判例検索β > 令和1年(う)第682号
危険運転致傷(予備的訴因 過失運転致傷)
事件番号令和1(う)682
事件名危険運転致傷(予備的訴因 過失運転致傷)
裁判年月日令和2年9月10日
裁判所名・部大阪高等裁判所  第3刑事部
結果棄却
裁判日:西暦2020-09-10
情報公開日2020-10-06 16:00:23
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危険運転致傷(予備的訴因

過失運転致傷)被告事


令和2年9月10日

大阪高等裁判所第3刑事部判決
主文
本件控訴を棄却する

第1


控訴趣意

本件控訴の趣意は,弁護人足立毅作成の控訴趣意書及び答弁書に対する反論書に記載のとおりであり,これに対する答弁は,検察官野口勝久作成の答弁書に記載のとおりであるから,これらを引用する。論旨は,原判決が,被告人が,平成26年6月30日(以下本件当日という。)午後2時36分頃(以下,本件当日の時刻を示す場合は,単に時刻のみで表記する。),普通乗用自動車(以下本件自動車という。)を運転し,大阪市a区ab丁目c番d号A(以下本件駐車場という。)から発進するにあたり,血糖値を測定するなどして,自己が低血糖の状態にないことを確認しない限り運転を差し控えるべき注意義務(以下本件注意義務という。)があるのに,これを怠り,
漫然運転を開始した過失があり,
そのため,
午後3時59分頃,
原判示の事故(以下本件事故という。)を起こし,原判示の被害者3名にそれぞれ傷害を負わせたとして,被告人に対し,過失運転致傷罪が成立すると認定判断した点において,事実誤認があり,被告人は無罪である,というのである。そこで原審記録(差戻し前の第1審,差戻し前控訴審,それに対する上告審,
差戻し後の第1審である原審に至るまでの全ての記録を含む。
以下同じ。)に基づき検討する。
第2
1
原判決の概要
基本的事実関係

関係証拠によれば,以下の事実が認められ,これらについては,被告人も特に争わない。
被告人は,かねてから1型糖尿病にり患し,インスリン注射により血糖値を下げる治療を続けていた。


被告人は,午前6時15分頃,血糖値を測定すると,83㎎/㎗であ
り,即効型インスリンであるノボラピッド(以下ノボラピッドという。)及び持効型インスリンであるトレシーバ(以下トレシーバという。)の注射をし,朝食をとって出勤した。


被告人は,午前11時頃,本件自動車を運転して勤務先を出発し,午
後1時44分頃勤務先に戻ったが,その間の午後1時39分頃,簡易測定器で血糖値を測定すると,224㎎/㎗であり,その後本件事故まで血糖値は測定せず,昼食はとっていない。


被告人は,
午後1時52分頃,
本件自動車を運転して勤務先を出発し,

午後2時20分頃,本件駐車場に本件自動車を駐車して商品を配達し,午後2時36分頃,同所から本件自動車を運転して発進した(以下本件発進という。)。


被告人は,その後走行中に著しい意識低下の状態に陥り,午後3時5
9分頃,原判示の交差点付近道路(以下本件交差点付近道路という。)で本件自動車を暴走させた結果,本件事故を起こした。


被告人は,午後4時45分頃に搬送先の医師によって血糖値が測定さ
れたところ,32㎎/㎗であった。その後,ブドウ糖の投与により意識を回復した。
2
差戻前第1審
差戻前第1審における公判前整理手続で,検察官は,主位的訴因であ
る危険運転致傷のほかに,過失運転致傷の予備的訴因を追加したが,公判段階で一部変更された後の過失の内容は,被告人が,本件当日,日頃の摂取時間帯に昼食及びインスリンを摂取していないことを前提に,血糖値が不安定になるおそれがあったのであるから,本件発進の際,低血糖症による意識障害に陥る可能性を予見し,適宜,血糖値を測定し,自己の血糖値を正確に把握し,血糖値が安定するのを確認するなどの措置を講じて発進,走行すべき注意義務があるのにこれを怠ったというものであった。
差戻前第1審は,予備的訴因を認め,被告人には過失運転致傷罪が成立すると判断した。
3
差戻前控訴審

差戻前第1審判決に対し,
弁護人のみが控訴し,
検察官は控訴しなかった。
その上で,差戻前控訴審は,本件当日,インスリン注射以外の方法によって被告人の血糖値が数時間のうちに大きく降下したと認めるのは困難であるから,それに対する予見可能性を認めることはできないとするとともに,差戻前第1審は,本件発進時及びその後の本件自動車の運転中に低血糖の前兆を感じていなかったという被告人の差戻前第1審公判供述に沿った認定をしているが,その認定判断は不合理であり,被告人が上記時点で低血糖症の前兆を感じていたことを前提とした場合の過失責任の有無を争点として顕在化させた上で審理を尽くさせるため,
本件を第1審に差し戻すべきだと判断した。
なお,差戻前控訴審判決に対する弁護人の上告は棄却され,同判決が確定したため,差戻後第1審である原審に本件が係属した。
4
原審における争点



前記2及び3の経緯からすれば,差戻前第1審での主位的訴因は差戻
前控訴審において当事者間の攻防の対象から外れたと解されるところ,検察官は,予備的訴因につき,訴因変更をするとともに,過失運転致傷の過失の前提となる注意義務の内容について,被告人が,午後1時39分頃から同日午後2時36分頃までの間(以下本件時間帯という。)にインスリン注射をしており,体温上昇を感じるという低血糖症の前駆症状もあったことを自覚していたことを前提に,前記第1のとおり,被告人には,本件発進をするに当たり,本件注意義務があると主張した。


これに対し,弁護人は,被告人が本件時間帯にインスリン注射をした
ことはなく,本件発進前に低血糖症の前駆症状を自覚していたこともなく,本件事故の際の被告人の血糖値の低下は,1型糖尿病,特に不安定型糖尿病の医学的に未解明な部分によるものであると主張した。


以上からすれば,本件の争点は,①被告人が本件時間帯にインスリン
(以下追加インスリンという。)を注射したかどうか,②被告人が本件発進時点で低血糖症の前駆症状を自覚していたか否かとなる。
5
争点に対する原判決の判断
前提事実

被告人は,本件事故の約40年前に1型糖尿病を発症し,血糖値を管理する必要があり,本件当時は,基本的には,1日3回の食事前に血糖値を測定し,ノボラピッド及びトレシーバを注射して血糖値を調整するほか,主治医であるB病院のC医師(以下C医師という。)の了解の下で,必要に応じて血糖値を測定し,高血糖の場合は追加インスリンを注射し,低血糖の場合は糖分を摂取していた。
争点①及び②についての判断

D医師(以下D医師という。)の証言(原審証言に加え,差戻前

第1審での証言を含めて,以下D証言という。)は,㋐前記1の本件当日の被告人の血糖値の変化や低血糖発作の発症状況を前提に,被告人は,午後1時39分頃の224㎎/㎗という血糖値を知って,それを下げるために追加インスリンを注射したが,それが効き過ぎて血糖値が大きく下がったものであり(以下㋐の点という。),また,㋑低血糖症の前駆症状を感じたがゆえに午後2時36分前頃にどら焼きとジュースを摂取したのであって(以下本件摂食行為という。),以後,血糖値が上がるだろうと思って運転を継続したものと推測するが(以下㋑の点という。),このようなD証言は,専門家の立場から,前記1の被告人の血糖値の変化や糖尿病患者の行動を合理的に説明するものであり,㋒被告人が,その血糖値管理において,全体的に低い値が目立つことからすると,本件当時,高血糖を気にし,血糖値を下げたいという気持ちが普通の患者より強かった(以下㋒の点という。)との指摘も正当である。

これに対し,C医師の証言(原審証言に加え,差戻前第1審での証言
を含めて,以下C証言という。)は,D証言の指摘する㋐の点について,本件当日,被告人の血糖値が大幅に低下した原因について,今までの医学では解明困難であるとするが,単なる一般的抽象的な可能性にとどまり,㋑の点について,C証言にいうように,被告人が,これまで原因不明の低血糖により著しい意識低下の状態になったことがないのであれば,224㎎/㎗という高い血糖値が測定されたわずか1時間後に本件摂食行為を行ったことについて,合理的な説明ができないことからすれば,前記アのD証言の推認を左右するに足りない。

以上のとおり,信用できるD証言によれば,争点①及び②についての
検察官の主張が認められ,体が熱くなる低血糖の症状があったとの,逮捕直前の被告人の供述(差戻前第1審乙2)は,上記推認に沿うものであって,信用できる。
本件注意義務違反の有無

一般に糖尿病においては,糖分を補食しても血糖値が上昇しないこと
下げるために追加インスリンを注射した後,その効果があって血糖値が急激かつ大幅に下がり,低血糖症の前駆症状を感じる状態にまでなっていることを認識しているのであって,これからすれば,その後もインスリンの効き具合によっては,本件摂食行為だけでは血糖値が回復できない可能性があることは予見できた。

その上で,意識低下の状態で自動車を走行させることがもたらす交通
の危険性の大きさに照らすと,前記アの予見ができた以上,被告人には本件発進時点において本件注意義務があったと認められ,かつ,これは,糖尿病患者に対して非現実的な対応を強いるものではない。しかるに,被告人は本件注意義務を怠ったのであるから,被告人には本件事故を引き起こしたことにつき,過失が認められる。
第3

弁護人の主張概要

弁護人は,D証言は,午後1時39分頃に224㎎/㎗という血糖値が測定された後,本件発進後に低血糖発作が発症したのは,被告人が本件時間帯に追加インスリンを注射したと考えるのが合理的であるとするが,C証言に照らせば,低血糖発作が他の要因によって生じた合理的な疑いが拭えないばかりか,D医師自身,差戻前第1審においては,そのような可能性を認める証言をしながら,原審においては,その供述を変遷させており,さらに,被告人の血糖値管理の状況からD証言がいうように低血糖が目立つという評価はできず,本件摂食行為についても,血糖値を上げるためであれば,被告人は別途所持していたブドウ糖ゼリーを摂取するはずであり,この点でも,その評価を誤っていることからすれば,D証言は信用できず,これに依拠して争点①及び②につき検察官の主張を認めた原判決には事実誤認があると主張する。
第4

当裁判所の判断

そこで,原審記録に基づき検討すると,原判決がD証言の信用性を認めるとともに,これに反するC証言の信用性を排斥し,主にD証言に依拠して,争点①及び②のいずれの点も検察官の主張を認めて,被告人には本件注意義務に違反した過失があるとした原判決の認定判断は,その理由として説示するところを含め,正当なものとして是認することができる。以下,弁護人の主張に鑑み,補足して説明する。
1
前提事実

以下の事実は,原審記録から認められ,当事者間でも概ね争いがない。⑴

被告人の糖尿病等

被告人は,かねてから,血糖値を下げる働きをするインスリンの分泌が完全に枯渇した1型糖尿病患者であり,インスリン注射により血糖値を下げる治療を続けていたところ,平成11年頃からは,主治医であるC医師の指導の下で,治療を行っていた(差戻前第1審第3回公判調書と一体となるC医師の証人尋問調書1頁ないし2頁,差戻後第1審第2回公判調書と一体となるC医師の証人尋問調書1頁ないし2頁。以下前C3-1~2,後C2-1~2などと略記する。)。⑵

被告人の日頃の血糖値管理

糖尿病治療においては,糖尿病細小血管合併症(網膜症,腎症,神経障害)及び動脈硬化性疾患(冠動脈疾患,脳血管障害,末梢動脈疾患)の発症,進展を阻止するため,血糖値等の良好なコントロール状態の維持が必要とされ,合併症予防のための目標値としては,過去一,二か月の平均血糖値を反映する血糖コントロール状態を示す指標であるHbA1c値が7%未満とされ,この値に対応するおおよその目安となる血糖値は,空腹時の血糖値が130㎎/㎗未満,食後2時間の血糖値が180㎎/㎗未満である(差戻後第1審甲7号証。以下後甲7などと略記する。)。
一方,血糖値のコントロールにおいては,常に低血糖の危険性があることを念頭に置きながら治療を受ける必要があるともされており,血糖値がおよそ70㎎/㎗未満になった状態が低血糖とされ,血糖値が70ないし55㎎/㎗程度に低下すると異常な空腹感,
だるさなどが生じたり,
その後,
冷汗,
動悸,ふるえ,熱感等の自律神経症状が現れ,50㎎/㎗程度に低下すると神経や精神の働きの低下による眠気,強い脱力,めまい,強い疲労感,集中力の低下や混乱等の中枢神経症状が現れ,更に30㎎/㎗程度まで低下すると大脳の機能が低下して意識消失等の症状が現れて,その状態が長時間続くと生命に危険が及ぶなどとされている(後甲6)。
被告人の血糖値のコントロールは,主治医であるC医師からみて,糖尿病患者の中でも模範的な患者で,血糖値や他の合併症の危険のある素因を管理できており,40年以上糖尿病治療を続けるなかで合併症の併発もなかった(前C3-1~3)。本件事故前3か月間の被告人の血糖値測定結果も,ごく一部の例外を除いて1日の測定が4回を下回ることはなく,5回,6回ないしそれ以上の測定をしていることも多々あり,その数値においても,時折200㎎/㎗を超える数値を示すものがあるものの,その後の測定値が低下して前記目標値未満に収まるものが多く,むしろ低血糖とされる70㎎/㎗未満となり,中枢神経症状が現れるとされる50㎎/㎗未満にまで低下することも複数回あった(差戻前第1審甲27号証。以下前甲27などと略記する。)。


本件当日の被告人の行動と血糖値の推移


被告人は,午前6時17分頃,血糖値を測定し,そのときの測定値は
84㎎/㎗であった
(前甲27,
28)この数値は若干低めであったため,

被告人は,ノボラピッド及びトレシーバを注射した後,普段より多少多めの朝食をとって(ジャム付き食パン1枚,ヨーグルト,砂糖入りコーヒー,バナナ1本,リンゴ4分の1),勤務先に出勤した(前甲50,後乙2,前被告人2-38~39,後被告人1⑴-1~3,8~9)。イ
被告人は,午前8時頃出勤し,勤務先事務所で仕事をするうちに,大
阪府枚方市にある取引先であるEから,商品が届いておらず,早く持ってきてほしいとの連絡を受け,本件自動車を運転して大阪市a区のeにある物流センターまで商品を取りに行った上,これをEに届け,午後1時44分頃,勤務先事務所に戻ったが,その間である午後1時39分頃,携帯していた簡易血糖測定器で血糖値を測定したところ,
224㎎/㎗であった
(前甲27,
28,後甲4,前被告人2-39~40,後被告人1⑴-9~10)。ウ
その後,被告人は,大阪市a区のFにサンプルの食肉(内臓)を配達
する必要があったため,本件自動車を運転して行き,本件駐車場に本件自動車を駐車して,Fへの配達を終えた後,兵庫県尼崎市のGに商品を届ける予定となっていたため,午後2時36分頃に本件駐車場から本件発進をする前に,どら焼き1個とグレープフルーツジュースかアップルジュース1本を摂取した(本件摂食行為)(前甲18,前被告人2-40~41,後被告人1⑴-9~13,後被告人1⑵-10~13)。エ
本件発進直後から,被告人が記憶する経路と本件自動車が実際にたど
った経路は異なり(前甲20),午後3時59分頃,本件事故となった(前甲3,4)。

本件事故後,被告人は,午後4時45分頃,H病院に搬送され,意識
の低下がみられたことから,その原因を究明すべく各種検査が行われ,I医師において,血糖値の簡易検査を指示したところ,32㎎/㎗の低血糖状態であることが判明した。そこで,同医師は,糖尿病の疑いとインスリン使用による血糖値低下の低血糖発作と判断し,血糖値を上げるためにブドウ糖を投与するよう指示し,投与後すぐに正確な血糖値を測定したが,その際の値は38㎎/㎗と未だ低血糖状態であり,再度ブドウ糖を投与するよう指示した(前甲25,45,49)。
2
前提事実からの推認



被告人の血糖値管理の傾向の評価(D証言㋒の点)


前記1⑵のとおり,被告人は,血糖値の管理について,主治医である
C医師から模範的な患者であるとの評価を得るほどの人物であり,日頃から血糖値の管理に取り組んでいたところ,殊に高血糖とならないように,積極的に治療に取り組んでいたものと認められる。これは本件事故前3か月間の被告人の頻繁な血糖値の測定及びその結果の数値が概ね低く抑えられ,時折低血糖とされる70㎎/㎗未満となり,中枢神経症状が現れるとされる50㎎/㎗未満にまで低下することも複数回あったことに,よく現れている。イ
弁護人は,被告人の血糖値測定結果からは,低血糖値だけでなく高血
糖値も多く測定されているなどと主張するが,弁護人が主張するような高血糖値があっても,一部の例外を除いてその後に低く抑えられた数値となっているのであり,低血糖とされる70㎎/㎗どころか,それを越えて中枢神経症状が現れるとされる50㎎/㎗未満になるまでの低血糖状態の数値が少なからず現れていることにも鑑みると,弁護人の主張によって,被告人の血糖値管理の傾向に関する上記評価が変わることはない。

なお,本件事故後に被告人が搬送されたH病院のカルテ(前甲49)
によれば,被告人が血糖値や血糖測定に対して不安やこだわりがあり,高血糖が持続することに対する恐怖がある一方,低血糖に対する知識が乏しく,指導が必要であるとの評価がされており,本件事故の約1年後に,被告人がB病院に入院した際のカルテ(後甲10)によっても,200㎎/㎗前後の血糖値を確認して指示外のインスリン治療薬を注入したり,インスリン治療薬を注入し過ぎ,後で低血糖になるという事態に至ったこともあることが認められるのであって,これらも,高血糖の持続に不安を抱く被告人の繊細な傾向を裏付けるとともに,低血糖に対する意識の低さも裏付けるものと評価できる。


追加インスリンの摂取の推認(争点①)


被告人の行動傾向からの検討
前記1⑶のとおり,被告人の血糖値は,午前6時17分頃,84㎎/
㎗であったところ,その後朝食をとり,勤務先での仕事や商品が届いていないとのクレームへの対応のための商品配達等を経て,被告人の供述によれば午後0時51分から58分の間に血糖値を30ないし40㎎/㎗上げる効果のある缶コーヒーを飲んだだけで(後被告人1⑴-11,1⑵-23~24)昼食も取らないまま午後1時39分頃に至って測定したにもかかわらず,,
その値は224㎎/㎗であった。これは,空腹時の血糖値130㎎/㎗未満という目安とのかい離が著しいばかりか,朝食から相当に時間が経過しており,通常の空腹時より更に血糖値が下がっていて然るべき時期における数値であることをも考え合わせると,高血糖であることを被告人に更に強く意識させる数値であると考えられる。そうすると,前記⑴のとおり,高血糖を嫌う被告人の血糖値管理の傾向からすれば,224㎎/㎗という高い数値が気にならないはずはなく,追加でノボラピッドを注射して,血糖値を下げておきたいと考えるのは,自然なことと考えられる。
その上で,被告人自身,周囲に人がいるときという留保はしつつも,血糖値が高いと感じ,200㎎/㎗以上になると,追加インスリン(ノボラピッド)を注射していたことを認めてもおり(後被告人1⑵-8~10),午後1時39分の数値である224㎎/㎗であれば,周りに人がいればインスリン注射を打つ数値であることを認めている(後被告人1⑵-37)。そうであれば,被告人は,前記1⑶イのとおり,午後1時44分頃に勤務先事務所に帰社したのであるから,その際に,追加インスリンを打ったとしても不自然とは考えられない。

血糖値の推移からの検討(D証言㋐の点)
また,被告人は,前記1⑶ウのとおり,高血糖値が測定されてから約
1時間後の午後2時36分に本件駐車場から本件発進をする前に本件摂食行為によって,どら焼き1個とグレープフルーツジュースかアップルジュース1本を摂取したことを認めているが,それにより,被告人自身の認識によっても,合わせて150ないし160㎎/㎗の血糖値上昇をもたらす効果がありながら(後被告人1⑵-10~14),前記1⑶エ,オのとおり,それから1時間半も経たない午後3時59分頃に本件事故を起こし,午後4時45分頃に搬送されたH病院での血糖値の簡易検査結果は32㎎/㎗の低血糖状態で,血糖値を上げるためにブドウ糖を投与し,投与後すぐに血糖値を測定しても,38㎎/㎗の低血糖状態にあったというのである。
こうした血糖値の急激な降下について,D医師は,午後1時39分頃に224㎎/㎗の測定結果となったときに,インスリン注射をしたということが考えられ,ノボラピッドを使わなければ上記のような急激な降下をすることは考えられないとの見解であるが(後D2-18~23,後C2-43~46(対質部分のD証言部分)。),同見解は,被告人が当時使用していたインスリン注射(ノボラピッド及びトレシーバ)の効能や本件発進時に至る被告人の血糖値測定結果を踏まえた,医学的知見に基づく合理的なものといえる。
弁護人は,D医師は,本件発進後の血糖値降下の原因が追加インスリン注射によるものか否かという点について,差戻前第1審と差戻後第1審で正反対の結論について,それぞれ根拠を示して供述しているなどと,要するに供述態度が誠実でなく信用できないとの主張をする。しかしながら,前記第2の2⑴⑵のとおり,検察官において,本件当日,被告人が追加インスリンを摂取していないことを前提に訴因を構成し,差戻前第1審も,それを前提に審理を進めたものであるところ,D医師の差戻前の証言は,追加インスリンなしでは午後1時39分から約1時間程度でそれほど血糖値が下がることや,血糖値が30台にまで落ちることは考えにくいと検察庁で話したことを証言した上で,検察官から,被告人は追加インスリンを投与していないとの話を前提として,上記のような血糖値の降下について,医学上,本件事故前頃に被告人が追加インスリンを打ったとの断言まではできないか,と誘導されたのに対し,それはできないと答えたものであり(前D4-7),その後の弁護人や裁判官からの質問に対し,本件のような血糖値の降下は,インスリン等を打たなければ,考えにくいとの証言を繰り返していたものである(前D4-20~21,27)。そうすると,D証言は,上記のような差戻前第1審における訴因との関係で制約を受けた点を考慮すると,その差戻前第1審での証言と差戻後第1審での証言との間に,その医学的知見についての信用性を疑わしめるような供述の変遷や知見の変更はない。したがって,この点から,D証言の信用性を論難する弁護人の指摘は当たらない。一方,被告人は追加インスリンを打ったことを否定し,C医師も,それを支持する見解を述べるところ,弁護人は,これらを排斥した原審の判断を論難する。しかし,以下に詳述するとおり,C医師の見解は採用することができず,追加インスリンを打ったことを否定する被告人の弁解も信用できない。
すなわち,C医師は,大要,被告人の糖尿病は,血糖値の変動が非常に激しく,1型糖尿病の中でも特別な不安定型糖尿病であり,それにもかかわらず,救急車での搬送は2回しかなく,被告人の血糖値コントロールは優秀であった(後C2-3~4),当日午後1時39分の224㎎/㎗という血糖値は,その時間帯を考えると高くもなく低くもないから,食事とインスリン注射を後回しにするということは普通の行動であるし,自動車を運転する前であれば,上記血糖値を下げるために食事をとらないままインスリン注射をするのは無謀であって,日頃から適切に血糖値をコントロールしている被告人がそのようなことをするはずがない(後C2-9~10),被告人は非常に不安定な糖尿病なので,本件発進時点での血糖値は,まだ高い状態にあった可能性がある(後C2-11~12),その時点でどら焼きとジュースを摂取するくらいは昼食をとっていないときの間食として問題がなく,万が一の低血糖に備えて食事代わりに摂取したと考えられる(後C2-12),午後1時39分頃に224㎎/㎗という値になった後,インスリンを注射していないのに,午後3時59分頃に意識障害を起こすほどの低血糖になるということは,現実に起きたことなので,起こり得ると思う(後C2-14),その原因は,例えば,皮膚の下に硬結して,たまっていたインスリンが急に吸収されたとか(インスリン抗体),血糖を上げるホルモンがストレスなどから制御され,血糖が上がりにくい異常な状態になったなどということかもしれないが,1型糖尿病は医学的に未解明な部分が多いため,今までの医学では予期せぬことが起きたと考えられ,結局,本件当日,初めて無自覚性低血糖を起こしたと考えられる(後C2-14~16),というのである。しかし,C証言は,要するに被告人の供述が信用でき,糖尿病歴が長く,その間の血糖値管理が模範的な患者ともいい得る被告人が,不適切な対応をするはずがないという,被告人に対する信頼感を背景とするもので(後C2-10,28,46(対質部分のC証言部分)),追加インスリンは打っていないという被告人の供述を前提とすると説明が困難な血糖値の急降下については,医学には未解明の部分があると述べるにとどまるものである(後C14~15,43(対質部分のC証言部分))。こうしたC証言は,D証言が被告人の当日の血糖値の変化を合理的に説明するとともに,C医師が可能性の一つとして挙げたインスリン抗体の可能性についても,本件に至るまでの被告人の血糖値測定結果からして,その傾向を見て取ることができないことなどの根拠を示した上で可能性が低いと説明するなど(後D2-21~23,29~30),合理的なものであるのに対し,被告人の供述を前提に,それで説明がつかないことは医学的に未解明な部分があると述べるだけのものとの評価を免れず,その説得力はないといわざるを得ない。
そもそも,被告人自身,血糖値が180㎎/㎗を超えると高いと感じ,インスリン注射をしたり,食事を野菜だけにして御飯を半分や3分の1にしたりするなどの調整をすることは認めているのであって(後被告人1⑵-7~8),それにもかかわらず,朝食後,途中で缶コーヒーを飲んだだけであるのに,通常の昼食時間から相当時間が経過した午後1時39分の時点で,なお,224㎎/㎗という極めて高い血糖値が測定されていることを認識しながら,その血糖値を下げるための追加インスリンを打つこともなく,かえって,どら焼きとジュースの摂取という,血糖値を猛烈に上昇させることが見込まれる行動に出ることは考え難いというD証言
(後D2-15~19)
は,
糖尿病患者の心情に即した説得力に富むものであり,前記⑴のとおりの被告人の従前の血糖値管理の傾向ともよく整合する。短時間の血糖値上昇は問題にする必要がなく,小腹がすけば,上記のような状況下においても,空腹を満たすためにどら焼きとジュースを摂取することはあり得るなどというC証言(後C2-12,38~39(対質部分のC証言部分))は,殊に血糖値管理を忠実に遂行してきた被告人のような糖尿病患者の心理にそぐわない不合理なものであり,そのような不合理な行動を内容とする被告人の弁解もまた,信用することができない。なお,被告人の供述は,例えば,当日,血糖値224㎎/㎗を測定した場所について,当初,会社の中であると断言しながら(前被告人2-16,39~40,後被告人1⑴-10~12),カーナビゲーションの記録を示して検察官から追及されると,
供述を変遷させて,
車内で測定することもある旨供述するなど(後被告人1⑵-29~31,43~44),その供述態度は誠実なものとはいい難く,こうした面からしても,容易に信用することはできない。
以上のとおりであって,弁護人の主張は採用できず,追加インスリンを打ったことを否定するC証言及び被告人の弁解によって,D証言の信用性が左右されることはない。
まとめ
以上のとおり,
血糖値の推移及び被告人の従前からの血糖値管理の傾向に,
D医師の専門的知見に基づく見解をも踏まえて,被告人は,午後1時39分頃に血糖値が224㎎/㎗であることを確認した後,本件発進前にどら焼きとジュースを摂取するまでの間に,追加インスリンを打ったと認めた原審の認定判断は,合理的なものである。
低血糖状態の認識(争点②)(D証言㋑の点)

D証言の信用性とそれによる推認
前記1⑶エのとおり,本件発進後,本件事故に至るまでに本件自動車
がたどった実際の経路と,被告人が記憶する経路は,本件発進直後から大きく異なる(前甲20)。これからすれば,被告人は,本件発進直後から,意識の低下を招くほどの低血糖状態にあったことが推認される。
また,ノボラピッドは,15分ほどで効果が出始め,1時間ほどでピークに達するところ(後D2-19,32),被告人が,前記1⑶イのとおり午後1時39分頃の血糖値測定後,午後1時44分頃に勤務先事務所に戻った際に,ノボラピッドを注射したとすれば,午後2時36分の本件発進の前後に,ノボラピッドの効果はピークに達することとなる。
以上からすれば,
前記1⑶イ,
ウのとおり,
被告人が,
午後1時39分頃,
224㎎/㎗という高い血糖値を認識しながら,午後2時36分頃の本件発進の前に,血糖値を急激に上昇させることが見込まれるどら焼きとジュースを摂取したことは,ノボラピッドの効果により血糖値が降下したのを感知して,低血糖症を防ぐための行動であったと整合的に理解することができ,それにもかかわらず本件事故に至ったのは,低血糖状態を認識した被告人が補食をしたものの,ノボラピッドの効果が勝ったことにあるとするD医師の見解(後D2-17~24)は,合理的なものといえる。
また,D医師は,糖尿病治療の専門医としての専門的知見に基づき,また,自らも糖尿病を患う者としての経験や感覚にも基づき,どら焼きだけでも血糖値を相当に上げる効果があり,過剰となるおそれもあるほどであるから,本件発進直前に被告人がどら焼きとジュースという,通常の低血糖では摂取することがないぐらい血糖値を猛烈に上げる作用のあるものを摂取したのは,そのようなものを摂取しないといけないという低血糖状態に立たされたためではないかとの見解を述べているが(後D2-15~19),これも合理性を有する見解ということができる。
これに対し,弁護人は,どら焼きやジュースにブドウ糖は含まれておらず,低血糖への予防としての意味はあるとしても,既に低血糖に陥った場合の対策としては,ブドウ糖ゼリー(グルコレスキュー)との間には大きな違いがあるなどとして,D証言に依拠して,被告人が低血糖への対処としてどら焼きとジュースを摂取したとする原判決の推認を論難する。確かに,医学的知見に基づき厳密にいえば,効果の速さにおいて,グルコレスキューとどら焼き等に指摘のような差があるとはいえる。しかしながら,他方で,ジュースのような液体は,一瞬にして数十グラムの量を摂取でき,また,グルコースを吸収する小腸にも速やかに到達する利点もあることからすれば(後D2-15~16,34~35),被告人が,低血糖への対処方法として,ジュースを含む本件摂食行為を行ったとしても,
不自然でも不合理でもなく,
この点は,C医師も,低血糖に備えて車の中にブドウ糖あるいはジュースなどを常備するよう指導していたことは認めているところであり(後C2-18~20),被告人自身も,低血糖を感じたときに,グルコレスキューではなく,おやつで済ますことがあったことは自認するとともに(後被告人1⑴-6),どら焼きが低血糖時の補食の目的を有していたことも認めているところである(後被告人1⑵-10)。弁護人の指摘は当たらない。さらに,被告人自身,低血糖状態にあるときの症状は,測定しなくても認識できるとしており(後被告人1⑵-5,36),しかも,一般に,血糖値が急激に下がるときには,緩やかに下がる場合と異なり,低血糖を感知しやすいというのであるから(後D2-20,後C2-5,17~18),午後1時39分頃には224㎎/㎗という高血糖状態にあったものが,午後2時36分頃の本件発進直後頃から,意識に障害を来すほどの低血糖状態,すなわち50㎎/㎗以下程度まで急激に降下したとみられることをも併せ考慮すれば,D証言のいうとおり,被告人は,低血糖状態を認識できていたと推認するのが相当である。

被告人の逮捕直前における供述(前乙2)について
なお,被告人自身,当初,警察官に対し,体が熱くなるという低血糖
の症状を認識したことを認める供述をしていたところ(前乙2),この供述は,前記アのとおり,信用できる被告人の血糖値の推移や本件摂食行為など被告人自身の行動に基づくD証言による推認とよく整合しているのであって,この点から,上記被告人供述の信用性が裏付けられるとともに,その供述内容も,また,前記アの推認を裏付けている。
これに対し,弁護人は,同供述調書を作成したJ警察官(以下J警察官という。)の証言は,自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律3条2項の危険運転致傷罪(以下3条危険運転致傷罪という。)による逮捕を予定する状況下での取調べであるにもかかわらず,3条危険運転致傷罪の構成要件の中核となる部分について何の指示もないまま取調べを担当したかのようにいう不合理なもので,このような不自然な証言をするのは,被告人から事情を聴く際に,低血糖症の前兆に当たる内容を意識的に調書化しようとして被告人を誘導したためであるなどとして,その信用性を否定する。しかし,弁護人の指
件摂食行為やそれに対するD証言の評価等,被告人の上記供述の信用性を根
左右しない。
また,低血糖の場合の症状は,個々の患者によって症状が異なるというのであり,C医師においても体が熱くなること,イコール低血糖とは言わないことからすれば(前D4-13,前C3⑵-4),医学的知見がないJ警察官において,被告人が,車内が熱かった旨の話をしたところ,J警察官から,低血糖の兆候ではないかとして,被告人供述として録取されることは(前被告人2-31~34,72~73),考えられない。
なお,弁護人は,本件発進時点において,被告人が血糖値を測定していないことを指摘し,低血糖の兆候を感じていれば低血糖の状態であることを認識することが可能であるから測定しないという結論などとるはずはないとして,被告人が低血糖の症状を認識していたとする原判決の認定を論難する。しかし,前記2⑴のとおり,被告人には,高血糖を嫌う一方,低血糖に対する意識の低い傾向が認められることからすれば,本件発進の時点において,低血糖の症状を感じても,それを軽く捉え,血糖値の測定をすることのないまま,本件摂食行為で対応可能であると軽信して,本件発進に及んだとしても,不自然ではない。
3
結論



以上検討してきたことからすれば,争点①について,本件事故の際の
血糖値の低下の原因が,被告人が本件当日午後1時39分頃から午後2時36分頃までの間に追加インスリンを注射したためであると認め,争点②について,被告人が本件発進時点で低血糖症の前駆症状を自覚していたと認められるとした原判決の認定判断は,論理則,経験則に適う合理的なものであって,事実の誤認はない。
そうすると,被告人は,本件発進前に,低血糖症の前駆症状を自覚したことから,これに対処するため,本件摂食行為を行って,血糖値を上昇させようとしたものと認められるが,原判決も説示するとおり,糖分を補食しても血糖値が上昇しないことがあることは被告人も認めていることからすれば(前被告人2-50),本件摂食行為によっても,なお,血糖値を回復できない可能性があることは予見できたと認めるのが相当である。


しかるに,被告人は,前記1⑶ウ,エのとおり,本件摂食行為後,本
件発進をし,
その後,
低血糖発作に陥っているのであって,
これからすれば,
被告人が本件注意義務に違反したことは明らかであって,その判断過程に矛盾があるとする弁護人の主張は採用できない。
したがって,本件発進時点で,被告人に,本件注意義務があったと認め,原判示のとおりの過失を認めた原判決の認定判断は正当として是認することができる。事実の誤認をいう論旨は理由がない。
よって,本件控訴は理由がないから,刑訴法396条によりこれを棄却することとし,主文のとおり判決する。
令和2年9月10日
大阪高等裁判所第3刑事部

裁判長裁判官

岩倉広修
裁判官

澤田正彦
裁判官

山田裕

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