判例検索β > 令和1年(わ)第1017号
過失運転致死、道路交通法違反被告事件
事件番号令和1(わ)1017
事件名過失運転致死,道路交通法違反被告事件
裁判年月日令和2年10月26日
裁判所名・部福岡地方裁判所  第2刑事部
裁判日:西暦2020-10-26
情報公開日2020-12-08 16:00:19
裁判所の詳細 / 戻る / PDF版
過失運転致死,道路交通法違反被告事件
主文
被告人は無罪

第1


本件公訴事実(令和2年1月21日付け訴因変更請求書による訴因変更後
のもの)の要旨
被告人は,
1
令和元年8月1日午前1時36分頃,普通乗用自動車を運転し,福岡県a市b丁目c番d号先道路をe方面からf方面に向かい時速約30キロメートルで進行するに当たり,前方左右を注視し,進路の安全を確認しながら進行すべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り,
前方左右を注視せず,
進路の安全確認不十分なまま漫然前記速度で進行した過失により,折から進路前方の道路上に仰臥していたX(当時49歳)に気付かず,同人を自車左前輪で轢過し,よって,同人に大動脈断裂等の傷害を負わせ,同日午前3時31分頃,同市内の某病院において,同人を前記傷害に基づく出血性ショックにより死亡させ

2
同日午前1時36分頃,同市b丁目c番d号先道路において,前記車両
を運転中,前記のとおり,Xに傷害を負わせる交通事故を起こし,もって自己の運転に起因して人に傷害を負わせたのに,
直ちに車両の運転を停止して
Xを救護する等必要な措置を講じず,かつ,その事故発生の日時及び場所等法律の定める事項を,直ちに最寄りの警察署の警察官に報告しなかった。第2争点等
1
被告人は,第1回公判期日において,第1の事実につき,同事実記載の日時場所を普通乗用自動車を運転して通行したこと,X(以下被害者という。)が同事実記載の傷害を負って死亡したことは認めるが,自分が被害者を轢過したわけではなく,前方の安全確認もしていたと陳述するとともに,
第2の事実につき,靴を轢いたと思っており,人を轢いたという意識はなかった旨陳述し,弁護人もこれに沿う主張をしている。
したがって,本件の争点は,①被告人が被害者を轢過したかどうか(犯人性),②被告人の過失の有無,③被告人が被害者を轢過したことの認識の有無の点である。
2
ところで,上記争点①については,本件では,被害者が事故に遭った際の状況を直接目撃した者はなく,
本件事故現場の路面や被告人車両に残る痕跡,
被害者の遺体の損傷状況等からその事故状況を推定していくしかないところ,検察官は,本件事故現場の実況見分を行った福岡県警察本部交通部交通捜査課のA警察官と被害者の遺体の司法解剖を行ったB医師がそれぞれ本件事故態様を推定した結果に基づき,被告人車両が被害者を轢過したものである旨を主張している。
これに対し,弁護人は,被告人車両に残る損傷ないし痕跡の大部分は本件事故とは無関係のものであり,(唯一被告人車両が被害者を轢過したことの決定的な根拠となり得る)左前輪内側サイドウォールに付着した皮脂様物質から被害者のDNA型と一致する人由来物質が検出されたことについては,別車両が被害者を轢過した後に,被告人車両が被害者の安全靴のみを轢いた際に付着した可能性があるなどと主張している。

3
当裁判所は,上記争点①につき,A警察官及びB医師の証人尋問のほか,被害者の安全靴のDNA型鑑定を行った福岡県警察科学捜査研究所のC技官の証人尋問も実施するなどした上,当事者双方の上記主張を踏まえて慎重に検討したが,本件の証拠上は,被告人車両が被害者を轢過したと認定するには合理的な疑いを差し挟む余地があると判断した。
以下詳述する。

第3前提事実
関係証拠によれば,争点①に関し,次の事実が認められる。
1本件事故現場の状況
(1)本件事故現場は,福岡県a市内の住宅,田畑等が混在する市街地の一角であり,福岡県a市f方面からe方面を東西に結ぶ市道上(以下本件道路という。)である。本件道路は,中央線のないアスファルト舗装の単路で,南側には白色実線で区画された路側帯が設けられ,路側帯内の一部は緑色に舗装されている(甲7,8,23)。
被告人及び弁護人作成の交通量調査報告書(弁1)によれば,令和元年12月3日から同月7日までの5日間,午前1時から午前2時までの1時間の本件事故現場付近の車両の交通量は平均13台であった。
(2)被害者の遺体は,本件道路南側に設置された路側帯の白色実線上に,頭部を北西側(f方面),脚部を南東側(e方面)に向け,仰臥した状態で発見された(甲4,A証言・13ないし19項)。
被害者の遺体が発見された路側帯の周辺の路面には,別添複合図のとおり,路側帯の白色実線から約0.8m北側の道路上に,皮脂様物質,黒色及び白色繊維様物質の擦り込みがあり,その1m弱ほど西側(f方面側)に金色物質の擦り込みを伴う擦過痕が認められた。また,路側帯の白色実線とほぼ重なるやや北側の位置に血痕及び毛髪があり,上記皮脂様物質等のあった1m西側の路側帯内の緑色舗装部分に血液様物質の擦り込みを伴う擦過痕があり,更にその南側(白色実線から0.7m南側)の路側帯内に皮膚片様物質が認められた(甲7,8,40)。
2被害者の遺体及び着衣の損傷状況
(1)被害者の遺体には,次のような損傷が認められた(甲39)。ア
頭部には,右側頭部前半のほぼ小手拳大の範囲に,前後にほぼ水平に
走る長さ4~1.5cm,幅0.2~0.1cmの棒状皮内出血が5条上下に並んであった。また,左側頭部上縁中央から後上縁にかけての小手拳大の範囲には,
拇指頭面大から小豆大の表皮剥脱多数が前半と後半に集中

してあり,この表皮剥脱に相当する内部所見として,左側頭・頭頂部の皮下軟部組織内に出血が認められた。

胸腹部には,前胸部上半右側のほぼ手拳大の範囲に,左右に走る長さ
4cm,幅1~0.2cmの表皮剥脱があり,周囲に僅かな皮下出血を伴っていた。
この表皮剥脱に相当する内部所見として右鎖骨が前面で骨折し,
右第1ないし第12肋骨は前面から側面にかけて骨折し,
更に右第2,
7,
8,9肋骨は後面でも骨折し,左第1肋骨も後面で骨折していたほか,左第4ないし第7肋骨が側面で骨折していた。
骨盤の左仙腸関節及び右仙腸関節が完全に離開骨折しており,
骨折は腸
骨から寛骨臼窩に至っていた。また,右恥骨上枝も骨折が認められた。ウ
大動脈は,弓部から胸大動脈への移行部付近で完全に断絶し,周囲に出血を伴っていたほか,肝臓の左葉が挫砕又は一部破裂し,右葉の後面にも表在性破裂創があった。


下肢には,左大腿前面外側上縁の手拳大の範囲に,示指頭面大から小豆大の皮内出血多数と長さ4から2cm,幅0.2から0.1cmの棒状の微かな表皮剥脱が数条あった。また,左大腿前面の上下に長さ20cm,幅7~6cmの範囲に,棒状ないし面状の微かな皮内出血が多数あり,この範囲より連続して,左膝関節前面から内側下半,更に下腿内側下半にかけての上下に長さ約40cmの範囲に,ほぼ前後左右に水平に走る長さ2~1cm,幅0.3~0.1cmの棒状ないし線状の皮内出血多数が間隔1.5~1.2cmで上下に並んで認められた。

オ左足関節後面の踵にほぼ左右に走る2.7cmの創があり,創縁,創端は大きく挫砕され,創底は一部骨に達し,周囲にほぼ拇指頭面大の表皮剥脱が認められた。
(2)被害者は,灰色Tシャツ,紺色長ズボン,茶色ベルト,黒色靴下に水色安全靴を着用していた(甲16)。


灰色Tシャツには,腰部相当部内側に,長さ10cm×19.8cm
の点状の溶融擦過痕があり,同痕跡上部に長さ3.6cm×6cmの赤茶色物質の付着を伴う擦過が認められた。

紺色長ズボンには,右膝相当部に長さ6.8cm×3cmの範囲に擦
過痕,左膝相当部から左大腿前部相当部にかけて,長さ51cm×12.4cmの範囲に黒色油様物質の擦り込みを伴う擦過痕,
左大腿後部外側相
当部に長さ16cm×14.7cmの範囲に破れを伴う擦過痕,臀部相当部に長さ17cm×18cmの範囲に右上方から左下方に向け,
生地の破
れ及び左右取付リベットの削れを伴う擦過痕が認められた。

茶色ベルトには,腰部相当部に長さ3.2cm×17.6cmの範囲
に右上方から左下方に向けた擦過痕が認められた。

黒色靴下には,左足踵上部相当部内側に皮脂様物質及び血液の付着を
伴う破れが認められた。

水色安全靴には,
左足内側から靴底にかけて長さ4.
4cmから12.

2cm範囲に黒色物質の擦り込みを伴う擦過痕が認められた。
同安全靴左
足内側の踵部分には血痕様の変色部分が認められた(写真㉙)。
3被告人車両の状況
(1)被告人車両は,車両塗装シルバー色のハッチバックドアを有する4ドアタイプの前輪駆動車(ホンダステップワゴン)であり,車体の幅172cm,車両重量1560kgである(甲9,10)。
(2)被告人車両には,次のような痕跡が認められた(甲9,10)。ア左前輪内側サイドウォールに,長さ15.4cm×6.6cmの皮脂様物質の擦り込みを伴う擦過痕と長さ15cm×4.4cmの擦過痕が認められた(甲9)ところ,この皮脂様物質からは,被害者のDNA型と一致する人由来物質が検出された(甲12ないし15)。
イ左サイドシルに長さ34cm×4.
6cmの血液様物質の付着が認めら

れた
(甲9。
なお,
同血液様物質は本件とは無関係のものである。
A証言・
196ないし199項)ほか,長さ4cm×66cm範囲の下方から上方に向かう払拭痕が認められた(甲10)。
ウ左後輪内側サイドウォールに,長さ5.4cm×4.8cmの擦過痕が認められた(甲9)ほか,左後輪外側サイドウォールに長さ3cm×9cm範囲の青色及び白色繊維様物質の擦り込みを伴う擦過痕が認められた(甲10)。この繊維様物質については,被害者の着衣の紺色長ズボンの構成繊維である青色ポリエステル繊維と同種の繊維と認められた(甲31,32)
4被告人の行動(被告人質問,Y証言,甲44)
被告人は,令和元年8月1日午前1時36分頃,娘であるYを後部座席に乗車させた状態で,被告人車両を運転し,本件事故現場付近をe方面からf方面に向けて通過した(甲37)。
被告人は,本件事故現場付近で被害者が道路に倒れていることを発見し,一旦自宅に戻って娘を下した後,同日午前1時40分頃から同日午前1時48分頃までの間と,同日午前1時52分頃から同日午前1時54分頃までの間の2回にわたり,110番通報を行い,本件事故現場付近に被害者が倒れていることなどを申告した(甲1ないし3)。
第4A警察官の本件事故態様の推定について
1
A警察官は,本件事故現場の実況見分を行うなどして,本件事故状況について捜査を行った上で,事故状況推定報告書(甲17)を作成したものであるところ,A警察官は,本件事故態様について,本件事故現場で仰臥位にあった被害者を被告人車両が左前輪で轢過し,左後輪で左斜め前方へはじき飛ばし,これにより被害者は最終転倒するに至ったと推定している。A警察官は,そのような事故状況を推定した根拠について,事故状況推定報告書において,①被害者の着衣痕跡と現場痕跡を比較して,着衣の臀部相
当部の右上方から左下方に向け,生地の破れ,左右取付リベットの削れを伴う擦過痕と現場痕跡の金色物質の擦り込みを伴う擦過痕,着衣の左足踵上部相当部の皮脂様物質,血液の付着を伴う破れと現場痕跡の皮脂様物質,黒色及び白色繊維様物質の擦り込みが,それぞれ付着物の材質,色調等において一致し,これらは被告人車両に轢圧された際に相互に強く擦過して成傷したものと認められること,②被告人車両の損傷は,左前後輪と左サイドシルに認められるのみであり,右側のタイヤやフロントバンパー等に損傷がないこと,③被害者の左靴に黒色物質の擦り込み,着衣の左膝から左大腿相当部に黒色油様物質の擦り込みがあり,いずれもその印象状況からタイヤ痕と認められること,④被告人車両の左後輪直近前方の左サイドシルに下方から上方に向かう払拭痕があり,同痕跡は同所において車底部から左外側へ被害者の人体が移動した際に成傷したものと判断されることなどを挙げている。これに加えて,A警察官は,法廷では,⑤被告人車両の左後輪の外側サイドウォールに青色と白色の繊維の擦り込みがあったところ,そこから採取された繊維様物質からは,被害者が被害当時履いていた紺色長ズボンの構成繊維である青色ポリエステル繊維と同種の繊維が認められたところ,これは,被告人車両の後輪が被害者のズボンと接触轢過したためにできたと考えられることも挙げている(A証言・138ないし146項)。
2また,A警察官は,死体損傷の成傷機序に関する報告書(甲34)において,被害者の遺体の損傷の成傷機序につき考察しているところ,本件事故により成傷されたとされる損傷について,①被害者の左足踵部の裂創は,成傷部の直近をタイヤが轢過し,これにより路面と接触していた成傷部が強い圧迫を受けて裂けるに至ったものと考えられる。②被害者の左足下腿内側部の数条の平行線ピッチ形状の皮内出血や左足膝内側部の数条の平行線ピッチ形状の皮内出血,表皮剥脱を伴う擦過は,鋭利な損傷ではないことから,成傷器は,その形状を有する鈍体物であり,左側のタイヤのショルダー部と考え
られる。③右側頭部の数条の平行線ピッチ形状の皮下出血,皮脂の付着を伴う皮下出血は,左前輪タイヤの内側ショルダー及びサイドウォールによるものと考えられるとした上で,その理由として,損傷形状がタイヤショルダー部と符合すること,
左後輪は,
被害者の人体を左前方へはじき飛ばしており,
被害者の頭部付近は左前輪しか通過しないこと,被告人車両左前輪内側サイドウォールには,皮脂様物質の付着が認められ,同所から被害者のDNAが検出されていること,推定される轢過状況において,左前輪が通過する上,素肌が露出している場所は右側頭部のみであることなどを挙げている。その上で,A警察官は,左足下腿内側部,左足膝内側部,右側頭部の損傷は,いずれも内部の損傷が軽微であることから,身体に完全に乗り上げて成傷したというわけではなく,タイヤが接触擦過していったとしている。
3そこで,A警察官の見解の信用性を検討する。
(1)A警察官は,交通事故に関する豊富な捜査経験に基づき,本件の事故現場に残る痕跡について自ら実況見分を行うなどして,
本件の事故状況や被害者
の遺体の損傷の成傷機序を推定したものである。そして,A警察官の見解のうち,被害者の着衣の痕跡と路面の痕跡との関係を考察し,被害者が仰臥位にあったのに対し,いずれかの車両が左前輪で轢過し,左後輪で左斜め前方へはじき飛ばすなどという事故態様を推定した限りでは,
十分合理的で納得
できる内容であり,その信用性に疑問を差し挟むべき点はないといえる。(2)他方で,A警察官の見解のうち,本件の争点である被害者を轢過した車両が被告人車両であるかを検討した部分には,次のような疑問が指摘できる。すなわち,A警察官は,被告人車両の左前輪内側サイドウォールに皮脂様物質が付着した機序については,前記2③のとおり,推定される轢過状況において,被告人車両の左前輪が通過する上,素肌が露出している場所は右側頭部のみであると指摘し,被害者の右側頭部が左前輪内側サイドウォールと接触轢過したことによるものと特定している。そして,認定事実のとおり,
左前輪内側サイドウォールに付着していた皮脂様物質から,被害者のDNA型と一致する人由来物質が検出されていることからすれば,A警察官の上記見解は,被告人車両が被害者を轢過した決定的な根拠となり得るようにも思われる。
しかし,A警察官が推定する事故態様において,被害者の右側頭部が被告人車両の左前輪内側サイドウォールと接触轢過するためには,
被告人車両の
左前輪外側が被害者の左足から左太腿部に掛けて接触轢過した後に,腰部な
いし腹部付近を左前輪が乗り越えるようにして轢過し,
被害者の上半身の相
当部分が車底部に入った状態になって,
左前輪内側が被害者の右頭部付近を
通過する必要があるところ,被害者の遺体の司法解剖を行ったB医師は,このような事故態様を明確に否定している。
すなわち,
B医師は,
法廷で,(被
告人車両の左前輪が被害者の身体の右側に来るような様態で,)被害者の身体が車底に入ったときに,それで車両が通過していったならば,(被害者が)どのような体位でいようが,一般の普通乗用車タイプ,あるいはかなり大きい車でも,その車底部の突起物などで(被害者の身体に)必ず傷ができる。したがって,被害者の身体が車底部に巻き込まれていないことは間違いない。旨証言する(B証言・9,10頁)とともに,(被害者の身体の上を)1輪でも車輪が通過すれば,内部損傷はあんなものではないと思われる。大動脈が断裂しているにもかかわらず心臓に全く傷がないことと,肝臓は破裂しているが,左葉の方が挫滅しているのに,右葉の方には挫滅がないことから,ものすごくきょくすうな力が加わっているだけであり,タイヤが胸や腹を礫行,轢過したとは思われない。旨証言している(同・18頁)。このようなB医師の見解は,後記のとおり,その専門的な知見に基づき,司法解剖を行って遺体の損傷状況も直接見分した上で慎重に判断されたものであるから,その基本的な信用性は高いといえる。
そうすると,A警察官の見解は,B医師の見解,ひいては被害者の遺体の
損傷状況と整合しないのであり,同警察官の見解によっては,被告人車両の左前輪サイドウォールに付着した被害者のDNA型と一致する皮脂様物質の生成機序は明らかになっていないといわざるを得ない。
(3)このほか,A警察官は,前記のとおり,被告人車両が被害者を轢過したことの根拠となり得る事情として,
被告人車両の損傷が左前後輪と左サイドシ
ルの払拭痕などがある一方で,
右側のタイヤやフロントバンパーなどに損傷
がないことや,
被告人車両の左後輪外側には被害者のズボンと同種の青色繊
維痕の擦り込みが見られたことなどを指摘している。
しかし,A警察官は,左サイドシルの払拭痕は,真新しいものではあったとしつつ,本件事故でできたとは限らないことを認める証言をしている(A証言・206項)。また,被告人車両の左後輪外側の繊維痕の擦り込みについても,被害者の着衣の紺色長ズボンの構成繊維である青色ポリエステル繊維と同種の繊維であったというにとどまり,特に希少な繊維であったわけでもないから,これも別の機会に生じた擦り込みである可能性は否定できないといえる。したがって,被告人車両にそのような痕跡が複数認められることから,被告人車両が被害者の身体を轢過した蓋然性が相当程度高いとはいえても,有罪認定をするための決定的な根拠とはなり得ないといえる。4
以上のとおり,A警察官の見解は,被告人車両が被害者の身体を轢過したかどうかの点につき説明した核心部分について,B医師の証言,ひいては被害者の遺体の損傷状況という客観的な証拠と整合しないことなど少なからぬ疑問点が指摘できるのであり,その信用性が高いとは認め難い。

第5B医師の見解について
1
次に,被害者の遺体の司法解剖を行ったB医師は,鑑定書(甲39)において,被害者の遺体に見られる創傷は,左肋骨骨折の一部を除き,ほとんどすべてが鈍体の衝突,圧迫,擦過によって生じたものと認められ,その位置並びに性状より交通事故によって生じたものと考えられるとした上で,具体的な事故態様として,被害者が道路上で車の進行方向に頭部を向け仰向けに横たわっていたところを足方向から車両が進行し左前輪で左下肢を巻き込みながら進行,腰部左側付近で乗り越えそのまま轢過していったものと考えられ,その際車底部で胸部右側が強く圧迫され大動脈断裂が生じたものと考えられる。
また,
被害者の遺体には立位の際に生じたと考えられる創傷はなく,
ほとんどすべての創傷は一台の車両の轢過によって生じたものと認められ,多重轢過はなかったと考えられるなどとしている。
他方で,B医師は,法廷で証言をした際には,上記のような事故態様につき言葉の問題であるとしながら,被害者の腰部左側を左前輪が乗り越えたかどうかについて見解を一部修正し,被害者が道路にほぼ平行に仰向けないしは左やや下の横臥で,左の足を開いたように横たわっているところを進行してきた車両が,左足を轢いて,そのまま左の下肢を着衣もろとも左前輪で巻き込んで,そのまま左の前輪の外側の車体前部ないし前側面で,右の側胸部と胸部左側を打撲させ,その後,左前輪の外側が右の側頭部をかするように進行し,それと共に被害者が道路端にまで仰向けのままはじき飛ばされたという様態で生じたと考えられる。旨を証言する(B証言・1,2頁)とともに,被告人車両の左前輪内側サイドウォールに付着した皮脂様物質から被害者のDNA型と一致する人由来物質が検出された機序については,被害者の左足後面の踵部分を左前輪が通過するときにその部分で生じたものと考えられる旨を証言している(B証言・6頁)。
2そこで,B医師の見解の信用性を検討すると,次の事情が指摘できる。(1)B医師は,被害者の遺体を解剖してその損傷状況を直接見分した上で,被告人車両の損傷状況についても必要な写真を確認するなどして,その専門的な知見に基づき慎重に検討した上で,上記見解を述べたものであり,その基本的な信用性は高いといえる。確かに,B医師の本件事故態様の推定内容は,鑑定書と法廷で証言した内容との間で重要部分につき修正がされたと考えられるところ,B医師はその理由を必ずしも明確に説明してはいないが,B医師が法廷での証言に臨むに当たって,同僚の医師との検討会を行うなどして改めて慎重に検討した結果と見ることができる(B証言・2頁)から,同医師の見解の基本的な信用性に関する判断を直ちに左右するものではないといえる。
(2)もっとも,B医師の見解も,本件の争点である被告人車両が被害者の身体を轢過したかどうかに関する部分については,次のような疑問がある。すなわち,
A警察官の見解の信用性に関して説示したとおり,
本件では,
被告人車両が被害者を轢過したことの決定的な根拠となり得る事情は,被告人車両の左前輪内側サイドウォールに付着した皮脂様物質から被害者のDNA型と一致する人由来物質が検出されたことに限られるといってよいところ,前記のとおり,B医師は,この生成機序について,被害者の左足後面の踵部分を被告人車両の左前輪が通過するときにその部分で生じたものと考えられる旨を証言している。しかし,認定事実のとおり,被害者の左足関節後面の踵の傷は,ほぼ左右に走る2.7cmの創であり,創縁,創端は大きく挫砕され,創底は一部骨に達しているというものであるところ,仮にB医師が述べるように,被告人車両の左前輪が被害者の左足部分と直接接触したことで上記裂傷が生じたのであれば,左足の踵の部分は,完全にではないにせよ,タイヤが通過する上側を向いた状態でなければならないはずである。前記のとおり,B医師は,被害者の体勢については,仰向けないしは左やや下横臥で,左足を開いたように横たわっていたなどと考察しているが,そのように被害者が左足を開いていたとしても,仰向けかそれに近い状態であったとすれば,左足踵の後面はやや下側を向いていたと考えるが自然であり,左足踵の後面にタイヤが直接接触して裂傷が生じたと考えるのはやや無理があるように思われる。これに加えて,A警察官は,本件事故現場の路面に残る金色物質の擦り込みを伴う擦過や,皮脂様物質,黒色及び白色繊維様物質の擦り込みの位置関係から,被害者の身体の腰部相当部と左足部分の位置を特定し,被害者の頭部が北西側,脚部が南東側を向いていたと推定している。そして,そのような状態で被害者が左足を開いた状態で仰向けに横たわっていたとすれば,被害者の左足は,その前面が東側(e方面)に,後面である踵部分が西側(f方面)に向けられていたことになるから,東側(e方面)から進行してきた車両の左前輪は,左足の前面と接触するはずであり,左足踵部分と直接接触したとは尚更考えにくいように思われる。
この点,B医師は,法廷で,自動車の模型と人形を用いて左足踵部分を被告人車両が轢いた際の状況を再現しているところ,その際は,人形をうつ伏せにして,しかも右足と左足を逆にして,右足踵部分を轢過した状態を再現してしまっている。B医師が意図的に誤った再現をしたわけではないにせよ,このことも,B医師がいう状況を再現するのは困難なのではないかとの疑問を生じさせるものといわざるを得ない(B証言・8頁,調書末尾添付写真⑤)。
(3)また,認定事実のとおり,本件事故現場付近には,被害者の左足があったと考えられる部分に,皮脂様物質,黒色及び白色繊維様物質の擦り込みが生じている。B医師が推定するように,被害者の左足の後面が上側を向いた状態で被告人車両の左前輪により轢過されたのだとすると,少なくとも左前輪が轢過した際には,左足踵部分は路面と接触していないはずであるから,その段階で路面に皮脂様物質や繊維の擦り込みが生じると考え難い。また,B医師の見解によれば,その後,被害者の右側頭部が左前輪外側に接触した際に,被害者の体は仰向けの状態に戻り,そのまま道路端まではじき飛ばされたというのであるから,その際に被害者の左足踵が路面と接触した可能性は否定できない。しかし,その段階では,被害者の左足部には上から路面に圧迫されるような特別に強い力が加わっていないから,皮脂様物質や繊維の擦り込みが生じるほど路面と強く擦過し,その痕跡が残ったと考えるのはやはりやや無理があるように思われる。
この点,A警察官は,前記のとおり,このような路面の擦り込みについては,被害者が仰向けの状態で左足が車両の左前輪に轢過された際に,轢過された反対側の踵部分が路面と接触したことで形成されたものと推定しているところ,このA警察官の見解は合理的で十分納得できるものである。B医師の見解は,A警察官とは異なり,事故現場の痕跡を詳細に観察して考察したものではないことを考えると,路面の擦り込みが生じた機序に関してA警察官の見解と整合しない内容となっていることは,それ自体信用性に疑問を生じさせるものといわざるを得ない。
3
以上によれば,B医師の見解についても,被告人車両が被害者の身体を轢過したかどうかにつき関わる核心部分に関しては,本件事故現場の路面の痕跡などの客観的な証拠と整合しないなど,少なからぬ疑問点が指摘できるのであり,やはりその信用性が高いとは認め難い。

第6小括
1
以上のとおり,A警察官及びB医師の見解は,いずれも,被告人車両が被
害者の身体を轢過したかどうかに関わる核心部分について,
客観的な証拠と整
合しないなど,少なからぬ疑問点が指摘できる。
特に,A警察官とB医師の2名の専門家が,本件事故態様につきそれぞれの立場から慎重に検討しても,
争点の認定に関する決定的な根拠となり得るはず
の左前輪内側サイドウォールに被害者のDNA型と一致する皮脂様物質が付着した機序を十分合理的に説明できず,
しかも,
互いに矛盾する事故状況を証
言していることは,
被告人車両が被害者の身体を轢過したことの合理的な説明
が困難であるとの疑いを生じさせるものといわざるを得ない。
2
検察官は,左前輪内側サイドウォールに被害者のDNA型と一致する皮脂様物質が付着した機序につき,A警察官とB医師の見解が食い違っている点につき,
B医師が,
主に遺体の痕跡から考察した結果を述べているのに対し,
A警察官は,主に現場の痕跡や被告人車両の状況等から考察した結果を述べているのであり,両者の見解の相違が証言の信用性を減殺するものではないなどと主張している。
しかし,前記のとおり,本件の証拠上は,被告人車両の左前輪内側サイドウォール部に被害者のDNA型と一致する皮脂様物質が付着していること以外に,被告人車両が被害者を轢過した決定的な根拠となり得る事情は認められないから,この点はA警察官とB医師の証言の核心部分であり,その食い違いを看過することはできない(検察官は,論告において,上記のように2人の専門家の意見の違いは信用性判断に影響しないなどとした上で,両者の証言から認められる事故態様を述べた部分(論告8,9頁)でも,上記皮脂様物質が付着した機序を特定していないが,このことも検察官の争点に関する核心部分についての立証が不十分であることを示しているといってよい。。)
検察官の主張は採用できない。
第7被告人の弁解及び安全靴のDNA型鑑定の結果について
1
被告人は,法廷で,第1の日時頃に本件事故現場付近を通行したことは認めた上で,本件事故現場付近を通行していたところ,道路上に靴程度の大きさの白っぽいものが2つ見えた。道路の真ん中当たりを走っていたが,白っぽいものをよけようとして右にハンドルを切ったところ,左の前輪がぽこんと何かに乗り上げる感じがあった。旨を述べる(第7回公判期日における被告人質問・7ないし11頁)とともに,その後被告人車両をUターンさせて本件事故現場付近の様子を確認した際に,白っぽいものの正体が靴と分かった旨を弁解している(同・17頁)。

2
そこで検討すると,被告人の弁解はそれなりに具体的であり,内容的にも直ちに不自然というべき点は見当たらない。特に,認定事実のとおり,被害者の安全靴には,被害者が左足踵を負傷した際に付着したと見て矛盾がない位置に,血痕様に変色した痕跡が認められるところ,先に検討したとおり,A警察官とB医師の二人の専門家が,いずれも,被告人車両の左前輪内側サイドウォールに皮脂様物質が付着した機序の合理的な説明ができていないことも考えれば,被告人車両が安全靴を轢過したことによって左前輪内側サイドウォールに同皮脂様物質が付着した可能性も完全に否定はできないといえる。そして,認定事実のとおり,本件事故現場付近は深夜の時間帯でも一定の交通量があることも考慮すると,被告人車両が通過する直前に,本件事故現場を通過したいずれかの車両が被害者を轢過したとしてもおかしくはないといえる。
3
この点,被害者の安全靴の表面に付着したDNA型を鑑定した福岡県警察科学捜査研究所のC技官は,法廷で,被告人車両の左前輪サイドウォールから検出された被害者のDNAが,被害者の安全靴に接触して付着したとは考えにくい旨証言するとともに,そのように考える根拠について,被害者の安全靴の表面に付着したDNA型鑑定を行った結果を証言した上で,被告人車両の左前輪サイドウォールに付着した皮脂様物質のDNAの量が,被害者の安全靴のDNAの量よりも多いこと,被告人車両の左前輪サイドウォールに付着したDNA型が被害者一人に由来するDNA型であったのに対し,被害者の安全靴には複数のDNA型が付着していたことから,安全靴を踏んだだけで被告人車両に単独のDAN型が付着するとは考え難いことを挙げている(C証言・6ないし7頁)。
しかし,被害者の安全靴は,本件事故発生後,Cによる鑑定に用いられるまで8か月以上の期間にわたり,警察署の証拠品保管庫に保管されていたというのである。証拠品保管庫に証拠品を保管する際には,濡れたものは入れないよう乾かすなどして湿度管理に気を付けていたとはいうものの,見た目で濡れているかを判断していたというにすぎない(D証言・13ないし17項)。また,被害者の安全靴は,室温で保管され,冷蔵庫に入れるなど特別な温度管理がされていたわけでもないことも認められる
(同・6ないし12,
50項)。さらに,被害者の安全靴は,証拠品保管庫に入れられる前に,本件事故現場で臨場した警察官らによって手袋をつけずに触られた可能性があるだけでなく(同・74ないし78項),その後も捜査のために複数回にわたって使用されている。裁判所が取り調べた証拠から確認できる限りでも,被告人に証拠品を示して確認した際に,直射日光に当たり得る状態になっていたことが認められるほか(甲16,D証言・68ないし73項),本件事故状況を再現しての実況見分に使用された際には,少雨の中,被害者役の捜査員が安全靴を履いて湿潤した路面に横たわっていたことも認められる(甲23)。
以上によれば,被害者の安全靴は,必ずしも将来DNA型鑑定を実施することを想定して慎重に取り扱われていたとはいえず,その保管状態が,本件事故から相当期間経過した段階でDNAの量を厳密に判定できるほど良好なものであったとは認め難い。したがって,本件事故後安全靴に付着していたDNAが相当程度毀損し,あるいは,他の捜査員のDNAが付着するなどして,汚染された可能性は否定できないのであり,このような安全靴のDAN型鑑定の結果を有罪認定の根拠とすることは相当ではないといわざるを得ない。
なお,Cは,安全靴が乾燥した状態であれば,多少分解はしてもDNA型が全然出なくなるまでに分解するというふうには考え難いなどと証言し,そのように考える根拠として,血痕や唾液が乾燥状態であれば5年ほどはDNAが検出されるとの報告があり,1年弱程度で全部出なくなるまで分解されるとは考え難いなどと説明している(C証言・43ないし45項)。しかし,その証言を子細に見れば,Cは,DNAの量が一定程度分解されることは前提にしつつ,時間の経過に伴うDNAの分解によりその濃度が具体的にどの程下がるのかは明確にしないまま,完全にDNA型が検出されなくなるわけではないと説明しているにすぎない。そして,Cが根拠として挙げた報告についても,Cの証言内容を見る限り,一定の時間が経過してもDNA型鑑定が可能かどうかを報告したものにすぎず,時間の経過によりDNAの濃度が具体的にどの程度下がるのかを検討したものではないとも解される。そうすると,
Cの証言は,
同人の実務経験に基づく感覚を述べたものではあっても,
厳密な専門的知見に基づき検討したものではない疑いが否定できない。この点でも,Cの証言を有罪認定の根拠とするのは相当に躊躇される。4
以上によれば,被告人の上記弁解は一概に排斥できない信用性を備えてい
るといわざるを得ない。
第8結論
1
以上の次第であって,A警察官及びB医師のいずれの見解も,被告人車両が被害者の身体を轢過したかどうかに関わる核心部分について,その信用性に少なからぬ疑問が生じているのに対し,被告人の弁解は一概に排斥できない信用性を備えているといわざるを得ないから,被告人車両が被害者の身体を轢過したと認定するには合理的な疑いが残るというべきである。
2
したがって,結局本件公訴事実については犯罪の証明がないことになるから,刑事訴訟法336条により被告人に対し無罪の言渡しをする。
令和2年10月26日
福岡地方裁判所第2刑事部

裁判官

岡忠之
トップに戻る

saiban.in