事件番号 | 令和1(わ)721 |
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事件名 | 殺人未遂,銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件 |
裁判年月日 | 令和2年8月4日 |
裁判所名・部 | 札幌地方裁判所 |
判示事項の要旨 | 被告人が,かつて交際関係にあった被害者に対し,交際解消の理由等について説明や謝罪を求めたが,これを受けられなかったため,準備していたナイフを取り出して,被害者の上半身に向けて2度突きだしたが,いずれも被害者に止められたため,被害者に全治9日間の右上腕部切創等の傷害を負わせたにとどまった殺人未遂の事案で,争点である殺意の有無及び責任能力について,いずれも認めた上,被告人に懲役3年,執行猶予5年を言い渡した事例。 |
裁判日:西暦 | 2020-08-04 |
情報公開日 | 2020-10-08 16:00:28 |
被告人を懲役3年に処する。 この裁判が確定した日から5年間その刑の執行を猶予する。 押収してあるシースナイフ1本(令和2年押第3号符号1) ,ペティナイフ1本 (同号符号2)及びフォールディングナイフ1本(同号符号3)を没収する。訴訟費用は被告人の負担とする。 理由 (犯行に至る経緯) 被告人は,平成31年1月,交際していたAから理由の説明がないままに一方的に別れを告げられるとともに,LINEによる連絡もブロックされ,さらに,Aとともに所属していたSNS上のコミュニティに被告人のみ所属できなくなった。その後,被告人は鬱病を発症して休職していたところ,Aに対し,何の説明もないままに交際を解消する等,被告人との約束を守らなかったこと,被告人が前記コミュニティから疎外されたこと,そのために鬱病になったこと等について,説明と謝罪を求め,それ がない場合には, Aを傷つけようと考えるに至った。 被告人は, 令和元年6月13日, 千葉県市川市内にあった当時の被告人方から札幌市に移動し,同市内において,シースナイフ1本(刃体の長さ約11.7センチメートル) ,ペティナイフ1本(刃体の長 さ約15.4センチメートル)及びフォールディングナイフ1本(刃体の長さ約7.6センチメートル)を購入した後,北海道美唄市(住所省略)Bアパート2階廊下に 赴き,当時同所に住んでいたAが帰宅するのを待った。被告人は,前記Bアパート2階廊下において,同日午後6時10分頃に帰宅したAに対し,前記の説明と謝罪を求めるなどしたところ,Aから期待したような説明や謝罪がなかったばかりか,強い口調で早く帰るように言われた。 (罪となるべき事実) 第1被告人は,同日午後6時40分頃から同日午後6時51分頃までの間に,同所において,前記シースナイフ(令和2年押第3号符号1)を右手でリュックサックから取り出し,殺意をもって,同ナイフをA(当時25歳)の上半身に向けて突き出し,Aに右手で手首をつかまれるなどして同ナイフを床に落とした後も,体勢を崩したAの手が離れた隙に,前記ペティナイフ(前同号符号2)を右手でリュックサックから取り出し,同ナイフをAの上半身に向けて突き出したが,Aに左手で手首をつかまれるなどして抵抗されたため,Aに全治9日間を要する右上腕部切創の傷害及び左胸部刺創の傷害をそれぞれ負わせたにとどまり,Aを死亡させるには至らなかった。 第2被告人は, 業務その他正当な理由による場合でないのに, 前記第1記載の日時・ 場所において,前記シースナイフ1本,前記ペティナイフ1本及び前記フォール ディングナイフ1本(前同号符号3)を携帯した。 (事実認定の補足説明) 1本件では,殺意の有無,すなわち,被告人がAの死亡する危険性の高い行為をそれと認識して行ったか否かが争点となっている。 この点については,被告人がAに対してどのような行為をしたのか(行為態様) が判断の中心となるところ,A供述と被告人供述が異なっていることから,A供述の信用性について検討する。 2⑴Aは,被告人が近づいてきて, 借りた物を返すからなどと言い,リュックサ ックからシースナイフを右手で取り出し,Aと向かい合った状態でAの胸辺りに刃先を向けて,そのまま前に突き出すような感じで攻撃してきた,右手で横から 被告人の右手首をつかんでシースナイフを止めようとしたがその勢いは止まらず,右上腕部に刺さった,シースナイフを被告人の手から落とさせ,これを遠くに蹴飛ばした,その際に少し体勢を崩すなどして,被告人を押さえていた手を離してしまった,被告人はリュックサックからペティナイフを取り出し,これを右手に持ってAに詰め寄り,Aの胸辺りに向かって突き出した,左手で下から被告 人の右手首をつかんでペティナイフを止めようとしたが,左胸辺りに突き刺さった旨の供述をしている。 ⑵まず,Aは,被告人との間で本件について示談をしており,被告人に寛大な処分を望んでいるところ,あえて嘘をついているとは考え難い。問題となるのは,その記憶に誤りがないかである。 Aの供述のうち, 2本目のナイフで刺されるのを止めようとした状況について は, Aの左胸部の傷と整合する。 すなわち, 法医学者であるCの供述等によれば, この傷は,刃物がAの皮膚面に対してほぼ垂直に深さ0.5センチメートルほど刺さり, 刺さった時と抜けた時とで刃物の方向が変わらない動きをして形成されたと見られ,分岐したような浅い傷や切創を伴わないものであったのであり,Aの供述はこの傷ができた理由を合理的に説明するものといえる。 また,Aは,被告人がナイフを取り出すまでの言動から,被告人の挙動につき警戒していたと見られる上,被告人がリュックサックからナイフを取り出したことを認識してからは,そのナイフの動きを注視していたと考えられる。そうすると,被告人がナイフを取り出した状況,ナイフを持った被告人の手がAの身体に近付いてきた状況, ナイフによって傷つけられるのを避けようとして防御した状 況等の重要な部分については,記憶しやすいといえる。Aの供述をみても,確かに記憶が明確でない部分はあるが,前記の各状況に関するAの記憶は曖昧ではない。 そして,Aの供述は,被告人がナイフを突き出してきたので刺されないように防御をしたという自然な反応を語るものであり,被告人が2本目のナイフを取り 出して再びAに攻撃を加えることができた経緯等も含めて,出来事の経過全体を説明するものとして自然な内容である。 ⑶アこれに対し,弁護人は,シースナイフに血痕やヒト由来のものの付着が証明されていないことを指摘して,被告人がシースナイフを突き出し,これが右上腕部に刺さった旨のA供述の信用性に疑問を呈している。 しかしながら,前記Cや科学捜査研究所のDの専門的な知見を踏まえると,本件シースナイフに血痕やヒト由来のものの付着が証明されていないからといって,必ずしもA供述の信用性が低くなるものではない。 イ また,弁護人は,被告人がリュックサックから1本目のナイフを取り出した後にこれを持って構えたかどうかという点で,A供述に変遷がある旨主張する。しかしながら,弁護人がその主張の前提とするAの捜査段階の供述は,被告人がナイフを構えるという動作と突き出すという動作を一連の流れとして説 明していたものと見ることができ,変遷があるとは言えない。 ウ さらに,弁護人は,刺された時の被告人との距離が1メートルもないくらいであるというAの供述について,その距離でナイフを突き出されたら腕をつかむことはできないと主張する。しかし,Aは,大体の目安として説明したに過 ぎず,この点をもってAの供述がおかしいということにはならない。3⑴他方で,被告人は,リュックサックからシースナイフを右手で取り出し,Aと向かい合った状態で,シースナイフを両手で持って自分の腰の位置辺りに刃先を少し下に向けて構えたところ,Aに両手で手首を押さえられ,シースナイフを前に押し出そうとしても,Aに押し返されるような形でこう着状態になった,その 後,どのような経過かは覚えていないが,Aの右手で左手首を,Aの左手で右手首をそれぞれつかまれ,万歳をするような体勢にさせられた,いつの間にか右手に持っていたシースナイフが手から落ちていた,前記体勢のまま,左手でリュックサックからペティナイフを逆手で取り出し, 一矢報いようと, Aの右腕を狙い, 手首を動かしてAの右腕をペティナイフで傷つけた,その後,どのような経過か は覚えていないが,前記体勢のままペティナイフを右手に持ち替えており,臨場した警察官に逮捕された,最初にAに手首をつかまれて以降,ずっとAにつかまれ続けており,腕を左右に動かすことはできたものの,前後に動かすことはできなかった,Aの左胸を刺した記憶はないなどと供述している。 ⑵しかしながら, 仮に被告人が述べるように, Aにずっと手を押さえられており, 腕を左右に動かすことはできても前後に動かすことはできない状態にあったとすると, Aの左胸部に前述した態様の刺創が形成された理由を説明することが困難である。また,被告人の供述を前提とすると,Aに両手を押さえられ,万歳をするような格好をしている中で,リュックサックからナイフを取り出したり,ナイフを左手から右手に持ち替えたりしたことになるが,前後には動かせないほどの力で押さえつけられていながら,そのような動作ができたというのは信用できない。 ⑶よって,被告人の前記供述は信用することができず,A供述の信用性は揺らがない。 4以上によれば,A供述は十分信用することができ,判示第1のとおり,被告人がAの上半身に向けてナイフをそれぞれ突き出した事実が認められる。 そこで,前記の被告人の行為態様を前提に検討すると,本件で用いられたナイフは,いずれも殺傷能力の高いものであること,被告人が幅約1.6メートルの共同住宅の廊下という狭い空間でAと向き合い,その身体の間近で,各ナイフをAの上半身に向けて突き出していることからすれば,被告人の行為態様は,客観的に見て, 各ナイフがAの上半身に突き刺さることでAを死に至らしめる危険性 が高いものであったといえる。 以上に加え,被告人は,自ら刃物店で各ナイフを購入し,鞘や容器を処分するなどしてリュックサックに入れていたのであるから,これらの性状等については十分認識していたと推認できる上,被告人において,狭い空間でAと向き合った状態でAの上半身に向けてナイフを突き出す動作をしている認識はあったとい えること,被告人は,1本目のナイフを落とされた後に2本目を取り出し,再度Aの上半身に向けてナイフを突き出す動作をしていることを併せ考慮すると,被告人は, Aが死亡する危険性の高い行為を意識的に行ったと認めることができる。⑶よって,被告人については,Aを殺してやろうと意欲していたとまでは認められないが,殺人未遂罪における殺意は認められるのであるから,判示第1のとお りの事実を認定した次第である。 (法令の適用) 罰条 判示第1の行為 刑法203条,199条 判示第2の行為 包括して銃砲刀剣類所持等取締法31条の1 8第3号,22条 刑種の選択 判示第1の罪について有期懲役刑を選択,判 示第2の罪について懲役刑を選択 法律上の減軽 判示第1の殺人未遂罪について刑法43条本 文,68条3号 併合罪の処理 刑法45条前段,47条本文,10条(重い 判示第1の罪の刑に同法47条ただし書の制 限内で法定加重) 刑の執行猶予 刑法25条1項 没 刑法19条1項1号,2号,2項本文(主文 収 掲記のシースナイフ及びペティナイフは,判 示第1の殺人未遂の用に供した物であり,主 文掲記のフォールディングナイフは,判示第 2の銃砲刀剣類所持等取締法違反の犯罪行為 を組成した物であって,いずれも被告人以外 の者に属しない。) 訴訟費用の負担 刑訴法181条1項本文 (弁護人の主張に対する判断) 1弁護人は,本件犯行当時,被告人は,精神病症状を伴う重症の鬱病に罹患しており,妄想又は激越鬱の強い影響を受け,心神耗弱の状態にあった旨主張する。2⑴そこで検討するに,証拠によれば,①被告人が(犯行に至る経緯)に記載した出来事を経験する中で,平成31年1月頃から自殺を考えるようになり,同年3月中旬に精神科を受診し,同月末頃には職場にも行けなくなり,同年4月1日には鬱病と診断され, 当時の勤務先を休職するに至ったこと, ②被告人には, 不眠, 意欲の低下,興味・喜びの喪失等の抑鬱症状,自殺の観念等の症状が出ていたことがいずれも優に認められる。そして,本件において,被告人は,鬱病の症状としての思考の抑制により全体を冷静に見る力が低下している中で,Aから説明と謝罪がなければAを傷つけようと考えて犯行に及んでいるところ,鬱病が被告人の判断や行動に一定の影響を及ぼしていたといえる。 ⑵アもっとも,被告人は,Aから説明や謝罪があれば何もせず,それがなければ傷つけるという2つの選択肢をもって臨んでいる。そして,被告人は,本件現場において,約30分間にわたり,Aに対して説明を求めるなどのやり取りをし,Aから帰るように強く言われてから攻撃に及んでおり,それまでは抑制の 効いた行動を取ることができている。さらに,被告人は,Aを攻撃することにした際も, 借りた物を返すからと言いながらリュックサックからナイフを 取り出し,目的の実現に向けたと考えられる行動をしている。以上によれば,本件犯行当時,被告人が鬱病の影響で視野が狭くなっているとしても,客観的には,自らの行動をコントロールすることができており,鬱病による妄想又は 激しい感情の高まりの影響を受けているようには見えない。 イ また, 交際の解消やSNS上のコミュニティでの人間関係の悪化から種々のトラブルに発展することは,社会的に起こり得ることからすれば,被告人がその中で受けたつらい体験について,Aに対する被害感情を抱き,本件のような 犯行に及ぶことは,E医師も述べるとおり,鬱病の症状をもってしなければ説明が困難なものではなく,精神障害の影響を受けていなくても十分あり得ることである。しかも,被告人は,つらい思いをしている原因についてAに憤りを覚え,鬱状態になり,Aから説明と謝罪がなければ危害を加えようと考えるに至っているが,こうした他者への攻撃的な行動は,鬱病の前記症状から直接導 き出されるものではなく,E医師やF医師が鬱病の症状が著しい影響を及ぼす例として挙げている,心中等の事案におけるものとは異なっている。むしろ,E医師が述べるように,本件犯行に至る被告人の判断や行動は,被告人のパーソナリティ傾向,すなわち,批判的,被害的,怒りや敵意を抱きやすい傾向,柔軟性に欠けて誤った認識に対しても修正が利かないといった傾向から説明できるものといえる。 ⑶以上によれば,被告人は,本件犯行当時,鬱病の影響によりAを傷つける以外の選択をすることがほとんどできない状態ではなかったと認められる。3⑴これに対し,弁護人は,その主張の根拠として,㋐本件犯行後,被告人について緊急措置入院の手続をとり,その治療に当たったF医師は,被告人が精神病症状(二次妄想)を伴う重症の鬱病と診断しているところ,本件犯行は,鬱病の影 響を強く受けたものである可能性がある旨,㋑F医師の診察時に見られた被告人の症状等からすれば,本件犯行当時,被告人は,鬱病による激しい情動の影響を受けていた可能性がある旨指摘する。 ⑵アしかしながら,前記㋐については,被告人は,SNS上のコミュニティからの疎外という問題のほかにも,説明もないままに交際を解消するなどAが約束を守らなかったこと等についても説明と謝罪を求めており,それがない場合に は危害を加えようと考えていたものである。このうち,少なくともAとの交際解消をめぐる説明と謝罪を求めている部分は,正に被告人が体験した事実そのものに基づくものであり,妄想のような精神病症状に起因するものではないといえる。また,F医師は,被告人の発言内容,表現方法の意味するところや,思考の訂正可能性の有無を多角的に検証するために必要な資料を十分に参照 する機会もないまま, 治療のための問診時の発言を根拠に前記のような診断を している。したがって,F医師の見解があるからといって,被告人が妄想の影響により, Aを傷つけること以外の選択肢をとることができなかったとは認められない。 イ 次に,前記㋑については,F医師の供述を前提としても,激しい情動が生じた理由について,事件前からの鬱病によるものか,本件時に接したAの態度によるものか,本件を起こしたこと自体によるものか,事件後に経験した出来事によるものかは判然とせず,被告人が本件犯行をすることを決めたことが鬱病の直接的な影響を受けたことを示すものではない。 ⑶よって, 本件犯行当時の被告人の精神症状の評価に関する弁護人の主張はいずれも採用することができない。 4以上によれば,本件犯行当時,被告人は,心神耗弱の状態にはなかったものと認められる。 (量刑の理由) 本件の量刑の中心は,判示第1の殺人未遂である。被告人は,本件犯行のためにナ イフを複数購入して凶器を準備するなどした上,近い距離で向かい合った被害者の上半身に向かって,ナイフを2回突き出すという行為に及んでおり,結果的に被害者の傷害結果が全治9日間にとどまっているとしても,このような被告人の行為の危険性は相当高い。 一方で,被告人が本件犯行を決意した背景には,被害者から理由を説明されないま ま一方的に交際を解消されたことや,重要な居場所であるコミュニティに所属できなくなった等の経緯や,そのような経緯の中で鬱病に罹患し,鬱病の症状により全体を冷静に見る力が低下していたという事情もあり,被告人の意思決定や動機の形成過程には酌むべき点がある。 そうすると本件は,男女関係を原因とする刃物を使用した事案で,全治2週間以内 の傷害を負わせたにとどまる殺人未遂(単独犯)の事案の中でも,比較的軽いものといえる。以上を前提に,被害者との間で示談が成立し,被害者が被告人を許していることを重視し,被告人に前科前歴がなく,家族が更生に向けた支援を約束していること等, 被告人のために酌むべき事情も併せ考慮すると, 被告人を主文の懲役刑に処し, その執行を5年間猶予するのが相当であると判断した。 (求刑懲役4年,主文同旨の没収) 令和2年8月4日 札幌地方裁判所刑事第2部 裁判長裁判官 中川正隆 裁判官 牛島武人 裁判官 田中大地 |