事件番号 | 平成30(わ)142 |
---|---|
事件名 | 殺人 |
裁判年月日 | 令和3年3月23日 |
裁判所名・部 | 和歌山地方裁判所 |
裁判日:西暦 | 2021-03-23 |
情報公開日 | 2021-04-05 16:00:23 |
被告人を懲役19年に処する。 未決勾留日数中700日をその刑に算入する。 理由 (罪となるべき事実) 被告人は,妻のF(以下被害者という。)に自身の不倫等が発覚した後,被害者や不倫相手等との間で両立不可能な約束をするなどして,その約束の期限が迫る中,両者との関係を清算するため被害者を殺害しようと決意するとともに,被害者の死亡保険金も得たいと考え,平成29年7月18日午後4時30分頃から同日午後4時50分頃までの間に,和歌山県西牟婁郡a町b番地G北東約50メートル先海岸付近(以下本件海岸付近という。)において,被害者(当時28歳)に対し,殺意をもって,海中で何らかの方法により被害者の身体を押さえ付けて溺水させ,よって,同月20日午前7時18分頃,同県田辺市d町e番f号H病院において,被害者を低酸素脳症により死亡させて殺害したものである。(証拠の標目) 【略】 (事実認定の補足説明) 第1 争点 本件の争点は,①本件は殺人事件か,②殺人事件だとして被告人が行ったかである(以下,特に断らない限り,月日は平成29年のものをいう。。) 第2 本件は殺人事件か 1 被害者の胃の中に砂があったこと ⑴ 医師Iの供述の信用性 Iは,7月18日午後5時32分頃,被害者がH病院に搬送された後,その初療室において, 胃の内容物や空気を抜くため, 被害者の鼻から胃にチューブを挿入し, これを吸引器に接続し,10秒から20秒間の持続吸引を行ったところ(以下本件吸引処置という。,初めは茶褐色の液体が引けたが,吸引開始後1秒程度でチ) ューブが詰まるぐらいの砂が引けるようになり,被害者の鼻のところのチューブの端から吸引器に接続するところの端までが砂で一杯になった状態で2,3秒間砂が引け,その後は茶褐色の液体が更に引けたが,吸引できなくなって中止した旨供述する。 Iの供述は, 被害者の患者診療記録 (甲83) の7月19日15時43分の欄に, もう砂水のようなものは止まっているのでという,経鼻胃管から砂水が出ていたことを前提とする記載が別の医師によりなされていることと整合的である上,後記の医師Jの供述にも支えられている。砂がチューブに詰まってほとんど動きが止まるような状態で目視により確認できたなど砂を見た状況も相当に具体的で,砂以外のものを砂と見間違えたとも考えられず,虚偽を述べる動機もない。よって,Iの砂を見た旨の供述は信用できる。 この点,弁護人は,Iが砂を見たことについて,カルテに記載がなく,看護師に記載の指示もしていないことを指摘するが,主治医として患者を診るのに精一杯だったためそこまで記録していないという説明は, 当時の状況に照らし合理的である。 食物残さを確認していないとの指摘も, チューブの入り口付近にチューブの内径5. 3mmより小さい固形の食物残さがなかった可能性があり,その供述の信用性に疑いは生じない。 ⑵ Jの供述の信用性 Jは,Iが本件吸引処置を行った際,吸引器が詰まりかけるような音がして吸引器が震え,Iが砂かと驚いたリアクションをした状況で,Iが吸引を止め吸引器につないでいたチューブの先端をドレンバッグにつないで胃内容物が自然に排出されるようにしたため,本当に砂が出てきたのか確かめようと,初療室内でドレンバッグを確認したところ,細かい粒子で黒白のさらさらした砂が,ドレンバッグの底にたまっていた旨供述する。 Jの供述も,被害者の患者診療記録(甲83)の砂水に関する前記記載と整合的 であるし,Iによる砂を見た旨の供述に支えられている。また,本当に胃内から砂が出たのであれば,発見状況に関する消防隊員からの聴取内容(被告人がトイレに行って帰ってくると, 被害者が顔を下にして水面に浮いた状況で発見された。と合 ) わないことになるので,疑問に思って確認しようとしたなど当時の心境を交えて供述している上,砂の見た目やドレンバッグの上から押して触った感触についても相当具体的に述べていることからすると,砂以外のものと見間違えた可能性も考えられないし, 虚偽を述べる動機もない。 よって, Jの砂を見た旨の供述も信用できる。 弁護人は, Jが見た砂についても, カルテに記載がないなどと指摘するが, Jは, その理由について,胃から砂が出たことは治療に影響しないため記載しなかったなどと合理的に説明している。また,CT撮影前は忙しく,その前にドレンバッグを見ていない可能性があると弁護人は指摘するが,被害者が初療室に運ばれて早期に本件吸引処置が行われ,ほどなくドレンバッグの砂を確認した状況を具体的に述べているし,CT撮影は,初療室での様々な緊急の処置を終えてから部屋を移動して行ったというのであり,Jがドレンバッグ内の砂を確認した時期について勘違いしているとも考えられない。なお,弁護人は,Jが被告人に疑いの目を向けていたと指摘するが,Jは,砂が排出されたと確認したことによって,被告人による事件の可能性を仮説として考えたのであり,虚偽の供述をする理由とならない。⑶ I及びJが見た砂の量について ア I立会での再現(甲12)について I立会での再現では,Iが,本件海岸付近及びその周辺から採取された12種類の砂のうち,袋の外から目視で3種類の砂を選定し,さらに袋から砂を出して目視で2種類の砂を選定した上,実際に吸引器で吸引した状態で砂がチューブ内を通る状況を目視で確認して1種類の砂を選定し,ビニール袋に海水500ミリリットルと砂200グラムを入れたものを被害者の胃と仮定し,袋の口を被害者の鼻と仮定して,本件吸引処置で被害者の鼻からチューブを挿入したのと同じ長さで,チューブを袋の口から55cm挿入し,チューブのもう一方の先端を吸引器のカテーテル に接続して吸引を開始し,当時目撃したのと同様に,被害者の鼻に見立てた袋の口の部分から吸引器のカテーテルとの接続部分までの部分(以下,この部分をチューブ全体という。)に砂が満ちたときから,2秒間及び3秒間経った時点で,それ ぞれ袋の口の部分のチューブを折り曲げてそれ以上砂が吸引されないようにし,チューブ全体の砂を含めて吸引された砂を計測すると, 2秒間の再現で4. 0グラム, 3秒間の再現で5.5グラムと計測された。 しかし,この再現は,チューブ全体を砂が満たす前に流れた若干量の砂が計測量に含まれるがその量は不明であることに加え,被害者の胃内の砂及び食物残さの分布状況や密度を再現できてはいないこと,Iは砂が詰まってほとんど動きのない状況を見たと供述しているのに対し,再現では滞りなくチューブ内を流動したことを理由にして1種類の砂を選定したとみられることなど疑問がある。よって,この再現ではIが目撃した砂の量を正確に再現したとは言えず,Iが目撃した砂の量は,2秒間の再現で計測した4.0グラムより少ない疑いがある。 イ J立会での再現(甲14)について J立会での再現では,Jが,前記12種類の砂のうち,袋の外から目視で3種類の砂を選定し,さらに袋から砂を出して目視で1種類の砂を選定した上で,警察官が,Jの指示を受けながら,当時見た状況と同じ程度に砂がたまるまでドレンバッグに海水及び砂を少しずつ入れて当時の状況を再現し,砂を分離して砂の重量を計測したところ,32.5グラムと計測された。 Jのこの再現は,砂がドレンバッグの底にたまっていたのを目視した量を再現したものであり,量の再現が不正確であるとの疑問もなく,当時の目撃状況を忠実に再現したものといえる。 ウ 小括 以上をまとめると,証拠上認定できるI及びJが見た,被害者の胃の中から出てきた砂の合計量は,約32.5グラムを超えて約36.5グラムに満たない量と認められる(以下,I及びJが見た砂の量を併せて被害者の胃の中の砂の量とい う。。 ) 2 他殺といえるか ⑴ 前提事実(後掲の関係各証拠から容易に認められる。 ) ア 7月18日午後2時以降から本件時頃も,本件海岸付近の海の状況は,小波 が立つ程度でそれほど波は荒れていなかった。 【Kの公判供述】 イ 本件当時,被害者は,水着の上から長袖・長ズボンのラッシュガードを着用 し,両手には,手掌部から指先部分にかけてゴムで覆われた手袋を装着していたほか,マリンシューズを履いていた。 【甲107等】 ウ 解剖時,被害者の身体には,心臓マッサージや点滴等の治療行為によるもの を除けば,右膝蓋部に米粒大表皮剥脱,右膝蓋部に円弧状の表皮剥脱(1.8cm×0.1cm) ,左上腕部に2か所の米粒大の表皮剥脱,左上腕部にL字型の暗赤色皮膚変色(7cm×3cm)左前腕部に小指頭面大の暗赤色皮膚変色及び背部の皮, 膚と筋肉をめくった下の位置に2か所の右背部筋肉小出血(1cm×1cmのものと3cm×2cmのもの)の身体損傷があったが,顔面,口及び顎付近に損傷はなかった。また,解剖時,胃,肺,気管,鼻腔内等体内に砂は認められなかった。【医 師Mの公判供述,弁46】 ⑵ Mの供述について Mは,被害者の解剖をしたが,死因となるような損傷,病変はなく,薬物は検出されたが搬送先の病院で投与されたものと考えられ,死因は低酸素脳症で,その原因は溺水の吸引であり,解剖所見からは自他殺の区別はできないが,溺水時に被害者の胃内に砂が入っていて肺や気管に砂がないことなどからすると,意識のある状態において海底近くに顔がある状態で砂混じりの海水を胃に嚥下したことが考えられる旨供述する。 Mは,豊富な解剖経験を有し,法医学者としての能力に問題はなく,公正さに疑問もない。解剖所見に基づく死因に関する供述は,救急搬送時の検査を含む諸検査の結果を踏まえ多角的に検討されており信用できる。そして,Mは,被害者の胃内 に砂が入っていて肺や気管に砂がないことについて,意識のある状態では,異物である海水が気管に入らないように,喉頭蓋が作用して気管にふたをするため肺や気管には砂が入らないが,砂混じりの海水を飲み込めば胃には砂が入る旨,具体的かつ合理的に説明し,津波のように常に海中に砂が舞っているような状況であれば海底付近でなくても砂混じりの海水を嚥下する可能性はあるが,本件当時の海の状況はそれほど荒れておらずその可能性はなく,仮に意識を失って砂が胃内に入るのであれば,喉頭蓋が作用しないから,肺などにも砂が入るはずであるなど多角的かつ合理的に検討しており,その供述は信用できる。Mは,被害者の胃の中に約36.5グラムの砂があったことを前提にするが,医師が吸引等により砂だと分かる程度に砂が引けていること自体が特徴的である旨も供述しており,前記の被害者の胃の中の砂の量を前提としても,その結論が変わるものでもない。 ⑶ 証人Nの供述について Nは,津波等の特殊な状況でない限り,多量の砂が溺水者の胃から排出されることはないが,本件は津波等の特異な状況になく,被害者の胃内から,約37グラムの多量の砂があったことは,意識があったときに海底に顔が近い状態で海水と一緒に砂を飲み込んだことを意味し,背後から馬乗りなどの体勢で襲われるなどし,意識がある状態で被害者の顔が砂地の海底と向き合った状態で,呼吸を我慢できなくなった被害者が約400ccの海水を一回吸引することは可能で,その海水量に約37グラムの砂が含まれて一緒に飲み込むことも,固体含有率や流動性の高さなどから可能である旨供述する。 Nは,水難学(水難救助活動に関わる学問)及び材料工学の専門家として豊富な経験を有しており,能力や公正さ等に問題はない。Nは,呼吸の我慢の限度を超えた場合,水中では一度大きく呼気し,その時吸引した水は自然と胃に向かい,通常水を飲むのとは異なり,胃に向かって一気に水が落ちるように感じる等,自身の経験に基づく自然な供述をしているし,胃内からのみ砂が排出された説明として合理的で,十分信用できる。Nが前提とする砂の量よりも,証拠上認められる被害者の 胃の中の砂の量は少ないが,その差は小さく,供述の趣旨を左右するようなものでもない。 ⑷ 医師Oの供述について ア Oは,Nらが供述するように砂混じりの海水を飲み込む方法で約37グラム の砂が胃に入るためには,約2リットルの海水を嚥下する必要があり,そのような量の水を飲むのは不可能である旨指摘する。しかし,Oは,砂と海水を入れた水槽を一定の高さで攪拌してホースで砂を吸引し,吸引できた海水と砂の量を計測した警察官による実験結果を前提としているが,ホースによる吸引と人の口による吸引は吸引時間や吸引量等の条件が同じとはいえず,この実験を前提に約2リットルの海水を嚥下する必要があると考えることはできないし,Nは,400ccの海水を一回で嚥下するとの前提で供述しており,前提事実も異なっている。イ Oは,一回の嚥下量は口腔内の容量である60ml程度であって,Nの前提 とする400ccの海水を一回で嚥下することはできない旨も供述するが,海中で呼吸を我慢できなくなって口を開ければ海水が入ってくる状態であれば,口腔内の容量以上に多量の海水を一回で嚥下することは何ら不自然ではない。ウ Oは,嚥下反射の仕組みにより,何度も嚥下していれば,陰圧により鼻から 海水が入るため,砂混じりの海水を飲むような状態であれば,鼻腔内にも砂があるはずである旨供述するものの,O自身,1,2回程度の嚥下であれば,鼻腔内に空気が残っていて鼻から海水が入るとは限らない旨供述している。 エ また,Oは,嚥下反射の仕組みにより,一度海水を嚥下すると喉頭蓋がすぐ に開くので,気管や肺にも砂混じりの海水を吸引するはずであり,Nの見解は,被害者の気管や肺から砂が検出されなかったことと矛盾する旨指摘する。しかし,M及びNが供述する喉頭蓋の作用により気管や肺から砂が検出されなかったことの説明は十分説得的であるし,Iも説明可能である旨具体的に述べている。そして,Oのこの指摘は,喉頭蓋付近に海水という異物がまだ残っている状態でも,一度嚥下するとすぐに喉頭蓋が開くというものであるが,陸上において連続的に相当多量の 液体を複数回の嚥下により飲み込む場合(いわゆる一気飲み)を想定しても,経験則上,気管や肺に液体が入ることなく胃に液体を飲み込むことはでき,一度嚥下すればすぐに喉頭蓋が開くともいえない。 オ 以上のとおり,Oの供述は,M及びNの前記各供述の信用性に疑いを生じさ せるものではない。 ⑸ 検討 M及びNの各供述等を前提にすると,他殺の方法として,何らかの方法により被害者の身体を押さえ付け,被害者の顔が砂のある海底近くに位置するようにすることが考えられるところ,本件において,どのような条件であれば他殺が可能かについて検討する。 まず,水深について,Nは60±40cm(20cmないし1m)が想定される旨供述する。もっとも,水深20cmちょうど程度だと,被害者の顔面に傷がないこととあまり整合的ではないし,体をそらせて顔を上げたり,腕を海底に付けたりして比較的容易に海面に顔を出すことができるとも考えられ,概ね40cm程度の水深はある方が自然に他殺を行うことができると考えられる。他方,被害者の顔面を海面下に入れ続けるには,何らかの方法で被害者の身体を上から押さえ付けることになると考えられるが,体重をかけて海底近くに被害者の顔が来るように押さえ付けるためには,犯人の身体が水面から十分出ている必要があり,水深1mでも不可能ではないが水深80cm程度以内と考える方が自然に他殺を行うことができる。次に,砂混じりの海水を飲み込んだ時の被害者の口の海底からの高さについて検討する。この点,Nは,粒子の水中での沈降速度に関するストークスの法則(例えば直径1mmの粒子であれば沈降速度は秒速10cm等)に基づき,砂は水中で舞い上がってもすぐに沈むと指摘し,被害者の顔面が砂地から10cm程度まで近づいた状態において,呼吸が我慢できなくなった被害者が海中で400ccの海水を飲み込んだときに,約37グラムの砂が含まれる状況が考えられる旨供述する。このNの供述は専門的知見に基づく合理的なものであり,その内容も自然であって, 信用できる。そして,通常,海中で身体を押さえ付けられた被害者は腕を動かすなどして抵抗し,海底の砂が舞い上げられ,砂混じりの海水を飲み込むことが容易に想定できるので,被害者の胃の中の砂の量に相当する砂を飲み込むためには,被害者の口が海底の砂地に直接触れる必要はない一方,砂の粒子の大きさにもよるが,海底から離れるに従い舞い上がる砂の量は一般に減少することも踏まえると,被害者の胃の中の砂の量を含んだ海水を飲み込んだ際の被害者の口の高さは,海底から10cmから20cm程度までであれば,被害者の顔面等にけががないことと整合しつつ,被害者の胃の中の砂の量を飲み込むことができると想定される。以上の水深に関する条件に加え,押さえ付けられた被害者の身体が水平に近い状態になることが可能な程度の広さがあり,その海底に被害者の胃の中から排出されたような砂と同様の砂がある場所であることも,被害者の状況と符合する他殺を行うためには必要となる。 なお,弁護人は,他殺であれば,押さえ付けられた際の圧迫痕や防御創が生じるはずであり,圧迫痕や防御創と断定できるような損傷が被害者になく,他殺だとすると不自然である旨主張するが,身体を押さえ付けられたとしても,必ず圧迫痕や防御創が生じるとは限らないし,海にうつぶせで浮いている人の身体を水面下に押さえ付けて殺害する場合,人の身体が浮かんでこないように海中に沈める程度の力を加えれば足りるから, 圧迫痕や防御創とみられる損傷がなくても不自然ではなく, 弁護人の主張は採用しない。 3 事故(病気が遠因のものを含む)の可能性について Oは,被害者がシュノーケリングで潜水中に,岩場にたまっているなどしていた被害者の胃の中の砂の量に相当する一塊の砂をシュノーケルの先端ですくい取って誤飲し,一塊の砂により気道閉塞を起こしたことによる事故の可能性がある旨指摘し,弁護人も同様に主張する。しかし,それだけ多量の砂が一塊となって海中にあること自体不自然だし,シュノーケルの形状や通常の使用方法に照らせば,一塊の砂を事故ですくい取ることも想定しがたい。仮にすくい取れたとしても,シュノー ケルの管は直線ではなく口元でカーブを描いている上,シュノーケルのマウスピース部分の管の直径は先端部分より狭いことからすると,バラバラにならずに気道を閉塞するような一塊の砂が,管に詰まらず口に入るとは考えられないなど,不自然というほかない。 また,弁護人は,被害者が,本件当日体調不良であって,例えば低体温症であった可能性等を指摘し,それによる事故の可能性を指摘するが,M及びNの供述を踏まえると,病気等により意識を失って溺水した場合であれば,海面近くに浮くなどして,砂を飲み込むような状態にならないし,仮に意識を失ってから体内に砂が入った場合には,意識がないため喉頭蓋が作用せず,肺や気管にも砂が入ることになるため,胃内にのみ砂があった事実と矛盾する。また,被害者に持病等はなく,Mの解剖所見によれば,てんかん等の病気の発症も認められず,7月18日にH病院に搬送された際の被害者の血液検査等の結果を踏まえれば,薬物等の作用により意識を失って溺水した可能性もない。 よって,被害者が,事故(病気が遠因の場合を含む)により溺れたとは考えられない。 4 自殺の可能性について 前記のとおり,被害者の胃内からのみ砂が見つかったことから,被害者が意識のある状態で砂を飲んだことになるが,自殺だと仮定すると,被害者は海中で砂を自ら巻き上げながら海底に顔を近づけて砂混じりの海水を飲んだことになり,自殺の方法として不自然極まりない。被害者は7月初旬に実家に戻って生活していたところ,被害者の様子に関する被害者の両親の供述をみても,被害者は留学するなどの夢を語るなどしており,被害者に自殺する動機があったこともうかがわれない。5 他殺が可能な場所は存在するか 本件海岸付近の南側岩場の水深を測定した捜査報告書(甲95)によれば,例えば,鉄パイプで組まれた足場の支柱番号⑤⑥⑩⑨を結んだ四角形部分(甲95の写真番号23,24,45,46付近)をみると,支柱番号⑤と⑨の間(四角形の東 側)の本件当時の水深は,約67ないし69cm,支柱番号⑨から⑩までの2.5ⅿの辺を50cmごとに区切って4等分した(AないしDの符号が振られている)水深のうち,A地点からD地点の水深はそれぞれ約71cm,約73cm,約76cm,約85cm,支柱番号⑤から⑥までの同様のA地点からC地点の水深はそれぞれ約78cm,約84cm,約86cm,支柱番号⑤⑥⑩⑨を結んだ四角形の中心(⑤-E地点)の水深は約82cmであることが認められ,この四角形の東側の大部分は,前記2で検討した方法により他殺を行うことが自然にできる水深と概ねいえる。そして,その四角形内の中央付近より西側海底には砂が堆積している状態が写真からもうかがわれるほか(甲95写真番号24,46),これに近い辺りで採取したとみられる砂の形状(甲96における④の箇所の砂)をみると,小石も多いが,粒子の細かい砂もそれなりに含まれており,被害者が抵抗した際に粒子の細かい砂が被害者の口付近まで舞い上がることも十分想定できる。 そして,本件海岸付近は,段差のあるごつごつした岩場が多いが,この四角形の一辺の長さは2.5mで,この四角形の東側の大部分の底は,比較的平らで段差のほぼない岩が広がっており,被害者の身長が161cmであること(弁46)からすると,被害者の身体が水平になる十分な広さもあり,被害者が長袖・長ズボンのラッシュガード,手袋及びマリンシューズを着用していたこと,前記のとおり,海底付近に顔がある状態で砂混じりの海水を飲む際に,海底から10ないし20cm程度の高さに被害者の口がある状態であれば他殺が可能であることを踏まえると,被害者の顔面等の身体や着衣等に明らかな損傷がないことが十分考えられるだけの海底の状況といえる。 なお, この四角形の西側部分は比較的高さのある岩であり (支 柱番号⑥から⑩の間の当時の水深は0ないし13cm),本件海岸付近の西側にあるP海水浴場(以下本件海水浴場という。)側から見えにくい場所でもある。よって,本件海岸付近には,他殺が可能な場所が存在する。 この点,弁護人は,被害者のシュノーケルや網の発見場所が本件事象の発生現場とみるのが自然である旨主張するが,犯人が溺死に見せかけるため水深の深い場所 にこれらを移動させた可能性もあるなど,シュノーケルや網の発見場所を被害者が溺水した場所といえるわけではない。 6 小括 以上より,本件は,被害者が他殺されたと考えるほかには合理的に説明できず,検察官主張の被害者死亡に至る経緯の不自然さを検討するまでもなく,殺人事件であると認められる。 第3 被告人が犯人か 1 前提事実(後掲の関係各証拠から容易に認められる。) ⑴ Qは,7月18日,友人3人と一緒に,本件海岸付近の岩場西側付近の海で シュノーケリングをして,同日午後4時30分頃に4人で海から上がったが,その際,本件海水浴場に監視員がいる以外は被告人及び被害者しか人はいなかった。本件海岸付近の岩場よりやや西側に置いていた荷物を取って,本件海水浴場の砂浜を通り,上にある駐車場に向かう階段を上がったところにあるシャワーを使って感覚で合計15分間くらいかけて器具等の砂を4人で順番に洗い流していたところ,4人中3番目か4番目にQがシャワーを使っていた際,被告人が砂浜から階段を上がってその横を通った。Qがシャワーを終えて駐車場に停めた車近くで荷物を片付けていたとき,被告人は砂浜へ向かう坂道を降りていった(Qの公判供述)。⑵ Kは,本件海水浴場の監視員として一人で勤務していたが,同日午後4時4 8分頃,本件海水浴場の砂浜中央南寄りに設置された監視員用のテント付近にいた際,被告人から時間を尋ねられた。それほど経たない同日午後4時50分頃,本件海岸付近の方から助けを呼ぶ声が聞こえたので,見通しの悪い本件海岸付近へ駆け寄ると,被告人が,本件海岸付近の海で手を挙げるなどしているのを見た。Kは,溺れた人がいると思って他に救助を手伝ってくれそうな人がいないか探すため,監視員用のテント付近まで戻ったが,誰も見当たらず,同日午後4時52分に119番通報をして,本件海岸付近へ救助のために戻り,被告人とともに被害者を海から引き揚げ,心臓マッサージを行った(Kの公判供述)。 消防隊員のRらは,水難指令に基づき,同日午後5時1分頃,本件の現場付近に到着し,同日午後5時5分頃,救急隊とともに被害者と接触し,その後被害者の救命活動を行うと,同日午後5時17分頃に被害者の心臓が動いている波形が出た(Rの公判供述)。 2 被告人以外の第三者がいたか 7月18日午後4時50分頃には,被害者が溺れたと助けを求めている被告人をKが目撃していることから, それ以前には犯行が行われていたと認められる。 一方, Qらが海から上がったのが同日午後4時30分頃で,Qらが本件海岸付近のすぐ近くにいるうちに犯人が犯行に及ぶとは考えにくいことや,被害者が海から引き揚げられたとみられる時間や消防隊員らが被害者の救命活動を始めた時間と,被害者の心臓がいったんは動いている波形になっており,個人差はあるが通常30分以上息が止まれば心拍が再開するのは期待できないとされていること(M等)を合わせ考慮すると,同日午後4時30分頃以降に,犯行が行われたと考えるのが合理的である。そうすると,犯行時間は同日午後4時30分頃から同日午後4時50分頃までの間であると認められ,Q供述やK供述によれば,その間,被害者が発見された本件海岸付近に,被告人以外の人はいなかったと考えられ,被告人以外の第三者による犯行である可能性は考えられない。 3 時間的にみて被告人に犯行が可能か Oは,息ができない状況から意識を失うまで5分程度かかる前提で,被害者が抵抗して顔を水面から出して呼吸したり,意識を失ってからも反射的な呼吸や再呼吸を恐れて犯人がその場から離れることはできないから,犯行には10分以上かかる旨述べ,これを踏まえて弁護人は被告人に犯行を行う時間はなかった旨主張する。しかし,M及びNの供述によれば,一般的に海中に沈んで息ができない状態になってから意識が失われるまで3分程度であることからすると,せいぜい5分程度の時間があれば本件犯行は可能である。Oの供述は,背後から不意に襲われて海中に押さえ付けられた場合ほとんど抵抗できないと考えられるのに抵抗できることを前 提としているし,犯人は相手が意識を失えばもう動くことはないと考えるのが通常なのに再呼吸を恐れて犯人がその場から離れることができないと想定しており,不合理であって採用できない。 そして,上記のとおり,被告人は,7月18日午後4時30分頃から同日午後4時50分頃までの間に,Qがシャワーを使っている際にその横を通っていて本件海岸付近から離れているが,シャワーを使っていたQの感覚での時間等からすると,Qらがシャワーを使い始めてから7分ないし10分後以降くらいに被告人がQらの横を通ったと考えられることからすれば,本件海岸付近の岩場辺りから,上にある駐車場に向かう階段の登り口付近まで約66ないし67mと一定距離があること(弁14)を考慮しても,被告人には,Qがシャワーを使っている横を通るまでの間に,本件犯行が可能な時間があったと認められる。 第4 結論 よって,本件は殺人事件であり,被害者が溺水した際,その付近に被告人以外の第三者はおらず,時間的にも被告人に犯行が可能であるから,被告人が被害者を殺害した犯人であると認められる。 (確定裁判) 1 事実 平成30年8月9日 懲役2年6月 2 和歌山地方裁判所宣告 建造物侵入,窃盗,窃盗未遂の罪 4年間執行猶予(平成30年8月24日確定) 証拠 【略】 (法令の適用) 罰刑条種の選 刑法199条 択 有期懲役刑を選択 併合罪の処理 刑法45条後段,50条 未決勾留日数の算入 刑法21条 訴訟費用の不負担 刑事訴訟法181条1項ただし書 (量刑の理由) 被告人は,妻である被害者に自身の不倫や不倫相手の妊娠が発覚した後,被害者とその両親には,不倫相手との交際を解消して中絶もさせる旨約束する一方,不倫相手や自身の家族には,被害者と離婚して不倫相手と結婚する旨の両立不可能な約束をする中,その約束の期限がいくつも迫り,被害者を殺害して両者との関係を清算しようとしたものと認められる(検察官は不倫相手との結婚を推し進めようとして被害者が障害になった旨主張するが,妊娠発覚後本件までの間で不倫相手の知らないうちに,中絶薬を入手したり養子縁組について検索したりしていることなどから採用しない。。 )それだけでなく, 被告人は, 既に複数の保険契約をしていたのに, 不更に被害者を被保険者とする別の死亡保険契約を締結したほか,本件前日夕方に保険金(災害死亡保険金)が支払われない旨のタイトルのインターネット上のページを見たことなどからすれば,被害者の死亡保険金を得ようとする目的もあったと認められる。こうした犯行の動機・経緯は甚だ身勝手でかなり強い非難に値する。被告人が被害者を海に誘い,犯行前日に溺死に見せかける等殺害に関する検索をしているなど計画性も明らかである。また,海中に身体を押さえ付けるというおよそ抵抗ができない方法で,意識のある被害者を溺水させた殺害方法は残酷であり,犯行後被害者をしばらく放置するなど事故死を装ったとみられる点も悪質である。 そうすると,男女関係(DVを除く)を動機とする殺人1件で,主要な罪が併合されていない事案の中で,無期懲役に値するとまでは言えないが,有期懲役を選択した場合の法定刑の上限付近の部類の事件といえる。 以上に加え,被告人の言葉を信用していたのに娘である被害者の命を奪われる結果となった被害者の両親が厳罰を希望するのはあまりに当然であるし,被告人は最終陳述等において犯行を否認しており反省の態度もみられない。 よって,前記確定裁判が併合審理されていた場合との刑の均衡等を考慮し,主文 の刑を量定する。 (検察官の求刑-懲役20年) 令和3年3月23日 和歌山地方裁判所刑事部 裁判長裁判官 武田 裁判官 小坂茂之 裁判官 橋本康平正 |