判例検索β > 平成29年(わ)第1077号
事件番号平成29(わ)1077
裁判年月日令和2年2月7日
裁判所名・部東京地方裁判所  立川支部
裁判日:西暦2020-02-07
情報公開日2020-03-23 15:29:56
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主文
被告人は無罪
理1由
本件公訴事実の内容と争点
本件公訴事実は,被告人は,平成29年1月13日午後11時10分頃から同日午後11時30分頃までの間に,東京都町田市ab丁目c番d号e号室被告人方において,A(当時生後1月)に対し,その頭部を揺さぶるなどの暴行(以下,単に「揺さぶる暴行ともいう。)を加え,同人に蘇生後脳症の後遺症を伴う急性硬膜下血腫,脳浮腫,左眼網膜出血,多発性肋骨骨折等の傷害を負わせ,よって,同年3月22日午前4時3分頃,搬送先の相模原市f区gh丁目i番j号B病院において,同人を前記傷害に起因する肺炎により死亡させたものである。」というものである。
被告人は,Aに対し,公訴事実に記載されているような揺さぶる暴行を加えた事実はない旨,捜査の当初から一貫して供述していたのに対し,検察官は,上記の各傷害は,身体をつかまれ,揺さぶられるなど,頭部に振り子のような回転性の外力が加わり,頭蓋内で脳が揺れるとともに,首が過度に屈曲したことによって生じたものであり,Aが受傷した時間帯に,そのような外力を加えることができたのは被告人だけであるとし,被告人の上記供述は信用することができない旨主張した。
当裁判所は,証拠を検討し,被告人が,Aに対して揺さぶる暴行を加えたと認定することはできないと判断したので,以下,その理由について説明する。
2
本件の事実経過やその評価
関係各証拠によれば,以下の事実が認められ,検察官,弁護人も概ね争っていない。


Aは,被告人と被告人の当時の妻(以下元妻という。)との間の

子供として平成▲年▲月▲日に生まれ,平成29年1月13日(以下,本件当日ともいう。)当時,生後約1か月であった。


Aについては,出生時,退院時及び1か月健診時(平成29年1月12日)のいずれにおいても,医師等から健康上の問題が指摘されたことはなかったが,同年1月6日,元妻は,Aに鼻が詰まってゼーゼーいう風邪のような症状があったことから,小児科を受診したことがあった。また,同年1月11日頃から,泣いた後や,ミルクを飲んだ後に,一,
二分ほど,Aの顔色が白っぽくなることがあったため,元妻や被告人はその症状を気にかけ,1か月健診時に医師に相談するなどしたが,医師からは様子を見るように言われただけだった。そして,本件当日の午後4時45分頃にも同様の症状が出たため,被告人が医師に見せるためにAの顔の写真を撮るなどした。


健診の際,医師からAの外出を許可されたこともあり,被告人,
元妻及びAは,本件当日午後7時05分頃,交際を始めてから1年であることや初めての3人での外出のお祝いを兼ねて自宅近くのショッピングモールで飲食をするために出かけ,買物などもして,同日午後9時27分頃帰宅した。帰宅後,元妻は,Aを沐浴させて授乳し,被告人は,同日午後10時頃入浴した後,身体を冷ますため,いつものようにベランダで缶チューハイを飲んでいた。
元妻は,同日午後11時10分頃,それまで泣いていたAがほぼ泣き止んで落ち着いたことから,Aをリビングにあるベッドに寝かせ,入浴した。その際,元妻は,Aが吐き戻したミルクをのどに詰まらせることがないよう,Aの背中の下に丸めたバスタオルを敷き,顔が横を向くようにしたり,寒くないように布団をかけたりするなど,いつものようにベッドの状態を整えた。さらに,元妻は,入浴中にAが泣いたときに気付くように,浴室の扉や脱衣所とリビングの間の扉を開けていたが,入
浴中,Aの泣き声は聞こえなかった。


同日午後11時30分頃,元妻が入浴を終えリビングに戻ったところ,
Aの顔が見たことのないぐらい真っ白になっていたため,元妻は,叫び声をあげた。このとき,Aの体勢やベッドの状況は,自分が入浴前に整えたものと変わった様子がなかった。
元妻の声を聞いた被告人がベランダからAのもとに駆け付けると,被告人は,Aをベッドからカーペットの上に降ろして,元妻に119番通報するように指示し,大人にするのと同様に両手の平を広げて重ね,仰向けのAの胸に当てて,強く押し,心臓マッサージをしたり,直接口と口を付け,空気を送り込む方法で人工呼吸を行ったりした。その際,Aは何度も多量のミルクを吐き戻した。
その頃,元妻がAの心音を確認したが,心音は聞こえず,呼吸もしていなかった。
被告人は,Aをキッチンに移動させ,シンクとガスコンロの間のステンレス製の調理台(以下調理台という。)に,下に何も敷かないまま,Aを置き,再び同様の方法で心臓マッサージをした。その途中,119番通報でつながっている相手から,指2本で心臓マッサージを行うよう指示されたため,指2本を重ねて押す方法で心臓マッサージを続けた。⑤

同日午後11時42分頃,救急隊が到着した際,Aは心肺停止状態で,自発呼吸がなかった。救急隊は,鼻からミルクを吸引したほか,口中にあったミルク様の乳白色の吐物を吸引した。



翌14日午前零時03分頃,AはB病院に運ばれ,心肺蘇生法,気管挿管,輸液ルート確保,アドレナリンの投与の結果,同日午前零時19分心拍が再開したが,その後脳死に近い状態となり,同年▲月▲日,肺炎により死亡した。



同年1月14日午前零時30分頃に撮影されたAのCT画像によれば,
右側頭部皮下出血,多発性急性硬膜下血腫,脳浮腫,多発性肋骨骨折が認められ,同日,左目の眼底に多発多層性網膜出血も確認された。さらに,同月30日に撮影されたMRI画像によれば,右側頭部に硬膜外血腫とみられる所見が認められ,延髄及び頸髄にも損傷(壊死)が認められた(以上のAの負った傷害を併せて,本件各傷害という。)。


Aには本件各傷害を生じるような内因性の疾患はなかった。
また,1か月健診の際も,救急搬送時も,Aの身体には,虐待を疑わ
せるような外傷などは認められなかった。
本件については,被告人が揺さぶる暴行を加えたことを認定し得る直接の証拠はないところ,上記に認定した本件の経過等からすれば,Aが生まれてから本件当日までの間に,被告人が,揺さぶり行為はもちろん,Aに対して暴力的な行為に及んだ形跡は何ら認められない。元妻の証言によれば,被告人が生まれたばかりの子供の扱いに慣れていなかった時期には,やや粗雑に扱うことや,周囲から見ていて危険を感じるような方法であやすこともあったが,それもおよそ暴力的とはいえない態様であるし,本件当日に至る事実経過をみても,夫婦げんかをしていたとか,Aが大泣きするなどといった被告人がストレスを感じるような状況もなく,被告人が暴力的行為に及ぶ原因となるような事情は証拠上うかがわれない。それどころか,本件当日は記念日を祝うために,初めて家族3人だけで外出をし,外出前にも被告人がAの顔色の変化を心配して写真を撮るなど,Aの容体急変まで家族円満に過ごしていたことが認められるし,元妻の入浴中に,Aが激しく泣いているなど突然の暴行のきっかけとなるような状況もうかがえない。さらに,元妻が入浴後に容体が急変したAを発見した際,Aの体勢やベッド上の布団等の状態は,元妻が入浴前に整えた状態から一見して変化はなかったと述べていることも,被告人がAを抱きかかえ,揺さぶる暴行を加えたという推認を妨げる事情である。

そうすると,本件の経緯等の事実関係からは,被告人がAに対し,揺さぶる暴行を加えたことをうかがわせる事情は見当たらない。
そこで,次に,Aについて生じた本件各傷害の機序について,検討を加える。
3
本件各傷害の発生機序について
検察官の主張
検察官は,本件各傷害は,揺さぶりによる振り子のような回転性の外力によって生じたものとしか説明できないと主張し,その根拠として,①多発性急性硬膜下血腫が脳表と硬膜をつなぐ架橋静脈の破断によって生じたものであることからすると,頭部に回転性の外力が加わり,頭蓋内で脳が激しく揺れたと考えられること,②延髄及び頸髄の損傷状況からすると,頭部に加わった振り子のような外力により首が前後に大きく振られる力が加わったと考えられること,③脳浮腫が左右非対称でまだらであることなどからすると,呼吸停止による低酸素の影響だけではその機序を説明することができず,頭部への外力,それによって生じた急性硬膜下血腫によって,脳浮腫の一部が生じたと考えられること,④網膜出血が3層以上に及ぶ多層性のものであり,両手で数え難いほどの多発性のものでもあることからすると,脳が激しく揺さぶられたことで硝子体が何度も引っ張られて生じたものと考えられること,⑤肋骨骨折は,前後左右合計14か所にも及んでおり,とりわけ背部肋骨骨折は,大人が乳幼児の身体を掴んで揺さぶる際に骨折しやすい反面,心臓マッサージによっては骨折しにくいこと,などを挙げている。
以下において,検察官の主張する本件各傷害の発生機序を踏まえ,被告人がAに揺さぶる暴行を加えたと認定することができるかについて,個別に検討する。
多発性急性硬膜下血腫

この点につき,小児脳神経外科医である証人Cは,Aの右側頭部には皮下出血があり,同所への打撲により頭皮下出血と一部の硬膜下血腫が生じたと考えられるが,複数の場所から出血していることや,出血の部位(大脳鎌,右小脳テント,大脳半球間裂など),脳浮腫の状況,更には頸髄及び延髄の損傷状況も併せ考えると,頭部の振り子運動により脳の架橋静脈から出血し,硬膜下血腫が生じたと考えられる旨述べ,結論としては,Aの頭部が揺さぶられたことによって多発性急性硬膜下血腫が生じたと考えられると証言している。そして,小児科医である証人Dも,揺さぶりによって乳児の頭部が前後に揺れると脳に回転力が加わって頭蓋内で前後に動き,静脈洞につながる架橋静脈が引き伸ばされ,破断して出血を起こすが,Aの出血部位は,架橋静脈が分布している部分に一致しているため,出血の原因は,回転性の外力によって架橋静脈が切れたと判断していると述べ,結論的には証人Cと同様の機序を証言している。
他方,脳神経外科医である証人Eは,皮下血腫・硬膜外血腫が認められる右側頭部への打撲のみによっても,多発性硬膜下血腫は説明可能であるという。すなわち,右側頭部の対側外傷として,脳が円蓋部の硬膜に当たり,出血するとともに,同様の機序で,右側頭部への打撃の影響で,脳が大脳鎌(右脳と左脳を仕切っている硬い膜)の右側や小脳テント(大脳と小脳を仕切っている硬い膜)にぶつかり,その際,脳挫傷が生じて硬膜下血腫ができた可能性がある,頭部打撲により脳が大脳鎌や小脳テントにぶつかることにより硬膜下血腫が複数生じた患者は多数経験があるし,CT画像上脳挫傷がなくても,開頭術を行って脳の表面を見たときに小さな脳挫傷があるということはしばしば経験すると証言している。
証人C及び証人Eは,高度の専門知識と豊富な臨床経験を有する脳神経外科医であり,自身の経験に依拠した説明内容に特段不合理といえる点はない。証人Eは,小児を専門とする脳神経外科医ではないものの,その実
績に照らしても十分な専門性を有しており,証人Cと同様にその信用性は高い。そして,C及びE両証人の証言や証人Dの証言を踏まえると,Aに生じた硬膜下血腫は,架橋静脈が破断したことにより生じた可能性は十分に認められる。しかしながら,Aの頭部には打撲の痕跡があること,証人Cも,証人Eの説明する機序から一部の硬膜下血腫が生じうること自体は認めていることからすれば,証人Eが述べたように,Aに生じた硬膜下血腫が,打撲によって生じた可能性も考え得るところである。そして,すでに認定した本件の事実経過をみれば,Aの状態を見て冷静さを失った被告人が,ぐったりとしたAを抱えて場所を移動させたり,カーペットや調理台の上で相応の力を入れて心臓マッサージをしたりした際に,Aの頭部に打撃を含む何らかの外力が加わった可能性は否定できず,硬膜下血腫の状況からだけでは,回転性の外力により架橋静脈が剪断されたことによるものと断定することはできない。
延髄及び頸髄の損傷
証人Cは,MRI画像によれば,延髄部分には体の後ろ側に白い左右対称の点が見られ,頸髄部分には,体の前側に白い左右対称の点が見られるところ,これらは内部の神経線維が壊死した状態であり,これらの損傷が,首の前後にあることからすれば,首を強く前後に曲げるなどの無理な曲げ伸ばしという動きが加わったときに生じたものと考えられると述べ,また,延髄に変化が生じている部位は,呼吸中枢が存在する孤束核を含んでおり,孤束核が損傷していた場合には,呼吸停止につながる旨証言している。この点について,証人Eは,MRI画像上頸部に損傷がみられることは否定しないものの,Aは50分程度心肺停止の状態にあったことが明らかであるし,血流が止まり,虚血あるいは低酸素になったときには,頸部の神経線維が損傷して,本件のような左右対称のMRI所見を示すことがあると説明し,その上で,証人Cの説明する機序によって呼吸停止が起こる
可能性については,否定こそしないものの,外傷によってできた場合に延髄及び頸髄の損傷が左右対象に生じることはむしろ珍しいし,延髄の損傷によって呼吸停止が起きる場合は,即座に呼吸停止が起こるのではなく,次第に呼吸が衰えていく,いわゆる失調性呼吸になると考えられることからすると,本件の事実経過とそぐわないのではないかと反論した。専門的で信用性の高い両証人の証言を踏まえると,証人Cの証言するように,Aに生じた延髄及び頸髄の損傷が首の無理な屈曲運動によって生じたと考えることには合理的な理由が認められる。しかし,これに対する証人Eの説明も,医学的な根拠や症例報告に基づき,MRI画像から認められる所見を基に他の医学的な可能性を指摘するものであり,十分に考慮に値する。証人Eが,対質尋問において,証人Cから,低酸素による損傷では,血流の届きにくい頸部の中心部分が一番損傷を受けやすいが,Aの延髄の損傷部分はかなり後部ではないかと疑問を呈された際にも,延髄の場合は主たる血流の供給源は前方にあるため,血流が不足するとすればむしろ後方に出やすいと説明するなど,説得力のある反論をしていることを考慮すると,心肺停止やこれに伴う虚血や低酸素を原因として延髄及び頸髄の損傷が生じた可能性があるとする証人Eの見解にも十分な医学的根拠が認められる。
そして,本件の事実経過からすれば,被告人がAを移動させたり,調理台の上でAの心臓マッサージしたりする過程において,Aの首に力が加わったことも考えられ,証人Cの見解が,被告人の揺さぶり行為を認定する十分な根拠になるとはいいがたい。さらに,弁護人が指摘するように,証拠を精査しても,Aに生じた心肺停止や呼吸停止の原因は特定することができないところ,法医学者である証人Fは,生後2か月以内の乳児は,吐いたものが気道に入ることを防ぐために反射的に呼吸を止めた際(喉頭化学反射),そこから回復するのに失敗して無呼吸が続いてしまうことがあ
る,特に,Aには上気道感染症,3日前から繰り返していた顔面蒼白発作,ほ乳時嘔吐反復といった,無呼吸化に寄与するといわれる典型的な前駆症状があり,これによって無呼吸となった可能性があると証言し,証人Dも,乳幼児には,ALTE(乳幼児突発性危急事態)と呼ばれる現象が起きることがあり,その原因の一部は胃食道逆流現象といわれていることを証言していることからすると,Aの心肺停止の原因は,ミルクを詰まらせたこと(この可能性については,解剖医である証人G等が肯定している。)や,それに起因する喉頭化学反射の誤作動又は異常による無呼吸である可能性も指摘することができ,証人Eが述べるとおり,心肺停止を原因として,Aの頸部損傷が生じたことは否定できない。
そうすると,証人Eの説明するように,AのMRI画像に見られる延髄及び頸髄の信号変化は,心肺停止が起こったことにより生じたものであると考えることにも十分な合理性が認められ,延髄及び頸髄の損傷も揺さぶる暴行のみにより生じたことを示す傷害とはいえない。
脳浮腫
Aの脳に生じていた脳浮腫の原因として,心肺停止による低酸素虚血が影響していることについては,各医師の証言の一致するところであるし,証人C及び証人Eの証言によれば,右側頭部への打撲や硬膜下血腫が脳浮腫に影響している可能性もあることが認められる。
もっとも,いずれの医師の証言によっても,脳浮腫が直ちにAの頭部が揺さぶられたことを示すものとは認められず,脳浮腫の存在自体は,被告人が揺さぶる暴行を加えたことの根拠となる事情とはならない。
多層性・多発性網膜出血
証人Dは,揺さぶりにより眼底出血が生じる機序について,乳児の硝子体は硬く,網膜と硝子体がくっついているところ,揺さぶられることで硝子体が動き,硝子体に接着した網膜が引っ張られ,血管が破れて出血する
と説明し,揺さぶりの場合は事故のような一回的な衝撃と異なり,何度も網膜が引っ張られることから多層性・多発性の網膜出血が生じると説明している。
他方,証人Eは,低酸素などを原因として脳浮腫が生じれば,頭蓋内圧亢進が起こり,網膜の静脈が心臓側に戻れない状況になり,網膜に鬱血が起き,眼底,網膜に出血が起きるという機序によって,網膜出血が生じることがあり,このような機序により多層性の網膜出血が起こるという論文もあると証言し,証人Fもこれとほぼ同旨の証言をしている。
そして,証人Dが述べる網膜出血の発生機序には合理性が認められ,証人Dの証言によれば,Aの多層性・多発性の網膜出血は,相当程度Aの頭部が揺さぶられた事実を推認させる事情であるとは言い得る。しかしながら,網膜出血が発生した時期については証拠上特定できないことに加え,証人E及び証人Fが述べるとおり,網膜出血の機序自体は揺さぶりに限られるものとは認められないこと,救急救命医である証人Hの証言によれば,Aが緊急搬送された際,同人が眼科専門医に対し,Aの眼底写真を送付して,揺さぶりによるものかどうかの意見を聞いたところ,揺さぶり症候群も矛盾はしないが,原因特定は困難であるという回答を得たと認められることなどを併せて考えると,左目の多層性・多発性網膜出血をもって,直ちにAの頭部が揺さぶられたことを示す傷害と認めることまではできず,被告人がAに対して揺さぶる暴行を加えたと断じるには疑問が残る。多発性肋骨骨折
Aの肋骨は,右側の前部が4か所,後部が5か所骨折しており,左側の前部が5か所骨折しているところ(なお,左側の1か所については,これが他の骨折と同時期にできたものか,やや古いものかについて医師証人の間でも見解の違いがある。),この骨折について,証人Dは,心臓マッサージを実施したときに肋骨骨折が生じる可能性はごく稀であること,乳幼
児の肋骨は可塑性があり,たわんで折れにくいこと,心臓マッサージをしたときに,背中にはてこの外力が加わらないが,乳児を掴んで乱暴に前後に揺さぶった場合,てこの支点にあたる背骨と肋骨の接合部である肋椎関節の近傍にかなり強い外力が加わって折れるため,肋骨の後部骨折は,虐待の場合に生じるかなり特異的な骨折である旨証言した。
この点,証人Fや同じく法医学者として豊富な経験を有する証人Gは,心臓マッサージで背面の肋骨骨折をしたケースは記憶にないと証言をしており,心臓マッサージによって後部の肋骨が折れることが一般的な事例であるとはいえない。
しかしながら,少なくとも,両法医学者の証言によれば,心臓マッサージによってAに生じていたような多発性の肋骨骨折が生じる可能性自体はあり得ることが認められる(証人Fによれば,前部から圧迫された場合にも後部が骨折することがあり,このような骨折は,法医学上,介達性骨折として説明することができる。)。加えて,被告人が,平成29年1月13日当時,体重95kgの成人男性であること,生後約1か月のA(身長55.5cm,体重4740g)に対し,大人にするのと同様に両手で,少なくとも数分間にわたり,カーペットの上や調理台の上といった場所で心臓マッサージを行ったこと,その際,元妻の証言によっても,被告人は必死になって心臓マッサージをしており,特に手加減をしていた様子もうかがわれないことからすれば,一般に乳幼児に対して行われる心臓マッサージと比較して,非常に強い力が加わっていたことは容易に想像することができる。また,一度の機会に行われた揺さぶる暴行により,指の跡などの外傷を残すことなく,前後合計14本という多くの肋骨を同時に折ることが可能かについては疑問も残ることも考えると,心臓マッサージによってAの肋骨,特に後部の肋骨が骨折した可能性を完全に否定することはできず,肋骨骨折も揺さぶる暴行が加えられたことを示す事情とはならない(なお,
体表面の外傷について,証人Gは,肋骨が折れるほどの心臓マッサージをした場合,解剖すれば胸部の皮下出血が認められるであろうが,体表面には何もないことはあり得ると述べており,体表面に外傷がないことと心臓マッサージとは矛盾しない。)。
4
検討
3でみたように,本件各傷害を個別にみれば,いずれも揺さぶる暴行のみ
により生じたものであると断定することはできず,いずれの傷害についても,別の機序による医学的に合理的な説明が可能である。
検察官は,本件各傷害の生じた原因は,身体をつかまれ揺さぶられるなど,頭部に振り子のような回転性の外力が加わり,頭蓋内で脳が揺れるとともに,首が過度に屈曲したことにあり,その外力は本件当日午後11時10分から同日午後11時30分の間に被告人によって加えられた揺さぶる暴行であるとし,本件各傷害は被告人の揺さぶる暴行により合理的に説明できると主張しており,確かに,その主張を裏付ける相応の医学的な根拠も認められる。しかしながら,すでに検討してきた各医師の証言や見解によれば,本件各傷害の発生時期やその原因は医学的にも確定することができないのであるから,本件各傷害が被告人の揺さぶる暴行という一元的な原因で生じたと断じることには無理がある。本件のように,犯罪を証明するための直接的な証拠がなく,高度に専門的な立証を求められる傷害致死事件においては,生じた傷害結果について医学的な説明が可能かということだけではなく,本件に即していえば,被害者の年齢,事件前の被告人の暴行の有無やその態様,事件に至る事実経過,動機の有無やその合理性,事件後の被告人の言動などの諸事情を総合的に検討し,常識に照らして,被告人が犯行に及んだことが間違いないと認められるかを判断する必要がある。
そして,前述した本件の事実経過からは,被告人がAに揺さぶる暴行を加えたことをうかがわせる事情は見当たらず,Aに暴行を加えていないと一貫
して主張する被告人の供述には一応の根拠が認められることや,Aに生じた本件各傷害の発生機序に関する検討結果を併せてみれば,結局,被告人がAに揺さぶる暴行を加え,その結果,本件各傷害を負ったと認めるには合理的な疑いが残ると言わざるを得ない。
5
結論
以上のとおり,本件証拠を検討しても,被告人が公訴事実記載の揺さぶる
暴行に及んだことについて,常識に照らして間違いないといえるほどの立証がされているとはいえない。
したがって,本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するから,刑事訴訟法336条により被告人に対し無罪の言渡しをする。
(検察官の求刑

懲役8年

令和2年2月12日
東京地方裁判所立川支部刑事第3部

裁判長裁判官

竹下
裁判官

海瀬弘章
裁判官

岡村祐衣雄
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