証拠によれば、次の事実が認められる(いずれも年は平成29年を指す。。)

1
患児の治療経過
患児は本件当時2歳6か月であった。患児は、5月8日に本件歯科医院を初めて受診し、複数の虫歯があると診断され、以来、6月10日まで、3回にわたり、被告人が治療を担当した。初診の問診で患児に特段の既往症がないことは確認されており、本件に至るまで麻酔薬は使用されていなかった。7月1日に行われた治療の経過は次のとおりである(以下、時刻のみを表記する場合は、同日を指す。。

午後4時過ぎ頃、患児が両親に連れられて本件歯科医院に来院した。当日の治療も被告人が担当する予定だったが、患児の来院が予定より遅れたため、非常勤の歯科医師であるC(以下C歯科医師という。
)が、被告人に代わって
患児の治療を担当することになった。C歯科医師は、被告人に対し、治療に当たり麻酔薬を使用する旨述べ、被告人はこれを了解した。なお、麻酔薬がリドカインであることは被告人も認識していた。
午後4時18分頃、患児が診察室に入室した。歯科衛生士F(以下F衛生士という。)及び同G(以下G衛生士という。
)が、まず患児を診察台に
乗せ、レストレイナーを被せて患児の身体を抑制した。
午後4時22分頃、F衛生士らが患児の口腔内にリドカインを主成分とする貼付用局所麻酔剤(商品名ペンレステープ)を貼付し、表面麻酔をした。午後4時25分頃、C歯科医師が、患児の左下丁の歯間乳頭部に4か所、右下甲と左下甲の間の齦頬移行部に1か所、左下甲と左下乙の間の齦頬移行部に1か所の合計6か所に、麻酔用注射器(シトジェクト)を用いて、リドカインを主成分とする歯科用局所麻酔剤(商品名オーラ注カートリッジ)合計約1.3mlを注射し、浸潤麻酔をした(乳歯を上顎と下顎に分け、それぞれ中央部から左右の奥にかけて順に甲乙丙丁と表記して部位を特定した。。)
午後4時30分頃から午後5時5分頃にかけて、C歯科医師らは、所要の歯科治療を順次行った後、咬み合わせの調整を行った。その後、C歯科医師は、被告人に治療終了を報告した。
午後5時6分頃、F衛生士が患児にフッ素の塗布を行った。この時、F衛生士が患児に対し希望するフッ素の味を尋ねたところ、患児はぶどうと答えた。
午後5時7分頃、F衛生士が患児に被せられたレストレイナーを取り外した。午後5時9分頃、C歯科医師が帰宅した。
2
歯科治療後の状況
午後6時頃、両親は、患児を連れて本件歯科医院を出て、近くのH病院(以下H病院という。
)まで行き、午後6時6分頃、同病院の救急外来に診察を
申し込んだ。
直ちに小児科医が患児を診察したところ、午後6時15分頃の時点で、患児は、自発呼吸こそあったものの、体温は41.9度、顔色不良、手足の末梢部位の冷感が著明、
意識レベルはJCSⅢ-300
(刺激を与えても開眼しない、
痛み刺激に反応しない程度)
、けいれん持続という生命の危険性が高い状態で
あった。小児科医は、直ちに、酸素マスクを用いた酸素投与、抗けいれん薬の注射等の救命治療を行った。
その後の救命治療によっても患児の容態は回復せず、7月2日午前1時27分頃にE病院へ救急搬送され、更に治療が行われたが、同月3日午後零時29分頃、患児は同病院において死亡した。

第3
1
低酸素性脳症の原因が急性リドカイン中毒か(争点①)鑑定の内容
鑑定人医師I(以下I鑑定人という。
)は鑑定書(甲3)及び当公判廷に
おいて、患児の死因について次のとおり述べている(以下、総称して本件鑑定ということがある。。)
患児の死因は、急性リドカイン中毒に基づく低酸素性脳症と考えられる。解剖の結果によれば、患児の脳には浮腫や酸素欠乏を示唆する所見が認められた一方、他に死因となるべき疾病や損傷等はなかったことから、最終的な死因は低酸素性脳症であると判断した。
低酸素性脳症の原因は、脳に十分な酸素が行かないことであり、これは脳に対する一時的な血流の途絶、又は血流自体は途絶えなくても、血液に酸素が含まれていないことにより生じる。
局所麻酔薬であるリドカインが組織から血液中に吸収され、脳に運ばれて中枢神経に対し中毒作用を引き起こすと、脳の機能を低下させる。けいれんは中枢神経に対する中毒作用の典型的な症状であり、けいれんが重積して十分な呼吸ができなくなれば低酸素状態になる。リドカインが呼吸循環機能に直接抑制作用を及ぼす場合もあり、その場合、心臓停止や呼吸停止に至って十分な酸素を脳に送れなくなるおそれがある。
浸潤麻酔に際しオーラ注カートリッジ1.8mlを全量使用したとしても、リドカイン中毒が生じることは通常はない。しかし、解剖所見上、患児の下顎左乳中切歯の歯根部の左やや下の歯肉部に、ほぼ楕円形の注射痕様の粘膜下出血があり、そこから粘膜下に広範囲に出血があって下唇粘膜の左側の出血に連続していた。このように、明らかに注射針の作用部位に出血があり、それが歯肉の粘膜まで広がっていることを考えると、浸潤麻酔の注射時に、患児が動くなどしたことが原因で、その部位で血管を損傷したと考えられる。そこからリドカインが血中に流入して血中濃度が一過性に上昇し、中毒症状を起こしたと考えられる。
解剖時に測定した結果によると、脳からは血液と筋肉の10倍近い濃度のリドカインが検出されている。脳には薬剤が簡単には到達しないようになっていることによれば、脳から検出されたリドカインは、救命治療の過程で混入し得た微量のリドカインではなく、歯科治療の過程で投与されたものが残っていたものと考えられ、当時の血中濃度もある程度高かったことが推察される。解剖所見上、急性リドカイン中毒以外の致死的損傷や致死的疾病等の致死的原因は認められない。
以上によれば、低酸素性脳症は急性リドカイン中毒によるものと考えられる。2
検討
I鑑定人は経験のある法医学者であり、患児の解剖とそれに伴う諸検査を自ら行って得た所見に基づき、前記の意見を述べており、鑑定人としての公正さや能力に疑問を挟む具体的事情や、前提条件の誤り等、鑑定意見を採用し得ないような合理的事情は特段見受けられない。
この点、弁護人は、捜査機関は、I鑑定人に対し、正しくは7月1日午後6時又は9時台にH病院で採取され、リドカイン濃度が測定された患児の血液について、同月3日の午前7時39分にE病院で採取されたものと誤って伝えており(甲57ないし59)
、前提となる情報に誤りがあると指摘する。
しかし、I鑑定人は、前記のとおり、自ら行った検査結果を基に検討しており、H病院で採取された血液中のリドカイン濃度については特に積極的に言及しておらず、鑑定結果を左右する重要なものと見ていないことは明らかである。なお、本件鑑定と同旨の意見を述べる証人J医師(以下J医師という。専門家証人の再出時は同様に表記する。
)は、
血液採取時点の訂正を考慮しても判
断は変わらない旨述べている。
上記血液採取時点の齟齬は、本件鑑定の評価には影響しない。
鑑定内容の合理性について検討する。
患児の直接の死因が低酸素性脳症であることは争いがなく、その旨の本件鑑定にも何ら疑問はない。
低酸素性脳症の原因が急性リドカイン中毒であるとする点にも、論理則や経験則に反する不合理な点はない。
弁護人は、患児に投与されたリドカインは過量投与による中毒が起きる可能性のない量であり、血管の損傷部分から、出血の流れに逆らって薬液が血管内に流入することも想定し難いと主張する。
まず、リドカインが血管内にどのように流入したかという点について、I鑑定人は、血管壁に損傷があるため損傷がない状態よりも急激に入ったと思われる旨述べ
(I鑑定人の公判調書17丁)証人K医師は、

歯肉は組織が密で硬く、
圧をかけて注射することが多いため血液中に入る可能性が高くなり、傷ついた毛細血管内に麻酔薬が入ることはあり得る旨述べ(K医師の公判調書4丁)るのに対し、証人L歯科医師は、出血時は外に対して圧力があり、出血が止まると壁が修復されるため、そこから血管内に入ることは考えられない旨述べている(L歯科医師の公判調書13、14丁)
。J医師は、浸潤麻酔の際、何らかの
原因で局所の血管に薬物が入り込むことによって全身の血中濃度が高くなることは、一般的に浸潤麻酔の副作用として知られており、脳中リドカイン濃度等の解剖所見からも、何らかの原因で偶発的に血管内に入ったと推測するのが合理的と述べ(J医師の公判調書8丁)
、流入経路の特定を避けながらも、血管
内にリドカインが入ったこと自体は肯定している。
このように専門家証人の間でも意見は必ずしも一致していないが、I鑑定人及びK医師の意見は十分に首肯し得、また、流入経路は措くとしても、いずれにせよ血管内にリドカインが入ったとのJ医師の見解も十分に了解できる。患児に投与されたリドカインは過量投与による中毒が起きる可能性のない量であるとの指摘についても、使用量が一般に安全とされる量であったとしても、それが何らかの原因で血管内に入り血中濃度が上昇すれば、リドカイン中毒が発生することはあり得るのであるから
(J医師の公判調書8丁)この点に

関する弁護人の主張は、鑑定内容に疑問を容れるものではない。
3
結論
以上のとおり、本件鑑定の合理性を否定すべき事情は認められず、患児の死因は、急性リドカイン中毒に基づく低酸素性脳症と認められる。

第4

被告人において、患児が急性リドカイン中毒を含む偶発症に陥っている可能性があり、放置すれば死に至る可能性があることを認識し得たか(争点②)
1
患児の状態に関する各関係者の供述
歯科治療終了直後からの患児の状態に関し、患児の父親であるD(以下父親という。、G衛生士及び被告人は、要旨次のとおり供述する。)
父親の供述

レストレイナーが取り外された後、妻が患児を診察台から抱き抱えようとしたが、抱き抱えることができなかった。
おかしいと思って見ると、患児の顔色は青白く血の気が通ってないような感じで、唇の色も薄紫色っぽかった。目は半開きのような状態で黒目が上を向くような感じで、焦点が合ってなかった。手足は、普通に人が寝ているのとは違う、
変な形
(両腕を肘の辺りで曲げて手のひらが胸に向かうような形)
で固まっていた。
患児を抱き抱えて背中をさすると、これまで経験したことがないくらい体が硬く、驚いた。そのときが一番硬く、5秒くらい背中をさすると硬さが少し和らいだ。その後継続的に患児の背中が反るのを感じ、たまに激しくはないが身震いするような震えがあった。これは何かおかしい、普通ではないと思い、

おかしい、おかしい

と叫び、とにかく被告人に聞こうと思ったが、ひとまず診察室を出て待合室に行くことにした。


午後5時10分頃、待合室に戻るとすぐ会計に呼ばれた。患児を妻に預けて会計をしていると、妻から、やっぱり患児の様子がおかしいと言われた。患児を見ると、目の焦点が合わず、顔色も変わらず、背中の反りも少しあった。受付で患児の異変を訴えると、被告人が来たので、

目が飛んでる、顔色が悪い、背中が反っている。などと伝えて、

患児を抱えて見せた。
被告人は、
患児を目視したが触らず

疲れと眠さでこうなっているだけですよ。などと

答えた。院長である被告人の言うことなので、ひとまず納得して戻った。

午後5時15分頃、患児の体が熱く、汗をかいていたので、水分を摂らせようと思った。2階の室内施設に移動して患児にペットボトルで水分を摂らせようとしたが、普段と違い、飲むことができなかった。ストローがあれば飲めるかと思い、午後5時33分頃近くのスーパーマーケットでストローと飲み物を購入し、ストローで飲ませようともしたが、結局飲むことができなかった。この頃、目は半開きでしばしば焦点が合わず、黒目が上を向きかけるところに声を掛けると、こちらに黒目を向けるという状態だった。顔色は悪く、足には紫色の斑点があった。体と頭はものすごく熱いが、手足は冷たかった。硬直はなかったが、時折軽い背中の反りがあった。言葉にならないような声を発していた。妻は♯8000番(小児救急医療電話相談窓口)に連絡して相談すると言い、私は患児を連れてもう一回被告人に見せることにした。

午後5時38分頃、患児を抱えて私だけが本件歯科医院に戻り、被告人に

やっぱりおかしい、目が飛んでる、顔色が悪い。

と伝えた。患児を見せたところ、被告人は、

疲れと眠さでそうなっているだけですよ。

と言った。このやり取りの後で、待合室に並べた椅子の上に患児を寝かせた。この時点でも、
患児の目の焦点は合っておらず、
顔色が悪く、
唇は薄紫色をしていた。


午後5時50分頃、被告人が患児の脈を測った。この時自分が患児の右手首を触ると、
やはり冷たかったが、
被告人は、

問題ないね、脈も正常だね。


と言っていた。
その後、患児がスカートをめくるようなそぶりをしたので、おむつを換えようと思い、おむつに手をかけようとした瞬間、患児が目を見開き、全身ががたがたと五、六秒間ほど激しく震えた。それを見たとき、被告人を信じてここにいてはいけないと思い、妻と一緒に、患児を抱いて、近くのH病院に向かった。
G衛生士の供述
F衛生士がレストレイナーを取り外したとき、患児の顔や腕は全体的に紫色
になっていた。私は、それを見てチアノーゼだと思った。目の焦点は合わず、父親の方に向けて伸ばした両腕が硬直した感じだった。父親は、動揺した様子で

息をしていない、B、大丈夫

と何度か聞いていた。救急車を呼んだ方がいいと思ったが、下っ端の自分が意見を言っても被告人に怒られると思い、言うことができなかった。
被告人の供述
午後5時10分頃、スタッフに呼ばれて受付に行くと、父親から患児の

様子がおかしい、目がうつろ

と言われ、父親に抱かれていた患児を、間近で二、
三十秒ほど目視した。背中の運動で呼吸の状態を目視して、問題がなかった。チアノーゼを意識して顔と唇の色を確認したが、異常はなく、背中の反りや手足の伸展、屈曲も確認して、全部異常なしだった。父親の問いかけに反応する仕草で、患児に意識があることも確認した。
午後5時38分頃、再びスタッフに呼ばれて受付に行くと、父親から患児の様子がおかしいと言われた。先ほどと同様の位置関係、手法で観察したが、何の異常も見られなかった。
午後5時45分頃、患児の様子が気になっていたので受付の方に行くと、カウンター付近に父親が立っていた。この時、患児がぴくっと動いたのを父親が心配していたので、寝入りばなの状況で心配ないと伝えた。
その頃、患児の脈を測るため、スタッフに椅子を並べるよう指示した。患児の右側に座って、まず患児の胸に手を置いて心臓の鼓動や呼吸を確認し、異常はなかった。患児の右手首の橈骨動脈で脈拍を測ったが異常はなかった。顔色を確認すると肌色で紅潮はなく、蒼白感もなかった。唇の色も見たが、チアノーゼはなかった。自分の手で患児の腕と首を触り、体温と血圧を確認した。体の異常な反りや四肢の異常な屈曲・伸展の有無や、伸展屈曲を繰り返していないかも確認した。全て異常はなかった。
2
各供述の信用性について
午後5時10分頃、午後5時38分頃及び午後5時50分頃、父親は被告人に対し患児の異変を訴えており、また、患児の母親である証人Mの供述によれば、同人は、本件歯科医院にいたとき、友人や掛かり付けの小児科、小児救急医療電話相談窓口に電話を掛けて患児の容態を相談しようとしていたことが認められ、さらに両親は本件歯科医院を出た後H病院に直行しているが、これらはいずれも両親が患児の状態に異変を感じていたことを前提とする行為である。仮に、父親及びG衛生士が供述する患児の症状が存在しなかったとすると、上記両親の行為を全く合理的に説明することができない。
H病院の診療記録(甲41)によれば、患児の両親が、最初に救命治療に当たった医師に対し、歯科治療終了後から患児の視線が合わず、反り返りがあったことや、意識状態がおかしかったことを訴えていたことも認められる。この時の両親の関心は専ら患児の救命以外に考えられず、担当医に嘘を述べる理由は全く想定できないのであって、患児の異変を訴える供述がこの時から一貫していることは、父親の供述の信用性をさらに高めるものである。
G衛生士が供述する歯科治療を終えてレストレイナーを外した直後の事実及び患児の状態は、父親の供述と概ね一致しており、相互に利害関係もないことを踏まえると、その供述は信用性が高いといえる。G衛生士の供述は、患児の当時の異変を現認した唯一の医療従事者の供述として、父親の供述を裏付けている。
父親及びG衛生士の供述する目の焦点が合わない、顔色が悪い、背中が反るなどの患児の症状は、酸素の取り込みが行われておらず、チアノーゼやけいれんが生じ、意識レベルが低下していたことを示すと考えられ、急性リドカイン中毒の症状と整合する(K医師の公判調書6、30丁、証人N医師の公判調書11丁)

弁護人は、レストレイナーを外した直後、顔色が悪かった旨の供述に関し、直前の場面で、フッ素の味を尋ねるF衛生士に患児がぶどうと答えていることから、この時点で呼吸抑制がないことは明らかとした上で、そこからレストレイナーを外すまでの約1分程度で、患児の血中酸素飽和度が通常チアノーゼを発現するとされる数値に低下することは考えられない旨主張する。しかしながら、本件で想定される中毒症状は初期症状から徐々に悪化するものであり、
ぶどう
と答えた時点でも既に初期症状に陥っていたと考えられる
ことや
(証人O医師の公判調書4丁)患児に強直性けいれんが生じていたこと、
によれば、チアノーゼが発現することは十分あり得る(N医師の公判調書23丁)
。患児がぶどうと答えた時点で酸素の取り込みに全く問題がなかったことを前提とする弁護人の主張は採用できない。
弁護人は、G衛生士が当時経験の浅い歯科衛生士であったこと等から、その観察の正しさにも疑問を呈しているが、G衛生士が気付いたとする症状は、医学的判断はともかく、その症状の存在を認識することに関しては特に高度の専門知識を要するものではなく、G衛生士の供述に疑問はない。
この点に関する被告人の供述は、
前記のとおり、
患児を複数回丁寧に目視し、
脈を測るなどしたが、患児に異常はなかったというものである。
被告人が、自身の主観において、当時患児に異常がないと認識したことは特に疑問はなく、そのとおり認められる。
他方、患児に父親らが供述する症状が客観的に存在したかという点に関しては、被告人の供述は両親の行動や患児のその後の容態などの客観的事実と整合せず、信用できない。仮に、被告人の供述するとおり、患児に客観的に何らの症状も生じていなかったとすると、当時の両親の行動を全く合理的に説明できないことは前述のとおりである。また、その場合、被告人が最後に患児を観察した以降、突如症状が発生し、午後6時15分の時点で重篤な状態となったことになるが、これは、本件で想定されるリドカイン中毒の機序が初期症状から徐々に症状が悪化するものであること
(O医師の公判調書4丁)と整合しない。
なお、この点に関し、L歯科医師は、そのようなこともあり得る旨述べているが、同歯科医師は、患児が急性リドカイン中毒であることを否定しているのであるから、前提が異なっている。
被告人の供述は、患児の症状に関する父親及びG衛生士の供述に疑問を容れるものではない。
以上によれば、父親及びG衛生士の供述は信用し得る。
同人らの供述によれば、患児は、治療終了直後(午後5時7分ないし10分頃)
、顔色が悪く、唇が薄紫色で、目の焦点が合わず、手足が固くなり、背中が反り、
震えがある状態であり、その後も患児が本件歯科医院に滞在している間、目の焦点が合わないことや、
背中の反りが断続的に発生し、午後5時38分頃、
普段容易にできる水分を摂る行動もとれず、足には紫色の斑点があり、体と頭は熱いが、手足は冷たく、言葉にならないような発言しかできず、午後5時50分頃、全身をがたがたと震わせた事実が認められる。
これらは急性リドカイン中毒の症状と認められ、父親が最初に患児の異変を訴えた午後5時10分頃の時点において、既に上記症状が外部に認識可能な状態で現れていたと認められる。
3
争点の検討
以上を踏まえ、
被告人がとるべき対応及び認識し得た事実について検討する。
被告人は、患児に対する当日の歯科治療でリドカインを主成分とする局所麻酔剤が使用されたことを予め知っており、治療後間もない午後5時10分頃の時点で父親から目の焦点が合わない、顔色が悪いなど患児の異変を訴えられていた。
これを受けて、被告人は、午後5時10分頃、患児の様子を見て、寝ているだけであると判断し、父親に事情を尋ねたり、患児に触れたりなどの確認を取っていない。しかし、局所麻酔薬を使用した治療直後の訴えであることや、患児を日常的に観察している父親から目の焦点が合わない旨の意識障害を疑い得る事実を告げられたことからすると、被告人は、この時点で、少なくとも、父親に対し、患児の詳しい様子や父親が異常と考える点などについて尋ねるべきであり、そうすると、父親から直前に目撃した患児の身体の硬直、背中の反り、顔色の悪さ、身震いなどの重要な情報を得ることが可能であったと認められる。その上で、被告人は、直ちにバイタルサイン(血圧、脈、呼吸、意識、体温)について、パルスオキシメータ等の機器も用いつつ丁寧に問診、視診、触診等を行い、G衛生士ら担当衛生士に状況を尋ねるなどの対応をとるべきであった(証人P歯科医師の公判調書7ないし15丁、O医師の公判調書5ないし10丁)
。以上は、社会通念に照らしてもごく常識的な内容であって、一般的な歯科医師に要求できない高度な内容ではない。
本件において、被告人は、このような対応をとっていない。
このような対応をとっていれば、被告人は、顔色が悪く、唇が薄紫色で、目の焦点が合わず、手足が固くなり、背中が反り、震えがあるなどの症状を父親らから聴取でき、またその少なくとも一部を自らの知覚で具体的に認識できた。そして、何らの医学的知識を持たない両親ですらこれらの症状の異常性に気付いたのであるから、歯科医師である被告人がこれらの症状を認識しさえすれば、これらが単なる疲れや眠気ではなく、けいれん、チアノーゼ、意識障害等、患児の体内における酸素の欠乏を示唆するものであり、放置すれば患児が死亡することもあり得ることに気付くことは可能であった。
次に、被告人において、患児が急性リドカイン中毒を含む偶発症に陥っている可能性を認識し得たかを検討する。
本件において、適量を超えるリドカインの使用が予想されず、現に適量(オーラ注カートリッジ約1.3ml)が使用されたのみであることや、I鑑定人をはじめとする複数の専門家証人が述べるように、浸潤麻酔に際しオーラ注カートリッジ1.8mlを全量使用したとしても、急性リドカイン中毒の発生が通常考えられないことからすると、当時、患児に発生していた症状が急性リドカイン中毒に基づくことを、当時の被告人において確定的に認識することはできなかったと認められる。
もっとも、被告人においては、当時の状況を前提としても、前記のとおり、十分な問診や観察等必要な対応をとっていれば、患児に現れていたけいれん、チアノーゼ、意識障害等の症状を認識することは可能であった。
これらの症状は、急性リドカイン中毒の症状として典型的症状というべきもので、かつ、これらは局所麻酔薬の使用から約40分後に現れていたものであり、局所麻酔薬との関連性を疑うことは自然である。証人Q医師は、局所麻酔をした後にけいれんが生じた場合、歯科医師が局所麻酔薬中毒を疑うことは可能である旨述べている(公判調書15、24丁)

オーラ注カートリッジの取扱説明書には、
重要な基本的注意として、
まれにショックあるいは中毒症状を起こすことがある
ことに加え、
小児等に対する安全性は確立していないと記載されている(甲22)。この記載は、小児の薬
品に対する感受性や代謝能力等が成人と異なり、臨床試験が実施できないことから、小児について使用の安全性が確立されていないことについて、医療従事者に対し注意喚起をしたものと理解される。弁護人が主張するように、こういった記載がどの薬品にも一般に記載されているとしても、これを意味の乏しい形式的な記載であるかのように理解するのは相当でない。
これらの事情を考慮すると、被告人において、上記症状の原因が、本件歯科医院における治療と無関係なものではなく、急性リドカイン中毒を含む偶発症の可能性があることを認識し得たものと認められる。


以上によれば、被告人において、午後5時10分頃に父親から異常を訴えられた時点で、問診、視診若しくは触診により患児の全身状態を十分に確認し、又はパルスオキシメータによる動脈血中酸素飽和度及び脈拍数の測定等を行っていれば、患児が急性リドカイン中毒を含む偶発症に陥っている可能性があり、放置すれば死亡する可能性があることを認識し得たものと認められる。
第5
1
被告人が適切な処置を行っていれば患児の死を回避できたか(争点③)被告人に要求される救命処置について
P歯科医師は、本件のような異常があれば歯科医院での対応は困難なので、酸素投与をしつつ救急車を呼ぶべきであり、この点は、異常の原因が歯科治療時の麻酔かどうか分からなくても同様であると供述し(P歯科医師の公判調書7ないし15丁)K医師及びO医師も同様の供述をする

(K医師の公判調書8、
32丁、O医師の公判調書5ないし10丁)
。C歯科医師も、パルスオキシメー
タにより血中酸素飽和度が低いことが分かれば、酸素吸入を行い、スタッフに指示をして院長である被告人に連絡をしたり、救急車を呼んだりしていたはずである旨述べており
(甲46)これらの対応は一般的な歯科医師にとって特別

困難なことではなかったといえる。
本件歯科医院には、レスキューセットと呼ばれる救命器材のほか、人工呼吸器用マスク、
医療用酸素ボンベ等が備え付けられていたのであるから
(甲16)

これらを使用して必要な処置をとり、必要に応じて救急搬送するなどの救命処置をとることは可能であった。
以上によれば、被告人は、午後5時10分頃、十分な問診、視診及び触診又は機器による測定等を行い、
患児に現れている症状を認識し、
それがけいれん、
意識障害、患児の体内における酸素の欠乏等を示し、急性リドカイン中毒を含む偶発症の可能性があり、放置すれば患児の死亡につながりかねないことを認識し得た時点で、直ちに気道確保及び酸素投与等の応急処置を行うとともに、医療機関に患児を救急搬送するなどの救命処置を講じる義務があり、かつその履行は可能であったと認められる。
2
救命処置による結果回避可能性について
患児が死に至ったのは、急性リドカイン中毒により呼吸機能や循環機能が抑制され、血液中の酸素濃度の低下等によって低酸素性脳症が発症したことによる。これを防ぐためには、急性リドカイン中毒発症後間もない時点から気道を確保するなどして呼吸を補い、さらに十分な酸素を供給することが有効であることは、死因からしても明らかである。
患児の急性リドカイン中毒は時間とともに進行し、その救命可能性も時間とともに低下し、H病院に入った午後6時6分頃にはなくなっていたものと認められる。
救命可能性の有無及びその時的限界について、K医師、
N医師及びO医師は、
いずれも午後5時10分頃の時点で適切な処置が講じられていれば、ほぼ確実に救命可能であったであろうと述べ、N医師及びO医師は午後6時頃までの本件歯科医院にいた間は救命可能であったと述べる一方(N医師の公判調書17丁、O医師の公判調書11丁)
、K医師は、午後5時30分頃には不可逆的な脳
の障害が生じていた可能性があり、もはや循環を維持することが不可能になるので、その頃が救命できた限界であり、午後6時頃には救命自体が困難であった旨述べ(K医師の公判調書26ないし27丁)
、見解が分かれている。
患児に局所麻酔剤が注射されたのが午後4時25分頃であり、午後5時10分頃は急性リドカイン中毒が生じてからそれほど長時間が経過していないと考えられることや、K医師、N医師及びO医師の見解が一致していることからすると、午後5時10分頃には患児の救命は十分に可能であったと認められる。そして、
救命可能な状態は、
最も慎重な意見であるK医師の見解に基づいても、
午後5時30分頃までは継続していたと認められる。
本件において、被告人は、前記1のとおり、午後5時10分頃の父親の訴えを契機に十分な問診等を行い、最終的に救命処置をとるべきであったところ、問診、視診及び触診又はパルスオキシメータ等による測定、これらにより得られた情報の判断等に必要な時間を考慮しても、どんなに遅くとも午後5時30分頃までには、救命処置に移ることは可能であったと認められる。以上によれば、被告人が判示の業務上の注意義務を履行していれば、患児の死亡を回避することは可能であったと認められる。
第6

結論
以上のとおり、被告人には判示の注意義務違反があり、これにより、患児を急性リドカイン中毒に基づく低酸素性脳症により死亡させたと認められる。(法令の適用)
罰刑条種の選
刑法211条前段


禁錮刑を選択

刑の執行猶予

刑法25条1項

訴訟費用の負担

刑事訴訟法181条1項本文

(量刑の理由)
本件は、判示のとおりの業務上過失致死の事案である。
被告人は、治療終了後間もなく被害者の父親から異変を訴えられたにもかかわらず、被害者が疲れて眠っているものと軽信し、自らの技量を過信してパルスオキシメータ等使用が容易な補助機器も使わず、死に至る危険を疑うべき事情を見落とした。思い込みから、父親の訴えを軽んじ、歯科医師として通常の注意を払えば気付けたはずの異変を見落とし、本来助かったはずの幼い生命を失わせたものであり、その過失は軽いものとはいえない。
被害者は、当時わずか2歳で、これから成長し、人生を送るはずであったにもかかわらず、苦しさを訴えることもできず生涯を終えたのであって、その死の痛ましさは言葉に尽くし難い。両親の心痛、悲しみも同様に大きく、被害者を救えなかったことを悔やみ、被告人に対する厳しい処罰感情を有するのも理解できる。他方で、歯科治療の実務上、本件で使用された局所麻酔薬の量では通常急性リドカイン中毒は生じないと考えられており、歯科治療を受けた子供が疲れて眠ってしまうことも珍しくなく、被告人にとって判断を誤りやすい状況があったことは、過失の大きさを判断する際に考慮する必要がある。
以上の事情のほか、罰金刑以外に前科がないことなどの一般情状も考慮し、被告人に対しては,主文のとおりの禁錮刑に処した上で,その刑の執行を猶予するのが相当と判断した。
(求刑‐禁錮2年)
令和4年3月25日
福岡地方裁判所第3刑事部

裁判長裁判官

神原
裁判官

川口洋平
裁判官

絹川宥樹浩
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