事件番号 | 令和1(わ)2509 |
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事件名 | 傷害致死 |
裁判年月日 | 令和4年3月16日 |
法廷名 | 大阪地方裁判所 |
全文 | 全文 |
最高裁判所 | 〒102-8651 東京都千代田区隼町4番2号 Map |
裁判日:西暦 | 2022-03-16 |
情報公開日 | 2022-04-01 04:00:09 |
被告人は無罪。 理 第1 由 本件公訴事実及び争点 本件公訴事実は,被告人は,大阪府茨木市ab丁目c番d号社会福祉法人ABの職員として障害者支援業務に従事していたものであるが,平成31年3月22日午後11時頃から同月23日午前1時15分頃までの間に,前記B3階において,入所していたC(当時30歳)に対し,その腹部等を鈍体で多数回打撃又は圧迫し,その頸部を圧迫するなどの暴行を加え,同人に舌骨体右側骨折,頸部左側筋肉出血,甲状腺被膜下出血,胸腹部多発打撲傷,腸間膜根部損傷等の傷害を負わせ,よって,同月24日午前1時40分頃,同府吹田市内の病院において,同人を頸部圧迫による窒息後の蘇生後脳症により死亡させたというものである。本件の争点は,①被告人が,検察官の主張するような暴行をCに加えたか,②Cは,被告人の暴行により死亡したかである。 第2 1 被告人が,Cの頸部を圧迫して窒息させ,心停止を生じさせたか。頸部圧迫による窒息の有無 (1)ア 検察官は,Cの遺体を解剖した医師であるDの供述内容に基づき,本件 では,Cの舌骨体部の右側が骨折しており,舌骨体部の骨折を生じさせるには相当な圧迫的外力が加わったと考えられるから,Cの舌骨体部に骨折が認められることは,Cの頸部が強く圧迫されたことの根拠であると主張する。 イ この点,医師であるEは,救急搬送された病院で撮影されたCの舌骨の三次 元CT画像に基づき,Cの舌骨体部の右側には骨折が認められず,舌骨体部と右大角との結合部が未癒合か部分癒合の状態であり,部分癒合の場合には軽微な外力で離開した可能性が高いと供述する。 Eは,法医学を専門とする医師であり,多くの司法解剖の経験を有するとともに,舌骨の形状,骨折事例についても十分な知見を有する専門家であり,かつ,CTに よる検案を多数実施しているから三次元CT画像を読み取る能力に欠けるところはないと認められる。Eの三次元CT画像に関する供述は信用できる。このようなEの供述を前提とすると,Dが舌骨体部の右側の骨折であるとする所見は,Cの舌骨体部と右大角との結合部が未癒合であったとすれば,そもそもCの舌骨体部の右側が骨折していなかった可能性が考えられる。また,Cの舌骨体部と右大角との結合部が部分癒合であったとすれば,その結合部に医療措置による軽微な外力が加えられて離開した可能性も考えられる。 ウ 検察官は,Cの舌骨裏側部分に出血がみられたことは舌骨体部が骨折してい なければ説明がつかないと主張するが,Dの供述によっても,舌骨内側面の軟部組織内の出血が舌骨体部の骨折を示す所見であるとは認められないし,舌骨体部が骨折しなくても,そのような出血が生ずることはあり得るから,そのような指摘は前述のような,Cの舌骨体部と右大角が未癒合あるいは部分癒合であった可能性を否定する根拠とはならない。 エ そうすると,舌骨体部の骨折に関しては,そもそも舌骨体部の骨折が無かっ た,あるいは,部分癒合していた舌骨体部と右大角が軽微な外力により離開した可能性が否定できない。 (2)ア 検察官は,Dの供述内容に基づき,司法解剖時に認められたCの左頸部 筋肉内の出血は,Cの頸部が圧迫された結果として生じたものであり,頸部圧迫を示す所見である旨主張する。また,検察官は,頸部圧迫の具体的な態様については,Dの供述内容に基づき,舌骨を両側から挟み込むような相当な圧迫的外力が頸部に加えられたなどと主張する。 イ この点,Eは,まず左頸部筋肉内出血に関するDの所見について,①Dが実 施したCの司法解剖はそもそも解剖の手順・手法が不適切である旨指摘する。すなわち,本件では頸部をしっかりと観察,確認する必要があるにも関わらず,Dは,頸部の筋肉及び頸静動脈の適切な剥離,剥出をしておらず,また,出血点と流入血を区別するために筋肉に付着した血液をふき取る必要があるのに血液をふき取って 確認していないなどの問題点がある旨を指摘している。また,Eは,②Dが,Cの右側頸部の穿刺により漏れた血液の流入を考慮せずに左頸部の出血がみられる部位を出血点と判断した点について,流入血を考慮すると左胸骨舌骨筋上に翻転された部位の内側にある幅1センチメートルから2センチメートルの出血と甲状腺にみられる出血のみが出血点として考えられる旨を指摘する。さらに,③Eは,Cの左頸部筋肉内出血は救急救命措置としてCに加えられた医療措置によって生じる可能性もある旨を指摘する。 ウ 以上のようなEの所見は,医師としての専門的な知見に基づくものであり, その信用性を否定する理由は認められないところ,そのようなEの所見に加え,Cの左頸部筋肉の深層のみが出血しており,浅層の筋肉には出血がみられないこと等も併せて考えれば,Dの指摘する左頸部筋肉内出血の全てが頸部圧迫により生じたものではない可能性が残るし,あるいは,Cの左頸部筋肉内出血が検察官の主張するような態様により生じたのではない可能性も認められる。Cの左頸部筋肉内の出血は,医療措置により生じた可能性も否定できず,検察官の主張には合理的な疑いが残る。 (3)ア 検察官は,Dの供述内容に基づき,Cの眼瞼結膜に溢血点がみられるこ と,Cの頭蓋底にうっ血がみられること等から,Cには窒息の所見がみられると主張する。 イ しかし,D自身も認めているとおり,Cの眼瞼結膜の溢血点は急死一般にみ られる所見であって窒息特有の所見とは認められない。また,頭蓋底のうっ血については,Eは,少なくとも強いうっ血があるとは思わないと供述しており,これを覆す証拠はない。そして,Eによれば,首しめによる窒息の場合,顔面のうっ血が認められると考えられるところ,施設職員であるF,救急救命士であるG,救急搬送先の主治医であるHは,いずれも,心肺停止後のCの顔面にはうっ血がみられなかったと供述している。このことは,Dの供述する窒息の所見と整合せず,Cには窒息の所見となるうっ血がみられなかった疑いがある。 ウ この点,Dは,Cにうっ血がみられなかった原因として,頸静動脈が閉塞さ れず,気道のみが閉塞された可能性があるとも供述しているが,本件において,気道のみが閉塞されるような態様でCの頸部が圧迫されたとは考え難い。エ 以上によれば,溢血点,うっ血を根拠とする検察官の頸部圧迫の主張につい ても,頸部圧迫による窒息があったことを示す所見であるとは認め難い。(4) そうすると,舌骨骨折,頸部筋肉内の出血,溢血点,うっ血を頸部圧迫の 根拠とするDの所見は,いずれも頸部圧迫による窒息以外の原因により生じた可能性があるといえ,証拠上,そのような可能性があるとの疑いを払しょくすることができない。したがって,本件では,被告人がCの頸部を圧迫して窒息させたと判断するには合理的な疑いが残ると考えられる。 2 (1) 心停止の原因 検察官は,Dの供述内容に基づき,心停止の原因として頸部圧迫による窒 息以外の可能性は常識的に考えられないと主張する。 (2) しかし,Eは,①司法解剖によるCの胃内容物等に照らし,本件当時,C が高度のストレスを受けていたと考えられること,②Cの服用していた薬の相互作用の影響があったこと等により不整脈が生じ,それが心停止の原因となった可能性が考えられる旨具体的に指摘をしている。不整脈による心停止の可能性については,救急搬送先の病院において,原因として最も考えられるのは突然の不整脈である旨をカルテに記載している。頸部圧迫による窒息以外の原因により心停止が生じた可能性がある旨のEの指摘は,医師としての知見に基づくものであり,かつ,前記のとおり救急搬送先の主治医の意見とも合致するものである。 Dは,不整脈等の窒息以外の原因による心停止の可能性については常識的に否定されると供述するのみであり,他の心停止の原因が除外される具体的な理由を何ら示していない。 (3) 以上によれば,Cの心停止の原因は,頸部圧迫による窒息以外である可能 性も考えられ,心停止の原因が頸部圧迫による窒息であるとの検察官の主張には他 の原因が存在する可能性があるとの疑問を差し挟む余地がある。 第3 1 被告人が,Cの腹部等を多数回打撃又は圧迫したか。 腸間膜根部損傷 Eは,腸間膜根部は胃や肝臓の近くに位置していること,実際に,胸の真ん中や胸骨の下半分を圧迫したつもりが誤って腹部を圧迫した症例や,胸骨圧迫により胃や肝臓が破裂した報告があること,ただし,胃や肝臓の損傷がなくても腸間膜のみが損傷することもあり得ることを供述しているところ,証拠上,これを否定する根拠は認められない。また,本件では,救命措置に関して素人である被告人がCに対して胸骨圧迫をしていること,専門職である救急隊員がストレッチャーによる移動時にも並走しつつ胸骨圧迫をしていたこと,Cの搬送先の病院でも救命措置を施しつつ胸骨圧迫をしていること等の事実も認められる。これらの事実を踏まえると,多数の者が様々な状況の下で胸骨圧迫を施しており,Cの胸骨以外の部位を圧迫してしまった可能性は否定できない。 そうすると,Cの腸間膜根部の損傷は,胸骨圧迫により生じた可能性も否定できず,被告人が暴行を加えて生じさせたものとは断定することはできない。2 胸腹部多発打撲傷 Eは,Cの腹部の外表の打撲傷には黄色,赤色,褐色の3つの異なる色調がみられ,打撲傷の受傷時期が異なる可能性があることを指摘する。 また,Iの供述及びFの供述を併せて考慮すれば,平成31年3月22日のCの入浴時には確認されていなかった腕のあざが,同日午後9時頃,Fと被告人により確認されたことが認められる。このことから,以前にCが打撲を受けた箇所が時間を置いてあざとして現れてきた可能性も考えられる。腕は脂肪が少ないため,腹部よりも内出血が現れやすいとも考えられることを考慮すれば,被告人がCの見守りを開始する前に,腹部の打撲傷の原因となる出来事が発生していた可能性も否定できない。 さらに,Eは,腹部の打撲傷については,救命措置で生じた可能性や,心停止後 の凝固異常,血管透過性亢進を原因として進んだ可能性も指摘しており,この可能性を払しょくする事情はうかがわれない。 加えて,Eは,死後に褐色圧痕が出現する可能性も指摘している。結局のところ,証拠上,Cの胸腹部の打撲傷の発生原因や受傷時期を解明することはできないのであって,確かに,検察官の主張するとおり,Cの自傷行為によりそれらの打撲傷が生じた可能性は低いと考えられるものの,被告人が,本件公訴事実の時間帯において,Cに対して胸腹部多発打撲傷を生じさせるような暴行を加えたとまでは断定できない。 第4 1 そのほかの検察官の主張等 検察官は,被告人が本件施設の宿直体制に不満を持っていたことからすれば, Cに対して暴行を加える動機があると主張する。 しかし,検察官の主張するような本件施設の宿直体制に対する不満が,Cに対する暴行と直ちに結びつくものではない。 したがって,動機に関する検察官の前記主張は採用することができない。2 検察官は,被告人がおひさまルームから退出した10分余り後に,Cの 様子を確認しに行ったことは,Cの容体急変の原因を知っている者の行動としてみるのが自然であると主張する。 しかし,Cは,何度も横になっては起きることを繰り返していたのであって,おひさまルームで寝付いたように見えたとしても,その後に起き上がってしまうことを想定して,10分余り後に様子を確認しに行くことは十分に考えられる。Cの容体急変の原因を知っている者の行動としてみることが自然であるとは断定できない。 したがって,被告人の行動に関する検察官の前記主張は採用することができない。3 被害者参加弁護士は,Cが救急搬送された後,被告人が司法解剖と検索 したことから,被告人が犯人であると推認できる旨主張している。確かに,被告人が犯人であるとすれば,その後の捜査を懸念するなどの理由から, 司法解剖と検索することも考えられないわけではない。しかし,本件においては,被告人が犯人であるとするには合理的な疑いが残るのであり,被告人が犯人であることを前提に考えることはできない。そのような見地から,あらためて,被告人が,そのような検索をした理由を考えてみると,施設利用者が突然の心停止により病院に救急搬送された際,それに立ち会った被告人が心停止の原因を考えるなかで司法解剖と検索したなどということも考え得るのであって,犯人として今後の事案解明を慮っての行動であったとは断定できない。 したがって,司法解剖と検索したことが,被告人が犯人であることを示す事情とまではいい難い。 4 検察官及び被害者参加弁護士のその余の主張を検討しても,被告人がCに暴 行を加えたとするには合理的な疑いが残る。 第5 結論 以上によれば,証拠上,被告人が,Cに窒息による心停止を生じさせるような頸部圧迫の暴行を加えたり,Cの腹部等を鈍体で多数回打撃又は圧迫したりしたとの事実を認めるには合理的な疑いが残る。そうすると,結局,本件公訴事実については犯罪の証明がないことになるから,刑事訴訟法336条により被告人に対して無罪の言渡しをする。 (検察官田中優希,同岡田陽一,私選弁護人川上博之〔主任〕,同髙山巌,同久保田共偉各出席) (求刑:懲役8年) 令和4年3月16日 大阪地方裁判所第11刑事部 裁判長裁判官 佐藤卓生 裁判官 福間 裁判官 新居匠拓馬 |