判例検索β > 平成30年(わ)第183号
過失運転致死傷被告事件
事件番号平成30(わ)183
事件名過失運転致死傷被告事件
裁判年月日令和2年3月5日
法廷名前橋地方裁判所
裁判日:西暦2020-03-05
情報公開日2020-03-26 10:00:21
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主被告文人は無

第1
1
罪。

本件公訴事実の要旨
主位的訴因(平成30年10月24日訴因変更決定後のもの)
被告人は,平成30年1月9日午前8時25分頃,前橋市a町b番地所在の被告人方駐車場において,普通乗用自動車の運転を開始するに当たり,かねてから低血圧の症状があり,低血圧により,めまいや意識障害を生じたことがあった上,医師から,同症状によりめまいや意識障害を生じるおそれがあることから,自動車の運転をしないように注意されていたのであるから,自動車の運転は厳に差し控えるべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り,低血圧の症状があったのに,漫然同車の運転を開始した過失により,その頃,同市c町d番地付近道路をa町方面からe町方面に向かい時速約60ないし65キロメートルで進行中,低血圧により意識障害の状態に陥り,自車を右斜め前方に進行させて,同市c町f番地付近道路右側の車道外側線を対向進行してきたA(当時16歳)運転の自転車に自車を衝突させるなどした上,自車を同所付近道路右側路外に設置された縁石等に衝突させて自車を横転させるなどして,A運転の自転車の後方から対向進行してきたB(当時18歳)運転の自転車に自車を衝突させるなどし,よって,Bに入院加療202日間を要する脳挫傷等の傷害を負わせるとともに,Aに脳挫傷等の傷害を負わせ,同月31日午後6時18分頃,同市g町h丁目i番j号所在のC病院において,Aを前記傷害に基づく低酸素脳症により死亡させた。

2
予備的訴因(平成31年3月11日付けで予備的追加を許可したもの)被告人は,平成30年1月9日午前8時25分頃,前橋市a町b番地所在の被告人方駐車場において,普通乗用自動車の運転を開始するに当たり,かねてから低血圧の症状があり,血圧変動等により,めまいや意識障害を生じたことなどがあった上,
医師や家族から,
めまいを生じるおそれがあることなどから,
自動車の運転をしないように注意されていたのであるから,自動車の運転は厳に差し控えるべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り,漫然同車の運転を開始した過失により,その頃,同市c町d番地付近道路をa町方面からe町方面に向かい時速約60ないし65キロメートルで進行中,急激な血圧低下により意識障害の状態に陥り,自車を右斜め前方に進行させて,同市c町f番地付近道路右側の車道外側線を対向進行してきたA(当時16歳)運転の自転車に自車を衝突させるなどした上,自車を同所付近道路右側路外に設置された縁石等に衝突させて自車を横転させるなどして,A運転の自転車の後方から対向進行してきたB(当時18歳)運転の自転車に自車を衝突させるなどし,よって,Bに入院加療202日間を要する脳挫傷等の傷害を負わせるとともに,Aに脳挫傷等の傷害を負わせ,同月31日午後6時18分頃,同市g町h丁目i番j号所在のC病院において,Aを前記傷害に基づく低酸素脳症により死亡させた。
第2

本件の争点及び当裁判所の判断の要旨
当裁判所は,本件の事実関係の下においては,被告人には,主位的訴因及び予備的訴因のいずれについても,両訴因に共通して記載されている交通事故(以下本件事故という。)に対する予見可能性があったとはいえず,自動車の運転を厳に差し控えるべき自動車運転上の注意義務を負う前提を欠くことになるので,被告人は無罪であると判断した。その理由は以下のとおりである。

1
主位的訴因における争点及び当裁判所の判断
検察官は,主位的訴因において,被告人が,⑴かねてから低血圧の症状があり,低血圧により,めまいや意識障害を生じたことがあったこと及び⑵
医師から,同症状によりめまいや意識障害を生じるおそれがあることから,自動車の運転をしないように注意されていたことの2つの事実を,被告人が自動車の運転は厳に差し控えるべき自動車運転上の注意義務(以下,主位的訴因におけるこの注意義務を主位的運転避止義務という。)を負う根拠として挙げ,被告人が上記⑴及び⑵の各事実により主位的運転避止義務を負っていたにもかかわらず両訴因に共通して記載されている自動車の運転開始行為(以下本件運転開始行為という。)に及んだことが被告人の過失である旨主張する。
これに対し,弁護人は,被告人には,本件事故に対する予見可能性がないから,主位的運転避止義務が発生しておらず,仮に主位的運転避止義務が発生していたとしても,被告人は,本件運転開始行為時,事理弁識能力及び行動制御能力を欠いており心神喪失状態にあったから,無罪である旨主張する。当裁判所は,検察官が主位的運転避止義務の根拠として主張する上記⑴及び⑵の各事実はいずれも認定することができず,被告人には主位的運転避止義務の前提となる本件事故に対する予見可能性が認められないため,主位的運転避止義務を負わせることはできないと判断した。
2
予備的訴因における争点及び当裁判所の判断
検察官は,予備的訴因において,被告人が,⑴かねてから低血圧の症状があり,血圧変動等により,めまいや意識障害を生じたことなどがあったこと及び⑵医師や家族から,めまいを生じるおそれがあることなどから,自動車の運転をしないように注意されていたことの2つの事実を,被告人が自動車の運転は厳に差し控えるべき自動車運転上の注意義務(以下,予備的訴因におけるこの注意義務を予備的運転避止義務といい,主位的運転避止義務と併せて本件運転避止義務という。)を負う根拠として挙げ,被告人が上記⑴及び⑵の各事実により予備的運転避止義務を負っていたにもかかわらず本件運転開始行為に及んだことが被告人の過失である旨主張する。
これに対し,弁護人は,主位的訴因と同様に,被告人には,本件事故に対する予見可能性がないから,予備的運転避止義務が発生しておらず,仮に予備的運転避止義務が発生していたとしても,被告人は,本件運転開始行為時,事理弁識能力及び行動制御能力を欠いており心神喪失状態にあったから,無罪である旨主張する。
当裁判所は,検察官が予備的運転避止義務の根拠として主張する上記⑴の事実のうち一部は認定できず,その余の認定事実によっても予備的運転避止義務の前提となる本件事故に対する予見可能性を推認することはできず,被告人には予備的運転避止義務の前提となる本件事故に対する予見可能性が認められないため,予備的運転避止義務を負わせることはできないと判断した。第3
1
本件事故に対する予見可能性
争点
本件の主な争点は,被告人が本件運転開始行為時に本件運転避止義務を負うか否かであるが,本件事故を予見することができなければ本件運転避止義務を被告人に負わせることはできないから,本件運転避止義務を判断する前提として,本件事故に対する予見可能性の内容について検討する。
2
当事者の主張
検察官は,本件事故に対する予見可能性は,自動車の運転を開始すれば,その走行中に正常な運転が困難な状態に陥って自動車の制御ができなくなり,人を死傷させてしまうことであり,運転避止義務違反の有無を判断するに当たり検討すべき予見可能性の内容は,現実に発生した事故の直接原因(本件で言えば,自動車を運転中に意識障害の状態に陥ったこと)を含む正常な運転ができなくなる状態に陥ることの予見可能性(おそれの認識)と考えるのが相当である旨主張する(平成31年1月11日付け事務連絡に対する回答1⑴,平成31年2月12日付け補充意見書)。
これに対し,弁護人は,走行中に正常な運転が困難な状態に陥って自動車の制御ができなくなる原因は,外的原因及び内的原因それぞれ様々な原因が考えられ,その全てが運転避止義務の発生を基礎づけるとすれば,一般的・抽象的な危惧感のみによって過失が成立し得ることとなり,また,被告人に対し防御の範囲を告知し争点を限定するという訴因の機能からしても,走行中に正常な運転が困難な状態に陥って自動車の制御ができなくなりという部分だけでは,予見の対象となる構成要件的結果に至る因果関係の基本的部分として不十分である旨主張する(平成31年1月24日付け意見書,同年2月13日付け意見書)。
3
当裁判所の判断
当裁判所は,本件事故に対する予見可能性の内容として,被告人には,自動車の運転を開始すれば,その運転中に低血圧又は急激な血圧低下により意識障害の状態に陥り,正常な運転が困難な状態になって自動車の制御ができなくなり,人の死傷という結果に至る因果経過に対する予見可能性が必要であると判断した。その理由は,以下のとおりである。


過失運転致死傷罪が成立するためには,その要件である注意義務違反の前
提として人の死傷という結果の発生が具体的に予見可能であることが必要である。なぜなら,人の死傷という結果の発生が予見できなければ,その結果を回避すること自体が不可能であるばかりでなく,行為者を非難することができないからである。内容の特定しない一般的・抽象的な危惧感又は不安感を抱く程度で直ちに結果を予見し回避するための注意義務を負わせるのであれば,過失犯成立の範囲が無限定に広がるおそれがあり,責任主義の見地からも相当であるとはいえない。したがって,予見可能性の対象は,責任主義の見地から結果回避措置を取らなかった行為者を非難できる程度,すなわち,行為者の置かれた立場において結果発生の回避手段を取りうる程度に具体的な内容でなければならず,人の死傷という結果に対して内容の特定しない一般的・抽象的な危惧感又は不安感を抱く程度では足りず,人の死傷という結果及びその結果の発生に至る因果関係の基本的部分の予見を含むと解される。そして,予見可能性については,行為者の置かれた立場(行為者の知識や能力,行為時の具体的状況等)とこれらに対する行為者の認識を前提とした上で,一般人が持つべき健全な常識を基準として判断すべきであると解される。


本件事故に対する予見可能性についてみると,本件公訴事実は,主位的訴
因及び予備的訴因に共通して,本件事故の発生に至る因果経過につき低血圧
(主位的訴因)又は急激な血圧低下(予備的訴因。なお,検察官が第4回公判期日で釈明したところも踏まえると,主位的訴因における低血圧とこの急激な血圧低下とは異なる事実を意味するものではないから,以下,両者を区別せずに低血圧ということがある。)により意識障害(検察官が第5回公判期日において釈明したとおり,意識消失に限らず,意識レベルが著しく低下した状態の意味である。以下,単に意識障害という。)の状態に陥り,本件事故を起こし,よって,Aを死亡させBに傷害を負わせたとするものである。このような訴因の記載から,本件において本件運転避止義務を負わせる前提として必要な予見可能性の対象となる結果及びその結果の発生に至る因果関係の基本的部分とは,被告人が,自動車の運転を開始すれば,その運転中に低血圧又は急激な血圧低下により意識障害の状態に陥り,正常な運転が困難になって自動車の制御ができなくなり,人の死傷という結果に至る因果経過を指すものと解される。


この予見可能性の点について,
検察官は,
自動車を運転しようとする者は,

運転開始時における自己の体調,それまでの病歴,病状や治療状況,医師等の専門家や周囲の者からの注意,それまでに経験していた体調不良(本件で言えば,血圧の低下やめまいの発生,転倒して病院に救急搬送されたこと等)及び自己のこれまでの運転状況等を総合して,このまま自動車の運転を開始した場合,何らかの正常な運転ができなくなる状態に陥るおそれがあるか否かを判断して運転を開始してもよいか否かを決すべきであり,そのようなおそれがあると判断でき,かつ判断すべきであったにもかかわらず漫然と自動車の運転を開始したところ,正常な運転ができない状態に陥って事故を惹起したのであれば,運転避止義務の過失があると認定することが相当かつ一般常識にかなうものであり,その判断に当たり,現実に発生した意識障害を生ずる医学的可能性やその機序まで予見できなければ予見可能性がないとするのは相当ではないとも主張する。
しかし,自動車の運転を開始した場合に何らかの正常な運転ができなくなる状態に陥るおそれがあるというだけでは,過失運転致死傷罪の構成要件的結果である人の死傷という結果を具体的に予見させるものとはいえない。なぜなら,そのような内容の特定しない一般的・抽象的な予見であれば,健全な常識を有する自動車運転者であれば,程度の差こそあれ,運転開始時に予見し得るものであって,自動車運転者に無限定で過大な運転避止義務を負わせることになるからである。
さらに,検察官は,自動車の運転に関し,①自動車の運転が人命に関わる高度の危険を伴う業務であること,②自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律(以下自動車運転処罰法という。)3条においては,その走行中に正常な運転に支障が生じるおそれがある状態で,自動車を運転し,正常な運転が困難な状態に陥り,人を死傷させた者が処罰の対象になっていること,③道路交通法90条においては,自動車等の安全な運転に支障を及ぼすおそれがある病気にかかっている者に対しては,免許を与えず,又は保留することができる旨規定され,自動車運転者に対し,心身ともに自動車運転上の危険に対処し得る状態にあることが要求されていることからしても,正常な運転ができなくなる状態に陥ることについての予見可能性が運転避止義務の前提事実といえるとも主張する。
確かに,①自動車の運転は,人命に関わる高度の危険を伴うものであるといえる。しかし,その危険は,自動車運転免許を取得する者に対しては,法律が一般的に許している危険である。したがって,罪刑法定主義や責任主義の見地からして,自動車運転免許を取得する者に対して運転避止義務を負わせてその違反行為を過失運転致死傷罪に問うには,運転避止義務の前提となる予見可能性の対象は具体的に特定されたものでなければならないといえる。そして,②検察官が引用する自動車運転処罰法3条2項も,自動車の運転に支障を及ぼすおそれがある病気として政令で定めるものの影響により,その走行中に正常な運転に支障が生じるおそれがある状態と規定し,同法施行令3条は,正常な運転ができなくなる原因となる病気について,例えば,

意識障害又は運動障害をもたらす発作が再発するおそれがあるてんかん(発作が睡眠中に限り再発するものを除く。)

(同条2号),

再発性の失神(脳全体の虚血により一過性の意識障害をもたらす病気であって,発作が再発するおそれがあるものをいう。)

(同条3号),
自動車の安全な運転に必要な認知,予測,判断又は操作のいずれかに係る能力を欠くこととなるおそれがある症状を呈する低血糖症(同条4号)のように,人の死傷という結果に至る因果経過として,その病状による限定を加えている。同様に,③道路交通法90条1項及び同法施行令33条の2の3第2項も,

てんかん(発作が再発するおそれがないもの,発作が再発しても意識障害及び運動障害がもたらされないもの並びに発作が睡眠中に限り再発するものを除く。)

再発性の失神(脳全体の虚血により一過性の意識障害をもたらす病気であつて,発作が再発するおそれがあるものをいう。)

などの発作により意識障害又は運動障害をもたらす病気にかかっている者などの事由に該当しなければ,免許を与えなければならないと規定しており,免許の許否等の事由を,一定の病状を伴う病気に限定している。本件は,過失運転致死傷罪の成否が問題となっており,検察官が主張する低血圧又は急激な血圧低下は,自動車運転処罰法施行令3条のいずれの病気にも当たらないが,自動車の運転を差し控えるという義務内容は,自動車運転処罰法3条2項の危険運転致死傷罪と本質的に異なるものではない。したがって,本件運転避止義務の前提となる本件事故に対する予見可能性の内容としては,低血圧又は急激な血圧低下という病気に準じるものだけでなく,意識障害という病状に準じるものも,人の死傷という結果に至る因果経過として必要になると考えるべきである。検察官の上記主張は採用できない。
したがって,実際の具体的な因果経過そのものは予見可能性の対象とはならないとしても,少なくとも低血圧又は急激な血圧低下による意識障害は,人の死傷という結果に至る因果経過として,本件事故に対する予見可能性の対象になると解される。
4
以上によれば,本件運転避止義務を被告人に負わせる前提として,被告人には,自動車の運転を開始すれば,その運転中に低血圧又は急激な血圧低下により意識障害の状態に陥り,正常な運転が困難な状態になって自動車の制御ができなくなり,
人の死傷という結果に至る因果経過に対する予見可能性
(以下
本件予見可能性という。)が必要であるといえる。

第4

判断の前提となる事実

1
前提事実
判断の前提となる事実で,関係各証拠によって優に認定できる事実関係は,次のとおりである。


被告人の身上経歴及び生活状況
被告人は,本件事故当時85歳であり,長男のD及びDの妻であるEらと同
居して生活していた。
被告人は,昭和24年10月20日に中型二種免許を,昭和31年7月4日に大型自動二輪車の免許をそれぞれ取得し,本件後の平成30年4月12日に免許取消となった。
被告人は,本件事故の数年前から前橋市内にあるF老人福祉センターに通い,本件事故の1年前頃からは週に数回,友人らと交流したり,入浴したりしていた。被告人は,普段は午前10時か11時頃にF老人福祉センターへ出掛けていた。


被告人の通院歴等
被告人は,遅くとも平成28年3月4日以降,群馬県高崎市内のGクリニッ
クにおいて,同病院のH医師らによる診察を受け,H医師らに対し,低血圧やめまいの症状を訴え,H医師らから,行動をゆっくりするなどの生活上の注意等を受けていた。
被告人は,平成28年7月1日,被告人方のトイレの前で,意識がなく,仰向けに倒れている状態で家族らに発見された。被告人は,同日,前橋市内のI病院に救急搬送され,同病院に約1週間入院した。同病院のJ医師は,被告人に対し,めまいやふらつきがあり得るから,生活面で注意するように口頭で伝えた。
被告人は,平成28年9月20日以降,前橋市内のK診療所において,同病院のL医師らに対し,めまいの症状を訴えた。
H医師は,平成29年2月13日,被告人から,自動車を運転してGクリニックを訪れたことを聞き,被告人に対して,自動車の運転を控えるように注意した。
被告人は,前橋市内の自動車学校において,平成29年6月3日に認知機能検査を受けて記憶力・判断力が少し低くなっていると判定され,同年9月15日,高齢者講習を終了し,自動車運転免許を更新した。
被告人は,平成29年6月5日,Gクリニックの看護師に対して,

体調が良くない。ぼーっとしている。めまいもある。

などと訴えて,H医師の診察を受け,H医師は,被告人に対し,ゆっくり行動するように指導した。被告人は,平成29年10月18日,MクリニックのN医師に対し,めまいの症状を訴え,N医師は,被告人に対し,起床直後や食後は低血圧になりやすいので注意するよう指導した。
被告人は,平成29年11月頃,F老人福祉センターで入浴中,低血圧により気分が悪くなり,F老人福祉センターに勤務する看護師らの介抱を受けた。被告人は,平成29年12月4日,Gクリニックの看護師に対し,

もともとめまい症があるが昨日から特にひどい。「倦怠感があり昨日は一日寝てた


などと訴えて,H医師の診察を受けた。
Dは,
平成29年の年末頃から平成30年の元旦頃にかけて,
被告人に対し,
もう運転をしないように言った。
被告人は,平成30年1月5日に普通乗用自動車(以下被告人車両という。)を電柱に接触させる事故を起こし,同月6日には,被告人車両を後退して駐車する際,
被告人方駐車場のブロック塀に衝突する事故を起こした
(以下,
これらを併せて本件各物損事故という。)。


本件事故の発生
被告人は,平成30年1月9日午前7時頃に起床し,朝食をとり,知人女性
に電話をかけた上,F老人福祉センターに行くために,平成30年1月9日午前8時25分頃,前橋市a町b番地所在の被告人方駐車場において,被告人車両の運転を開始した。
被告人は,その頃,被告人方駐車場から約540メートル離れた前橋市c町d番地付近道路をa町方面からe町方面に向かい時速約60ないし65キロメートルで進行中,被告人車両を右斜め前方に進行させて,同市c町f番地付近道路右側の車道外側線を対向進行してきたA(当時16歳)運転の自転車に被告人車両を衝突させた。
さらに,被告人は,被告人車両を同所付近道路右側路外に設置された縁石等に衝突させて横転させるなどして,A運転の自転車の後方から対向進行してきたB(当時18歳)運転の自転車に被告人車両を衝突させるなどした。その結果,
Bは,
入院加療202日間を要する脳挫傷等の傷害を負い,
Aは,
脳挫傷等の傷害を負って,同月31日午後6時18分頃,同市g町h丁目i番j号所在のC病院において,上記傷害に基づく低酸素脳症により死亡した。2
本件事故の原因
本件事故の発生現場付近の状況,被告人車両の走行状況及び被告人の供述等から,本件事故の原因は,被告人が低血圧による意識障害の状態に陥ったことであると認められる。その理由は,以下のとおりである。


本件事故の直接の原因

本件事故の発生現場付近の状況

本件事故は,平成30年1月9日午前8時25分頃,前橋市c町f番地付近道路(以下本件現場という。)で発生した。被告人方駐車場から本件現場に至る道路(以下本件道路という。)は,片側1車線の直線道路で,ほぼ直線の一般道であり,前方の見通しは良好である。本件現場と被告人方との間の距離は約540メートルである。

被告人車両の走行状況

被告人車両が被告人方を出発してから本件現場において本件事故により停止するまでの間の走行状況は,次のとおりである。すなわち,被告人車両は,被告人方を出発後,①道路右側部分又は中央線上を走行し,②中央線上を走行し,③道路左側部分の中央線寄りを走行し,④道路右側部分にはみ出して走行し,右折待機中の自動車に被告人車両のドアミラーを衝突させたが停止することなく先行車両を追い越し,対向車線を逆走して3台の対向車とすれ違い,本件事故に至った。そして,被告人車両は,道路右側のコンクリート擁壁に右前輪を乗り上げた状態で進行し,左前輪が門柱に衝突し,ボンネットを下にしながら縁石上を滑走し,電柱に右前輪を衝突させるなどして停止した。本件事故時の被告人車両の走行速度は時速60ないし65キロメートルであり,本件現場付近に被告人車両のブレーキ痕は発見されなかった。

被告人の供述

被告人は,公判において,本件事故直前の記憶について,本件道路の途中である,被告人方から約409メートルの距離にあるc町交差点を通過する時点までは記憶しているが,その後,本件事故を起こした時の記憶がない旨供述する。
被告人の上記供述は,被告人車両の走行状況と整合するものであって,その信用性を特に疑うべき事情も認められない。
被告人の上記供述によれば,被告人は,本件事故時の記憶がなくなるような意識障害に陥っていたものと認められる。

正常な運転が困難となった直接の原因

被告人車両が,ほとんど一直線である本件道路において,反対車線に大きくはみ出しながら速度を落とさず走行し,ブレーキを踏んだ形跡もなく本件事故に至っているという被告人車両の走行状況は,通常の運転操作や状況判断の誤りによるものとは考えにくく,被告人が意識障害により被告人車両の制御を失っていたことを強く推認させるものである。
本件事故時の被告人の状態に関するO医師の鑑定意見(甲40,人3及び弁17。以下,これらの鑑定結果及び証言等をまとめてO鑑定という。)及びP医師の鑑定意見(人6,弁27及び職12)がいずれも本件事故時被告人が意識障害の状態であった可能性が高いと指摘していることも上記の推認を補強するものといえる。
そうすると,本件事故の直接の原因は,被告人が,運転中に生じた意識障害により,被告人車両の正常な運転が困難な状態となったことで,被告人車両の制御ができなくなったことであると認められる。


被告人の意識障害の原因
本件事故時に被告人に意識障害が生じた原因について,O医師もP医師も,
最も大きな可能性として,被告人の血圧の低下を挙げている。そして,被告人が本件事故の前から低血圧の症状があったことや本件事故が一般に血圧が低くなりやすい朝に発生したものであることなどの事情が認められる一方で,他に証拠によって具体的に想定される原因が見当たらないことも,両医師の所見を裏付けているといえる。そうすると,被告人の意識障害の原因は,低血圧であると認められる。


結論
本件事故は,被告人が低血圧により意識障害の状態に陥ったことが原因であ
ると認められる。
第5

主位的訴因

1
主位的訴因において,主位的運転避止義務を根拠づける事実として検察官が主張する事実は,いずれも認定することができない。したがって,本件予見可能性は認められないから,主位的運転避止義務を被告人に負わせることはできない。その理由は,以下のとおりである。

2
主位的運転避止義務を根拠づける事実の検討


かねてから低血圧の症状があり,低血圧により,めまいや意識障害を生じたことがあったこと確かに,関係各証拠によれば,被告人は,平成28年7月1日以降,日常的
に,前橋市内の複数の医療機関を受診しており,その際,医師らに対し,低血圧やめまいの症状を訴えていた事実が認められる。そして,公判で証言した複数の医師の証言や各医療機関のカルテの記載等の証拠によれば,被告人には,遅くとも平成28年7月以降,本件事故に至るまで,実際に低血圧やめまいの症状があった事実が認められる。
しかしながら,公判で証言した医師らは,被告人のめまいの原因を特定する証言をしておらず,他に被告人のめまいの原因が低血圧であることを示す医学的な証拠も見当たらない。
さらに,被告人が本件事故より前に低血圧により意識障害が生じたとする点についても,これを認定することができない。すなわち,確かに,被告人は,平成28年7月1日,被告人方のトイレの前で,意識がなく,仰向けに倒れている状態で,家族らに発見されたことがあり,J医師の検察官に対する供述やO鑑定は,低血圧による意識喪失の可能性を指摘している。しかし,J医師の診療情報提供書には,被告人が平成28年7月1日に転倒した原因について,

神経学的に明らかな異常はないものの,下肢,下肢帯の筋力低下は明らかで,これによる転倒が疑われます。

との記載があることに加え,D及びEも,被告人が転倒した原因は何かにつまずいたことであると思っていた旨証言している。そうすると,被告人の上記転倒の原因は筋力低下によるつまずきであったという合理的な疑いが残り,低血圧による意識障害があったと認定することはできない。また,被告人は,平成29年11月頃にF老人福祉センターにおいて入浴時に気分が悪くなったことがあったが,この時,被告人の意識レベルは著しく低下してはいないから,そもそも意識障害が生じたとは認められない。そして,これらの事情以外に,本件事故より前に被告人が低血圧によって意識障害が生じたことをうかがわせる事情は認められない。
以上によれば,主位的訴因に記載されているかねてから低血圧の症状があり,低血圧により,めまいや意識障害を生じたことがあったという事実を認定することはできない。


医師から,同症状によりめまいや意識障害を生じるおそれがあることから,自動車の運転をしないように注意されていたこと被告人の低血圧は,治療を要する程度のものではなく,被告人が受診してい
たH医師,
L医師,
N医師,
J医師の供述や証言等の関係各証拠を検討しても,
これらの医師が,被告人に対して,意識障害を生じるおそれについて説明した事実は認められず,めまいや意識障害のおそれを理由として,被告人に自動車の運転をしないように注意した事実も認められない。
したがって,主位的訴因に記載されている医師から,同症状によりめまいや意識障害を生じるおそれがあることから,自動車の運転をしないように注意されていたという事実を認定することはできない。3
結論
以上のとおり,主位的訴因において,主位的運転避止義務を根拠づける事実として検察官が主張する事実は,いずれも認定することができず,本件予見可能性は認められないから,主位的運転避止義務を被告人に負わせることはできない。
第6
1
予備的訴因
予備的訴因において,予備的運転避止義務を根拠づける事実として検察官が主張する下記①から⑧までの事実は,いずれも概ね認定できる。しかし,これらの認定事実を総合しても,本件予見可能性を認定することはできない。したがって,予備的訴因についても,本件予見可能性は認められず,予備的運転避止義務を被告人に負わせることはできない。
その理由は,
以下のとおりである。

2
予備的訴因の検討
検察官は,予備的訴因において,⑴かねてから低血圧の症状があり,血圧変動等により,めまいや意識障害を生じたことなどがあったこと及び⑵医師や家族から,めまいを生じるおそれがあることなどから,自動車の運転をしないように注意されていたことという2つの事実を,予備的運転避止義務を根拠づける事実として主張している。
また,予備的訴因にみられる等やなどとの記載について,検察官は,第4回公判期日で,まず血圧変動等の等とは,内耳性めまい及び脳の
成28年7月1日に被告人が自宅で倒れI
年11月頃に被告人がF老人福祉センターで気分が悪くなり看護師らの介抱
損事故を繰り返していたことを意味し,さらにめまいを生じるおそれがあるう運動機能の低下及び体力の低下をそれぞれ意味していると釈明している。そうすると,予備的訴因は,被告人は,⑴「かねてから低血圧の症状があり,I病院に搬送されたこと,F老人福祉センターで気分が悪くなり看護師らの介返していたことがあった上(以下,このように検察官の釈明を反映させた⑴のI病院に搬送F老人福祉センターで気分が悪くなり看護師ら物損事故を繰り返していたこと,加齢に伴う運動機能の低下及び体力の低下から,自動車の運転をしないように注意されていたこと(以下,このように検察官の釈明を反映させた⑵の事実を「医師や家族による注意という。)」から,被告人が予備的運転避止義務を負うという意味であると解される。
そこで,このように構成された予備的訴因を前提に予備的運転避止義務を根拠づける事実を検討する。
3
予備的運転避止義務を根拠づける事実の検討


本件症状等

検察官は,論告において,本件症状等に関する事実を6つの事実に分け
て主張している。すなわち,被告人は,平成28年3月頃から,家族や知人,更には複数の医師に対して,
度々めまい等の症状を訴えており,
医師らからは,
低血圧になりやすいのでゆっくり行動するようになどと生活上の指導を受けていたこと(論告要旨記載の①),被告人がF老人福祉センターを訪れた際には,ほぼ毎回血圧を測定して,自己の最高血圧が100mmHgを下回る低血圧を認識し,血圧が低いと感じた場合には,めまい等の症状が生ずると考えて入浴を控えるなどしていたこと(論告要旨記載の②),被告人は,平成29年11月頃,F老人福祉センターで入浴中,
低血圧により気分が悪くなって倒れ,
約30分間立ち上がれない状態になり,F老人福祉センターの看護師らの介抱を受け,また体調不良に陥って自動車の運転ができなくなり,Dに迎えを頼んだこと(論告要旨記載の③),被告人がめまい等の症状を訴えるようになってから自動車の物損事故を起こすようになった状況が見受けられたこと(論告要旨記載の⑤),被告人は本件事故当時85歳と高齢であり,一般の自動車運転者と比較して,自動車を安全に運転する能力が低下しており,被告人にめまい等の症状が生じた場合には,一般の自動車運転者にめまい等の症状を生じた場合以上に自動車運転上の危険が高くなるといえること(論告要旨記載の⑦),被告人は,平成29年の年末頃から,めまい等の症状が悪化して一日中寝ていたことがある上,本件事故直前の2日間にかけて具合が悪く寝ていたものであり,本件事故当時,被告人の低血圧によるめまい等の症状が,2日間にわたって寝て過ごさなければならないほど悪化していたこと(論告要旨記載の⑧)である。以下,順次検討する。

被告人のめまい等の症状と生活上の指導の事実(論告要旨記載の①)
関係各証拠によれば,被告人が,平成28年3月頃から,家族や知人,更には複数の医師に対して,度々めまい等の症状を訴えており,同医師らからは,低血圧になりやすいのでゆっくり行動するようになどと生活上の指導を受けていた事実を認定することができる。
しかしながら,この事実が本件予見可能性を推認させる方向に働く可能性はあるとしても,その程度は極めて乏しいというべきである。
すなわち,本件予見可能性とは低血圧による意識障害を経由して本件事故へと至る因果経過の予見可能性であり,低血圧によって意識障害が生じることを予見させる事情でなければ,本件予見可能性の根拠とはならない。被告人を診察したL医師は,被告人が低血圧であるとの認識であったものの,治療の必要性を感じるような低血圧ではなく,自動車の運転を控えるように注意したことはなかった旨証言し,被告人を診察したH医師も,被告人について,低血圧による意識障害のリスクはそれほどないとの認識であった旨証言している。これらの証言によれば,被告人の低血圧の症状は,医師からみても,意識障害の原因となるようなものとは認識されていなかったことが明らかである。そうすると,上記医師らの指導は,低血圧による意識障害の危険を踏まえたものではないから,被告人のめまい等の症状と生活上の指導の事実が,被告人に意識障害の危険を予見させる契機となるとはいえない。
したがって,被告人のめまい等の症状と生活上の指導の事実は,それによって,自動車運転中の意識障害の危険を被告人が予見できたとはいえず,本件予見可能性を推認させる方向に働く可能性はあるとしても,その程度は極めて乏しいというべきである。

被告人が低血圧を自覚していた事実(論告要旨記載の②)
関係各証拠によれば,被告人がF老人福祉センターを訪れた際には,ほぼ毎回血圧を測定して,自己の最高血圧が100mmHgを下回る低血圧を認識し,血圧が低いと感じた場合には,めまい等の症状が生ずると考えて入浴を控えるなどしていた事実を認定することができる。
しかしながら,この事実は,被告人が低血圧を自覚した際には生活上の注意が必要になることを認識していたことを意味するに過ぎず,それを超えて,被告人が自動車運転中の意識障害の危険を予見していたことを推認させるものではない。
そうすると,被告人が低血圧を自覚していた事実は,それによって,自動車運転中の意識障害の危険を被告人が予見できたとはいえず,本件予見可能性を推認させる方向に働く可能性はあるとしても,その程度は極めて乏しいというべきである。

被告人がF老人福祉センターで体調不良に陥った事実(論告要旨記載の
③)
関係各証拠によれば,被告人は,平成29年11月頃,F老人福祉センターで入浴中,低血圧により気分が悪くなって倒れ,約30分間立ち上がれない状態になり,F老人福祉センターの看護師らの介抱を受け,また体調不良に陥って自動車の運転ができなくなり,Dに迎えを頼んだことがあった事実を認定することができる。
しかしながら,被告人は,F老人福祉センターで体調不良に陥った際に意識障害に陥っていたわけではない。また,H医師の証言によれば,入浴時における血圧変動等による体調不良の原因は,末梢血管の拡張や発汗等によるものであり,自動車運転時における状況とは全く異なるものであることが認められる。入浴時と自動車運転時とで血圧変動等による体調不良の原因が全く異なるということ自体は,日常生活における知識や経験に属する事柄であるから,入浴前の血圧測定を習慣にしていた被告人も同様の認識を持っていたものと考えられる。したがって,入浴時の体調不良の事実は,自動車運転中に低血圧による意識障害が生じる危険を被告人に予見させるものとはいえない。そうすると,被告人がF老人福祉センターで体調不良に陥った事実は,それによって,自動車運転中の意識障害の危険を被告人が予見できたとはいえず,本件予見可能性を推認させる方向に働く可能性はあるとしても,その程度は極めて乏しいというべきである。

本件各物損事故の事実(論告要旨記載の⑤)

関係各証拠によれば,被告人がめまい等の症状を訴えるようになってから本件各物損事故を起こすようになった事実を認定することができる。しかしながら,
本件各物損事故の直接の原因は,
被告人の意識障害ではなく,
被告人が運転時の状況判断や運転操作を誤ったことであると認められる。すなわち,本件各物損事故の態様はいずれも運転時の状況判断や運転操作のミスとして合理的に説明できるものである上,被告人は,本件各物損事故の原因や態様等について一応説明ができており,平成30年1月6日の物損事故の直後にEと会話をしていることからも,本件各物損事故当時,被告人に意識障害があった事実は認められない。そうすると,本件各物損事故と本件事故とでは,事故の原因が異なるといえる。また,被告人の状況判断能力や運転操作能力の衰えが,低血圧による意識障害の発生の危険の予見につながるとも認められない。したがって,本件各物損事故の事実は,被告人に自動車運転中の低血圧による意識障害の危険を予見させる契機となるものではないというべきである。そうすると,被告人の本件各物損事故の事実は,それによって,自動車運転中の意識障害の危険を被告人が予見できたとはいえず,本件予見可能性を推認させる方向に働く可能性はあるとしても,その程度は極めて乏しいというべきである。

被告人の高齢と運転能力の低下の事実(論告要旨記載の⑦)
被告人は本件事故当時85歳と高齢であったことは明らかであり,H医師やL医師の各証言によれば,自動車運転上の危険がどの程度高くなるかはともかくとして,高齢者には,一般の自動車運転者と比較して,めまい等の症状が生じた場合には,自動車を安全に運転する能力が低下する傾向があることが認められる。
しかしながら,本件では,被告人に生じていためまいが意識障害の危険につながるものではないことは既に指摘したとおりである。したがって,めまいの症状によって自動車の運転に危険が生じるという因果経過と,低血圧による意識障害によって自動車の正常な運転ができなくなったという本件事故における因果経過とは,因果の経過が異なるものというべきであり,めまいの症状の認識は,本件予見可能性を推認させるものとはいえない。
また,検察官のいうめまい等の等が,仮に意識障害につながる何らかの症状を指しているとしても,本件においては,そのような症状は立証されていないから,いずれにせよ,めまい等の症状が本件予見可能性を推認させる事情であるとはいえない。
なお,被告人は,平成29年9月15日までに認知機能検査及び高齢者講習を終えており,高齢であることから直ちに運転避止義務を根拠づけるほど運転能力が低下していたと被告人が認識することはできず,ましてや,高齢であるからといって,自動車運転中の意識障害の危険を予見できるものではない。そうすると,被告人の高齢と運転能力の低下の事実は,それによって,自動車運転中の意識障害の危険を被告人が予見できたとはいえず,本件予見可能性を推認させる方向に働く可能性はあるとしても,その程度は極めて乏しいというべきである。

本件事故直前の体調不良の事実(論告要旨記載の⑧)
検察官は,被告人は,平成29年の年末頃から,めまい等の症状が悪化して一日中寝ていたことがある上,本件事故直前の2日間にかけて具合が悪く寝ていたものであり,本件事故当時,被告人の低血圧によるめまい等の症状が,2日間にわたって寝て過ごさなければならないほど悪化していた旨主張する。そこで検討すると,関係各証拠によれば,平成29年の年末から平成30年1月8日にかけて,被告人に,めまいを含む何らかの体調不良があったという事実は認定することができる。すなわち,同月上旬頃の被告人の体調不良について,Dは,同年1月1日に

めまいという話はしてたと思います。

などと証言し,Eは,

めまいというか,気分が悪いって,体調が悪いって言って,寝てました。

などと証言しているから,被告人に,同月1日頃にめまいがあった事実までは認定できる。
しかしながら,被告人のめまいの症状の認識が本件予見可能性を推認させるものではないことは,既に指摘したとおりである上,被告人は,同月6日にはF老人福祉センターに出掛けているから,同月7日や8日頃の体調不良の内容が,検察官の主張するようなめまい等の症状が悪化していたものであったと推認するには合理的な疑いが残る。
さらに,被告人は,公判で,本件事故当日である9日の朝は,午前7時に起床し,朝食を取り,F老人福祉センターで交流のある知人女性に電話をかけ,午前8時頃に,Mクリニックから処方された薬を飲んで本件運転開始行為に至った旨供述し,本件運転開始行為を目撃しているEも,特に被告人の体調不良については証言していない。しかも,被告人は,普段の午前10時か11時頃よりも朝早く出掛けているのであるから,むしろ,被告人としては,本件運転開始時において,被告人の体調がある程度回復しており,同月6日と同じように車で出掛けられる体調であると認識していた可能性が高い。
そうすると,
平成29年の年末から平成30年1月8日にかけて,
被告人に,
めまいを含む何らかの体調不良があったという事実は認定することができるが,それによって,自動車運転中の意識障害の危険を被告人が予見できたとはいえず,本件予見可能性を推認させる方向に働く可能性はあるとしても,その程度は極めて乏しいというべきである。


医師や家族による注意

検察官は,論告において,医師や家族による注意に関する事実を2つの
事実に分けて主張している。すなわち,被告人は,血圧低下によってめまい等の症状が頻繁に生じるということのほか,場合によっては,約30分間も立ち上がれず,あるいは自動車の運転もできないほどの意識障害が生じるとの認識(以下本件病識という。)の下で通院し,その病院の医師から,平成29年2月13日に自動車の運転を控えた方が良いと指導されたこと(論告要旨記載の④),被告人が物損事故を起こすようになった状況を感じていたD及びEからは,本件事故の直前に至るまで,何度となく自動車の運転を止めるよう注意されていたこと(論告要旨記載の⑥)である。以下,順次検討する。イ
医師による注意の事実(論告要旨記載の④)

検察官は,被告人が本件病識の下で通院し,その病院の医師から,平成29年2月13日に自動車の運転を控えた方が良いと指導された旨主張する。しかしながら,本件病識のうち,血圧低下によってめまい等の症状が頻繁に生じるという点は,既に述べたとおり,めまいの原因が血圧低下であると認めることはできないから,そもそも,そのような点の病識を被告人が持っていたと認定することができない。また,場合によっては,約30分間も立ち上がれずという点は,要するに,平成29年11月頃に生じた入浴時の体調不良のことを指すものと考えられるが,それは検察官が主張する平成29年2月13日の指導よりも8か月以上も後のことであるから,同日の時点で,そのような点の病識があったということはできない。さらに,自動車の運転もできないほどの意識障害が生じるという点は,被告人には,本件事故の前に自動車の運転もできないほどの意識障害が生じたり,それに類する症状が出たことも認められないから,そのような点の病識を被告人が持っていたということもできない。
以上によれば,検察官が主張する事実のうち,本件病識があったとする点は認定することができない。
したがって,被告人が,本件病識がある下で通院し,その医師から自動車の運転を控えた方がよいと指導されたという事実は認められないから,仮に医師による指導があったとしても,被告人において,自動車運転中の低血圧による意識障害の危険を予見する契機となるとはいえない。
そうすると,平成29年2月13日の医師による注意の事実が認定できるとしても,それによって,自動車運転中の意識障害の危険を被告人が予見できたとはいえない。

家族による注意の事実(論告要旨記載の⑥)

関係各証拠によれば,D及びEが本件事故の直前に至るまで,何度となく自動車の運転を止めるように被告人に対して注意していた事実を認定することができる。
しかしながら,DやEが被告人に自動車の運転を止めるよう注意していたのは,本件各物損事故や,被告人の加齢に伴う運動機能の低下及び体力の低下を心配していたためであり,これらの注意は,被告人に加齢に伴う運動機能の低下及び体力の低下,本件各物損事故の原因として想定される運転操作や状況判断の誤りやすさを予見させるものであって,それらを理由として自動車の運転を避けさせる契機となるものではあっても,被告人に,低血圧による意識障害の危険を予見させるものではない。
そうすると,検察官が主張する家族の注意が認定できるとしても,それによって,自動車運転中の意識障害の危険を被告人が予見できたとはいえない。4
総合評価
以上のとおり,予備的訴因において,検察官が予備的運転避止義務を根拠づける事実として主張するものは,その一部はそもそも認めることができず,他方,認定できる事実については,いずれも,それによって,自動車運転中の意識障害の危険を被告人が予見できたとはいえず,本件予見可能性を推認させる方向に働く可能性はあるとしても,その程度は極めて乏しいものである。そうすると,これらの認定できる事実を総合しても,被告人が,低血圧やめまいにより自動車の正常な運転が困難になる抽象的な危険を予見することまではできたとしても,それを超えて,本件予見可能性を認めることはできない。したがって,被告人に本件予見可能性があったとはいえず,被告人に予備的運転避止義務を負わせることはできない。

第7
1
本件予見可能性を否定する方向に働く事情
まず,本件予見可能性を否定する方向に働く事情として,被告人は,本件事故より前に,自動車運転中に意識障害を起こしたことがない事実が挙げられる。
2
次に,被告人が本件事故直前に意識障害に陥ったのは,服用していた薬の副作用等による大幅な血圧低下が原因である可能性があり,被告人は,そのような副作用等による意識障害を予見できなかったことが挙げられる。すなわち,以下のとおり,本件事故に至る因果経過の一つの可能性として,被告人が本件事故の前に服用した排尿障害の薬に,被告人の予見できない副作用があり,その副作用等が原因で本件事故時に低血圧による意識障害が生じた可能性が高く,この可能性は,被告人に本件予見可能性があったとすることに合理的な疑いを生じさせるものであり,被告人の本件予見可能性を否定する方向に働く事情といえる。


本件事故直前の被告人の服薬状況

認定事実

関係各証拠によれば,以下の事実が認められる。
被告人に対する薬の処方状況
被告人は,排尿障害の薬として,遅くとも平成28年7月頃から,Gクリニック等において,ユリーフOD錠4mgという薬(1日2回,1回あたり2錠服用するもの。以下,単にユリーフという。)を継続的に処方されており,平成29年12月4日には,Gクリニックから,ユリーフを38日分(合計76錠)処方されている。
また,被告人は,同じく排尿障害の薬として,Mクリニックにおいて,平成29年10月18日にフリバスOD錠25mg(1日1回,1回あたり1錠服用するもの。以下,単にフリバス25mgという。)を28日分(合計28錠),同年11月15日にフリバスOD錠75mg(1日1回,1回あたり1錠服用するもの。薬効成分がフリバス25mgより多い。以下,単にフリバス75mgといい,
フリバス25mgとまとめて単に
フリバス
という。

を28日分(合計28錠),同年12月20日に,フリバス75mgを28日分(合計28錠),それぞれ処方されている。
ユリーフとフリバスは,いずれも,前立腺肥大の薬で,α遮断薬として血圧低下作用がある。
被告人の服薬状況
被告人は,処方された薬を自ら被告人の部屋で服薬していたところ,被告人の部屋のごみを自分で片付けることはなく,Eら家族が被告人の部屋のごみを片付けていたが,Eら家族は,平成29年の12月末に被告人の部屋のごみを片付けたが,平成30年1月1日以降は片付けていない。そして,本件事故直後,被告人の部屋からは,未使用のフリバス75mgが21錠,同25mgが4錠,未使用のユリーフが122錠それぞれ発見され,被告人の部屋のゴミ箱からは,フリバス75mgの空き容器も8錠分発見された。ユリーフについては,被告人の部屋のゴミ箱からは空き容器は発見されなかったが,被告人方にあった薬1袋(但し,茶色の紙袋入り)内から9錠,薬関係一式のプラスチックケース内から83錠のユリーフの残量が発見され,少なくとも1錠分の空き容器を確認することができる。
Eの認識
Eは,平成29年12月4日,Gクリニックにおいて,H医師に対し,Mクリニックからも薬の処方があるが,被告人が故意に飲んだり飲まなかったりすることがある,Mクリニックからの薬(フリバス75mg等)は薬効が強いので飲まないようにといわれたので,ここ1週間は飲んでいない,今はGクリニックからの薬のみ飲んでいる旨話していた。
被告人の供述
被告人は,公判において,平成30年初めには,GクリニックとMクリニックの2箇所から処方された前立腺の薬を飲んでいたが,両方一緒に飲むことはなく,1月4日か6日ぐらいまでGクリニックの薬を飲み,その後,本件事故前日の8日と本件事故当日の9日にはMクリニックの薬を飲み,9日にはMクリニックの薬を2錠飲んだ旨供述している。
イ検討
認定事実に基づいて検討すると,被告人は,平成30年1月1日頃から本件事故当日の朝までに,排尿障害の薬として,①フリバス75mgを合計8錠服用していたことが認められ,②ユリーフについても,残量等からみて医師の指示どおりに服用していたとは認められないが,全く服用していなかったとは認められない。
そうすると,Mクリニックで処方された薬(フリバス)とGクリニックで処方された薬(ユリーフ)を,交互に飲んだり,本件事故の日はフリバスだけを処方の倍量にあたる2錠を飲んだ旨の被告人の公判供述も客観的に一定の裏付けがあるといえる。
また,Eは,被告人が,Mクリニックで処方された薬であるフリバス75mgを服用しておらず,Gクリニックで処方された薬であるユリーフを服用していたと認識しているから,Eら家族が認識していた被告人の服薬状況と実際の服薬状況が一致しておらず,被告人による服薬管理に混乱があったことも認められる。
したがって,被告人は,本件事故直前までに,ユリーフよりも薬効が強くてフリバス25mgよりも成分量の多いフリバス75mgを,継続して,場合によっては用法以上に服用していた可能性が高いといわざるを得ない。⑵

被告人の低血圧による意識障害の原因
さらに,本件事故直前の被告人の服薬状況を踏まえ,本件事故時における被
告人の低血圧による意識障害の原因について検討する。

認定事実

H医師及びP医師の証言によれば,①ユリーフとフリバスには,排尿障害を改善する効果のほかに,血圧を下げる副作用があること,②高齢者ほどその副作用を含む薬の効果は現れやすいことが認められる。
また,N医師の供述によれば,高齢であること,寝起きの直後,食後,α遮断薬や利尿剤等を服用していることが,低血圧を悪化させる条件であることが認められる。
さらに,O鑑定では,フリバスは被告人に急激な血圧低下をもたらす可能性が指摘されている。すなわち,鑑定留置中に被告人に対して行われた血圧連続測定運動負荷テストにおける被告人の血圧変動について,①バルサルタン,ユリーフ,フリバスの影響下にある時期には,仰臥位から立位になると大きく血圧が低下しただけでなく,廊下往復の運動負荷で直前直後の血圧の値は変わらないが,座位にすると血圧がさらに低下するという現象が確認されたこと,②バルサルタンとフリバスの影響がほぼなくなり,ユリーフのみ服用していた時期には,廊下往復の運動負荷により血圧は大幅に低下しているが,立位から座位の変化で,上記①とは異なり,初めて大幅に血圧が上昇し,顔色も明らかに良好となり,
ぼーっとする様子もなく,廊下往復の歩行速度も速くなったこと,③被告人は,本件事故前には,降圧剤であるバルサルタンを服用していなかったことが認められる。
イ検討
被告人が服用していた可能性が高いフリバス75mgは,血圧を下げる副作用がある上,以前から被告人が服用していたユリーフやフリバス25mgよりもその薬効が強い。被告人は高齢で,その薬効がより現われやすい上,本件事故は被告人が朝食をとった後に起きている。そして,O鑑定によれば,被告人には,フリバスの影響による低血圧の症状が見られた上,その血圧変動の態様は,仰臥位から立位になると大きく血圧が低下しただけでなく,廊下往復の運動負荷で直前直後の血圧の値は変わらないが,座位にすると血圧が更に低下するというものであるという特徴があることが指摘されているが,自動車の運転席に座ることは,立位から座位になるものであり,血圧が更に低下する際の動きと一致するものである。
そうすると,被告人が,本件事故当日の朝に,フリバスを本来の処方量を超えて服用したか,又はかつて薬効が強すぎるとしてやめていたフリバス75mgを再び服用して自動車の運転を開始したことで,その副作用等により,本件事故時,
被告人に低血圧が生じ,
更に意識障害に陥った可能性が高いといえる。


被告人の低血圧による意識障害の原因と本件予見可能性
ユリーフとフリバスに血圧を下げるという副作用があることについて,被告
人が,医師又は薬剤師等から具体的に説明を受けたという証拠は見当たらないから,医学の専門的知識を有しない被告人において,そのような副作用の存在とそれにより意識障害が生じる危険があることを予見することはできない。したがって,本件事故の原因が排尿障害の薬の副作用等による低血圧によってもたらされた意識障害であるということは,被告人において予見することができないから,本件事故の原因が本件事故直前の被告人の服薬状況にある可能性が高いということは,本件予見可能性に合理的な疑いを生じさせる事情であるといえる。
第8

結論
以上のとおり,主位的訴因及び予備的訴因のいずれについても,本件予見可能性を認定する根拠となる事実が十分証明されていない上,本件予見可能性の認定を否定する方向に働く事情も認められる。したがって,被告人には,本件運転避止義務を負わせる前提となる本件予見可能性が認められず,主位的訴因及び予備的訴因のいずれについても,被告人に本件運転避止義務を負わせることはできない。
結局,本件公訴事実については,主位的訴因及び予備的訴因のいずれについても犯罪の証明がないことになるから,刑事訴訟法336条により被告人に対し無罪の言渡しをする。
(検察官の求刑

禁錮4年6月)

(弁護人の意見

無罪)

令和2年3月6日
前橋地方裁判所刑事第2部

裁判長裁判官

國井恒志
裁判官

中野哲美
裁判官

谷山暢宏
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