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殺人
事件番号令和2(う)201
事件名殺人
裁判年月日令和3年2月2日
裁判所名・部東京高等裁判所  第11刑事部
結果棄却
原審裁判所名東京地方裁判所
原審事件番号令和1合(わ)168
裁判日:西暦2021-02-02
情報公開日2021-02-22 16:00:35
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令和3年2月2日宣告

東京高等裁判所第11刑事部判決

令和2年(う)第201号

殺人被告事件
主文
本件控訴を棄却する
理1由
本件事案と控訴の趣意(略称は原判決に従う。)
本件は,被告人が,令和元年6月1日午後3時15分頃,被告人方において,長男である被害者(当時44歳)に対し,殺意をもって,その頸部等を包丁(刃体の長さ約17.5センチメートル。)で多数回突き刺し,よって,同人を頸部の刺切創による右総頸動脈離断及び右内頸静脈損傷による失血により死亡させて殺害したという事案である。本件控訴の趣意は,主任弁護人A,弁護人B,同C,同D,同E,同F,同G,同H,同I,同J及び同K共同作成名義の控訴趣意書並びに主任弁護人A作成名義の控訴趣意補充書各記載のとおりであり,論旨は,理由齟齬及び量刑不当(量刑事情に関する事実誤認を含む。)の主張であり,加えて,法令適用の誤りについて当裁判所に職権調査・判断を求める,というものである。
2
理由齟齬の主張について
所論は,原判決は,証拠の標目の項に掲げた被告人の原審供述の
一部の信用性を否定して事実誤認を犯し,その結果として,様々な前提事実の誤認,評価の誤りを犯し,ひいては理由齟齬の違法を犯していると主張する。
しかし,所論は,要するに,所論が適正に認定すべきであるとする量刑事情に関する事実との関係で,原判決が,被告人の原審供述の一部の信用性を否定した誤りにより,事実誤認を犯していると主張するにとどまり,原判決の理由自体にくいちがいのあることを具体的に指摘するものとはいえないから,刑事訴訟法378条所定の事実の援用を欠く,不適法なもの
である。
理由齟齬の論旨は理由がない。
3
量刑事情に関する事実誤認及び量刑不当の主張について
原判決の量刑判断
原判決は,量刑の理由の項において,次のとおり説示して,被告人を懲役6年に処した。
被告人は,当公判廷において,本件犯行の6日前に初めて被害者から暴行を受けて恐怖を感じていたところ,本件当日,被害者が,和室とリビングの間付近で,前記暴行の際と同様の表情で「殺すぞ。」と言ってきたため,本当に殺されると直感し,恐怖のため,反射的に台所に行って包丁を取り,元の場所に戻り,立ったまま被害者ともみ合いになる中で何度も刺した,その後,倒れた被害者が動いたので胸,首を刺したら動かなくなった旨供述する。これについて,被害者の何らかの言動が本件犯行のきっかけになった可能性は否定できないが,専ら恐怖心で台所まで移動して被害者から距離を取った被告人が,あえて恐怖の対象である被害者のもとに戻る理由がない上,被害者及び被告人の負傷状況や両者の体格差等に鑑みれば,被告人が,被害者に前から向かって行き,もみ合いになる中で,被害者の抵抗を押し切った上で本件犯行を遂げるのは相当困難であると考えられる。そうすると,被告人の前記供述は信用性に乏しいというほかなく,客観的な事実関係に照らすと,被告人は,被害者の抵抗を受ける前に,ほぼ一方的に攻撃を加えたものと認められる。また,弁護人は,心中をほのめかす手紙については,服用していた抗不安薬の影響下で作成した可能性があり,インターネットの検索履歴については,被害者が,本件犯行の数日前に発生した川崎の殺傷事件のような事件を起こした場合を想定して検索した可能性がある旨主張する。しかし,手紙の内容からして抗不安薬の影響を受けているとは考え難い上,被告人自身が,川崎の殺傷事件から被
害者が同様の事件を起こす場面を想像することはなかった旨供述していることからすれば,かかる主張は採用できない。
そこで,本件態様を見ると,被害者の負傷箇所が30か所以上に上り,深さ10センチメートルを超える傷も複数存在することからすれば,本件犯行は強固な殺意に基づく危険な行為であったと認められる。被害者の死亡という結果が重大であることはいうまでもない。そして,被告人は,本件犯行の約1週間前から被害者と同居を開始したものの,その翌日に被害者から暴行を受けたことにより,今後被害者を殺すこともあり得るなどと考えるようになり,心中をほのめかす手紙を書いて妻に渡し,インターネットで殺人罪の量刑を検索する一方,被害者宅のごみを片付け再び別居する準備もしつつ生活する中で,被害者の言動など何らかのきっかけで被害者の殺害を決意している。このように,被告人は,主治医や警察に相談することが可能で,現実的な対処方法があったのに,これらをすることなく,同居して僅か1週間ほどで,被害者の殺害を決意してこれを実行しており,本件犯行に至る経緯には短絡的な面があるといわざるを得ない。
しかし,被告人が,長年にわたり,被害者と別居しながらも,月に1回程度,主治医に被害者の状況を伝え,被害者宅に処方薬を届け,溜まったごみを片付けるなど,適度な距離感を保ちつつ,安定した関係を築く努力をしてきた中で,意図せず被害者と同居を始めることになった上,その翌日には初めて被害者から暴行を受けて恐怖を感じ,被害者への対応に不安を感じる状況になるといった事情が本件犯行の意思決定の背景にあることは否定できず,この点は,被告人の意思決定に対する非難の程度を考えるに当たり,相応にしん酌すべきである。
そうすると,本件犯行は,同種事案(殺人,単独犯,処断罪と同一又は同種の罪1件,被告人から見た被害者の立場が子,前科等全てなし)の量刑傾向の中では,執行猶予を付すべき事案ではないが,実刑の重い部類に
属するものとはいえない。
その上で,被告人が自首したこと等を踏まえると,被告人を主文の刑に処するのが相当である。
所論と当裁判所の判断
原判決の量刑判断(量刑事情の認定を含む。)について,所論は,犯行態様,殺意の形成及び犯行に至る経緯の認定ないし評価に誤りがあるなどとして,量刑事情に関する事実誤認があり,また,原判決の量刑は重過ぎると主張する。そこで,以下,所論を踏まえながら,原判決の判断の相当性について検討する。

被告人の原審供述について
所論は,原判決が,量刑の理由の項において,

被害者が,和室とリビングの間付近で,6日前の暴行の際と同様の表情で「殺すぞ。

と言ってきたため,本当に殺されると直感し,恐怖のため,反射的に台所に行って包丁を取り,元の場所に戻り,立ったまま被害者ともみ合いになる中で何度も刺した」旨の被告人の原審供述について,①専ら恐怖心で台所まで移動して被害者から距離を取った被告人が,あえて恐怖の対象である被害者のもとに戻る理由がないこと,②被害者及び被告人の負傷状況や両者の体格差等に鑑みれば,被告人が,被害者に前から向かって行き,もみ合いになる中で,被害者の抵抗を押し切った上で本件犯行を遂げるのは相当困難であると考えられることの2点を挙げて,その信用性を否定した上,客観的な事実関係に照らすと,被告人は,被害者の抵抗を受ける前に,ほぼ一方的に攻撃を加えたものと認められるとしたのは,誤った認定であり,被告人の原審供述は,本件結果に至る被告人の行為態様を合理的に説明しており,信用できるものであるなどと主張する。
検討するに,確かに,原判決は,被告人の原審供述は信用性に乏しい旨説示している。しかしながら,この説示は,信用性が乏しいとした対象が
どの範囲なのかを明示しておらず,不明確さがあるといわざるを得ないところ,原審記録に照らして検討すると,被告人の原審供述の内容を全面的に信用できないとする趣旨でないことは明らかである。すなわち,被告人が,本件現場で,被害者から「殺すぞ。」などと言われ,台所に行って包丁を取って戻り,被害者を刺すに至ったとの経過があったことについては,特段不自然というべき部分はなく,その信用性を否定すべき証拠も見当たらない。そうすると,原判決が被告人が被害者の言動など何らかのきっかけで殺害を決意した旨説示しているのは,被告人の上記原審供述の信用性は否定できないことを前提に,証拠上確実といえる範囲での認定にとどめたものと解される。そして,原判決が問題としたのは,信用性が乏しい根拠として挙げた前記の2点や,その後にある被告人は,被害者の抵抗を受ける前に,ほぼ一方的に攻撃を加えたものと認められる旨の説示などに照らすと,犯行に至るまでの被告人の主観的側面や,犯行態様がもみ合いになる中で刺したものといえるか,などの若干評価的要素も含む部分であったと考えられる。そこで,上記の点についての原判決の判断の相当性について更に検討する。
犯行直前の行動について
犯行直前の行動については,被告人は,原審公判において,要旨,

2階からリビングに降りた際,和室入口とリビングの間付近(和室側)に立っていて,両手を肩口くらいに上げて拳を握っているポーズをしていた被害者から,6日前の暴行を思い起こさせるような形相で,「殺すぞ。

と,強い口調で言われ,殺されると直感的に思い,即座に殺されるという恐怖を感じ,無意識的,反射的に台所へ包丁を取りに行き,台所で包丁を手に取り,すぐ小走りで被害者に向かった。」

(包丁を取りに行って戻った際)被害者が台所に追い掛けてくることはなく,自分が被害者に近付いて行った。

被害者の手の位置や体勢はほとんど変わっておらず,そのまま被害者の胸辺りに包丁を刺しに行き,まず胸の辺りを刺し,次に首の辺りを刺した。

(令和元年5月)26日の暴行のときも,逃げても逃げても追い掛けられて殺されかけたから,そのときに逃げるという選択肢はなかったと思う。

被害者になぜ怒っているのか,どうしたなどと聞くことはなく,もう殺されるというふうにしか思わなかった。

などと供述している(原審記録166丁の139~142,168~169)。原判決は,被告人の上記原審供述を,被告人が専ら恐怖心で台所まで移動して被害者から距離を取ったと述べているものと整理して,その後の行動に照らして信用性が乏しいとしているところ,所論は,台所から被告人宅の外部へ脱出することはできないから,被告人が被害者から距離を取る又は逃げるために台所へ行くことはあり得ないことであり,専ら恐怖心から台所へ移動したわけでも,被害者から距離を取ろうとして逃げるために台所へ行ったわけでもない,そして,被告人には,被害者のもとに戻ったとき,逃げるという選択肢はなく,被害者を刺して抵抗するしかなかった旨主張する。
検討するに,先に引用した被告人の原審供述によれば,被告人は,恐怖心を感じて台所に包丁を取りに行っていることが認められ,この点について被告人の原審供述の信用性を疑うべき事情はない。もっとも,その後の行動も含めて考えると,被告人の行動が終始専ら恐怖心からのものであったかは問題となり得るところであり,この点は原判決も問題意識を持ったと解されるとともに,所論が,被告人は恐怖心から被害者から距離を取ろうとして台所へ行ったのではなく,被告人が被害者のもとに戻ったときには被害者を刺して抵抗するしかなかったというのは,被告人には恐怖心にとどまらない心理があり,正当防衛状況ないしその誤想を前提とした防衛の意思も有していたと主張するものと解される。しかし,仮に被告人が供述するとおりの状況で被害者が殺すぞと言ったことがあったとして
も,本件当時の被害者の動きを見ても,一定の間隔が空いた位置に立って,素手で前記の姿勢を取っていたにすぎず,それ以上に被告人の行く手を阻んだり,追い掛けたり,攻撃を加えたりするような動きは見せていなかったというのであるから,被告人と被害者の体格差や,6日前に被害者が被告人に対し苛烈な暴力を振るったことがあったことを考慮しても,本件当時,被告人が被害者から危害を受ける現実的な危険性が差し迫っていたとはいえず,そのように誤解する状況にあったともいえない。
原判決が指摘するように,その後被害者のもとに戻るなどしていることからすれば,被告人の心理は,恐怖心により被害者から単に逃れたいというだけにはとどまらないものがあったことがうかがわれるものの,他方で,その際に正当防衛状況又はその誤解に基づく防衛の意思があったとはいえない。原判決の説示もこのような判断を前提としているものと解され,誤りがあるとはいえない。
被告人が被害者を包丁で刺した際の状況について
被告人が被害者を包丁で刺した際の状況については,原判決は,被告人の原審供述を,(台所から被害者のいた場所に戻り,)立ったまま被害者ともみ合いになる中で何度も刺した,その後,倒れた被害者が動いたので胸,首を刺したら動かなくなった,と要約した上で,被害者及び被告人の負傷状況や両者の体格差等に鑑みれば,被告人が,被害者に前から向かって行き,もみ合いになる中で,被害者の抵抗を押し切った上で本件犯行を遂げるのは相当困難であると考えられるとして,被告人の供述は信用性に乏しく,被告人は,被害者の抵抗を受ける前に,ほぼ一方的に攻撃を加えたものと認められる,と認定した。
所論は,被告人の原審供述は,本件結果に至る被告人の行為態様を合理的に説明しており,信用できると主張する。
検討するに,確かに,被告人と被害者の負傷状況や両者の体格差等の
客観的事情に鑑みれば,被告人が,被害者に前から向かって行き,もみ合いになる中で,被害者の抵抗を押し切った上で本件犯行を遂げるのは困難であるとした原判決の説示は首肯できるものである。そして,被告人には手の切り傷を除いて特段の負傷はないのに対し,被害者には致命傷を含め,首や胸といった身体の枢要部に多数の創があり,深手になったものも複数あるという被告人と被害者の負傷状況からは,被告人の攻撃が優勢であったことは明らかである。
もっとも,被告人の原審供述は,立った状態の被害者に正面から胸や首付近を刺す攻撃を加え,その時点で被害者からもつかみ掛かられるなどしたというものであるところ,被害者が被告人の方を向いて見ているのに対して,被告人が前から向かって行ったと述べるものでは必ずしもない。このようなことからすると,原判決の説示は,被告人の原審供述が,被告人の方を見て被告人の行動を認識している被害者に対して被告人が前から向かって行き,もみ合いになる中で,被害者の抵抗を押し切った形で本件犯行を遂げたという趣旨であるならばそれは困難であるというものであり,言い換えるならば,被告人が被害者と対等な状況で戦ったというのであればそれは不自然であるということを指摘することに重点があり,いずれかの時点で被害者から抵抗されるなどしてもみ合いともいえる状況が生じたことをおよそ否定するものではないと解される。そして,いずれかの時点において被害者ともみ合いともいえる状況が生じたとしても,原審における客観的証拠によれば,被告人が,被害者による有効な抵抗に遭うより前に,ほぼ一方的に攻撃を加え,その後も一定の抵抗を受けたとしても,被告人が優位に攻撃を継続したと認められる。原判決は,結論として被告人は,被害者の抵抗を受ける前に,ほぼ一方的に攻撃を加えたものと認められるとしているのであって,この判断に誤りがあるとはいえない。小括

以上によれば,原判決は,被告人の原審供述全般の信用性を否定したものではなく,また,信用性が乏しいとした点については,客観的証拠に基づいて確実といえる事実を認定した反面,これに関する被告人の原審供述を認定の基礎とはしなかったものであり,被告人があえて虚偽の事実を述べている旨説示した趣旨ではないと解される。このような観点から,原判決が,結論として被告人は,被害者の抵抗を受ける前に,ほぼ一方的に攻撃を加えたものと認められると認定したことに誤りはなく,また,このような本件犯行態様及び被害者の受傷状況も踏まえて,本件犯行は強固な殺意に基づく危険な行為であったと認められるとしたことにも誤りはない。
なお,所論は,ほぼ一方的な攻撃は,被害者がどのような状
態にあるときに行われたものなのか明らかにされるべきであると主張するが,証拠上これ以上特定し得ないのはやむを得ないところであり,原判決は,その範囲内で適切な評価を行っているものといえるから,理由がない。イ
殺意の形成について
所論は,原判決が,手紙とインターネットの検索履歴に関する原審弁護人の主張を排斥し,これらを被告人の殺意形成に関連付けているのは誤りであるとして,次のとおり主張する。
①手紙については,被告人は,手紙に関する記憶がない旨述べているところ,原判決は,原審弁護人による服用していた抗不安薬の影響をいう主張に対して,手紙の内容からして抗不安薬の影響を受けているとは考え難いと説示した。しかし,被告人は,被害者による先行傷害事件(本件の6日前に被害者から暴行を受け,負傷した事件)によって,甚大な肉体的・精神的苦痛を被り,急性ストレス反応を発症した可能性が高く,また,先行傷害事件の翌日から本件当日まで,精神的負担を和らげるため,毎朝0.5ミリグラムの抗不安薬(デパス)を半錠服用して
おり,服用量は限られたものであるものの,薬剤の効果には個人差があり,高齢で,糖尿病を患い,睡眠導入剤を常用している被告人にデパスの副作用である健忘等が生じた可能性は否定できない,したがって,被告人は,急性ストレス反応による解離とデパスの副作用が相まって,その影響下で手紙を書き,その記憶も失っていると考えられ,手紙の内容は被告人の殺意形成とは無関係であるなどと主張する。
②インターネットの検索履歴については,(i)原判決が,被告人自身が,川崎の殺傷事件から被害者が同様の事件を起こす場面を想像することはなかった旨供述していると説示して,被害者が事件を起こした場合を想定した検索であることを否定している点は,被告人は,川崎の殺傷事件を契機に被害者から自分自身が殺害されるとの連想はしなかったと述べるだけで,被害者が第三者を襲うという連想をしたか否かについては述べていないのであるから,誤りである,(ii)検索に用いたパソコンは,被害者が常時在室していた1階和室内にあったから,被告人が検索に使用できたのは,被害者が入浴その他で不在にする,ごく限られた時間内であったと推測され,被害者が第三者を殺害したことを前提とする検索を行うことは,父親としての懸念の表れとして自然な面がある一方,被害者がいつ戻ってくるか分からない不確定な状況下で,自分が被害者を殺害する前提で,自己の殺人に関する検索を行うのは,相当に異常なことといえるから,そのような推認をすることは許されない,などと主張する。
そこで検討するに,まず,所論のうち,被告人の精神状態について,刑事訴訟法382条の2のやむを得ない事由も必要性も認められないとして事実取調べ請求を却下した証拠(当審弁8,11,12)に依拠して主張する部分は,前提を欠いている。
そして,被告人の手紙は,これしか他に方法はないと思いますと
して,自殺をほのめかすとともに,被害者の散骨や葬儀に触れているもの
であるから,内容としては,自らが被害者を殺害する可能性を前提とした記載であり,被告人がそれ以前に被害者から暴行を受けたことによるストレスや,原審L証人が述べるようなデパス服用による一定の脱抑制等が,仮に残存していたとしても,被告人が手紙を書いた当時,現実のものとしてどの程度具体的に検討していたかはともかく,被害者の殺害を想定ないし念頭に置いていたことは明らかである。また,被告人は,この手紙を,その後,本件当日までの間に,自殺しようと思ったことがある旨妻から言われた際,それに対応して,自分もその手紙を書いたことがある旨言って,これを妻に示し,手紙に関して妻と会話をしているというのであるから(原審記録166丁の25~28,132~136),自身が書いた手紙の存在及びその内容について,少なくともその会話の当時は一定の記憶を保持していたことも認められる。原判決は,手紙の内容からして抗不安薬の影響を受けているとは考え難いとしているところ,抗不安薬等の影響が全くなかったとまでいえるかは定かではないとしても,少なくとも手紙を書いた当時,被害者を殺すこともあり得るなどと考えるようになっていたことは認められるから,原判決の上記説示に誤りがあるとはいえない。また,インターネットの検索履歴については,原判決は,被告人の殺意形成の過程で触れているところ,その目的に関する原審弁護人の主張を排斥するに当たって(i)のとおり説示する部分は,被告人は,

直接川崎の事件で息子が私を襲うという連想まではしませんでした。

などと述べるのみであるから(原審記録166丁の180),所論が指摘するとおり,これを原審弁護人の主張を採用しない根拠とすることはできず,原判決の説示には誤りがある。もっとも,被告人の検索(原審甲26)は,殺人罪量刑相場執行猶予等の用語で多数回行われたもので,殺人罪の量刑,とりわけ,執行猶予が付されるのがどのような場合であるかについて主要な関心が置かれていたことがうかがわれるところ,被告人の供述
においても,川崎事件が,男性が小学生らを次々と襲って最後に自殺した殺傷事件とされていることからすれば(原審記録166丁の135),その事案の内容からしても,また,被害者がどのような事件を起こすかも定まっていないことからしても,被害者に執行猶予が付されるか否かを主な関心対象とした検索をするというのは考えにくく,この点も,被告人が,被害者を殺害した場合を想定して行ったとみることが自然である。また,(ii)の,和室のパソコンが用いられたことについては,被害者が和室を不在にすることはあったのであるから,被告人がその間などに,自らが関心のある事項について検索をすることは可能であり,格別不自然でもないから,被告人が被害者を殺害する前提での殺人に関する検索を行ったと推認することは許されないとの主張は採用できない。
もっとも,前記手紙の件及びインターネット検索の件は客観的に明らかな事実であるが,被告人はこれらを覚えていない旨一貫して供述している。その理由は原審の審理において必ずしも解明されているとはいえず,当審におけるこれに関する事実取調べ請求も採用しなかったことは前記のとおりである。しかしながら,そもそも前記手紙及びインターネット検索の内容を前提としても,本件が計画的な犯行であったというべき証拠はないのである。もとより,本件犯行に及ぶより以前の段階で,被害者を殺害する可能性を考えることがあったとしても,その程度・内容も明らかではないのであり,以前に被害者を殺害する可能性を考えることがあったことが,直ちに本件犯行の危険性を高め,あるいは被告人の責任非難に大きく影響する事情であるとはいえない。結局,この点は,量刑判断に当たって,本件犯行に至る経緯の評価の中で,その一要素として考慮し得る余地があるにとどまるというべきである。そして,原判決も,被告人が殺害を考えたことについては,あくまで本件犯行に至る経緯の中で触れているにすぎないから,そのような位置付けで考察したものと解され,この点でも原判
決に誤りはない。

本件当日に至るまでの経緯について
所論は,原判決が,被告人は,主治医や警察に相談することが可能で,現実的な対処方法があったのに,これらをすることなく,同居して僅か1週間ほどで,被害者の殺害を決意してこれを実行しており,本件犯行に至る経緯には短絡的な面があるとしたことは誤りであり,①被告人は,被害者が社会人として自立できるように,長期間にわたり様々な献身的行動をしていること,②被害者が医療機関で度々起こした問題に対処し,収めることができてきたことからすると,物理的には医師や医療機関に相談することが可能であったとしても,現実には自身で対処するほかはないことが続き,今回の事態に至ったから,被告人にとって医師への相談が現実的な対処方法であったとはいえないこと,③被害者から,先行傷害事件のような激しい暴行を受けることは予想できなかったものであり,その後僅か6日後に発生した本件までの間に主治医に相談する行動に出なかったとしても時期的にやむを得なかったこと,④被告人は,警察や行政に相談する考えはなかったが,これは,被告人はこれまで被害者の生活を支え,献身的に尽くすことで親子関係を築き,維持していたから,かかる被害者との親子関係を悪化させる選択について考えなかったとしても無理はないなどと主張する。
そこで検討するに,原審記録によれば,本件に至る経緯は次のようなものであったことが認められる。すなわち,被害者は,中学生の頃,激しい家庭内暴力を被告人の妻に振るうなどするようになり,被告人はそうしたことがあるたびに勤務先から短時間帰宅して被害者を制止するなどしていた。被害者は,当初,統合失調症と診断され,投薬治療を受け,後にアスペルガー症候群と診断された。被告人は,被害者の就学,就職先を探すことについて種々の努力を重ねるとともに,医師への受診を嫌う被害者の
代わりに,毎月1回程度病院に行き,被害者の状況を医師に伝え,処方された薬を一人暮らしをするようになった被害者方に届け,被害者の生活状況を見る,精神状態を観察する,被害者方のごみの片付けをするなどの支援を長年にわたり続けていた。令和元年5月25日に,被害者は自ら求めて被告人夫婦方で同居することになったが,その翌26日,被害者が被告人に対して激しい暴行を加えて,被告人は負傷した。被告人は,この傷害事件の直前の同月22日に被害者の様子について主治医に相談しており,同月24日には被害者が他の病院に救急搬送されて,同月25日には当該医療機関と対応した。被告人は,親子関係の悪化を招き,結局は被害者が戻ってくるのは被告人方であることから,警察や行政に相談することはしなかった。そして,同年6月1日本件犯行に至っている。
このような経緯を前提に検討するに,所論が指摘する①(長期間にわたる献身的行動)についてはこれを認めることができるところ,原判決もこのような背景事情を指摘しており,被告人の意思決定の非難の程度を考える上で適切に考慮していると解される。②,③(医療機関への相談)については,被告人は長年にわたり医療機関への相談をしていたものであり,本件犯行前に医療機関との接触がなかったのは,6日間程度にとどまる。また,④(警察や行政への相談)については,被告人がこれに消極的であったことに一定の理由があるともいえる。しかしながら,被告人が行ったのは,被害者を殺害するという行為であり,正当防衛状況等が認められない本件においては,被告人としては何としても避けるべきものであった。その前に医療機関等に相談しなかったことについて上記のような一定の酌むべき事情があるとしても,そのような措置を講ずることの現実的可能性が存在しなかったとまではいえない。原判決は,本件の経緯に短絡的な面がある旨説示しているが,従前からの経緯を踏まえてもなお,医療機関等への相談をするなどして本件犯行を回避すべきであったとの点を指摘せざ
るを得ないとしたものと解されるのであり,その一方で,原判決は,本件の経緯について,背景事情として相応にしん酌すべきである旨も説示しており,所論が指摘する点は十分に考慮していると解される。この点は,原判決が,本件犯行は,同種事案(殺人,単独犯,処断罪と同一又は同種の罪1件,被告人から見た被害者の立場が子,前科等全てなし)の量刑傾向(懲役2年以下から懲役12年以下の範囲に分布)の中では,実刑の重い部類に属するものとはいえないとして,被告人を懲役6年に処しているところ,本件犯行が強固な殺意に基づく危険な態様であることなどからすれば,原判決の量刑は,上記のような犯行に至る経緯等を十分に考慮した結果であると見ることができる。原判決の量刑は,量刑傾向に照らしても重過ぎるとはいえない。

その他の所論について
所論は,また,①被告人が原判決後も,本件を犯したことを真摯に反省・後悔し,被害者の冥福を祈って読経する日々を送っている,②原判決が指摘している被告人に有利な事情は,自首の点も含めて,より適正に評価されるべきであると主張する。
しかし,所論指摘の事情は,いずれも原判決が適切に考慮して量刑していると解されるものか,一般情状にとどまるものであって,考慮するのには限度があるといわざるを得ないから,原判決の量刑を左右しない。

結論
以上によれば,所論が主張するその余の点を考慮しても,原判決の量刑は相当であって,これが重過ぎて不当であるということはできない。量刑不当(量刑事情に関する事実誤認を含む。)の論旨は理由がない。
4
法令適用の誤りの有無について
弁護人は,被告人は,被害者に襲いかかられて殺されると直感し,被害者に対処するには包丁で刺して抵抗するしかなかったとの思いから,反射
的に相当な範囲で本件行為に及んだものであるとして,正当防衛が成立し,仮にそうでないとしても被告人は正当防衛を基礎づける事実を誤認して反撃行為に出たから,誤想防衛が成立するとの職権判断を求めている。ア
で検討したとおり,本件犯行の直前において,被

害者が被告人に殺すぞなどと言ったことや,その際の状況等が,原審で被告人が供述するとおりであったと仮定しても,本件当時,被告人が被害者から危害を受ける差し迫った危険はなかったし,被告人に客観的状況についての誤信もなかったといえるから,正当防衛ないし誤想防衛は成立しない。
原判決に,法令適用の誤りはない。
5
よって,刑事訴訟法396条により本件控訴を棄却することとし,主文のとおり判決する。

(検察官水上尚久出席)
令和3年2月2日
東京高等裁判所第11刑事部

裁判長裁判官

三浦透
裁判官

佐々木

直人
裁判官

平文啓城
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