判例検索β > 平成28年(ワ)第109号
国家賠償請求事件
事件番号平成28(ワ)109
事件名国家賠償請求事件
裁判年月日令和元年6月28日
裁判所名・部熊本地方裁判所
裁判日:西暦2019-06-28
情報公開日2020-06-04 22:35:08
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目主次文
事実及び理由
第1章
第2章

事案の概要

第1節

請求

前提事実

第1

原告ら

第2

ハンセン病の医学的知見

1
概略
ハンセン病の定義

ハンセン病の感染・発病
ハンセン病治療の現状
2
ハンセン病の病型分類と症状の特徴等



リドレーとジョプリングの分類と他の病型分類との関係



症状の特徴



経過,予後,治癒



らい反応

リドレーとジョプリングの病型分類

3
ハンセン病の疫学


ハンセン病の疫学的特徴
ハンセン病の感染について


4
ハンセン病の発病
ハンセン病治療法の推移


スルフォン剤(プロミン)登場前の治療法について



スルフォン剤(プロミン)の登場



DDS



リファンピシン



クロファジミン



多剤併用療法

5
19世紀までの病因論の状況等

6
ハンセン病に関する国際会議の経過


国際会議の開催について



主な国際会議の概要

第3

行政組織及び立法機関

1
立法機関

2
行政組織
内務省
厚生省
厚生労働省
文部省
文部科学省

法務省

第4

都道府県知事
ハンセン病に対する法制及び政策の変遷等

1
古来の状況について


江戸時代
明治時代

2
戦前の状況について



癩予防ニ関スル件の制定等
療養所の設置



内務省訓第45号
懲戒検束権の付与

断種(ワゼクトミー)中絶の実施
第一期増床計画
入所対象の拡張等
癩の根絶策
旧法の制定

療養所の新設
戦前の無らい県運動
癩予防協会の活動
保育所について
3
戦後,新法制定までの状況について


優生保護法(昭和23年法律第156号)の制定
プロミンの予算化
戦後の無らい県運動



戦後の第二次増床計画と患者収容の強化
参議厚生委員会らい小委員会における三園長発言




菊池医療刑務支所



特別法廷



予防法闘争


旧法に関する衆議院議員の質問に対する内閣総理大臣の答弁


新法の国会審議


新法の制定

藤楓協会

4
新法下の状況


新法制定後の通知等



新法改正運動の経過



退所について



外出制限について



優生政策について



保育所
患者台帳
療養所以外の医療機関での治療等について

新法下の教育
患者作業
5
新法の廃止に至る経過等
全患協等の新法改正運動


新法廃止の提言等



厚生大臣の謝罪及び廃止法案の提出



廃止法案の提案理由及び厚生大臣の謝罪

廃止法成立
6
救済にかかる法制等
経過

補償法の内容
基本合意書Ⅰの内容
基本合意書Ⅱの内容
促進法の内容
7
条約
国連重大人権ガイドライン
ハンセン病差別撤廃決議


第5
1
ハンセン病国連ガイドライン
沖縄におけるハンセン病に対する法制及び政策の変遷等
米国による統治前の状況について
総論

療養所の設置
日本軍駐留
2
米国による統治下
米軍軍政府
琉球政府

3
本土復帰

第6

ハンセン病患者及びハンセン病患者家族に関係した事件

1
差別行為
戦前
戦後

2
ハンセン病患者らの自殺事件


戦前
戦後

第7

本訴について

1
本訴提起

2
消滅時効の援用の意思表示

3
原告らの訴訟承継

第2節
1
争点及び当事者の主張
違法(行為)及び故意過失
厚生大臣及び厚生労働大臣の違法(行為)及び故意過失

(原告らの主張)
アイ
先行行為を構成する各行為


総論

先行行為による作為義務の成否
集合的意識としての偏見の形成(成立)
集合的意識としての偏見の強化

古来と異質の偏見差別の形成とそれによる偏見差別の継続強化(被告の主張に対する反論)
先行行為を構成するハンセン病隔離政策等の作用
abエ
差別行為による被害
家族関係の形成阻害

厚生大臣及び厚生労働大臣の各種作為義務
先行行為から導かれる作為義務の範囲,程度
新法廃止を含むハンセン病隔離政策等の抜本的転換義務の存否
家族被害回復に向けての作為義務の存否
a
ハンセン病患者家族も隔離政策の被害者であることの公表・謝罪義務b
ハンセン病患者家族に対する正しい知識の教示及び啓発義務

c
家族関係回復の政策的位置付け義務

d
ハンセン病問題解決に向けた政策形成過程への家族参加の機会付与義務


厚生大臣及び厚生労働大臣の各種義務違反(違法行為)


厚生大臣及び厚生労働大臣の故意(認識),過失

(被告の主張)
アイ
先行行為を構成する各行為


総論

先行行為による作為義務の成否
集合的意識としての偏見の形成(成立)・強化
先行行為を構成するハンセン病隔離政策等の作用


厚生大臣及び厚生労働大臣の各種作為義務
先行行為から導かれる作為義務の範囲,程度
新法廃止を含む隔離政策の抜本的転換義務の存否

家族被害回復に向けての作為義務の存否

厚生大臣及び厚生労働大臣の各種義務違反(違法行為)


厚生大臣及び厚生労働大臣の故意(認識)及び過失
法務大臣の違法行為及び故意過失

(原告らの主張)

内務省等による先行行為に基づく作為義務の成否


法務大臣による各啓発活動義務違反(違法行為)の有無


法務大臣の過失

(被告の主張)

内務省等による先行行為に基づく作為義務の成否


法務大臣による各啓発活動義務違反(違法行為)の有無


法務大臣の過失
文部大臣及び文部科学大臣の違法行為及び故意過失

(原告らの主張)

内務省等による先行行為に基づく作為義務の成否


文部大臣及び文部科学大臣による各啓発活動義務違反(違法行為)の有無ウ
文部大臣及び文部科学大臣の過失

(被告の主張)

内務省等による先行行為に基づく作為義務の成否


文部大臣及び文部科学大臣による各啓発活動義務違反(違法行為)の有無ウ
文部大臣及び文部科学大臣の過失
国会議員の立法不作為の違法及び故意過失

(原告らの主張)

内務省等及び国会の先行行為を構成するハンセン病隔離政策等の各行為

先行行為による作為(立法)義務の成否及び各種義務


国会議員の各種義務違反


立法不作為固有の違法性(違憲の明白性及び立法措置懈怠期間の長期性)

国会議員の過失

(被告の主張)

アイ
国会議員の各種義務違反


立法不作為固有の違法性(違憲の明白性及び立法措置懈怠期間の長期性)
オ2
先行行為による作為(立法)義務の成否及び各種義務


内務省等及び国会による先行行為を構成する各行為

国会議員の過失

権利侵害及び損害
(原告らの主張)
原告らの共通権利侵害の有無
原告らの共通損害(包括一律請求)

共通損害の内容


時間経過による損害の減少,消滅の有無


包括一律請求の可否


損害額
謝罪広告の要否

(被告の主張)
原告らの共通権利侵害の有無
原告らの共通損害(包括一律請求)
アイ
共通損害の内容
時間経過による損害の減少,消滅の有無


包括一律請求の可否


損害額

謝罪広告の要否
3
消滅時効の成立
(被告の主張)
平成25年以降には被告公務員による違法行為がない場合の損害賠償請求権の帰趨


損害賠償請求権の成立時期


不法行為を構成する加害行為及び加害者,損害を認識した時点(民法724条前段,国賠法4条)
被告公務員による違法行為が継続中である場合の損害賠償請求権の帰趨時効援用に対する信義則違反の主張の適否

(原告らの主張)
平成25年以降には被告公務員による違法行為がない場合の損害賠償請求権の帰趨
アイ
不法行為を構成する加害行為及び加害者,損害を認識した時点(民法7
損害賠償請求権の成立時期

24条前段,国賠法4条)
被告公務員による違法行為が継続中である場合の損害賠償請求権の帰趨時効援用に対する信義則違反の主張の適否
第3章
当裁判所の判断

第1節

争点に対する判断の前提

第1

ハンセン病対策に関する知見の変遷

1
ハンセン病に関する国際会議の経過



戦前の国際会議について
戦後の国際会議について

2
ハンセン病の医学的知見の変遷


感染・発病のおそれについて



スルフォン剤(プロミン)の医学的評価について



昭和30年代以降の国内の医学的知見

3
海外の在宅治療導入及び隔離政策廃止の概要
米国本土
アジア諸国

4
まとめ

第2

ハンセン病に係る政策整備に向けた国会等の議論状況

1
癩予防ニ関スル件の審議過程



明治36年慢性及急性伝染病予防ニ関スル質問書



明治38年伝染病予防法中改正法律案



明治39年内務省衛生局草案



明治39年議員立法法案提出



明治40年癩予防ニ関スル件制定



小括

明治35年癩病者取締ニ関スル建議案

2
癩予防ニ関スル件制定後の法制度の見直し検討



大正15年民族浄化のために及び癩予防撲滅の話の各論考発表



昭和2年患者収容強化の方針



昭和5年内務省衛生局による癩の根絶策策定



小括

大正9年根本的癩予防策要項

3
旧法制定の審議過程
昭和4年第56回帝国議会衆議院癩予防ニ関スル件改正委員会
昭和6年第59回帝国議会貴族院
昭和6年第59回帝国議会衆議院寄生虫病予防法案外一件委員会



小括

4
優生手術の立法化における審議状況等
昭和14年第74回帝国議会貴族院職員健康保険法案特別委員会
昭和15年第75回帝国議会国民優生法委員会
優生保護法のらい条項に関する審議状況
優生保護法のらい条項に関する立法提案者の解説

昭和26年第12回国会参議院厚生委員会

5
小括
旧法下の審議状況
昭和22年衆議院厚生委員会における厚生省担当者の答弁
昭和23年衆議院厚生委員会における厚生省担当者の答弁

昭和24年参議院厚生委員会における厚生省担当者の答弁
昭和26年参議院厚生委員会における三園長発言
昭和27年旧法に関する衆議院議員の質問に対する厚生省の想定問答⑹
6
小括
新法の制定過程
らい予防法案(内容は新法のとおり)の提案理由
衆議院における審議
参議院における審議
小括

7
保育所及びハンセン病患者の子について
隔離政策以前において
隔離政策以降において


8
小括
占領下の沖縄におけるハンセン病政策に係る審議等
らい予防法案の審議



立法院予算決算委員会におけるマーシャル発言についての審議



伝染病予防法案審議



難波滝沢報告書



小括

第3
新法改正に向けた動き

1
新法改正要求の動き
全患協による新法改正運動
国会における審議


2
小括
新法廃止の提言
らい予防法についての日本らい学会の見解

ハンセン病予防事業対策調査検討委員会
見直し検討会

3
小括

廃止法案の審議

第4

ハンセン病に対する偏見差別の実相及び偏見,差別意識の形成,強固の過程
1
ハンセン病隔離政策等開始以前
沖縄以外の地域について
沖縄について


2
小括
癩予防ニ関スル件制定以降無らい県運動開始前まで
沖縄以外の地域について
沖縄について


3
小括
無らい県運動以降の戦前・戦中
沖縄以外の地域について
沖縄について


4
小括
戦後新法廃止まで
沖縄以外の地域について
沖縄について

5
新法廃止以降
新法廃止及びこれについての報道


控訴断念,談話及びこれについての報道



国会の謝罪決議採択及びこれについての報道
府県知事の謝罪及びこれについての報道
原告らの熊本判決によるハンセン病等に対する認識の変化




アンケート結果



小括

第5

公立小学校教員事件



黒川温泉宿泊拒否事件

ハンセン病隔離政策等とハンセン病患者家族との関係

12
ハンセン病患者家族に対する内務省,厚生省等の管理

3
未感染児童と保育所の設置

4
婚期を遅らせることの奨励

5
部落の解体

6
消毒

優生手術

第6

ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別に関する被告等の施策の効果
1
2
被告,藤楓協会による施策
新法廃止後の施策等による効果
各施策による効果の分析
小括

第7

原告らの具体的な被害の実態

1
具体的な差別体験等について

2
家族関係の形成阻害について



ハンセン病患者の入所による原告らとの家族関係の形成阻害

別紙原告一覧表

第8

総括

第2節
第1

争点に対する判断
厚生大臣及び厚生労働大臣の違法(行為)及び故意過失の有無(争点1
1
先行行為及び先行行為による作為義務の成否(争点1
先行行為(争点1

イ,ウ)

イ)

先行行為による作為義務の成否(争点1ウ)
2
厚生大臣及び厚生労働大臣の各種作為義務(争点1

エ)

先行行為から導かれる作為義務の範囲,程度(争点1エ



新法廃止を含む隔離政策等の抜本的転換義務の存否(争点1


3
家族被害回復に向けての作為義務の存否(争点1エ




厚生大臣及び厚生労働大臣の各種義務違反(違法行為)(争点1
各種義務を尽くす行為の有無(争点1オ


4
義務解消の有無(争点1オ

オ)





厚生大臣及び厚生労働大臣の故意(認識),過失(争点1



カ)

ハンセン病隔離政策等廃止義務について
偏見差別除去義務について

第2

法務大臣の違法行為及び故意過失の有無(争点1



1
内務省等による先行行為に基づく作為義務の成否(争点1

2


法務大臣による各啓発活動義務違反(違法行為)の有無(争点1

3
法務大臣の過失(争点1

第3

ア)
イ)

ウ)

文部大臣及び文部科学大臣の違法行為及び故意過失の有無(争点1




1
内務省等による先行行為に基づく作為義務の成否(争点1

2
文部大臣及び文部科学大臣による各啓発活動義務違反(違法行為)の有無(争点1

3
イ)

文部大臣及び文部科学大臣の過失(争点1

第4

ア)

ウ)

国会議員の立法不作為の違法及び故意過失の有無(争点1⑷)
1
判断枠組みについて

2
新法の隔離規定について(争点1⑷イ,同エ



憲法適合性
違法性(違憲の明白性,立法措置懈怠期間の長期性)及び過失
3
第5

その他の原告主張の立法義務(争点1⑷原告らの主張イ)権利侵害及び損害(争点2)

1
包括一律請求の可否(争点2⑵ウ)

2
原告らの共通権利侵害(争点2
偏見差別を受ける地位



家族関係の形成

3
原告らの共通損害(争点2



共通損害の内容(争点2ア)
損害額(争点2
4
エ)

謝罪広告の要否(争点2
消滅時効(争点3)

1
不法行為の終了時点

2
第6

消滅時効の起算点(争点3



第3節

結論

別紙当事者目録
別紙認容原告一覧表
別紙棄却原告一覧表

イ)

別紙謝罪広告
別紙被告普及啓発活動等一覧
別紙地方公共団体普及啓発活動等一覧
別紙原告一覧表
略語表
略語
愛生園
愛楽園
赤木
秋田県母子無理心中事件

嵐山事件

遺伝説
伊豆見
内海
エンパワーメント

大谷
小笠原
沖縄
沖縄復帰特別措置法
香川県母子無理心中事件

家族被害回復立法義務

川本

基本合意書Ⅰ
基本合意書Ⅱ
旧法
強烈伝染性疾病観
窪田
熊本県父子無理心中事件
熊本判決

黒川温泉宿泊拒否事件

黒坂

略語の説明
長島愛生園
国頭愛楽園及び沖縄愛楽園の総称
赤木朝治
昭和56年12月頃,秋田県で,軽い皮膚病をハンセン病と
思い込み,二人の子供を絞殺し,自分も自殺を図ったが未
遂に終わった事件
東龍太郎
沖縄県が沖縄県名護町羽地村の嵐山丘陵に療養所建設し
ようとしたところ,周辺住民に知られ,昭和7年3月,周辺住
民による反対運動が始まり,一部の住民が暴徒化し,工事
現場を破壊したため,警察官約300名が出動し,39名が逮
捕され,村議会がストライキする等した事件
ハンセン病が遺伝病であるとする見解
伊豆見元俊
内海忠勝
ハンセン病患者家族が,自らの置かれている差別構造やそ
の要因に気づき,その社会状況を変革していく方法や自
信,自己決定力を回復強化し,地域に参加して集団として
社会へ影響をもたらすことを可能とする諸条件の確保や支

大谷藤郎
小笠原登
現在の沖縄県に相当する地域
沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律(昭和46年法律
第129号)
昭和58年1月,香川県で,自分と娘がハンセン病にかかっ
ていると思いこんだ女性が,娘をガス中毒で死なせ,自分も
自殺を図ったが未遂に終わった事件
新法等によるハンセン病隔離政策等によってもたらされた集
合的意識としての偏見の状態(ハンセン病患者家族に対す
る根深い偏見差別意識の下,国民がハンセン病患者家族
を忌避・排除する社会構造)を解消し,家族関係の被害を
回復する作為(立法)義務
川本敏美
菅直人
平成13年7月23日被告と全原協との間で合意された基本
合意書
平成14年1月28日被告と全原協との間で合意された基本
合意書
癩予防法
ハンセン病が強烈な伝染病であって,療養所に隔離される
べきという見方
窪田静太郎
昭和25年9月1日,熊本県で,ハンセン病患者の父を抱え
た息子が,将来を悲観して,父を銃殺した上で,自殺した事

熊本地方裁判所平成10年(ワ)第764号,同年(ワ)第1000号,同年(ワ)第1282号,同11年(ワ)第383号同13年5月11日判決
熊本県が,平成15年,熊本県出身の菊池恵楓園入所者22
名のためのふるさと里帰り訪問事業として,熊本県黒川温泉
の宿泊旅行を計画しところ,当該宿泊施設から宿泊を拒否
されたことに端を発する事件
黒坂愛衣
略語表
敬愛園
軽快退所
軽快退所者
恵楓園
原告ら

光明園
公立小学校教員事件

公立療養所
国賠法
国民ら
国連重大人権ガイドライン

国連10年国内行動計画
国立療養所
小林
犀川
埼玉県連続自殺行為事件
斎藤
再発防止検討会
坂口
三園長発言
自尊感情

所長連盟
人権教育・啓発促進法
人権教育・啓発基本計画
新生園
新法
新法の隔離規定
新法廃止義務
新法附帯決議
青松園

星塚敬愛園
療養所に入所していたハンセン病患者がほとんど菌の消失
した者として退所が認められ退所すること
軽快退所した者
九州療養所及び菊池恵楓園の総称
訴訟承継が生じていない第1事件原告ら及び第2事件原告
ら並びに訴訟承継が生じた第1事件原告ら及び第2事件原
告らの場合にはその被承継人。なお,当事者の主張の適示
においては,訴訟承継が生じた場合にはその承継人を指
す。
光明園及び邑久光明園の総称
公立小学校の人権教育担当教諭が,平成22年から平成2
5年まで,授業において,ハンセン病が手足の指や身体が
少しづつ溶けていくもので,風邪と一緒で菌によってうつる
旨が記載された独自教材を用いてハンセン病を身体が溶け
る病気であるなどと説明し,ハンセン病について誤解した児
童らが怖い,友達がかかったら離れておきますなどと記
した感想文を恵楓園に送付していた事件
府県連合立のハンセン病療養所及び県立療養所
国家賠償法
日本国籍を有しない日本在住者を含む
重大な国際人権法違反及び深刻な国際人道法違反の被害
者の救済と補償の権利についての基本原則及びガイドライ

人権教育のための国連10年に関する国内行動計画
国が設置したハンセン病療養所
小林武治
犀川一夫
昭和15年,埼玉県において,入所勧奨を受けたハンセン病
患者3人が自殺を図り,そのうち一人が死亡した事件
斎藤寿雄
ハンセン病問題に関する検証会議の提言に基づく再発防
止検討会
坂口力
昭和26年11月8日参議院厚生委員会らい小委員会におけ
る林,光田及び宮崎の発言
自己を価値ある存在と認識することを意味し,セルフ・アイデ
ンティティの心理的側面を有し,セルフ・アイデンティティを
実現し再構築するための前提条件に当たる。このセルフ・ア
イデンティティの語意は,自己肯定感を有する自己イメージ
を確立することにより,その自己イメージに沿った生き方や
関係性の選択を可能にすること
国立らい療養所長で構成される全国国立ハンセン病療養
所所長連盟
人権教育及び人権啓発の推進に関する法律
人権教育・啓発に関する基本計画
東北新生園
らい予防法(昭和28年法律第214号)
新法6条,15条及び28条
新法の隔離規定を廃止する義務
新法制定に当たって参議院厚生委員会においてされた附
帯決議
大島療養所及び大島青松園の総称

略語表
全患協
全原協
戦後
潜在的感染者

戦前
全生園
戦中
全療協
促進法
曾田
曾根
第1事件
第2事件
体質遺伝的疾病観
ダウル
高野
竜田寮事件
伝染説
藤楓協会
内務省訓第45号
内閣総理大臣談話
中島
成田
日戸
ニミッツ
入所者
廃止法
廃止法案
長谷川

早田

ハンセン
ハンセン病患者
ハンセン病患者家族
ハンセン病隔離政策
ハンセン病隔離政策等
ハンセン病患者家族
ハンセン病国連ガイドライン
ハンセン病差別撤廃決議

全国国立らい療養所患者協議会(後に全国ハンセン病患者協議会に改称)ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会
昭和20年8月16日以降
発症はしていないものの,ハンセン病患者と同居中感染し
た可能性があって,しばらく観察し発症の有無を確認する必
要のある者
昭和16年12月8日以前
全生病院及び多摩全生園の総称
昭和16年12月9日から昭和20年8月15日まで
全国ハンセン病療養所入所者協議会
ハンセン病問題の解決の促進に関する法律
曾田長宗
曾根正陽
平成28年(ワ)第109号 国家賠償請求請求事件
同年(ワ)第231号 国家賠償請求事件
ハンセン病に罹患しやすい体質が遺伝するという見方
ジェームス・ダウル
高野六郎
竜田寮の児童が公立小学校に通学することをその他の児
童の保護者らが拒否した事件
ハンセン病が遺伝ではなく病原菌によって感染する伝染病
であるとする見解
財団法人藤楓協会
明治42年内務省訓第45号
ハンセン病問題の早期かつ全面的解決に向けての内閣総
理大臣談話
中島琢之
成田稔
日戸修一
C.W.ニミッツ
療養所入所歴のある者
新法を廃止し優生保護法のらい条項を削除することなどを
定めたらい予防法の廃止に関する法律
廃止法の法案
長谷川保
林芳信
早田晧
原敬
アルマウエル・ハンセン
ハンセン病患者及びハンセン病を発症したことのある者
ハンセン病患者の親子,兄弟及び孫並びにハンセン病患
者と同居していた甥及び姪
ハンセン病患者を療養所に入所させる政策
癩予防ニ関スル件の制定以来のハンセン病隔離政策並び
に消毒行為等のハンセン病隔離政策に関連する諸施策
ハンセン病患者を親子,兄弟姉妹又は同居の親族に持つ

ハンセン病患者・回復者及びその家族に対する差別撤廃の
ための原則及びガイドライン
ハンセン病患者・回復者及びその家族に対する差別撤廃決

略語表
被告ら責任確認啓発活動

非入所者
藤本
米軍軍政府
米国
米国民政府
偏見差別除去啓発活動

補償法
保養園
本土復帰
マーシャル
光田
見直し検討会
宮崎
南静園
無らい県運動
森下
屋部焼討事件

山縣
山川
山口
山梨県家族無理心中事件
山根
優生保護法のらい条項
吉田
癩予防協会
癩予防ニ関スル件
楽泉園
療養所
若松
和光園

家族関係回復の政策的位置付け義務と関連する,ハンセン
病患者家族を排除してきた被告,地方公共団体及び地域
社会の責任に関する啓発活動を地方公共団体と共同して
展開すること
療養所入所歴のない者
藤本松夫
昭和20年4月1日に沖縄に設定された米国海軍軍政府,同
年7月1日に主管が移行した米国陸軍政府,昭和25(195
0)年12月の名称変更後の琉球列島米国民政府の総称
アメリカ合衆国
琉球列島米国民政府
新法廃止を含むハンセン病隔離政策等の抜本的転換義務
と関連する,ハンセン病隔離政策等が誤りであることの周知
や社会内の偏見差別を除去するための啓発活動
ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関
する法律
北部保養院及び松丘保養園の総称
沖縄の統治権が日本政府に戻ったこと
アーヴィン・H・マーシャル
光田健輔
厚生省保健医療局長の私的諮問機関である新法見直し検
討会
宮崎松記
宮古療養所及び宮古南静園の総称
県内の全てのハンセン病患者を療養所に収容することを目
的とし,ハンセン病患者の強制収容を推進した官民一体と
なった運動
森下元晴
昭和10年6月頃,牧師らが沖縄県名護町屋部に,ハンセン
病患者救護のための施設を建設し,患者三十数人を収容し
たところ,周辺住民が,屋部からの立退きを求め,患者の住
む小屋を倒し,火をつけて焼き払った事件
山縣勝見
山川泰邦
山口正義
昭和26年1月29日,山梨県で起こった,ハンセン病患者を
抱える家族9人の心中事件
山根政次
優生保護法3条1項3号及び昭和27年法律第141号による
改正後の優生保護法14条1項3号
吉田茂
財団法人癩予防協会
明治40年法律第11号
栗生楽泉園
公立療養所,国立療養所及び厚生労働省告示第224号の
定める私立療養所
若松栄一
奄美和光園

主1文
被告は,別紙認容原告一覧表の原告番号欄記載の各原告(ただし,同表に被承継人と併記された者を除く。主文において以下同じ。)及び同表の承継人欄記載の各訴訟承継人に対し,同表記載の各原告及び各訴訟承継人に対応する認容額欄記載の各金員及びこれに対する同認容額欄に対応
する遅延損害金起算日欄記載の各日から各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2
別紙認容原告一覧表記載の原告ら及び訴訟承継人らのその余の請求をいずれも棄却する。

3
別紙棄却原告一覧表記載の原告らの請求をいずれも棄却する。

4
訴訟費用は,第3項記載の原告らに生じた費用と被告に生じた費用の44分の1を同原告らの負担とし,被告に生じた費用の44分の11とその余の原告ら及び訴訟承継人らに生じた費用の4分の3を同原告ら及び訴訟承継人らの負担とし,被告に生じたその余の費用と同原告ら及び訴訟承継人らに生じたその余の費用を被告の負担とする。

事実及び理由
以下使用する略称は,略語表に記載のとおりである。
第1章
1
請求
被告は,各原告に対し,それぞれ550万円及びこれに対する第1事件原告
については平成28年8月23日から,第2事件原告については平成28年1
2月9日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2
被告は,原告らに対し,朝日新聞,毎日新聞,読売新聞,日本経済新聞及び産経新聞の全国版において,別紙謝罪広告記載の謝罪広告を,別紙謝罪広告記載の条件で掲載せよ。

第2章

事案の概要

本件は,ハンセン病患者家族である原告らが,概略,不法行為を次のとおり主張して,被告に対し,国賠法1条1項に基づき,損害賠償として,原告らにそれぞれ550万円(慰謝料500万円,弁護士費用50万円)及びこれに対する訴状送達の日の翌日(第1事件原告らにつき,平成28年8月23日,第2事件原告らにつき,平成28年12月9日)から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めるとともに,民法723条に基づき,謝罪広告の掲載を求める事案である。その原告らの不法行為の主張は,明治40年癩予防ニ関スル件制定以来のハンセン病隔離政策等によって昭和15年にはハンセン病患者のみならずその家族までも強烈な偏見差別の対象とされる社会構造が構築されそれが強化されても減ぜられることなく現在に至っているところ,昭和35年まで内務大臣,厚生大臣
及び国会議員をして同政策等を遂行してきた被告は,昭和35年には同政策等には合理的根拠がなくハンセン病患者家族の人権を侵害し同家族に偏見差別等の被害を与え続けていることを少なくとも認識しえたにもかかわらず,厚生大臣及び国会議員をして平成8年新法廃止までそのまま放置し,新法廃止後は,彼らに加え厚生労働大臣,文部大臣,文部科学大臣及び法務大臣をして偏見差別の除去や家族関係回
復等の義務を尽くさせず,これら作為義務違反は国賠法上の違法行為であり,原告らは,憲法13条に基づく社会内において平穏に生活する権利を侵害され,社会内で偏見差別を受ける地位に立たされ家族関係の形成を阻害され被害を受け続けており,現在に至るまで継続的不法行為が成立する,というものである。第1節

前提事実(当事者間に争いがないか,後掲各証拠,公知の事実及び弁論の
全趣旨により容易に認定することができる事実)
第1

原告ら
原告らは,いずれも,ハンセン病患者の子又は同居していた親族である。
第2
1
ハンセン病の医学的知見
概略
ハンセン病の定義

ハンセン病は,抗酸菌の一種であるらい菌によって引き起こされる慢性の細菌感染症である(なお,これまで癩(らい)とも呼ばれてきたが,以下,原則として,ハンセン病という。)。らい菌は,明治6年ころにノルウェーのハンセンによって発見された細菌で,結核菌等と同じ抗酸菌に属するものである。ハンセン病は,主として末梢神経と皮膚が侵される疾患で,慢性に経過する。
ハンセン病の感染・発病
らい菌の毒力は極めて弱く,ほとんどの人に対して病原性を持たないため,人の体内にらい菌が侵入し感染しても,発病することは極めてまれである。
ハンセン病治療の現状
ハンセン病の本格的な薬物療法は,昭和18年,米国でのプロミンの有効性についての報告に始まり,日本でも,昭和22年より,静脈注射によって投与するプロミンが一部の患者に使用され始めた。その後,プロミンの改良型で同じスルフォン剤の一種である経口薬ダプソン(DDS)が用いられる
ようになった。さらに,昭和40年代後半になり,リファンピシンがらい菌に対し強い殺菌作用を有することが明らかになった。
昭和56年には,WHO(世界保健機構)が,リファンピシン,DDS及びクロファジミンによる多剤併用療法を提唱した。この多剤併用療法は,その卓越した治療効果だけでなく,再発率の低さ,患者に多大な苦痛と後遺症
をもたらす経過中の急性症状(らい反応)の少なさ,治療期間の短縮等の点で画期的な療法であり,わずか数日間の服薬で菌は感染力を喪失するとされている。
そのため,現在では,ハンセン病は,早期発見と早期治療により,後遺症を残すことなく,外来治療によって完治する病気であり,また,ハンセン病
の診断は容易であり,早期発見が可能である(乙A102の1の2)。不幸にして発見が遅れ後遺症が発現した場合でも,手術を含む現在のリハビリテーション医学の進歩により,その後遺症を最小限に食い止めることができ,手術で直すことのできる後遺症もあるとされている(乙A102の1の2)。2
ハンセン病の病型分類と症状の特徴等


リドレーとジョプリングの病型分類
ハンセン病の臨床症状は,個体の免疫系がらい菌にどのような免疫応答を
示すかが目に見える形で現れたものであって,非常に多彩であるが,症状の違いによって医学上いくつかの型に区分されている。この区分を病型という。ハンセン病医学においては,これまで様々な病型分類が用いられてきたが,現在の一般的な病型分類として,昭和41年に提唱されたリドレーとジョプリングの分類がある。上記分類による各病型の特徴は次のアないしエのとおりである。
なお,菌指数とは,塗抹菌検査によって認められる菌の個数を指数で表したものであり,塗抹菌検査とは,皮疹部位等をメスで切開して採取した組織汁をスライドグラスに塗抹し乾燥させ,染色後に顕微鏡でらい菌の有無,個
数等を検査するものである。
菌指数6+
菌指数5+

毎視野中に平均100個から1000個

菌指数4+

毎視野中に平均10個から100個

菌指数3+

毎視野中に平均1個から10個

菌指数2+

10視野中の合計が1個から10個

菌指数1+

毎視野中に平均1000個以上

100視野中の合計が1個から10個

菌指数-(マイナス)菌を発見できない

I群(未定型群)
らい菌の感染が成立した免疫不全個体が発病したときの初期症状と
考えられているものである。I群から更に成熟した病態に移行する場合には,LL型,TT型及びB群の3つの方向がある。

LL型(らい腫型)
細胞免疫系の抑止力が機能せず,らい菌を多数含有する細胞が全身に播種拡大する傾向を示す病型で,皮疹を始め多彩な症状を呈する。最も重症になりやすい病型である。排菌量も最も多く,塗抹菌検査による菌指数は,5ないし6+程度である。


TT型(類結核型)
細胞免疫不全のため病態は進行するが,それでも強い類結核性肉芽腫形成が起こり,皮膚病巣は1か所に限局傾向を示して播種傾向に乏しく,境界鮮明でしばしば中心性治癒所見を見る。排菌量はLL型よりはるかに少なく,菌指数は,0ないし1+程度である。


B群(境界群)
免疫応答がLL型とTT型の中間に位置し,しかも内容・程度が不安定で,病理組織像は両者の特徴が共存しており,皮膚病巣もしばしば播種が見られるが,病巣が部分的には1か所に限局する傾向が認められ,LL型のように全身に左右対称性に散在することはない。菌指数は,0ないし5
+である。
この境界群は更に3型(LL型に近いBL型,TT型に近いBT型,中間のBB型)に分けられる。

リドレーとジョプリングの分類と他の病型分類との関係

マドリッド分類
リドレーとジョプリングの分類以前の昭和28年第6回国際らい会議において提唱されたマドリッド分類は,L型(らい腫型),T型(類結核型)に加えて,B群(境界群),I群(不定型群)の2型2群に分類する考え方である。


日本における伝統的分類

日本においては,伝統的に,結節型,斑紋型,神経型の3分類に分類する考え方がとられてきた。これをマドリッド分類と対比すると,結節型はL型とB群の一部を,斑紋型はT型とB群の一部を含むものと考えられる。なお,神経型は,斑紋型で斑紋が消失したものである。

WHO提案の病型分類
WHOは,多剤併用療法による治療方針決定上のより簡便な病型分類として,MB型(多菌型)とPB型(少菌型)の2分類を提案した。これによると,MB型はおおむねLL型,BL型,BB型及び一部のBT型に相当し,PB型はおおむねI群,TT型及び大部分のBT型に相当する。



症状の特徴
ハンセン病の症状は,以下のとおり,病型によって大きく異なる。ア
皮膚等
I群

1個ないし数個の低色素斑(ときに紅斑)が見られる。
TT型
1個ないし数個の低色素斑あるいは紅斑が見られ,病状が進行すると手掌大あるいはそれ以上の大きさとなる。皮疹に一致して知覚障害,発汗障害,脱毛を伴う。

BT型
TT型に似て,低色素斑か紅斑で始まるが,皮疹は小さめで,数は多めである。皮疹に一致する脱毛,発汗障害は余り顕著ではない。
BB型
多数(BL型,LL型よりは少ない)の斑か,集簇性丘疹か,あるい
はこれらの混在した病巣が見られる。個疹は大きく,拡大傾向を示して板状疹となることもあり,多形性あるいは地図状で,辺縁は不整である。皮疹に一致して軽度の知覚麻痺,脱毛,発汗障害,皮脂分泌障害が認められる。
BL型
初期は斑で始まるが,間もなくこれらは集簇・融合する。境界不明瞭な紅斑・板状疹・丘疹・結節や,外側の境界が不明瞭な環状斑が多発す
る。皮疹部分には発汗障害が認められる。
LL型
通常,早期から広範囲・対称性に分布する複数の皮疹が確認できる。病勢が進むと,皮疹の数が増加し,更に進行すると皮膚の肥厚(浸潤)として確認できるようになる。真皮に塊状の肉芽腫が形成されると,丘
疹や結節の皮疹となる。集簇性・散在性に分布する段階から全身に播種状に多数散布するものまで様々である。び慢性に浸潤した肥厚部位に結節が混在することや,結節が腫大・融合して巨大な局面や腫瘤が形成されることもあり,斑,丘疹,板状疹,結節が混在してくる。結節は自潰しやすく,潰瘍や痂皮を形成し,顔面の浸潤・結節が高度になると獅子
様顔貌となる。早期から発汗障害を認めることもある。特に進行すると,眉毛・睫毛・頭髪の脱落,爪の変形・破壊が起こる。

末梢神経
I群

皮疹部分の知覚低下以外に特に変化は認められない。
TT型
菌の存在が末梢神経系の一部のみにとどまり,侵されるのは比較的低温の皮膚から浅い部分にある神経幹である。特に,尺骨,総腓骨,顔面神経が侵されやすく,ここから分かれ出る末梢神経はすべてその機能を
停止し,運動麻痺と全種類の知覚障害が支配領域に出現する。
BT型
皮疹の出現に先立って,知覚過敏が起こることもある。皮疹に一致して知覚障害が認められるが,TT型より軽度である。神経幹の肥厚は強く,TT型よりも広範囲であるが非対称性である。神経障害による筋萎縮や運動障害を残しやすい。
BB型

非対称性の肥厚を伴った多発神経炎を起こしやすい。
BL型
対称性の神経障害が現れる傾向がある。比較的多くの神経に比較的強い変化が見られ,かなりの機能障害を残すおそれがある。
LL型

全身の皮膚表層の末梢神経を対称性に侵すが,深層の末梢神経は侵されず,皮膚温度の高いところや踵・指先等の角化の強い部分も侵されにくい。このような領域を除いた全身の皮膚表面の知覚の低下(鈍麻)が見られる。さらに,皮膚の浅い部分の神経幹も侵されやすいため顔面筋・小手筋,前脛骨筋等の麻痺が加わる。多くは病期が進行してから現
れ,主として知覚鈍麻を呈する。神経の肥厚は顕著ではない。


TT型やBT型は,顔面に病変がある場合に顔面神経麻痺による片側性の兎眼が見られることがある。BL型やLL型では,らい菌が血行性に眼部に到達して,増殖することがある。特に,眼球の前半部は低温のため侵
されやすい。顔面神経や三叉神経の麻痺があると多彩な障害が起こる。らい菌の侵入による変化と末梢神経の障害とがあいまって後遺症を残すことが多い。

耳・鼻・口・咽喉

TT型やBT型では,顔面に病変がある場合のみに,顔面神経麻痺による変化が見られる。BL型やLL型では,鼻,口腔,咽喉の粘膜にらい菌の浸潤による病変が見られることもある。

臓器
至適温度が30度から33度であるというらい菌の特性から,ハンセン
病では体表に近い低温部が侵されやすく,温度の高い臓器(肝臓,脾臓,腎臓等)に病変が生じてもこれによる障害はほとんど見られない。⑷

経過,予後,治癒

経過
I群

約4分の3は自然治癒し,4分の1が更に成熟した病態に移行するとされる。
TT型
皮疹出現時期が明確なことが多い。しばしば皮疹部位に知覚過敏が現れ,早期に運動障害を起こすこともある。病変が激しいときは,前駆症
として発熱や悪寒を伴う。皮疹は自然治癒することもある。末梢神経障害により高度の後遺症を残すことが少なくない。
B群
末梢神経障害を起こしやすく,病型の変動を起こしやすい。
LL型

未治療のまま放置すると病変が拡大して,重症化する。

予後
ハンセン病そのものはもともと致死的な病気ではない。例えば,昭和6年から昭和23年までの愛生園の死亡統計によれば,ハンセン病による衰
弱死は全体の2.9%にすぎず,喉頭のらい腫性病変による喉頭狭窄を来した死亡例を加えても3.6%であり,スルフォン剤による化学療法の出現前においても,ハンセン病が直接的な死因となったものは極めて少なかった。また,リファンピシンやクロファジミンによる治療が登場する以前の昭和45年に発行されたらい医学の手引き(当時の愛生園所長高島重孝監修)においても,らいによる直接的もしくは間接的な死亡の危険性は,スルフォン剤が出現してから進行性の重症らいが激減し,また抗生物質によって感染症が制圧されたため,ますます遠のいてしまったとされた。

治癒
国立らい療養所共同研究班(平成元年)は,次の状態(鎮静期)がI群及びTT型で2年以上,B群及びLL型で5年以上続いたときを臨床的治
癒としている。
菌検査
らい菌の消失
臨床症状
皮疹消失,らい反応なし,知覚障害の拡大や著明な筋力低下なし,眼
や鼻に活動性病変なし


らい反応

意義
ハンセン病の経過は通常緩やかであるが,突然,急激な炎症性変化が起こることがある。これをらい反応という。らい反応には,大きく分けて,
境界反応とらい腫らい反応(ENL反応)の2つがある。前者はB群の患者に,後者はLL型やBL型の患者に起こる。

境界反応
境界反応は,抗菌剤の治療中に発生することが多い。DDS単剤療法で
はB群患者の約50%に,多剤併用療法でも約25%に起こるとされる。
境界反応が起こると,皮膚と神経で炎症が生じる。皮膚では,既存の境界群病巣の炎症症状の悪化あるいは新しい皮疹の出現が見られる。神経では,炎症性変化により神経内圧が上昇し神経破壊と麻痺を来し得る。兎眼,垂手,垂足を生じることもある。
境界反応が生じても抗菌剤投与は原則として継続する。治療としては,
鎮静剤や非ステロイド系消炎鎮痛剤等で対処することもあるが,反応が重篤で皮膚潰瘍や神経炎が起こると,ステロイド剤の適応となる。

ENL反応
ENL反応は,らい菌由来の抗原と抗体,補体とが結合してできた免疫複合体が,組織内や血管壁に沈着して起こる全身の炎症であり,抗菌剤治
療を開始した数か月後から生じることが多く,LL型患者の半数以上,BL型患者の約4分の1に起こるとされている。
主症状は皮疹であるが,重症例では末梢神経炎,虹彩毛様体炎,リンパ節炎,さらには睾丸炎,発熱,タンパク尿,関節炎等の全身性変化を起こすことがある。

ENL反応が生じた場合,以前は抗菌剤投与が一時中止されていたが,現在は中止する必要はないとされている。治療には,サリドマイド(ENL治療の第一選択としてよい薬剤であり,昭和40年以降広く使用されるようになった。),クロファジミンが著効を示すほか,ステロイドも有用である。軽症患者には,鎮静剤,非ステロイド系消炎鎮痛剤による対症療
法で効果が得られることもある。
予後は通常良好であるが,軽症の炎症が数か月から数年にわたって持続し神経障害が進行することや,眼症状を残すこともある。
3
ハンセン病の疫学


ハンセン病の疫学的特徴

ハンセン病の特徴は,感染と発病の間に大きな乖離が見られることであり,発病するのは感染者のごく一部にすぎず,感染者の中の有病率は高い場合でも通常1%を超えることはないとされる。この乖離の原因は,らい菌の毒力が極めて弱いため,感染しても発病に至ることが少なく,この菌に対して抗原特異的免疫異常が起きた場合にだけ発病するからであるとされる。


ハンセン病の感染について

感染源
患者
現在,感染源として確立されているのは患者だけである。

患者は,病型によって排出する菌の量が大きく異なり,TT型やI群の患者の排菌量は少ないが,LL型の患者からは,潰瘍を伴った皮疹,上気道分泌物,母乳等から大量のらい菌が排出される。
多剤併用療法を始めると,らい菌の感染力が数日で失われるので,感染源になる可能性があるのは未治療の患者である。また,DDS単剤療
法でも,らい菌の排出量は急速に減少するとされている。
患者以外
発病前の感染者については,臨床症状が出る前のらい菌の増殖により発病前の一定期間は感染源となる可能性が考えられている。
人以外のらい菌の感染源としては,生活環境中のらい菌による感染の
可能性が考えられている。ただ,生活環境中のらい菌による感染の疫学的重要性についてはいまだ不明な点も多い。
ハンセン病が人獣共通伝染病であることは,1970年代,80年代の研究で明らかになり,ココノオビアルマジロから人への感染発症例も報告されているが,これは特殊な例で感染源としての野生動物の疫学的
重要性はないとされている。

なお,体外でのらい菌の生存期間について,乾燥した日蔭では5か月,湿った土の中では46日,室温の生理食塩水中では60日,直射日光で毎日3時間照射した場合でも7日間感染性を保っていたという研究結果がある。

感染経路
らい菌の感染経路については,現在でも確固たる結論には達していない。かつては上気道粘膜からの感染が重視され,後になって皮膚の傷からの感染を重視する説が有力になったが,近年は再び経上気道粘膜感染の重要性が指摘されるようになった。母乳中のらい菌による乳児の感染の可能性も否定されてはいないが,疫学的重要性はないようである。節足動物を媒介
とする感染の可能性も否定されてはいないが,疫学的重要性はないとされている。

感染力
ハンセン病には結核のツベルクリン反応のような感染を知る皮内反応が
ないため,感染の判定には血清学的手法が用いられるが,感染を100%知る方法はまだ確立されていない。したがって,らい菌の感染力の強弱を知ることは困難であるものの,現在,一般的にはらい菌の感染力は弱いとされている。
例えば,平成7年5月のハンセン病予防事業対策調査検討委員会の中間
報告書には,ハンセン病の伝染力はきわめて微弱であるとの記載があり,同委員会の座長であり,医師であり元厚生省公衆衛生局長及び元厚生省医務局長である大谷著作の平成8年に発行されたらい予防法廃止の歴史では,ハンセン病の伝染性は微弱であるとの記載がある(甲A2・285,352頁)。また,法務省人権擁護局が平成13年に作成した広報紙には,
医師である所長連盟会長兼青松園所長の回答として,ハンセン病の感染力が極めて弱く,非常に感染しにくい旨の記載がある(乙A101の1)。もっとも,平成9年に発行されたハンセン病医学基礎と臨床には,インドネシアにおける調査の結果等の疫学的事実を統括すると,らい菌は一般に考えらえているよりも強い感染力をもつ旨の記載があった(甲D25・84頁,乙A114・84頁)。また,平成10年に青松園協和会が発行した青松通巻第535号には,日本のハンセン病患者の半分は感
染源が分からないことから,疫学的にはらい菌の感染力自体はそれほど弱くないと考える方が自然である旨の記載があった(乙A115・3枚目)。⑶

ハンセン病の発病
ハンセン病の発病には,種々の要因が関与していると考えられている。

年齢・性
ハンセン病の好発年齢については流行状態と関係がある。流行が持続している地域では,10歳代と40から60歳代にピークがあるが,流行が終焉に向かうと,若年の発病が減少するため,高齢発病のみの一峰性分布になる。
発病者の男女比は一般に2対1といわれるが,年齢や地域差もあり,必
ずしも一定ではない。

初発患者の病型及び接触濃度
家族内接触者の場合,初発患者の病型が発病の危険度に影響する。LL型患者の家族内接触者の発病率は,1000分の6.2から55.8と報
告者により大きな違いがある。また,孤発例の発病率を1とした場合,LL型患者の家族の相対危険率は9.5,非LL型患者の家族のそれは3.7であったとの報告もある。また,同じ家族内接触でも接触が濃密であるほど発病率が高まることも知られている。
乳幼児に対する家庭内感染の危険性については,第2回国際らい会議以
降,国際会議等でしばしば取り上げられている。家庭内接触児童の発病率については,多数の報告があるが,これをまとめた元日本らい学会会長兼愛楽園名誉園長の犀川の報告によると,戦前戦中には40%前後という極めて高率のものも散見されるが,戦後のものだけを見ると,最も高いもので14%,最も低いもので1.4%となっている。
これに対し,夫婦間感染は,古くからまれであるといわれている。発病率は,多数の報告があるが,犀川の上記報告によれば,最も高いもので7.
8%,最も低いもので0.26%である。

遺伝素因
統計によって多少の違いはあるが,ほぼ半数の患者は家族性に発生し,残りの半数は孤発例であるとされ,ハンセン病の発病に遺伝素因が一定の役割を果たしているものと考えられている。


環境要因
ハンセン病の流行は,社会経済状態と関係していると考えられている。ただ,発病に影響を与える社会経済因子を具体的に特定するには至っていない。

4
ハンセン病治療法の推移


スルフォン剤(プロミン)登場前の治療法について
スルフォン剤がハンセン病治療薬として登場するまでは,大風子油による治療がほとんど唯一の治療法であり,ある程度効果があるとの評価もあったことから,日本国内の療養所でも使用されていたが,再発率がかなり高く,根治薬というには程遠いものであった。



スルフォン剤(プロミン)の登場
米国のカービル療養所のファジェットは,昭和18年,20世紀初頭に抗結核剤として開発されたスルフォン剤であるプロミンにハンセン病の治療効果があることを発表した。その治療効果は,顕著であって,カービルの奇跡とまでいわれた。
その後,プロミンやその類似化合物であるプロミゾール,ダイアゾンの治療効果は,昭和21年にリオデジャネイロで開催された第2回汎アメリカらい会議でも取り上げられ,その評価になお慎重な意見もあったが,ファジェットの研究成果が高く評価され,スルフォン剤が,大風子油以来,最も進歩した薬剤とされた。

日本でも戦後間もなくプロミン等による治療が開始され,昭和22年以降,日本らい学会においてプロミンの有効性が次々と報告された。昭和24年4月には,プロミンが正式に予算化された。
そして,昭和26年4月の第24回日本らい学会において,『プロミン』並に類似化合物による癩治療の協同研究が発表され,再発の可能性を検討
するために少なくとも10年の経過を観察する必要があるとしながらも,プロミン等が極めて優秀な治療薬であると認められた。
スルフォン剤の登場は,これまで確実な治療手段のなかったハンセン病を治し得る病気に変える画期的な出来事であった。


DDS
DDSは,スルフォン剤の基本化合物で,らい菌の葉酸代謝を阻害して静菌作用を示すものである。DDSは,リファンピシン登場前のハンセン病の代表的治療薬であり,現在でも多剤併用療法で用いられている。
DDSがハンセン病治療に試されたのは昭和22年頃からであり,昭和2
3年にハバナで開催された第5回国際らい学会においては,DDSの少量投与で副作用を起こさず効果があるとの研究成果が報告され,注目を集めた。さらに,昭和27年のWHO第1回らい専門委員会においても,DDSに恐れられていたほどの副作用がない上,治療効果も高いこと,安価であること,経口投与が可能で使用方法も簡便であることなどが高く評価された。
日本国内でも,昭和28年頃からDDS経口投与の治療が開始されたが,広く普及するようになったのは,昭和30年代後半であった。


リファンピシン
リファンピシンは,もともと抗結核剤であったが,らい菌に対して強い殺菌作用を有していることが判明し,日本でも,昭和46年頃からハンセン病治療に用いられるようになった。リファンピシンを服用すると,数日で体内のらい菌の感染力を失わせることができるとされており,リファンピシンに
よって化学療法は更に進歩した。リファンピシンは,現在の多剤併用療法の中心的薬剤である。


クロファジミン
クロファジミンは,昭和32年に合成されたフェナジン系誘導体で,当初抗結核作用が注目されたが,らい菌に対する弱い殺菌作用と静菌作用に加え,
らい反応を抑える効果を有している(特に,ENL反応に著効を示す。)ことが判明し,日本国内でも昭和46年頃からハンセン病治療に用いられるようになった(なお,昭和45年には,DDSとクロファジミンを併用すれば効果が増大する旨の報告が紹介されている。)。


多剤併用療法
スルフォン剤に始まる化学療法の進歩は,ハンセン病治療に光明をもたらしたが,昭和30年代後半にDDSの,次にリファンピシンの耐性菌が発現し,耐性の問題をいかにして克服するかが世界的に重要な課題となっていた。昭和56年にWHOが提唱した多剤併用療法は,リファンピシン,DDS,クロファジミンを同時併用することでこの問題を解決しようとするもので,
卓越した治療効果,再発率の低さ,らい反応の少なさ,治療期間の短縮等の点で画期的であった。
5
19世紀までの病因論の状況等
ハンセン病医学の権威でありハンセンの義父でもあるダニエルセンは,弘化
4(1847)年に発表した論文において,疫学調査の結果を基にハンセン病の病因について遺伝説を唱え,以降,伝染説が承認されるまで,ヨーロッパでは,遺伝説が支配的であった。ダニエルセンが,遺伝説の正当性を証明するために,自分や看護婦,看護助士,シスター,梅毒患者らに繰り返しらい結節を接種し,その結果がことごとく陰性であった。なお,ダニエルセンと同様の人体接種は多数試みられているが,必ずしも成功していない。陽性となったのは225例中わずか5例(約2.2%)といわれており,その陽性例にも疑問視
されているものもあって,確実な陽性例はないともいわれている。伝染説が国際的に確立されたのは明治30年の第1回国際らい会議においてであるが,この会議において,りん菌の発見者でありハンセン病の伝染説の確立に貢献した細菌学者であるナイセルは,ハンセン病の伝染性は顕著でない旨を述べており,これに反対する見解が示された形跡はない。

日本には,奈良時代以前からハンセン病が流入していたようであるが,大流行の記録はなく,古くからハンセン病は業病とか天刑病であるとされてきた。明治時代以降も,日本国内では,少なくとも第1回国際らい会議まで,遺伝説が支配的で,伝染説は容易に受け入れられなかった。
6
ハンセン病に関する国際会議の経過


国際会議の開催について
ハンセン病に関する国際会議が次のとおり開催された。




第3回国際らい会議(大正12年,ストラスブルグ)
国際連盟らい委員会(昭和5年,バンコク)



第4回国際らい会議(昭和13年,カイロ)



第2回汎アメリカらい会議(昭和21年,リオデジャネイロ)


第2回国際らい会議(明治42年,ベルゲン)



第1回国際らい会議(明治30年,ベルリン)

第5回国際らい会議(昭和23年,ハバナ)



WHO第1回らい専門委員会(昭和27年,リオデジャネイロ)



第6回国際らい会議(昭和28年10月,マドリッド)
⑩⑪
第7回国際らい会議(昭和33年,東京)


WHO第2回らい専門委員会(昭和34年,ジュネーブ)




らい患者救済及び社会復帰国際会議(ローマ会議,昭和31年)


MTL国際らい会議(昭和28年11月,ラクノー)

第8回国際らい会議(昭和38年,リオデジャネイロ)

主な国際会議の概要

第1回国際らい会議(明治30年,ベルリン)
ハンセンが明治7年にハンセン病の伝染説を発表した後も,伝染説はなかなか学会の承認を得られなかったが,この会議でようやく伝染説が国際的に確立された。

この会議では,らい菌が病原であり,環境によってはハンセン病患者の隔離は法律的な強制において遂行すべきとされた。
なお,りん菌の発見者でありハンセン病の伝染説の確立に貢献した細菌学者であるナイセルは,ハンセン病の伝染性の程度は顕著ではないし,全ての患者を隔離することは誤りであると述べた。

また,ハンセンは,隔離がハンセン病患者を減少させることを強調しつつ,隔離の在り方について,家庭内分離や清潔が保たれれば必須ではない旨述べ,他の参加者からは,

強制的に患者を引き渡し拘留すべき必要があるかどうか疑問である。

とか

隔離が唯一の方法ではない。

との意見も述べられた。


らい患者救済及び社会復帰国際会議(ローマ会議,昭和31年)
マルタ騎士修道会によって開催されたこの国際会議では,らいが伝染性の低い疾患であり,且つ治療し得るものであるとして,①ハンセン病患者に対するすべての差別法を廃止すべきこと,②患者の病気の状況が家
族等に危険を及ぼさない場合には,その家に,留めておくべきこと,③入院加療は,特殊医療,あるいは,外科治療を必要とする病状の患者のみに制限し,このような治療が完了したときには,退院させるべきであること,④各国政府に対し,社会復帰に関し必要な道徳的,社会的かつ医学的援助を与えるよう奨励すること等の決議をした。

第7回国際らい会議(昭和33年,東京)
この会議では,ハンセン病治療におけるスルフォン剤の優位が変わらな
いとの認識の下,ハンセン病予防には患者の早期発見・早期治療,外来治療の整備が重要であることが指摘された。そして,社会問題分科化会においては,政府に対する強制的隔離政策の全面的破棄の勧奨及びハンセン病に対する特別法廃止と公衆衛生の一般手段の使用が決議された。

WHO第2回らい専門委員会(昭和34年,ジュネーブ)
この委員会の報告(報告書は昭和35年に発行)では,①従来のハンセン病対策が患者隔離に偏っていたため,療養所の運営,経営に終始していたものを廃し,一般保健医療活動の中でハンセン病対策を行うこと(インテグレーション),②したがって,ハンセン病を特別な疾病として扱わないこと,③ハンセン病療養所はらい反応期にある患者や専門的治療を要す
る者,理学療法や矯正手術の必要な後遺症患者等の治療のため,患者が一時入所する場であり,入所は短期間とし,可及的速やかに退所し,外来治療の場に移すこと,④家庭において小児に感染のおそれのある重症な特別なケースは治療するために一時施設に入所させることがあるが,この場合も,軽快後は菌陰性を待つことなく,可及的速やかに外来治療の場に移す
こと,療養所入所患者は最小限度に止め,らいの治療は外来治療所で実施するのを原則とすることなどが提唱された。そして,

特別の法制度は廃止されるべきである。

とされた。オ
第8回国際らい会議(昭和38年,リオデジャネイロ)
この会議では,ハンセン病に対する特別法は破棄されるべきであり,無差別の強制隔離は時代錯誤で,廃止されなければならないとされた。第3
1
行政組織及び立法機関
立法機関
明治23年11月29日に施行された大日本帝国憲法下においては,衆議院及び貴族院から構成された帝国議会であり,昭和22年5月3日に施行された日本国憲法下においては,衆議院及び参議院から構成された国会である。なお,
後記第5の2

ウに記載のとおり,米国の統治下における沖縄において琉球政

府発足後の立法機関は,琉球立法院であった。
2
行政組織
内務省

内務省は,明治6年11月10日,明治6年太政官布告375号により設置され,明治19年2月26日勅令第2号により,地方行政,警察,衛生等を担当した。内務省の長は内務大臣であった。
地方行政については,明治23年に,府県を国の行政区画かつ地方公共団体区域とする,府県制が定められ,その執行機関として,国の行政官庁とし
ての府県知事が充てられ,その主要な補助機関も国の官吏をもって構成され,府県は国の監督を受けるものとされ,地方行政を担当する内務省の主務大臣である内務大臣が府県知事を指揮監督する中央集権国家制度であった。府県制が施行された当時,府県は3府(東京府,京都府,大阪府)44県であった。なお,北海道については,明治19年に北海道庁が設置され,明治23
年以降内務大臣に所属し,明治34年に公布施行された北海道会法及び北海道地方費法が適用され,当初,府県とは異なった取り扱いが行われたものの,府県制の規定が北海道に準用され,府県に近いものとなり,昭和21年,府県制が改正され道府県制となった。東京府は,昭和18年,東京都となった。警察については,内務大臣が地方長官である警視総監及び府県知事等を指
揮監督し,これらの地方長官が国の機関としての警視庁及び道府県警察部とその下に置かれた警察署等を指揮監督する国家警察制度であった。また,警察機関の所掌事務には,後記のとおり衛生も含まれていた。これらは,昭和22年の警察法の制定により改められた。
衛生については,後記のとおり,昭和13年に厚生省が設置されるまで,ハンセン病を含む衛生行政が内務省の所掌事務とされ,内務省衛生局が担当し(甲A23・53~73頁),強制収容,患者等の調査である全国らい一斉調査等については,内務省警保局が所管し,窓口事務や強制収容は各府県の警察部衛生課(昭和18年以降は内政部)及び各所轄警察署が担当していた(甲A23・98頁,甲D81・578,579頁)。
また,大正5年,内務省に保健衛生調査会が設置され,同会がハンセン病
についての調査を担当した(甲A23・62頁)。
内務省は,内務省及び内務省機構に関する勅令等を廃止する法律により,昭和22年12月31日,廃止された。
厚生省
厚生省は,昭和13年,内務省の社会局及び衛生局が担当していた所掌事
務を担当する省として設置され,同年公布施行された厚生省管制により,ハンセン病を含む衛生行政については厚生省の所掌事務とされた(甲A23・74頁)。
厚生省の長は厚生大臣であった。
昭和24年法律151号厚生省設置法5条8号により,

伝染病,精神障害,地方病その他特殊の疾病について伝ぱ及び発生の防止,予防治療施設の拡充等予防業務の指導監督を行うこと。

が,同条32号により,国立療養所に関することが,同条39号により,らいの予防及び治療に関する調査研究を行うこと(平成8年法律第28号によりらいがハンセン病に改正)が厚生省の所掌事務とされた(甲A37)。
なお,昭和22年の内務省の廃止及び昭和12年4月2日に制定された保健所法に基づく保健所の設置普及により,従前,内務省警保局が所管し,各府県の内政部衛生課及び各所轄警察署が担当していた強制収容等は保健所が担当した(甲A23・98,108頁,甲D81・578頁)。
厚生省は,後述の厚生労働省の設置に伴い,廃止された。
厚生労働省
平成11年法律97号厚生労働省設置法(平成13年1月16日施行)により,厚生労働省が設置され,その長として厚生労働大臣が置かれた。同法4条19号により,

感染症の発生及びまん延の防止並びに港及び飛行場における検疫に関すること。

が厚生労働省の所掌事務として規定されている(甲A38)。

文部省
文部省は,明治4年,太政官職制並事務章程の制定により設置された。文部省の長として文部大臣が置かれた。文部省は,平成8年当時,平成4年法律88号による改正後の昭和24年法律146号文部省設置法5条12号により,初等中等教育の基準の設定に関すること,同条17号において,初等
中等教育のあらゆる面について,教職員その他の関係者に対し,専門的,技術的な指導と助言を与えること,同条18号において,教科用図書の検定に関すること,同条28号において,大学教育及び高等専門教育の基準の設定に関すること,同条33号において,大学教育及び高等専門教育のあらゆる面について,教職員その他の関係者に対し,専門的,技術的な指導と助言を
与えること,同条48号において,社会教育の振興に関し,企画し,援助と助言を与えること,同条53号において,社会教育のあらゆる面について,社会教育に関する団体,社会教育指導者その他の関係者に対し,専門的,技術的な指導と助言を与えること,同条64号において,専修学校教育の基準の設定に関すること,同条77号において,地方公共団体の機関,大学,高
等専門学校,研究機関等に対し,所掌事務に係る専門的技術的な指導と助言を与えることのそれぞれを所掌事務としていた。(甲A117の1)なお,文部省は,文部科学省の設置に伴い,廃止された。
文部科学省
平成11年法律96号文部科学省設置法(平成13年1月16日施行)により,文部科学省が設置された。その長は文部科学大臣である。
文部科学省設置法により,同法4条9号において,初等中等教育の基準の設定に関すること,同条10号において,教科用図書の検定に関すること,同条13号において,教育職員の養成並びに資質の保持及び向上に関すること,同条17号において,大学及び高等専門学校における教育の基準の設定に関すること,同条24号において,専修学校及び各種学校における教育の
基準の設定に関すること,同条32号において,社会教育の振興に関する企画及び立案並びに援助及び助言に関すること,同条91条において,地方公共団体の機関,大学,高等専門学校,研究機関その他の関係機関に対し,教育,学術,スポーツ,文化及び宗教に係る専門的,技術的な指導及び助言を行うこと,同条92条において,教育関係職員,研究者,社会教育に関する
団体,社会教育指導者,スポーツの指導者その他の関係者に対し,教育,学術,スポーツ及び文化に係る専門的,技術的な指導及び助言を行うことのそれぞれを所掌事務としている。(甲A118の1)
法務省
法務省は,平成10年法律126号による改正前の昭和22年法律193
号法務省設置法3条28号により設置され,民間における人権擁護運動の助長に関する事項を所掌事務とするとされた。(甲A106・73~75頁)また,平成11年法律93号法務省設置法(平成13年1月施行)4条27号により,人権啓発及び民間における人権擁護運動の助長に関する事項も法務省の所掌事務とされている。

法務省の長は法務大臣である。(甲A107)

なお,平成12年12月,人権教育・啓発促進法が制定されたのを受け,同法7条によって平成14年3月15日に閣議決定された人権教育・啓発基本計画により,法務省は,ハンセン病に関する啓発活動及びハンセン病患者・元患者等の人権の重要性について理解を深めるための啓発活動の担当省庁と明記され,ハンセン病に関する人権啓発が法務省の職務と明示された。
(甲A115の1・146頁)
法務局は,法務省の地方組織の一つであり,登記,戸籍,国籍,供託の民事行政事務,訴訟事務,人権擁護事務を行っており,全国を8ブロックの地域に分け,各ブロックを受け持つ機関としての法務局と,法務局の下に置かれた,都道府県を単位とする地域を受け持つ全国42か所に設置された地方
法務局がある。


都道府県知事
都道府県知事は,大日本帝国憲法下では,内務省管轄の勅任官として,ハンセン病対策事業を実施していたが,日本国憲法制定後は,昭和28年8月
15日法律第212号による改正前の地方自治法148条により,機関委任事務として,ハンセン病対策事業を実施することになった。そして,後記第4の3

のとおり,同日に,らいの伝染防止,患者の医療及び福祉のらい対
策を法制化した新法が制定公布されたことを受けて,同年9月16日付けで厚生事務次官から各都道府県知事宛にらい予防法の施行について(発衛第239号)が通知され,その後は,らい予防事務(患者家族等に対する福祉事務を含む。)は特定の都道府県職員に行わせ,原則として保健所長に委任したり市町村職員に事務を行わせたりすることはしないこととなった(甲D69)。
都道府県知事が機関委任事務として管理し,及び執行しなければならない
事務は,上記のとおり地方自治法148条2項の別表第3に記載されているところ,らい予防(対策)に関しては,癩予防法の定めるところにより,患者が転帰したとき,又は患者の死体を検案したとき,医師からその旨の届出を受理し,患者を国立らい療養所等に入所させ,患者の同伴者又は同居者を擁護し,並びに予防上必要な場合には,患者の従業を禁止し,病毒汚染物件の処分を命じ,又は自らこれを行い,及び医師を指定してらい又はその疑のある患者を検診させること(16)と規定されていた。
第4

ハンセン病に対する法制及び政策の変遷等

1
古来の状況について


江戸時代
江戸時代の厳しい封建制度の下で固定化した社会体制の中で,一部のハンセン病患者及びその家族は,特定の居住地区にとじ込められ,不良な衛生環
境の中での生活を強いられ,歴代にわたって家族内感染を繰り返していった。そのため,当時の一般の人たちは,ハンセン病を遺伝病であると誤認し,らい家系があるなどと誤信した。もっとも,ここにいう遺伝には,ハンセン病の遺伝(家系,家筋)がない場合,他家から嫁いできた嫁が発症しても夫と嫁の間にできた子には発症しないとされるものも含まれ,生物学的な
遺伝に限らない。そして,ハンセン病は,業病とか天刑病として偏見差別の対象とされてきた。(甲A3・ⅲ,15頁,甲A95・21,22,32頁)
明治時代
明治時代に入って,国内の移動が自由となり,窮屈な地域的束縛から解放
された患者たちは全国に散らばっていったが,ハンセン病に対する社会の差別はなお根強く,正業に就くことができなかった等の理由により,止むを得ず神社,仏閣等に集り,浮浪生活を送ったり,放浪の旅に出たり,自然発生的にハンセン病患者らの集落を形成したり,物置の奥深く等に世間から隠れて生活したりしていた。(甲A3・ⅲ,15頁)

2
戦前の状況について


癩予防ニ関スル件の制定等

制定前の状況
前記1

のとおり,ハンセン病患者の中には,故郷を離れて浮浪徘徊す

る者が少なからず存在し,そのような者は社寺仏閣等で物乞いをするなど,悲惨な状況にあった。これに対し,宗教家が救らい事業に乗り出し,特に,
明治20年代以降,神山復生病院,慰廃園,回春病院,待労院等の私立療養所が開設されて,ハンセン病患者の療養に当たった。
ハンセン病は,明治30年に制定された伝染病予防法の対象疾病に含まれていなかったが,伝染説が確立された第1回国際らい会議(明治30年)以降,ハンセン病予防に対する関心が高まった。

明治33年以降,内務省によってハンセン病の全国調査が実施され,その際には,ハンセン病の血統家系戸数又はハンセン病の患者の数も調査の対象とされた。明治33年から昭和15年までは,上記全国調査は全国らい一斉調査とされ,全国の警察官が調査に動員された。この調査の結果,明治33年においては,患者総数は3万人以上とされた。(甲A2
6・64頁,甲A45,乙A29・23,25,47,51,163頁)イ
癩予防ニ関スル件の制定
明治40年,ハンセン病患者に対する強制措置を定めた最初の法律である癩予防ニ関スル件が制定された。

これにより,患者を診断した医師に対し,患者及び家族に対する消毒方法の指示義務を課し(1条),患者ある家又は病毒に汚染した家に対する消毒その他の予防方法の履行義務を定めるとともに(2条),癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ行政官庁ニ於テ命令ノ定ムル所ニ従ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ但シ適当ト認ムルトキハ扶養義務者ヲシテ患者ヲ引取ラシムヘシ(3条1項),主務大臣ハ二以上ノ道府県ヲ指定シ其ノ道府県内ニ於ケル前条ノ患者ヲ収容スル為必要ナル療養所ノ設置ヲ命スルコトヲ得(4条1項)とされた。⑵

療養所の設置
内務省は,癩予防ニ関スル件が制定された明治40年,まず2000人の浮浪患者を収容する方針を決め,癩予防ニ関スル件4条1項所定の
療養所の設置方針として,市街地への距離が遠くなく交通の便利な土地を選ぶことなどを決めた。
しかしながら,療養所建設は,実際には一部の地区で地元住民の反対運動に遭って難航し,結局,明治42年,次のとおり,全国5か所に府県連合立である公立療養所が設置された。特に,第1区は難航し,当初予定していた
数か所の候補地がいずれも買収できず,漸く代替地を確保することができた。第一区

全生園(東京都東村山市所在)

第二区

保養園(青森市所在)

第三区

外島保養院(大阪市所在。なお,昭和9年9月の室戸台風により

壊滅的被害を受け,そのまま復興されなかった。)

第四区

青松園(香川県木田郡庵治町所在)

第五区

恵楓園(熊本県菊池郡合志町所在)

(甲D2・76~77頁)

内務省訓第45号
内務省は,明治42年2月2日,府県に対して,内務省訓第45号を発した。
当該訓令は,府県に対して,ハンセン病は,その患者と接触したり,その患者の体液を介したりすることによって感染の危険性が生じる伝染病であるから,癩予防ニ関スル件を発したと前置きの上で,隔離シ其ノ他ハ各自ニ於テ消毒其ノ他予防方法ヲ行ハシメ,ハンセン病の蔓延を防ぎ漸次根絶を図るとともに,一般市民に対して,ハンセン病の性質及び予防方法を周知することを求めたものであって,その文中には,ハンセン病の予防方法として,患者本人の住居や衣類等の消毒だけでなく,患者と同居する家族の衣類等の消毒等が掲げられており,療養所の隔離対象とならない在宅患者についても,家人との雑居や公衆の出入りする場所への立ち入りを制限する旨の規定があった。
懲戒検束権の付与
設置当初の療養所内では,風紀が乱れ,秩序維持が困難な状況にあった。そこで,光田が所内の秩序維持のための意見書を提出したことなどをきっかけとして,大正5年法律第21号による癩予防ニ関スル件の一部改正に
より,療養所ノ長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ被救護者ニ対シ必要ナル懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得(4条の2)とされ,療養所長の懲戒検束権が法文化され,それを受けた施行規則に懲戒検束の内容として,譴責,30日以内の監禁などが定められた。
さらに,大正6年,上記規則の施行細則が定められ,これによれば,被救
護者(ハンセン病患者)は風紀を乱したとか,職員の指揮命令に服従しなかったという理由で,減食等の処分の対象とされ,また,逃走し又は逃走しようとしたとか,他人を煽動して所内の安寧秩序を害し又は害そうとしたという理由で,監禁等の処分の対象とされた。
断種(ワゼクトミー)中絶の実施

日本国内の公立療養所では,当初,男女間の交渉を厳重に取り締まったが,それでも所内での男女交渉は絶えず,出産に至ることも少なくなかった。そのため,療養所内での出生児の養育を許さない方針であった療養所側は,その扱いに苦慮するようになった。男女間の交渉を認めることが療養所の秩序維持に役立つと考えた光田(当時全生病院長)が,大正4年から,結婚を許
す条件としてワゼクトミー(精管切除)を実施したことをきっかけとして,全国の療養所でこれが普及するようになり,昭和14年までに1000人以上の患者にワゼクトミーが実施され,妊娠した女性に対しては,人工妊娠中絶が実施された。さらに,当該優生手術は,昭和23年の優生保護法制定前後を問わず,患者本人及び配偶者の同意を得ないで行われることがあった。なお,国民優生法(昭和15年法律第107号)には,ハンセン病患者に対する優生手術や人工妊娠中絶の規定が設けられず,ハンセン病患者に対する優生手術や人工妊娠中絶を認める旧法の改正案も不成立に終わったことから,右のような優生手術は,昭和23年の優生保護法制定まで,法律に明文の根拠なく行われていたものであった。
人工妊娠中絶は,妊娠8か月を経過した以降にも実施されていた(甲A2
5・3~4頁)。
第一期増床計画
大正8年に政府が行った全国らい一斉調査によれば,患者数が約1万6200人であり,このうち療養の資力がない患者は約1万人であった。これに対し,療養所の収容能力は十分ではなく,収容患者数はまだ1500人
にも満たなかった。
そこで,内務省保健衛生調査会は,大正9年,ハンセン病患者1万人収容を目標に公立療養所の増設,国立療養所の設定,さらに自由療養区の設定を内容とする根本的癩予防策要項を決議し,内務省は,大正10年から大正19年(昭和5年)までの10年間に,初の国立療養所を新設するとともに既
存の5か所の公立療養所を拡張して,病床数を5000床とする第一期増床計画を策定した(甲A10・16頁,甲D81・551頁)。
上記計画の実現は遅れたが,昭和11年頃までにはその目標が達成された。入所対象の拡張等
内務省は,大正14年,衛生局長の地方長官宛通牒により,癩予防ニ関スル件3条1項の療養ノ途ヲ有セスの解釈については,なお未だいずれの患者といえども,ほとんど療養の設備を有せざるものと考えうるの外なき状況にこれあり。なお救護者なる字句については,扶養義務者なると否とを問わず,常に患者を扶養するにとどまらず,療病的処遇を与うるものなることのいいと解すべく,かたがた患者の入所資格は相当広きものと解せられとして,事実上すべての患者を入所の対象とすることとした。なお,医師であり当時内務省衛生局予防課長で後の同省予防局長の高野は,大正15年5月財団法人中央社会事業協会発行の社会事業に掲載された民族浄化のためにと題する論考において,

癩病は誰しも忌む病気である。見るからに醜悪無残の疾患で,之を蛇蝎以上に嫌い且怖れる。

こんな病気を国民から駆逐し去ることは,誰しも希ふ所に相違ない。民族の血液を浄化するために,又此の残虐な病苦から同胞を救ふために,慈善事業,救療事業の第一位に数へられなければならぬ仕事である。

要するに,癩予防の根本は結局癩の絶対隔離である。此の隔離を最も厳粛に実行することが予防の骨子となるべきである。

と記述し,医師であり当時全生病院長で内務省保健衛生調査会委員であった光田は,同年7月発行の社会事業
に掲載された癩予防撲滅の話と題する論考において,如何に野蠻未開の土人に此の病が蔓延して居るかと云ふ事が考へられると同時に,血統の純潔を以て誇りとする日本國が,かえって他の歐米諸國より世界第一等の癩病國であることがわかる,20年間癩予防ニ関スル件に基づき多少の努力をした結果,ハンセン病患者数を減少させたといってよいだろうが,この患者数の減少をペストやコレラの予防事業と比較してみると,急性伝染病と慢性伝染病の差はあるけれども,ハンセン病については予防事業の結果があがっていないことは嘆かわしい極みであり,

我國の二十年前の國力と今日の國力とは一様でない。世界の五大國として國際聯盟に關係し,東洋盟主を以て自ら任ずる我が國は,此の癩と云ふ病を指摘されて「きもの

の著者の
如き嘲笑をあびせかけられたり,或は排日紙の材料となり,或は移民の大なる障碍となり,又は英米MTLの團體の如きは日本人の人道的観念の有無を疑ひ,朝鮮臺灣に癩救済の大旗を振かざして日本節の額の癩瘤を撫づるに至った。」,日本の癩は絶対隔離により最も早く撲滅する事が出来ると記述した(甲A3・93頁,甲A7・41~51頁)。
癩の根絶策
内務省衛生局は,旧法成立前の昭和5年10月,癩の根絶策を発表し
た。
これによれば,ハンセン病は惨鼻の極であり,癩を根絶し得ないやうでは,未だ真の文明国の域に達したとは云へず,癩を根絶する方策は唯一つである。癩患者を悉く隔離して療養を加へればそれでよい。外に方法はない。欧州に於て,古来の癩国が病毒から浄められたのは,何れも病毒に対する恐怖から,患者の絶対的隔離を励行したからである。,現今も患者の隔離が唯一の手段であり,最も有効なる方法なのである。若し十分なる収容施設があって,世上の癩患者を全部其の中に収容し,後から発生する患者をも,発生するに従って収容隔離することが出来るなれば,十年にして癩患者は大部分なくなり,二十年を出でずして癩の絶滅を見るであらう。,

然しかくの如き予防方法が講ぜられない場合は,癩はいつまで経っても自然に消滅することはない。過去の癩国は永久に癩国として残る。

とされ,癩根絶計画案として,20年根絶計画,30年根絶計画,50年根絶計画の3つが挙げられた。
癩根絶計画は直ちには実施されなかったが,昭和10年に20年根絶計画
の実施が決定され,昭和11年からの10年間に療養所の病床数を1万床とし,さらにその後の10年間でハンセン病を根絶することとされた。旧法の制定

昭和6年法律第58号により,癩予防ニ関スル件がほぼ全面的に改正され,癩予防法との題名を附された上,旧法が成立した。主な改正点は,次のとおりである。
入所対象の拡張
旧法3条1項において,行政官庁ハ癩予防上必要ト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノヲ国立癩療養所又ハ第四条ノ規定ニ依リ設置スル療養所ニ入所セシムベシとされ,療養所の入所対象に療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ(癩予防ニ関
スル件3条1項)との限定がなくなり,癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノが隔離の対象とされた(旧法3条1項)。従業禁止規定等の新設
上記改正により,行政官庁は,予防上必要と認めるときは,癩患者ニ対シ業態上病毒伝播ノ虞アル職業ニ従事スルヲ禁止スルコトができ
(旧法2条の2第1号),また,古着,古蒲団(中略)其ノ他ノ物件ニシテ病毒ニ汚染シ又ハ其ノ疑アルモノノ売買若ハ授受ヲ制限シ若ハ禁止シ,其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為サシメ又ハ其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為スコトができる(同条の2第2号)とされた。イ
上記改正に前後して被告が全国で府県を競わせ推進した無らい県運動によって,ハンセン病の未収容患者が次々と療養所に収容され,その結果,昭和5年から昭和10年にかけて入所患者数が約3倍に増加した。療養所の新設
療養所長は,大正4年ころ以降,入所患者の逃走防止等のために離島に療
養所を設置すべきであるとの意見を度々提出し,沖縄の西表島に大療養所を建設するという構想もあったが,これは,地元住民の反対もあって,実現しなかった。なお,衆議院では,昭和10年3月14日,療養所を外部との交通が容易でない離島又は隔絶地を選定して設置すべきであるという建議案が提出され,可決された。(甲A2・80~81頁,甲A3・90~99頁,
甲A23・62~64頁)

一方,第一期増床計画,旧法制定,20年根絶計画等に伴い,昭和5年3月に初の国立療養所である愛生園が光田の進言もあって岡山県邑久郡邑久町の瀬戸内海の小島である長島に開設されたのを始めとして,次のとおり,国立療養所の開設が続いた。(甲A3・160頁,甲D3・192,246頁)昭和

7年11月

楽泉園(群馬県吾妻郡草津町所在)

昭和

8年10月

南静園(沖縄県平良市所在)

昭和10年10月
昭和13年11月

愛楽園(沖縄県名護市所在)

昭和14年10月
敬愛園(鹿児島県鹿屋市所在)

新生園(宮城県登米郡迫町所在)

昭和16年

保養園,全生園,光明園(外島保養院の復興施設と

7月

して府県連合立療養所として昭和13年4月に開設。
甲A3・151頁,甲A27・74頁),青松園及
び恵楓園が国立療養所に組織変更
昭和18年
4月

昭和20年12月

和光園(鹿児島県名瀬市所在)
駿河療養所(府県連合立療養所として傷痍軍人駿河
療養所が昭和20年6月10日に開所。静岡県御殿
場市所在)が国立療養所に組織変更(甲D81)

戦前の無らい県運動
無らい県運動は,各府県内の全ての患者を療養所に送り込もうとする官民一体となった運動であり,昭和11年頃から活発化し,全国的にハンセン病患者に対する強制収容の徹底・強化が推進された。昭和15年には,厚生省から府県に対して,らいの予防は,少なくとも隔離によりて達成し得るものなる以上,患者の収容こそ最大の急務にして,これがためには上述の如く収容,病床の拡充を図るとともに,患者の収容を励行せざるべからず。しかして患者収容の完全を期せんがためには,いわゆる無らい県運動の徹底を必要なりと認む。,これが実施に当たりては,ただに政府より各道府県に対し一層の督励を加うるを必要とするのみならず,あまねく国民に対し,あらゆる機会に種々の手段を通じてらい予防思想の普及を行ない,本事業の意義を理解協力せしむるとともに,患者に対しても一層その趣旨の徹底を期せざるべからず。と指示して各府県を競わせ,患者の実態把握のために,隣組に通報を奨励するなどして,国民らからの通報も活用された。
こうして,戦時体制の下,全国津々浦々で,無らい県運動により,山間へき地の患者をも探索するなどの強制収容が行われ,これまで手が付けられていなかったハンセン病患者の集落もその対象となった。例えば,昭和15年7月には,多くのハンセン病患者によって形成されていた熊本県の本妙寺部
落で強制収容が行われ,157名が検挙された。また,昭和17年5月には,群馬県草津町所在の湯ノ沢部落が解体され,同部落に居住していたハンセン病患者が楽泉園に収容された。
癩予防協会の活動
癩予防協会は,昭和6年1月,安達謙造内務大臣及び渋沢栄一子爵らが中
心となり,貞明皇太后の下賜金と財界からの寄付金を基金として設立された。癩予防協会は,民間団体であるものの,設立総会が内務大臣官邸で開催され,寄付行為には,本会は癩の予防絶滅を以て目的とする旨の目的が定められるとともに,同協会の役員及び職員に関しては支部長は支部所在地の地方長官の職に在る者に対し会頭之を委嘱すと規定されていた。その結果,
府県の知事は癩予防協会の支部長として,庁舎内のハンセン病医療事務を担当する部署を事務局にあて癩の予防絶滅を目的とする事業にあたることとなった。
癩予防協会は,昭和7年から,貞明皇太后の誕生日である6月25日を癩予防デーと定め,当該日を含む一週間を癩予防週間として,この
期間を中心にポスター貼付,パンフレット・リーフレット等配布,講演会・映画会の開催等を全国各地で行ない,国民に対してハンセン病が伝染病であり隔離による伝染防止が必要であることを普及するとともに,ハンセン病患者に対して病毒の散布を慎み,療養所へ入所すべきことを指導した。また,癩予防協会は,昭和11年から,各府県に対して,癩患家の指導と称して,自宅で療養している患者を訪問し,患者及びその同居する家族に対して指導するよう要請し,各府県において患者及びその同居する家族に対す
る訪問指導が実施された。その指導の中で,患者及びその同居する家族に対して,衣服及び所持品に対する消毒や患者の療養所への入所が指導された。また,癩患家の指導は,自宅訪問等を通して,未収容のハンセン病患者及びその家族の状況を熟知できるものとして,家族の状況把握に利用された(甲A11,12)。

保育所について
癩予防協会は,昭和6年8月に,親が患者として療養所に収容されたことにより保護者・扶養者を失った,感染の確認されていない健康な子を保育教育するための施設として,愛生園の愛生保育所(楓蔭寮)及び青松園の楓寮を設置し,その後,昭和8年2月に楽泉園保育所(双葉寮),昭和10年5
月に恵楓園保育所(恵楓寮),昭和16年3月までに敬愛園保育所,保養園保育所及び南静園保育所をそれぞれ設置した。
これらの保育所の所管は,戦後の昭和21年5月に,癩予防協会から被告に移管された(乙A63の1)。
3
戦後,新法制定までの状況について


優生保護法(昭和23年法律第156号)の制定

昭和15年に制定された国民優生法に代わるものとして,昭和23年7月13日に優生保護法が制定され,同法により国民優生法は廃止されたが,優生保護法には次の内容の規定があった(優生保護法のらい条項)。
医師は,本人又は配偶者が癩疾患にかかりかつ子孫にこれが伝染するおそれがある者に対して,本人の同意並びに配偶者(届出をしないが事実上婚姻関係と同様な事情にある者を含む。以下同じ。)があるときはその同意を得て,優生手術を行うことができる(3条1項3号)。都道府県の区域を単位として設立された社団法人たる医師会の指定する医師は,本人又は配偶者が癩疾患にかかっている者に対して,本人及び配偶者の同意を得て,人工妊娠中絶を行うことができる(昭和27年
法律第141号による改正後の14条1項3号)。

優生手術等の実施
昭和24年から平成8年までに行われたハンセン病を理由とする優生手術は1400件以上,人工妊娠中絶の数は3000件以上に上った。
プロミンの予算化
日本国内においても,昭和22年以降プロミンの有効性に対する理解が広がり国会審議でも取り上げられ,厚生省医務局長であった東は,昭和23年11月27日の衆議院厚生委員会において,プロミンの有効性について答弁した。

また,プロミンを広く普及させるだけの予算措置が採られていなかったところ,昭和23年に全生園でプロミン獲得促進委員会が結成され,これを中心にプロミン獲得運動が全国に波及し,ハンスト等も行われた。その結果,昭和24年度予算で,患者らのほぼ要求どおりのプロミンの予算化が実現した。

戦後の無らい県運動
厚生省予防局長は,昭和22年11月6日付けで,都道府県知事に対し,無癩方策実施に関する件と題する通知を発した。同通知においては,実施方針として,民論を高めて一般の協力を求めること,徹底的に実施してハンセン病患者のいない国を目指すこと,第1次実施事項として,療養所の管
理を強化すること,帰郷患者を療養所へ復帰させること,既知の未収容患者のうち感染の危険の大きなものから順次入所させること,既知の未収容患者及びその家族に対する隔離並びに消毒その他予防指導の厳重な実施などが記載され,第2次実施事項として療養所の病床の増加並びに一斉検診の実施による未収容患者の発見及び収容などが記載されていた。また,同通知において,一般市民の協力を得,自発的に入所する状況を作るために,ラジオ新聞等の報道機関を利用し周知を図ることなどを指示した。
昭和24年6月24日及び25日に厚生省で開催された全国癩療養所所長会議において,無らい県運動を継続するという方針が決定されるとともに,療養所の増床と一斉検診の実施が決定された。
厚生省公衆衛生局長は,昭和25年4月22日付けで,都道府県知事に対
し,昭和二十五年度のらい予防事業についてと題する通知を発し,予防事業の強力かつ徹底的な実施を求め,そのための①診断技術向上のための講習会実施,②患者一斉検診の実施,③患者及び容疑者の名簿の作成,④患者の収容,⑤療養所退所者の指導,⑥一時救護等を指示した。また,一斉検診に関しては,市町村及び警察署の活動による通報,一般医師による患者届出の督励,予防接種及び結核集団検診時の患者発見及び当該事業における欠席者の追及,一般住民よりの投書,浮浪徘徊者又は乞食の調査等により,患者及び容疑者名簿を作成し,同名簿に登載された者を対象とする一斉検診を行うとともに,一斉検診においてハンセン病と診断された者については,登録患者名簿を整備し,本省へ報告するよう指示した。そして,この一斉検診の対象には,在宅患者や退所者の家族も含まれた。(甲A31・208~211頁)厚生省公衆衛生局長は,昭和26年4月24日付けで,都道府県知事に対し,「昭和二十六年度らい予防事業についてと題する通知を発しらい患者及び容疑者名簿の記載事項を定めた。その調査及び記載対象は,患者の
配偶者のみならず,子,両親,兄弟姉妹及びその配偶者にまで及んでいた。
戦後の無らい県運動においても,患者の実態把握のために,自治会役員に通報を奨励するなどし,実際にも,近隣住民等から保健所や警察への通報がされた(甲A4・43~45頁,甲A83・7頁,甲A84の1~9)。⑷
戦後の第二次増床計画と患者収容の強化
厚生省は,昭和25年8月に全国らい一斉調査を実施した。これによると,登録患者が1万2628人,このうち入所患者が1万0100人,未収容患者が2526人であり,未登録患者を合わせた患者数は1万5000人と推定された。50年前の明治33年の調査で患者総数が3万0359人(なお,把握漏れも相当あると思われる。)とされたのと比較すると,ハンセン病の
患者数が50年間で半減あるいはそれ以下に減少したことになる。また,有病率は,人口1万人当たり6.92人(明治33年)から1.33人(昭和25年)と約5分の1になった。
厚生省は,昭和25年以降,全患者の収容を前提とした増床を行い,患者を入所させていった。昭和25年5月19日付けの毎日新聞の記事によれば,

厚生省は,卅(三十)年計画で日本からライ病を根絶するためその潜在患者を発見すべく全国的にライの一せい検診に乗出した。

,全国六百八十九の保健所を動員して潜在患者の発見に努めるわけだが厚生省ではこれと併行して今年度中に国立療養所の病床を二千増床して,とりあえず発見患者を入所保養させ,さらに明年度は二千六百床を増設する一方近く癩予防法を改正して卅(三十)年計画でライを絶滅させる,各市町村の衛生官と警官が協力してライ容疑者名簿を作る,結核や乳幼児の集団検診の際保健所係員が現場へ出張して容疑者を発見する一方,保健所では一般住民からの聞込みや投書で容疑者発見につとめるとされた(甲D46)。昭和24年度から昭和28年度までに5500床の増床が実現し,療養所
の収容定員が1万3500人となった。そして,昭和28年の調査で,未登
録患者を含む推定患者数が約1万3800人とされたので,この時点でほぼ全患者の収容が可能になり,増床が終了した。
また,療養所の増床に合わせて患者収容の強化が図られ,在宅患者が2769人(昭和25年12月末)から1112人(昭和30年12月末)に減少した。
患者総数のうちの入所患者の割合は,昭和25年には約75%だったが,昭和30年には約91%になった。
参議院厚生委員会らい小委員会における三園長発言
参議院では,新たなハンセン病政策を検討するため,厚生委員会にらい小委員会が設けられ,昭和26年11月8日,同委員会において,当時全生園所長であった林,当時愛生園所長であった光田,当時恵楓園所長であった宮崎を含む5人の参考人からの意見聴取が行われた。ここでの三園長の発言が,三園長発言である。
なお,委員長は,冒頭に我が国癩予防は最近著しく進歩を遂げ,患者も夥しく減少して参りました,幸いに治療法も進んで参りましたようでありますとして,癩予防法も時代に即応いたしまして改正,改善等の必要を考えておるのでありますと述べた。藤楓協会
厚生省の所管する藤楓協会は,貞明皇后の遺金及び厚生省が発足した発起
人会が設置した貞明皇后記念救らい事業募金委員会が集めた募金に基づき,高松宮宣仁親王を総裁として,癩予防協会(前記2

)の事業を引き継ぎ,

昭和27年6月13日に創立された。同協会は,ハンセン病に対する偏見の打破,正しい知識の普及を目的に掲げ,厚生省からそれに関する事業を受託して行うこともあった(甲A4・38頁,甲A23・147,148頁,甲A43・25,26頁,甲A63・1頁,乙A5・253,256頁,乙A6・9頁)
貞明皇后記念救らい事業募金委員会の顧問には,当時の内閣総理大臣であった吉田,前厚生大臣であった黒川武雄,元厚生大臣の広瀬久忠らが就任し,常務理事に当時の厚生省公衆衛生局長であった山口,元厚生省予防局長高野らが就任した。また,藤楓協会の理事長に元厚生省予防局長高野,常務理事に元厚生省予防局長浜野規矩雄,理事に当時の厚生省公衆衛生局長であった
山口らが就任した。加えて,藤楓協会の府県支部においても,県知事や県衛生部長ら県の公衆衛生担当管理職が各役員に就任した例が数多くあった。(甲A23・150頁)


菊池医療刑務支所
ハンセン病患者が刑事裁判で有罪になった場合,刑務所に収容されず,療
養所内の監禁室や特別病室といった拘禁施設に収容していたが,特別病室における人権侵害が国会で問題とされ,刑務所設置が検討された。そして,法務省は,昭和28年,恵楓園に隣接した場所に菊池医療刑務支所を設立し,以後,全国のハンセン病患者で刑の確定者及び未決拘禁者が収容対象となり,昭和60年まで入所者がいた。菊池医療刑務支所は,昭和61年に立て替え
られ,平成9年まで存続した。(甲A23・313,314頁)


特別法廷
最高裁判所は,昭和23年から昭和47年までの間,ハンセン病を理由とする裁判所法69条2項に基づく開廷場所指定の上申に対し,それを認可さ
れ,いわゆる特別法廷で開廷する運用を続けた。この間,96件のハンセン病を理由とする開廷場所指定の上申があり,撤回された1件を除き,95件について開廷場所の指定が認可された。開廷場所としては,療養所,菊池医療刑務支所等の刑事施設等が指定された。(甲A124・1頁,57頁)最高裁判所事務総局は,平成28年4月,この運用について,合理性を欠
く差別的な取り扱いが強く疑われ,裁判所法69条2項に違反するものであり,一般社会における偏見差別を助長するもので,深く反省すべきであるとしたハンセン病を理由とする開廷場所指定に関する報告書を公表した(甲A124・8頁)。
これを受けて,最高裁判所裁判官会議は,ハンセン病を理由とする開廷場所指定が違法な扱いで,誤った差別的姿勢であるとして,ハンセン病患者及びその家族に対し謝罪する談話を発表した(甲A123)。



予防法闘争
日本国憲法施行に伴い,入所者の人権意識が高まり,プロミン獲得運動等を契機に入所者が団結して隔離政策からの解放を求める動きが活発になった。そして,昭和26年2月,国立療養所の入所者らによって全患協が結成され,これを中心として,強制収容反対,退園の法文化,懲戒検束規定の廃止等を
求めて,旧法の改正運動が盛んになった。この運動は,三園長発言によって,一層の盛り上がりを見せ,三園長発言をした林,光田及び宮崎を糾弾する動きに発展した。
昭和28年3月に内閣が提出したらい予防法案を入手すると,入所者らは,旧法と比べてほとんど改善されていないとして強く反発し,予防法闘争と呼
ばれるハンストや作業スト,国会議事堂前での座り込み等の激しい抗議行動に入った。

旧法に関する衆議院議員の質問に対する内閣総理大臣の答弁
衆議院議員長谷川は,第15回国会において,内閣に対し癩予防と治療に関する質問主意書と題する書面を提出し,現行癩予防法は,その精神において人権を無視したきわめて非民主的なものと考えられ,且つ,現下の癩行政に適合しない法律として,多くの疑義があるとして,15項目の質問をした。
これに対し,当時の内閣総理大臣吉田は,昭和27年11月21日,書面
を提出し,これに対する答弁としたが,その内容は,次のとおりであった(なお,4ないし9,14,15項は省略)。
1
癩予防法は,憲法に抵触するとは考えない。

2
現行法第3条第1項の規定により,患者をその意思に反して療養所に収容することは可能である。癩患者の収容については,あたう限り,勧奨により患者の納得をまって収容するように努め,大部分はこれによって目的を達しているが,この勧奨に対してもがん迷に入所を拒否
する少数の患者については,癩病毒の伝播を防止し,公共の福祉を確保するために入所命令書を交付し,入所せしめた例もある。
3
現行法第4条の2の規定により,国立療養所の長が懲戒検束を行うことは可能である。
癩療養所は,一つの特殊な会社集団であって,この集団の中におい
て秩序を乱すものに対しては,集団からの退去を求めることが,秩序維持のために通常とられる措置であるが,癩及び癩療養所の特殊性から癩患者を癩療養所から退所させることは,公共の福祉の観点から適当でないと認められるので,国立療養所の長に療養所の秩序を維持するための懲戒検束の職権を与えることが必要である。
この職権の行使については,慎重を期するように特に強く指導しているが,この懲戒検束の方法等については,今後とも充分検討致したい。
10

患者が治ゆした場合において,退所の措置がとられるのは,当然

のこととして規定せられていない。
11

癩の伝染力については,種々の学説があるが,伝染性の疾病であ

ることについては一致しており,特に小児に対する伝染力は相当強いものと考えられる。
12
現行法については,新憲法施行後においてもこれに抵触するとは

認められなかったので,改正を行わなかった。

13

現在のところ改正法案を提案する予定はないが,今後とも慎重に

検討致したい。

新法の国会審議

らい予防法案の提出
らい予防法案は,昭和28年3月14日,内閣より提出されたが,同日
の衆議院解散により,同法案は廃案となった。
同法案は,同年6月30日,内閣から再び提出された。

衆議院における審議
衆議院では,厚生委員会において,昭和28年7月2日に厚生大臣から法案の提出理由についての説明が行われ,同月3日及び同月4日の2日間
で実質審議が行われた。
この中で,政府委員である当時厚生省医務局長であった曾田及び当時厚生省公衆衛生局長であった山口が答弁するなどした。
衆議院厚生委員会は,審理を経た上,同日,自由党及び改進党の議員が賛成意見を,日本社会党の議員が反対意見を述べ,採決により多数をもっ
て原案どおり可決すべきものと議決した。
これを受けて,同日,衆議院において,らい予防法案が採決され,賛成多数で可決された。

参議院における審議
参議院は,衆議院かららい予防法案の送付を受けて昭和28年7月6日から厚生委員会において審議が行われた。
この中で,政府委員である当時厚生省医務局長であった曾田,当時厚生省公衆衛生局長であった山口,当時厚生大臣であった山縣が答弁するなどした。

厚生委員会では,退所規定を設けるなどの修正案が検討されたが,結局,各党派の意見調整ができず,改進党,自由党,緑風会等の議員が賛成意見を,日本社会党の議員が反対意見を述べ,採決により多数をもってらい予防法案を可決すべきものと決定されるとともに,新法附帯決議が全会一致で採択された。
これを受けて,同年8月6日,参議院において,らい予防法案が採決され,賛成多数で可決された


新法の制定

昭和28年8月15日,旧法が廃止され,新法が公布施行された。新法の主な規定を挙げると,次のとおりである(法文を引用するに当たっては,既に定義した略語を用いない。なお,上記公布施行後に一部改正
された部分については,改正後の条文を掲げる。)。
この法律の目的
この法律は,らいを予防するとともに,らい患者の医療を行い,あわせてその福祉を図り,もって公共の福祉の増進を図ることを目的とする(1条)。
国及び地方公共団体の義務

国及び地方公共団体は,つねに,らいの予防及びらい患者(以下患者という。)の医療につとめ,患者の福祉を図るとともに,らいに関する正しい知識の普及を図らなければならない(2条)。
差別的取扱の禁止
何人も,患者又は患者と親族関係にある者に対して,そのゆえをもっ
て不当な差別的取扱をしてはならない(3条)。
医師の届出等
a
医師は,診察の結果受診者が患者(患者の疑のある者を含む。この条において以下同じ。)であると診断し,又は死亡の診断若しくは死
体の検案をした場合において,死亡者が患者であったことを知ったときは,厚生省令の定めるところにより,患者,その保護者(親権を行う者又は後見人をいう。以下同じ。)若しくは患者と同居している者又は死体のある場所若しくはあった場所を管理する者若しくはその代理をする者に,消毒その他の予防方法を指示し,且つ,7日以内に,厚生省令で定める事項を,患者の居住地(居住地がないか,又は明らかでないときは,現在地。以下同じ。)又は死体のある場所の都道府
県知事に届け出なければならない(4条1項)。
b
医師は,患者が治ゆし,又は死亡したと診断したときは,すみやかに,その旨をその者の居住地の都道府県知事に届け出なければならない(同条2項)。
指定医の診察

a
都道府県知事は,必要があると認めるときは,その指定する医師をして,患者又は患者と疑うに足りる相当な理由がある者を診察させることができる(5条1項)。

b
前項の医師の指定は,らいの診察に関し,3年以上の経験を有する者のうちから,その同意を得て行うものとする(5条2項)。

国立療養所への入所
a
都道府県知事は,らいを伝染させるおそれがある患者について,らい予防上必要があると認めるときは,当該患者又はその保護者に対し,国が設置するらい療養所(以下国立療養所という。)に入所し,
又は入所させるように勧奨することができる(6条1項)。

b
都道府県知事は,前項の勧奨を受けた者がその勧奨に応じないときは,患者又はその保護者に対し,期限を定めて,国立療養所に入所し,又は入所させることを命じることができる(同条2項)。

c
都道府県知事は,前項の命令を受けた者がその命令に従わないとき,又は公衆衛生上らい療養所に入所させることが必要であると認める患
者について,第2項の手続をとるいとまがないときは,その患者を国立療養所に入所させることができる(同条3項)。
d
第1項の勧奨は,前条に規定する医師が当該患者を診察した結果,その者がらいを伝染させるおそれがあると診断した場合でなければ,行うことができない(同条4項)。

従業禁止
a
都道府県知事は,らいを伝染させるおそれがある患者に対して,その者がらい療養所に入所するまでの間,接客業その他公衆にらいを伝染させるおそれがある業務であって,厚生省令で定めるものに従事することを禁止することができる(7条1項)。

b
前条第4項の規定は,前項の従業禁止の処分について準用する(同条2項)。
汚染場所の消毒

a
都道府県知事は,らいを伝染させるおそれがある患者又はその死体があった場所を管理する者又はその代理をする者に対して,消毒材料
を交付してその場所を消毒すべきことを命ずることができる(8条1項)。
b
都道府県知事は,前項の命令を受けた者がその命令に従わないときは,当該職員にその場所を消毒させることができる(同条2項)。物件の消毒廃棄等

a
都道府県知事は,らい予防上必要があると認めるときは,らいを伝染させるおそれがある患者が使用し,又は接触した物件について,その所持者に対し,授与を制限し,若しくは禁止し,消毒材料を交付して消毒を命じ,又は消毒によりがたい場合に廃棄を命ずることができ
る(9条1項)。

b
都道府県知事は,前項の消毒又は廃棄の命令を受けた者がその命令に従わないときは,当該職員にその物件を消毒し,又は廃棄させることができる(同条2項)。
国立療養所
国は,らい療養所を設置し,患者に対して,必要な療養を行う(11
条)。
更生指導
国は,必要があると認めるときは,入所患者に対して,その社会的更生に資するために必要な知識及び技能を与えるための措置を講ずることができる(13条)。
外出の制限
入所患者は,左の各号に掲げる場合を除いては,国立療養所から外出してはならない(15条)。

親族の危篤,死亡,り災その他特別の事情がある場合であって,
所長が,らい予防上重大な支障を来たすおそれがないと認めて許可
したとき。

法令により国立療養所外に出頭を要する場合であって,所長が,
らい予防上重大な支障を来たすおそれがないと認めたとき。

秩序の維持
a
入所患者は,療養に専念し,所内の紀律に従わなければならない
(16条1項)。

b
所長は,入所患者が紀律に違反した場合において,所内の秩序を維持するために必要があると認めるときは,当該患者に対して,左の各号に掲げる処分を行うことができる(同条2項)。


戒告を与えること。


30日をこえない期間を定めて,謹慎させること。
c
前項第2号の処分を受けた者は,その処分の期間中,所長が指定した室で静居しなければならない(同条3項)。

d
第2項第2号の処分は,同項第1号の処分によっては,効果がないと認められる場合に限って行うものとする(同条4項)。

e
所長は,第2項第2号の処分を行う場合には,あらかじめ,当該患者に対して,弁明の機会を与えなければならない(同条5項)。
物件の移動の制限
入所患者が国立療養所の区域内において使用し,又は接触した物件は,
消毒を経た後でなければ,当該国立療養所の区域外に出してはならない(18条)。

児童の福祉
国は,入所患者が扶養しなければならない児童で,らいにかかっていない者に対して,必要があると認めるときは,国立療養所に附置する施設において,養育,養護その他の福祉の措置を講ずることができる(22条1項)。

罰則
左の各号の一に該当する者は,拘留又は科料に処する(28条)。一
第15条第1項の規定に違反して国立療養所から外出した者


第15条第1項第1号の規定により国立療養所から外出して,正
当な理由がなく,許可の期間内に帰所しなかった者


第15条第1項第2号の規定により国立療養所から外出して,正
当な理由がなく,通常帰所すべき時間内に帰所しなかった者


新法制定に当たって,参議院厚生委員会により次の附帯決議(新法附帯決議)が附された。

患者の家族の生活援護については,生活保護法とは別建の国の負担による援護制度を定め,昭和29年度から実施すること。
国立のらいに関する研究所を設置することについても同様昭和29年度から着手すること。
患者並びにその親族に関する秘密の確保に努めると共に,入所患者の自由権を保護し,文化生活のための福祉施設を整備すること。
外出の制限,秩序の維持に関する規定については,適正慎重を期する
こと。
強制診断,強制入所の措置については,人権尊重の建前にもとづきその運用に万全の留意をなすこと。
入所患者に対する処遇については,慰安金,作業慰労金,教養娯楽費,賄費等につき今後その増額を考慮すること。

退所者に対する更生福祉制度を確立し,更生資金支給の途を講ずること。
病名の変更については十分検討すること。
職員の充実及びその待遇改善につき一段の努力をすること。
以上の事項につき,近き将来本法の改正を期するとともに本法施行に当
っては,その趣旨の徹底,啓蒙宣伝につき十分努力することを要望する。4
新法下の状況


新法制定後の通知等
ハンセン病患者に対する隔離政策は,新法制定により継続されることにな
り,細目的事項は次のとおり通知が発された。

昭和28年8月19日付け法務省入国管理局長宛厚生省医務局長回答病状の進行が停止している神経らい患者のうち,菌を証明せず且つ神経の肥厚がなく,知覚麻痺及び筋萎縮が限局性,停止性で少範囲にしか認められない者は,伝染の危険がない者として,隔離は行わない。

らい予防法の施行についてと題する昭和28年9月16日付け国立らい療養所長宛厚生事務次官通知(発医第125号)
この通知は,患者に対しては,この疾病についての国の施策の趣旨をよく理解させ,外出の制限その他患者として守るべき義務を遵守して療養に専念するよう十分指導することとし,新法15条については,この規定の施行の適否は,公衆衛生に重大な影響を与えるものであるから,外出の許可にあたっては,特に慎重を期するとともに,患者に対しては,この規定の趣旨を徹底せしめ,違反することのないよう指導することとし,同条1項1号のその他特別の事情がある場合を,患者の家庭における重大な家事の整理等であって本人の立会がなければ解決できないような場合に厳しく限定し,かつ,許可を受けて外出する患者に対して外出許可証明書を交付し,携行させるよう配意することとした。さらに,秩
序の維持についても,患者が当然に守るべき事項を患者療養心得において定め,飲酒,風紀をみだすような言動等の禁止,物品の持ち込み,持ち出し,文書,図画等の配布,回覧,掲出の制限など,私生活にわたる事項も規制した。

らい予防法の運用についてと題する昭和28年9月16日付け国立らい療養所長宛厚生省医務局長通知(医発第411号)
この通知は,療養所長が入所患者の外出を許可する場合における新法15条3項の必要な措置として,着衣及び所持品の消毒,経由地及び行先地における注意事項の指示等により,個々の患者について適当な措置をとること,外出の許可期間は必要なる最短期間とし,経由地についても,目的地への最短経路を標準にして定めること,外出目的,外出期間,行先地及び経由地を詳細に記載した台帳をそなえつけ,許可の条件に違反したと認められる患者がある場合には,行先地の本人に連絡をする等必要な措置を講ずることと定めた。エ
らい予防法の施行についてと題する昭和28年9月16日付け各都道府県知事宛厚生事務次官通知(前記第3の2参照)
この通知は,患者及びその家族にとって患者に関する秘密が漏洩することは,場合によっては,患者及びその家族に破滅的不幸をもたらすことがあるとして,秘密確保の徹底を各都道府県のらい予防業務担当者に求めた(甲A60・2282頁)。また,新法6条について,患者が入所するのについて物心両面からの準備ができるよう,本人の病状及びその生活環境を考慮し,それぞれの実状に応じて懇切に説得を行うこと,勧奨に応じない者に対しては,法第六条第二項の規定による命令が出されるわけであるが,これは,患者の基本的人権に関係するところも大きいので,直ちに,この命令を発するという措置にでることはなく,先ずできるだけ患者及びその家族の納得をまって,自発的に入所させるよう勧奨し説得すること,法第六条第三項の規定により強制入所の措置がとられるのは,患者が入所命令を受けて正当な理由がなく,その期限内に入所しないとき,及び浮浪らい患者,国立療養所からの無断外出患者,従業禁止の処分を受けて,これに従わない患者等につき,公衆衛生上療養所に入所させることが必要であると認められ,しかも入所勧奨及び入所命令の措置をとるいとまがないとき等であることとした。また,法第一五条第一項の規定に違反して無断外出した場合,又は外出の許可を受けた者であっても許可の条件(目的,期間,行先地,経由地等)に違反している場合,その者については,法第六条の規定により,情況によって,入所勧奨,入所命令等の措置をとり,或は入所の即時強制を行いうるものであること。なお,無断外出患者等については,法第二八条の規定により拘留又は科料の刑が科されることになったことに注意することとした。オ
厚生省が昭和29年頃作成したとされるらい患者伝染性有無の判定基準と題する書面には,次の記載がある。
らいを伝染させる恐れのある患者とは,

らい菌を証明する者及びらい菌は証明しないが活動性のらい症状を認める者
らいを伝染させる恐れのない患者とは,
相当の期間にわたってらい菌を証明せず,且つ活動性のらい症状を認めない者

活動性のらい症状とは,
abカ
神経らいで神経の肥厚の著明なもの

c
皮膚及び粘膜にらい症状のあるもの

神経らいで麻痺及び筋萎縮の著明なもの

らい予防事業の実施についてと題する昭和33年9月25日付け各都道府県知事宛厚生省公衆衛生局長通知(衛発第883号)
同通知は,らい療養所の整備,患者家族援護制度により患者入所者はやや増加傾向にあるとはいえ,昭和33年3月末でも1088名の在宅患者がおり,そのうちの多くが要入所と判定されていることから,未収容患者の収容による伝染源の隔離がらい予防事業上最重要の問題であるとして,
潜在患者の早期発見と患者の病状等の適正な把握,在宅患者の入所促進,無断外出者の取扱,軽快退所者の取扱,患者台帳の整備,入所患者家族生活援護制度,世帯更正資金貸付制度,正しいらい知識の普及啓蒙という各事業の推進を求めるものだった。
軽快退所者の取扱としては,在宅患者検診の際等の検診の勧奨とともに
適正な指導に努めるものとした。
(甲A47)


新法改正運動の経過

全患協は,昭和28年の予防法闘争の後も新法附帯決議を軸に療養所内の処遇改善等の運動を継続した。そして,昭和38年には,大規模な新法の改正運動が行われ,新法改正要請書が作成され,同年8月,厚生省,衆参両議院の社会労働委員等に対する陳情を,同年10月には,厚生省,大蔵省及び参議院社会労働委員に対する陳情が行われ,厚生大臣及び参議院社会労働委員会の委員全員に新法の改正要請書が提出された。さらに,昭和39年3月には,国会議員及び厚生省に対するより大規模な陳情が行われた。


しかしながら,この運動は,新法改正には結び付かず,平成8年に至るまで,新法の改正法案が提出されたり,国会で新法の改廃について審議されたりした形跡はない。そして,2度にわたる運動の挫折や入所者の高齢化もあって,その後の全患協の運動の重点は,新法の改正要請から療養所内での処遇改善に向けられるようになった。



退所について

退所者の現れ
戦後,プロミンの治療効果によって療養所内の菌陰性者が増え,昭和23年には26%であった菌陰性者の割合が,昭和25年には37%,昭和30年には74%にまでなり,多くの症状固定者,治癒者が現れるように
なった。
これに伴い,昭和26年に全国で35人の軽快退所者を出し,以降,次第に軽快退所者が増加していったものの,昭和54年までの間において在園患者数に占める軽快(昭和39年以降は治癒,略治又は軽快)による退所者数の割合は,多い年でも数%にとどまるものであった。(甲D77)

社会復帰支援事業について
多くの入所者は,療養所への入所により,家族とのつながりが断ち切られたり,職を失ったり,学業を中断せざるを得なくなるなど,社会での生活基盤を著しく損なわれており,ハンセン病に対する偏見や社会的差別が
根強く存在する状況にあって,何の公的援助も受けずに療養所を出て社会
復帰を果たすことは困難であった。入所期間の長期化,入所者の高齢化,後遺症による身体障害等の要因が加われば,その困難さは一層増した。新法附帯決議の第7項(前記2


)には,退所者に対する更生福祉制度を確立し,更生資金支給の途を講ずることと規定され,その趣旨に沿うものとして,昭和33年に軽快退所者世帯更生資金貸付事業が,昭
和39年にらい回復者に対する就労助成金制度が,昭和47年に沖縄における技能指導事業が,昭和50年に相談事業がそれぞれ創設された。しかしながら,例えば,軽快退所者世帯更生資金貸付事業による貸付限度額は,生業資金5万円,支度資金1万50000円,技能修得資金月額1500円(6か月間)であり,昭和35年度の実績でも,14件計40万円(う
ち生業資金37万円,支度資金3万円)の貸付けが行われたにすぎない。また,らい回復者に対する就労助成金制度についても,その支給額は,生業資金が3万円以内,技能修得資金が1万5000円以内にすぎない。なお,昭和48年度予算では,退所患者支度給与金が総額で94万5000円,退所患者旅費が総額で31万1000円であった。



外出制限について

新法15条による外出制限は,すべての入所患者に対し法律上当然に課せられているものであり,これに違反した場合の罰則も設けられていた。

外出制限は,運用上徐々に緩やかになっていったが,まだ昭和30年代頃までは,厳格な取扱いも存した。


昭和50年代頃から,すべての療養所において,入所者の無断外出を積極的に取り締まることがなくなり,また,外出許可申請があった場合には,伝染させるおそれの有無にかかわらず,さらに,新法15条1項各号の許可事由の有無にかかわらず,これを許可する方向で運用されるようになっ
た。

しかしながら,新法廃止のころまでに,厚生省や療養所が外出制限を事実上撤廃するなどということを公式に表明したことは一度もなく,隔離政策の必要性も公式には否定しなかった。むしろ,厚生省公衆衛生局長は,昭和57年3月18日,衆議院社会労働委員会において,衆議院議員からの新法が違憲であって隔離政策が誤りである旨の発言の後,

先ほどから隔離のお話が大分出ておるのですが,伝染力が弱いとはいえこれはやはり伝染病でございますので,ある程度の一定の制限というのは仕方ないと思うのです。

と述べて,隔離政策を肯定する発言をした。⑸
優生政策について
昭和23年の優生保護法の制定によって,ハンセン病を理由とする優生手術や人工妊娠中絶は,本人及び配偶者の同意を得て行われることになった。昭和24年から平成8年までに行われたハンセン病を理由とする優生手術が1400件以上,人工妊娠中絶の数が3000件以上に上る。
日本国内の療養所においては,ある時期まで,優生手術を受けることを夫
婦舎への入居の条件としていたことから,入所者は,結婚して通常の夫婦生活を営むために優生手術を受けることを甘受するか,あるいは,結婚して通常の夫婦生活を営むことを断念するか,そのどちらかを選択せざるを得ない状況に置かれていた。
このことは,平成8年3月25日の衆議院厚生委員会でも取り上げられ,
松村明仁厚生省保健医療局長は,かつて療養所の夫婦寮への入居の条件として優生手術に同意をせざるを得ない状況であったという指摘がされており,そのような意味での半強制的な優生手術につきましては,おおむね昭和三十年代前半,遅くとも昭和四十年代以降には行われていないという関係者の共通の認識でございます。,

半強制的とされる優生手術か否かについて明確に線を引くことはできないわけなんです。

昭和二十四年から昭和四十年までのハンセン病患者またはその配偶者に対する優生手術件数を申し上げますと,男性二百九十五件,女性千百四十四件,合計千四百三十九件である,こういう数字がございます。

と答弁した。(甲D105・20頁)なお,敬愛園では,昭和60年10月発行の名もなき星たちよと題された入園者五十年史には,昭和28年3月以降,ワゼクトミーを受けなくても夫婦舎に入居できるようになった旨の記載があるが,これで優生政策を利
用した産児コントロールが終わったわけではない。上記入園者五十年史には,当時の敬愛園所長が,入所者自治会と協議をした際に,今後は,ワゼクトミーを夫婦療の入居条件としない。ただし,妻が妊娠した場合は,夫に断種手術を施すことは当然である。また,女性が妊娠したときは,なるべく早く申出て,不幸を招かぬよう(妊娠中絶の時期を失しないよう)入園者側も協力してもらいたいと述べたことが記されている。(甲D137・43頁)⑹

保育所
前記2

のとおり,保育所は,戦後,癩予防協会から国に移管され,新法

22条に基づいて,入所者の児童に養育,養護,その他の福祉措置を講ずるために設置される施設となった。
保育所は,昭和30年までに,公私13の療養所に設置されるに至った。(甲A10・20頁)
患者台帳
厚生省公衆衛生局長は,昭和33年9月25日付けで,都道府県知事宛に,
らい予防事業の実施についてと題する通知を発し,整備のされていない都道府県は患者台帳の作成及び整備をし,患者台帳に,在宅患者の検診により病状,家庭の状況等に変化を生じた場合には,それぞれ記録することを指示した。
療養所以外の医療機関での治療等について


療養所以外の医療機関での治療の実情

新法には,療養所以外の医療機関におけるハンセン病治療を禁ずる規定はなかった。しかし,療養所以外でハンセン病の治療を行う医療機関はわずかであった。
新法の下で,療養所以外の医療機関でハンセン病の治療を行っていたのは,京都大学,大阪大学等の大学病院や愛知県の外来診療所等,数か所で
あり,この中で,入院治療が可能であったのは,京都大学だけであった。京都大学では,ハンセン病との病名をあえて付けず,末梢神経炎,皮膚抗酸菌症等の病名で診断していた。
このような状況について,厚生省医務局国立療養所課が昭和50年9月に発行した国立療養所史(らい編)(国立療養所史研究会編集)にお
いて,石原重徳(当時駿河療養所長)は,

治療を受けるためにはどうしてもらい療養所へ入らねばならないのである。このことは(中略)らいの強制隔離にほかならないのである。

と記述した。イ
療養所における外来治療
療養所における外来治療は,昭和40年代から少しずつではあるが,行われていた。もっとも,医学的には在宅治療が可能な症例がほとんどであったろうと思われる昭和50年代以降にも新規入所する者がいた。新法下の教育
文部省が昭和45年5月に発行した中学校指導書保健体育編には,

癩は癩菌による慢性伝染病で皮膚や神経をおかすこと,最近は治療法などによって,相当減少し,社会復帰も進んでいるが,適確な予防法がないため現在でも相当数の患者がいることについて統計から知らせる。

との記載がある。なお,当該記載は,昭和48年7月17日第71回国会衆議院社会労働委員会議において問題視され,文部省は,同年11月27日,各都道府県教育委
員会に対し,中学校『保健体育』の保健分野における『癩の推移』の取り扱いについて(通知)を発出し,指導の際には,上記指導書のほか,らい菌の伝染力は弱く,り患発病するのは,抵抗力の弱い乳児期に患者と同一家庭内で生活し濃厚に接触した場合がほとんどであること,入所者の多くが治癩薬開発前からの入所者で,現在は早期に治療すれば完全に治ることに留意して指導するよう通知した。(甲A119・32~33頁,乙A123,乙A126)
昭和48年版大日本図書発行の中学校新保健体育には,らい菌の感染によって起こる慢性伝染病で,神経や皮膚をおかす病気である。潜伏期はひじょうに長く数年から十数年である。以前は不知の病と考えられていた。しかし,近年の医学の進歩によって,らい患者はたいへん減少し,社会復帰もできるようになった。適確な予防方法がないために,まだ一万人近い患者がいるといわれている。と記載されていた。また,同書の大日本図書発行の教師用指導書には,

らいは,らい菌によって皮膚から腐っていく恐ろしい病気であることを説明する。現在では,らい予防法という法律によって患者の数が少なくなったことを理解させ,今後の対策についても考えさせる


との記載があった(甲A23・402~403頁,甲A119・31~32頁)。当該記載が昭和48年7月17日第71回国会の衆議院社会労働委員会において問題視され,当該記載は,らい菌の感染によって起こる慢性伝染病で,神経や皮膚をおかす病気である。潜伏期はひじょうに長く数年から十数年である。以前は不治の病と考えられていた。しかし,最近治らい薬が開発され,完全に治って社会復帰する者が次第に多くなった。また,予防医学の進歩によって,新患者はほとんどでなくなったため,患者は一万人ぐらいしかいなくなった。なお近年らいのことを,らい菌を発見した学者の名まえをとってハンセン氏病とも呼んでいる。との記載に変更された。なお,教師用指導書は,教科書発行会社が自社の発行する教科書に併せて作る資料
にすぎず,教科書検定の対象ではない。(甲A23・403頁,甲A119・31~33頁,乙A124,乙A125)
患者作業
戦前,入所者には身体的に可能である限り患者作業と呼ばれる療養所内での労働が割り当てられ,職員の人員不足が恒常化していた当時の療養所の運営を支えていたが,戦後になっても,このような状況はなかなか改善されず,療養所運営は,患者作業に依存するところが大きかった。

新法施行当時の患者作業は実に多種多様で,中にはハンセン病患者に行わせることが不適当な重労働も含まれていた。新法施行後,患者作業を拒否すれば懲戒処分をするといったような意味での強制はなくなった。しかしながら,療養所運営のかなりの部分を患者作業に依存していた状況で,患者作業の放棄は,入所者自身の生活・医療に直結する問題であったこと,及び入所
者は作業賃収入により嗜好品を購入することができ,それによって日々の生活を豊かにできたことから,多くの入所者は好むと好まざるとにかかわらずやらざるを得ないというのが実情であった。入所者のなかには患者作業によって,後遺症が生じた者もいた。このような状況は昭和40年代まで続いた。(甲D137・238頁以下,甲D145・245項)

5
新法の廃止に至る経過等


全患協等の新法改正運動
全患協は,新法成立後も,昭和38年と平成3年4月の2度にわたって,厚生大臣に対し,強制措置の撤廃等を求める新法の改正要請書を提出した。また,所長連盟も,昭和62年3月に強制措置の撤廃等を求める新法の改正
に関する請願書を提出した。
しかし,これらの運動によっても,直ちに新法の改廃に至ることはなかった。

新法廃止の提言等
その後の平成6年1月,元厚生省医務局長で藤楓協会の理事長であった大谷が全患協専門委員会の場で新法の廃止を呼び掛けたことが契機となって,同6年11月に所長連盟がらい予防法改正問題についての見解を,平成7年1月に全患協がらい予防法改正を求める全患協の基本要求(9項目の要求が充たされることを条件に大谷見解を支持することを明らかにしたもの)を,同年4月に日本らい学会が新法の廃止を求める『らい予防法』についての日本らい学会の見解をそれぞれ発表し,新法廃止に向けての機運
が一気に高まった。
さらに,同年5月の厚生省から委託されたハンセン病予防事業対策調査検討委員会の中間報告書においても,新法の廃止を視野においた抜本的な見直しが提言された。
これを受けて,同年7月,厚生省保健医療局長の私的諮問機関である見直
し検討会が設置され,右検討会は,同年12月8日,新法や優生保護法のらい条項の廃止等を提言した。
(甲A2,同3)

厚生大臣の謝罪及び廃止法案の提出
当時厚生大臣であった菅は,見直し検討会の右報告を受け,平成8年1月18日,全患協代表者らに対し,らい予防法の見直しが遅れたこと,そして,旧来の疾病像を反映したらい予防法が今日まで存在し続けたことが,結果としてハンセン病患者,そしてその家族の方々の尊厳を傷つけ,多くの苦しみを与えてきたこと,さらに過去において優生手術を受けたことにより,在園者の方々が多大なる身体的・精神的苦痛を受けたことは,誠に遺憾とするところであり,厚生省としても,そのことに深く思いをいたし,そして率直にお詫び申し上げたいと思います。と述べて公式に謝罪し,通常国会への新法を廃止する法案の提出を表明した。
内閣は,平成8年2月9日,閣議決定を経て,新法を廃止して優生保護法
のらい条項を削除することなどを定めたらい予防法の廃止に関する法律(廃止法)の法案(廃止法案)を国会に提出した(甲A2)。


廃止法案の提案理由及び厚生大臣の謝罪
当時厚生大臣であった菅は,平成8年3月25日に開催された第136回国会衆議院厚生委員会に出席し,廃止法案を提案した理由について,今日,ハンセン病は,現在のわが国においては感染しても発病することは極めてまれな病気であることが明らかとなっており,また,仮に発病しても治療方法の確立している現在においては,適切な治療を行うことによって完治する病気となっております。したがいまして,らい予防法に定めているような予防措置を講ずる必要性はなくなっております。,旧来の疾病像を反映したらい予防法が現に存在し続けたことが,結果としてハンセン病患者,その家族の方々の尊厳を傷つけ,多くの苦しみを与えてきたこと,さらに,かつて感染防止の観点から優生手術を受けた患者の方々が多大なる身体的・精神的苦痛を受けたことは,まことに遺憾とするところであり,行政としても陳謝の念と深い反省の意を表する次第であります。そして,こうした思いのもとに,今回,らい予防法の廃止を提案することとしたものであります。,
らい予防法の見直しがおくれてこの法律が存在し続けたことが,患者の方々そしてその家族の方々の尊厳を本当に傷つけて,多くの苦しみを与える結果となったこと,さらには,優生手術などによって療養所におられた方々も多大な身体的・精神的苦痛を受けるようになったことについて,心からおわびを申し上げた次第であります。,現在,ハンセン病というのは感染をすることも極めてまれであり,また,感染したとしても完全に治癒できる,そういういわば普通の感染病になっているということの認識が国民の皆さんの中でもまだ十分ではないのではないか,ぜひ大臣からも機会があるごとにそのことを強く国民の皆様に伝えてほしいということを申されまして,きょうの趣旨説明の中でも,現在のハンセン病というのはいわば普通の感染病と同じように,かかる可能性も少ない上に,かかったとしても完全に治癒できるのだ,そういう点で特別な,特に隔離を中心としたようならい予防法は,現在はもちろんのこと,もっと早い段階で,なくてもよかったのだ,このことをご理解いただきたい。と述べて,ハンセン病が感染し発病に至るおそれが極めて低い病気であり,もはや患者を隔離しなければならないほどの特別な病気ではなくなっており,伝染予防のための隔離の必要性は失われていることを説明し,ハンセン病患者やその家族の尊厳を傷つけたことを認め,
謝罪した。
廃止法成立
新法を廃止し優生保護法のらい条項を削除することなどを定めた廃止法が平成8年3月31日に成立し,同年4月1日に公布施行された。また,優生保護法は,同年6月26日,母体保護法に改正された。

なお,廃止法の議決に際し,衆参両厚生委員会により,ハンセン病は発病力が弱く,又発病しても,適切な治療により,治癒する病気となっているにもかかわらず,『らい予防法』の見直しが遅れ,放置されてきたこと等により,長年にわたりハンセン病患者・家族の方々の尊厳を傷つけ,多くの痛みと苦しみを与えてきたことについて,本案の議決に際し,深く遺憾の意を表するところである。とした上,

ハンセン病療養所から退所することを希望する者については,社会復帰が円滑に行われ,今後の社会生活に不安がないよう,その支援策の充実を図ること。

という附帯決議がされた。6
救済にかかる法制等
経過


多数の入所者が原告となり,平成10年7月31日,熊本地方裁判所に,らい予防法違憲国家賠償請求訴訟を提起した(甲A26・232頁)。同様の訴訟が東京地方裁判所及び岡山地方裁判所に対しても提起された。また,ハンセン病患者の遺族も,ハンセン病患者が被告に対して有する損
害賠償請求権を相続したとして,同様の訴訟を提起した。

熊本地方裁判所は,入所者を原告とした訴訟について,平成13年5月11日,国会議員が平成8年まで新法を廃止しなかったこと及び厚生大臣がハンセン病隔離政策等を実施していたことが国賠法上違法であり,被告が入所者に対して国賠法に基づく損害賠償債務を負う旨の判決(熊本判決)を言い渡した。


被告は,平成13年5月23日,熊本判決に対する控訴を断念し,同月25日,内閣総理大臣がわが国においてかつて採られたハンセン病患者に対する施設入所政策が,多くの患者の人権に対する大きな制限,制約となったこと,また,一般社会において極めて厳しい偏見,差別が存在してきた事実を深刻に受け止め,患者・元患者が強いられてきた苦痛と苦難に対し,政府として深く反省し,率直にお詫びを申し上げるとともに,多くの苦しみと無念の中で亡くなられた方々に哀悼の念を捧げるものです。という,ハンセン病患者に対し謝罪する内容を含む,ハンセン病問題の早期かつ全面的解決に向けての内閣総理大臣談話(内閣総理大臣談話)を発表した。被告が熊本判決に対する控訴を断念したことは,同月26日
以降,新聞等を通じて報道された。
また,同年6月7日には衆議院で,8日は参議院で,永年にわたり採られてきたハンセン病患者に対する隔離政策により,多くの患者,元患者が人権上の制限,差別等により受けた苦痛と苦難に対し,深く反省し謝罪の意を表明するとともに,多くの苦しみと無念の中で亡くなられた方々に哀悼の誠を捧げるものである。という,ハンセン病患者に対し謝罪する内容を含む謝罪決議が採択された。


平成13年6月22日,補償法が公布され,即日施行された。
非入所者は,同日,らい予防法違憲国家賠償請求訴訟を提起した。

被告は,平成13年7月23日,全原協との間で,入所者に対して和解一時金を支払うことなどを内容とする基本合意書(基本合意書Ⅰ)記載の事項について合意した。被告と全原協との間で基本合意書Ⅰに記載の事項について合意したことは,同月24日以降,新聞等を通じて報道された。カ
熊本地方裁判所は,平成13年7月27日,提訴前に死亡したハンセン病患者の相続人である原告及び非入所者の原告に係るらい予防法違憲国家賠償請求事件について,和解に関する所見を示した。同所見において,
提訴前に死亡したハンセン病患者の相続人である原告及び非入所者の原告について,熊本判決に従えば,国家賠償請求権を有するべきである旨が示された。被告は,同年9月21日,上記原告らについて,話し合いにより解決することは難しいとして,判決を求める旨の意見書を提出した。熊本地方裁判所は,平成13年12月7日,上記事件について弁論を終
結し,和解に関する所見を示した。厚生労働大臣であった坂口は,同月11日,閣議後の記者会見において,被告としてどう対応するかまだ決めておらず,議論する必要があるなどと述べた。熊本地方裁判所は,同月18日,さらに和解に関する所見を示し,被告は,同月26日,条件付きで和解の席につくことを発表し,同月27日の和解期日において,和解に応じ
る意向を示した。

被告は,平成14年1月28日,全原協との間で,提訴前に死亡した患者の遺族及び非入所者に対して,和解一時金を支払うことなどを内容とする基本合意書(基本合意書Ⅱ)に記載の事項について合意をした。被告と全原協との間で基本合意書に記載の事項について合意したことは,同月2
4日以降,新聞等を通じて報道された。

平成14年5月30日,基本合意書Ⅰに基づき,全国主要50紙に厚生労働大臣坂口名義の謝罪広告が掲載された。


被告は,平成20年6月18日に,促進法を制定した。
補償法の内容

前文において,新法においても引き続きハンセン病隔離政策が採用され,昭和30年代に至ってハンセン病に対するそれまでの認識の誤りが明白となったにもかかわらず,依然としてハンセン病に対する誤った認識が改められることなく,隔離政策の変更も行われることなく,ハンセン病患者にいたずらに耐え難い苦痛と苦難を継続せしめ,平成8年まで新法を廃止しなかったことを謝罪し,ハンセン病患者に対するいわれのない偏見を根絶するとした。そして,ハンセン病患者のいやし難い心身の傷跡の回復と今後の生活の平穏に資することを希求して,ハンセン病入所者等(国立療養所,その他厚生労働大臣が定めるハンセン病療養所)がこれまでに被った精神的苦痛を慰謝
するとともに,ハンセン病患者の名誉の回復及び福祉の増進を図り,あわせて,死没者に対する追悼の意を表することを目的として,補償金の支給及び名誉回復等必要な措置を講ずる努力義務が制定された。
基本合意書Ⅰの内容
①被告は,熊本判決において認められた被告の法的責任を深く自覚し,ハ
ンセン病隔離政策と新法によりハンセン病患者の人権を侵害し,ハンセン病に対する偏見差別を助長し,ハンセン病政策の被害者に多大な苦痛と苦難を与えてきたことを反省し謝罪する旨,②被告は,ハンセン病患者に対し,謝罪広告を含めて可能な限り名誉回復措置を講じ,自治体やマスメディアにも同旨の要請を行う旨,③具体的にはハンセン病問題対策協議会において協議
する旨,④被告は,ハンセン病違憲国賠訴訟原告らに対し,損害の賠償として,補償法の保証金と同額の和解一時金を支払う旨,⑤提訴後の相続人にも同額の一時金を支払う旨,⑥提訴前の相続人に対する一時金は別途協議する旨,⑥入園者に対する在園保障,社会復帰支援,退所者支援,偏見差別の除去解消事業,被害者の名誉回復事業,再発防止対策等を実施するよう努力す
る旨,⑦その対策の具体化はハンセン病問題対策協議会において協議する旨を合意した(乙A7)。
基本合意書Ⅱの内容
基本合意書Ⅰで継続協議とされた提訴前の相続人や非入所者であるハンセン病違憲国賠訴訟原告らに対し,和解一時金を支払う旨,基本合意書Ⅰと同様に,謝罪する旨,遺骨の引き取りについて努力する旨を合意した(乙A9)。

促進法の内容
附則において,新法を中心とする国の隔離政策により,ハンセン病患者が地域社会において平穏に生活することを妨げられ,人権上の制限,差別等を受けたことについて,既に補償法を制定し,慰謝をするとともにハンセン病患者の名誉の回復等のための措置を講じ慰謝と補償の問題は解決しつつある
ものの,地域社会で偏見差別を受けることなく良好,かつ平穏な生活を営むことができるよう適切な対策を講ずることが急がれる状況にあり,ハンセン病患者の福祉の増進,名誉の回復等のための措置を講ずることにより,ハンセン病問題の解決の促進を図るために制定すると前置きをする。
促進法において,ハンセン病患者に対する差別禁止,国及び地方公共団体
がハンセン病患者の福祉増進を図る責務,ハンセン病患者等その他の関係者の意見反映措置,療養所における療養及び生活の保障,社会復帰支援措置,名誉回復措置等が定められた。
厚生労働省が促進法を所管している。
7
条約
国連重大人権ガイドライン
国連総会は,平成17年12月16日,国連重大人権ガイドラインを採択した。国連重大人権ガイドラインは,自由権規約2条等の国際人権法違反の被害者の救済の権利に関する条項等の既に存在している国際人権法及び国際
人道法の履行の手続及び方法を明らかにしてその規範を補完するものであり,新たな国際的又は国内的な法的義務の定立を含むものではない。国連重大人権ガイドラインでは,重大な国際人権法違反の被害者には直接の被害者の近しい家族や扶養される人も含まれるとされ,重大な国際人権法違反の被害者は,侵害の重さ及び状況に比例して適切に,原状回復,賠償,リハビリテーション(医療,心理的,法的,社会的福祉サービスを含む。),精神的慰謝・充足(真相究明及び被害者等に害を及ぼさずこれらの者の利益や安全を
脅かすことのない限度での完全な真相の公表,事実を認め責任を引き受けることを含む公的な謝罪等),再発しないことの保障(優先的,継続的に,すべての社会階層に人権及び国際人道法の教育を提供し,軍や治安部隊、法執行機関の職員への研修を提供すること,法執行機関の職員,矯正関係,メディア,医療,心理的,社会福祉サービス,軍関係者を含む公務員,経済企業
による行動規範及び倫理規範,とりわけ国際基準の遵守の促進等)を含む,完全で効果的な救済が提供されるべきであり,各国は,特に重大な国際人権法違反の被害者に,権利及び被害者に対するすべてのサービスを知らせる方法を整備すべきであるとされた。(甲A122の2)


ハンセン病差別撤廃決議
国連人権理事会は,ジュネーブで開催された平成20年6月18日の第8回人権理事会において,ハンセン病差別撤廃決議を採択した(甲A26・331頁)。この際,日本は主提案国となった(甲A26・333頁)。国連総会は,平成20年12月21日,全会一致でハンセン病差別撤廃決議採択した(甲A26・332頁)。

ハンセン病差別撤廃決議は,①各国政府にハンセン病患者及びその家族に対するあらゆる種類の差別を根絶するための啓発活動を含む効果的な措置をとること要請し,②ハンセン病患者及びその家族に対する差別を撤廃するためのガイドラインを策定すること等を内容とするものである(甲A26・331,332頁)。



ハンセン病国連ガイドライン
国連総会は,平成22年12月,ハンセン病国連ガイドライン採択した。ハンセン病国連ガイドラインは,ハンセン病患者及びその家族があらゆる人権及び基本的自由の享有主体であることを宣言し,各国政府が人権及び基本的自由を促進,保護,確保するために行うべき事項として,①ハンセン病を理由として人々を強制的に分離・隔離する既存の法律,規則,政策,慣習
及び慣行を修正,無効化又は廃止するためにあらゆる適切な法的,行政的及びその他の措置を講ずること,②社会啓発やハンセン病患者及びその家族の権利と尊厳への尊重を助長するための政策及び行動計画を策定すること,③ハンセン病政策や慣行の結果として分離された家族の再統合を支援すること,④ハンセン病患者及びその家族のコミュニティへの十分な統合及び参加を認
め,他のすべての人と同じ権利を享受することを促進すること,⑤ハンセン病患者及びその家族に係る問題に関する法律及び政策の立案・実施やその他の意思決定プロセスにおいて,ハンセン病患者及び家族と密接に協議し,また,積極的に参加させること,⑥ハンセン病患者及びその家族の人権に係る活動に取り組む委員会(ハンセン病患者・回復者及び家族が含まれることが
望ましい)の創設又は指定をすること等を列挙した。
第5
1
沖縄におけるハンセン病に対する法制及び政策の変遷等
米国による統治前の状況について
総論
米軍による統治前の沖縄におけるハンセン病に対する法制及び政策等は,
以下に述べるほかは,前提事実第3のとおりである。
療養所の設置

恵楓園(九州療養所)
明治39年に実施された調査では,沖縄は,患者数が670人とされ,
日本で最も有病率が高かった。

癩予防ニ関スル件の審議過程において,政府委員は,明治40年3月11日,沖縄に約30人を収容できる療養所を設置する計画を説明した。原内務大臣は,同年4月,沖縄県知事奈良原繁を内務省に召致し,国立療養所設立の主旨を説明し,敷地を選定して明治41年度に創設するよう命じた。しかしながら,大蔵省が療養所建設予算を削減し,沖縄県の療養所の
建設費用が予算化されたのは,明治42年4月1日となった。(乙A26)これを受けて沖縄県では,同年4月6日に,新たに就任した日比野重明知事が,敷地を島尻郡真和志村天久樋川に選定し,原内務大臣に申請したが,地元の同意も得ておらず,また,県議会での承認も得ていないままの申請であって,地元はこれに強く反発し,同年11月27日から30日に
開催された沖縄県議会は,これに反対を表明した。原内務大臣が明治42年12月2日,沖縄県が選定した施設設置予定地を認可したものの,沖縄県議会が地元住民の反対を理由に当該施設設置案を否決し,沖縄県知事が明治43年1月25日に国に上申したことから,被告は,明治43年3月12日付け内務省令第1号をもって,恵楓園に沖縄県を合併する旨を決定
し,沖縄県内の患者は,恵楓園に収容することとなった(甲A3・151,152頁,乙A24・30頁,乙A25・190,191頁,乙A26・55,56頁)。
もっとも,沖縄県内に公立療養所が設置される昭和6年3月までの間に沖縄から恵楓園に収容された患者は延べ73名であり,大半の患者は収容
されなかった(甲A44・117頁)。

県内の公立療養所
南静園
癩の根絶策が発表された(前提事実第3の1)翌年である昭和

6年3月,南静園(当時の正式名称は沖縄県立宮古保養園であり,昭和8年10月に臨時国立宮古療養所となり,昭和16年7月に宮古南静園となった。)が沖縄県内初めての国公立の療養所として設立された(甲A23・659頁)。もっとも,南静園の入所対象者は宮古島の住民に限られたため,沖縄県全体を対象とする沖縄県内の国公立の療養所が存在しない状態はしばらく続いた(甲A3・153頁)。
愛楽園
前記ア,後記

のとおり,沖縄本島では療養所建設に対する反対が根

強かったが,昭和13年2月,沖縄県名護市の屋我地島に沖縄全体を対象とする国公立の療養所として初めて愛楽園が設立された(甲A3の153頁,甲D110の1・200頁,乙A25・200頁)。
療養所の建設計画
沖縄県は,昭和5年以降,沖縄本島に県立の療養所を設置しようとしたものの,周辺住民による反対により挫折することが続いた(甲A3・153頁,甲D110の1・194頁,乙A25・194頁)。そこで,沖縄県は,沖縄県名護町羽地村の嵐山丘陵に薬草園を建設するとの名目
で療養所建設に着手した。しかし,新聞報道により,療養所建設が周辺住民に知られ,昭和7年3月,反対運動が始まり,結局,同所に療養所が建築されることはなかった(後記第6の1イの嵐山事件)。
なお,沖縄では,昭和10年6月頃,キリスト教の牧師らが沖縄県名護町屋部にハンセン病患者救護のための施設を建設し,患者三十数人を
収容しようとしたことがあったが,周辺住民の反対に遭い患者の居住用の小屋を焼き払われた(後記第6の1⑴ウの屋部焼討事件。甲A3・155頁,甲D110の1・195,196頁,乙A25・195,196頁)。
日本軍駐留

沖縄は,昭和19年には,太平洋戦争の日本軍情勢悪化により米軍との陸上戦が想定され,日本軍がそれに備えた体制作りを行っていた。そのような時期に愛楽園の第二代所長である早田が同年6月11日,来園した沖縄守備部隊高官に対し,沖縄内の非入所ハンセン病患者の状況を話し収容計画への協力を求めた。同年7月には,かつて全生病院に勤務していた日戸が第9師団の軍医として沖縄に派遣され,軍医局の援助で患者台帳を作成した。そして,同年9月には,日戸軍医の指揮の下,日本軍により沖縄全島の約400
名の患者が一斉に収容された。
2
米国による統治下
米軍軍政府

日本の行政権停止
米軍極東軍太平洋艦隊は,昭和20年4月1日に北谷に上陸し,米国海
軍軍政府を設定した。米国太平洋艦隊及び米国太平洋地区軍司令長官ニミッツは,ニミッツ布告第1号を公布して,日本政府の沖縄に対する行政権施行の停止を宣言し,これにより,沖縄については,事実上,日本の行政権が停止されるに至った(乙A25・204頁,乙A28・146頁〔米軍民政府資料1〕)。このニミッツ布告第1号は,上記の行政権施行の停
止のほか,米軍軍政府の政策等と矛盾しない限り従前の日本法政策を持続する旨を宣言するものであった(乙A28・146頁〔米軍民政府資料1〕)。
昭和20(1945)年7月1日,米国海軍軍政府から米国陸軍政府に主管が移行し,昭和25(1950)年12月に,米国民政府に名称が変
更された(甲A23・686頁)。
なお,昭和27(1952)年4月28日に発行した日本国との平和条約により,正式に,沖縄は米国の統治下となった。イ
米軍軍政府のハンセン病に関する勧告
米軍軍政府は,昭和20(1945)年4月21日,愛楽園のある屋我地島に上陸し,同月27日,軍医らが愛楽園を視察した。この時訪問した軍医らに対し,早田所長は,ここに入所していた200人のらい患者が空襲の間に逃走し,だいたい彼らは沖縄島にいる,沖縄島には,かつて療養所に入所したことのないらい患者が100人から150人いるとの見解を示し,これを受けて,米海軍は,以下のような勧告を行った。①

ハンセン病療養施設は,海兵隊の管轄下において現在の運営体制の下,屋我地島で継続させることとし,沖縄のハンセン病患者はすべてそこに収容して隔離し治療を受けさせること



海兵隊は,療養所に必要なだけの十分な医薬品と食糧を供給すること


後ほど,患者を収容する施設の建設のために必要な建設資材を供給すること

同年5月15日付の米軍医学報告第1号は,沖縄における伝染病の状況に関する予備的調査結果のd項目らいにおいて,愛楽園に約2800人のらい患者がいる。担当の日本人医師は,沖縄島および周辺諸島に現在も約200人のらい患者がいるとの判断を示している。できるだけ速やかにこれらのらい患者を拘束し,らい療養所に送るべきであるとの勧告がすでになされていると述べた(なお,この約2800人は明らかに誤認であり,島の人口と誤解したものとされている。)。(甲A44)ウ
強制収容及び立入制限
米軍軍政府下における初のハンセン病対策として,昭和21(1946)年2月8日,ハンセン病患者の施設への強制収容を指示する海軍軍政府本
部指令第115号及び一般人の愛楽園への立ち入りを制限する海軍軍政府本部指令第116号が交付された(乙A24・43頁,乙A28・147頁)。

療養所の所管変更

米軍軍政府は,昭和21(1946)年4月25日,ハンセン病の療養所である愛楽園と南静園の所管を米軍軍政府に移した。(甲D110の1・206頁,乙A25・206頁)

罰則規定
米軍軍政府は,昭和22(1947)年2月10日,軍政府特別布告1
3号らい療養所の設立を発令した。
同号においては,前記ウ記載の海軍軍政府本部指令115号及び116号を承継した内容である,患者の治療,隔離の義務規定(16条)と許可なき者の療養所への立入,小屋住の禁止規定(8条)が定められた上,新たに,患者の隠匿,逃走援助,収容妨害の禁止規定(7条)とこ
れらすべての条項違反に対する罰則が課せられた(同9条)。
その後,昭和25(1949)年6月28日に発令された軍政府特別布告32号により,上記罰則規定の対象から7条,8条は削除されたものの,同日発令された軍政府令第1号及び昭和30(1955)年3月に発令された民政府令144号により,許可なき療養所の立入り及び許可なき患者
の立ち去りに対する罰則が設けられた(甲A23・685頁,乙A24・44頁)。
なお,当時,米国においてもハンセン病隔離政策が実施され,強制収容が行われていたとうかがわれるところであるものの,上記のような罰則規定は米国本土にはなかった。

琉球政府

琉球政府
昭和27(1952)年,琉球政府が発足し,琉球政府の行政庁の長は行政主席であった。同政府は,実際には米軍軍政府の下にある,いわゆる
間接統治機関であり,医療や教育,福祉などの内政についての代行機
関にすぎなかった。そのため,琉球政府は,米軍軍政府の布告等に反しない限りでしかハンセン病隔離政策を実施することはできなかった。もっとも,米国は,朝鮮戦争の勃発により基地問題が本格化し,琉球政府への資金援助が減少しており,琉球政府は,発足直後から保健・医療,福祉行政の予算が逼迫した。そこで,日本政府は,米国から援助の了解を
取り付け,昭和32(1957)年に特殊法人南方同胞援護会を設立し,同会を通じて,医療・福祉を中心とした資金援助を行い,それ以降,基地関係の衛生行政にしか関心のない米国に代わり日本政府が医療・福祉については関わるようになった。(甲D110・210,211頁,乙A29・80,81頁)


患者管理
昭和25(1950)年以降,沖縄において,退所した患者数が徐々に増加していった(乙A24・610頁)。もっとも,新規入所者数は減少せず,琉球政府が退所者数と死亡者数とほぼ同数のハンセン病患者を新規
入所させていたため,病床数は不足する状態が続き患者の管理を要した(甲A23・687,689,693頁)。
フィリピンのLeonaldWoodMemorialFoundationの医務部長であったダウルが,昭和29(1954)年,米軍陸軍司令部及び米国民政府の要請を受けて沖縄のハンセン病の実態を調査し,退所者に対する在宅治療の実施を勧告し,また,米国民政府の公衆衛生副部長であったマーシャル大佐も,昭和33(1958)年,報道陣との会合で沖縄のハンセン病政策に在宅治療制度を導入することを発言するなどしたが,直ちに在宅治療が導入されることはなかった(甲A23・690頁,乙A24・154~156,527~560頁,乙A2
5・209,215~217,263頁,乙A29・78,84,85,157頁)。
一方,琉球政府社会局は,昭和28(1953)年以降,各保健所に対し,繰り返し癩未収患者及び疑似者の調査についてとの指示文書を発し,患者名簿の作成や脱走患者の取締等の患者管理を行った(甲A23・689頁,甲A44・215頁)。
当時の琉球政府社会局長であった山川は,昭和30(1955)年5月,
日本本土の新法を模倣するらい予防法案を作成したが,結局,らい予防法案は成立を見ることがなく廃案となった。ウ
優生保護法
琉球立法院は,昭和31(1956)年7月27日,優生保護法を可決した。同法には,日本本土の優生保護法と同様に,ハンセン病患者とその
配偶者の断種や人工妊娠中絶が明記されていた(甲A23・687,688頁)。
もっとも,同年8月30日,米国民政府令第158号の発令により,上記優生保護法は廃止された(甲A23・688頁)。

ハンセン氏病予防法
ハンセン氏病予防法制定
ハンセン氏病予防法は,昭和36(1961)年6月30日,琉球政府立法院において成立し,同年8月26日,公布された。
ハンセン氏病予防法の主な規定を挙げると,次のとおりである(法文
を引用するに当たっては,既に定義した略語を用いない。なお,上記公布施行後に一部改正された部分については,改正後の条文を掲げる。)。a
この立法の目的
この立法は,ハンセン氏病を予防するとともに,ハンセン氏病患者の医療を行い,あわせてその福祉を図り,もって公共の福祉の増進を図ることを目的とする(1条)。

b
政府の義務
政府は,つねに,ハンセン氏病の予防及びハンセン氏病患者(以下患者という。)の医療につとめ,患者の福祉と更生を図るととも
に,ハンセン氏病に関する正しい知識の普及を図らなければならない(2条)。
c
差別的取扱の禁止
何人も,患者又は患者と親族関係にある者に対して,そのゆえをもって不当な差別的取扱いをしてはならない(3条)。

d
医師の届出等


医師は,診察の結果受診者が患者(患者の疑のある者を含む。こ
の条において以下同じ。)であると診断し,又は死亡の診断若しく
は死体の検案をした場合において,死亡者が患者であったことを知ったときは,規則の定めるところにより,患者,その保護者(親権を行う者又は後見人をいう。以下同じ。)若しくは患者と同居している者又は死体のある場所若しくはあった場所を管理する者若しくはその代理をする者に,消毒その他の予防方法を指示し,かつ,七
日以内に,規則で定める事項を,行政主席に届け出なければならない。(4条1項)


医師は,患者が治ゆし,又は死亡したと診断したときは,すみや
かに,その旨を行政主席に届け出なければならない。(同条2項)
e
指定医の診察


行政主席は,必要があると認めるときは,その指定する医師をし
て,患者又は患者と疑うに足りる相当な理由がある者を診察させることができる(5条1項)。


前項の医師の指定は,ハンセン氏病の診療に関し,2年以上の経
験を有する者のうちから,その同意を得て行うものとする(5条2項)。
f
政府立療養所又は政府立の指定病院への入所又は入院


行政主席は,ハンセン氏病を伝染させるおそれがある患者につい
て,ハンセン氏病予防上必要があると認めるときは,当該患者又はその保護者に対し,政府が設置するハンセン氏病療養所(以下政府立療養所という。)又は行政主席が指定する政府立の病院(以
下指定病院という。)に入所若しくは入院し,又は入所若しく
は入院させるように勧奨することができる(6条1項)。


行政主席は,前項の勧奨を受けた者がその勧奨に応じないときは,患者又はその保護者に対し,期限を定めて,政府立療養所又は指定病院に入所若しくは入院し,又は入所若しくは入院させることを命
じることができる(同条2項)。


行政主席は,前項の命令を受けた者がその命令に従わないときは,その患者を政府立療養所又は指定病院に入所又は入院させることができる(同条3項)。



第1項の勧奨は,前条に規定する医師が当該患者を診察した結果,その者がハンセン氏病を伝染させるおそれがあると診断した場合でなければ,行うことができない(同条4項)。

g
退所又は退院


行政主席は,ハンセン氏病を伝染させるおそれがなくなった患者
(以下軽快者という。)に対し,政府立療養所又は指定病院か

ら退所又は退院することを命ずることができる(7条1項)。


政府立療養所の長(以下所長という。)又は指定病院の長
(以下院長という。)は,退所又は退院に際し,前項の軽快者
に対し,規則で定める証明書を交付しなければならない(同条2

項)。



第1項の軽快者は,規則の定めるところにより,所長又は院長の
定期診査を受けなければならない(同条3項)。

h
在宅予防措置


行政主席は,ハンセン氏病を伝染させるおそれがない患者に対し,予防上必要があると認めるときは,在宅のまま必要な措置を講ずる
ことができる(8条)。

i
前項の措置について必要な事項は,規則で定める(同条2項)。
従業禁止



行政主席は,ハンセン氏病を伝染させるおそれがある患者に対し
て,その者が政府立療養所又は指定病院に入所又は入院するまでの
間,接客業その他公衆にハンセン氏病を伝染させるおそれがある業務であって,規則で定めるものに従事することを禁止することができる(9条1項)。


第6条4項の規定は,前項の従業禁止の処分について準用する
(同条2項)。

j
公衆と接触の機会の多い場所への出入りの禁止
ハンセン氏病を伝染させるおそれがあると認められた患者は,入所又は入院するまでの間,公衆と接触の多い場所で規則の定める所へ出入りしてはならない(10条)。

k
汚染場所の消毒


行政主席は,ハンセン氏病を伝染させるおそれがある患者又はそ
の死体があった場所を管理する者又はその代理をする者に対して,消毒材料を交付してその場所を消毒すべきことを命ずることができる(11条1項)。



行政主席は,前項の命令を受けた者がその命令に従わないときは,当該職員にその場所を消毒させることができる(同条2項)。
l
物件の消毒廃棄等


行政主席は,ハンセン氏病予防上必要があると認めるときは,ハ
ンセン氏病を伝染させるおそれがある患者が使用し,又は接触した物件について,その所持者に対し,授与を制限し,若しくは禁止し,消毒材料を交付して消毒を命じ,又は消毒によりがたい場合に廃棄
を命ずることができる(12条1項)。


行政主席は,前項の消毒又は廃棄の命令を受けた者がその命令に
従わないときは,当該職員にその物件を消毒し,又は廃棄させることができる(同条2項)。

m
政府立療養所及び指定病院
政府は,ハンセン氏病療養所を設置し,かつ,必要に応じ政府立病院を指定し,患者に対して,必要な療養を行う(14条)。

n
更生指導
政府は,必要があると認めるときは,入所患者に対して,その社会的更生に資するために必要な知識及び技能を与えるための措置を講ず
るものとする(16条)。
о
外出の許可等
入所患者,又は指定病院に入院している患者(以下入院患者と
いう。)は,次の各号に掲げる場合を除いては,政府立療養所,又は
指定病院の限定された場所から外出してはならない(18条)。

親族の危篤,死亡,り災その他特別の事情がある場合であって,
所長又は院長が,ハンセン氏病予防上重大な支障を来たすおそれがないと認めて許可したとき。


法令により政府立療養所外又は指定病院の限定された場所外に出
頭を要する場合であって,所長又は院長が,ハンセン氏病予防上重大な支障を来たすおそれがないと認めたとき。
p
秩序の維持


入所患者又は入院患者は,療養に専念し,所内又は院内の規律に
従わなければならない(19条1項)。



所長又は院長は,入所患者又は入院患者が規律に違反した場合に
おいて,所内又は院内の秩序を維持するために必要があると認める
ときは,当該患者に対して,左の各号に掲げる処分を行うことができる(同条2項)。




戒告を与えること。
30日をこえない期間を定めて,謹慎させること。

前項第2号の処分を受けた者は,その処分の期間中,所長又は院
長が指定した室で静居しなければならない(同条3項)。



第2項第2号の処分は,同項第1号の処分によっては,効果がな
いと認められる場合に限って行うものとする(同条4項)。
所長又は院長は,第2項第2号の処分を行う場合には,あらかじ
め,当該患者に対して,弁明の機会を与えなければならない(同条
5項)。
q
物件の移動の制限
入所患者又は入院患者が,政府立療養所内又は指定病院の定められた区域内において使用し,又は接触した物件は,消毒を経た後でなければ,当該政府立療養所外又は指定病院の定められた区域外に出して
はならない(21条)。
r
児童の福祉
政府は,入所患者,入院患者,被救護患者又は第8条の規定による措置を受ける患者が扶養しなければならない児童で,ハンセン氏病に
かかっていない者に対して,必要があると認めるときは,児童福祉法(1953年立法第61号)第40条及び第44条に規定する施設において,養育,養護その他の福祉の措置を講ずることができる(25条1項)。
s
罰則
次の各号の一に該当する者は,拘留又は科料に処する(32条1

項)。

第18条第1項の規定に違反して政府立療養所,又は指定病院
の限定された場所から外出した者


第18条第1項第1号の規定により政府立療養所,又は指定病
院の限定された場所から外出して,正当な理由がなく,許可の期
間内に帰所しなかった者


第18条第1項第2号の規定により政府立療養所,又は指定病
院の限定された場所から外出して,正当な理由がなく,通常帰所
又は帰院すべき時間内に帰所又は帰院しなかった者。

在宅予防措置について必要な事項を定めた規則
前記

hのとおり,ハンセン氏病予防法では,在宅治療について必要

な事項は規則で定めるとしながら,当該規則が制定されることはなかった(甲A23・695頁)。
在宅治療制度の開始
元新生園の医師は,昭和37(1962)年6月9日,那覇市内に療養所への入所経験のない者も対象者に含めたハンセン病の外来診療を行う一般皮膚科無料相談所(スキンクリニック)を開設し,在宅治療を開始した(甲A23・694~696頁,乙A24・632~633頁)。また,昭和33(1958)年11月に設立された沖縄らい予防協会(沖縄県ハンセン病予防協会)が昭和37(1962)年5月那覇市松
尾にハンセン病に係る無料診療所を開設した。同診療所は,その後,賃借していた建物の老朽化により移転を余儀なくされ,前記アの南方同胞援護会の援助を受け,他方で琉球政府と在宅治療の業務委託契約を締結し,昭和42(1967)年2月,スキンクリニックの会館を完成させ,新たにハンセン氏病予防法に基づく非伝染性の軽症患者ための在宅治療制度を開始した。また,沖縄らい予防協会(沖縄県ハンセン病予防協会)は,厚生事業として,昭和39(1964)年6月,上記と同じく南方同胞援護会の援助を受け,琉球政府と業務委託契約を締結して,療養所からの社会復帰者に対する職業補導,健康管理,就職斡旋を目的とする後保護指導所を開設した。(乙A24・632~634頁,乙A29・83頁)

もっとも,昭和37(1962)年5月から昭和39(1964)年7月までに那覇の外来診療所で発見された患者110人の内,療養所入所の必要数は34人とされ,その内28人が療養所へ送られた。また,ハ氏病の撲滅を図るには,現在放置されている在野患者を早めにみつけ,施設に収容することが先決であるとして,琉球政府厚生局の委託
を受けた沖縄らい予防協会により,在宅患者実態調査が行われ,琉球政府厚生局の要請を受けた沖縄らい予防協会は,昭和39(1964)年7月,沖縄全島にわたる住民健診を行って,未発見患者の発見に努めた(甲A44・291頁,乙A24・613頁,乙A25・212,213頁)。他方,愛楽園では,昭和42(1967)年頃には,伝染のお
それの有無に関係なく,患者に対して外来治療が行われるようになった(甲D146の1・508頁)。
このような外来治療,在宅治制度については,沖縄の統治権が日本政府に戻った後も継続して実施されることとなり,実際にも行われた(乙A29・82~83頁)。

学童検診

前記アのとおり米国政府に代わり琉球政府に援助を行うようになった日本政府の厚生省は,昭和36(1967)年,沖縄への保健医療援助の一環として,専門医の療養所への派遣とらい感染源対策の実施援助を行うことを決め,次いで,昭和42(1967)年にハンセン病の学童検診を実施することを決定した。そして,同年,先ず宮古島,伊良
部島,石垣島及び与那国島において大々的な学童検診が行われた
(甲D110・210,211頁,乙A25・223~225頁)。この結果,被験者2万9696人のうち発見患者54人,内新発見患者43人,要入所者9人であることが判明したと報告された。こうした結果を受けて,解析班の国立多摩研究所厚生技官前田道明は,
その総括報告において,かなりの感染源となる患者が在宅のまま各地域に散在していることを推定させるものであったと述べた。上記厚生省による日本本土の専門医の派遣に基づく学童検診の実施は平成3年まで継続した。(乙A25・223頁,乙A29・92頁)
3
本土復帰
沖縄は,琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定に基づき,昭和47(1972)年5月15日,本土復帰をし,同日施行された沖縄復帰特別措置法3条により,沖縄県が被告統治下の地方公共団体のひとつとなり,同法31条により,同法施行時に琉球政府が有している権利
義務は,琉球政府の事務又は事業を承継する国,沖縄県その他の法人が承継することとなった。また,同法5条により,選挙において沖縄県議会議員が選出されるまで琉球政府の立法院議員が沖縄県議会議員となり,同条により,選挙において沖縄県知事が選出されるまで琉球政府の行政府の長である行政首席が沖縄県知事となった。

本土復帰に伴い,ハンセン氏病予防法は廃止され,在宅予防措置は規定がなくなり,沖縄においても新法が適用されることとなった(乙A25・219頁)。沖縄で実際に行われてきた在宅治療制度(前記2


)は,学童検診

等のらい感染源対策及び厚生事業とともに,同日施行された沖縄振興開発特別措置法(昭和46年法律第131号)に基づき,国の委託事業として,継続して実施された(乙A25・212,225頁)。
琉球政府が実施してきたハンセン病に関する政策等のうち,新法に規定され
た機関委任事務に該当する部分は,本土復帰以降,地方公共団体である沖縄県が日本の法令等に基づいて引き続き担当し,日本本土において国が担当してきた部分に相当する部分は,本土復帰以降,国に承継された。
平成5年に発行された犀川著作の沖縄のハンセン病疫病史―時代と疫学に記載の昭和47年から昭和56年までの年度別の新規発見患者の動態調査に
よれば,例えば,昭和47年には,新規発見患者70人のうち80%に当たる56人が在宅治療を利用し,新規発見患者70人のうち20%に当たる14人が療養所に入所し,昭和52年には,新規発見患者41人のうち70.7%に当たる29人が在宅治療を利用し,新規発見患者41人のうち29.3%に当たる12人が療養所に入所していたものの,昭和54年には,新規発見患者2
8人のうち療養所に入所したのは2人であり,昭和55年には,新規発見患者19人のうち療養所に入所したのは1人のみとなり,昭和56年には,新規発見患者29人でそのうち療養所に入所したのは1人のみとなった(乙A29・115頁)。
第6
1
ハンセン病患者及びハンセン病患者家族に関係した事件
差別行為
戦前

別府的ヶ浜事件
大正11年,別府的ヶ浜のハンセン病患者を含む集落が警察官によって焼却される事件が発生した。


嵐山事件
前記第5の1


のとおり,沖縄県は,沖縄本島に県立の療養所を設

置しようと沖縄県名護町羽地村の嵐山丘陵に薬草園を建設するとの名目で療養所建設に着手したところ,昭和7年3月,新聞報道により,周辺住民に療養所を建設することを知られ,反対運動が始まった。この反対運動は,周辺の小学校の休校,デモ行進に発展した。その上,一部の住民が暴徒化
し,工事現場を破壊したため,警察官約300名が出動し,39名が逮捕され,村議会がストライキする等の混乱した事態となった。

屋部焼討事件
前記第5の1


のとおり,昭和10年6月頃,キリスト教の牧師ら

が沖縄県名護町屋部に,ハンセン病患者救護のための施設を建設し,患者
三十数人を収容しようとしたところ,新聞報道でそのことを知った周辺住民が反発し,屋部から立ち退くことを求め,患者の居住用の小屋を倒し,火をつけて焼き払った。
戦後

白鳥寮事件
戦後,入所者の子が療養所内の保育所で義務教育を終了し社会に出ると,保育所出身の来歴で入所者の子と世間に知られ,健康で何ら他の子と違いがないのに社会に適応できないとか就労が困難になる社会的差別を受ける状況にあった。ところが,療養所においてそのような状況を回避しようと
入所者の子を一般の養護施設に入所させようとしても一般の養護施設からは受入れを拒否されていた。そこで,愛生園では,昭和24年10月,光田を理事長とする財団法人楓蔭会を設立した上で,大阪府内に児童福祉法に基づく養護施設白鳥寮を建設し,昭和40年まで入所者の子を同寮で養護し,同僚から近くの公立小学校,中学校に通わせ,同僚内で職業指
導を行った。(甲A23・389頁,甲A27・84頁,甲D110・122頁,乙A3・100頁)

菊池事件
昭和26年8月1日,熊本県菊池郡において,被害者(A)の自宅にダイナマイトが投げ込まれてAとその息子がけがをした殺人未遂事件(ダイナマイト事件)が発生し,藤本が逮捕,勾留,起訴された。

ダイナマイト事件では,昭和27年6月9日,熊本地方裁判所が判決において,概ね次のとおりの事実を認定し,藤本に懲役10年の刑を宣告した。被告人である藤本は,小学校入学後間もなく父と死別し家計も貧しかったのでわずかに1年終了後退学し,その後は熊本県菊池郡水源村の自宅において専ら弟妹の小守等家事を手伝い,13歳の頃には実母をたすけて
百姓仕事も一人前となり,その後農業に勤しんでいたものであるが,昭和25年12月26日頃突然同村役場を通じて熊本県衛生部より被告人に対しハンセン病疾患のため,翌26年2月7日より恵楓園に収容する旨の通知を受けるや愕然として,自己の悲運を痛くなげくとともに,実家の将来事とも強く懸念され家族ともども悲観に暮れているうち,遂には恵楓園に
入って生きるよりむしろ死んでしまおうとまで覚悟したものの,思案の末今一度上記病名を確かめようと思い立ち,同年1月15日頃無断家出し転々として北九州方面の皮膚科医の診断を受けて回り,上記疾病ではない旨の証明書等3通を受け,これをもって世間の疑惑を晴らせると考え,喜び勇んで同年2月10日頃帰宅し祝宴まで催して人々にその旨伝え,心機
一転して再び農業にいそしみ始めた矢先同年2月24日頃更に県衛生課より村役場を通じ,5月までに恵楓園に入園せよとの通知を受け再び悲境におちいるに至ったが,これより先,上記収容手続はかつて同村役場の衛生係をしていた近所のAがその如く聞き込み,かかる悲境におちいったのはすべて同人Aの隠密の仕打ちによるものであると邪推し,同人を深く恨み
性来気が荒く執着深い性格なため同人に対する痛憤は日を経るにつれてたかぶりその仕打ちに対する怨嗟の情はいよいよ深刻となり,遂には同人A及びその家族を殺害しもってこの怨嗟を晴らそうと企て,その機会を狙っているうち同年8月1日午前2時20分頃A方玄関に至り玄関に通じる板張りの蚊帳の中にA及びその妻子5名が就寝しているのを見るや,この機に同人等6名を殺害すべく決意し直ちに長さ2メートル40センチメートルあまりの竹竿の先端にダイナマイトを装填し点火して,表側から二女,長男,二男,A,三男及び妻の順序に就寝している部屋のAの枕元付近をめがけてこれを差入れ,同人Aの頭部から約30センチメートルのところにおいて上記ダイナマイトを爆発させて同人Aらの殺害を図ったが,その使用方法が拙劣のため,爆発力が弱く,Aらに爆創を与えたにとどまり,
殺害の目的を遂げなかったものである。
藤本は,無罪を主張して控訴したが,控訴審中の昭和27年6月16日,恵楓園内にある菊池拘置所を脱走した。そして,藤本の脱走中である同年7月7日,路上でAが殺害されているのが発見され(殺人事件),藤本が逮捕,勾留,起訴された。

殺人事件では,昭和28年8月29日,熊本地方裁判所が判決において,概ね次のとおりの事実を認定し,死刑を宣告した。被告人である藤本は,被告人を恵楓園に収容する旨の通知を受けたために,親類縁者を悲運の底に突落としたものとして悲観に暮れていたが,被告人をハンセン病患者として当局に報告したのは同村役場衛生係であったAであると聞き及んでい
たので,深く同人Aを恨み,被告人及びその親類等は時折Aを殺すとかやっつけるとか村人に漏らしていたところ,上記ダイナマイト事件が起き,被告人が犯人として起訴され,有罪の第一審判決を受け,これに対する被告人の控訴は棄却され,現在上告中であるが,被告人は看守等から刑事事件についての第一審判決はほぼ確定的なもので控訴上告してもほとんど変
更されない旨を聞き,被告人としてはハンセン病患者と断定された上は素直にこれに応じ,療養に専念することこそ被告人に残された唯一の更生の道であったにもかかわらず,被告人は,自己や親類縁者の将来に救うべからず暗影を投げかけたのはAの仕業であると思いつめ,脱走してAを殺害しようと決意するに至り,熊本刑務所代用拘置所である恵楓園から逃走し,昭和27年6月18日に熊本県菊池郡水源村に到達し,山小屋等に潜んで辛抱強くA殺害の機会をうかがっていたところ,遂に同年7月6日,
同村の山道でAに会い,所携の短刀をもって頸部その他を突き刺しあるいは切り付け,20数個の切刺創を負わせ,失血により同人Aを死にいたらしめ,もって殺害の目的を遂げたものである。
藤本は,昭和37年9月14日,死刑が執行された。
(甲A4・201~205,210~226頁,甲A23・131~1
43頁)

竜田寮事件
竜田寮は,恵楓園の入所患者の扶養児童を養育する同園附設の児童福祉施設(熊本市所在。新法22条参照)であり,昭和28年度まで竜田
寮の児童は一般の小学校(B小学校)への通学が認められていなかった。当時の恵楓園所長であった宮崎は,同年12月1日,熊本地方法務局に対し,本校に竜田寮児童の通学が認められないのは差別だとして要望書を提出した。同法務局は,この件を法務省に報告した。法務省は,法務省,文部省及び厚生省の三者協議を経て,昭和29年2月16
日,通学拒否は妥当ではないとの見解を明らかにした。
ところが,同年3月1日,B小学校校区では町民大会が開催され,竜田寮児童の通学に反対する旨の決議がされ,プラカードを掲げた市中デモ行進等が繰り返された。町民大会の呼びかけ文には,あなたの子供を恐ろしい癩の未発病児童と机を並べて1.勉強さしてよいでせうか食事を共にさしてよいでせうか2.あなたの子孫はどうなっても構いませんかと書かれていた。熊本市教育委員会は,同年3月11日,同年4月の新学期から竜田寮児童を熊本市内の小学校への通学を認める決定をした。
同月の入学式当日,PTA会長ら一部の保護者が,竜田寮の新1年生4人の通学に反対して,小学校の校門に立ちふさがり,らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬよう,しばらくがっこうをやすみましょう等と書かれたポスターを貼るなどして,児童らの登校を阻止しようとする事態が生じた。こうした中で,全校生徒1800名の児童のうち登校した児童は,同日は76名,同月9日は275名,同月14日は346名,同月17日は425名であった。
長谷川衆議院議員が昭和29年5月13日衆議院厚生委員会において,
竜田寮事件を取り上げ,政府委員として出席していた当時厚生省医務局長の曽田が答弁した。
また,昭和29年10月7日,参議院文部委員会にB小学校PTA会員の

C
が参考人として出席した(甲A61)。

そして,他の地域の保育所児童の通学に関して,昭和29年10月8
日参議院文部委員会において,曾根厚生省医務局国立療養所課長補佐が,他の療養所では保育所児童は現在一般の児童と共通の場所に通っていると答弁した。
竜田寮事件は,昭和30年4月,熊本商科大学長が里親となって児童を引き取り,そこから通学させるという形で決着した。


バスの運行拒否
愛生園の一団体が,昭和47年4月,バス会社に配車を依頼したところ,一度は了解したバス会社は,配車の3日前になって,組合が消毒等を問題としていることを理由に,配車を断った。

青松園では,入所者の団体旅行のため,昭和45年5月,貸切バスの配車を申し込んだところ,伝染のおそれ等を理由に断られた。このときには,結局,バスの配車を受けられたが,昭和53年以降は,貸切観光バスの利用はなくなった。

新造船大島丸の職員席・患者席の区別
昭和47年5月,青松園が保有する新造船大島丸が進水したが,その造船に先立って,同園自治会は,従前の船にあった前方席を職員席・後
方席を患者席とする区別の廃止を申し入れていた。しかし,同区別の全面廃止はされないまま新造船は前方席が患者席,後方席が職員席に入れ替えられ進水した(甲D3・183頁)。

名護市ゲートボール協会加盟拒否
愛楽園のゲートボール協会は,昭和58年4月以降,数回にわたって,
名護市ゲートボール協会への加盟を申し入れたが,同協会から拒否され続け,新法廃止のころにようやく加盟を認められた。

黒川温泉宿泊拒否事件
熊本県が,平成15年9月17日,熊本県出身の恵楓園入所者22名の
ためのふるさと里帰り訪問事業として,熊本県黒川温泉の宿泊旅行を計画し,熊本県南小国町所在の宿泊施設であるアイレディース宮殿黒川温泉ホテルに宿泊を予約し,同年11月7日,宿泊予定者がハンセン病入所者であることを伝達したところ,同月13日,当該宿泊施設から,ハンセン病の元患者が宿泊すると他の宿泊客の迷惑になるという理由で,宿泊を拒否
された(甲A23・735頁)。
熊本県は,同月14日,職員が当該宿泊施設の本社に赴き,県知事名義の申入書を提出したものの,本社からも,宿泊拒否の回答を受け,恵楓園入所者自治会が宿泊施設において抗議したものの,宿泊拒否が覆らなかったことから,同月18日,知事は,アイレディース宮殿黒川温泉ホテルが
恵楓園入所者の宿泊を拒否したことを公表した(甲A23・735頁)。
これを受け,当該宿泊施設の総支配人は,同月20日,宿泊拒否を撤回し,恵楓園を訪問して,入所者自治会や国賠訴訟原告団に謝罪文を渡そうとしたが,入所者自治会はこれを受け取らず,抗議した(甲A23・735頁)。
同日から同月23日までに,入所者や入所者自治会に対し,全国各地か
ら,100件以上の抗議の電話や,300通以上の入所者を誹謗中傷する手紙及びファクシミリ文書が届いた。また,熊本県や熊本県知事に対しても,熊本県の対応を批判する投書や手紙等が届いた。(甲A23・735頁,甲A104)
熊本地方法務局及び熊本県は,同月21日,当該施設及びその総支配人
を旅館業法違反の罪で熊本地方検察庁に告発した。南小国町及び黒川温泉観光旅館組合は,同日,恵楓園入所者自治会を謝罪訪問し,同月26日,当該宿泊施設の本社に抗議した(甲A23・735頁)。
当該宿泊施設の本社社長は,同年12月1日,記者会見において,宿泊拒否がホテル業として当然の判断である旨述べ,ホテルのホームページに
も同様の見解を掲載したため,黒川温泉観光旅館組合は,平成15年12月2日,当該宿泊施設を組合から除名した(甲A23・735頁)。全原協,全療協等は,当該宿泊施設本社に抗議するとともに,平成16年2月25日,厚生労働省及び法務省に対し,誹謗中傷の手紙等とともに早急に一層の啓発活動に取り組むことを求める緊急要請書を提出した。
熊本県は,平成16年3月3日,当該宿泊施設のホテル営業停止処分を決めた。(甲A23・737頁)
熊本地方検察庁は,同月29日,本社社長ら3名及び法人に対し,罰金2万円を命じる刑事処分を決めた(甲A23・737頁)。
当該宿泊施設は,同年5月,廃業した。


公立小学校教員事件
福岡県内の公立小学校の人権教育担当教諭が,平成22年から平成25年まで,授業において,独自に作成した教材を使用して,ハンセン病を身体が溶ける病気であるなどと説明した。当該教材には,ハンセン病が手足の指や身体が少しずつ溶けていくもので,風邪と一緒で菌によってうつる旨が記載されていた。当該教員は,この授業を受けて,ハンセン病につい
て誤解した児童らが,怖い,友達がかかったら離れておきますな
どと記した感想文を,恵楓園に送付していた。
恵楓園から指摘を受け,福岡県教育委員会の人権同和教育課長らは,平成26年4月,同園を訪れて謝罪した。同園自治会長は,取材に対し,

差別の連鎖が教育の中で生み出されている。福岡県教育委員会は,教師向けの指導書を作るべきだ。

と述べた。福岡県教育委員会は,上記授業を受講した生徒らに対して中学校において指導をやり直すよう,関係市町村の教育委員会に指示した。(甲A121)
2
ハンセン病患者らの自殺事件
戦前
埼玉県連続自殺行為事件
昭和15年,埼玉県において,入所勧奨を受けたハンセン病患者3人が自殺を図り,そのうち1人が死亡した。
戦後


熊本県父子無理心中事件
昭和25年9月1日,熊本県において,ハンセン病患者の父を抱えた息子が,将来を悲観して,父を銃殺した上で,自殺した。


山梨県家族無理心中事件
昭和26年1月29日,山梨県において,ハンセン病患者を抱える家族9人の心中事件が起こった。この事件は,病院で家族の1人がハンセン病と診断され,同病院からハンセン病患者発見の報告を受けた保健所が,家族宅に出向いて消毒する準備をし,その旨を通告した直後に発生した出来事であった。

秋田県母子無理心中事件
昭和56年12月頃,秋田県において,女性が軽い皮膚病をハンセン病
と思い込み,2人の子供を絞殺した上,自分も自殺を図ったが未遂に終わった。

香川県母子無理心中事件
昭和58年1月,香川県において,自分と娘がハンセン病に罹患していると思いこんだ女性が,娘をガス中毒で死なせ,自分も自殺を図ったが未
遂に終わった。
第7
1
本訴について
本訴提起
第1事件原告らは,平成28年2月15日,当裁判所に対し,第1事件を提起した。

第2事件原告らは,同年3月29日,当裁判所に対し,第2事件を提起した。2
消滅時効の援用の意思表示
被告らは,平成8年3月31日までに発生した国賠法1条1項に基づく損害賠償請求権について,第1事件の原告らにつき,平成28年12月26日の第
1事件第2回口頭弁論期日において,第2事件の原告らにつき,平成29年12月4日の第7回口頭弁論期日において,それぞれ,消滅時効を援用するとの意思表示をした。
また,被告らは,原告らの有する,継続的不法行為によって発生した国賠法1条1項に基づく損害賠償請求権のうちの平成25年2月14日までに発生し
た損害についての損害賠償請求権につき,平成29年9月22日の第6回口頭弁論期日において,消滅時効を援用するとの意思表示をした。
3
原告らの訴訟承継
別紙認容原告一覧表に被承継人と併記された者は,提訴後に死亡し,別紙認容原告一覧表の当該被承継人に対応する承継人欄に記載の者が同相続割合欄記載の割合で本件に関し相続した。

第2節
1
争点及び当事者の主張
違法(行為)及び故意過失



厚生大臣及び厚生労働大臣の違法(行為)及び故意過失
(原告らの主張)

総論
本件における,国賠法1条1項所定の違法(行為)及び故意過失の骨子は,以下のとおりである。
被告(内務省,厚生省)によって明治40年から始まったハンセン病隔離政策等がハンセン病患者及びその家族への強烈な偏見差別を生む社会構造を構築し同患者及びその家族に対し各種被害を与え続けたことか
らすれば,ハンセン病患者だけではなくその家族である原告らに対しても,明治40年以降,被告がハンセン病隔離政策等を遂行し続けていることをもって条理上作為義務を基礎付ける先行行為を構成し,それにつき,被告の行政機関として当該所掌事務を担当する厚生大臣(平成13年以降は厚生労働大臣)には,ハンセン病隔離政策等につき公衆衛生上
合理的根拠のないことが判明した昭和35年以降(ただし,沖縄は昭和47年5月15日以降。原告らの主張において以下同じ。),同政策等を廃止し,かつ,その効果を排除すべき作為義務があるのに職務上それを怠り続けることに,公権力の行使として違法,有責が認められる上,ハンセン病隔離政策等の効果が引き続き放置されている限り昭和35年
以降のハンセン病隔離政策等が先行行為となり作為義務を発生させ,それに反する作為(ハンセン病患者の隔離収容等)・不作為は上記公権力の行使と一連一体の公権力の行使として違法,有責となる。
この先行行為を構成するハンセン病隔離政策等の各行為は,明治40年癩予防ニ関スル件の制定以来,ハンセン病が強烈な伝染病であって療養所に隔離されるべきであるという強烈伝染性疾病観とハンセン病に罹患しやすい体質が遺伝するという体質遺伝的疾病観に依拠してハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別意識を作出し,昭和15年には日本国内の社会関係・人間関係から忌避・排除されるべき社会的マイノリティの範疇にハンセン病患者及びその家族を組み入れ,社会を構成する国民の間で共有された,国民個々人の主観を超えた外部性を有し他方で
国民を拘束する諸信念や諸慣行の総体,すなわち,社会学的にいう集合的意識を作り上げた(集合的意識とほぼ同じ法的用語として,規範性(拘束性)を持つ共通認識を意味する社会通念があることから,以下においては,適宜集合的意識,社会通念を使い分けて用い
る。)。言い方を変えると,ハンセン病隔離政策等の各行為は,ハンセ
ン病患者家族について社会関係・人間関係から忌避・排除されて当然の存在という意識が,個々人に対して外在するようにし,かつ個々人の意識に強い影響を与え,それが口頭,教育,文書等によって伝えられ,ある種の制度的な存在,社会構造を構築した。
この昭和15年に形成された社会通念は,上記のとおり,ハンセン病
患者及びその家族を社会関係・人間関係から忌避・排除されるべき社会的マイノリティの存在として社会内に位置づける思考・行動様式であり(集合的意識としての偏見),ハンセン病患者及びその家族は,それにより現在まで偏見差別の対象とされ続け,彼らの家族関係の形成を物理的心理的に阻害し続けられてきており,違法状態は続いている。

ところで,ここにいう偏見とは,社会の集団との関係において,ある人が特定の社会集団に属しているとの理由とか,その集団の有する嫌な特質をもっていると思われるとの理由だけでその人に向けられる嫌悪の態度,敵意ある態度をいい,差別とはある者を他者化すると同時に,別のある者を同化する(仲間に引き入れる)ことによってわれわれという関係を作り出すことによる排除行為をいう。また,マイノリティとは,ある属性をもつというだけで不当な扱いを受ける少数者をいい,マジョ
リティとは,本来マイノリティに敵対する者でなくても社会通念の下でマジョリティに同化する者をも含むため,結局のところ,マイノリティに属さない全社会構成員(国民)をいう。
前記のとおり,集合的意識としての偏見が形成されることで,マジョリティ(特にマイノリティに敵意を表す者)によってマイノリティに対
する偏見差別行為が容易になされる一方,個人的にマイノリティに同情を寄せる者や,マイノリティ自身も,差別がおかしいと社会に対して主張することができず,差別に歯止めが効かない社会構造が形成される(これが上記の個人的にマイノリティに同情を寄せる者もマジョリティであることの所以である。)。

前記

の偏見差別意識の形成とは,明治40年以来のハンセン病隔離

政策等の前から国民の間に存在したハンセン病患者に対する前近代的な認識・意識,貧困,外貌醜状等による嫌悪感・忌避感を,強烈伝染性疾病観と体質遺伝的疾病観に基づく忌避・排除意識へと根本的に変質変容させ,その意識を全国津々浦々に波及,共通化固定化させることをいい,
その完成形は,前記にいう集合的意識としての偏見,すなわち社会通念の成立となる。

先行行為を構成する各行為
被告(内務省,厚生省)は,以下のとおり,戦前戦中に各種作為義務
の根拠となる先行行為を構成する各行為をした。なお,癩予防ニ関スル件の制定等の立法行為については,国会(国会議員)が議決成立させる行為をしており,しかも,これらの法律はハンセン病隔離政策等の根拠法であって,国会(国会議員)は,先行行為全体に深く関与した(この点は後記
a
の戦後も同じ。)。

明治40年,ハンセン病患者の存在自体が文明国の恥と捉える国辱論に則り,癩予防ニ関スル件を制定して対象を療養の途がなく救護者のいない者に限定しながらも,後記ウ
の終生絶対隔離政策

を指向し,ハンセン病患者を隔離収容することとした(前提事実第4の2
b
イ参照)。

明治42年,内務省訓第45号を策定しハンセン病が強烈伝染病であることを恐怖宣伝の上,患者の隔離,家族の衣服を含む消毒の徹底
を各府県に通知し広く国民に知らしめた(前提事実第4の2
c
参照)。

大正9年には,内務省保健衛生調査会の1万人収容を目標に新たな府立連合療養所の設置,有資力患者のための自由療養区の設定を内容とした根本的らい予防策要項を決議した(前提事実第4の2

d
)。

大正14年には,優生思想を背景とする民族浄化論に則した,
内務省衛生局長の地方長官宛衛発120号通牒を発し,癩予防ニ関スル件3条1項の療養ノ途ヲ有セスの解釈を拡大し事実上全患者を
隔離収容の対象とした(前提事実第4の2

e
参照)。

昭和3年には,ハンセン病患者取締強化に関する内務省次官通牒を発し,警察組織と青年団が協力してハンセン病根絶のため収容者を見
つけようと取締りにあたらせた。
f
昭和5年には,恐ろしいハンセン病を根絶するには全ハンセン病患者を療養所に収容することが唯一の有効な手段であるとする癩の根絶策を発表し,20年根絶計画を決定した(前提事実第4の2
)。

同年中に国内1番目の国立療養所として愛生園を設立した(前提事実第4の2⑽)。
g
昭和6年には,被告によって設立されたわけではないものの内務大臣が設立に深く関わった癩予防協会が創設され,昭和7年には,各府県に対し癩患家の指導として未収容者患者名簿の整理を求め,ま
た,府県職員等をして患者宅を訪れさせ療養所への入所勧奨等を行うとともに,ハンセン病患者家族に対する監視,検診を行わせた(前提
事実第4の2

参照)。このようにしてハンセン病患者家族や近隣住

民に対し家庭内感染,近隣住民への感染の恐れを強調してその恐怖を植え付けていった。
h
同年,民族の血の浄化を旗印としたハンセン病患者に対する終生絶対隔離政策を国策として採用し,それに基づき癩予防ニ関スル件をほ
ぼ全面改正した旧法を制定した(前提事実第4の2

)。同法では,

条文において隔離収容する対象の制限をなくし,従業禁止規定等を設けた(前提事実第4の2)。
i
この頃,ハンセン病患者である親と同居する子を未感染児童と
定義し,親が療養所に収容されたことにより扶養できる者がいなくな
った場合,または分離保育ができない場合,療養所に附設された保育所に収容,養育した。なお,昭和6年,最初にこの保育所を設置したのは,癩予防協会であり,愛生園及び青松園に附設された。(前提事実第4の2



このとおり,ハンセン病患者の子らを未感染児童と定義し,保育所
を設置することで,ハンセン病患者の子らを潜在的感染者(発症はしていないものの,ハンセン病患者と同居中感染した可能性があって,しばらく観察し発症の有無を確認する必要のある者)とみなし,監視・隔離の対象とした。
j
昭和10年には,全国一斉調査を実施し,10年間に療養所の病床数を1万床に増床するとともに,昭和11年から10年間でハンセン病を根絶する癩根絶20年計画の実施を決定した(前提事実第4の2)。そして,同計画に従って,昭和19年までに離島や山間へき地の8か所に国立療養所を設置し,5か所の連合府県立療養所を国立に移管した(前提事実第4の2)。
k
昭和11年以降,国内全ての地域において警察官や住民の情報(密告)によりハンセン病患者(感染者)を探し出して収容する無らい県運動を推進し,特に,府県に対し,全てのハンセン病患者を療養所に隔離収容して府県内に放浪患者や在宅患者が1人もいないよう競わせた(前提事実第4の2)。
そして,昭和15年から同16年にかけて,地域住民がハンセン病
患者を受け入れていた熊本市内の本妙寺部落と群馬県草津地方の湯ノ沢部落を解体させた(前提事実第4の2参照)。
l
大正4年から昭和23年に優生保護法が成立するまで,前記の療養所において,非合法に強制人工不妊手術(断種)及び強制人工妊娠中絶手術を行い(前提事実第4の2),ハンセン病患者が子孫を残さ
ないよう措置を施した(絶滅政策)。また,国民らに対して,厚生省優生結婚相談所を大都市の中心街にあるデパート内に設置し,ハンセン病の潜伏期間が長く,成長期,破瓜期に発症することが多いことを理由に晩婚を勧めるなどの宣伝活動を行った。
被告(厚生省)は,戦後,次のとおり各種作為義務の根拠となる先行
行為を構成する各行為をした。
a
昭和22年には,厚生省予防局長名で改めて無らい国家建設に向けた収容,消毒の強化を各地に指示する無癩方策実施に関する件の
通知をした(前提事実第4の3

b
)。

昭和23年にはらい条項を含む優生保護法の制定し,ハンセン病患者の子孫を,発病しやすい体質を受け継いでいる可能性のある不良な子孫と位置づけ,患者のみならずその配偶者までも優生手術の対象とした(前提事実第4の3
c
参照)。

昭和24年には,全国国立癩療養所長会議を開催し,全国一斉検診の方針,療養所増床及び無らい県運動の継続を決定し,地域住民にハンセン病患者の発見と関係機関への通報を求めるようになった(前提
事実第4の3
d
)。

昭和25年には,同年4月22日付け厚生省公衆衛生局長の各都道府県知事宛通知昭和二十五年度のらい予防事業についてを発し,
保健所にらい患者及び容疑者名簿の作成と都道府県知事への報告,さらに各在宅患者及びその家族に対する全国一斉検診の実施を行わせ
た(前提事実第4の3)。
e
昭和26年には,同年4月24日付け厚生省公衆衛生局長の各都道府県知事宛通知昭和二十六年度らい予防事業についてを発し,上
記らい患者及び容疑者名簿について,調査の対象を患者の配偶者,子,両親,兄弟姉妹にまで及ぼさせた(前提事実第4の3

f
昭和28年には新法を制定した(前提事実第4の3

)。

)。同法は,

ハンセン病を極めて根治が困難な強烈伝染病であるとして退所規定が設けられておらず強制隔離規定等については旧法をそのまま引継ぐものだった。
沖縄における先行行為について,被告は,戦後沖縄が暫く米国の統治
下だったことから,日本本土と同様の先行行為があったとはいえない旨を主張するが,以下のとおり,日本本土と同様の先行行為が認められる。a
そもそも,戦前戦中の沖縄においては,前提事実第5の1のとおり,日本本土と同様に,癩予防ニ関スル件以来,日本において制定された
法令が適用されて臨時国立宮古療養所が設立され,無らい県運動が展開されるなどハンセン病隔離政策等が実施され,その結果,嵐山事件等が発生し,さらには昭和19年,日本軍が沖縄陸上戦をひかえ軍人への感染を防止するため沖縄全島の患者を一斉に収容している。これらによって,ハンセン病患者及びその家族に対し日本本土と同様の集合的意識としての偏見が形成・強化され偏見差別が作出された。
b
昭和20年4月の米軍の沖縄本島上陸後は,米軍軍政府が,前提事実第5の2

のとおり,海軍軍政府本部指令115号及び116号並

びにニミッツ布告1号により,軍政に矛盾しない限度で引き続き旧法等に基づき戦前からの被告のハンセン病隔離政策等を継承する政策を実施し(第5の2イ),その後,前提事実第5の2

アのとおり代

行機関として統治権を承継した琉球政府が戦前戦中からの被告のハン
セン病隔離政策等を維持し,新たな入所者をむかえる必要から一部のハンセン病患者を退所させたことはあったもののハンセン病患者を隔離収容する政策自体は変わらなかった。
その琉球政府は,昭和36年にハンセン氏病予防法を制定し,同法に退所規定及び在宅予防措置規定を設けたが(前提事実第5の2⑵エ
),これは,病床不足及び医師不足の実情から重症者を優先して順に収容するため軽快した患者を順に退所させる必要があったためにすぎず,少ない病床を有効に利用する目的で活用されていたにすぎない。また,琉球政府は,同法下において,財団法人沖縄らい予防協会による在宅治療(前提事実第5の2⑵エ)を行わせたものの,在宅治療が受けられたのは非伝染性かつ軽症の患者であり,同協会の外来診療所で発見された伝染性や重症の患者は療養所に入所させられており,同時期の本土と何ら変わらない状態であった。
結局,琉球政府は,戦前戦中からの被告のハンセン病隔離政策等を転換,緩和したわけではなく,むしろ継承していた。

c
本土復帰による影響については,沖縄復帰特別措置法31条により,米国占領下の米軍,琉球政府による統治に基づく権利又は義務は被告が承継するところ,米国占領下において,米軍軍政府,琉球政府が戦前戦中のハンセン病隔離政策等を引き継ぎハンセン病が強烈伝染病であることを前提とした隔離政策を遂行してきたのであるから,被告は,同条によって,米軍,琉球政府のしたハンセン病隔離政策等を先行行
為として引き継ぐ。
d
以上のとおり,戦前戦中の被告のハンセン病隔離政策によって形成されたハンセン病患者家族に対する集合的意識としての偏見は,解消・緩和されないまま,昭和47年統治権が被告(地方公共団体としては沖縄県)に戻り,その後は本土と同じように新法の規定による隔
離政策が実施・継続されたことで(前記

f),沖縄県民も本土復帰

後の新法の規定による隔離政策だけでなく,被告(内務省,厚生省)による,戦前戦中のハンセン病隔離政策等の各行為,さらには米国占領下での米軍軍政府,琉球政府による隔離政策の各行為のすべてが先行行為を構成する。なお,沖縄県民については,前記ア

のとおり被

告(内務省,厚生省)による先行行為に基づき発生する作為義務の発生時点は,沖縄の本土復帰の日である昭和47年5月15日になる。e
これに対し,被告は,後記(被告の主張)イのとおり,沖縄では
古来,ハンセン病患者に対する偏見差別が広まり迫害されハンセン病
患者は自ら集落を作りそこで生活をせざるを得ない状況にあり癩予防ニ関スル件以来の政策による偏見差別は限定的であること,昭和20年4月米軍上陸によって日本政府の行政権は停止され,その後は米国占領下の統治でありそこで行政が断絶されていること,琉球政府によってハンセン病患者の軽快退所,在宅治療を進め,ハンセン氏病予防
法制定で在宅治療が行われたことでハンセン病が強烈伝染病であ
るとの社会内における認識が改善されたこと,その改善によって本土復帰後のハンセン病患者及びその家族の被害も限定的となった可能性があるから,戦前戦中のハンセン病隔離政策等は本土復帰後の作為義務を導く先行行為にならないと主張する。
しかし,古来の沖縄の状況については,ハンセン病患者が嫌忌の対象であったものの迫害を受けていたわけではなく集落は自発的なものにすぎないし,強烈伝染病を理由として排除されるようなことはなく,現在まで続く忌避・排除を是とする偏見差別は癩予防ニ関スル件以来のハンセン病隔離政策等による。被告の行政権は停止されておりそこで断絶があるとの点については,前記bのとおり米国占領下において
も統治権者は戦前戦中の被告のハンセン病隔離政策等を承継して行っておりそこに断絶はない。また,在宅治療が進められハンセン氏病予防法による在宅治療が行われたことについては,前記bのとおり
退所は新たな患者の収容のための手段にすぎず世上ハンセン病患者は隔離されねばならないとの認識になんら変化はない。退所の状況につ
いても本土の状況と変わりがないし,本土復帰後のハンセン病患者及びその家族の被害状況も本土と変わりがない。なお,被告は,戦時中日本軍がハンセン病患者を一斉収容したことについて日本軍が戦略上の必要性から行ったことにすぎないと主張するが,被告は日本軍による行為であっても責任を負わねばならないことは変わりがない。

したがって,被告の主張は,前提において理由がない。
被告は,原告らが主張する先行行為を構成する各行為について,ハンセン病隔離政策等はハンセン病患者を対象としたものであってハンセン病患者家族を対象とするものではなく,家族への偏見差別は国民がハンセン病患者と接触する機会の多いその家族に対してハンセン病の潜在的
感染者であると誤った認識を持つようになったためであるとして,ハンセン病患者家族に対する作為義務を基礎付ける先行行為にならない旨の主張をするが,ハンセン病隔離政策等は,保育所の設置,ハンセン病患者の子を未感染児童と位置付けて処遇するなど,原告らハンセン病患者家族を直接の対象としている制度もあるし,この直接に対象とした制度も含めたハンセン病隔離政策等全体によって同家族は憲法13条に保障された偏見差別を受けない権利を侵害され続けており,それを無視,軽
視する被告の主張は全くの誤りである。

先行行為による作為義務の成否
集合的意識としての偏見の形成(成立)
a
被告(内務省,厚生省)は,前記イaないしf,hないしjのと
おり法制度等を整えてハンセン病隔離政策等を実施した。その政策は,ハンセン病患者を症状の内容,家庭内療養手段の有無,病型,感染症の有無等を問わず全員を隔離し(絶対隔離),しかも,軽快退所を認めず生涯にわたって隔離し(終生隔離),家庭内や地域内における分離を超えて離島やへき地の療養所に収容して外部との交流を厳しく遮断
する(完全隔離)ことを内容とした。
加えて,被告(内務省,厚生省)は,前記

kの無らい県運動を展

開することによって,国内中に優生思想を背景とした民族浄化論を普及させ(前提事実第4の2⑺参照),前記イ

lのとおり各療養所で

は強制人工不妊手術(断種)及び強制人工妊娠中絶手術断種を実行することで,ハンセン病患者のみならず,ハンセン病患者と血縁関係にある家族に対する否定的価値観を浸透させ,家庭内感染や近隣住民への感染のおそれを強調したハンセン病患者への入所勧奨や住民の通報の奨励等を行ってハンセン病患者の地域社会からの排除・根絶行為を徹底して行った。

それにより,国民にハンセン病に対する強烈な恐怖心や嫌悪感を植え付けるとともに,ハンセン病患者家族をもって強烈な伝染病に罹患している可能性のある者,潜在的感染者であるとの誤った認識を国民に植え付けた。白衣を纏った保健所職員が入所勧奨に訪れたり,ハンセン病患者宅等の消毒を行ったりしたことも,国民に強烈な衝撃を与え,ハンセン病患者及びその患者家族に対する恐怖心や嫌悪感を強めた。

b
このようなハンセン病患者及びその家族への偏見差別を国民に植え付ける被告の施策は,国辱論と表裏の関係といえる救癩,す
なわち,療養所入所がハンセン病患者自身を救済するという理念で正当化され,大規模かつ執拗に繰り返し実施された。

無らい県運動の発案者であり当時愛生園園長であった光田は,昭和16年9月15日,癩根絶に関する所見と題する論文を執筆し,
患者1万10名収容完成の日とした上,同論文に各縣が無癩県運動を開始した,

此の三年間に残り未収容患者の為,五千床を増加して眞の無癩日本を實現する事が國家として取る可き方策であらねばならぬ。此れは火を見るよりも明らかなる法則である。

と記載して発表した。
このように,この頃には,無らい県の実現が全国において規範性を持った目標と認識された。
また,当時の社会通念を色濃く反映する帝国議会での議員や政府委
員の発言には,ハンセン病患者及びその家族について,被告による前記aの差別的加害行為によって社会関係及び人間関係から忌避排除されて当然の存在という意識が表明されていた。例えば,昭和4年第56回帝国議会において,ハンセン病が絶対に遺伝しないとは言い切れず,予防法として避妊手術が有効であり,患者は大した苦痛はな
い旨の発言,昭和6年第59回帝国議会において,ハンセン病にかかりやすい体質が遺伝することはあり,家庭内感染を防ぐため断種妊娠中絶手術が必要である旨の発言,昭和14年第74回帝国議会において,ハンセン病にかかりやすい血統があり,ハンセン病患者の産む子は少ない方が世のためになる旨の発言,昭和15年第75回帝国議会における,ハンセン病に感染する体質が遺伝するから断種をすべき,ハンセン病患者は全員収容隔離する必要がある旨,ハンセン病患者の
間に生まれた子はすぐ両親から隔離する必要がある旨の終生絶対隔離及び家庭内感染の危険性を前提とした発言がされた。この発言に表れた意識は,昭和10年の屋部焼討事件(前提事実第5の1


)等

の迫害事件(前提事実第6の1)に繋がっている。
そして,前記

iのとおり療養所に附置された保育所とそこに入所

するハンセン病患者の子に対する未感染児童との位置付けは,
ハンセン病患者の子は生まれてはならない者,ハンセン病患者の子は特殊な場所に収容されるべき者といった観念を国民に根付かせていった。
上記のとおり,昭和10年頃には,社会全体において,ハンセン病
c
患者及びその家族に対し,社会関係及び人間関係から忌避排除されて当然の存在であるという嫌悪・敵意の感情が構築・強化され,それを象徴するように,宗教団体や慈善事業団体が無らい県運動に積極的に加担し,昭和15年には埼玉県連続自殺行為事件(前提事実第6の2

))が発生していることなどに照らすと,上記の嫌悪・敵意を

有する者及びそれに同化する者は,遅くとも昭和15年には,社会の大多数を占めるようになっており,日本社会全体において,ハンセン病患者家族は,社会関係及び人間関係から忌避排除されて当然の存在であるという認識が定着し,集合的意識としての偏見が形成されたといえる。
そして,この集合的意識としての偏見は,ハンセン病患者を終生隔離し,その子孫を絶やすことを内容とするものであり,偏見の程度として最強に値するものであった。また,この集合的意識としての偏見の下,社会を構成する国民は,ハンセン病患者家族に対して,竜田寮事件(前提事実第6の1ウ)に表れているような抑圧排除の行動に出たり,それに同化したりするようになり,この抑圧排除行動に歯止
めの利かない社会構造が構築され,ハンセン病患者家族は,偏見差別を受ける地位に置かれ続けた。
集合的意識としての偏見の強化
a
被告(厚生省)は,昭和16年以降,前記イ

a,cないしeのと

おりハンセン病隔離政策等を実施し,これらの施策に加え,新法の規
定に基づく隔離政策を実施したこと(前記イ

f)により,ハンセン

病患者及びその家族に対する集合的意識としての偏見を促進・強化した。また,前記イbのとおり昭和23年に成立した優生保護法がハンセン病患者及びその配偶者を優生手術の対象としたこと,昭和24年11月に参議院厚生委員会の委員らがハンセン病患者の子孫を絶や
すべき旨発言したことにより,ハンセン病患者家族は発病体質を受け継いだ不良な子孫として社会内で認知され,社会関係及び人間関係から忌避排除されて当然の存在との認識が社会並びにハンセン病患者及びその家族に強固に植え付けられた。
b
このとおり,昭和16年以降における被告(厚生省)によるハンセン病隔離政策等の実施は,ハンセン病患者家族に対する偏見差別(集合的意識としての偏見)の強化を促進し,原告らを含むハンセン病患者家族をして偏見差別を受ける地位に固定・強固化した。
古来と異質の偏見差別の形成とそれによる偏見差別の継続強化(被告
の主張に対する反論)
ハンセン病隔離政策等の実施以前は,ハンセン病患者は,家筋の病,業病又は天刑病であるなどとして嫌忌の対象とされ,ハンセン病患者家族もこのような考えに基づく偏見を受けるに過ぎず,危険な存在として地域社会から排除される存在ではなかった。ハンセン病に対するこのような前近代的な偏見は,ハンセン病の原因が医学的に解明され,有効な治療薬が普及し,あるいは,栄養状態や衛生状態の改善で患者発生が減少することによって,欧米のように,自然に解消されていく性質のものであった。
しかし,被告(内務省,厚生省)による,強烈伝染性疾病観と体質遺伝的疾病観に基づくハンセン病隔離政策等によって,ハンセン病患者だ
けではなく,その家族も社会において危険な存在であって,社会から排除されることが正当化される存在であるという,前近代的な偏見とは異質な偏見が形成され,さらにはその偏見を強化,継続させてきた。その上,ハンセン病隔離政策等は,ハンセン病患者家族の周辺住民(社会を構成する国民)に,ハンセン病患者家族を社会から排除するという積極
的な忌避排除行動(差別行為)を取らせ,加害者としての役割を担わせるものであった。
そして,前記のとおり,無らい県運動等のハンセン病隔離政策が全国の山間へき地を含め津々浦々まで浸透したことにより(前提事実第4の2⑾参照),ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別は,全国的
に拡大し,共通化し,固定化され,集合的意識としての偏見による社会構造を構築した。
このように,ハンセン病隔離政策等は,古来存在したハンセン病患者家族に対する偏見差別とは異質な偏見差別を形成しており,古来ハンセン病患者家族に対する偏見差別が存在したことは,作為義務を否定する
根拠とならない。すなわち,古来の偏見差別のみであれば,自然に解消されていたところ,異質な偏見差別である集合的意識としての偏見によって,国民間で偏見差別が継続し,現在までハンセン病患者及びその家族に対する差別行為が繰り返されたのだから,被告は現在でも先行行為に基づく作為義務を負う。
先行行為を構成するハンセン病隔離政策等の作用
a
差別行為による被害
前記の先行行為を構成するハンセン病隔離政策等によって形成・強化された集合的意識としての偏見により,ハンセン病患者及びその家族に対し近隣町村内,職場,学校等のあらゆる生活領域で忌避排除の差別行為を行う者が多数出現した。これらの者による忌避排除による差別行為は,大規模に,かつ執拗に繰り返し行われ,原告らの多くも
体験している。そして,集合的意識としての偏見により,差別行為をする者の周囲の者が,差別行為に同調,許容,黙認し,誰もその行為を制止や禁止しない状況となり,ハンセン病患者及びその家族も,集合的意識としての偏見の拘束下にあるため,自らが忌避排除の対象となることを甘受せざるをえず,差別行為に対して異議を唱えたり反論
したり,第三者に相談したり,救済を求めたりすることができなかった。特に,婚姻問題に直面した場合,ハンセン病患者家族は,近親者にハンセン病患者がいることが婚姻にとって極めて重要な事柄であると認識し,結婚自体を断念したり,秘匿し続けることを決断し,秘密を守り続けなければならなかったり,相手に告白することを決断して
告白するなど,集合的意識としての偏見の拘束に基づいた行動を余儀なくされた。
b
家族関係の形成阻害
ハンセン病患者及びその家族は,完全隔離政策(前記ウ

a)で地

理的物理的に断絶され家族関係の形成が阻害された上に,ハンセン病隔離政策等においては家庭内感染が強調されたため,集合的意識としての偏見に拘束されたハンセン病患者家族は,家族であるハンセン病患者からの感染に対する恐怖心を刷り込まれ,さらに自らの偏見差別被害の原因が家族であるハンセン病患者にあるとの認識を形成し,家族間の心理的葛藤を作出し,家族であるハンセン病患者を憎み密接な接触がなくなり,ハンセン病患者とその家族間には家族関係の心理的
な断絶(家族の絆の破壊)が生じ,家族であるハンセン病患者に対して嫌忌や排除の行動に出ることも生じた。ハンセン病患者自身も,家族への偏見差別の波及を恐れて家族との連絡を一切断つ行動を余儀なくされた。
加えて,ハンセン病治療が療養所に限定されて,在宅治療が存在し
なかったために,在宅患者の後遺障害は重篤化しており,これも,ハンセン病患者家族のハンセン病患者に対する嫌悪感や忌避感を生む要因となった。
また,ハンセン病患者家族は,ハンセン病患者を家族に持つことを秘密にせざるを得なかったことなどが原因となり,他の家族間との間
にも重大な秘密を抱え,家族間の自然な情愛を抱くことができなかったり,その秘密を知られて家族(配偶者)から差別的扱いを受けたり,配偶者に離婚されるなど,集合的意識としての偏見によって,ハンセン病患者以外の家族間においても,家族関係の形成を阻害された。このように,集合的意識としての偏見の存在が原告らの家族関係の
形成を阻害した。

厚生大臣及び厚生労働大臣の各種作為義務
先行行為から導かれる作為義務の範囲,程度
被告(内務省,厚生省)は,前記イ記載の先行行為により,前記ウ
aに記載のとおり,ハンセン病患者家族を社会関係及び人間関係から忌避排除されて当然の存在という偏見差別を受ける地位に置いた。ハンセン病患者家族は,この偏見差別を受ける地位に置かれたことにより,交友関係,結婚,就学,就職といった,人生の重要な局面における自己実現・発達可能性を著しく制約され,さらには,自己形成の基盤である家族関係の形成を阻害され,心身の発達,情緒の安定,自己肯定感の獲得に大きな障害を起こし,人格及び個人の尊厳が大きく損なわれた。そこで,憲法13条が個人の尊厳につき立法その他の国政上,最大の尊重を必要とすると定めているにもかかわらず,原告らを含むハンセン病患者家族は,上記のとおり憲法上規定された基本的人権を著しく毀損されてきたわけであり,先行行為をした被告(内務省,厚生省及び厚生
労働省)が負う作為義務は重く,集合的意識としての偏見を解消して原告らを含むハンセン病患者家族の被害回復,救済のために必要なことはすべて行わねばならない。すなわち,厚生大臣,厚生労働大臣は,そもそも被告の行政機関である省の大臣として個々の国民であるハンセン病患者家族の基本的人権を侵害しない職務上の注意義務を憲法上負うとこ
ろ,内務大臣,厚生大臣及び厚生労働大臣は,前記イのとおり,原告らを含むハンセン病患者家族の基本的人権を侵害し,個人の尊厳を損なった当の公務員である。また,新法による隔離政策を含む伝染病の発生防止等が厚生省及び厚生労働省の所掌事務であり,厚生大臣及び厚生労働大臣がその省の長の立場にあることからして,以下のとおり作為義務を
負うことになる。
なお,この作為義務は,熊本判決と同趣旨のものであり,社会学的に支持され,ハンセン病国連ガイドラインや国連重大人権侵害ガイドラインに合致する。
新法廃止を含むハンセン病隔離政策等の抜本的転換義務の存否

a
偏見差別を受ける地位に置かれ家族関係の形成を阻害された原告らを含むハンセン病患者家族にとって,すべてのハンセン病患者につき隔離の必要性が失われた昭和35年当時,その時点で制定されていた新法やそれに関連して実施されていたハンセン病隔離政策等は,偏見差別の要因であるとともに家族関係形成の物理的・心理的障壁となっており,抜本的転換を必要とすることは明らかである。さらに,この抜本的転換には,新法及びそれによる隔離政策を廃止しただけでは昭
和35年以降,ハンセン病患者家族に対する偏見差別が根強く残ることも明らかであり,厚生大臣及び厚生労働大臣は,抜本的転換義務として新法及びそれによる隔離政策を廃止するだけではなく,偏見差別を除去する政策を施す偏見差別除去義務を負う(もっとも,その内容は,上記のとおりハンセン病患者家族にとって家族関係形成の物理
的・心理的障壁の解消の観点で重要となるため,家族被害回復に向けての作為義務(

a)の一内容に吸収される。)。

したがって,厚生大臣及び厚生労働大臣は,ハンセン病患者本人に対するのみならずハンセン病患者家族との関係においても昭和35年以降,新法の改廃に向けた諸手続を進めることを含む隔離政策の抜本
的な転換をすべき義務を負っていた。
b
被告は,厚生大臣及び厚生労働大臣には法案提出義務がないから新法の改廃に向けた諸手続を進める義務もないと主張する。しかしながら,厚生大臣及び厚生労働大臣は,内閣の構成員として設置法に定め
られた厚生省又は厚生労働省の行政事務を分担管理し,その政策について自ら企画及び立案を行い(国家行政組織法2~5条),その行政事務について法律の制定や改廃が必要な場合には,案をそなえて閣議を求めなければならない(同法10条及び11条)。そして,法律の圧倒的多数は国会議員の提案による議員立法ではなく内閣の提案によ
るという実情がある上,ハンセン病隔離政策等の遂行過程は,常に内務省及び厚生省による政策の策定が先行し,その方針を追認する法案が内閣によって国会に提出され,それが可決されて内務省及び厚生省の方針に法律的裏付けが備わるという経過を辿っており,実際に新法も同様の経緯で廃止に至っていることからみても,厚生省の新法廃止に向けての作業が重要な役割を果たすことは明らかである。しかも,ハンセン病隔離政策等を主導的立場で推進してきた厚生省は,それが
ハンセン病患者家族に与える影響を最もよく知る立場にあり,ハンセン病患者家族に対する偏見差別の解消及び被害回復に向けては,厚生大臣の一刻も早い積極的な作業が必要不可欠であった。そこで,厚生大臣が新法廃止の立法に向けた作業をしても国会で新法廃止の立法がなされなかった場合を除き,厚生大臣は昭和35年以降,新法の改廃
に向けた諸手続をすすめるべき作為義務を負っていた。
家族被害回復に向けての作為義務の存否
新法及び関連するハンセン病隔離政策等が廃止されても,ハンセン病患者家族に対する偏見差別が根強く残る限り(集合的意識としての偏見が解消されない限り),ハンセン病患者家族の被害は継続する。そのため,ハンセン病患者家族に対し,①偏見差別を受ける地位に置かれたという被害,②家族関係の形成を阻害されたという被害をそれぞれ回復させるための施策を講ずる義務を負う。すなわち,ハンセン病患者家族は,先行行為に基づく偏見差別の被害が現実化した状況に陥っており,厚生
大臣及び厚生労働大臣は,以下のとおり,危険を除去する義務にとどまらず,現に発生した被害の原状回復まで必要となる。
a
ハンセン病患者家族も隔離政策の被害者であることの公表・謝罪義務
長年に亘るハンセン病隔離政策等によって形成・強化された偏見差
別,すなわち,ハンセン病患者家族に対する集合的意識としての偏見を解消して偏見差別をなくしハンセン病患者家族の被害を回復するには,その偏見差別がハンセン病隔離政策等によってもたらされた被害であり,ハンセン病患者家族自身が被害者であることを位置付け,その被害状況の認識を社会的に共有することが必要である。この際,ハンセン病患者家族にとって,ハンセン病隔離政策等により誤った認識がどのようにして形成されたか,またどのように変革,改善すれば偏
見差別が解消されるかが明確にならなければ,エンパワーメントを獲得することができないため,それらを明確にする必要がある。それらが明確になれば,ハンセン病患者家族自身が集合的意識としての偏見による影響下から逃れられ,家族であるハンセン病患者との間で生じた加害者意識を初めて解放することができる。

また,ハンセン病患者及びその家族に対し忌避排除の差別を行い加害者側に立っていた国民については,その加害行為(差別行為)が被告によるハンセン病隔離政策等によるものであり,かつ被告こそが最大の加害者であるとの認識を持つよう導く必要があり,そのために被告はそれを自認し告白,謝罪する必要がある。

以上によれば,厚生大臣及び厚生労働大臣は,ハンセン病隔離政策等がハンセン病患者本人のみならずハンセン病患者家族に対する偏見差別を形成・強化したこと,ハンセン病患者家族は正にその被害者であること,被告がその加害主体であることを認め,そのことを社会に公表し,ハンセン病患者家族の権利を侵害してきたことに対する謝罪
をすべきである。
b
ハンセン病患者家族に対する正しい知識の教示及び啓発義務
前記のとおり,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見や差別意識は,集合的意識としての偏見が形成・強化され,社会全体,すなわ
ちハンセン病患者家族自身にも植え付けらており,これが払しょくされない限り,ハンセン病患者家族は,偏見や差別意識の解消や家族関係の回復・修復に向けた動きの主体となり得ず,エンパワーメントを獲得できない。それどころか,偏見差別を受ける地位に置かれていることで自尊感情が低下し,かつ自分もいつ発症するのかわからない恐怖を抱き続ける状況に追い込まれている。
そこで,厚生大臣及び厚生労働大臣は,ハンセン病患者家族をこの
ような状況から解放するため,同家族自身に対しても,直接正しい知識の教示及び啓発をすべきである。そうすることで,ハンセン病患者家族が自尊感情を再構築することができ,家族関係形成阻害の回復を促進することができる。また,ハンセン病患者家族が正しい知識を身に着け,自尊感情を回復すること
で,マジョリティ側と対等な地位で接触し,出会い,語らい,触れ合うといった,偏見差別の解消に不可欠な行動を可能とする。
c
家族関係回復の政策的位置付け義務
前記ウ

cのとおり,ハンセン病隔離政策等により集合的意識とし

ての偏見が形成された。その上,ハンセン病隔離政策等,特にハンセン病患者の療養所への隔離収容は,ハンセン病患者とその家族を物理的心理的に断絶させ,ハンセン病患者家族の家族関係を変容させるものであった。そこで,集合的意識としての偏見の解消をしてハンセン病患者家族関係の回復・修復を図るためには,国民全体で同家族の体
験を共有することが重要になる。すなわち,ハンセン病隔離政策等によってハンセン病患者家族の被害を生み出した被告,地方自治体及び社会の加害責任を明らかにした上で,同家族を,社会内において平穏に生活する権利を侵害された被害者として位置づけた各種政策の策定・実現が必要であり,厚生大臣及び厚生労働大臣は,次の政策を具
体化すべき義務を負う。


ハンセン病隔離政策等において,被告,地方公共団体及び地域社
会がハンセン病患者家族を地域から排除してきた歴史的事実及び同家族の被害実態を明らかにし,同家族を排除してきた被告,地方公共団体及び地域社会の責任に関する啓発運動を,地方公共団体と共同して全国的に展開する(偏見差別除去啓発活動)。


ハンセン病患者とその家族との同居あるいは地域社会における継
続的かつ円滑な交流を可能とする基盤としての,在宅医療・在宅介護等の医療・福祉制度の整備を行う。また,ハンセン病患者とその家族との家族関係の回復・修復を支援し,ハンセン病患者及びその家族と医療機関及び行政機関との連絡調整を行う社会福祉士や精神保健福祉士を各療養所及び各都道府県に配置する。

なお,これらの政策は,ハンセン病患者家族において,家族関係
形成阻害の被害を回復するとともに,ハンセン病患者及びその家族のエンパワーメントに繋がる。
d
ハンセン病問題解決に向けた政策形成過程への家族参加の機会付与義務
前記ア

のとおり,偏見の本質は特定の社会集団(マイノリティの

集団)に属する人たちへの嫌悪忌避の感情と態度であり,それは,マイノリティとマジョリティが対等な地位で接触し,出会い,触れ合い,語り合うことを地道に続けるしか解消できない。そこで,ハンセン病患者家族に対する嫌悪忌避の感情は,ハンセン病患者家族とマジョリティ側が対等な地位で接触し,出会い,触れ合い,語り合うことが必要であり,そのためには,ハンセン病患者家族に政策形成過程への参加の機会を与えることが必要不可欠である。
また,ハンセン病患者家族に政策形成過程への参加の機会を与える
ことは,ハンセン病患者家族のエンパワーメントにも繋がる。
したがって,厚生大臣及び厚生労働大臣は,ハンセン病患者家族に対する社会における偏見差別の解消及び家族関係の回復・修復に向けた政策を形成する過程に,同家族による実情を踏まえた意見を反映するため,同家族が参加できるシステムを構築すべき義務を負う。

厚生大臣及び厚生労働大臣の各種義務違反(違法行為)
昭和35年以降の歴代の厚生大臣及び厚生労働大臣は,昭和35年以降も長い間ハンセン病隔離政策等を廃止することなく,前記エの各作為義務を尽くしてこなかった。新法は廃止されたものの各種不作為は現時点でも継続しており,その結果,現在も集合的意識としての偏見が存在しハンセン病患者家族である原告らは偏見差別を受け,現在も家族関係
の形成が阻害されている状況にある。
したがって,現在も各種作為義務が尽くされておらず違法行為が続いている。
これに対し,被告は,平成8年の新法廃止をもって偏見差別解消に係る義務は履行したことになると主張するが,平成8年以降においても被
告(厚生大臣,厚生労働大臣)のしたことは,被告(厚生大臣,厚生労働大臣)による啓発活動を含めハンセン病隔離政策等の抜本的転換(家族被害回復)として不完全であり,特にハンセン病患者家族に対して何もしていない。平成13年,熊本判決においてハンセン病隔離政策等につき被告の違憲行為,違法行為が確認された以降も,被告はハンセン病
患者家族に対しては謝罪も被害回復に向けた施策も何もしていない。被告は,遅くとも平成25年には集合的意識としての偏見は無視しうるほど消失しており,この時期にはハンセン病患者家族に対する厚生労働大臣の作為義務が消失した旨を主張する。しかし,同家族が偏見差別を受け家族関係の形成を阻害されている状況は現在まで継続し,集合的
意識としての偏見は現存しており,厚生労働大臣の作為義務は消滅していない。
例えば,原告らのなかには,近年又は本件提訴後に,配偶者に対し自分の家族にはハンセン病患者がいると告げたところ,婚姻関係の破たんに追い込まれた者がおり,この出来事をもってしてもハンセン病患者家族に対する差別が歴然と現存していることは明らかである。そこで,ハンセン病患者家族は,現在でも,結婚する際,結婚相手に対し,家族に
ハンセン病患者がいることを伝えなければならないと認識しているという状況にある。このことも,未だに集合的意識としての偏見が現存し,その拘束下にあることを示している。
また,前提事実第6の1キのとおり,平成15年11月に起きた黒川温泉宿泊拒否事件において,①ホテルが他の宿泊客に迷惑がかかると
してハンセン病患者の宿泊を拒否したこと,②恵楓園入所者がその後のホテルの謝罪を受け入れなかったことで300通を超える誹謗中傷文書が送られてきたこと,③同文書中にはハンセン病患者が社会関係・人間関係から排除されるのは当然であるとの意見が示され,加えてその意見が一般的であるとさえ明記されていたこと,前提事実第6の3のとお
り,平成26年6月に公立小学校教員がハンセン病について誤った内容の授業をした上,偏見に基づく感想文を恵楓園に送付したという,これら出来事が発生しており,このような出来事からいっても,現在でも集合的意識としての偏見が解消されていないことは明らかである。
したがって,昭和35年から現在まで厚生大臣及び厚生労働大臣によ
る一連一体の違法な公権力の行使が認められる。

厚生大臣及び厚生労働大臣の故意(認識),過失
ハンセン病患者家族に対する集合的意識としての偏見は,ハンセン病隔離政策等,すなわちらいの根絶を目的とする日本型隔離政策に伴
って必然的に形成強化されてきており,被告(内務省,厚生省)は,ハンセン病患者家族をハンセン病隔離政策等のなかで潜在的な感染者あるいは感染している可能性の高い者として施策を実施してきた。具体的には,①内務省訓第45号に基づく消毒の対象にハンセン病患者の住居と同居する家族の衣類等を含み,②ハンセン病患者家族及びその血統を有する親族を癩患家として管理の対象とし,③ハンセン病患者家族をらい患者及び容疑者名簿の記載事項とするとともに検診を義務付け,④ハンセン病患者と同居する子を未感染児童と呼び,地域社会からも分離・隔離された保育所によって保育し,⑤厚生省優生結婚相談所は,ハンセン病患者と同居ないし交流のあった家族に30歳を過ぎるまで結婚を控えるべきであるとして,生殖・結婚管理をし,⑥優生保護法にお
いてハンセン病患者のみならずその配偶者を優生手術の対象とした。したがって,厚生大臣及び厚生労働大臣は,昭和35年の時点でハンセン病隔離政策等の施策がハンセン病患者家族に対する偏見差別を形成・強化し,前記作為義務を履行しなければ原告らの権利を侵害することを認識しており,仮に認識していなかったとしても,当然に予見可能
であった。
また,新法制定時には,ハンセン病患者家族に対する偏見差別を前提に審議し,前提事実第4の3⑿ア

のとおりハンセン病患者家族も対象

に含めた差別禁止条項を制定し,同イ

及び

のとおりハンセン病患者

家族の被害発生を前提としてハンセン病患者家族の生活援護と秘密の確保につき附帯決議をしており,新法制定時には,厚生大臣は,ハンセン病患者家族の偏見差別による被害を十分に認識していた。加えて,前提事実第4の4

ウのとおり昭和28年9月16日付け事務次官通知にお

いて,ハンセン病患者に関する秘密が漏洩することは,場合によっては,ハンセン病患者家族に破滅的不幸をもたらすことがあるとして秘密確保の徹底を求めており,この時点において,厚生大臣は,ハンセン病患者家族における偏見差別による被害を十分に認識していた。さらに,竜田寮事件によってハンセン病患者家族に対する偏見差別が顕在化した後はなおさら予見可能であった。すなわち,厚生大臣及び厚生労働大臣は,ハンセン病隔離政策等を維持・遂行すれば,ハンセン病患者家族に対する偏見差別は解消されずに残存し,ハンセン病患者家族が社会生活全般に及ぶ偏見差別被害が続くことを認識し,あるいは容易に認識し得た。
したがって,厚生大臣は,すべてのハンセン病患者について隔離の必要性がなくなった昭和35年までには新法を含むハンセン病隔離政策等によるハンセン病患者家族の偏見差別被害を認識していた。

昭和50年代中頃に至ってもハンセン病患者家族の無理心中事件(前提事実第6の2

ウ及びエ)が発生しており,このことは,集合的意識

としての偏見の下,ハンセン病患者家族に対する偏見差別が継続していることの表れといえる。そして,前提事実第4の5のとおり,平成8年新法廃止の際に当時の厚生大臣が家族の尊厳を傷つけたことを謝罪していることなどからすれば,厚生大臣及び厚生労働大臣は,昭和35年以降もハンセン病患者家族の被害が継続していることを認識していた。加えて,前提事実第4の5のとおり平成7年7月に設置された見直し検討会でハンセン病患者家族に対する偏見差別が根強く残っているとの認識が示されたこと,さらに,同

のとおり新法廃止時に当時の厚生

大臣が謝罪した際にもハンセン病患者家族に対する差別が残っている旨の発言があったことからすれば,厚生大臣及び厚生労働大臣は,新法等の廃止だけでは,ハンセン病患者家族の被害は解消しないことを認識していたか当然に認識し得たといえる。
厚生大臣及び厚生労働大臣は,平成13年の熊本判決やその後のハン
セン病に関する啓発活動後においても,平成15年の黒川温泉宿泊拒否事件や平成26年の公立小学校教員事件が発生したことから,ハンセン病に対する偏見差別が解消されておらず,ハンセン病患者家族の被害が継続していることを認識可能であった。また,厚生労働大臣が設置したハンセン病問題に関する検証会議により平成17年3月に作成された最終報告書(甲A23)においても,ハンセン病患者家族の被害が現存している旨が記載されているから,厚生労働大臣は,ハンセン病患者家族
の被害の継続を認識可能であった。
以上のとおり,厚生大臣及び厚生労働大臣には,現在に至るまでハンセン病患者家族との関係で,集合的意識としての偏見を解消して原告らを含むハンセン病患者家族の被害回復,救済のための諸施策を実施すべきところ怠っているため同家族が被害を受けていることを認識し,少な
くとも認識が可能な状況だったわけであり,不法行為について故意又は過失が認められる。
被告は,認識,予見可能性(過失)との関係でも,遅くとも平成25年には集合的意識としての偏見は社会内において無視しうるほど消失しており,この時期にはハンセン病患者家族に対する厚生労働大臣の過失
はないと主張するが,それが認められないことは前記オのとおりである。
(被告の主張)

総論
ハンセン病隔離政策等は,伝染病であるハンセン病の感染源であるハンセン病患者を対象とした政策でありハンセン病患者家族を対象としておらず,ハンセン病隔離政策等の各行為が原告らの主張する先行行為になることはない。仮に,社会を構成する国民がハンセン病患者家族について潜在的感染者等と誤解し,そのため,同家族が社会で偏見差別を受けたとして
も,被告(内務省,厚生省)は上記のとおりハンセン病患者家族を対象として政策を実行していたわけではなく国民の誤解によるものだからハンセン病隔離政策等の実施が作為義務を発生させる先行行為とならない。そもそも集合的意識としての偏見が成立している状況にもなく,被告(内務省,厚生省及び厚生労働省)に偏見差別を除去する義務や家族関係の形成を回復する作為義務は生じない。
仮に,昭和35年以降,厚生大臣,厚生労働大臣において,ハンセン病
患者家族との関係で作為義務を負う余地があったとしても,遅くとも平成25年以降においては厚生労働大臣の作為義務,作為義務違反は認められない。

先行行為を構成する各行為
原告らが主張する各行為について,前提事実第4の2及び3,第5の
1及び2に記載の限り争わない。ハンセン病患者家族に係る趣旨について,特に

(原告らの主張)イg,i及びl,同

b及びf,同


争う。
a
明治40年の癩予防ニ関スル件制定以来のハンセン病隔離政策等は,ハンセン病が感染力の強い伝染病であるとの理解を前提に,疾病の広
がりを防止し,また,必要な治療を施すことを目的として実施されたものであって,対象としたのはハンセン病患者であってその家族ではない。したがって,原告らの主張する先行行為を構成する各行為はハンセン病患者家族に対する作為義務の発生根拠とならない。
b
ところで,当時,ハンセン病の知見としてハンセン病に罹患しやすい体質が遺伝するとの体質遺伝的疾病観を唱える者がいたことを争うものではないが,同疾病観に立てばハンセン病患者家族をハンセン病隔離政策等の対象にすることも考えられる。しかし,内務省や厚生省は,ハンセン病について一貫して伝染病であるとの立場を取りそれに基づき説明をしており体質遺伝的疾病観に依拠したことはない。

c
ハンセン病患者家族がハンセン病患者と同居する居宅やその衣服を消毒したり保育所に収容したりするなどのハンセン病患者家族に対する措置は,いずれもハンセン病患者の収容に必要な範囲で実施していたにすぎない。すなわち,原告らがハンセン病患者家族に対する偏見差別を助長したと主張する内務省訓第45号は,当時の公衆衛生上の必要性から予防方法を示すことによりハンセン病の蔓延を防止し,そ
の根絶を図るために発布されたもので差別的な意図のあるものではないし,ハンセン病患者家族を対象とした衣類等の消毒は,ハンセン病患者との接触,体液による感染を念頭に菌の付着によって当該衣類等が汚染し又は汚染の疑いがある場合の衣類等を対象としており,ハンセン病患者家族自身を潜在的感染者と疑ったものではない。旧法及び
新法の消毒規定もハンセン病の感染予防の措置としてハンセン病患者を対象とするものであって,ハンセン病患者家族を対象とするものではない。
d
原告らが指摘する癩患家の指導は,ハンセン病患者家族がハン
セン病患者の菌に感染しないよう指導,普及啓発することを目的とし
ており,ハンセン病患者家族を潜在的感染者として管理することを目的としていたものではないし,ハンセン病患者家族の構成等については,把握していない府県もあり,被告がハンセン病患者家族を管理していたことを裏付けるものとはいえない。
e
原告らが指摘する昭和二十五年度らい予防事業についてによれ
ば,らい患者及び容疑者名簿は市町村及び警察署の活動による通
報等に基づいて作成されることになっており,昭和二十六年度らい予防事業についてによれば,らい患者及び容疑者名簿はハンセン病患者に関する情報の一つとして家族構成の記載を求めたものにす
ぎず,ハンセン病患者家族をハンセン病の潜在的感染者として管理していたことを裏付けるものではない。
f
ハンセン病患者の子における未感染児童の位置付けについても,
療養所に附置された保育所は,児童に養育,養護その他福祉の措置を講ずるための施設であって(新法22条1項),療養所入所患者の子をハンセン病に感染した疑いのある存在として監視するために収容するものではないし,未感染児童との呼称は感染していない児童

の意味であり患者予備群として扱う趣旨はなかった。
g
厚生省優生結婚相談所が作成したパンフレットにハンセン病に関連して婚姻期間の記載をしたことは認めるが,そのパンフレットには,ハンセン病に罹患していないという安心を得た上で結婚するためには婚期を先伸ばしした方が良いという趣旨の記載をしたにすぎず,感染
の疑いがある人は晩婚しなければならないなどと記載していたわけではない。
h
ハンセン病患者の隔離収容や優生保護法による優生手術,同法制定前の手術も,一貫してハンセン病が伝染病だから伝染の拡大を防止す
る病気予防のため,幼児に対する感染防止や母体保護のためなされたものであり,原告らが主張するような体質遺伝的疾病観を前提として実施されたものではない。
以上のとおり,被告のハンセン病隔離政策等は,ハンセン病患者家族を対象としたものではないから,ハンセン病患者家族である原告らとの
関係で作為義務を発生させる根拠となる先行行為に当たらない。
沖縄においては,次のとおり日本本土と同様に考えられない。
昭和20年4月に米軍が上陸した沖縄においては,前提事実第5の2アのとおり,昭和20年ミニッツ布告第1号によって日本政府の行政権の執行が停止され,米軍軍政府が新たに公布した指令に基づき占領政
策の一環として戦前戦中とは連続性のない別個の行政主体でハンセン病に係る政策が行われており,戦後の沖縄でのハンセン病についての政策は戦前戦中のそれとは別個である。
また,昭和25年以降,沖縄においては,ハンセン病患者の在宅治療が次第に実現され,昭和36年8月26日に公布されたハンセン氏病予防法が入所患者の軽快退所や退所者の厚生事業,伝染のおそれのなくなった患者の治療,非伝染性の新患者の外来治療を認めており,在宅治療制度が推進された。
そのため,沖縄においては,戦後の政策によって,ハンセン病が隔離を要する強烈伝染病であるという誤解が一定程度解消され,ハンセン病患者に対する住民らの偏見や差別が緩和されるに至り,患者家族を取り
巻く環境も,本土における患者家族らの環境とは異なる状況であった可能性がある。しかも,沖縄においては,癩予防ニ関スル件の制定以前からハンセン病患者は住民の迫害を受けて居住地を離れハンセン病患者だけの集落を作りそこで生活を続けており,本土復帰に際し,また,復帰後にもハンセン病患者及びその家族が偏見差別による被害を受けたとす
れば,それは古来の偏見差別によるものである。なお,原告らは,戦時中日本軍が沖縄に駐留中,ハンセン病患者を一斉収容しており,沖縄でも強烈な無らい県運動が展開されたと主張するが,一斉収容は戦争の激化による戦略上の必要からであって無らい県運動とは関係がない。したがって,沖縄においては,ハンセン病患者及びその家族に対する
偏見差別は戦前戦中におけるハンセン病隔離政策等を原因とするというより古来の偏見差別の影響が大きいことに加え,昭和20年ミニッツ布告第1号によって日本政府の行政権の執行が停止されるなど戦前戦中の行政と戦後のそれは断絶されていること,琉球政府によりハンセン病隔離政策等による絶対隔離政策は変更されハンセン病に対する意識が改善
され,本土復帰時の沖縄では本土と同じような偏見差別による被害はなくなった可能性が大きいことから,原告らが主張する戦前戦中のハンセン病隔離政策等をもって本土復帰後の時点で被告(厚生大臣,厚生労働大臣)に作為義務を導く先行行為にはならないし,米国占領下の米軍,琉球政府によるハンセン病患者に対する政策も先行行為にならない。また,本土復帰後の沖縄の被害状況からすると,本土復帰後の不作為をもって爾後の作為義務を導く先行行為にもならない。


先行行為による作為義務の成否
集合的意識としての偏見の形成(成立)・強化
a
ハンセン病患者に対する偏見差別は,ハンセン病への感染を避けたいという心情に由来し,ハンセン病患者家族が必ずしもハンセン病に感染するわけではなく,感染しても発症に至ることは非常に少なく,
発症しない限り他者に感染させないことからすると,ハンセン病患者とその家族では,社会内において偏見差別の対象となる可能性は大きく異なり,ハンセン病患者家族が,社会内において一般的に偏見差別を受ける可能性は低い。
b
被告のハンセン病患者に対する隔離収容や優生保護法の制定,同法の制定以前から行われてきた優生手術といった一連の行為は,前記イのとおり,原告らが主張するような体質遺伝的疾病観を前提として実施されてきたわけではない。

c
ハンセン病隔離政策等はハンセン病患者家族を潜在的感染者又は感染している可能性が高い者としたわけではないし,被告は,癩予防ニ関スル件以来のハンセン病隔離政策等を講じるに当たり,原告らが主張する集合的意識としての偏見,すなわち,ハンセン病患者及びその家族をして忌避・排除されるべき存在であって社会内で生活するのは許されない存在と位置付け,それを社会通念とすることを意図してい
たわけではない。
隔離の対象はハンセン病患者であり,それ故に無らい県運動における通報(密告)の対象もハンセン病患者であって,しかも前記イ


とおり各法令等は隔離の対象をハンセン病患者としながら感染防止等の趣旨でその家族を対象にしているにすぎず,その家族がハンセン病患者自身と同様に集合的意識としての偏見の対象になるというのは論理の飛躍がある。

d
ハンセン病患者の子については,前記イのとおり,保育所の設置
はそもそも養育等のためである上,実際に入所した人数も少なく,優生手術も幼児に対する感染防止等のためにすぎなかったわけであり,被告(内務省,厚生省)が,ハンセン病隔離政策等においてハンセン病患者の子は生まれてはならないもの,ハンセン病患者の子は特殊な場所に収容されるべきものと位置付けたことはなく,また,その旨の説明をしたこともない。
e
原告らが主張する埼玉県連続自殺行為事件も,同事件が発生したからといって直ちに偏見差別が規範性(拘束性)を有し全国に存在していたとまではいえないし,ましてやハンセン病患者家族までを忌避・
排除されるべきであると一般に規範性(拘束性)を有し意識されていたと認められない。
埼玉県連続自殺行為事件,竜田寮事件及び白鳥寮事件等は一部の者による偏見差別や,その他の要因によって惹起された可能性があり,ハンセン病患者家族が,社会内において,一般的に偏見や差別を受け
ていた根拠とならない。これについて,竜田寮事件の際,保育所児童の通学に賛成した保護者が全体の約34%に及んだことは上記社会通念が存在していたと言えない証左である。
f
そうすると,ハンセン病隔離政策等は,社会を構成する国民に対し,ハンセン病は隔離の必要なほど強烈な感染症であるとの誤った認識や,ハンセン病患者はそのような強烈な感染症にり患した者であるとの偏見差別を持つことを助長させたとしても,昭和15年当時,ハンセン病患者家族について忌避・排除されるべき存在であり,社会内で生活するのは許されないとの社会通念を当然に生じさせるものではないし,ハンセン病患者家族に対する集合的意識としての偏見が形成・強化されたとはいえない。仮に,ハンセン病患者家族が忌避・排除されるべ
き存在であり,社会内で生活するのは許されない存在との社会通念が形成・強化されていたとすれば,それは,社会を構成する国民の誤解に基づき生じたものである。
g
さらに,仮に,ハンセン病患者の子について忌避・排除されるべきであり,社会内で生活するのは許されない存在であるとの社会通念が
形成・強化されたとしても,ハンセン病患者の子以外の家族は保育所の設置,未感染児童という呼称の使用等の対象ではなかったのだから,これらの家族については忌避・排除されるべきであり,社会内で生活するのは許されない存在であるとの社会通念が形成・強化されていない。

先行行為を構成するハンセン病隔離政策等の作用
a
原告らは,ハンセン病隔離政策等を構成する各行為により,集合的意識としての偏見が形成・強化され,ハンセン病患者家族は社会全体で,社会関係及び人間関係から忌避・排除されて当然の存在であると
の認識の下,偏見差別を受け,家族関係の形成を阻害されたと主張するが,ハンセン病患者家族であっても具体的な差別を受けた経験がない者もおり,また,一様にハンセン病患者との家族関係の形成が阻害されたとは認められない。
そうすると,ハンセン病患者家族に対する偏見差別や家族形成の阻
害が,いずれの時点においても,国賠法上の作為義務を発生させる程度まで一般化していたものとまではいえない。
b
仮に,ハンセン病隔離政策等によってハンセン病患者家族が忌避・排除されるべき存在であり,社会内で生活するのは許されない存在であるという社会通念が強化され,ハンセン病患者家族に対する偏見差別を助長したという事実があるのであれば,それは,ハンセン病隔離政策等によってハンセン病及びハンセン病患者に対する誤った認識が
広まった結果,社会を構成する国民が,ハンセン病患者と接触する機会の多いハンセン病患者家族に対し,ハンセン病の潜在的感染者であるという誤った認識を持ったことによるものである。
また,ハンセン病は癩予防ニ関スル件以前にも,業病,天刑病,さらに劣った血統として偏見差別・迫害の対象とされていたのであ

って,これらを理由とする偏見差別は,古来の誤解に基づくものでありハンセン病隔離政策等によるものではない。

そうすると,ハンセン病隔離政策等がハンセン病患者家族に対する偏見差別を直接的に形成・強化したものでなかったのにハンセン病患者家族に対し偏見差別が生じたのは,ハンセン病が感染症であること
によって事実上生じたものや,ハンセン病隔離政策以前から存在していたものが原因となっているにすぎない。
また,ハンセン病隔離政策等,特に優生保護法の制定,同法の制定以前から行われてきた優生手術については,ハンセン病隔離政策等が,原告らが主張するような体質遺伝的疾病観を前提として実施されてき
たものではないから,体質遺伝的疾病観による偏見差別があったとしても,それは被告が直接に形成・強化したものではない。

厚生大臣及び厚生労働大臣の各種作為義務
先行行為から導かれる作為義務の範囲,程度

前記アのとおり,ハンセン病隔離政策等を構成するとされる各行為が先行行為を導くものではなく,被告は,ハンセン病患者家族が忌避・排除されるべき存在であり,社会内で生活するのは許されない存在であるとの社会通念を形成・強化してない以上,原告らとの関係では,厚生大臣及び厚生労働大臣に作為義務が発生しない。
新法廃止を含む隔離政策の抜本的転換義務の存否
後記のとおり,国会が新法を廃止する作為義務を負わないから,厚生大臣及び厚生労働大臣にも,新法を廃止するための法案を閣議請求すべき義務はない。また,内閣の法案提出は,立法準備行為にすぎず,当該法案に沿った法律が成立するか否かは国会に委ねられていることも考慮すると,新法を廃止するための法案を閣議請求することが義務となるこ
とはない。
そもそも,新法を中心としたハンセン病隔離政策等はあくまでハンセン病患者を対象にしており,その家族を対象とするものではない以上,同政策等について抜本的転換義務はハンセン病患者に対し負っていてもその家族に対しては負わない。原告らは,ハンセン病隔離政策等がハン
セン病患者家族を潜在的感染者と扱い集合的意識としての偏見を形成・強化したことを先行行為として主張するが,そのように先行行為を捉えたとしても,ここにいう偏見はハンセン病患者家族が潜在的感染者であることやハンセン病が隔離しなければならないほどに強烈な感染症であるといった国民の誤った認識から生じたものであり(前記アb),被
告(厚生省,厚生労働省)は,この誤った認識を除去する義務,すなわちハンセン病の正しい知識を周知させる義務を負うにすぎない。
家族被害回復に向けての作為義務の存否
前記

のとおり,ハンセン病隔離政策等がハンセン病患者家族を対象

とするものではない以上,同政策等によってハンセン病患者とその家族との間の家族間形成が阻害されても,そのことから直ちにその阻害を回復させる法的義務を負わない。また,ハンセン病隔離政策等がハンセン病患者家族を潜在的感染者と扱い集合的意識としての偏見を形成・強化したことを先行行為としても,被告(厚生省,厚生労働省)が負う義務はハンセン病患者家族が強烈な感染症の潜在的感染者であるという偏見差別を除去する義務となり,国民に対してハンセン病患者が一般社会で生活しても公衆衛生上問題とならないというハンセン病の正しい知識を
周知させる義務以上にハンセン病患者家族が受けた被害を回復させるための施策を講ずる義務を負わない。

厚生大臣及び厚生労働大臣の各種義務違反(違法行為)
仮に,ハンセン病患者家族に対しても新法及びそれによる隔離政策を
含むハンセン病隔離政策等を抜本的に転換する義務があり,しかも,前記エ

及び

のとおり,国民から誤った認識を除去するためハンセン病

の正しい知識を周知させる義務があったとしても,新法を廃止し,その際に国民に対し,ハンセン病は感染し発病に至るおそれが極めて低い病気であり,感染予防のため隔離する必要がないことを説明すれば,ハンセン病患者家族に対する偏見差別の除去にも相当程度の効果が生じることが予測される。
それについて,被告は,前提事実第4の5

及び

のとおり,新法廃

止法案の趣旨説明で平成8年3月25日厚生大臣が従前のハンセン病に関する政策が誤りであったことを認めハンセン病患者に対してだけではなくその家族に対しても謝罪し,同月31日に新法を廃止してハンセン病隔離政策を転換するとともに,同年6月26日には優生保護法を母体保護法に改正して断種手術等の実施に関する条項を削除し,ハンセン病隔離政策等を改めた。また,前提事実第4の6

イのとおり,平成13

年5月25日に内閣総理大臣が謝罪談話を発表し,同年6月に国会が謝罪決議をした。この一連の対応は,いずれも新聞報道等により広く報道され,さらには教科書にもハンセン病問題が掲載され授業でも取り上げられるようになり,従前の政策が誤りであったことが広く国民に周知された。また,前提事実第4の6クのとおり,厚生労働大臣は,平成14年5月30日,謝罪広告を全国主要50紙に掲載するとともに,被告や地方公共団体は,熊本判決の前後を通じて,別紙被告普及啓発活動等一覧に記載のとおりの施策を実施した。平成21年にはハンセン問題の解決を促進するために促進法を制定し,被告,都道府県及び管下市町村,関係団体及び関係機関に同法制定の趣旨及びその内容を徹底周知し,ハンセン病問題への取組みを促進している。
このように,被告や地方公共団体は,機会のある度にハンセン病が感
染し発病に至るおそれが極めて低い病気であり,感染予防のための隔離の必要性が失われていることを国民に説明してきており,それでハンセン病患者家族に対する偏見差別は段々と解消されていった。
実際,平成15年に発生した黒川温泉宿泊拒否事件においては,宿泊施設が宿泊拒否をしたことに対する批判的な報道が相次ぎ,既に当時に
おいて,ハンセン病に関する偏見差別が国民一般の感覚として存在していなかった。
また,原告らが,本人尋問や陳述書等で述べる偏見差別に関する具体的なエピソードは,その多くにおいて新法が廃止される平成8年以前のものであり,平成8年の新法廃止による隔離政策の転換や,平成13年
熊本判決の前後で,ハンセン病に対する社会の認識に相当の変化があった様子がうかがわれる。
さらに,平成21年に実施された熊本県の県民アンケート調査結果や,厚生労働省健康局から委託を受けた再発防止検討会が平成26年度に実施した地方公共団体における疾病を理由とする差別・偏見の克服,国民・社会への普及啓発に関する取組実態調査の結果,さらには,原告らの周囲にいる者らの反応等からすると,ハンセン病患者家族に対する偏見差別は,遅くとも平成25年に至るまでには,社会において無視し得る程度にまで除去されたといえる。
家族関係形成の阻害についても,上記のとおり,新法廃止を中心としたハンセン病隔離政策等の転換により,ハンセン病患者とその家族との同居が可能になり,また,正しい知識の説明,普及活動によってハンセ
ン病に対する誤った認識が解消され偏見差別も解消されたことで,これら解消と時期を同じくして家族関係形成を阻害する事由も解消された。以上のとおり,遅くとも平成25年には,被告や都道府県のハンセン病問題解決に向けた政策の実施等によって,被告によるハンセン病隔離政策等の実施が国民のハンセン病に対する誤った認識形成に及ぼした影
響を無視し得る程度にまで除去するに至った。そのため,ハンセン病に対する偏見を持たない国民が社会の多勢を占めるようになり,集合的意識としての偏見は解消され,家族関係の形成を阻害する事由も解消された。厚生大臣及び厚生労働大臣は先行行為から導かれる作為義務を果たし,遅くとも,第1事件原告らの提訴の3年前である平成25年2月1
4日以降,厚生大臣及び厚生労働大臣の作為義務違反はない。

厚生大臣及び厚生労働大臣の故意(認識)及び過失
ハンセン病患者に対する集合的意識としての偏見の形成・強化は否認,争う。

仮にハンセン病患者に対する集合的意識としての偏見が形成されたとしても,平成25年に至るまでにはその偏見は解消されており,少なくともその後の故意(認識)又は過失は認められない。すなわち,前記オのとおり,ハンセン病患者に対する集合的意識としての偏見は平成25年までに解消され,社会内において偏見差別が通常見られる状況ではなくなった。
したがって,厚生大臣及び厚生労働大臣は,少なくともそれ以降はハンセン病患者家族について一般的に偏見差別が生じているとは認識していないし,また,原告らが主張する作為義務を履行しなければ,ハンセン病患者家族が偏見差別によって被害を受けるとの予見もなかった。
法務大臣の違法行為及び故意過失
(原告らの主張)

内務省等による先行行為に基づく作為義務の成否
前記

(原告らの主張)ウのとおり,内務省等による先行行為に基づ

き,厚生省及び厚生労働省には,条理上の作為義務が生じるところ,当該先行行為が国策として行われたことや,行政の連帯性一体性からすれば,被告の省庁(担当大臣)のうち,行政事務の分配上作為義務の内容に従って最もふさわしい省庁(担当大臣)が作為義務を負う。
法務省は,前提事実第3の2のとおり人権啓発及び民間における人権擁護運動の助長に関する事務を所掌するところ,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別は重大な人権問題であり,それに関する被告の事務は法務省の所掌となる。すなわち,一次的には厚生大臣及び厚生
労働大臣に作為義務(前記(原告らの主張)エ

及び

)のある,①

新法廃止を含むハンセン病隔離政策等の抜本的転換義務と関連する,ハンセン病隔離政策等が誤りであることの周知や社会内の偏見差別を除去するための啓発活動(偏見差別除去啓発活動)は人権啓発に当たるし,また,②家族関係回復の政策的位置付け義務と関連する,ハンセン病患者家族を排除してきた被告,地方公共団体及び地域社会の責任に関する啓発活動を地方自治体と共同して展開すること(被告ら責任確認啓発活動)も人権啓発に当たるため,法務省の長である法務大臣は,被告が負うべき上記①及び②の作為義務を分担すべき立場にあり,新法廃止以降において,厚生大臣及び厚生労働大臣と共同・連帯して,上記の作為義
務を負う。
なお,前提事実第3の2のとおり人権教育・啓発促進法に基づき策定された人権教育・啓発基本計画で,法務省はハンセン病に関する啓発活動及びハンセン病患者・元患者等の人権の重要性について理解を深めるための啓発活動を行うことが明記され,同省の所掌事務であることが同計画上,ひいては作用法上で明らかにされた。
具体的な作為義務の内容としては,法務省は,熊本判決が言い渡され
た平成13年前後を通じ,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別の問題を重点目標,強調事項として啓発活動すべき義務を負い,その啓発活動として,広く国民が,ハンセン病患者及びその家族の被害の実相並びに被告によるハンセン病隔離政策等がその原因であることを理解できるよう,恒常的にハンセン病患者及びその家族から津々浦々の国民
が被害の話を聞き対等の地位で交流をする機会を設ける制度を設計し実現しなければならない。

法務大臣による各啓発活動義務違反(違法行為)の有無
法務省は,熊本判決が言い渡された平成13年以前には上記のハンセ
ン病に関する人権啓発活動を行っていない。しかも,人権一般の啓発活動としても,被害の理解,被害者への交流と共感の視点に欠け,ハンセン病問題の偏見差別解消,ハンセン病患者家族の家族関係回復に何ら役立つものではなかった。
平成13年以降についても,法務省が行った人権啓発活動はスポーツ
選手等による著名人の講話が大半であって被害者であるハンセン病患者自身が直接語る企画が極めて少ない。前記ア

のとおり,本来,ハンセ

ン病患者から被害を聞き,交流して対等地位での接触の機会を持つことが被害を理解しそれまでの過ちに気づくのにそれがなされていない。そもそも,法務省の行った人権啓発活動においては,ハンセン病隔離政策等の誤りやハンセン病患者家族の被害が十分に取り上げられておらず,ハンセン病患者家族に対する偏見差別の解消に役立つといえない。また,人権啓発活動の規模,範囲も限定的で集合的意識としての偏見を形成・強化した無らい県運動と到底比較できない。
法務省は,黒川温泉宿泊拒否事件に関し,ホテルの謝罪を拒否した恵楓園入所者自治会に対する誹謗中傷について,人権侵犯事件として取り扱ってすらない。

したがって,法務大臣には,平成8年から現在まで偏見差別除去啓発活動及び被告等責任確認啓発活動を行っていないに等しく作為義務違反が認められる。

法務大臣の過失
法務省は,昭和29年に竜田寮事件が発生した際には,熊本地方法務局を通じてその報告を受けているから,この時点でハンセン病患者家族の被害を認識していた。
昭和42年4月5日申告の離婚強要の人権侵犯事件は,夫の両親が妻の家筋がハンセン病の家筋であるとして離婚を迫り,数々の嫌がらせをした
事件であるところ,この事件は,法務省人権擁護局発行の啓発宣伝資料に掲載されており,法務大臣も,この頃,このようなハンセン病患者家族の被害を認識している。また,昭和43年9月から10月に亘って高知県人権擁護委員連合会が実施した調査によりハンセン病患者家族への婚姻差別が明らかとなり,この調査結果は法務大臣に報告されているから,法務大
臣も,このとおりハンセン病患者家族の被害も認識した。
法務省は,平成14年以降,人権擁護に関する世論調査の中で,ハンセン病についての意識調査を実施し,ハンセン病患者の現状だけではなくその家族の状況についても回答を得ており,法務大臣は,この意識調査により,ハンセン病患者家族の被害を認識していた。

以上のとおり,法務省所管事務に関連して,ハンセン病患者家族に対する偏見差別に係る事象の存在が明らかとなり,その時々で法務大臣は認識しており,平成8年以降歴代の法務大臣も,ハンセン病患者家族の被害を認識していたか,十分に認識可能であった。
(被告の主張)

内務省等による先行行為に基づく作為義務の成否
前記

(被告の主張)アのとおり厚生大臣及び厚生労働大臣が作為義

務を負わないことと同様に,法務大臣もハンセン病患者家族との関係で何ら作為義務を負わない。
公務員の先行行為を理由に条理上の作為義務が生じるのは,①公務員又は国家機関により一定の重大な法益侵害の危険性がある行為が行われたという違法な先行行為の存在,②その法益侵害の危険性が現存し,か
つ,差し迫っている状況があるという危険性及び切迫性の存在,③当該公務員がその法益侵害の危険性と切迫を認識することができるという予見可能性の存在,④公務員又は国家機関において結果の発生を回避することができるという結果回避可能性の存在という要件全てを満たす場合に限られ,作為義務を負担するのは当該公務員に限られる。そして,法
務大臣は,原告らの主張する先行行為に関与していないから,作為義務を負わない。
その上,ハンセン病患者家族に対する偏見差別の解消等に関する取組については,ハンセン病に関する正しい医学的知識や過去のハンセン病に関する政策の経緯等の知識が必要であり,その点から厚生大臣及び厚
生労働大臣が前記の作為義務を負うことがあったとしても,法務大臣は,これらの専門的知見を有せず,厚生大臣及び厚生労働大臣と共同して事実上ハンセン病問題に関する啓発活動を行うことがあっても,原告らの主張する作為義務を負うことはない。

法務大臣による各啓発活動義務違反(違法行為)の有無
仮に,法務大臣が作為義務を負っていたとしても,法務省は,新法廃止後,ハンセン病に対する誤った認識や偏見差別を最重要課題と捉え,平成13年の熊本判決の前後を通じ,人権啓発事務に携わる担当者らに向けた講演会等を行った上,別紙被告普及啓発活動等一覧に記載のとおり,ハンセン病に対する偏見差別をなくし理解を深めるための様々な啓発活動を実施し,法務省の人権擁護機関においてハンセン病問題に関連
する人権侵害事案の相談に応じており,各地方公共団体で様々な啓発活動が行われハンセン病に関する知識やそれに関わる人権意識が高まっている状況からすれば,法務大臣に作為義務違反はない。
なお,原告らは,被告の人権啓発活動が不十分である旨主張するが,人権啓発の手法は様々であって,原告らが主張する手法のみが有効な方
法ではないし,被告の行っている人権啓発活動も効果が生じている。いずれにしても,平成25年以降,法務大臣に作為義務も作為義務違反もないのは前記

(被告の主張)オないし

のとおりである。

法務大臣の過失
原告らの主張を争う。

文部大臣及び文部科学大臣の違法行為及び故意過失
(原告らの主張)

内務省等による先行行為に基づく作為義務の成否
前記

(原告らの主張)アaとおりであり,被告の省庁(担当大臣)

のうち,行政事務の分配上作為義務の内容に従って最もふさわしい省庁(担当大臣)が作為義務を負う。
学校教育における人権啓発教育について
新法廃止を含むハンセン病隔離政策等の抜本的転換義務と関連する偏見差別除去啓発活動,家族関係回復の政策的位置付け義務と関連する被
告ら責任確認啓発活動を全国規模で適切に行い実効性を上げるには学校教育の現場が極めて大きな役割を持つ。
ところで,前提事実第3の2及び

のとおり,文部省は,平成8年

当時,初等中等教育の基準の設定に関すること,教科用図書の検定に関すること,大学及び高等専門学校における教育の基準の設定に関すること,専修学校における教育の基準の設定に関することを所掌事務とし,平成13年1月に設置された文部科学省も,初等中等教育の基準の設定に関すること,教科用図書の検定に関すること,大学及び高等専門学校における教育の基準の設定に関すること,専修学校及び各種学校における教育の基準の設定に関することも所掌事務とする。
そうすると,文部大臣及び文部科学大臣も,新法廃止後,被告が負う
べき偏見差別解消の作為義務を分担すべき立場にあり,一次的に作為義務(前記


及び)を負う厚生大臣及び厚生労働大臣と共同・連帯

して,学校教育の場で,偏見差別除去啓発活動及び被告ら責任確認啓発活動を行うべき作為義務を負っている。
社会教育における人権啓発教育について
偏見差別除去啓発活動及び被告ら責任確認啓発活動が適切に行われるためには,社会教育の場でも啓発が行われることが重要である。
ところで,前提事実第3の2及び

のとおり,文部省は,平成8年

当時,社会教育の振興に関し,企画し,援助と助言を与えることを所掌事務とし,平成13年1月に設置された文部科学省は,社会教育の振興に関する企画及び立案並びに援助及び助言に関することを所掌事務としている。
そこで,文部大臣及び文部科学大臣は,一次的に作為義務を負う厚生大臣及び厚生労働大臣と共同・連帯して,社会教育の場でも偏見差別除去啓発活動及び被告ら責任確認啓発活動を行うべき作為義務を負ってい
る。
教育関係者への啓発について
偏見差別除去啓発活動及び被告ら責任確認啓発活動が適切に行われるためには,教育関係者に対して,正しい知識を普及し,家族の被害実態を明らかにして被告等の責任に関し啓発運動を行うことも重要である。ところで,前提事実第3の2及び
のとおり,文部省は,平成8年

当時,初等中等教育のあらゆる面について,教職員その他の関係者に対し,専門的,技術的な指導と助言を与えること,大学教育及び高等専門教育のあらゆる面について,教職員その他の関係者に対し,専門的,技術的な指導と助言を与えること,社会教育のあらゆる面について,社会教育に関する団体,社会教育指導者その他の関係者に対し,専門的,技
術的な指導と助言を与えること,地方公共団体の機関,大学,高等専門学校,研究機関等に対し,所掌事務に係る専門的技術的な指導と助言を与えることを所掌事務とし,平成13年1月に設置された文部科学省は,教育職員の養成並びに資質の保持及び向上に関すること,地方公共団体の機関,大学,高等専門学校,研究機関その他の関係機関に対し,教育,
学術,スポーツ,文化及び宗教に係る専門的,技術的な指導及び助言を行うこと,教育関係職員,研究者,社会教育に関する団体,社会教育指導者,スポーツの指導者その他の関係者に対し,教育,学術,スポーツ及び文化に係る専門的,技術的な指導及び助言を行うことを所掌事務としている。

そこで,文部大臣及び文部科学大臣は,一次的に作為義務を負う厚生大臣及び厚生労働大臣と共同・連帯して,教育関係者に対し,偏見差別除去啓発及び被告ら責任確認啓発に務める作為義務を負っている。前提事実第3の2のとおり平成14年に策定された人権教育・啓発基本計画では,ハンセン病に関する啓発活動の担当として文部科学省が
明記され,同省の所掌事務が同計画上,ひいては作用法で明らかにされた。
具体的な作為義務の内容としては,文部省及び文部科学省は,熊本判決が言い渡された平成13年前後を通じ,学校教育や社会教育の場でのハンセン病,ハンセン病患者及びその家族の偏見差別等被害についての正しい知識の教育・啓発,ハンセン病隔離政策等,同政策等とハンセン病患者及びその家族に生じた偏見差別等被害の関係についての正しい知
識の教育・啓発,それら教育・啓発を実現するための資料作成(パンフレット,教科書)及び配布・活用,さらには,教育指導方法の検討・確立,それに沿った教育者の指導,被害者との交流の実現である。この学生,社会人に対する教育・啓発活動は,皆が十分に理解できるよう,恒常的に津々浦々に行われねばならない。


文部大臣及び文部科学大臣による各啓発活動義務違反(違法行為)の有無
文部省は,人権一般についての啓発活動について,前記(原告らの主張)ア

のとおり,人権教育・啓発推進法を平成12年になって法務

省と共管で制定し,同法7条による人権教育・啓発基本計画を平成14年になって策定し,平成16年になって人権教育の指導方法の研究を始めたにすぎず,ハンセン病問題については,平成14年になって中学生向けパンフレットが作成されたにすぎない。
このように,平成13年以前においてはそもそも人権一般についての
教育さえ不十分な状態であり,ハンセン病問題が取り上げられることはほとんどなかった。これに対し,被告は,国連10年国内行動計画を取りまとめたと主張するが,この取りまとめは,取りまとめをしたのみであって,取りまとめをしたのみでは現実社会を変えられないし,国連10年国内行動計画の中味をみても,ハンセン病に対する言及は不十分な
上にハンセン病患者家族の被害についての言及がなく,偏見差別の解消にとって十分な内容ではない。
平成13年以降においても,人権教育は限定的であり,平成25年度に文部科学省が行った実態調査等によれば,地方公共団体において人権教育に関する施策の推進方法・計画が策定されたのは半数にも満たず,策定したところでも指導資料,教材等の資料収集整備・利用に関することなどの取組みをしているのは少なく,人権教育担当者向けの研修を実
施しているところも少なく,人権教育のための中学生向けパンフレットの配布・活用状況をみても,無らい県運動のように全国津々浦々で恒常的には行われている状況にない。
また,人権教育・啓発基本計画では,ハンセン病隔離政策等の誤りに言及されておらず,家族の被害にも言及されていないし,人権教育の指
導方法等の在り方についてでは,家族の被害には言及されていない。むしろ,平成26年には公立小学校教員事件が発生し,公立小学校の人権教育担当の教諭が誤った内容の授業を行い,児童がハンセン病に対する偏見を抱くに至った。
したがって,文部大臣及び文部科学大臣は,偏見差別除去啓発活動,
被告ら責任確認啓発活動の作為義務を果たしたといえない。

文部大臣及び文部科学大臣の過失
戦前においては,学校における定期健康診断が児童生徒のハンセン病患者の発見に活用され,ハンセン病の疑いがあると,学校は療養所等と
連携を取るなど無らい県運動に深く関わっており,少なくとも学校教師らは,ハンセン病患者である児童生徒の状況だけでなく,その兄弟等の家族の状況も把握していた。
また,文部省は,昭和29年に竜田寮事件が発生した際,熊本地方法務局から直接報告を受けた法務省に厚生省を加えた3省で協議をしてお
り,この時点でハンセン病患者の子の状況を認識していた。
さらに,文部省は,昭和48年頃,厚生省から,検定済みの教科書及び学習指導書にハンセン病に関する誤った記述があることを指摘され,それをそのままにしていたことから国会でも問題となった。
上記によれば,文部大臣は,従前から学校の現場でハンセン病患者の子が偏見差別による被害を受けていたことを認識していただろうし,検定済みの教科書や教師指導書にその偏見差別を助長するような記述があ
り,それを厚生省から指摘されても放置したため国会でも問題となったのだから,ハンセン病とその患者家族のことは十分に知悉していたはずである。他方で,平成8年から平成13年の時期は,文部省,文部科学省は人権教育の指導法を検討していた時期であり,その時期以前にはハンセン病に関する教材等もなかったのだから,文部大臣,文部科学大臣
としては,その時期に学校現場で正しい知識を教育・啓発できていないことを少なくとも認識しえたはずである。
熊本判決が言い渡された平成13年以降については,文部科学大臣としては,同判決を受け,ハンセン病患者だけでなくその家族の被害についても認識を深めたはずである。さらに,文部科学省は,平成21年に
は,人権教育の推進に関する取組状況の調査をし,中学生向きのパンフレットの利用状況なども把握しており,さらに,自ら設置した研究会で人権教育の現状について,ハンセン病に関する人権教育に時間が確保されていないこと,誤った方法論に基づきされていることを把握していた。そうすると,文部大臣,文部科学大臣は,新法廃止後,平成13年以
前であっても偏見差別除去啓発活動及び被告ら責任確認啓発活動に沿う教育・啓発活動ができていないことは認識可能であったし,平成13年以降はできていないことを当然に認識していたか,十分に認識可能だったといえる。
(被告の主張)

内務省等による先行行為に基づく作為義務の成否
前記

(被告の主張)アのとおり,厚生大臣及び厚生労働大臣が作為義

務を負わないことと同様に,文部大臣及び文部科学大臣は,ハンセン病患者家族との関係で何ら作為義務を負わない。
また,前記

(被告の主張)アの法務大臣と同様に,文部大臣及び文

部科学大臣は,原告らの主張する先行行為に関与していないし,ハンセン
病やハンセン病に関する政策についての専門的知見を有しないから,原告らの主張する作為義務を負わない。
イ文部大臣及び文部科学大臣による各啓発活動義務違反(違法行為)の有無
仮に,文部大臣及び文部科学大臣に作為義務があったとしても,文部
省及び文部科学省は,平成13年以前から,ハンセン病問題を重要課題と位置付け,別紙被告普及啓発活動等一覧に記載のとおり,学校教育や社会教育の場で,さらに人権教育を担当する教育者に対し,療養所訪問等を含め色々な手法で,一般的な人権教育の推進,ハンセン病に関する人権教育の推進等の人権啓発活動を行い,ハンセン病問題に取り組んで
いるから,作為義務違反はない。
なお,原告らは,平成25年に文部科学省が行った実態調査等によれば,人権教育の実施状況は限定的だったと主張するが,それは原告らが調査結果を正しく理解せず,地方公共団体の実態を過小評価しているにすぎない。

いずれにしても,平成25年以降,文部科学大臣に作為義務も作為義務違反もないのは前記(被告の主張)オ

文部大臣及び文部科学大臣の過失
原告らの主張を争う。

国会議員の立法不作為の違法及び故意過失
(原告らの主張)
ないし

のとおりである。


内務省等及び国会による先行行為を構成する各行為
前記

(原告らの主張)イ,

及び

aの各行為は,そのうちの立法

行為が先行行為を構成することはもちろんのこと,その余の内務省等の行為もハンセン病隔離政策等の行為として国策として行われてきたわけであるし,前記

(原告らの主張)イ柱書のとおり,制定された法律は他の

内務省等の行為の根拠法である。したがって,前記


及び

(原告らの主張)イ

aの各行為は,国会議員の作為義務の先行行為を構成する。

ちなみに,その各行為のうち立法行為は,明治40年制定の癩予防ニ関スル件,昭和6年制定の旧法,昭和28年制定の新法の隔離規定(同法6条,15条及び28条),優生保護法のらい条項の制定である。

ところで,上記の各行為にはないものの国会議員による先行行為を構成する行為として,公衆衛生上ハンセン病患者を隔離する必要性のないことが判明し新法及び優生保護法のらい条項の廃止が可能だった昭和40年以降(沖縄は昭和47年5月15日以降)に新法等の廃止を放置した不作為がある。すなわち,前記(原告らの主張)ア

のとおり,昭和35年時

点でハンセン病隔離政策等は公衆衛生上合理的根拠のないことが判明し新法等は違憲状態にあって,昭和40年には国会議員としても新法等を違憲な法律として廃止できたのに,昭和40年以降も新法等をそのままにし,その結果,ハンセン病患者本人のみならずその家族に対する集合的意識としての偏見を強化させ,ハンセン病患者家族は社会内において平穏に生活
する権利が侵害され続けており,このことは,その後の作為義務を生じさせる先行行為を構成する。

先行行為による作為(立法)義務の成否及び各種義務
前記ア記載の先行行為を構成するハンセン病隔離政策等の各行為,特
に違憲である新法の制定,新法を廃止することなく違憲状態を放置した不作為は国会議員の作為義務を基礎付ける。
新法の違憲性は次のとおりである。
新法は,ハンセン病患者全員を療養所に隔離収容する絶対的隔離政策を推進する法律であるところ,制定時には,既にハンセン病予防のためにすべてのハンセン病患者について隔離の必要がなくなっており,それからすれば,新法は,制定時において,既に公共の福祉による合理的な制限を逸脱して過度にハンセン病患者の人権を制約する点で違憲であった。
また,前提事実第2の5イないしオのとおり,昭和31年のローマ会議以降の国際会議においてハンセン病に関する特別法の廃止が繰り返
し提唱され,昭和33年に東京で開催された国際らい会議において,強制的な隔離政策の全面的破棄の勧奨が決議され,昭和38年の国際らい会議において,ハンセン病に関する特別法と強制隔離政策の廃止が明言されていた。ところが,新法に基づく隔離政策はハンセン病患者家族を潜在的感染者と位置付け,同法22条でハンセン病患者の子に対する差
別的処遇を規定し(前提事実第4の3⑿ア

参照),同法8条及び9条

でハンセン病患者家族に対する消毒規定を設けるなど(前提事実第4の3⑿ア

及び

参照),同法はハンセン病患者家族に対する集合的意識

としての偏見を強化するものであり,そのため,ハンセン病患者家族は,何ら合理的な理由もなく,結婚,就学,就職,交際等の社会生活のあらゆる分野において不当な差別を受け,居住移転の自由,職業選択の自由,学問の自由,表現の自由,婚姻の自由等の憲法上の権利を侵害され,自由な意思に基づいて家族関係や社会関係を築くことができず,幸福を追求することが大きく制約され続けた。このように,新法(特に隔離規定)は,原告らを含むハンセン病患者家族に対し,憲法13条によって保障
される,社会内において平穏に生活する権利が侵害し続けており,違憲であって,そのことは前記の国際会議の状況に照らすと,遅くとも昭和35年には明白となっていた。
国会議員の具体的な作為(立法)義務としては,上記によれば,一次的に,昭和40年以降,新法の隔離規定を廃止する義務(新法廃止義務)があったことは明らかである。特に,昭和40年当時,新法の隔離規定はハンセン病患者に対する隔離政策の法律上の根拠であり,その隔離規定が患者本人のみならずハンセン病患者家族に対する偏見差別を助長しハンセン病患者家族の権利を侵害するものであり,それ以降歴代の国会議員は,新法の隔離規定を廃止すべき義務を負っていた。
ところで,新法の隔離規定は,文言上,義務規定ではなく裁量規定で
あり,新法の下でも隔離政策を実施しないことができたのではないかとの疑義がある。
しかし,ハンセン病隔離政策等の歴史的経緯に鑑みれば,国会議員の新法廃止義務を否定する根拠とならない。すなわち,新法は,被告がハンセン病患者全員を入所させる方針を立てた後にこの施策の遂行を可能
とするために後付けとして法的根拠として制定されたものであって,ハンセン病患者に対する隔離政策の実施には裁量規定で必要十分であるという状況の下で制定されており,強制隔離を遂行しようとする行政機関に対し隔離の必要性の判断等の裁量を与えて恣意的な解釈運用を可能としたにすぎない。このような歴史的経緯に鑑みれば,新法は,裁量規定
の下,ハンセン病患者の隔離政策を存続させたのであり,新法を廃止しない限りハンセン病患者の隔離政策が廃止される余地はなかったのだから,国会議員は,新法を廃止する義務があった。
さらに,国会議員の具体的な作為(立法)義務として,2次的に,新法等によるハンセン病隔離政策等によってもたらされた集合的意識とし
ての偏見の状態(ハンセン病患者家族に対する根深い偏見差別意識の下,国民がハンセン病患者家族を忌避・排除する社会構造)を解消し,家族関係の被害を回復する作為義務(家族被害回復立法義務)を負う。すなわち,癩予防ニ関スル件以来のハンセン病隔離政策等に加え,国会議員が前記

の新法廃止義務が生じてから法廃止が行われる平成8年までの

30年以上の長きにわたって新法を廃止することなく放置したことで,ハンセン病患者家族に対する偏見差別が形成・強化されていたところに
偏見差別が継続強化,固定化し,家族関係の分断も容易に回復することが困難な状況に陥る状態となった。
したがって,新法廃止後においては,これら先行行為によって生じた被害回復に向けた作為義務として,以下の立法措置を講ずる義務を負う。なお,厚生大臣又は厚生労働大臣は,自らの家族被害回復に向けた作為
義務を履行せず,その存在自体を争っているから,厚生大臣又は厚生労働大臣が負う作為義務の履行に本来立法を要しないことは,国会議員の立法義務を否定する根拠とならない。
a
ハンセン病患者家族を隔離政策の被害者(不当な偏見差別を受けることなく地域社会で生きる権利を奪われてきた者)と位置付ける。
b
ハンセン病患者のみならずその家族に対する偏見差別の解消を厚生労働大臣に義務付ける。

c
ハンセン病患者の家族関係の回復を目的とする施策を講ずることを厚生労働大臣に義務付ける。

d
ハンセン病問題の解決に向けての政策形成過程において,ハンセン病患者のみならず,その家族を参加させる。


国会議員の各種義務違反
昭和40年以降の歴代の国会議員は,前記イ

の作為(立法)義務を負

っていたところ,平成8年3月に至るまで新法の隔離規定を廃止することなく放置され,前記イの家族被害回復立法義務については新法廃止から現在まで放置され,まったく果たされないままとなっている。
したがって,昭和40年以降(なお,沖縄は昭和47年5月15日以降)の歴代の国会議員には,昭和40年から平成8年の期間における新法廃止義務違反があり,新法廃止の平成8年から現在まで家族被害回復立法義務違反がある。

立法不作為固有の違法性(違憲の明白性及び立法措置懈怠期間の長期性)立法不作為(改廃を含む。)が国賠法1条1項の違法といえるためには,法律の規定が憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってその
改廃等の立法措置を怠る場合であることが必要となる。新法の隔離規定を廃止する措置の不作為及び家族被害回復に係る立法不作為における,それについての当てはめは以下のとおりである。
新法廃止義務違反の違法性
a
新法の隔離規定によって侵害された憲法上の権利は,前記イ

のと

おり,ハンセン病患者だけではなくその家族における,社会内におい
て平穏に生活する権利という憲法上保障されている幸福追求権・人格権(憲法13条)であって,極めて重要なものである上,新法の隔離規定による権利侵害の内容・程度は甚大であり,遅くとも昭和35年にはハンセン病患者家族との関係においても,新法の隔離規定が違憲であることは明白になっていた。

b
具体的には,被告が,新法によって隔離政策を推進するに当たってハンセン病患者家族を対象とした政策を講ずる中で,国会議員は,ハンセン病患者のみならずその家族も社会を構成する国民から潜在的感染者として認識され,その結果,家族が就学,就職等の社会的関係や
婚姻関係において差別され,排除される立場に立たされることを十分に認識していたか,又は認識可能であった。しかも,昭和28年の新法制定時の審議における家族被害に関する議論状況,新法付帯決議における親族を対象とした秘密確保条項からも明らかなように,国会議員は,既に新法制定時において,ハンセン病患者家族までもが,周囲から潜在的感染者であるとみなされ,差別被害を被っていることを十分に認識していたか,又は認識可能であった。
新法制定後も,竜田寮事件に関する国会での議論状況からすると,国会議員は,社会内には未感染児童について潜在的感染者である可能性が高いとの認識が存在し,その認識が竜田寮児童への偏見差別の要因であること,さらに,他の地域においても同じように保育所の児童
が地元の小学校に通学困難となっていることを了解,認識する状態にあった。
したがって,新法の隔離規定の違憲性が明白となった昭和35年から5年もあれば,国会議員は,ハンセン病患者のみならずその家族に対する偏見差別を調査把握し,これに対する立法措置を講じ得たはず
であり,昭和40年を経過しても新法の隔離規定が廃止されなかったことは,国会議員が正当な理由なく長期にわたって隔離規定の改廃等の立法措置を怠ったことになり,立法行為に係ることでも国賠法上の違法となる。
家族被害回復立法義務違反の違法性

ハンセン病患者家族は,新法の隔離規定はもちろんのこと癩予防ニ関スル件以来の国会議員の立法(根拠法)に基づくハンセン病隔離政策等によって,前記

aのとおり,長年にわたり,社会内において平穏に生

活する権利という,憲法上保障される幸福追求権・人格権(憲法13条)が侵害された状態にあり,しかも,その権利侵害の内容・程度は甚大であった。このとおりハンセン病患者家族が幸福追求権・人格権を侵害されたのは,前記

(原告らの主張)アのとおり長い年月を経て固定化
されたハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別(集合的意識としての偏見)が要因となっており,社会内において平穏に生活する権利の侵害を解消してハンセン病患者家族に上記権利を保障するには,ハンセン病患者はもちろんのことその家族との関係でも,同家族を集合的意識としての偏見による拘束下から解放し,ハンセン病患者家族のエンパワ
ーメントを回復させ,マイノリティ側にいるハンセン病患者家族をマジョリティ側の国民と対等な立場で接触させる法制度が必要不可欠である。新法が廃止された後も,上記の立法措置が講じられねば,社会内において平穏に生活する権利が侵害された違憲状態が続くことは明白であった。ところが,新法が廃止されて現時点で20年以上が経過しているにも
かかわらず,その長い間,国会議員は,上記の立法措置として必要な前記イ

aないしdの各種立法行為を何ら講じていない。

したがって,国会議員は,前記イaないしdの各種立法行為を講じ家族被害回復立法義務を果たさなければ明白な違憲状態が続くのに正当な理由なく長期にわたって当該立法措置を怠ったわけであり,当該行為
は立法行為であってもハンセン病患者家族との関係において国賠法上の違法といえる。

国会議員の過失
前記エ

bのとおりであり,国会議員は,昭和35年以前からハンセ

ン病患者家族に対する偏見差別の実態等を認識していた。にもかかわらず,国会議員は,昭和40年になっても新法の隔離規定の改廃等の立法措置を行わず,そのまま平成8年まで放置したのだから過失は明らかである。
家族被害回復立法義務との関係では,新法廃止の際,当時の厚生大臣
が国会において家族被害に言及して改廃等の立法措置の説明をしており,国会議員は,この際家族被害について十分認識していたことは明らかである。そして,長年にわたるハンセン病隔離政策等により形成・強化されたハンセン病患者家族への偏見差別は新法を廃止するだけで易々と解消できないことも,国会議員であれば十分に認識可能であったといえる。そうすると,国会議員は,新法廃止後,立法措置を講じ謝罪をしたハンセン病患者と同様に原告らを含むその家族も偏見差別を受け続けてい
ることを認識し,少なくとも認識可能であったといえる。にもかかわらず,国会議員は,その家族に対して,20年間以上,何ら立法措置を講じず被害を放置し続けたのだから,その過失は明白である。なお,この場合の立法措置とそれによる結果(家族被害回復)とを結びつける結果回避可能性の有無は厳密な成果まで要せず,一定の成果が生じることが
想定されれば足りる。
(被告の主張)

内務省等及び国会による先行行為を構成する各行為
原告らは,新法の隔離規定を含む明治40年癩予防ニ関スル件以来の立
法行為が先行行為を構成すると主張する。しかし,社会を構成する国民が,これらの立法行為によって,ハンセン病患者家族に対しハンセン病の潜在的感染者であるという偏見差別を抱くようになった事実が認められるとしても,そのような偏見差別は,新法の隔離規定等の法律から直接的に生じたものではなく,国民の誤解を介して生じたものである。そうすると,ハ
ンセン病患者家族に対する偏見差別は,新法の隔離規定等の法令が存在することによって形成・強化されたものではなく,ハンセン病が感染症であることによって事実上生じたものというべきである。そのため,仮に,新法の隔離規定等の法律がハンセン病患者家族は強烈な感染症の潜在的感染者であるという偏見差別を形成・強化したという事実関係が認められると
しても,その事実は,国会議員がハンセン病患者家族の被害回復に向けた立法義務を導く先行行為を構成しない。

先行行為による作為(立法)義務の成否及び各種義務
原告らは,被告がハンセン病患者家族に対する偏見差別を形成・強化したことを先行行為と主張しているのであるから,その先行行為から導かれる作為義務は,新法の隔離規定等の法律によって形成・強化された偏見差別,すなわちハンセン病患者家族が強烈な感染症の潜在的感染者であると
いう偏見差別を除去する義務となるはずである。
ところで,この偏見差別は,前記のとおり,社会を構成する国民のハンセン病に対する誤解から生じたものであって,この偏見差別を除去する義務の内容は,国民に対しハンセン病の正しい知識を周知することとなるはずであって,ハンセン病患者家族が受けた被害を回復させることではない。
したがって,原告らの主張する立法の内容のうち,前記(原告らの主張)イ
a,c及びdについては,原告らの主張する先行行為からは導き得な
い。

国会議員の各種義務違反
原告らの主張を争う。


立法不作為固有の違法性(違憲の明白性及び立法措置懈怠期間の長期性)立法不作為が国賠法上違法と評価されるのは,法律の規定が憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白であるにもかかわらず,
国会が正当な理由なく長期にわたってその改廃等の立法措置を怠る場合などの例外的な場合に限られる。
これを新法の隔離規定にみると,新法5条による診察の対象者はハンセン病患者であり,新法6条による入所勧奨等の対象者は同患者又はその保護者であり,新法7条による従業禁止処分の対象者は同患者であり,
新法8条による汚染場所の消毒の対象者は同患者又はその死体があった場所の管理者等であり,新法9条による汚染物件の消毒廃棄等の対象者は同患者が使用または接触した物件の所持者である。これらの規定は,ハンセン病患者家族を義務の名宛人とはしておらず,そうであるのに新法の隔離規定がハンセン病患者家族に対する偏見差別を形成・強化したという事実があるとすれば,それは,前記アのとおり国民がハンセン病患者家族を潜在的感染者と誤って認識したにすぎず,仮に,ハンセン病
患者家族が対象とされた場合であっても,それは,管理者や所持者であることが理由であって家族関係にあるためではない。すなわち,新法の隔離規定はハンセン病患者家族の権利を直接制約するものではない。また,ハンセン病患者家族に対する偏見差別は,明治40年以来のハンセン病隔離政策等の実施以前から存在していたものであって,新法の
隔離規定によって生じたものとは言い難い。
さらに,新法の隔離規定は,裁量規定であり新法の規定による隔離政策を転換する方向に運用する余地さえある。
したがって,ハンセン病患者家族に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を講ずることが必要不可欠であり,
それが明白であるとはいえないし,また新法の隔離規定が憲法上保障され又は保護されているハンセン病患者家族の権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反することが明白であるといえない。

国会議員の過失
原告らの主張を争う。

2
権利侵害及び損害
(原告らの主張)
原告らの共通権利侵害の有無

原告らは,憲法13条に基づき,社会内において平穏に生活する権利を有しており,その内実として,①偏見差別を受けることなく生活し,②家族関係の形成を阻害されることなく生活する権利を有する。
ところが,ハンセン病患者及びその家族に対する根深い偏見差別(集合的意識としての偏見)は社会内に存在しており,原告らは,ハンセン病患者の家族,すなわち,ハンセン病の潜在的感染者,発病しやすい体質を受け継いだ劣等な存在であることによって,婚姻,就学,就労,交友等の社会的関係,人間関係の様々な場面で偏見差別を受ける地位に置かれ,当然のように婚姻,就学,就労の場面で周囲の者によって人生の選択肢が制限され,周囲の者にハンセン病患者家族と知られていない場合であっても,今後自分のことを明かされ差別を受けることを怖れるあまり,家族自身が人生の選択肢を制限し
自己実現の機会を閉ざす状況におかれている。原告らは,自覚の有無及び実際の差別体験の有無にかかわらず,常に社会的マイノリティの範疇に帰属させられ,偏見差別にさらされて人格形成を害され個人の尊厳を否定され,あるべき人生を奪われてしまう具体的かつ現実的な危険を負って生きている。原告らのうちの一部は,家族の一員がハンセン病患者として隔離されるこ
とによって,家族関係が物理的に断絶され,その結果,一家離散となったり,幼い身でありながら親戚の間をたらい回しにされたり経済的困窮に苦しめられた。また,原告らは,ハンセン病隔離政策等,特にハンセン病が恐ろしい伝染病であるとの宣伝によって,ハンセン病に対する誤った認識が刷り込まれ,感染に対する恐怖から家族間での接触を避け,ハンセン病患者に対する
嫌悪感や忌避感を抱き,原告らとハンセン病患者や,原告らとその他の家族との間の家族関係が歪められ,家族関係の形成が阻害された。さらには,ハンセン病隔離政策等により在宅治療を受けられなかったために,原告らのなかには,家族であるハンセン病患者が後遺障害を悪化させ,より過酷な偏見差別にさらされたため,その怒りの矛先がハンセン病患者である家族に向き,
家族関係が歪められた者もいた。それに,強制隔離により家族を奪われた苦痛から残された家族間で家庭内暴力が生じ,家族関係が破壊された者もいた。また,原告らは,家族全体が偏見差別にさらされたことによって,自然な愛情に基づいた家族関係を築くことができない,あるいは歪められていることにより,(新たに婚姻した場合でも)夫婦間で対等な関係が保てないなど,家族関係の形成を阻害された。ハンセン病患者である家族は,他の家族に偏見差別が及ぶことを恐れて,距離をおいたり,家族の側がハンセン病患者と距離をおいたりすることで,家族関係の形成が阻害された。
このように,原告らは,自覚の有無にかかわらず,偏見差別を受ける地位に置かれ,上記の危険から逃れるため,秘密を抱え,薄氷を踏む思いで生きていかざるを得ない状態にあり,また,家族関係の形成を阻害されることで
人格形成に影響し,アイデンティティの揺らぎが生じるなど,憲法13条で保障された社会内において平穏に生活する権利を侵害された。
原告らの共通損害(包括一律請求)

共通損害の内容
前記

のとおり,原告らは,ハンセン病潜在的感染者,発病しやすい体

質を受け継いだ劣等な存在として,被告が実施したハンセン病隔離政策等によって形成・強化された集合的意識としての偏見の下,秘密を抱え,薄氷を踏む思いで生きていかざるを得ないし,ハンセン病患者家族であることが露見すれば,近隣住民などの国民から様々な差別的加害行為を受け社会内で忌避,排除される,このような偏見差別を受ける地位に置かれる被
害を受けるとともに家族関係の形成を阻害される被害を受け続けてきた。被告の主張するとおり,確かに,本件の原告らは,560名を超え,20代から90代まで幅広い年齢層に及び,病歴者との関係性等も様々であって,被害の現れ方はそれぞれ異なる。しかし,原告らは,ハンセン病患者家族の親,兄弟姉妹,子,配偶者及び同居の親族であるが故に,前記の
とおり,自覚の有無にかかわらず,ハンセン病隔離政策等によって形成・強化された集合的意識としての偏見の下,秘密を抱え,自覚の有無にかかわらずハンセン病患者家族であることが露見した場合には様々な差別行為(差別的加害行為)を受ける,このような偏見差別を受ける地位に置かれ家族関係の形成を阻害されるという共通損害を被っており,被害の本質は皆共通である。そして,この被害は,人生のあらゆる局面で形を変えながら繰り返し原告らに襲いかかり,時間の経過とともにその被害は累積,重
層化し拡大している。
原告らの被った,各種財産,身体(健康),名誉(社会的評価)の棄損等による財産的損害,精神的損害(精神的苦痛)を含む全人生,全人格に被った種々の損害は,包括的な人格権侵害による損害として精神的損害(包括慰謝料)を構成する。すなわち,原告らの被った損害は,人生にお
ける色々な場面での精神的苦痛にとどまらず,健康被害による治療費用,その他の経済的損害という多種多様にわたる損害が長年にわたって累積し,将来的にも継続拡大する性質を有するものであり,この被害を包括的な人格権侵害による精神的損害(包括慰謝料)として金銭的に評価することが,原告らの被害の本質に沿う。そして,そのような観点において原告らに損
害及びその額に差異はない。

時間経過による損害の減少,消滅の有無
被告は,新法廃止後には原告らの主張する損害の発生は減少し,第1事件原告の提訴の日の3年前の時点までには損害が発生する状況でなくなっ
たと主張する。
しかし,社会内には未だ原告らハンセン病患者家族に対する偏見差別が存続し,原告らは,現在でも偏見差別を受ける地位に置かれ続け,周囲に秘密を抱える精神的負担を有し続けている。原告らのなかには,本件訴訟に参加するにあたりそのことを家族に言えず秘密にする者が多くいるし,
前記1

(原告らの主張)オのとおり,自分がハンセン病患者家族であ

ることを配偶者に打ち明けたところ,配偶者の理解が得られず,ハンセン病患者家族に対する偏見差別から離婚を余儀なくされた者もいる。原告らの家族関係は,現在も形成を阻害され続け回復していない。

包括一律請求の可否
前記アのとおり,原告らは,ハンセン病患者の家族であるという共通した立場にあり,それ故に共通した損害を被り,それは,包括的な人格権侵
害による精神的損害を構成する。
かかる原告ら全員に共通する,包括的な人格権侵害による精神的損害の構成は,原告らにとっては,一人ひとりの体験に基づいた個々の損害額の確定がされることよりも,ハンセン病患者家族として忌避,排除,蔑視されてきた自分たちの名誉を回復し,家族関係を回復して,尊厳を取り戻す
ことが重要であることに沿う上,原告らが個別損害を主張立証して,本件訴訟が長期化した結果,解決が先延ばしになれば,偏見差別による抑圧が継続し被害が累積,拡大することになり,それは反って原告らの権利回復,被害救済にもとり,認められるところではない。このような意味から,原告らには,損害を一定額として包括一律に請求することが認められねばな
らない。
なお,共通する被害について損害額を算定し一律請求をすることは,原告らが被告のハンセン病隔離政策等を原因とした損害賠償請求につき全部請求として行う以上,被告にとって不利益となるものではない。

損害額
原告らは,前記

のとおり,人格権侵害によって,ハンセン病患者家族

であるが故に秘密や心理的負荷を抱え込まされ,薄氷を踏む思いで生き続けざるを得ない状況にある。また,家族関係の形成を阻害されている。原告らは,これらによって現実の損害として精神的苦痛を受けている。また,原告らは,全員が遅くとも本訴提起までに自らがハンセン病患者家族であることを認識しており,その長短はあるにしても,現在,原告ら全員がこの精神的苦痛を実際に受ける状況にあり,そのことは原告ら全員に共通する。
その上,熊本判決におけるハンセン病患者に対する認容額等との均衡を考え,原告ら各人の精神的苦痛を控えめに金銭評価すると,1人500万円が相当である。
謝罪広告の要否
ハンセン病隔離政策等によって形成・強化された集合的意識としての偏見の下,ハンセン病患者と同様にその家族は社会内で感染源,癩患家,未感染児童として危険な存在と位置付けられたり,不良な子孫として劣等
な存在と位置付けられたりして,社会的評価を低下され名誉を棄損された。熊本判決後,ハンセン病患者に対する名誉回復や被害填補のための施策は様々にされているが,家族の名誉回復の措置は未だ講じられていない。そこで,原告らは,国賠法4条によって準用される民法723条に基づき,別紙謝罪広告記載の謝罪広告を,同記載の条件で掲載することを求める。
ハンセン病患者家族の名誉棄損による損害の回復は,金銭賠償のみによっては困難である。なぜならば,ハンセン病患者家族が名誉回復をするためには,ハンセン病患者家族と社会の構成員である国民との間に,対等な地位での接触,出会い,語らい,触れ合うといった機会を作れるよう援助するエンパワーメントが必要である。このエンパワーメントの実現に向けての第一歩
が,加害者である被告の自己反省と謝罪を,謝罪広告という形で社会一般に向けて広報することである。
そもそも,謝罪広告は被告が行ったハンセン病隔離政策等によって招いた原告らを含むハンセン病患者家族に対する人格権侵害に基づく作為義務の履行となること(前記1

(原告らの主張)エa),また,原告らと被告は

被害者,加害者の関係にあることからいって,被告の反省,謝罪は原告らの名誉回復にとって不可欠である。
(被告の主張)
原告らの共通権利侵害の有無
そもそも,原告らの主張する,社会内において平穏に生活する権利が憲法13条に基づく幸福追求権・人格権として保障されるものであるかどうか疑問である。
また,昭和35年以降,新法が廃止される平成8年3月末までの間の新法をはじめとする関係各法令をみても,被告の行為(作為不作為)によって形成・強化された偏見差別を除去される利益がハンセン病患者家族に法律上保護される利益としてあると認めることができない。
したがって,被告の行為(作為不作為)によって原告らの権利,法律上保
護される利益を侵害したということはない。
原告らの共通損害(包括一律請求)

共通損害の内容
原告らとその家族であるハンセン病患者との関係は,親子,兄弟姉妹,
配偶者等とさまざまである上,その具体的な被差別体験や家族形成の阻害の有無及び程度には差異がある。原告らは,いずれも家族のなかにハンセン病患者がいたという点では共通しているものの,原告らのなかには,新法による隔離政策が廃止されるまで,家族にハンセン病患者がいることを認識せず,ハンセン病患者である家族に対して悪感情を持って
おらず,原告らの主張するような自然な情愛に基づいた家族関係を築くことができない,あるいは歪められたという被害を受けていなかった者もいる。原告ら全員が周囲から偏見を持たれたり差別されたりした経験を有するものでもなければ,家族関係の形成を妨げられた経験を有すると認められるものでもないから,本件において,原告ら全員に共通
して生じた損害はない。
また,原告らは,国賠法に基づき精神的損害の賠償を求めているところ,本来,損害賠償は現実に生じた損害を金銭で填補する制度あるから,損害があるということになれば,損害額の算定が必要となるし,その場合,現実に生じた原告らのそれぞれの損害に係る事実を正確に認定した上で,これを正当に評価,算定することになる。そこで,原告らの損害が共通損害ということであれば,その共通損害が認められるためには,原告ら全員に共通した損害に係る事実があることになる。しかし,原告らの全人生,全人格は一様ではなく,同じ状況にいたわけではなく,被った精神的苦痛も様々である。原告らには,共通の現実に生じた損害は存在せず,偏見差別を受ける地位や家族関係の形成を妨げられる地位に
置かれる限度でのみ共通しているにすぎないから,原告ら全員に共通した損害を認めることはできない。
原告らは,偏見差別を受ける地位に置かれた被害については,そもそも実際の被害(精神的苦痛)は必要ない旨の主張をする。しかしそうなると,原告らの主張するところは一般的抽象的で具体性を欠き,原告ら
にハンセン病患者家族として固有の損害が生じているとはいえない。原告らは,家族関係の形成阻害による共通損害は具体的な阻害による損害である旨を主張している。しかしそうであれば,原告ら自身がハンセン病患者家族であると認識した時期や家族であるハンセン病患者との別居の有無及びその期間等により大きく損害の内容及び程度が異なるは
ずである。そして,原告らは,実際に前記のとおりこれらの点で大きな違いがあり,家族関係の形成阻害について共通損害を認めることができない。
そこで,原告らそれぞれ個別に家族関係の形成阻害を判断する場合,特に別居の有無及びその期間が重要になり,原告らはそれについて入所
期間証明書記載の療養所入所期間に基づき別紙原告一覧表のとおり原告らと家族であるハンセン病患者との別居期間を主張する。しかし,原告らの家族であるハンセン病患者らのなかには,入所期間証明書に記載された退所日よりも前に自宅に戻って原告らと同居していた者や,入所期間中であっても自宅に戻って相当期間原告らと生活を共にしていた者もおり,別紙原告一覧表に記載の入所期間は,必ずしも原告らが当該ハンセン病患者と別居していた期間と合致するものではなく,原告らと当該ハンセン病患者が共に生活することができなかった期間を示すものでもない。したがって,家族関係の形成阻害について原告ら全員の共通損害を認められない場合,だからといって,別紙原告一覧表に記載の入所期間をもって原告らそれぞれの個別損害発生の根拠とすることはできない
し,一定のグループ毎の共通損害を認めることもできない。
原告らは,共通損害の前提として被害の現れ方としては原告ら様々であるがその被害は累積,重層化するなどと主張をする。
しかし,原告らの偏見差別の体験にはハンセン病患者が被告から補償金等を受領していることに対する妬みによるものや,その原因が不明で
あるものがある。このような体験は,ハンセン病隔離政策等とは無関係であって,原告らの主張する被告の作為義務違反による違法行為によって生じたとはいえず,因果関係がない。
原告らは,共通損害は原告らが自覚しているか否かにかかわらず発生すると主張する。

しかし,損害は,自らがハンセン病患者家族であることを自覚して初めて生じるもの,すなわち,自覚することによって社会内における偏見差別を怖れ,あるいは,家族である患者との関係に変化が生じるはずである。
そうすると,原告ら全員がハンセン病患者家族であることを認識した
時点は,第2事件の提訴日である平成28年3月29日の直前であるから,共通損害は,その時点以降に生じることになるところ,後記イの
とおり平成25年以降には損害が生じる余地がないから,結局,共通損害は発生していない。
原告らは,日本本土のハンセン病患者家族と沖縄在住又は沖縄に在住していたことのあるハンセン病患者家族とを区別することなく共通損害を主張する。

しかし,沖縄では,昭和34年頃には琉球政府の下,在宅治療制度が推進され,ハンセン病が隔離を要する強烈伝染病であるとの誤解は早くから一定程度解消され,ハンセン病患者に対する沖縄住民らの偏見差別は緩和されており,日本本土のハンセン病患者家族と沖縄在住又は沖縄に在住していたことのあるハンセン病患者家族とではそのおかれた環境
に差異があった。
したがって,両者に同様の損害が生じたということはできず,共通損害を認めることはできない。

時間経過による損害の減少,消滅の有無
仮に,ハンセン病患者家族に対する偏見差別や家族関係の形成阻害の被害が生じていたとしても,平成8年に新法廃止に伴い隔離政策が転換され,平成13年熊本判決後に内閣総理大臣や国会が謝罪したことなどが大々的に報道され,広く世間に知られることとなり,また,上記のとおり隔離政策が転換された後,ハンセン病問題に対する様々な取組等が
実施されてきたなかで,社会内で,ハンセン病及びハンセン病患者家族に対する誤った認識が日々改められた。すなわち,社会を構成する国民は,それまで,ハンセン病を隔離しなければならない強烈伝染病と理解し,その上でハンセン病患者家族を潜在的感染者,罹患しやすい体質を受け継いだ者と誤解していたのが,ハンセン病が感染し発病に至る危険
の極めて低い病気であり隔離の必要がないことなどを認識するようになり,その結果,ハンセン病患者及びその家族を取り巻く環境に大きな変化が生じ,彼らに対する偏見差別は相当改善されたし,また,ハンセン病患者家族自身も偏見差別をする側が誤った認識を有していることを理解して家族であるハンセン病患者に対する悪感情が解消されるようになり,家族間交流,同居の障害もなくなり,家族関係の形成が阻害されることはなくなった。実際,原告らのなかで平成8年以降に自分がハンセン病患者家族であることを自覚した者の偏見差別及び家族関係の形成阻害による被害は,損害がないか以前のそれと比べられないほど小さい。上記の経緯により,平成25年までには,ハンセン病を強烈伝染病であると認識し続ける者は極わずかになり,ハンセン病患者及びその家族
への偏見差別は,社会内で無視し得る程度にまで解消され,また,家族関係の形成阻害は,上記のとおりその頃にはなくなっている。実際に原告らのなかには,この時期に自分がハンセン病患者家族であることを周囲に公表した者もいる。
したがって,平成25年以降においては,原告らを含むハンセン病患
者家族に自らの主張する共通損害が発生しているということはない。原告らは,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別は消滅することなく現在も歴然と存在すると主張する。
しかし,原告らの主張によれば,ハンセン病隔離政策等はハンセン病を強烈伝染性疾病観及び体質遺伝的疾病観を国民に広めたことによって
ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別を形成・強化したことになり,そうだとすれば,前記

のとおり新法廃止後にハンセン病に対す

る正しい知識が広められたのだから,従前の偏見差別が残るということはないはずである。それでも偏見差別が現存するというのであれば,前記1
(被告の主張)ウ

bのとおり,そもそも,ハンセン病について

は,ハンセン病隔離政策等の実施前から業病,天刑病,家(血脈)にまつわる病,遺伝病などと認識されハンセン病患者家族に対する偏見も存在しており,この古来存在する偏見や差別意識が強固にあって,それが原因で偏見や差別行為がされている可能性が否定できない。このような偏見差別による損害は,ハンセン病隔離政策等とは無関係であり,原告らの主張する被告による作為義務違反の違法行為と因果関係がない。ウ
包括一律請求の可否
前記ア

のとおり,原告らとハンセン病患者との身分関係や生活状況,

収容により引き離された年齢,周囲の環境,原告らのハンセン病患者に対する感情等は,原告ごとに様々であって,この差異が家族関係形成阻害の程度に与える影響は少なくないから,一律に損害が生じたと認めることはできず,包括一律請求も認められない。

原告らは,請求原因における損害の要件(主要事実)を共通損害と主張し包括一律請求をしており,個別の被害体験に基づき各原告の損害及び損害額を認定することは許されない。

損害額
仮に,原告らに共通損害を認める余地があるとしても,前記ア

のとお

り,原告らの被害の状況は一様でなく,原告ら全員に一律の損害額を認め,同額の請求を認めることはできない。特に,原告らの主張する家族関係の形成阻害は具体的な損害であり,原告らは,家族であるハンセン病患者との身分関係,別居の有無及び期間,引き離された時期,自覚の有無などの様々な要素によって具体的な損害は異なるから,家族関係の形成阻害に一律の損害額を認めることはできない。
仮にそれでも認める場合には,その額は最も被害の少ない原告に合わせた額でなければならない。
謝罪広告の要否

原告らの主張を争う。
なお,被告がハンセン病患者に対しこれまでの隔離政策について謝罪をし,その名誉回復の措置を講じてきたものの,その家族に対し,謝罪,名誉回復の措置を講じていないことは認める。
3
消滅時効の成立
(被告の主張)
平成25年以降において被告公務員による違法行為がない場合の損害賠償
請求権の帰趨

損害賠償請求権の成立時期
厚生大臣及び厚生労働大臣が,原告らの主張する抜本的転換義務,家族被害回復に向けた作為義務を負い,法務大臣,文部大臣(文部科学大臣)及び国会議員も同様の作為義務を負い,原告らは被告に対し損害賠償請求
権を有していたとしても,遅くとも第1事件提訴の3年前に当たる平成25年2月14日の時点では,原告らに損害が発生する状況になく作為義務が消滅しており,同時点で違法行為は終了していた。
したがって,原告らの全損害に係る損害賠償請求権は,第1事件提訴時には成立から3年以上を経過していることになる。


不法行為を構成する加害行為及び加害者,損害を認識した時点(民法724条前段,国賠法4条)
前提事実第4の6

オ及びキのとおり,平成13年に熊本判決が確定し

たことを踏まえ,同年7月23日,ハンセン病療養所への入所歴のある患者らを対象として基本合意書Ⅰが締結され,平成14年1月28日には,ハンセン病療養所への入所歴のない者をも対象として基本合意書Ⅱが締結された。これらのことは全国的に報道されたから,これらの報道に接した国民は,被告がハンセン病患者らに対する責任を認めたことの延長で,ハンセン病患者家族の被害についてもその加害者が被告であり,ハンセン病
隔離政策等がハンセン病患者家族との関係でも違法行為(不法行為)を構成すると認識することができた。特に,原告らは,ハンセン病患者家族として,ハンセン病患者らに対する被告の対応に強い関心を抱くとともに,ハンセン病患者とその家族が一体となって被害者となった意識を有し,平成13年の熊本判決や各基本合意書の締結経緯について関心を有していたのだから,ハンセン病隔離政策等の違法性,ハンセン病患者家族もそれにより損害を被っていること,上記政策等の行為者が被告であることを認識していたことは明らかである。
そして,熊本判決や各基本合意書の締結が全国的に大きく報道されていることからすれば,①入所歴のあるハンセン病患者の家族である原告らは,基本合意書Ⅰの締結について報道がされた平成13年7月24日からそれ
ほど時を経ない時点で,②入所歴のない患者の家族である原告らは,基本合意書Ⅱの締結について報道がされた平成14年1月29日からそれほど時を経ない時点で,それぞれ報道等を介して上記各合意書の締結の事実を知ったものと考えられるから,その時点で,原告らは,被告によるハンセン病隔離政策等がハンセン病患者家族との関係でも違法行為(不法行為)
を構成することを認識した。
仮に,原告らのうちに上記報道に接していない者がいたとしても,各基本合意書に基づく和解一時金,または補償法に基づく補償金の受給に関わるなどして,報道に接した者と同じだけの認識を有していたはずである。そうすると,原告らは,遅くとも平成25年2月14日の時点では違法
行為(不法行為),損害及び加害者を知っており,原告らの損害賠償請求権は時効により消滅している。
被告公務員による違法行為が継続中である場合の損害賠償請求権の帰趨仮に,厚生労働大臣等の被告の公務員による違法行為(不法行為)が現在も継続しているとしても,継続的不法行為に基づく損害賠償請求権における
消滅時効については,通常,不法行為が継続する限り,消滅時効は被害者がこれを知るとともに日々新たに進行するものと解されている。
本件においても,原告らの損害は,全体を不可分一体のものとして把握しなければならないものではないし,また,原告らが被告の公務員の違法行為を知った時点で損害賠償請求権の行使を妨げられる事情もないから,原告らの主張する損害賠償請求権の消滅時効は被害者である原告らが損害を知るとともに日々新たに進行している。
仮に,新法が廃止されてそれによる隔離政策が抜本的に転換されるまでは被害が継続的かつ累積的に発生するため同時点までに生じた損害を不可分一体のものとして把握しなければならないとしても,新法廃止後は新法及びそれによる隔離政策が実施されていないのだから新法廃止後に生じた損害はそ
の前提が失われ継続的かつ累積的に発生することはなく,全体的に捉える必要がないから不可分一体の関係にない。言うなれば,新法廃止後は,集合的意識としての偏見が解消され未だ社会に残存する偏見差別により日々被害が発生しているものにすぎないから不可分一体のものとして把握しなければならないものではないし,前記2(被告の主張)


のとおり原告らの被害

は減少しており新法廃止以前の損害とは質的に異なる。
そうすると,原告らの主張する損害賠償請求権のうち,新法廃止以前の損害に係るものはそれまでの損害が不可分一体であっても既に消滅時効が完成し,同時点以降については,日々発生し全体として不可分一体になるわけではないから第1事件提訴の日の3年前の時点までに生じた損害に係るものは
消滅時効が完成している。
時効援用に対する信義則違反の主張の適否
原告らは,被告が時効の援用をすることをもって信義則違反に当たると主張する。
しかし,時効の援用が信義則違反といえるためには,時効の利益を受ける
債務者が,債権者による訴え提起その他の権利行使や時効中断行為を妨害し債権者において権利行使や時効中断行為に出ることを事実上困難にしたなど,債権者が期間内に権利を行使できなかったことについて債務者に責められるべき事由があり,債権者に権利行使を保障した趣旨を没却するような特段の事情がある場合に限られ,時効にかかる損害賠償請求権の発生原因事実が悪質であったこと,被害が甚大であったこと,事実関係が複雑であるとか,法律構成が困難であるとかの事情で単に債権者において権利行使や時効中断行為に出ることが事実上困難であったこと,債権者と債務者の社会的・経済的地位や能力等の差は,債務者が消滅時効を援用することを信義則違反とされる事情とはいえない。
本件において,原告らが時効期間内に権利行使等をしなかったことについ
て上記特段の事情は存在せず,信義則違反の主張をすることはできない。(原告らの主張)
平成25年以降において被告公務員による違法行為がない場合の損害賠償請求権の帰趨

損害賠償請求権の成立時期
被告は,遅くとも第1事件提訴の3年前には原告らに損害が発生する状
況になく作為義務が消滅し違法行為は終了しており,原告らの全損害に係る損害賠償請求権が成立してから3年以上を経過していると主張する。しかし,前記2(原告らの主張)

イのとおり,原告らの被害は時間の

経過とともに累積し拡大するものであり,薄れるようなものではなく現在まで減少も消失もしていない。したがって,被告の違法行為は現在も継続
している。

不法行為を構成する加害行為及び加害者,損害を認識した時点(民法724条前段,国賠法4条)
熊本判決及び基本合意書Ⅰは,療養所に入所経験のあるハンセン病患者
に対し和解一時金の支払義務を認めたものであり,その家族との関係で被告の加害行為や損害を認めたものではないから,原告らは,基本合意書Ⅰの締結時においても,損害及び加害者を知らなかった。
基本合意書Ⅱにおいては,確かにハンセン病患者家族に対する和解一時金の支払義務を認めているが,それは同家族がハンセン病患者の相続人であることから支払義務を認めたにすぎず,家族固有の損害を認めたものではなかったから,被告が原告らとの関係で加害者であるとの認識を原告らにもたらすものではなく,原告らは,基本合意書Ⅱの締結時点においても,損害及び加害者を知らなかった。そもそも被告は,基本合意書Ⅱの締結に至るまで,損害賠償請求権の相続を否定しており,基本合意書Ⅱの文言上も損害賠償請求権が相続できるものであることさえ明記していない。
そうすると,各基本合意書の内容によって,原告らが,自らの苦悩,精神的苦痛による固有の被害が被告の違法行為(不法行為)によると認識することは困難であり,各基本合意書の締結から,原告らが,固有の損害について被告に対し国賠法1条1項に基づき損害賠償請求することが可能であると認識することは不可能であった。原告らは,基本合意書Ⅱを締結し
てそれほど経ていない時期に被告を加害者と認識することもないし,被告の違法行為(不法行為)によって自らが損害を被っているとの認識もない。したがって,第1事件提訴の3年前に違法行為が終了し不法行為が成立していても時効消滅しない。
被告公務員による違法行為が継続中である場合の損害賠償請求権の帰趨
前記

アのとおり,厚生労働大臣等の被告の公務員による違法行為(不法
行為)が現在も続き,前記2(原告らの主張)ア及びイのとおり,ハンセン病患者家族である原告らは,現在も偏見差別にさらされ続け家族関係の形成が阻害されて社会内において平穏に生活する権利を奪われ,その被害は,むしろ時間の経過とともに累積拡大し,精神的負担は増大し続けている。例えば,配偶者に家族がハンセン病患者であることを秘して結婚した原告は,秘密を守るために嘘を重ねることで,罪悪感は増大するし,嘘のつじつまを合わせるために嘘を重ねることで,精神的負担は増大している。
このとおり,被告の公務員による違法行為(不法行為)は,現在も継続し被害は累積的に発生拡大し続けており,一連一体のものとして包括的に全体として評価すべきであり,その損害の一部を分断して評価することはできない。不法行為終了前に一部についての消滅時効が独立して進行しないから,原告らの包括的な全損害(共通損害)に係る損害賠償請求権は時効が進行していない。
時効援用に対する信義則違反の主張の適否
被告は,新法存続中はもちろん新法廃止後もハンセン病患者家族に対する
偏見差別が国策としてのハンセン病隔離政策等によって生じた被害であることを認めず,新法の規定による隔離政策の抜本的転換を行わなかった。その結果,現在においても,ハンセン病患者家族に対する集合的意識としての偏見が存在しており未だ解消されていない。加えて,被告は,同家族に対する謝罪を拒み続けているため,原告らに対するエンパワーメントが行われず,
その結果,原告らは,偏見差別を解消しようとする意欲や機会が奪われてきた。
また,被告が形成・強化してきた集合的意識としての偏見によって,社会を構成する国民から厳しい偏見,差別行為を受け,原告らは,薄氷を踏むような生活を強いられ,自らの権利行使をすることが事実上困難な状況に追い
込まれてきた。現に,原告らは,本件訴訟において,ハンセン病患者家族であることが知られると偏見差別にさらされることを理由としてハンセン病患者家族を秘匿するため閲覧制限等申立てをし,一部原告らを除いては閲覧制限等が認められている。
したがって,被告には,原告らの国賠法上の権利行使を事実上困難にして
きた責められるべき事由がある。
以上によれば,原告らに権利行使を保障した趣旨を没却するような特別な事情が存在すると認められるから,被告が消滅時効の援用をすることは背理的行為であって,信義則(民法1条2項)に反し,許されない。
第3章

当裁判所の判断

第1節

争点に対する判断の前提

前提事実,後掲各証拠,公知の事実及び弁論の全趣旨により,次のとおり認定
及び説示する。
第1

ハンセン病対策に関する知見の変遷

1
ハンセン病に関する国際会議の経過
ハンセン病に関する国際会議の経過は,その時々のハンセン病の医学的知見
やハンセン病政策の世界的傾向を知る上で参考になるので,以下,これについてみる。


戦前の国際会議について

第1回国際らい会議(明治30年,ベルリン)
ハンセンが明治7年にハンセン病の伝染説を発表した後も,伝染説はな
かなか学会の承認を得られなかったが,この会議でようやく伝染説が国際的に確立された。
この会議では,

らい菌は真の病原である。

生活条件と人体内への侵入経路は不明。恐らく人に対する侵入門戸は口腔及び鼻腔粘膜である。

社会的関係が悪ければ悪い程周囲に対する危険性が大である。

,らいは今日までこれを癒すあらゆる努力に抵抗した。従ってらい患者の隔離は,特に本疾患が地方病的或は流行病的に存在する地方では望ましい。ノルウェーにおいて隔離によって得られた結果はこの方法の徹底を物語るものである。ノルウェーと似た関係の場合にはらい患者の隔離は法律的な強制において遂行すべきである。とされた。
なお,りん菌の発見者でありハンセン病の伝染説の確立に貢献した細菌学者であるナイセルは,この会議において,らいは疑もなく伝染性であるがその伝染性の程度は而し顕著ではないし又各型によって異なって居る。(中略)総てのらい患者を一つの規格に従って取扱い隔離しようとすることは誤りである。(中略)総てのらい予防は一つの隔離,家庭からの分離から始まる。らいをその初期に絶滅させる事の出来る場所では規則は極端に厳重でなくてよい。と述べた。
また,ハンセンは,隔離がハンセン病患者を減少させることを強調しつつ,隔離の在り方について,もしらい患者が家庭に居るならば彼らは自分の寝床と出来るだけ自分の室をきめ,更に自分の食器をもつことが要求される。これ等のものと洗濯物は特別に洗われる。清潔に対する教育が主である。ただそこを支配する清潔によってらいは北アメリカでは蔓延しない。規則の守られない所では患者は療養所に来なければならない。と述べた。
さらに,他の参加者からは,

強制的に患者を引き渡し拘留すべき必要があるかどうか疑問である。

とか

隔離が唯一の方法ではない。

との意見も述べられた。


第2回国際らい会議(明治42年,ベルゲン)
この会議では,第1回国際らい会議の決議が確認された。そして,隔離は,患者の自発的施設入所が可能であるような状況(家族への生活援助等)の下で行うべきこと,隔離には家庭内隔離措置もあり,家庭内隔離の不可能な浮浪患者の施設隔離は,場合によっては法による強制力の行使もやむ
を得ないこと,らい菌の感染力が弱いこと,子供は伝染しやすいので患者の親から分離することが好ましいことなどが決議された。

第3回国際らい会議(大正12年,ストラスブルグ)
この会議では,①らいの蔓延が甚だしくない国においては,病院又は住
居における隔離は,なるべく承諾の上で実行する方法を採ることを推薦する,②らいの流行が著しい場所では,隔離が必要である,この場合,a隔離は人道的にすること,かつ,十分な治療を受けるのに支障のない限りは,らい患者を,その家庭に近い場所におくこと,b貧困者,住居不定の者,浮浪者その他習慣上住居において隔離することのできない者は,事情により病院,療養所又は農耕療養地に隔離して十分な治療を施すこと,cらい患者により産まれた子供は,その両親より分離し,継続的に観察を行うこ
となどが決議された。
また,この会議では,伝染性患者と非伝染性患者とでハンセン病予防対策を区別する考え方が主張された。

国際連盟らい委員会(昭和5年,バンコク)
この委員会の報告では,治療なくして信頼し得る予防体系は存在せず,
隔離がハンセン病予防の唯一無二の方法ということはできないとして,予防対策としての治療の重要性が強調された。また,右報告では,隔離は伝染のおそれがあると認められた患者にのみ適用すべきであることが明記された。なお,同委員会が昭和6年に発行したハンセン病予防の原則は,右報告と共通の考え方を示した上,隔離には患者の隠匿を促進し診断・治
療を遅らせる欠点があることを指摘し,感染性がない患者や発病初期の患者に対して,可能な限り,外来の治療施設で治療されるべきであるとした。オ
第4回国際らい会議(昭和13年,カイロ)
この会議では,感染性患者の施設隔離について,強制隔離から徐々に自発的隔離へ推移している国もある。(中略)ある国家では強制隔離がなお実施され,推奨さるべきものとして認められている。このような所では,患者生活の一般的条件は自発的隔離の場合とできる限り同様でなければならず,合理的退所期も保証されねばならない。(中略)自発的隔離組織の国家では衛生当局が公衆衛生に脅威であると思われるらい患者の隔離を強いるよう力づけすることを勧告する。とされた。また,感染のおそれに
ついては,

らい者と共に働く者でも,感染に対し合理的注意を払えば殆ど感染しないという事実を歴史は示している。

とされた。⑵

戦後の国際会議について

第2回汎アメリカらい会議(昭和21年,リオデジャネイロ)
この会議において,ファジェットは,スルフォン剤であるプロミン及び
ダイアゾンの治療効果に関する研究成果を報告した。これによれば,プロミンあるいはダイアゾンの投与を受けた患者は,6か月の治療で25%,1年で60%,3年で75%,4年で100%が軽快し,4年間の治療で50%以上が菌陰性となるという画期的なものであった。この会議では,スルフォン剤の評価について最終的見解を出すには更に時間を要し多くの
症例を見る必要があるとされたが,ファジェットの研究成果が高く評価されたことは間違いのないところである。

第5回国際らい会議(昭和23年,ハバナ)
この会議でも,スルフォン剤の著効が確認され,

1946年リオデジャネイロ会議における意見乃至この国際会議を通じて,1938年のカイロ会議以来らいの治療に目覚ましい進歩が見られるに至ったことは明白な事実である。

,らいの治療薬として選出できるものはスルフォン剤であるとされた。また,この会議でDDSの有用性についての報告がなされた。

ハンセン病対策については,らいの対策としては,(1)らい療養所(2)診療所-外来の臨床治療,(3)発病予防所等の根本的機関の提携した活動が必要である。(中略)らい療養所とは(a)らい伝染性患者,(b)社会的,経済的事情により非伝染性患者の両者を隔離するところである。(中略)らい療養所の存在位置は交通の便利な都市間の中央近くがよい。最も近い都市から半径10~30km内が好ましい。患者を特別な小島に隔離する事は無条件に責められるべきである。,

施薬所又は外来診療所この両者ともらい管理には欠くべからざる重要性をもっている。これは交通の便利な,しかも人口密度の高い地域に設けるべき

伝染性のらい患者は隔離する。隔離の様式及び期間等は患者の臨床的,社会的条件又は特殊な地方的条件等によって異なる。

非伝染性の患者は隔離することなく,一定の正規な監視下におく。

らい患者及びその家族の社会的援助は対らい政策に基本的必要性を占めるものである。(中略)らい療養所を退所できる患者に社会復帰上の援助を与えること。

とされた。また,

らい患者及びその家族の社会的援助は対らい政策に基本的必要性を占めるものである。それ故に政府並びに慈善団体はこのような援助を提供する責任を負うべく推奨する。

らい患者の家族が社会において追放の恐怖にさらされることのない地位を保持できるようにせしめること。

とした。(甲D59・201頁)ウ
WHO第1回らい専門委員会(昭和27年,リオデジャネイロ)
この委員会には,世界を代表するハンセン病学者が参加し,DDSを始
めとするスルフォン剤の治療効果が確認され,これを踏まえてハンセン病対策の在り方が議論された。
スルフォン剤治療
a
総論
委員会は,スルフォン剤治療が嘗ての如何なるらい治療形式よりも非常に優れていると云う意見については異論がない。(中略)ほとんど全てのらいはスルフォン剤治療に良く応ずる。(中略)スルフォン剤は,細菌に作用するものと信じられており,これは細菌の増殖を阻止する様に思われる。又斯くして,人間の体の感染に対する防護力が細菌の侵入を押える事が出来る様な程度に迄,らい菌の感染力を徐々ではあるが減少せしめるのである。らい菌の伝染力が根絶されてしまうかどうかは,疑わしい事であるので,それ故にらいの再発の可能性は考えられる。スルフォン剤治療を中止した後に起るらい再発に関するデーターは少ない。この再発の危険性について正確な評価を下す事はまだ可能でない。(中略)スルフォン剤の使用が行われて以来11年になり,らい治療の成績は非常に進歩した。この治療は全ての病型について,らいの活動性の症例に使用して偉大な価値を示したのである。b
スルフォン剤の基礎となるDDSをもってする治療について
DDSそれ自身が人体に使用されるとき,毒性が強すぎると今迄長い間信じられて来た。らいに対する1000例からの,4年以上に亘る数カ国における治験の結果によると,若しもその量が適当に整えられて使用されるなら,考えられていた様な危険はない事がわかった。(中略)DDSの少量を用いる事は,一般にDDS以外の誘導体を多量に用いる場合に比して治療効果が決して少ない事はないと云うことである。DDSは多くの長所をもっている。即ち,その価額の安い事,その使用法の非常に簡単な事,これは普通経口的に投与出来る事,然し若しも希望なら注射でも投与出来る事,毎日の投与は必ずしも必要ではない事,即ち,1週間1回投与か,週2回投与の治療が広く用いられ,それ故,患者が治療センターより遠い所に住んでいる様な所では,その投与は薬の効果を長く保つために油の中にDDSを懸濁液として月2回法で注射も行う事も出来る。この様なわけで,多くの所で,特に大規模に仕事をしたり集団治療をする場合には,DDSは非常に利用価値が大である。らい管理
らいと云う病気は,それだけ単独で扱う病気ではない。特にその流行地においては,一般の公衆保健に関する問題である。(中略)らい管理に関して政策を決定するのはあく迄公衆の保健衛生の立場からであって,決して公衆の恐怖とか偏見から行われるのであってはならない。a
管理方策としてのらい治療

現代のらい治療は,患者の伝染性を効果的に減少せしめ,患者を非伝染性に変えてしまう。それ故にこのらい治療と云うものはらい管理に最も有力な適した武器として好んで利用されているのである。

b
隔離
理論的には伝染性のある症例を隔離する事はらい伝染の絆を断つものであって,結局らい根絶の結果をもたらすものではあるが,実際には多くの症例は,らいと診断され,隔離される前の数年間と云うものは他人に対して伝染性をもっていたものである。患者の強制隔離への恐怖は,患者をしてますます出来るだけ長い間一般社会に隠れていようとさせるもので,それが皮肉にも病気の治癒が可能である期間中隠れている様な結果になってしまう。従って,施設に隔離する事のみが,期待する様な結果をもたらすものではなく,厳しく隔離を適当な規模で行った時でさえ,管理方法として失敗する事があるのである。然し適当な症例を撰んで,これを行い,又患者によく話して説得を行い,効果的な治療を併せ行うならば,らい行政において,これはなお重要な意味を残しているのである。隔離に関しては,らい管理の見地からして,病症を二つに分ける事が必要となって来る。(中略)伝染性の症例のみ隔離の形式に従う必要がある。伝染性らいに対する隔離の程度,隔離のよい規準,適用する強制力の度合等は,国や地方によって異つて来る。らいが流行地でない様な所や,らいが拡がる傾向のない所では,らい患者に対して何等かの監視が必要であると云う届出制度をとって,治療を行って行けばそれでよい。⒜

強制隔離
らいが高度に流行しているが,然し,その国の資源が少なくて,施設内の治療を行うに適していない様な国においては,義務的な隔離は不可能である。然し,この様な場合にも,必要な時,可能な時には何でも適用するために強制隔離の法的な力を残して置く事は,保健当局にとって得策である。資源が充分あり,らいが流行している様な国においてさえ,強制力は説得と云う方法が失敗した時にのみ適用すべきである。(中略)伝染病のらいを,或る施設に強制隔離する事は理論的に効果的な事であるが,実際には非常に好ましくない事である。と云うのは,それは,屡々患者の家族を別々に分離させ,家庭をやぶり,不時の生活不能者を作る事になるから。斯る事に対する患者の恐怖と,或る施設に長く止らねばならない事,又嘗つて施設に居たと云う事だけで汚名がつく事を考えると,ますます患者は己れのらいである事を隠し,その結果,治療を何時迄も受けない事になり,接触者に対してかえって危険をもたらす様になる。らいの軽快の機会を以前にまして与えるようになった最近のらい治療の目覚ましい効果を考えると,強制隔離に関する実施については再考慮を必要とする。⒝

乳幼児に対するらい予防
らいの流行地においては,らいが一般に乳幼児において,それ以上の年令の者に比べて伝染し易いと云う意見は,すでに一般に認められている事で,それだけに伝染の恐れがあると思われる乳幼児に対しては特別の注意がはらわれ,彼等をらいと接触させないようにまもる必要がある。このためには,隔離と云う方法で患者を移すとか,子供の方を患者から離すとかすべきである。エ
第6回国際らい会議(昭和28年10月,マドリッド)

この会議では,第5回国際らい会議以降のスルフォン剤の追試報告が数多くなされ,副作用や再発についての報告も現れているが,基本的にはスルフォン剤の治療効果が高く評価され,一般的に観て,全ての病型を含むらいの治療においてスルフォン剤の効力は確定的なものとなって来た,スルフォン剤は過去12年間の臨床実験の結果,過去における他の如何なる治療薬より効果的であると云う証明がなされているとされた。そして,DDSを用いた在宅治療の可能性が再び強調された。
なお,この会議では,

殆ど凡ての研究家がスルフォン剤を好んで使用し,大風子油を放置している。

とされた。オ
MTL国際らい会議(昭和28年11月,ラクノー)
この会議は,イギリスのMTL(ミッション・ツウ・レパー)と米国のALM(レプロシーミッション)主催の合同国際会議であり,ハンセン病医学の世界的権威が集った。
この会議では,

らいは個別的疾病ではなく,らい流行地においては一般的公衆衛生上の問題である。恐怖及び偏見のない公衆衛生の原理にもとづいてらい管理政策を樹立せねばならない。

開放性らい患者の隔離は必要と考えられるが,かかる隔離は専ら自発性に基くものであらねばならない。然し時には当局の権力を必要とするかも知れない。

特殊ならい法令は廃止され,らいも一般の公衆衛生法規における他の伝染病の線に沿って立法されることが望ましい。

,社会復帰態勢は,患者が施設に入所した当時から,彼の能力,可能性,予後を判断して,開始されなければならないとされ,①強制収容を廃止し,施設入所は患者の合意の下で行うこと,②施設入所は治療を目的とした一時的なものとし,軽快者を速やかに社会復帰させること,③外来治療の場で引き続き十分な治療を行
うこととし,療養所だけでなく,一般病院,保健所や一般医療機関でも外来治療を行えるようにすることが強調された。

WHO編近代癩法規の展望(昭和29年)
近代癩法規の展望は,WHOが昭和29年に各国のハンセン病に関する法制度をまとめたものである。なお,新法は検討対象にされていない。この報告は,癩隔離の如き,峻烈にして類のない個人の自由の拘束が,医学的,公衆衛生的な理由によって実施されている処では,この問題は定期的に再検討を要する。(中略)現在われわれの持っている本病に関する知識に照らして,若干の現行施策は,その正当さを証明することがむつかしく見えるばかりでなく,或るばあいには,例えば結核よりも伝染性がずっと少いという伝染性に関する事実とは反対の施策であるようにも思える。更にまた,衛生上の初歩的規則が守られている処では,療養所の職員には伝染の危険は殆んどないし,このことは癩患者の配偶者にも当てはまるということも確かなようである。これに関連して注目に値することは,大多数の他の伝染性疾患と異って,未だ実験的感染に成功していないことである。(中略)過去数10年間に或る国々で採られた対策を検討すると,次のような矛盾が見られる。隔離政策がどちらかといえば自由な所では,癩は減少し殆ど全く消失しているのに,一方,峻烈な対策が採られたにも拘わらず癩の発生は余り又は全く変りがない所がある。として,隔離政策の正当性・有効性に疑問を投げかけている。

らい患者救済及び社会復帰国際会議(ローマ会議,昭和31年)
マルタ騎士修道会によって開催されたこの国際会議では,らいが伝染性の低い疾患であり,且つ治療し得るものであるとして,次の決議をした。
a
らいに感染した患者には,どのような,特別法規をも,設けず,結核など他の伝染病の患者と同様に,取り扱われること。従って,すべての差別法は廃止さるべきこと

b
(前略)啓蒙手段を,注意深く講ずること
a
病気の早期発見及び治療に対し,種々なる手段を講ずること。患者は,その病気の状況が,家族等に危険を及ぼさない場合には,その家に,留めておくべきこと(以下略)

b
(前略)入院加療は,特殊医療,或は,外科治療を必要とする病状の患者のみに制限し,このような治療が,完了したときには,退院さ
せるべきであること
c
児童は,あらゆる生物学上の正しい手段により,感染から,保護される可きこと(以下略)

d
各国政府に対し,高度の身体障害者の為に,厚生省,農林省,文部省等の政府機関を通じ,彼等の保護及び,社会復帰に関し必要な道徳
的,社会的且つ医学的援助を与えるよう奨励すること(以下略)
なお,元全生園所長で昭和30年から平成5年まで療養所において医療に従事し,元日本らい学会会長でもある成田は,東京地方裁判所で実施された証人尋問において,差別法の撤廃や社会復帰の援助を提唱したこの会議は極めて重要な意義を有している旨証言した。


第7回国際らい会議(昭和33年,東京)
この会議では,ハンセン病治療におけるスルフォン剤の優位が変わらないとの認識の下,ハンセン病予防には患者の早期発見・早期治療,外来治療の整備が重要であることを指摘し,

外来患者治療に必要な病院は,患者の大部分がくるのに便利な位置に置くべきであり,また適切な病院数が必要である。

とされた。そして,社会問題分科化会においては,

政府がいまだに強制的な隔離政策を採用しているところは,その政策を全面的に破棄するように勧奨する。

,病気に対する誤った理解に基づいて,特別ならいの法律が強制されているところでは,政府にこの法律を廃止させ,登録を行っているような疾患に対して適用されている公衆衛生の一般手段を使用するようにうながす必要があるとの決議がなされた。この会議の報告には,菌を排泄し,隔離に対して満足な条件が他人に対して保てないような患者では,これを収容所へ隔離する要求を行いうる権力を衛生官はもっているべきであるとの部分もある。なお,この会議では,子供に対する家庭内感染を防止するために,未感染の子供の方を患者から遠ざける方策を採ることが勧告されている。
ところで,小沢龍厚生省医務局長は,この会議において,現在の患者数が明治37年の実態調査時と比較して約2分の1に減少し,入院患者,在宅患者とも高年齢となり,日本におけるハンセン病の流行が極期を過ぎたとしながら,まだ在宅の未収容患者が相当あり,これらが感染源となっているので早期に収容することが望まれると発表した。この報告につい
て,大谷は,その著書の中で

日本だけが隔離こそ唯一のハンセン病対策であるとして,未だに日本の完全隔離主義を間違って誇っていたのだ。

と指摘する。

WHO第2回らい専門委員会(昭和34年,ジュネーブ)
この委員会の報告(報告書は昭和35年に発行)では,①従来のハンセン病対策が患者隔離に偏っていたため,療養所の運営,経営に終始していたものを廃し,一般保健医療活動の中でハンセン病対策を行うこと(インテグレーション),②したがって,ハンセン病を特別な疾病として扱わないこと,③ハンセン病療養所はらい反応期にある患者や専門的治療を要す
る者,理学療法や矯正手術の必要な後遺症患者等の治療のため,患者が一時入所する場であり,入所は短期間とし,可及的速やかに退所し,外来治療の場に移すこと,④家庭において小児に感染のおそれのある重症な特別なケースは治療するために一時施設に入所させることがあるが,この場合も,軽快後は菌陰性を待つことなく,可及的速やかに外来治療の場に移す
こと,療養所入所患者は最小限度に止め,らいの治療は外来治療所で実施するのを原則とすることなどが提唱された。そして,当委員会は,近時の諸会議における次の見解を強く支持する。すなわち,らいは他の伝染病と同じ範疇に位置付けられるべきであり,そうしたものとして公衆衛生当局によって扱われるべきである。こうした原則に適合しない特別の法制度は廃止されるべきである。とされた。コ
第8回国際らい会議(昭和38年,リオデジャネイロ)
この会議では,

この病気に対する誤った観念は,らい患者とその家族に苛酷な,不当な刑罰を課し続けている。

この病気に直接向けられた特別な法律は破棄されるべきである。一方,法外な法律が未だ廃されていない所では,現行の法律の適用は現在の知識の線に沿ってなされなければならない。

無差別の強制隔離は時代錯誤であり,廃止されなければならない。

とされた。2
ハンセン病の医学的知見の変遷


感染・発病のおそれについて
ハンセン病が感染し発病に至るおそれの極めて低い病気であることは,前
提事実で既に述べたとおりであるが,このことがその時々においてどの程度認識されていたのかについて,以下検討する。

国際的知見
ハンセン病が感染し発病に至るおそれの極めて低い病気であることの国際的知見は,前記1に記載のとおり国際会議に表れたほかに,ハンセン病
が感染しにくい病気である旨が次のとおり論文として発表されている。ウルバノビッチは,明治35(1902)年に発表した論文メーメル地方におけるこれまでのらい治療経験についてにおいて,らいが接触伝染をすることは,今日では全く確実とみることができる。少数の例外はあるが,らいは貧困な人たちの病気である。これは伝染が起こりにくいので,その実現には過密居住による密接な接触が必要だからである。旨論じた。キルヒナーも,昭和39年に発表したらいの蔓延と予防において,

らい菌は人体外では比較的急速に死滅するので,かなり長期にわたる接触によってのみ感染が成立する。

旨論じた。イ
国内的知見
戦前の文献等

a
ドルワール・ド・レゼー神父の見解等
私立療養所院長である神山復生病院長のドルワール・ド・レゼー神父は,明治40年,その著書の中でハンセン病の伝染力が微弱である旨記述しており,ハンセン病治療に関わった多くの人々が,経験的に,ハンセン病が伝染し発病に至るおそれの低い病気であることを認識し
ていたことは想像に難くない。
b
保養園所長中條資俊の見解
保養園所長中條資俊は,昭和9年に発表した論文癩伝染の徑路に就てにおいて,軒並である一方は癩家族他方は非癩家族であった場合に,此両家が血縁でない限り,非癩家族の方に癩の現れた例はないと見られてる様なことや癩と非癩者の夫婦の場合(中略)判然と伝染を起した実例に乏しいことなどを挙げて,癩の伝染力が極めて弱い,癩患者と接触しても,感受性即ち素因の有無に依って伝染を受けると否との別があり,それは恰も物体に可燃質と不燃質があると同じ様に考へられるとし,さらに,癩の隔離は伝染力の微弱なるに鑑み厳格に失せざる様施設すべきであると論じた。c
日戸の見解
日戸は,昭和14年に東京医事新誌に発表した論文癩と遺伝に
おいて,生長した人間の大部分は,癩といかに密接に接近しやうと大概は未感染に終る。例へば癩療養所に於ける医師,看護婦は未だ嘗て癩に罹患したことはなかったし,癩の家族或は夫婦についても癩に結婚後感染したと思はるやうな例は実に稀である。,

夫婦感染なぞの率の低さは全く話にならない。五百組の夫婦について高々三-四%に過ぎない。

などとして,ハンセン病の感染ないし発病に免疫や体質が影響を与えている可能性を示唆し,さらに,ダニエルセンらによる人体接種の試み(前提事実第2の5)に言及して

いかに癩が感染し難いかといふ歴史にとどまっている。

と論じた。d
小笠原の見解
京都大学皮膚科特別研究室主任の小笠原助教授は,昭和9年に発表した論文癩の極悪性の本質に就てにおいて,

癩の伝染性が甚だ微弱である事は,我が国の専門家の多くが認めるに至った所である。結核に比すれば比較し得られぬ程に弱いと考へなければならぬ。

と記述した。また,同人の論文癩に関する三つの迷信にも,ハンセ
ン病の感染力が微弱である旨の記述がある。さらに,同人は,昭和10年の第8回日本癩学会において,

癩の如き微弱な伝染病に於ては,病原体の問題よりも感受性の問題が重大である。予はこの条件の最も主要なものの一として,栄養不良の影響の下に築き上げられた体質を考へて居る。

旨論じた。隔離政策を批判し続けた小笠原は,昭和16年の第15回日本癩学会において,同人のいわゆる佝僂病性体質論が否定されるなど,同人の隔離政策否定論は徹底的に攻撃を受け,賛同を得られなかった(甲
A2・113頁)。しかし,この学会で小笠原を攻撃した村田正太も今頃癩の伝染力をさ程に強いと思っている者はいないと述べたと
されている。
戦前の内務省の認識
a
内務省衛生局長窪田の答弁等
当時の内務省衛生局長窪田は,明治40年2月26日,癩予防ニ関スル件の貴族院における質疑において,次のとおり答弁した。すなわち,触接性ノ伝染病ト云フコトニナッテ居リマスガ,乞食ナドガ局部ヲ…患部ヲ暴露シテ居リマス所ヲ通ッタト云フ,其クライノコトデ直グ感染スルト云フモノデハナイ,矢張リ直接若クハ間接ニ其患部ニ触レルトカ,或ハ患部ニ触レタ紙キレ…布片デアルトカ云フヤウナモノガ,コチラノ体ニ触レルト云フコトニ依ッテ伝染ヲスルコトニナッテ居リマス,唯空気ガ飛ンデ来ルト云フ訳デ無イヤウナ趣ニ承知シテ居リマス,此伝染ノ力ト云フモノハ直グサウヒドク飛ンデ来テ伝播スルト云フモノデハアリマセヌ,緩慢性ナル趣デアリマスガ,併シ其病気ガ緩慢ダケニ又根柢ガ甚ダ深イ,其点ニ於テハ最モ注意スベキモノデアルト云フヤウニ承知イタシテ居リマスと述べた。また,同人は,昭和11年に発表した論文において,

伝染病には相違ないが,思ふに体質に依って感染する差異を生ずるので,伝染力は強烈なものではない。古来遺伝病と考へられた所以もその辺に存るのであらうと思うた

と論じた。
b
内務省衛生局長赤木の答弁
当時の内務省衛生局長赤木は,昭和6年2月14日,貴族院における旧法の質疑において,次のとおり答弁している。すなわち,此癩菌ト申シマスモノハ非常ニ伝染力カラ申シマスレバ弱イ菌デアルヤウデアリマス,従ッテ癩菌ニ接触シタカラト言ッテ,多クノ場合必ズシモ発病スルト云フ訳デハナイノデアリマス,例ヘバ夫婦ガアリマシテ,一方ガ癩患者デアルニモ拘ハラズ,其配偶者ハ長イ間一緒ニ居ッテ罹ラナイ,斯ウ云フモノモアルヤウデアリマス,(中略)殆ドソコニナカッタモノガポツント出テ来ル,斯ウ云フコトガアルノデアリマス,ソレ等モ矢張リ癩ニ罹リ易イ体質ヲ持ッテ居ル者ガ,何等カノ機会ニ於テ癩菌ニ接触シタト,斯ウ云フコトデナケレバ理論ガ立タナイヤウデアリマスと述べた。c
癩の根絶策
内務省衛生局が昭和5年10月に発表した癩の根絶策にも癩菌の感染力は弱くと記載されていた。戦後の医学書

a
日本皮膚科全書第9巻第1冊(佐藤三郎ら著・金原出版株式会社昭和29年発行)
この書籍は,

癩の伝染は他の伝染病に比して遙かに弱く,而も個々の場合で非常に違う。幼児期の長期に亘る密接な接触が感染の最好条件となる。併し比較的短期の一寸した接触で感染することもあり得る。

,重症者と長期に亘り同居しながら感染しなかった例は数多く知られ,

接触が最密である夫婦間の感染が存外少いのも衆知の事である。

としている。また,貧困で不衛生な雑居生活が癩の伝播に好都合なのはハンセン以来指摘された処で,宮崎,高島は今次の太平洋戦争と癩発生との関係を論じ,殊に宮崎は潜伏又はそのままの状態で発病迄に至らなかったかも知れない状態の人が戦争と云う困難な状況下に遂に発病に至ったと断じているとしている。さらに,ハンセン病に何等か罹患し易い素質の存在が考えられるとし,遺伝的素因の存在を肯定する国内外の見解を多数紹介した。なお,ハワイのナウル島などにおける大流行については,癩が離島殊に熱帯地方の癩処女地に入った時の急速な流行例として紹介した。b
細菌学各論Ⅰ(秋葉朝一郎ら編集・株式会社南山堂昭和30年発行)この書籍は,らい菌の培養,動物実験,人体接種試験がいずれも成功の域に達していないことを指摘し,本菌は体外にては抵抗力の極めて微弱なものであるとした。ただ,隔離については,

癩は癩者を中心として起る。それ故その撲滅は隔離に惹くはない。それはノルウェーで既に実験済みである。

と結論付けた。c
内科書中巻(沖中重雄改訂・株式会社南山堂昭和31年改訂第24版発行)
この書籍は,

昆虫あるいは器具等の媒介によることは極めて少い。(中略)本病の感染には本病患者と永く共棲することが最も必要な条件である。貧窮・不潔,その他の非衛生的生活は,その誘因となる。

,一般の衛生的規則を厳重に施行すれば,本病の伝染は余り恐るるに足らない。これは医師並びに看護婦の感染例がまれなことから見ても明らかである。本病患者の小児は出産と共に母から隔離しなければならない。本病患者は初期の者でも,直ちに癩病院に隔離して適当に治療することが最も必要である。とした。なお,現代内科学大系感染症Ⅱ(黒川利雄代表監修・株式会社中山書店昭和34年発行)の書籍のハンセン病予防についての記述は,右内科書中巻の一般の衛生的規則を以下の記述とほとんど同じであ
る。

d
らい医学の手引き(昭和45年発行,当時の愛生園所長高島重孝監修)
この書籍は,現在までに報告されたらい菌の人体接種実験は,その大半が陰性であり,日本の60年に及ぶ歴史をもつ各地のらい療養所から,職員が感染して発病したという症例はほとんどないことをみても,らい患者との単なる直接間接の接触による発病はきわめて稀であって,らいの伝染発病力は-少なくとも成人に対しては一般に考えられているほど強くはない。とした。また,1900年からの30年間に患者総数は約1/3に減少していたとし,日本のらいに対する絶対隔離政策は,1931年のらい予防法改正と共に行われたが(中略)絶対隔離政策はまさにナンセンスであり,らい患者の減少にあずかって力があったのは,文化的生活水準の向上ということになろう。(中略)①らいは不治でなく,②変形は単なる後遺症に過ぎず,③病型によっては伝染の恐れが全くないばかりか,④乳幼児期に感染しないかぎり発病の可能性はきわめて少ないことが明らかな現在では,らい予防法に旧態依然としてうたわれている隔離が,問題視されるのも当然である。とした。戦後の厚生省の認識
a
厚生省公衆衛生局長山口の答弁
山口は,昭和28年7月3日,衆議院厚生委員会の答弁で,らい菌
の伝染力,病毒力について,

強弱いろいろ議論があるところでございます。ただ,一旦これに感染いたしますと,現在の医学をもっていたしましては,これを根絶せしむることがなかなか困難な状況なのでございまして,その治療に長期日を要する

との認識を示し,同月8日,参議院厚生委員会の答弁で,ハンセン病について,①ハンセン病
は,患者の病巣かららい菌が発見され患者以外の者からは発見されていないことから,学問上らい菌の伝染による伝染性疾患であるとされていること,②らい菌の純培養ができておらず,血清学,細菌学上は証明させていないが,それでも上記①に基づきらい菌による伝染性疾患であると認識していること,③フィリピンなど各国における統計調
査によれば,患者に接触している集団からの患者発生率は,病型により異なり,菌を非常に多く排出する結節性らい患者に接触している集団と,菌を余り排出せずしても程度の少ない斑紋性らいの患者と接触する集団との間にははっきりとした差があること,④患者から生まれた子をそのまま親と生活させると相当多数の子がハンセン病を発症す
るが,出生後直ちに親と隔離して育てると殆んど発病しないこと,⑤ハンセン病は,接触伝染,直接伝染と考えられているが,間接伝染の可能性も十分にあること,⑥発症に至る潜伏期間は,感染した時の年齢によると考えられており,年齢が若くして感染すると潜伏期間は短く,年齢が高くなると長くなるが,せいぜい5年から8年のものが多いと言われているとの認識を示した(甲D102,甲D104)。b
厚生大臣山縣の答弁
山縣は,同月2日,衆議院厚生委員会における新法の質疑において,入所勧奨の説明として,患者の療養所への入所後におきまする長期の療養生活,緩慢な癩の伝染力等を考慮いたし,まず勧奨により本人に納得を得て療養所へ入所させることを原則といたしと答弁した。
c
曽田局長は,昭和29年,竜田寮事件を取り上げた衆議院厚生委員会において,ハンセン病に感染していたとしても,発病前や発病初期に感染源となることはほとんどなく,保育所にいるハンセン病患者の子から他者に感染することがないと発言しており,当時,ハンセン病を発病していないハンセン病患者家族から感染することはないと理解されていた。また,同年,参議院文部委員会において,当時療養所長
であった宮﨑は,保育所児童はハンセン病を発病しておらず,ハンセン病を発病していないハンセン病患者の子が感染源になることはないと断言した。(後記第2の7

エ)

小括
以上のとおり,ハンセン病は,一般的に感染し発病に至るおそれが極めて低い病気であることは,明治30年の第1回国際らい会議以降,国内外で医学的に認められてきたところ,内務省及び厚生省も赤木局長の答弁にみるとおり,感染から発病に至る可能性の低い認識を示し,その認識は新法制定の頃にやや保守的であったものの,竜田寮事件に関連した曽田局長
の説明及び後記

の厚生省による,らいの現状に対する考え方で表明

された内容を踏まえれば,昭和30年代の中頃には,国内外の医学界と同様の認識にあったということができる。


スルフォン剤(プロミン)の医学的評価について

スルフォン剤(プロミン)の国際的評価
プロミンがハンセン病に著効を示すとのファジェットの報告は,第2
回汎アメリカらい会議(昭和21年)において高く評価された。しかしながら,この時点では,プロミンの試験が世界各地で十分に行われていなかったこともあって,プロミンの評価について最終的見解を出すには時期尚早であるとの慎重論にも一定の支持があった。
第5回国際らい会議(昭和23年)においては,プロミン等のスルフ
ォン剤によりハンセン病治療に目覚ましい進歩があったとされ,プロミン等のスルフォン剤の国際的評価はより進んだものとなった。
また,この会議までには,DDSも,世界各地で試され,懸念されていたほどの副作用もなく,少量でプロミンに劣らぬ著効が認められることが確認されるようになっていた。

WHO第1回らい専門委員会(昭和27年)の報告において,スルフォン剤によるハンセン病治療が他のいかなる治療形式よりも非常に優れており,ほとんどすべての病型に効果的であるとされ,スルフォン剤の国際的評価がより高まった。また,この報告では,DDSについても高い評価がされ,外来治療の可能性を拡げるものとして,非常に利用価値
が高いとされた。もっとも,同報告において,らい菌の伝染力を根絶させるかどうかは疑わしく,再発の可能性が考えられ,再発の危険性について正確な評価を下すことはまだ可能ではないとされた。
MTL国際らい会議(昭和28年11月)においても,世界の医学者の間では,スルフォン剤の真価は10年の経過を見ないと分からないと
の意見が少なくなかった。
しかしながら,上記報告の後の国際会議でも,スルフォン剤の高い評価は全く動かず,スルフォン剤治療の実績が積み重ねられ,世界各地でスルフォン剤が使用されるようになってから10年以上が経過した昭和31年頃には,ハンセン病治療における位置付けはますます確実なものとなった。なお,このようにスルフォン剤による治療の確立が進むにつれ,強制隔離を否定する傾向が次第に顕著になっていき,特に,ローマ
会議(昭和31年)以降においては,ハンセン病に関する特別法の廃止が繰り返し提唱され,第8回国際らい会議(昭和38年)では,無差別の強制隔離は時代錯誤であるとまでいわれるようになった。

スルフォン剤の日本国内における評価
昭和21年,GHQのサムス公衆衛生部長により,ファジェットのプロミン等に関する文献が日本のハンセン病医療関係者に紹介されたことを契機に,日本国内でもプロミン等による治療が開始された。そして,昭和22年11月の第20回日本らい学会において,愛生園,楽泉園及び東京大学におけるプロミンの研究報告がされ,いずれもプロミンの治
療効果を認めた。また,昭和23年,昭和24年の日本らい学会においても,プロミンの治療効果を認める報告が続いた。
さらに,昭和26年4月の第24回日本らい学会において,『プロミン』並に類似化合物による癩治療の協同研究が発表され,プロミン,プロミゾール及びダイアゾンが極めて優秀な治療薬であると認められ
た。
ただ,この時点においては,再発の可能性を検討するために少なくとも10年の経過を観察する必要があるとして,スルフォン剤の評価になお慎重な意見が学会内では根強かった。
しかしながら,日本国内でプロミンの治療研究が開始されてから10
年を経過した昭和31年頃以降も,国内におけるスルフォン剤の優位性は揺るがず,スルフォン剤の評価が見直されたとか,見直さなければならない状況にはなかった。
最も懸念された再発についてみても,昭和35年までの再発率は,L型のせいぜい10%前後であったことがうかがわれる。再発の原因も,不規則服用等様々なものがあって,スルフォン剤の治療効果に限界があることを示すものばかりとはいえなかった。また,再発後の治療も多く
の症例についてそれなりの成果を上げることができており,昭和30年代に再発の問題がスルフォン剤の評価を根本的に見直さなければならないようなことはなかった。
他方,厚生省の認識としては,当時公衆衛生局長であった山口が,昭和28年7月8日,参議院厚生委員会の答弁で,①現在用いられている
治療としては,スルフォン系統のプロミンが多く使われるようになり軽快率が非常に高まったこと,②非常に軽症の場合,鼻汁の中の菌が1か月で消滅をはじめ,鼻粘膜の中の菌は6か月位から消滅を始めること,③重症の場合には簡単に快方に向かわないこと,④いずれにしても,結節らいは7,8割軽快すること,⑤このとおり,プロミンは目覚ましい
効果が確認されているが,プロミンが菌の発育を阻止する性質のものであることからそれで全治に至るのかについては学問的に疑問であるとの認識を示した(甲D102)。
しかし,その厚生省も,後記アのとおり,昭和39年には,らい治療薬の発達により,早期治療を行なったものについては,変型に至るも
のが少く,また,菌陰性になるまでの期間も随分短縮されてきた,との認識を示している。
昭和30年代以降の国内の医学的知見

厚生省公衆衛生局結核予防課は,昭和39年3月,らいの現状に対する考え方をまとめた。これによれば,従来の医学においては,らいは全治はきわめて困難であり,隔離以外に積極的な予防手段はないとされていたので,患者の隔離収容に重点をおいてきたのであるが,最近におけるらい医学の進歩は目覚ましいものであり,細部においては未だ不明な点は多々あるものの,らいは治ゆするものであること,らいが治ゆした後に遺る変型は,らいの後遺症にすぎないこと,らい患者それ自体にも病型により他にらいを感染させるおそれがあるものと,感染させるおそれがないものとがあること,らいの伝染力は極めて微弱であって,乳幼児期に感染したもの以外には,発病の可能性は極めて少ないことという見解が支配的となりつつあり,

らい治療薬の発達により,早期治療を行なったものについては,変型に至るものが少く,又菌陰性になるまでの期間も随分短縮されてきた。

,こうした医学の進歩に即応したらい予防制度の再検討を行なう必要があるが,その検討の方向としては,第一に患者の社会復帰に関する対策であり,第二は他にらいを感染させるおそれのない患者に対する医療体制の問題であり,第三は現行法についての再検討であろう,本病についての特性として,社会一般のらいに対する恐怖心は今なお極めて深刻なものがあるので,まずこれについて強力な啓蒙活動を先行的に行わなければ,上記各検討結果による措置も実を結ぶことは困難であるとされている。イ
昭和27年にWHOにおいて治療効果が高いと報告された上に経口薬であるため在宅治療が可能となるDDSが日本国内においても昭和30年代
後半には広く普及した(前提事実第2の4)。
昭和40年代後半には,リファンピシンがらい菌に対し強い殺菌作用を有することが明らかになった上,昭和56年には,WHOが提唱した多剤併用療法により,わずか数日間の服薬で菌は感染力を喪失するようになり,治療中の患者でさえ感染源ではなくなり,また,早期発見と早期治療によ
り,後遺症を残すことなく外来治療によって完治する病気となった(前提事実第2の1

,同3⑵ア)。したがって,昭和56年には,ハンセン病は,早期発見と早期治療によって,後遺症を残すことなく完治し,極めて弱い感染力さえ数日間の服薬で喪失する上,在宅治療が普及し,隔離の必要もなければ経口薬の服薬で足りるため入院の必要すらなくなった。ウ
日本らい学会は,平成7年4月,新法制定当時からプロミンの効果は明らかで患者隔離が否定されており,現時点においてはハンセン病を特別の
感染症として扱うべき根拠が全く存在しないとした(後記第3の23
)。

海外の在宅治療導入及び隔離政策廃止の概要
米国本土
ルイジアナ州は,明治27(1894)年,ハンセン病患者の療養所を設
置する法律を制定し,療養所を設置した。その後,米国本土においても,いくつかの州で,ハンセン病患者の隔離を定める法律が制定された。米国は,大正6(1917)年,国立療養所の設置を定める法律を制定し,同法において,入所者は,希望した者の他に,検疫法に基づき拘束された者,保健当局者によって収容された者と規定され,大正11(1922)年,上記ルイ
ジアナ州の療養所が米国公衆衛生局に移譲され,連邦政府の運営する療養所として開設された。また,同年,入院方法として強制手段,外出禁止,男女交流禁止,退所基準が定められ,以後,連邦政府による強制隔離政策が実施された。もっとも,昭和20(1945)年頃からスルフォン剤治療により退所者が増加し,昭和21(1946)年頃から,法制度や運用の改善が図
られ,昭和23(1948)年には,感染期にある患者の外来治療も可能となって一定の条件を満たせば退院可能となり,療養所外壁を覆っていた鉄条網が撤去され,昭和25(1950)年には,ハンセン病が検疫の対象から外され,昭和27年(1952)には婚姻が認められるなどした。なお,米国において優生手術を認める法制度を採用したことはない。昭和28(19
53)年には,非活動性と分類された身体障害のない患者全員に退所を強制するなど,医学的に入所の必要のない患者を退所させる取り組みが開始されたが,差別等により社会復帰の難しい患者らから反対され,昭和31(1956)年に,療養所長は,意に反した退所も意に反した入所継続も行わない旨宣言し,昭和33(1958)年には,従前行っていた入所者の郵便物に対する滅菌作業が中止され,昭和35(1960)年以降は強制入所が行われなかった。
法改正についてみると,昭和24(1949)年に,ハンセン病についての法律の改正案が議会に上程されたものの,所管する公衆衛生局を擁する連邦保安庁が,現時点では患者の拘束や強制入院が実施されていないとはいえ法律は廃止すべきではないなどと反対し,同改正案は委員会において否決さ
れ,本会議の議題とはならなかった。昭和60(1985)年に,ハンセン病に関する法令の大幅な改正がされ,昭和63(1988)年には,療養所への新規入所が廃止され,ハンセン病患者に対する隔離法及び隔離政策は廃止された。(甲A23・632~645頁)
被告が実施した隔離政策のモデルになったとされるハワイにおける絶対隔
離政策は,昭和7年に廃止された。廃止当時のハワイにおける有病率は当時の日本国内の7倍であった。なお,ハワイでは,結婚や妊娠出産を制限する制度は,絶対隔離政策においても,その後においても採用されていない。(甲D145・147~151頁)
アジア諸国

犀川が昭和28年にラクノーで開催されたMTL国際らい会議(前記第1の1⑵オ)に出席後にインドを視察した際には,インドではハンセン病に対する治療薬ダプソンを使用した外来診療が実施されており,犀川は,帰国後,同会議の結果をらい学会誌等で発表したほか,厚生省や当時の上司で当時療養所長であった光田に,同会議の結果及びインドでの外来診療の実施につい
て報告した(甲D146・363~365頁)。昭和33年前後には,タイ,ベトナム,インドネシア,大韓民国,香港,台湾,シンガポール,フィリピンなどの隔離政策を実施していたアジア諸国でも在宅治療が導入され,各国のハンセン病の予防に対する特別法は,改正及び廃止され,日本の旧法を元とする法律のあった台湾においても同法が廃止された。香港では,昭和35年に,孤島にあったハンセン病療養所が廃止され,ハンセン病患者は市内で在宅治療を受けることとなり,後遺症により身体障害を有する者は,一般の
障害施設に入所した。(甲D114・152~155,180頁,乙A25・155頁)
4
まとめ
ハンセン病の感染力や発病のおそれに関しては,医学的には,ハンセン病
が伝染病であると確立された明治期から,国内外において,ハンセン病の感染力は弱く,発病することがほとんどないものとされており,当初から,感染力が病型によって異なるため一律の対策が誤りである旨や,ハンセン病予防にとって清潔な環境維持が重要であることも指摘されてきた。また,内務省及び厚生省においても,ハンセン病の感染力が弱く発病する恐れが非常に
低いことは十分に認識されていた。その上,ハンセン病は,もともとそれだけで致死的な病気ではなく,スルフォン剤による化学的療法が出現する前においてさえ,直接的な死因となったものは極めて少なかった(前提事実第2の2

イ)。

ハンセン病対策についての国際的な知見についてみると,明治30年の第1回国際らい会議においては,ハンセン病患者を隔離することに否定的な意見がありながらも,流行地域では隔離が有効であるとされ,法律的な強制による隔離が推奨されており,国際的にも,当初は,強制隔離政策が推奨されていたといえる。この傾向はしばらく続き,明治42年の第2回国際らい会議においても,浮浪患者は法による強制力の行使による施設隔離を行うこと
もやむを得ないとされ,大正12年の第3回国際らい会議においても,伝染性患者と非伝染性患者とで予防対策を区別する考え方が主張されたものの,隔離政策が肯定された。昭和5年の国際連盟らい委員会においても,隔離政策の欠点が指摘され,外来治療が推奨されるようになったものの,同委員会及び昭和13年の第4回国際らい会議においても,隔離政策は否定されなかった。
しかし,このような国際的な潮流は,スルフォン剤の登場により,変化した。昭和21年の第2回汎アメリカらい会議で,スルフォン剤の治療効果が報告されて以降,スルフォン剤の高い評価は全く動かず,スルフォン剤治療の実績が積み重ねられ,昭和31年頃にはスルフォン剤による治療が確立し,かつてのような不治の病ではないことが明らかとなった。

このような状況の下,隔離政策に対する国際的な傾向としては,まず,国際会議において非伝染性患者の隔離が否定され(昭和21年),僻地や離島での隔離が否定され(昭和27年),流行地でない場合や感染拡大傾向のない場合には隔離は不要とされ,強制隔離の実施につき再考が必要とされ(昭和27年),隔離政策や特別法の廃止が提唱され(昭和31年),強制的な
隔離政策の廃止が勧奨され(昭和33年),その後も隔離政策及び特別法の廃止が勧告され(昭和34年),昭和38年の第8回国際らい会議では,全患者を対象とする強制隔離は時代錯誤とまでされた。また,ハンセン病の予防手段としては他の伝染病に対するものと同様の公衆衛生の一般手段で足りるとされた。実際に,従前は隔離政策を採用していた諸外国においても,昭
和35年までには,隔離政策,特別法の制定が廃止された。
日本においても,スルフォン剤に対する評価は国際情勢と同様であって,昭和26年の第24回日本らい学会においては,再発の可能性を検討するために少なくとも10年の経過を観察する必要があるとして,スルフォン剤の評価になお慎重な意見が学会内では根強かったものの,日本国内でプロミン
の治療研究が開始されてから10年を経過した昭和31年頃以降も,国内におけるスルフォン剤の優位性は揺るがなかった。
そして,厚生省が昭和39年3月に,ハンセン病は治癒するものであり,早期治療により後遺症が生じることが少なく,ハンセン病対策について,現行法の再検討も含めて検討が必要である旨の認識を示し,そもそも,それから遡る昭和29年に,政府委員が国会で,ハンセン病を発病していないハンセン病患者家族から感染することはないと発言していることからすれば,昭
和35年頃には,スルフォン剤による化学治療が可能となったハンセン病は,特別な伝染病ではないというのが国内外の医学界の知見であったといえる。第2

ハンセン病に係る政策整備に向けた国会等の議論状況

1
癩予防ニ関スル件の審議過程


明治35年癩病者取締ニ関スル建議案
明治32年第13回帝国議会衆議院議事録に,米国の新聞紙によって,日本においてハンセン病患者が浮浪徘徊し,国がこれを救助しない状況につき,国の名誉に関係し,日本帝国の威信にかかわる重大な問題であり,文明国の仲間入りをした国であればこのような冷淡な対応はできない旨の報道がされ
たことが引用されるなど,ハンセン病患者が浮浪徘徊している日本の状況につき,海外から批判され,かつ,帝国議会議員らもかかる批判を認識している状況であったため,明治32年第13回帝国議会衆議院において,議員らがハンセン病の取締りを求めたところ,内務大臣西郷従道は,ハンセン病の取締りの必要性は認めるもののその方法が困難であって調査中である旨を述
べた。(甲A3・50,51頁,甲A23・53,54頁)
明治35年2月28日,第16回帝国議会衆議院において,癩病者取締ニ関スル建議案として,らい病は恐るべき伝染性疾患にして,また実に野蛮国の標徴に属す。本邦においては,いずれの時代に本病患者を発生し,いずれの状態をもって各地に蔓延したるやは今日これを詳かにせずといえども,該病の蔓延は漸次その地区を広め,今や全国の患者は実に数万の多きに上れり。しかるに本症は,かのペスト,コレラ等の如く急激なる伝染病ならざるが故に,世人注意をひくこと少なく,したがって伝染の勢いますます猖獗ならんとす。もしこれを放任せんか,日本帝国は遂にらい病国なりとの称を受くるに至るべし。故に政府は適当の方法を設け,本病を防遏せられんことを望む。右建議す。とする建議案が斎藤ら医師である3名の議員により提出された(甲A3・55,58頁,甲D2・55,58頁)。当該建議案には,ハンセン病が恐ろしい伝染性疾患であるという疾病観や,ハンセン病患者が多いことは野蛮国の徴表であるとしてハンセン病が文明国として不名誉であり恥辱であるとする国辱論に通じる考えが表れている。
当該建議案の審議のために,同年3月4日,衆議院内に特別委員会が設け
られた。同委員会において,医師である斎藤がらい病が伝染病であることは国際的に定説となっており,文明国では伝染をおそれてらいを取締る方法を設けて伝染を予防している。しかし,わが国では在留外人が僅かにらい患者の救済に当たっているだけで,政府は積極的にこの問題を取り上げることなく,その取締りについても全く関心を示していない。このようなことでは,文明国と対等の交際をする上で非常に国会の体面を汚す。これははなはだ遺憾であるので,速やかにこの取締り方法を設けることを希望する。と発言したのに対し,当時の厚生省衛生局長であった長谷川泰は,らい患者取締りについては,数年前より研究しているが,まだはっきりした意見はたっておらず,昨年より委員会を設けて目下種々の調査をさせている。なお,個人的見解であるが,らい患者を隔離収容して病毒の伝播を防ぐことは,方法としては適当であるが,実行は到底望めないように思う。その理由は,急性伝染病は一時的なものであるので,隔離方法を実行するのもそれほど困難ではないが,らいはこれと違って数年ないし十数年にわたる患者であるから,3万人以上といわれるこの慢性患者を持続的に隔離することは最も困難である。3万人の患者を収容するには病院を数十カ所設立し,医員,看護人等の給料も必要である。建設費は別としても,毎年50万円以上の維持費がかかるが,これは財政上大きな影響を与えることとなる。として,隔離収容の対象がハンセン病患者全員であることを前提に,財政上の理由から国が隔離収容を実施することが困難であるとの見解を示した。その後,当該建議案は,衆議院の承認を得て,厚生省衛生局において,その調査に着手することとなった。(甲A3・56~58頁,甲D2・56~58頁)



明治36年慢性及急性伝染病予防ニ関スル質問書
明治36年5月16日,第18回帝国議会衆議院に,肺結核,ハンセン病,花柳病,トラホーム,ペスト及びコレラに関する質問が記載された慢性及急性伝染病予防ニ関スル質問書が山根議員及び賛成議員34名によって提出された。当該質問書には,ハンセン病について,

近時その蔓延劇しく,世界一の統計を示すにもかかわらず,政府に何らの画策なきはいかん。

と記載されていた。この質問に対し,当時内務大臣であった内海は,同月31日,ハンセン病の予防措置の必要性は認められるが,実行上困難な点が少なくなく,検討中であると答弁した。(甲A3・58,59頁,甲D2・58,59頁)



明治38年伝染病予防法中改正法律案
明治38年2月14日,第21回帝国議会衆議院に,山根ほか7名の議員によって,当時の伝染病予防法の対象にハンセン病を追加すること等を内容とする伝染病予防法中改正法律案が提出された。山根は,要旨,明治25年以降7年間に,らいのため兵隊に合格しない者3903人,1年平均858人となる。これを男女に換算すると,20歳の青年に1716人のらい患者がいることになり,これを基盤に推定すると,わが国のらい患者の推定数は10万人以上となる。らいが伝染病であることは今日では定説になっているが,政府がこのような重要な伝染病をなおざりにしているのは不当である。また,らい患者の数が多いために国民の体力に傷害を与えていること,国民の生産力を失っていること,多額の治療費を消耗しつつあることに注意しなければならないと,伝染病予防法の対象にハンセン病を追加する点についての提案理由を説明した。これに対し,当時の内務省衛生局長の窪田は,らいについては苦心して調査している。らいは患者及び家族の名誉に関することであり,またこれは経過の長い慢性の病気である。この対策には多額の費用を必要とするので,直ちに完全に実施することは困難であるが,さし当り予防だけでも実施したいと思って調査を進めている。らい患者のうち貧困で乞食となっている者は,病毒を伝播する機会も多いと思われるので,これを保護,監督したいと考えている。その費用を市町村の費用にするのは難しいので,むしろ政府の費用にした方がよいだろう位に考えているが,まだ方針は決まっていない。などと答弁し,財政上の理由及び病毒伝播の機会
が多いことを理由として,浮浪患者を対象とする対策案に言及した。当該法律案は委員会に付託されたものの,委員会においては,窪田が別の法律が必要である旨を述べるなどして明確に反対の意向を表明し,当該法律案は否決され,本会議においても否決された。(甲A3・59~61頁,甲D2・59~61頁)



明治39年内務省衛生局草案
前記⑶の当時,日露戦争の最中であり,国費の余裕はなかったものの,内務省においてハンセン病予防法についての調査が進行し,政府は,浮浪患者の取締を行う方針を明治38年6月頃にたてた。そして,内務省衛生局は,
明治39年の第22回帝国議会に法案提出することを目指して起草し,浮浪患者を各県に1か所ずつ設立した療養所に収容する旨の草案を中央衛生会議に付議したところ,当時の内務省地方局長であった吉原三郎が,財政上の理由や,ハンセン病が伝染病ではなく遺伝病なのではないかという疑問,療養所が全国一か所で足りるという意見等により,当該草案に反対するなどした
ため,法案がまとまらず,明治39年第22回帝国議会に政府がハンセン病予防法の法案提出することができなかった。(甲A3・62,63頁,甲D2・62,63頁,甲D65・103頁)


明治39年議員立法法案提出
慢性及急性伝染病予防ニ関スル質問書(前記⑵)及び伝染病予防法中改正法律案(前記⑶)を提出した山根は,ハンセン病予防法案が政府から提出されないことを受け,ハンセン病予防法案を作成し,明治39年3月24日提
出した。当該法案は,同月25日,衆議院では可決されたものの,期限切れにより貴族院では審議未了となって不成立で終わった。当該法案に対し,法制局から,ハンセン病患者取締に一定の方針がなくにわかに厳格な法を制定すれば,人権を甚だしく侵害することが多いこと及び日露戦争後の多くの資本を必要とする事業がある情勢からすると地方にとって負担過重であること
を理由に反対意見が出た旨が報道された。(甲A3・62~64頁,甲D2・62~64頁)


明治40年癩予防ニ関スル件制定
内務省は,省内での協議を進め,全国に療養所数か所を設けて複数の地方
公共団体の共同の負担によって療養所を運営させ,とりあえず浮浪患者のみを対象とし,療養所を孤島及び遠隔地には建設しないという方針を定め,法案を起草し,明治39年に中央衛生会において検討され,明治40年2月12日,当該法案が第23回帝国議会衆議院に提出された。(甲A3・64頁,甲D2・64頁)

当時内務省地方局長であった吉原は,当該法案の提案理由につき,このらい病は,近世の学説におきまして,一つの伝染病ということに定まりましたようでありまするが,その経過というものがはなはだ緩慢でありまするがために,世人の注目をひきますることがコレラ病とか,あるいはペストの如きには至りませぬ。しかしながら直接の接触,あるいは病毒に汚染したる物品の媒介等によりまして他に伝染するおそれがあるということは,疑いないことであろうと考えまするが,わが国におきましては,このらい病患者というものが,あるいは神社仏閣あるいは公園等にはいかいいたしまして,その病毒を伝播するのおそれがあるのみならず,また一方に置きましては,随分これらの患者が,群衆の目に触れます所にはいかいいたしておりまするのは,外観上よほど厭うべきことであろうと思いまするので,これらの取締りをなすことが必要なりと考えまするのであります。そういたしまして,救護者もなく,また自らの治療の方法も有せざる者は,一定の収容所にこれを集めまして,公費をもって治療をなし,かつその病毒の伝播を防ぐということが必要であると考えます。また自ら治療の方法を有する,あるいはまた救護者のあります者に対しても,その病者のあるとき,あるいは死亡いたしましたときに,その病毒を予防いたしますところの施策をなすことが必要なりと考えまして,本案を提出いたしました理由でござりまする。と,浮浪患者を療養所に収容し,それ以外の患者を療養所に収容せず伝染予防措置だけをとることの理由として,病毒伝播のおそれと浮浪患者がいることの外観上の問題があることを説明した。(甲A3・43,65,66頁,甲D2・43,6
5,66頁)
当時の内務省衛生局長であった窪田は,明治40年2月26日,貴族院特別委員会で,当該法案に関する予算算定基準を説明し,府県と政府とで一定の比率で分担する旨を説明した(甲A3・66頁,甲D2・66頁)。窪田は,同日同委員会の質疑において,当該法案の9条の規定する指定医の検診
(行政官庁が必要と認めた患者又は患者と疑われる者に対する行政官庁が指定した医師による検診制度)によりハンセン病患者の厳重な取締を求めた議員に対し,これはだんだんにこの法律を実施いたしまして,年も経ち実地に慣れてまいる,また一般衛生の思想が段々進んでいくに従っては,各戸で療養をしているというようならい患者に対して,十分なる取締りもでき,予防も周到にできまする見込みでございまするが,しかしながら,従来今日まで何らこれに手をつけたものもございませず,なおこの病気を遺伝病として,えらい恥のように考えている今日に実施するに当たりましては,余りに9条の如きことも,これを厳格に行政官庁から医師を差し向けて健康診断をして回って,患者を引き出してそれを処置するということは,これまた厳に過ぎては,どうも一利一害であろうと思います。先ず初めにおきましては,この浮浪はいかいいたす者,もしくは自宅とは申せどもはなはだ不潔なる部落で,人戸密集をいたしておるような所で,危険極まるというような部分につきましては,療養所のない者は,検診の上で療養所に移すということをいたします積りでありますけれども,余りに厳格に適用して,そうして普通の家で治療をしておる者を,これを求めていくということは,よほど事情を見てやりませぬというと,かえって大局において目的を達し難いというようなこともあろうかと思っておりますから,やはりこの「必要と認むるときはということを適当にこれを応用いたして,漸次に予防の効を奏したいという見込みであります。本案におきましては,主として浮浪はいかいしている者で,病毒を散漫し,風俗上にもはなはだよろしからぬというものを救護いたしてこ
の目的を達するということを第一にいたしております。その他につきましては,及ぶだけの消毒予防法を各家で(中略)自宅で行わせるというようなことにいたして,漸次に色々なる予防法の処置を周到にいたして行く見込みでおります。」と,将来は自宅療養中の患者にも何らかの取締りをすることを念頭に,まずは浮浪患者を療養所に収容して病毒伝播を防止するとともに風
紀を保つ旨や,伝染予防の目的達成のためにも,検診を強制しない旨を説明した(甲A3・65,66頁,甲D2・65,66頁)。また,窪田は,同日同委員会の質疑において,第1節第1の2イ

aに記載のとおり,ハン

セン病は空気感染する訳ではなく,その伝染力はすぐに感染するようなものではなく,緩慢なものであると答弁した。
このような審議を経て,癩予防ニ関スル件は,衆議院において明治40年2月21日に可決され,貴族院において同年3月11日に可決され,同月18日に公布された(甲A3・64,65頁,甲D2・64,65頁)。なお,窪田は,昭和11年に発表した論文において,第1節第1の2

aにおいて引用した記載に引き続き,併し伝染の点は右の如しとしても,患者の救済を擁することまた風紀外観上相当の措置を要することは差迫った問題であると思って居たと記載し,癩予防ニ関スル件で療養所への収容の
対象を浮浪患者とした理由に,風紀外観上の観点があったことを明らかにした。(甲D65・102頁)


小括
癩予防ニ関スル件は,病毒伝播の防止を理由として法案提出されたものであるが,財政上の理由や人権問題の指摘もあって,まずは,病毒伝播のおそ
れが高い浮浪患者からの感染を防止するために,療養の途がなく救護者のない者のみを隔離の対象としたものであるわけであり,自宅療養中の患者からの感染に対しては何らかの予防策を漸次行うとしているところからしても,公衆衛生の点からは徹底を欠く。むしろ,浮浪患者の存在による外観への影響をも考慮して隔離の対象を浮浪患者としたこと,当時すでに流行による惨
害がハンセン病に比してはるかに大きいと広く認知されていた結核に対する予防政策よりハンセン病の予防政策が10年以上も先に法律化され結核予防法は大正8年にようやく制定されたこと(甲A2・47頁),明治36年から明治43年まで厚生省衛生局長を務めた窪田も,当時慢性伝染病の中では結核予防を第一に着手しなければならずそのことは衛生関係者間では当然の
前提になっていた旨を述べていること(甲D65・102頁)等からすると,癩予防ニ関スル件は,ハンセン病が文明国として不名誉であり恥辱であるとする国辱論の影響を強く受け,公衆衛生上の目的よりも,体面を重視したものともいえ,同時に,浮浪患者の救済法としての色彩を持つものでもあった。2
癩予防ニ関スル件制定後の法制度の見直し検討


大正9年根本的癩予防策要項
大正8年に政府が行った全国らい一斉調査によれば,患者数が約1万6200人であり,このうち療養の資力がない患者は約1万人であったのに対し,当時の療養所の収容能力は十分ではなく,収容患者数はまだ1500人にも満たなかったことを受け,内務省保健衛生調査会では,大正9年,光田が提案した根本的癩予防策要項を決議し,内務大臣に建議した。光田は,
当該決議の討議の際に,ハンセン病患者の多数は資力の有無にかかわらず適切な療養を受けることができずにいて,その惨状は見るに忍びない状況であって,この状況を等閑に付すのは公衆衛生上も人道上も当を得たものではなく,資力を有する患者の療養に関しても適切な施設を設けてハンセン病予防の完全を期する必要があると説明した。そして,同要項は,療養の途なき者
だけではなく,ハンセン病予防上特に必要のある者を収容できる程度の療養所の増設を求めるものであった点で,療養の途なき者だけを対象とした癩予防ニ関スル件からの方針転換を求めるものであった。このようにして,光田を中心に,ハンセン病予防のためにハンセン病患者の隔離収容の徹底が必要であるという見解が強まり,現に,根本的癩予防策要項の建議を受けた内務
省は,第一期増床計画(前提事実第4の2)を策定していたことからすると,光田の見解に影響を受けて,ハンセン病についての国の政策が,浮浪患者の救護策から全員隔離策(絶対隔離政策)へと方針転換しつつあった。もっとも,根本的癩予防策要項は,有資産患者については,自由療養区(ハンセン病患者のみで暮らす地域であり,療養所と異なり一定の自由を与えるも
の)を設けて自由療養区で療養することを内容とするものであって,全員を療養所収容の対象とするものではなかった。(前提事実第4の2⑹,甲A3・138~140,162~166頁)

大正15年民族浄化のために及び癩予防撲滅の話の各論考発表
前提事実第4の2

のとおり,大正15年に当時内務省衛生局予防課長で

あった高野が民族浄化のためにと題する論考,当時全生院院長で内務省保健衛生調査会委員であった光田が癩予防撲滅の話と題する論考をそれぞれ相次いで発表した。
この癩予防撲滅の話と題する論考からすると,光田は,ハンセン病が劣等な未開の地に住む野蛮な人々が感染する病気であってハンセン病患者が多いことを恥ずべきことと捉え,また,ハンセン病患者が多数いることは欧米各国から嘲笑や批判の対象となり移民の障害にもなることであるし,ハンセン病患者を救済しないことは人道的観念がないと疑われるものでもあり,列強国であり植民地支配を進める日本としては,ハンセン病を速やかに根絶しなければならず,絶対隔離政策をとることで,ハンセン病患者を最も早く
撲滅することができると考えていた。かかる見解は,当時の日本の国家主義の影響が色濃く出たものといえ,光田は,ハンセン病対策を,医学的見地よりも,むしろ,国策として検討していたことがうかがわれる。そして,前記⑴に記載したとおり,光田は,当時,既にハンセン病の政策決定に影響力を有するようになっていたところであり,大正14年の内務省衛生局長の地方
長官宛通牒がその光田の見解に沿って,療養所の入所対象者を浮浪患者のみならず事実上すべてのハンセン病患者に広げると発せられたことからすれば(前提事実第4の2

),浮浪患者の救護策であった癩予防ニ関スル件がこ

のとおり大きく方針転換した理由は,光田の上記見解によるものといえる。なお,光田は,癩予防撲滅の話において,将来国立療養所が設立されて貧困者だけではなく有資産患者も収容できるようになった暁には,自由療養区のような不徹底な療養地は有害無益かもしれないと留保をつけた上で,ハンセン病患者の集まる集落が存在する前提においては当該集落を改善する必要があると訴え,自由療養区の存在を認めていた。
また,高野は,民族浄化のためにと題する論考において,ハンセン病
患者が国辱であって,ハンセン病患者を絶対隔離することで民族の血が浄化されるとの優生的思想を表明し,内務省内においても,光田と同様の思想が支配し,上記方針転換に繋がったといえる(前提事実第4の2


)。

昭和2年患者収容強化の方針
昭和2年,国立らい療養所設立について帝国議会で承認されると,政府は,ハンセン病患者収容を強化する方針を打ち出した。内務大臣は,昭和2年7月8日における警察部長会議,昭和3年6月27日の警察部長衛生課長会議
及び昭和4年6月26日から29日における警察部長会議において,浮浪患者を中心にした患者の常時取り締まり,患者収容強化を指示した。(甲A3・159~162頁)


昭和5年内務省衛生局による癩の根絶策策定
内務省衛生局が旧法成立前の昭和5年10月に発表した癩の根絶策
(前提事実第4の2

)も,ハンセン病について,発症は死より恐ろしい悲

惨な病気であり医学では救済できないとして,前記⑵の光田の見解と同様に,国辱論や国家主義に基づき,ハンセン病患者をことごとく隔離する絶対隔離政策が唯一の正しい方策であるとする見解に立って,療養所の病床数を計画的に増床して収容可能な人数を漸次実際の患者数に近づけ絶対隔離政策を実
行しハンセン病を根絶するという政策であった。(甲A8)


小括
以上のように,大正から昭和6年旧法制定前のこの時期は,被告のハンセン病政策が,光田の見解に基づき,浮浪患者の救護策から,絶対隔離政策へと転換し,療養所の増設(前提事実第4の2⑽)や患者収容強化の方針が打
ち立てられるなどして(前記⑶),すべてのハンセン病患者を収容できる体制が着々と整備された時期ということができる。
3
旧法制定の審議過程
昭和4年第56回帝国議会衆議院癩予防ニ関スル件改正委員会

昭和4年3月1日,癩予防ニ関スル件の改正案として旧法を審議する衆議院委員会において,政府委員である内務省技官が絶対隔離の必要性を説明したのに対し,議員からの伝染病ではなく遺伝病であれば,優生手術を講じることを研究すべきではないかとの質問があり,同内務省技官は,ハンセン病が現在の医学知識では伝染病であって遺伝はしないと考えられており,胎児がハンセン病患者の体内にいる間に多少の病毒を持って生まれることがあるものの,これは例外であり,ハンセン病患者が多い血統というのは,遺伝によるものではなく,生まれた後にハンセン病の家族から感染することが多いからであり,隔離するとともに,実際には優生手術を施して生んでもらわないように考えている旨述べた。さらに,医師でもある議員からの傳染すると云うことは無論知っておりますが,矢張是は遺伝するものなりと云うことも,今日迄の学説でも全然否定することが出来ぬものと,斯う承知しておったとの質問に対し,同内務省技官は,遺傳が絶對に無いかと斯う御尋を受けますると,私共絶對にさう云う事は無いとは申上げ兼ねると存じます,ハンセン病患者が産んだ子をすぐに隔離して育てるとほとんどハンセン病を発症しないけれど,数が少ないから比較研究は困難であると回答し,
かかる回答を受けた同議員は,遺伝ではなく感染しやすい体質を遺伝するということも考え得るとして,此避妊のことが非常な有力な豫防法になって来やうと思ふ,私は根本として此避妊の手術を受けるだけなら患者は大した苦痛はないと思うと述べた。これに対し,政府委員である内務参事官は,伝染か遺伝かについては先程説明したとおりであり,避妊手術は,勧誘
して本人の希望という事で実施していると述べた。また,同委員会では,ハンセン病は完治する治療方法がなく,予防のためには隔離以外に方法がないと説明された。(甲A100・2~6頁)
昭和6年第59回帝国議会貴族院
昭和6年2月5日,第59回帝国議会貴族院に,癩予防ニ関スル件の改正
案として旧法が提出され,同月9日,政府委員であった斎藤隆夫は,提案理由を次のように説明した。癩予防ニ関スル件の企図する目的は,患者の救護,中でも浮浪はいかいする患者の救護であって,一般のハンセン病患者の処置その他ハンセン病予防上必要とする数多の事項については遺憾の点が少なくない。最近国立らい療養所も開設されることになり,社会各方面にもハンセン病の救護予防を目的とした団体の活動を見るというありさまで,国民の上下を通じてハンセン病予防に関する世論が喚起された。対外関係よりみると,国家の体面上,ハンセン病予防の徹底を期すべき必要がいよいよ緊切であるので,この機会に改正して,ハンセン病予防上遺憾のないよう期したい。(甲A3・179~180頁)
また,第1節第1の2イ

bのとおり,当時の内務省衛生局長赤木は,

昭和6年2月14日,貴族院における旧法の質疑において,らい菌の感染力は非常に弱く,ハンセン病にかかりやすい体質を持っている者がらい菌に接触したというのでなければ理論が成り立たない旨を答弁した。この際,赤木は,ハンセン病が遺伝だと信じられているために,ハンセン病患者が表れると,ハンセン病にかかる血統であるとして,その血統同士で結婚して子供を
産むことになり,ますますハンセン病に感染しやすい体質が遺伝により強くなっていくということは有り得ると思う,私は専門外であるから,専門の学者の意見を聞かなければ確かなことは申し上げられないが,そのように聞きかじっている,とも述べた。(甲A2・99,100頁)
昭和6年第59回帝国議会衆議院寄生虫病予防法案外一件委員会

当時の内務省衛生局長であった赤木は,昭和6年2月28日に実施された第59回帝国議会衆議院特別委員会における癩予防ニ関スル件の改正案としての旧法に関する質疑において,中島議員から,当局はハンセン病が慢性の伝染病であって,遺伝病ではないと考えているかなどと質問されたことに対し,旧法の立法に当たっては,ハンセン病が伝染病であるということを前提
としている旨を述べるとともに,ハンセン病が伝染病であるということについては,いわゆるらい菌が発見されて以来学問上疑いがなく,らい菌を受け入れやすい体質を有しているときに,その体質が遺伝することもあるかもしれないが,それは学問上の遺伝ではないと承知している,ハンセン病患者が妊娠中に胎盤感染する場合があると聞いている旨を答弁した。これを受けて,上記中島議員も,世間にはハンセン病が遺伝病であるとの誤解があるため,これを解く必要がある旨を述べた。これを受けて,委員長は,ハンセン病が
伝染病であることを前提に,家庭内感染を防ぐために断種中絶手術を実施できないか再三質問した。(甲A3・182~184頁,甲A101・2,7,8頁,乙A66・2頁)

小括
既に,光田の見解に基づく絶対隔離政策への転換により,癩予防ニ関スル件の解釈として,隔離の対象を事実上すべてのハンセン病患者に拡張していたところ(前記2⑵),法律上においても,旧法の制定により,隔離の対象がすべてのハンセン病患者に拡張された。前記⑴から⑶までに記載した旧法制定の審議過程によれば,旧法制定当時,ハンセン病を完治させる治療方法
がなかったために,ハンセン病感染予防が公衆衛生上重要であると考えられ,ハンセン病の感染予防には隔離以外に方法がないという見解に基づき,旧法が制定されたといえる。また,旧法の提案理由として,国家の体面が挙げられており,旧法も,国辱論や国家主義の影響を受けたものといえる。ところで,旧法制定にあたっての質疑において,内務省衛生局長は,らい
菌の感染力が非常に弱い旨を述べており,旧法制定時において,内務省も帝国議会議員も,感染力が強い病気であるとは考えていなかったにもかかわらず,隔離の手段まで用いて感染予防することとなった。なお,旧法の立法趣旨に,体質遺伝的疾病観が含まれるか否かについてみると,議員が,旧法制定の審議において,感染しやすい体質を遺伝するということも考え得ると述
べ,内務省衛生局長が,私見として,らい菌を受け入れやすい体質を有しているときに,その体質が遺伝することもあるかもしれないが,それは学問上の遺伝ではないと承知している等と述べたにとどまり,旧法制定時に,体質遺伝的疾病観が内務省や帝国議会議員の間において確立していたとまでは認められず,旧法が体質遺伝的疾病観に基づいて立法されたとまではいえない。4
優生手術の立法化における審議状況等
昭和14年第74回帝国議会貴族院職員健康保険法案特別委員会
同帝国議会では,ハンセン病患者をも優生手術の対象とした民族優生保護法案が提出された。富小路隆直委員は,『レプラ』は是は傳染病であると云うことは,もう今日何處でも唱えられて居ることで,併し矢張り生まれた子供が親と一緒に居ることによって傳染しますので,矢張り断種を相当行わなければ,実際に撲滅することは出来ないのぢゃないかと思いますと,感染症であることを前提としつつも,家庭内感染の危険性を理由に,断種等不妊手術による患者絶滅を主張した。これに対して,医師で当時厚生省予防局長であった高野は,実際の問題となりますと,癩の家系内に患者が発生することが多い譯であります,実際問題となりますると,癩に罹り易き體質が,或いは癩の血統の者に幾許強くはないか,癩の血統の者は罹り易き體質を持って居りはしないかどうかと,少なくとも懸念はあるのでありまして,成るべくは癩患者の産みます子供は少ない方が世の中の為であり,其の家族の為であらうと考え得られる譯であります,もっとも,癩の家族から子供が生まれましても,それを速やかに隔離すれば,分離養育を致しますれば,大体癩には罹らないという考え方もございまして,只今必要なる際には癩の家庭から子供を分離養育することも致しております,しかしながら自分の手元で育てたいという場合は強制する手段がなく,生まれた子はハンセン病に感染することがあるとして,入所中の男女が夫婦として生活を営もうとする場合には職員と相談し断種手術を行っており,これは本人
の希望によるものであるから,法律がなくとも違法ではなく,ハンセン病は遺伝ではないと解釈している,民族優生保護法の対象とするのが適当かどうかの検討が必要であると述べた。(甲A102)
昭和15年第75回帝国議会国民優生法委員会
同帝国議会では,遺伝性疾患患者を対象とする優生手術を法的に根拠づけるための国民優生法案とともに,それまで療養所において事実上実施されてきた断種・堕胎手術を合法化しようとする旧法改正案が提案され,審議された。(甲A3・117~121頁)
高野厚生省予防局長は,昭和15年3月16日,国民優生法委員会において,それまで入所者に対する断種・堕胎が行われてきた理由について癩の断種が既に古く行われて居ることは御承知のことと思いますが,只今も実行されておりますと前置きした上で,ハンセン病の家系に対する偏見差別により,生まれてくる子が不幸になること,また,断種手術を受ければ療養所内での結婚生活が可能となることから,子供を持たない結婚生活を熱望する入所者本人の希望により行われているため,このような断種手術が法制化されれば正当事由として違法性を阻却され支障がなくなると説明した(甲A
3・117~121頁,甲A103の1・51頁)。また,同局長は,同月19日,国民優生法委員会において,ハンセン病患者の家族は,ハンセン病に対する感受性があるかといえば,必ずハンセン病に感染する訳ではなく,その中の一部の者が患者と長い期間同居してやっと感染するもので,ハンセン病患者を分離してしまえば,ハンセン病に感染することはないと説明
した(甲A103の3・110頁)。加えて,同委員会では,議員から,ハンセン病が遺伝ではなく,ハンセン病患者から生まれた子はハンセン病に感染していないのに,断種をするというのは矛盾している旨の発言があった(甲A103の3・97頁)。
最終的に,当該旧法改正案は,優生手術が遺伝病のみに認められるとしな
がら遺伝病ではないハンセン病の断種堕胎を実施する点や結核などの他の伝染病では断種堕胎の規定を設けないといった点の医学的な論理矛盾,あるいは国体論者からの家族国家・多産奨励に反するとの反対意見により廃案となったが,反対論者の中からも,断種には反対ではないのだから,便法があるならばなぜ便法で行うように出来ぬか(甲A103の1・53頁),或る最も特殊な體質の者にのみ傳染すると云うことになれば,一種のやはり遺傳と見て宜しいのではないか(甲A103の3・109,110頁)とハンセン病患者に対する優生手術を容認する意見が出された。あるいは人道的観点から優生手術に反対する議員からも日本の政府としては,少なくとも癩患者に對しては全部収容隔離して,さうして治療を徹底さすと云う方が適当だと思います,早く隔離救済して,さうして自由な天地に癩患者同志として,其の間に生れた子供は,更に国が出す所の費用によって,直ぐにこれを両親から隔離して,さうして之を育上げて常人にしてやることが患者本人の慰めのために必要である(土屋清三郎委員・3月17日・甲A103の2・92頁4段目~93頁1段目)といった,終生絶対隔離及び家族内感染の危険性を前提とした意見が述べられた。(甲A3・119頁,甲A
103の1~3)
優生保護法のらい条項に関する審議状況
優生保護法制定にあたっての国会の審議段階において,ハンセン病を優生手術の対象とすることに関して,問題視されることはなく,特段の議論は行われなかったため,ハンセン病を優生手術の対象とする理由が説明されるこ
とがなかった。(甲A3・121,122頁,甲D4・121頁)優生保護法のらい条項に関する立法提案者の解説
昭和23年に制定された優生保護法の立法提案者である参議院議員谷口彌三郎及び福田昌子が共著者で同年発行された書籍優生保護法解説には,優生保護法のらい条項の解説として,癩は遺傳性の疾患と云われていたが,現在では傳染病の部類に属している。唯これは慢性傳染であってその潜伏期間が長く,幼児中に傳染したものが少年期特に破瓜期に至って,或は身體的に大きな障害があった場合に発病するのが普通であって,先天的に同病に對する抵抗力の弱いと云う事も考えられるのである。また,現在では癩を完全に治癒し得る方法もないので,癩患者に對しては,本人又は配偶者の同意を得て本手術を行うのが適當であると記載された。(甲A51・53頁,乙A71・53頁)

昭和26年第12回国会参議院厚生委員会
優生保護法施行後である昭和26年11月8日第12回国会参議院厚生委員会において(三園長発言の日),光田愛生園所長は,

予防するにはその家族伝染を防ぎさえすればいいのでございますけれども,これによって防げると思います。又男性,女性を療養所の中に入れて

結婚させて安定させて,そうしてそれにやはりステルザチョン即ち優生手術というようなものを奨励するというようなことが非常に必要があると思います。

,治療もそれは必要でありまするが,私どもは先ずその幼児の感染を防ぐために癩家族のステルザチョンというようなこともよく勧めてやらすほうがよろしいと思います。癩の予防のための優生手術ということは,非常に保健所あたりにもう少ししっかりやってもらいたいというようなことを考えております。と述べた(甲A16・3頁,乙A69・3頁)。


小括
戦前においても,ハンセン病を理由とする優生手術の立法についての審議
過程においては,家庭内感染の危険性,ハンセン病患者の子が偏見差別を受け不幸になることが多いこと,ハンセン病にかかりやすい体質が遺伝する可能性があること(体質遺伝的疾病観),実際に優生手術が実施されていること等を理由として,優生手術の立法化に賛成する意見があったものの,①優生手術を認める根拠が遺伝であるところ,ハンセン病は伝染病であって遺伝
病ではないため,同根拠が該当しない点や,②家庭内感染についても分離保育すれば予防ができる点などについて議論が交わされた結果,同法は廃案となったにもかかわらず,戦後の優生保護法の制定に当たっては,これらについて国会において何ら議論されず,これらの問題点が解決されないままに,ハンセン病を理由とする優生手術を定めた優生保護法が成立した。優生保護法の立法提案者は,ハンセン病を理由とする優生手術を定めた理由につき,ハンセン病が幼児中に伝染するのが通常であって,ハンセン病患
者の子が先天的にハンセン病に対する抵抗力が弱いということも考えられ,ハンセン病を完治する治療方法がないために優生手術を実施すべきであることが理由であるとした。さらに,当時,ハンセン病政策に強い影響力を有していた光田は,優生保護法施行直後に,ハンセン病予防にとって優生手術が重要であると発言した。このように,戦前においては,分離保育すればハン
セン病の家庭内感染予防は足りるとしていながら,戦後に至ると,医学的根拠を示さないままに,感染予防を名目として,また,体質遺伝的疾病観も持ち出され,優生保護法にらい条項が付され成立した。
5
旧法下の審議状況
昭和22年衆議院厚生委員会における厚生省担当者の答弁
昭和22年11月6日の衆議院厚生委員会において,当時厚生省医務局長であった東は,最近におきましては,癩治療ということに対して,非常に大きな光明を見出しつつありますから,治療を目的とするところの全癩患者の収容ということを,一つの国策としてでも取上げていくようにいたしたい
と述べており,厚生省において既にプロミン治療の効果を認識していた。(甲D82・226頁)
昭和23年衆議院厚生委員会における厚生省担当者の答弁
昭和23年11月27日の衆議院厚生委員会において,国立癩療養所の入所者3276人による旧法の改廃等を求める請願に対し,当時厚生省医務局
長であった東は,一番重大な問題であります癩に対する根本的の対策というものを確立することは,これはきわめて緊急必要事でありまして,この点につきましては癩予防法等との関係もあり,あるいは癩予防法の改正ということも考えまして,予防局とも十分打合せいたしました上,積極的な癩対策というものを樹立いたしたいと存じております。幸いにこの患者が一日千秋の思いでおりますプロミンの製剤は,国内において生産がされるように相なりましたし,またプロミンよりも一歩進みましたプロミゾールも,最近はその生産ができて,そのサンプルを数日前私どもいただいております。,もし十分な予算を獲得することを得ましたならば,癩患者の全部に対して,この進んだ治療薬による治療を与えることもできる。その日の遠からざることを私は信じておるのでありまして,癩というものは,普通の社会から締め出して,いわゆる隔離をして,結局その隔離をしたままで,癩療養所で一生を送らせるのだというふうな考えではなく,癩療養所は治療をするところである,癩療養所に入って治療を受けて,再び世の中に活動し得る人が,その中に何人か,あるいは何百人かあり得るというようなことを目標としたような,癩に対する根本対策-癩のいわゆる根絶策といいますか,全部死に絶えるのを待つ五十年対策というのではなく,これを治癒するということを目標としておる癩対策を立てるべきじゃないかと私ども考えております。と答弁し,プロミンによってハンセン病が治癒することを表明し,終生隔離の見直しを示唆した。(甲D83・25頁)
昭和24年参議院厚生委員会における厚生省担当者の答弁

昭和24年11月16日,小杉イ子委員が療養所内で夫婦の入所者が同室に居住することについて,らい病が何年かの後にひょっこりと出る,そういうものを余計殖やすことになる,こういう意味から・・・絶対反対と発言した。これに対し,厚生省医務局長東説明員は,

さような人の子孫をますます殖やす,繁栄させるというふうには考えておりません。

本人の希望によりまして,いわゆる断種手術を施しておりますので,現在入っております夫婦の大部分は,既に断種手術を受けております。したがって,あとに子孫を残す憂いのない夫婦が大多数である

と説明した。これを受けて,小杉イ子委員は,

私は優生学上から断種手術ということをそういう病気には必要と存じますので,それさえございますれば夫婦同室も差し支えないと思います。

と発言した。(甲A15・5頁)昭和26年参議院厚生委員会における三園長発言


参議院では,新たなハンセン病政策を検討するため,厚生委員会にらい小委員会が設けられ,昭和26年11月8日,同委員会において,当時多磨全生園所長であった林,当時愛生園所長であった光田,当時恵楓園所長であった宮崎を含む5人の参考人からの意見聴取が行われた。ここで
の林,光田及び宮崎の発言が,いわゆる三園長発言(前提事実第4の3


であり,その内容は以下のとおりである(乙A69)。なお,冒頭において,委員長は,我が国癩予防は最近著しく進歩を遂げ,患者も夥しく減少して参りました,幸いに治療法も進んで参りましたようでありますとして,癩予防法(旧法)も時代に即応いたしまして改正,改善等の必要を考えておるのでありますと述べている。まず,林は,患者の収容強化について,まだ約六千名の患者が療養所以外に未収容のまま散在しておるように思われます。でありますから,これらの患者は周囲に伝染の危険を及ぼしておるのでございますので,速やかにこういう未収容の患者を療養所に収容するように,療養施設を拡張して行かねばならんと,かように考えるのであります。,癩予防は現在のところ伝染源であるところの患者を療養所に収容するということが先ず先決問題でございますが,

(旧法は)時勢に適合するように改正されることが妥当であろうと考えます。

と述べた。一方,治療については,現在相当有効な薬ができまして,各療養所とも盛んにこれを使用して,

治療の結果も相当に上りまして,各療養所におきましても患者の状態が一変したと申してよろしいのでございます。

もう一歩進みますれば全治させることができるのではないかと思うのであります。只今も極く初期の患者でありますれば殆ど全治にまで導くことができておるような状態でございます。

と述べた。次いで,光田は,患者の収容強化について,

癩は家族伝染でありますから,そういうような家族に対し,又その地方に対してもう少しこれを強制的に入れるような方法を講じなければ,いつまでたっても同じことであると思います。

,強権を発動させるということでなければ,何年たっても同じことを繰返すようなことになって家族内伝染は決してやまない,手錠でもはめてから捕まえて,強制的に入れればいいのですけれども,

ちょっと知識階級になりますと,何とかかんとか言うて逃がれるのです。そういうようなものはもうどうしても収容しなければならんというふうの強制の,もう少し強い法律にして頂かんと駄目だと思います。

神経癩であろうと,癩と名のつくものは私どもはやはり隔離しておかねばこれはうつるものだというふうに考えるのであります。

と述べ,断種等(優生手術)については,前記4
記載のと

おり述べた。また,治療については,ひどく癩菌が増殖して潰瘍をつくる,その潰瘍を治癒せしめるということだけはできるのでありますけれども,神経繊維の再生はできないのであります。それでありまするから依然として癩菌が少くなったから,これを出すことができるものならいいが,依然として,そういうような患者さんは外部において又いろいろの職業に従事いたしまするというと,又ひどく破壊が起るのであります。現在の有力なる治療でも再発を防ぐということはなかなか私は難しいように思うのであります。と述べ,終生絶対隔離によるハンセン病の予防,根絶を訴えた。

さらに,宮崎も,患者の収容強化について,癩の数を出しますことは古畳を叩くようなものでありまして,叩けば叩くほど出て来る,癩は努力すればするほどそれに比例して効果が挙るものだと思っております。反対に折角やった癩予防対策も中途半端なものでありますれば,いつまでも解決いたしませんで長く禍根を残す。癩問題はやるならば徹底的にやるという方針をとって頂きたい,

徹底的にいわゆる完全収容,根本的に解決をして頂くということにして頂きたいのでございます。

戦争状態の回復に従いまして癩も又当然減少して来るとは考えますが,この際癩予防対策の度を決して緩めないように,最後の完全収容に向って努力を傾注して頂きたいのであります。

現在の法律では私どもはこの徹底した収容はできないと思っております。

,いわゆる沈殿患者がいつまでも入らないということになれば,これは癩の予防はいつまでたっても徹底いたしませんので,この際本人の意思に反して収容できるような法の改正ですか,そういうことをして頂きたいと思っております。と述べ,実情について,現在の法律(旧法)ではできないと知りつつも,実際には,相談した警察隊長らから万一問題が起
こっても適当に処理すると言われ,それを信じて心配をしながらも,行方の分からなくなった患者の居所を突き止めると,その居所に明け方踏み込むようなことをしていると打ち明けた。
そして,治療との関連で,療養所は収容所ではないのだから患者の看護や治療が重要であるとし,

癩の治療医学は最近非常に進歩して参りまして,林もお話になりましたように,私ども今までにない画期的な希望を持っております。

としつつ,

如何に特効的な治療薬ができましても,すでに欠損した体の一部分は再生して参りませんし,畸形になった部分は元に復するということは困難であります。

医学的にこれは治癒したと申しましても社会復帰ができない状態になります。(中略)社会的復帰ができないということは,不治と同じであります。

,治りましたならば直ちにこれが社会復帰のできるような状態で早期の治療をするような国としての措置をとって頂きたいと述べ,再発がないことはないが,患者の早期発見及び強制収容によって患者を社会復帰させることが重要と訴えた。
また,宮崎は,ハンセン病患者及びその家族等が負う悲劇,偏見について,ハンセン病は慢性伝染病であるにもかかわらず,昔から宗教的,迷信的な偏見が付きまとっており,天刑病だとか,業病だとか,遺伝だとか,不治だとかいうような特殊な考え方が一般に支配的になっております。従いまして患者自身の苦痛は,病気による肉体的苦痛だけではございませんで,患者自身は勿論,その関係者はこういったような特殊観念に基づきまする対社会的な重荷に苦しんでいるような実情であります。,いろいろな癩の社会的な悲劇はすべてここに胚胎しておりますので,このような偏見を除去いたしまして,癩を一般に科学的に認識せしめまして,こういった癩患者の対社会的重荷をとってやるというのことも(中略)私は役割だと考えております。と述べた。三園長発言の際に同じように参考人として呼ばれた名古屋大学教授久
野寧は,長年医学全体の研究促進の仕事に就き,癩病研究班や癩の一般医学研究班を立ち上げた経験からハンセン病研究及び同病の研究者の状況について述べ,その中で,ハンセン病は身体の変形及び醜状化並びに不治の病であることから天刑病と言われ嫌悪,排斥の対象とされており,こういうハンセン病も治癒できることになれば,ハンセン病患者は医学
史上あまりない大変な恩恵を受けられること,そのためには,献身的な医学研究員が集合して,ハンセン病患者が多く発生する地域の研究,癩患者とその家系の研究などをしなければならないなどと訴えた。

上述の三園長発言は,次のように,批判されている。
まず,医師である大谷は,平成8年に発行した著書の中で,日本国憲法によりすべての国民に基本的人権が保障され,プロミンによりハンセン病が治癒するようになりハンセン病が不治の病ではないことが明らかになった新しい時代の中で,新しい時代に全く逆行して患者の解放に歯止めをかけようとする証言であり,海外専門家会議の動向を軽視した,当時の日本のらい医学専門家の時代錯誤の見解と評している。(甲D1・141頁,183頁)
また,当時療養所である愛生園に勤務していた医師である犀川は,平成8年に発行した著書の中で,

三園長が揃いも揃って,なぜ『強制収容』とか『消毒の実施』『外出禁止』などを強調されたのか,その真意のほどは理解に苦しむし,残念なことである。

とした。(甲D114・136
頁)
さらに,昭和30年以降療養所で医療に従事した医師であり,元療養所長で元日本らい学会会長である成田は,手錠でもはめてから捕まえて強制的に入れればいいとの光田の発言について,医師としての認識からするとかけ離れたものであり,

患者を罪人扱いして取り締まるという潜在意識が働いたと言われても仕方がない。

とした(甲D58・15頁)。
昭和27年旧法に関する衆議院議員の質問に対する厚生省の想定問答前提事実第4の3⑽のとおり,第15回国会において,衆議院議員長谷川が提出した質問主意書に対する答弁は,内閣総理大臣吉田の昭和27年11
月21日付け答弁書の提出によって代えられた。厚生省は,この際,同長谷川によって口頭による更なる質問が行われた場合に備え,予想される旧法に関する質問と回答を用意しており,その答弁の内容は,①ハンセン病がペストやコレラに比して伝染力が弱いことは学会において認められているものの,全治が極めて困難で,隔離以外に予防手段がない,②ハンセン病に対する世
の中の人の恐怖心は,従来のハンセン病に関する啓もう活動にかかわらず,極めて深刻なものがあり,他の疾病の比ではなく,ハンセン病に罹患すると本人のみならず親戚縁者にいたるまで社会から忌避される病気である関係上,療養所への入所強制は必要である,③ハンセン病患者及びその配偶者に対する優生手術を規定した優生保護法のらい条項については,療養所内で夫婦生活を営んでいる者が概ねこの規定によって手術を受けており,優生上の見地から十分であると考えるというものだった(甲A23・127~130頁)。


小括
昭和22年以降,厚生省からは,スルフォン剤の治療効果を理由に,終生隔離等の従来のハンセン病政策を見直すべきとの意見が出たものの,光田を中心とする療養所所長らから,スルフォン剤の治療効果を一定程度認めながらも隔離政策の強化を求める声(三園長発言)が挙がるなどし,隔離政策の
廃止を前提とした議論はされず,当時の国際動向に沿った議論はされなかった。
6
新法の制定過程
らい予防法案(内容は新法のとおり)の提案理由

昭和28年7月2日,当時の厚生大臣山縣は,衆議院厚生委員会の冒頭,内閣が提案した同法案の提出理由について,

癩は慢性の伝染性疾患であり,一度これにかかりますと,根治することがきわめて困難な疾病でありまして,患者はもちろん,その家族がこうむります社会的不幸ははかり知れないものがあるのであります。

今日の実情にそぐわないと認められる点もありますので,これを全面的に改正したらい予防法を新たに制定しようとするものであります。

と説明し,また,新法6条については,癩を予防しますためには,患者の隔離以外にその方法がないのでありまして,患者の療養所への入所後におきまする長期の療養生活,緩慢な癩の伝染力等を考慮いたし,まず勧奨により本人の納得を得て療養所へ入所させることを原則といたし,これによって目的を達しがたい場合に入所を命じ,あるいは直接入所させる等の措置が特例的にとられることと相なっておるのであります。と説明し,患者家族への福祉措置の趣旨・目的を,患者及びその家族の福祉をはかり,あわせて,これによって癩予防対策の円滑な推進をはかりますために,

患者家族につきましては,療養所長がその福祉のため必要なる援助をし,あるいは未感染児童につきまして必要な福祉の方途を講ずる等福祉に関する規定を設けておるのであります。

と説明した(甲A53・4頁)。衆議院における審議

法案の実質審理は,前提事実第4の3⑾イのとおり,昭和28年7月3日,4日に行われ賛成多数で可決された。


同審議中,当時厚生省医務局長であった曾田は,療養所入所に関する規定(新法6条1項)が強権的であって患者の社会的,人格的生活への配慮に欠けるのではないかとの疑義に対し,癩を伝染させるおそれがあるものについて,癩予防上必要があると認めるときに限ってこの積極的な勧奨をいたすということになっておりますので,

この必要以外の者で入所を希望しない者は,入所の義務がないということになるわけでございます。

と述べ,また,感染のおそれのなくなった者は外出,退所ができることを明文化すべきではないかとの点について初め伝染の危険があった者も危険がなくなる,あるいはほとんど実質的には治癒と考えられてよろしいような状況になったものという者が出て参りまして,昨年もたしか三十名足らずの者がさような認定を受けて退所いたしているような次第でございます。それにもかかわらず本人が希望して在所いたしますという場合には,将来他にそういういわば回復者の収容施設というもの,これは予防上の見地というよりも,むしろ純粋に社会福祉的な施設というようなものが設けられるようになれば,そういう施設に収容さるべき人たちであると思うのでありますが,また私どももそういう施設が将来においては必要になって来るものと予想いたしておりますが,今日においてはまだそういう人たちは数がきわめて少うございますので,非常にお気の毒ではありますが,もしも御本人が希望されるならば,一般の患者と同じ規律に従っていただきたいということになっております。その規律に従うことが意に反するならば,さような方々は自由に退所できるということになっております。と述べた。ただ,伝染のおそれの有無の判断については,感染の危険性がある者,ない者というふうに,はっきりわけるわけにも行かない,ただちに採用し得る基準が求められないと述べた。また,当時厚生省公衆衛生局長であった山口も,症状が軽快して隔離療養の必要がないと所長が認めた者は(法律に明文がなくても)当然に退所できると認めながらも,感染の危険性というものは相対的なものとし,伝染の危険性のない患者は非常に数が少いと述べた。(甲A54・2
頁,乙A68・12頁)
他方で,山口局長は,治療について,最近の医学の進歩によりまして,治療が非常に進歩して参りましたので,相当これは-全然菌をなくし得るかどうか,全治ということにつきましては異論もございますが,非常に軽快させ得るものであるという立場に立ってこれを取扱っております。,

プロミンの注射によりますと,結節,浸潤などは,効果は治療開始後一箇月前後から現われて参りまして,六箇月前後で非常に軽快いたします。

とも述べた。

中村高一衆議院議員は,社会における偏見について,まず癩という言葉を聞いただけで世間の人はこわがるのであります。恐怖感を持つのでありまして,先日も療養所で働いております職員が,自分の子供が就職するということで,とんとん拍子でいよいよ採用するというときになって,帰りがけにお父さんはどこに勤めておりますかと言つたので,子供は正直だから,癩の療養所に勤めていると言つたら,もうその一言だけで明日から来なくてもいいと言われたと言つておりましたが,まったく癩という言葉は非常に恐怖的な言葉のように感ぜられるのでありますと述べ,これに対し,山口局長は,癩という名称に対して社会が偏見を持っていることから,病名の変更が考えられないかとよく尋ねられるが,以前使っていた天刑病だと文字自体に悪い意味があるため変更の必要があるものの,私どもはむしろこの癩という名前に対して社会が持っております偏見というものについて正しい思想を普及して行かなければならない,社会の偏見を正して行かなければならない,そちらのほうが重点ではないかとの見解を述べ,色々な形で表れる癩病に対しての社会の偏見の存在を認めて啓もう活動が必要であるとしながら,他方,病名,ひいては法令名の変更には否定的な見解を示した(甲A58・14頁)。

長谷川議員は,ハンセン病患者家族の偏見等による被害について,私は先ごろこのらい予防法(新法)のできますことについて,長年癩患者の収容に当つておりまするある有能な公吏と懇談する時を持つたのでありますが,そのときに彼がこういうように申しておりました。癩家族は周囲の非常な白眼視,迫害の中で,彼らはその家族であります患者を中心にいたしまして,家族全体がかたく固まつてそうして生きておる,その生きるありさまというものは,迫害され,白眼視され,村八分されて参りまするのに対して,いわば患者を中心といたしましての反逆心,反抗心と申しますか,患者への深き愛情,憐憫の情というもので固く結ばれてしまつておる。いわばこの反抗心,そこに大きな重点を持ちながら,患者への愛情を唯一の力にして生きておる。つまり一つの反抗心が大きな力になって生きているということであります。でありますから,その家族の団結の中心から中心人物でありますところの患者を抜いて行くということは,彼らにとりましてはまつたく力尽き果てるという結果になって来る。これは常人では想像し得ないところであるけれども,そこに患者を強制収容するということになれば,一家が長年の間社会の迫害と白眼視との中に闘い抜いて来た力が尽き果てて,そうして一家心中をするのであります。こういう点はわれわれの常識では思いも寄らない点である,こういうように申されておったのであります。私もこの話を聞いて,しみじみと癩家族の不幸と,またわれわれが想像し得ない,彼らが強制検診,強制収容に対して反抗を持ちますることの一つの秘密を知ったように思ったのであります。と述べた(甲A54・1頁)。
杉山元治郎議員も,患者家族の被害について,患者の所在する土地は大部分が農村であるとして,農村というところは,珍しい人,かわった人が参りますと,それは村中に知れ渡るためハンセン病の係官が来ただけで村中に知れ渡り,残る家族に非常に迷惑がかかると述べ,これに対し,
山口局長は,農村部には特に因習があることから,夜間であっても個別に訪問診療をするのではなく他の集団検診の際に係官を言い含めて病気を確認するなどの運用が考えられているが,公衆衛生上,必要な場合には周囲の住民に判明するような状況で係官が出向かざるをえず,最終的には,一般の人々のハンセン病に対する偏見を是正するように努めなければならな
い旨を答弁し,罰則について尋ねられた委員外の出席者である長戸寛美検事(刑事局刑事課長)も,ハンセン病が天刑病ではなく伝染病であるとの社会観念がない現状では因習の深い農村などでは非常に白い目で見られ,それが原因で犯罪が発生した場合に重く罰するのは相当ではない旨述べた(甲A54・9,11頁)。

岡良一議員も,ハンセン病患者の社会的な処遇,対策について,問題は,ハンセン病が国民一般に知られているところの子々孫々までたたる病気ではない,昔天刑病といわれたような,そういうもはや絶望的ないわば業病ではない,遺伝病ではない,伝染的な病気である。従って近代医学というものはますます十分に軽快の率を上げ得るような治療法を発見しつつあるのだということをはっきり国民に示し啓もう運動を展開することが重要であると述べ,山口局長は,それについては,らい予防法案(新法2条)による正しい知識の普及活動によることになると述べた(甲A54・10頁)。
参議院における審議

次いで,衆議院から,らい予防法案の送付を受けた参議院では,昭和28年7月6日から1か月近くにわたり複数回,厚生委員会において審議が
行われた。
同審議中,新法制定反対派から,強制入所(収容)の規定があること,退所の明文がなく軽快しても退所できる保証がないこと,外出にも厳しい制限があり懲戒規定があること,療養環境が福祉面を含め不十分であること,これらからすれば,国立療養所は療養所ではなく強制収容所にすぎな
いのではないか,他方で,残された家族に対する秘密を保持した上での十分な生活保護手当の制度がないこと,従前からある差別への対処もないことなどの指摘がされ,同指摘を中心に審議が行われた。

山口厚生省公衆衛生局長は,強制入所(収容)の規定(新法6条3項)の要否について,

やはりどうしてもそれが療養所に入所を肯んじないようなときには無理にでも入所させて治療を受けさせ,そうして公衆衛生上の害を取除かなければならないというふうに考えておるのでございます。

,ハンセン病を伝染させるおそれのある患者に対し療養所に入ることを極力勧奨いたしまして,どうしても勧奨に応じないというときには都道府県知事が命令を出す,それでもなお入所に肯んじないという者につきましては初めて,言葉で申しますと,強制的に入所させる,

伝染させる虞れがあるという患者はやはり収容するという方針をとるわけでございます。

と述べ,旧法との違いを問われると,旧法時も勧奨,命令を先行させどうしても言うことを聞かない者に対して強制力を使用しておりそ
の意味では法制度に変更がないが,担当職員が直ちに強制力を発動しないよう明文化したところに新法の意味があると説明した(甲D14・4,5頁)。なお,参考人として出席した東京都庁衛生局長与謝野光は,旧法の強制入所規定について,どこの都道府県でも実際に適用されたことはなく,東京都でもこれまで強制力を使用したことはなかったが,この度初めて使用したと述べ,元敬愛園医であり当時岐阜県庁の予防課長であった北野博一は,参考人として出席し,患者を入所させる際は,勧奨を旨とし,5年
間で強制入所させたのは,療養所から戦時中に逃走した1人だけであり,納得の上で入所させないと結局療養所から逃走してしまうため意味がないとも述べた(甲A55・5頁,甲D17・4頁)。
山縣厚生大臣も,やはり勧奨によってできるだけやりたい(中略)抜かざる宝刀によりまして空文に帰しましたら結構なことでありまするが
と述べつつも,勧奨にどうしても応じない場合のために強制収容の規定が必要である旨述べた。これに対して,山下義信議員は,

伝家の宝刀ということは極めてあいまいだ。(中略)いつでも伝家の宝刀をひらめかし,聞かなければ強制収容するぞと(中略)その実態は強制じゃないですか。

などと批判したため,山口局長は

決して勧奨いたします場合,そのあとに強制があるぞということをひらめかすということは,実際の場合いたさないつもりでおります。

と述べた(甲A56・4,9頁)。ところで,山口局長は,先般医務局長が出席されましたWHOの総会におきましてらいに関する特別委員会の報告がございますがと述べており,厚生省が当時既にWHO第一回らい専門委員会の報告を入手していた
ことが明らかであるが,その内容については患者の収容ということについて強制力をどの程度使うかということについては,その国々の状況によって異なるというふうになっているというものであった(甲D14・3頁)。

山口局長は,らい予防法案(新法6条)の入所規定に係る伝染させるおそれの解釈に関連して,強制入所の場面における伝染させるおそれというのは強制的にやります場合であり,症状がはっきりしておるものでないと入所させられないと述べ,曾田局長も,入所の場面では入所を強制するに足りる相当な確たる根拠が必要と述べた(甲D102・2頁)。
その上で,山口局長は,らい予防法案(新法6条1項)の伝染させるおそれの解釈についてらい菌を証明いたしますか,或いはらい菌を証明いたしませんでも,臨床的にらい菌を保有すると認められる患者,例えば皮膚及び粘膜にらい症状を呈するもの,神経らいで神経の肥厚を伴うもの,神経らいで肥厚を認めないけれども,萎縮麻痺を認める,それが限局していないというようなものを考えていると述べた(甲A17・1頁)。
他方,曾田局長は,退所の場面について,感染力のある癩菌に罹患していた患者が十分に治りきったといえるには慎重な判断が求められること,療養所の医師は相当長い期間にわたって患者を見守り経過が分かっている
ことから,例えば菌が一回,二回或いは一カ月というような程度証明されませんでも,まだその二カ月後,三カ月後に出る虞れがあるというふうに考えられます限り,病院としては感染の虞れが全くなくなったというふうには断定いたさないような状況であります。と述べた(甲D102・2頁)。

なお,曾田局長は,治療について,根治させることができると断定することはまだまだ難しい段階にあるとしながらも,プロミンその他の新らしいらい治療剤が広く使用されるようになりまして,患者の治療成績は非常に上って参りました。で,恐らく戦前の状況に比べますれば,著るしい効果を挙げつつあるということが申上げられると思います。殊に病気の進行をとどめまして,病気を抑えるという意味におきましては極めて顕著な効果がある。と述べ,山口局長も,同旨の答弁をした(甲D14・5頁,甲D102・1,2頁)。藤原道子議員は,

治療よろしきを得るならばこれは退院することができるのだ。こういう時代になってこれがもう我々の間では常識になっている

と述べた(甲D14・3頁)。エ
山口局長は,消毒等の規定の趣旨として,病毒を感染された家屋とか,物件を消毒いたします場合に,今まで消毒に白い着物を着た人がたくさん出かけて来られて困るという話でございましたので,今回の法案におきましては第八条,第九条において,先ずこの消毒に要する必要な物件を家族に与えみずから消毒させるようにし,それに家族が従わず,どうしても必要な場合に都道府県職員に消毒をさせるようにしたと述べた(甲D14・4頁)。


山口局長は,高野一夫議員が,らい予防法案(新法5条)の指定医の診断に関連して,家族がハンセン病と診断されたことを理由に,ハンセン病患者家族を強制的に受診させることができるかと質問をしたのに対して

家族であるということだけで強制的にやるということはちょっと無理だと思うのであります。

と回答したものの,他の議員からの

今の局長の御答弁では,少し私腑に落ちないのですが,今までの予防の実際の面においては,一家族から一人でも不幸な患者が出ればその家族はみんな健康診断を受けておるはずです。

との指摘に対し,

実質的には相当受けておると思うのでございますが,強制的にそれをやるかどうか,この法律に基づいてそれをやるかどうかということは考えなければならないものと思います。

と回答し,ハンセン病患者家族が,患者の家族であるという理由で健康診断を受診している実態があることを認めた。(甲D102・4頁)カ
廣瀬久忠議員は,らい予防法案(新法2条)の正しい知識の普及に関連して,山縣大臣が患者入所後の残された家族への生活保護の拡充について
秘密保持の観点からもできないと述べたことに対し,らい予防法案(新法2条)の正しい知識の普及により,

らいというものは遺伝でもない,血統によるものではないのだ,伝染なのだ。

という正しい知識が国民らに備われば,ハンセン病患者家族だということは何ら秘密にするようなことではなくなると反論した(甲D19・4頁)。藤原道子議員も,患者が安心して自分の病気を癒すため,また,社会における偏見からの解放のため,さらに,残された家族が不安のない生活を過ごせるためには正しい知識の
普及に努めねばならないと述べた(甲D19・11頁)。

藤原道子議員は,ハンセン病患者家族の社会における偏見等の被害について,長い間らいは遺伝である,天刑病である,こういうふうな考え方が国民の心の中に強く強く根ざしておりますために,らいということによって,ただそれだけによって非常に大きな悲劇が起こつているわけであります。私はこの際らいは伝染病である。そうして治療よろしきを得るならばこれは退院することができるのだ。こういう時代になってこれがもう我々の間では常識になっているのでありますが,これが世間一般にはなかなか払拭することができない。らいであるということによって患者のみならず罪のない家族子供等にまで非常な悲劇を起しておりまして,一家心中等が起りますることは大臣におきましてもすでに御承知のことだろうと思うのでございます。と述べ,長い間のらいは天刑病であるという認識が現在も世間一般の間には根強く残っており,それ故に家族や子にまで偏見差別が及び,深刻な被害を引き起こしているとして,らいは伝染
病であり治療が良好に行えれば退院も可能であるとの正しい知識を普及しなければならないとの見解を示した(甲A56・3頁)。また,生活保護の拡充を求め,ハンセン病患者家族の実情について,らい者になりまして,社会の迫害を受けて,夫が,或いはその叔父さんが,らいとして入所して療養所に行ったというだけで,村の人たちは物を売ってくれないのですよ。子供は学校へ行けないのですよ。学校へ行つても子供が遊んでくれないのです。こういう実情が他の病気のときにあるでしょうか。而もこれは本人が好んでかかったのじゃないのです。不幸にしてこの病気に冒された場合に,社会の迫害はそこまで来ているのです。子供が石を投げられる。学校の校長からは登校の自由を,登校するなとさえ申し渡さたるという不幸が起きておるのです。だかららい患者の家庭が一家心中するとか,或いは二束三文に家を売払って,そうして流浪の生活を始める。と述べた
(甲A56・8頁)。
加藤シズエ議員は,『らい』は忌わしい病気であるために,一人の患者が発生いたしますと,その親類縁者までが世間から白眼視される実情を考えて,当然患者と診断された本人及びその家族の幸福のための秘密性保持の工夫がなされなければならないのに,その配慮をこの法律は忘れているのでございます。と発言しており,親類縁者にまで偏見差別が及び,深刻な被害を引き起こしているとの認識を示した(甲A57・15頁)。ク
青松園の保育所職員を経て,直前までの13年間大阪府らい予防事業担当職員であった大浜文子は,参考人として出席し,次のとおり,約100
0人の患者を療養所に護送するなど,収容手続を担ってきた自分の体験談を述べた。
家族の被害について,家族の結婚の相談であるとか,就職の斡旋であるとか,又貧苦の状態のかたのいろいろな相談相手としてあらゆるものを引受けて参りまして,殆んど患者家族の苦悩なり,患者の窮状などを肉身的な気持で見て参つた,それで因習のために私の目の前で自殺をした人たち,或いは療養所に行くことを非常に苦しんで自殺をした人たちも十人に及んでおります。又は私の目の前において,その結婚していた主人の弟がらいになったという件において,目の前で結婚の破約をされたような場合もございました。と発言し,家族の結婚,就職差別,貧困等の被害
の存在と,収容過程における自死等の悲劇を明らかにした(甲A55・1,2頁)。
また,大阪府における強制収容について,戦前戦中,大阪府には約600人の登録患者がおり,その者全員に対し警察官が中心となって強制収容が行われ,戦後については,収容手続は府職員,特に女性の職員が担当するようになり,警察官による無慈悲な護送はなくなったと述べた(甲A55・1,2頁)。さらに,らい病の正確な知識を国民に普及させ患者に対する偏見をなくすため,病名をハンセン氏病に変更することについて問われると,具体例を紹介し,待遇改善はもとより,らいと関係のない皮膚病であるとまで言わなければ,伝染病の皮膚病にはならないとの認識を示した(甲A55・13頁)。

小括
衆参両議院での審議を通じて,病型によって伝染の危険性の程度に差があることは議論に上っているが,そもそもハンセン病が伝染し発病に至るおそれの極めて低い病気であるということに着目した議論はほとんどなされなかった。

新法6条の定める伝染させるおそれがある患者は,強制入所の対象者であるところ,同伝染させるおそれがある患者についての厚生省の解釈は,山口局長の答弁からすれば,①らい菌を証明するか,又は②臨床的にらい菌を保有すると認められる者(例えば,皮膚及び粘膜にらい症状を呈する者,神経らいで神経の肥厚を伴う者,神経らいで神経の肥厚を認めないが知
覚麻痺・筋萎縮がありそれが限局していない者)ということになる。この解釈は,昭和28年8月19日付け法務省入国管理局長宛厚生省医務局長回答にもそのまま反映されており(前提事実第4の4ア),厚生省が昭和29年ころ作成されたとされるらい患者伝染性有無の判定基準と題する書面にも,ほぼ同様の記載がある(前提事実第4の4

オ)。なお,同書面の記

載は,神経らいの場合に著明なものに症状を限定している点で山口局長の答弁よりも,同伝染させるおそれがある患者の範囲を限定しているようにも読めるところ,同書面は,その体裁等からみて,この書面の基準が厚生省の正式な解釈基準とされていたかは不明である(前提事実第4の4
オ,

甲D127)。いずれにしても,未治療のハンセン病患者は,病型のいかんを問わず,何らかの皮膚症状や神経症状を呈することによってハンセン病であると診断されることがほとんどなのであるから,ハンセン病であるとの診断を受けながら,厚生省の基準によって伝染させるおそれがないと判断される未治療の患者は,ほとんど存在しないと考えられる。このように,伝染させるおそれがある患者を極めて広く解釈して未治療のハンセン病患者のほとんどすべてをこれに該当するものとし,そのすべてを療養所への
強制入所の対象としていた。
さらに,入所者の退所については,厚生省は,伝染のおそれがなくなれば退所できると説明しながらも,曾田局長は,伝染のおそれの有無の判断については,はっきりわけるわけにもいかない,直ちに採用し得る基準がない,とし,山口局長も,伝染のおそれがない患者は非常に数が少ないと述べてお
り,曽田局長の参議院厚生委員会の答弁に表れているように,治療を経るなどして1度や2度の菌検査で陰性となっても,直ちに伝染のおそれがない患者になるとは考えておらず,相当長期間の経過観察による厳格な審査を経なければ,伝染のおそれがない患者とは判断されないとしていた。
また,両議院の審議では,ハンセン病患者家族に対する社会的な偏見差別
が問題とされ,その偏見差別の原因は,ハンセン病を天刑病,業病,遺伝病とする誤った認識にあり,偏見差別の解消には,ハンセン病が伝染病であることと治療により退院できることの啓蒙活動が重要であるとされ,厚生省からは,新法2条による正しい知識の普及活動によって啓蒙すると説明された。そして,参議院附帯決議では,ハンセン病患者及びその親族に差別被害が生
じていることを前提に,ハンセン病患者及びその親族に関する秘密の確保に努める旨の項目を含む附帯決議がされた。
7
保育所及びハンセン病患者の子について
隔離政策以前において
ハンセン病が伝染病であることが広まっておらず,遺伝病と思われていた明治40年の帝国議会貴族院の特別委員会の審議においては,当時の内務省
衛生局長は,ハンセン病患者の子が小学校に登校するに当たって,他の児童が嫌がるような実例はなく,ハンセン病患者の子のために設備を設ける必要もないと答弁した(甲A3・252,253頁)。
隔離政策以降において

昭和14年5月19日及び同月20日に行われた療養所長会議において,保育所出身の未感染児童の就職口がなかったことからこれに対する対
応が議論された(甲A3・253,254頁)。

昭和22年10月16日の衆議院厚生委員会において,厚生大臣は,保育所(前提事実第4の2)について,癩という病気が遺伝的病気ではなくて,いわゆる伝染であるということが明らかになりました今日におきましては,それらの子供は,できまするとただちにこれを隔離いたしまして,そうして伝染しないような方法で完全にこれを措置するということが必要であろうと思うのであります。しかしながらこれをまったく癩療養所以外に別の施設を設けて,そこに入れてしまって,親子の対面も何も阻害してしまうというようなことは,これは少し行き過ぎではないかと思うのであります,

いつ伝染するか。生れ落ちたその瞬間にも伝染するのではないかどうかということは,われわれ素人には何もわからない。

,ハンセン病患者の子を親から完全に隔離するかについては

ひとつ十分に専門家の意見も聞き,そうして適当にやってみたい。

と答弁した(甲A14・6,12頁)。

昭和28年3月14日の参議院厚生委員会において,藤原道子参議院議員のたださえ癩というものは,非常にその全人生に大きな影響を与えるものでございますので,あれは癩病の子供だというような観念を社会に与えないために,一般の保育所と同じに扱う,一般の児童と同じにこれを保育するというような建前にはできないのですかとの質問に対し,山口厚生省公衆衛生局長は,併し未感染児童と申しましても,或いは感染しておつて,潜伏期にあるものかも知れないという虞れもございますので,やはり特別に発病しやしないかどうかということを観察して行く必要がございまして,それで癩療養所の近くにおきまして,特にその容態を観察して行きたいと答弁した(甲A49・12頁)。エ
長谷川衆議院議員が,昭和29年5月13日衆議院厚生委員会において,竜田寮児童の通学拒否問題を取り上げたところ,政府委員として出席していた曽田厚生省医務局長は,

恵楓園側といたしましては,この分教場をつくってもらうことを非常にきらっておりまして,本校に入れてもらいたいということを,かねがねすでに十年ほどの間,毎年のようにお願いしておったようであります。

と述べ,B小学校側が,長年に亘り,竜田寮
児童の通学を拒否する姿勢を示していたことを明らかにした。さらに,曽田厚生省医務局長は,竜田寮児童について,中には生まれてから数年間親と一緒に生活いたしておりまして,三つ,四つになってから親が癩と確定して収容所に収容されて親とわかれて来ておる者もございます。ですから過去において感染の機会を持った者が相当にあるのであります。,
しかしながら保育所に収容されてから発病した,感染は収容される前に起こっておった,いわゆる潜伏期において収容されて,数年後に発病したという者はこれまでにもあるのであります。またそれはあり得るのであります。,さような意味から参りますれば,今の保育所に収容されておる患者というものは,癩にはなっておらないけれども,将来発病するかもしれぬというその危険性をもって一般の社会から隔離せられるべきだという考え方で参りますならば,通学問題はネガティブの結論になって来ると思う。,しかし,保育所にいる児童は,医員が絶えず観察しているため,仮に発病しても初期で発見され,発病前や発病初期のハンセン病患者から他に感染することは実際にはないため,保育所にいる児童から他に感染することはないと述べた。(甲A18・9頁)。
また,昭和29年10月7日参議院文部委員会に通学反対派の代表として参考人として出席したB小学校PTA会員のCは,これは単に竜田寮だけでなく,長島の愛生園のようなところもこれは当然であります。あそこの園長さんのお話を私或る書類で見ましたが,やはり癩患者と或る期間同棲したものは或る一定の期間は観察が必要だと申しております。これは極めて当然かと考えます。又その子供の発病の状況からみましても,やはりその発病率が非常に高いのであります。その高いことは結局親と一緒に生活しているうちに,知らず知らずの間にその子供が親の病気をもらっておるということを証明するものであります。私どもはそういうような所から通わせることはこれはいけない,少なくともらい予防法の26条によってあの子供の秘密を守ってやらなければいけないのだ,

長島のごときもあの園長は極めてこの点について細心の注意をして,最善の努力を払われておるようであります。

,他府県はいずれもスムーズに進んでおるということをおっしゃっています。併し長島の状況を見ましても,決してスムースに進んでおりません。鹿屋におきましても,あそこの回答書を見ますと,但書に,この地方は民度が低いから,今なお癩を遺伝性だと見ておる,伝染病だと考えておらない,伝染病と考えておらないから,従って先ず現在問題は起きておりませんというようなことが付記してあります。,

飽くまで癩病患者の子供であるということは隠すべきであります。隠さなければあの子供は幸福になりません。

と述べており,患者で
ある親と一定期間生活した子どもには感染している可能性が高く,それゆえにB小学校に通わせることができないこと,そして,このような考えはB小学校だけでなく他府県でも同じであること,そして,患者の子であることを隠さなければ幸福にはなれないという,恐ろしい伝染病という疾病観に由来した家族に対する差別認識が存在することを明らかにした(甲A61・4頁)。これに対し,委員会に参考人として出席した恵楓園所長であった宮﨑は,伝染病が発病しない以上伝染の危険のないことはこれは当然なことでありまして,私どもの子供に発病している者はおりませんし,従いましてそこから通いました癩の子供が癩の感染源になる,癩の感染の危険ありということは到底考えられないと,保育所児童はハンセン病を発病しておらず,ハンセン病を発病していないハンセン病患者の子が感染源になることはないと断言した(甲A61・7頁)。また,
Cは,竜田寮児童がハンセン病患者の子であることがわかる形で通学すると,近隣の学校からB小学校のことをハンセン病患者の子が通う学校といわれるから,竜田寮から通学することや,竜田寮児童の通学を認めたことが明らかな形での通学には反対である旨を述べた(甲A61・4,17,18頁)。

同委員会において,熊本市教育委員会委員長は,竜田寮児童の通学の賛否についてPTA総会後に実施したアンケートについて,小学校児童の家庭総数1267件に対し,アンケートの回答が1229件あり,通学賛成の回答が回答全体の34%に当たる420件,通学反対の回答が回答全体の約64%に当たる795件,中立の回答が全体の約2%に当たる14件
であったと明かした(甲A61・8頁,乙A72・8頁)。

昭和29年10月8日参議院文部委員会において,曾根厚生省医務局国立療養所課長補佐は,その前に松丘は分校になっております。で,大体支障なく行くという状況は,やっぱり少なくて,逐次本校に一緒に通って来ておるというのが実情じゃないかと思います。過去においては何らかのトラブルが一,二あるということは,この施設にあるということは聞いております。と答弁し,他の地域においても,通学反対派の差別意識によって,保育所の児童の普通小学校への通学に支障をきたしていたことを認めた(甲A62・8頁)。
また,昭和29年10月8日に開かれた参議院文部委員会において,厚生省医務局国立療養所課長補佐は,保育所について

一般のいわゆる児童福祉法による児童施設へ入れるのを建前にいたしております。

施設も転院その他の関係で急には入れられないという場合にやむなくこの法22条による施設に入れて,児童の面倒を見ているというのが実情でございます。

,なるべく児童福祉施設に入れるのがその児童のためであり,又児童の幸福であると考え,我々もそういうふうに努力をいたしておりますと答弁した。⑶

小括
ハンセン病が遺伝病と思われていたハンセン病隔離政策以前においては,内務省及び帝国議会では,ハンセン病患者の子の登校が他の児童から嫌がら
れた実例を把握しておらず,ハンセン病患者の子のための設備は不要とされていた。
ところが,保育所が設けられた後,昭和14年頃から,保育所出身者であるハンセン病患者の子らに対する就職差別が問題視されるようになり,昭和29年には,ハンセン病患者の子が通学拒否された竜田寮事件が国会で取り
上げられた。
また,厚生省は,国会において,昭和28年,未感染児童が感染後の潜伏期にあるかもしれないから特別に観察する必要があるとして,一般の保育所とは別にハンセン病患者の子の保育所が必要であると説き,昭和29年にも,未感染児童が未発病の感染者である可能性が高いことを肯定し,医員が絶え
ず観察していると答弁しており,一般の児童とは異なった扱いをしていることを認めた。
また,国会における竜田寮事件に関する審議過程によれば,政府関係者において,ハンセン病患者の子について,将来発病する危険性があることから潜在的感染者であると受け取られ,特に保育所児童は一定程度,社会内で差別を受けていると認識していた。
8
占領下の沖縄におけるハンセン病政策に係る審議等
らい予防法案の審議
前提事実第5の2

イのとおり,当時の琉球政府社会局長であった山川は,

昭和30(1955)年5月,日本本土の新法を模倣するらい予防法案を作成し,昭和31(1956)年6月8日における琉球立法院での答弁において,完全隔離の収容施設を拡張中であると答弁した(甲A44・200頁)。
また,伊豆見は,昭和33(1958)年12月,入園者の軽快者を社会に出せば残る新患者は全員収容できるが,らい予防法がなければ折角の施設はあっても収容できないと述べている。
立法院予算決算委員会におけるマーシャル発言についての審議
マーシャル大佐のハンセン病に在宅治療を導入すべき等とする発言(前提事実第5の2

イ)を受けて,昭和34(1959)年5月20日に行われ

た立法院予算決算委員会において,上記発言について審議され,当時の琉球政府社会局長であった伊豆見は,最近の世界の癩学会の動きにもハンセン氏病は特に普通の伝染病と区別して新たにこれを対策を立てる必要はない。一般の伝染病と同じようなやり方でいゝんじやないかというふうな機運が見られるわけであります。従いまして私共といたしましては従来から化学療法を行いまして,もう病状が停止してほかへの感染の危険がないという患者は現在も実は退院をさしているわけであります。,病状が安定して他への感染も危険がないというときに退院をさせるわけでありますが,しかし退院後もこれは野放しにするわけじやないのでありまして,一応退院いたしましたら保健所の監督下において定期的に菌の検索を行う。それから連続的な服用はずつとさせる計画を持つているわけであります。などと,在宅治療の対象者を入所治療による軽快退所者とする旨や,在宅治療中の患者も監督下におく計画である旨を述べた(乙A24・156頁)。ダウルの勧告は,在宅治療は退所者に限定したものではなかったし,マーシャル大佐は,療養所入所自体を否定して新発生患者すべてを一般の医療機関や在宅治療で治療すべき旨を発言していた点につき,伊豆見の意見は,ダウル勧告(前提事実第5の2

イ)やマーシャル大佐の発言と一致していなかった(乙A29・8
5頁,乙A24・558~560頁)。
伝染病予防法案審議
立法院文教社会委員会において,昭和34(1959)年8月20日,ハンセン病を特別法ではなく他の伝染病とともに対象とする伝染病予防法案が提案され,審議された。琉球政府社会局公衆衛生課防疫係長は,提案の理由として,米国民政府から,ハンセン病を他の感染症と同様に扱うべきである
旨の提言を受けたと説明した。もっとも,日本本土に派遣されて伝染病予防法の調査研究をした議員が,同委員会において,日本政府がハンセン病を特別法ではなく他の伝染病と同一の法とすることと,療養所での隔離ではなく保健所を主体とする在宅治療の導入に反対した旨を報告したため,伝染病予防法案は審議終了となって,成立しなかった。(甲A23・691頁,甲A
44・251頁,乙A24・157頁)
難波滝沢報告書
昭和35(1960)年11月に日本の厚生省が沖縄に派遣した専門医で全生園医務部長であった難波政士と厚生省医務局国立療養所課技官滝沢正は,昭和36(1961)年2月,調査報告書を作成して,琉球政府に提出した。
その報告書の中で在宅治療の採用が勧告されたものの,在宅治療の内容としては,入所治療によって治癒した者を軽快退所させた場合に利用することを原則とするものであり,また,特別法の制定を望ましいとするものであった。(甲A94・51,52頁,甲A44・252頁,257~261頁)小括
琉球政府の担当者は,当初,療養所への入所を基本とする新法に倣った法整備をしようとしたが,マーシャルのハンセン病に在宅治療を導入すべき等
とする発言があったことから方針を変えた。そして,ダウル勧告やマーシャルの発言どおりにハンセン病政策を変更する意図まではないまでも,在宅治療の対象者を入所治療後の軽快退所者に限定する意図でもって,ハンセン病対策を一般的な伝染病対策と同様に実施するという国際的な動向に従い,昭和34年には,米国民政府の提言を受け入れ,ハンセン病を特別法で対応す
るのではなく他の伝染病とともに対象とした伝染病予防法案を立法院に提案して審議するに至った。
しかし,立法院議員から,日本政府が特別法の廃止に反対している等との報告を受け,同法案が不成立となった。
結局,琉球政府は,昭和35年に,日本の厚生省から,在宅治療の導入等
を勧告する調査報告書(難波滝沢報告書)の提出を受け,前提事実第5の2エ記載のとおり,昭和36年に,特別法であるハンセン氏病予防法を提案し,同法が成立するに至っている。
第3
1
新法改正に向けた動き
新法改正要求の動き
全患協による新法改正運動

新法改正要請書
全患協は,昭和28年の予防法闘争の後も新法附帯決議を軸に療養所内の処遇改善等の運動を継続した。そして,昭和38年には,大規模な新法
の改正運動が行われ,次の19項目からなる新法改正要請書が作成された。らい予防法をハンセン氏予防法と改められたい。
目的(1条)及び義務(2条)の中に治癒者の更生福祉を明
確にされたい。
医師の届出(4条)は指定医の診断による患者のみにされたい。
指定医の診察(5条)は強制診察にならないように改められたい。国立療養所への入所(6条)は,強制入所にならないよう改め入

所でき難い者には指定医療機関を設けて管理できるようにされたい。従業禁止(7条)は期間を定め,その範囲を最小限度にとどめ禁
止期間の補償をされたい。
汚染場所の消毒物件の消毒,廃棄等並びに質問及び調査
(8条ないし10条)は廃止されたい。

BCG接種による予防措置を法文化されたい。
医療の確立を期するために,その具体的措置を法文化されたい。
治癒した者には証明書を交付されたい。
国立療養所は,医療システムを確立し,医学リハビリテーション
を行われたい。

入所者の外出(15条)は,予防上重大な支障をきたす恐れがある者を除いては,制限をしないように改められたい。
秩序の維持(16条)に関する特別の規制は廃止されたい。
物件の移動の制限(18条)は廃止されたい。
退所者の保障を法文化されたい。

各都道府県に指定医療機関を設け,在宅患者の医療を行われたい。親族の援護(21条)に医療扶助を加え,在宅患者並びに退所者
にもこれを適用されたい。
現行法第二七条二項より七項第二八条を廃止されたい。
優生保護法の中のらいに関する規定を削除されたい。


陳情
全患協は,新法改正運動の一環として,まず,昭和38年8月,厚生省,衆参両議院の社会労働委員等に対する陳情を行った。この際,当時厚生省公衆衛生局長であった若松は,全患協の陳情団に対し,昔と現在のらいの状態は,学問の進歩によって大きく変ってきている。(中略)学問の進歩に伴って予防法を改正するのは当然であるが,長い伝統があるので一挙に国民の理解を得ることは難かしいし,結核より伝染力が弱いからといっても一ぺんにそこまでかえることは難かしい。,昔の政策が誤っていたからと云って,今責任をとれと云われても難かしいし,わたしとしては国の政策が誤っていたと考えていない。尚,予防法は進歩した医学に基づいて改正したい。しかし改正しなければ何事も出来ないということではなく,出来ることはどんどんやって行きたい。と述べた。また,同年10月には,厚生省,大蔵省及び参議院社会労働委員に対する陳情が行われ,厚生大臣及び参議院社会労働委員全員に新法の改正要請書が提出された。この際,小西宏厚生省公衆衛生局結核予防課長は,

39年度にらい予防制度調査会を作るべく予算要求している。その調査会において制度の改正について考えたい。

長く続いている制度を替えることは時間がかかる。厚生省としても早く改正したいと思うが,長く療養所に関係している者の頭が変らないから難かしい。

偏見除去については,予算をとることがPRになり,法律改正とPRは表裏一体と考えている。

と述べた。さらに,昭和39年3月には,国会議員及び厚生省に対するより大規模な陳情が行われた。この際,長谷川議員は,

患者さんもこのように治るようになったので,政府も早急に法改正に努力しなければならない。

と述べ,また,田口長治郎衆議院社会労働委員長は,同委員会開会中に陳情
に訪れた全患協の代表に対し,

このような予防法があることは国として恥かしい。いっぺんにはいかないが長谷川さんとも相談して,一歩一歩よくなるように努力したい。

と述べた。他方,小林厚生大臣は,公衆衛生局長から種々の学術書を読ませられており,役所の者も進んだ考え方を持っているが,一挙に予防法を改正することは問題がある。世の中の偏見を無くすることは急にはいかない。また法改正だけでは不充分で法律以外にも努力する途があるように思う。と述べた。また,若松厚生省公衆衛生局長も,

最近の新しい医学の進歩はよく知っているが一挙に改正しては世間の理解が追いつかない点もあるので,小さい改正を何回か積重ねて,その後で大きく改正する方が一般の人に不安なく受け入れられると思う。

と述べた。

国会における審議
昭和57年3月18日の衆議院社会労働委員会における厚生関係の基本施策に関する件についての質疑において,川本議員は,明治以来今日まで一貫してわが国の政府がとってきたいわゆる強制隔離といいますか,そういうらい予防のあり方,らい予防法,それが今日,偏見や差別を大変助長する役割を果たしてきておると思うわけです。世界の国々でもいろいろ法制化されておりますけれども,ノルウェーなんかはそういう強制隔離の政策をとらずに,完全にいわゆる撲滅する段階まで来ておる。わが国においては,当時いろいろな状況があったとは思いますけれども,今日すでに先ほどお話のように,新薬が開発された中で,そんな後遺症が残るようなところまでいかなくても外来で治療をして完全に治るというような状態になっているにもかかわらず,現在法律はそのまま強制隔離方式をとっておるわけです。私はこれは憲法違反だと思うわけです。と発言し,ハンセン病隔離政策がハンセン病についての偏見差別を助長する大きな役割を果たした認識を示すとともに,必要のない強制隔離を採用する新法が憲法11条,13条に反し,ハンセン
氏病患者の基本的人権を踏みにじっているとの見解を示した。
これに対して,当時の厚生省公衆衛生局長であった三浦大助は,偏見等による被害,人権侵害の指摘について,かつて遺伝病で不治の病と考えられ患者が長い間偏見を受けて苦しんできたことは理解していること,現在では医学の進歩により大部分の患者が完全に治癒し社会復帰が可能であるが,他方では上記の誤った考えを持つ人々がいて社会復帰に支障が生じていることを認めた上,この問題については,入所患者及びその家族に対する生活援助,職業指導,さらにはらいに対する国民の正しい理解を深めるための啓蒙運動を行ってきている旨述べ,前提事実第4の4⑷ウ記載のとおり,ハンセン病は伝染力が弱いといっても伝染病であるため,先ほどから隔離のお話が大分出ておるのですが,ある程度の一定の制限というのは仕方がなく,
人権については十分注意を払っていると答弁した。また,同局長は,新法の改正については,従来からの対策がややもすれば療養所の入所を前提とした対策であり,在宅患者の治療については対応が進んでおらず現状を踏まえてどのような医療機関で外来診療を行えばよいのか,保険の適用はどうするのかを含め今後検討をする旨答弁した。

この際,当時厚生大臣であった森下は,川本議員から,岡山県下の療養所のある長島と本土とを結ぶ橋梁建設の意義に関連し,入所患者を島に設けた療養所に強制的に隔離するのは間違いだったと認めるのかと問われ,お説ごもっともでございまして,まさに強制隔離より開放する橋でございますし,人間としての復権,偏見と差別を取り去るための心の架け橋であると述べ,
入所患者を島に設けた療養所に収容する方法がこれまでの入所者の多くにとって強制収容の場となり人権問題が生じているとして,橋梁建設の意義に入所患者の人権回復,偏見差別の解消があることを認めた。
(甲D35・20~24頁)
小括

このようにして,厚生省は,医学の進歩に伴って新法改正の必要性を認識しつつ,世の中の偏見,混乱防止を理由に大改正や一挙に改正することを否定した。しかしながら,結局,平成8年に至るまで,新法の小さな改正が積み重ねられることもなく,そもそも一度たりとも,少しでも前に進めるために新法改正案が提出されたり,国会で新法の改廃について審議されたりした形跡はない。啓蒙運動は藤楓協会に委ねられ,その藤楓協会の活動内容は,啓蒙用のパンフレットが作成され,大会が催されるといったものだったが,
大会は光明皇后をしのぶ会の様相が強く,作成されたパンフレットは,遺伝病ではないし,おそろしい伝染病でもなく,治る病気であることは記載されているものの,療養所は本来,一般の病院と変わらない施設であるとの記載はないし,ハンセン病患者やその家族が偏見差別の対象になることは間違っていることの記載も足りず,誤った知識を改め正しい知識を普及させるに及
ばないものだった(甲A64~70)。
そして,二度にわたる運動の挫折や入所者の高齢化もあって,その後の全患協の運動の重点は,新法の改正要請から療養所内での処遇改善に向けられるようになった(甲A2・222,253,254頁)。
2
新法廃止の提言
らい予防法についての日本らい学会の見解
日本らい学会は,平成7年4月に発表した『らい予防法』についての日本らい学会の見解において,同発表時においてハンセン病が特別の感染症として扱うべき根拠が全く存在せず,新法及びその隔離政策が医学的根拠を
有せず廃止されるべきとし,さらに,旧法制定当時においても旧法制定の必要性は認められず,また,新法制定当時において,すでにプロミンの効果は明らかであって,国際的には患者の隔離が否定されていたとした。(甲A2・344~347頁)
ハンセン病予防事業対策調査検討委員会

厚生省が昭和58年に藤楓協会に委託して設置されたハンセン病予防事業対策調査検討委員会は,平成4年以降ハンセン病予防事業について検討を行い,平成7年5月の中間報告書において,ハンセン病の伝染力がきわめて微弱で,日本のような先進国においては伝染発病がほとんどなく,今日では早期の治療で容易に治癒するもので,何千何万と存在する感染症の一つにすぎず,特別の予防や医療は不要であって,新法は不要であり,医学的にも社会的にも国際的にも多くの問題を抱えているので,法の廃止を視野において根本的な見直しに向けて早急に検討を開始すべきとした。(甲A2・352~358頁)
また,同会は,同書において,ハンセン病患者家族は,結婚,就学,就職,交際等社会生活のあらゆる分野において不当な差別を受け,病気を理由に自
殺や一家心中が起きたとし,今なお根強い差別意識が存在しているとした。(甲A2・280,352~358頁)
見直し検討会
また,平成7年に設置された厚生省保健医療局長の私的諮問機関である見直し検討会では,以下のような議論がなされた。

第3回会議において,ハンセン病の完治に当たり,後遺症を残すことがなくなった時期に関し,委員やハンセン病治療に携わってきた参考人との間で様々な意見が交わされたものの,最も遅い時期としての意見は,1980年代という意見であった(甲D134・10~18頁)。また,見直し検討会の報告書には,多剤併用療養法が確立されて以降,ハンセン病は早期発見と早期治療により,障害を残すことなく,外来治療によって完治する病気となった旨記載された(甲A2・371頁)。第5回会議において,全患協代表の高瀬重二郎委員は,

現実の問題としてある園ですけれども,46%の人間がまだどうしても偽名を使わざるを得ないような状況に置かれているんだと。

今更家族に心配を掛けてもいけないし,この問題については当面はそっとしておいてもらいたいんだという意見が一部の支部にある訳です。

,なぜかといいますと,このことにつきましてはいわゆる患者,家族,親族,あらゆる分野におきまして不当な差別を受けてきた。非常に悔しい思いもしてきたし,いろいろ迫害も受けてきた。場合によっては一家離散ということにも追い込まれたということがありまして,そういうことがなかなか踏み切れない。と述べ,ハンセン病患者家族に対する偏見差別が未だ存在していること,そのために入所者が新法における差別禁止規定及び秘密漏洩罪規定を廃止することに躊躇を覚えている者が多いと発言した(甲A21・19頁)。これに対し,元厚生省官僚で医師もある大谷座長は,WHOをはじめ国際的には,ハンセン病を特別な法律で取り上げることは,差別を助長するのでよくないとされていると指摘し,
法学部教授であった中谷瑾子委員も,ハンセン病についての特別法により差別禁止規定等を設けることによって差別を認めることになるのではないかと発言した。
また,第6回会議において,当時光明園所長であった牧野正直委員は私は在宅患者はたくさん見ているんですけれども,全患協も言っているように,家族に対する問題というのは非常に大きな問題だと思うんです。…例えば,精神の方などを見てみますと,家族の連絡会とか出来ています。しかし,ハンセンはそういうことすらできないような状況にある訳ですね。家族は名乗り出るというような状況はないですから,お互いに連絡を取って連絡会をつくるというようなことは全然問題外なんですね。それくらい,しいたげられている状況があるんです。と述べ,療養所所長及びハンセン病外来治療医師という立場でハンセン病問題に関わってきた経験から,ハンセン病患者家族が,偏見差別を受け,声すらあげられない状況に置かれていると訴えた(甲A22・3頁)。さらに同会議では,大谷座長も,これは私が今までの何十年の経験では,,むしろハンセン病差別というのは非常に陰湿な形で,,結婚するときに陰で足を引っ張るとか,表面に出てこない差別なんですよね。だけど,それは非常に別の意味で根深いものがあって,同和問題のようにからっとして闘うというふうな,そういう形のものではないのですが,いかにも根深い点があるという。と発言し,ハンセン病患者の家族への偏見差別が表に現れない陰湿な形で行われていることを自らの体験に基づいて発言した(甲A22・13頁)。また,同会議において,大谷座長は,ハンセン病患者家族による家族会があれば,行政が意見聴取をすべきで
あると発言した(甲A22・4頁)。この第6回会議において,岩尾エイズ結核感染症課長から,第5回会議において議論された,差別禁止規定等を内容とする特別法制定の要否について,新法を廃止しても現実の差別はなくならないため,有効な対策を講じる必要があり,差別の問題については,人種差別撤廃条約が間もなく批准される動きや,人権基本法を制定しようとする
活動があるなど,人権保護について法規制を強めようとする動きもあり,特別法による差別禁止規定等が必要とする考えも成り立つとの認識が示された(甲A22・9頁)。
このような議論を経て,見直し検討会は,同年12月8日,新法及びそれによる隔離政策は現在の医学的知見に照らすと見直されるべきものであり,
現状新しい知見に従って弾力的な運用が行われ現実に新法が問題となることはほとんどなくなってきたことを踏まえても,現に強制入所,外出禁止,所内の秩序維持業務等の規定を定めた新法が存続し続けたことは紛れもない事実であり,被告による新法の見直しが遅れたと言わざるをえないとして,新法及び関連した優生保護法のらい条項の廃止等を提言した。



小括
このように,平成7年に至り,新法及びそれによるハンセン病隔離政策を廃止すべきであることが次々と提言され,新法廃止の機運が一気に高まった。
3
廃止法案の審議
廃止法案が審議された平成8年3月25日の衆議院厚生委員会において,菅厚生大臣は,前提事実第4の5

に記載のとおり,ハンセン病が感染し発病に
至るおそれが極めて低い病気であり,もはや患者を隔離しなければならないほどの特別な病気ではなくなっており,伝染予防のための隔離の必要性は失われていることを説明し,ハンセン病患者やその家族の尊厳を傷つけたことを認め,謝罪した。また,菅厚生大臣は,ハンセン病患者及びその家族に対する差別が残っていることを認めた上で,入所者の社会交流事業や地域の人たちとの交流を深めることで偏見や誤解を薄める努力をする旨述べた。(甲A19・2,4頁,甲D105・3,4頁)
また,五島正規議員は,新法の存在そのものによって,ハンセン病患者家族が非常に悲惨な状況に追い込まれたケースをへき地に赴任した医師として目撃
した旨を発言した。岩佐恵美議員がそもそもの立法から90年経過しました。現行法制定からも43年がたちます。この間,肉親とも引き裂かれ,実家に帰ることはおろか,肉親の葬儀に立ち会うこともできず,社会から一切隔離され,ハンセン病患者は偏見差別,隔離政策の中で,人間として生きる権利を奪われてきました。患者ばかりか,家族や親類までが結婚や就職で差別を受け,自殺や一家心中などの悲劇に追い込まれてきました。,

90年余り,およそ一世紀にわたって作り出された偏見差別というのは容易に消すことはできないものです。

,そういう中で,本当に偏見差別を取り除くための努力というのは,これは容易なものでないというふうに思います。でも,早急にこのことに取り組んでいかなければならないというふうに思います。まず,国の誤りを率直に認めたハンセン病の歴史を明らかにした教育というのが私は必要であるというふうに思います。それから,謝罪を含む政府広告なども考えられるのではないかと思います。いずれにしてもこうした差別のない社会をつくるというために全力で取り組んでいただきたいと述べ,法律及び政策によって,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別が90年間にわたって作り出され,9
0年という長い期間をかけて作り出された偏見差別は容易に消えることはできず,国はこの偏見差別を取り除くために国の誤りを認めた教育,謝罪を含む政府公告などにより全力で取り組む必要がある旨を指摘した。(甲A19・14頁,甲D105・19~21頁)
また,優生手術についても取り上げられたところ,厚生省保健医療局長による優生手術についての答弁は,前提事実第4の4
第4
1
に記載のとおりである。

ハンセン病に対する偏見差別の実相及び偏見,差別意識の形成,強固の過程ハンセン病隔離政策等開始以前
沖縄以外の地域について
前提事実第4の1,2ア及び第6の1に記載したとおり,日本国内において,ハンセン病は,業病,天刑病,家系(家筋,血脈)にまつわる遺伝病,
生物学的な遺伝病,外貌の変貌に伴う忌避などから様々な偏見や差別意識があり,ハンセン病患者は,江戸時代においては特定の居住地区に閉じ込められることがあり,明治時代に入っても,正業に就くことができずに神社,仏閣等に集り,浮浪生活を送ったり,放浪の旅に出たり,自然発生的にハンセン病患者らの集落を形成したり,物置の奥深く等に世間から隠れて生活した
りし,ハンセン病患者家族も,ハンセン病が家系(家筋,血脈)にまつわる病であることを理由に結婚忌避などの差別を受けることがあった。また,ハンセン病患者の中には,ハンセン病がその家族を含めて嫌忌の対象となっていたため,家族に迷惑をかけないことを目的として,上記のような生活をする者や,自殺する者等もいた。ハンセン病患者が浮浪徘徊し,神社仏閣等で
物乞いする状況に対し,宗教家が救らい事業に乗り出し,特に,明治20年代以降,神山復生病院,慰廃園,回春病院,待労院等の私立療養所が開設された。(甲A2・43~45頁,甲A3・3~38,50~54頁,甲A23・9~52頁)
もっとも,この当時,ハンセン病が伝染病であるという見解が確立されて
おらず,日本国内では,ハンセン病を遺伝病であると信じている者が多く,ハンセン病が伝染する病気であるとの認識はなかったか,あったとしても極めて希薄であった。したがって,この当時の差別は,ハンセン病患者を穢れた者,劣った者,遺伝的疾患を持つ者とみる考えや,ハンセン病を前世に犯した罪によるものだという天刑病や業病であると捉える宗教観や迷信に基づくもの,外貌による嫌悪感に基づくものがほとんどであって,ハンセン病患者やハンセン病患者家族が社会内で生活することにより,公衆衛生を害するとか,感染の危険が生じるという考えに基づくものではなかったし,伝染説が確立されるまで,伝染に対する恐怖心からくる偏見差別はほとんどなかった。(甲A2・43~45頁,甲A3・43~44頁,183~184頁,23・9~52頁)。

また,江戸時代においても,すべてのハンセン病患者が特定の居住地区に閉じ込められていたのではなく,自宅療養する者や公衆が利用する温泉地で療養する者もおり,明治時代においても,ハンセン病患者に自宅療養する者や公衆が利用する温泉地で療養する者がいる状況は同様であった。(甲A23・19,22~24頁)

沖縄について
沖縄以外の地域と同様に,沖縄においても,ハンセン病を天刑病(患者本人,その他親兄弟や祖先の犯した罪の現れの病気),遺伝病(血統にまつわる病気)などと理解していたことや外貌の変貌に伴う忌避感などが原因となって,ハンセン病患者に対する様々な偏見や差別意識が存在し,それは家族
にも影響を及ぼすものであったことから,ハンセン病患者は,家庭にとどまることができず,放浪の旅に出たり,自然発生的に患者らによる集落を形成したりしていた(乙A25・188,189頁,乙A26・196,197,203頁)。沖縄では,患者のことをクンチャー,クンカー,クンキャ等と蔑称で呼んでいた(乙A26・196頁)。
一方,沖縄では,ハンセン病は,他人,特にハンセン病患者に恨まれると発病する(怨念病)との迷信も根強かったため,住民は,物乞いをするハンセン病患者に食べ物を与えるなどした(乙A26・196,197頁)。また,宮古島,多良間島,伊良部島等に所在する一部の村では,村民である患者を救済する目的で,村の経費により,避難所やらい村を形成しており,犀川医師は,研究書沖縄のハンセン病疫病史―時代と疫学―(沖縄県ハンセン病予防協会発行)において,沖縄特有の対応であった旨を示唆する(乙
A29・41頁)。なお,上原信夫編の沖縄救癩史(財団法人沖縄らい予防協会発行)には,宮古島の避難所について,強制収容される隔離所であったと記載されており,宮古島では,一般的にはハンセン病患者だけではなくその家族との交際も避けられていたとの記載がある一方で,当該村民がハンセン病を嫌ってはいたものの,迷信に基づきハンセン病患者から恨みを買
って呪いを受けてハンセン病を発病することがないよう当該隔離所を訪れて共に飲み食いし,起居を共にすることもあり,当該隔離所がハンセン病患者と交際を続ける場所となっていた旨が記載されていることからすると,当時,宮古島では,ハンセン病に対し,感染予防のために隔離が必要な強烈な伝染病との意識はなかったといえる(乙A26・205,206頁)。
このように,沖縄においても,ハンセン病患者に対する偏見差別,その家族に対する影響は,ハンセン病患者やその家族が社会内で生活することにより,公衆衛生を害するとか,感染の危険が生じるという考えに基づくものではなかった。


小括
ハンセン病隔離政策等開始以前においては,沖縄を含む日本全国において,ハンセン病患者に対する偏見差別が存在し,家族にもその偏見差別が及ぶなどの影響があったものの,ハンセン病を業病,天刑病,家(血脈)にまつわる病,遺伝病と捉えていたこと,外貌の変貌に伴う忌避などに基づくものであり,伝染説に依拠するものではなかった。

2
癩予防ニ関スル件制定以降無らい県運動開始前まで
沖縄以外の地域について

明治40年,ハンセン病を国辱としつつ体面上の理由で浮浪する患者救護を目的として癩予防ニ関スル件(前提事実第4の2)が制定され(第2の1

及び

),同法において,療養所を設置し,療養の途がなく救護

者のないハンセン病患者をその療養所に入所させること,医師に,患者及
びその家族に係る自宅等の消毒義務等が規定され,明治42年から療養所が設置されたことで(前提事実第4の2),療養の途がなく救護者のないハンセン病患者が療養所に隔離されるようになり,被告におけるハンセン病政策は,ハンセン病を他の伝染病とは異なる特別な伝染病と位置付け始まった。なお,当時,既にハンセン病の伝染力は微弱とされ(第1の2

a),また,癩予防ニ関スル件を所管する内務省衛生局長は,当時
ハンセン病の伝染力について緩慢なものだと認識していることを表明しており(第1の2


a),それからすれば,癩予防ニ関スル件は,ハン

セン病が感染力の強い伝染病であることを前提に制定されたものではないはずであるが,後記のとおり,癩予防ニ関スル件の下で,その後,ハンセ
ン病を感染力の強い伝染病として扱う各施策が実施されていった。イ
次に,明治42年の内務省訓第45号(前提事実第4の2

)により,

ハンセン病が患者との接触や体液を介して伝染する病気であることの周知や,感染の予防としてハンセン病患者家族の衣類等を含めた消毒が必要であることの周知がされることとなり,在宅患者を含めたハンセン病患者一般に対する,公衆の出入りする場所への立ち入り制限等,ハンセン病が感染力の強い病気であるかの政策が進められた。
大正4年以降に実施された断種手術(前提事実第4の2

)は,本来遺

伝病に対するものであるはずの優生思想に基づく断種手術が伝染病であるハンセン病に対して行われること自体で不可思議なわけであり,第2の3記載の委員会での発言に表れているように,それを正当化するために,政府によって,ハンセン病患者が発生した家庭内でハンセン病患者からその家族に感染する危険性の問題に繋げられ,また,ハンセン病患者の子がハンセン病に感染している可能性が高いことを強調することに結び付けられた。さらに,大正5年には,懲戒検束権の付与(前提事実第4の2)

により,療養所長の取締りの権限が大幅に強化され,療養所の救護施設としての性格は後退して,強制収容施設としての性格が顕著になった。加えて,大正9年の1万人収容を目的とする根本的癩予防策要項や第一期増床計画により,すべての患者を収容できるように療養所病床数が増床されることになり(前提事実第4の2),大正14年の内務省衛生局長の地方
長官宛通牒により,療養所の入所対象者が浮浪患者のみならず事実上すべてのハンセン病患者となり(前提事実第4の2

),癩予防ニ関スル件制

定時における,療養所収容の対象を浮浪患者として自宅療養中の患者に対しては収容以外の予防措置をとるという方針から,ハンセン病患者全てを療養所で隔離する方針(絶対的隔離政策)へと大きく方針転換した。また,大正15年に,当時ハンセン病政策に関与し影響を与えていた高野と光田が相次いで民族浄化のためにと題する論考と癩予防撲滅の話と題
する論考を発表し(前提事実第4の2),ハンセン病政策について,ハンセン病患者の存在は国辱であって,ハンセン病患者を絶対隔離することで民族の血が浄化されるとの優生的思想,絶対隔離政策を説いたことは,
その後のハンセン病政策に大きな影響を与えるものといえる(第2の2)。なお,大正11年には,別府的ヶ浜のハンセン病患者を含む集落が警察官によって焼却される事件が発生した。警察は当時,内務省下にあり,警察官は府県職員とともに公衆衛生に係る事務を行い(前提事実第3の2),浮浪者のハンセン病患者を療養所に入所させる職務を負ってハンセ
ン病隔離政策等に関わってはいたが,その警察官の中に,上記のとおり,ハンセン病患者の自宅を焼却処分しても構わないと考え,ハンセン病患者にこのような強行的な態度にでる警察官も現れるようになった。

このような状況の中で,大正期の療養所への収容者数が約1500人であり,一旦収容されても逃走する者がおり,それらの者は一度は再収容されるとして逃走率を平均20%とすると,前記方針転換前の大正期には,
癩予防ニ関スル件に基づき,放浪するハンセン病患者延べ1800人程が警察官によって捉えられる光景が展開されたことになる(甲A3・91頁,甲D110・76頁)。特に,大正4年の大正天皇の即位の儀式の際や,昭和3年の昭和天皇の即位の儀式の際に実施された内務次官通牒に基づく浮浪徘徊している患者に対する警察官による一斉取締に基づく療養所への
収容は,当時の新聞報道によると,犯罪者に対する逮捕のような実態を有していた(甲A23・146頁)。また,前記の集落が焼却される光景,ハンセン病患者が各地に設けられた療養所(前提事実第4の2)まで護送される光景も展開されており,これらの光景を目撃した者にとっては,ハンセン病に対する恐怖感を与え得るものであったといえる。(甲A2
3・59頁,甲A43・1~4頁)
そして,政府(被告)のハンセン病が伝染病であることを前提とした政策を知る者(伝染力が弱いなどの専門知識のない者)にとっては,集落の焼却や療養所への隔離は,浮浪徘徊する患者だけではなく,自宅で療養するハンセン病患者との接触による感染に対する恐怖や,ハンセン病患者と
同居するハンセン病患者家族との接触による感染の恐怖を生じさせ得るものであった。また,当該ハンセン病患者家族に対する感染源としての恐怖心は,当該ハンセン病患者家族がハンセン病患者と同居して接触していることに基づくものであるから,当該ハンセン病患者家族には,ハンセン病患者の配偶者,親子及び兄弟姉妹が含まれることはもとより,同居する者
であれば甥姪も含まれていたといえる。
他方,政府の政策を全く知らない国民らやハンセン病に対する政策があることを知っていてもそれが伝染病であることを前提としたものと理解していなかった国民らにとっては,浮浪するハンセン病患者という理由で警察官に連れて行かれ,集落が焼却されるものであると認識し,そのような特別な病気であるという印象や,そのような罰を受ける忌まわしい病気であるという印象を一層強化した。


一方,明治40年から始まった公立療養所の建設予定地の買収は,一部の地区においては反対運動が起こり難航したところ(前提事実第4の2),青松園の建設における反対理由が療養所からの病原菌の排出であったとされていることからすると(甲D2・77頁),少なくとも,療養所建設予定地の周辺住民に対してはハンセン病の原因がらい菌の感染による
ものであり建設予定の療養所はらい菌に罹患したハンセン病患者用の入所施設である旨の案内がされていたといえる。そこでこの時期,一部の周辺住民は,ハンセン病を伝染病と正解した上でハンセン病に対する不安感や恐怖感を持つようになった。

このようにして,無らい県運動が開始されるまでは,療養所への収容が全国規模で展開されていたとはいえ,収容数からしても,また,上記のとおり,療養所への収容の主な対象者が浮浪徘徊する患者であったこともあり,全国津々浦々で前記ウの光景が目撃される状況にはなかった。また,一般に公共療養所建設の際には施設の性格を周辺住民が知ることになると
ころ,建設は5か所にとどまり,ハンセン病が伝染病であるとの知識の伝播は限定的であった。しかも,癩予防ニ関スル件の制定後において,政府が,国民らに対し,ハンセン病について,隔離されるべき伝染病であるとの周知活動を行った様子もなく,また,実際のところ当時,ハンセン病が次々と伝染し流行した状況になく(甲D54),国民らの多くが周囲に患
者を認知する状況になかった。このようなことから,社会を構成する国民らの間で,この時期,ハンセン病が伝染病である,それ故に恐ろしい病気であるとの認識はそれ程広がらず,むしろ,以前のとおりに天刑病,遺伝病であると信じている者が多い状況にあった。なお,昭和6年2月27日,旧法の審議を行った衆議院特別委員会の討議中にも,同じく慢性伝染病である結核と異なってハンセン病のみに徹底した予防を実施する理由として,ハンセン病が遺伝性の不治の病で忌むべき病気とされ,結核の患者と比較
して,患者とその周囲の者に対する嫌悪は雲泥の差がある旨の発言がされており,伝染病としての忌避感よりも,遺伝性の不治の病であるという点に忌避感が表れていたといえる(甲A3・182~184頁)。

このような状況において,旧法成立前の昭和5年に癩の根絶策(前提事実第4の2

)が発表された。同施策は,新聞を読むなどしてその内

容を見聞した国民らに対し,ハンセン病に対する恐怖心や嫌悪感を煽り立て,国辱論も交えながら,ハンセン病患者が欧米諸国に対抗できる列強国の形成を阻害する恥ずべき存在であるという観念や,ハンセン病患者をことごとく隔離する絶対隔離政策が唯一の正しい方策でありこれを行わなければハンセン病の病毒の恐怖からは永久に逃れられないとの強迫観念を与
えるものであった(第2の2)。
沖縄について

本土と同様に,明治40年に制定された癩予防ニ関スル件(前提事実第4の2

)により,ハンセン病を他の伝染病とは異なる特別の伝染病とし

て扱う政策が開始された。これにより,ハンセン病患者が国辱として扱わ
れ,ハンセン病を感染力の強い伝染病として扱う各施策が実施されていくこととなり,内務省訓第45号(前提事実第4の2

)によりハンセン病

が感染力の強い病気であるかのような政策が進行した(参照)。

沖縄においても,ハンセン病患者に対する警察による取締が実施されており,放浪する患者を警察官が捉える光景や,海を越えて熊本県下の療養所に終生隔離されていく光景は,その光景を見た者をして(熊本県下まで連れて行かれることを知っていた又はその時に知った者をして),ハンセン病に対する恐怖感を与えるものであった(甲A44・116頁)。このような光景は,政府(被告)のハンセン病が伝染病であることを前提とした政策を知る者(伝染力が弱いことなどの専門知識のない者)にとっては,自宅で療養するハンセン病患者との接触による感染に対する恐怖や,ハンセン病患者と同居するハンセン病患者家族(同居のおじやおばを含む。)との接触による感染の恐怖を生じさせるものであった(
加えて,前提事実第5の1イ

参照)。

のとおり,沖縄本島においては,昭和

5年から公共療養所の設置が計画されたが,周辺住民が療養所建設に反対したため当初療養所が設置されなかった。このときの地元住民の反対の理由として,公衆衛生上の危険が挙げられており,旧来の沖縄におけるハンセン病に対する疾病観には存在しない理由であった(甲A44・115頁)。当時,沖縄では,集落内のハンセン病患者に対しては,集落内に隔離所等を設置して保護しており(乙A25・188,189頁,乙A2
6・203頁),このように,ハンセン病患者を保護する一方で激しい迫害事件が発生した要因として,犀川は,当時の沖縄においては,地域中心主義的意識が強く,集落外のよそ者に対する排除意識が強かったことが影響したと考察した(乙A29・57頁)。犀川が考察したとおり,沖縄における集落外の者に対する排除意識が療養所建設に対する反対運動に影響
した可能性もあるが,少なくとも,昭和5年には,療養所設置予定地の住民らの間においては,癩予防ニ関スル件の制定等のハンセン病政策に従った,ハンセン病が菌によって伝染する病気であるとの認識が広まっていたといえる(甲A44・115頁)。このようにして,沖縄本島においては,従来のハンセン病に対する疾病観にはない,ハンセン病が恐ろしい伝染病
であるという疾病観が広まりつつある中,昭和10年には,同じ名護町内ではあるが,屋部焼討事件(前提事実第6の1ウ)が発生し,少なくとも名護町及びその周辺では,恵楓園への患者の輸送が滞り収容が進まなかったこともあって,住民のハンセン病患者に対する偏見,差別意識が強まり住民による迫害行為が行われる状況となっていた(乙A26・112~115頁)。


小括
明治40年に制定された癩予防ニ関スル件施行以降,沖縄を含む日本全国において,国辱論の影響を受けたハンセン病隔離政策等が開始され,これにより,従前にはほとんど存在しなかった,ハンセン病の感染に対する恐怖心が一部の国民らの間で徐々に生じるようになった。また,癩予防ニ関スル件は救済法的性格を有するものであったが,大正14年の衛生局長の地方長官
宛通牒によって救済法的性格が薄まり絶対的隔離政策へと大きく方針転換をしたにもかかわらず,この時期は未だ伝染説やそれに基づく偏見,差別意識がそれ程広まらず,むしろ従来からの偏見差別,因習が広く存在する状態だった。
3
無らい県運動以降の戦前・戦中
沖縄以外の地域について

前記2

に記載の状況は,次のとおり,無らい県運動(前提事実第4の

2⑼イ,同⑾)が昭和初期に開始され,昭和11年ころから全国各地で大々的に行われて強制収容が徹底・強化されたことにより変わった。イ
まず,無らい県運動が各府県で行われた要因として,昭和6年の旧法の制定(前提事実第4の2ア)があった。すなわち,当時は全てのハンセン病患者が感染源となりうると一般に考えられていたため(第2の3),旧法は,全てのハンセン病患者を療養所に入所させることを容認する規定を設け,規定上,入所対象者を癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノと
した(前提事実第4の2ア

)。しかも,旧法制定に先立つ昭和5年に

内務省衛生局が発表した癩の根絶策(前提事実第4の2⑻)において,ハンセン病を根絶できなければ文明国ではないとか,絶対的隔離政策によってハンセン病が根絶でき,それ以外にハンセン病を根絶する方法がないとの見解が示されており,内務省が,ハンセン病患者を国辱とする考えの下,絶対的隔離政策によるハンセン病根絶のため旧法を制定したといえる。さらに,旧法をみると,従業禁止規定(前提事実第4の2


)は,ハ

ンセン病患者に対する職業差別を正当化する根拠となりうるものであったし,癩予防ニ関スル件に引き続き旧法でも認められた消毒規定(前提事実第4の2


)は,後記の消毒の実施の根拠となるものであった。実際

にも,前記2

のとおり,既に,大正14年の衛生局長の地方長官宛通牒

(前提事実第4の2⑺)によりすべての患者が入所の対象とされ,旧法制
定に前後し第一期増床計画(前提事実第4の2



),20年根絶計画

(前提事実第4の2

)が策定されて国立療養所が全国各地に新設され

(前提事実第4の2

),また,府県連合立療養所が国立療養所に変わり

(前提事実第4の2

),すべての患者を収容できるよう増床が進められ

ていき,絶対的隔離政策を遂行することが可能になっていった。このよう
な法整備,実際の体制整備は無らい県運動にとって前提条件といえる。ウ
昭和10年代になると,各府県が第一期増床計画,20年根絶計画等を受け,浮浪患者,在宅患者の療養所入所を促進しようと無らい県運動が活発化した(甲A13,甲A77,甲A78,甲A83,甲D81)。とこ
ろで,前提事実第4の2⑿のとおり,それに先立ち,癩予防協会が昭和6年に設立されている。同協会は,内務大臣も発起人に名を連ね各府県知事が支部長を務め内務省と密接な関係にあり,しかも,戦前の天皇大権の下で貞明皇太后を前面に出した団体であった。そこで,貞明皇太后の誕生日である6月25日を癩予防デーと定め,当該日を含む一週間を癩予防週間としてその期間中は癩病毒撲滅運動と銘打ち,この期間を中心にポスター貼付,パンフレット・リーフレット等配布,講演会・啓発映画の上映会の開催等を全国各地で行い,国民らに対しハンセン病が伝染病であり隔離による伝染防止が必要であることを普及する活動を行うとともに,内務省の療養所増床計画に従いハンセン病患者を収容することを目標に,毎年全国のハンセン病患者(昭和12年度は全国で合計約1100世帯)に対して病毒の散布を慎み,療養所へ入所すべきことを指導した(甲
A3,甲A11,甲A12,甲A29・27~28頁,甲A30・158頁)。講演会における講演内容には,ハンセン病が伝染病であること,遺伝病説,天刑病説は迷信であり,治療には患者の隔離と未患児童の保育所への分離が必要であることが含まれていた(甲A29・28頁)。この癩予防協会は,昭和11年から,各府県に対し癩患家の指導により,自
宅で療養中のハンセン病患者及びその同居する家族に対して,自宅を訪問した上での患者の療養所への入所指導や,患者及びその同居する家族に対して,衣服及び所持品に対する消毒の指導を要請し,それに応じた各府県は,入所や消毒の指導を繰り返し行った(甲A11,甲A12)。この癩患家の指導は,ハンセン病患者と同居する者を対象として実施され
ており,同居の甥姪も当然にその指導の対象であった(甲A11,甲A12)。
そして,このような癩予防協会の活動に触発,促されるように,各府県は,各府県独自の要綱を設け人員を配置し,療養所と連携を取りその府県用の施設を建設するなどして浮浪患者,在宅患者の療養所への収容作業を
進め無らい県運動を展開するようになった(甲A27・34頁,甲A29,甲A30・157頁,甲A32・28頁,甲A77・350頁)。エ
この無らい県運動は,昭和12年頃には23府県に及び,昭和15年には厚生省が各道府県に対して無らい県運動の徹底を直接指示した(前
提事実第4の2

)こともあって,昭和16年には全府県で行われた

(甲A13)。このうち,知事が最も熱心だったとされる鳥取県によれば,無らい県運動の状況は次のとおりである(甲A29,甲A77,甲A78,甲A85,甲D81)。
同県は昭和11年から運動を始め,はじめに癩予防協会から要請されていたハンセン病患者の一斉調査について,県の衛生課職員,警察官等の官吏による患者宅訪問を実施し個別指導をするとともに各患者の病状等の調査を行った。その調査は,後に各戸を訪問する売薬行商人からの情報,さらには,駐在所の巡査や住民の投書等に基づき県から委託を受けて巡回検診を行った医師の情報によって徹底された。他方で同県は,独自に,鳥取県癩予防協会を設立し,愛生園に県出身者専用の寮を建設
し,愛生園の協力を得て在宅患者の収容を確保した。この寮建設においては寄付金の募集が行われ,県内外の企業家などから集められ,鳥取市では寄付金を入れる袋(同情袋)が各町の衛生組合長を通じて配布され集められた。鳥取県癩予防協会設立及びそれによる無らい県運動は開局したばかりのラジオで放送され,また,県内3か所で記念講演会が開催
され,その内容が新聞の記事になり,県民への宣伝,伝播が行われた。上記の講演会では,集まった市民に対し,ハンセン病は眉毛がなくなり毛も抜け醜状をきたし感覚も失われる病気であること,ハンセン病の感染源が患者であって,患者と同居したり交流したりすることで感染する病気であること,家族間や親族間での感染が強調された上に,潜伏期間
が非常に長く感染を隠されてしまいかねないところ,早く療養所に入ることこそが肝要であること,長い歴史を誇る日本とハンセン病患者の存在は合わないことなどが訴えられた。
実際の収容状況は,県の衛生課職員,警察官,地域の有力者である方面委員(現在の民生委員)が在宅患者宅を訪れ,患者本人に療養所の様
子や治療に関する写真を見せて説明するなどして説得し,それで入所した患者もいたが,多くの患者は周囲に天刑病であることが露見し家族や親類が破談,一家離散となることを怖れるなどの理由で拒否したことから,地域住民が感づくほどに訪問を繰り返し,感染の怖れを強調し,周囲の迷惑を説いて無理矢理にでも入所させた。また,患者が野良で仕事をしているところをトラックで押しかけ,そのままトラックに押し込むことや,寝具衣類を真っ白に消毒することもあった。道程には県の衛生課職員と警察官が付き添った。このようにして,鳥取県では,昭和13年までに103人を収容する大きな成果を挙げ療養所に収容されていない患者が一旦殆んどいなくなった。
他の府県の状況も,鳥取県ほどに独自の協会を設立して組織的な運動
を行うところはなかったが,多くの府県で療養所と連携を取り,収容を進めていった(甲A13,甲A30)。
例えば,北海道は,無らい県運動等と銘打って患者を収容する運動こそなかったが,それでも,内務省の癩の根絶策を受け,衛生課勤務の警察官が,患者宅を個別訪問し治療上の注意や投薬等の指導を行い,他方,
各警察署や市町村役場,その他の関係団体と協力して各地で講演会を開催し,小中学校で予防講話を行い,ハンセン病が遺伝病ではないことなどの知識普及に努め,患者の療養所入所を進め,昭和10年から昭和18年までの収容患者は177名に達した。また,これらの情報は新聞に掲載され読者の目にふれたが,新聞記事によっては,ハンセン病患者を
業病人と表現する記事もあった。(甲A32・27~29,36,55頁)
岡山県は,昭和14年にらい根絶実施要綱を策定して昭和16年にかけて本格的な運動を展開し,同年には合計57名を収容し目的を達成したとしてその旨を宣言している。その運動の内容は,①療養所等の協力
を得て,在宅患者の所在地を中心に座談会,講演会及び映画会を催したり,予防思想の普及を内容とした配布物を作成し各警察署に備え置き,また,市町村役場,女学校,その他の学校,男女青年団,方面委員その他の社会事業団体等に頒布して啓蒙活動に努め,②他方で全国一斉調査を行う際,前後3回程度にわたった徹底した調査を行い,この一斉調査以外でも警察署が中心となり市町村,同衛生組合,社会事業団体が連絡を取り合って風評,聞込み等から得た情報に基づき調査を行うこと,③学校における児童生徒の検診調査,④患者であることが疑われる者宅や患者宅を訪問しその容疑者・患者の検診・指導,さらにはその家族の検診を行い新たな患者の発見に努めることなどであった(甲A30)。実際の収容状況については,①強制的に入所させられた者,②自ら希望し
て入所した者,③誰かに説得されて入所を承知した者などがいたが,その比率については明らかでない。ただ,これについて,療養所のパンフレットが療養所をとても良いところであると紹介する内容であったこと及び当時における患者とその家族に対する差別の状況から,希望して入所した者もかなりの数に上っていたと分析されている。(甲A30・1
58頁)
この点,平成15年に全国13か所の療養所の入所者に対し行ったアンケート調査では,入所者のうち警察官に無理矢理連れて行かれたなどの物理的強制があったのが昭和10年から同14年で入所者の約16%(執拗な勧誘を合わせると20%超の可能性が高い。),昭和15年か
ら同19年の入所者の約22%(執拗な勧誘を合わせると30%超の可能性が高い。)とされている(甲A24・37頁)。
さらに,実際の収容状況について,前記第2の6⑶クのとおり新法制定に先立ち行われた参議院厚生委員会の審議で参考人として呼ばれた大浜文子が,大阪府の癩予防係として勤務を始めた昭和15年から終戦ま
での間の大阪府の実態として,新しく発見された患者或いは登録されている患者(約600名)に対しまして,官庁の係員が何月何日に療養所へ行くからという電話をかけますと,警察の衛生係が電話或いは又派出所を通しまして患者に呼び出しをかけます。そして何月何日の朝警察まで出て来い,患者は何の用かと思いまして出て参りますと,この自動車に乗れと言って,そしてそのまま大阪駅を連れて行かれまして,大阪駅から癩療養所に送られるというような方法をとっておりました。初めて大阪府でその仕事を与えられましたときに,これが一人娘として,社会に愛の働きによって尽くしたいという者がしなければならない道かなどと悩み辞めることも考えたが,人間的な方法で仕事ができないかとの思いで仕事を続け,1年間に200人近い患者を護送したと述べた
(甲A55・1,2頁)。また,大阪府については,原告番号3の原告が,尋問において,昭和15年に父親が収容された際,自宅の床下,納屋,経営していた工場,さらには近くの川まですべて白く消毒され,周囲の住民に父親が収容されたことは知れ渡った旨を供述する(原告番号3本人・5頁)。このような白い粉による自宅及びその周辺の消毒は,
当時,福岡県に住んでいた原告番号1の原告も体験している(甲A1・236頁)。また,風雪の紋栗生楽泉園患者50年史(昭和57
年9月20日発行)には,群馬県についての戦時下のこととして,警察との連携のもと当園(楽泉園)の収容バスが患家に直接配車され,患者を収容すると同時にモノモノしい予防着姿で患家を徹底的に消毒した
と記載され(甲D76・206頁),また,長島は語る岡山県ハンセン病関係資料集・前編(平成19年2月28日発行)には,昭和16年の新聞記事に,ハンセン病患者が列車に乗っていたことが判明したため,その列車,駅舎が消毒されたことが掲載されたことを紹介している(甲A30・250頁)。もっとも,平成15年に全国13か所の療
養所の入所者に対し行ったアンケート調査では,入所者のうち周囲に分かるようなあからさまな消毒を体験したのは,昭和10年から同14年の入所者の約23%,昭和15年から同19年の入所者の約30%とされている(甲A24・138頁)。
さらに,前提事実第4の2のとおり,熊本県では,昭和15年,本妙寺周辺の部落が解体させられ,ハンセン病患者118名はトラックに乗せられ恵楓園他の収容所に収容され,群馬県では,昭和16年,草津
町の湯ノ沢集落が解体させられ,ハンセン病患者は楽泉園に収容された(甲A25・61頁,甲D81)。
その他の府県における無らい県運動により収容された患者の数としては,埼玉県が40名,宮城県が147名,富山県が37名などであり,各府県の合計は昭和5年から15年の間に約6000名となる(甲A
4・279~281頁,甲A23・174頁,甲D81)。

この時期のハンセン病患及びその家族に対する偏見差別について,財団法人日弁連法務研究財団のハンセン病問題に関する検証会議の委員が聞取りをした記録等によると,就学拒否(甲A24・27頁,甲D76・206頁),学校でのいじめ(甲A24・29頁),就労拒否(甲A24・3
1頁,甲D76・206,207頁),離婚(甲A24・32頁,甲D76・206,207頁),婚約関係の破たん(甲A24・33頁),村八分(甲A32・67頁,甲D76・206頁),ハンセン病患者の子を一般の養護施設が受け入れを拒否し,受け入れても十分に養育しない(甲A23・346頁,甲A34・81頁)などの差別が発生していたことが記
載されている。また,原告番号3は,尋問において,後記第7の1
アの

とおり小学校での深刻ないじめを供述している。

このように無らい県運動が展開されていた時期における,国民らのハンセン病並びに患者及びその家族に対する認識,意識については次のとおり
である。
昭和14年,日野修一医師は,発表した論文に,医学的にハンセン病が遺伝性疾患でないとされるようになっても,世間(世論)には今日でも伝染説に耳を傾けないものが多く,しかも,世論が遺伝という場合,ハンセン病そのものが遺伝性疾患であって血族的に関係のない者は絶対に罹患することはないとの考えと,古来の常識的な信仰に基づきながらも,他方でハンセン病が伝染病の類であることをおぼろげながらにも知っていることから,ハンセン病に罹患するには何か体質的な条件があるとの考えであり,その二通りの考えが混同されている旨を記載している(甲D62)。
戦後になるが,昭和26年の三園長発言の場で,前記第2の5


のとおり,宮崎は,ハンセン病についての社会の一般的認識に触れ,昔から宗教的,迷信的な偏見が付きまとっており,天刑病だとか,業病だとか,遺伝だとか,不治だとかいうような特殊な考え方が支配的であるとの認識を示し,昔から天刑病と言われて偏見を受け悲劇に遭うことに触れ,同じくその場に参考人として呼ばれていた名古屋大学教
授久野寧も,ハンセン病は身体の変形及び醜状化並びに不治の病であることから天刑病と言われ嫌悪,排斥の対象とされていると述べた。大浜文子は,前記エのとおり新法制定が議題となった参議院厚生委員会において,私たちはあらゆる機会においてらいの啓蒙宣伝をいたして参りました。でその際大きな写真入りで,そうして又大きな宣伝で,らいは決して遺伝ではありません。伝染であるということを前提にして展覧会をいたします。その展覧会を眺めながら結局半数以上7分までの人が,これはなあ,血統というてなあと言つて写真を見て通ります。そういうふうなことを見ておりますと,如何にらいという言葉の裏には因襲付けられたものがあるか,いくら伝染病だと言つても結局一時代生まれ変わらなければ,らいは伝染であるという思想が行き渡らないのだということをいつも痛感しております。と述べ,また,家族の結婚,就職差別,貧困等の被害の存在について言及した(甲A55・1,2,13頁)。
また,この新法制定が議題となった衆参議院のいずれの厚生委員会においても,前記第2の6及び

のとおり,多くの国会議員及び政府委

員が,ハンセン病が伝染病であることは国会議員及び政府委員の間では
知られているのに,長い間使われてきたらいという言葉によって,国民の心かららい病(ハンセン病)は因習,天刑病,遺伝病であるとの意識,理解が消えず,それ故に患者だけでなく家族も偏見差別を受け苦しんでいるとの認識を示した。
昭和29年に,鳥取県総務課が編集した県広報誌鳥取県民時報に

も,公衆衛生課の担当者の記事として,ハンセン病が遺伝病か伝染病かの質問をよく受け,その際には口を酸っぱくして伝染病であることの説明をするが,質問者は一応うなずいているものの遺伝観念が強いため伝染もするが遺伝もすると勝手に訳のわからないことに混同してしまうとの記事が掲載されている(甲A80)。

昭和9年生まれの原告番号3は,尋問において,6歳の時,父親が警察官に連れて行かれ,その際に母親から父親は腐る病気と聞き,小学校4年生でそれがハンセン病であると知ったと供述した上で,自分は家族がその腐った病気に罹ったが故に差別被害を受け続けた旨の供述をする(原告番号3本人・31,32,45,46頁)。


ところで,世上知られているように,戦前の日本は天皇大権,家父長制度による農漁村部に人口の多い階層社会であり,恐慌や凶作で貧困に喘ぎ十分な教育も受けられない小作人,漁師,工員がいる一方,大企業家,大地主,大船主,政治家,政府官僚及び軍部官僚がおり,その間に小地主,
自営業者,警察官,市町村役場等の官吏,学校の教員等の中間層がいた。しかも,無らい県運動が各府県で行われた時期は,昭和12年日中戦争が勃発し大陸での戦争が始まり,昭和16年には太平洋戦争が始まり,国民生活は強力な統制の下におかれ,国家権力の監視が厳しくなり,個人の自由が制限され,民族主義的国家主義的国家観による戦時体制に入っていった時期である。国家総動員法の下,戦争のために物資,労働力,言論,思想等が統制され,上層階級が下層階級を統制する社会構造が構築された
(甲A2・100,101頁,甲A3・127,128頁)。また,戦時体制となって,配給,防空訓練等のため地区に町内会,隣組が設けられたことも世上知られている。そして,戦局の悪化とともに各統制が厳しくなったことも公知である。
このような戦時体制では,兵役を果たし戦果を挙げることが男子の価値
とされたところ,ハンセン病患者はそれが免除されており(甲A3・190頁),価値の低い人間とみなされ,むしろ,他に伝染させるとなれば,有能な兵を減らしてしまい,さらに,将来生まれてくる男子がハンセン病に罹患していたのではその子も兵役を果たせず,国家にとって有害無益であり,忌避・排除の思想が当然のように生まれることから,政府による優
生思想の伝播を待つまでもなく,夫や子を出征させた家族からすると,ハンセン病患者及びその家族に対し劣等の感情をもって何ら不自然でない(甲A43,甲D76・205頁)。
また,大多数にハンセン病についての偏見が根付き,このような体制が築き上げられたことは,以後の隔離政策等のハンセン病患者に対する差別
的政策が支持される基盤となった。
沖縄について

沖縄県においても,前記ウのとおり,他の府県と同じく癩予防協会の活動に触発,促されるように,昭和13年に愛楽園が開設されたこともあ
り,ハンセン病患者の収容が進んだ。昭和10年に沖縄から鹿児島所在の敬愛園へ129人が収容され,愛楽園は昭和13年の開設当初から定員200人のところ333人もの人数を収容する状況だった(甲A44・107頁,甲D81)。また,屋部焼討事件(前提事実第6の1

ウ)が発生

した昭和10年には,愛生園医務課長林文雄が沖縄本島各地で講演を行って,ハンセン病患者を隔離する場所を設置すべき必要性を説くことで,ハンセン病患者の隔離収容が必要であると宣伝し,光田が地方紙である琉球
新報に寄稿して,朝鮮半島や日本本土で療養所におけるハンセン病患者の絶対的隔離政策が成果を収めていると宣伝するなど,沖縄以外の地域と同様に,ハンセン病がその患者の全てを療養所に隔離すべき伝染病であることを訴えた。また,癩予防協会の活動として昭和11年には女子中等学校において予防知識の普及活動を行い,昭和13年にも講演及び映画の放映
が実施され,それらには合計6900人の住民らが参加し,これらの他にもパンフレットの配布や講演会等で予防知識を普及する周知活動が実施され,多くの住民らにハンセン病がその患者の全てを療養所に隔離すべき伝染病であることが知られた。(甲A11・174頁,甲A44・108,109,144,145頁)


昭和14年2月,沖縄県知事が会長に就任し沖縄救らい協会が設立され,発会式において沖縄県を無らい県とするには救らいの認識を強化することが重要とされ,無らい県に向けた活動が確認された。同会の事業計画内容は,ハンセン病予防宣伝,患者調査,患家の指導,収容患者の慰安等,療養所の施設充実・拡張であり(実際に,愛生園に付設して保育所
を開設するなどしている。),他府県の無らい県運動の内容とそれ程変わりがない(甲A44・112頁,乙A29・67,81頁)。

このように,沖縄県は,無らい県運動と銘打って運動を展開していたわけではないが,沖縄救らい協会を設立して同様の活動を行っていた。
その調査,収容の状況については,各地で検診や学童一斉検診を多数回実施し,警察官によるハンセン病患者の収容が実施された上,患者の捜索が離島も含め津々浦々まで実施されており,多数の住民らに,ハンセン病が隔離されるべき恐ろしい病気であるという意識を与えた。昭和14年には,久米島の村内の有識者等が島内のハンセン病患者を一日も早く全員療養所に収容するよう熱望した旨の記録もあり,昭和16年には,渡名喜島の検診報告書に,島の患者の至急隔離のために村長及び指導階級の奮起を
促す旨の記載もある。(甲A44・109~111,116,124頁)そして,原告番号324は,尋問において,母親から聞いた話として,父親が収容される際に色々な薬が撒かれ消毒がされたと供述しており(後記第7の1

ニ),この時だけでなく同じように消毒薬を散布されところ

を目撃した地域の住民,さらには目撃した住民から話を聞いた住民は,少
なくとも,ハンセン病について,消毒薬を撒かれ警察官によって何処かに連れて行かれる恐い病気であるとの認識を持つことになったといえる。また,原告番号324は,小学生の時に同級生と教室の中で机を並べることができなかったことなどの差別被害についても供述している(後記第7の1


ニ)。

前提事実第5の1

のとおり,愛楽園は,昭和19年9月,日本陸軍

(守備部隊)の軍医部とともに沖縄本島の非入所患者に対し大規模な一斉収容を実施した(甲A44・155頁)。沖縄における隔離収容は沖縄以外の地域以上に徹底したものであり,発見したハンセン病患者の家の木々に赤い布をつるして日本陸軍兵の立入禁止の印とし,収容の際には,トラックを使い,トラックに乗ることを拒否する患者に対しては日本刀や銃剣で威嚇して連行するものであったため,このような情報は各地に伝わり自ら入園する者が現れるような状況であったことからすれば,当時の沖縄がサイパン島陥落により沖縄での陸上決戦が間近に迫り米(空海)軍の攻撃
を受けながら守備部隊が続々と集結し陸上決戦に備える緊迫した状況であっても,上記の連行等を目撃したり聞いたりした住民らには,ハンセン病患者への一定の忌避感や排除意識を与えた。(甲A23・660~663頁,甲A44・155,156頁,乙A26・170~172,225,226頁,乙A29・67頁)

沖縄におけるハンセン病の古くからの認識は,前記1のとおりであり,その後の,沖縄における住民らの認識の変化としては,次のとおりである。上原信雄編沖縄救癩史(昭和39年発行)には,沖縄には,発病する原因について,古来,①本人,その他親兄弟または祖先の犯した罪の現れとする天刑説,②他人,特に患者に恨まれると発病するという怨念説,③血統によるという遺伝説,④鼠,ハブに咬まれると発病するという説等
があるところ,これら誤った思想は根強いものがあって,医学の進歩につれて著しく是正されつつあるというものの,現在(昭和39年)でも,みな尾を引いて残っているとか,宮古地方の話として,ハンセン病の重症者の症状が外貌の大きな変化,醜状にあることからハンセン病患者が天刑を受けた穢れた者であると古来認識されているところ,この観念は現在も一
般にあり死者の埋葬においてもそのことが表れる,と記載されている(乙A26・196,197,204頁)。
また,原告番号339は,尋問において,宮古島の話として,身体が変形して障害があるとそういう人には差別意識がある旨を供述する(原告番号339本人・32,33頁)

他方,愛楽園所長を昭和40年から22年間務めた犀川は,熊本判決の証人尋問において,ハンセン病患者を隔離する政策と患者への偏見差別の関係を尋ねられ,皮膚の表面に現れた怖ろしい症状及び変化による古くからの偏見も根強くあるが,隔離という政策が行われて以来,やはり特別なところに,特に日本においては治外法権的なところに規制されているということによって,患者さん自身もそうですが,世間の目は療養所に対して非常に恐怖と,それから特別なところであると,そしてそこに入る人は特別な病気の人なんだという,そういう偏見というのは療養所の強制隔離によって強化された,増えたというふうに理解しています。と供述した(甲D146・497頁,乙A29)。
小括

以上によれば,癩予防協会の活動,各府県における無らい県運動が展開され,政府関係者,政治家,企業家,さらには,府県等の役場職員,警察官,学校教員,方面委員及び青年団員等の政策実施に関わった者は勿論のこと,講演及び映画を視聴したり新聞を読んだりラジオを聞いたりした国民ら及びその者らから話を聞いた家族らの間では,少なくとも,ハンセン
病は最近の医学では伝染病であるとされているらしいこと,療養所に隔離治療する必要のある病気であること,そもそもハンセン病は外貌に著しい醜状が生じる不治の病であること,さらには,戦時体制に向かい,患者を国辱とする考えや,ハンセン病患者を絶対隔離することで民族の血が浄化されるとの優生的思想,文明国となるにはハンセン病患者の撲滅が必要に
なることを認識したといえる。また,無らい県運動によって,国民らのうちには,その周囲に警察官や府県の衛生課職員が現れハンセン病患者を強制的,半強制的に連れて行く光景,さらには消毒でハンセン病患者宅等が真っ白になる光景が展開され,それを見たり聞いたりする者が増えることで,少なくとも,ハンセン病について,国家によって何処かに連れて行か
れる怖い病気であるとの理解が一定程度広がった。
そして,戦時体制時,政府(内務省や厚生省)の指示の下,府県職員や警察官による物資,労働力(徴兵等),公衆衛生及び思想等の統制が強化され,無らい県運動についても,厚生省によって各府県に対し運動の徹底が直接指示されており(前提事実第4の2),全国的にハンセン病患者
に対する府県等の役場職員や警察官による調査等が厳しくなり,加えて,上記の講演,新聞等から情報,知識を得ていなかった国民らも,その上位階層にあたる,学校教員,方面委員,その地区の有力者(地主,工場主等)や各地区の隣組等から,少なくとも,ハンセン病について,眉毛がなくなり毛が抜けるなどの醜状が生じる病気であり,しかも,当時においては絶対的な存在である国家によって隔離収容される恐ろしい病気であって県職員や警察官が捜索し収容しようとしている程度のことを伝え聞き,見つけ
たら知らせるように指示を受けるなどして,全国津々浦々,患者の発見や密告に協力する体制ができあがった。すなわち,昭和16年には全府県で無らい県運動が行われていたことからいって,昭和18年頃には,大多数の国民の間で,ハンセン病患者に対し隔離収容されて当然であり,忌避・排除されるべき存在であるとの共通認識を持ち(その意味において,原告
らの主張する集合的意識としての偏見の形成・成立),全国津々浦々,患者の発見や密告に協力する体制ができあがったといえる。
また,大多数の国民にハンセン病についての偏見が根付き,このような体制が築き上げられたことは,以後の隔離政策等のハンセン病患者に対する政策が支持される基盤となった。


ハンセン病患者家族に対しては,優生手術に関する帝国議会における審議状況(第2の3

,同,同4

,同

)のとおり,政府委員,さらに

国会議員の一部には,ハンセン病患者は,断種をして子が産めなくなることが当然で,また,ハンセン病患者の子は生まれることができなくて当然であるとの認識を示していた。また,昭和6年以降,保育所が設置され(前提事実第4の2

,同4

),保育所に入所していた児童を含むハン

セン病患者の子で健康な児童について,未感染児童と呼ばれるようになり,後記第5の3のとおり,一定の範囲では,未感染児童を未発病児と混同し,ハンセン病患者の子が,既に感染していて現在潜伏期にあり,要観察対象者であるという認識が広まったといえるし,無らい県運動における講演等において,前記⑴エのとおり,ハンセン病が伝染病であることから同居して密な接触をする家族への感染については当然言及されていたであろうから,それを見聞きした者は,家族も感染しいずれは発病するからハンセン病患者と変わらないとの意識を持ったものといえる。そして,前記アのとおり,上記の講演,新聞等から情報,知識を得ていなかった国民らも,より上位の階層にあたる,学校教員,方面委員,僧侶,その地区
の有力者(地主,工場主等)らから伝え聞き,また,指示を受けて特別な意識をもったといえる。そもそも,戦前は,父長を中心とした家制度により,家族は父長を中心に一体であるとの思想が強い上,ハンセン病についても因習による家系(家筋)病,天刑病等でも,被告の絶対隔離政策の医学的根拠である伝染病でも,周囲の者からすれば,同居の家族を一体に考
えるのが自然なところ,しかも富国強兵,戦時体制による優生思想の下では,国家がハンセン病患者を隔離収容するのであれば,大多数の国民にとって,その家族も同じような扱いを受けてもやむを得ない劣等な人種と考えるのが自然であり,前記⑴オ,同カ,同

及び⑵ウのとおり実際に家

族が差別被害を受けたのも,ハンセン病患者は国家によって隔離収容され
るということから,大多数の国民らが上記の認識,意識を持ったためといえる(甲A2・100,101頁,甲A43・12頁)。

このように,癩予防協会の活動,それに触発,促された無らい県運動は,ハンセン病隔離政策等の一環として,ハンセン病が伝染する危険な病気で
あり公衆衛生上隔離収容されるべきこと,富国強兵や戦時体制を前提とした優生思想に基づく偏見差別を国民らに植え付けるものであった。前記⑴カのとおり関係者の見解のとおり,当時の国民らの間では,ハンセン病に関する因習が根深く,ハンセン病隔離政策等を策定した政府官僚,政治家等,無らい県運動を遂行した府県等の役場職員,警察官及び学校教員等,
さらに科学的論理的に考える国民等には伝染病と正解する者がいても,それまでの因習による認識,意識から,国家によって隔離収容されるのは,やはり天刑病,業病だからと考える者,体質的遺伝性疾病観で考える者,非科学的非論理的でも伝染病であり遺伝病,天刑病でもあると考える者がおり,さらに,医学的なことは置いて,隔離収容とハンセン病の症状である外貌の大きな変化,醜状化とを結びつけて認識する者もいた。いずれにしても,当時の国民らのハンセン病に対する認識としては,ハンセン病が
国家によって隔離収容される恐い病気であるとの認識や,優生思想もあいまって,罹患したハンセン病患者だけでなくその近くにいる家族も排斥すべき者であるとの認識では,共通していたといえる。そして,ひとたび形成された偏見差別の意識は,時間の経過とともにその根拠や理由が忘れ去られ,そうでなくても曖昧になりがちであるため,無らい県運動によって
生み出された偏見や差別も,その根拠や理由があいまいな嫌悪感や忌避感に変形しながら少なくとも世代が変わるまで残るということがいえる。エ
これらのことは,ハンセン病に対する認識を含めて,概ね沖縄についても当てはまり,無らい県運動と同様の活動が展開され,周知活動の際には,
ハンセン病の感染源は患者であって,患者と同居したり交流したりすることで感染する強烈伝染病であること,それ故に患者を隔離しなければならないこと,それに家族間や親族間での感染が強調され本土と同じく,一定の住民らが,ハンセン病は強烈伝染病であること,患者は隔離しなければならないこと,ハンセン病患者の家族も感染しいずれは発病する危険があ
り,ハンセン病患者と変わらないとの意識を持ったといえるし,他方で,根深い因習があるため,多くの沖縄の住民がそれまでの認識等から色々と理解,意識したのも本土とほぼ同様だったといえる。実際に多くのハンセン病患者が調査,隔離収容されたことから,前記キの当時の国家体制や国情の下,沖縄の住民も,中上位階層からの指示もありハンセン病に対す
る恐怖心を植え付けられ,ハンセン病患者に対する忌避感や排除意識が形成された。そして,ハンセン病患者家族に対しても患者と同類として忌避感や排除意識が生じ偏見差別が生じたといえる。すなわち,大多数の住民の間で,沖縄以外の地域と同様な,ハンセン病患者に対し隔離収容されて当然であり,忌避・排除されるべき存在であるとの共通認識が生じた。沖縄では,療養所建設に反対して昭和7年に嵐山事件(前提事実第5の1イ
)や昭和10年に屋部焼討事件(前提事実第5の1イ

)が発

生するなど,無らい県運動初期の時点から,ハンセン病患者に対する差別は強烈であった。前記2イに記載したとおり,沖縄における集落外の者に対する排除意識が療養所建設に対する反対運動に影響した可能性は否定できないものの,屋部焼討事件における反対住民は,反対する理由として,那覇市内の浮浪しているハンセン病患者を屋部に移住させるには,民衆に
不安を与えないだけの隔離施設と消毒処置が必要であるのにそれらがなく,他の部落出身の伝染病患者を部落で集団生活させるわけにはいかない旨を述べており,ハンセン病が隔離施設や特別な消毒処置が必要な強烈な伝染病であって,そのような強力な伝染病を有する集落外のよそ者は排除するという意識があったといえる(乙A26・112頁)。

4
戦後新法廃止まで
沖縄以外の地域について

前提事実第4の3

のとおり,戦後においても厚生省の主導により無ら

い県運動が次のとおり展開された。
民主主義,基本的人権を保障する憲法が制定され,終戦の混乱が収まり始めた昭和22年,厚生省予防局長は,無癩方策実施に関する件と題する通知(前提事実第4の3)を発し,各都道府県知事に対し無らい県運動の徹底的な実施を指示し,一般市民の協力を得て,ハンセン病患者が自発的に入所する状況を作るためラジオ新聞等の報道機関を利
用して周知を図ることを指示した。また,昭和24年の厚生省で開催された全国癩療養所所長会議において,無らい県運動を継続するという方針が決定されるとともに,療養所の増床と一斉検診の実施が決定され,厚生省は,昭和25年以降,全患者の収容を前提とした増床を行い,患者を次々と入所させる方策を取った(前提事実第4の3

)。さらに,

厚生省は,都道府県知事に対し,昭和25年の昭和二十五年度のらい予防事業についてと題する通知(前提事実第4の3
),昭和二十六年度らい予防事業についてと題する通知(前提事実第4の3
)を

もって,在宅患者の一斉検診,名簿の作成,収容等についての整備,無らい県運動の徹底的な実施体制作りを指示し,昭和28年には,強制入所の措置(6条),消毒(8条)等の規定がある新法(前提事実第4の3⑿)を定めて法制度を整えた。そして,厚生省は,昭和33年には厚生省公衆衛生局通知(前提事実第4の4エ)を発し,都道府県知事に対し潜在患者の早期発見や患者の病状等の適正把握等を求め新法による施策の推進を促した。
昭和25年から昭和26年は,世上,朝鮮戦争によって景気が上昇し
国民らの多くの生活に余裕ができ始めた時期とされるところ,この頃の新聞記事には,例えば,昭和25年5月19日付け毎日新聞では,前提事実第4の3

のとおり,厚生省がライ病根絶のため潜在患者を発

見しようと全国の保健所を動員し全国的にライ病一斉検診に乗り出したこと,療養所の病床を昭和25年度は2000床,翌年度は2600床増やし,発見患者を入所保養させ30年計画でライ病を根絶させること,各市町村の衛生官と警察官が協力してライ容疑者名簿を作ること,保健所では一般住民からの聞込みや投書で容疑者発見に努めることが掲載された。この容疑者との記載は,読者に対しハンセン病患者を犯罪者と同じような者であるとの印象を与え,また,読者によっては,
厚生省は国民らに対し周囲にハンセン病患者とおぼしき者を見つけた場合には保健所への通報を求めており,それにより被告,地方公共団体及び国民らが一体となってらい菌根絶を実現することになったと印象付けた。また,昭和26年7月16日付け熊本日日新聞では,

従来,熊本は悪い意味における癩のメッカであった。これを今後は真の救癩のメッカにすべきである。まず県下の未収容患者をみんなの理解と協力によって一日も早く入園させることを考えねばならない

との社説が掲載された(甲A4・234頁)。
この頃のラジオ,新聞の国民ら一般家庭への普及の程度については判然としないところであるが,このように,法令等の整備や無らい県運動に関する情報をラジオ新聞等で知った国民らは,少なくともハンセン病
患者は国家によって隔離収容されるべき恐ろしい病気であると理解し(以前から認識のある者は認識を強固にした。),さらには,ハンセン病患者は犯罪者と同じような者であり周囲に患者又はその容疑者がいれば通報して療養所に収容することを促進しなければならないと理解した者も少なくなかったといえる。
実際に住民らによる通報も何件となくあった(前提事実第4の3

)。

例えば,大阪府が作成した大阪府ハンセン病実態調査報告書によれば,大都市を抱え未収容患者も多い大阪府の場合で,保健所職員や警察官からの通報が断然多いものの,一般府民からの通報も昭和29年に9人,同31年に2人,同33年に1人,同34年に2人,同37年に1人,同40年1人となされている(甲A27・57頁)。なお,大学教授としてハンセン病問題を研究する藤野豊の意見書には,大阪府に保存されていた資料を調査した結果として,昭和24年から昭和30年までになされた一般府民,保健所職員,警察官からの通報数が合計で36件と記載されている(甲A42の1・9頁,甲A42の2)。
各都道府県における無らい県運動は次のとおりであった。

a
愛知県では,全国でも浮浪患者,在宅患者が多かったことから力を入れ,昭和22年10月から翌年3月までを第1期計画として,その期間で県内の患者の現状調査(在宅患者305人)を行い,その際に入所勧奨も合わせて行い,昭和23年4月から昭和25年3月までの2年間でハンセン病の啓蒙宣伝,患者への入所勧誘,容疑者,再診者の検診,患者及び家族の生活援護,入所患者に対する慰問等を行い,
この期間に187人を収容し,昭和25年以降も入所勧奨を行うとともに募金等の募集,講演会を行った(甲A28・141~145頁)。そして,この頃の昭和24年3月27日付け中部日本新聞には,
最近浮浪者中にライ患者が増えたので県衛生部では名古屋別院,大須,覚王山付近で約数十名を検診したところ患者二名を発見,ちかく岡山の愛生園に収容する。ライ患者の多いことは愛知県が熊本県につぎ全国第二位で毎日数名の新患が発生しているので一般からも疑いある患者発見のさいは至急保健所または県予防課への連絡を望んでいる。との記事が掲載された(甲A28・143頁)。b
長野県では,厚生省の昭和25年,同26年の前記通知を受けて,①保健所医師が患者宅を訪問し家族の健康診断を行うこと,②一般医師の届出督励,一般住民よりの聞込み等により患者及びその疑いのある者の発見に努めること,③在宅患者及び療養所退所者に対し毎月1回か2回保健婦による家庭指導訪問を行い在宅患者に対しては入所を
勧奨すること,④収容後等には患者の使用した家屋,物件等に対する消毒,予防措置を行うことなどを内容とした計画が策定された(甲A31・24,25頁)。収容の状況については,熊本判決後に作成された長野県ハンセン病問題検証会議報告書によれば,行政関係者
からの聞取りとして,人目に触れないように夕方に患者宅に出かけ話
をするが,患者は話を聞くと動揺してしまい,死ぬと言い出す患者もいるため説得に思案したこと,家族共々納得させるのに1か月を要したこともあること,遠い療養所への輸送はお召し列車のような特
別仕様の貸切車両を調達して送ったこと,患者宅は保健婦が消毒を行ったことが記載され,入所者からの聞取りとして,消毒は執拗に真っ白になるまで行われたことが記載されている(甲A31・26~28頁)。

そして,啓蒙活動として,県の広報誌広報長野昭和26年6月
15日号に

まだ発見されていない患者が相当数あると推測されるので,この際精密な調査が必要となっているのである。

,身内にらい患者が一人でも発生した時の一家親族の暗澹たる気持を考えて,この病害を防止するよう国民一致協力してらいの絶滅を期し,全国のすべてのらいに悩む人達を療養所に迎え入れて,希望をもって療養させるように努力すると共に,一日も早くこの呪わしいらいが絶滅されるようお互いに協力しなければならないと思う。との記事を掲載した(甲A31・25頁)。
そして,この頃の昭和24年11月19日付け読売新聞長野版には,
県が未収容の患者の一掃に乗り出し,疑似患者15名を検査した結果,8名が保菌者と判明し直ちに栗生園に収容したこと,この他未収容の患者5名を山中で伐採等の作業中に発見しており年内には収容し,これで

全国で初めてである無ライ県のトップを切ることとなった。

との記事が掲載された(甲A31・28頁)。

c
この時期において全国の中でも未収容の患者が最も多いとされた熊本県では,昭和22年の前記通知に従い,特に保健所と恵楓園が緊密なる連絡のもとに一斉検診を行い,患者を発見し入所させようと昭和23年から予算を計上し在宅患者の検診,予防思想の普及に努め,さ
らには昭和25年の前記通知による全国一斉検診の指示に従い同年県内一斉検診を行った。県は,この全国一斉調査に先立って昭和24年にも県内一斉調査を行っており昭和25年の調査と合わせて400~500人の新たな患者を発見するに至った。他方で,県衛生部は恵楓園と連携し病床を1000床増やす計画に参画し,新たに発見した患者全員を収容する方針を打ち出した。そこで,昭和26年に増床工事が完成すると,熊本県だけで同年に185人の患者を収容した。(甲A26・218~220頁)
その収容の状況については,菊池事件(前提事実第6の1イ)の
藤本の場合をみると,昭和26年1月9日付けで将来の貴方の生活上及び家庭の並びに公衆衛生上を考慮して指示の時日(同月26日)に入所させるため,自動車を附近まで派遣させるので早く入所して明るい療養生活を営なめられるよう希望すると記載された県衛生部長名の入所勧告が同月11日頃に藤本の下に届き,ハンセン病の自覚のない藤本は,既に一度恵楓園で診察を受けハンセン病と診断されていたが,再度同月12日に診断を受け,それでもハンセン病と診断され
たことから出奔し,ハンセン病ではないと記載された診断書を携えて帰郷した。藤本は,その診断書を持って恵楓園の医師と会い談判したが聞き入れてもらえず,この頃には当然,藤本は役場から恵楓園に行くように指示されているとの噂が周囲に広がった(甲A26・95,96頁)。この菊池事件によれば,県は当時,一方的な収容手続を進
めようとして対象者と揉め,周囲の住民らに対象者が国家,県によって連れて行かれるのを知られ,さらには,伝え聞いた周囲の住民らにもハンセン病が連れて行かれる恐ろしい病気であるとの印象を与えた。また,長く恵楓園所長だった宮崎は,昭和26年の三園長発言の場で,前記第2の5

アのとおり,逃走した患者を発見し収容する場合に

は法(旧法)に反すると知りつつ物理的な強硬手段を取っていたことを認めており,熊本判決後に作成された熊本県『無らい県運動』検証委員会報告書にも,県職員からの聞取りとして,強制収容の手続ができた新法施行後は,遠方まで出かけて収容する場合,再度訪問すると予算がかかるため,強制収容の規定があると言って説得してもそれに応じない患者に対しては地元の巡査に依頼して強制的に収容したとの記載があり(甲A26・224頁),この頃の熊本県は,警察官
を使い無理矢理に対象者を恵楓園に連行したことが少なからずあったといえる。
d
鳥取県では,戦前に比べると活発ではなかったものの,昭和22年の前記通知を受け,昭和25年4月,市町村に対し癩風評者調査報告方依頼についてを通知し,民衆の噂にある疑癩患者を調べ,
各保健所を通じて報告するよう指示した(甲A29・88頁)。そして,年に一度療養所の指定医を呼び,在宅患者及び一般の医師から届出のあった者に対する診察を実施し,収容相当の患者に対しては入所勧奨を行い,患者を療養所に連れて行った。これらを行う際,新法施行までは白衣を着て在宅患者宅を訪れたりしていたが,新法施行後は
白衣の着用は止めた(甲A85)。啓蒙活動として,県の広報誌鳥取県民時報昭和27年7月号に,ライ患者の楽園科学的な療養所と題する記事を掲載し,ハンセン病は遺伝病でも天刑病でもなくライ菌によって伝染する慢性伝染病であるから世間体などを考え
ることなく1日も早く療養所に入所するよう勧誘した(甲A79)。
e
もっとも,実際の収容時の連れて行く方法について,前記3エ
の平成15年に全国13か所の療養所の入所者に対し行ったアンケート調査では,無理矢理連れて行くなどの物理的強制が昭和20年から同24年の入所者の約15%(執拗な入所勧誘を合わせると約22%
になる可能性が高い。),昭和25年から同34年の入所者の約12%(執拗な入所勧誘を合わせると約20%になる可能性が高い。)となっている(甲A24・37頁)。
f
実際の収容時の消毒の状況について,原告番号6は,後記第7の1エのとおり,昭和26年,北海道において,父親が収容される際,家中が真っ白くなるまで消毒薬が撒かれ周囲から白い眼で見られた体験をし(甲A1・148頁),原告番号7の場合には,父親が昭和3
1年頃に大阪府下で自宅を消毒されことを証言している(原告番号7本人19頁)。原告番号377は,昭和37年に京都府下で姉が収容された際,白装束を着た者が自宅に少なくとも5,6人は来て自宅ばかりか隣家の家主宅まで噴霧器のようなもので消毒されたのを体験している(原告番号377本人5,6頁)。また,自宅以外について
も,原告番号25は,昭和22年に大阪駅で白装束を着た2人の男性に患者家族とともに乗る予定の貨車,通った通路及びプラットホームに白い粉が撒かれたのを体験している(原告番号25本人4,5,34頁)。前記と同じ平成15年に全国13か所の療養所の入所者に対し行ったアンケート調査では,入所者のうち周囲に知られるようなあ
からさまな消毒を体験したのは,戦前戦中より増えて昭和20年から同24年の入所者の約37%,昭和25年から同29年の入所者の約49%であり,昭和20年代後半は約半数の入所者が体験している(甲A24・138頁)。
g
このようにして,前記dに記載した県以外でも,厚生省の昭和25年,同26年の通知等に従って一斉調査,検診,収容活動等が行われ,療養所の収容数は,全国の都道府県を合わせれば,昭和24年から同30年の7年間だけで5264人に及んだ(甲A4・142,143頁,甲A23・176~184頁,甲A27・51~60頁,甲A3
2・29,30頁)。
そうすると,全国で何千人となく強制又は半ば無理矢理に連れて行かれたり消毒されたりし,それを目撃した周辺住民らや伝え聞いた住民らは,ハンセン病に対し国や都道府県によって連れて行かれる恐ろしい病気であるとの認識を持つようになり(既に有していた者は強固になる。),また,この頃の各都道府県の広報誌や前記のような新聞記事を読んだ国民らも,ハンセン病患者について,都道府県が競って
未収容の患者を見つけては収容しており一般社会に存在することが許されない危険な患者であるとの印象を有するようになった(既に有していた者は強固になった。)といえる。
なお,菊池医療刑務支所が平成9年まで存続し(前提事実第4の3⑺),行政ではないが,特別法廷が昭和47年まで運用されていたこ
とは(前提事実第4の3⑻),これらのことを知る者には,ハンセン病患者について隔離等の特別な対応が必要な存在と印象付けた。

無らい県運動が始まって10年ほど過ぎた昭和35年1月11日の読売新聞には,野放しのライ患者との見出しで,

同園の収容患者たちは園の周囲のいけガキにいくつも穴をあけて,無断外出用通用門をつくり,買い物から飲酒,競輪がよいまでしており,地元民の心配顔をよそに野放し状態にあることが分かり,問題となっている。

,外出は親族の死亡,財産処分,相続など特殊な事情がある者以外は許されない。それも厳密な健康診断を行ない,感染の恐れがないと認められた軽症者にかぎって園長から許可書が発行されている。これ以外はすべて違反外出というわけだ。,

同園では係り員五人を昼夜の別なく巡視させており,禁をおかして外出しようとして発見されるものが毎月十人ないし二十人もいる。

周囲には約二メートルの高さでヒイラギのいけガキがあるが,患者はノコギリやナタでカキを破り,係り員は修理するヒマもないほどだ。


地元民のあいだでは早くからこれが問題となっており,こんな野放し状態ではいつわれわれに感染するかも知れぬと内心おののいている,

厚生省医務局国立療養所課の話「医学的にみて感染のおそれのあるものは全収容患者の二,三割だが,もしそのような患者が無断外出した場合,外出さきがわかればただちに消毒するよう指示している。

」との記事(甲D53)が掲載された。この記事に掲載された厚生省医務局国立療養所課の発言は,記事を読んだ者に対し,被告は,ハンセン病患者について,療養
所で治療している患者であってもその立寄先を消毒することが必要なほどの強力な感染源であると認めているとの印象を与え,ハンセン病が強烈な伝染病であるとの誤解を生じさせる。また,この記事は,周辺住民や記者,入所者について,外出することで周辺住民が汚染されるとの恐怖を抱いていることや,仮に感染力のなくなった軽症者であって公衆衛生上外出して
も何ら問題ない場合であっても,ハンセン病患者である以上は自由な外出が許されていないことを当然のことと受け取っていることを窺わせる。他方でこの頃の新聞記事には,昭和34年の朝日新聞に見出しがライ治療の現状あすから東京で国際ライ学会議年々ふえる軽快退所注目される新薬・新療法,同年の東奥日報に見出しがきょう「救ライの日
もう業病ではない

明るさ取り戻した患者たち」とする記事もあり,医

学の進歩でハンセン病も他の一般的な病気と変わらなくなってきていることを印象付けるものもあった(甲A23・544,548頁)。

昭和40年代前半には,患者数の減少もあって無らい県運動が下火となり,従前の都道府県担当者も新たな患者の発見や収容の事務から外れ運動としての体裁はなくなった(甲A4・39頁,甲A32・177頁,甲A43・20頁,甲D110・資料3戦後日本及び沖縄の年度別ハンセン病患者発生状況)。他方で,昭和22年以降にわが国でも開始されたプロミン(前提事実
第2の1

)による治療の効果によって昭和26年に全国で35人が軽

快退所し,それ以降次第に軽快退所者が増加する状況となり(前提事実第4の4

ア),さらに,ハンセン病治療薬として服用後数日で体内の

らい菌の感染力を失わせることができるリファンピシンが昭和46年頃から日本国内でハンセン病治療に用いられるようになり(前提事実第2の4
),昭和40年代後半にはリファンピシンがらい菌に対し強い殺

菌作用を有することが明らかになり(前提事実第2の1

),昭和50

年代頃から外出制限等の患者に対する規制が緩やかに運用されるようになったものの(前提事実第4の3

ウ),昭和50年代になっても,厚

生省がハンセン病隔離政策等を廃止する方向で検討していた様子はなく,ハンセン病が隔離収容を必要とする特別な病気ではないことを周知する啓蒙活動も行われていない。さらに,WHOが再発の可能性がほとんどなく治療効果が高い多剤併用療法を提唱した昭和56年後においても(前提事実第2の1),前記第3の1

のとおり,昭和57年の衆議

院社会労働委員会において,政府委員は,ハンセン病患者を収容する従前からの政策を肯定している。
前提事実第4の3のとおり,藤楓協会はハンセン病の啓蒙活動において厚生省と密接な関係を持ち,昭和57年までの間,ハンセン病患者家族について以下のような記述をしたパンフレットやチラシを配布し啓蒙活動を行った。
らいは乳幼児のときに家庭内感染を受けた人以外殆ど発病の危険はありません(昭和44年のもの。甲A64),

一種の伝染病であり,別名ハンセン氏病ともいわれていますが,その伝染力は大へん弱く,乳幼児のときに家族内感染をうけた者の発病がその大半を占めています。

(昭和46年につき甲A65,昭和48年につき甲A66,昭和49年につき甲A67,昭和50年につき甲A68,昭和52年につき甲A6
9),

伝染力は大へん弱く,家族にその患者が同居していた場合などに,まだ抵抗力の弱い乳幼児が感染し,しかもその一部が発病するにすぎません。

(昭和57年のもの。甲A70)藤楓協会の上記記述は,ハンセン病が伝染病であること,ハンセン病患者の家族でなければ殆んど感染することはないし恐くない病気であることを印象付け,その意味では忌避・排除の対象にならないことを啓蒙する表現として偏見差別を減じる内容であるが,他方,幼少時に患者と同居していた家族であってもほとんど感染しない旨や,ハンセン病患者家族で感染していたとしても発病していなければ感染源とならない旨の記載がなく,昭和57年のものを除いては感染したとしてもほとんど発病しない旨の記載もないため,幼少時に患者と同居していた家族がハン
セン病に感染している可能性が高く,ハンセン病患者家族はハンセン病を発病する可能性が高いとの印象を与える内容であった。
教育の場面において,前提事実第4の4

に記載のとおり,昭和45

年から昭和48年までの間,文部省が発行した中学校指導書保健体育編に適確な予防法がないために現在も相当数のハンセン病患者が発生するかのような記載があり,中学生の保健体育用教科書には,潜伏期が非常に長いこと,皮膚をおかす病気であること,今でも適確な予防法がなく1万人近い患者がいると記載され,その指導書にはハンセン病が恐ろしい病気であると説明するよう記載されたものがあった。
そこで,その当時においても,上記の教科書を使い教えられた生徒は,
ハンセン病が感染力の強い恐ろしい病気であるとの意識を植え付けられた可能性が大きい。
この時期の厚生省,各都道府県のハンセン病患者等への対応,対策状況に対し,新聞の記事等は次のとおりであった。
昭和46年,熊本日日新聞は,療養所内の現状や特効薬の開発でハン
セン病が不治の病でなくなったこと,社会復帰が困難な理由等を掲載し,また,昭和47年にも偏見をなくそうとの記事を掲載した(甲A26・160頁)。
その他,昭和53年までの間は,朝日新聞や毎日新聞が大阪版,岡山版等でハンセン病に対する偏見差別に関する記事やハンセン病の正しい理解についての記事を何回か掲載したり,偏見差別をテーマにした自主映画の上映を取り上げた記事を掲載したりした程度であった。また,ハンセン病患者が療養所で治癒して退所し職を得たが偏見に遭い,応援した医師らによって助けられたドキュメントのテレビ番組が全国放送されたこともあった(甲D3・182頁)。
昭和54年以降は,愛生園や光明園のある岡山県長島と本土を結ぶ橋
梁の設置計画が持ち上がったこともあり徐々にハンセン病に関する記事が増えた時期であり,昭和54年4月12日の朝日新聞には,隔離で偏見だけ温存ハンセン病は解決してないとの見出しの記事が掲載さ
れた。
また,昭和56年12月7日の東奥日報には,当時保養園所長であった荒川巌が秋田県母子無理心中事件(前提事実第6の2⑵ウ)に関しまだ残る差別と偏見‐予防法改正望むと題した論稿を寄稿し,この病気は,隔離以外に方法のない,不治の恐ろしい伝染病であるという医学的思想が圧倒的支配力をもち,そのために,かえって患者および家族の被る犠牲と困窮困惑は一層倍加し,社会の人々の患者や家族たちに対する偏見と差別は,一層深刻化してきた。この事情は現在まで続いている。,

この点で,従来のらい予防法(新法)は,健康者を守るためハンセン病患者を差別し,犠牲を強いる予防法であるので,これは一日も早く撤去して,正しい医療を目指すハンセン病医療法に改めなければならない。

との記事が掲載された(甲A74)。その他,昭和57
年2月7日の朝日新聞東京版には,ハンセン病誤解辞めてお坊さんが自費出版,訴える社会復帰阻む差別・偏見との見出しの記事,昭和60年12月23日の読売新聞には,読者からハンセン病の現状について問われたことに答える読者かららい病の現状を教えて傾向,減少年30-50人空気感染,遺伝は迷信との見出しの記事等
が掲載された。
そして,平成2年11月18日の朝日新聞に,新法の廃止は当然のこ
ととする社説が組まれ,それ以降は,全国紙各紙とも,新法廃止の動向を伝える記事,被告の責任を問うなどの強制隔離は人権侵害であることを伝える記事が次々と掲載されるようになった。
(甲A23・585~601頁)

戦後における,ハンセン病患者及びその家族の偏見,差別による被害は,次のとおりである。
原告番号5は,尋問において,昭和20年代からの学校でのいじめ,家族がハンセン病であることを打ち明けたことによる婚姻拒否,離婚の被害を供述し(後記第7の1ウ),その他の原告らについても,
少なくとも,本人尋問を実施した原告番号6,7,9,21,59,75,95,98及び107は,後記第7の1

のとおり,戦後,新

法廃止までの間に,学校でのいじめや職種選択,近所付合い,親戚付合い,結婚,夫婦関係などで周囲からの何らかの具体的な差別を体験した。
前提事実第6の1⑵ウのとおり,昭和29年春,他の児童に感染させるおそれのない竜田寮の児童が学齢期をむかえたため小学校に入学しようとしたところ,登校予定先の小学校のPTAから入学を反対され偏見差別を受けた。
国立療養所の保育所6か所における児童生徒の通学については,戦
後,差別されるような事件の起きていない療養所もあったが,他方,竜田寮事件の2年前,愛生園の保育所から地元の小中学校に新小学生と新中学生を通学させようとしたところ,村民の中に異議を唱える者が現れたため,村役場や学校が対応し,通学する児童生徒の健康診断を厳重に行うこと等の覚書を交わすことで通学が可能になり,保養園でもこの時期,竜田寮事件と同じように保育所から地元小中学校に通学しようとした児童生徒がそれを拒否され差別を受けていた(甲A23・389頁,甲A81・575,576頁,乙A1・57,82頁)。
栗生楽泉園患者自治会が昭和57年に発行した風雪の紋栗生楽泉園患者50年史には,昭和41年に全患協療養生活研究会栗生
支部が楽泉園入所者に行ったアンケート調査において,昭和21年からこの時点までの入所したハンセン病患者は,親類近所の交際が薄くなった者,家族の縁談に支障が生じた者,家族の社会的地位が奪われた者,教育や就職に支障があった者,離婚した者,一家離散転居した者,商売ができなくなって者がおり,特に親類近所の交際
が薄くなった者と家族の縁談に支障が生じた者の人数が多いという結果が記載されている(甲D76・207頁)。
昭和42年,被害女性から法務省人権擁護局に対し,次のとおり婚姻妨害による被害ついて救済が申し立てられた。
この件は,被害女性の夫の両親が,被害女性の家筋がハンセン病患
者家系であるくさりすじであると聞いたとして,被害女性とその
夫に対し,離婚を迫り,もし子が生まれると,親はもちろん親戚一統も血がけがれるから,世間に顔向けができないといい,被害女性の夫に対しては,被害女性の実家への出入りを禁じた差別事案であった。結局,この件は,医師である人権擁護委員が,救済手続において,
夫の両親に対し面接を重ねて,ハンセン病は伝染病であって体質的にも遺伝するものではないとの説明を繰り返したところ,両親は次第に非を悟って反省し,以後そのような態度に出ないことを確約して解決した。(甲A113)
療養所の関係では,昭和47年には,前提事実第6の1⑵エのとおりバスの運行拒否,同オのとおり新造船大島丸での職員席・患者
席の分別問題が発生し,昭和58年及び同年以降も,同カのとおり愛
楽園のゲートボール協会が名護市ゲートボール協会から加盟を拒否される差別を受けた。
前記3

オのとおり,熊本判決後,財団法人日弁連法務研究財団の

ハンセン病問題に関する検証会議の委員が聞取りをした記録等には,就学拒否(甲A2・122頁,126頁,甲A24・27,343
頁),学校でのいじめ(甲A24・29,138頁),就労拒否(甲A2・122頁,甲A24・31頁),離婚(甲A2・127頁,甲A24・32,137頁),婚約関係の破たん(甲A24・33頁),村八分(甲A24・139頁)の差別被害が記載されている。
また,同じように熊本判決(前提事実第4の6

ア)を受けて行わ

れた熊本県,大阪府,愛知県,鳥取県,岡山県,長野県,北海道の,ハンセン病に関する検証結果にも,村八分にあったり,転居を余儀なくされたり,就業に苦労したり,交友関係が破綻したり,離婚されたり,生活に苦しんだりした状況等が記載されている(甲A26~33)。


戦後における,国民らのハンセン病等に対する認識,意識については,次のとおりである。
前記3


のとおり,昭和26年の三園長発言の場で,宮崎と名

古屋大学教授久野寧は,ハンセン病についての社会の一般的認識について,現在でも天刑病,業病,遺伝病説が支配的であり,昔から天刑病と言われて偏見を受け悲劇に遭うとか,身体の変形及び醜状化並びに不治の病であることから天刑病と言われ嫌悪,排斥の対象とされているとの認識を示した。
前記3


のとおり,昭和28年,新法制定が議題となった参議

院厚生委員会において,大浜文子は,らいという言葉の裏には因
習付けられたものがあり,いくらハンセン病を伝染病と宣伝しても理解してもらえず,結局一時代生まれ変わらなければ,ハンセン病は伝染病であるということは行き渡らないこと,家族の結婚,就職差別,貧困等の被害は歴然と存在するとの認識を示し,また,新法制定が議題となった衆参議院のいずれの厚生委員会においても,多くの国会議
員及び政府委員が,ハンセン病が伝染病であることは国会議員及び政府委員の間では既に知られているのに,長い間使われてきたらい
という言葉によって,国民の心かららい病(ハンセン病)は天刑病,遺伝病であるとの因習に基づく意識,理解が消えず,それ故に患者だけでなく家族も,患者入所後であっても,子供が学校に行けないとか
村内では誰からも物を買えなくなるなどの偏見差別を受け苦しんでおり,ハンセン病は伝染病であってうまく治療ができれば退院も可能であることが知れ渡れば偏見差別はなくなるとの認識を示している。例えば,中村高一議員は,癩という言葉を聞いただけで世間の人は
恐怖心を持ち,療養所の職員の子でさえ,父親の勤め先を答えただけ
で就職を断られると述べている(第2の6ウ)。
昭和28年8月に成立した新法について,当時厚生省が作成した
らい予防法逐条説明には,新法3条の

何人も,患者又は患者と親族関係にあるものに対して,そのゆえをもつて不当な差別的取扱をしてはならない。

との規定の趣旨について,らい患者及びその親族は,現実においては,社会から偏見をもって見られ,何ら合理的な理由がないにも拘らず,患者又はその親族であるというだけでの理由をもって就職,その他の社会的処遇に関して不当に差別的取扱を受けている事例が相当にあるのでかかることを法禁する趣旨をもって本条を設けている。『不当な差別的取扱い』というのは,例えば患者の家族であるというだけの理由で解雇し或いは患者及びその一家に対して患者又はその一家であるという理由だけで村八分的処遇を行うというような事例がこれに相当するといえよう。との記載があり,厚生省も,新法制定時に,ハンセン病患者の家族であるというだけ解雇されたり,村八分的処遇を受けたりするなどの不当な差別的取扱を受ける事例が相当数あることを認識していたといえる。(甲A59・2枚目)
前記3


のとおり,昭和29年に発行された鳥取県の広報誌

鳥取県民時報にも,公衆衛生課の担当者はハンセン病が遺伝病か
伝染病かの質問をよく受けるため,その度に口を酸っぱくして伝染病であると説明するが,質問者は一応うなずくものの遺伝観念が強いため伝染もするが遺伝もすると勝手に訳のわからないことに混同し
てしまうとの記事が掲載されていた。
昭和29年に発生した竜田寮事件(前提事実第6の1⑵ウ)は,熊本地方法務局が九州大学医学部皮膚科の医師から竜田寮の児童が通学することに差支えがない旨及び九州大学医学部長から竜田寮の児童が通学することによるハンセン病の感染の危険が考えられない旨のそれ
ぞれの意見を得たことが新聞で報道され,熊本市教育委員会も入学を控えた児童に健康診断を実施して異状がなかった旨を反対派の住民に通告したにもかかわらず発生している(甲A3・257,259頁)。すなわち,第2の7エのとおり,竜田寮児童の通学に反対派の代表として参議院文部委員会に出席したCは,上記の報道や通告の存在
を知っていたのに加え,医師である参考人宮崎が,竜田寮児童が通学しても感染することはない旨を発言しても,ハンセン病患者の子が感染している可能性が高いことや竜田寮児童が通学するとB小学校ではハンセン病患者が通学していると他者から誤解されることを理由に絶対反対である旨を発言し,同じく出席したPTA会長が現時点での診断は現時点で健康であることを示すにすぎず明日以降発病しないことにはならないなどと発言していることは(甲A26・132頁),ハンセン病患者ばかりでなくその子に対しても医学的知見や科学的根拠に基づかない偏見が根深く存在したことを表すものといえる。なお,竜田寮児童の通学の賛否についてPTA総会後に実施したアンケートにおいて,通学賛成の回答が回答全体の34%あったとされていると
ころ,当該通学賛成は,あくまで竜田寮児童の通学に賛成するものにすぎず,その他いかなる偏見も抱いていなかったとまではいえないし,上記総会等で医学的にみて竜田寮児童が通学しても感染の危険が考えられない旨の説明を受けた上での回答であり,当該通学に賛成した者全員がハンセン病患者家族に対する何らの偏見差別を抱いていなかっ
たとまではいえない。
昭和43年に高知県人権擁護委員連合会が高知県内で実施した18歳以上の男女に対する無作為抽出による意思調査によれば(甲A114),既婚者の過半数が婚約前に相手にハンセン病患者の家族がいるか調査したと回答し,また,未婚者の約73%が婚約前に相手にハン
セン病患者の家族がいるか調査すると回答した。さらに,調査した(する)と回答したうちの多数が,ハンセン病患者の家族がいた場合には結婚を断念すると回答し,断念する理由としては,既婚者(300人)については,遺伝すると答えた者が約64%と多く,未婚者(231人)については,遺伝するとの回答が約32%,伝染すると
の理由が約70%,世間体が悪いとの理由が6%,皆が嫌うとの理由が12%と,伝染するとの理由が多く,他方,遺伝するとの回答と他の理由の回答を合わせれば,これも40%を超えた(複数回答可)。多磨全生園入所者の大竹章は,昭和50年6月1日付全患協ニュースに『砂の器』を考えるとの論稿を寄稿し,偏見差別はいまも厳然として存在している。これはそれほど根深い問題であり,山梨の九人の家族の悲劇(前提事実第6の2⑵イ)や藤本松夫(前提事実第6の1⑵イ)の無念を私たちがいつまでも忘れられない根拠がそこにあるとして,同小説及び同映画が題材とした家族に対する根強い偏見差別が存在していることを指摘し(甲A72),全患協(当時名称)は,昭和58年7月15日全患協ニュースにおいて,秋田県母子無理
心中事件(前提事実第6の2⑵ウ)及び香川県母子無理心中事件(前提事実第6の2⑵エ)を取り上げ,今も残る偏見の悲劇-政府は偏見除去の対策をとの見出しで

日本におけるハンセン病に対する偏見,とりわけ国民に必要以上の恐怖心を植え付け,偏見を助長した責任は,政府が過去に強行した『隔離撲滅政策』にあります。

などと
して,昭和58年時点においても,国民に恐怖心を根付かせた被告の隔離政策によって,ハンセン病患者は社会から排除される立場にありそれ故に自殺事件も起こるとの認識を示した(甲A75)。
なお,前記3

エの平成15年に全国13か所の療養所の入所者

に対し行ったアンケート調査によれば,戦後,療養所で本名と別の偽名を使っていた入所者が全体の約47%いる(ただし,昭和50年以降の使用に限ると25%)との結果が出ており,調査担当者の療養所関係者への聞取りでは,偽名使用のほとんどの理由は家族や親族に迷惑がかからないようにするためだったと記載されており,それによれば,昭和50年以前の多くの入所者が,自分が入所したことで家族に
対し偏見差別の被害が及ぶことを恐れていたといえる(甲A24・46,47頁)。
厚生省医務局長,藤楓協会理事長等を歴任した大谷藤郎は,平成8年に発行したらい予防法廃止の歴史愛は打ち克ち城壁崩れ堕ちぬ(株式会社勁草書房発行)に,

若い世代はハンセン病に対する偏見差別は少なくなったといわれている。しかし,それは必ずしも「真実を理解して差別を克服した

というものではないから,なにかのきっかけによって思いがけない問題は起こってくる。」,間違った偏見・固定観念・社会的烙印(スティグマ)を生じさせた原因は,病気そのものの悲惨な症状に対する蔑視的な感情に加え,かつて遺伝病であり,血統病であるという昔ながらの誤った因習的な固定観念が拭いきれなかったこと,近代医学の名によって不治の伝染病というこれも過剰な恐怖感があおられたことなどがあげられる。と記載している(甲A2・355頁)。
同書には,長年大学教授として若者と接してきた中谷瑾子教授の平成6年に行われた講演が収録されており,同教授が最近の若い人たちは,「らいハンセン病といってもほとんど知らず,それだけである意味では社会的な差別がなくなったといえるかもしれません。」と述べたことが記載されている(甲A2・329頁)。
全生園の自治会長等を歴任し当時高松宮記念ハンセン病資料館で語り部として活動をしていた平沢保治は,平成9年に発行した人生に絶望はないハンセン病100年のたたかい(かもがわ出版発行)
に,ハンセン病が偏見の対象になった大きな理由として,重篤患者の外貌醜状と長年の行政責任を挙げ,本名を表に出して活動する理由について,ハンセン病患者は新たに発生しないようになり全生園も廃止されて歴史の遺物となった場合,ハンセン病はらい病というのは怖いんだ,血統病だ,天刑病だという非科学的な話だけで終わってしまうため,本名を名乗って生の事実を発信することが重要と考えたとの記述をする(甲D87・15~18,149,150頁)。平沢保治は,その時点で,差別の原因に大きく2つあること,国民らの多くがハンセン病について恐い病気であるとか非科学的な血統病,天刑病である程度の認識しかないと理解していたといえる。
前記3


のとおり,平成15年に全国13か所の療養所の入所者

に対し行ったアンケート調査と同時に行われた聞取り調査の結果について,高齢者の差別意識は若者よりも強いとする語りが数多くみられた。実際,若者の多くはハンセン病という病いを知らない場合が多く,一方,高齢者にいたっては身近に目の当たりにしたことがあることで,偏見が抜けないことも要因のひとつにあげられる。との記載がある(甲A2
4・154頁)。

小括
これまでに認定したところによれば,厚生省は,戦後の混乱期後,戦後政策の一つとして無らい県運動の継続を打ち出し,未収容患者の検診
等で要収容患者を捕捉し多くの患者を収容するようになり,熊本県では警察官を同行して強制的に連行することもみられ,その他の都道府県でも半ば強制的に収容が行われたり大々的に消毒が行われることもあり,目撃したり伝え聞いた住民らには,ハンセン病は強烈伝染病であり,そのため国家,県によって連行され隔離されねばならない恐ろしい病気で
あるとの意識を持つ者もあったが,因習が強く,古くからの天刑病,業病とする考えと結び付けたり,遺伝(家系,家筋,血統)病と混同,混乱して結び付けたり,医学的なことは置いて外貌の大きな変化,醜状化とを結び付けたりして,いずれにしても国,県によって連行される恐ろしい病気であると認識,意識した者も多くいた(ただし,前記の強制,
半ば強制的に連れて行かれた人数,消毒をされた人数からいって,全国津々浦々の多数の国民らがそれによって認識したとはいえない。)。また,戦後の無らい県運動が展開された時期に新聞購読やラジオが国民らの間にどれ程普及していたのか判然としないところもあるが,無らい県運動を宣伝する新聞記事を見たりラジオを聴いたりなどした国民らは,ハンセン病患者について,患者とおぼしき者がいれば一般人も通報して国家・国民が一体となって社会から排除すべき対象であるとの認識を有するようになり,ハンセン病患者に対し忌避・排除されるべき存在であるとの意識を持ったといえる。
ところで,前記3ア,イのとおり,戦前戦中において形成され大多数の国民らが有するようになったハンセン病患者及びその家族に対する
偏見や差別意識(忌避・排除されるべき存在)は,民族主義的国家主義的国家観に基づく国家社会体制下,戦前戦中という緊迫した状況で植え付けられたこともあり強く意識(共通認識)に残るものであったといえるし,戦後になり,民主主義,基本的人権を保障する現憲法になっても,格別,上記の偏見や差別意識を排除しようする運動や宣伝活動がなく,
その結果,消失しないまま大多数の国民らの意識として残ったものといえる(甲A4・209頁)。すなわち,戦前戦中を生き抜いた大多数の国民らにとっては,前記の連行されたり消毒されたりする光景,新聞記事等は,戦前戦中に形成された意識をより強固にし,偏見差別の意識は,戦前戦中と同じくハンセン病患者家族にまで及び,上記のとおり,戦後
新たにハンセン病患者に対し偏見差別の意識を持った者も,周囲(特に先代の家族)から伝え聞くなどして,ハンセン病患者に対してだけではなくその家族に対しても偏見差別の意識を持ち,戦前戦中の国民らと同様な忌避排除の意識を持ったといえる(甲A95・21,22頁)。その結果,ハンセン病患者及びその家族の大多数は,戦後の無らい県運動
が展開されていた時期に,結婚,学校,就労先,近所,親戚間等の場面で偏見差別を受け続けた。
ハンセン病発生患者数そのものが減少した昭和40年代ころからは無らい県運動も沈静化し,ハンセン病隔離政策等が積極的に推進されることはなくなった。そこで,昭和50年頃には,さらに新たなハンセン病患者が少なくなったこともあり(甲D110・資料3戦後日本及び沖縄の年度別ハンセン病患者発生状況),無らい県運動が活発であったころに比べると,国民らの周囲でハンセン病に関する問題が生じたり話題になることがなくなり,従前ハンセン病に対する偏見,差別意識を有していなかった者(例えば,戦後世代)が新たにハンセン病に対する偏見差別の意識を持つ機会が減少し,反って,療養所の入所者との交流が
盛んな地域ができたり(甲D3・181頁),新聞等のマスコミがハンセン病について投薬治療によって治すことができ一般的な病気と変わりがなく隔離政策が国民らの偏見差別を生んだと訴えるようになり,これらの記事や番組等に接し素直に理解した国民らは,ハンセン病患者やその家族を偏見差別の被害者と位置付けることになったといえる。しかし,
それらの国民は一部であり,また,この時期でも誤った教育によって新たな世代の一定数に偏見,差別意識を与えており,多くのハンセン病患者及びその家族は,周囲,場合によっては親戚から従前のとおり偏見差別による被害を受け続けた。
昭和60年代以降には,無らい県運動終息後に生まれた新たな世代が
出現し,それにともなってハンセン病やその患者についての実体験がないばかりか先代の家族から話を聞く機会もなくハンセン病自体を知らずに育ち,知らないが故にハンセン病に対する偏見差別のない者の割合が増加した。また,新法廃止時にかけて,前記のとおり,マスコミが新法について人権を侵害する不当な法律であるとまで訴えるようになる中,
教育水準の向上とともに論理的科学的な思考を是とし,それとともに因習にこだわらず多様な価値観を是認する傾向も生まれ,さらには人権意識の高まりもあって,全患協関係者,医療関係者,一部のマスコミ関係者,法律家及び政治家以外にも,前記の新聞等により知識を獲得し理解した国民ら,ハンセン病について実体験がなく偏見差別意識が希薄だった国民らを中心に新法廃止の頃には偏見差別を持たない又は排斥さえする者も現れた(例えば,原告番号9,同59,同107,同234,
同274の各配偶者,同324の関係者,同95の原告本人自身)。そこで,ハンセン病患者家族は,このような国民らからは差別を受けないようになった。
沖縄について

米軍統治下時期
前提事実第5の2のとおり,米軍統治下となり行政権が停止された沖縄においても,当時の米国本土と同様のハンセン病に関する法制度は導入されず(第1の3参照),日本本土と同様に,ハンセン病隔離政策等が継続され,ハンセン病患者の隔離収容が推進された

また,琉球政府社会局は,昭和28(1953)年以降,各保健所に対し,繰り返し未収患者及び疑似者の調査についてとの指示文書を発して患者名簿の作成を促進するなど,保健所及び療養所と連携して,新患者発見の強化,療養所からの逃走者やその疑いのある者の取り締まりを強化し,ハンセン病患者の収容を徹底し,本土と同様の隔離政策を
継続した。(甲A44の215~243頁)
琉球政府が民政府からハンセン病を他の感染症と同様に扱うべきである旨の提言を受け,昭和35(1960)年,立法院文教委員会においてハンセン病を対象にした伝染病予防法案が審議されたが,調査員として日本本土に派遣された議員から厚生省が反対している等の報告を受け,
審議終了となり,成立しなかった(第2の8

)。そして,新法を土台

にしたハンセン氏予防法(前提事実第5の2⑵エ)が昭和36(1961)年に成立した。同法は,強制収容,消毒,無断外出の禁止等を定めている点で,当時の米国本国の法制度(第1の3参照)とは異なる一方,新法とは同様の内容であった。(前提事実第5の2⑵エ
,甲A2

3・691,692頁,甲A94・51頁)
沖縄においては,前提事実第5の2エ

のとおり,在宅治療制度が

導入され,新規入所者が減少し,退所者が増加していた。もっとも,在宅治療制度は,既に治療薬によって入院治療が必須ではなくなっていた当時において,療養所への隔離収容廃止のためではなく入所治療によって治癒した者を軽快退所させた場合に利用する制度として創設されたものであり(第2の8),また,在宅治療制度開始後も暫らくはハ氏病の撲滅を図るには,現在放置されている在野患者を早めにみつけ,施設に収容することが先決とされ,現に,少なくない患者が療養所に新規入所していたこと(前提事実第5の2エ

)からすると,療養所へ

の隔離政策が廃止されたとはいえない状態だった。加えて,前提事実第5の2


記載のとおり,在宅治療は,例外の1か所を除くと,一般

の医療機関で受診することができず,特別の医療機関における受診が必要な特別な病気であることに変わりはなかった。それとは別に,愛楽園では,昭和42年頃から,伝染の恐れの有無に関係なく外来治療を行うようになり,入所する患者は精神疾患,結核等の合併症をもつ患者が中心となった(甲D146・508頁)。
原告らのうちには,この時期に沖縄で暮らし,ハンセン病患者及びその家族として偏見,差別による被害を実体験したことを供述する者が複数いる。
昭和33年生まれの原告番号188は,幼いころから近所の子に石を
投げられるなどのいじめを受けた被害を供述し(後記第7の1タ),昭和23年生まれの原告番号264は,幼いころ近所の住民から自宅を焼き払われ,小学校に通学する途中に石を投げられ,教師からも竿を使って遠くから物を渡されるなどの差別体験被害を供述し(後記第7の1ツ),原告番号324は,昭和29年に結婚話が破談になるなどの差別体験を供述し(後記第7の1ニ),原告番号351は,昭和40年頃に結婚が破談になり,結婚できても相手から対等に扱ってもらえない差別体験を供述しており(後記第7の1ネ),この時期の沖縄においても偏見,差別行為が広がっていたといえる。
米国統治下における,ハンセン病等に対する認識,意識については,次のとおり,それを窺い知ることのできる記録がある。

a
名護保健所長は,昭和38(1963)年1月9日,琉球政府厚生局長に対し,今帰仁村…方面において,愛楽園入園患者の疑いのある者が脱走してタクシーを使用したり,その他一般大衆の出入りする傾向にあるとのことで,一般住民より取締り強化の要望があるが,その取扱いについての照会をした(甲A44・281頁)。
b
警察本部長は,昭和39(1964)年3月30日,琉球政府厚生局長に対し,愛楽園収容患者の管理強化についてとの文書を発出
し,外出証明を所持せず無断外出し,…公衆の出入りするコザ吉原特飲街,那覇市特飲街に出入り遊興飲食している事実が判明しているとして,現状のまま放置すると公衆保健の面から極めて憂慮されるので,善処して戴きたく通報しますと対応を求めた(甲A44・2
84頁)。
c
米国民政府司法部長は,名護裁判所の判事から

1960年か1961年に愛楽園を逃走したKMが現在,H村の集落に妻と学齢期の子ども達と暮らしている。その病状が菌陰性でなければ,集落内の他の人々に病気が拡がる虞がある

との情報があると聞き,琉球政府公衆衛生部長に対し,昭和40(1965)年2月15日付けで照会をしたところ,同部長から,当該患者が菌陰性であるとした上で,当該家族は監視下にあるとの返答を受けている(甲A44・286頁)。d
地方新聞である琉球新報は,昭和40(1965)年8月25日,小学校教師が入所勧奨を断って投薬治療を受けながら教壇に立ち続けて村内の児童に約30人のハンセン病患者が発生しており,この教師
から感染した可能性があると報じた。これに対し,沖縄らい予防協会は,この事実はらい予防協会が発表したものではない,同村内には児童を含む約30人のハ氏病患者がいるということであると記事の誤りを指摘し,その旨が同月26日,琉球新報によって報じられた。もっとも,琉球新報は,同日の社説において,教師がハ氏病患者であることは,許すべからざることであり決して黙過すべからざる問題,在宅治療をうけているハ氏病患者を速やかに施設に収容するよう,施設の拡充と関係職員の増員をはかってもらいたいと論じた。(甲A44・292,293頁)
e
昭和41(1966)年7月から8月に,米国民政府公衆衛生福祉部が琉球に於ける癩へのイメージ調査を実施し,屋我地村151
名,久米島264人,那覇市608人の合計1023人に面接調査したところ,全体の32%がらいと診断されたら一生療養所ですごすべきであると回答し,87%が患者は皆な隔離されるべきであると答えた(甲A44・289頁)。

f
前提事実第5の2エ

のとおり,沖縄では厚生省によって学童検

診が行われるようになり,昭和42(1967)年4月から6月にかけて実施された宮古・八重山地域での学童検診において,新発見者が43人,要入所者が8人との結果となったため,琉球新報が47人が被病/先島で初のハ氏病学童調査/「野放しでジワジワ拡がる/排菌性の7人収容/まだ学園内に感染源」との見出しで報じ,これを受けて,平良市議会では,南静園入所者が映画館・飲食店,バーや銭湯などに出入りしていることについて早急に対策を講ずべきだとの緊急勧告が提出された(甲A23・700頁,甲A44・296頁)。g
以上のほかに,前記3⑵オのとおり,文献等には,この時期のこととして,沖縄には,ハンセン病患者の外貌の大きな変化や醜状,因習
による天刑病等による偏見,差別意識が存在することが記載されている。

本土復帰後の状況
前提事実第5の3のとおり,本土復帰後も沖縄においては在宅治療制
度が継続して認められ,療養所に入所した患者も退所,外出が自由になった。前提事実第5の3に記載の新規発見患者のうち療養所へ入所することなく在宅治療を受けていた人数等からすれば,沖縄においては,昭和54年以降は,療養所へ入所することなく,在宅治療を受けられる体制が整っていたといえる。もっとも,新法が適用され,療養所が存続を
し続けたのは本土と同様であった。
原告らのうちには,この時期に沖縄で暮らし,ハンセン病患者家族として偏見,差別による被害を実体験したことを供述する者がいる。昭和43年生まれの原告番号318は,小学校2年生の頃から同級生のいじめを受けた被害を供述し(後記第7の1ナ),原告番号324
は,子が結婚で差別被害を受けたことを供述し(後記第7の1ニ),昭和61年生まれの原告番号474は,幼い頃に近所の子からばい菌,近づくななどと言われ,小学生になっても大人の影響からせっかく仲良くなった子とも一緒に遊ぶことができなかった差別体験を供述しており(後記第7の1

フ),この時期の沖縄においても偏見,差別行為が

あった。
なお,原告番号288は,平成10年に父親のハンセン病が夫に分かり平成15年に離婚を余儀なくされ差別被害を受けている(後記第7の1
ト)。
この時期におけるハンセン病等に対する認識,意識については,次の
とおりである。
a
昭和47年6月27日の南沖縄新聞に掲載された南静園所長馬場省二のらいを正しく理解する週間に寄せてと題する論稿において,
同所長は,排菌している患者に対しては,どうしても公衆衛生の立場上区別して外出等の制限を加えなければならない,かくれ住んでいる患者や治療を怠っている患者は感染源となる公算が大として,ハンセン病患者の公衆衛生上の問題を強調した。

b
平成5年に元愛楽園所長である犀川が出版した沖縄のハンセン病疫病史―時代と疫学―(沖縄県ハンセン病予防協会発行)には,沖縄につき,離島や農村地域では,今もって家族が,患者の発見を恐れ,隠したり,患者が逃げ,隠れするケースがまだあるが,彼等はハンセン病が治ることは知ってはいても,診断されると,家族と別れ,療養所に入れられ,生涯隔離されることを極度に恐れ,ハンセン病と診断されるよりも,療養所に隔離されることを恐れているのが実情なのである。と記載されている。(乙A29・123,124頁)c
平成8年に同じく犀川が出版したハンセン病医療ひとすじ(岩
波書店発行)には,犀川は,ハンセン病が完治し社会復帰して沖縄の離島で生活していた高齢男性が,足の傷が化膿したため一般の医療機関を複数受診したところ,どの医療機関も足の傷は治らないから以後受診しないようにと言って,治療しないという医療差別が発生したと記載されている(甲D114・209頁)。これは,本土復帰後の時
期は不明であるが,沖縄の医療者においても,理解の進んでいない時期,医療機関においては,ハンセン病の元患者の皮膚疾患は特別な病気であって一般の医療機関では受診できない誤解が残っていたことを表わす。また,犀川は,同書において,市役所職員の中に療養所に入所することとなったハンセン病患者の自宅を消毒しようとした者がいたと記載している(甲D114・137頁)。なお,前提事実第5の3のとおり,昭和50年代中頃には入所者はほとんどいなくなってい
る。
d
南静園の入所者自治会は,平良市の老人クラブ連合会への加入を求め,市長に陳情し,要請書を再三提出しても,認められず,平成8年の新法廃止まで,加入を認められなかった。(甲A23・481頁)

小括
米軍統治下だからといって,ハンセン病についての政策が変わったわけではなく隔離政策が継続され,在宅治療制度が導入されても,入所者及び沖縄の住民らに対し療養所を自由に外出や退所ができることの宣伝,広報がされた様子もなく,したがって,戦前戦中において形成され大多
数の国民らが有するようになったハンセン病患者及びその家族に対する偏見や差別意識(忌避・排除されるべき存在)が消滅するような事情がなく,結局,前記4カ

のとおり,沖縄でも,因習に支配されたり,

戦前戦中に形成された上記の偏見,差別意識が残ったりし続け,ハンセン病患者の家族である原告らのうち複数がこの時期に沖縄で差別被害を受けた。すなわち,沖縄の住民は,ハンセン病について,伝染病,外貌の大きな変化や醜状,天刑病等を理由に,またそのことと結び付けてハンセン病患者は隔離収容の対象である,同患者及びその家族は一般社会から忌避,排除されて当然の対象と認識,意識する状況が続いていたといえる。

そして,本土復帰後において,特に昭和50年代中頃になると,在宅治療制度が整い,患者が療養所に入所することは殆んどなくなり,これらの事情を知り理解をする住民らは,ハンセン病患者を一般の病気の患者と変わらないとして偏見差別はなくなっていたといえる。しかし,その他の住民らは,戦前戦中において形成された偏見や差別意識が残り続けたり因習に支配されたりして,米軍統治下の状況とそれ程変わらず,その結果,差別被害を受け,南静園の入所者自治会が老人クラブ連合会
になかなか加入できなかったといえる。
ところで,沖縄においても,前記カ

と同じく,昭和60年代から

新法廃止時にかけては,マスコミが発達し情報化社会となる中,そのマスコミがハンセン病患者に対する偏見差別の問題,さらには,新法について人権を侵害する不当な法律であるとの記事を掲載するようになり,
教育水準の向上もあって因習にこだわらず多様な価値観を是認する傾向,さらに人権意識が高くなった時期であり,沖縄以外の地域と同じように,全患協関係者,医師,一部のマスコミ関係者,法律家及び政治家以外にも,ハンセン病患者の隔離収容や外貌の大きな変化について実体験がなく偏見差別意識の希薄な住民らを中心に偏見差別を持たない住民らが現
れ,ハンセン病患者家族は,これらの住民らからは差別被害を受けないようになった。
5
新法廃止以降
新法廃止及びこれについての報道

廃止法の成立(前提事実第4の5⑸)により,新法が廃止され,ハンセン病患者を隔離収容する等,他の病気と異なって特別な病気と扱う根拠,ハンセン病患者の人権を制約する法律がなくなった。また,国会において,厚生大臣がハンセン病隔離政策の必要性がないことやハンセン病隔離政策の廃止を明言した(前提事実第4の5⑷)。これらにより,国がハンセン病患者を
他の病気と異なる特別な病気として扱うことがなくなった。
そして,新法廃止の際には,ハンセン病が完治する病気で新法の廃止は当然であることや,新法がハンセン病患者に対する偏見差別を助長してきたことが新聞に掲載された。このように,新法廃止及び厚生大臣の謝罪等の被告の一連の対応が新聞等で報道され,ハンセン病が患者を隔離する必要のない病気であることが一定数の国民らに周知されるとともに,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別の除去に一定程度の効果があった。もっとも,全国紙においては,そもそも,廃止法成立(新法廃止)記事の扱いが小さく,第1面に記事を掲載したのは一紙が夕刊に掲載したにとどまり,ハンセン病の感染力が弱くほぼ発病しないこと,早期治療によって後遺症を生じず治癒する上に早期発見が容易であるから早期治療が容易であること,ハンセン病
の感染予防には隔離を含む特別な措置が必要のないこと,入所者,退所者及び通院治療を受けた者は全てハンセン病が完治しており外観上の変形等は後遺症であって,ハンセン病の元患者やその家族はハンセン病の感染源ではないこと等のハンセン病についての正しい知識への言及がないものも多く,法律やハンセン病隔離政策がハンセン病患者やその家族に対する偏見差別を作
出助長してきたことに対する言及もほとんどなく,ハンセン病患者本人の被害に言及があるものでも,家族の被害への言及はほとんどない。このような内容では,多くの国民らが有していたハンセン病に対する誤った知識を是正するに十分な内容の記載があったとはいえない。また,全医労新聞や一部の宗教新聞,一部の地方紙においては,上記ハンセン病についての正しい知識
の一部についての言及やハンセン病患者やその家族の被害について言及があるものの,購読者は,その発行部数や販売網からいって限定的といわざるを得ない。したがって,広く,全国の国民らに対し,ハンセン病の正しい知識を周知する報道があったといえないし,被告らによる周知活動があったわけでもなく,多くの国民らにある偏見,差別意識を除去する報道や被告及び地
方公共団体等による啓発活動があったということもできない。(乙A74(各枝番),乙A75(各枝番))
控訴断念,談話及びこれについての報道
被告は,熊本判決後,控訴せずに被告の責任を認める判断をし,被告の政策がハンセン病患者の人権を制約し,社会一般に偏見差別が存在することを認めて謝罪する内閣総理大臣談話(前提事実第4の6
イ)を発表した。そ

して,このことが全国的にテレビ,ラジオ及び新聞,雑誌等で広く,数多く大々的に報道されたことは公知であり,被告の政策によってハンセン病患者が人権を侵害されたことや,社会一般にハンセン病患者に対する不当な偏見差別が存在したこと,国が誤りを認めたことは,全国の多くの国民らに広く知れ渡り,多数の国民らにハンセン病隔離政策等が誤っていたことを印象付
けたといえる(乙A76)。そして,このような印象付けにより,ハンセン病患者及びその家族に対する忌避感や排除意識が誤りであると自省する機会となった国民らが一定数いたと推察され,控訴断念及び談話は,報道を通じて,ハンセン病隔離政策等によって生じたハンセン病患者家族に対する偏見差別を相当程度解消する効果があったといえる。

もっとも,談話(前提事実第4の6イ)自体は,ハンセン病患者に対する偏見差別への政府の役割,責任について言及していない上に,国会の責任を否定しており,また,ハンセン病が感染防止のために隔離の必要な特別な病気ではないこと等のハンセン病についての正しい知識にも言及していなかったこと,ハンセン病患者家族の被害についての言及はなかったことからす
れば,控訴せずに被告の責任を認めるという判断及び談話のみによって,直ちに,国民らの間にあるすべての偏見差別を解消するのに十分な効果を有するものであったとまではいえない。
国会の謝罪決議採択及びこれについての報道
国会は,謝罪決議を採択し(前提事実第4の6イ),謝罪決議において,
隔離政策の継続を許してきた国会の責任を認め,これについても新聞報道等がされた。これにより,多数の国民らに国会が責任を認めたことが知られ,これらの国民らにハンセン病隔離政策等が誤っていたと印象付けたといえ,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見,差別意識が誤りだったと自省する機会となった国民らが一定数いたと推察できる。そして,社会内における,ハンセン病隔離政策等によって生じたハンセン病患者家族に対する偏見差別を一定程度解消する効果があったといえるものの,謝罪決議では,ハンセン病が感染防止のために隔離の必要な特別な病気ではないこと等のハンセン病についての正しい知識に言及しておらず,また,家族被害についての言及はなかったことからすれば,この謝罪決議で,ハンセン病に対する誤った知識を是正し,ハンセン病患者家族に対する偏見差別を除去するに十分なもので
あったとはいえない。(乙A77の1~14)
府県知事の謝罪及びこれについての報道
多くの府県知事が平成13年中に療養所を訪れて謝罪し,これについて新聞報道がされた。前記

及び⑶で発信された情報に加え,新聞等で謝罪が報
道され,比較的短い間に繰り返しハンセン病隔離政策等が誤りであったことが発信されたことになり,多数の国民らは,ハンセン病隔離政策等が誤りであったことがより一層印象付けられ,ハンセン病患者及びその家族に対する忌避感や排除意識について,誤りであったと自省する機会となった。さらに,報道を通じて,ハンセン病患者家族に対する偏見差別を一定程度解消する効果があったといえるものの,前記⑵及び⑶に記載したとおり,府県知事の謝
罪のみで,ハンセン病に対する誤った知識を是正できないし,謝罪決議のみで,ハンセン病に対する誤った知識を是正し,かつ,偏見差別の解消を除去するに十分なものであったとまではいえない。(乙A78の1~36,38,40~46)
原告らの熊本判決によるハンセン病等に対する認識の変化

原告番号318は,尋問において,父がハンセン病患者であったことをはっきりと知る前に,平成13年の熊本判決(前提事実第4の6
ア)のころ

の報道を見て,ハンセン病は伝染しない病気であるという認識を有していた旨述べていること(甲C318の1・4頁,原告番号318本人13,17,18,24~27頁),原告番号441も,父がハンセン病患者であったことをはっきりと知る前に,平成13年の熊本判決(前提事実第4の6ア)

のころ又は平成15年の黒川温泉宿泊拒否事件(前提事実第6の1⑵キ)のころの報道で,ハンセン病が伝染病ではなく普通の病気と同じだとの認識を得た旨を述べていること(原告番号441本人7,8,10,16,20,22,24,26頁),原告番号240は,陳述書において,平成13年熊本地裁判決後に,同級生から,かつてのハンセン病に対する認識は誤ってい
たとして,差別的な対応をしたことについて謝罪されたと記載していること(甲C240の1・3頁)からすれば,平成13年の熊本地裁判決の前後から,ハンセン病についての正しい知識に基づいた報道が数多くされるようになり,報道により,ハンセン病がほとんど感染することがないことについて,多数の国民らに印象付けられたといえる。

さらに,インターネットが普及したこともあって,熊本判決(前提事実第4の6

ア)後は,インターネットで検索することで,ハンセン病に関する
正確な知識を得ることが容易になっていったことがうかがわれ(甲C288の1・4頁,原告番号288本人15,25頁),ハンセン病患者やその家族と接する際や,ハンセン病に関する差別的な言動に接した際等に,自らハンセン病について調べることで,ハンセン病について正確な知識を得ることが可能となった。
黒川温泉宿泊拒否事件
黒川温泉宿泊拒否事件(前提事実第6の1⑵キ)におけるホテル側の宿泊拒否の対応自体は,ハンセン病患者に対する偏見差別の現れである。そして,
ホテル側が宿泊拒否した理由としては,ほかの宿泊客に迷惑がかかることが一番心配と発言していたこと(甲A23・740頁,甲A104・5頁),ホテル側がインターネット上で調べた結果絶対感染しないとは書いていないと発言していたこと(甲A23・741頁)からすれば,ハンセン病隔離政策等によって作り出されたハンセン病に対する疾病観の影響を受けた,ハンセン病の感染をおそれての対応であるといえる。
もっとも,黒川温泉宿泊拒否事件の際に恵楓園に送られてきた誹謗中傷の手紙,葉書は,その文面からすると,ハンセン病が感染しないとされていることや,元患者から感染しないとの医学的知見,ハンセン病隔離政策等が誤りであるとされていることを知っている者が作成したといえる(甲A104・7~72,74~106頁)。すなわち,ここで誹謗中傷の手紙等を作
成した者らは,ハンセン病患者が偏見差別の対象とならないことの知識を有しそれを認識しながら誹謗中傷を行っており,ハンセン病隔離政策等による誤った認識,意識で偏見,差別行為をしているわけではないからハンセン病隔離政策等による影響に基づくとまではいえない。また,同手紙には,ハンセン病隔離政策等が作り出した疾病観に基づくものがあるものの(甲A10
4・13~16,91~94頁),元患者の外見を理由とする憎悪表現,入所者が生活保障を受けていることや県の事業で宿泊旅行が計画されたことに対する憎悪表現,ホテル側の謝罪を受け入れなかったことを傲慢や暴走であるなどと捉えたことに基づく誹謗中傷が散見され,ハンセン病隔離政策等が作り出した疾病観の影響よりも,元患者の外見,入所者の生活に税金が利用
されていることへのやっかみ,権利主張に対する反感,被害者に被害者らしさや謙虚さを求める考え等の影響が大きく,ハンセン病隔離政策等によって当然に生じた差別とは言い難く,むしろ,ハンセン病に関わりなく,外見に後遺症のある者一般に対する差別意識,生活保障を受けている者一般に対する差別意識,被害を訴える者一般に対する差別意識が表れているといえる
(甲A104・7~12,17~90,95~106頁)。これは,熊本判決の際や,黒川温泉宿泊拒否事件(ホテルの対応等)についての一連の報道において,ハンセン病が感染しないとされていることや,元患者から感染しないとの医学的知見,ハンセン病隔離政策等が誤りであったこと等が繰り返し報道されており,恵楓園に誹謗中傷の手紙を送った者たちが,そのような報道を目にしていたためであると考えられる。
また,黒川温泉宿泊拒否事件に関する報道では,①ハンセン病元患者宿泊拒否差別根強く全国に衝撃と波紋『がっかり』抗議殺到等と入所
者の宿泊を拒否したホテルに対して抗議が殺到した旨,②受け入れのホテルや飲食店『普通に接するのは当然』『宿泊拒否,接客業として考えられない』と他のホテルや飲食店がハンセン病元患者を当然に受け入れている旨,③ハンセン病真実知って合志南小6年生泊拒否すごく悲しい』,差別克服へ光広がれ涙に教えられた『宿無知が生む偏見ハンセン病題材に劇熊本・菊鹿中ら地域へ,九州看護福祉大創作劇上演へ湯船から笑顔の抗議啓発活動生徒のPTAか沖縄の学生ら元患者宅で一緒に入浴等と様々な立場の者が入所者の宿泊を拒否したホテルを非難し,抗議の声をあげ,差別克服のための啓発活動に取り組んだ旨,④『中傷に負けないで』激励全国から続々支援者ら菊池恵楓園訪問と
恵楓園の入所者らに対する激励が数多く存在した旨が報道された(甲A23・740~748頁)。また,平成16年11月末日までに恵楓園に届いた激励文は合計309通あり,激励の署名に署名した人数は合計418名であった(甲A23・750頁)。したがって,黒川温泉宿泊拒否事件の際には,国民らにおいて,ハンセン病患者に対する偏見差別意識が共通認識になっていたとはいえず,ハンセン病患者に対する偏見差別を許容せずに,反対の声を挙げる者が多数存在していたといえる。
公立小学校教員事件

公立小学校教員事件(前提事実第6の1⑵ク)は,公立小学校の教員が,ハンセン病について身体が溶ける病気で風邪と同様に菌によってうつる病気と指導し,児童らがハンセン病を怖いと感じたことや,感染者から離れるべきと考えたことを感想文に記したことに対し,その感想文の問題個所を指摘し,指導,訂正を行うことなく,上記感想文をハンセン病患者のいる恵楓園に送付したという事件である。当該教員自身は,児童への対応状況からすると,ハンセン病を外貌の醜状の生じるうつりやすい病気であるというハンセン病隔離政策等によって作り上げられた疾病観と同様の疾病観を有し,ハンセン病を怖いと捉えることや,感染しないようハンセン病患者から離れるべきであると発言することが誤りであるという認識や問題視する感覚がなかったわけであり,これは,当該教員がハンセン病隔離政策等の影響を受けてい
たといえる。もっとも,この公立小学校教員事件の際には,当該教員の指導や対応を問題視する報道がされ(甲A121),福岡県教育委員会も当該指導を受講した生徒らに対する指導のやり直しを指示しており(前提事実第6の1⑵ク),また,公立小学校教員事件の他に,熊本判決以降このようなハンセン病に対する偏見に基づく指導が行われた事実は見当たらず,当該教員
のような指導が熊本判決以降に他でも実施されていたとはいえないし,他の教員も同じような認識を持っていたとはいえない。
アンケート結果

平成21年熊本県県民アンケート
平成21年熊本県が実施した2000人程度の無作為抽出による県民ア
ンケートによれば,約80%がハンセン病は感染しにくい病気であることを知っていると回答した一方,32%がハンセン病患者に対する偏見差別が残っていると回答した。また,熊本県によれば,ハンセン病が感染しにくい病気であることの認識については,平成15年に発生した黒川温泉宿泊拒否事件直後に認識率がかなり上がったものの,その後,認識率が少し
落ちてきた。これによれば,黒川温泉宿泊拒否事件が発生した熊本県では,その後,ハンセン病が感染しにくい病気であるという知識の普及が進んだといえるが,平成21年においてもハンセン病患者に対する偏見差別は残存していたといえる。(乙A84・96頁)
そして,再発防止検討会によれば,熊本県は,他の都道府県と比べてハンセン病に関する普及啓発活動が活発な自治体であることからすれば,他の都道府県におけるハンセン病が感染しにくい病気であることの認識率や,
偏見差別の解消の度合いは,他の都道府県の方がより低い蓋然性が高い。(乙A47・5,6頁)
もっとも,このアンケートでは,偏見差別の原因については明らかになっていない。

平成26年地方公共団体取組実態調査
再発防止検討会が平成26年度に実施した地方公共団体における疾病を理由とする偏見差別の克服,国民・社会への復及啓発に関する取組実態調査の結果では,関係部署の72.1%が効果が上がったと回答し,都道府県別の結果でも87%が効果が上がったと回答した。これによ
れば,地方公共団体による取組によって,ハンセン病に対する偏見差別の解消に一定の効果が生じたといえる。
もっとも,同調査の結果について,報告書には,検討会において提言したような,知識教育に偏らない人間的交流を中心とした取り組みや,偏見差別の実態把握に向けた実態調査の実施や当事者からの申立て等の受
理を担う相談窓口の設置や被害の回復・救済のための機関・専門委員会の設置等については,

道半ばである実態が明らかになった。

対象者をより明確に意識し,対象者に応じた効果的できめ細やかな事業展開については今後さらに検討することが必要である。

疾病を理由とする偏見差別はいまだ解消されていない社会の現実であり,偏見差別を克服するための制度等があっても周知,普及が足りないため十分に活用されていない実態がある。

無らい県運動等によって醸成されたハンセン病偏見差別の影響は未だ払しょくしきれておらず,この面での課題が残されている。

として,現状の各自治体の取り組みが十分ではない旨や,偏見差別が解消されていない旨,ハンセン病隔離政策等の影響が残存している旨の指摘がある。(乙A47の3・3~5頁)
さらに各自治体は,再発防止検討会による調査に対し,①県民や児童生
徒の学習機会が限定的である旨,②県民意識調査の結果,ハンセン病患者に関して地域社会での正しい知識と理解が十分でないと答えた人が55%いる旨,③教育については学習指導要領に位置付けるなど国としての具体的な方針を検討する必要がある旨,④中学生向けのパンフレットは指導に役立つものの,家庭を巻き込んだ啓発ができていない実態があり,家庭に
対して正しく情報を伝える機会が必要である旨,⑤マスコミ等を活用した国の広報が効果的である旨の意見を提出した。(乙A47の3・87~88頁)

平成27年菊池市職員人権・同和教育研修感想
平成27年度に実施された菊池市職員人権・同和教育研修の際の研修参加者に対する研修後アンケートでは,20代の職員から,ハンセン病についてこれまで学習したことがなかった,ハンセン病についての知識がほとんどなかったとの回答,30代の職員からハンセン病がどのような病気か理解していなかった,ハンセン病についてほとんど知識がなかった,誤解
していたとの回答,40代の職員からハンセン病について知らなかった,感染力が弱く薬で完治できる病気だと知らなかった,恵楓園の近くに住んでいたのにハンセン病の話をきちんと聞いたことがなかった,黒川温泉宿泊拒否事件のテレビ報道を見ていたときは無知だったとの回答,50代の職員から,これまでハンセン病について正しく理解する機会がなかった,
差別の実態を知らなかった,黒川温泉宿泊拒否事件の際のテレビ報道ではホテル側の言い分が正しいと報道され,誤解していた旨の回答があった。(乙A93の8の3・9~24頁)
このアンケート結果によれば,国連10年国内行動計画において人権教育に関する取り組みを強化するとされた公務員であっても,ハンセン病は感染力が弱く薬で完治するなどのハンセン病についての正しい知識がない者が複数存在し,また,平成15年に発生した黒川温泉宿泊拒否事件から
12年が経過した平成27年まで,ホテル側の言い分が正しいと誤解していた者が存在し,ハンセン病に関する正しい知識がすべての国民らに普及したとはいえないことを示している。
また,平成27年の時点で20代であった職員であっても,学校教育において,ハンセン病に関する学習の機会がなかったか,学習の機会があっ
たとしてもその機会がなかったと認識するほど,ハンセン病に関する教育が定着していなかったことを示している。

平成27年合志市介護支援専門員研修会アンケート
平成27年に合志市で実施された介護支援専門員研修会で研修後に行ったアンケートでは,参加者から,ハンセン病について聞く機会がなかった,
ハンセン病に関しての知識が薄かったとの回答があった(乙A93の8の3・25,26頁)。

平成28年毎日新聞調査
毎日新聞が実施した調査によれば,入所者の75%,退所者の89%が
今も差別や偏見があると回答し,入所者の52%,退所者の57%が法廃止後も周囲の変化がないと回答した。入所者の17%,退所者の21%が法廃止後,自身や家族・親族が地域で不快な思いをしたり,結婚に反対されたりするなどの差別を受けたと回答した。退所者の9%は,病歴を家族にも知らせていないと回答し,退所者の44%は,かなえてみたいことと
して,病歴を隠さずに生きてみたいと回答した。これらの回答結果からすると,平成28年の時点で,ハンセン病患者及びハンセン病患者家族に対する偏見差別は残存しているといえる。この記事は,厚生労働省が全国の中学校に配布したパンフレットに,根強く残る偏見や差別として掲載された。(乙A45・14頁)
平成28年に作成されたハンセン病問題に関する普及啓発の在り方について(提言)には,療養所の入所者や退所者へのアンケート調査の結果,
新法廃止後の状況について周囲の変化がないとした回答者が全体の50%を超え,今も偏見や差別があるとした回答者が全体の70%を超えたと記載された。(乙A22の3・2頁)

世論調査
内閣府大臣官房政府広報室が人権擁護に関する国民の意識を調査し今後の施策の参考とする目的で実施している世論調査において,平成15年に実施した調査では,ハンセン病患者・元患者とその親族に関し,現在どのような人権問題が起きていると思うかという質問に対し,回答者の44.4%がハンセン病療養所の外で自立した生活を営むのが困難なことを
回答として選択し,回答者の30.4%が就職・職場で不利な扱いをすることを回答として選択し,回答者の28.5%が結婚問題で周囲が反対することを回答として選択し,回答者の26.6%が差別的な言動をすることを回答として選択した(甲A116の1・10枚目)。また,同様の世論調査において,平成29年に実施した調査では,ハンセン
病患者・回復者やその家族に関し,現在どのような人権問題が起きていると思うかという質問に対し,回答者の31.7%がハンセン病療養所の外で自立した生活を営むのが困難なことを回答として選択し,回答者の29.0%が差別的な言動をされることを回答として選択し,回答者の28.2%が結婚問題で周囲の反対を受けることを回答として選択
し,回答者の27.0%が就職・職場で不利な扱いを受けることを回答として選択し,回答者の26.3%がじろじろ見られたり,避けられたりすることを回答として選択し,回答者の24.4%が職場,学校等で嫌がらせやいじめを受けることを回答として選択した。(甲A116の2・8枚目)

ハンセン病問題に関する普及啓発の在り方について(提言)
厚生労働省健康局難病対策課が平成28年に作成したハンセン病問題に関する普及啓発の在り方について(提言)には,各種調査を見てみるとハンセン病回復者・元患者等の名誉が完全に回復されたとは言い難い。この機会をとらえ,従来のハンセン病問題に関する普及啓発の取組を見直し,更なる普及啓発の推進につなげていくことは有意義である。と記載されている(乙A22の2・1頁)。



小括

平成8年に新法が廃止され,このことは新聞等で報道され,それに先立って平成2年に朝日新聞が新法の廃止は当然のこととする社説を組んで以来,全国紙各紙とも,新法廃止の動向を伝える記事,被告の責任を問うな
どの強制隔離は人権侵害であることを伝える記事の掲載が続いており(前記4


),新法廃止の時期には,ハンセン病の重症患者を実際に見た

り,隔離収容される患者が周囲にいたりした世代,その世代から繰り返し伝え聞いて承継した世代以外の偏見,差別意識の薄い国民らのうちには,因習にこだわらず多様な価値観を是認する傾向,さらには人権意識の高まりもあって,全患協関係者,医療関係者,一部のマスコミ関係者,法律家及び政治家以外にも,上記の新聞等により知識を獲得,理解し,偏見差別を持たない又は排斥さえする者が現れ増えていき,大多数の国民らがハンセン病患者及びその家族を忌避排除する存在と認識し,かつ,それを当然のこととして社会に訴えることができる状況にはなくなったといえる(原
告らの主張する社会通念(集合的意識としての偏見)は消失する状態だったといえる。)。もちろん,ハンセン病の重症患者等に実体験のある世代,その世代から承継した世代は,上記の新聞記事を見ていたとしても,容易に偏見,差別意識は消えず,新法廃止後であっても,これら世代の要求に抗しきれない国民らも含め,これら国民らによるハンセン病患者及びその家族に対する偏見,差別は相当数存在したといえる。そして,偏見,差別意識を持つ国民らの中には,強烈伝染病であり恐い病気であり差別される
べきであるとの意識をもった国民らも多くいるし,因習の世代間承継により,古くからの家系,家筋病,天刑病,業病の疾病観による国民ら,さらには,それと強制隔離された恐い病気とを結び付けたり,遺伝病と強烈伝染病を混同,混乱して結び付けたり,医学的なことは置いて外貌の大きな変化,醜状化と強制隔離される恐い病気と結び付けて,偏見差別の対象と
意識した者も多くおり,ないまぜの状態にあった。

その後,熊本判決,被告の控訴断念,内閣総理大臣等の謝罪がされ,その度に新聞等の多くの報道媒体によって取り上げられ,これらの報道によって,ハンセン病隔離政策等は誤りであったこと,ハンセン病は既に長く一般の病気であって特別な病気でないこと,ハンセン病患者が被告によっ
て強制隔離され人権侵害を受けてきたこと,ハンセン病患者家族も苦労をしてきたことが多数の国民らに広がり,これによって,多数の国民らの有していたハンセン病患者及びその家族に対する偏見,差別意識は減少,解消するに至ったといえる(ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別を許容せず,反対の声を上げる者が多数存在する状況となった。)。もち
ろん,上記の実体験のある世代,世代間承継により,国民らの中には,いくら科学的論理的な正しい知識を聞かされても根強い偏見,差別意識は染みついたものとして消えず,これら世代の要求に抗しきれない国民らも含め,現在まで,未だハンセン病患者及びその家族に対する差別意識を持ち,その国民らによって差別行為を行われる状態にあるといえる。

第5

ハンセン病隔離政策等とハンセン病患者家族との関係
ハンセン病隔離政策等と,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見,差別意識の形成等の関係については,時系列に従って前記第4で論じたところであるが,ハンセン病隔離政策等のうち特にハンセン病患者家族に関する点を取り上げて整理しておく。
1
消毒
内務省訓第45号では,患者の居住していた家屋や,同居の家族の衣類等も含めて消毒の対象とすることを義務付けており,居住していた家屋や,同居の家族の衣類等も,ハンセン病の感染源になるものとして扱っていた。また,昭和6年に制定された旧法及び昭和28年に制定された新法でも,消毒に関する規定が置かれた。(前提事実第4の2,同3

イ,同3

イ,同4

アア
及び

,前記第4の2

,甲A5)

これらの消毒規定に基づき,ハンセン病患者の住んでいた自宅やその周囲が真っ白になるまで消毒されることが頻発し,前記第4の3
4の4

アエ
,同

ウ,第

fのとおり,原告らのうちにも体験したものがいる。

そして,この消毒によって,ハンセン病患者が住んでいたことが近所中に知
れ渡るとともに,当該患者が暮らしていた自宅が感染源であるとの印象や,当該患者とともに暮らしていたハンセン病患者家族もハンセン病に罹患している可能性があり,当該家族と接触するとハンセン病に罹患する危険があるとの誤解を与え,前記第4の3

,同4カのとおり,戦前の全国津々浦々に及ぶハ

ンセン病患者及びその家族に対する偏見,差別意識の形成の一端を担い,戦後
においても,一部の国民らについては戦前に形成された偏見や差別意識を強固にし,新たに知った国民らには偏見,差別意識の形成の一端を担った。2
ハンセン病患者家族に対する内務省,厚生省等の管理
癩予防協会は,昭和11年から,各府県に対して,癩患家の指導と称
して,自宅で療養中のハンセン病患者と同居する家庭を癩患家として,患者及びその同居する家族に,衣服及び所持品を消毒すること等を指導するように要請するとともに,その家族の状況を把握した(前提事実第4の2⑿,前記第4の3

ウ)。

被告は,昭和26年4月24日付け厚生省公衆衛生局長の各都道府県知事宛通知昭和二十六年らい予防事業についてにおいて,昭和25年4月22日付け厚生省公衆衛生局長の各都道府県知事通知昭和二十五年らい予防事業についてにおいて作成を定めたらい患者及び容疑者名簿の記載事項として,ハンセン病患者の配偶者,子,両親,兄弟姉妹及びその配偶者を定め,ハンセン病患者家族及び親族をも記載の対象とした(前提事実第4の3
,第4の4


)。

昭和28年らい予防法制定後も,昭和33年9月25日付厚生省衛生局長
の都道府県知事宛通知が示すように,患者台帳の作成及び整備は続けられ,同昭和33年通知では,患者台帳に,在宅患者の検診により病状,家庭の状況等に変化を生じた場合には,それぞれ記録することとされており,被告は,ハンセン病患者家族についての調査と記載を求めた(前提事実第4の4
)。
ところで,被告は,昭和25年4月22日付厚生省公衆衛生局長の各都道
府県知事宛通知昭和二十五年らい予防事業についてにおいて,在宅患者の家族に対する年3回の検診を義務付け(甲A31・210頁),また,前提事実第4の4

のとおり,家族がハンセン病と診断された場合には,他の

家族に対しても健康診断を実施した。

このように,ハンセン病患者家族にも患者と同様に検診を義務付け,しかも定期的に検診していたということは,ハンセン病患者家族を患者家族ではない市民よりもハンセン病に感染している可能性が高いものとして管理監視の対象として扱っていたといえる。
3
未感染児童と保育所の設置
昭和6年以降設置された保育所(前提事実第4の2,前提事実第4の4)には,療養所に入所していたハンセン病患者の子で養育する者がいない児童や,ハンセン病患者で入所していない者との分離保育ができない児童がハンセン病患者と同居していると感染の危険があるとして,分離保育の必要性から,ハンセン病患者である親とは分離され,入所していた(甲A11・28,94,136,157頁)。
保育所に入所していた児童を含むハンセン病患者の子で健康な児童について,未感染児童と呼ばれていた時期があり,この呼称はUntaintedChildrenという外国語の訳語に由来するものであったた
め,その呼称の由来によると,感染していない児童という意味に過ぎず,当初から,患者の子がハンセン病を発症する可能性のある患者予備群として位置付けられていたとまではいえない。また,保育所の設置の当初の目的は,患者の子をハンセン病を発症する可能性のある患者予備群として観察の対象とするためのものではなかったし,患者の子全員を保育所に入所させていた訳でもない。

しかし,実態としては,保育所に入所していたハンセン病患者の子に対し,ハンセン病患者と同居していたため感染の危険があるとして,定期的に注射する等の検査を実施して,ハンセン病の発症の有無を観察するようになっていた。(昭和20年ころにつき甲A1・50~52頁,甲C25の1・3頁,甲C25の2・2,3頁,乙A1の2・6枚目,原告番号25本人12,
13頁,前記第2の7

・長谷川衆議院議員の質問に対する曽田厚生省医

務局長の答弁)
これに加え,①昭和28年3月14日の参議院厚生委員会における山口政府委員の答弁の内容(第1節第2の7

ウ),②藤楓協会の創立三十年誌に

おいてらい療養所に入所してくる患者が同伴していた児童や,院内で出生した児童など,健康な児童を未感染児童と呼ぶ習わしがあった。この病が伝染病である建前からすれば,病気の親と同居している間に感染する機会が充分にあったと考えられ一定の期間の発病観察が予防上必要であるとされたから,その観察中の児童を未感染児童と呼んだのであるが,この用語は世間に誤解を招きやすいので使用しない方がよいとする学会での決議もあった。(甲A48・63頁)と記載されていること,③愛生園において医師として勤務し保育所の廃止に尽力した犀川は,平成11年に出版したハンセン病政策の変遷(沖縄県ハンセン病予防協会発行)において,未感染児童は,特殊な施設に収容して,医師の観察の下に置くという措置としてなされたと明言した上で,昭和22年12月に新憲法下で制定された児童福祉法は,未感染児童を適用外に置いて,一般養護施設として受け入れられないことになっていたとし,愛生園では,昭和25年以来,保育児童を児童福祉法の対象とすべき努力を重ね,5年後の昭和30年に保育所を廃止して,同法に基づく児童養護施設として白鳥寮を設置することができたと述べていることからすれば,患者の子である未感染児童を,菌検査で陰性であったとしても,ハンセン病に感染している危険のある子として観察し,そ
の観察のために,保育所を利用していた側面があったといえる。(甲A49・12頁,甲D110・121,122頁)
そして,前提事実第6の1⑵ウ(竜田寮事件),前記第2の7
記載の戦

後における国会議員と政府委員のやり取り及び竜田寮事件における通学反対派の主張内容からすれば,ハンセン病患者の子と関わり合いが生じるなどして未感染児童の言葉を知った国民らの多くは未感染児童を未発病児と混同し,そのため,ハンセン病患者の子について,既に感染していて現在潜伏期にあり,要観察対象者であるという認識が広まったといえる。(甲A3・250~260頁)
なお,被告は,保育所への入所には,療養所に収容中の親との面会を容易
にする意図もあったと主張するが,保育所に入所中,発病しているハンセン病患者である親とは,年に二回しか会えなかった者もおり,必ずしも面会が容易にはならなかった。(甲A1・54頁)
4
婚期を遅らせることの奨励
厚生省は,国民らに対し,健康な子孫を得るため結婚について遺伝学的な観点から指導することを目的とした優生結婚相談事業を開始し,その事業において開設した。その厚生省優生結婚相談所が昭和16年5月に発行した結婚と癩病において,ハンセン病が遺伝病ではなく伝染病であるとした上で,癩もまた感染後,年を経て,身体抵抗力の減弱に応じて発病する傾向がある,発病は十歳乃至二十五歳においてもっとも多く,三十歳までに次第に減少とし,ハンセン病の潜伏期間が長く,成長期,破瓜期に発症することが多く,癩者と同居したり,往来した経験がある者は,癩感染の疑いがあるとして,
癩感染の疑いを持つ人々が,なるべく晩婚するということは賢明の策,なるべく婚期を延ばして安心の度の加わるを待って結婚するようにした方がよいとの広報を行って,患者と同居ないし交流のあった者は,ハンセン病に感染,発病する可能性が高く,30歳を過ぎるまで,結婚を控えるべきであるとした。(甲A50,乙A67・2頁)

現代と比べて結婚が若年時であった当時において,30歳を過ぎるまで結婚を控えることによる影響は,現代よりも大きかったものといえることからすれば,上記の広報に接したり伝え聞いたりした者にとって,ハンセン病は特別な恐い伝染病であるとの印象を与えたといえる。
5
部落の解体
本妙寺部落の解体や湯ノ沢部落の解体において,これらの部落に居住するハンセン病患者家族は,他所への移転を余儀なくされた。

6
優生手術
昭和23年,優生保護法が制定され,同法3条1項3号により,ハンセン
病患者及びその配偶者も,優生手術の対象とされた。
優生保護法成立の際,ハンセン病患者及びその配偶者を優生手術の対象とする理由については議論されていない(第2の4)。
同法立案者が同年に逐条解説した優生保護法解説には,前記第2の4⑷のとおり,癩は遺傳性の疾患と云われていたが,現在では傳染病の部類に属している。唯これは慢性傳染であってその潜伏期間が長く,幼児中に傳染したものが少年期特に破瓜期に至って,或は身體的に大きな障害があった場合に発病するのが普通であって,先天的に同病に對する抵抗力の弱いと云う事も考えられるのである。また,現在では癩を完全に治癒し得る方法もないので,癩患者に對しては,本人又は配偶者の同意を得て本手術を行うのが適當であると記載されている。
立法提案者が上記の優生保護法解説に記載したところによれば,立法当時,ハンセン病には完全に治癒させる治療方法がないことに鑑み,ハンセン病が先天的に同病に対する抵抗力が弱いため発症する(体質遺伝的疾病観)と考えられることから,ハンセン病患者及びその配偶者を対象とするらい条項を設け遺伝病ではないけれど優生手術の対象としたといえる。

ところで,光田は,同法制定前に,断種手術を導入した理由として,療養所内の秩序維持のために,療養所内で男女交渉を禁止するのではなく,男女交渉を認めた上で断種することが必要であると説明し,優生保護法のらい条項が制定された以降においては,遺伝病ではないハンセン病の患者及びその配偶者にまで断種や堕胎手術を認めた理由として,幼児に対する感染防止,
母体の保護ために必要であるとも説明した。(甲A3・103~116頁,268頁,乙A69・3頁,乙A70・36頁)
そもそも,優生保護法自体が,優生上の見地から,不良な子孫の出生を防止することと,母体保護を目的としているところ,妊娠や出産により,ハンセン病患者の子に感染するという医学的根拠は見当たらず,むしろ,前記の
とおり,旧法制定の審議過程においては妊娠中に胎盤を通じて胎児が感染するとの見解に言及されているものの(第2の3
及び

),民族優生保護法

案の審議過程(第1節第2の4

),国民優生法案及び旧法改正案の審議過

程(第1節第2の4⑵)においては,出産後分離保育すればハンセン病患者の子がハンセン病に感染しない旨,すなわち,胎盤を通じては感染しない旨が説明され,その後の審議過程で,妊娠や出産により,ハンセン病患者の子に感染するという説明がされた形跡は見当たらない。そうすると,このような審議過程より後に制定された優生保護法のらい条項制定時には,ハンセン病患者の子に対する感染予防としては,分離保育で足りると考えられていたといえる。加えて,当時,療養所内の保育所においてハンセン病患者の子の分離保育が可能であったことからすると,感染予防を目的として同条項が制
定されたとは考え難い。
また,ハンセン病の病状によっては妊娠出産に危険性があることは否定できないものの(甲D114・74頁,甲D133・11頁,甲D144・44頁,甲D146・434,435,505頁),上記のとおり,優生保護法のらい条項制定以前は,国会において,出産によりハンセン病患者である
母体を危険にさらすことについて議論された形跡はないし,そもそも,治癒後や病状によっては妊娠出産についてハンセン病による危険はなく(甲D114・74頁,甲D133・11頁,甲D144・44頁,甲D146・434,435,505頁),優生保護法のらい条項が制定された昭和23年は既にプロミンによって治癒する患者がいたのであるから,本来は,将来の
妊娠出産の可能性を断つことになる断種手術を認める根拠にならない。加えて,光田が理由にあげる療養所内の秩序維持とは,男女の交流を禁止せずに夫婦関係を認めることによって,男性の粗暴な言動が抑制され,秩序維持に資するから,妊娠出産を防止する手段として男女交流禁止よりも断種手術が適しているという説明に過ぎず,ハンセン病患者及びその家族の妊娠
出産を認めなかったこと自体の理由となるものではない(甲A23・194頁)。
そもそも,ハンセン病患者及びその配偶者に対する断種堕胎手術は,保育所が設置される以前に,療養所内で出生した子らにつき感染病予防のためには分離保育する必要があったものの分離保育の実現が困難であったため,養育困難な入所者の子の出生自体を防止することを目的として開始されたものである(甲A23・345~346頁,甲D2・109頁,甲D64・152頁,甲D81・548頁)。そうであるのに,保育所の設置により分離保育の実現が可能となった後も,断種堕胎手術が存続される理由はない。なお,ハンセン病患者に対する断種手術を最初に導入した光田は,昭和24年に発行した書籍において,断種手術の実施や優生保護法におけるらい条項の導入
が実現した理由として,国民がハンセン病を遺伝と考えていたことを理由に挙げた(甲D2・110,325頁)。
このように,いずれにしても,優生保護法のらい条項について合理的な立法理由をみつけることはできない。
光田が参議院厚生委員会で証言したところによれば,当時の療養所の医療
者は,ハンセン病患者及びその家族に対する断種堕胎手術を優生手術と捉えてハンセン病患者家族に対する断種堕胎手術を実施しており,実態としては,感染予防や母体の妊娠出産における危険による断種堕胎の必要性を個別的に考慮することなく,ハンセン病患者の子が不幸であるとか,ハンセン病患者の子が生まれることが周囲にとって負担となるとか,ハンセン病患者の子が
遺伝的に不良の子孫であるといった,優生的見地に基づいて,断種堕胎手術を実施したことは明らかである。
このようなハンセン病患者に対する優生手術の実施は,ハンセン病患者の子が生まれてはならない子という認識の現れであるし,また,そのような認識を与えるものであった。

そして,厚生省(当時)の統計資料によれば,ハンセン病を理由とした断種手術は平成4年まで,人工妊娠中絶手術は平成6年まで行われており,これらの手術が強制や半強制的にされたものでなかったとしても,ハンセン病を理由に断種堕胎手術をする必要がないことが医学的に明らかになった以降も断種堕胎手術が行われていたことからすれば,ハンセン病患者の子を産まれてはならない子とする扱いが平成8年の新法廃止の直前まで継続していたといえる(甲A52・454~457頁)。

第6
1
ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別に関する被告等の施策の効果被告,藤楓協会による施策
被告,藤楓協会は,別紙被告普及啓発活動等一覧記載の取り組みや活動等を実施した。なお,厚生省と密接な関係にあり厚生省から委託されハンセン病に関する啓もう活動を行う藤楓協会は,別紙被告普及啓発活動等一覧の1
のと

おり,昭和27年以降,啓発活動を行った。宣伝内容からその効果に問題があることは前記第4の4
2
ウのとおりである。

新法廃止後の施策等による効果
各施策による効果の分析


社会生活訓練支援,退所準備等支援,社会復帰者に対する支援制度及び社会生活支援一時金事業
平成10年3月に開始された社会生活訓練支援(別紙被告普及啓発活動等一覧の1⑵ア)及び退所準備等支援(別紙被告普及啓発活動等一覧の1⑵イ),昭和50年に開始された社会復帰者に対する支援制度(別紙被告
普及啓発活動等一覧の1⑵ウ)並びに平成16年度に実施された社会生活支援一時金事業(別紙被告普及啓発活動等一覧の1⑵カ④)は,療養所に入所していたハンセン病患者が社会復帰することを一定程度援助する効果を有していたといえ,これにより社会復帰することができた一定数のハンセン病患者が社会内でハンセン病患者以外の国民らと交流することで,ハ
ンセン病に対する差別や偏見が解消される効果が一定程度生じたことはといえる。
もっとも,全国津々浦々で,社会復帰したハンセン病患者とハンセン病患者以外の国民らとの間での交流が生じているとはいえず,その効果は限定的である。
また,いずれも,ハンセン病患者家族と国民らの交流を支援するものではなく,ハンセン病患者家族に対する偏見差別の解消の効果としてみると,
より限定的である。

ハンセン病医学夏期大学講座の再開及びハンセン病を正しく理解するフォーラムの開催被告は,平成10年以降,毎年,ハンセン病を正しく理解するフォーラムを四国各県において開催し,講演,療養所の案内ビデオの放映,シンポジウム,講師や入所者自治会代表と参加者との意見交換を行い,また,平成9年以降,毎年ハンセン病医学夏期大学講座として,医療関係者に対する講義や実習を実施し,入所者との交流も行っている(別紙被告普及啓発活動等一覧の1⑵エ)。これらは,参加者に対しては,ハンセン病
についての正しい知識を与えることで,間違った知識に基づくハンセン病患者家族に対する偏見差別の発生を防止し,又は解消するという効果を有しており,社会におけるハンセン病患者家族に対する偏見差別の除去にとって,一定の効果を有しているといる。もっとも,そもそも,フォーラムの参加人数が1回あたり数百人程度と少なく,複数箇所で開催されている
ものの,全国津々浦々で開催されたものではないこと,夏期大学講座も参加者は医療機関関係者のみである上に,毎年50人前後の参加数であることからすると,その効果は限定的である。さらに,フォーラムの参加者は,参加前から人権意識がある者や,ハンセン病に対する偏見差別に問題意識を有している者が多い可能性があり,従前からハンセン病に対する偏見を
抱き,ハンセン病患者やその家族に対し差別をしてきた者や,そのような者からの話でハンセン病患者やその家族に対して差別を行うような人権意識の者が,どれほど多くシンポジウムに自ら参加するかは疑問であること,上記のように参加者数が少ないことからすると,そのような最も普及啓発活動の対象とすべき人々に対する効果は限定的である。また,いずれも,ハンセン病患者家族に対する偏見差別について取り上げるものではないことからすると,ハンセン病患者家族に対する偏見差別の除去の効果として
は限定的である。(乙A33,乙A35,乙A38,乙A39の3)ウ
社会交流事業及び地域啓発推進事業の実施
社会交流事業(別紙被告普及啓発活動等一覧の1⑵オ)は,平成8年以前から実施されてきたものであるところ(乙A33・293頁),同事業
に基づく催しへの参加人数は,平成28年度でみると,全国合計で延べ2万9883人であり,入所者が療養所周辺の地域住民らと交流することで,ハンセン病に対する差別や偏見が解消される効果が一定程度生じたといえる(乙A40別紙1・1頁)。また,地域の催しには,必ずしもハンセン病や差別に関心を有していない地域住民に対しても,参加する誘引力を有
するものであり,ハンセン病について正確な知識を有していない地域住民が参加することで,偏見や差別が解消され,また,従前,偏見や差別意識を有していなかった場合にも,入所者と交流し,ハンセン病患者が交流等を避けるべき対象ではないことを体感することができ,将来,周囲の偏見や差別意識の影響を受けることを防止する効果を有している。

もっとも,全国合計で年延べ2万9883人という参加人数に鑑みると,その効果は限定的であるし,対象がハンセン病患者であってハンセン病患者家族を対象としていないことからしても,ハンセン病患者家族の差別被害に対する効果は限定的である。(乙A40・2枚目)
また,平成11年度に開始した,各療養所に地域啓発推進員を配置した
地域啓発推進事業(別紙被告普及啓発活動等一覧の1⑵オ)の実施についても,ハンセン病に対する差別や偏見が解消される効果が一定程度生じたといえるものの,参加人数は,平成28年度でみると,全国合計で延べ4万349人であり,参加人数のうち,自ら療養所見学に訪れた者は,従前からハンセン病に対する関心や人権意識が高い者が多く含まれる可能性もあり,差別や偏見が解消される効果は限定的である。(乙A40・2枚目)エ
中学生向けパンフレット
厚生労働省は,平成14年度以降,毎年,中学生向けパンフレットを作成し,全国の中学生に配布されるよう,全国の中学校や教育委員会等に配布した(別紙被告普及啓発活動等一覧の1⑵カ②)。このパンフレットには,ハンセン病の正しい知識や,誤った隔離政策によってハンセン病患者
に対する偏見差別が助長され,今も元患者や家族が差別を受けている旨,偏見や差別をなくすために考えることを求める内容等が記載されていた。また,平成20年度から作成配布された指導用パンフレットには,子供たちと共に考え行動する事項として,ハンセン病患者やその家族たちが長い間多くの偏見と差別に苦しんできたことや,今も偏見や差別に苦しんでい
る入所者や社会復帰者たちが置かれている現実に目を向け,解決に向けて考え行動することを願っている旨が記載されていた。このパンフレットの配布によって,全国の多くの中学生が,ハンセン病が感染しにくく,発病もしにくい上に,後遺症を残すことなく治療ができるため感染や発病をおそれる必要がないことや,隔離する必要のある特別な病気ではないこと,
被告の誤った政策によってハンセン病患者が隔離されていたこと,ハンセン病を理由に元患者やその家族をいじめたり拒絶したり差別することは間違っていることなどを学ぶことができ,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別を除去したり,偏見差別を有する者からの悪影響を受けにくくする効果を一定程度生じさせたといえる。もっとも,ハンセン病に関す
る指導の有無及びその内容は,学校や学級によって様々であって,中学生向けパンフレットに関するアンケート調査によれば,パンフレットを活用していない学校が多い上に,中学生向けパンフレットに関するアンケート調査に対し,学校教育における指導者である教員がハンセン病について正しい知識を有していない旨の回答や,研修の実施を希望する回答が繰り返されていること,実際に,教員に対して人権教育全般の研修を実施してはいるものの,ハンセン病に関する研修は実施しておらず,パンフレットと
ともに指導用パンフレットが配布されたにすぎないことからすると,パンフレットを配布した学校であっても,その内容について十分な指導が実施されたか否かは不明であるため,全国の中学生全員に対し,正しい知識を普及することができたとまではいえない。また,偏見差別の除去等は,繰り返しの働きかけによってその効果を定着させる必要があるところ,中学
生在学時にパンフレットが一度配布されるのみでは,繰り返しの働きかけがあったとはいえず,そのような効果を定着させたとまではいえない。(乙A19,乙A44の1,乙A52・10頁,乙A89)

シンポジウム
被告は,平成17年3月以降,毎年1回程度,ハンセン病問題に関するシンポジウムとし,ハンセン病の普及啓発活動としてシンポジウムを実施し,合計17回開催し,また,ハンセン病に関する『親と子のシンポジウム』を開催してきた(別紙被告普及啓発活動等一覧の1⑵キ)。これらのシンポジウムの実施は,参加者に対しては,一定の効果を有して
いるといるし,シンポジウムによっては,小中高等学校児童生徒らによる演劇を実施したり,映画の上映会を実施したり,映画の主演者と原作作者によるトークショーを実施したりして,シンポジウムへの参加の誘引を工夫して実施していたといえる。もっとも,シンポジウムの参加者は,参加前から人権意識がある者や,ハンセン病に対する偏見差別に問題意識を有
している者が多い可能性があり,従前からハンセン病に対する偏見を抱き,ハンセン病患者やその家族に対し差別をしてきた者や,そのような者からの話でハンセン病患者やその家族に対して差別を行うような人権意識の者が,どれほど多くシンポジウムに自ら参加するかは疑問であるため,そのような最も普及啓発活動の対象とすべき人々に対する効果は限定的である。(乙A20,乙A53~56,乙A102)

国立ハンセン病資料館及び重監房資料館
平成5年6月に開館した高松宮記念ハンセン病資料館を平成19年にリニューアルして開館した国立ハンセン病資料館(別紙被告普及啓発活動等一覧の1⑵カ②)や平成26年4月に開館した重監房資料館(別紙被告普及啓発活動等一覧の1⑵カ⑨)は,来訪者が来訪前ら人権意識のある者や,ハンセン病に対する偏見差別に問題意識を有している者が多い可能性があ
り,従前からハンセン病に対する偏見を抱き,ハンセン病患者やその家族に対し差別をしてきた者や,そのような者からの話でハンセン病患者やその家族に対して差別を行うような人権意識の者が,どれほど多く国立ハンセン病資料館に来訪するかは疑問であるし,地理的物理的に来訪者が限られるため,その効果は限定的である(乙A21,乙A22の2・3頁,乙
A48,乙A51,乙A59)。

ハンセン病問題に関する検証会議及び同会議の提言に基づく再発防止検討会の開催
平成14年10月16日から平成17年3月1日までの間に開催され
たハンセン病問題に関する検証会議(別紙被告普及啓発活動等一覧の1⑵カ③)では,検討会で必要な調査,検討,報告書の作成を行った上で,ハンセン病政策の歴史と実態について,科学的,歴史的に多方面から検証を行い,検証会議の結果は,厚生労働大臣に対する最終報告書として取りまとめられ,同大臣に対し,平成17年3月1日に提出された。こ
の最終報告書の家族被害に関する部分の一部は前記第3の6のとおりであり,再発防止のための提言として,被害の救済・回復,正しい医学的知識の普及,人権教育の徹底,資料の保存・開示等及びロードマップ委員会(仮称)の設置等といった9つの提言がされた。このうち,ロードマップ委員会(仮称)の設置とは,検証会議の再発防止のための提言を具体化するための行動計画等を策定し,国・地方公共団体等に対し逐次,同計画の実施を求めるとともに,実施状況等を監視することを主な任務とする第三者機関を設置するというものである。この検証会議及び検証会議によって作成された最終報告書は,ハンセン病患者及びハンセン病患者家族の差別被害を直視し,その責任を分析するとともに,現在生じているこれらの差別被害を解消し,また,将来の差別
被害を解消するための必要策を提言するものであり,ハンセン病患者家族の偏見差別の解消に必要かつ有効なものであったといえる。
もっとも,最終報告書の提言のうち,①ハンセン病患者家族に対する偏見差別を防止するための国の責務とその施策を規定する法整備(甲A23・766頁),②ハンセン病強制隔離政策による被害の救済と回復
として,最終報告書でもハンセン病隔離政策による被害と認められている家族の差別被害の救済と回復(甲A23・776頁),③初等中等教育の場以外において保健所等による専門家による正しいハンセン病理解の普及啓発活動(甲A23・760頁)など,実現されていないものがあるため,その効果が限定的なものとなった。

平成18年3月29日から平成30年3月7日までの間に検証会議の提言に基づいて開催された再発防止検討会(別紙被告普及啓発活動等一覧の1⑵カ⑤)は,全国の地方公共団体が実施した,ハンセン病を含む疾病を理由とする偏見差別の克服,国民・社会への普及啓発に向けた取組を調査し,国や地方公共団体による取組の実地状況の報告書を作成す
る等している。しかし,再発防止検討会の作成した国や地方公共団体による取組の実地状況の報告書では,各地方公共団体の普及啓発事業が道半ばであることや十分ではない旨を指摘しながら,改善の具体策を示しておらず,上記の実現されていない提言の検証とそれに対する対策や,最終報告書で不十分とした啓発活動について十分な検討と反省に基づく対策が行われていない。また,再発防止検討会では,ハンセン病患者に対するアンケート調査は実施しているものの,ハンセン病患者家族に対
するアンケート調査は実施していないし,住民に対するハンセン病に関する正しい知識がどの程度周知定着したかやハンセン病患者やその家族に対する偏見差別意識の程度を直接住民に対し調査したものでもない。このような状況からすると,再発防止検討会の活動がハンセン病の患者及びその家族に対する偏見差別の解消に与えた影響は限定的である(乙
A47,乙A84)。

らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日式典及びらい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の碑
平成21年から毎年1回開催されているらい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日式典(別紙被告普及啓発活動等一覧の1⑵カ⑦)には,毎年,厚生労働大臣並びにハンセン病患者ら及びその遺族のみならず,法務大臣や内閣官房副長官といった政府関係者,衆議院及び参議院の各議長並びに国会議員などの国会関係者も出席しており,平成23年6月22日に除幕したらい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の碑(別紙被告
普及啓発活動等一覧の1⑵カ⑧)とともに,ハンセン病患者及びその家族の名誉回復にとって重要な意義を有するといえる。また,この式典については,新聞報道等がされているため,ハンセン病患者が偏見差別被害を受け,名誉が侵害されたことを一定の国民らに周知する効果も有しているといえる。もっとも,式典には関係者以外参加することができず,また,イ
ンターネット上でライブ配信されているとはいえ,多数の国民らが式典をインターネット上で視聴していたとは考え難く,国民らに対する周知効果は限定的であり,ハンセン病患者及びその家族の偏見差別の解消に与える効果は限定的である。

ハンセン病問題対策促進会議の開催
被告は,促進法5条において,

地方公共団体は,基本理念にのっとり,国と協力しつつ,その地域の実情を踏まえ,ハンセン病の患者であった者等の福祉の増進等を図るための施策を策定し,及び実施する責務を有する。

と定められていることを踏まえ,国と地方公共団体との情報の共有及び連携の強化等を目的として,平成21年から,毎年1回,ハンセン病問題対策促進会議(別紙被告普及啓発活動等一覧の1⑵カ⑩)を実施している。同会議においては,厚生労働省や都道府県がハンセン病対策に関す
る取組状況についてそれぞれ報告し,情報を共有するとともに,ハンセン病問題対策を促進するために必要な方策について協議を重ねており,情報の共有や協議は,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別の解消に一定の効果を有するといえる。
もっとも,その結果として,上記のとおり,偏見差別の解消に対する効
果が限定的な取り組みや,不十分な取り組みが実施されていたことからすれば,ハンセン病問題対策促進会議の開催は,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別の解消に十分な効果を発揮しているとはいえない。コ
人権教育のための国連10年に関する国内行動計画
被告が平成9年7月4日に取りまとめ公表した人権教育のための国連10年に関する国内行動計画(別紙被告普及啓発活動等一覧の⑴)において,学校教育や社会教育を始めとするあらゆる場を通じた人権教育の推進を掲げ,また,特に重要と考えられる課題の一つとして,ハンセン病を掲げ,ハンセン病に対する差別や偏見の解消に向けて,ハンセン病資料
館の運営,啓発資料の作成配布等を通じて,ハンセン病に関する正しい知識の普及を推進するものとされたことは,平成19年の国立ハンセン病資料館の開館(前記カ)や,平成14年の中学生向けパンフレット(前記エ)等の作成配布に繋がっており,このような具体的取り組みが開始された後については,それぞれの箇所で言及したとおり,一定の効果を発揮しているものではある。
もっとも,その効果が限定的であることはそれぞれの箇所で言及したと
おりである。

文部科学省による初等中等学校教育及び教育者に対する指導と助言ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別の解消には,偏見差別意識の世代間承継を断つことが重要であり,初等中等教育期において,
人権意識を養う意義は大きい。平成9年7月4日に取りまとめ公表された人権教育のための国連10年に関する国内行動計画(前記コ)においても,

初等中等教育において,児童生徒の発達段階に即し,各教科,道徳,特別活動等の特質に応じながら,各学校の教育活動全体を通じて人権尊重の意識を高め,一人一人を大切にした教育を推進する。


という施策を積極的に推進すると定められ,ハンセン病の教育についても人権教育の重要課題として前記コ記載のとおり定められていた(乙A99・4,7,13頁)。
もっとも,文部科学省による初等中等学校教育及び教育者に対する指導と助言としての取り組みが具体的に開始されたのは,別紙被告普及啓
発活動等一覧1⑵ア記載のとおり,平成15年,全国の都道府県・指定都市の教育委員会や私立学校担当部局,附属中学校を設置する国立大学法人等を通じて各国公私立中学校等に対して上記パンフレット等の学校教育における活用とハンセン病に対する偏見や差別の解消のための適切な教育の実施について呼びかけたというものが初めてであり,同年まで
は,具体的な取り組みは開始されていなかった(乙A86の1,乙A86の2,乙A104)。
別紙被告普及啓発活動等一覧2⑵ア記載の文部科学省による初等中等学校教育及び教育者に対する指導と助言としての取り組みは,小中学生児童生徒の人権意識を高め,一定数の中学生生徒にハンセン病の正しい知識や,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別被害を伝え,偏見差別に対する問題意識を与え,偏見差別の解消を呼びかけており,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別の解消に一定の効果を有している。
もちろん,後記

のとおり,教科書にはハンセン病の問題が取り上げ

られており,大多数の生徒がその限りでは知ることになるが,さらに理解を深めるためには,ハンセン病の正しい知識,ハンセン問題の歴史等について前記エのパンフレットを用いるなどして学習を深める必要があるところ,前記エで述べたとおり,その取組みには学校や学級によって様々であって,教科書を使った授業とは別にハンセン病について取り上げていない学校もあることからすれば,全中学生がハンセン病の正しい
知識や偏見差別被害を理解できているのか疑問が残り,その限りで実体験等により偏見差別を有する世代に全中学生が抗することができるだけの教育ができているとはいえない。(乙A89,乙A105(各枝番))また,中学生向けパンフレットに関するアンケート調査に対し,学校教育における指導者である教員がハンセン病について正しい知識を有し
ていない旨の回答や,研修の実施を希望する回答が繰り返されていること,実際に,教員に対して人権教育全般の研修を実施してはいるものの,ハンセン病に関する研修は実施しておらず,パンフレットとともに指導用パンフレットが配布されたにすぎないことからすると,中学校教員に対してさえどの程度理解が徹底されているのか疑義が残る。実際,ハン
セン病に関する啓発資料として,法務省の人権啓発ビデオがあり,同ビデオがYouTube法務省チャンネル配信され,法務省ホームページ上で公開されているにもかかわらず,上記調査に対し,中学校教員から,ハンセン病に関する啓発資料として,映像資料を求める声が毎年上がり,インターネット上での映像資料の提供を求めていることからすると,既存の法務省の人権啓発ビデオ,YouTube法務省チャンネルでの配信及び法務省ホームページ上での公開(別紙被告普及啓発活動等一覧3⑴イ)についての文部科学省による周知や,パンフレットの活用方法や指導方法についての周知指導が不足しているといえる。
加えて,初等中等教育においては,学校教育と家庭教育との連携が必要であるところ,特に偏見差別の問題は,世代間承継が問題となるわけ
であり,家庭との連携が重要なところ,それが十分に実施されているとはいえず,偏見差別の解消の視点からは十分な効果を発揮できる体制になっているといえない。(乙A89)
中学社会公民教科用の文部科学省検定教科書には,平成22年に
はハンセン病問題が数多く取り上げられるようになり,数多くの教科書
において,ハンセン病患者について差別される対象となって人権又は平等権が侵害されてきたことが掲載されている(乙A109(各枝番))。例えば,教育出版株式会社発行の中学社会公民ともに生きる

(乙A109の1の1)では,

ハンセン病は伝染性が非常に弱く,現在は薬によって完全に治ります。

,ハンセン病患者に対する差別や偏見の問題がありました。現在,国や地方公共団体では,それらの差別や偏見をなくすために,さまざまな啓発活動に取り組んでいます。わたしたちは,これらの差別の実態を見抜き,差別をしない,させないという強い自覚をもつとともに,そのための行動をおこすことが大切です。と掲載され,さらに国が熊本判決に対する控訴を断念し,責任を認めて
謝罪したことまで言及するなど,平成14年から中学校の公民の教科書にハンセン病が取り上げられるようになった。このような教科書を利用した中学生は,公民の授業を通じて,ハンセン病患者は偏見差別の対象となり人権又は平等権が侵害されたことを学び,ハンセン病患者及びその家族に対し偏見,差別を持つことは良くないということは一応理解に至るといえる。
もっとも,教科書の上記記載だけでは中学校生徒がハンセン病につい
てどのような病気であるか正しく理解し,また,具体的にどのような行動がハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別に当たるかを理解するのは難しく,そのため,前記のとおり,ハンセン病患者等に対して根強い偏見差別を有する世代がハンセン病を特別な病気と主張した場合にそれに抗しきれず,結局差別行為をしてしまう可能性がある。また,
中学社会公民教科用の文部科学省検定教科書であっても,ハンセン病患者について差別される対象となって人権又は平等権が侵害されてきたことまでは記載されていない教科書もある(乙A109の7)。ハンセン病に関する人権教育を徹底するには,中学校生徒が理解可能な内容で詳細に説明された前記エのパンフレットや正しい理解のある教員から
の適切な指導が必要である。

文部科学省による高等教育機関に対する指導と助言
高等学校現代社会教科用の文部科学省検定教科書には,平成25年にはハンセン病問題が数多く取り上げられるようになり,数多くの教科書
に,熊本判決によって被告の違法が認められた旨が掲載されている(乙A110(各枝番))。
例えば,株式会社清水書院発行の新現代社会(乙A110の1の1)では,平成15年以降,平成13年の熊本判決が紹介された上,ハンセン病患者に対する差別が今日でも残されている課題と記載され,また,平成
16年以降,平成13年の熊本判決が紹介された上,ハンセン病に対する偏見や差別が誤った思い込みによるものであることなどが説明されており,これらの教科書等を利用して現代社会の授業を通じてハンセン病について教育している高等学校があり,さらに,ハンセン病を含む人権教育を実施している高等学校や大学もあるから,その受講者にとっては,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別の解消に一定の効果を有しているといえる(乙A107の1,乙A107の2,乙A110(各枝番))。
もっとも,高等学校現代社会教科用の文部科学省検定教科書のうちには,平成25年以降であっても,熊本判決によって被告の違法が認められた旨までは記載されていないものもあるし(乙A110の4の3),文部科学省は,高等学校の生徒に対して具体的にハンセン病に関する人権教育を実施するように働きかけるなどの取り組みはしておらず,実際に高等
学校におけるハンセン病に関する人権教育の実施の有無は高等学校や学級によって異なる。また,文部科学省による国公私立大学の教務担当者等が出席する会議等における人権教育に関する取組の推進の促し(別紙被告普及啓発活動等一覧2⑵ア)は,ハンセン病について言及するものではなく,これによって直接ハンセン病についての人権教育の取り組みが推進された
ということはできない。(乙A107)
このように,全国の高等教育機関において,その大多数がハンセン病を含む人権教育を実施する状況にはなく,その効果は限定的である。ス
文部科学省による社会教育関係者に対する指導と助言
ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別が根付いている世代に対する働きかけは,現存する偏見差別の解消のみならず,世代間承継を防止するためにも重要である。そして,公民館や図書館などの教育施設において,ハンセン病に関する講演会が開催されていることは,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別が根付いている世代に対しても,ハンセン
病に関する正しい知識を学習する機会を提供するものであり,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別意識の解消に一定の効果を有するといえ,文部科学省によって,社会教育の指導者として中心的な役割を担う社会教育主事の養成講習等において人権教育に関するプログラムが実施されていることが全く効果を有しないとはいえない。
もっとも,文部科学省はハンセン病に特化して社会教育の指導者に対し講習等を実施してはいない。また,ハンセン病に関する社会教育は,全地
域で実施されてはおらず,実施されたものの規模も参加者数十名程度のものが多く,全国津々浦々で社会教育が実施されて広く国民らにハンセン病について教育が実施されている状況とはいえないから,その効果は限定的である。(乙A108,別紙地方公共団体普及啓発活動等一覧)

法務省人権擁護局の熊本判決前の取り組み
法務省人権擁護局の平成9年以降平成13年の熊本判決までの取り組みのうち,全国中学生人権作文の実施(別紙被告普及啓発活動等一覧3
エ)

は,人権啓発活動ではあるため,ハンセン病患者家族に対する偏見差別の解消に一定程度の効果を有することは否定できないが,ハンセン病について直接取り上げたものではないから,その効果は限定的である。別紙被告
普及啓発活動等一覧3ア記載の啓発活動は,一定数の国民らに対し,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別被害を伝え,ハンセン病についての正しい知識を与えるものであったものの,平成13年熊本判決以降の取り組みよりも,全体として規模の小さなものであり,全国津々浦々で国民ら全員に周知がいきわたるような取組ではなかったから,ハンセン病
患者及びその家族に対する偏見差別の効果は限定的であった。

法務省人権擁護局による広告
平成13年以降実施された法務省人権擁護局による広告(別紙被告普及啓発活動等一覧3

イ)は,平成13年熊本判決が国の責任を認めたこと

による印象とあいまって,熊本判決前よりも多くの国民らに対し,ハンセン病患者の偏見差別被害を伝え,ハンセン病についての正しい知識を与え,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別の解消に一定の効果を生じたといえるが,全国紙,全地方紙に頻回に長期にわたり新聞広告が掲載されるなどの全国津々浦々にいきわたるような広告は実施されておらず,無らい県運動が実施されたときと同等程度の啓発活動が全国津々浦々において継続して実施されているとはいえないから,その効果は限定的である。

法務省人権擁護局によるポスターやリーフレットの作成配布
法務省人権擁護局により平成13年以降作成配布されたポスターやリーフレットは,前記セと同様に,一定の効果を生じたといえるが,戸別配布等はされず,国民ら一人一人には配布されていないから,その効果は限定的である。


法務省作製の映像資料
法務省は,ハンセン病問題をテーマにした人権啓発教材として,映像資料である人権アーカイブ・シリーズ『ハンセン病問題~過去からの証言,未来への提言』(人権境域・啓発担当者向け・証言集及びビデオ)/『家族で考えるハンセン病』(一般向け・ビデオ)等を作成し,YouTube法務省チャンネルで配信し,また,法務省ホームページで公開していることは,視覚的聴覚的に視聴者にわかりやすくハンセン病の正しい知識やハンセン病患者の偏見差別被害を説明することができ,また,当該映像資料がドラマ仕立てになっているなど,視聴しやすい内容になっており,
さらに,ハンセン病患者家族も偏見差別の被害を受けてきたことへの言及もあり,ハンセン病患者及びハンセン病患者家族の偏見差別を解消する一定の効果を有するものである。もっとも,上記映像資料のうち家族で考えるハンセン病と題する映像資料の再生回数は,平成28年9月9日から平成30年12月18日までに7万3376回であり,1回の再生で複
数人が視聴している可能性があることを考慮しても,国民らの多くが視聴している状況にはない。また,貸出を希望する者は,ハンセン病問題や,差別等の人権問題に興味関心がある者が多く,貸出によって,ハンセン病に対する偏見差別意識を有する者が同教材を視聴したとは考え難い。加えて,上記したように,中学校の教員の間でも,法務省がインターネット上でハンセン病に関する啓発教材となる映像資料を提供していることが周知されていない(乙A62の2)ことからすると,その効果は限定的である。

全国中学生人権作文の実施
昭和56年度以降の全国中学生人権作文の実施(別紙被告普及啓発活動等一覧3

エ)は,全国の中学生に,人権について考える機会を与え,人

権意識を高める効果を有し,その中で,ハンセン病の偏見差別について考える中学生がいたことで,当該中学生や入賞作品の読者に対しては,ハン
セン病患者及びその家族に対する偏見差別を解消する効果を一定程度有するものではある。もっとも,啓発広告も含め,積極的にハンセン病についての正しい知識を普及する活動ではないので,その効果は限定的である。(乙A61・82,83頁,乙A120)

法務局及び地方法務局の取り組み
法務局・地方法務局が平成9年頃から,人権啓発事務に携わる人権擁護委員や地方公共団体の人権擁護事務担当者に向けたハンセン病問題に関する講演会や研修会を開催するなどの啓発活動を実施してきたこと(別紙被告普及啓発活動等一覧3⑵ア)は,人権啓発事務に携わる人権擁護委員や
地方公共団体の人権擁護事務担当者のハンセン病問題に対する理解が進むことで,ハンセン病に関する人権啓発がより適切に行われる効果を有しており,ハンセン病患者家族に対する偏見差別の解消に一定の効果を有するものではある(乙A116)。
また,法務局及び地方法務局が,平成13年以降,新聞広告の掲載,ポ
スターの作成配布,リーフレットの作成配布を行ったことに加え,ハンセン病に関する講演会や映画上映会を実施したこと(別紙被告普及啓発活動等一覧3⑵イ)は,上述してきた啓発活動と同様に,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別被害を一定程度解消する効果が生じたものの,その規模は,無らい県運動と同等程度といえるような,高頻度の広告による啓発活動が実施されたものではない。また,入所者から実情を聴取した取り組みは,重要な意義を有しているものの,その結果として行われた啓
発活動が無らい県運動と同等程度といえるような,高頻度の広告による啓発活動が実施されたものとはいえない以上,効果は限定的である。また,ハンセン病患者家族からの実情の聴取や家族の被害に着目した取り組みは実施していないことからしても,ハンセン病患者家族に対する偏見差別の解消効果は限定的である(乙A117~119)。


黒川温泉宿泊拒否事件
平成15年の黒川温泉宿泊拒否事件(前提事実第6の1キ)が発生した際に,熊本県と熊本地方法務局が共同して告発するなどし,これが報道されたことで,ハンセン病患者の差別被害の存在と,ハンセン病患者に対する差別が許されないものであるということが一定数の国民らに周知され,
ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別被害を一定程度解消する効果が生じた。また,法務省人権擁護局は,黒川温泉宿泊拒否事件を受けて,ハンセン病の正しい理解と偏見をなくすことを呼びかける内容の新聞広告を全国紙に掲載し,羽田空港の出発ロビーに設置されたテレビ画面において,ハンセン病に関する啓発を呼びかける広告を掲載した(乙A52・1
1頁)。これらは,当該広告を目にした者に対しては,一定の効果を有するものといえる。しかし,高頻度の広告による啓発活動が実施されたものとはいえない。

インターネット広告
法務省により平成28年6月30日から同年7月20日までに実施されたインターネット広告(乙A61・84頁)は,ハンセン病に関する正しい知識と理解を促すとともに,ハンセン病に関するシンポジウムを周知するものであるが,掲載期間が短期間であって長期間にわたる普及啓発活動が継続的に実施されたものとはいえず,その効果は限定的である(乙A61・84頁)。

各都道府県
各都道府県の取り組みは,ハンセン病患者の偏見差別被害を周知し,ハンセン病についての正しい知識を与え,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別の解消に一定の効果を生じたといえる。また,入所者との交流を実施している地方公共団体もあり,参加者にとっては,交流を通じて
ハンセン病に対する理解を深める効果も生じた(別紙地方公共団体普及啓発活動等一覧)。さらに,映画の上映会,講演会やパネル展の際の映画上映,小中学高等学校の児童生徒による演劇の実施等,人権意識が高い者や,ハンセン病に対する関心が強い者以外の者も誘引する取り組みが実施されている都道府県もあり,また,時刻表に広告を掲載するなど,多くの住民
の目にハンセン病に関する啓発が目に止まるような取組を実施した地方公共団体もある。(乙A91~93)
また,地方公共団体によっては,小中高等学校の児童生徒向けの啓発DVDやパンフレット等の啓発資料や学習用教材を作成して,地域の小中高等学校に配布したり,住民に貸出したり,出張講演,入所者との交流会を
実施しており,また,教育者に対する研修を実施しており,一定数の小中高等学校の児童生徒がハンセン病の正しい知識や,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別被害を認識することができ,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別の解消に一定の効果を有している(乙A91~93,乙A105)。

もっとも,いずれも,各啓発活動の参加人数は数十名のものや数百人程度のものが多く,規模は大きいとはいえず,また,住民らの自発的な参加が必要なものが多く,偏見差別意識を有している者が参加するとは言い難いものが多く,啓発活動の頻度も頻繁なものとはいえず,小中高等学校における啓発活動も全ての学校で実施されてはおらず,網羅性に欠けている。教育者に対する研修も,参加者が固定化され,網羅性に欠けている旨の指摘をする地方公共団体もある。このような啓発活動は,長年に亘って根強く植え付けられた差別意識を払しょくするに足りるような,高頻度の啓発活動が全国津々浦々において継続して実施されているとはいえない。(乙A91~93,乙A105,別紙地方公共団体普及啓発活動等一覧)さらに,平成13年熊本判決前の平成12年度までは,都道府県におけ
る啓発活動を実施していた都道府県は5府県とごく一部であり,かつ,実施していた府県においても,平成13年度以降と比べると,規模が小さかったところが多い(別紙地方公共団体普及啓発活動等一覧)。
平成13年熊本判決以後は,都道府県における各取り組みが強化されており,平成13年熊本判決が国の責任を認めたことによる印象とあいまっ
て,熊本判決前よりも多くの国民らに対し,ハンセン病患者の偏見差別被害は伝えられ,ハンセン病についての正しい知識を与え,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別の解消に一定の効果を生じたといえる。小括
被告,藤楓協会,さらに,別紙地方公共団体普及啓発活動等一覧の各地
方公共団体による各施策は,一つ一つを取り上げるとその効果は限定的であるものの,合わせると,全国で色々な対象者,参加者に対し宣伝,広報活動が展開されたことになり,各施策を合わせた効果は相当にあったといえる。すなわち,各施策によって,特に,平成13年以降は,それ以前からのハンセン病患者に対する偏見差別や人権侵害に関するマスコミの報道
(前記第4の4


,同5~

),さらに内閣総理大臣,国会,多数

の知事がハンセン病患者を隔離してきたことが人権侵害であったとして謝罪したことで(前記5~

),多数の国民らの間に,ハンセン病が隔離

するような恐ろしい伝染病ではなく,そもそも感染しにくいこと,ハンセン病患者を隔離したことは人権侵害に当たること,ハンセン病患者を特別な存在として扱うことは不当な偏見差別に当たることが広まったといえる。しかしながら,いずれの施策も,ハンセン病患者家族に対する偏見差別の
除去を徹底するには足りず,第4の5

カのとおり,国民らの3割前後が

ハンセン病患者やハンセン病患者家族に対する差別が残っていると感じており,その他のアンケートや調査の結果によっても,ハンセン病患者やハンセン病患者家族に対する偏見や差別が一定程度存在していることがうかがわれることからすると,大多数の国民らがハンセン病患者やその家族に
対し偏見,差別意識を有していない状態には達していないといえる。むしろ,現在でも,ハンセン病患者やその家族は,無視できない一定数の国民らから偏見を持たれ差別行為を受ける可能性があり,その意味において,被告による啓発活動が十分であるということはできない。
第7

原告らの具体的な被害の実態

1
具体的な差別体験等について
原告本人尋問を実施した原告らの具体的な差別体験等差別を理由とする被害の実態は,次のとおりである。

原告番号3(甲C3の1,原告番号3本人)
原告番号3は,昭和9年に大阪府で出生し,両親,兄弟姉妹,父方の伯母とともに暮らしていたところ,昭和15年,原告番号3が6歳のときに父が療養所に入所し,その際に,自宅の母屋,納屋,牛小屋から裏の川に至るまで真っ白に消毒されたため,100軒ほどの集落一体に父がハンセン病患者であるということが知られた(原告番号3本人4,5
頁)。原告番号3は,父の入所以降,父の入所前には仲良く遊んでいた近所の子からくさるから来るな,家の前を通るな等と言われ,
石を投げられるようになった(原告番号3本人5頁)。また,原告番号3の家族は,近所から嫌われ,避けられるようになり,近所付き合いがなくなり,近所から孤立した(原告番号3本人5頁)。原告番号3は,小学校でも仲間はずれにされ,席は一番後ろの隅に追いやられ,弁当を捨てられ,通学中に石を投げつけられて帰れ,学校に来るなと
言われるなどのいじめを受け,担任教師からも差別を受け,話しかけられさえしなかった(原告番号3本人6~8頁)。また,原告番号3の家族は,父が入所した後,父の入所前に一緒に暮らしていた父方の叔母が家を出て,近くに住む母方の兄弟姉妹からも

うちは親戚とちゃう。


来るなと言われるなどして,親戚との交流もなくなり,親戚から金銭的な援助を受けることもなかった(原告番号3本人11頁)。
原告番号3は,小学校4年生の4月に,それまで原告番号3と一緒に通学したり一緒に休み時間を過ごしたりして守ってくれていた1学年上の兄が療養所に入所し,心の支えを失って,小学校に通うことはほぼで
きなくなった(原告番号3本人6頁)。後記のとおり,原告番号3は,小学校4年生のころから,家計を支えるために働きづめとなり,小学校に通えなくなったこともあって,現在も読み書きが十分にできない(原告番号3本人31頁)。原告番号3は,11歳頃,将来を悲観した母から心中を持ちかけられ,11歳という多感な時期に,実の母を心中しな
いよう励まして支えるという立場におかれた(原告番号3本人12頁)。原告番号3は,18歳のときに母が死亡した後も,唯一援助してくれたそうめん屋の女性以外との近所づきあいはあいさつ程度や,近所宅の電話を自己の連絡先として良く使わせて貰える近所宅があった程度であった(原告番号3本人14,35,43頁)。そのため,原告番号3は,
女性らしく化粧をしたりして,おしゃれをしたいという気持ちがありながらも,そのような生活をあきらめざるを得なかった(原告番号3本人13,14頁)。
原告番号3は,昭和35年頃から,近所の人から直接的に差別的な言動を受けることがなくなり,昭和39年頃から近所づきあいとして立ち話をするようになったものの,昭和39年に生まれた娘が近所の同級生と遊ぶこともなく,現在も,近所づきあいとしては挨拶や簡単な立ち話,
葬儀の際の手伝い以上の付き合いはなく,自宅に誘われることもなく,地域の人々に嫌がられると思って地域の行事にも出席しない(原告番号3本人27,35~37,41頁)。
原告番号3は,友人宅に,原告のうちの1名を連れていったところ,同原告が顔写真付きで本件訴訟の原告として新聞に掲載されていたのを
見た上記友人から,平成29年3頃,同原告が新聞に載っていたと連絡を受け,その後,上記友人からは連絡が来なくなり,友人づきあいがなくなった(原告番号3本人29頁)。また,原告番号3は,平成30年2月末頃,近所の人から,

このごろ,えらい手,曲がってきたんやな,お父さんと同じ病気違うんか。

と言われており,昭和22年に死亡し
た父がハンセン病であったことを未だに記憶しており,原告番号3がハンセン病に罹患したのではないかと気にしていることが表れている(原告番号3本人29頁)。

原告番号4(甲A1・127~145頁,甲C4の1,原告番号4本人)
原告番号4は,昭和20年,福岡県で出生し,3歳頃まで両親と暮らしていた。しかし,原告番号4は,昭和23年,父が療養所に入所し,母が原告番号4をおいて家を出て再婚したため,幼いころから,祖父母方に預けられるなどして育った。原告番号4は,誰かと同じ布団で就寝したこと
や,一緒に入浴したことや,学校行事に親族が参加したことや,抱きしめられたことはなく,誰かから愛情を受けたという記憶が一切ないまま育った(原告番号4本人4,6,34頁)。また,原告番号4の母や親族は,原告番号4の父との交流を断ち,原告番号4にも同人の存在を伏せ,原告番号4は,昭和44年頃まで,父が死んだと聞かされ,療養所入所やハンセン病について何も教えられなかったため,両親と暮らせない理由や,周りの自分に対する偏見差別についても,その理由を知ることがないまま成
長した。そのため,昭和35年に中学校を卒業した後,親戚宅で暮らしながら働いていた際,その家人から食事に使った箸を折って捨てられるなど,理由を知らないままに差別を受けていた(原告番号4本人5,10,11頁)。また,原告番号4は,父が死んだと思っていた小中学生のころ,いじめられた記憶はないものの,小学校のころから学校が楽しくなくほとん
ど通っておらず,小学校6年生と中学生のときには学校には行ったり行かなかったりであった(原告番号4本人6頁,甲C4の1・4頁)。このように,原告番号4は,ハンセン病患者の子ということで愛情を感じることなく育ち,理由もわからないまま差別を受けてきたことで,人格形成が阻害され,自分が誰なのかわからず,自己のアイデンティティを確
立することができず,自分には何か欠けているところがあるのではないかと現在も感じている。
また,原告番号4は,夫と子には父がハンセン病を罹患していたことを打ち明け,夫と子が父と交流をもつようになったものの,偏見差別をおそれて,姑や夫の兄弟姉妹には父のことを一切話せず,父が死亡した後も,
周囲に父のことが知られるのではないかとおびえ,父のことが家族以外には話せない重大な秘密となっている(原告番号4本人45頁)。

原告番号5(甲A1・87~126頁,甲C5の1,甲C5の2)原告番号5は,昭和19年,療養所から逃走した両親の下,宮崎県で出
生し,昭和23年,4歳のときに,両親が療養所に再入所したため,中学1年生で保育所に入所するまでは,祖母と叔父の下で暮らした。原告番号5は,小学校に入学したころ,ハンセン病患者の子であることを理由として,通学中に石を投げつけられるなどのいじめを受けたため,いじめられないように,勉強を必死で頑張り,いじめられないようになった。(原告番号5本人6,21,22頁)
原告番号5は,昭和35年,療養所附属の看護学校に進学したところ,同校の上級生から,原告番号5が入所者の子だから,20歳ぐらいになったら自殺するなどと偏見に満ちた言葉を投げかけられた。(原告番号5本人10頁)
原告番号5は,看護学校卒業後,就職する際,両親とも死亡した旨の嘘
をつき,周囲にハンセン病患者の子であることを隠した。原告番号5は,就職先の先輩看護師から,療養所附属の看護学校出身を理由に,ハンセン病に感染しているといわれた。(原告番号5本人10,11頁)
原告番号5は,昭和38年頃,当時の交際相手から結婚を求められたために,交際相手に対し,両親がハンセン病患者であった旨を伝えたところ,
交際相手から,原告番号5を介してハンセン病に罹患するのではないかという趣旨の手紙が届き,結婚は破綻となった。(原告番号5本人12頁)原告番号5は,昭和40年,交際相手を両親に会わせ,両親がハンセン病であることを伝えた上で結婚したが,姑や周囲には両親が死亡したと嘘をつき,両親がハンセン病患者であったことを隠し続け,療養所に入所し
ている両親と会うために,姑や職場に嘘をつき続けた。(原告番号5本人12頁)
原告番号5は,昭和53年,父が危篤となって病院に駆けつけた際に,姑や職場に嘘をついていて何度も父の入院先に来ることができないとして,父に対する延命治療を断らざるを得なかった。(原告番号5本人15頁)
原告番号5は,原告番号5に優しく理解者であった姑に対し,両親についての真実を打ち明けたいと考えていたところ,見方によっては原告番号5と療養所との関係が窺われる葉書を見ただけで激怒し詰め寄ってくる姑を見て,真実を打ち明けることを諦め,その後も離婚するまで嘘をつき通した。(原告番号5本人17,18頁)

原告番号6(甲C6の1,原告番号6本人)
原告番号6は,昭和18年,北海道で出生し,両親と共に暮らしていたところ,7歳のときに父が青森県所在の療養所に入所し,自宅が家中真っ白になるまで消毒されたため,近所中に父がハンセン病患者であると知られ,原告番号6の家族が白い目で見られるようになった。原告番号6の家族は,以前は調味料の貸し借りなどしていた近所付き合いもなくなって,
近隣住民が挨拶さえ返してくれないようになり,母が勤務先から解雇され,以前は頻繁に交流のあった親戚ともつきあいがなくなって,親戚や近所の子供たちも原告番号6と遊ばなくなった(原告番号6本人4~9頁)。原告番号6は,小学校で掃除に使う雑巾をバケツで洗おうとすると,お前が触るとうつるなどといって洗わせてもらえず,何かにつけて
来るな,うつるなどといっていじめられ,教室では,教員から,
他の児童から離れた席に座るよう指示された(原告番号6本人9,10頁)。このような状況であったため,原告番号6は,小学校にほとんど通わなかった(原告番号6本人10頁)。中学校でも,小学校のときと状況は同じだったため,原告番号6は,中学校にもほとんど通わず,読み書き
が苦手となった(原告番号6本人13,47頁)。原告番号6は,このようないじめの経験を通じて,交友関係を築くことが苦手となり,中学卒業後に働いた勤務先では友人ができなかった(原告番号6本人15頁)。原告番号6は,18歳のときに婚約者に父の病気のことを話し,後遺症のある父と会せた上で結婚したところ,夫は,仕事がうまくいかないと酒
を飲んでは原告番号6に八つ当たりをし,出世できないのはお前のせいだ,あんな病気の親からもらってやったのになどといって,ハンセン病患者家族である原告番号6のせいで仕事がうまくいかないと言いがかりをつけ,原告番号6に何度も激しい暴力をふるい,原告番号6は前歯を4本折るなど負傷した(原告番号6本人17,18頁)。原告番号6は,父のせいではないとわかっていながらも,療養所で暮らす父と面会した際には,夫からの暴力について,父を責め続け,恨み言を言い続けた。
原告番号6は,結婚後働いた勤務先で,友人が3人程度でき,お互いの自宅に泊まりに行くほどの交友関係を築いたものの,平成13年の熊本判決の前後にハンセン病についてテレビ報道された際に,ハンセン病患者家族であることを打ち明けたところ,それ以降,一切連絡が取れなくなり,交友関係が途絶えた(原告番号6本人20,21,29頁)。

原告番号6は,本件訴訟の提起をきっかけに,新聞やテレビ報道の取材を受けるようになり,ハンセン病患者家族として顔写真等を公表しているため,孫の結婚式に出ると孫の結婚相手や親族にハンセン病患者家族であることが知られると思い,孫の結婚式には出席しなかった。

原告番号7(甲C7の1,原告番号7本人)
原告番号7は,昭和30年,大阪府で暮らしていた朝鮮国籍の両親の下に出生し,1歳4か月で母と姉が療養所に入所するまでは,両親と兄弟姉妹とともに生活していた。原告番号7の記憶にはないものの,父の聴き取りの文書によれば,自治体職員による頻回な執拗な母に対する入
所勧奨や近隣住民に対する聴取が実施されたため,近隣住民に知られてしまい,近所の銭湯から家族全員が入浴を拒否されるようになった(原告番号7本人18~19頁)。
原告番号7は,10歳のころ,母から母がハンセン病だと聞かされたときの母の様子から,ハンセン病が他人には知られてはならない病気だ
と捉え,また,小学校5,6年生のころ,同級生がハンセン病を鼻が取れる病気だといって差別的なしぐさをすることが度重なり,ハンセン病が周囲に嫌われる恐ろしい病気であると感じ,母がハンセン病であることを周囲に知られてはならないと悟り,昭和40年ころから,秘密を抱えて生きることとなった(原告番号7本人8,9,31頁)。原告番号7は,高等学校在学時である昭和45年から,それまで使用していた日本名の通称名ではなく本名で生活し,在日朝鮮人であることを明かして,
在日朝鮮人に対する差別に反対する運動を行っていた一方,長い間,母がハンセン病患者であったことについては秘したまま生活し,妻にも母のハンセン病を秘したまま結婚し,結婚3年後に妻に打ち明けるまで,隠し続けた(原告番号7本人12~14頁)。
なお,原告番号7は,昭和63年,親しくしていた友人家族と療養所
を訪問した際に,同人らと療養所の知人宅に訪問したため友人家族らは原告番号7がハンセン病患者家族であると知ったものの,友人家族らはその後も原告番号7と親しく付き合っており,平成5年,療養所へのバスツアーに参加した際に,参加者に対しハンセン病患者家族であることを告げた際にも参加者は原告番号7に差別的な対応をとることなく理解
を示した。また,原告番号7は,本件訴訟をきっかけとして,提訴前からハンセン病患者家族であることを公にしているところ,自らがハンセン病患者家族であることを理由として直接差別を受けたという記憶はない(原告番号7本人28,29頁)。

原告番号9(甲A1・45~86頁,甲C9の1,原告番号9本人)原告番号9は,昭和21年,福岡県で出生し,4歳のときに,まず母が,引き続いて父が療養所に入所したため,保育所である竜田寮に入所した。竜田寮事件(前提事実第6の1⑵ウ)が発生した際には,石を投げつけられた(原告番号9本人30頁)。原告番号9は,竜田寮事件が
発生した直後の昭和29年の夏,竜田寮事件が原因で,母方の叔母に預けられた。叔母,近くに住む祖父及び親戚は,ハンセン病であった原告番号9の母を嫌って,原告番号9にも冷たく当たった(原告番号9本人3~7頁)。
原告番号9は,昭和31年に父が死亡しており,母が療養所に入所している上,親戚宅で貧しい生活を送っているという家庭環境から,昭和36年の中学校卒業時には,進学を希望することができず,また,ハン
セン病患者の子だという理由で,希望した食料品を扱う職業や用務員などの人と接する職業に就くことができず,機織りの仕事に就かざるを得なかった(原告番号9本人19,20頁)。その上,原告番号9は,ハンセン病患者の子だという理由で,縁談も持ちかけられることなく,人生の選択肢が狭められた(原告番号9本人20頁)。


原告番号21(甲C21の1,原告番号21本人)
原告番号21は,昭和38年,宮城県で出生し,昭和39年,父がハンセン病を再発して療養所に再入所したため,療養所の近くで母と暮らした。

原告番号21は,小学生のころ,ハンセン病の子を意味するどすの子と呼ばれ,ランドセルや教科書を隠され,教室では座席を他の児童の席から離されるなどのいじめを受けた。いじめについて,原告番号21の母が小学校側に話をしても,小学校の教員らは,何の対応も取らなかった。(原告番号21本人5,8頁)

原告番号21の家族は,地区の会合や,子供会の行事等,同じ開墾部落の家庭が参加している地域の行事に一切呼ばれなかった。(原告番号21本人5頁)
原告番号21は,中学校進学後も,周囲から孤立した状況が変わらなかったものの,中学3年生のときに,原告番号21の状況を知った担任
教師が同学年の生徒全員を集めて話をした結果,クラスメイトらから話しかけられるようになり,小学生のころから原告番号21をいじめていた生徒からも原告番号21をいじめられないようになり,同生徒とも親しく交流するようになった。(原告番号21本人11~13頁)
原告番号21は,中学校卒業後に父の土建業の仕事を手伝っていたところ,父の同僚には父がハンセン病であると知らない者が多く,父がハンセン病であると知っていたはずの同僚から父も含め差別的な対応を受
けたことはなく,その後の勤務先ではハンセン病患者家族であることを知られておらず,差別的な対応を受けたことはない(原告番号21本人29~31頁)。原告番号21は,昭和61年に結婚する際,配偶者の両親から,最終的には結婚に了承されたものの,当初はハンセン病患者家族であることを理由に抵抗を示された(原告番号21本人30頁)。
原告番号21は,平成20年ころ,父方の親族から,葬式や墓参りに父を連れてこないようにといわれた。(原告番号21本人24頁)ク
原告番号25(甲C25の1,原告番号25本人)
原告番号25は,昭和12年,大阪府で出生し,両親と3人の妹とと
もに暮らし,戦時中には父を残して疎開していたものの,終戦後,再び家族で暮らしていたところ,昭和21年,母が心臓発作で死亡し,昭和22年,父がハンセン病を発症して療養所に入所することとなったため,原告番号25を含めた兄弟姉妹は保育所に入所した。原告番号25は,昭和25年,保育所出身であるとハンセン病に対する偏見差別により就
職等に支障が生じるとして,一般の養護施設に移った。
原告番号25は,一般の養護施設に移った後,当該養護施設の園長に嘘をつかれ,療養所でハンセン病の検査を受診させられ,ハンセン病患者の子であるという理由で,発病を疑われていると感じ,強いショックを受けた(原告番号25本人12,13頁)。

原告番号25は,保育所で生活するうちに,ハンセン病が感染性の怖い病気であると認識し,養護施設に移った後は,周囲に父がハンセン病患者であることがばれないよう,周囲に父親がいないと嘘をつき続けた(原告番号25本人10,11,17頁)。原告番号25は,昭和39年に結婚した後も,ハンセン病患者家族に対する偏見差別をおそれ,妻や子供以外には,父の存在を隠し続けていたため,父を自宅に招いた際に,周囲に父がハンセン病患者であったと知られないかとおびえた(原
告番号25本人15頁)。また,原告番号25は,父と一緒に住んで親孝行したいと思いながらも,社会のハンセン病に対する偏見が強く残っていると感じると同時に,自らもハンセン病に対する偏見や嫌悪感があり,昭和56年に父が死亡するまで,実現することができなかった(原告番号25本人18頁)。


原告番号59(甲C59の1,原告番号59本人)
原告番号59は,昭和13年,愛知県で出生し,幼児期に実父が死亡し,母が再婚し,義父,母,妹と4人で生活していたところ,10歳になる直前の昭和23年に,母が療養所に入所し,妹が保育所に入所した
ため,義父と二人暮しになった。その後,義父が再婚したため,原告番号59は,義父の再婚した家族と共に暮らしたものの,昭和24年,11歳のときに,保育所に入所した。原告番号59は,近隣住民からの話や,保育所での生活を通して,母の病気がうつる,怖い病気であり,人に忌み嫌われた病気であるから他人に話してはいけないことだと認識す
るようになり,母からの口止めもあって,保育所から養護施設に移った昭和25年以後は,戦災孤児のふりをして,母が療養所に入所していることや,ハンセン病患者の子であることを隠し続けた(原告番号59本人5,24,25頁)。
原告番号59は,妻には,結婚前に母がハンセン病患者であったこと
を告げ,子らも母に会っているため母がハンセン病患者であったと知っているものの,家族以外には母がハンセン病患者であったことを隠し,周囲に知られると仕事や友人関係等の現在の社会生活を失うのではないかとおそれて,目立たないように,表彰や役職を断って生活し,人生の選択肢が狭められた(原告番号59本人16~19,25頁)。

原告番号75(甲C75の1,原告番号75本人)
原告番号75は,昭和24年,熊本県で出生し,昭和27年に母が療養所に入所したため,同年に保育所に入所し,小学校入学時からは父及び兄と3人で暮らした。原告番号75ら3人家族は,集落では,村の行事や子供会の行事を教えてもらえないことが頻発し,近隣の子供やいとこも近づいてこず,近隣住民から無視され,親戚からは冠婚葬祭に呼ばれず,村八
分のような扱いを受けた。原告番号75は,原告番号75と同じ集落に住む友達とは遊べなかったため,同じ学校に通う違う集落に住む友達とのみ遊んだ。(原告番号75本人8,9,29,31,33頁)
原告番号75は,昭和36年,中学1年生のときに,ハンセン病の検査を受けさせられ,その後,療養所について勉強するようになり,母がハン
セン病であり,療養所がハンセン病のための隔離施設であることを知り,ハンセン病が怖い伝染病で,世間から忌み嫌われている病気だと理解し,秘密にしなければならないと感じた。(原告番号75本人13頁)原告番号75は,差別を受ける村八分状態で居場所のなかった集落を離れたいと思い,昭和42年,高等学校を卒業すると,東京で就職した(原
告番号75本人14頁)。
原告番号75は,結婚した際に,叔母から,ハンセン病患者の子であることを理由として,結婚を祝福されず,子供を作らないように言われた。また,原告番号75は,平成25年前後のころ,叔母から,法事に母を参加させないように言われた。(原告番号75本人19,25,36頁)
また,原告番号75は,ハンセン病の検査を受けさせられた経験から,自分がハンセン病の保菌者であるように感じ,さらに,ハンセン病が人にうつる恐ろしい伝染病だと刷り込まれてきたために,自身と乳幼児が接触すると乳幼児にハンセン病が感染するのではないかという思いがあり,乳幼児に接触することができない。また,原告番号75は,出産した際には,自らがハンセン病を発症したのではないか,発症したら母と同じように隔離されるのではないかと,強い不安に駆られ,母乳によって感染するので
はないかと思い,子に授乳することができなかった。(原告番号75本人19~22,25頁)
原告番号75は,現在も,夫,子供,兄夫婦,夫の両親,本件訴訟の原告ら数人以外には,母や兄がハンセン病患者であったことを隠して生活している(原告番号75本人24頁)。


原告番号95(甲C95の1,原告番号95本人)
原告番号95は,昭和9年に出生し,奄美大島で育ち,昭和31年に同じ町内に住む夫と結婚したところ,結婚後間もなく夫がハンセン病を発症し,奄美和光園に入所した。その後,原告番号95は,夫がハンセ
ン病患者であることを理由に,近隣住民から差別を受け,集落の共同の井戸を使うと井戸にクレゾールをまかれたり,夫がハンセン病患者であったと知った大家から退去を迫られたりして,転居を繰り返した。原告番号95ら家族は,奄美大島でのハンセン病患者及びその家族に対する差別から逃れるため,熊本に転居することを決め,夫が昭和35年に恵
楓園に入所し,原告番号95は子供と共に恵楓園の近くに転居したものの,熊本でも夫が療養所の入所者であることを近隣住民に知られ,集落の行事には誘われず,集落の共同の水道を管理する当番から外され,子供たちは患者の子と言われるなどしていじめられ,一家は孤立した。(原告番号95本人6~9,18,19,29~35頁)

原告番号95は,奄美大島に帰省した際に,親友の自宅で自らが使用した湯呑を親友に必死に洗われ,病原菌のように扱われた(甲C95の1・9頁)。原告番号95は,母から夫がハンセン病患者であったことを理由に絶縁され,兄弟姉妹とも交流がなくなった(原告番号95本人5,8,19,26)。
原告番号95は,現在も,夫がハンセン病患者であったことを周囲にひた隠しにしており,もし周囲に知られたら子供に迷惑がかかるのでは
ないかと思い,秘密を抱えたまま生活している(原告番号95本人13,17頁)。

原告番号98(甲C98の1,原告番号98本人)
原告番号98は,昭和35年,奄美大島で出生した。原告番号98の
父は,昭和25年から療養所に入所していた。
原告番号98は,父がハンセン病患者であったことを,敢えて周囲に言ってはならないことだという明確な認識を持っていたわけではなかったし,周囲に話してはいけないと意識していたわけではなかったものの,周囲に話してはいけないと無意識に捉え,秘密にしてきた(甲C98の
1・3頁,原告番号98本人3,4,22,23頁)。
原告番号98は,子供のころは,具体的にハンセン病患者の子であることを理由として直接差別を受けた記憶はほとんどないものの,兄の同級生かららい病みたいな子だしな等のような差別的な言動を受けた。(原告番号98本人23頁)

原告番号98は,近隣住民に何もかも知られている集落を窮屈に感じていたため,中学校卒業後は生まれ育った集落を離れた場所において住み込みで働きながら定時制高等学校に通い,高等学校卒業後は島を出て,親戚づきあいを避けるために親戚のいない東京で就職した。(原告番号98本人12,13頁)

原告番号98は,中学校卒業後,住み込みで働いていた際には,療養所に出入りする姿を見られて家族にハンセン病患者がいると知られることを周囲に避けるために,父が入所している療養所の近くに居住していたにもかかわらず,療養所を訪問しなかった。(原告番号98本人13頁)
原告番号98は,中学校卒業後は,周囲に父がハンセン病患者であったことや療養所に入所していることを知られていないため,直接差別を
受けた記憶はないものの,兄や姉が受けてきた被害等からすれば,自らも,周囲に父がハンセン病患者であったことが知られると,それを理由に被害を受けるのではないかと不安を感じている。(甲C98の1・6頁)

原告番号107(甲C107の1,原告番号107本人)
原告番号107は,昭和29年,鹿児島県で出生し,小学校5年生のころに,母が敬愛園に入所した。
原告番号107は,父が隣の集落に居住する親戚宅を居住地としたために,自宅所在の集落にある学校ではなく,隣の集落の小学校及び中学
校に通っており,学校の同級生には,母がハンセン病患者であることを知られていなかった。原告番号107は,学校から帰宅すると,自宅がある集落の同級生と遊んでいたものの,中学2年生のころ,母がハンセン病患者であることを同集落の同級生に知られて悪口を言われていることを知った上,同集落の同級生から無視されるようになったため,遊ば
ないようになった。また,原告番号107は,同集落の大人達からも偏見に満ちた態度を感じるようになって,立ち話等も悪口を言われているように感じてしまった。原告番号107は,通っていた中学校が小学校と同様に隣の集落にあったため,同じ中学校に通う同級生には,母がハンセン病患者であると知られていなかったものの,父が作る弁当を見ら
れると,母がいないことが知られて,母がハンセン病患者であることが知られてしまうのではないかとおそれ,父が作る弁当を見られないように,帰宅時に山中において一人で弁当を食べるようになった。その結果,原告番号107は,小中学校を通じて,友人と遊ばず一人で過ごすようになり,孤独に苛まれ,自殺を考えるようになった。(原告番号107本人9~13,25,38~42頁)
原告番号107は,社会人になってからも,周囲に母がハンセン病患
者であることや療養所に入所していることを秘して生活しており,職場にも秘していたため,同僚たちが入所者たちを嘲笑しているのに対し,はらわたが煮えくり返るほど腹立たしく感じながらも,原告番号107が療養所と関係があると知られてしまうのを避けるために,黙って聞き続けざるを得ず,つらい思いをした。(原告番号107本人19頁)
原告番号107は,昭和53年に妻と結婚する際に,妻の母や親戚から,原告番号107がハンセン病患者の子であることを理由に,激しく反対された。(原告番号107本人14~18,30頁)
原告番号107の母は,人目を気にして,原告番号107の結婚式に出席しなかった。(原告番号107本人16頁)


原告番号135(甲C135の1,原告番号135本人)
原告番号135は,昭和17年,パラオで出生し,4歳から沖縄県久米島で育ち,中学卒業後は,就職のため実家を出て沖縄本島で生活していた。原告番号135の兄弟姉妹は,昭和34年以降,8人いる兄弟姉
妹のうちの4人が療養所に入所した。
原告番号135は,兄弟姉妹がハンセン病患者であったことを周囲に隠し続け,夫にも死別するまでの約40年間隠し続け,そのことに罪悪感を抱いた(原告番号135本人19頁)。そして,原告番号135は,夫に隠すために,兄弟姉妹からの手紙を捨て,兄弟姉妹の電話番号を記
録しないようにする等した(原告番号135本人20頁)。また,原告番号135は,子供らに自らのように秘密を抱えさせたくないため,子供たちにも,本件訴訟提訴後に打ち明けた一名を除いては,隠し続けている(原告番号135本人21頁)。

原告番号145(甲C145の1,原告番号145本人)
原告番号145は,昭和55年,奄美大島で出生し,すでに母が療養所を退所しており,母がハンセン病患者であったことや療養所に入所し
ていたことを知らないまま成長し,ハンセン病についても知らなかった。そのため,原告番号145は,母がハンセン病患者として国から補償金を受領したこと等について,いとこからやっかみを受けてきたが,当時はその理由を知らなかった。原告番号145は,本訴提起に当たり,母がハンセン病患者であったことを聞き,母がハンセン病患者であったこ
とを理由につらい目にあったことや,ハンセン病患者家族が差別を受けることを知り,生きることに対する不安感が生じた。また,表面上は仲が良く見えた叔母と母との間に,ハンセン病を理由とする確執があったことを知り,不信感を抱くようになった。(原告番号145本人5~7,13,17頁)

原告番号145は,妻には母がハンセン病患者であったと打ち明けたものの,妻の両親には話しておらず,妻の両親に知られ,嫌われるのではないかと不安を感じている。(原告番号145本人14頁)

原告番号188(甲C188の1,原告番号188本人)
原告番号188は,昭和33年,南静園に入所していた両親の下で出生し,1歳2か月から小学校1年生まで,沖縄県の離島にある親戚宅で育ち,小学校1年生から小学校3年生までは,宮古島の親戚宅で育った。原告番号188は,小学校3年生ころからは,宮古島の療養所外で両親と生活した。

原告番号188は,幼いころから,近所に住む子供たちから石を投げられ,ハンセン病患者の子を指す蔑称であるクンキャヌファと呼ばれ,追い払われるなどしていじめられた。また,原告番号188は,近所に住む大人たちからも無視されたり,嫌そうな目で見られたりするなど,冷たくされた。このような状況下で,原告番号188は,強いストレスを感じていた。(原告番号188本人3~6,9,22頁)
原告番号188は,現在も宮古島で生活しているため,ハンセン病患
者の子であることを理由にいじめてきた者や,冷たくしてきた大人たちとも付き合わざるを得ない生活を送っている。また,原告番号188は,自らをハンセン病患者の子と知らない周囲の者には,ハンセン病患者の子であることを隠して生活している。(原告番号188本人14頁)チ
原告番号234(甲C234の1,原告番号234本人)
原告番号234は,昭和23年,沖縄で出生し,出生後約3か月で母が療養所に入所した。昭和25,6年ころ,集落の住民が,原告番号234の自宅にはハンセン病の菌があるといって,自宅を焼き払った(原告番号234本人8,31頁)。また,原告番号234の母は,原告番
号234が7歳のころまで,原告番号234及びその父に会いに集落に入ろうとしたにもかかわらず,集落の人々が,ハンセン病がうつると言い,集落の中に足を踏み入れさせなかった(原告番号234本人9頁)。また,集落の人々は,台風が来た際には,お互い手伝って漁に使う船を陸にあげるところ,原告番号234の父の船には,原告番号234が
触ったためにハンセン病の菌が付着しているといって,原告番号234の父には手を貸さなかった。(原告番号234本人10,23~25頁)原告番号234は,父が再婚した義母から,クンチャーの子と言われ,髪を切るときに捨ててもよい錆びたハサミを使われるなど,ハンセン病患者の子であることを理由に,病原菌のように扱われ,冷たい仕打ちを
受けた。(原告番号234本人6,7,21,22頁)
原告番号234は,小学生のとき,同じ小学校に通う子供たちから,通学する際に石を投げられ,クンチャーの子と呼ばれ,教室では菌がうつるから風上に座るなといわれ,教師からも,原告番号234に触れないように竿を使って離れた場所から物を渡されるなど,差別を受けた。(原告番号234本人11,12,22頁)
原告番号234は,17歳のころ,交際相手の親から,ハンセン病患
者の子であるという理由で,交際を反対され,交際が破綻した。(原告番号234本人12頁)
原告番号234の子は,平成27年ころに離婚した結婚相手の親から,療養所に行くとハンセン病がうつるといわれ,ハンセン病患者の孫だという理由で冷たい仕打ちを受けた。(原告番号234本人16,17,
28,29頁)

原告番号264(甲C206の1,甲C207の1,甲C264の1,甲C265の1,甲C368の1,原告番号264本人)
原告番号264は,昭和26年,宮古島で出生した。原告番号264
の父は,昭和16年に発病し,療養所に入所せず,在宅治療を受けることができなかった上に,負傷した際も含めて一切病院に行かなかったため,後遺症が悪化し,化膿しており,悪臭があった。(原告番号264本人1~3頁)
原告番号264は,小中学生のころ,近所の子供や同級生から,父が
クンキャだからハンセン病がうつる,あなたのお菓子は汚い,などといわれ,後遺症のある父の手を真似られ,差別を受けた。(原告番号264本人4~6,23,36頁)
原告番号264は,中学卒業後に本土で就職して一年間働いた後に,宮古島に帰り,本土で数か月から半年程度の短期間働くことを4,5年
の間繰り返した。その間,本土で働いていない期間は,宮古島で生活し,自宅の中で穏便に過ごし,差別を受けることはなかった。原告番号264には,その後に大阪で生活した際に知り合った友人がおり,同人は,原告番号264がハンセン病患者家族であって本訴を提起したことを知った上で,原告番号264を理解しており,差別することはない。もっとも,原告番号264は,同人を除いては,ハンセン病患者家族であることを周囲に隠し続けている。(原告番号264本人26,30,31
頁)
原告番号264の家族は,父のハンセン病や後遺症が悪化して以降現在まで,親戚づきあいがほとんどない。(原告番号264本人20,21頁)

原告番号274(甲C273の1,甲C274の1,甲C575の1,原告番号274本人)
原告番号274は,昭和53年,沖縄で出生し,4歳のころ,父が療養所に再入所した。
原告番号274は,ハンセン病患者の子であることを周囲に知られた
ことはない。父のハンセン病を知る人に会うため親戚宅や母の育ての親を訪ねて南静園に行った際や,その他に宮古島に行って知合いに会った際に,物珍しそうに見られているように感じたほかは,直接差別を受けた記憶はない。また,原告番号274は,平成14年12月に結婚する前に,夫には父がハンセン病患者だったことを話したところ,ハンセン
病を理由に夫婦関係に支障が生じたことはない。一方,姑は,父がハンセン病患者であったことを知っている可能性はあり,原告番号274が宮古島に行くこと自体に嫌な顔をすることはあるものの,それ以上の支障が生じたことはない。(原告番号274本人7,20,21頁)もっとも,原告番号274は,父が差別を受けてきた話や,父の友人
のハンセン病患者が自分の子にさえ隠し通している話を聞き,偏見差別をおそれて,父がハンセン病患者であったことを他人に話すことはなく,秘密を抱えている。(原告番号274本人21~23頁)

原告番号288(甲C288の1,原告番号288本人)
原告番号288は,父が療養所を退所した後の昭和●●年,●●●で出生し,父がハンセン病患者であったことを知らないまま平成10年に結婚した(原告番号288本人4頁)。

原告番号288の夫は,結婚後半年が経ったころ,●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●,原告番号288に対し,ハンセン病患者の子であることを隠して結婚したのかと問い詰め,それまで原告番号288に優しく接していた態度が一変した。その後,原告番号288の夫は,
同居の姑とともに,原告番号288に冷たくし,それまで共用していたタオルや食器を共用しなくなり,病原菌のように扱った。原告番号288は,熊本判決が言い渡された後の平成14年頃に夫らと別居し,平成15年に離婚した。(原告番号288本人6~13頁)
原告番号288は,●●●●●●●●●●●●●●●●●が離婚の原
因についてうわさをし,原告番号288に聞いて来ることもあったが,父がハンセン病患者であったことは周囲に隠し続けている。(原告番号288本人14~17,27頁)
原告番号288は,元夫やその家族から受けてきた,ハンセン病患者の子であることを理由とする仕打ちにより,結婚や異性との交際が怖く
なり,離婚後は異性と交際していない。(原告番号288本人19頁)ナ
原告番号318(甲C318の1,原告番号318本人)
原告番号318は,昭和43年,沖縄県で出生し,昭和51年に父が療養所に再入所して月に1回程度療養所に通うようになった。

原告番号318は,父が療養所に再入所した小学校2年生のころから,同級生から伝染病,触るな,などといわれるようになり,小学校5年生のころまでいじめられた。また,中学生のころも,同級生から無視され,友人は転入生しかいなかった。なお,原告番号318は,当時,父がハンセン病患者であると知らなかった。このような状況下で,原告番号318は心がすさみ,不良行為を重ねるようになった。(原告番号318本人6~8,18頁)

原告番号318は,現在も,出生地に暮らしているところ,周辺住民との付き合いはほとんどなく,原告番号318ら家族に聞こえないように,ひそひそ話をされている。(原告番号318本人12,17,23頁)

原告番号324(甲C324の1,原告番号324本人)
原告番号324は,昭和11年,宮古島市伊良部島で出生した。原告番号324の父は,昭和13年頃に療養所に入所し,昭和20年から昭和24年までは自宅で暮らしていたが,昭和24年に再入所した。(原告番号324本人3頁)

昭和13年頃に原告番号324の父が療養所に入所した際に,自宅が消毒されたため,原告番号324は,周囲に父がハンセン病患者であると知られた。近所の住民の中には,原告番号324の父がハンセン病患者であることを理由に,原告番号324ら家族を嫌って嫌な態度を示す者や,うつる病気だからと原告番号324の自宅に近寄らないようにと
いう者がいた。また,原告番号324は,近隣住民が父のことを,クンキャやクヅツとハンセン病患者を示す蔑称で呼ぶのを耳にした。(原告番号324本人4,6,27頁)
原告番号324は,小学生のころ,教師から,教室の座席を他の児童と離れた場所にされたり,学芸会のときに一人だけ化粧用パフを裏返し
で使われたり,健康診断のときに他の児童とは別室で全裸にして全身を調べられ,ハンセン病に罹患していないか検査をされたりした。(原告番号324本人4,5,27頁)
原告番号324は,昭和29年,結婚する際に,結婚相手が原告番号324方に婿養子に入ろうとしたところ,結婚相手の両親から,ハンセン病患者の子と結婚する上に,そのような家庭に婿に入ることを理由に,猛反対された。原告番号324ら夫婦は,結婚後も,夫の実家から,絶
縁された状態である。(原告番号324本人12~14)
原告番号324の息子は,昭和55年に結婚する際に,結婚相手の家族から,ハンセン病患者の孫であるという理由で,猛反対され,暴力を振るわれ,負傷した。(原告番号324本人17,18頁)
原告番号324の長女は,原告番号324と相談して,ハンセン病が
日本中で恐ろしい病気だと知られているから,ハンセン病患者の孫であることが結婚相手やその家族に知られると,結婚ができなくなるという結論に至り,昭和56年に県外の人と結婚する際に,結婚相手やその家族に,祖父がハンセン病患者であったことを話さず,現在も隠し続けている。そのため,近所の住民などから,祖父がハンセン病であったと知
られることを避けるために,原告番号324の長女は,夫を里帰りの際に同行させず,同行させた場合にもすぐ帰宅した。(原告番号324本人19,20頁)

原告番号339(甲C339の1,原告番号339本人)
原告番号339は,昭和33年,南静園で入所していた両親の下,出生し,1歳で祖母に預けられ,4歳ころから宮古島の療養所外で両親と暮らすようになった。原告番号339の両親は,平成3年に,療養所に再入所した。
原告番号339は,小学生のころ,周囲の大人が母をクンキャと

差別的に呼ぶことを知った(原告番号339本人9,24頁)。
原告番号339は,直接自らが差別を受けた記憶はないが,母が差別的に呼ばれ,病気の後遺症を隠す姿や,周囲の大人の話,療養所に入る際に子供の自分は隠れて入らなければならなかったことなどから,両親が罹患していた病気が伝染する恐ろしい病気で人から隠さなければならない病気だと捉え,子供のころから両親がハンセン病患者であったことを周囲に隠し続け,結婚を考えた交際相手との母がハンセン病患者であ
ったとばれることが怖く,結婚することができなかった(原告番号339本人13,21,22,26~28頁)。また,原告番号339の記憶にはないものの,原告番号339の母は,近所の人から,同人の子と原告番号339の子とを遊ばせないように言われていた(原告番号339本人8,9頁)。

原告番号339は,本訴をきっかけとして高等学校のころから親しい友人に母がハンセン病患者であったことを打ち明けたが,現在も,それ以外の周囲の人々には両親がハンセン病患者であったことや療養所で生活していることを隠し続けており,隠すために嘘をつかざるを得ない状況を心苦しく感じている。(原告番号339本人13,14,19,2
1,22,28頁)

原告番号351(甲C351の1,原告番号351本人)
原告番号351は,昭和32年,宮古島市伊良部島で出生した。原告番号351の両親は,療養所に入所していたが,母は,原告番号351
を妊娠中に退所した。
原告番号351は,子供のころ,面と向かって言われたことはないものの,周囲の大人から,南静園の子やハンセン病患者の子と呼ばれていることを感じていた。(原告番号351本人7,8,25,32頁)原告番号351は,小中学生のころ,友達がおらず,一人で過ごし,
教師から気にかけられることもなく,放置され,性格が暗くなった。(原告番号351本人9~11,28頁)
原告番号351ら家族は,近くに居住していた原告番号351の叔父が,近隣におすそ分けをするのに,原告番号351家族にはおすそ分けに来ないなど,親戚からも冷遇されていた。(原告番号351本人27頁)
原告番号351は,18歳のころ,交際相手の親からハンセン病患者
の子という理由で交際を反対され,交際が破綻した。(原告番号351本人12頁)
原告番号351は,20歳のころ,父が療養所に入所していることを結婚相手に告げた上で結婚したところ,夫から暴力を受け,離婚した。原告番号351は,自らがハンセン病患者の子であるため,夫から対等
な立場として扱われずに暴力を振るわれたと捉え,対等の関係が築けるように,ハンセン病患者を家族に持つ人と結婚した。(原告番号351本人13頁)
原告番号351は,現在も,実家近くの仕事先で両親について尋ねられたときに,両親の姓を伝えるとハンセン病患者の子であると知られて
しまうとおそれ,両親の姓を隠すなど,両親のことを隠して生活している。(原告番号351本人22~24,33頁)

原告番号377(甲C377の1,原告番号377本人)
原告番号377は,昭和24年,京都府で出生した。

原告番号377の姉が昭和37年に療養所に入所し,そのころ,間借りしていた自宅や家主の自宅等が家主の娘が悲鳴を上げるほど大々的に消毒されたため,原告番号377及びその母は,そのまま自宅に帰ることなく転居した(原告番号377本人6~8頁)。
また,原告番号377は,母から,姉の病気や療養所に入所したこと
が知られると親戚の結婚にも差し支えるとして,親戚や身内も含めて周囲に対して一切秘密にするよう繰り返し言い聞かされたため,周囲にひた隠しにした。原告番号377は,親戚から姉について聞かれたときも嘘をついてごまかさなければならないのがつらかったため,親戚を避けるようになり,親戚づきあいも希薄となった。さらに,原告番号377は,就職の際に,姉の存在自体を隠した。(原告番号377本人12~14頁)

原告番号377は,姉がハンセン病患者であったことや療養所に入所していることが周囲に発覚することを避けるため,目立たないよう,人目につかないよう気を付けて生活してきたため,人生の選択肢が狭められた。(原告番号377本人18頁)
原告番号377は,姉がハンセン病患者であったことや療養所に入所
していることを隠したまま昭和47年に結婚したものの,その後,子らが発病した際のことを考えて打ち明けるべきか悩みぬいた結果,離婚を覚悟して妻に打ち明けた。妻は理解を示したものの,妻の親族や親戚に迷惑がかかることを避けるため,妻の親族や親戚には,姉がハンセン病患者であったことや療養所に入所していることを隠すこととなった。
(原告番号377本人15~17頁)

原告番号428(甲C428(各枝番),原告番号428本人)
原告番号428は,昭和47年,沖縄で出生し,出生前に療養所に入所していた母が小学校5年生の終わりの昭和57年に療養所に再入所し,母
が自宅と療養所を行ったり来たりする生活であった(甲C428の2・112,117頁)。
原告番号428は,母から口止めされていたこともあり,母がハンセン病患者であることを周囲に秘密にして育ったため,直接,差別を受けたことはなかったものの,平成19年に,母がハンセン病だった私は幸せ
という自叙伝を出版したところ,母に対し,誹謗中傷するファクシミリ文書等が届くようになった。また,原告番号428は,母から,母がハンセン病を理由に受けてきた差別や,ハンセン病患者家族が受けてきた差別について聞き,ハンセン病に関する教材からハンセン病患者家族が理不尽な差別的取扱を受けてきたことを知ったため,自らもハンセン病患者家族であることを理由に,差別を受けることがあるのではないか,ハンセン病患者の家族がいる自らを受け入れてくれない人がいて,仕事や交友関係で問
題が生じることがあるのではないかという不安を感じてきた。(原告番号428本人5,7,13~15,24~26頁)
原告番号428は,平成14年以降,勤務先の学校で職場の同僚に母がハンセン病患者であったと話したことがきっかけで,同校で母の講演会が開かれ,全校生徒の前で,自らの母であることを明らかにしたが,その他
に母がハンセン病患者であったと話したのは,平成13年の熊本判決後のハンセン病についての講演会が勤務先の高校で開かれた際に,同僚に話し,また,親しい友人数名に話したのみであった(原告番号428本人23~25頁,甲C428の1・8頁)。

原告番号441(甲C441の1,原告番号441本人)
原告番号441は,昭和27年,宮崎県の山深い地域で出生し,2歳のころ,父が療養所に入所した。(原告番号441本人3頁)
原告番号441が生まれ育った集落は,原告番号441の両親の親族が多数住んでおり,集落に住む親戚の一部は,原告番号441の父がハ
ンセン病患者であることを知っていたものの,周囲に原告番号441の父がハンセン病患者であることを隠し通し,原告番号441も父がハンセン病であることを知らないまま,神経痛のため入院していると聞かされて育った。原告番号441は,父がハンセン病患者であることを知っていた親戚が秘密を守り抜いたため,周囲に知られず,直接差別を受け
ることがなかった。また,原告番号441は,平成25年頃,父がハンセン病患者であったことを知り,妻に話したところ,夫婦関係に影響が生じることはなかった。(原告番号441本人12~14,17,18,21,22頁)
もっとも,原告番号441は,ハンセン病患者家族が差別を受けることを知り,父がハンセン病患者であったことを自らの子らに話した場合の子らの心情を慮って,子らには父がハンセン病患者であったことを話
すことができない。(原告番号441本人10,11頁)

原告番号474(甲C474の1,原告番号474本人)
原告番号474の母は,昭和31年頃にハンセン病を発症し,療養所に入所して治療し,その後,療養所に籍を置きながらも,社会内で生活
していたため,原告番号474が昭和61年に沖縄本島で出生した際には,家族で暮らしていた。
原告番号474は,幼いころから,兄弟姉妹と隣に住む親戚以外の近隣の子供らとは遊ぶことができず,近所の子が原告番号474に近づいた際には,その子の祖父が原告番号474と遊ばないようにいってその
子を連れ戻し,それ以降,その子からばい菌,近づくななどといわれ,その他の近隣の子供らも原告番号474に近づかなかった。(原告番号474本人3,4,26頁)
原告番号474は,小学校のときに,1学年下の子供と仲良くなったものの,その子の母親から遊ばないようにいわれ,遊べなくなってしま
った。(原告番号474本人5,6頁)
原告番号474は,現在も母と共に実家で暮らしているところ,近隣住民から近づかれず,近所付き合いがない。(原告番号474本人30,31頁)
原告番号474は,将来結婚をする際に,結婚相手に母がハンセン病
患者だと打ち明けた場合に,結婚相手の両親,家族,親戚等がハンセン病に対する偏見を持っており,それが理由で破たんすることもあるのではないかと不安を感じている。(原告番号474本人23,24頁)へ
原告番号498(甲C498の1,原告番号498本人)
原告番号498は,宮古島市伊良部島で出生し,同島に住む男性と交際し,昭和32年頃,結婚したものの,母から結婚を反対され,駆け落
ちした那覇で妊娠し,再び夫婦で伊良部島に戻り,暮らしていたところ,昭和36年,夫が南静園に入所した。(原告番号498本人3,4頁)原告番号498は,昭和41年頃,息子が小学校の担任教師から,服が汚れているといわれたと聞き,息子の服が汚れていなかったため,ハンセン病患者の子であることを理由に,汚れているといわれたと
感じた。(原告番号498本人19,36頁)
原告番号498は,直接何か言われたり聞いたりしたことがあるわけではないし,自分は思ったことはないが,義兄のハンセン病が判明した頃,ハンセン病はうつる恐い病気だという人たちがいると思うようになり,さらには,夫が療養所に入所した頃から,ハンセン病はうつる恐い
病気だと思っている人たちがいて,夫はハンセン病であることを理由に周囲のその人たちに嫌われ,噂話をされているのではないかと思い,周囲に気を遣い,人前に堂々と出ることができなくなった。また,原告番号498は,夫のハンセン病のことを知らない人たちが,夫がハンセン病患者であったことを知ると,うつる病気であるとか汚いものだと考え
る人がいて,そのような人たちから自らや子らが嫌われるのではないかと,現在も不安を感じている。(原告番号498本人11,12,22,31,32,35~37頁)
以上のとおり,原告らの多くに対し,ハンセン病隔離政策等によって作り出された疾病観に基づく差別行為があり,多くのハンセン病患者家族が,ハ
ンセン病患者の家族であるということを理由として差別される状況にあり,この差別経験自体は,本人がハンセン病患者の家族であることを認識しているか否かに関わらず存在するものであった。また,米国統治下の沖縄や本土復帰後の沖縄においても,沖縄の地域以外と同様に,ハンセン病隔離政策等によって作り出された疾病観,特に隔離収容される恐ろしい病気という観念に基づく差別行為があり,多くのハンセン病患者家族が,ハンセン病患者の家族であるということを理由として差別される状況にあったことが認められる。
また,原告番号288(前記

ト)は,新法廃止後の平成10年頃以降,

夫と姑から病原菌のように扱われるようになっており,かかる対応はハンセン病隔離政策等の影響を受けた差別意識の現れといえ,平成10年頃においても,ハンセン病隔離政策等の影響を受けた差別があったといえる。もっとも,差別体験の中には,例えば,原告番号3の平成29年3月頃の体験は,ハンセン病隔離政策等の影響を受けた差別意識に基づくものであるのか,それとも,国家賠償訴訟を提起していること自体に対する忌避感に基づくものであるか判然とせず,平成30年2月末頃の近所の人の発言も,差
別意識に基づくものではなく,病気の発症を心配し,治療を勧める善意に基づくものであった疑いがあり,原告番号145のいとこからやっかみを受けた体験は,補償金を受領したことに対するやっかみであって,被害に対する正当な補償であることを理解していたとしても生じ得るものであり,ハンセン病隔離政策等の影響を受けた差別意識に基づくものとはいえず,原告47
4が現在も近隣住民との交流や近所づきあいがない理由が不明である等,ハンセン病隔離政策等の影響を受けた差別意識に基づくものであるとまでは認めることができないものもある。また,原告番号234の子が,平成27年頃に離婚した結婚相手の親から,療養所に行くとハンセン病がうつるといわれたところ,この発言はハンセン病隔離政策等によって生じた疾病観
であって,ハンセン病隔離政策等の影響を受けた差別意識の現れといえるものの,そのような発言がいつころまであったかは判然としない。なお,原告番号234は,ハンセン病患者の孫であることが当該離婚の原因であると供述するものの,離婚の原因を直接聞いたわけではない旨の供述もしており,離婚の原因がハンセン病隔離政策等の影響を受けた差別にあったとまで認めることはできない。
2
家族関係の形成阻害について


別紙原告一覧表

続柄
原告らの家族であるハンセン病患者からみた当該原告の続柄は,別紙原告一覧表の原告番号欄記載の番号に該当する各原告に対応する属性欄に記載のとおりである。また,原告らからみた当該原告の家族であるハ
ンセン病患者の続柄は,別紙原告一覧表の原告番号欄記載の番号に該当する各原告に対応する患者欄に記載のとおりである。これらを認定した証拠は,別紙原告一覧表の原告番号欄記載の番号に該当する各原告に対応する書証欄に掲記した。なお,同書証欄には,別紙原告
一覧表に記載の他の認定にかかる証拠を含む。


入所の有無
別紙原告一覧表のうち,入所有無欄に◎記載の原告らは,その親,子又は配偶者が昭和35年(入所した療養所が愛楽園又は南静園のみである場合については昭和47年)以降の一定期間,療養所に入所してお
り,かつ,当該入所者が当該原告の親である場合には次のaに該当し,当該入所者が当該原告の子である場合には次のbに該当し,かつ,次のcに該当しないと認められる者である。
a
次の⒜又は⒝のいずれかに該当する者


当該原告が出生前に当該親が療養所に入所し,当該原告が出生後
も引き続き当該入所が継続し,当該入所に昭和35年(入所した療養所が愛楽園又は南静園のみである場合については昭和47年)以降の一定期間の入所が含まれる者


当該原告と同居中であった当該親が当該原告の成人又は自立する
前に入所し,当該入所に昭和35年(入所した療養所が愛楽園又は南静園のみである場合については昭和47年)以降の一定期間の入所が含まれる者。ただし,当該入所が成人又は自立の直前だった者
及び従前から当該入所直後の時期に別居することが予定されていた者は除く。
b
同居中の当該子が成人又は自立する前に療養所に入所し,当該入所に昭和35年(入所した療養所が愛楽園又は南静園のみである場合については昭和47年)以降の一定期間の入所が含まれる者。ただし,
当該入所が成人又は自立の直前だった者及び従前から当該入所直後の時期に別居することが予定されていた者は除く。
c
昭和35年(入所した療養所が愛楽園又は南静園のみである場合については昭和47年)以降の入所期間中において,当該入所者が年に数回以上の頻度で頻繁に帰宅している場合や,夏休み等の一定期間を
ともに過ごしている場合等,家族関係の形成に必要な交流が可能であった者又はその合理的疑いが認められる者
別紙原告一覧表のうち,入所の有無欄に〇記載の原告らは,その
兄弟姉妹が昭和35年(入所した療養所が愛楽園又は南静園のみである場合については昭和47年)以降の一定期間,療養所に入所しており,かつ,次のa又はbに該当し,かつ,cに該当しないと認められる者であり,かつ,前記
a
記載の原告らに該当すると認められない者である。

当該原告が出生前に当該兄弟姉妹が療養所に入所し,当該原告が出生後も引き続き当該入所が継続し,当該入所に昭和35年(入所した
療養所が愛楽園又は南静園のみである場合については昭和47年)以降の一定期間の入所が含まれる者
b
当該原告と同居中であった当該兄弟姉妹が当該原告の成人又は自立する前に入所し,当該入所に昭和35年(入所した療養所が愛楽園又は南静園のみである場合については昭和47年)以降の一定期間の入所が含まれる者。ただし,当該入所が成人又は自立の直前だった者及び従前から当該入所直後の時期に別居することが予定されていた者は
除く。
c
昭和35年(入所した療養所が愛楽園又は南静園のみである場合については昭和47年)以降の入所期間中において,当該入所者が年に数回以上の頻度で頻繁に自宅に帰宅しており家族関係の形成に必要な
交流が可能であった者又はその合理的疑いが認められる者,若しくは,当該入所者の入所前に当該入所者と別居した等入所を理由とせずに別居していた者又はその合理的疑いが認められる者
別紙原告一覧表のうち,入所の有無欄に△記載の原告らは,当該
欄に対応する入所者である家族が昭和35年(入所した療養所が愛楽園
又は南静園のみである場合については昭和47年)以降の一定期間,療養所に入所しているものの,当該入所者との関係において,前記

及び

記載の原告らに該当するとは認められない者である。ただし,別紙原告一覧表のうち,入所の有無欄に△記載の原告らであっても,当該欄に対応する入所者である家族以外の入所者である家族との関係において,前記

又は

記載の原告らに該当すると認められる者については,

当該家族に対応する欄に◎又は○を記載している。
別紙原告一覧表のうち,入所の有無欄に×記載の原告らは,当該
欄に対応する入所者がおじ,おば又は祖父母であるか,当該欄に対応する入所者が昭和35年(入所した療養所が愛楽園又は南静園のみである場合については昭和47年)以降に療養所に入所していたとは認められない者である。ただし,別紙原告一覧表のうち,入所の有無欄に×記載の原告らであっても,当該欄に対応する入所者以外の家族との関係において,前記

又は記載の原告らに該当すると認められる者につい

ては,当該家族に対応する欄に◎又は○を,前記記載の原告らに該当すると認められる者については,当該家族に対応する欄に△と記載している。

別紙原告一覧表のうち,入所の有無欄に空欄のある原告らは,当
該空欄に対応する家族以外の家族に対応する欄に◎又は○と記載した者である。
前記

から

までに記載の事項を認定した証拠は,別紙原告一覧表の

原告番号欄記載の番号に該当する各原告に対応する書証欄に掲

記した。なお,同書証欄には,別紙原告一覧表に記載の他の認定にかかる証拠を含む。
前記

から

までに記載の事項の認定について,一部の原告らについ

ては,その認定の理由を後記⑵に記載した。その余の原告らのうち,補足説明が必要である原告らについては,別紙原告一覧表の補足説明
欄に記載した。なお,別紙原告一覧表の補足説明欄には,当該事項の認定以外に関する補足説明も含まれる。


ハンセン病患者の入所による原告らとの家族関係の形成阻害

入所による具体的被害の有無
原告本人尋問を実施した原告らのうち,家族の療養所への入所による家族関係の形成阻害が問題となる原告らの被害の有無及びその実態は,次のとおりである。
原告番号3(甲C3の1,原告番号3本人)
原告番号3は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△
の分類中,○に該当する。
原告番号3は,昭和9年2月5日,大阪府で出生し,両親,6人の兄弟姉妹及び父方の伯母とともに暮らしていた。なお,兄弟姉妹のうち3名は,昭和18年までに死亡したこともあり,同年以降は母,兄,姉,妹の4人家族となった。原告番号3は,6歳のときに父が療養所に入所し,昭和22年に父が死亡したため,幼少期に父と同居して生活することや,交流することができず,父の愛情を受けて成長する機会を失った上に,周囲からの差別を受ける状態にあった(前記第7の1⑴ア参照)。そのような中で,昭和19年,原告番号3が小学校4年生のときに,心の支えとなっていた1学年上の兄が療養所に入所したため,心の支えを失った(原告番号3本人6~10頁)。さらに,その直後に母が病に倒
れたため,母と妹,以前から病気がちな姉との生活を原告番号3が支えなければならなくなり,原告番号3は,思春期に,家族の生計のために働く日々を過ごしていた(原告番号3本人12~14頁)。また,原告番号3は,姉の死後,11歳という多感な時期に,母から心中を持ちかけられており,病に伏せる母との間で健全な親子関係は形成されていた
とは言い難い状況にあったところ,原告番号3の母は,昭和27年に死亡した(原告番号3本人12,13頁)。
そのような状況下で,原告番号3は,妹が結婚した昭和35年以降も,山梨県や東京都に所在する療養所に入所していた兄とは自由に交流することができず,兄と支え合う関係を完全に修復することができなかった。
(原告番号3本人15~17,20頁)
このように,原告番号3は,兄が療養所に入所したことにより,両親を失って支えあうべき兄との交流を阻害された。上述のとおり,両親との間で健全な親子関係を築けたとは言い難い原告番号3にとって,支え合うべき兄との交流が阻害されたことによる人格形成等に対する影響は
小さいものとはいえない。
原告番号4(甲A1・127~145頁,甲C4の1,原告番号4本人)
原告番号4は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,◎に該当する。
原告番号4は,前記第7の1⑴イのとおり,昭和20年に福岡県で出生し,物心がつく前から,父が療養所に入所しており,成人後の昭和44年ころまで父の存在を知らずに育ったため,父との交流を持つことができなかった。また,父の入所により母が幼い原告番号4をおいて再婚し,原告番号4は祖父母方に預けられて育つなどし,一年間ほど母と義父と異父兄弟姉妹と暮らしたものの(原告番号4本人7頁),誰からも
愛情を感じることなく成長し,昭和35年以降も同様の状況が継続したため,人格形成が阻害され,自己のアイデンティティや自己肯定感を育むことができなかった。
原告番号5(甲A1・87~126頁,甲C5の1,原告番号5本人)原告番号5は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記

記載の◎○△

の分類中,◎に該当する。
原告番号5は,昭和19年宮崎県で出生し,昭和23年,4歳のときに両親が敬愛園に入所したため,同入所時以降は両親と同居して生活することができなくなり,保育所に入所する13歳までは母方の祖母宅で祖母と母方叔父によって養育され,その後も保育所,児童養護施設,異
父姉方で生活し,昭和35年からは岡山県所在の全寮制の看護学校の寮で生活し,両親と離れて生活をせざるを得ず,両親から愛情を注がれて成長する機会を失わされた。
原告番号6(甲A1・147~168頁,甲C6の1,原告番号6本人)

原告番号6は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,◎に該当する。
原告番号6は,昭和18年北海道で出生し,両親と共に暮らしていたところ,7歳のときに父が入所したために,幼少期から父と共に暮らすことができず,寂しい思いをした。原告番号6は,結婚後に母とは同居していた一方,昭和35年以降も療養所に入所していた父とは自由に交流することができず,父との間で円満な家族関係を形成することができなかった。
原告番号7(甲A1・317~354頁,甲C7の1,原告番号7本人)
原告番号7は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△
の分類中,◎に該当する。
原告番号7は,昭和30年に大阪府で出生し,1歳4か月のときに,母と次姉が療養所に入所したため,養護施設に入所した。また,原告番号7は,翌年,原告番号7の父と長姉が療養所に入所して,原告番号7以外の家族全員が療養所に入所したため,幼少期に,両親を含めた家族
と共に過ごすことができず,昭和39年,8歳で家族と再会して同居するまでは,よくわからないままに母と電話で話す以外には,家族の記憶がないまま成長し,肉親と触れ合う機会を奪われ,家族がどのような存在かさえ感じることなく成長した。そのため,原告番号7は,家族に対し,自然な情愛がわかず,家族と同居するようになってからも,同居生
活にストレスを感じながら生活していた。さらに,原告番号7は,母が他人であるような感覚を抱き,母が自殺した際にも,他人が死んだような感覚しか持てなかった。(原告番号7本人4,17,21頁)
原告番号9(甲A1・45~86頁,甲C9の1,原告番号9本人)原告番号9は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△
の分類中,◎に該当する。
原告番号9は,昭和21年,福岡県で出生し,両親とともに暮らしていたところ,幼少期から両親が療養所に入所していたため,両親と離れて,原告番号9に対して冷たく当たる親戚宅で育ったため,愛情を受けて育つことができなかった。また,昭和31年に父が死亡し,原告番号9が10歳のころに母が原告番号9の住む場所から近い療養所に転園した後も,母との交流は,小中学校が長期休みの期間に職員の目を盗んで療養所の母の部屋にこもって過ごすことしかできず,昭和35年以降も,母が療養所に入所していたため,原告番号9は,母と共に生活して十分に交流することができなかった。
原告番号25(甲C25の1,原告番号25本人)

原告番号25は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,◎に該当する。
原告番号25は,昭和12年生まれであり,昭和22年に父が入所すると同時に保育所に入所し,決められた面会日の他にも,父の部屋に忍び込み,父が作った料理を食べるなどしていたが,昭和25年に
一般の養護施設に移った後は,夏休みの際に面会するだけとなった(原告番号25本人1,2,10,12頁)。なお,社会人となった昭和35年以降も,父は療養所に入所しており,その後の父との交流は,原告番号25が療養所に出かけ面会を行ったことがあるほか,結婚する間に,妹と暮らす自宅に招いたことが一度あったのみであった
(原告番号25本人13頁)。
このように,原告番号25は,入所者である父との間の家族関係の形成がある程度はできていたものの,人格形成の阻害がないといえるまでの交流が継続的にあったとまではいえない。
原告番号59(甲C59の1,原告番号59本人)

原告番号59は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,◎に該当する。
原告番号59は,昭和13年愛知県で出生し,10歳のころ,母が療養所に入所したため義父と暮らすこととなったが,義父からは愛情をもって接せられることはなく,虐待を受け,浮浪児のような過酷な生活を強いられ,母とは会うことすらできなかった。原告番号59は,11歳のころ保育所に入所し,12歳のころに養護施設に移った。原告番号59は,保育所入所中に職員の目を盗んで療養所の母の部屋で過ごすことが週3回程度あったものの,それ以外は,母と生活することができず,母から愛情を受けて育つ機会が制約された。(原告番号59本人6,11,21頁)

原告番号59は,このように成長したことや,原告番号59の母が昭和35年以降も療養所に入所していたことから,阻害された母との家族関係の形成を回復する自由で十分な交流ができず,母との家族関係を回復することができなかった。
原告番号75(甲C75の1,原告番号75本人)

原告番号75は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,◎に該当する。
原告番号75は,昭和24年に熊本県で出生し,両親と兄,妹(母の入所後1か月程で死亡)と暮らしていたところ,幼児期に母が療養所に入所した際,原告番号75も付設の保育所に預けられ家族別々の
生活となり,小学校入学時に保育所を退所しては父,兄とは生活することができるようになったものの,小学校6年生までは,母と一切の交流がなかったため,母の愛情を受けることなく成長し,昭和35年以降も,母と同居して生活することはできなかった。(原告番号75本人3~8頁)

また,原告番号75は,昭和35年,兄が療養所に入所したため,寂しい思いをし,母がいない上に兄までいなくなってしまったために,父もいなくなってしまってはどうしたらいいのかと,幼いながらに不安に感じた(原告番号75本人10頁)。
原告番号234(甲C234の1,原告番号234本人)
原告番号234は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,◎に該当する。
原告番号234は,昭和23年に沖縄で出生し,生後約3か月後に,母が療養所に入所したため,父と二人で暮らし,乳児期から母と共に暮らすことができず,7歳ころから19歳ころまでの間は会うことすらできなかったため,親子としてのつながりを長い期間断たれ,母の愛情を
受けて育つことができなかった。原告番号234は,19歳以降は,療養所で月1回程度は面会できたものの,昭和47年以降も母が療養所に入所していたため,阻害された家族関係の形成を十分に回復することはできなかった。(原告番号234本人4,8,14頁)
原告番号274(甲C273の1,甲C274の1,甲C575の1,
原告番号274本人)
原告番号274は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,◎に該当する。
原告番号274は,昭和57年,4歳頃に父が療養所に入所したため,幼いころに父と生活することができず,父との交流が少なかったために,
通常であれば得られたはずの父との思い出を作ることさえできず,自然な父子関係を形成することができなかった。(原告番号274本人2,13,15頁)
もっとも,原告番号274が中学生になったころからは,父が自宅でも生活するようになり,原告番号274が成人した頃には,父が自宅で
生活するのが日常であった。したがって,原告番号274が中学生になったころ以降の父との交流の少なさの要因には,父が入所により不在であったこと以外の事情が影響していることがうかがわれる。(原告番号274本人4~6,17,24,25頁)
原告番号324(甲C324の1,原告番号324本人)
原告番号324は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,◎に該当する。
原告番号324は,宮古島市伊良部島で出生し,2歳だった昭和13年ころから父が療養所に入所し,戦火の激しかった昭和20年から昭和24年を除いては,父と暮らすことができず,子供のころの面会では1回10分程度しか会うことができず,療養所へは1泊しなけれ
ばならない距離であったため,子供のころは年に数回しか会うこともできなかった。また,原告番号324は,父が平成18年に死亡するまで療養所に入所していたため,昭和47年以降も同居して生活することができず,幼少期に形成できなかった家族関係を十分に回復するだけの交流ができなかった。(原告番号324本人10頁)

原告番号377(甲C377の1,原告番号377本人)
原告番号377は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,○に該当する。
原告番号377は,昭和24年,京都府で出生し,12歳のころに父が死亡し,母が泊まり込みの仕事をしていたため,4歳年上の姉と二
人で支え合って生活していたところ,昭和37年,13歳のときに姉が療養所に入所し,面会の際にも十分に交流することができなかったことにより,姉の支えを失い,姉との家族関係を形成するための十分な交流ができなかった。(原告番号377本人11,19頁)
原告番号21(甲C21の1,原告番号21本人)

原告番号21は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,△に該当する。
原告番号21は,父が療養所に入所していたものの,当該療養所の近くに住んでおり,小学生のころは父が月に1週間程度帰宅していたため,その間は父とも生活をともにし,中学生のころからは父が自宅に住むようになった(原告番号21本人2,25頁)。そのため,原告番号21は,入所者である父との間の家族関係の形成に必要な交流が入所によって阻害されたとまでは認められない。
原告番号95(甲C95の1,原告番号95本人)
原告番号95は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,△に該当する。

原告番号95は,夫が昭和31年に奄美和光園に入所したものの,半年程度で原告番号95とともに暮らすようになり,夫が昭和35年に恵楓園に転園した後も夫が恵楓園と自宅を行ったり来たりしながら生活していたため,昭和35年以降,入所により同居生活が送れなかったとまでは認められない。(原告番号95本人5,8頁)

このように,原告番号95は,入所によって夫婦関係の形成を阻害されたとまでは認められない。
原告番号98(甲C98の1,原告番号98本人)
原告番号98は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,△に該当する。

原告番号98は,父が,入所後,昭和50年頃までは年に2,3回,1回につき1週間から3か月程度帰宅したと供述する(原告番号98本人2,20,25頁)。
また,原告番号98の兄弟姉妹の陳述書によれば,昭和50年ころまでの期間であっても,父がほぼ家で生活していた疑いがある(甲C11
の1,甲C52の1,甲C88の1)。
したがって,いずれにしても,原告番号98は,入所者である父が,頻繁に,又は長期間にわたって,自宅に帰宅しており家族関係の形成や人格形成に必要な交流が可能であった合理的疑いが認められる。
原告番号107(甲C107の1,原告番号107本人)
原告番号107は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,△に該当する。
原告番号107は,小学5年生である昭和39年5月に母が入所したものの,同年の夏以降中学校を卒業するまで夏休みには療養所に行って2,3週間泊り母と一緒にいることができ,他方,母が自宅へ年に1回,1か月から1か月半の間泊まりに帰ってきていた(甲C10
7の1・4頁,原告番号107本人8,24頁)。
そのため原告番号107は,入所者である母との間の家族関係の形成に必要な交流が入所によって阻害されたとまでは認められない。
原告番号135(甲C135の1,原告番号135本人)
原告番号135は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎
○△の分類中,△に該当する。
原告番号135の兄弟姉妹が療養所に入所したのは,原告番号135が就職のために実家を出て兄弟姉妹と別居した後であるから,原告番号135と兄弟姉妹との家族関係の形成が入所によって阻害されたとは認められない。

原告番号188(甲C188の1,原告番号188本人)
原告番号188は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,△に該当する。
原告番号188は,米国統治下の沖縄で昭和33年に出生し,両親が昭和34年頃,療養所に入所したものの,未だ統治下の小学校3年生の
頃から両親とともに暮らせるようになっており,昭和47年以降入所によって家族との交流を阻害されたと認められない。
原告番号339(甲C339,原告番号339本人)
原告番号339は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,△に該当する。
原告番号339は,米国統治下の宮古島で昭和33年に出生し,両親が療養所に入所していたものの,4歳頃から両親と暮らしており,昭和47年以降入所によって家族との交流を阻害されたと認められない。原告番号351(甲C351の1,原告番号351本人)
原告番号351は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,△に該当する。

原告番号351は,昭和32年,宮古島市伊良部島で出生し,父が療養所に入所しており,父と同居できていないことに,寂しさや心の貧しさを感じていたものの,1,2か月に1,2日程度帰宅しており,家族関係を形成するために必要な交流が可能であった疑いがある。(原告番号351本人4,5,8,19頁)

原告番号428(甲C428の1,甲C428の2,原告番号428本人)
原告番号428は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,△に該当する。
原告番号428は,母が昭和57年に療養所に入所しているものの,
母は自宅と療養所を行ったり来たりする生活であった(甲C428の2・112,117頁)。そのため原告番号428は,入所者である母との間の家族関係の形成に必要な交流が入所によって阻害されたとまでは認められない。
原告番号441(甲C439の1,甲C440の1,甲C441の1,
甲C442の1,原告番号441本人)
原告番号441は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,△に該当する。
原告番号441は,昭和27年に宮崎県で出生し,昭和30年,2歳のころから父が療養所に入所していたところ,入所後,一時帰宅するようになり,原告番号441の兄である原告番号440が中学生となった昭和37年頃以降は一時帰宅の回数が増えており,昭和35年以降は年
に数回以上の頻度で帰宅していた疑いがある。そのため,原告番号441は,入所者である父との間の家族関係の形成に必要な交流が入所によって阻害されたとまでは認められない。(甲C439の1,甲C440の1,原告番号441本人5,19頁)
原告番号474(甲C474の1,原告番号474本人)

原告番号474は,別紙原告一覧表に記載のとおり,前記⑴記載の◎○△の分類中,△に該当する。
原告番号474の母は,療養所に籍を置きながらも,社会内で生活していたため,原告番号474は母との間の家族関係の形成に必要な交流が入所によって阻害されなかった。


小括
原告らは,例えば,前記ア

から

までに説示したように,前記⑴記載

の◎○△の分類中,◎又は○に該当する原告らは,ハンセン病患者である家族が療養所に入所したことにより,同居して生活することが一定期間,又は,生涯にわたってできず,家族関係の形成が阻害され,人格形成への影響を受けた。もっとも,前記

から

までに説示したように,原告らの

うち,前記⑴記載の◎○△の分類中,△に該当する原告らは,㋐当該入所者が頻繁に自宅に帰宅しており家族関係の形成や人格形成に必要な交流が可能であった者又はその合理的疑いが認められる者については,家族関係の形成が阻害されたとまでは認められず,当該入所者が当該原告の親である場合に,当該原告が出生後成人又は自立した後に当該親が療養所に入所した場合には,家族関係の形成や人格形成に必要な交流が可能であった合理的疑いが認められ,家族関係の形成が阻害されたとまでは認められず,当該入所者が当該原告の子である場合に,当該子が成人又は自立した後に当該子が療養所に入所した者の場合には,家族関係の形成や人格形成に必要な交流が可能であった合理的疑いが認められ,家族関係の形成が阻害
されたとまでは認められず,当該入所者が当該原告の兄弟姉妹である場合に,当該兄弟姉妹が入所の有無とかかわらず当該原告と別居していたとき,当該原告の出生後成人又は自立するまでの間に入所がないときには,家族関係の形成や人格形成に必要な交流が可能であった合理的疑いが認められ,家族関係の形成が阻害されたとまでは認められない。なお,昭和3
5年(入所した療養所が愛楽園又は南静園のみである場合については昭和47年)よりも前に当該家族が入所し,かつ,当該原告が成人又は自立し,同年以降も当該家族の入所が継続していた場合には,当該原告は,形成を阻害された家族関係を回復する機会を被告の違法行為によって失ったと認められるから,被告の違法行為により家族関係の形成を阻害されたといえ,
前記⑴記載の◎○△の分類中,◎又は○に該当する。また,原告らのうち,家族の入所によって入所していない家族との関係が悪化した原告らがいることもうかがわれるものの,入所していない家族との関係は原告ら各々によって様々であり,前記⑴記載の◎○△の分類中,◎又は○に該当する原告らであっても,入所によって,入所していない家
族との関係が必ず阻害されたとまで認めることはできない。
第8
1
総括
以上説示したとおり,戦前戦後を通じた強制収容の徹底強化や無らい県運動等の被告のハンセン病隔離政策等により,ハンセン病が強烈な伝染病であり,
他の病気と異なって隔離が必要なほどの特別な病気であるという誤った認識に基づく過度の恐怖心が多くの国民らに植え付けられ,ハンセン病患者家族については感染している可能性が高い存在と印象付けられ,他方で,因習による家系,家筋病,業病や天刑病,遺伝病説や体質遺伝的疾病観と国家によって強制隔離される恐い病気が結び付けられ,ないまぜ状態になってハンセン病患者及びその家族に対する忌避感や排除意識が定着し,ハンセン病患者及びその家族に対する嫌悪感や否定的価値観が植え付けられた。特に,戦前戦中,ハンセン
病患者及びその家族に対する,感染防止を名目とする差別的な忌避行動が常態化し,昭和16年頃には,日本全国を通じて,多くの国民らがハンセン病患者家族に対し,ハンセン病患者家族であるという理由で,忌避感や排除意識を有し,ハンセン病患者家族に対する差別を行い,昭和18年頃には,大多数の国民らがハンセン病患者及びその家族に対し,忌避、排除されて当然との意識を
持ち,深刻な差別被害が生じていたことが認められる。戦後,ハンセン病が容易に治癒する病気となった後も,ハンセン病に対する隔離政策の継続によりハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別が維持,場合によって強化され,旧法制定前から新法廃止に至るまでの長きにわたって,隔離政策が否定されることがなかったため,ハンセン病隔離政策等によってハンセン病患者及びその
家族に対する偏見差別を植え付けられた国民らにとっては,当該偏見差別が根強く維持され,もはや被告による周知活動がなくとも,強制収容を実体験したりハンセン病患者の外貌の変形等を目撃したりした世代から,無らい県運動が下火になった後に生まれた世代へと,偏見差別が世代間承継される状態となった。

2
古来の,ハンセン病は遺伝(家系,家筋)病であるとの迷信に基づく偏見差別や,業病や天刑病といった宗教観や迷信に基づく偏見差別,外貌の醜状や大きな変化による差別があった上,ハンセン隔離政策等によって,ハンセン病について特別な病気であるとの印象を与えられたことにより,ハンセン病を業病
や天刑病等と因習による考えもなくならず,また,ハンセン病がその患者の隔離が必要であるほどの特別の病気であるという誤った認識が広まったことで,ハンセン病が容易に治癒するようになった後においても,あたかも医学的根拠に基づくかのごとく隔離政策が継続され,新法廃止に至るまで,隔離政策が否定されることがなかったために,大多数の国民らの間では,ハンセン病に対する恐怖心が解消されることがなかったといえる。そして,隔離政策が上記のとおり継続したために,新法廃止とともに,ハンセン病が隔離する必要のない病
気である旨を厚生大臣が公式に発表するなどしても,一定の効果はあったといえるものの,多くの国民らに偏見差別の意識が残った。
3
前記第7の1のハンセン病患者家族に生じた差別による被害は,社会にハンセン病患者家族に対する偏見差別が存在する限り継続して発生し続けるといえる。差別による被害の発生は,具体的な差別が発生し続ける場合にとどまらず,
ハンセン病患者家族に対する差別によって,ハンセン病患者家族は,ある者は差別体験によって自己肯定感が欠如してその後の人生に影響し,ある者は人生の選択肢を制限されたことにより,自己実現の機会の喪失による被害が継続し,ある者は就学できなかったために文字が読めずに生活に支障が生じ続け,またある者は社会との交流を閉ざし続けるなどといった形で継続して発生し続ける
といえる。また,一度,ハンセン病患者家族であることを隠した生活を始めると,その秘密を守るために新たな嘘をついたり,新たな人間関係においても嘘をついたりするなどして,罪悪感,自己否定感,自己嫌悪感が生じ,様々な社会関係や人間関係に影響を及ぼすものであるから,その被害は,時間の経過とともに薄れるものではなく,むしろ,時間の経過とともに上記影響が多方面に
及んだり,より大きな被害を生じ得る。さらに,ハンセン病患者家族であるという秘密は,いったん周囲に知られると,知った者との関係が断たれない限り,再び秘すことができない一方,深刻な差別被害があるため,この秘密を隠し通すことによる心理的負担は大きく,隠し続けるほどに,その負担は累積するといえる。

4
ところで,一旦差別意識が作出されると,理由を問わない嫌悪感や忌避感に変化することも少なからずあるため,新法廃止に関する報道並びに平成13年の熊本判決,控訴断念,談話及び国会謝罪決議採択に関する一連の報道等によりハンセン病についての正しい知識が周知されたこと等を受け,正しい知識を有しながら差別する者がいる。ハンセン病が感染しにくく,かつ,治癒する病気であって,隔離する必要がないといった正しい知識を有しているにもかかわ
らず差別をする者は,ハンセン病隔離政策等が作り出した疾病観からは解放されているにもかかわらずに差別意識を有するのであるから,ハンセン病隔離政策等の影響を受けないところで差別意識を抱くようになった可能性がある。実際に,ハンセン病隔離政策等が開始する以前においても,後遺症による外見の醜状を理由として差別意識を抱く者が一定数いたこと,ハンセン病と全く関係
なく障害や病気によって生じた見た目を理由に差別意識を抱く者が一定数いることからすれば,ハンセン病に対して差別意識を有している者の中に,因習によるものも含め,ハンセン病隔離政策等の影響を受けないところで,見た目等を理由に差別意識を抱くようになった者がいることは否定できない。5
平成13年の熊本判決,控訴断念,談話及び国会謝罪決議採択に関する一連の報道の後は,ハンセン病隔離政策等が誤りであったことが多数の国民らに周知され,ハンセン病についての正しい知識を有する多くの国民らが有するようになり,正しい知識を有したことにより過去の差別を反省する者もあらわれ,ハンセン病隔離政策等の影響を受けたことが明らかな差別意識に基づく差別は
減少し,平成15年の黒川温泉宿泊拒否事件の際に明らかになったように,ハンセン病に対する偏見差別に対して抗議の声が多数上がる状況になっており,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別意識は共通認識ではなかったし,無らい県運動が活発であったころのような,大多数の者によって差別される一種の社会構造が維持され続けていたといえないだけではなく,平成14年以降
は,ハンセン病患者に対する偏見差別を許容せずに,反対の声を挙げる者が多数存在する状況となった。
第2節
第1
1
争点に対する判断
厚生大臣及び厚生労働大臣の違法(行為)及び故意過失の有無(争点1先行行為及び先行行為による作為義務の成否(争点1
先行行為(争点1




イ,ウ)

イ)

原告らが主張する,ハンセン病患者家族の偏見差別による被害を救済する作為義務の発生根拠となる先行行為を構成する被告(内務省,厚生省)の沖縄を除く地域の各行為は,前提事実に加え,第1節で認定したところによれば,次の

ないしのとおり認めることができる。

明治40年,ハンセン病を国辱としつつ,特に体面上の理由から浮浪する患者救護を目的として癩予防ニ関スル件を制定し,医師には,患者及びその家族に対する自宅等の消毒を義務付け,療養所を設置し,療養の途がなく救護者のないハンセン病患者を同所に隔離するようにした(前提事実第4の2イ,第1節第2の1

,同第4の2

ア)。

明治42年には内務省訓第45号を策定し,ハンセン病がその患者との接触や体液を介して伝染する病気であること,感染の予防としてハンセン病患者家族の衣類等を含めた消毒が必要であることを国民らに周知することとし,当時既に感染力が微弱とされていたにもかかわらず,あたかも感染力の強い病気であるかの施策を実施し始めた(前提事実第4の2

,第1節第4の2イ,同第5の1)。

大正9年,ハンセン病患者の1万人収容を目標としてそのための新たな国立療養所設置,自由療養区設置等を内容とした根本的癩予防策要項を決議し,大正14年の衛生局長の地方長官宛通牒をもって,療養所の入所対象者を浮浪患者のみならず事実上すべてのハンセン病患者とし,癩予防ニ関スル件制定時における,収容対象を浮浪患者とし在宅患者に
対しては収容以外の予防措置をとる方針から,ハンセン病患者全てを療養所で隔離する方針(絶対隔離政策)へと大きく方針転換した(前提事実第4の2

,第1節第4の2イ)。

昭和3年に昭和天皇の即位の儀式が行われるに際して内務次官通牒を発し,警察官によって,癩予防ニ関スル件に基づく浮浪患者の一斉収容を実施した(第1節第2の2,同第4の2
ウ)。

昭和5年には,内務省衛生局が癩の根絶策を発表し,国辱論の下,ハンセン病は恐ろしい不治の病であり,絶対隔離政策により全ハンセン病患者を療養所に収容するしかハンセン病を根絶する方法がないことを表明し,また,20年根絶計画を決定し,同年中には,国内で最初の国立療養所を設立した(第1節第2の2

,同第4の3

イ)。

昭和6年,癩予防ニ関スル件を全面改正した旧法を制定し,ハンセン病予防を目的とし,そのハンセン病について,国辱論及びハンセン病患者全員が感染源となりうるとの立場から,ハンセン病根絶のためにハンセン病患者全員を隔離収容するという絶対隔離政策に基づいて,ハンセン病患者に対する職業差別を正当化する従業禁止規定や消毒規定を設け
た(第1節第2の3,同第4の3

イ,同第5の1)。

昭和6年に内務省と密接な関係にあり支部長を府県知事が務める癩予防協会が設立され,同協会は講演会を開催するなどして癩病毒撲滅運動を展開するとともに,各府県に対し,癩患家の指導により,自宅で療養中のハンセン病患者及びその同居する家族に対して,自宅を訪問した上での患者の療養所への入所指導や,患者及びその同居する家族に対して衣服及び所持品に対する消毒の指導を要請し,それに応じた各府県は,入所や消毒の指導を繰り返し,周囲の住民もそのような光景に触れた。この癩患家の指導は,ハンセン病患者と同居する者を対象として実施されており,同居の甥姪も当然にその指導の対象とされた(前提
事実第4の2

,第1節第4の3ウ)。

昭和5年以降,終戦の年まで第一期増床計画,20年根絶計画等により国立療養所の新設を進め,さらに府県連合立療養所を国立療養所とし,ハンセン病患者全員の収容を目指して増床が進められた(前提事実第4の2

,第1節第4の3イ)。

昭和6年以降,癩予防協会によって,療養所に入所したハンセン病患者の子で養育する者がいない児童,その他患者と分離保育できない児童について,同居させておくと感染する危険があるとして,患者である親と分離し療養所に付設した保育所に入所させた(戦後,保育所は被告に移管された。)。この保育所に入所させた健康な児童を未感染児童と呼んでいた時期があり,この表現は,聞いた国民らにすれば,未発症児童
と混同して理解されることが多く,既に感染して現在潜伏期にあり要観察対象者であるという認識が一定の国民らの間に広まり,入所児童は実際,定期的に診察,検査を受け管理された。(第1節第5の3)
各府県に無らい県運動を指導し,昭和16年までには全国の府県が行うようになり,全国一斉調査や各府県独自の調査,児童生徒の検診,さ
らには,在宅患者やその容疑者に対する検診・指導,駐在所から府県への連絡,民間人からの府県への投書によって要収容者が捕捉され,ハンセン病患者は勧誘,強制によって収容されていき,熊本県と群馬県では,ハンセン病患者の部落が解体させられた(前提事実第4の2
第4の3

,第1節

エ)。

大正5年から昭和23年に優生保護法が成立するまで,療養所では,男女が結婚生活を送ることを認めながら,その条件として非合法に強制人工不妊手術(断種)及び強制人工妊娠中絶手術を行うことを了解させ,ハンセン病患者が子孫を残さないよう措置を施した。さらに,国民らに対し,優生結婚相談事業を始め,昭和16年頃,大都会の繁華街のデパ
ートに相談所を設け,同所で,ハンセン病について遺伝病ではなく伝染病であるとしつつ,同患者と同居又は交流のあった若者に対して,同病は潜伏期間が長く,成長期,破瓜期に発症することが多いことを理由に晩婚を勧めるなどの宣伝活動を行った。このように,癩根絶のため,ハンセン病患者の子孫が生まれないよう図った。(前提事実第4の2


第1節第5の4)
厚生省予防局長は,昭和22年11月6日付けで,都道府県知事に対し,全国からハンセン病患者をなくすための無癩方策実施に関する件と題する通知を発し,消毒の厳重な実施,国民らの協力による患者の発見,入所勧誘を進めるなどの無らい県運動の徹底を求め,それに都道府県知事が応じて戦後の無らい県運動が始まった(前提事実第4の3
第1節第4の4



ア,同第5の1)。

昭和23年に体質遺伝的疾病観を踏まえて優生保護法にらい条項を設け,そのため,ハンセン病患者の子は周囲から生まれてきてはならなかった子のように見られるようになった(前提事実第4の3

,第1節第

5の6)。
昭和24年には,全国癩療養所長会議を開催し,その場で無らい県運動の継続方針,療養所の増床と一斉検診の実施が決定され,それを受けて厚生省公衆衛生局長が,昭和25年以降,全患者の収容を前提とした増床を行って患者を次々と入所させる方針に基づき,都道府県知事に対し,昭和25年には,昭和二十五年度のらい予防事業についてと題
する通知(前提事実第4の3),昭和26年には,昭和二十六年度らい予防事業についてと題する通知(前提事実第4の3
)をもって,

在宅患者の一斉検診,名簿の作成,収容等についての整備,無らい県運動の徹底的な実施体制作りを指示し,各都道府県では在宅患者の一斉検診,名簿の作成,収容等が行われた。上記の名簿には,患者の配偶者,両親,兄弟姉妹及びその配偶者についても記載を求め,患者同様に管理した。(第1節第4の4ア

及び

,第1節第5の2)

昭和28年には,ハンセン病予防と同患者の治療等を目的とした新法を制定し,入所については,入所命令,直接強制(6条2項,3項)の強制措置を設け,退所については規定がないものの,症状が軽快して隔離療養の必要がないと認められれば条文がなくても当然に退所できるとされ,消毒については一次的には家族に委ね,家族の協力を得られないと判断された場合には県等の職員が行い,外出は親族の危篤等の場合に限った。実際の運用においては,昭和30年代までは,強制,半強制の収容も多く行われ,退所は菌陰性になっても昭和54年まではなかなか退所できず,外出許可は昭和30年代までは厳しいものだった。(前提
事実第4の3

,同4,同

,第1節第2の6

イ,同第4の4



以上によれば,癩予防ニ関スル件制定当時は,浮浪患者を対象に隔離収容する政策であり,その他の患者の家族に対する偏見差別を形成する要因と認めることはできないが,その後,ハンセン病は強烈伝染病であって,しかも,ハンセン病患者全員が感染源となり得るとして,患者全員を収容する絶対隔離の方針が打ち出され,旧法制定,戦前の無らい県運動,戦後の無らい県運動,新法制定等の前記

ないし

開されており,それによって,第1節第4の2

及び

同4
の各行為が展
,同3

及び

,同第5の1ないし6のとおり,ハンセン病患者家族は偏見差別



の対象となり被害を受けたわけだから,前記
行為を構成する。前記及び

ないし

についても,前記

の各行為は先行

以降の各行為に繋が

る先行の行為であり密接に関連しており,その趣旨において先行行為を構成している。なお,以下においては,ハンセン病隔離政策等をいう場合,主にここに挙げた各行為から構成されているものとして扱う。これに反する被告の主張は,次のとおりいずれも採用できない。

a
被告は,ハンセン病隔離政策等において,ハンセン病患者家族を潜在的感染者等と位置付けておらず,ハンセン病患者家族に対する偏見差別は国民らが誤解したことによるものであり,ハンセン病隔離政策等が先行行為にならないと主張する。しかし,国民らに誤解があったにしても,その誤解が被告(内務省,厚生省)の行為に関連,起因する場合にはそれらの行為は先行行為を構成し得るところであり,国民
らの誤解があるからといってハンセン病隔離政策等が先行行為を構成しないことにならない。むしろ,ハンセン病隔離政策等には,後記のとおり,国民らに間違った認識を与え,それによってハンセン病患者家族に対し偏見,差別被害を生じさせ,要因になったといえるから,被告の主張は採用できない。

b
被告は,ハンセン病隔離政策等について,ハンセン病が感染力の強い伝染病であるとの理解を前提に,病気の予防及び治療を目的として実施されたものであって,対象(名宛人)はハンセン病患者自身であるから,これらの行為はハンセン病患者家族に対する作為義務の発生根拠とならず先行行為を構成しないと主張する。

確かに,ハンセン病隔離政策等では病気の予防及び治療を目的として患者の隔離収容をしており,ハンセン病患者家族はその対象ではない。しかし,原告らの主張する,作為義務を導く先行行為は,ハンセン病患者家族が偏見差別の被害を受けてきたことと関連し,ハンセン病患者家族に対し偏見,差別被害をもたらした要因となる被告(内務
省,厚生省)の行為であり,第1節第4の3,4及び6によれば,実際にハンセン病隔離政策等とハンセン病患者家族の受けた偏見,差別被害との間に関連性を否定することはできず,要因にもなっているから,被告の主張は当を得ておらず採用できない。
c
被告は,内務省や厚生省がハンセン病について体質遺伝的疾病観に依拠したことはなくハンセン病隔離政策等が先行行為を構成することはない旨を主張するが,第1節第5の6のとおり,少なくとも優生保護法のらい条項は,体質遺伝的疾病観に基づき規定されたと言ってよく,そのらい条項は,ハンセン病患者の子について,本来産まれてきてはならない子との印象を与え偏見差別を生む一端になった。
d
被告は,内務省訓第45号,旧法及び新法の消毒規定によって,ハンセン病患者家族がハンセン病患者と同居する居宅やその衣服を消毒されたのは,菌の付着した疑いのあるところを消毒するという公衆衛生上の必要からであり,ハンセン病患者の収容に必要な範囲で実施したにすぎないと主張する。しかし,消毒については,趣旨がそうであったとしても,新法8条1項,9条1項のとおり家族がハンセン病患
者の体液の付着した付近を消毒すればよいところ,内務省訓第45号や旧法ではそのようになっておらず,しかも,第1節第5の1のとおり,実際には,旧法及び新法の各時期を通じ自宅だけではなく消毒の範囲が自宅周辺にも及ぶこともあり,ハンセン病患者家族への偏見差別を生む一端を担った。

e
被告は,癩患家の指導について,ハンセン病患者家族がハンセ
ン病患者の菌に感染しないよう指導,普及啓発することを目的とし,ハンセン病患者家族を潜在的感染者として管理していたわけではないと主張する。これについては,第1節第4の3ウ及びエのとおり,
癩患家の指導は内務省の下部機関である各府県によって行われた
ところ,その各府県はその後に在宅患者を療養所に収容する無らい県運動を展開し,各家庭の調査を行っており,第1節第5の2によれば,各府県は癩患家の指導を通じてその家族の状況を把握してい
たのだから,それが無らい県運動の際に利用されたことは容易に推認
でき,ハンセン病患者だけではなくその家族に対する偏見,差別意識を生じさせた一端を担ったといえる。
f
被告は,昭和二十五年度らい予防事業について及び「昭和二十六年度らい予防事業についてにおけるらい患者及び容疑者名簿に家族構成の記載を求められていたことについて,市町村や警察署から集められたハンセン病患者に関する情報の一つとして家族構成があったにすぎない旨の主張をするが,第1節第5の2及び⑷のとおり,
ハンセン病患者家族を他の国民らと区別してハンセン病に感染している可能性が高い者として管理監視の対象にしていたと認められ,その趣旨において,ハンセン病を強烈伝染病とする立場からハンセン病患者家族を潜在的感染者と扱っていたといえる。そして,少なくとも,それを知った周囲の国民らがハンセン病患者家族への偏見,差別意識
を有するようになることは十分にあったといえる。
g
被告は,ハンセン病患者の子を保育所に入所させ未感染児童と
呼んでいたことについて,保育所は児童に養育等の措置を講ずるための施設であり,療養所入所患者の子をハンセン病に感染した疑いのある存在として監視するために収容するものではないし,未感染児童
の用語はそういう意味ではないと主張する。しかし,第1節第5の3のとおり,当初は上記の趣旨でハンセン病患者の子を収容していたといえるものの,その後,定期的に注射をするなどしてハンセン病発症の管理をするようになり,加えて,未感染児童との呼称が誤解を招き,保育所の児童は,既に感染していて現在潜伏期にある要観察対象者と
の認識が一定程度広まったことからすれば,ハンセン病患者の子を保育所に収容し未感染児童との呼称を付けたことは,ハンセン病患者家族への偏見,差別の一端を担ったといえる。
h
被告は,厚生省優生結婚相談所が作成したパンフレットに婚姻期間の記載をしたことについて,ハンセン病に感染していない安心を得た上で結婚するためには婚期を先伸ばしした方が良いとの趣旨だったと主張するが,そもそも,第1節第5の4のとおり,上記のパンフレット(広報)に接したり伝え聞いたりした者にとって,ハンセン病が特別な恐い伝染病であるとの印象を与えることになり,ハンセン病患者家族への偏見,差別の一端を担ったといえる。
i
被告は,ハンセン病患者の隔離収容や優生保護法による優生手術,同法制定前の手術も,一貫してハンセン病が伝染病だから伝染の拡大を防止する病気予防のため,幼児に対する感染防止や母体保護のためなされたものであり,原告らが主張するような体質遺伝的疾病観を前提として実施されたものではないと主張する。しかし,優生保護法が体質遺伝的疾病観を踏まえていることは第1節第5の6のとおりであ
る。また,第1節第1の4のとおり,ハンセン病は明治期から伝染力,病毒力の弱い伝染病とされており,それを被告(内務省,厚生省)は,前記アのとおり,強烈伝染病で絶対隔離が必要な恐い病気として宣伝し,第1節第4の3イのとおりハンセン病患者家族に対する偏見差別を生んだのだから,被告の主張を採用することはできない。


沖縄については,先行行為を構成する被告(内務省,厚生省)の各行為として,前提事実に加え,第1節で認定したところによれば,原告らの主張するうち,次の
実第5の2

ないしについて認められる。なお,沖縄は,前提事

ア及び同3のとおり,昭和20年4月から昭和47年5月1

5日まで日本の行政権の執行が停止されていたため,作為義務が生じるにしても昭和47年5月15日以降になる。
前記ア

ないし

のとおり。なお,前提事実第5の1イのとおり,

昭和6年に南静園,昭和13年に愛楽園が設立されたところ,両療養所でも,昭和20年4月の米軍上陸まで,男女が結婚生活を送ることを認めながら,その条件として非合法に強制人工不妊手術(断種)及び強制人工妊娠中絶手術を行うことを了解させていた。
また,嵐山事件(前提事実第5の1⑵イ,第6の1
イ)の際には,

建設予定地の周囲の住民の間で,ハンセン病隔離政策等に従った,ハンセン病は菌によって伝染する病気であるとの認識が広まった(第1節第4の2
イ)。

昭和19年9月,愛楽園は,日本陸軍(守備部隊)の軍医部とともに,沖縄本島の非入所患者に対し,拒否する患者には銃剣で威嚇しトラックに乗せることまでして大規模な一斉収容を実施した(第1節第4の3エ)
戦後,米国の占領下において琉球政府が発足し,同政府は,昭和36
年,退所規定,在宅予防措置規定を設けた以外は直接強制規定,消毒規定,無断外出禁止規定など新法とほぼ同じハンセン氏予防法を制定した(前提事実第5の2エ)。同法は,軽快退所については新法下より進んだものであったが,療養所への新規入所を廃止するものではなく,また,すべての入所者が自由に退所し,自由に外出できるわけではなく,
これらについては新法下のハンセン病隔離政策等に沿ったものだった(第1節第4の4

ア)。もっとも,琉球政府は,民間医師が昭和3

7年に始めた在宅治療について業務委託契約を締結し,当初は軽快退所者の検診に限って在宅治療を認め,また,昭和42年頃から,愛楽園が感染のおそれの有無に関係なく外来治療を実施するようになり,入所者の中心は結核,精神疾患等の合併症をもつものとなった。(前提事実第5の2


,第1節第4の4ア



沖縄は,昭和47年に本土復帰を果たし,その後は被告における地方公共団体としての沖縄県になり,ハンセン病患者及びその家族には,前記ア
の新法及びそれに関連する法令が適用されることとなった(前提

事実第5の3)。琉球政府下で行われてきた在宅治療,外来治療は,本土復帰後も引き続き維持され,療養所に入所する患者は徐々に減り,本土復帰後8年もすると,1人,2人になった(前提事実第5の3)。これに対して,原告らは,米軍の沖縄本島上陸によって被告の行政権の執行が停止された昭和20年4月から琉球政府が発足した昭和27年までの時期についても,ハンセン病政策については米軍によって軍政に矛盾しない限り旧法を引き継いで行われたのだから,沖縄復帰特別措置法31条により,被告は,米軍がハンセン病を強烈伝染病として隔離政策を遂行した効果を引き継がねばならず,この時期の隔離政策も先行行為を構成すると主張する。しかし,この時期のハンセン病に関する政策の遂行は,米軍が自己の判断で決定したことであり,他方,被告は行政
権の執行が停止され,沖縄の内政については何ら関与できない状況の下,実際に何らかの関与をした様子も窺えない以上,その期間について先行行為を構成する行為があったということはできない。沖縄復帰特別措置法31条も,本土復帰の際の琉球政府と被告との承継に関する規定であり,米軍と被告との承継について適用又は類推適用をする余地はない。したがって,これについての原告らの主張は採用できない。

他方,前記

ないしに関する被告の主張も,次のとおりいずれも採

用できない。
a
被告は,沖縄は,昭和20年に被告の行政権の執行が停止され,その後本土復帰まで米国の占領下にあったのだから,戦前戦中の被告に
よるハンセン病隔離政策等の影響はその期間で断絶され,本土復帰後の被告の不作為に対する作為義務の前提としての先行行為を構成しないと主張する。しかし,第1節第4の3エのとおり,沖縄の住民も,戦前戦中と,富国強兵,戦時体制下の優生思想,そして民族主義的国家主義的国家体制下での無らい県運動により,中上位階層からの指導,
指示によって,ハンセン病患者家族に対する偏見差別が植え付けられた。このようなハンセン病患者家族に対する偏見差別は将来にわたって維持し続けて何ら不思議でなく,後記bのとおり,琉球政府の統治以降,在宅治療,外来診療等が導入されたことを踏まえても,昭和20年から本土復帰まで被告の行政権の執行が停止され米国の占領下だったからといって,昭和20年以前の前記,

が先行行為を構成し

ないとはいえない。

b
被告は,昭和25年以降,沖縄においてはハンセン病患者の在宅治療が次第に実現され,ハンセン氏病予防法によって入所患者の軽快退所や退所者の厚生事業,伝染のおそれのなくなった患者の治療,非伝染性の新患者の外来治療が認められ,沖縄の住民らの間では,ハンセ
ン病が隔離を要する強烈伝染病であるという誤解が解消されるような状況となり,昭和25年以降,本土復帰後も含めてこの時期の琉球政府,被告の行為は先行行為を構成しないと主張する。
確かに,米国に代わって琉球政府が統治を行った時期において,制定されたハンセン氏病予防法には退所規定及び在宅予防措置規定が設
けられ(前提事実第5の2⑵エ),在宅治療制度(前提事実第5の2⑵エ

)が導入された。しかし,第1節第4の4

アのとおり,ハ

ンセン氏予防法制定当初は,非入所患者の療養所入所を廃止するものではなく,退所,外出も自由ではなかったし,在宅治療(前提事実第5の2⑵エ
)も受診できる者は限定的であり,隔離政策が維持され

た状態であって,その後,本土復帰時には外来診療が進み,また,昭和50年代には,自由に退所,外出ができるようになったものの,そのことが宣伝,広報等で広く明らかにされて沖縄の住民に知れ渡った状況は窺えない。かえって,米国(琉球政府)統治下においても,被告は,南方同胞援護会を介し,又は自ら直接琉球政府に対し資金援助
を行い,また,派遣受入れ,人材派遣を行って,ハンセン氏病予防法制定,住民健診及び学童検診(平成3年まで)を支援し,さらに琉球政府は,日本本土と同じように,隔離収容による治療,患者名簿の作成や脱走患者の取締等を実施しており(前提事実第5の2
,同

ア,同エ

の4

,前提事実第5の3,第1節第2の8⑶,同⑷,第1節第4ア
),琉球政府のハンセン病政策は,日本本土でハンセン病

隔離政策等を実施する被告の影響が及び続けたといえる。加えて,琉
球政府発足以降においても戦前戦中の被告のハンセン病隔離政策等によって沖縄に生じたハンセン病に対する疾病観や偏見差別の状況が引き継がれ(第1節第4の3エ,同4
⑵ウ


,同

,第1節第4の4

),本土復帰後は,被告が琉球政府のハンセン病に関する政策

(在宅治療制度)を承継していること(前提事実第5の3),沖縄復
帰特別措置法律31条に琉球政府の義務をその承継に応じて被告が負うものと規定されていること(前提事実第5の3)からすれば,昭和27年以降の琉球政府下の前記の行為は,被告の作為義務の前提である先行行為を構成するといえる。さらに,沖縄においても,昭和47年5月15日の本土復帰以降,在宅治療制度以外については,本土
と同様の隔離政策が継続され(前提事実第5の3及び第1節第4の4イ
),その時期においても,戦前戦中の被告のハンセン病隔離政

策等によって生じたハンセン病に対する疾病観や偏見差別の状況が継続していたこと(第1節第4の3
4の4


エ,同4

)からすれば,本土復帰後の前記


,同

,第1節第

の行為も被告の作為

義務の前提としての先行行為を構成する。
c
被告は,ハンセン病隔離政策等が始まる前から沖縄においては地域住民のハンセン病患者への迫害があり,本土復帰後にもハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別があるとすれば,それは上記のハン
セン病隔離政策等が始まる前からのものであると主張する。確かに,沖縄において,ハンセン病隔離政策等が始まる前にも偏見差別は認められるところ(第1節第4の1),被告による戦前の無らい県運動等で沖縄にも異質な偏見差別が形成されたことは,第1節第4の3エのとおりであり,被告の主張は採用できない。
d
被告は,戦時中日本軍が沖縄に駐留した際,ハンセン病患者を一斉収容したのは戦争激化による戦略上の必要からであって無らい県運動
とは関係がないと主張する。しかし,第1節第4の3エのとおり,愛楽園がこの一斉収容に関わったのは明らかであるし,このことが収容の状況を目撃した住民等にハンセン病患者への偏見差別を生じさせたり強固にしたりすることは十分に考えられ,作為義務の前提となる先行行為を構成するといえる。

先行行為による作為義務の成否(争点1ウ)

偏見,差別意識の形成・強化(争点1ウ

,同



偏見,差別意識の形成及び強化についてみると,第1節第4の3


及びエのとおり,昭和18年頃には,ひとたび,ハンセン病患者やその家族の存在が当該地域社会で認知されると,警察官による取締りや,無らい県運動に関わるなどしてハンセン病患者を隔離収容しなければならないと確信する中上位階層者(地区の有力者や指導階級)による指示指導,さらに,それらの者のハンセン病患者及びその家族に対する差別的な態度の影響を受けることにより,周囲のほぼ全員によるハンセン病患
者及びその家族に対する偏見差別が出現する一種の社会構造(社会システム)が築き上げられた。そして,第1節第4の3

イ及びウによれば,

当時も,外貌の醜状や変形に基づく偏見差別,ハンセン病を古来存在した家系(家筋)病,天刑病等と捉える宗教観や迷信等に基づく偏見差別が存在し,同じ家の家族も偏見差別の対象となっており,他方で,当時のハンセン病隔離政策等に沿って,ハンセン病は強烈な伝染力を持ち,周囲に存在すれば感染する危険があるため,日頃から患者の近くにいる家族も感染源になりうる存在と捉え偏見差別を持つ者もおり,これらのいずれの国民らからも,ハンセン病患者は強制的に隔離収容されねばならない恐ろしい病気と認識され,ハンセン病患者だけでなく,それぞれの疾病観に起因しその家族も同じように偏見差別を受けるようになった。
上記の偏見差別の要因は,第1節第4の2ないし4で説示したとおり,癩予防ニ関スル件以来の被告のハンセン病隔離政策等,特に,戦時体制時の民族主義的国家主義的国家体制の下の無らい県運動にあり,昭和18年頃には,古来存在した偏見差別とは性格を異にする偏見差別が全国
津々浦々まで根付いたといえる。すなわち,上記の社会構造に基づき,大多数の国民らがハンセン病患者家族に対し,ハンセン病患者家族であるという理由で,忌避感や排除意識を有し,ハンセン病患者家族に対する差別を行い(このような意識に反する意識を持つことは困難な状況になった。),これにより,ハンセン病患者家族は深刻な差別被害を受け
たと認められる(第1節第4の3

オ,同

ウ)。そして,この状況は,

戦後,現憲法制定後も,無らい県運動を含むハンセン病隔離政策等によって維持され,ハンセン病患者家族に対する偏見差別も続き,人によっては強固になったことは第1節第4の4で述べたとおりである。
このことは,沖縄についても,第1節第4の4イ
及びウ

のとお

り基本的には同じであり,戦前戦中において形成され大多数の国民らが有するようになったハンセン病患者及びその家族に対する偏見や差別意識(忌避・排除されて当然の存在)が消滅するような事情はなく,戦後,ハンセン氏予防法制定前にも隔離政策は実施され,ハンセン氏予防法制定後も,当初は,非入所患者の療養所入所措置を廃止するものではなく,
退所,外出も自由ではなかったし,在宅治療の受診できる者は限定的であり,隔離政策が維持された状態であって,その後,外来診療が進み,自由に退所,外出ができるようになってもそのことは沖縄の住民に知られず,ハンセン病患者家族に対する偏見差別(忌避,排除されて当然の存在と認識,意識される状況)は続いた。
これに反する被告の主張は,次のとおりいずれも採用できない。
a
被告は,ハンセン病患者に対する偏見差別について,ハンセン病への感染を避けたいという心情に由来するところ,ハンセン病患者家族が感染して他者に感染させる可能性はほとんどなく,ハンセン病患者家族が社会内で偏見差別を受ける可能性は低いと主張する。しかし,ハンセン病隔離政策等は,旧法制定時には国民らに対しハンセン病を強烈伝染病で恐い病気であるとの意識を植え付ける政策であり,戦前
の無らい県運動によってその旨が宣伝され,大多数の国民らに少なくとも隔離収容されねばならない恐い病気であることが浸透し,それとともに傍らにいる家族も感染が疑われるなどの理由で新たな偏見差別に結び付いたのだから(第1節第4の3イ),被告の主張は採用できない。

b
ここでも被告は,被告(内務省,厚生省)による優生保護法の制定等の一連の行為は体質遺伝的疾病観を前提として実施されてきたわけではないと主張するが,それに理由がないことは前記アのとおりである。

c
被告は,ハンセン病隔離政策等はハンセン病患者家族を潜在的感染者又は感染している可能性が高い者としたわけではないし,ハンセン病患者家族について忌避・排除されるのが当然の存在であって社会内で生活するのは許されない存在と位置付ける意図はなく,そもそも,無らい県運動における通報の対象,各法令における名宛人の多くはハ
ンセン病患者であり,無らい県運動等とハンセン病患者家族に対する偏見,差別意識の形成とは結びつかないと主張する。しかし,第1節第4の3及び4のとおり,被告(内務省,厚生省)は,ハンセン病について,強制的に隔離収容されて当然の恐い伝染病として宣伝し,国民らをハンセン病に対し神経質にさせた上,その病気に罹患した患者の家族に対して第1節第5の1ないし4のとおり特別な措置を行って,大多数の国民らに対し,ハンセン病患者家族を潜在的感染者などとの
理由で危険な人物と認識させるなどして,ハンセン病患者家族をその患者と一体のものとして忌避・排除されることが当然の存在との認識を与えることに大きく関わっており,被告の主張は採用できない。d
ここでも被告は,ハンセン病患者の子について,保育所を設置したのは養育等のためであり,優生手術は幼児に対する感染防止等のため
だったと主張するが,これについても,ハンセン病は明治期から伝染力,病毒力が弱いとされていたのだからそもそも特別に扱う合理的理由はなく,その他,採用できないのは前記ア

g及びiのとおりで

ある。
e
被告は,埼玉連続自殺行為事件等の事件が発生しただけではそれぞれ一部の者が偏見差別を持っていたことになっても社会全体に偏見差別があったことにはならないと主張する。しかし,ハンセン病患者家族に対する偏見差別が大多数の国民らの認識として存在していたことについては,第1節第4の2ないし4のとおりで上記の事件等以外の要因も含めた判断であり,被告の主張は当を得ない。また,被告は,
竜田寮事件の際,保育所児童の通学に賛成した保護者が全体の約34%に及んだことから,ハンセン病患者家族は忌避・排除されるべき存在であるとの社会通念は存在しなかったと主張するが,この意向調査のアンケートがそのまま社会通念を反映したものといえないことは第1節第4の4⑴オのとおりである。

f
被告は,保育所の設置や未感染児童という呼称の対象となったのはハンセン病患者の子のみであるから,仮に,ハンセン病患者の子に対する偏見差別の社会通念が形成強化されていたとしても,ハンセン病患者の子以外の家族にはその社会通念は及ばないと主張する。しかし,ハンセン病患者と同居していた家族の衣類等の消毒(第1節第5の5の1),名簿等による管理と検診の義務付け等の監視(第1節第5の
5の2)など,ハンセン病隔離政策等の対象となったのはハンセン病患者の子のみではない。また,前記cのとおり,無らい県運動により家族間感染の危険が認識され,ハンセン病患者家族に対する偏見差別が形成される際,子への感染のおそれがその中でも特に強調されたという面はあるものの,危険が認識された対象には同居の家族全員が含
まれるといえる。他方,古来の家系(家筋),天刑病,業病,遺伝病等に,国辱論や優生思想等が富国強兵,民族主義的国家主義的国家観が結びつき,ハンセン病患者家族に対する否定的価値観が広まった点においても,子だけではなく家全体が否定的価値観の対象となった
はずであり,被告の主張は失当である。


先行行為を構成するハンセン病隔離政策等の作用(争点1ウ



前記アのとおり,被告のハンセン病隔離政策等の遂行がハンセン病患者家族に対する差別を生み出し,それによって被害をもたらしてきたということは(第1節第4の3

オ,同

ウ,第1節第4の4

エ,同

,第1節第7の1),被告のハンセン病隔離政策等の遂行が,ハ

ンセン病患者家族の有する,憲法13条が保障する社会内において平穏に生活する権利を制限してきたといえる。すなわち,社会的差別を受けることは個人の人生に重大な影響を及ぼし,例えば,①就学拒否や学校でのいじめ及び村八分等によって,学校生活や地域社会から排除され,人格形成,人格陶冶,人格維持に必要な最低限度の社会生活を喪失し,②就学拒否や学校でのいじめによって,健康で文化的な生活を送る上で必要不可欠な学習の機会の喪失し,心身の健全な発達や知性,情操,道徳性,社会性などの調和のとれた円満な人格形成の機会を喪失し,③離婚や婚約関係の破たんといった結婚差別によって,自己実現及び幸福追求の基盤として極めて重要な意義を有する婚姻関係そのものや家族の形成の機会を喪失し,④就労拒否によって,自己実現の機会を喪失するとともに,経済的損失を受け,⑤家族という社会生活を送る上での基本事項について重大な秘密を抱えることになり,その他にも様々な差別があるところ,そのいずれの差別も人生の選択肢を制限し,個人の人格形成にとって重大であって個人の尊厳にかかわる人生被害を生み,人として
当然に有するはずの人生のありとあらゆる発展可能性を大きく損ない,その影響は社会生活全般にわたりかねない。したがって,個人の尊厳と人格に密接にかかわる人格的生存に不可欠な権利を保障した憲法13条の人格権は,社会的差別を受けることなく社会内において平穏に生活できることを保障しているといえる。

しかるに,ハンセン病患者家族は,第1節第4の4エ,


,6

のとおり,被告のハンセン病隔離政策等の遂行によって社会的差別を受けており,憲法13条で保障された人格権を制限されてきたといえる。しかも,昭和28年に成立した新法におけるハンセン病患者の療養所への入所は,その背後に入所命令(新法6条2項)及び直接強制(新法6条3項)を予定したものである上(前提事実第4の3⑿ア

),ハン

セン病の治療を行う療養所以外の医療機関はわずかであって,入院治療が可能であったのは京都大学だけであり,療養所における外来治療も昭和40年代に至っても少しずつ行われるような状況にあって,ハンセン病患者は,治療を受けるためにはどうしても療養所に入所し療養所にとどまらなければならない状態に置かれ(前提事実第4の4),現憲法下であっても,度重なる入所勧奨や周辺住民の通報等により,入所を余儀なくされたことも多かったことからすれば(第1節第4の4

アa
~e),療養所への入所は,入所時の態様は任意であっても,ハンセン病患者の完全な自由意思によるとはいい難い(もっとも,前記イ


とおり,沖縄は,昭和40年代になると,軽快退所,在宅治療制度,外来治療により新規発見患者が療養所に入り家族と離れ離れになることが他の地域より少なくなった。)。
そして,ハンセン病患者が自宅から離れ療養所に入所させられ,あるいは,入所せざるを得なかったということは,第1節第7の2⑵のとおり,家族との離別を余儀なくさせ同居の機会を奪ったといえる。それば
かりか,ハンセン病患者家族にとっては,偏見差別を意識することを余儀なくされ,家族である患者と家族としての自由な触れ合い,交流や共同体験ができなくなり,色々な場面で家族関係を形成する機会がなくなり家族関係形成を阻害されるに至った。具体的には,㋐ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別が存在することでハンセン病患者家族で
あることを隠すことを余儀なくされ,そのために家族であるハンセン病患者との交流ができなくなったり(原告番号3につき甲B3の4,甲C3の1,原告番号3本人,原告番号5につき甲A1・87~126頁,甲C5(各枝番),原告番号5本人,原告番号21につき甲C21の1,原告番号21本人),

ハンセン病患者やハンセン病患者家族自

身がハンセン病患者からその家族に感染することをおそれて家族間で愛情を育むために重要な濃密な接触ができなくなったり(原告番号6本人につき甲A1・147~169頁,原告番号6本人,原告番号9につき甲A1・45~86頁,甲C9の1,原告番号9本人,原告番号21につき甲C21の1,原告番号21本人,原告番号25につき甲C2
5の1,原告番号25本人,原告番号288につき甲C288の1,原告番号288本人,原告番号318につき甲C318の1,原告番号318本人,原告番号324につき甲C324の1,原告番号324本人,原告番号441につき甲C441の1,原告番号441本人),㋒ハンセン病患者家族自身が偏見差別の影響を受けたり自らに対する差別の要因がハンセン病患者にあると感じることでハンセン病患者との接触に心理的葛藤を抱いて没交渉となったり円満な交流ができなかったり(原告番号4につき甲A1・127~145頁,甲C4の1,原告番号4本人,原告番号6につき甲A1・147~169頁,原告番号6本人,原告番号25につき甲C25の1,原告番号25本人,原告番号288につき甲C288の1,原告番号288本人),㋓ハンセン病患者
自身が家族への偏見差別の波及をおそれて家族との連絡を断つことで没交渉となったり(原告番号3につき甲B3の4,甲C3の1,原告番号3本人),㋔ハンセン病患者家族であるという重大な秘密が家族間に存在することにより信頼関係が阻害されたり(原告番号474につき甲C474の1,原告番号474本人),㋕ハンセン病患者家族に対する偏
見差別の苦しみから家族間での健全な関係構築が阻害されたりした(原告番号4につき甲A1・127~145頁,甲C4の1,原告番号4本人,原告番号6につき甲A1・147~169頁,原告番号6本人,原告番号135につき甲C135の1,原告番号135本人)。
そして,前記

のとおり,憲法13条は,個人の尊厳と人格に密接に

関わる人格的生存に不可欠な権利として,人間が生活する色々な場面における個人の尊厳,人格形成が阻害されることなく社会内において平穏に生活する権利を保障しており,原告らが上記㋐ないし㋕のとおり家族関係の形成が阻害された不利益は,正に,憲法13条で保障された社会内において平穏に生活する権利を制限されたことになる。さらに,憲法
24条1項は夫婦の自由で平等な意思による夫婦婚姻生活を保障しており,夫婦関係の形成阻害は憲法24条1項の制限にもなる。
このように,ハンセン病隔離政策等は,憲法上保障された権利を制限するものであるから,当該制限が公共の福祉の観点からやむを得ないなどの憲法上許容される限度を超えた場合には,被告(行政機関)は,被告のハンセン病隔離政策等の遂行を先行行為として,当該権利侵害を除去する条理上の作為義務を負うことになる。
そこで,人格権や夫婦婚姻生活の自由を保障した現憲法施行後,ハンセン病隔離政策等が上記のとおり人格権等を制限する関係にあることから,同政策等を遂行して人格権等を制限することが公共の福祉から許されるのか,許されるとしてもいつまでも許されるのか,上記の作為義務
発生の有無及び発生時期について検討をしなければならない。
これについて,前提事実第3の2及び

のとおり,内務省からハン

セン病隔離政策を含め伝染病予防業務等の所掌事務を引き継いだ厚生省としては,その当時の医学的知見,ハンセン病の蔓延状況の変化等によって変動し得るところ,それぞれの時点における医学的知見等に基づき,当該政策の必要性を判断しなければならない。これについて,ハンセン病患者は昭和25年には明治期に比べて半減し,その後も減少傾向を示しており(前提事実第4の3

,第1節第1の1

ク,同第2の5

ア),昭和35年までには,第1節第1の4のとおり,ハンセン病は,国際的評価,日本国内のスルフォン剤の評価及びハンセン病の医学的知見によって,不治の悲惨な強烈伝染病であって特別法を制定しなければならないという状況ではなくなっている。そうすると,遅くとも昭和35年には,ハンセン病はもはや患者を隔離しなければならないほどの特別の疾患ではなく,ハンセン病隔離政策等を遂行する必要性は消失した。そして,厚生省も,同時期にこのような状況にあることを十分に認識し
たことが窺われ(第1節第1の1ク),しかも,昭和29年の竜田寮事件での国会での審議状況をみると,厚生省担当者は,竜田寮事件時には,社会内にはハンセン病を強烈伝染病とした上でのハンセン病患者家族に対する偏見差別があり,ハンセン病患者家族が被害を受けていることを認識していたということができ(第1節第2の7⑵エ,甲A18),厚生大臣は,それまでハンセン病隔離政策等を遂行してきたことを先行行為として,ハンセン病患者に対してはもちろんのこと家族に対しても作為義務を負い,昭和35年にはその義務が発生したと認められる。沖縄における作為義務の発生時期は,本土復帰の昭和47年5月15日となる。
以上のとおり,昭和35年(沖縄は昭和47年)以降のハンセン病隔
離政策等の遂行は,ハンセン病患者家族の社会内において平穏に生活する権利を侵害するものとして許されないし,その時点において生じているハンセン病患者家族に対する偏見差別及びそれに関連して生じた家族関係形成阻害は内務省及びその所掌事務を引き継いだ厚生省によるハンセン病隔離政策等が要因となっていること,しかも,これまでに説示し
たとおりハンセン病患者家族の権利侵害,被害が重大なことから,癩予防ニ関スル件以来のハンセン病隔離政策等が先行行為となって,条理上,少なくとも厚生大臣,厚生労働大臣には昭和35年(沖縄は昭和47年)以降,ハンセン病患者家族との関係において当該権利侵害を除去すべき作為義務が発生する。
これに反する被告の主張は,次のとおりいずれも採用することができ
ない。
a
被告は,ハンセン病患者家族であっても具体的な差別を受けた経験がない者がいるし,一様にハンセン病患者との家族関係の形成が阻害されたともいえないから,ハンセン病患者家族に対する偏見差別は集
合的意識としての偏見が形成,強化された状況になく,これまで,ハンセン病患者家族一般に偏見差別,家族形成の阻害が生じる状況になっていないと主張する。しかし,戦時体制下の特殊な社会構造から大多数の国民らにハンセン病患者家族に対する特別な偏見,差別意識が生まれ,それに反した意識を持つことが困難な状況にあったことは前記ア



のとおりであり,それでもハンセン病患者家族の中に差別

被害を受けない者や,家族関係の形成阻害の認識がない者がいるのは,
第1節第4の4

カ,




の他,ハンセン病患者家族の中に

は例外的に周囲の家族に守られるなどして,自らはハンセン病患者家族でいることを認識せずに生活することができた場合などであり(後記第5の2

),このような例があるからとって,大多数の国民がハ

ンセン病患者家族に対して根強い偏見差別を持ち社会がその偏見,差
別意識に支配されていた時期が続いたことを否定することはできない。b
被告は,国民らのハンセン病患者家族に対する偏見差別について,国民らは,同家族においてハンセン病患者と接触する機会が多いことからハンセン病の潜在的感染者と誤った認識を持つようになって生まれたにすぎず,被告とは関係がない旨を主張する。しかし,前記


cのとおり,被告(内務省,厚生省)が,ハンセン病について恐い病気と宣伝し,国民らをハンセン病に神経質にさせた上,他方で,患者家族に対して特別な措置を取ったため,多数の国民らに対し,ハンセン病患者家族を潜在的感染者又は感染している危険のある者と認識させ,因習に基づく疾病観に捉われた国民らも含め,ハンセン病患者
家族をして忌避・排除されるべき存在との認識を与えたのであり,被告(内務省,厚生省)はハンセン病患者家族に対する偏見,差別意識の形成に大きく関わった。また,因習による天刑病等や外貌の醜状による偏見差別も存在し,それらがないまぜとなりつつ新たな偏見差別を形成したことは第1節第4の3ウ,同4

2
厚生大臣及び厚生労働大臣の各種作為義務(争点1

エ)

のとおりである。

先行行為から導かれる作為義務の範囲,程度(争点1エ

被告は,前記1

記載の先行行為により,前記1



のとおり,ハンセン

病患者家族が大多数の国民らによる偏見差別を受ける一種の社会構造を形成し,そのハンセン病患者家族に対する偏見差別は維持され,強固になり,ハンセン病患者家族に差別被害を発生させ,また,家族関係の形成阻害を生じさせた。
かかる差別被害の実情として,第1節第4の3
,同イ

オ,同4

エ,同


,第1節第7の1で説示したとおり,①就学拒否や学校での
いじめ及び村八分による人格形成,人格陶冶,人格維持に必要な最低限度の社会生活の喪失,②就学拒否やいじめによる健康で文化的な生活を送る上で必要不可欠な学習の機会の喪失や心身の健全な発達や知性情操道徳性社会性等の調和のとれた円満な人格形成の機会の喪失,③離婚や婚約関係の破たんといった結婚差別によって自己実現及び幸福追求の基盤として極めて重要な意義を有する婚姻関係や共同生活の喪失,④就労拒否による自
己実現の機会の喪失や経済的損失,⑤家族という社会生活を送る上での基本事項について重大な秘密を抱えたために,また,様々な差別があるために,進路や交友関係等多岐にわたって人生の選択肢が制限されたことによる人格形成や自己実現の機会の喪失,⑥ハンセン病患者と触れ合うことへの抵抗感やハンセン病患者と家族として生活することで周囲にハンセン病
患者家族であることが知られることを避けるためにハンセン病患者を避けることで自己形成の基盤である家族関係の形成が阻害されるといったものが含まれる。これら差別被害は,個人の人格形成にとって重大であり,個人の尊厳にかかわる人生被害であり,また,かかる差別被害は生涯にわたって継続し得るものであり,その不利益は重大である。そのうちでも家族
関係の形成阻害による被害は,第1節第7の2⑵で説示したとおり,家族との同居や自由な触れ合いによって得られたはずの安定した生活の喪失,心身の健全な発達や知性,情操,道徳性,社会性などの調和のとれた円満な人格形成の機会の喪失であり,人格形成に重要な幼少期に親が隔離された場合などには,人格形成に必要な愛情を受ける機会を喪失し,かつ,かかる喪失によって生じた不利益は回復困難な性質のものである。

このとおり,ハンセン病患者家族は,ハンセン病隔離政策等によって,色々な差別被害を受けるとともにハンセン病患者家族が家族であるハンセン病患者と同居することができないなどの,憲法13条が保障する,社会内において平穏に生活する権利や憲法24条1項の保障する夫婦婚姻生活の自由を侵害されており,ハンセン病隔離政策等を所管した厚生大臣をはじめとして所管の大臣は,条理上,ハンセン病患者家族に対し,癩予防ニ
関スル件以来のハンセン病隔離政策等を先行行為として,以下に検討するとおり相応の作為義務を負う。
新法廃止を含む隔離政策の抜本的転換義務の存否(争点1エ



沖縄以外の地域について
前記1


のとおり,昭和35年以降のハンセン病隔離政策等の遂

行は,ハンセン病患者家族の社会内において平穏に生活する権利等を侵害するものとして許されないし,内務省からハンセン病隔離政策等の所掌事務を引き継ぎ,伝染病予防業務の指導監督,療養所並びにハンセン病予防及び治療に関する調査研究を所掌事務とし(前提事実第3の2),ハンセン病隔離政策等の遂行に当たり主な政策を実際に実施してきた厚生省の長である厚生大臣としては,職務上通常尽くすべき注意義務として,遅くとも昭和35年の時点において,ハンセン病隔離政策等の遂行を先行行為とする作為義務として,ハンセン病隔離政策等の廃止義務があったといえる。

同義務の内容としては,これまでに説示したハンセン病患者家族の社会内において平穏に生活する権利等の侵害を考えると,昭和35年以降,全てのハンセン病隔離政策等の実施を廃止して,その廃止を表明すべきである。そしてそのためには,まず,療養所への新規入所を廃止するとともに,すべての入所者に対し,自由に退所できることと自由に外出できることを明らかにする相当な措置を採るべきであった。
より具体的には,まず,新法6条は,機関委任事務として,各都道府県知事にハンセン病患者に対する入所勧奨,入所命令及び直接強制の権限を付与するものであり,厚生省が包括的な指揮監督権を有し,実際に厚生省が各都道府県知事に対しハンセン病患者を療養所に入所させるよう各通知(前提事実第4の3,同4

カ)等によって指示してきたの

であるから,上記相当な措置には,各都道府県知事に対し,上記指示を撤回し,全てのハンセン病患者に対して入所勧奨をすることが許されない状況に至ったことを周知し,各都道府県において入所勧奨が実施されないよう指揮監督すべきことが含まれる。
そもそも,新法6条が各都道府県知事に入所勧奨等の権限を付与して
隔離政策を実現しており,新法6条自身を廃止する必要があるなど,ハンセン病隔離政策等の廃止には,ハンセン病隔離政策等に当たって各都道府県知事に権限を付与した新法の各条項(従業禁止条項,消毒条項等)を廃止する必要があった。
そのため,厚生大臣は,主任の国務大臣として(前記

),実際には

平成8年の新法廃止までしていないが,早急に廃止法案を作成して閣議請求(国家行政組織法11条)をする等の諸手続を採るべきであった。もっとも,ハンセン病患者家族に対する関係で新法を廃止することが主任の行政事務(国家行政組織法11条)といえるか疑義がないわけではない。しかし,①新法が内閣の法案提出により成立したものであり(第
1節第2の6

),厚生大臣は,昭和28年の新法制定を審議した国会

において,当時既にスルフォン剤により治癒するようになっており,スルフォン剤が日本国内においても普及していたにもかかわらず,根治が極めて困難で隔離以外にハンセン病予防の方法がないと説明していること(第1節第2の6),②新法制定の審議やその後の国会審議において厚生省の担当者が隔離政策を含む新法の必要性を説き続けたこと(第1節第2の6

,同,第1節第3の1⑵),③新法廃止には,ハンセ
ン病医療を所管し,国内外におけるハンセン病の専門的な医学的知見や詳細な治療の実態に関する情報を入手可能な厚生省の積極的な作業が必要とされ,前提事実第4の5,第1節第3の2及び同3に説示した平成8年の新法廃止の経過によれば,実際にも,厚生省が新法廃止について重要な役割を果たしたことからすれば,厚生大臣は,上記のとおり廃止法案を作成して閣議請求をする諸手続を採るべきであった。
このように,厚生大臣は,職務上通常尽くすべき義務として,遅くとも昭和35年以降,新法廃止するための法案を閣議請求する諸手続を採るべき義務を負っていた。

また,ハンセン病隔離政策等の廃止義務を尽くすためには,上記のとおり,各通知や新法を廃止するだけではなく,そもそも偏見差別が生じたのは,これまで説示したとおり,ハンセン病隔離政策等によってハンセン病を特別な病気と扱ったことに大きな原因があるのだから,ハンセン病を特別扱いするのではなく一般の病気(伝染病)と同様に扱うこと
が必要となる。すなわち,ハンセン病については,京都大学の大学病院等のほんの一部の病院を除くと療養所以外で入通院治療ができない(前提事実第4の4

ア)などの特別な扱いがされており,それらの扱いを

解消することで国民らのハンセン病に対する意識を変えなければならない。
したがって,厚生大臣としては,昭和35年以降,医療制度においてハンセン病を一般の病気(伝染病)と変わらないようにし,それを周知させるため,少なくとも,療養所以外の一般の医療機関において入通院治療が受診できるようにし,そのことを国民らに宣伝,広報すべき義務があった。
なお,偏見差別を除去する政策を施す偏見差別除去義務(偏見差別除去啓発活動)については,後記⑶において検討する。これに反する被告の主張は,次のとおりいずれも採用できない。
a
被告は,国会が新法廃止の作為義務を負わない以上,厚生大臣も新法を廃止するための法案を閣議請求すべき義務はないと主張するが,後記第4の2のとおり,国会の新法(特に隔離規定)廃止義務が認められる以上,被告の主張は前提において理由がない。

b
被告は,新法を中心としたハンセン病隔離政策等はあくまでハンセン病患者を対象にしており,同政策等の抜本的転換義務はハンセン病患者に対し負ってもその家族に対しては負わないと主張する。確かに,ハンセン病隔離施策等に係る法令の多くの名宛人は患者であった。しかし,前記1

アcのとおり,被告(内務省,厚生省)は,ハンセ

ン病を恐い伝染病として宣伝し,国民らをハンセン病に対し神経質にさせ,しかも,その病気に罹患した患者の家族に対しても特別な措置を用意し,大多数の国民らに,ハンセン病患者家族を潜在的感染者等との理由で危険,劣等な人物と認識させる政策を実施し,偏見,差別意識の形成に大きく関わったのだから,被告(内務省,厚生省)は,
ハンセン病患者だけでなく家族に対しても,上記の廃止義務を負うべきである。
c
被告は,国民らがハンセン病隔離政策等によってハンセン病患者家族を潜在的感染者であると誤信したことで偏見が生じたのだから,被
告は,この誤った認識を除去するためハンセン病の正しい知識を周知させる義務を負うにすぎないと主張する。しかし,被告は,上記のとおり,ハンセン病患者家族に対する偏見,差別意識の形成に大きく関わり,しかも,前記1イのとおり,同家族はそれによって社会内において平穏に生活する権利侵害等,さらに,それによる差別被害等を受けているのだから,ハンセン病患者家族との関係でも正しい知識を周知されるだけではなく前記及び

d
の義務を負う。

被告は,内閣の法案提出は立法準備行為にすぎず,当該法案に沿った法律が成立するか否かは国会に委ねられているから法案の閣議請求も法的義務といえない旨の主張をする。しかし,新法の廃止法案は,新法がハンセン病治療及び感染予防を目的とする法律である以上,ハ
ンセン病や感染症予防に対する医学的知見の理解や国際情勢についての知見が必要であるところ,上記知見を有さない国会や他の行政機関と比べ,厚生省はハンセン病や感染症予防を所掌事務としこれらに関する医学的知見や国際情勢を収集できるのだから(前提事実第3の2),国会審議で,新法廃止に理由があって存続には理由がないこと
を医学的知見や国際情勢に基づいて説明すれば廃止法案が成立する蓋然性が高く,前記のとおり,ハンセン病患者家族の社会内において平穏に生活する権利等が侵害され差別被害を受けていることを踏まえれば,厚生大臣には閣議請求をする法的義義務があった。
なお,新法制定過程において,厚生省がハンセン病患者家族に対す
る検査の強制を患者家族という理由だけで実施することはできない旨を説明してもこれを求める議員がいたこと(第1節第2の6

オ)や,

昭和57年3月18日衆議院社会労働委員会において議員からハンセン病が新薬の開発によって外来治療で完治するから新法が憲法違反である旨指摘され,厚生大臣はハンセン病患者の強制隔離の不当性を認めていたのに諸般の事情から新法廃止に至らない事情が窺えること(第1節第3の1,同

)からすると,昭和35年以降においても,
単に廃止法案が提案されたとしても,国会では,新法の存続や強化を求める発言がなされた可能性はないわけではない。しかし,これらは,新法制定時の国会審議で厚生大臣が,新法の提案理由について,ハンセン病を根治が極めて困難で予防には患者を隔離する以外に方法がないと説明したこと(第1節第2の6

),昭和57年に新法廃止に

至らなかった件についても,厚生省の担当者が隔離政策を肯定する説明したこと(第1節第3の1⑵)などが影響した可能性があり,厚生省が,ハンセン病の感染予防に隔離政策が必要なく,治療によって後遺症を残すことなく治癒し,新法を廃止してもハンセン病患者の治療や公衆衛生に何ら支障がないことを説明すれば,ハンセン病隔離政策
等が医学的に誤りであって,不要な政策によってハンセン病患者の基本的人権が侵害されていることが明白となり,その上で厚生大臣が新法廃止法案を閣議請求すれば,新法の廃止法は成立に至ったといえる。最高裁判決(最高裁平成4年(オ)第255号同7年12月5日第三小法廷判決・集民177号243頁,最高裁昭和58年(オ)第1
337号同62年6月26日第二小法廷判決・集民151号147頁)は,立法について固有の権限を有する国会ないし国会議員の立法行為や立法不作為が違法とされない以上,国会に対して法律案の提出権を有するにとどまる内閣の法律案不提出等の行為についても,これを国賠法1条1項の適用上違法とする余地はない旨判示するが,国会ない
し国会議員の立法行為や立法不作為が違法とされなかった点が本件とは異なるし,これらの事案は,いずれも,本件のように,憲法上保障された権利を制限する法律の成立や存続について,その法律を所管する行政機関がその必要性を説いたことが大きな影響を及ぼし,当該法律が廃止されなかった事例ではなく,本件とは事案を異にする。


沖縄について
前記アで説示したことは本土復帰後の沖縄についても変わらない。前提事実第5の3,第1節第4の4イ

のとおり,沖縄においても,昭和4

7年5月15日の本土復帰以降,在宅治療制度はあるものの,概ね本土と同様の隔離政策が継続されており,前記アのハンセン病隔離政策等の廃止義務の対象が存在した。

したがって,厚生大臣は,沖縄との関係においては,昭和47年5月15日以降,ハンセン病隔離政策等の廃止義務を負っていた。


家族被害回復に向けての作為義務の存否(争点1

偏見差別除去義務について(争点1エ




a)

原告らは,偏見差別除去義務は,ハンセン病患者家族にとって家族関係形成の物理的・心理的障壁の解消の一内容と位置付けており(当事者の主張1
前記


ア),それについて検討する。

イのとおり,被告によるハンセン病隔離政策等の遂行によって,

ハンセン病患者家族に差別被害が生じ,ハンセン病患者家族の憲法13条の保障する社会内において平穏に生活する権利や憲法24条1項の保障する夫婦婚姻生活の自由が侵害されたことから,このハンセン病隔離政策等の遂行を先行行為として被告が当該権利等の侵害を除去する作為義務を負う。そして,第1節第4の3及び4で説示したとおり,ハンセン病隔離政策等によって,古来のハンセン病に対する疾病観と異なる疾
病観が多くの国民らに植え付けられ,また,因習による疾病観のままの国民らも隔離収容されるハンセン病患者の家の家族等との理由から,従来とは異質のハンセン病患者家族に対する嫌悪感,忌避感,排除意識が形成され,ハンセン病患者家族に対する差別被害が生じ,ハンセン病隔離政策等が戦前から戦後に亘り長年継続したため(戦後の沖縄につい
てはそれに準じた政策),ハンセン病患者家族に対する偏見差別が維持(場合によっては強化)され続け,ハンセン病隔離政策等がなければ,科学の発達や教育水準の向上により消滅するか,少なくとも縮小していたところ,ハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別は,ハンセン病隔離政策等が継続されたため,新法が廃止された平成8年頃までほぼ大多数の国民らの間に共通認識として存続した(第1節第4の4カイ


)。

このように,ハンセン病患者家族の偏見差別に対するハンセン病隔離政策等が及ぼした影響は重大であり,ハンセン病隔離政策等を遂行してきた被告は,ハンセン病隔離政策等の遂行を先行行為として,条理上,ハンセン病患者家族に対する偏見差別を除去する義務をハンセン病患者家族との関係でも負わねばならない。そして,前提事実第3の2のとおり,厚生省は,ハンセン病を含む伝染病の伝ぱ及び発生の防止やハンセン病の予防及び治療に関する調査研究等を所掌事務とし(平成13年1月16日以降においては厚生労働省),実際にも,このハンセン病隔離政策は,内務省,厚生省が主任として行政事務を行っており,昭和3
5年(沖縄は昭和47年)以降,厚生省の長である厚生大臣が偏見差別の除去を行わねばならない。もちろん,この偏見差別除去の観点からも,昭和35年(沖縄は昭和47年)以降にハンセン病隔離政策等を遂行することは違法となる。
ところで,医学の進歩は著しく,ハンセン病についても第1節第1の
2
イのとおり進歩がみられるため,平成8年以降もそれまでと同じ程
度の偏見差別除去義務で足りるのか疑義があるため,それについて検討する。
これについては,前記

で説示したとおり,昭和35年(沖縄は昭和

47年)以降のハンセン病隔離政策等の遂行は違法であったが,そのことは,第1節第1の2イのとおり,昭和35年(沖縄は昭和47年)以降,ハンセン病治療の進歩等により,年々,ハンセン病隔離政策等を廃止すべきであることがより明確となっており,年々,ハンセン病隔離政策等を放置することの不当,違法が明白になったといえる。そもそも,厚生大臣は,昭和39年に厚生省公衆衛生局結核予防課が作成したらいの現状に対する考え方に記載のとおり,当時既に医学的知見と世間一般のハンセン病に対する認識とにかい離が生じており社会一般のハン
セン病に対する恐怖心が極めて深刻であって,強力な啓蒙活動が必要であることを認識していたはずであるし(第1節第1の2

ア),しかも,

昭和35年(沖縄は昭和47年)以降,新法を廃止しハンセン病隔離政策等を止めることを検討するのに十分な機会と時間があったわけであり,にもかかわらず,厚生大臣が,平成8年の廃止法成立に向けた諸手続を
取るまでハンセン病隔離政策等を廃止せずに,ハンセン病患者家族に対する偏見差別が発生する状況を長年に亘って放置してきたことになる。しかも,第1節第7の1に記載されたハンセン病患者家族に加えられる差別被害の状況を踏まえると,ハンセン病患者家族に対する偏見差別を実際には存在してもそれは例外として無視できるほどに除去するこ
とは容易でなく,厚生大臣(平成13年1月16日以降においては厚生労働大臣)には,平成8年以降,より高い偏見差別除去義務が課せられる。
偏見差別除去義務を以上のとおりとして,原告らの主張する,個別の家族被害回復に向けての作為義務について次に検討する。


ハンセン病患者家族も隔離政策の被害者であることの公表・謝罪義務(争点1


a)

原告らは,被告がハンセン病患者家族に対する加害主体であることの公表及び謝罪をする義務があると主張する。
しかし,昭和34年以前の被告のハンセン病隔離政策等に係る行為は,昭和35年(沖縄は昭和47年)以降の作為義務の先行行為を構成しても,それ自体が違法とはいえず,そうである以上は,昭和34年以前の行為について加害主体であることを認める義務や,それを前提に謝罪をする義務まで認めることはできないから,昭和35年(沖縄は昭和47年)の時点でかかる法的義務があったと認めることはできない(昭和34年以前のハンセン病隔離政策等の遂行行為を先行行為として昭和35年(沖縄は昭和47年)以降に作為義務が生じることとは別の問題である。)。
一方,前記のとおり,厚生大臣(平成13年1月16日以降においては厚生労働大臣)には,偏見差別除去義務が認められるところ,そもそも,偏見差別を受けるということは,大多数の国民ら又は多くの国民らから同
じ範疇にあると理解されず排除され,負の価値を付けられて見下されることを意味する(甲A97~99)。ハンセン病患者家族は,ハンセン病隔離政策等により,周囲から忌避,排除され,色々な疾病観,戦時思想や優生思想等が要因となり劣等な存在として社会的評価を減ぜられてきたわけであり,偏見差別の被害を受けたハンセン病患者家族は減ぜられた社会的
評価を回復しなければ,偏見差別は解消されない。
したがって,ハンセン病患者家族に対する偏見差別を除去するためには,社会的評価の回復が必要であり,そのため,ハンセン病隔離政策等を遂行してきた厚生大臣によって,戦前からの被告による不当(昭和35年(沖縄は昭和47年)以降は違法)なハンセン病隔離政策等が原因でハンセン
病患者家族に対する偏見差別を形成,維持,さらには強固にしたことを明らかにした上,そのことについての謝罪とその周知がされる措置を取ることが必要であり,この限度で,厚生大臣(平成13年1月16日以降においては厚生労働大臣)は,昭和35年(沖縄は昭和47年)以降,謝罪とその周知の義務が認められる。

その周知方法については,強制的な面があり時代背景も違う無らい県運動と同じようにすることは困難であるが,マスコミの発達に応じてマスコミ媒体,インターネット等を使ってそのことを宣伝するほか,各住戸にその旨を知らせるチラシを配り,各職場,町内会,自治会,老人会等を訪れて広報活動をすることを要し,しかも,平成8年以降は,アンケート調査をしてその効果を確認し,浸透していない場合には,頻回に宣伝,広報すべきだった。


ハンセン病患者家族に対する正しい知識の教示及び啓発義務(争点1エ
b)

これまでに説示したとおり,ハンセン病患者及びその家族に対し,ハンセン病隔離政策等による隔離収容等の行為と強烈伝染病の宣伝による偏見差別や上記の隔離収容等と外貌の醜状や変化や因習による疾病観等が結び付いた偏見差別が広がったのだから,その偏見差別を除去するには,誤った認識や印象を是正することが必要である。そこで,厚生大臣,厚生労働大臣は,ハンセン病に関する正しい知識が普及するよう相当な措置を取ることは最低限必要になる。前記ア

のとおり,科学の発達や

教育水準の向上により,ハンセン病隔離政策等がなければ消失又は縮小していたはずの因習,古来の偏見差別,外貌の醜状や変形による偏見差別がハンセン病隔離政策等によって新たな偏見,差別意識を生み,ないまぜになって広がり根付いたことからすれば,普及の対象としては,本来は,単に,ハンセン病隔離政策等の際に被告(内務省,厚生省)が説
明してきた内容に間違いあったことにとどまらず,それぞれの時点において,厚生省が把握可能なハンセン病患者家族に対する偏見差別に繋がるハンセン病に関する正しい知識が含まれる。もっとも,人権啓発については厚生省の所掌事務ではないため,厚生大臣(平成13年1月16日以降においては厚生労働大臣)は,これまでの内務省,厚生省の行っ
てきたことの謝罪に加え,ハンセン病に関する正しい知識の普及までは義務を負わねばならないが,それ以上に人権啓発義務まで負うということはできない。
具体的にみると,当時の誤った認識や印象として,ハンセン病が隔離の必要な恐ろしい伝染病でハンセン病患者家族も感染している可能性が高いとか,ハンセン病患者家族にハンセン病やハンセン病にかかりやすい体質が遺伝しているといった誤った認識や印象があったこと(第1節第8)を説明し,また,第1節第1の2記載の事情からすれば,昭和35年(沖縄は昭和47年)の時点においては,ハンセン病は,病気やかかりやすい体質が遺伝することはなく,感染し発病に至るおそれが極めて低い感染症であり,隔離が必要な特別の疾患ではない上に,ハンセン
病が医学の進歩によって治癒するようになったことや,治療後のハンセン病患者やハンセン病患者家族から感染することがなく,治療後のハンセン病患者及びハンセン病患者家族が社会内や家庭内で生活し,乳幼児を含めて濃密な接触をすることに公衆衛生上何ら問題がないことを説明すべきであった。なお,厚生省は,新法制定時において,治療後のハン
セン病患者であっても,伝染させるおそれは残ると解釈していたものの(第1節第2の6),この解釈は,遅くとも昭和35年当時の医学的知見や国際情勢に反したものであり,昭和35年当時の医学的知見に従えば,治療後のハンセン病患者が公衆衛生上感染源といえないことは明らかであった。

ハンセン病の正しい知識の普及に当たっての周知方法は,ハンセン病患者家族に対する偏見差別が戦前戦後に全国津々浦々で実施された無らい県運動によって作り出され続いたものであるから(戦後の沖縄においても隔離政策はしばらく続いた。),強制的な面があり時代背景も違う無らい県運動と同じようなことは困難であるが,マスコミの発達に応じ
てマスコミ媒体を使ってそのことを宣伝するほか,各住戸にその旨を知らせるチラシを配り,各職場,町内会等を訪れて広報活動をすることを要する。しかも,平成8年以降は,アンケート調査をしてその効果を確認し,浸透していない場合には,頻回に宣伝,広報すべきといえる。なお,この正しい知識を普及すべき相手方には,ハンセン病患者家族も当然に含まれる。
ところで,前記アのとおり,平成8年以降については,厚生大臣,
厚生労働大臣は,医学的知見と世間一般のハンセン病に対する認識のかい離がより明確となり,他方でハンセン病患者家族の差別被害は引き続きあることから,高度な偏見差別除去義務を負う。特に,正しい知識の教示等義務に関しては,厚生省においても,平成7年には,第1節第1の2

イ及びウのとおり,ハンセン病が早期の治療で後遺症を残すこ

となく容易に治癒するもので,何千何万と存在する感染症の一つにすぎず,特別の予防や医療は不要であることを明確に把握した。そうすると,厚生大臣(平成13年1月16日以降においては厚生労働大臣)は,ハンセン病患者家族との関係において,前記

に加えて,ハンセン病の正

しい知識の普及の内容として,ハンセン病が在宅の服薬治療のみで後遺
症を生じることなく早期に治癒する疾患であり,他の伝染病予防と異なる特別の予防は必要なく,当時社会一般に求められていた衛生環境を維持すれば足り,治療中のハンセン病患者であっても感染源とならず,公衆衛生上も問題なく社会で生活できることを説明し,引き続き前記

普及活動を行うべきであった。


家族関係回復の政策的位置づけ義務(争点1エ

c)

原告らは,厚生大臣及び厚生労働大臣が被告,地方公共団体及び地域社会の責任に関する啓発運動を地方公共団体と共同して展開する義務を負うと主張するが(争点1エ
c⒜),厚生大臣及び厚生労働大臣に,

被告が不当,違法な政策を実施したことの謝罪とその周知をすべき義務が認められることは前記イに説示したとおりであるが,現行法上,主体の異なる地方公共団体や地域社会の責任についてまで判断してそれを啓発する義務を認めるべき根拠は見当たらず,かかる義務を認めることはできない。
原告らは,厚生大臣及び厚生労働大臣は,ハンセン病患者とハンセン病患者家族との同居あるいは地域社会における継続的かつ円滑な交流を可能とする基盤としての,在宅医療・在宅介護等の医療・福祉制度の整備を行い,ハンセン病患者とその家族との家族関係の回復・修復を支援し,ハンセン病患者及びハンセン病患者家族と医療機関及び行政機関との連絡調整を行う社会福祉士や精神保健福祉士を各療養所及び各都道府
県に配置する義務を負うと主張する(争点1エ

c⒝)。

これについては,ハンセン病一般に対する在宅治療を実現すべきについては,既に前記⑵アにおいて認めたとおりである。これらの他の原告らの主張する義務について検討するに,まず,被告のハンセン病隔離政策等によってハンセン病患者家族の家族関係を形成する権利が侵害された以上は,かかる権利侵害を除去する義務が認められるのは当然であるものの,ハンセン病隔離政策等の廃止義務及び偏見差別除去義務によってその阻害要因は除去されるし,前記の在宅治療を利用できない制度的欠陥があったことを除いては,被告は,在宅医療や在宅介護等の公私の医療福祉制度の利用を何ら阻害しておらず,既存の
医療や福祉以上の制度をハンセン病患者やその家族のため