判例検索β > 令和1年(う)第1168号
殺人
事件番号令和1(う)1168
事件名殺人
裁判年月日令和2年1月23日
裁判所名・部東京高等裁判所  第6刑事部
結果棄却
原審裁判所名横浜地方裁判所
原審事件番号平成30(わ)1046
裁判日:西暦2020-01-23
情報公開日2020-06-04 22:29:48
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令和2年1月23日宣告

東京高等裁判所第6刑事部判決
殺人被告事件
主文
本件控訴を棄却する
理由
第1控訴の趣意
本件控訴の趣意は,検察官竹内寛志作成の控訴趣意書記載のとおりであり,論旨は,被告人が公訴事実記載の犯行を行ったことは明らかであるのに,被告人を犯人と認めるのに合理的な疑いがあるとして,被告人に無罪を言い渡した原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある,というのである。これに対する答弁は,弁護人(主任)甲,同乙作成の答弁書記載のとおりである。
第2事案の概要
1訴因変更後の本件公訴事実の要旨

被告人は,平成29年12月12日午後11時30分頃,相模原市南区内の歩道上において,被害者(当時60歳)に対し,殺意をもって,持っていた刃物で,同人の左胸部,右上腹部及び右大腿部を突き刺すなどし,よって,同人を多発刺創に基づく出血性ショックにより死亡させて殺害した。
2原判決の判断の概要

原判決は(以下,略称の記載については,特に断りのない限り原判決に従う。),何者かが,前記1の日時,場所において,本件犯行に及んだことは関係証拠から認定できるとした上で,検察官が被告人の犯人性を推認させると主張した間接事実(事実①ないし④)について,概要,以下のとおり判断し,被告人が犯人であることに合理的な疑いを差し挟む余地がない程度の立証がされ
たとはいえないとして,被告人を無罪とした。
被告人の眼鏡及びたばこの箱が本件現場に落ちていたこと(事実①)について

本件犯行の約2時間後(平成29年12月13日午前1時30分

頃)から実施された実況見分の際に本件現場で右側のツルが折れて欠損した眼鏡(眼鏡本体)
,眼鏡の右側のツル(眼鏡のツル)及びたばこの箱(本件たば
この箱)が発見された。
眼鏡のツルの品番と眼鏡本体のそれとの一致に加え,それぞれの遺留地点,眼鏡本体の付着物のDNA型等からすれば,眼鏡本体と眼鏡のツルはもともと一体で,被告人が本件当時日常生活において常用していた眼鏡(本件眼鏡)の一部であり,被告人は本件現場に本件眼鏡を遺留したと認められる。また,本
件たばこの箱から被告人の左母指と一致する指紋が検出され,本件たばこの箱が本件眼鏡に近接して遺留されていたことに照らせば,本件たばこの箱は,本件眼鏡と同時に,被告人によって遺留されたと認められる(以下,両者を併せて本件眼鏡等という。。

遺留の時期については,被告人と親しい同僚が,同月13日の夜,眼鏡をな
くした被告人をいたわる趣旨のメッセージをラインで送信していることなどからすると,同月12日の被告人の職場終業時刻以降,すなわち同日午後5時30分頃以降の可能性が高く,本件眼鏡等の発見の経緯からして,遅くとも犯人が逃走した同日午後11時30分過ぎまでであったと認められる。被告人が本件当夜に別の同僚に対してラインで送信した最後のメッセージの
送信時刻が同日午後9時49分であるところ,検察官は,被告人がラインのメッセージを送信してから外出をして,本件眼鏡等を紛失した旨供述していることから,その遺留は同時刻以降であると主張するが,被告人の供述自体それほど明確なものではない上に,ラインのやり取りには,被告人の外出に関連する内容が含まれておらず,被告人の供述を前提に被告人が前記メッセージ送信後
に外出をしたと認定することはできない。

被告人は,本件犯行を含む時間帯に,本件現場において,本件眼鏡等を落とし,しかも,それらを拾わなかったということになり,被告人がこれらを拾うことができない事情があったと考えられる。
しかし,その事情と本件犯行との結び付きを考えると,犯人が被害者と殴り合い等の暴力を伴う激しい喧嘩をした後,本件現場から逃走したという犯行状況からすれば,被告人が本件犯行時に本件眼鏡等を落としたが,逃走の必要から,やむを得ず本件眼鏡等を拾わなかったとも考えられる一方で,本件現場は被告人の生活圏内にあり,上記のとおり本件眼鏡等が遺留された時間帯にはかなりの幅があり,犯人が眼鏡を着用し,本件犯行の際にそれを落としたというような,本件眼鏡等と本件犯行とを直接結び付ける事情は認められず,例えば,
酒に酔っていたために転倒するなどして本件眼鏡等を落としてそのまま本件現場を立ち去ったなど様々な可能性が想起できる。
したがって,被告人が本件眼鏡等を本件現場に落とし,これを拾わなかった原因が本件犯行に限定されるとまではいえない。また,検察官の主張する時間帯(午後9時49分以降)を前提としたとしても,なお相当の時間的な幅があ
ることには変わりがなく,結局,本件犯行以外の原因により本件眼鏡等が遺留された可能性を排斥することはできない。
そうすると,認定した事実は,この事実だけでも,被告人が犯人であることを推認させる程度,すなわち,被告人が犯人であると証明する方向に働く程度がそれなりに高い事情であるとはいえるが,それ以上に高いものであるとはい
えない。
被告人の自宅アパート(本件アパート)の駐輪場(本件駐輪場)に,被害者の血液が付いた住人A1所有の自転車(本件自転車)があったこと(事実②)について

犯人は,本件犯行後,自転車に乗って本件現場から逃走したが,後
日,本件駐輪場において発見された本件自転車のフレーム,チェーンカバー及び後ろブレーキから採取された6つの人血のDNA型が被害者のそれと一致したことが認められ,人血の付着箇所,本件自転車の所有者であるA1と被害者には面識がなく,本件現場と本件駐輪場が離れていることに照らせば,本件犯行以外の機会に被害者の血液が本件自転車に付着するとは考え難く,上記血液は本件犯行時に付着したと認められる。
そして,本件自転車は,日頃から無施錠で誰でも出入り可能な本件駐輪場に駐輪されており,A1が,本件の頃に本件自転車を盗まれたことがあるとは証言していないことにも照らせば,犯人は,本件犯行前に本件駐輪場から本件自転車を持ち出し,本件犯行後に本件自転車を本件駐輪場に戻したと認められる。イ
本件アパートが駅から離れ,幹線道路から何本も入った丁字路の行
き止まりに面した場所に所在することからすると,犯人が,その近隣にも居住していないのに,あえて本件駐輪場から本件自転車を持ち出し,本件犯行後に本件自転車を再び戻す可能性は低いと考えられるので,本件アパート又はその近隣の住民が犯人である可能性は高いと考えられる。
なお,被告人以外の本件アパートの男性住人であるA1とその家族(父のA
2,兄のA3)と別の住人Bが犯人である可能性についてみると,A2は外出に車いすが必要で自転車に乗れないため犯人であるとは認められず,本件目撃者らの証言する犯人の特徴(年齢が30代の男性,身長が被害者(身長164cm)と同じくらい,小太り又は中肉中背,顔が下膨れ又は丸顔,目はたれ目などというもの)とは,A3は体格や顔つきの点で,Bは身長の点でそれぞれ
異なっているから,いずれも犯人でないと認められるが,A1(平成13年10月生)の本件当時の身長,体格及び顔つきは前記犯人の容貌と矛盾せず,裁判所に顕著なA1の風貌からすると,年齢も視認状況によっては30代に見えることがないとはいえず,本件当夜の外出を否定するA1証言等を信用することもできないから,A1が犯人である可能性を否定できず,被告人以外に,A
1が犯人である可能性も残る。

被告人は,本件の約2週間前に本件アパートに転居したばかりで,A1が本件自転車を使用する時間帯を把握していたと断定することはできない上,多くの部品を取り替えるなど愛着のある自転車を所有していたことも踏まえると,A1や本件アパートの近隣住民と比べて,被告人の方が本件当夜に本件自転車を使用した可能性が高いともいえない。

したがって,前記認定事実は,この事実だけでは,被告人が犯人

であることを推認させる程度,すなわち,被告人が犯人であると証明する方向に働く程度は低いものにとどまる。
被告人が本件当夜に外出し,帰宅後すぐに衣服を捨てたこと(事実③)について
被告人の妻である丙は,平成29年12月頃の夜,被告人が,丙の入浴中,酒を買うためと思われる外出をし,それから帰った後に衣服(灰色と白のボーダー柄の上衣と灰色のズボン)を捨てたという出来事があり,後日,丙は,被告人から3日くらい前に酒に酔って転んだことで眼鏡をなくしたと言われたので,被告人が衣服を捨てた日に眼鏡をなくしたのだと思った旨証言していると
ころ,検察官は,この丙証言に依拠して,被告人が衣服を捨てた日が眼鏡をなくした日,すなわち本件当夜である旨主張するが,丙が捨てた日をそのように考えた客観的な根拠があるわけではなく,丙の証言を前提としても,被告人が本件当夜に衣服を捨てたとは言い切れない。
被告人の年齢,体格等は犯人のそれと矛盾しないこと(事実④)につ
いて
本件目撃者らは,犯人について,年齢が30代の男性,身長が被害者と同じくらい,小太り又は中肉中背,顔が下膨れ又は丸顔などといった被告人と矛盾しない特徴を証言しているが,この特徴自体はごくありふれたものにすぎないから,この事実が被告人が犯人であると証明する方向に働く程度は低いもので
ある。
間接事実の総合について
以上によれば,認定できた事実①,②及び④は,それぞれ単独でも,被告人が犯人であることを一定程度推認させる。しかしながら,事実②は,被告人が本件当夜に本件自転車を使用した可能性が高くない以上,事実①と重なっていてもその評価は限定的なものにとどまるし,事実④は,被告人が犯人であるとすれば整合する事実にすぎない。したがって,被告人の弁解について検討するまでもなく,事実①,②及び④を組み合わせた全体としての事実関係について総合評価しても,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない,あるいは,少なくとも説明が極めて困難であるとはいえず,被告人が犯人であることについて合理的な疑いを差し挟む余地がない程度の立証がされ
たとはいえない。
第3当裁判所の判断
以上の原判決の認定,判断は,原審証拠及び論理則,経験則等に照らして不合理なところはなく,当裁判所としても正当として是認できる。
以下,所論に即して補足して説明する。

1事実①(本件眼鏡等が本件現場に落ちていたこと)について所論は,原判決の推認力の評価の過程には,以下の誤りがあり,その結果,事実①の推認力を殊更弱く認定した,すなわち,①被告人が本件眼鏡等を本件現場に遺留したのは,本件当日午後9時49分以降であるのに,原判決が午後5時30分頃以降に遺留したと認めるにとどめたのは誤りである,②本件眼鏡
が本体とツルに分離したのは,本体右側とツルをつなぐ部分に地面に落とした以上の衝撃が加わったことが原因であり,本件眼鏡が地面で誰かに踏まれるなどした形跡はないから,それは本件眼鏡が本件歩道上に落ちる前のことと認められ,視力が0.05しかなく,金銭的余裕のない被告人が本件眼鏡を遺留したまま立ち去ったのは,あえてそれらを遺留しなければならない非日常的な相
当差し迫った事情があったからであり,それは,本件犯行,すなわち,犯人が被害者から顔を殴られるなどし,被害者を刃物で刺して逃走したことであるとすれば極めて合理的に説明でき,原判決の指摘するその他の可能性は抽象的で合理性がない,③原判決が本件眼鏡等の遺留に関する被告人の弁解内容が不自然,不合理であることを考慮しないのは誤りであり,証拠裁判主義に反する,という。
所論①(本件眼鏡等の遺留時間帯)について
原判決は,検察官主張の遺留時間の始期(午後9時49分頃以降)が認められないとしたが,その一方で,検察官が主張した本件眼鏡等の遺留時間帯を前提としたとしても,本件眼鏡等の遺留から本件犯行までの間に相当の時間的な幅があることには変わりがないとしており,この原判決の判断は不合理ではな
い。しかも,原判決は,事実①の推認力の評価を行うにあたり,所論が正当とする遺留時間帯をも踏まえた検討をしていると認められ,所論が遺留時間帯について縷々主張するところは,原判決の事実①の推認力の評価を左右しない。所論②(本件眼鏡の損傷及び遺留の原因)について原判決は,事実①の推認力の評価に当たり,被告人が本件当夜,犯人が逃
走するまでの間に本件現場を通行して本件眼鏡等を遺留したこと,本件現場で被害者が犯人の顔の辺りを殴ったことを前提とした上で,本件眼鏡が遺留され,それが本体とツルに分離していたのは,被害者が犯人の顔の辺りを殴った際に生じたものである可能性があることは,これを肯定しているものと解される。しかし,事実①の推認力を評価する上で,最も脆弱な部分は犯人が本件犯
行時に眼鏡を遺留していったと証拠上認められるかという点である。すなわち,ⓐ被害者は,本件被害の際に犯人の顔の辺りを殴るなどしたが,原判決のとおり,犯人が眼鏡を着用していたといえる証拠はなく,本件眼鏡に被害者との接触を示す痕跡もないのである。そして,ⓑ本件眼鏡については,これを分離するほどの力が実際にどのようなもので,どのような仕方で本件眼鏡に加わった
のかを認定できる証拠はなく,所論の指摘を踏まえても,被告人が本件眼鏡を眼鏡等の遺留から本件犯行までの間について相当の時間的な幅があり,その間に本件現場において本件犯行以外に本件眼鏡等の遺留の原因となるような事態が存在しなかったといえる証拠もない。
これらの事情を併せれば,被告人が本件眼鏡等を遺留した原因が本件犯行に限られるとか,その可能性が高いとまでは認められず,本件犯行以外の原因により本件眼鏡等が遺留された合理的疑いを払拭できない。そうすると,遺留の原因としては様々な可能性が想起できるとした原判決の判断は不合理ではなく,原判決が,そのような原因の一つの例として,被告人が酒に酔って転倒した可能性を指摘したことも,被告人が仕事から帰宅するとほぼ毎日飲酒し,酒
を買いに行くため外出することもあったことからすれば不合理な例示とはいえず,原判決が合理性のない疑いに基づいて判断をしたとはいえない。所論の指摘する被告人の視力(なお,原審証拠によると,被告人は,平成29年12月23日に眼鏡を再購入するまで眼鏡のないまま自転車で通勤して仕事を続けていたことが認められ,眼鏡がなければおよそ生活できないという
状況にはなかった。
)や被告人の家計の状況は,本件眼鏡等の遺留の原因を本
件犯行に絞ることができるものではなく,上記判断を左右しない。所論③(被告人の弁解の不考慮)について
本件眼鏡等の遺留に関する被告人の弁解が不自然,不合理であるとしても,それは,被告人の弁解が信用できないことを意味するにすぎず,そのことによ
って,その他の証拠により示される遺留された本件眼鏡等と本件犯行あるいは犯人との結び付きが強まるものではない。
したがって,原判決が事実①の推認力の評価に当たり被告人の弁解を考慮しなかったことが不合理であるとはいえず,この推認力評価が証拠裁判主義に反しないことも明らかである。

小括
所論はいずれも採用できず,原判決の事実①の推認力の評価に不合理な点はない。
2
事実②(本件駐輪場に,被害者の血液が付いた本件アパートの住人A
1所有の本件自転車があったこと)について
所論は,原判決の推認力の評価の過程には,以下の誤りがあり,その結果,事実②の推認力が低いと不合理な評価をした,すなわち,①本件アパート前の道路を日常的に使用するのは,本件アパート及び正面アパートの各住民のみであるが,近隣住民が本件自転車が常に施錠されずにいたことを認識できたはずがなく,かえって,本件駐輪場に並ぶ自転車を日頃見て,自己の自転車と他の自転車を区別できる本件アパートの住民でなければ本件自転車が施錠されない
まま駐輪されていたことを認識できないから,犯人が近隣住民である可能性も高いとしたのは誤りである,②被告人愛用の自転車は,かなり目立つマウンテンバイクであるところ,被告人は,同自転車を停めていた本件駐輪場にどういった自転車が,どのような状態で停められているか等の把握が容易である一方で,犯人は,刃物を携帯して外出したのであるから,自己の自転車に特徴があ
る場合にはこれを使わないことに理由があり,近隣住民に比して,被告人が本件当夜に本件自転車を利用した可能性が高いとはいえないとしたのは誤りである,③目撃証言から認められる犯人とA1は年齢がかけ離れている上,A1証言の信用性を否定した原判決の判断も不合理であり,A1が犯人である可能性を否定できないとしたのは誤りである,という。

所論①(本件アパートの近隣住民が犯人である可能性)について原判決は,犯人が本件自転車を本件駐輪場から持ち出して戻したと認定した上で,本件自転車が常に無施錠であったことから,所有者のA1やその家族以外も犯人である可能性を肯定したが,犯人が常に無施錠であることを知っている人物に限られるとしたわけではなく,その判断に不合理な点はない。
そして,A1やその家族以外が犯人であるとすれば,犯人は,犯行に使用した刃先の比較的長い刃物を携帯した状態で無関係の他人の自転車を本件駐輪場から持ち出すという非日常的な行動に及んだことになり,そのような行動に及んだ人物が,本件自転車に関心を持ち,無施錠で使用可能なことに気付く機会としては様々なものが想定され,本件アパートが住宅街の中にあり,本件駐輪場が道路から見通しのよい場所にあることも併せて考えると,そのような機会が所論がいうように本件アパートの住民として日常的に本件駐輪場の前を通り,自己と他の住民の自転車を区別するような場合だけに限られるとはいえない。犯人が本件アパートの住民だけでなく近隣住民である可能性も高いとした原判決の判断に不合理な点はない。
なお,当審における検察官の証拠請求の内容も踏まえると,所論は,前記
近隣住民が本件アパートの正面アパートと南西側隣家の住民に限定されると理解しているようであるが,原判決はそのように限定した判断はしていない。本件アパートは,行き止まりの道に接するが,その周囲には多くの民家があり,本件アパートの斜向かいには近隣に住む者が利用していると考えられる駐車場があることなどからすれば,本件自転車が利用可能であることに気付く機会が
ある近隣住民が正面アパートと南西側の隣家住民に限られるとはいえず,原判決の上記判断に不合理な点はない。
所論②(近隣住民と比べて被告人が犯行当夜に本件自転車を利用した可能性の高さ)について
犯人がどのような理由から本件自転車を持ち出したかは証拠上確定できず,
また,被告人が本件当夜に本件自転車を利用したことをうかがわせる証拠もないから,所論のとおり被告人が本件アパートの住民で本件駐輪場の自転車の状況を把握することが容易であるからといって,近隣住民よりも本件当夜に本件自転車を利用した可能性が高いとはいえない。
所論がいう犯人が自らの自転車を使わない理由は,近隣住民等についても
同様に当てはまり,原判決の判断が不合理であることを示すものではない。所論③(A1が犯人である可能性)について
原判決は,A1が犯人である可能性が否定できないことから,被告人が犯人であることに合理的な疑いが生じるとしたのではなく,犯人が本件アパートの住民であるとした場合,犯人の容貌等からA1を犯人から除外できないとしたもので,犯人が本件アパートの住民(具体的には犯人から除外されない被告人及びA1を指す。
)あるいは近隣住民(相当数存在すると考えられる。
)であ
る可能性が高いことを踏まえ,事実②の推認力の評価をしたと解される。しかし,原判決が上記推認力評価に当たってA1を犯人から除外しなかったことの当否はさておき,所論のとおりA1を犯人から除外しても,被告人以外に犯人である可能性の高い者(近隣住民)が相当数存在することに変わりはな
く,原判決がA1を犯人から除外しなかったことは,事実②に関する推認力の評価を特段左右する事情ではない。所論は,結論に影響しない原判決の認定判断を論難するものであり,採用できない。
小括
所論はいずれも採用できず,原判決の事実②の推認力の評価に不合理な点
はない。
3
事実③(被告人が本件当夜に外出し,帰宅後すぐに衣服を捨てたこと)
について
所論は,①被告人の妻である丙の捜査段階から一貫した内容の原審証言により本件当夜に被告人が衣服を捨てたことが推認されるのに,それを認めなかった原判決は誤りである,②仮に,被告人が服を捨てたのは本件当夜と認定できないとしても,被告人が帰宅後に服を捨てたことは,犯人性を推認させる事実であるのに,原判決がこれを考慮しなかったのは不合理である,という。所論①(被告人が本件当夜に服を捨てたか)について被告人は,本件当夜に本件眼鏡等を本件現場に遺留したところ,丙の原審証
言によれば,被告人が平成29年12月頃の夜,外出から戻ってトイレに行き,嘔吐して汚したなどとして部屋着(灰色と白のボーダー柄の上衣と灰色のズボン)を捨てたことが認められ,原判決もこの事実関係を前提としている。そして,両者の時期について所論の援用する丙の原審証言は,被告人が部屋着を捨てたことがあった日の後,被告人から3日くらい前に酒に酔って転んで眼鏡をなくしたと聞き,部屋着を捨てた日と眼鏡をなくしたのは同一の日であると思った旨の推測を述べるものであり,所論のとおり,丙が捜査段階から一貫してこのような供述をしていたとしても,その推測の確度が高まることにはならず,丙の原審証言によって,被告人が部屋着を捨てたのが本件当夜であったと認めることはできない。
所論は,被告人が外出時に衣服を捨てざるを得ない出来事を引き起こしたの
に,その後,再び外出して本件眼鏡をなくすような失態を重ねることは考えられないから,被告人が衣服を捨てた日と眼鏡をなくしたのは同一の日である,というが,そのように断言できる根拠はなく,所論は採用できない。被告人が本件当夜に衣服を捨てたと認定できないとした原判決の認定に誤りはない。

所論②(本件当夜でなくとも帰宅後に服を捨てたことが犯人性を推認させる事実か)について
被告人が部屋着を捨てたのは本件当夜より前であった可能性を否定できず,この場合には犯人性についての推認力はない。他方,これ以外の場合,すなわち,本件当夜あるいはその後の近接した日の夜という時間的幅のある範囲で部
屋着を捨てた場合についても,被告人が捨てた部屋着と同一あるいは類似する衣服を犯人が着用していたといえる証拠はなく(本件目撃者らの各原審証言によっても,犯人のズボンの色が被告人が捨てた部屋着のズボンの色と矛盾しないといえるにすぎない。,捨てられた部屋着に血痕の付着など本件犯行との結)
び付きをうかがわせる痕跡があったといえる証拠もないから,犯人性の推認力
は甚だ乏しい。
前記各場合の推認力を併せて考えると,被告人が,夜間の外出から戻って帰宅した後に部屋着を捨てたことが,犯人性を推認させる事実として特段意味を持つものとはいえず,原判決が,この点を考慮しなかったことが不合理であるとはいえない。
なお,所論は,目撃証言等により認められる犯人の衣服や想定される犯人の衣服への返り血の付着と,被告人が捨てた部屋着が整合しないとした原判決の指摘について,本件犯行が冬の夜であることからすれば,犯人が上着を着用し,その下に衣服を着ていたことは明らかであり,そのような衣服としては被告人が捨てた衣服は整合しないとはいえない,という。
しかし,原判決は,証拠上犯人が着用していたと認められる衣服と被告人が
捨てた部屋着の整合性を論じたのであって,所論のように,証拠上うかがい知ることのできない犯人が上着の下に着ていた衣服と被告人が捨てた部屋着の整合性を検討したものではなく,また,被告人の犯人性の推認に当たって,そのような検討をする意味は乏しい。
4事実④(被告人の年齢,体格等は犯人のそれと矛盾しないこと)につい

所論は,被告人が犯人がかぶっていたものと同様の帽子を多数所持し,犯人が自転車のかごに入れていたのと同じ色の黒色リュックを所持していたことを原判決が考慮しなかったのは不合理であり,本件目撃者らの各原審証言から認められる犯人の特徴と被告人のそれは一致するから,その犯人性に関する推
認力が低いとの原判決の評価は不合理である,という。
まず,本件目撃者らの各原審証言から認められる犯人の年齢,体格,顔つきは自ずから幅のあるものであり,そのような幅のある犯人像と比較してみたとき,原判決のとおり,被告人の年齢,体格,顔つきは犯人と矛盾しないが,このことは,犯人の特徴と一致するといえるような類似性を有することを意味
しない。
さらに,本件目撃者らの各原審証言によると,犯人は,キャスケットのようなつばのあるつぶれたニット様素材の帽子を着用し,自転車のかごに黒いリュックのようなものを入れていたことが認められるが,犯人の帽子が,冬の夜に着用するものとして特徴的なものとはいえず,リュック様のものを所持することやその色は極めてありふれたものである。他方,原審証拠によれば,被告人は,本件犯行当時,キャスケットタイプの帽子(その素材がニットであるとの証拠はない。
)を複数所有し,黒色のリュックを所有していたことが認められ,これらの所持品が犯人の着用あるいは所持していたものと矛盾があるとまではいえないが,被告人が上記所持品を本件当夜に着用あるいは所持して外出したと認めるに足りる証拠もないから,特徴的とはいえない犯人の帽子やリュック
様のものが被告人の所持品と矛盾しないことが,前記のとおり,犯人の性別,年齢,体格,顔つきが被告人と矛盾しないことの推認力をさらに強めるとはいえず,この点を原判決が犯人性を推認させる事実として考慮しなかったことが不合理であるとはいえない。
したがって,事実④に関する原判決の推認力評価に不合理な点はない。
5被告人の不自然,不合理な供述を考慮しなかったことについて
所論は,①被告人が本件眼鏡等の遺留に関し,一貫しない上に証拠と符合しない不自然,不合理な弁解をした上で,本件当夜に腕に衝撃を受けた地点について意図的な虚偽供述をしたことは犯人性を裏付ける積極的な証拠であり,②被告人が捜査段階で

人を殺したかどうかは分からない。

などと供述して
犯人であることを否定しなかったことは,被告人が犯人であることと整合するものであるから,原判決がこれらの点を犯人性認定の基礎としなかったのは不合理である,という。
所論①(被告人の虚偽供述等)について
被告人は,原審公判廷において,本件眼鏡をなくした日は,夜間に外出し,
はっきり覚えていないが,本件現場から少し離れた十字路辺りで衝撃を受けた記憶がある,その衝撃で眼鏡のツルが折れたかどうかは分からない,その後気付いたら居間で寝ていて,起きてから眼鏡とたばこがなくなっているのに気付き,午前1時過ぎにドン・キホーテにたばこを買いに行った旨供述しているが,衝撃の原因については,殴られた可能性を否定する供述をする一方で殴られたことによる衝撃であるかのような供述もしており,他方,捜査段階では,衝撃の原因として,50歳から70歳くらいの男性に殴られた旨を供述していたことも認められる。
しかし,所論が虚偽とする衝撃を受けた地点に関する被告人の供述,すなわち,はっきりしないが前記十字路辺りで衝撃を受けた記憶があるとの被告人の供述は,その正確な場所や時間帯を含めて相当あいまいなものであり,警察官
の原審証言により,前記十字路に位置する防犯カメラの同月12日午後10時から同月13日午前零時までの映像で確認できる範囲では,そのような様子がないことが判明した後も,このようなあいまいな供述を維持しているのであって,客観的な裏付けを欠く供述とはいえても,意図的な虚偽供述であるとまでは認められない。なお,被告人が本件当夜に前記十字路とは別の場所で衝撃を
受けたと断定できるまでの証拠はない。
また,仮に被告人が意図的な嘘として上記のようなあいまいな記憶の存在を述べたとしても,被告人が前記十字路辺りで衝撃を受けたからといって犯人であることが否定されるものではなく,これが犯人でなければつくことのない嘘である蓋然性が高いとはいえないから,被告人がそのような供述をしたことが
犯人であるとの推認を強める方向に働く事情であるとはいえない。そして,所論がその他被告人の供述について縷々主張するところは,要するに,被告人の供述は,その内容が極めてあいまいで本件眼鏡等が本件現場に遺留された理由の説明になっておらず,捜査段階から一貫していない不自然,不合理なものであるというのであるが,それは,本件当夜の行動に関する被告人
の供述が信用できない理由になるとしても,被告人が犯人であるとの推認を強める方向に働く事情ではない。
所論②(被告人の捜査段階の供述)について
被告人は,捜査段階において,どのような事実経緯を述べた上でのことかは分からないものの,

人を殺したかどうかは分からない。

旨供述したことがあったと認められるが,そのようなあいまいな供述の存在が,被告人が犯人であるとの推認を強める方向に働く事情であるとはいえない。
小括
以上のとおりであって,被告人の犯人性の推認に際し,原判決が被告人の原審公判供述あるいは捜査段階の供述を考慮しなかったことが不合理であるとはいえない。

6間接事実の総合評価について
所論は,本件において,犯人性を推認させる間接事実は独立の事実であり,被告人が犯人でないのにこれらの事実の重なりが起こるとは考えられず,原判決は,間接事実の総合評価という観点からの検討を欠いている,という。そこで検討すると,原判決が間接事実として考慮した事実①,②及び④の
推認力の評価に不合理な点はなく,それ以外の点を犯人性を推認させる間接事実あるいは証拠関係として考慮しなかったことが不合理でないことは,既に説示したとおりであり,原判決も事実①,②及び④が互いに独立した事象であることは前提としている。
そして,犯人性を推認させる独立の間接事実が複数存在するとき,犯人性
の推認は一層強まるとしても,そのことによって,最終的に犯人と推認できるかは各事実の推認力に大きく依存するのが通常である。
これを本件についてみると,原判決が間接事実の中で最も推認力の高いものとして位置づけた事実①は,被告人が,本件当夜,犯人が現場から逃走するまでの間に本件現場を通行して本件眼鏡等を遺留した事実を示すものではある
が,遺留の原因が本件犯行である可能性を指摘できるにとどまり,それ以上に本件犯行あるいは犯人との強い結び付きを示すものではなく,また,事実②は,犯人が本件駐輪場にあった本件自転車を使用したことを示すものであるが,このことからは,被告人が,相当数存在する犯人の可能性が高い者のうちの一人であることが示されるにすぎないから,事実①と事実②が重なっていてもその評価は限定的なものにとどまるとした原判決の判断が不合理とはいえない。また,事実④は,被告人が犯人であるとすれば整合する事実にすぎないから,事実①,②及び④を併せても被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない,あるいは,少なくとも説明が極めて困難であるとはいえず,被告人が犯人であることについて合理的な疑いを差し挟む余地がない程度の立証がされたとはいえないとした原判決の判断は不合理ではない。
以上のとおりであって,被告人を犯人と認めるのに合理的な疑いがあるとした原判決の認定に誤りはない。論旨は理由がない。
第4結論
よって,刑訴法396条により本件控訴を棄却することとし,主文のとおり判決する。

令和2年1月24日
東京高等裁判所第6刑事部

裁判長裁判官

大熊
裁判官

奥山
裁判官

浅香一之豪竜太
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