判例検索β > 平成27年(ワ)第6338号
損害賠償等請求事件
事件番号平成27(ワ)6338
事件名損害賠償等請求事件
裁判年月日平成31年1月29日
裁判所名・部大阪地方裁判所  第12民事部
裁判日:西暦2019-01-29
情報公開日2020-06-04 22:40:26
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主文1
原告らの請求をいずれも棄却する。

2
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
以下,略語については,本文中に記載するほか,別紙略語表記載のとおりとする。第1請求
1被告は,原告A1,原告A2,原告A3,原告A4,原告A5,原告A6,原告A11,原告A12,原告A15,原告A16及び原告A17に対し,それぞれ550万円及びこれらに対する平成27年9月9日から,原告A18及び原告A19に対し,
それぞれ550万円及びこれらに対する平成28年8月16日か
ら,原告A7,原告A8,原告A9及び原告A10に対し,それぞれ137万5000円及びこれらに対する平成27年9月9日から,原告A13及び原告A14に対し,
それぞれ275万円並びにこれらに対する平成27年9月9日から各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2被告は,原告ら各自に対し,別紙1記載の謝罪文(各原告に対応する部分に限る。
)を交付せよ。
3被告は,
毎日新聞,
産経新聞,
読売新聞,
朝日新聞及び日本経済新聞において,
第1事件原告らに対し,別紙2の1及び2記載の謝罪広告を,第2事件原告らに対し,別紙2の1及び3記載の謝罪広告を,それぞれ別紙4記載の条件にて掲示せよ。
4被告は,原告ら各自に対し,人民日報,中国青年報,南方日報,光明日報及び文匯報において,別紙3記載の謝罪広告を,別紙4記載の条件にて掲示せよ。第2事案の概要
本件は,中国又は中華人民共和国の国民であり,第二次世界大戦中,被告により中国から日本に強制連行され,日本各地の事業場で強制労働に従事させられたと主張する者(a1,a2,a3(a3’,a4,a5,a6,a7,a8,a)
9,a10,a11,a12,a13,a14,原告A18,a15。以下本件被害者らという。)又はその権利義務を相続により承継した者である原告ら
が,被告に対し,これらの強制連行,強制労働及びその後の被告の対応により精神的損害等を被ったとして,
①ヘーグ陸戦条約3条,
②不法行為
(中華民国民法,
日本国民法)又は③国家賠償法1項1条に基づき,謝罪文の交付並びに日本及び中華人民共和国で発行されている新聞への謝罪広告の掲載を求めるとともに,損害賠償の一部として,
慰謝料
(遺族固有の慰謝料を含む。及び弁護士費用並びに

これに対する訴状送達の日の翌日(第1事件原告らについては平成27年9月9日,第2事件原告らについては平成28年8月16日)から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
1前提事実等
以下の事実は,
後掲各証拠及び弁論の全趣旨により認めることができる。
なお,
以下において,年号については西暦で記載し,明治以降は和暦も併記する。⑴

条約等の定め

サン・フランシスコ平和条約(甲B2)

日本国は,戦争中に生じさせた損害および苦痛に対して,連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし,また,存立可能な経済を維持すべきものとすれば,日本国の資源は,日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分でないことが承認される。

日本国は,現在の領域が日本国軍隊によって占領され,且つ,日本国によって損害を与えられた連合国が希望するときは,生産,沈船引揚げその他の作業における日本人の役務を当該連合国の利用に供することによって,
与えた損害を修復する費用をこれらの国に補償することに資するために,当該連合国とすみやかに交渉を開始するものとする(以下,この規定による役務の供与を役務賠償ということがある。。


次の(Ⅱ)の規定(省略)を留保して,各連合国は,日本国及び日本国民のすべての財産,
権利及び利益でこの条約の最初の効力発生の時にその
管轄の下にあるものを差し押え,留置し,清算し,その他何らかの方法で処分する権利を有する。
第14条⒝
この条約に別段の定がある場合を除き,連合国は,連合国のすべての賠償請求権,
戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連
合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する。

日本国は,戦争から生じ,または戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し,且つ,この条約の効力発生の前に日本国領域におけるいずれかの連合国の軍隊又は当局の存在,職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄する。

日中共同声明(甲B2)
第1項
日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は,この共同声明が発出される日に終了する。
第2項
日本国政府は,
中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であること
を承認する。
第5項
中華人民共和国政府は,中日両国国民の友好のために,日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
第6項
日本国政府及び中華人民共和国政府は,主権及び領土保全の相互尊重,相互不可侵,内政に対する相互不干渉,平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。

ウィーン条約法条約
ウィーン条約法条約は,1981年(昭和56年)8月1日,日本国において発効した条約であり,以下の規定がある。
(甲B2)
4条

この条約の不遡及

この条約は,
自国についてこの条約の効力が生じている国によりその効
力発生の後に締結される条約についてのみ適用する。ただし,この条約に規定されている規則のうちこの条約との関係を離れ国際法に基づき条約を規律するような規則のいかなる条約についての適用も妨げるものではない。
31条

解釈に関する一般的な規則

1項
条約は,
文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の
通常の意味に従い,誠実に解釈するものとする。
2項
条約の解釈上,文脈というときは,条約文(前文及び附属書を含む。)の
ほかに,次のものを含める。
条約の締結に関連してすべての当事国の間でされた条約の関係合意⒝

条約の締結に関連して当事国の一又は二以上が作成した文書であっ
てこれらの当事国以外の当事国が条約の関係文書として認めたもの3項
文脈とともに,次のものを考慮する。
条約の解釈又は適用につき当事国の間で後にされた合意


条約の適用につき後に生じた慣行であって,条約の解釈についての当事国の合意を確立するもの



当事国の間の関係において適用される国際法の関連規則
4項
用語は,
当事国がこれに特別の意味を与えることを意図していたと認め

られる場合には,当該特別の意味を有する。
32条

解釈の補足的な手段

前条の規定の適用により得られた意味を確認するため又は次の場合における意味を決定するため,解釈の補足的な手段,特に条約の準備作業及び条約の締結の際の事情に依拠することができる。
前条の規定による解釈によっては意味があいまい又は不明確である場合


前条の規定による解釈により明らかに常識に反した又は不合理な結果がもたらされる場合
34条

第三国に関する一般的な規則

条約は,
第三国の義務又は権利を当該第三国の同意なしに創設すること
はない。
35条

第三国の義務について規定している条約

いずれの第三国も,条約の当事国が条約のいずれかの規定により当該第三国に義務を課することを意図しており,かつ,当該第三国が書面により当該義務を明示的に受け入れる場合には,当該規定に係る当該義務を負う。53条

一般国際法の強行規範に抵触する条約

締結の時に一般国際法の強行規範に抵触する条約は,無効である。この条約の適用上,一般国際法の強行規範とは,いかなる逸脱も許されない規範として,また,後に成立する同一の性質を有する一般国際法の規範によってのみ変更することのできる規範として,国により構成されている国際社会全体が受け入れ,かつ,認める規範をいう。

B規約
B規約は,1979年(昭和54年)9月21日,日本国において発効した国際規約であり,以下の規定がある。
2条3項
この規約の各締約国は,次のことを約束する。
この規約において認められる権利又は自由を侵害された者が,公的資格で行動する者によりその侵害が行われた場合にも,効果的な救済措置を受けることを確保すること。


救済措置を求める者の権利が権限のある司法上,行政上若しくは立法上の機関又は国の法制で定める他の権限ある機関によって決定されることを確保すること及び司法上の救済措置の可能性を発展させること。



救済措置が与えられる場合に権限のある機関によって執行される

ことを確保すること。
14条
すべての者は,裁判所の前に平等とする。すべての者は,その刑事上の罪の決定又は民事上の権利及び義務の争いについての決定のため,法律で設置された,権限のある,独立の,かつ,公平な裁判所による公正な公開審理を受ける権利を有する。

ジュネーヴ第4条約
ジュネーヴ第4条約は,1953年(昭和28年)10月21日,日本国において発効した条約であり,以下の規定がある。
2条

条約の適用

平時に実施すべき規定の外,この条約は,二以上の締約国の間に生ずるすべての宣言された戦争又はその他の武力紛争の場合について,当該締約国の一が戦争状態を承認するとしないとを問わず,適用する。
6条

適用の始期及び終期

この条約は,第2条に定める紛争又は占領の開始の時から適用する。この条約は,紛争当事国の領域内においては,軍事行動の全般的終了の時にその適用を終わる。
この条約は,占領地域内においては,軍事行動の全般的終了の後1年でその適用を終わる。
(中略)
被保護者は,その解放,送還又は居住地の設定がそれらの期間の終了の後に行われる場合には,それまでの間,この条約による利益を引き続き受けるものとする。
7条

特別協定

締結国は,
(中略)別個に規定を設けることを適当と認めるすべての事
項について,
他の特別協定を締結することができる。
いかなる特別協定も,
この条約で定める被保護者の地位に不利な影響を及ぼし,又はこの条約で被保護者に与える権利を制限するものであってはならない。
8条

被保障権の放棄禁止

被保護者は,いかなる場合にも,この条約及び,前条に掲げる特別協定があるときは,その協定により保障される権利を部分的にも又は全面的にも放棄することができない。
146条

条約違反者の処罰

締約国は,次条に定義するこの条約に対する重大な違反行為の一を行い,又は行うことを命じた者に対する有効な刑罰を定めるため必要な立法を行うことを約束する。
(以下省略)
147条

重大な違反行為の意義

前条にいう重大な違反行為とは,この条約が保護する人又は物に対して行われる次の行為,すなわち,殺人,拷問若しくは非人道的待遇(生物学的実験を含む。,身体若しくは健康に対して故意に重い苦痛を与)
え,若しくは重大な傷害を加えること,被保護者を不法に追放し,移送し,若しくは拘禁すること,被保護者を強制して敵国の軍隊で服務させること,この条約に定める公正な正式の裁判を受ける権利を奪うこと,人質にすること又は軍事上の必要によって正当化されない不法且つし意的な財産の広はんな破壊若しくは徴発を行うことをいう。
148条

国の責任

締約国は,前条に掲げる違反行為に関し,自国が負うべき責任を免れ,又は他の締約国をしてその国が負うべき責任から免れさせてはならない。⑵

訴訟承継(弁論の全趣旨)

第1事件原告であったa11は,訴訟係属中の2015年(平成27年)11月29日に死亡した。a11の相続人は,原告A13及び原告A14であり,同人らは,本件請求について,それぞれ2分の1の割合でa11の権利義務を承継した。


第1事件原告であったa7は,訴訟係属中の2018年(平成30年)3月8日に死亡した。a7の相続人は,原告A7,原告A8,原告A9及び原告A10であり,同人らは,本件請求について,それぞれ4分の1の割合でa7の権利義務を承継した。

2争点及び当事者の主張
本件の争点は,以下のとおりである。


強制連行及び強制労働の事実等の有無
当事者の主張は別紙5記載のとおり。



ヘーグ陸戦条約に基づく責任の成否
当事者の主張は別紙6記載のとおり。


不法行為責任の成否1

中華民国民法

当事者の主張は別紙7記載のとおり。


不法行為責任の成否2

日本国民法

当事者の主張は別紙8記載のとおり。


国家賠償法に基づく責任の成否
当事者の主張は別紙9記載のとおり。



損害
当事者の主張は別紙10記載のとおり。



国家無答責の法理の適否
当事者の主張は別紙11記載のとおり。



除斥期間による請求権の消滅の成否
当事者の主張は別紙12記載のとおり。



請求権放棄による請求権の消滅の成否
当事者の主張は別紙13記載のとおり。

第3当裁判所の判断
1認定事実1

中国人労働者の日本への移入,事業場における労働等の経緯及び

状況
後掲各証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。⑴

中国人労働者の移入に至る経緯

日本国と中国との交戦
日本国は,1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件をきっかけに,中国との間で交戦状態に入った(以下,これを日中戦争という。なお,当時の日本国政府による公称は支那事変であった。

日本国政府は,1938年(昭和13年)4月1日,戦争により労働力が不足する中,国家総動員法を公布し,戦時及び戦争に準ずべき事変の場合において,国防の目的を達成するため,国の全力を最も有効に発揮させるよう,人的及び物的資源を統制運用する体制をとった。
(甲A2,甲B1)

日本国による中国人労働者の移入政策
しかし,1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃をきっかけに,いわゆる太平洋戦争が始まり,日本国内における労務需給はますますひっ迫した。
そこで日本国政府は,1936年(昭和17年)11月27日,昭和17年閣議決定を行い,中国人労働者を日本国内に移入することにより,当時国策としていた東亜共栄圏建設の遂行に協力させるという方針の下,中国人労働者の試験移入を行い,その成績によって,漸次中国人労働者の移入を本格実施に移すこととなった。
これに基づき,日本国政府は,
華人労務者内地移入ニ関スル件第三措置ニ基ク華北労務者内地移入実施要領を定め,1943年(昭和18年)4月から同年11月にかけて,1411名の中国人労働者が試験的に日本国内に移入された。
上記試験移入の成績を踏まえ,日本国政府は,1944年(昭和19年)2月28日になされた昭和19年次官会議決定により,中国人労働者の移入の実施要領を定め,中国人労働者の本格移入を実施することを決定し,同年8月16日,
昭和19年度国民動員実施計画策定ニ関スル件と題する閣
議決定において,移入する中国人労働者を3万人と計上した。これにより,同年3月から1945年(昭和20年)5月までの間に,本格移入として,中国人労働者3万7524名が移入された。
上記試験移入及び本格移入により,日本に移入された中国人労働者は,合計3万8935名である。
(甲A2,甲A7の2,甲A7の4,甲B1)

中国人労働者の供出に関係する機関の設立
日本国は,1938年(昭和13年)11月,華北の経済開発を目的とする国策会社として,北支那開発株式会社を設立した。
また,1940年(昭和15年)3月,日本国の軍事力を背景に,南京に汪兆銘を主席とする中華民国国民政府が樹立され,これに伴い,北京に所在し,
華北を統治していた中華民国臨時政府は,
華北政務委員会に改編された。
華北労工協会は,華北政務委員会と北支那開発株式会社が共同で出資をして,1941年(昭和16年)7月設立した財団法人であり,華北内外における労働力の供給分配等の統制機関であった。
(甲A1,甲A3,甲B4の1,甲B4の2,甲B5の1,甲B5の2)


中国人労働者移入計画の概要

昭和19年次官会議決定による中国人労働者移入計画の概要は,以下のとおりである。
(甲A7の4)
通則
中国人労働者の供出又はそのあっせんは,大使館,現地軍並びに国民政府
(華北からの場合は華北政務委員会)
指導の下に,
現地労務統制機関
(華
北からの場合は華北労工協会)により行う。
移入すべき中国人労働者
訓練した元俘虜又は元帰順兵のほか,募集によるものとし,年齢はおおむね40歳以下の男子で,素質優良,心身健全な者を選抜することとするが,30歳以下の独身男子を優先的に選抜するように努力する。
訓練
中国人労働者は,移入に先立ち,一定期間(1か月以内)現地の適当な機関において必要な訓練をする。移入未経験労働者については,日本国内においても,これを使用する工場事業場において,一定期間必要な訓練を行わせる。
従事すべき業務,就労地
中国人労働者は,国民動員計画産業中,鉱業,荷役業,国防土木建築業及び重要工業その他の特に必要と認めるものに従事させ,就労地については,できる限り分散させないように留意する。中国人労働者の使用を認める事業場は,関係庁と協議の上,厚生省が決定する。
契約期間
契約期間は,原則として2年とし,同一人を継続使用する場合においては,2年経過後適当な時期において,希望により一時帰国させること。中国人労働者への指示,管理
中国人労働者に対する取扱い及び待遇に関しては,その民族性を考慮し,特に注意を払うとともに,業種又は就労地によって著しく差別を生じさせないようにする。
工場事業場は,
現地から同行する日系指導員を中国人労働者の直接の責
任者として,中国人労働者の世話に当たらせる。作業に関する命令は,日系指導員及び中国系責任者を通じて発することとし,中国人労働者に対する直接の命令は厳に慎む。
中国人労働者の作業場所は朝鮮人労務者又は俘虜とは厳にこれを区別する。
就労地に到着した後は,十分な休養を与えた上で就労させる。
衣食住
住宅は湿気予防に留意し,朝鮮人労働者住宅と近接させないようにする。食事は中国人労働者の通常食を支給することとし,食料の手当てについては,農林省において特別の措置を講じる。
賃金等
中国人労働者の賃金は,日本における賃金を標準とするが,日本国内と現地の賃金及び物価との間に著しい懸隔がある実情をもって,残留家族に対する送金及び持帰金を確保するために所要の措置を講ずる。中国人労働者の家族送金及び持帰金については,原則として特別の制限をつけない。労働時間,休日
就労時間は日本国内の例による。四大節のほか,旧正月3日並びに端午節,仲秋節各1日は必ず公休日の取扱いをなす。
移入,送還
中国人労働者の輸送は,
日本,
満州,
中国関係機関において手配を行う。
中国人労働者は契約期間満了後,工場事業場において原則としてこれを集合地まで送還する。

昭和19年次官会議決定とともに定められた華人労務者内地移入手続
には,中国人労働者の移入手続について次のとおり規定されている。(甲A
1,甲A7の4)
厚生省が中国人労働者の事業場への割当てを決定し,大東亜省(1942年(昭和17年)11月に設立された満州国,中国を含む大東亜地域の政治経済を処理する官庁であり,
同地域における外交,
日本の商業の保護,
在留日本人に関する事務,移植民海外拓殖事業等を所管した。
)に通報す
るとともに,事業場別割当表を内務省に送付する。通報を受けた大東亜省は,中国人労働者の引継輸送月日等を決定して厚生省に通報し,厚生省から関係庁府県を通じてこれを事業主に通報する。
厚生省は,事業者をして中国人労働者の引継,輸送,到着後の措置に遺憾なきよう期せしめるとともに,引率責任者を選定して大東亜省に通報する。
中国人労働者が就業地に到着したときは,その中国人労働者数,到着年月日,輸送途中の概況等を,事業主から各地の国民職業指導所,庁府県を通じて厚生省に報告する。
中国人労働者の異動,災害,紛擾その他事件が発生したときは,事業主から警察署及び国民職業指導所を経て庁府県に報告し,庁府県はこれを取りまとめて厚生省,内務省及び大東亜省に報告する。
事業主は,毎月末現在の中国人労働者の勤労状況を,国民職業指導所を経由して庁府県に報告し,庁府県はこれを取りまとめて厚生省及び大東亜省に報告する。
事業主は,警察署及び国民職業指導所その他関係機関の指示に従い,訓練施設,技術教育施設,適切な慰安娯楽施設を設けるほか,健康診断,生活訓練その他の保護指導を講じる。
中国人労働者の移動(就業場所の変更等)については原則として認めないが,
やむを得ない場合は厚生省の稟議を経て認めることができるものとする。
労務の終了により帰国者が確定したときは,帰国者名簿及び帰国予定年月日等を,事業主から,国民職業指導所及び警察署を経由し,庁府県を通じて厚生省,内務省及び大東亜省に報告する。また,事業主において引率責任者を付し,来日の場合に準じて帰国させるとともに,国民職業指導所及び警察署を経由し現地機関引渡完了の概況を報告させる。


中国人労働者の移入の状況

移入の関係機構
現地機構
中国における労務者の供出又はあっせんは,中央の計画に基づき大使館,現地軍,国民政府等が担当するものとされていたところ,昭和19年次官会議決定に基づく華北からの中国人労働者の本格移入のほとんどは,華北労工協会の担当により行っていた。
(甲A7の4)
中央機構
日本国内における企画及び受入体制として,官庁側においては,関係各庁が相互に緊密な連絡を行いつつ,移入連絡は大東亜省,労務の割当て及び管理は軍需省及び運輸省と協議の下に厚生省が,取締りは内務省がこれに当たっていた。民間側においては,実務の連絡あっせんに当たり,華北労工協会及び関係統制会(統制会は事業統制を目的として政府が命じて設立する団体である。国家総動員法及び関連法令に基づく。
)が主としてこ
れを任されていた。
(甲A1,甲A7の4,甲B1)

供出方法
供出方法には,行政供出,訓練生供出,自由募集,特別供出の4つがあった。
行政供出は,
日本国と協力関係にあった中国側勢力の行政機関の供出命令
に基づく募集で,各省,道,県,郷村へと上級庁から下部機構に対し供出員数の割当てを行い,責任数の供出をさせるというもの,訓練生供出は,日本現地軍において作戦により得た俘虜,帰順兵で一般良民として釈放して差し支えないと認められた者及び中国側地方法院において微罪者を釈放した者を華北労工協会において下げ渡しを受け,
同協会の有する各地
(西南,
石門,
青島,
邯鄲,
徐州及び塘沽)
所在の労工訓練所において一定期間
(約3か月)

日本へ渡るに当たり必要な訓練をした者を供出するというもの,自由募集は,主要労工資源地において条件を示し希望者を募るもの,特別供出は,現地において特殊労務に必要な訓練と経験を有する特定機関の在籍労務者を供出するものである。
(甲A7の4)


供出の状況及び実態
供出元及び供出機関
中国人労働者の供出元を地域別にみると,華北が圧倒的な多数を占め,3万5778名,
華中が2137名,(関東州)
満州
は1020名であり,
供出方法ごとにみると,行政供出が2万4050名,訓練生供出が1万0667名,自由募集が1455名,特別供出が2763名であった。供出機関ごとにみると,華北労工協会が大多数を占め3万4717名にのぼり,日華労務協会(華中)が1455名,華北運輸股肦有限公司が1061名,福昌華工株式会社(満州)が1020名,国民政府からが682名であった。
(甲A7の2,甲A7の4)
供出の実態
中国人労働者の供出は,上記の4方法によることとされていたものの,移入の主目標であった元俘虜,帰順兵等の供出(訓練生供出)が,当初の見通しに比べはるかに少なかったため,行政供出という名の下に,中国の都市郷村から,
自由意思に基づくものとはいえない態様で供出していたと
いうのが実情であった。また,行政供出及び訓練生供出によるもの,とりわけ1944年(昭和19年)後半以降の行政供出に基づく中国人労働者は,健康状態が極めて悪く,多くの疾患を有しており衰弱が著しく,日本上陸時にはかろうじて歩行できるような状態の者が極めて多数見受けられた。
(甲A7の2,甲A7の4)

石門の労工訓練所
石門臨時俘虜収容所は,訓練生供出のための訓練を施す労工訓練所のうち石門所在のもので,1939年(昭和14年)3月28日に設立され,1941年(昭和16年)8月16日に石門市南兵営に移転した。
同収容所は,日本軍第110師団の兵団長直属の機関で,同兵団が管内で獲得した俘虜及び帰順匪中特に教育を要する者を収容してこれを訓練教化し,帰郷若しくは労工として移民させるための施設であった。同収容所の教育は,精神教育及び体育向上に重点を置き,初度教育は約1か月をもって標準とし,
長期者に対しては逐次教育程度を高め,
主として,
大東亜戦争
の真義を理解徹底させることに努めるとされ,教育の結果,抗日意識を完全に放棄して新政権(国民政府を指すと解される。
)に忠誠を誓う者,心神耗
弱にして釈放しても実害がないと認められる者その他特別の理由により釈放することが有利と認められる者は,兵団長の認可を得て,就職帰農又は労工移民させるとされていた。
(甲A8,甲A3,甲D5,弁論の全趣旨)


日本への輸送の状況
中国人労働者の移入当時,船腹事情がひっ迫し,航海自体も危険であった。飲料水や食料が不足し,
支給した食料に砂のような不純物が混入していたこと
もあった。
輸送はおおむね貨物船によって行われ,当初は船医が付き添っていたものの,その後は付き添いもなく,中国人労働者は,船倉内の石炭,塩,鉱石の上に長時間寝起きせざるを得ないこともあった。
輸送過程においては,3万8935名の乗船者数に対し,船中で564名が死亡し,事業場に到着する前に248名が死亡した。
(甲A7の4)



事業場全体の状況

配置状況
中国人労働者は,全国135の事業場に配置され,鉱山業,土木建築業,造船業,港湾荷役業等の事業に従事した。
(甲A7の4)


中国人労働者の指導・取扱いに関する規定
中国人労働者の取締りに関しては,
内務省が,
厚生省,
軍需省と連名で,
関係地方庁に通牒を発し,取締要領である移入華人労務者指導ニ関スル件及び移入華人労務者取締要領を定めてこれらの励行を通達した。(甲A7の6)
移入華人労務者指導ニ関スル件には,中国人労働者の宿舎の位置及び施設については,防諜,逃走防止,朝鮮人との均衡保持,中国人の慣習及び保健衛生等を考慮し決定すること,事業場における作業場所及び作業種類に関しては,防諜,事故防止及び作業能率発揮の見地から決定すること,中国人労働者の食料その他の処遇に関しては,中国人労働者にとって最大の関心事であり,その適否如何は直ちに稼動成績並びに治安に影響を及ぼすものであるから,地方事情を斟酌しつつその民族性と慣習に適した指導を行い,勤労意欲の高揚並びに事故防止を図ること,中国人労働者の特殊性に鑑み,
供出者側の指導員及び事業主側の指導員の協力一体化を図
ること,
その他の事項については各具体的事案につきその都度主務省の指
示を待って行うこととの記載がなされている。
(甲A7の6)
移入華人労務者取締要領には,以下の定めが置かれている。
(甲A7
の6,甲B46)
a
事前措置
中国人労働者の割当予定通報を受けたときは,事業者側と連絡し作業場宿舎等の選定,
警戒対策の樹立その他取締上必要な諸般の準備をする
こと。
事業者側に対しては逃亡防止及び外部との連絡遮断に処する確実な施設の完備と中国人労働者監督の責任を負担させること。特に朝鮮人との接触については事業場内外を問わずこれを防止するよう特別の考慮を払わせること。
宿舎は防諜及び公安風俗上支障ない場所に選定させるよう指導を加えること。

b
視察取締
入国時における視察検索に当たっては,抗日不穏分子の計画的潜入に特に注意し,綿密周到な計画を講ずること。
昭和19年次官会議決定に定める訓練期間中は特に積極的指導に努めること。
警察署長が中国人労働者の引継輸送に関し事業者側から報告を受けたときは,可及的便宜を図りこの取締対策に遺憾ないようにすること。事業者側に対しては中国人労働者の逃走はもちろん,事業場内外における事故は些細なものであっても全て報告させること。
逃走者があった場合には,直ちに関係方面に捜査手配を行い,発見に努めること。
宿舎については,関係者以外の出入を禁じ,特に在留中国人との連絡をさせないようにすること。
作業場においては,朝鮮人,俘虜,満支人船員と接触させないように警戒すること。
事業者側に対しては朝鮮人との関係において一方の不満を惹起させないように宿舎,食事その他の待遇上の均衡保持に特に留意すること。中国人労働者の思想動向経歴等に関しては,詳細内査を行うとともに,常にその動静に注意し,身替者,変名者及びその他不穏分子の発見,不穏計画の察知に努めること。
中国人労働者の外出は,団体外出とし,やむを得ない場合のほか個人外出は認めないこと。元俘虜,元帰順兵については訓練期間中外出を禁止すること。
中国人労働者の通信発受は,
事業者において取りまとめ,
取り扱わせ,
検閲を実施すること。
c
諸報告
中国人労働者の稼働状況及び移動に関しては,毎月担当省に報告すること。
重大な事故及び犯罪容疑により中国人労働者を検挙したときは,その都度即報すること。
中国人労働者に対する指示は,中国から同行した日系指導員が直接の
責任者となっていた。警察官は,宿舎付近に駐在して外部より保護取締に当たり,
日系指導員若しくは中国人の責任者を通じ作業その他の命令を行
っていた。
事業場においては,中国人の責任者に私刑を行わせたり,食料被服その他の支給品の減配・横流しを行ったり,殴打等の暴力行為等を行っていたことがあった。
(甲A7の6)

衣食住の状況
中国人労働者の被服の状況は十分ではなく,特に地下足袋等の支給が不十分であり,凍傷の原因となった。
食事は量が不足し,質も不良であった。特に食用油が不足しており,一部地方においては,冬季の生鮮野菜が不足していた。また,一部の事業場では食料の横流し等も行われており,食料の質と併せ,事業場到着前に罹病,衰弱していた中国人労働者の疾病,失明及び死亡の原因となった。
宿舎設備については,整備が間に合っていなかったり,通風採光等の見地から不衛生であったりという状況が認められた。また,医療施設及び診療状況,薬品備付等が不十分なものがあった。
(甲A7の5)


死亡者数
中国人労働者の移入人数3万8935名のうち,日本上陸前に船中で死亡した者が564名,
上陸後各事業場に受け入れられる前に死亡した者が24
8名,事業場内で死亡した者が5999名,戦後送還前に死亡した者が10名,
残留中に死亡した者が9名であり,
死亡者の合計は6830名にのぼる。
傷害死による死亡者は322名であり,このうち,公傷死が267名,私傷死が55名である。公傷死の主な原因は,落盤,飛石,落石によるものが最も多く68名であり,運搬,車両事故によるものが30名,墜落によるものが14名である。私傷死によるものは,戦災によるものが35名,渡船転覆等水難によるものが10名,車両によるものが6名である。
疾病による死亡者は6434名であり,このうち,感染疾病に基づくものが1962名,一般疾病に基づくものが3889名,疾病が不明のものが583名である。
また,自殺による死亡者は41名,他殺による死亡者は33名である。(甲A7の2,甲A7の4,甲A7の5)

疾病,障害の状況
障害を負った中国人労働者の数は467名である。主な障害は,失明が217名,視力障害が79名,肢部欠損が13名,肢部機能障害が70名,指部欠損が39名,指部機能障害が38名である。
(甲A7の5)



鹿島組花岡事業場

事業場の概要及び移入の経緯
鹿島組花岡事業場は,秋田県の花岡町(当時)に所在していた,鹿島組の事業場である。
鹿島組は,株式会社藤田組(当時)花岡鉱業所における日産2000キログラムのプラントの選鉱場付帯工事を短期間内に完成させるために,大量の労働者を必要としていたが,日本人及び朝鮮人労務者の補充が困難であったため,1942年(昭和17年)11月27日,日本国政府の華人労務者内地移入ニ関スル件に基づき,
中国人労働者の移入就労を図ることとした。
その上で,
鹿島組において,
移入方針及び対策に関する打合せを行い,
内務,
外務,厚生,軍需等関係各省の指示,指達事項に基づき,統制団体である日本土木建築統制組合の援助あっせんを受け,現地供出機関である華北労工協会と,中国人労働者の移入につき契約を締結することとした。
鹿島組花岡事業場は,1943年(昭和18年)12月15日に開所式が行われ,1944年(昭和19年)3月1日から業務を開始した。(甲C1)

移入の状況
鹿島組は,1944年(昭和19年)5月8日,華北労工協会との間で300人の訓練生の供出を受ける契約を締結し,同年7月28日,299名の中国人労働者が青島から乗船し
(船中で3名死亡)同年8月8日,

294名
が鹿島組花岡事業場に受け入れられた(道中で2名が死亡。第1次移入)。
さらに,1945年(昭和20年)4月15日,華北労工協会との間で600名の行政供出を契約し,同年4月18日,589名の中国人労働者が青島から乗船し,同年5月5日,587名が鹿島組花岡事業場に受け入れられた(道中で2名が死亡。第2次移入)

そして,華北労工協会との間で,北海道玉川事業場分として契約を締結した中国人労働者100名(行政供出)につき98名を,事業場間の協議により鹿島組花岡事業場に移入することとし,1945年(昭和20年)5月11日,98名の中国人労働者が青島から乗船し,同年6月4日,98名の労働者が鹿島組花岡事業場に受け入れられた(第3次移入)

鹿島組花岡事業場に供出された中国人労働者は,出身地が河北,河南,山東で,最高年齢は67歳,最年少が16歳,平均年齢が35歳であった。家族構成としては,
第1次移入については独身が6割,
家族のあるものが4割,
第2次及び第3次移入においては,独身が5割,家族のあるものが5割であった。
(甲A7の4,甲C1)



労働内容
中国人労働者は,鉱滓堆積場工事,同暗渠工事,花岡川改修工事及び大森川改修工事において,トロッコ押しによる土砂運搬,もっこ担ぎ,掘削,コンクリート固め等の作業を行った。
(甲C1)


労務管理の状況
中国人労働者への指導に当たっては,華北労工協会(北京)から中国人指導員1名,
華北労工協会東京事務所から日本人指導員1名がそれぞれ派遣さ
れた。
また,取締りに当たっては,秋田県警察部特高課,大館警察署,花岡警部補派出所等の警察官憲と密接な連絡をとり,大館警察署及び花岡警部補派出所等の警察官が,中国人関係係員として見回りをすることがあったほか,専任警官が1名駐在していた。また後述の花岡事件の後は,警備のため数名ないし十数名の警官が派遣されることがあった。
冬場は,氷が張るような状況においても工事が強行され,河川付替作業を行う中国人労働者の多くは凍傷になった。
戦後,同和鉱業株式会社の社員であり,秋田県花岡鉱業所に勤務していたBは,1944年(昭和19年)7月13日,内務省,厚生省の職員が花岡鉱山の中国人労働者の管理状況視察及び現地指導のため来山し,Bを含めた鉱山側の労務関係職員と,鹿島組の労務関係職員とに対し,宿舎の構造と設備が贅沢にすぎる,食料の供給が贅沢すぎる,濡れタオルの水が一滴もなくなるまで搾り取る方針を採れという指導を行ったと述べている。
(甲C1,甲C6)

衣食住の状況
鹿島組が作成した華人労務者就労顛末報告書には,中国人労働者には,健康保持及び作業従事に必要な程度の被服の支給がなされており,作業従事の際は,地下足袋を支給することが理想であったが,国内物資の極度の不足により入手できなかったため,各1足の配給にとどめ,藁靴及びわらじを無償支給したとの記載がなされている。
また,食料状況については,戦争後期に中国人労働者が移入されたため,食料が入手できず,補給が不足していたことが記載されている。
住居については,中国人労働者のための施設として,中山寮という木造平屋建建物が備えられており,宿舎の1人当たりの面積は,約1畳半であったと記載されている。
戦後のアメリカ軍による調査によれば,中山寮を始めとする設備は非常に不衛生な状態であったことが指摘されている。
(甲C1,甲C4)

花岡事件
中国人労働者の幹部であったC以下数十名は,1945年(昭和20年)6月30日午後10時頃,鹿島組花岡事業場の中山寮において,補導員の寝室に乱入し,就寝中の補導員9名中4名及び中国人労働者1名を殺害し,2名に重傷を負わせたほか,事務室倉庫等を破壊し,食料工具毛布等を奪うという暴動を起こし,重傷者を除く全員が逃亡した。捜査の結果,関与したとされる13名全員が逮捕,検挙され,取調べを受けた。
花岡事件は,中国人労働者が,普段から,指導員の態度及び逃亡犯や怠慢者に対する私刑に対し反感及び恐怖感を抱いていたほか,食糧事情が悪化して質量ともに低下し,
空腹感と健康維持に対する危惧を抱いていたところに,
1945年(昭和20年)6月27日から県労報主催の突貫週間が開始されて作業時間が延長され,不満及び恐怖感が頂点に達しつつあり,集団逃亡の計画があったところに,たまたま他の逃亡した中国人労働者の捜索のため警備が手薄なところに実行されたと考えられている。
花岡事件の容疑者として,
秋田刑務所に護送された者は,原告A18,
C,
a4ら合計12名であった。
1945年(昭和20年)9月11日,秋田地方裁判所において,Cら12名は,殺人,殺人未遂の罪で懲役刑の判決を受けた。
(甲A7の1,甲A7の6,甲C3)


死亡者及び罹病者数等
鹿島組花岡事業場に移入された中国人労働者のうち,移入時に3名が死亡し,
上陸後受入時までに4名が死亡し,
事業場内において407名が死亡し,
戦後残留者のうち4名が死亡し,合計418名が死亡した(死亡率42.3パーセント)死亡原因は,

疾病によるものが416名,
自殺によるものが1
名,他殺によるものが1名である。疾病による死亡者416名のうち,主な原因は,赤痢(死亡者51名)
,大腸炎(死亡者68名)
,敗血症(死亡者3
1名)
,肺炎ないし気管支炎(死亡者58名)
,胃炎ないし腸炎(死亡者10
6名)である。外務省報告書に記載のある135の事業場のうち,鹿島組花岡事業場の死亡率は5番目に高かった。
負傷者数は102名,罹病者数は1190名,障害を負ったものが6名である(負傷者,罹病者については延べ数である。以下同じ。)。
(甲A7の4,甲A7の5)

送還状況
1945年(昭和20年)12月3日,残留者41名を除く531名の中国人労働者が塘沽に集団送還された。
(甲A7の4)



藤永田大阪事業場

事業場の概要及び移入の経緯
藤永田大阪事業場は,大阪市内に所在していた藤永田造船所(当時)の事業場である。藤永田造船所は,艦船製造を行う会社であったが,工員が応召されるなどして労働力が不足していたため,中国人労働者の移入を実施することとなった。
(甲D2)


移入状況
藤永田造船所は,1944年(昭和19年)5月23日,華北労工協会との間で,藤永田造船所が,華北労工協会が供出する労工を使用する契約を締結し,行政供出の方法により,同年8月5日,161名の中国人労働者が塘沽から乗船し,同月15日,160名が藤永田大阪事業場に受け入れられた(船中で1名死亡)

藤永田大阪事業場に供出された中国人労働者161名のうち,最高齢は55歳,最年少が16歳,平均年齢が32歳で,家族構成は独身が74名,家族のあるものが86名であった。
(甲A7の4,甲D2)

労働内容
中国人労働者は,
造船作業を行い,鉄木工,鉸鋲工,木工,雑工,建築工,
賄夫に分かれて作業を行った。
(甲D2)


労務管理の状況
中国人労働者指導日本人派遣員ないし中国人派遣員は,中国人労働者の監督指導に当たるとともに,中国人労働者に関する自己の意見及び中国人労働者一般の希望事項等を事業者側中国人労働者関係職員に伝達していた。また,俘虜や朝鮮人等との交渉を極力避けるようにされ,官庁の指示により,中国人労働者一般の単独外出は禁止されていた。
(甲D2)


衣食住の状況
藤永田造船所が作成した華人労務者就労顛末報告書によれば,被服として,作業服,肌着,チョッキ等が支給されたとされている。
中国人労働者の宿舎は,外面コンクリート建の2階建ての建物であり,燃料不足のため,暖房設備はなかった。
上記報告書には,中国人労働者には,主食はメリケン粉,米を主とし,副食として,季節野菜等を十分に支給したと記載されている(ただし,戦時中であることや,後記のとおり,事業場内において死亡者が発生していることなどからすれば,必要な量の食事が支給されていたとは認め難い。。)
(甲D2)


死亡者及び罹病者数
藤永田大阪事業場に移入された161名の中国人労働者のうち,移入時の船中で1名が死亡し,
事業場内で5名が死亡した
(死亡率3.
1パーセント)

死亡原因は疾病であり,伝染病によるものが3名,一般疾病によるものが2名,1名は不明である。負傷者は156名,罹病者は10名である。(甲A7
の4,甲A7の5)


送還状況
1945年(昭和20年)11月27日,残留者2名を除く153名の中国人労働者が藤永田大阪事業場を出発し,
中国に送還された。
(甲A7の4)



港運大阪安治川事業場

事業場の概要及び移入の経緯
港運大阪安治川事業場は,大阪市内にあった港運業界の事業場である。港運大阪安治川事業場においては,太平洋戦争の開始以降,人手が不足していたところ,中国人労働者の日本国内への移入があることを聞き,これを申し込んだ。
(甲D1の1)


移入状況
港運大阪安治川事業場には,日本港運業界と華北労工協会との間の200名の行政供出の契約に基づき,1944年(昭和19年)10月10日,200名の中国人労働者が塘沽から乗船し,同月19日,港運大阪事業場に受け入れられた。
港運大阪安治川に供出された200名の中国人労働者は,最高齢が53歳,最年少が17歳で,平均年齢は27歳であった。家族構成については不詳である。
(甲A7の4,甲D1の1)


労働内容
中国人労働者は,大阪港石炭運送株式会社専属の荷役労務員として,石炭集散地である安治川沿岸を中心に,主に築港,木津川,尻無川の各沿岸において労働し,時には解体作業を行っていた。
(甲A7の6,甲D1の1)


労務管理の状況
事業場は,官憲の指導の下,関係職員らができ得る限り意思疎通を図り,作業能率を増進するものとされていた。現場への往復に当たっては指導員が引率していた。
(甲D1の1)

衣食住の状況
港運大阪安治川事業場の作成した事業場別華人労務者調査報告書には,中国人労働者には,被服として,作業服,シャツ,靴下,地下足袋等が配給された旨記載されている。
食事については,上記報告書には,十分な支給をするため常に努力し,メリケン粉,米,野菜,漬物等を提供したと記載されている(ただし,戦時中であることや,後記のとおり,事業場内において死亡者が発生していることなどからすれば,必要な量の食事が支給されていたとは認め難い。。)
宿舎は,木造の中2階で,別棟には炊事場,浴場があった。
(甲D1の1)


死亡者及び傷病者数
港運大阪安治川事業場に移入された中国人労働者200名のうち,事業場内で12名が死亡した
(死亡率6パーセント)死亡原因は疾病であり,

伝染
病によるものが6名,一般疾病によるものが6名である。罹病者は211名である。
(甲A7の4,甲A7の5,甲D1の1)


送還状況
中国人労働者188名は,1945年(昭和20年)11月12日,塘沽に
送還された。
(甲A7の4)


港運大阪川口事業場

事業場の概要及び移入の経緯
港運大阪川口事業場は,
日本港運業界に所属し,
1944年
(昭和19年)
10月18日,大阪市西区内に開設された。
日本港運業界は,戦局が苛烈になるに伴い,港湾荷役及び鉄道運輸の労務者の需給の要望が高まったため,運通省のあっせんにより,華北労工協会と契約を締結し,港運大阪川口事業場には,200名の行政供出がなされた。(甲D25の2)

移入の状況
200名の中国人労働者は,1944年(昭和19年)10月10日,塘沽から乗船し,同月19日,港運大阪川口事業場に受け入れられた。港運大阪事業場に供出された中国人労働者は,最高齢が51歳,最年少が17歳,平均年齢が30歳であり,大部分が独身であった。
(甲A7の4)


労働内容
湾岸倉庫,鉄道荷役(甲A7の6)


労務管理の状況
港運大阪川口事業場においては,中国人労働者を監督する者として選任指導者が置かれ,警察署からは,特高係1名のほか,巡査2名の常置派遣を受け,外事課近畿海運局より,専任係員が随時出張し,指導監督に当たった。(甲D25の2)


宿舎の状況
宿舎は,3階建(地下1階)の洋風建物であった。
(甲D25の2)


死亡者及び傷病者数
港運大阪川口事業場に受け入れられた中国人労働者200名のうち,事業場において11名が死亡した
(死亡率5.
5パーセント)死亡原因は疾病で

あり,伝染病によるものが8名,一般疾病によるものが3名である。また,負傷者は22名,罹病者は88名である。
(甲A7の4,甲A7の5)


送還状況
中国人労働者189名は,1945年(昭和20年)11月12日に塘沽に送還された。
(甲A7の4)


港運大阪築港事業場

事業場の概要及び移入の経緯
港運大阪築港事業場は,大阪にあった港運業界の事業場である。同事業場は,日本国政府の命により,日本港運業界大阪支部の下に,大阪築港管理事務所を設置した。
(甲D24の11)


移入状況
港運大阪築港事業場には,福昌華工との191名の特別供出の契約に基づき,1944年(昭和19年)4月,191名の中国人労働者が大連から乗船し,同月20日,港運大阪築港事業場に受け入れられた。また,華北労工協会との間における270名の行政供出契約に基づき,同年10月16日,270名の中国人労働者が塘沽から乗船し,同月22日,269名が港運大阪築港事業場に受け入れられた(船中で1名死亡)

港運大阪築港事業場に供出された中国人労働者の年齢構成及び家族構成は不詳である。
(甲A7の4)


労働内容及び労務管理
中国人労働者は,主として船内荷役をし,沿岸倉庫等の荷役作業にも従事した。事業場は,官憲の指導により,中国人労働者を日本人及び朝鮮人とは隔離して処遇していた。
(甲A7の6,甲D24の11)


衣食住の状況
事業場報告書には,衣服は,移入時に着用していた服の上に,厳寒作業中は防寒のために毛布を代用していたこと,食料についても,日本人及び朝鮮人と同様の量を与えられていたが,副食物は不十分であったこと,戦争後期は食料の入手に苦労をしていたことが記載されている(ただし,戦時中であることや,後記のとおり,事業場内において死亡者が発生していることなどからすれば,必要な量の食事が支給されていたとは認め難い。。

宿舎は,大阪市八幡屋北国民学校分教場を借り受けて使用していたが,1945年(昭和20年)6月1日に戦災により焼失してからは,安治川宿舎を使用し,同年7月1日に大阪市営築港公設市場を借用していた。(甲D24の11)

死亡者及び傷病者数
外務省報告書によれば,港運大阪築港事業場に移入された中国人労働者461名のうち,1名が移入時の船中で死亡し,事業場内で55名が死亡し,合計56名が死亡したとされている
(死亡率12.
1パーセント)死亡原因

については,
傷害が5名,
疾病が51名で,
疾病死のうち,
伝染病が16名,
一般疾病が30名,不名が5名であるとされている。
負傷者は27名,
罹病者は269名,
障害を負ったものが1名である。
(甲
A7の4,甲A7の5)


送還状況
第一次移入者のうち182名
(9名が事業場内で死亡)1945年
が,
(昭
和20年)11月6日,港運大阪築港事業場を出発し,大連に集団送還された。第二次移入者のうち1名の残留者を除く208名(46名が事業場内で死亡)が,同月12日,塘沽に集団送還された。なお,第二次移入者のうち14名は中途帰国している。
(甲A7の4,甲D24の4)


原告ら及び本件被害者ら

a1及び原告A1
原告A1の父a1は,日中戦争中,鹿島組花岡事業場で労務に従事した後,1945年(昭和20年)9月4日,黄疸で死亡した。
(甲A6の1,
甲E1の1,甲E1の5)
原告A1は,陳述書(甲C16の1,甲C16の2)において,以下のとおり供述している。
父a1は,1945年(昭和20年)の旧暦1月23日に,私服の漢奸(日本国に協力する中国人)に連れ出され,日本軍に捕まって花岡で労工にさせられた。その後,父a1が日本で亡くなったことを聞き,当時の家族である祖母,母,姉及び兄は全員非常に衝撃を受けた。家族の生活は苦しく,いつも飢えに耐えながら生活し,そのような中,母は病気で倒れ,64歳で死亡した。原告A1は,父a1が連れ出された後の同年の旧暦3月1日に生まれたため,父a1に会ったことがなく,その愛情を受けたこともない。

a2及び原告A2
原告A2の父a2は,日中戦争中,鹿島組花岡事業場で労務に従事していた。
(甲C17の2,甲E2の1,甲E2の5)
原告A2は,陳述書(甲C17の1,甲C17の2)において,以下のとおり供述している。
父a2は,周囲の多くの青年たちとともに,中国共産党の影響下,革命組織に参加していた進歩青年であったが,1945年(昭和20年)3月15日,19歳の時に,党組織の会議に参加するための準備をしていたことを知った日本兵に包囲されたため,同志を逃がして自らは捕まり,しばらく監禁された後,青島に送られて日本に向かう船に乗せられ,同年5月5日,
鹿島組花岡事業場に到着し,
強制労働に従事させられた。
父a2は,
終戦後,中国の天津に戻ったが,そのときには骨と皮ばかりにやせ細っていた。父a2が捕まった後,祖父は心労のため死亡し,祖母も泣き続けた余り失明した。父a2は,その後,兵として多くの功績を挙げ,1970年(昭和45年)に退職し,1985年(昭和60年)5月,60歳で死亡した。


a3及び原告A3
原告A3の父a3は,日中戦争中,鹿島組花岡事業場で労務に従事し,1945年(昭和20年)7月7日,胃腸カタル,日射病で死亡した。a3は,日本では,a3’と名乗っていた。
(甲A6の1,甲E3の4,甲E
3の5)
Dは,陳述書(甲C18の1,甲C18の2)において,自らは原告A3の子であると述べ,子供の頃祖母からよく聞かされた話として,以下のとおり供述している。
祖父のa3は,戦前,布を売って生計を立て,曾祖父母,原告A3,伯父,祖母とともに裕福な家庭環境で過ごしていたが,日本軍による悪行のため,商売ができずに生活苦となった。祖父a3は,抗日聯軍に所属し,捕まったときに備えて身分を隠すため,
a3からa3’
に改名していたが,
1943年(昭和18年)1月に開かれた重要な会議の席で,裏切りによって捕まって投獄され,以後は音信不通になった。残された家族は飢えと寒さに苦しみ,家族は,祖母と原告A3の2人を残して相次いで亡くなった。戦後,祖母は,仲間が持ち帰った祖父a3の遺骨と対面した。エ
a4及び原告A4
原告A4の父a4は,
日中戦争中,
鹿島組花岡事業場で労務に従事した。
(甲E4の1,甲E4の2)
父a4は,花岡事件の被疑者として,1945年(昭和20年)7月13日,秋田刑務所に護送され,同年9月11日,秋田地方裁判所において殺人及び殺人未遂の罪で懲役10年の判決を受けた。
(甲C3)
Eは,陳述書(甲C19の1,甲C19の2)において,自らは原告A4の子であると述べ,以下のとおり供述している。
祖父a4は,国民党の軍に所属していたが,1944年(昭和19年)春に,
日本国の捕虜となり,
鹿島組花岡事業場で1年余り労役を強いられ,
耐え難い状況の中,大隊長の指導の下,中隊長として花岡事件の暴動を起こした。秋田刑務所においても虐待を受け,戦後は,東京裁判において証人となった。
1948年
(昭和23年)
の秋頃,
帰国して兵役に就き,
1950年
(昭
和25年)2月1日に除隊し,1981年(昭和56年)6月17日に病死した。

a5及び原告A5
原告A5の父a5は,
日中戦争中,
鹿島組花岡事業場で労務に従事した。
(甲C22の1,甲C22の2,甲E5の4,甲E5の5)
原告A5は,陳述書(甲C22の1,甲C22の2)において,以下のとおり供述している。
1945年(昭和20年)旧暦2月18日,日本軍らが山東省荘平県張家楼村を襲撃し,
村の老若男女333名が殺害され,
271名が負傷した。
このとき,父a5は,隣家の干し草の中に隠れていたところを,銃剣で足を7,8か所刺され,捕まった。
父a5は,荘平県にある牛舎に監禁された後,済南まで連行され,青島から貨物船に乗って鹿島組花岡事業場まで連れていかれた。現場では重労働を強いられ,
少しでも仕事が遅いと殴られた。
食べ物はどんぐりの粉で,
満腹にならないばかりか,よくお腹を下し,多くの者が餓死したり,殴り殺されたりした。父a5らは,日本国の補導員による虐待に耐えかね,花岡事件を起こし,獅子が森に逃げ込んだが,大勢の警察と地元の村民らが山狩りを始め,父a5は,捕まって縄で縛られたまま共楽館広場に連行された。一面の砂利石の上に,膝立ちの姿勢でひざまずかされ,膝が破れ,骨が見えるほどになり,3日3晩飲み物も食べ物も与えられず,灼熱の日ざしにさらされ,このときにも多くの者が死んでいった。その後,再び現場に連れ戻され,重労働を強いられた。
1945年
(昭和20年)父a5は中国に戻ったが,

2番目の叔父と子
供2人が日本兵に殺されていたことを知り,精神的ショックで胃潰瘍と精神錯乱を患い,1979年(昭和54年)には脳血栓のため半身不随になり,1992年(平成4年)に亡くなった。

a6及び原告A6
原告A6の父a6は,
日中戦争中,
鹿島組花岡事業場で労務に従事した。
(甲C20の1,甲C20の2,甲E6の1,甲E6の2)
原告A6は,陳述書(甲C20の1,甲C20の2)において,以下のとおり供述している。
父a6は,1945年(昭和20年)2月,トーチカを築きに来ていた日本軍に抗議したため漢奸に捕らえられ,青島の倉庫に監禁され,貨物船で日本に送られ,花岡の中山寮に連行された。
中国人労働者は,凍えるような寒さの中で,セメント袋を体に巻いて防寒し,どんぐりを挽いて蒸したもので飢えをしのいでいた。木造の部屋で雑魚寝をしていたが,雨風をしのぐことはできず,室内は薄暗く湿気に覆われ,地面は絶えず水が滴り,蚊にかまれて全身のかさぶたから血が流れていた。作業は,鉱毒の発生を防止する池を迂回するため,山に沿って暗渠を掘る,土石で一杯になったもっこを2人で運ぶというものだった。1度に運ぶ重さは数百斤で,1日十数時間も働かされ,補導員は,絶えず罵り叫びながら中国人労働者を監視し,容赦なくこん棒で殴っていた。1945年
(昭和20年)
6月,
突貫工事が始まり,
中国人たちの労働時間は,
毎日十二,三時間であったのが十五,六時間に延長され,そうであるのに食料は少しも増えず,餓死者はますます増えていき,ひそかに野草やわら半紙を口に入れて飢餓に耐えていた。父a6は,花岡事件の際には,棒で背中や腰を殴打され,腰部は内出血で腫れ上がり,帰国後も,雨天や曇天の際には,激しい痛みが残存していた。
終戦後の1945年(昭和20年)12月3日に塘沽港に到着し,徒歩により帰宅した。
1946年
(昭和21年)眉村郡の武装工作隊に入った

ものの,1949年(昭和24年)
,花岡で罹患した気管支炎,胃潰瘍が悪
化したため故郷に戻り,農業,中国共産党支部の書記,高校の運営に携わっていたが,
1997年
(平成9年)
10月21日,
肺の病気で死亡した。

a7並びに原告A7,原告A8,原告A9及び原告A10
原告A7,原告A8,原告A9及び原告A10の父a7は,1928
2)
父a7は,平成27年(2015年)5月16日,原告ら代理人に対し,以下のとおり述べた。
(甲C23の3)
1943年(昭和18年)
,河北省唐山市玉田県のゲリラ小隊に加わ
り,日本軍と戦っていたが,同年か翌年の冬,任務遂行中に,日本軍等に捕まった。その後,遵化監獄に連行され,唐山への移送を経て,北京の西苑の拘置所で1か月ほど過ごし,青島に移送され,鉱石の運搬船で鹿島組花岡事業場に連れていかれた。
当時16歳であったが,事業場では,建物を建てたり,隊長の世話係として働いたりしていた。仕事ができなかったり,話が分からなかったりしたときには,補導員から平手打ちを受けた。
冬は,中国にいた際に着ていた単衣の服以外に,支給された服1枚しかなく,寒さのあまり現場に置いてあるセメント袋を切り裂いて身に着けていた。
花岡事件の際は,暴動には参加しなかったが,周りの中国人労働者とともに布団1枚を背負って獅子が森に逃げ込み,憲兵及び警察官の山狩りによって捕まえられた。人数を数えられるたびに1人1人こん棒で頭を殴られ,共楽館広場において,厳しい日ざしの中,2日間砂利石だらけの地面にひざまずかされ,水も食料も与えられず,警察官にこん棒で殴られた。このときには,飢え,暑さ,病気などにより100名余りが死亡し,死体はトラックで運ばれていった。
戦後,帰国したが,体はリウマチに侵され,手が震えるようになり,物がつかめなくなり,農業に従事していたが,60年以上にわたり仕事に支障が生じた。
原告A7は,陳述書(甲C23の1,甲C23の2)において,以下のとおり陳述している。
原告A7が生まれる前に,当時一家で唯一の労働力だった父a7が強制連行され,残された家族は極めて苦しい状況に追い込まれ,祖母と母が物乞いをしながら,その後生まれた原告A7を養育してきた。
父a7は,帰国後,全身傷病に苦しみ,重労働ができなくなった。このため,母が働いて原告A7を含む4名の子(以下原告A7らという。)
を養育してきたが,過労がたたって1956年(昭和31年)に死亡し,祖母が原告A7らを連れて物乞いをし,ようやく生き延びた。原告A7らは,進学することも,軍に入ることも,仕事に就くことできず,差別を受け続けた。

a8及び原告A11
原告A11の父a8は,日中戦争中,鹿島組花岡事業場で労務に従事した。
(甲E8の1,甲E8の5)
原告A11は,陳述書(甲C21の1,甲C21の2)において,以下のとおり供述している。
父a8は,1939年(昭和14年)に中国共産党に加わったが,1944年(昭和19年)4月,任務遂行中に日本国の特務機関に捕まり,無極県の日本憲兵隊に連行され,何度も拷問を受けた後,石門市の俘虜収容所でひどい待遇を受けた。同年5月,北平西苑の一四一七憲兵甦生隊に移され,ここでもひどい待遇を受けた。同年8月,青島に送られた後,貨物船に乗せられて,花岡に連行され,耐え難い重労働を強いられ,虐待と非人道的な境遇を受けた。父a8は,帰国後も,長期にわたり部隊で働いていたが,日本に行った経緯が誤解され,父a8の仕事や子の入隊及び仕事にも影響した。父a8は,花岡受難者聯誼会の会長を務め,生存している中国人労働者や遺族とともに,鹿島建設(旧鹿島組)との間で和解を成立させた。

a9及びa10並びに原告A12
原告A12の祖父a9及び父a10は,日中戦争中,鹿島組花岡事業場で労務に従事した。祖父a9は,1945年(昭和20年)7月12日,赤痢で死亡した。甲A6の1,

甲C24の1,
甲C24の2,
甲E9の1,
甲E9の2,甲E9の5)
原告A12は,陳述書(甲C24の1,甲C24の2)において,以下のとおり供述している。
祖父a9は,1894年(明治27年)生まれであり,父a10は1926年(大正15年)生まれである。a9の家は製紙業を営んでいたところ,その製品を八路軍(日中戦争期に華北で活動した中国共産党軍)に提供していたために,1944年(昭和19年)4月8日,祖父a9が,保定城内で紙を売り終えて帰宅する途中に日本軍らに捕まった。父a10は,祖父a9を救い出すために家財一切を売り払ったが,八路軍に通じていると疑われ,同月22日早朝,日本国の憲兵と中国の特務により,自宅から連行された。その後,祖父a9と父a10は,石門南兵営,北京の西苑俘虜収容所,青島を経て,鹿島組花岡事業場まで連行された。
祖父a9及び父a10は,その後老人班に入れられ,山で柴刈りをして運搬する仕事を行っていたが,1945年(昭和20年)3月,祖父a9は,過労と飢餓によって倒れたため,病舎に入れられ,父a10も看護班に配転された。鹿島組花岡事業場では,医者も薬も欠乏しており,病人は治療を受けることもなく,食料を半減され,死を待つばかりであった。看護の仕事の内容は,
毎日のように亡くなった中国人労働者の死体を火葬す
るというものであった。祖父a9は,飢えのあまり,日本国の補導員が食事の号令をかける前に食べ物に手をかけたことから,補導員に殴られて病状が悪化し,同年6月中旬に死亡した。父a10は,花岡事件に参加して捕えられた後,
他の中国人労働者とともに一面砂利石が引かれていた共楽
館広場に3日3晩ひざまずかされ,少し動いただけで警官から殴られ,前歯も折られた。事件後,祖父a9を含む100名以上がまとめて火葬された。父a10は,どれが祖父a9の遺骨か分からず,やむなくいくつかの遺骨を拾った。
戦後,父a10は帰国した。

a11並びに原告A13及び原告A14
原告A13及び原告A14の父a11は,日中戦争中,藤永田大阪事業
原告A14は,陳述書(甲D30の1,甲D30の2)において,父a11から,当時の状況を以下のとおり聞かされていたと供述している。
1943年
(昭和18年)県医学学校の学生だった16歳のときに,


奸に捕まり,監禁された。食べ物もろくに与えられず,夜になると木で作った籠の中に入れられ,監視員が顔を洗ったあとの水しか飲めない状況であった。
その後,塘沽に連れていかれたが,そこでの規則を知らなかったため,怒鳴られたり,殴られたりしてすごした。食べ物は,トウモロコシの粉で作ったマントウ1個だけで,中まで火が通っておらず,生であったため,多くの人が下痢になり,病気になる者が続出していた。病気になっても治療を受けることができず,放置され,数日後にはそのまま死ぬという状況であった。
1か月後,船で日本に向かい,藤永田造船所まで連行され,大きな木造の建物に住まわされた。若かったため,比較的軽い仕事を与えられたが,毎食1個の小さなマントウが支給されるだけでいつも空腹であり,冬も一重の服しかなかったため,セメント袋を体に巻き付けて暖をとっていた。日本人の監督からは殴られたり,けがをしても休むことなく働かされたりした。
昭和20年(1945年)8月頃,空爆が始まり,宿舎は破壊された。終戦後の同年11月頃,船で塘沽まで戻り,物乞いをしながら帰郷した。サ
a12及び原告A15
原告A15の父a12は,1944年(昭和19年)10月10日,青島から乗船し,同月18日,大阪築港に到着し,同月19日,港運大阪築港事業場で労務に従事した。戦後,1945年(昭和20年)11月博多から出港し,同月12日,帰国して塘沽に到着した。
(甲D1の1,甲E1
1の1,甲E11の2)
原告A15は,陳述書(甲D11の1,甲D11の2,甲D22の1,甲D22の2)において,以下のとおり供述している。
父a12は,18歳であった1944年(昭和19年)7月,行商先の原武県(現在の原陽)で日本軍に捕まり,その後,県城北関小駅の建物に連行された。翌日,同様に捕まっていた他の約100名とともに,有蓋車に詰め込められて新華院に送られ,そこで1か月の間,1日10時間を超えて,山で穴を掘りガソリンを埋める労働をさせられていた。まともな衣服もない状態で,毎日粗末な食事をとり,日本人の監督から暴行も受けていた。
その後,
日本人に監視された状態で汽車に乗せられて青島に送られ,
同年10月19日,船で青島を出発し,日本まで向かうこととなった。船中では毎日トウモロコシの粉で作ったマントウ1つとニンニクだけでしのいでいた。
父a12は,1944年(昭和19年)10月18日,大阪築港に上陸し,翌19日,港運大阪安治川事業場に連行された。同事業場では,船で石炭の荷役作業を行った。毎朝6時に僅かな食事をとり,日本人に連れられてふ頭まで行き,百斤を超える石炭を天秤棒で運び,午後にマントウ1つと水だけが支給された後,引き続き荷役作業を行い,1日十数時間働いていた。食事が粗末なため,中国人労働者は骨と皮ばかりにやせ細った。病気になった者は,治療を受けることなくそのまま死んでいった。終戦後,
1945年
(昭和20年)
11月12日に塘沽に送還されたが,
日本にいた際に患った胸の病気のために働くことができず,八路軍に加わったが,1年余りで病気により除隊した。
父a12は,
1985年
(昭和60年)肺結核及び肺気腫と診断され,

専門病院で1か月入院した。しかし入院費が払えなくなったため,地元の病院でさらに1か月入院し,その後も医療費がかさんだため,自宅で療養した。入院費のための借金と,毎日の薬代,注射代で生活は苦しいものであった。原告A15は,父a12が働けないため,母と姉と共に農業を行っていた。
自宅療養を続けていた父a12は,1998年(平成10年)12月21日,肺気腫による呼吸困難で死亡した。
原告A15は,1999年(平成11年)には,父a12の入院費の返済ができなかったため,1週間拘置所に入れられるなどしたが,2010年(平成22年)にようやく借金の返済を終えた。

a13及び原告A16
原告A16の祖父a13は,1944年(昭和19年)10月22日,華北労工協会の行政供出により,藤永田大阪事業場で労務に従事し,終戦後,1945年(昭和20年)11月12に日に塘沽に送還された。(甲E
12の1,甲E12の4,甲D29)
原告A16は,陳述書(甲D26の1,甲D26の2)において,以下のとおり供述している。
祖父a13は,1944年(昭和19年)7月18日,日本兵に捕らえられ,石家庄の南兵営にある労工訓練所に送られた。労工訓練所は,鉄条網や電気を通した鉄条網,水溝に囲まれ,数十メートルごとに見張り台があり,各所に重装備の兵士が見張っていた。食事は1日2食の高粱飯であった。
ダニやノミであふれていた不衛生な小さな小屋に数十人が押し込められ,日本兵に警棒で殴られたり,全く日のささない水牢に入れられたりして,毎日七,八十人が死んだ。病人が出ても治療は受けられず,息のあるうちから万人坑(生き埋めにするための場所)に投げ込まれた。同年9月28日,塘沽収容所に送られ,そこでは1日にトウモロコシの粉で作った小さな餅2つと冷たい水を与えられるのみで,食べると腹を下すような状態であった。そこにいる人々はもはや立つことさえできず,喉が焼き付くように乾いていたため,水たまりに群がって泥水を飲んでいた。こうした境遇に耐え切れずに,何人かが脱走を試みたが,日本兵に捕まり,丸裸にされた上,鉄条網を支えていた柱に縛り付けられ,凍死か餓死させられた。
1944年(昭和19年)10月16日,塘沽から船に乗せられ,同月22日,大阪に到着し,築港一帯で囚人同様の生活を強いられた。築港では,食べ物にも事欠き,体にはぼろ毛布を羽織り,ぼろ靴を履いていた。冬も一重の服で,屋内には火もなく,板張りのみすぼらしい小屋で生活をしていた。海辺で貨物船の荷役を毎日13時間くらい強いられ,少しでも作業が遅いと監督にさんざん殴られた。傷病者に対してもまともな治療はなく,飢えと寒さで20名余りが死んだ。荷役の他,大阪市内まで石炭を運ばされたり,三菱株式会社や三井造船まで荷物を運ばされたりした。劣悪な労働環境であり,風呂も入れないために,体の至るところに潰瘍ができており,治療も受けられないため,異臭を放ち,街で日本人から大声で

くさい,くさい。

と叫ばれた。戦後,帰国したが,日本での虐待によって全身が疥癬に侵され,生活能力を失った。その後,1991年(平成3年)に病気で死亡した。祖父a13が連行された後,祖母と当時9歳の母が残され,3か月後,祖母は男子を産んだが,労働力を奪われ,畑仕事をする者がいなかったため,食べ物さえ買えず,子は餓死してしまった。祖父a13を取り戻すために家を売り,漢奸にお金を払ったが,取り戻すことはできず,苦しい生活の中,泣き続けた祖母は失明してしまった。

a14及び原告A17
原告A17の父a14は,日中戦争中,港運大阪川口事業場で労働を行った。
(甲D15の1,甲D15の2,甲E13の1,甲E13の2)
父a14は,
2010年
(平成22年)
8月19日,
原告A15に対し,
以下のとおり述べた。
(甲D15の1,甲D15の2)
1944年(昭和19年)抗日遊撃隊に加わったが,

漢奸に売り渡され,
戦いを経て日本兵に捕まり,縄で縛られたまま洛陽にある西宮の営倉に連れていかれ,20日ほど,生のトウモロコシの粒や汚れた水を飲む日々を送った後,新華院に送られた。そこでは,1日2回の食事が支給され,板張りで寝ていた。
1週間後,
青島に行き,
船で日本に向かった。
船中では,
鉱石の上に座って寝ていた。
日本に到着後,
港運大阪川口事業場に送られ,
1枚15キログラム以上ある鉄の板を1日何トンも船から降ろすなどの荷役作業を行った。トロッコを押して物を運んでいた際,下り坂で止められず,トロッコが柱にぶつかって横転し,物が落ちてしまい,監視に木刀でたたかれ,足で蹴られたことがあった。食事は,朝にはマントウ1個と黒い粉のかゆ1椀,昼にはおにぎり1個,夜にはマントウ1個にかゆ1杯が支給されるのみであった。賃金は全く支払われていない。終戦後,中国に戻り,国民党で兵役に就き,退役後は鋼鉄工場で運転手になったが,1960年(昭和35年)に,日本で労工になっていたことが原因で故郷に戻り,農業を行っていた。
原告A17は,陳述書(甲D27の1,甲D27の2)において,上記
原告A17が5歳の頃,家の入口に毎日叛徒特務自白しろ


などと記載された多くの壁新聞が張られ,多くの人々が家にやってきて,父a14を指さして罵った。学校に行くようになっても,誰も遊んでくれず,唾を吐きかけてくる者がいて,
叛徒悪者の娘と言われた。

1975年
(昭和50年)兄は徴兵募集に応じたが,

政治審査で父a1
4の経歴が問題となり,審査で落とされた。自身も,1976年(昭和51年)に女性兵士に応募したが,同様の理由により審査で落とされた。父a14は,
濡れ衣が晴れたあと,
ようやく仕事に復帰でき,
1985年
(昭
和60年)に退職したが,2011年(平成23年)5月10日に病死した。

原告A18
証拠(甲A4,甲12,甲13の2,甲C3,甲E14の5の1,甲E14の5の3,原告A18本人)によれば,以下の事実が認められる。原告A18は,1923年(大正12年)5月18日,河北省新楽県化皮村で生まれ,家業の農業の手伝いをしていたが,日本軍の攻撃や略奪により農作業ができなくなったため,19歳で中国共産党に入党し,八路軍に加わり,ゲリラ隊に所属していた。
1944年(昭和19年)春,任務遂行中に,日本軍に戦闘の末捕まり,有蓋車に詰め込まれて鉄条網,高圧線と深さ4メートルくらいの堀で囲まれた石門俘虜収容所に連行された。逃げようとした者が感電死したこともあった。そこでの食事は1回1杯の高粱飯であり,飢えと病気で多くの者が亡くなった。また,特に訓練を受けることもなかった。
石門俘虜収容所から,日本兵の監視の下,有蓋車で3日をかけて北京西苑収容所に連行されたが,その間,飲食物を与えられず,閉じ込められたままであった。移動中に多くの者が死亡し,死体は外に投げ捨てられた。西苑収容所では,ハエたたきの仕事をしたり,草むしりをしたりしていた。その後,青島から船に乗り,鉄鉱石の上に寝かされ,日本に向かった。
日本に到着した後,鹿島組花岡事業場に連行され,暗渠で仕事をしたり,宿舎である中山寮の近くの土地で畑を作るなどしていたが,賃金は支給されていない。
食事は3回で,朝昼はどんぐりの粉でつくったウオトウで,食べると下痢をした。山に行って木の葉や野草を採ってきて食べており,夜はどんぐりの粉の入ったかゆがでた。
1日に十五,六時間ほど働き,堀を掘るときには水が足に浸かったまま作業をしたため,凍傷になった。
その後,花岡事件を起こし,獅子が森に向かったが,そこで銃で撃たれ,今でも顔に傷が残っている。容疑者として逮捕された後,厳しい取調べを受け,秋田地方裁判所で,補導員を殺害したことにより懲役6年の判決を受けた。
終戦後,帰国し,家族に会い,抱き合って泣いた。中国共産党に復党したいと頼んだが,相手にしてもらえなかった。

a15及び原告A19
原告A19の父a15は,
1944年
(昭和19年)華北労工協会の行

政供出により塘沽から乗船し,同年10月22日大阪に上陸し,同日,港運大阪築港事業場に移入され,労働を行った。その後,1945年(昭和20年)11月6日,港運大阪築港事業場を出発し,博多から乗船し,同月12日,塘沽に送還された。
(甲D24の5,甲E15の1,甲E15の
2)
原告A19は,陳述書(甲D28の1,甲D28の2)において,以下のとおり供述している。
父a15は,中国共産党に入党し,村民兵連連長を務めていた。1944年(昭和19年)旧暦7月8日,民兵を率いて地下道を掘り,深夜,家で休んでいたところ,漢奸が引き連れてきた日本兵数人により,父a15らを銃剣で脅して監禁し,拉致した。父a15が捕まり,主要な働き手がいなくなったため,残された家族は生活が極めて困難になった。
父a15は,
石家庄南兵営に護送され,
十分な食事や衣服を与えられず,
虐待も受けた。1944年(昭和19年)9月初め,天津の塘沽港に護送され,同年10月に貨物船で大阪築港に連行された。築港では,1人で100キログラムの麻袋を運ばされ,運べない場合には,日本人の監督にひざまずかせられ,死ぬほど殴りつけられた。食事は主にどんぐりの粉で,毎日十数時間の労働を強いられた。父a15は,十二指腸潰瘍や腰を患ったが,治療を受けることはできなかった。
父a15は,1945年(昭和20年)に帰国して,1948年(昭和23年)には中国人民解放軍に参加したが,病気がちのために退役して就労し,文化大革命中に,日本に連行されたという理由のみで迫害され,死亡した。なお,原告A19は,父a15の亡骸を見ることができず,遺骨も引き渡されなかった。

原告A18を除く原告らの陳述書の記載は,本件被害者らやその家族などから聞いた話であり,反対尋問を経ていない供述であるが,上記⑴ないし⑽で認定した中国人労働者の労働実態にかんがみて,細部にわたる部分の正確性はともかくとして,関係する中国人労働者に関し,同記載のような出来事があったものと認めるのが相当である。

2認定事実2


終戦及び送還

アメリカ,
イギリス及び中華民国は,
1945年
(昭和20年)
7月26日,
日本国に対する降伏の勧告と,
軍国主義的指導勢力の除去,
戦争犯罪人の厳罰,
連合国による占領,領土の制限,日本の徹底的民主化などの降伏条件と戦後の対日処理方針とを定めたポツダム宣言を発出し,日本国政府は,同年8月14日,ポツダム宣言を受諾した。
(甲B2)


日本国政府は,1945年(昭和20年)9月2日,降伏文書に調印し,これによって戦争は終結した。降伏文書には,日本国政府に対し,現に日本国の支配下にある一切の連合国俘虜及び被抑留者を直ちに解放し,
その保護,
手当,
給養及び指示された場所への即時輸送のための措置を執るように命じるとの記載がなされていた。
(甲B47)



1945年(昭和20年)8月17日,内務省主管防諜委員会幹事会において,船腹の都合がつき次第,速やかに中国人労働者全員を帰国させ,不可能であれば一部でも帰国させるという方針を決定し,中国人労働者の作業の中止,帰国の準備,その他当面必要な措置を執るべきことを申し合わせた。そして,日本国政府は,中国人労働者の送還につき,華人労務者帰国取扱要領を定めた。同要領には,中国人労働者の帰国は,おおむね1945年(昭和20年)9月下旬に開始し,同年10月中旬に完結するようにすること,引き続き在留を希望する者については在留を認めること,病者で直ちに帰国させることができない者は,雇用者において引き続き養護を行い,別途帰国させること,
帰国までの間,
労働を希望する者に対しては就労させても差し支えないが,
雇用者において絶対に強制はしてはならないこと,自活のための軽労働には進んで従事するよう指導することと記載されていた。
しかし,実際には,中国人労働者の送還は,華人労務者帰国取扱要領に定めた期間内に完了することが到底望み得ない状況にあった。そこで,日本国政府は,中国人労働者の送還を迅速に進めるため,送還計画を練り直し,連合国司令部に対し,積極的な援助を要請した。連合国司令部は,同要請を受け入れ,アメリカ軍上陸用舟艇(LST)による長崎県南風崎からの送還を提案し,これによる送還も併せて行うこととなった。
上記方針に従い,日本国政府は,1945年(昭和20年)10月2日,北海道関係の4事業場における1534名の中国人労働者を室蘭港より送還し,同月9日には,伏木,新潟及び赤谷における1653名の中国人労働者を新潟港より送還し,その後,博多,室蘭,新潟等から合計40集団1万1925名の中国人労働者を送還した。また,アメリカ軍の上陸用舟艇により,同年11月29日から同年12月7日にかけて,4回にわたり中国人労働者合計1万9686名を佐世保から送還した。
(甲A7の4)
3認定事実3


戦後処理

サン・フランシスコ平和条約

日本国は,第二次世界大戦後,連合国の占領下におかれたが,1951年(昭和26年)9月8日,サン・フランシスコ市において,連合国48か国との間で,
サン・フランシスコ平和条約を締結し,
1952年
(昭和27年)
4月28日,同条約の発効により,独立を回復した。同条約は,第二次世界大戦後における日本国の戦後処理の骨格を定めることになったものであり,各連合国と日本国との間の戦争状態を終了させ,連合国が日本国民の主権を承認するとともに,領域,請求権及び財産等の問題を最終的に解決するために締結されたものである。
しかし,
中国が講和会議に招請されなかったほか,
インド等は招請に応じず,ソヴィエト社会主義共和国連邦等は署名を拒んだため,全ての連合国との間の全面講和には至らなかった。
(公知の事実)


中国は,連合国の一員として,本来,講和会議に招請されるべきであったが,1949年(昭和24年)に成立した中華人民共和国政府と,これに追われる形で台湾に本拠を移した中華民国政府が,いずれも自らが中国を代表する唯一の正統政府であると主張し,連合国内部でも政府承認の対応が分かれるという状況であったため,結局,いずれの政府も講和会議には招請しないこととされた。ただし,日本国における権益の放棄(サン・フランシスコ
はサン・フランシスコ平和条約の定める利益を受けるものとされた(同条約第21条)(甲B2)



日華平和条約等(甲B2)

日本国政府は,サン・フランシスコ平和条約の締結後,日本国政府と同条約の当事国政府との間では,上記⑴アに基づく役務賠償等に関する交渉を連合国各国と進めるとともに,サン・フランシスコ平和条約の当事者とならなかった諸国又は地域についても,戦後処理の枠組みを構築する二国間平和条約等を締結すべく交渉を行うこととなった。その結果,二国間賠償協定が締結され(フィリピン共和国等)
,あるいは,賠償請求権が放棄された(ラオス
人民民主共和国等)が,そこでは,当然ながら,個人の請求権を含めた請求権の相互の放棄が前提とされた。日本国政府は,サン・フランシスコ平和条約の当事国とならなかった諸国又は地域についても,個別に二国間平和条約又は賠償協定を締結するなどして,戦争賠償及び請求権の処理を進めていったが,これらの条約等においても,請求権の処理に関し,個人の請求権を含め,
戦争の遂行中に生じたすべての請求権を相互に放棄する旨が明示的に定められている。
そして,日本国及び中華民国は,1952年(昭和27年)4月28日,日本国と中華民国との間の平和条約を締結し,同条約は,同年8月5日に発効した。同条約には,以下の規定がある(なお,同条約におけるサン・フランシスコ条約は,サン・フランシスコ平和条約を意味する(下記イについても同じ。)
)。
第1条
日本国と中華民国との間の戦争状態は,この条約が効力を生ずる日に終了する。
第11条
この条約及びこれを補足する文書に別段の定がある場合を除く外,日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は,サン・フランシスコ条約の相当規定に従って解決するものとする。

日華平和条約の不可分の一部をなす議定書の1
(b)
には,

中華民国は,日本国民に対する寛厚と善意の表徴として,サン・フランシスコ条約第十四条(a)1に基づき日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄する。と

規定されている。


日華平和条約に関する交換公文には,日華平和条約の条項は,中華民国に関しては,中華民国政府の支配下に現にあり,又は今後入る全ての領域に適用があることが確認されている。



日中共同声明
日華平和条約の締結後も,中国においては,中華人民共和国政府と中華民国
政府とがともに正統政府としての地位を主張するという事態が続いたが,日本国政府は,田中角栄内閣の下で,中華民国政府から中華人民共和国政府への政府承認の変更を行う方針を定め,いわゆる日中国交正常化交渉を行い,日本国と中華人民共和国は,1972年(昭和47年)9月29日,日中共同声明を発出した。


日中平和友好条約
日本国は,
1978年
(昭和53年)
8月12日,
中華人民共和国との間で,
日中平和友好条約を締結した。同条約においては,日中共同声明が両国間の平和友好関係の基礎となるものであること及び日中共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認すると定められている。(甲B2)

4強制連行及び強制労働の事実等の有無について(争点⑴,別紙5関係)⑴

認定事実1のとおり,中国人労働者は,華北労工協会を中心に,日本現地軍も関与して,強制的に,又は真意に基づかずに生活の本拠から引き離され,石門などの労工訓練所で思想教育を含む訓練を施されて日本に移入した上,各事業場で,日本国政府の指示に基づく官憲の監視・取締りの下,衣食住も厳しく制約された劣悪な環境で重労働に従事したものであり,その中で虐待に当たるような取扱いを受けることもあって,多数の中国人労働者が命を落とした。本件被害者らを含む中国人労働者を,強制的に,又はその真意に基づかずに日本に移入し,各事業場で労働に従事させた上記の一連の行為は,上記⑴記載のとおり,日本国政府の策定した各要領等に基づき行われていることからすれば,日本国政府の国策として政府関係機関の全面的関与の下でされたというべきである。


争点⑵,⑶,⑷のうち,強制連行及び強制労働を含む日中戦争の遂行中に生
じた請求権に基づく本件被害者らの裁判上の請求に対しては,まず,被告主張の請求権放棄の抗弁(争点⑼)が問題になるので,次に検討する。5請求権放棄の抗弁について(争点⑼,別紙13関係)等⑴

サン・フランシスコ平和条約の枠組み等について

前記認定事実3のとおり,第二次世界大戦後における日本国の戦後処理の骨格を定めることとなったサン・フランシスコ平和条約は,いわゆる戦争賠償
(講和に際し戦敗国が戦勝国に対して提供する金銭その他の給付をいう。)
に係る日本国の連合国に対する賠償義務を肯認し,実質的に戦争賠償の一部に充当する趣旨で,
連合国の管轄下にある在外資産の処分を連合国にゆだね
2)などの処理を定める一方,日本国の資源は完全な戦争賠償
柱書)
,その負担
能力への配慮を示し,
役務賠償を含めて戦争賠償の具体的な取決めについて
は,日本国と各連合国との間の
1)
。そして,このような戦争賠償の処理の前提となったのが,いわゆる請求権の処理である。ここでいう請求権の処理とは,戦争の遂行中に生じた交戦国相互間又はその国民相互間の請求権であって戦争賠償とは別個に交渉主題となる可能性のあるものの処理をいうが,これについては,個人の請求権を含め,
戦争の遂行中に生じた相手国及びその国民に対する全ての
請求権は相互に放棄するものとされた(14条⒝




このように,サン・フランシスコ平和条約は,個人の請求権を含め,戦争の遂行中に生じた全ての請求権を相互に放棄することを前提として,日本国は連合国に対する戦争賠償の義務を認めて連合国の管轄下にある在外資産の処分を連合国にゆだね,役務賠償を含めて具体的な戦争賠償の取決めは各連合国との間で個別に行うという日本国の戦後処理の枠組みを定めるものであった。この枠組みは,連合国48か国との間で締結されこれによって日本国が独立を回復したというサン・フランシスコ平和条約の重要性にかんがみ,日本国がサン・フランシスコ平和条約の当事国以外の国や地域との間で平和条約等を締結して戦後処理をするに当たっても,その枠組みとなるべきものであった
(以下,
この枠組みを
サン・フランシスコ平和条約の枠組み
という。。サン・フランシスコ平和条約の枠組みは,日本国と連合国48か)
国との間の戦争状態を最終的に終了させ,将来に向けて揺るぎない友好関係を築くという平和条約の目的を達成するために定められたものであり,この枠組みが定められたのは,平和条約を締結しておきながら,戦争の遂行中に生じた種々の請求権に関する問題を,事後的個別的な民事裁判上の権利行使をもって解決するという処理にゆだねたならば,将来,どちらの国家又は国民に対しても,平和条約締結時には予測困難な過大な負担を負わせ,混乱を生じさせることとなるおそれがあり,平和条約の目的達成の妨げとなるとの考えによるものと解される。
そして,このサン・フランシスコ平和条約の枠組みにおける請求権放棄の趣旨が,
上記のように請求権の問題を事後的個別的な民事裁判上の権利行使による解決にゆだねるのを避けるという点にあることにかんがみると,ここでいう請求権の放棄とは,請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく,
当該請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるに
とどまるものと解するのが相当である。したがって,サン・フランシスコ平和条約の枠組みによって,戦争の遂行中に生じたすべての請求権の放棄が行われても,個別具体的な請求権について,その内容等にかんがみ,債務者側において任意の自発的な対応をすることは妨げられないものというべきであり,サン・フランシスコ平和条約14条(b)の解釈をめぐって,吉田茂内閣総理大臣が,
オランダ王国代表スティッカー外務大臣に対する書簡にお
いて,
上記のような自発的な対応の可能性を表明していることは公知の事実である。
また,国家は,戦争の終結に伴う講和条約の締結に際し,対人主権に基づき,個人の請求権を含む請求権の処理を行うことができる。

サン・フランシスコ平和条約の締結後,
日本国政府と条約の当事国政府は,
二国間賠償協定の締結や賠償請求権の放棄を合意し,そこでは,個人の請求権を含めた請求権の相互の放棄が前提とされた。そして,日本国政府は,サン・フランシスコ平和条約の当事国とならなかった諸国又は地域との間でも,戦争賠償及び請求権の処理について同様の合意をし,サン・フランシスコ平和条約の枠組みに従った戦争賠償及び請求権の処理をし,これと異なる処理をするものではなかった。


日本国政府と中華民国政府との間で締結された日華平和条約の11条は,
個人の請求権を含む請求権について,サン・フランシスコ平和条約14条⒝に準じて,放棄されたと解すべき内容の規定になっている。
日華平和条約が締結された1952年(昭和27年)当時の情勢から,当時の日本国政府が中華民国政府を中国の正当政府として承認していたが,中華民国が支配していた領域が台湾等にとどまっていたことや,戦争賠償及び請求権の処理に関する条項は,中華人民共和国の支配する中国大陸について,将来の適用の可能性示されたにすぎないとの解釈も十分成り立つことから,日華平和条約における戦争賠償及び個人の請求権を含む請求権の放棄に関する条項は,中国大陸に適用されるものと断定することはできず,中国大陸に居住する中国国民に対して当然にその効力が及ぶものとすることもできない。


日中共同声明5項における請求権放棄について

日中共同声明5項は,その文言上,放棄の対象となる請求の主体が明示されておらず,
国家間のいわゆる戦争賠償のほかに請求権の処理を含む趣旨か
どうか,また,請求権の処理を含むとしても,中華人民共和国の国民が個人として有する請求権の放棄を含む趣旨かどうかが,
必ずしも明らかとはいえ
ない。


しかしながら,
公表されている日中国交正常化交渉の公式記録や関係者の
回顧録等に基づく考証を経て今日では公知の事実となっている交渉経緯等を踏まえて考えた場合,以下のとおり,日中共同声明は,平和条約の実質を有するものと解すべきであり,日中共同声明において,戦争賠償及び請求権の処理について,サン・フランシスコ平和条約の枠組みと異なる取決めがされたものと解することはできないというべきである。
中華人民共和国政府は,
日中国交正常化交渉に当たり,
復交三原則

基づく処理を主張した。
この復交三原則とは,
①中華人民共和国政府が中
国を代表する唯一の合法政府であること,②台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であること,③日華平和条約は不法,無効であり,廃棄されなければならないことをいうものである。中華人民共和国政府としては,
このような考え方に立脚した場合,
日中戦争の講和はいまだ成立し
ていないことになるため,日中共同声明には平和条約としての意味を持たせる必要があり,戦争の終結宣言や戦争賠償及び請求権の処理が不可欠であった。
これに対し,日本国政府は,中華民国政府を中国の正統政府として承認して日華平和条約を締結したという経緯から,同条約を将来に向かって終了させることはともかく,日中戦争の終結,戦争賠償及び請求権の処理といった事項に関しては,形式的には日華平和条約によって解決済みという前提に立たざるを得なかった(日華平和条約による戦争賠償及び請求権の処理の条項が中国大陸に適用されると断定することができないことは上記のとおりであるが,当時日本国政府はそのような見解を採用していなかった。。

日中国交正常化交渉において,中華人民共和国政府と日本国政府は,いずれも以上のような異なる前提で交渉に臨まざるを得ない立場にあることを十分認識しつつ,結果として,いずれの立場からも矛盾なく日中戦争の戦後処理が行われることを意図して,共同声明の表現が模索され,その結果,日中共同声明前文において,日本国側が中華人民共和国政府の提起した復交三原則を十分理解する立場に立つ旨が述べられた。そして,日中共同声明1項の

日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は,この共同声明が発出される日に終了する。

という表現は,中国側からすれば日中戦争の終了宣言と解釈できるものであり,他方,日本国側からは,中華人民共和国政府と国交がなかった状態がこれにより解消されたという意味に解釈し得るものとして採用されたものであった。
以上のような日中国交正常化交渉の経緯に照らすと,中華人民共和国政府は,日中共同声明5項を,戦争賠償のみならず請求権の処理も含めてすべての戦後処理を行った創設的な規定ととらえていることは明らかであり,また,日本国政府としても,戦争賠償及び請求権の処理は日華平和条約によって解決済みであるとの考えは維持しつつも,中華人民共和国政府との間でも実質的に同条約と同じ帰結となる処理がされたことを確認する意味を持つものとの理解に立って,その表現について合意したものと解される。以上のような経緯を経て発出された日中共同声明は,中華人民共和国政府はもちろん,日本国政府にとっても平和条約の実質を有するものにほかならないというべきである。
そして,前記のとおり,サン・フランシスコ平和条約の枠組みは平和条約の目的を達成するために重要な意義を有していたのであり,サン・フランシスコ平和条約の枠組みを外れて,請求権の処理を未定のままにして戦争賠償のみを決着させ,あるいは請求権放棄の対象から個人の請求権を除外した場合,
平和条約の目的達成の妨げとなるおそれがあることが明らか
であるが,日中共同声明の発出に当たり,あえてそのような処理をせざるを得なかったような事情は何らうかがわれず,日中国交正常化交渉において,そのような観点からの問題提起がされたり,交渉が行われた形跡もない。したがって,日中共同声明5項の文言上,
請求の主体として個人を
明示していないからといって,サン・フランシスコ平和条約の枠組みと異なる処理が行われたものと解することはできない。
以上によれば,日中共同声明は,サン・フランシスコ平和条約の枠組みと異なる趣旨のものではなく,
請求権の処理については,
個人の請求権を
含め,戦争の遂行中に生じたすべての請求権を相互に放棄することを明らかにしたものというべきである。

上記のような日中共同声明5項の解釈を前提に,その法規範性及び法的効力について検討する。
まず,日中共同声明は,我が国において条約としての取扱いはされておらず,国会の批准も経ていないものであることから,その国際法上の法規範性が問題となり得る。しかし,中華人民共和国が,これを創設的な国際法規範として認識していたことは明らかであり,少なくとも同国側の一方的な宣言としての法規範性を肯定し得るものである。さらに,国際法上条約としての性格を有することが明らかな日中平和友好条約において,日中共同声明に示された諸原則を厳格に遵守する旨が確認されたことにより,日中共同声明5項の内容が日本国においても条約としての法規範性を獲得したというべきであり,いずれにせよ,その国際法上の法規範性が認められることは明らかである。
そして,
前記のとおり,
サン・
フランシスコ平和条約の枠組みにおいては,
請求権の放棄とは,
請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせることを
意味するのであるから,その内容を具体化するための国内法上の措置は必要とせず,日中共同声明5項が定める請求権の放棄も,同様に国内法的な効力が認められるというべきである。

以上のとおりであるから,日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の日本国又はその国民若しくは法人に対する請求権は,
日中共同声明5項
によって,裁判上訴求する権能を失ったというべきであり,そのような請求権に基づく裁判上の請求に対し,
同項に基づく請求権放棄の抗弁が主張され
たときは,当該請求は棄却を免れないこととなる。



日中共同声明5項の解釈に関する原告らの主張について

原告らは,日中共同声明の文言,締約過程及び締約後の中華人民共和国政府の対応等に照らし,ウィーン条約法条約に基づき解釈すれば,日中共同声明5項により個人の請求権が放棄されたと解することは誤りであると主張する。しかし,日中共同声明の文言の点については,上記のとおり,文言から直ちに中華人民共和国の国民が個人として有する請求権の放棄を含む趣旨かどうかが,
必ずしも明らかとはいえない
交渉経緯等を踏まえて,日中共同声明5項の解釈を判断すべきものであって,文言のみから日中共同声明5項の解釈を判断することは相当でない。

原告らは,
国家が対人主権に基づいて個人の損害賠償請求権を放棄するこ
とができるとしても,
人権保護,
国際法の発展を考慮すれば,
明文でもなく,
かつ個人の権利を制限しようとするいかなる拡大解釈は許されないと主張する。しかし,上記のとおり,日中共同声明5項の文言を,サン・フランシスコ平和条約の枠組み及び日中共同声明の締約過程から個人の損害賠償請求権の放棄を宣言したものと解釈することは,サン・フランシスコ平和条約の締結及び日中共同声明の発出当時の情勢に基づく意思解釈であり,不当な拡大解釈とはいえない。

原告らは,日中共同声明発出後の中華人民共和国の対応を指摘するが,発出後長期間経過した後である1992年(平成4年)4月1日以降の同国の政治的立場をいうものであり,これをもって日中共同声明5項の解釈の基礎とすることは相当ではない。


なお,ウィーン条約法条約は,1981年(昭和56年)8月1日,日本国において発効した条約であり,
4条において不遡及が定められているから

共同声明の締約過程により日中共同声明5項を解釈することが,
ウィーン条
約法条約の趣旨に反するものともいえない。


原告らのサン・フランシスコ平和条約の枠組みに関する反論についてア
原告らは,中華人民共和国はサン・フランシスコ平和条約の当事国ではなく,また同条約に基づく義務を引き受けたこともないこと,日華平和条約11条に

日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は,サン・フランシスコ条約の相当規定に従って解決するものとする。

旨の規定があるものの,
中華民国と中華人民共和国との間に政府承継は行われ
ていないこと,そもそも中華人民共和国はサン・フランシスコ平和条約について不法・無効である旨の主張を続けていることから,サン・フランシスコ平和条約を日中共同声明の解釈の参考とすることはできないと主張する。しかしながら,
前記⑴及び⑵のとおり,
サン・フランシスコ平和条約の枠組みは,連合国48か国との間で締結されこれによって日本国が独立を回復したというサン・フランシスコ平和条約の重要性にかんがみ,日本国がサン・フランシスコ平和条約の当事国以外の国や地域との間で平和条約等を締結して戦後処理をするに当たっても,その枠組みとなるべきものであったと判断した上で,平和条約の実質を有する日中共同声明において,戦争賠償及び請求権の処理について,
サン・フランシスコ平和条約の枠組み
と異なる
取決めがされたものと解することはできないという,日中共同声明の解釈に関する事柄であり,サン・フランシスコ平和条約を直ちに日中共同声明の解釈の参考としたものではない。
そして,中華人民共和国がサン・フランシスコ平和条約及び日華平和条約を不法・無効なものと批判していた趣旨は,中華人民共和国政府が中国の正統政府であるとの立場に基づき,中華人民共和国を除外したサン・フランシスコ講和会議及びこれに基づいて締結されたサン・フランシスコ平和条約の効力は絶対に承認できないというものであって,サン・フランシスコ平和条約や日華平和条約における戦争賠償及び請求権問題の処理の内容(すなわちサン・フランシスコ平和条約の枠組み
)そのもの,ひいては,戦争状態を
最終的に終了させ,将来に向けて揺るぎない友好関係を築くことが,他の連合国と日本国との間の合意としても不当な内容のものであるなどとして批判していたとは解されない。日中共同声明5項をサン・フランシスコ平和条約の枠組みに従って解釈することは,日中国交正常化交渉の過程を踏まえたことによるものであるから,その後,中華人民共和国がサン・フランシスコ平和条約及び日華平和条約を不法・無効なものと批判したことが,日中共同声明5項をサン・フランシスコ平和条約の枠組みに従って解釈することの妨げになると直ちにいうことはできない。

原告らは,国際法上のユース・コーゲンス(強行法規)の理論から判断しても,サン・フランシスコ平和条約は強行法規ではありえず,中華人民共和国が同条約の枠組みに拘束されるものではない旨,それにもかかわらず,上記⑴⑵の説示は,中華人民共和国がサン・フランシスコ平和条約の枠組みに拘束されるように解釈するものであり,
実定法上認められていない客観的制
度の法理によって日中共同声明5項を解釈したとの非難を免れないと主張する。
しかし,サン・フランシスコ平和条約が強行法規の性質を有するものとして締結国以外の第三者を拘束すると判断したものではなく,日中共同声明の締約過程に照らし,5項において,戦争賠償及び請求権の処理について,サン・フランシスコ平和条約の枠組みと異なる取決めがされたものと解することはできないと判断したものであることは上記⑴及び⑵において判断したとおりであり,原告らの主張は失当である。
また,原告らは,サン・フランシスコ平和条約の枠組みをもって日中共同声明5項に関する解釈が行われているという前提に立ち,放棄の範囲と性質に関して,中華人民共和国が当事国でないサン・フランシスコ平和条約によって拘束されることは許されないと主張するが,同様の理由により,原告らの主張は失当である。


司法へのアクセス権の侵害の主張について
原告らは,上記⑴及び⑵と同旨の最高裁平成19年判決の判断によれば,日中共同声明5項に基づく請求権放棄は原告らの裁判上訴求する権利を喪失させたものとなるが,それはB規約2条3項に基づく効果的な救済を受ける権利,同規約14条1項に基づく公正な裁判を受ける権利を主要素として構成される原告らの司法へのアクセス権(効果的な救済を受ける権利及び公正な裁判を受ける権利)に対する手続的制限となるとした上,日本国政府によってなんらの代替措置も執られず,
かつ,
執られる見込みもない中で,
過大な負担が事後的に被告に発生することを憂慮して,重大な国際人道法違反,人権侵害の被害者である原告らの裁判上訴求する権能を喪失させることは,目的とその手段との均衡を欠くものである上,国際人権法の基本的要請を体現するジュネーヴ第4条約等にも違反するもので,司法にアクセスする権利のまさしく本質を害する重大な人権侵害であるから,最高裁平成19年判決の上記判断は,日本を拘束している条約上の義務に違背する深刻な事態を引き起こすものであり,誤りであると主張する。

しかし,B規約については,1979年(昭和54年)6月21日に日本国において発効したものであり,遡及して適用される旨の規定はないから,1972年(昭和47年)9月29日に発出された日中共同声明を拘束するものとはいえない。
また,実質的観点からみても,前記⑴のとおり,サン・フランシスコ平和条約の枠組みにおける請求権放棄の趣旨は,戦争状態を最終的に終了させ,将来に向けて揺るぎない友好関係を築くという平和条約の目的の達成の妨げとなることのないよう,戦争の遂行中に生じた種々の請求権の問題を事後的個別的な民事裁判上の権利行使による解決にゆだねるのを避ける点にあり,戦争状態の最終的な終了及び恒久的な平和友好関係の確立は重要な代替措置ということができるし,請求権放棄によっても,請求権放棄が,請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく,個別具体的な請求権について,その内容等にかんがみ,債務者側において任意の自発的な対応をすることは妨げられないことからすれば,目的とその手段との均衡を欠くということはできない。
さらに,ジュネーヴ第4条約は,戦時における文民の保護に関して定めたもので,戦争被害者保護のための国際条約であるジュネーヴ諸条約の一つであるが,日本国は,1953年(昭和28年)に加入したものであり,それ以前の行為に同条約を適用すべき根拠はないから,そもそも日中戦争の遂行中の行為について適用されるとは解し得ない上,同条約7条の第2文,147条,148条も個人の賠償を受ける権利について規定したものとはいえず,いずれにせよ,日中共同声明5項による請求権放棄及びそれに関する上記⑴及び⑵に沿う最高裁平成19年判決の判断がジュネーヴ第4条約に抵触するものではないし,その他具体的な国際人権法への違反については具体的な主張がなく,採用のかぎりでない。

そうすると,日中共同声明5項は,中華人民共和国のした宣言に基づき法規範性を有する有効なものというべきであり,最高裁平成19年判決と異なる判断をする必要性は見出し難く,原告らの主張は採用できない。


以上によれば,争点⑵,⑶,⑷のうち,強制連行・強制労働を含む日中戦争
の遂行中に生じた請求は,日中共同声明5項に基づく請求権の抗弁により,その余の争点
(争点⑹,
同⑺及び同⑻)
について判断するまでもなく理由がない。
6戦後における処遇改善義務違反について(争点⑷,別紙8関係)原告らは,被告が,戦後,俘虜条約,ポツダム宣言及び降伏文書により処遇改善義務を負っていたにもかかわらず,これを怠った旨主張する。
この点につき,連合国が1945年(昭和20年)7月26日に発し,日本国が同年8月14日に受諾したポツダム宣言には,
俘虜を虐待する者を含む一切の
戦争犯罪人は,
厳格な司法手続に附されなければならない旨の宣言内容が存する
が,それ以上に俘虜ないし捕虜の処遇改善に関する宣言内容は存しない。また,1945年(昭和20年)9月2日に日本国と連合国との間で交わされた休戦協定であり,
ポツダム宣言の受諾を外交文書として固定した降伏文書の第
7項には,日本国政府に対し,現に日本国の支配下にある一切の連合国俘虜及び被抑留者を直ちに解放し,その保護,手当,給養及び指示された場所への即時輸送のための措置を執るように命じるとの記載がある。しかし,降伏文書は,その文言や,目的が戦争終結にあることに鑑みれば,日本国が,連合国に対して無条件降伏の内容として負う義務を定めたものにとどまり,日本国が降伏文書により命じられた措置の実施を怠った際に,日本国の支配下にある連合国俘虜及び被抑留者に,
日本国に対する損害賠償請求権を付与することを定めたものと解することはできない。
俘虜条約は,
署名のみならず批准をすることにより成立するものであるところ,日本国は同条約を批准していないから,同条約は未だ成立していない。したがって,同条約に違反したことを根拠とする損害賠償請求を行うことはできない。したがって,
戦後における処遇改善義務違反についての原告らの主張は採用で
きない。
7戦後における早期送還義務違反について(争点⑷,別紙8関係)原告らは,戦後,被告は,俘虜条約68条1項,71条本文,75条により,本件被害者らを早期に送還すべき義務を負っていたところ,強制連行は迅速に行ったのに,送還は当初計画よりも遅れたとして,早期送還義務違反を主張する。しかし,上記6記載のとおり,俘虜条約は未だ成立していないから,同条約に違反したことを根拠とする損害賠償請求を行うことはできない。
したがって,
俘虜条約に基づく戦後における早期送還義務違反についての原告
らの主張は採用できない。
8
先行行為に基づく保護義務・救護義務違反について(争点⑷,同⑸,別紙8,
9関係)
原告らは,先行行為に基づく保護義務違反等の不法行為を主張する。しかし,原告らの主張する上記各義務は,いずれも強制連行及び強制労働によってもたらされた本件被害者ら及び原告らの状況を前提として,その保護ないし救護を求めるものであるところ,その実質は,強制連行及び強制労働によってもたらされた損害の賠償ないし回復を求めるものにほかならず,
被告が損害の賠償
ないし回復の措置を執らなかったからといって,被告が,強制連行及び強制労働に基づく責任と別個独立の原因に基づく責任を負うとはいえない。したがって,
先行行為に基づく保護義務違反等についての原告らの主張は採用
できない。
9
戦後における書類の焼却,外務省報告書の隠蔽行為についての責任(争点⑷,同⑸,別紙8,9関係)


証拠(甲B8の4,甲B43,44)によれば,被告の政府委員は,1960年(昭和35年)5月3日の日米安全保障条約等特別委員会において,(昭和)21年の3月に,外務省管理局においてそういう調書(外務省報告書)の作成をいたしたそうでございますが,そういう調書がございますと,職犯問題の資料に使われて非常に多数の人に迷惑をかけるのでないかということで,全部焼却いたしたそうでありまして,現在外務省としては,そうした資料を一部も持っていない次第でございます。と答弁し,外務省は,
外務省報告書は全部
焼却したためこれを保有していないと述べていたこと,
その後,
1993年
(平
成5年)6月7日の参議院予算委員会において,1946年(昭和21年)に外務省が中国人労働者に係る全国の135の事業所の調査を実施した記録の原本がでてきたこと,
これをもとにした外務省報告書が東京華僑総会に保管さ
れていたことが判明したことが指摘されたこと,1994年(平成6年)6月22日の外務委員会会議において,国務大臣は,外務省が外務省報告書を作成したことは事実であり,
中国人労働者の連行は半強制的であったという認識を
示したことが認められる。



原告らは,強制連行,強制労働に関する書類の焼却及び外務省報告書の隠蔽により,本件被害者らが,他者から自らの意思に基づいて日本で労働に従事したかのように思われ,
本件被害者ら及び原告らの名誉ないし名誉感情が侵害さ
れたものであるなどとして,強制労働に関する書類の焼却及び外務省報告書の隠蔽は不法行為に当たると主張する。
しかし,書類の焼却及び隠蔽行為は,公然事実を摘示する行為でないから,これをもって名誉毀損ということはできない。
また,原告らは,名誉感情が侵害されたとも主張し,同主張は,第三者が本件被害者らの名誉感情を侵害する行為をしていることを前提に,これを防止ないし回復する義務を負い,同義務の内容として,被告が,原告らに対する関係で,
強制連行及び強制労働に関する資料を保管すべき義務及びこれを開示すべき法的義務を負い,被告が同義務に違反したというものと解される。しかし,原告らの主張を前提としても,名誉感情を侵害する行為をしているのは第三者であり,本件被害者ら及び原告らが,これを防止ないし回復することを求める権利や,法律上保護された利益を有するということはできない。したがって,原告らの主張は採用できない。
10国会答弁による名誉毀損について(争点⑷,同⑸,別紙8,9関係)⑴

後掲各証拠によれば,被告の国会における会議及び委員会において,内閣総理大臣及び政府担当者は,以下の内容の答弁を行ったことが認められる。ア
1954年(昭和29年)9月6日,参議院厚生委員会において,外務省アジア局長は,
戦時中に中国から主として労務者ということで中国人が大体内地にまいりまして,いろいろなところで働かれた,それがいろいろな事情で亡くなられたのが今の問題の遺骨でありますが,その戦時中に中国から労務者をこちらに連れて参りました際には,これはやはり労務者を募集いたしまして,それに応募して来たということになっております。併しその労務者である人は,戦争中に日本軍と戦争いたしまして,日本軍の捕虜となって抑留されておった人が釈放されまして民間人となり,その民間人の人を労務者として連れて来たというものが非常に多いようであります。従って出身から言えば捕虜とも言えるわけでありますが,内地に参りました場合には捕虜の身分で来たのではなくて,自由の身柄の人としてきたことになっております。と答弁した。(甲B16)


1958年(昭和33年)3月25日,参議院予算委員会第二分科会会議において,外務省アジア局長は,
戦時中中国から相当多数の労務者が日本へ来て働いていたわけですが,この身分につきましては,通常,俘虜とか何とか言っておられますが,私,現地で直接会って承知いたしておりますが,俘虜ではございません。全部,身分が俘虜であった者も,現地で日本に送る前に身分を切りかえまして,雇用契約の形でみな日本に来ております。従って,通常言われる俘虜という身分ではございません。と答弁した(甲B20)

1958年(昭和33年)4月9日,衆議院外務委員会会議において,中国人労働者の一人であるFについて,同人が本人の自由な意思に基づいて入国したものではないという点は明らかではないかという質問に対し,岸信介内閣総理大臣は,

政府としては当時の事情を明らかにするような資料がございませんし,それを確かめる方法が実は現在としてはないのであります。,

あの閣議決定の趣旨は,そういう本人の意思に反してこれを強制連行するという趣旨でないことは,あの閣議のなんでも明らかでありますが,しかし事実問題として,強制して連れてきたのか,あるいは本人が承諾して来たのか,これを確かめるすべがございませんので,政府としては責任を持ってどうだということを今の時代になって明らかにすることはとうていできないと思います。と答弁した。(甲B8の2)


1960年(昭和35年)5月3日,衆議院日米安全保障条約等特別委員会議において,外務省アジア局長は,外務省報告書について,(昭和)21年の3月に,外務省管理局においてそういう調書の作成をいたしたそうでございますが,そういう調書がございますと,戦犯問題の資料に使われて非常に多数の人に迷惑をかけるのではないかということで,全部焼却いたしたそうでありまして,現在外務省としては,そうした資料を一部も持っておらない次第でございます。と答弁した。(甲B8の4)


1960年(昭和35年)5月13日,衆議院会議において,岸信介内閣総理大臣は,議員からの質問主意書に対し,

戦時中わが国に渡来した中国人労務者が国際法上捕虜に該当するものであつたか否かについては,当時の詳細な事情が必ずしも判明していないので,いずれも断定しえない。

と記載した答弁書を提出した。
(甲B22)


文書中の記載が名誉を毀損するものであるか否かは,一般読者の普通の注意と読み方を基準として,
かかる記載が人の社会的評価を低下させるものかどう
かによって判断すべきであり(最高裁昭和29年(オ)第634号同31年7月20日第二小法廷判決・民集10巻8号1059頁)
,発言内容が名誉毀損
に当たるか否かも,これに準じて判断すべきである。
上記ア及びイの答弁について,
これらの答弁は,
中国人労働者一般について,
当初は俘虜ないし捕虜であったが,日本国内で労務に服する段階においてはそのような立場になく,
自由な意思で労務に服していたという内容のものであり,
それ以上に個々の中国人労働者に関する事実関係に言及するものではないから,日本国政府の政治的立場を示したというべきものであり,具体的な事実を摘示したものと解することはできない。国家が政治的立場を示すことが,当該政治的立場に基づく具体的行為を離れて,私人との関係で違法性を帯びるものではないというべきである。また,原告らの主張は,上記答弁がなされる以前から,強制連行された中国人労働者は,自ら進んで来日し,日本の軍国主義者に協力したスパイという評価を受けていたということを前提に,
被告が戦時中
の先行行為に基づき名誉回復の義務を負っていたというものであるところ,日中戦争中の被告の行為(先行行為)に基づく原告らの損害賠償請求権が裁判上訴求する権能を失っていることは上記のとおりであるから,被告が,損害の回復を実質とする名誉回復の義務を負うということはできない。
上記ウの答弁は,本件被害者らでない特定の中国人労働者について,強制的に日本に連行されたのか,承諾して来たのかは確かめるすべがなく,日本国政府としての立場を明らかにすることはできないと述べるものであって,本件被害者ら及び原告らを対象とするものでもない上,事実を摘示したものということもできない。
上記エの答弁は,外務省が,その作成した外務省報告書を焼却し,答弁の時点で外務省にかかる資料が現存していないことを摘示するものであり,本件被
害者ら及び原告らに関する事実を摘示したものとはいえない。そして,外務省に関する上記事実を摘示したからといって,本件被害者ら及び原告らの社会的評価が低下したと認めることはできない。
上記オの答弁は,国際法上の捕虜に該当するか否かという法解釈に解し,事実関係が不明であるから,断定的な見解は述べられないという内容のものであり,そもそも事実を摘示したということはできず,日本国政府の政治的立場を述べたものと解することが相当である。
以上のとおり,上記各答弁は,いずれも本件被害者ら及び原告らの名誉を毀損するものとはいえず,原告らの主張は採用できない。
11名誉回復義務違反の主張(争点⑷,同⑸,別紙8,9関係)原告らは,被告は,先行行為に基づく作為義務としての名誉回復義務を負っていたところ,これを現在に至るまで怠っており,損害の賠償及び名誉回復の責任を負うと主張する。
しかし,原告らの主張する名誉回復義務は,被告による名誉毀損行為によってもたらされた本件被害者ら及び原告らの状況を前提として,これを原状に回復することを求めるものであるところ,その実質は,被告の名誉毀損行為によってもたらされた損害について,
金銭賠償以外の方法で填補することを求めるものであ
り,名誉回復を独立した義務として観念することはできない。
そして,
日中戦争中の被告の行為に基づいて生じた損害の賠償を求める権利は,上記のとおり,
日中共同声明5項により裁判上訴求する権利が失われているもの
であるし,原告らが戦後の名誉毀損行為と主張する各行為については,上記のとおり,そもそも名誉毀損に当たるものではない。したがって,原告らの主張は採用できない。
12結語
以上のとおり,中国人労働者は,強制的又は真意に基づくことなく移入されたものであり,労働環境や処遇は,戦争行為そのものによることなく多くの死者が生じたことなどからも分かるように,大変劣悪なものであったといわざるを得ないが,
法的観点からみて原告らの請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし,訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。

大阪地方裁判所第12民事部

裁判長裁判官

酒井良介
裁判官

安川秀方
裁判官

前田早織
別紙略語表
法令等
陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(1912年(明治4
ヘーグ陸戦条約
5年)1月13日条約第4号)
ヘーグ陸戦条約

条約附属書

陸戦ノ法規慣例ニ関

ヘーグ陸戦規則
スル規則
強制労働ニ関スル条約(昭和7年11月21日批
強制労働条約
准)
サン・フランシスコ平和条約日本国との平和条約
1972年(昭和47年)9月29日に行われた日
日中共同声明
本国政府と中華人民共和国政府の共同声明
日中平和友好

日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約

ウィーン条約法条約

条約法に関するウィーン条約

俘虜条約

俘虜の待遇に関する条約

日華平和条約

日本国と中華民国との間の平和条約
戦時における文民の保護に関する1949年(昭和

ジュネーヴ第4条約
24年)8月12日のジュネーヴ条約(第4条約)
B規約

市民的及び政治的権利に関する国際規約

判例
大審院昭和15年(オ)第626号同16年2月2
大審院昭和16年判決
7日判決・大審院民事判例集第20巻2号118頁
最高裁判所昭和24年(オ)第268号同25年4
最高裁昭和25年判決
月11日第三小法廷判決・集民3号225頁
最高裁判所平成6年(オ)第1287号同9年9月
最高裁平成9年判決
9日第三小法廷判決・民集51巻8号3850頁
最高裁判所平成5年(オ)第708号同10年6月
最高裁平成10年判決
12日第二小法廷判決・民集52巻4号1087頁
最高裁判所平成16年(受)第1658号同19年
最高裁平成19年判決

4月27日第二小法廷判決・民集61巻3号118
8頁
最高裁判所平成20年(受)第804号同21年4

最高裁平成21年判決
月28日第三小法廷判決・民集63巻4号853頁
その他
藤永田造船所

株式会社藤永田造船所

中国

満州事変及び日中戦争を戦った国家としての中国
中華人民共和国の国民であり,第二次世界大戦中,
被告により中国から日本に強制連行され,日本各地
の事業場で強制労働に従事させられたと主張する者

本件被害者ら
(a1,a2,a3(a3’),a4,a5,a
6,a7,a8,a9,a10,a11,a12,
a13,a14,原告A18,a15。
第二次世界大戦中に,日本国の政策に基づき日本国
中国人労働者
内に移入された中国人労働者。
藤永田大阪事業場

株式会社藤永田大阪事業場

港運大阪安治川事業場

日本港運業界大阪安治川事業場

港運大阪川口事業場

日本港運業界大阪川口事業場

港運大阪築港事業場

日本港運業界大阪築港事業場

鹿島組花岡事業場

株式会社鹿島組花岡事業場

鹿島組

株式会社鹿島組(当時)
外務省報告書

華人労務者就労事情調査報告書
1942年(昭和17年)11月27日に行われ

昭和17年閣議決定

た,華人労務者内地移入ニ関スル件と題する閣
議決定
1944年(昭和19年)2月28日に行われた

昭和19年次官会議決定

華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件と題する
次官会議決定

別紙1
1原告A1に対する謝罪文
日本国政府は,貴殿の父a1氏を,1945年3月,日本国官吏や軍隊が一体となって逮捕し,日本の事業所に連行し,強制労働に従事せしめ,日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,
さらには日本国公務員がa1氏が
任意の契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,a1氏に多大な肉体的・精神的苦痛を与え,名誉を侵害したこと,そしてa1氏の子である貴殿に対しても精神的苦痛を与え,
名誉を侵害したことにつ
き,心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

2原告A2に対する謝罪文
日本国政府は,貴殿の父a2氏を,1945年3月,日本国官吏や軍隊が一体となって逮捕し,日本の事業所に連行し,強制労働に従事せしめ,日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,
さらには日本国公務員がa2氏が
任意の契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,a2氏に多大な肉体的・精神的苦痛を与え,名誉を侵害したこと,そしてa2氏の子である貴殿に対しても精神的苦痛を与え,
名誉を侵害したことにつ
き,心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

3原告A3に対する謝罪文
日本国政府は,貴殿の父a3’氏を,1943年1月,日本国官吏や軍隊が一体となって逮捕し,日本の事業所に連行し,強制労働に従事せしめ,日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,さらには日本国公務員がa3’氏が任意の契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,a3’氏に多大な肉体的・精神的苦痛を与え,名誉を侵害したこと,そしてa3’氏の孫である貴殿に対しても精神的苦痛を与え,名誉を侵害したことにつき,心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

4原告A4に対する謝罪文
日本国政府は,貴殿の父a4氏を,1944年春,日本国官吏や軍隊が一体となって逮捕し,日本の事業所に連行し,強制労働に従事せしめ,日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,
さらには日本国公務員がa4氏が任
意の契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,a4氏に多大な肉体的・精神的苦痛を与え,名誉を侵害したこと,そしてa4氏の子である貴殿に対しても精神的苦痛を与え,
名誉を侵害したことにつき,
心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

5原告A5に対する謝罪文
日本国政府は,貴殿の父a5氏を,1945年3月,日本国官吏や軍隊が一体となって逮捕し,日本の事業所に連行し,強制労働に従事せしめ,日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,
さらには日本国公務員がa5氏が
任意の契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,a5氏に多大な肉体的・精神的苦痛を与え,名誉を侵害したこと,そしてa5氏の子である貴殿に対しても精神的苦痛を与え,
名誉を侵害したことにつ
き,心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

6原告A6に対する謝罪文
日本国政府は,貴殿の父a6氏を,1944年,日本国官吏や軍隊が一体となって逮捕し,日本の事業所に連行し,強制労働に従事せしめ,日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,
さらには日本国公務員がa6氏が任意
の契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,a6氏に多大な肉体的・精神的苦痛を与え,名誉を侵害したこと,そしてa6氏の子である貴殿に対しても精神的苦痛を与え,名誉を侵害したことにつき,心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

7原告A7,原告A8,原告A9及び原告A10に対する謝罪文
日本国政府は,貴殿らの父a7氏を,1943年ないし1944年の冬,日本国官吏や軍隊が一体となって逮捕し,
日本の事業所に連行し,
強制労働に従事せしめ,
日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,さらには日本国
公務員がa7氏が任意の契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,a7氏に多大な肉体的・精神的苦痛を与え,名誉を侵害したこと,そしてa7氏の子である貴殿らに対しても精神的苦痛を与え,名誉を侵害したことにつき,心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

8原告A11に対する謝罪文
日本国政府は,貴殿の父a8氏を,1944年春,日本国官吏や軍隊が一体となって逮捕し,日本の事業所に連行し,強制労働に従事せしめ,日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,
さらには日本国公務員がa8氏が任
意の契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,a8氏に多大な肉体的・精神的苦痛を与え,名誉を侵害したこと,そしてa8氏の子である貴殿に対しても精神的苦痛を与え,
名誉を侵害したことにつき,
心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

9原告A12に対する謝罪文
日本国政府は,1944年4月,日本国官吏や軍隊が一体となって,貴殿の祖父a9氏及び貴殿の父a10氏を相次いで逮捕し,日本の事業所に連行し,強制労働に従事せしめ,日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,さらには日本国公務員がa9氏及びa10氏が任意の契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,
a9氏及びa10氏に
多大な肉体的精神的苦痛を与え,

名誉を侵害したこと,
そしてa9氏の孫であり,
a10氏の子である貴殿に対しても精神的苦痛を与え,
名誉を侵害したことにつき,
心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

10原告A13及びA14に対する謝罪文
日本国政府は,貴殿らの父a11氏を,1943年,日本国官吏や軍隊が一体となって逮捕し,日本の事業所に連行し,強制労働に従事せしめ,日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,
さらには日本国公務員がa
11氏が任意の契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,a11氏に多大な肉体的・精神的苦痛を与え,名誉を侵害したこと,そしてa11氏の子である貴殿らに対しても精神的苦痛を与え,名誉を侵害したことにつき,心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

11原告A15に対する謝罪文
日本国政府は,貴殿の父a12氏を,1944年7月,日本国官吏や軍隊が一体となって逮捕し,日本の事業所に連行し,強制労働に従事せしめ,日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,
さらには日本国公務員が
a12氏が任意の契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,a12氏に多大な肉体的・精神的苦痛を与え,名誉を侵害したこと,そしてa12氏の子である貴殿に対しても精神的苦痛を与え,名誉を侵害したことにつき,心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

12原告A16に対する謝罪文
日本国政府は,貴殿の外祖父a13氏を,1944年7月,日本国官吏や軍隊が一体となって逮捕し,日本の事業所に連行し,強制労働に従事せしめ,日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,
さらには日本国公務
員がa13氏が任意の契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,a13氏に多大な肉体的・精神的苦痛を与え,名誉を侵害したこと,
そしてa13氏の外孫である貴殿に対しても精神的苦痛を与
え,名誉を侵害したことにつき,心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

13原告A17に対する謝罪文
日本国政府は,貴殿の父a14氏を,1944年7月,日本国官吏や軍隊が一体となって逮捕し,日本の事業所に連行し,強制労働に従事せしめ,日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,
さらには日本国公務員が
a14氏が任意の契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,a14氏に多大な肉体的・精神的苦痛を与え,名誉を侵害したこと,そしてa14氏の子である貴殿に対しても精神的苦痛を与え,名誉を侵害したことにつき,心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

14原告A18に対する謝罪文
日本国政府は,貴殿を,1944年4月,日本国官吏や軍隊が一体となって逮捕し,日本の事業所に連行し,強制労働に従事せしめ,日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,
さらには日本国公務員が貴殿が任意の
契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,貴殿に多大な肉体的・精神的苦痛を与え,名誉を侵害したことにつき,心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

15原告A19に対する謝罪文
日本国政府は,貴殿の父a15氏を,1944年,日本国官吏や軍隊が一体となって逮捕し,日本の事業所に連行し,強制労働に従事せしめ,日本国がポツダム宣言受諾後も損害の回復を直ちに行わず放置し,
さらには日本国公務員がa1
5氏が任意の契約に基づき日本の事業場において労働に従事したかのような答弁をしたことにより,a15氏に多大な肉体的・精神的苦痛を与え,名誉を侵害したこと,そしてa15氏の子である貴殿に対しても精神的苦痛を与え,名誉を侵害したことにつき,心から謝罪します。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

別紙2
1見出し部分
強制連行し,強制労働に従事させた中国人被害者と遺族に心から謝罪2第1事件本文
日本国は,戦時中,労働力として日本の事業場に強制連行され,強制労働に従事させられた原告A18氏に対し,また,強制連行・強制労働の後死亡した被害者の遺族である原告A1氏及びその他の原告らに対し,多大な肉体的・精神的な苦痛と経済的損害を与えたことにつき,心から謝罪申し上げます。
また,日本国の謝罪があまりに遅すぎ,このため日本国の謝罪があなた方の苦痛を十分に癒すことができず,
あなた方の怒りを十分に和らげることができないこと
についても,心から謝罪いたします。
日本国は,戦時中,不足した労働力を確保するため,4万人に近い中国人を日本に強制連行し,35企業の135の事業場に送って苦役に従事させました。当時の日本政府の奨励の下に,日本企業は残酷に中国人を使役し,このために6830名余りの中国人が迫害され死去しました。多くの家庭が破壊され,家族は離散しました。
また,日本国は,ポツダム宣言受諾後もあなた方被害者らの損害を回復する適切な措置を直ちに行わず今日まで放置して来ました。さらに,強制連行・強制労働の被害者を契約工と称し,自らの意思に基づき,日本に来て労働したかのような弁明をして,その名誉を侵害しました。
こうして,日本国は,あなた方被害者と遺族に対し,多大な肉体的・精神的な苦痛と経済的な損害を与えました。あなた方被害者と遺族を含め,強制連行・強制労働による被害者らが蒙った大きな痛苦と損害に対し,日本国は,加害国としての歴史的,社会的,道義的,法律的責任を負うものであり,全ての被害者と遺族の方々に心から謝罪するとともに,
殉難された中国人に対して心からの哀悼の意を表しま
す。
過去の経験を忘れないで将来の戒めとする。そのために,日本国は,中国人被害者らの人権が侵害された強制連行・強制労働の歴史的事実を率直に認め,深く反省の意を表し,二度と同じ過ちを繰り返さないために,この歴史的事実を次の世代に伝え,実際の行動によって,日中友好を擁護し促進していきます。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○



3第2事件本文
日本国は,戦時中,労働力として日本の事業場に強制連行され,強制労働に従事させられた原告A18氏に対し,また,強制連行・強制労働の後死亡した被害者の遺族である原告A19氏に対し,多大な肉体的・精神的な苦痛と経済的損害を与えたことにつき,心から謝罪申し上げます。
また,日本国の謝罪があまりに遅すぎ,このため日本国の謝罪があなた方の苦痛を十分にいやすことができず,
あなた方の怒りを十分に和らげることができないこ
とについても,心から謝罪いたします。
日本国は,戦時中,不足した労働力を確保するため,4万人に近い中国人を日本に強制連行し,35企業の135の事業場に送って苦役に従事させました。当時の日本政府の奨励の下に,日本企業は残酷に中国人を使役し,このために6830名あまりの中国人が迫害され死去しました。多くの家庭が破壊され,家族は離散しました。
また,日本国は,ポツダム宣言受諾後もあなた方被害者らの損害を回復する適切な措置を直ちに行わず今日まで放置してきました。さらに,強制連行・強制労働の被害者を契約工と称し,自らの意思に基づき,日本に来て労働したかのような弁明をして,その名誉を侵害しました。
こうして,日本国は,あなた方被害者と遺族に対し,多大な肉体的・精神的な苦痛と経済的な損害を与えました。あなた方被害者と遺族を含め,強制連行・強制労働による被害者らが蒙った大きな痛苦と損害に対し,日本国は,加害国としての歴史的,
社会的,
道義的,
法律的責任を負うものであり,
すべての被害者と遺族の方々
に心から謝罪するとともに,
殉職された中国人に対して心から哀悼の意を表します。
過去の経験を忘れないで将来の戒めとする。そのために,日本国は,中国人被害者らの人権が侵害された強制連行・強制労働の歴史的事実を率直に認め,深く反省の意を表し,
二度と過ちを繰り返さないために,
この歴史的事実を次の世代に伝え,
実際の行動によって,日中友好を擁護し促進していきます。
○○年○○月○○日

日本国内閣総理大臣

○○○○

別紙3
1第1事件
[标题]
向被强掳奴役的中国受害者及其遗属真诚谢罪
[正文]
战争时期被强掳到日本作业场从事奴役劳动的原告A18先生,
被强掳奴役后

死亡

的受害者遗属A1先生以及其他原告们,由于给你们造成了身体上,精神上的极大痛苦和经济上的损害,日本国在此谨表示真诚的谢罪。
并且,日本国的谢罪为时过晚,因此,这一谢罪不能完全消除你们的痛苦,不能完全缓解你们的愤怒。对此日本国也表示衷心的谢罪。
在侵华战争时期,日本国为了弥补劳动力的严重不足,强掳近4万名中国人到日本,并押送到35家企业的135个作业场从事苦役劳动。在当时的日本政府的鼓励之下,日本企业残酷奴役中国人,致使6830余名中国人被残害身亡,使许许多多的家庭妻离子散,家破人亡。
并且,在接受波茨坦宣言以后直到现在,日本国也始终没有采取任何妥善的措施挽回中国人蒙受的损害,
甚至辩解称被强掳奴役的受害者是
“合同工”好像你们自愿来日本

打工。这严重损害了受害者的名誉。
因此,日本国对受害者及其遗属造成了身体上,精神上的极大痛苦和经济上的损害。受害者及遗属因强掳奴役而蒙受了深重的痛苦与损害,对此,日本国作为加害国,应该承担历史,社会,道义,法律上的责任,向所有的受害者及遗属真

诚谢罪,并对殉难

的中国人表示诚挚的哀悼。
“前事不忘,后事之师”
。日本国坦诚地承认中国受害者的人权被侵害的这一历

史事

实,并表示深刻反省。为了绝不重蹈覆辙,日本国将这一历史事实传给后代,并以实际行动维护和促进中日友好。

日本国

内阁总理大臣
○○○○

○○年○○月○○日
2第2事件
[标题]
向被强掳奴役的中国受害者及其遗属真诚谢罪
[正文]
战争时期被强掳到日本作业场从事奴役劳动的原告A18先生,被强掳奴役后死亡的受害者遗属A19先生以及其他原告们,由于给你们造成了身体上,精神上的极大痛苦和经济上的损害,日本国在此谨表示真诚的谢罪。
并且,日本国的谢罪为时过晚,因此,这一谢罪不能完全消除你们的痛苦,不能完全缓解你们的愤怒。对此日本国也表示衷心的谢罪。
在侵华战争时期,日本国为了弥补劳动力的严重不足,强掳近4万名中国人到日本,并押送到35家企业的135个作业场从事苦役劳动。在当时的日本政府的鼓励之下,日本企业残酷奴役中国人,致使6830余名中国人被残害身亡,使许许多多的家庭妻离子散,家破人亡。
并且,在接受波茨坦宣言以后直到现在,日本国也始终没有采取任何妥善的措施挽回中国人蒙受的损害,
甚至辩解称被强掳奴役的受害者是
“合同工”好像你们自愿来日本

打工。这严重损害了受害者的名誉。
因此,日本国对受害者及其遗属造成了身体上,精神上的极大痛苦和经济上的损害。受害者及遗属因强掳奴役而蒙受了深重的痛苦与损害,对此,日本国作为加害国,应该承担历史,社会,道义,法律上的责任,向所有的受害者及遗属真诚谢罪,并对殉难的中国人表示诚挚的哀悼。
“前事不忘,
后事之师”日本国坦诚地承认中国受害者的人权被侵害的这一历史事实,。
并表示深刻反省。为了绝不重蹈覆辙,日本国将这一历史事实传给后代,并以实际行动维护和促进中日友好。

日本国

内阁总理大臣

○○○○
○○年○○月○○日

別紙4
謝罪広告(別紙2及び別紙3)の条件
1見出し部分は14ポイント
2本文は8ポイント
3日本国内閣総理大臣○○○○の部分は12ポイント

別紙5強制連行及び強制労働の事実等の有無
第1原告らの主張
1強制連行に至るまでの経緯


満州事変
1931年(昭和6年)9月18日,中国東北部(以下旧満州という。)
の奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で,関東軍参謀らの謀略によって南満州鉄道が爆破された(以下,この事件及びこれをきっかけとする旧満州における日中の武力衝突を満州事変という。。当時,旧満州の旅順に司令部を置いて)
いた関東軍は,旧満州を占領し,1932年(昭和7年)3月1日には,傀儡政権を擁立して満州国の建国を宣言し,同年9月15日,日本国政府(斎藤実内閣)は満州国を承認した。
満州国成立後の旧満州では,関東軍は治安維持の観点から日本人移民の促進,中国人・朝鮮人の流入の規制を図り,特に中国の華北地方から旧満州への流入を規制した。



日中戦争
1937年(昭和12年)7月7日,北京郊外の盧溝橋で日中両国軍の衝突事件が発生した
(盧溝橋事件)これを契機に戦線が拡大し,

日中戦争に至るこ
とになった。1936年(昭和11年)4月当時,陸軍の支那駐屯軍(司令部は天津。
)は兵力を増強し,新編制に改変していた。
駐屯軍は外地における
平時の編制であったが,1937年(昭和12年)8月31日,陸軍は,支那駐屯軍を改編し,華北において北支那方面軍(司令部は北京。
)を編制し,第1
軍と第2軍を統轄した。
方面軍は戦時の編制である。以後,日中両軍は,南
京攻略戦,徐州会戦,
武漢攻略作戦・広東作戦などの大規模な戦闘を行った
が,次第に長期持久戦に転換するに至った。
北支那方面軍設置の際,陸軍は特務部を置き,軍作戦地後方地域における各般の政務事項に関し,
中国側機関を統制指導し,
当該地域の
日満中提携

共栄実現の基礎とするために,諸般の工作を実施すべきものとした。この北支那方面軍特務部が指導し,1937年(昭和12年)12月,北平(北京)で華北の傀儡政権である中華民国臨時政府を設立し,以後も軍が華北の支配の実権を握り,強制連行実行の重要な一角を担うのである。⑶

物資の動員
日本国が中国や南方へと占領地を拡大する重要な要因は,鉱業資源の獲得にあった。関東軍は,1936年(昭和11年)8月,
満州国第2期経済建設要綱を決定し,その枠組みに沿って,
満州産業開発五ヵ年計画
(1937年
(昭和12年)4月~1941年(昭和16年)3月)が作成された。この計画では,鉄・石炭・アルミニウム・液体燃料等の基礎素材部門の生産能力の大幅拡充とともに,自動車・飛行機・兵器等の軍需工業の確立を目標とした。華北では,北支那方面軍特務部,興亜院(1938年(昭和13年)12月16日設置の日本の国家機関。1942年(昭和17年)11月大東亜省に統合された。,満鉄(南満州鉄道株式会社)調査部等の連携により,いくつかの)
経済開発計画が立案された。
満州国
の場合と異なり,
華北における経済開発
計画の制約要因は治安の問題であった。華北では中国共産党の抗日根拠地と遊撃区が建設され,農村部は日本側の支配が及び難い状態であった。


労働力の動員
1938年(昭和13年)4月,国家総動員法が公布された。同法は,

戦時(戦時に準ずべき事変の場合を含む。)に際し国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及物的資源を統制運用

することを目的とする。日本国政府は,
政府は戦時に際し国家総動員上必要あるときは勅令の定むる所に依り帝国臣民を徴用して総動員業務に従事せしむることを得という規定により,議会の承認なしに,勅令をもって経済と国民生活の全体にわたって統制する権限を得た。
厚生省援護局の資料によれば,1945年(昭和20年)8月15日時点の現存兵員数は547万2400名(うち中国本土105万5700名),19
37年(昭和12年)7月7日から1945年(昭和20年)8月14日までの死没者は148万2300名(うち中国本土38万5200名)であった。上記統計によれば,盧溝橋事件が勃発した1937年(昭和12年)7月7日以後,兵力の大動員と消耗によって,日本国内の労働力が極めて逼迫する状況になっていたことが読み取れる。
例えば,1937年(昭和12年)8月,応召による坑夫の欠乏を危惧した筑豊石炭鉱業会は,朝鮮人労働者の誘致を決議し,石炭鉱業連合会を通じて日本国政府に陳情しているが,こうした動きにも労働力に強い需要があったことを見ることができる。
日本,朝鮮,
満州国においては,国家総動員法及びこれに基づく勅令によ
って労働力動員体制が整備された。他方,中国の華北など占領地においては,軍が直接前面に出て,法制・行政機構を実体化させる余裕を欠いていた。ただし,動員の強制性という点では,植民地と占領地は同様であり,いずれの地域においても,まず募集によって必要数を調達しようとし,それが困難になると行政機関への割当てに移行し,そして警察(あるいは軍)と連携した強権的ないし詐欺的な動員が一般化し,ついには拉致にまで至ることになった。1939年(昭和14年)7月,国民徴用令が公布され,一般国民が軍需産業に動員されるようになった。
さらに,
昭和14年度労務動員実施計画綱領
が閣議決定され,これには移入朝鮮人労務者が計上され,同年9月から朝鮮人が集団で労力移入されることになった。これが強制連行の第1段階としての集団募集であった。
満州国では,日中戦争勃発後,
修正5ヵ年計画を策定し,本格的な労
働力動員政策を実施することとした。まず,1938年(昭和13年)1月,労働力動員実施機関として,
満州国政府
,満鉄,大東公司,満州土建協会等
の共同出資により満州労工協会が設立された。以後,満州労工協会が,労働者の供給,登録業務等を行った。
関東軍は,1937年(昭和12年)までは華北からの中国人流入を制限していたが,1938年(昭和13年)からは華北からの労働力導入促進に転換した。1940年(昭和15年)には,旧満州に流入した中国人は130万名を上回り,その数は1936年(昭和11年)と比べると農林漁業は3.27倍,鉱業は12.72倍に増えた。他方,旧満州に労働力を供給する結果となった華北においても,
労働力の需要は大きく,
これに旧満州と華北との間に
労働力の奪い合いの状態が現出した。
華北においては,1938年(昭和13年)11月,華北経済開発の統合調整企業として北支那開発株式会社が設立された。華北における土木,鉱山等の労働力需要は急速に高まり,
満州国側の労働力需要との調整が必要に
なったからである。
1939年
(昭和14年)
2月,
北京で
満支労働関係者会議
が開催され,
満州国側は大東公司が満州国への供給斡旋を統制し,華北側は労工協会を設立して統制することとした。華北労工協会は,日本の傀儡政権で
あった中国政府と北支那開発株式会社が出資し,1941年(昭和16年)7月設立された。


中国人強制連行政策の立案

事業者側の要請
1939年(昭和14年)7月,北海道土木建築業聯合会内,外地労働者移入組合発起人作成の願書が,厚生・内務大臣宛に提出された。同願書には,
日中戦争の本格化のもとで,

我国内の労働力は減ぜざるを得ず。枯渇する我労働資源を支那人の有する最も簡易なる奉仕を以て代位するは極めて当然ならずや

とあり,労働者の不足より生ずる賃金の高騰を防ぐ
また
とあり,北海道において合計6100名の導入が必要であるとされていた。同願書には,
彼等の如き低廉なる労働賃金を以て甘んずる労働者を我本土に連行し,
予てより試みられつつある百の宣撫工作より勝れるものある可しと信ずともあった。この一節は,宣撫工作による募集などでは逼迫する労働力の需要には追い付かず,もはや連行するしかないという事業者側の逼迫した状況をうかがうことができる。
1939年(昭和14年)12月,日本の土建企業の連合体である土木工業協会では,臨時理事会で調査部に研究課を置くことを決議した。1940年(昭和15年)1月の調査部臨時委員会におけるG理事長の発言は,1938年(昭和13年)段階で,華北の労働統制の計画を持っていたことを明らかにするものであった。
朝鮮人に加えて中国人を日本に連行する構想は,
1940年
(昭和15年)
3月に商工省燃料局に官民合同協議会が設置された時から表面化していた。1941年(昭和16年)4月,北京で満州北支労務対策会議が開催された。北支那方面軍司令部参謀部第4課月報
(同月分)の政務関係事項三の記載によれば,上記会議には関東軍H参謀以下3名及び政府代表部,(満州)労工協会,土建協会,満炭等代表者8名を迎え北支側より軍,興亜院華北連絡部,新民会,華北交通会社等代表者が参列した。上記会議では,
昭和16年度対満供出労働者の110万名確保を目標として設定されたほか,そのための必要な方策として治安工作と労働者募集との連携が掲げられた。
満州国側の一員として参加した満州土木建築協会理事長
のIは,
上記会議において,
勿論募集難の最大原因は治安が悪く,募集地区に入れないのですから,北支軍としては募集に最も有利な地区に討伐をやって頂ければ良いのですと提案すると,北支那方面軍(北支軍)のJ大佐がよし討伐しやうと発言した。
上記会議では,華北では討伐を労働力調達の手段とすることが,事業者側と北支那方面軍の共通の理解となったことが分かる。また,上記会議に参加した新民会とは,1937年(昭和12年)12月に北平(北京)で設立された宣撫団体である。抗日勢力の減少,傀儡政権の支持の取付けを目的に,中国人に対する宣撫工作を行った。北海道土木建築業聯合会内,外地労働者移入組合発起人(代表・K)作成の前記願書に,
連行が百の宣撫工作より勝れるものとあるのは,新民会等による宣撫工作では労働力を確保できないという事情を企業側もよく認識していたことを示すものである。
1941年(昭和16年)8月,石炭鉱業連盟会長,日本金属鉱業連盟会長が日本国政府に対し,
支那苦力の移入を求める意見書を提出した。
以上のとおり,
昭和17年閣議決定の前に既に事業者が積極的に中国人強
制連行に向けて動いていた。これに関与する事業者は,既に満州国や華北においてさまざまな企業活動を展開し,そこで多くの中国人労働者を使役していた。その経験をもとに,上記のとおり,もはや連行するかしないと提言するに至っているのである。

中国人強制連行政策の立案
1941年(昭和16年)12月8日,日本国はアメリカ及びイギリスに宣戦を布告し,太平洋戦争が開始された。長期化している日中戦争に加え,太平洋戦争の開始により,ますます日本国内(内地)の労働力が逼迫するようになった。土木工業協会は,1942年(昭和17年)10月10日極秘文書華北労務者の使役に関する件を作成し,
(興亜院が作成した)『華北労務者の対日供出に関する件』の方針に基づき土木工事用労務者の移入を実施せんとして移入要領を定めた。
石炭統制会は,1942年(昭和17年)10月1日,各支部に対し,極秘文書炭鉱に俘虜並に苦力使用の件を発し,その中で苦力使用に関しても現在企画院と種々交渉中にて未だ具体的の結果を見ざるも各業者の熱意如何に依りては此れも使用可能となる見込あるにより交渉の資料として右俘虜と同様十月五日迄に各社より希望数並に希望条件を徴取することに本日決定したと述べている。同年10月15日付けの石炭統制会東部支部長名義の苦力使役の件には,興亜院の希望を記載した企画院作成名義の苦力の件が別紙として添付されている。
事業者側の強い要請,北支那方面軍の積極的関与の姿勢,さらには太平洋戦争勃発により,ついに1942年(昭和17年)11月27日,昭和17年閣議決定に至った。なお,昭和17年閣議決定の直前の同年10月21日付けで俘虜派遣規則が公布され即日実施された。同規則第1条には本令ニ於テ俘虜ノ派遣ト称スルハ俘虜ヲ労務ニ服セシムル為俘虜収容所外ニ派遣居住セシムルヲ謂ヒ派遣俘虜ト称スルハ派遣セラレタル俘虜ヲ謂フとある。すなわち,軍事俘虜を俘虜収容所以外に収容して,工場や鉱山に労役させることを認めるものであった。
昭和17年閣議決定を受けて,1942年(昭和17年)12月,関係官庁と民間統制団体の18名からなる華北労働事情調査団が派遣された。これには,企画院,厚生省,内務省,商工省など各省と民間側各種統制会,三井,三菱,
住友などの鉱山関係者,
新潟,
伏木の荷役業者等総勢27名が参加した。
日本国政府は,昭和17年閣議決定に基づき,1943年(昭和18年)4月から同年11月までの間に,中国人労働者1411名を日本国内に試験的に移入した。
1944年(昭和19年)1月27日の衆議院予算委員会において,岸信介国務大臣は,
来年度の計画を進めて行きます上に於きまして,労務の問題は御承知の如く非常な重要問題でありまして,露天労務者としましては(欠落)名前後の者が必要ではないかと考えて居ります。而して其の確保と云うことに付きましては,是は一般労務計画と睨み合わせて行かなければなりませぬが,御話の如く私共も此の労務の給源と致しまして,半島労務者及び華人労務者等の相当大量な此の方への割当の移入と云うことは,どうしてもやって行かなければいかぬ,随て之に伴う所の各種の問題は,御承知の如く頭を切り替えて,凡ゆる方法を講じて之を解決すると云うことにし,相当大量の斯う云う方面の労務者を入れる必要がある,斯様に考えて居りますと述べた。また,同月28日の同委員会で小泉国務大臣が試験移入は非常によい成績である旨の答弁をした。同年2月17日付けの石炭統制会労務部長から東部支部長宛の華人労務者移入に関する件には,為替相場の関係上之が経費相当割高となるを以て其一部に対し国家補償をなすべきや否やに付協議中とある。中国人労働者を受け入れた企業に対し,日本国政府が国家補償を行うという話はこの時点で出ていたのである。
そして,1944年(昭和19年)2月28日,昭和19年次官会議決定を行った。昭和19年次官会議決定の第一通則の一では,
本件により内地に移入する華人労務者の供出又はその斡旋は大使館,現地軍並びに国民政府(華北よりの場合は華北政務委員会(華北における日本の傀儡政権))指導の下に現地労務統制機関(華北よりの場合は華北労工協会)をして之に当たらしむることと定められている。
昭和17年閣議決定に比べて,
大使館現地軍
が登場し,
また,
訓練せる元俘虜又は元帰順兵
が連行対象者として前面に登
場している。
昭和19年次官会議決定に基づき,日本国政府は,
華人労務者内地移入手続において中国人労働者移入の具体的な実施細目を定め,さらに,1944年
(昭和19年)
8月16日
昭和19年度国民動員実施計画策定に関する件
との閣議決定により,
昭和19年度国民動員計画において3万名の中国人労働
者の供給を計上して,中国人労働者の本格的な移入を促進することとした。日本国政府は,昭和19年次官会議決定に基づき強制連行を本格化させ,1944年(昭和19年)3月から1945年(昭和20年)5月にかけて,3万7524名,
前記試験的移入と併せて合計3万8935名の中国人が強制連
行された。なお,俘虜収容所から青島等の港に行き着くまでに死亡した数は320名であり,
これを加えると強制連行された中国人は3万9255名になる
との推計もある。
2強制連行の実態


概要
華北における強制連行は,日本国政府,日本大使館(北京)
,現地軍(北支那
方面軍。
北京)国民政府又は華北政務委員会の指導のもとに,

華北労工協会が
当たっていた。そして実際には,全ての面で北支那方面軍が前面に出て,徴用手続すらとらない無差別の労工狩り(拉致)を行い,捕虜を転用していた。


供出手続(拉致の実態)
昭和17年閣議決定は,
年齢概ね40歳以下にして心身健全なる者を選
抜するとし,中国人労働者の供出方法は,
行政供出訓練生供出自由募,,集及び特別供出の4つであった。しかし,訓練生供出の実態は,戦闘
によって捕まえた俘虜を供出するものであり,
行政供出
の実態は,
特に19
43年(昭和18年)以後,日本における労働力が極めて逼迫してからは,戦闘を前提とせず暴力的に逮捕・拉致した者を供出するものであり,いずれも強制連行であった。
また,46事業場における統計によると,中国人労働者の59.3パーセントが有家族者であり,40歳を超える者も連行されていた。



訓練

昭和19年次官会議決定においては,中国人労働者の移入に先立ち,一定期間(1か月以内)現地の適当な機関において必要な訓練をすることとされていた。


石門俘虜収容所は,1944年(昭和19年)春,
石門労工訓練所と改
称され,表向きは労工となるための訓練を行う施設となった。しかし実際には俘虜収容所そのものであり,
訓練所
と呼べるものではなく,

想教育,団体教練もあったものの,そのほとんどは労働
,しかも強制労働であった。石門俘虜収容所の周囲には,背丈の倍くらいの太い丸太が立ち並び,有刺鉄線が張られ,丸太にはがいしが付けられて高電圧線が張られていた。捕虜が逃げようとして感電死したこともあった。
戦場での負傷者は手当もされないまま有蓋車に押し込められた。逃げることができず,途中で食物も水も与えられなかったため,石門の駅に着いた時には,既に多数の俘虜が死んでいた。石門労工訓練所に到着すると,消毒のため石炭酸水の入っているドラム缶の中に入れられ,氏名,八路軍(日中戦争期に華北で活動した中国共産党軍)かどうか,身分などが登記された。収容所の食事は粗末なもので,それすらも満腹になるまでは食べられなかった。衣服の支給はなく,
暑い頃に捕まえられた者は冬になっても薄着のままだっ
た。病気になって死ぬ者も多く,死者数が多くなると,常備されている棺桶に遺体を入れ,それを担いで万人坑に行き,死体を放り出して,また棺桶を持って帰った。さらに多くなると,大八車に何十体も積んで運び出した。暴動を起こし,
門を出ようとして20名くらいが銃で撃たれて死亡したことが
あった。

済南の俘虜収容所である新華院においても,中国人労働者は,朝に体操することはあったものの,ほとんど閉じ込められたままであり,実際には,俘虜を労工に変えるための訓練は行われていなかった。



日本への輸送
昭和19年次官会議決定では,
華人労務者の輸送は日満支関係機関に於いて之が手配を為すこと
とされていたが,
実際には日本大使館,
北支那方面軍,
華北労工協会が連絡を取り合い,収容所に収容されていた捕虜らを収容所から出港地に輸送し,上船させ,日本の入港地から日本各地の事業場に輸送した。輸送された中国人労働者は,食糧事情が最悪の状態で,貨物船の貨物に寝起きさせられ,最長で39日も要する航海を余儀なくされ,上陸後直ちに長時間の汽車輸送を受けた。その結果,これによる死亡者は812名にのぼった。石門俘虜収容所に収容された中国人労働者は,石門捕虜収容所から石門にある駅まで30分ほど歩かされ,その間,拳銃か何かの武器を持った中国人警備隊員と小銃を持った日本軍兵士に監視され,石門駅に到着するまでに2名が倒れ,この2名を含め25名は栄養失調者として乗船しなかった。石門にある駅で,有蓋車に押し込まれ,出発する間際に閉められた有蓋車の扉は,青島に着くまで開けられることはなかった。
4斗樽ほどの樽を便器として,
貨車の中に入れ,
そこで大小便をさせられた。
船中の警備は海軍の分担で,一個分隊ほどの兵隊が乗っていた。海に飛び込んで逃げる者もいた。昼間は潜水艦に攻撃されるので,主に夜に航行し,朝鮮の沿岸を通って,約1週間航海した。そして上陸地から日本各地の事業場に汽車で輸送させられたのである。


中国人労働者の身分,年齢,家族の状況
外務省報告書では,鹿島組花岡事業場の中国人労働者の年齢構成は,最年長が67歳,最年少が16歳,平均年齢が35歳であり,家族構成は,独身が6割,
家族のある者が4割と記載されている。
職業は,
農705名,
商102名,
工39名で,前歴は俘虜であるものが136名との記載がある。
藤永田大阪事業場は,年齢構成は,最年長が55歳,最年少が16歳,平均年齢が32歳であり,家族構成は,独身が74名,家族のある者が275名,職業は,農123名,商10名,その他19名,前歴は,保安隊員が8名となっている。
港運大阪安治川事業場は,年齢構成は,最年長が53歳,最年少が17歳,平均年齢が27歳であり,家族構成,職業,前歴は,いずれも不詳となっている。
港運大阪川口事業場は,年齢構成は,最年長が51歳,最年少が17歳,平均年齢が30歳,家族構成は,大部分が独身,職業は,主として農,前歴は,旧軍人が70名と記載されている。
港運大阪築港事業場は,年齢,家族構成及び職業は不詳,前歴は,荷役労工となっている。
外務省報告書は上記のとおり整理しているが,現地機関も受入企業においても中国人労働者の前歴に関心はなく,中国人労働者においても,たとえ八路軍に所属していても身分を明らかにせず,多くは農民であると申告していたため,前歴については実際とは異なる。
年齢について,昭和17年閣議決定は,
年齢概ね40歳以下にして心身健全なる者を選抜するとしていたが,実態は上記のとおり,40歳を超える者もいたのである。
また,
統計数字の出ている46事業場の家族状況をみると,
有家族者が59.
3パーセントであった。
3強制労働の実態


強制労働に対する被告の主体的関与

中国人労働者に対する管理・取締りは被告が行っていたこと
各事業場に配置された中国人労働者に対しては,日本国政府,事業場,中国側の華北労工協会等の三者が管理を行っていた。政府機関としては,内務省
(取締担当,
地方庁,警察署)
,厚生省(労役配置担当,国民職業指導所)

軍需省(生産量割当)
,運輸省(国内移動輸送)が担当し,地方庁としては,
県,町が担当した。
外務省報告書には中国人労働者に対する管理及び取締りについては内務省が厚生省,軍需省と連名で行っていたことが明記されている。また,住居の設置場所のような詳細にわたる事項についても,日本国政府が事業所に対し指示をしている様子がうかがえる。


内務省による事業所の指示,視察
移入華人労務者取締要領の発出
内務省は,1944年(昭和19年)4月付けで,
移入華人労務者取締要領
を発出しているが,
その中で,
逃亡の防止や外部の接触を絶つため,
さまざまな処置を各事業所に指示している。例えば,中国人労働者の宿舎と作業場を日本人や朝鮮人からできるだけ隔離する,個人外出の禁止,手紙など通信の検閲,
思想や経歴等の詳細な内査,
逃亡者の捜査などである。
さらに事故や紛争の発生状況,中国人労働者の稼働状況
,それに指導員や取締専従警察官について,内務省に毎月報告するよう求めている。
このように,被告は,各事業所が中国人労働者を管理する手法について,極めて詳細かつ具体的に指示を行っていた。犯罪者あるいはスパイ集団に対するに等しい扱いが,中国人労働者に対する日本側の基本的な姿勢だった。
内務省による事業場の視察
また,内務省は,自ら出した指示がきちんと実施されているかどうか確かめるため,事業所の視察に回っており,実際に,三井鉱山砂川鉱業所の事業所報告書には,

内務省,厚生省,軍需省調査官来山時に於て,良好なる為不評を蒙りたることあり。

と記載されており,内務省などの調査官が来たが,中国人労働者への待遇が良すぎて,不評だったということが分かる。
このように,被告は,中国人労働者の生命,健康を保護する義務があるのにこれを怠っていただけではなく,中国人労働者の労働条件をより劣悪にすべく,事業所に対して指示を行っていたのである。
1944年(昭和19年)7月12日,内務省のL事務官,M嘱託(以下M嘱託という。,厚生省官僚,秋田県警察部特高課長,警察署長な)
ど二十数名が花岡鉱山を訪れ,鹿島組花岡事業場と鹿島組に対し,中国人労働者の取扱方法について指示をした。M嘱託は

宿舎の構造と設備が華労に対して贅沢過ぎる。理由・粗末な穴倉敷仮小屋が華労の性格に適する。,

食糧の給与が贅沢過ぎる。現給(22キロ)でも多過ぎた。理由・華人の労働者は麦粉は主食でない。より下級な食糧を採っている。,

作業能率は低い(当時日本人と同率)現在の3倍を華人能率の基本とせよ。。理由・北海道イトムカ鉱山の華労は花岡鉱山の華労よりも食糧が不足であるが能率が良い。濡れたタオルの水が一滴もなくなる迄もしぼる方針を取れ。華人の性格には裏表ありて裏には陰謀術策が秘められ日本人に想像の出来難い点がある。,華労の裏面的行動を査察し反動的陰謀者の早期発見などと指示した。また,M嘱託は,1944年(昭和19年)の3月か4月頃から,内務省の嘱託として,強制労働が行われていた各地の事業所に,合計20回程度の視察旅行を行っている。この視察旅行には,常に内務省外事課の理事官か事務官が同行し,事業所に対して,さまざまな指示を行っていた。かかる内務省の指示が,中国人労働者の処遇を悪化させ,その健康被害を惹起せしめたことは明らかである。
華人労務者使用上の参考資料の作成
M嘱託は,1944年(昭和19年)
,中国人労働者が試験移入され
た富山県の日本港運業会伏木華工管理事務事務所を視察した際も,まず中国人労働者の食事の量を減らすように勧告している。また,宿舎の設備や衛生施設,衣服も汚れて不潔であることを確認した上で,

中国人にはこれで十分だ。と意見を述べた。

さらに,
同年5月にM嘱託は長野県王滝村
のホテルで中国人労働者の取扱いについて,内務省理事官,長野特高の警部,福島県警の警官,建設会社間組と飛鳥組の事業所の代表に対し講演を行っている。
その骨子は,

中国人はずる賢いので,見張っていないと何をしでかすかわからないから注意が必要だ。風呂や病気の治療は不要で,食料も少なくてよい。

というものであった。内務省は,このようなM嘱託の勧告や意見に基づき,1944年(昭和19年)
6月付で,
華人労務者使用上の参考資料
という意見書を作成し
た。この意見書には,次のような記載がある。なお,この意見書では中国人労働者のことを苦力支那

,中国を支那
,朝鮮を半島と記
している。

(宿泊施設は)座して頭の上二,三寸空く程度で良いのではないか,そうするなら,苦力の収容力は現在の倍以上はあると思われる。

殊に甚だしいのは入浴の施設であるがあれ等は何うかと思う。大体苦力が今日迄日本のような風呂に入ったものが,何人あるか?支那の習慣は,(中略)自分の家に連れて来て風呂に入れるという事は,被征服者が征服者に対する態度なのであり従って余り増長させて働かなくなると云う事であろう。大体彼等には洗面器へ水なり湯なり一杯有れば夫れで沢山なのである。

(食料は)少ない(中略)程彼等が緊張して居り,稼働率も良い。多い程緊張味を欠くのみか,病人が多く増長慢で稼働率が悪いのである。

食料を直ちに減ずる事は困難であるので,病人とか,作業を休んだものは減ずるとか,又毎日僅か宛を減じて行くと云う方法にする以外には無いのではないかと思う。

(中国では)逃走した者は何れも首を斬るか,銃殺なので,此の点日本へ来て逃走しても大した処罰を受けなかったとなると取締が倍々困難になりはせぬかと云う事を恐れるのである。

このように,中国人労働者に対する事業所での処遇をより悪化させるような方策が,内務省により極めて具体的に指示されていた。

警察署による指示
内務省のみならず各地の警察署も,
中国人労働者の管理・取扱いについて,
各事業場に対し,より劣悪なものにするように指示を出している。例えば,岩手県の日鉄鉱業釜石鉱業所に対して,警察は,
華人労務者に関する警察側よりの指示事項
として,
逃走者を逮捕せる場合,絶対に帰国又は職場に復帰さすことなく警察署に連行のこと労働能率の向上のため成績優秀者,に嗜好品を与え不良者には減食すること規律,指導訓練は最初から厳格,に行うこと

宿舎は座して頭上二三寸空けば良しとす。入浴の設備は被征,服者が征服者を持成すと云う支那の観念があるから設備の必要なし

という指示を行っている。
これらの指示内容は,上記内務省の華人労務者使用上の参考資料の内容とも大きく符合している。内務省の指示は,各地の警察署を通じて,各事業所に浸透していった。


中国人労働者の抵抗・蜂起に対する被告の対応
中国人労働者は,極めて過酷な環境と条件のもとに拘束されていたが,自らを取り巻くこれらの環境と条件を甘んじて受け入れてきたものではなく,食料,衣料充足の要求,
通信外出要求,
強制労働に対する要求,
帰国要求をしていた。
また,中国人労働者による事業場に対する抵抗の一つとして,逃亡があったが,官憲,事業場は逃亡を最も危険視しており,被連行朝鮮人に比して,警察的管理,取締りがより強かったため,中国人労働者の逃亡者数は少なく,逃亡率は低かった。
さらに,生産妨害,罷業,部隊長に対する攻撃などで,より積極的に事業場に抵抗する中国人労働者もいたが,警察は該当者を容赦なく逮捕し,逮捕後の拷問や欠食などによって,多くの中国人労働者が死亡した。



鹿島組花岡事業場における強制労働
ア概要
鹿島組花岡事業場における労働実態は,中国人労働者にとって苛烈を極めるものであった。毎日ほとんど食事を与えられないまま重労働に駆り出され,夜は粗末な小屋に閉じこめられて睡眠もままならない日々を送らされていた。その結果,
健康を害する者が続出し,疫病も蔓延した。

イ中国人労働者の生活状況
鹿島組花岡事業場においては,
華人を取扱ふこと牛馬を取扱ふ如くにして,作業中停止すれば撲たれ部隊行進中他に遅れれば撲たれ彼等の生活は極少量の食糧を与へられ最大の要求と撲たれることのみと言ふも過言にあらずという状況であり,過酷な生活と労働の中で,418名が死亡していった。
ウ中国人労働者の疾病・傷害・死亡
鹿島組花岡事業場の衛生状態は非常に悪く,
赤痢が集団的に発生した。
さらに,
1945年(昭和20年)6月24日から,10日間の突撃期間における連日の強制労働,
虐待,
酷使により,
同月30日までの死者は累計137名を数えた。
突撃期間を引き金として,
同日夜,
中国人労働者が一斉蜂起する花岡事件が起き
たが,逃亡した中国人労働者は,憲兵,警察官,消防団らによって逮捕されて寮に連れ戻され,3日間にわたる拷問を受け,1945年(昭和20年)8月末までの死者累計は286名となった。
鹿島組花岡事業場では,昭和19年(1944年)9月から昭和20年(1945年)7月末まで死体の火葬に当たって何らの宗教的儀式も行われなかった。死体は,古い別の建物の中にしまわれたか,衣服を付けずに箱に入れるか,むしろにくるまれて山の脇に放置された。そして,死体が堆積してくると燃料を節約するために同時焼却された。中国人労働者の人格や名誉は配慮されることなく,冒涜されるに任される状態であったものである。
エ花岡事件
概要
鹿島組花岡事業場に連行され,強制労働に従事させられた中国人労働者は,過酷な労働条件と心身両面にわたる絶え間ない虐待に耐えかね,中華民族の誇りと尊厳を守るために,当時の労工隊の大隊長であったCの指揮のもと,1945年(昭和20年)6月30日夜暴動を起こした。蜂起のきっかけ
蜂起の直接のきっかけは,1945年(昭和20年)6月,寮を抜け出して草を食べているところを捕らえられた中国人労働者に対し,
かまどの
中で真っ赤に焼いた鉄の棒を同人の両股の間に挟ませるという酷刑が行われたことであった。
蜂起の決行と捕縛
決行は,1945年(昭和20年)6月30日の深夜,蜂起の時刻は,同年7月1日午前1時と決定された。しかし,中国人労働者は,実際より2時間も早い同年6月30日午後10時半直前に,4名の日本人補導員と1名の親日中国人労働者を殺害し,つるはし,鳶口,シャベル,鍬,鎌などで武装し,持てる限りのふとん,衣服,食糧を担いで,中国人労働者の宿舎である中山寮の反対側にあった,獅子が森に向けて夜通し逃走し,獅子が森の山上に至り,北海道の海辺まで行って中国に帰る道を探そうとした。
しかし,暴動を起こした2日目には延べ2万余名の憲兵,警察官,消防団によって包囲され,心身衰弱や病気のためまともに歩くことができなかった中国人労働者約300名が捕まり,獅子が森に逃げた中国人労働者約300名も,
抵抗するだけの体力がなく,
すぐに捕縛され,
1945年
(昭
和20年)7月4日ないし5日には,中山寮に連れ戻された。
共楽館広場や警察署での拷問
連れ戻された中国人労働者は,鹿島組花岡事業場の共楽館前の,砕石が敷かれた広場(以下共楽館広場という。
)に,両手を後手に縛られ,か
つ,2名ずつ腕を結ばれて,ひざまずかされた。しかも膝の後ろに三角棒が通され,7月の炎天下,水も食料も与えられず,三日三晩にわたって放置された。
三角棒による圧迫と砂利が足に食い込む痛さから少しでも体勢
を崩すと,即座に暴行が加えられた。この拷問により100余名が死亡した。広場の四方は無数の日本兵,憲兵,警察官が銃をとって監視し,これに鹿島組花岡事業場の下請労働者が加わった。
a4
(原告A4の父)暴動が失敗した後,
は,
共楽館広場に連れ戻され,
逃亡を企てた数百名とともに,3日間,ひざまずかされた。食べ物を与えられず,眠ることも許されず,眠ろうとすると水をかけられた。3日後,ようやく茶碗3分の2のどんぐりのかゆを与えられた。
その他,a2(原告A2の父)
,a5(原告A5の父)
,a6(原告A6
の父)
,a7(原告A7,原告A8,原告A9及び原告A10の父)
,a8
(原告A11の父)及びa10(原告A12の父)が,共楽館広場前での暴行,
虐待を受けている。
a3
(原告A3の父)
は,
共楽館前広場で暴行,
虐待を受け,1945年(昭和20年)7月7日,死亡した。
Cら首謀者は,警察官によって,次々に拷問にかけられた。警察官は,a4を連行し,棍棒で殴りつけ,両親指をひもで体の後ろで縛った状態にしてはしごにくくり付け,天井に引き上げて,棒で背中や上肢,下肢を殴ったとされる。
刑事判決
花岡事件の首謀者は12名で,
取調べの結果,
戦時騒擾殺人罪
が適用
され,1945年(昭和20年)7月13日秋田刑務所に護送され,同年9月11日,秋田地方裁判所において,Cは無期懲役,他の11名は,懲役3年から10年の判決を受けた。(懲役10年)
a4
及び原告A18
(判
決書には,A18’と記載。懲役6年)は,この11名に含まれている。⑷

港運大阪安治川事業場,同大阪築港事業場及び同大阪川口事業場

港湾荷役での強制労働
外務省報告書及び外事月報によると,5事業場7グループ,延べ
1410名の中国人労働者が大阪に連行されてきた。
大阪への最初の連行は,大阪船舶荷役株式会社と神戸船舶荷役株式会社が連名で福昌華工株式会社と交わした供出契約に基づいて実行されたものである。外事月報
1943年(昭和18年)9月分には上記の契約書が掲載されて
おり,大阪へ200名,神戸へ100名を連行することが記載されていた。同記事では同年9月3日に神戸税関経由で210名が大阪港に入港,同月5日から作業を開始し,神戸においては同月7日に106名が神戸入港,同月9日から就業という日程で連行が実行されたことが記載されている。また,中国人労働者の出身地,学齢,年齢,荷役経験年数,妻帯の有無の分布表も添えられており,それによると90パーセントは山東省出身,年齢二,三十代が約80パーセント,荷役経験5年未満が45パーセントという構成であることが分かる。
イ中国人労働者の労働実態・生活実態
港運大阪築港事業場をはじめとする大阪の港湾荷役で強制労働に従事させられた中国人労働者についても,その劣悪な労働環境は上記鹿島組花岡事業場におけるのと同様であった。この点については,BC級戦犯裁判の報告等により明らかである。公判記録からは,事業所における虐待の事実すら認めることができる。
アメリカ国立公文書館
(ワシントン)1992年
で,
(平成4年)
にアメリカ
軍第8軍の軍事委員会の指令書(BC級戦犯裁判の結果報告)が発見され,1994年(平成6年)にその公判記録が発見された。
公判記録の中に,中国人労働者の一人であるNの1948年(昭和23年)8月23日付けの調書がある(以下N調書という)
。N調書には,大阪で虐
待・虐殺の事実があった状況について,
以下の記載がある。
なお,
P収とは容所厚生科長Pのことである。
1945年春頃,O(彼を私は中国から知っていた)は,弱っていて空腹で食べ物の追加を頼んだ。彼は断られ,丸マントウを盗んだ。彼は捕まり金属の手錠で縛られた手首をひもで吊された。その状態で私たち労働者がほとんどいる前でひどく殴られた。Pは最初に平手打ちをくわし殴った。彼が意識を失った後,CXが木の棍棒で彼を殴るのを手伝った。40分間のこのひどい強打の結果,彼は何も食べることができなくなり,何もできなくなって,1週間ぐらいで死んだ。1945年7月,中国人労工の1人,Qは,空襲の後で点呼に遅れた。Pは彼の頭や身体や目を棍棒でひどく殴りつけた。頭や目から血が流れ出て地面に倒れて,彼は意識がなくなった。彼はその後すぐに死んだ。私は宿舎の窓から全体の出来事を見た。港運大阪築港事業場の報告書に添付された港愛病院医師作成の
死亡診断書
では,前記Oについて3月28日,肺浸潤により病死
,Qについて7月21日,衝心性脚気により病死となっていた。また前記Pは当初BC級戦犯法廷の起訴状に,訴因として虐殺の事実が挙げられていたが,虐待のみで有罪となっている。しかし,大阪の港湾荷役では,N調書のとおり,中国人労働者の虐殺があった。
ウ中国人労働者による抵抗,蜂起
大阪での抵抗活動としては,具体的には,食料を増やすように要求し,運んでいた荷物等を海に落とす,クレーンを停止するといったものが行われた。また,Rら3名の下,12名のメンバーが団結し,仲間を増やして,1945年(昭和20年)1月頃から同年4月初旬までの間,
反飢餓闘争と呼
ばれる抵抗闘争がなされた。これはSらが飢餓に対して抵抗するため,12名の仲間と

お腹がすきすぎて仕事ができない。みんなで仕事に行かないようにしよう。

とストライキをしたものであった。この反飢餓闘争は,少ない食糧,長時間の労働では生存していけないという状況を解決するために行われた。1945年
(昭和20年)
4月6日,メンバー全員が一斉に仕事に行かなかったと
ころ,官憲が収容所を包囲し,主要メンバーのS,Uら6名に手錠をかけT,
逮捕した。警察は,壁側に向かせ,互いに会話することを禁止し,Sらは,それぞれ分かれて警察に連行され,別々の場所に留置され,尋問,拷問が行われたのである。拘禁は,日本敗戦の日まで続いた。
このように,被告は,警察官により中国人労働者を拷問,弾圧し,積極的に加害行為を行った。


藤永田大阪事業場

ア造船業における強制労働
藤永田大阪事業場は,
強制労働が行われた事業所のうち,
大阪では唯一,
港湾荷
役以外の事業場である。
造船所での労働は,事業場報告書によれば,1日9時間,交代制なし,月平均作業日数28日であったとされている。中国人労働者は,宿舎から隊列を組んで工場に向かい,そこで作業別の班に分かれて仕事に就かされた。日本人監督が作業単位ごとに目を光らせ,怒鳴り散らし,時には拳や棒で殴って仕事をさせた。これにつき,中国人労働者の一人であるVは,
連れていく日本人は2人とも短刀を持っていました。怒鳴られることもありましたが,言葉の意味は分かりませんがその声や格好で怒鳴っているのが分かります。板の置き方や置く場所を間違えたという(らしい)理由で,何度も殴られました。少しでもずれたら殴ります。肩や腰のほかいろんなところを殴られました。と述べている。労働内容は,船体のリベット打ち,木工関係,各職種の補助作業や,掃除など雑役作業など,幾つかの職種に分かれていた。これにつき,中国人労働者の一人であるWは
仕事の内容ですが,まず2人1組で火を焚きます。1人が火を焚き,もう1人が機械を操作します。火を焚くのは鋲を赤く焼くためです。ハサミで挟んで,赤く焼けた鋲を打ち込む。5cmくらいのハサミでした。役割は決まっていて,同じ人がずっと同じ仕事をしていました。火を焚く人はずっと火を焚く。熱くなったら一つ取る。それをダ,ダ,ダと打ち込みます。『打鋲』と言います。当然身体が痛みますがそんなことに構ってはいられません。と述べ,前記Vは,
私は帰国するまでずっと木工班で仕事をしていました。機械で切った板を運搬する仕事でした。板は大体2~3mの長さで,その切った板を運んで行って積むわけです。かなりの重量がありました。ともかく8時間ぶっとうしで,切った板をどんどん運んでいました。長い板ですから,2人で運んで積み上げるのです。と述べている。イ
中国人労働者の生活実態
藤永田大阪事業場における中国人労働者の宿舎について,
事業場報告書には

外面コンクリート建てにて内部には2階に仕切られ1棟に250人定員なるも実際数は150名に付き狭隘なるが如きは事はなく・と記載されている。・

また,
燃料不足のため暖房設備がなかったことも記載されている。
部屋の広さについて,生存者は,
住んでいるところには木造の平屋で,建物の中には幾つかに仕切られている。寝るところはカイコ棚風の2層になっていた。入り口のところの見張りを含めて3,4名の警官が付いていた。周囲の壁は2mの高さで,その上に3本の電気鉄条網があった。と述べている。食事について,
中国人労働者であるX,Y,V,
Zは,当初ウオトウ1個と漬物
のようなものか,薄いトウモロコシ粉のかゆという状態だったので,隊長を通じて会社側と交渉の結果,
小麦のマントウに変わった。
それでも朝1~2個,
昼2~
3個,夜はかゆかマントウ1~2個に少しのおかず,といった具合でとても腹が満たされる量ではなかったとのことである。
この点,
事業報告書では
食糧は健康保持及作業従事上必要量を充二分に支給したり故に日鮮人の少量配給に比較すれば問題にならぬ程の優遇なりとの記載があるが,上記各証言とは大きな隔たりがある。
ウ中国人労働者の健康・医療・死亡
藤永田大阪事業場での労働期間中の死者は,
BA,
BB,
BC,
BD,
BFの5
名とされている。事業場報告書には,5名の死亡診断書が添付されている。死
亡診断書をみると,BA,BBの2名は1944年(昭和19年)8月15日の発病となっている。つまり,日本に上陸した時点で,既に病に冒されていたわけであり,捕虜収容所」
での生活がいかに過酷であったかを物語っている。1966年(昭和41年)8月に行われた聞き取りの際,中国人労働者であるY,a11,BEは死亡者,医療に関して次のように証言している。・BFという,30才ぐらいの人。民権県の人。仕事に慣れないながら,働いていたがある日点呼をしてみると1人いない。翌日になってもいない。彼は逃亡していたと言うことで,数日後警察に捕まって送り返されてきた。罰として食事抜きということになった。後で彼が死んだということを知った。(a11)・BDとは一緒に仕事をしていた。仕事中よくうつむいてしゃがみ込んだりしていたが,どういう理由で死んだか分からない。(a11)・BBは病気だったことは知っていた。何の病気かは知らない。・敗戦後,病院に入院している人を見舞いに行った。(Yとa11)・入院していたBGという人だった。敗戦前に仕事でけがをした。・けがをしたときは,指導員が付き添って病院へ行くことができた。・BEは,首にでき物ができて,またa11は釘を踏み抜いてそれぞれ病院で治療を受けた。4戦後における日本国政府の対応⑴強制労働の継続日本国は,1945年(昭和20年)8月14日,ポツダム宣言を受諾し,同年9月2日,降伏文書に署名した。これらにより,日本国は,日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人を処罰すること,中国人労働者を直ちに解放し,保護し,送還のための処置をとること,被抑留中国人の状態を連合国最高司令官に報告する義務を負った。日本国政府は,ポツダム宣言の受諾を受け,同年8月17日,内務省主管防諜委員会において「華人労務者ノ取扱という文書を各事業所に発出し,中国人労働者の作業を停止するように指示した。しかしながら1945年(昭和20年)8月22日に内務省,厚生省係官により関係各統制会に発出された
華人朝鮮人労務者の休戦後の措置に関する件
及び華人労務者帰国取扱要領には,労働の継続を許容する規定が存していたため,実際には,稼働が停止しない事業所があった。
鹿島組花岡事業場では,
中国人労働者に敗戦の事実が知らされず,
華人労務者ノ取扱は破り捨てられ,敗戦前と全く同じような強制労働が続けられた。強制労働が中止されたのは1945年(昭和20年)10月花岡鉱山にアメリカ兵が来山し,中国人労働の禁止命令が出されてからであった。


送還の遅れ
日本国政府は,降伏文書で,中国人労働者を直ちに解放し,保護し,送還のための措置を執るとされたことを踏まえ,1945年(昭和20年)8月下旬から9月上旬に華人労務者帰国取扱要領を作成し,12回にわたって送還が行われた。
しかし,実際は,船舶の事情,中国側の交通事情の悪化,中国人労働者の持帰金問題,帰国後中国人労働者が悪宣伝をするのではないかという日本側の猜疑心が原因で,送還手続は滞った。
鹿島組花岡事業場の中国人労働者のうち,
生存者531名は,
1945年
(昭
和20年)11月24日に集団帰還のため花岡を離れた。花岡には,なお秋田刑務所内に12名,GHQの指令で留められた者11名,病気入院中の者18名,計41名の残留者がいた。
港運大阪築港事業場の生存者達は,1945年(昭和20年)11月6日,港運大阪安治川事業場及び港運大阪川口事業場に連行されて荷役の労働を強制された者たちとともに集団帰国のため大阪を出発し,同月12日に,塘沽に到着した。築港への被連行者で残留したのは,僅か2名であったが,うち1名は,6月の大阪大空襲でけがをして入院中のN,もう1名はBHであった。


資料の焼却
被告は,事業者に命じて,1945年(昭和20年)8月16日,戦時中の中国人及び朝鮮人に関する統計資料,訓令その他の重要書類を焼却させた。これら資料の隠蔽行為により,中国人労働者が,その意思に反して強制的に日本に連行され,強制労働に従事させられたという実態が隠蔽され,本件被害者らが自発的に日本企業に協力したとの風説が流布され,中国において生活を再建する上で大きな支障が生じることになった。


外務省報告書の作成及びその隠蔽
外務省管理局は,中国人労働者の強制連行の状況を調査した上で,1946年(昭和21年)
,外務省報告書を作成した。
しかし,この外務省報告書においては,中国人労働者が俘虜であることが隠蔽され,
契約労働者であることが強調されていた。
外務省報告書は,
1946年
(昭和21年)
3月にその要旨が報告された後,
整理された報告書の形式で完成したが,1960年(昭和35年)5月3日の日米安全保障条約等特別委員会において,外務省アジア局長は,外務省報告書の所在について,

全部焼却いたしたそうでありまして,現在外務省としては,そうした資料を一部も持っておらない次第でございます。

と答弁し,その内容を明らかにしなかった。その後,同年6月6日の岸信介首相の答弁等,日本国政府は一貫して外務省報告書の存在を明言せず,また,その内容も明らかにしなかった。
しかし,実際には東京華僑総会に外務省報告書が保管されていた。


政府答弁
被告は,
以下のとおり,
中国人労働者の強制連行,
強制労働の事実を否定し,
事実を矮小化する答弁を行った。

1954年(昭和29年)9月6日外務省アジア局長答弁
戦時中に中国から主として労務者ということで中国人が大体内地に参りましていろいろな所で働かれた,それがいろいろな事情で亡くなられたのが今の問題の遺骨でありますが,その戦時中に中国から労務者をこちらへ連れて参りました際には,これはやはり労務者を募集いたしまして,それに応募して来たということになっています。併しその労務者である人は,戦争中に日本軍と戦争いたしまして,日本軍の捕虜となって抑留されておった人が釈放されまして民間人となり,その民間人の人を労務者として連れて来たというのが非常に多いようであります。従って出身から云えば捕虜とも言えるわけでありますが,内地に参りました場合には捕虜の身分で来たのではなくて,自由の身柄の人として来たことになっております。イ
1958年(昭和33年)3月25日外務省アジア局長答弁
戦時中中国から相当多数の労務者が日本へ来て働いていたわけですが,この身分につきましては,通常,俘虜とか何とか言っておられますが,私,現地で直接会って承知いたしておりますが,俘虜ではございません。全部,身分が俘虜であった者も,現地で日本に送る前に身分を切りかえまして,雇用契約の形でみな日本に来ております。従って,通常言われる俘虜という身分ではございません。

1958年(昭和33年)4月9日岸信介首相の答弁
(F事件に関して)政府としては当時の事情を明らかにするような資料がございませんし,それを確かめる方法が実は現在としてはないのであります。,昭和17年閣議決定の「趣旨は,そういう本人の意思に反してこれを強制連行するという趣旨でないことは,あの閣議のなんでも明らかでありますが,しかし事実問題として,強制して連れてきたのか,あるいは本人が承諾して来たのか,これを確かめるすべがございませんので,政府としては責任を持ってどうだということを今の時代になって明らかにすることはとうていできないと思います。



1960年(昭和35年)5月3日外務省アジア局長答弁

(外務省報告書の所在について)全部焼却いたしたそうでありまして,現在外務省としては,そうした資料を一部も持っておらない次第でございます。



1960年(昭和35年)5月6日岸信介首相の答弁

戦時中わが国に渡来した中国人労務者が国際法上捕虜に該当するものであつたか否かについては,当時の詳細な事情が必ずしも判明していないので,いずれも断定しえない。

5本件被害者ら及び原告らの被害状況


a1及び原告A1

原告A1の父であるa1は,山東省定陶県西南宗庄で農家を営んでいた。
1945年(昭和20年)3月7日,家に押し入ってきた私服の漢奸が,父a1を連れ出していった。当時,家族としては,原告A1の祖母(同居はしていなかった。,父a1,母BI(妊娠中)

,姉BJ及び兄BKがいた。
その後,父a1の甥である宋明保は,父a1が捕まって連れ去られたことを知り,翌日からお金を使って人を雇い,数日間その行方を探したが,結局探し出すことができなかった。

原告A1は,父a1が連行された後の,1945年(昭和20年)4月12日に生まれた。当時,姉BJは15歳,兄BKは12歳で,母BIもまた纏足で,仕事ができるような状態ではなかった。父a1が連行されてから,家族はただ同人の帰りを待ちわびる日々であった。


1945年(昭和20年)旧暦10月末になって,同じく花岡に連行されていた,同村に住む母方の親戚であるBLが戻ってきて,父a1が,同年7月15日
(旧暦かどうかは不明。花岡で死亡したという訃報をもたらした。)
後に原告A1が探し出した名簿・死亡診断書によれば,父a1は,同年9月4日,黄疸・肝炎で死亡したことになっていた。
原告A1は,父a1を相続した。家族は驚き悲しみ,母BIはただ茫然とする有様であった。家族はお金を借りて,棺桶を買い,父a1の位牌を作って,棺桶の中に納めた。


原告A1の一家は,大黒柱を失い,日々の食事にさえ困るようになった。原告A1は家が貧しくなったため,学校には,小学校3年までしか通えず,7歳か8歳の頃から,
結婚した兄BKの姪の面倒を見なければならなかった。
村でただ一つの井戸から苦労して水をくみ出し,数ムー(15ムーが1ヘクタール)の土地に,親戚に頼んで田植をしてもらい,母BIは原告A1と兄BKを連れて方々に物乞いをしながら,何とか生き長らえた。兄BKは,1957年(昭和32年)に東北地方に出稼ぎに行き,姉BJは,17歳で嫁いでいったため,原告A1は,母BIと2人きりになった。飢えに苛まれ,苦労を重ねた母BIは,1964年(昭和39年)
,64才でこの世を去っ
た。

原告A1は,父a1に会ったこともなく,父の愛情を受けることもなかった。父がいなかったことで,飢えに苛まれ,苦労を重ねてきたことによる苦痛を被告に償ってほしいと願っている。



a2及び原告A2

原告A2の父a2は,山東省泰安市で,周囲の多くの志のある青年達とともに,中国共産党の影響下の地下組織に所属していた。a2は,1945年(昭和20年)3月15日,ある村で,他の同志とともに党組織の会議に参加するための準備をしていたが,日本兵に知られ,包囲された。父a2は他の同志を反対方向に逃がすため,身をていして敵が来る方向に向かって歩き出し,捕まった。他の数名の同志は,父a2のおかげで,難を逃れ,逃げることができた。


父a2は,
捕まった後,
泰安駅近くにある倉庫に監禁され,
青島に送られ,
青島から日本に向かう船に乗せられ,1945年(昭和20年)5月5日,鹿島組花岡事業場に到着した。
父a2は,
第3中隊
(448号)
に編入され,
他の労工と同様,ありとあらゆる苦しみを受け続けた。花岡事件に参加し獅子が森に逃げたが,捕まって共楽館に送られ,共楽館前広場で暴行,虐待を受けた。
父a2は,1945年(昭和20年)
,日本国が降伏した後,生き残った者
たちと祖国の天津に戻り,金がなかったために,天津から山東まで1か月以上を費やして鉄道に沿って歩き,ようやく家にたどり着いた。身体は既に骨と皮だけのように痩せ細っていた。

父a2は,帰国してしばらく経った頃,組織によって南下の部隊に派遣され,上海戦,渡江,抗米援朝など各地で闘い,多くの功績を挙げたが,1970年(昭和45年)に退職し,1985年(昭和60年)5月11日に病死し,原告A2は,父a2を相続した。


原告A2も他の家族も,父a2から,日本へ強制連行された事実について話を聞くことはなかった。花岡での苦しみを家族にも話さず,1人で抱え込んで死亡した父a2の精神的な苦しみは絶大で計り知れない。



a3及び原告A3

原告A3の父a3はa3’とも名乗っており,河北省安平県で,布を売って生計を立て,庭付きの立派な家屋に住んでいた。裕福な家庭環境の中,原告A3の家族には,父a3のほか,祖父母,3歳年上の兄BM及び母BN等がいた。


日本軍が中原の地に侵入し,放火,略奪,殺人などが始まると,父a3は商売ができなくなり,家の生活はやりくりがつかないようになっていった。1942年(昭和17年)の五一大掃討(同年5月に日本軍が主に河北省の抗日根拠地に行った大侵攻作戦)
の前後の時期,
父a3は,
身分を隠すため,
名をa3’に改名し,

安平県四区抗日聯軍の主任となっていたが,
1943

(昭和18年)
1月に開かれた重要な会議の席で,
裏切りによって捕まり,
投獄された。


母BNは,父a3が連行された当時32歳で,上には70余歳の夫の親,下には未成年の子が2人いた。一家は餓えと寒さで苦しみ,母BNは,痩せて弱った身体を引きずりながら働きに出ていた。それでもまともに食べることができず,原告A3も,重い栄養不良に陥り,四肢は痩せ細り,腹部は太鼓のように膨れ上がるなど瀕死の状態になった。母BNは,病気がちな原告A3を抱えて,ぬかをこねたものを食べ,野草を掘って食べ,街で物乞いをしながら野宿をし,父a3の行方を聞いて回っていた。

父a3は,安平県内の施設に収容された後,石門捕虜収容所,北京の捕虜収容所を経て,1944年(昭和19年)8月,鹿島組花岡事業場に連行された。花岡における所属等は不明である。花岡事件に参加したが,共楽館前広場で暴行,虐待を受け,1945年(昭和20年)7月7日,死亡した。原告A3は,父a3を相続した。


1945年
(昭和20年)日本国の降伏により戦争は終了したが,

母BN
が対面したのは,仲間が持ち帰った父a3の遺骨であり,母BNは,父a3の遺骨を抱いて泣き叫んだ。父a3の死は,原告A3の家庭を破壊し,もともといた家族のうち,生き残ったのは母BNと原告A3だけであった。母BNは,言葉に尽くせないほどの苦労をし,1987年(昭和62年)5月20日病死した。


原告A3は,被告による謝罪と賠償があって初めて正義を取り戻し,中国と日本国との真の友好が実現できると考えている。



a4及び原告A4

原告A4は花岡に連行された父a4の長男である。
父a4は,国民党十五軍六十五師の情報官で,軍位は少尉であったが,1944年(昭和19年)の春,日本軍が洛陽を攻略したとき,Cとともに捕虜になった。父a4は同年5月25日,洛陽で捕虜になった。その後,洛陽から鄭州に送られ,鄭州に2日2晩留まり,石家荘に送られた。そして北京の捕虜収容所に監禁され,青島に連行され,同年8月,日本軍によって鹿島組花岡事業場に連行された。北京から船に乗るまでの間は,ドアが閉められた汽車に乗せられ,拳銃と刀を持っていた日本兵に監視されていた。青島で乗った船は下関に着き,下関から花岡まで警察官と民間の日本人によって監視されていた。その後1年余り,戦争捕虜として労役を強いられた。父a4は,第2中隊の中隊長であった。夕方に作業場から中山寮に戻ったあと,父a4ら中国人労働者は日本人の職員に監視されていた。1944年(昭和19年)の冬の間は,セメントの作業をしたり,河床を掘りトロッコを押したりしていたが,積雪量が2メートルの中でも,透けて見えるほど薄い衣服しか与えられず,わらじで作業したため,凍傷で足は腫れ上がった。花岡での生活は正にこの世の地獄で,あらゆる苦難を味わった。中国人労働者は,日本人に作業場で殴られたり,皮膚病や下痢にかかったりした。父a4は,中国人労働者の死体が寮から運び出された時にその死体を見た。
やむにやまれず,実に耐え難い状況の下で,大隊長であるCの指導の下,ついに1945年(昭和20年)6月30日に暴動を起こした。父a4は暴動が失敗した後,共楽館広場に連れ戻され,逃亡を企てた数百名とともに,3日間,ひざまずかされた。食べ物を与えられず,眠ることも許されず,眠ろうとすると水をかけられた。3日後,ようやく茶碗3分の2のどんぐりのかゆを与えられた。警察官は,父a4を連行し,棍棒で殴りつけ,両親指をひもで体の後ろで縛った状態にしてはしごにくくり付け,天井に引き上げて,棒で背中や上肢,下肢を殴った。
そして,父a4は,1945年(昭和20年)7月13日花岡から秋田刑務所に護送された。
両手両足を縛ってはしごの上に横たわらせて水をかけら
れ,
水がいっぱい入ったやかんで胃がいっぱいに膨れ上がるまで口に水を注がれ,吐き出すまで腹を踏みつけられるなどの拷問を受けた。秋田地方裁判所で懲役10年の刑を宣告された。監獄においても虐待の限りを受けた。イ
父a4は,終戦後の1946年(昭和21年)4月中旬,秋田刑務所から解放された。父a4は東京裁判において証人となり,法廷に出廷して,日本軍による数々の罪行を証言した。その後,父a4は華僑の紹介で,日本人と結婚した。
故郷を思う余り,
1948年
(昭和23年)
の秋頃に中国に戻り,
国民党百五十四師の排長になった。その後は龍華戦役を経て,中国人民解放軍両広総隊後勤部で任務に就いていた。

父a4は,病気のため,1950年(昭和25年)2月1日,除隊を願い出て,故郷に戻り,1981年(昭和56年)6月17日に病死し,原告A4は,父a4を相続した。



a5及び原告A5

原告A5の父a5は,1921年(大正10年)11月生まれで,下記の張家楼惨案に際し,日本軍及び傀儡軍によって捕まり,日本に連行された10名のうちの1名である。1944年(昭和19年)7月24日,山東省荏平県張家楼村の村民は,300余名の青壮年からなる抗日民兵聯防隊を組織し,日本軍及び傀儡軍による度重なる襲撃を撃退していた。当時農業を営んでいた父a5は,聯防隊の一員となった。1945年(昭和20年)3月31日,
日本軍及び傀儡軍合わせて約3700名が山東省荏平県張家楼を襲撃し,住民330名を殺害,271名を負傷させた。同時に民家2723軒を焼き,牛86頭,車48台,無数の食糧を強奪した(張家楼惨案)。父a5は
仲間と徹底抗戦を行ったが,
ついに銃弾を撃ち尽くし,
銃を敵に渡すまいと,
空になった銃をある家のかまどの中に隠し,自分は積み上げられていた柴の中に隠れた。日本兵がその柴の束に向かって銃剣を突き刺したとき,父a5は脚の7,8か所を刺され,ついには捕まった。父a5とその他捕虜となった村民は縛られて荏平県城まで連行され,数日後,同じく監禁されていた仲間(BO,BP,BQ,BR,BS,BT,BU)とともに済南まで連行された。父a5は,他の1000名余りの中国人労働者と青島から日本に向かう貨物船に乗せられた。日本の下関に着き,花岡に送られ,そこで労役に就かされた。


花岡では川を掘り,堤防を修築する工事に就かされ,石や砂を運び,あるいは手押し車で数百キログラムもある石や砂を運ばされた。満足な食べ物を与えられなかったばかりか,少しでも仕事が遅いと殴られるなど,作業中も日本人補導員から暴行を受け続けた。そのため,休憩時間になると補導員の目を盗んで野草を食べ,飢えを凌いだ。中国人労働者の食事は主にどんぐり粉であり,消化が悪いために,常々ひどい下痢に悩まされた。犬さえ見向きもしない食事に,牛馬のような仕事を強いられ,骨と皮だけに痩せ細っていった。
父a5たちはこうした虐待に耐えきれず,1945年(昭和20年)6月30日夜暴動を起こした。山に逃げた後,松の木の上に隠れていたところを日本人に見つかり,木から引きずり下ろされ,他の中国人労働者とともに縛られて,
共楽館広場に連れ戻された。
その後,
逃亡を企てた数百名とともに,
広場で三日三晩ひざまずかされ,日ざしが容赦なく照りつけ,めまいに襲われる中,周囲の日本人から散々に殴りつけられた。3日後,再び中山寮に戻され,重労働を強いられた。
1945年(昭和20年)8月末になって,父a5たちはようやく日本国の敗戦を知った。花岡で,アメリカ軍の管理の下,数か月の休養を経た後,船に乗って天津塘沽に戻った。

父a5は,国民党が彼らを兵隊にとると聞き,同村から連行された他の仲間とともに,日本で死亡したBOとBSの遺灰を持って逃亡した。家に着いたときは既に夜であったが,祖父に戸を開けるよう大声を上げた。祖父は父a5の幽霊が現れたと思い,
なかなか戸を開けなかったが,
父a5と分かり,
抱き合って泣いた。祖父及び家族は同人が連行された後,その消息を知るために奔走したが,
その甲斐もなく,
父a5は既に死んだものと思われていた。
父a5は,戻ってきてから,2番目の叔父(祖父は4人兄弟)と子2人が日本兵に殺されていたことを知った。
父a5は武装隊長,
郷長などを務めたが,
日本での苦難と余りにも大きな精神的なショックのため,帰国後,胃潰瘍を患い,精神錯乱にも陥った。1979年(昭和54年)には,58歳で脳血栓のため半身不随になった。1990年(平成2年)
,原告A5とBVは,父
a5を介抱しながら,北京で開かれた聯誼会に参加した。父a5は,1992年(平成4年)10月13日,病気で死亡し,原告A5が相続した。エ
原告A5は,被告が,賠償をしていないこと,歴史を改ざんし続けていることから,被告に対して,歴史を正視し,謝罪賠償することを求めている。


a6及び原告A6

原告A6の父a6は1918年(大正7年)10月20日に生まれた。父a6は,山東省濰県CY区に居住していたが,1945年(昭和20年)2月,原告A6の母と幼い兄が泣き叫ぶ中,トーチカを築きに来ていた日本軍に抗議の言動を発したことが原因で,漢奸に捕らえられた。同日,30名余りとともに連行され,
監獄から,
青島烟草
(煙草)
公司の倉庫に監禁された。
その後は港に連れていかれて,日本の貨物船に乗せられた。


父a6は,下関から鹿島組花岡事業場の中山寮に連行された。凍えるような寒さの中でセメント袋を身体に巻いて防寒とし,毎日の食事はどんぐりを挽いて蒸したもので餓えを凌いでいた。木造の部屋で雑魚寝をしていたが,木造の建物は雨風を遮ることはできず,室内は薄暗く湿気に覆われ,地面は絶えず水が滴り,蚊にかまれて全身のかさぶたから血が流れていた。鉱毒の発生を防止する池を迂回するため,山に沿って暗渠を掘らされ,土石で一杯になったもっこを2名で運ばされた。一度に数百斤の重さの荷を運ばされ,1日十数時間も働かされ,補導員は絶えず罵り叫びながら,中国人労働者を監視していた。
補導員はすぐに飛んできて容赦なく棍棒で中国人労働者を殴
った。1945年(昭和20年)6月に突貫工事が始まり,中国人労働者の労働時間は毎日十二,三時間だったのが,十五,六時間に延長され,しかも出される食料の分量は少しも増えず,餓死していく中国人労働者はますます多くなっていった。父a6はひそかに野草やわら半紙を口に入れて飢餓に耐えていた。
そのような重労働と生活のストレスで重度の胃潰瘍になり,
また,
気管支炎にも罹患した。花岡事件の際には,父a6は,棒で背中や腰を殴打され,腰部の傷は内出血で腫れ上がり,帰国後も雨天や曇天の時は,激しい痛みが残存していた。

1945年(昭和20年)8月15日,日本国は無条件降伏をし,父a6らは仲間の骨壷を手にして汽車に乗り花岡を離れ,同年11月29日,アメリカの船に乗り,同年12月3日には天津の塘沽港に到着,天津北洋大学に集合した。そして,一路物乞いをしながら天津から済南まで歩き,済南からも野宿で家に帰ってきた。父a6は,1946年(昭和21年)
,眉村郡の武
装工作隊(地方の武装組織)に入ったものの,1949年(昭和24年),花
岡で罹患した気管支炎,胃潰瘍が悪化したため,地元に戻った。1958年から1972年(昭和33年から昭和47年)まで,農業をしながら,中国共産党支部の書記を務め,その後は,高校の運営をし,1997年(平成9年)10月21日,肺の病気で死亡した。原告A6は,父a6を相続した。

原告A6は,被告に対し,責任ある態度で歴史に向き合い,右傾化に影響を受けることなく,歴史の真相を歪曲せず,真摯にこの問題に対応し,公正な裁決を出すことを,今後,何代にわたろうとも,訴え続けることを誓っている。



a7,原告A7,原告A8,原告A9及び原告A10

原告A7,
原告A8,
原告A9及び原告A10の父a7は,
1943年
(昭
和18年)の日中戦争時期,河北省唐山市玉田県の区の小隊(ゲリラ隊)に加わり日本軍と戦っていた。地雷を埋め,電柱を倒壊させ,電話線を切断するなどして,敵の通信施設や交通手段を破壊した。1943年ないし1944年(昭和18年ないし19年)の冬,ある任務を遂行中,豊潤,玉田,遵化三県から掃討にやって来た日本軍・傀儡軍と,河北省唐山市玉田県で熾烈な戦闘を繰り広げた。当時,父a7側は12名と少数であったため,弾を撃ち尽くし,最後には敵に捕まった。

父a7は,遵化監獄に連行され,数日後に再び唐山に移送された。北京の西苑の拘置所に1か月ほどおり,12名のうち1名が死亡した。数日後,再び青島に移送され,鉱石を運搬する船に乗せられ,下関に到着し,すぐに鹿島組花岡事業場に送られた。


父a7は,当時16歳であった。本部にて隊長の世話係を命ぜられ,補導員(BWという名前であったと記憶している。
)からは三郎と呼ばれてい
た。仕事ができなかったり話が分からなかったりした時には,補導員から,平手打ちを受けていた。冬は,国にいたときに着ていた単衣の服以外に,支給された服1枚しかなく厳しい寒さであった。中国人労働者は,寒さのあまりセメント袋を切り裂いて身に巻いていた。父a7は,花岡事件にも参加した。大隊長が屋根の上に立って,一人一人武器になるようなものと布団を背負って集合するようにとアナウンスした。父a7は,暴動には参加しなかったが,布団1枚を背負って獅子が森に逃げ込んだ。2万名余りの憲兵,警察官らによる山狩りが行われ,周囲は次々と捕まっていき,父a7も捕らえられた。捕らえられた中国人労働者は,人数を数えるたびに,一人一人棍棒で頭を殴られた。
共楽館広場に集められ,
最初は後ろ手に縛られ正座であった。
後に後ろ手はほどかれたが,厳しい日差しの中で,2日間,一面砂利石だらけの地面にひざまずかされた。水も食料も与えられず,警察官が棍棒を持って殴り,飢え,暑さ,病気などで100名余りが死亡し,死体はトラックで運ばれていった。


1945年(昭和20年)
,日本国は降伏し,父a7は,アメリカ軍による
支援の下,仲間とともに苦労に苦労を重ねながら,ようやく帰国することができた。しかしながら,身体は,リウマチなどに冒され,手が震えるようになって物がつかめなくなった。その後,父a7は,農業に従事したが,手の震えは後遺症として残り,60年以上にわたって,仕事に支障が生じた。そのため,原告A7,原告A8,原告A9及び原告A10は,父a7の妻である母が働いて育てていたが,
過労がたたって,
母は1956年
(昭和31年)
死亡した。その時,原告A7は12歳,原告A8は9歳,原告A9は7歳,原告A10は5歳であった。

被告が,強制連行について誠実に謝罪してこなかったことから,父a7が日本に連行されていたという経歴を理由に,父a7の子らは,進学することも,軍に入ることも,就職することもできず,差別を受け続け,今も涙がこぼれるほどの苦労をした。父a7も,花岡に連行された悲惨な経験をずっと忘れることはなく,思い出すと辛いので思い出さないようにしてきた。死亡した仲間を慰霊するためと,公道を取り戻すために,何度か日本を訪れた。被告からの謝罪,補償は一切ないが,自分が生きている間に,被告から謝罪してほしいと心から願い,本訴訟にも原告として参加し,提訴にあたっては来日もした。


父a7は,2018年(平成30年)3月8日に死亡し,原告A7,原告A8,
原告A9及び原告A10が,
父a7を相続した。
原告A7,
原告A8,
原告A9及び原告A10は,父a7の遺志を受け継ぎ,被告に,謝罪,賠償することを強く要求している。



a8及び原告A11

原告A11の父a8は,1919年(大正8年)6月12日,河北省石家荘市深沢県南営村の中農の家に生まれ,家庭を持って平穏な生活を送っていた。父a8は,1937年(昭和12年)の七.七事変(廬溝橋事件)をきっかけに,祖国・故郷を守るために,積極的に抗日民族闘争に身を投じた。村の抗日動員会の動員部長,副村長を務め,村民に対する教育をし,金銭や銃の供出を呼びかけた。また青壮年の自衛隊,児童団を組織して大衆を動員し,村一帯は早くから抗日根拠地になっていた。1938年(昭和13年)2月,日本軍は石家荘市深沢県県城を占領し,これ以後,不断に各村々に対し掃討を行った。同年の旧暦3月のある日,父a8の前妻(原告A11の母の叔母に当たる。
)は妊娠7か月の中,逃げようとしたところを日本兵に頭
を撃たれ,母子共々絶命した。父a8の家の唯一のロバも略奪された。1943年(昭和18年)旧暦4月のある夜,父a8は任務遂行中,路上で日本軍司令部の巡回兵に捕まった。あらゆる拷問を受けながら,最後まで身分さえ明らかにせず,看守が熟睡している隙に壁を乗り越えて脱走を果たした。父a8は,あらためて四区の区長兼遊撃小隊の隊長を務め,1944年(昭和19年)旧暦2月,晋県,深沢県,無極県の三区に転属となり民政秘書となったが,同年旧暦4月のある夜,甄家庄村で七級村を拠点にしている警備隊に捕まり,無極県の日本憲兵隊に連行され尋問・拷問を受けた。その9日後,石家荘の集中営に送られ,同年旧暦の5月5日,有蓋列車に乗せられて北平(北京)西苑の一四一七憲兵隊甦生隊(集中営)に連行された。1944年(昭和19年)8月,青島に送られ,鉄鉱石を積載した貨物船に詰め込まれ,鹿島組花岡事業場に連行された。中国人労働者は,300名が一つの大隊,三つの中隊,九つの小隊に編成され,Cが大隊長,BXが副隊長に任命された。父a8はBYを隊長とする第三中隊第七小隊に編入された。イ
日本に着いた当初は荒地の開墾をさせられた。谷で暗渠の改修作業を毎日十三,四時間以上やらされ,食べ物はどんぐり粉と漬け物だけであった。冬になると,
寒風大雪の中でもわらじ履きで凍り付く水に入って作業を強いら
れた。寒さに耐えきれず,セメント袋を身にまとう者もいたが,補導員に見つかると,怒鳴られながら,凍り付く屋外で裸にされ,セメント袋を捨てさせられた。父a8も,脚が凍傷になったために歩くのが遅いといっては補導員のCZに殴られた。父a8らは,これ以上耐えても,待つのは死のみであったため,
暴動を起こし,
船を奪って帰国することを考え,
大隊長と接触し,
十数名の中心メンバーを組織した。花岡事件の際は,共楽館まで連行され,飲まず食わずで,三日三晩砂利石だらけの広場にひざまずかされた。そして30名余りが警察署に連行され,肉が焼けるほど脚に炭火を押し付けられたり,手の関節が木の棒で打ち砕かれたりという激しい拷問に晒された。ウ
父a8が連行された後,家族はその消息を全く知り得ず,母BZは嫁いできたときに持ってきた家具や,生活の糧であった土地を売り払って父a8の探索に努めたが,
ようやく見つけ出した石家荘集中営の死亡者名簿にも父a
8の名はなく,行方を探し出すことができなかった。母BZは,一方で抗日活動を行い,一方では苦労を重ねながら幼い子たちを育て上げた。

1945年(昭和20年)8月15日,日本国が降伏し,父a8は,同年12月,祖国に戻った。父a8は,祖国に戻った後,日本に連行されたことをスパイ,外国に通じていると疑われ,軍(武装部)においても昇進がないなど苦労を重ねた。原告A11は,1987年(昭和62年)以前は,父a8が日本に行ったことがあるということしか知らなかった。父a8も母BZもこの辛い過去を話したがらず,そのため具体的な状況は全く知らなかった。同年9月,父a8と母BZは,花岡で第一次の強制連行をされ大隊長であったCと会って以降,実相と家族の境遇を原告A11に話すようになった。そして,父a8は,加害企業と日本国政府の責任を追及する決意を表明し,原告A11も父a8の願いが実現するよう手伝う決心をした。
父a8は,
生前,
花岡受難者聯誼会の会長として,加害企業・鹿島建設に対し,他の生存者や遺族とともに訴訟を提起し,長年にわたる奮闘の結果,歴史的な和解を達成した。しかし,強制連行に関し,政策の策定者であり,加害の主体である被告に対しては責任をとらせることができないまま,
父a8は,
2000年
(平
成12年)11月5日,心臓病で死亡し,原告A11が父a8を相続した。

被告にその責任をとらせることは,花岡に強制連行された全ての中国人労働者の願いでもあり,父a8の遺志でもある。原告A11は,父a8の遺志を実現するため,本訴訟を提起し,被告が歴史を直視し,謝罪と損害賠償をするよう求めている。



a9,a10及び原告A12について

原告A12の祖父a9は,河北省保定市富昌屯村で,製造小売業に従事していた。1944年(昭和19年)4月8日,祖父a9は,保定城内で紙を売り終え,帰宅後,保定駅南の鉄橋を通過していた際,八路軍に製品を供給していたとして,
日本軍と傀儡軍に捕らえられた。
原告A12の父a10は,
なけなしの家財(ロバや荷車)を売って,逮捕された祖父a9を解放させようと奔走している最中に,自分自身も,八路軍に通じていたと疑われ,1944年(昭和19年)4月22日(旧暦)早朝,家の戸を打ち壊して乱入してきた日本の憲兵と中国の特務に捕らえられた。突然男性労働力を2名も奪われ,家庭には,原告A12の祖母,母,叔母だけが残され,生活は悲惨を極めることになった。
祖父a9及び父a10は,
ともに保定で拘禁された後,
石家荘の石門捕虜収容所に送られ,同所で再会し,互いに抱き合って大泣きをした。さらに,北京の西苑俘虜収容所,青島を経て,1944年(昭和19年)8月,一緒に,鹿島組花岡事業場の中山寮に連行された。


祖父a9及び父a10は,当初,一般の労働に従事させられた後,老人班に編入され,山で柴を刈り運搬する作業に従事した。1945年(昭和20年)3月頃,祖父a9は,過労と飢餓によって倒れたため,病舎に収容された。同時に,父a10も看護班に配転させられた。病人には満足な治療も医薬品も与えられず,逆に食事の量を半分に減らされ,いったん病気になると死ぬ運命が待っているだけであった。そのため,看護班にとっての仕事の大部分は,毎日のように死亡した同胞の死体を火葬することであった。このように,僅かな食料をさらに半減させられた祖父a9は,飢えのあまり日本人監督の号令前に食事に手を付けたとして,補導員から激しく殴打され,病状をさらに悪化させた。同年6月中旬,祖父a9は,両目を大きく開けたままの姿で,恨みを抱いたまま死亡した。
父a10は,祖父a9を相続した。
労工たちは耐えに耐えきれず,
暴動を起こしたが,
2万名に及ぶ日本の軍,
警察,民間人によって鎮圧された。父a10も他の労工たちとともに,一面砂利石が敷かれていた共楽館広場に三日三晩にわたってひざまずかされた。少し動いただけで警官から殴られ,前歯も折られた。暴動後,遺体の腐敗が進み,暴動の犠牲者ら百名余と一緒に焼却されたため,父a10は,祖父a9の遺骨を特定することができないまま,幾つかの遺骨を持ち帰るしかなかった。

父a10は,1945年(昭和20年)11月に花岡を離れ,遺骨とともに帰国した。天津で叔父から旅費を借りてようやく家にたどり着き,家族と対面した。家庭は,祖父a9と父a10が強制連行されたことによって零落しており,帰国後も長く生活に困窮した。父a10は,2004年(平成16年)旧暦12月7日に死亡し,原告A12が父a10を相続した。

原告A12は,被告による中国侵略と拉致政策が,強制連行と,原告A12の家族の破壊と悲惨な境遇の根本的な原因であると考え,被告に対し,謝罪と損害賠償を求めている。


a11,原告A13及び原告A14

原告A13及び原告A14の父a11は,1927年(昭和2年)6月5日生まれで,
河南省杞県出身である。
1943年
(昭和18年)父a11は,

県医学学校の衛生兵(新四軍)で当時16歳であったが,日本軍が故郷を占領し,至る所で人狩りを始め,父a11も日本軍に捕まり,民権県にある大きな建物(警察局)の中に監禁された。当時,家族は父a11が捕まったことを知らなかったが,そのことを知ると,家の数ムーの土地を売り払って,父a11を解放させようとした。しかしお金を払っただけで,父a11はそのまま警察局の中に監禁され続けた。食べ物も十分に与えられず,夜になると木で作った籠の中に入れられ,監視員が顔を洗った後の水しか飲めなかった。
その後,
民権県から汽車に乗せられて徐州まで連行された。
父a11は,
翌日,再び汽車に乗せられ,そのまま塘沽の集中営に入れられた。下車後,三道崗を経て,ある大きな建物の中に押し込められ,1か月過ごした。食べ物はひどく,毎食トウモロコシ粉で作ったマントウ1個だけで,中まで火が通らず生のままだったので,多くの者が下痢になり,病気になる者が続出していた。治療を受けることもできず,仕事ができないとなると病室に入れられて放置された挙げ句に,数日後にはそのまま死んだとしてもおかしくなかった。1か月余りした後,父a11ら100名余りは,服1着,布団1枚,靴1足を支給され,船に乗せられ,日本の下関港に着いた。

下船後,父a11は藤永田大阪事業場まで連行された。下船後,大きな木造の建物に住まわされ,すぐに重労働が始まった。藤永田大阪事業場に連行された中国人労働者は,9つの班に編成され,父a11は9班に所属していた。当時,父a11はまだ若かったので,他の者に付いて労働をしていた。その後,船上で仲間たちのために湯を沸かしたりするように命じられた。比較的軽い仕事だったが,それでもいつもお腹を空かせていた。毎食1個の小さなマントウだけで,冬でも1枚の服しか着ず,やむなくセメント袋を身体に巻き付けて暖をとった。労働内容は,船体のリベット打ち,木工関係等であった。役割は決まっており,火を焚く者はずっと同じ火を焚く仕事をしていた。ある時,父a11は木くずを拾って,火をおこしたが,日本人の監督に見つかり殴られた。時には残業があり,全く休憩がとられないこともあった。父a11が大きな釘で足を刺したことがあり,歩くことも困難であったが,日本の監督はそれでも休ませなかった。1945年(昭和20年)の6月から8月頃にかけて,大阪の上空に飛行機が現れ,至る所を空爆しはじめた。一面の火の海であった。父a11の宿舎も破壊され,他の所に移った。

それから数日もしない頃,日本国が降伏し,父a11は,1945年(昭和20年)11月頃,大阪から船に乗って,港で船を乗り換え,中国の塘沽で下船した。下船後は天津の北洋大学で数日過ごし,国民党軍に参加した。そして,国民党の傅作義を大将とする部隊に入隊し,1949年(昭和24年)の北平(北京)の平和的解放にも貢献したため,人民解放軍の第四野戦軍に編入された。
復員後は,
中国農業銀行の行員として勤務した。
ところが,
1970年(昭和45年)になり,組織から2名が派遣され,父a11は日本に連行されたことを白状しろと問い詰められ,売国奴とつるし上げられ,銀行を解雇された。父a11の子である原告A13及び原告A14も,父a11の経歴が原因で軍にも入れず,納得できなかった父a11は,石家荘に行き,何度も窮状を訴えたが,誰にも相手にされなかった。父a11は,世の中を諦め,
出家し,
河南省商丘市民権県
白雲寺
で和尚をし,
その後は,
子の家で生活していた。

父a11が日本に強制連行されたことは,帰国後も,父a11とその子である原告A13及び原告A14ら家族を苦しめ続けている。なお,父a11は,2015年(平成27年)11月29日死亡し,原告A13及び原告A14が本件訴訟を承継した。


a12及び原告A15

原告A15の父a12は,1924年(大正13年)1月14日,河南省原陽県靳堂郷庄寨村で生まれた。家は農家をしていた。父a12には2歳上の姉が1人おり,父a12の父母と4人で暮らしていた。近くには特に親戚もいなかった。1944年(昭和19年)の旧暦7月,父a12は河南省陽武県(現・河南省新郷市原陽県)の,県城南関周辺に行商に行った際に,日本軍に捕まり,その後県城北関(陽武)駅のそばの倉庫に連行された。その倉庫の建物の前では日本兵が監視していた。捕まった1週間後,父a12は他の100名余りとともに,北関駅から新開鉄道の有蓋車に積まれ山東省済南市新華院に送られた。移動先の新華院では1か月余り苦役に就かされた。毎日粗末な食事と,まともな衣服もない状態で,父a12らはさらに監視員から暴行を受けた。新華院での労働は,日本軍の管理のもと毎日山で穴を掘りガソリンを埋めるという作業で,1日10時間を超える労働だった。1か月後日本軍から説明があり,父a12たちは東京で仕事をするとの話であった。このとき父a12らは,自分たちが日本に送られ強制労働を強いられるとは,予想さえしていなかった。

その後,父a12ら数百名は日本人に監視された状態で汽車に乗せられ,港から船に乗せられて日本に向かった。日本の港で下船し,さらに小さな船で大阪に連行され,板張りの建物に入れられた。父a12らは,大阪に着いてから隊に編成された。父a12は,第四小隊で,隊長はCA(河南省陽武県合地舗村の者)であった。父a12らが強制労働に就かされた事業所は,港運大阪安治川事業場であった。仕事は,毎日船での石炭の荷役作業であった。父a12は,体が大きく若かったため,毎日のように大きな船で仕事を命じられた。石炭を天秤棒で運ばされたが,一つが100斤(50キログラム)を超える荷であった。石炭はばら積みになっており,素手で石炭を扱っていた。マスクが支給されることもなかった。朝6時に朝食があったが,僅かな量であった。朝食後,日本人に率いられて埠頭まで行き,荷役作業が始まり,埠頭で昼食をとらされた。昼食は,1名につきマントウ1つと水だけであった。食べ終えるとすぐにまた仕事で,毎日十数時間の労働であった。余りに粗食であったため,骨と皮だけに痩せ細った。
皆,
病気になった者は,
治療を受けることもなくそのまま死んでいった。こうした極めて劣悪な環境のもと,監視員が厳しく父a12らを監視し,夜寝るときも,宿舎を見張っていた。


1945年(昭和20年)8月,日本国が敗戦した。同年10月,父a12らは大阪から汽車に乗って下関に行き,そこから船に乗って塘沽で下船し,その後天津の北洋大学に入った。当時,北洋大学は帰国した中国人労働者の臨時の収容所として使われていた。父a12は北洋大学に数日いた後,汽車に乗って石家荘を経由し太原に行き,知人の紹介により太原で八路軍に加わった。しかし,日本にいる間に肺を悪くしていたため,兵役に就くたびに息が苦しくなり,結局八路軍に1年余りいた後,病気ということで除隊になった。帰国した際,父a12の姉は既に結婚して家を出ており,父a12の父母が出迎えた。1960年(昭和35年)に父a12は結婚した。エ
原告A15は1966年(昭和41年)5月1日に生まれた。家には父母と4歳上の姉がいた。祖父母は,原告A15が小さいときに死亡した。家は農家をしていた。父a12は帰国後肺を患っており,原告A15と姉は,子供の頃から畑の仕事の手伝いや,鶏や豚を飼う仕事をしていた。7歳くらいのとき,父a12から,以前日本に行っていたことがあり,日本語も少し話せるということを聞いた。ただ,このとき父a12は,強制連行されたということを一言も言わなかった。当時は文化大革命で,小学校が5年間,その後中学校が5年間という学制に短縮されていたが,原告A15も姉も家の農業を手伝わねばならないため,小学校を出たあと,中学校に行くことはできなかった。
父a12は,原告A15が子供の頃から病弱で肺が悪いようであり,よく咳き込んでいたが,段々と咳き込む様子がひどくなり,10メートルも歩くと息が切れるようになった。
1985年
(昭和60年)父a12は汲県にあ

る肺の専門病院に1か月入院することになった。医者の診断では,肺結核と肺気腫ということだった。原告A15は,病院で医者から

お父さんは炭鉱で働いていたのですか。

と聞かれた。原告A15はそのような話は聞いたことがないので,驚いて父a12に尋ねると,同人は

日本にいた頃,大阪で石炭の積み下ろしをしていた。石炭はバラ積みになっており,通気が悪く排気のない船倉の中で,石炭で真っ黒になりながら毎日荷役の作業をしていた。と言った。

当時痰を吐くと真っ黒だったそうである。
なぜ日本に行って
わざわざそんな仕事をしていたのかと聞くと,父a12は

仕事ではない,戦争中,日本軍に無理やり連れていかれて働かされた。このあたりにはそんな人が大勢いる。

と答えた。原告A15が日本軍による強制連行のことを知ったのは,このときが初めてであった。父a12は,1か月間汲県の病院に入院した後,入院費が払えなくなり,やむなく地元に戻り,原陽県人民病院でさらに1か月入院した。しかし医療費がかさむので,そのあとは家で療養するしかなかった。病院から薬(抗生物質)と注射の処方箋を受け取り,原告A15が毎日父a12に薬を注射していた。汲県の病院での入院費は1万2000元であった。当時,病院はお金がないと診療してくれず,入院費を用立てするために農村信用社からお金を借りた。1か所での借入れは3000元が限度ということで,原告A15は6か所の農村信用社を回ってお金をかき集めた。原陽に戻ってからの薬代,注射代だけでも,毎年の収入の3分の2が費やされた。
入院の際の借金返済の上に,毎日の薬代,注射代がかかってくるので,生活は本当に大変であった。退院後は父a12が働けなくなったので,原告A15と母と姉で何とか農家の仕事をやっていかねばならない状態であった。当時は農業生産隊から指示を受け,黄河の水を灌漑のために引き込む導水路を掘る作業などにも従事していた。農業生産隊の作業をどれだけやったかで,農業の収入が決まるのである。これらの作業についても,父a12に代わって原告A15がすることになった。
自宅療養を続けていた父a12は,1998年(平成10年)12月21日に死亡した。肺気腫による呼吸困難が原因であった。父a12の死後も,一家総出で仕事をしていたが,借金の返済は非常に困難であった。1999年
(平成11年)入院費の借金について返済ができなくなり,

農村信用社が
裁判所に原告A15を訴え,原告A15は,1週間拘置所に入れられたことがある。その後も返済を続けて,最終的に借金の返済が完了したのは2010年(平成22年)である。

a13及び原告A16

原告A16の祖父a13は1908年
(明治41年)
10月8日生まれで,
河北省邯鄲市磁県中馬頭村出身である。1937年(昭和12年)10月17日早朝,日本軍土肥原師団が邯鄲市を占領し,同月17日午後には馬頭鎮を占領し,
翌18日黎明には磁県城を占領した。
そして馬頭駅一帯を占拠し,
碼頭に憲兵隊,皇協軍,安民隊などという部隊,あるいは傀儡軍を設けた。そして,馬頭地区を長期にわたって占領するため,平漢線に沿って,村々に対し,至る所で焼く,殺す,奪うといった三光政策を行い,また各村に保甲制を実行し,村ごとに傀儡村長と報告員を指定した。祖父a13はその報告員に指定され,毎日,憲兵隊に状況を報告するよう要求された。1944年(昭和19年)7月,憲兵隊は,報告員が情報を漏らしたのではないかと疑い,同月18日,祖父a13は,市場に行って農作物を売ろうとしていたところを憲兵隊に捕まり,7日後の午前10時頃,列車に乗せられ,石家荘の日本警察所に連行され,八路軍に通じていると断定され,石家荘の南兵営(労工訓練所)に送られた。1944年(昭和19年)9月28日,a13は,日本兵によって汽車に乗せられ,塘沽収容所に送られ,東亜建設隊の大隊に編成された。大隊はさらに二つの中隊,六つの小隊に分かれていた。日本に送られるため,
塘沽で待たされ,
同年10月16日,
貨物船
清津丸
に乗せられて日本に送られた。同月22日,生き残った269名が大阪に着き,築港一帯で囚人同様の生活を強いられることになった。

祖父a13は第2中隊第3小隊に配属され,船の荷役のほか,大阪市内まで石炭を運ばされたり,三菱株式会社や三井造船まで荷物を運ばされたりした。劣悪な労働環境と風呂にも入れないために,体の至る所に疥癬ができ,治療を受けられず,
体中に異臭が立ちこめていた。
街で日本人に出くわすと,
みな遠ざかり,大声で臭い!臭い!とわめかれた。食べ物にも事欠き,食事はどんぐりで,量は手でつかめる程度しかなかった。身にぼろ毛布を羽織り,拾ったつま先が露出したぼろ靴を履いていた。冬も一重の服で,屋内には火もなく,コンクリートの袋を服の代わりにしていた。海辺で貨物船での荷役を毎日13時間もやらされ,少しでも動作が鈍いと監督に散々殴られた。傷病者に対してもまともな治療がされず,飢えと寒さで死亡者も出た。ウ
1944年(昭和19年)7月18日,祖父a13が連行された際,家には原告A16の祖母(妊娠中)及び母(当時9歳)が残された。3か月後,原告A16の祖母は子を産んだが,労働力を奪われて,畑仕事をする者がおらず,食べ物さえない状態であったため,子は餓死した。原告A16の祖母は,祖父a13を取り戻すために,家を売り,そのお金を漢奸に渡したが,結局祖父a13を取り戻すことはできなかった。生活の糧を失い,生活はとても苦しかったため,原告A16の母は地主の童養媳(実質的な幼少労働力)になり,地主の家の息子の妻になった。

1945年(昭和20年)旧暦11月15日,祖父a13らは,日本から船に乗って,同月21日に塘沽に到着した。内戦に巻き込まれるのを避けるため,自宅に戻ることができたのは,1946年(昭和21年)2月頃であった。祖父a13は,日本での過酷な状況による精神的なショックに加え,体中に疥癬の痕が醜く残ってしまったことから,勃起障害となり,以後,祖母との間に子はできなかった。中国共産党の時代になり,地主が地位を失ったため,原告A16の母は解放された。祖父a13は,体を治療しながら,地元で農作業をして生活をした。原告A16は,小学校6年生の頃,祖父a13から初めて日本に強制連行された話を聴いた。祖母も母も,祖父a13が日本に行ったことがあるということを話題にするのを避けていたため,祖父a13は,原告A16にのみ,日本に強制連行された一連の経緯を話し続け,原告A16もノートにまとめるようになった。原告A16は,高校教師(特級)となり,晩年の家族の生活を支えた。祖父a13は,1991年(平成3年)8月20日に胃癌で死亡したが,原告A16は,死亡する直前まで,祖父a13から,日本に強制連行された話の内容を覚えておくように念を押された。原告A16の母は,2000年(平成12年)10月13日に死亡し,原告A16がこれを相続した。

原告A16は,被告に対して,以下のとおり要求している。


歴史的責任を負い,歴史的事実を認め,労工及び遺族に謝罪すること


労工及び遺族に対して賠償を行うこと



歴史を鑑とし,次世代に歴史事実を伝えるため,大阪の築港に中国受難者のための記念館を建設すること



日本の歴史の教科書に,この歴史事実を記載し,日本の若い世代に伝え教訓にすること

このようにしてこそ,中日両国の明るい未来が開かれると考えている。⒀
a14及び原告A17

原告A17の父a14は,1928年(昭和3年)1月29日に河南省洛陽市偃師県に生まれた。父a14は,1943年から1944年(昭和18年から昭和19年)にかけて,CB,CC,及び九十四軍のCDが組織する抗日遊撃隊に参加したが,同年7月,漢奸の密告によって河南省鞏県路安庄(現在の鞏義市)で日本兵に包囲されて戦闘になり,敵に捕まった。一人一人が首を縄で縛られたまま大口郷にある洞穴に監禁され,翌日も同じく縛られたままの状態で洛陽市西工兵営房まで連行された。西工で父a14らは2つの部屋に押し込まれ,50名余りがこの部屋の中で大小便を強いられた。20日余り監禁され,
食料は毎日生のトウモロコシと汚れた水だけであった。
1944年(昭和19年)8月15日前後,どこかに送ると宣告され,首を縄で縛られたままの姿で連行され,洛陽市孟津県姚溝店溝后まで歩かされ,その後さらに黄河沿いの風岭渡(現白河)で船に乗せられて黄河を渡り,下船後,汝陽駅で一夜を過ごし,翌日有蓋車に詰め込まれて徐州駅に着いた。そこでしばらく停車した後,さらに済南府まで連行され,集中営新華院に入れられた。
集中営から港に行き,
船に乗せられ,
日本のある港で下船し,
電車に乗せられて大阪に着いた。

大阪では港運大阪川口事業場で労働に従事させられた。大阪到着後2日間留まり,隊に編成された。2階建ての木造の建物に住まわされ,父a14は2階に住んでいた。埠頭で食料を下ろし,列車に乗せるという仕事をさせられ,1つ30斤余りある鉄の塊を,毎日3トン運ばされた。疲れて少しでも手を止めると,日本人の監督に木刀で殴られた。ある時,父a14は,車を押している際に下り坂で制御できずに柱に追突し,荷物をひっくり返し,日本人監督に木刀で散々殴られ,足で蹴りつけられた。最も多く働かされたのは住友倉庫での食料運搬であった。三菱重工では鉄を運ばされた。食事は朝にマントウ1個と,1碗のかゆだけ,昼は作業現場で,おにぎり1つで,夜はマントウ1個と1碗のかゆであった。使役されていた期間中,1度だけゴム底の靴が支給されたことがあるのみで,賃金は1度も支払われていない。

1945年(昭和20年)8月15日の午前,父a14は解放され,1か月後,営舎を出てある大きな駅に着き,そこから乗車して下関まで行き,帰国した。塘沽で下船後,天津北洋大学に入れられ,国民党の部隊に組み込まれ,監護団として倉庫の見張りをしていた。その後北京に行き傅作義部隊に参加した。北京が無血解放された後,第四野戦軍営に改編された。父a14は戦車兵であった。1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発した後,父a14らは北京の槐樹岭で教練を務めた。1958年(昭和33年)後は転属になり,焦作馬村の復員軍人鋼鉄工場で運転手をしていたが,1960年代に,日本で労工をしていたことが原因で解雇され,1967年(昭和42年)頃,故郷に帰された。罪名は裏切り者であった。


原告A17は,1962年(昭和37年)の生まれであるが,5歳の頃,家の入口に毎日たくさんの大字報(壁新聞)が貼られ,
叛徒特務自,,白しろ等の汚い言葉で殴り書きされていた。たくさんの人々が家にやってきて,父a14を指さして罵った。原告A17は恐ろしくて母の服の中に隠れていた。学校でも,誰も原告A17と遊ぼうとせず,中には唾を吐きかける者もいた。叛徒,悪者の娘だと言われた。原告A17は,放課後に泣きながらそのことを父a14に話すと,同人は,

娘よ。お父さんは叛徒でも,ましてや特務なんかではない。

と自分の経験を,原告A17に話をしたのである。1975年(昭和50年)
,原告A17の兄は,徴兵募集に応じたが,
政治審査で,父a14の経歴が問題となり,落とされた。1976年(昭和51年)洛陽五二軍で女性兵士の募集があり,

原告A17は応募したが,

a14の経歴が問題となり,落とされた。父a14は,故郷で農業を営んでいたが,1979年(昭和54年)
,濡れ衣が晴れて,再び自動車の修理工に
なり,1985年(昭和60年)に退職し,2010年(平成22年)5月10日,心筋梗塞で死亡し,原告A17が,父a14を相続した。オ
原告A17は,被害者の遺族として,父a14が味わった苦労,歴史を永遠に忘れず,被告に対して,受難者と遺族に対して,謝罪と賠償をするよう強く求めている。


原告A18

原告A18は,1923年(大正12年)5月18日,河北省新楽県化皮村に,2人兄弟の弟として生まれた。家業の農業の手伝いをしていたが,19歳の時に中国共産党に入党し,22歳の時に八路軍に加わった。日本軍による華北地域での三光作戦が展開される中,1944年(昭和19年)4月20日,原告A18は,木庄から永安に向かう途中の京漢鉄道を越えたところで日本軍に囲まれた。日中戦争末期は,石家荘周辺では,西側が八路軍の勢力地域,東側が日本軍の勢力地域に分かれており,日本軍と八路軍の衝突の最前線であった。原告A18は,4名で穴に入ったが,自決できず,4名とも捕まった。捕まった後,原告A18は,他の者らとともに正定の県城の中の日本の憲兵隊に連れていかれた。そこから石家荘の東兵営に有蓋車に詰め込まれて連れていかれた。有蓋車には中国人労働者がぎっしりと乗せられ,4名の銃剣をもった日本兵に監視されていた。そして,東兵営から石門俘虜収容所(南兵営)に移動し,石門俘虜収容所には1か月ほどの間,収容された。原告A18は,身体が弱いように装ったため,収容所の病棟に十五,六日間いた。入口は覚えていないが,石家荘の門には日本兵が2名いたこと,西に山(万寿山)があったことを今でも記憶している。原告A18の記憶では,周りは鉄条網で囲まれており,電気が流れており,外は深さ4メートルくらいの堀であった。食事は,高粱飯で,1日3回あったが,1回1杯と足りず,飢えと病気で,多くの者が死亡した。大八車で死体を1日3回運び出していた。原告A18は,収容所で何もせず,訓練も受けていなかった。もちろん,これから日本に行くということは聞いてはいなかった。その後,北京西苑収容所に五,六百名とともに列車(有蓋車)で移動したが,移動中は日本兵が監視していた。鉄道の破壊工作があるので順調に走れず,3日かけて北京まで連行されたが,3日間,飲み物も食べ物も与えられず,閉じ込められたままであったため,移動中に多くの者が死亡し,死体は外に投げ捨てられた。西苑において,これから日本に行くという説明があり,西苑収容所から青島へも列車で移動した。列車には日本兵も乗っており,逃げようとしたら撃たれる状況であった。逃げようとして失敗したCEは,花岡まで一緒であった。乗船のときは両側に日本兵が並んで護送された。鉄鉱石を運んでいる船に乗せられ,船底の鉄鉱石の上に寝かされた。甲板に出ることができたのは海に出た後であった。このように,原告A18ら中国人労働者を中国から日本へ輸送した船の環境は劣悪なものであった。

1944年(昭和19年)8月5日に下関に着いてから,検疫所で消毒をさせられ,列車(有蓋車)で花岡に向かい,鹿島組花岡事業場中山寮に収容された。
鹿島組花岡事業場では,暗渠で水につかりながら堀を掘る仕事をさせられ,朝は何時に起こされるか分からず,1日十五,六時間,ほとんど休憩もとれずに働かされた。冬は,川の冷たい水の中で作業をしていたため,足が凍傷になった。暗渠を作る仕事のほか,中山寮の近くの土地で畑を作らされた。他に,穴を掘ったり,トロッコで土運びをさせられたりする者もいた。中国人労働者は13名ほどの小隊ごとに現場に行き堀を掘った。暗渠を掘るときは,
草で作った靴を履き,
靴が水につかったまま行うため,
足は冷たくなり,
痛くなった。現在でも季節ごとに痛くなる。また,暗渠に土を埋めるため,トロッコで土を運ぶ作業も行った。作業に関しては,DA,DB,BWなどの名前の日本の現場監督が指示をしていた。
原告A18が鹿島組花岡事業場に到着した当時,中山寮は完成していなかった。
300名が最初にできた1棟に入り,
そこから建て増しされていった。
中山寮ができた後は1つの部屋に12名が寝泊まりした。第1中隊,第1小隊の小隊長ら13名が同じ部屋で雑魚寝をさせられた。
食事は3回,朝昼はどんぐりの粉で作ったウオトウで,小麦のマントウはなく,山にいって木の葉や野草をとってきて食べざるを得なかった。夜はどんぐり粉が入ったかゆであった。
原告A18ら中国人労働者は,このままでは死ぬのを待つほかはないと考え,CFとCGに対する拷問と虐殺が引き金となって花岡事件を起こした。原告A18は,
CGが殴り殺された場面及びCHが焼き殺された場面を目撃
した。
原告A18らは,当初の計画では,北海道まで逃げて,そこから朝鮮に渡ろうと考えていたが,結局は,獅子が森に向かった。原告A18は,獅子が森において銃で撃たれ,顔に傷跡が残った。その後捕まって連行され,共楽館の運動場でひざまずかされ,食べ物も飲み物も与えられなかった。一般の者からも棒で殴られた。警察官から,誰が日本の監督をしていた篠原らを殺したかと尋問されて,
右手の親指の指先に竹串を刺される等の拷問を受けた。
その後,補導員を殺害した件で裁判が始まり,原告A18は,懲役6年の判決を受けた。原告A18は,日本では,A18’(A18’’

’)と名乗って
いた。原告A18らに対する判決は1945年(昭和20年)9月11日にあり,
原告A18は懲役6年の判決であった。
原告A18は,
1945年
(昭
和20年)10月に解放されたが,BC級裁判の証言者として残され,GHQから事情を聞かれた。

原告A18は,1947年(昭和22年)12月に船で上海に戻り,上海から天津に行き,天津から藁城を通って1か月かけて家に歩いて帰った。家には,母と弟がいたが,帰って家族に会い,抱き合って泣いた。家族は原告A18が死亡していると思っていた。原告A18は,連行されて以来,中国の家族と連絡をとることはできなかった。
原告A18は,帰国後,中国共産党への復党を求めたが,対応してもらえず,長年にわたり,貧しい生活を送った。花岡に連行された悲惨な経験をずっと忘れることはなく,精神的にも苦しみ続けたが,被告からの謝罪,補償は一切ない。


a15及び原告A19

原告A19の父a15は,河北省定州市楊家庄辛興村の出身で,1920年(大正9年)生まれである。1937年(昭和12年)
,父a15は,中国
共産党に入り,村の抗日青年団の書記,
抗日区域小隊の隊員,
民兵連の連長を兼任していた。1944年(昭和19年)旧暦7月8日の夜,父a15は,寝ていたところを数名の日本兵と漢奸によって連行された。他に,原告A19の2番目の伯父CI,いとこの兄CJ,本家の親戚であるCK,CL,CM,その他,CN,CO(村長)が連行された。原告A19は,父a15の連行当時3歳であったが,母が原告A19に抱きついて泣いていた記憶,日本兵が8名をロープで縛り,銃剣で押しながら歩かせていた記憶が残っている。父a15は,石家庄南兵営(石門俘虜収容所)を経て,1944年
(昭和19年)
9月初め,
天津の塘沽港へ連行され,
船に乗せられて,
ともに捕まった村長のCOとともに,港運大阪築港事業場に連行された。他の6名は,
北海道の三井美唄炭鉱に連行されたことが関連資料によって判明
している。

港運大阪築港事業場では,荷物の積み降ろしという過酷な作業を,1日十数時間もさせられ,どんぐり粉で作られた食べ物だけしか与えられず,冬でも,防寒着はなく,薄い毛布しか与えられなかった。父a15は,過酷な労働のため,内臓疾患に罹患し,腰も痛めたが,十分な治療もなされず,食事も改善しなかった。ともに連行されたCOも過酷な環境のため病気となり,死亡したが,未だに埋葬場所は不明である。


父a15は,日本国が降伏した後,1945年(昭和20年)11月,仲間とともに帰国した。帰国後,積極的に解放戦争に参加し,1948年(昭和23年)に中国人民解放軍に入隊し,省会の石家庄解放戦では,功三級の表彰を受けた。1951年(昭和26年)に復員し,発電所へ転職,1952年(昭和27年)
,微水発電所に異動となり,科長,支部書記,党委員を兼
任し,恵陽機械工場に異動となり,資料檔案室主任に任命された。ところが,文化大革命が始まり,父a15には,日本兵に連行され,労働させられた経歴があったことから,
造反派
は父a15を日本のスパイ,

切り者だと名指して非難した。父a15は,日本に強制連行された経験をずっと忘れることはなく,精神的にも苦しみ続けた上,そのことで疑いをかけられ迫害されたため,1970年(昭和45年)に保定の仕事場のビルから飛び降りて死亡した。原告A19ら家族は,亡くなった父a15に一目会うことすら許されず,遺骨すらもらえず,これ以上関係をもたないという誓約書も書かされた。
1979年
(昭和54年)党中央国務院の命令もあって,

保定市委は父a15の冤罪を認め,保定地域における最大の冤罪事件と言われた。


原告A19は,被告の謝罪と賠償がなければ,父a15が浮かばれることはないと思い,正義を求めるため,被告に謝罪と賠償をさせるために,本件訴訟を提起した。
第2被告の主張
被告は,原告らの主張する事実関係の認否はしていないが,本件口頭弁論期日において,擬制自白の成立を認める趣旨ではないと陳述した。
以上

別紙6ヘーグ陸戦条約に基づく請求
第1原告らの主張
ヘーグ陸戦条約3条は,ヘーグ陸戦規則の

條項ニ違反シタル交戰當事者ハ,損害アルトキハ,之カ賠償ノ責ヲ負フヘキモノトス。交戰當事者ハ,其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行爲ニ付責任ヲ負フ。

と定めているところ,被告は,下記のとおりヘーグ陸戦規則に反する行為を行ったものであり,ヘーグ陸戦条約3条に基づく責任を負う。
1ヘーグ陸戦条約が国内法的効力を有すること
日本国は,1911年(明治44年)11月6日,ヘーグ陸戦条約及びヘーグ陸戦規則を批准し,1912年(明治45年)1月13日に公布したのであり,これにより,ヘーグ陸戦条約は,国内法としての効力を有するに至った。⑴

大日本帝国憲法下においては,条約の締結は天皇大権に属し,帝国議会の関与なしに行われ,天皇の締結した条約は,国内法としての効力を有するとされていた。
また,日本国憲法下においては,全ての実質的意味の条約に国会承認が必要であること,承認された条約は天皇が自動的に公布すること,条約及び確立された国際法規は遵守すべきとされていること,また,条約の締結,公布の後,立法措置を必要としないという慣行もあることから,条約は原則として特別の立法措置を要せず,公布により直ちに国内法としての効力を有する。

⑵ア

被告は,条約が国内法として直接適用できる場合の要件として,主観的要件と客観的要件を挙げるが,そもそもこのような要件を設定することは不要である。
条約の当事国は,条約が国内で実現されるという結果に最も関心を持ち,実現方法については関心を持たないのが通常である。したがって,条約が直接適用可能であるとの当事国の積極的な意思が条約中に明示されることはほとんどなく,被告のいう主観的要件を設定することは不適切である。

次に,私人の権利義務が明白,確定的,完全かつ詳細に定められていることが必要であるとすることも不適切である。
条約を始め,
法規定は本来的に後に解釈により意味内容が発展されること
を予定して,ある程度一般的な用語で規定されている。国内実施を予定している条約であれば,その規定中の法概念がいかなる意味内容を持つかは,それぞれの締約国における国内判例の蓄積や学説の発展に応じて確定されていく。したがって,条約についてのみ,前記のような厳格な要件を要求することは法規定一般の解釈として失当である。



仮に,被告の主張する要件が必要であるとしても,ヘーグ陸戦条約はこの要件を満たしている。
日本国は,1907年(明治40年)のヘーグ陸戦条約を,1911年(明治44年)に批准し,1912年(明治45年)1月13日,陸戦ノ法規慣例ニ関スル條約として公布した。
大日本帝国憲法6条は,
天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ交付及執行ヲ命スと定
め,13条は天皇ハ戦ヲ宣シ和を議シ及諸般ノ条約ヲ締結スと定めている。すなわち,法律は議会の協賛を経た後,天皇の裁可によって初めて法律となり,公式令によって公布され,帝国議会の協賛を経た旨記載した上論を付し,親署の後御璽を捺印し,内閣総理大臣が年月日を記入して副署し,又は他の国務大臣若しくは主任の国務大臣と共にこれに副署するのである。ヘーグ陸戦条約は,大日本帝国憲法に基づき,天皇が締結し,私人の権利義務を詳細に定めている。したがって,ヘーグ陸戦条約を日本の国内の裁判所で適用可能とするという意思は明白に確認できる(主観的要件の充足)。
また,ヘーグ陸戦条約の附属書であるヘーグ陸戦規則は,私人の権利義務を詳細に定めている。したがって,その内容を具体化する法令を待つまでもなく,国内での直接適用が可能である(客観的要件の充足)
。しかも,天皇が
裁可し,公布することによってヘーグ陸戦条約それ自体が国内法として具体化された法例になっており,現に第一次上海事件に際して,日本は還付義務を履行している。
したがって,ヘーグ陸戦条約は国内法として直接適用できる。
2中国人労働者の俘虜該当性
強制連行・強制労働によって権利を侵害され損害を被った中国人労働者について,
これを任意の雇用契約に基づく契約労働者であるとの主張がかつて日本国の公務員によってなされた。しかし,強制連行・強制労働の被害にあった中国人労働者が任意の意思で雇用契約を締結したということはできない。日本陸軍などによって拉致され,逮捕され,連行された中国人労働者は国際人道法上の俘虜そのものである。


雇用契約の不存在
中国人労働者と,鹿島組や藤永田造船所などの各事業場との間における雇用契約の成立を証する文書は存在しない。中国人労働者が雇用契約書等何らかの文書に署名したことはなく,雇用契約を締結する旨を事業場の担当者に対し意思表示したこともない。
華北労工協会が供出する労工の使用についての,1945年(昭和20年)4月15日付けの財団法人華北労工協会理事長CPと鹿島組の契約書は存在するが,それは,華北労工協会が供出する労工使用についての,華北労工協会と鹿島組の契約であって,強制連行された中国人労働者と鹿島組との雇用契約ではない。
1945年(昭和20年)当時の民法623条においても,雇用契約は雇用主と労働者との合意によって成立するが,強制連行された中国人労働者が鹿島組花岡事業場で労働に従事することを合意したことを示す資料は何もな
い。これは,大阪関係の事業場に強制連行された中国人についても同様である。
したがって,中国人労働者は雇用契約によって労働に従事したものではなく,これを契約労働者であるとみることはできない。


徴用関係の不成立
被告が中国人労働者を法令に基づいて徴用したということもできない。国家総動員法第4条は
政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ヲ徴用シ総動員業務ニ従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズと定めている。したがって,同条に基づいて制定された勅令である国民徴用令は,
帝国臣民
ではない中国人には適用されず,
中国
人労働者について徴用関係が成立したということもできない。
なお,当時,日本国の統治を受け,日本国の帝国臣民であった朝鮮人については当初は国民徴用令の適用を免除されていたが,閣議決定半島人労務者ノ移入ニ関スル件ヲ定ムにより,1944年(昭和19年)9月から徴用が実施された。



連合国最高司令総司令部法務局の対応

連合国最高司令部総司令部法務局(GHQ・LS)は,釈放したA級容疑者のうち元閣僚8名については中国人強制連行,強制労働,中国人に対する虐待,虐殺等の責任があるとして,BC級犯罪容疑で訴追する計画を有していた。このうち,岸信介についての容疑事実は,
東条の最も信頼する協力的文官補佐役の一人であった。彼が関係した省は,捕虜を防衛産業に使用するという政策の達成に助力し,又更に中国人奴隷労働計画の実施に責任を持っていた。彼はそれ自体,戦争の法規と慣習の違反である数多くの内閣の決定にも参画したというものであった。
実際,岸信介は,昭和17年閣議決定を行った東条内閣の商工大臣の地位にあり,上記決定を最も推進する立場にあった商工省のトップであった。したがって,中国人強制連行政策を推進した最も重要な人物である。イ
1947年(昭和22年)7月28日の鹿島組責任者CQをはじめ,伊勢智得,CS,CT,CU,CVの6名の起訴状の訴因は,
俘虜を使役
したことである。



中国人労働者の俘虜該当性

ヘーグ陸戦規則1条は,
戦争ノ法規及権利義務は,
軍に適用する
ほか,①部下ノ爲ニ責任ヲ負フ者其ノ頭ニ在ルコト,②遠方ヨリ認識シ得ヘキ固著ノ特殊徽章ヲ有スルコト,③公然兵器ヲ携帯スルコト

又は④其ノ動作ニ付戰争ノ法規慣例ヲ遵守スルコト,という条件を具備
する民兵及義勇兵団にも適用するとしている。


ヘーグ陸戦規則2条は,
占領セラレサル地方ノ人民ニシテ,敵ノ接近スルニ當リ,第一條ニ依リテ編成ヲ爲スノ遑ナク,侵入軍隊ニ抗敵スル爲自ラ兵器ヲ操ル者カ公然兵器ヲ携帯シ,且戰争ノ法規慣例ヲ遵守スルトキハ,之ヲ交戰者ト認ムとし,3条は,

交戰當事者ノ兵力ハ,戰闘員及非戰闘員ヲ以テ之ヲ編成スルコトヲ得。敵ニ捕ハレタル場合ニ於テハ,二者均シク俘虜ノ取扱ヲ受クルノ權利ヲ有ス

としている。

中国の華北地方は,日本の傀儡政権であるとはいえ,1937年(昭和12年)12月14日に設立された中華民国臨時政府が,1940年(昭和15年)3月30日からは同日付けの華北政務委員会組織條例に基づき華北政務委員会が統治する形式となっていた。
したがって,当時の中国・華北地方は日本陸軍の占領行政が実施されていない占領セラレサル地方であった。
強制連行された中国人労働者のうち,中国共産党あるいは中国国民党に所属する戦闘員が日本陸軍との交戦の結果,逮捕され,俘虜収容所に収容された場合には,これが俘虜たることは明らかである(ヘーグ陸戦規則3条)

また,戦闘員ではなく,農民などの非戦闘員であっても,日本陸軍の突然の襲撃にあい,
民兵及び義勇兵団を組織するいとまもなく,応戦せざ
るを得なかった者(ヘーグ陸戦規則2条)
,あるいは応戦することもできな
かった者(ヘーグ陸戦規則1条)も,戦闘員と同様,俘虜に該当する。エ
ただし,形式的には,ヘーグ陸戦規則にいう俘虜に該当しない者も存在し得る。例えば,非戦闘員であって,公然兵器を携帯しているわけでもない中国人が,抵抗する間もなく逮捕され,俘虜収容所に収容されたという場合,形式的にはヘーグ陸戦規則の俘虜に該当しない可能性がある。しかし,そもそも違法な逮捕,収容,連行を行い,その支配下に置いた以上,日本陸軍及び日本政府は,それら中国人被害者の取扱いについては,ヘーグ陸戦規則にいう俘虜に準じて取り扱うべきである。
したがって,以上のいずれであっても,中国人労働者は全て,ヘーグ陸戦規則の俘虜として取り扱われるべきである。



昭和17年閣議決定にいう適当な機関

昭和17年閣議決定第1の5は,
華人労務者及びその指導者は,移入に先立って一定期間現地の適当な機関において,必要な訓練をすると定めている。また,昭和19年次官会議決定第1・3は,
華人労務者は,移入に先立って,できる限り一定期間(1か月以内),現地の適当な機関において必要な訓練をなさしめる。移入未経験労務者については,内地においても,これを使用する工場事業場が,必ず一定期間は必要な訓練をなさしめると定めている。

上記適当な機関とは,
俘虜を労工に転換するための適当な機
関を意味している。具体的には,
石門労工訓練所等の労工訓練所を
指している。
しかし,労工訓練所は,
俘虜を労工に転換するに適当な機関では
なかった。1943年(昭和18年)11月15日付の概況石門臨時俘虜収容所の要旨には,石門臨時俘虜収容所は主として当兵団管内に於て獲得せる俘虜(被検挙者を含す)及帰順匪中特に教育を要する者を収容して之を訓練教化し帰郷若くは労工移民せしむる目的を以て昭和14年3月28日保定に設立せしものを昭和16年8月14日石門市南兵団に移転せしめたるものにして当兵団長に直属しあり。本収容所は部外に対する一般名称を石門労工教育所と称しありとある。上記記載によれば,中国人労働者は,俘虜及び帰順匪中特に教育を要する者であるとされて,収容され,教育訓練を受け,労工として移民
させられたことになる。実際,収容された俘虜は,
幹部班生建班


普通班教育班炊事班等の班に分けられ,各班にはそれぞれ取


締責任者を設け,さらに統括のため総班長を設けるなどの扱いを受けていた。しかし,既に述べたように,実際に労工となるための教育訓練は皆無であり,中国人労働者の実態は俘虜収容所に収容された俘虜のままであった。
したがって,
石門労工訓練所に在籍していたことをもって,
俘虜
が労工に転換されたとみることはできない。


華人労工使用上ノ参考

華北にある日本陸軍の現地部隊が作成した以下の文書は,中国人労働者が俘虜であることを示すものである。
1944年(昭和19年)3月15日付けの華人労工使用上ノ参考(鷺第3905部隊参謀部・鷺参宜第45号)には次のような記載がある。
華北ヨリ供出シタル労務者ハ大体前身俘虜デアル。而モ大部分ガ中国共産党ノ傘下ニアッタモノガ多イ。故ニ単ニ俘虜ト言ッテモ軍人ノミデハナク相当ノ民衆ヲ包含シテイル。中国共産党ハ一個ノ有機的組織体ヲ為スノガ特徴デアッテ軍隊ト其ノ他一般社会ニ於ケル外郭団体(民衆組織)ノ組織活動ハ著シク赴ヲ異ニシテイルガ其ノ組織性格等ハ幾多ノ通有性ヲ持ッテイル。故ニ其ノ(2字欠落)ヒニ訓練ノ程度ニヨリ抗日意識ハ相当ノ相違ガアル。表面的ニハ抗日統一戦線ノ立場ヲ保持シテ全中国ノ各階級階層ノ合同ヲ標榜シテイルガ本質的ニハ農村ニ於ケル貧農層ヲ結成シテ階級闘争ノ潜勢力ノ培養ニ努メテ居ルモノデアル。故ニ巧妙ナル宣伝ト一般民衆ヲ対象トシテ秘密主義ノ下ニ民衆獲得工作ヲナスノデアル。タメニ抗日民族思想ハ相当徹底シテイル。即チ彼等ハ日本ヲ侵略国トシテ,日本人ヲ呼ブニ『鬼子』ナル語ヲ以テシ努メテ我ヲ侮蔑スル如ク宣伝教育シテイルノデアル。彼捕後ハ訓練所ニ於テ思想転向教育実施シテハイルガ,期間環境等ノ関係モアリ万全ヲ期シタトハ確信ヲ以テ言ヒ得ナイ現況デアルイ
上記文書は,日本陸軍の第110師団所属部隊が作成したものである。第110師団は,1938年(昭和13年)6月16日,姫路で留守第10師団の担当で編成された特設師団であり,編成後,直ちに華北に派遣,北支那方面軍戦闘序列に編入され,北京付近の警備に当たるとともに,京漢線(北京から武漢まで。現在は京広線として北京から広州まで達する)沿線の治安作戦に従事していた。
第110師団は,日米戦争開戦後も北支那方面軍隷下において,華北にあり,この方面のさまざまな作戦に参加した。1942年(昭和17年)5月には,歩兵第140連隊を第71師団に転用し,歩兵3個連隊制師団に改編された。その後,1944年(昭和19年)3月には,第12軍戦闘序列に編入され,同年4月17日から開始された大陸打通作戦第一段の京漢作戦(華北と華南を結ぶ京漢線を確保することが目的)に参加し,洛陽を攻略して占領し,その後その警備に当たっていた。


第110師団作成の前記文書によれば,日本陸軍は,
華北ヨリ供出シタル労務者が大体前身俘虜デアルという認識をもっていた。前身とわ
ざわざ表記しているのは,陸軍も含め,強制連行に関わる当時の日本の行政機構に属する官吏が,
俘虜を,
石門労工訓練所を経由することによっ
て,
労工すなわち労働者に変容させているとの共通理解に立っていた
からである。
そのような共通理解は,昭和17年閣議決定及び昭和19年次官会議決定によって,日本が総力を挙げてアメリカ等連合国との戦争を遂行するため,中国・華北地方から日本内地の事業場に大量の労働力を送り込む必要があるという背景によって成立していた。
しかし,
石門労工訓練所
を経由させても,
中国人労働者が強制連行や強
制労働に同意するはずがないことを,関与した日本陸軍も官吏も知っていた。前記文書末尾の訓練所ニ於テ思想転向教育実施シテハイルガ,期間環境等ノ関係モアリ万全ヲ期シタトハ確信ヲ以テ言ヒ得ナイ現況デアルという記載は,中国人労働者が任意の意思による雇用契約に基づいて,日本の事業場において労働に従事したわけではないことを示して余りある。



華人労務管理要領

北京大使館事務所作成の1944年(昭和19年)8月華人労務管理要領には,次のような記載がある。華工は元俘虜であった者が多く,是等の者に対しては一応の訓練は施してあるが日本内地に於て労働に従事することを心から喜んで居る者は少なく特に就労地に到着直後は,精神的に動揺して居り且つ不安を持って居る者もあると思われるし,また,相当期間終了後と雖も,いろいろな事情からして不平を抱いて居る者もあるかも知れず,斯うした華工の逃走と云うことも一応考えられるのであるが,其の対策としては隣組体勢を常に確立して置き,逃走者を発見した場合は,直ちに警察なり宿舎管理人に通知して頂きたい宿舎に就ては家屋周囲の牆壁を厳重にし外部との連絡通行が不可能なる状態に施設せしむることが大切であるイ
上記記述によれば,当時の北京大使館は,強制連行された中国人労働者において,
日本内地に於て労働に従事することを心から喜んでいる者は少
ないことなどを認め,また,宿舎も逃亡できない構造のものにすることを勧めている。これは,まさに,当時の北京大使館に勤務する日本国の官吏が,強制連行・強制労働をさせられた中国人労働者が任意の意思で日本に向かったのでないことを知っていたことを示している。



大山文雄元復員庁第一復員局法務調査部長の供述

大山文雄は,1933年(昭和8年)12月20日陸軍省法務局長に就任し,1945年(昭和20年)4月1日迄在職し,同日待命,同月2日予備役となったが,同年11月8日再び陸軍省法務局長に任ぜられ,同年12月1日制度改変により第一復員省法務局長に任ぜられ,1946年(昭和21年)
6月15日制度改革により復員庁第一復員局法務調査部長に任ぜられていたところ,東京裁判のため,パーキンソン検事から供述書の作成を求められ,これに応じた。


大山文雄は,1963年(昭和38年)1月23日付けの法務省大臣官房司法法制調査部からの戦争裁判関係の問合せに対し,同年10月1日,岡山県井原市役所市長室において,
B・C級戦争犯罪につき,事実をどの程度知っていたか
という質問には,
その頃の戦争犯罪の相手としては,俘虜しかいなかったが,その俘虜に対する犯罪については,終戦前においても,憲兵の捜査によって,判明したものもあり,それ等はそれぞれ軍法に従って処分していた。勿論,今度の戦争裁判で裁かれたように広汎に亘る所謂『犯罪』については知る由もなかった。(俘虜の外,中国人,鮮人の労役徴用については,かなり無理のあったことは承知していた)と供述している。

陸軍省法務局長の地位にあった大山文雄が,俘虜に対するB・C級戦争犯罪に関する供述において,
労役徴用
に言及していることは,
中国人及び朝
鮮人の強制連行が無理なものであり,その実態が俘虜であったとの認識を示しているものである。



まとめ
以上からすると,中国・華北地方において逮捕され,石門俘虜収容所(石門労工訓練所)などに収容され,日本に強制連行され,日本各地の事業場における宿舎に入所させられ,強制労働に従事させられた中国人労働者は,労働に従事した事業場と雇用契約を結んではおらず,ヘーグ陸戦規則の俘虜に該当することが明らかである。それは,逮捕された後,強制労働から解放されるまで続いていた。

3被告によるヘーグ陸戦規則違反の行為


ヘーグ陸戦規則4条違反
ヘーグ陸戦規則4条は,

俘虜ハ,敵ノ政府ノ權内ニ屬シ,之ヲ捕ヘタル個人又ハ部隊ノ權内ニ屬スルコトナシ。俘虜ハ,人道ヲ以テ取扱ハルヘシ。俘虜ノ一身ニ屬スルモノハ,兵器,馬匹及軍用書類ヲ除クノ外,依然其ノ所有タルヘシ

と定めている。被告は,別紙5記載のとおり,日本陸軍(北支那方面軍)が,中国・華北地方で逮捕し,俘虜収容所に収容した本件被害者らを,日本内地に強制連行し,鹿島組花岡事業場や藤永田大阪事業場などの事業場にその支配を委ね,強制労働をさせるに任せ,各事業場においては,別紙5記載のとおり,非人道的な取扱いがなされていたものであって,このような被告の行為は,ヘーグ陸戦規則4条に違反する。



ヘーグ陸戦規則16条及び46条違反
ヘーグ陸戦規則16条は,

情報局は,郵便料金の免除を享く。俘虜に宛て又はその発したる信書,郵便為替,有価物件及び小包郵便物は,差出国,名宛国及び通過国に於いて一切の郵便料金を免除せらるべし

と定め,同46条は,家の名誉及権利,個人の生命,私有財産並に宗教の信仰及其の遵行は,之を尊重すべしと定めている。これらの各定めは,
俘虜が家族との通信の保障を受けていることを前提とす
るものであるところ,本件被害者らは,逮捕されて以降解放されるまで,家族らとの通信は認められなかったのであり,このような被告の行為は,ヘーグ陸戦規則16条及び46条に違反する。


ヘーグ陸戦規則19条違反
ヘーグ陸戦規則19条においては,別紙8記載の俘虜条約76条と同様の趣旨の規定が置かれているところ,鹿島組花岡事業場においては,別紙5記載のとおり,本件被害者らの遺体は,埋葬されることもなく放置されていたものであって,かかる被告の行為は,ヘーグ陸戦規則19条に反する。



ヘーグ陸戦規則21条違反
ヘーグ陸戦規則21条は,
病者及傷者ノ取扱ニ關スル交戰者ノ義務ハ,ジェネヴァ條約ニ依ルと定めている。このジェネヴァ条約とは,ヘーグ陸戦規則採択時においては,
傷病者の状態改善に関する第1回赤十字条約(1864年)(日本は1886年(明治19年)に加入)「傷病者の状態改善に,
関する第2回赤十字条約(1906年(明治39年)」を指す。このほか傷)病者の状態改善に関する第3回赤十字条約(1929年(昭和4年)俘虜),の待遇に関する条約(1929年(昭和4年)を含め,上記4つがジュネ)ーヴ条約と呼ばれ,さらに,戦争犠牲者保護諸条約(1949年(昭和24年)を含め,広義でジュネーヴ諸条約と呼ばれることがある。)
傷病者の状態改善に関する第1回赤十字条約はその後,1949年(昭和24年)に改正され,
戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約第一条約と呼ばれることがある。(
)となっ
た。
第一条約12条,
13条,
14条によれば,
紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇軍の構成員などの者で,傷者又は病者であるものはすべての場合において,尊重し,且つ保護しなければならない,また交戦国の傷者及び病者で敵の権力内に陥ったものは,
捕虜となるものとし,また,捕虜に関する国際法の規定が,それらの者に適用されるとされている。
しかし,本件被害者らは,別紙5記載のとおり,疾病や疫病に苦しみ,死に至る状態であっても,
医師の診察や治療をまともに受けることができなかった
のであって,被告のこのような行為は,ヘーグ陸戦規則21条に違反する。4個人の法主体性について


国際法における個人の法主体性について

被告は,
国際法が国家と国家との関係を規律する法律であるから,個人の
国際法主体性が認められるためには,
条約に権利義務が規定されているだけ
でなく,
権利行使のための手続が定められ,権利実現の途が保障されていることが必要であると主張する。


確かに,
従前は,
国際法が伝統的に国家間関係を規律する法であったこと
から,
個人の国際法主体性は,個人が自らの名で権利を主張できる国際
的な手続が整備された場合にのみ肯定されるとする考え方が一般的であった。
しかし,
捕虜は,
主権国家のみが国際法の主体であるという観念が一般的
であった第二次世界大戦前においても,
国際慣習法及びヘーグ条約等の条約
によって国際法上の権利義務の享有者たることが認められていたのであり,1949年(昭和24年)の捕虜の待遇に関するジュネーヴ条約78条1項は,
捕虜は,自己を権力内に有する軍当局に対し,抑留条件に関する要請を申し立てる権利を有すると定め,同条2項は,捕虜は,また,その抑留条件に関して苦情を申し立てようとする事項に対して利益保護国の代表者の注意を喚起するため,捕虜代表を通じ,又は必要と認めるときは直接に,利益保護国の代表者に対して申入れする権利を無制限に有すると定め,第二次世界大戦前に捕虜に認められていた権利を確認している。これらの定めは,
限定的ではあれ,捕虜を国際法上の権利義務の主体とし
て認めた上で,救済手続面での保障を及ぼすものである。したがって,個人は国際法上の権利義務の主体となる意味の国際法主体性は認められる。ウ
次に,国際法上の権利義務の主体たる個人が,その権利の実現を図るために,
そのための特別な国際的レベルでの権利救済手続が必要かという問題があるが,今日,日本国を含む多くの国で国際法が国内法として効力を認められ,国内裁判所で解釈・適用されている現実に鑑みれば,国際法上の個人の権利能力を国際的手続が存在する場合にのみ限定することは妥当でない。国際法上の問題に対する管轄権は,必ずしも国際裁判所その他の国際機関に専属するわけではなく,いずれかの国の国内裁判所であっても,その国内法により国際法上の問題に対する管轄権が与えられ,かつ国際法に準拠してこの管轄権を行使している限りは,国際管轄権の行使を分担しているとみなすことができるからである。
第二次世界大戦後は,国際人権規約を始め人権の国際的保障のための条約や一般国際法上で確立した個人の権利に対する制度の保障の確立が,個人の国際法上の主体性を一層確実にしている。



ヘーグ陸戦条約3条が個人の法主体性を認めていること

文言解釈
1907年(明治40年)のヘーグ陸戦条約3条は,ヘーグ陸戦規則

ノ条項ニ違反シタル交戦当事者ハ,損害アルトキハ,之カ賠償ノ責ヲ負フベキモノトス。交戦当事者ハ,其ノ軍隊ヲ組織スル人員ノ一切ノ行為ニツキ責任ヲ負フ

と定め,
戦時における私権尊重の原則を明らかにしている。
そして,
ヘーグ陸戦規則52条は,
現品徴発及課役ハ,占領軍ノ需要ノ爲ニスルニ非サレハ,市区町村又ハ住民ニ對シテ之ヲ要求スルコトヲ得ス。徴発及課役ハ,地方ノ資力ニ相應シ,且人民ヲシテ其ノ本國ニ對スル作戰動作ニ加ルノ義務ヲ負ハシメサル性質ノモノタルコトヲ要ス右徴発及課役ハ,占領地方ニ於ケル指揮官ノ許可ヲ得ルニ非サレハ,之ヲ要求スルコトヲ得ス現,品ノ供給ニ對シテハ,成ルヘク即金ニテ支払ヒ,然ラサレハ領収證ヲ以テ之ヲ證明スヘク,且成ルヘク速ニ之ニ對スル金額ノ支払ヲ履行スヘキモノトスと定め,
同規則53条2段は,
海上法ニ依リ支配セラルル場合ヲ除クノ外,陸上,海上及空中ニ於テ報道ノ伝達又ハ人若ハ物ノ輸送ノ用ニ供セラルル一切ノ機關,貯蔵兵器其ノ他各種ノ軍需品ハ,私人ニ屬スルモノト雖,之ヲ押収スルコトヲ得。但シ,平和克復ニ至リ,之ヲ還付シ,且之カ賠償ヲ決定スヘキモノトスと定めている。これらの規定は,まさに,戦時,あるいは占領地において,規則に反し個人に被害を与えた行為について,被害者個人に対する国家の責任を認めたものである。
したがって,文理解釈としては,むしろ,ヘーグ陸戦条約3条は,個人の損害賠償請求権を定めたものであり,それを前提とした運用がなされていたものであって,被告の前記主張は失当である。

ヘーグ陸戦条約の制定過程,趣旨及び目的からの解釈について
制定過程
ヘーグ条約第3条は,同条約が1899年(明治32年)制定の旧ヘーグ条約及びその附属規則を修正して制定された際に,新たに創設された規定である。旧ヘーグ条約には,戦争被害の補償に関する国家の責任を定めた規定はなかった。ただ,付属規則において,占領軍が市町村や住民から徴発や課役を受けた場合について成るべく即金にて支払い,然らざれば領収証を以て之を証明すべし(52条)
とか,
占領軍が私人から軍需品を

押収した場合について平和回復に至り,之を還付し,かつ之が賠償を決定すべきものとす(53条)と定めていただけであった。
そこで1907年(明治40年)の第2回ヘーグ平和会議で,ドイツ代表が,
占領地域内外において自国軍隊の構成員がヘーグ条約の附属規則違反行為をなした場合,その交戦国が有責であることを認め,その規則違反行為により損害を受けた個人に対して当該交戦国が賠償をすることを要求して,ヘーグ条約に次の2つの条文を追加することを提案した。提案第1条付属規則の条項に違反して中立の者を侵害した交戦当事者は,その者に対して生じた損害をその者に対して賠償する責任を負う。交戦当事者は,その軍隊を組成する人員の一切の行為につき責任を負う。現金による即時の賠償が予定されていない場合において,交戦当事者が生じた損害及び支払うべき賠償額を決定することが,当面交戦行為と両立しないと交戦当事者が認めるときは,右決定を延期することができる提案第2条付属規則の条項に違反した行為により交戦相手側の者を侵害したときは,賠償の問題は,和平の締結時に解決するものとする上記提案の理由に関して,ドイツ代表は,次のような趣旨を説明した。陸戦の法規慣例に関する規則の違反が行われた場合の規定を付加することにより,同規則を補完することを目的とするドイツ提案の理由を簡単に説明したい。陸戦の法規慣例に関する条約によれば,各国政府は,同条約付属の規則に従った指令をその軍隊に対して出す以外の義務を負わない。これらの規定が軍隊に対する指令の一部になることにかんがみれば,その違反行為は,軍の規律を守る刑法により処断される。しかし,この刑事罰則だけでは,あらゆる個人の違法行為の予防措置とはならないことは明らかである。同規則の規定に従わなければならないのは,軍の指揮官だけではない。士官,下士官,一兵卒にも適用されなければならない。したがって,政府は,自らが合意に従って発した訓令が,戦時中,例外なく遵守されることを保障することはできないであろう。かかる状況にあって,同規則の規定の違反行為による結果について,検討しておくべきである。『故意によるか又は過失によるかを問わず,違法行為により他人の権利を侵害した者は,それにより生じた損害を賠償する義務をその他人に対して負う。』との私法の原則は,国際法の現在議論している分野においても妥当する。しかし,国家はその管理・監督の過失が立証されない限り責任を負わないという過失責任の法理によるとするのでは不充分である。このような法理をとると,政府自身には何の過失もないというのがほとんどであろうから,付属規則違反行為により損害を受けた者が政府に対して賠償を請求することができないし,有責の士官又は兵卒に対し損害賠償請求をすべきであるとしても,多くの場合は現実には賠償を得ることができないであろう。したがって,われわれは,軍隊を組成する者が行った規則違反による一切の不法行為責任は,軍隊を保有する国の政府が負うべきであると考える。その責任,損害の程度,賠償の支払方法の決定にあたっては,中立の者と敵国の者で区別をし,中立の者が損害を受けた場合は,交戦行為と両立する最も迅速な救済を確保するために必要な措置を講じるべきであろう。一方,敵国の者については,賠償の解決を和平の回復のときまで延期することが必要不可欠である。審議では,
上記ドイツ提案の被害者個人が加害国家に直接に損害賠償を
請求でき,
加害国家は無過失の責任を負うという基本的内容には全参加国
に異論はなく,ロシアやスイスの代表が賛同の発言をした。
一方,
中立国の市民と交戦国の市民とで条文を分けていた点についてフ
ランスやイギリスから質問があったが,ドイツ代表の提案の趣旨は,中立国の市民と交戦国の市民との間で損害賠償について区別をすることを目的とするものではなく,唯一賠償の支払方法についてだけ違いを設けたものだった。
結局,審議を行ったヘーグ平和会議の第二委員会は,先のドイツ代表の提案中の主眼である提案第1条の部分を基本にして,条文上は中立国と交戦国とを区別しない形で,次のような規定にまとめた。

本規則の条項に違反する交戦当事者は,損害が生じたときは,損害賠償の責任を負う。交戦当事者は,その軍隊を組織する人員の一切の行為につきその責任を負う

総会は,上記規定を全会一致で採択した。起草委員会は,これを条約の付属規則ではなく,条約本文に置くべきであるとし,ヘーグ条約の第3条とされた規定が総会で全会一致で採択され,前記ヘーグ条約第3条の規定となった。
このように,ヘーグ条約第3条が,その審議過程をみれば,陸戦規則違反行為によって個人に生じた損害については,被害者個人が加害国家に直接に損害賠償を請求できることを定めたものであることは明白である。趣旨
ヘーグ陸戦条約第3条の趣旨は,軍隊構成員にヘーグ規則を遵守させるためには,
訓令違反を理由とする軍事刑罰法規による処罰だけでは不十分
であるとの根本的な認識に立って,規則違反行為によって個人に生じた損害については,
被害者個人が加害国家に直接に損害賠償を請求できること,
及び,
その個人の損害賠償請求に対し,
加害国家は,
指揮命令系統の管理・
監督の過失がなくても,無過失責任を負担することを国際法の明文で規定して,軍隊構成員にヘーグ規則遵守を徹底させようとしたものである。ウ
以上のとおり,ヘーグ陸戦条約3条は,制定過程及び趣旨・目的から解釈して,被害者個人が国家に対して直接損害賠償請求権を有するとしたものであると解釈できる。

第2被告の主張
原告らの主張は争う。
1国際法における個人の法主体性について


国際法は,国家と国家との関係を規律する法であり,第一次的には,国家間の権利義務を定めるものであって,国際法が個人の権利の保護,確保に関する規定を置いていたとしても,それは,国家が他の国家に対し,そのような権利を個人に認めること,あるいは,そのような義務を個人に課すことを約すものであって,そこに規定されているのは,直接的には,国家と他の国家との国際法上の権利義務である。したがって,国際法が,個人の生活関係・権利義務を対象とする規定を置いたということから直ちに,個人に国際法上の権利義務が認められたとし,また,これによって個人が直接国際法上何らかの請求の主体となることが認められるものではない。
そして,国際法が原則として国家間の権利義務を規律するものである以上,ある国家が国際法違反行為により国家責任を負うべき場合,その国家に対して国際法上の責任を追及できる主体が国家であることは当然である。このことは,相手国家から直接被害を受けたのが個人であったとしても,同様である。この場合に加害国家に国際法上の責任を問い得るのは,被害者個人やその遺族ではなく,被害を受けた個人の属する国家であり,当該国家が外交保護権を行使することによって被害者等の救済が図られるのである。


ところで,20世紀に入って,国際法違反行為により権利を侵害された個人が直接国際法上の手続によってその救済を図り得るような制度,すなわち国際裁判所に個人の出訴権を認めることなどを内容とする条約が締結された例がある。このような場合においては,個人が国家に対し特定の行為を行うことを国際法上の手続により要求できる地位を条約自身が与えているとみることができる。そうすると,本件のように国際法を根拠として,個人が加害国家に対し加害国家の裁判所において損害賠償請求権等を行使することができるというためには,当該国際法規に,その旨の特別の制度が存在することが不可欠である。


このように,国際法の法主体は,原則として国家であるから,個人にそのような国際法上の権利が認められるためには,特にその旨を条約において明確に定めることが必要であり,個人が自らその権利を行使するための国際法上の実現手続を保持し,当事者としての適格(請求の主体としての資格)が特別に認められているか否かがその重要な判断要素である。言い換えれば,個人が国際法の単なる受益者にとどまらず,法主体としての権利能力を取得するには,国家に対し特定の行為を行うよう国際法上の手続により要求できる権能を与えられていることが必要である。



以上述べたところからすると,国際法の基本的な考え方によれば,個人が国際法上の法主体であるといい得るためには,条約に権利義務が規定されているだけでなく,権利を行使するための方法又は手続が定められ,権利実現の途が保障されている必要がある。

2ヘーグ陸戦条約は個人に国際法上の法主体性を認めたものではないこと⑴

ヘーグ陸戦条約3条の文理解釈について
ヘーグ陸戦条約1条は,
締約国ハ其ノ陸軍軍隊ニ対シ本条約ニ附属スル陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則ニ適合スル訓令ヲ発スへシと規定し,ヘーグ陸戦規則の適用は,締約国において各国の陸軍に訓令を発する義務を課することによって実現する方式を採用しているが,これは,国家間に相互に義務を課し,国家間の権利義務を定めることによって条約の実現を図ろうとする国際法の基本原則に沿うものである。ヘーグ陸戦条約3条は,このように締約国が訓令を発することにより実現することとした条約の実施につき,その履行を確保する一手段として,違法行為に対する伝統的な国家責任を規定したものである。
しかも,同条約中には国家に対する損害賠償請求権を個人に付与することを示唆する規定や文言は全く存せず,同条約3条は,その文言上,個人の国際法上の権利一般について何ら言及していないのである。
以上からすれば,ヘーグ陸戦条約3条は,その文理自体からも,国家間の国家責任を定めたものにすぎず,個人の損害賠償請求権を定めたものではない。


文脈からする解釈について
ヘーグ陸戦条約の前文の第2段落においては,
締約国ノ所見ニ依レハ右条規ハ(中略)交戦者相互間ノ関係及人民トノ関係ニ於テ交戦者ノ行働ノ一般ノ准縄タルヘキモノトスと規定して,人民との関係を明示して規定しているのに対し,3条においては,
交戦当事者ハ(中略)之カ賠償ノ責ヲ負フヘキモノトスと規定するのみで,人民トノ関係ニ於テというような文言を
置いていないし,2条は,
第一条ニ掲ケタル規則及本条約ノ規定ハ(中略)締約国間ニノミ之ヲ適用スと規定し,7条は本条約ハ(中略)諸国ニ対シテハ(中略)其ノ効力ヲ生スルモノトスと規定している。そうすると,ヘーグ陸戦条約全体の文脈からしても,3条が個人の加害国家に対する直接の損害賠償請求権を認めたものでないことは明らかである。


ヘーグ陸戦条約の趣旨及び目的からの解釈について
上記のとおり,ヘーグ陸戦条約1条の規定振りから,同条約は,国家間に相互に義務を課し,国家間の権利義務を定めることによって条約の実現を図ろうとする国際法の基本原則に沿う形で制定されたということができる。ヘーグ陸戦条約3条は,ドイツ代表の提案を契機としてできたものであるが,この提案は,ヘーグ陸戦規則をいかに実効的に履行するかという議論の流れの中で出されたものであって,3条は違反行為によって損害が生じた場合に国家が賠償責任を負うことで,履行を確保しようとしたものであった。すなわち,3条は,ともかくも加害国家に賠償責任を負わせることに主眼があったのであり,損害賠償請求権の主体について,これを国家ではなく個人とする旨の議論は行われていなかったのである。

そうすると,ヘーグ陸戦条約の趣旨及び目的から,3条が個人の加害国家に対する直接の損害賠償請求権を認めたものと解釈することができないことは明らかである。


ヘーグ陸戦条約には権利実現の方法又は手続が定められていないことそして,何よりも個人が国際法上の法主体と認められるために不可欠とされる権利実現の途の保障に関して,ヘーグ陸戦条約には個人の権利実現の方法又は手続が何ら規定されておらず,個人が国際法上の法主体であるというために必要な手段が確保されていない。



小括
以上述べたとおり,ヘーグ陸戦条約3条は,交戦当事国たる国家が,自国の軍隊の構成員によるヘーグ陸戦規則違反行為に基づく損害につき相手国に対し損害賠償責任を負うという国家間の権利義務を定立したものであって,その行為により損害を被った被害者個人が相手国に対して直接損害賠償請求権を有することを認めたものでなく,権利を行使するための方法又は手続も欠いている。したがって,同条は,個人に国際法上の法主体性を認めたものではなく,同条を根拠とする原告らの請求を認める余地はない。

3条約が国内法的効力を持つとしても,具体的請求権の根拠とはならないこと⑴

原告らは,戦前ないし戦後を通じて,条約は締結ないし公布を経れば,立法措置なくして当然に国内的効力を有するものであるとし,ヘーグ陸戦条約及びヘーグ陸戦規則も,1912年(明治45年)に公布されたことにより,国内法としての効力を有するに至った旨主張する。



しかしながら,上記2のとおり,ヘーグ陸戦条約3条は,国家間の賠償責任を定めた規定と解するほかなく,個人の国家に対する損害賠償請求権を保障する規定ではない。
そうすると,仮にこの規定が国内法的効力を有するとしても,それにより当該規定が保障していない個人の国家に対する損害賠償請求権が国内法的に創設されるということはあり得ず,国家責任に関する規定が国内法的効力を有していることを根拠に原告ら個人の賠償請求権を認めることは,解釈に名を借りた立法にほかならない。
したがって,本件について国際法の国内的効力を論じてみても,これをもって,原告らの請求が法的に根拠づけられるものではないから,原告らの主張はそれ自体失当である。


なお,条約が国内法としての効力を有するに至ったとしても,それだけで当然に裁判所等の国家機関がこれを具体的請求権等の根拠法規として適用できるわけではないので,念のため,この点について述べる。
まず,そもそも,条約が国内法的効力を有するか否かの問題と,国内立法等なくして当該条約を国内で直接適用し得るか否かの問題は別の問題であり,個々の国民が国際法を直接の法的根拠として,当然に具体的な権利ないし法的地位を主張したり,あるいは国内の司法裁判所が,国家と国民あるいは国民相互間の法的紛争を解決するに当たり,国際法を直接適用して結論を導くことが可能であるか否かは別途検討する必要がある。
すなわち,条約は国際法の一形式であるが,これを締結するのは国家であって,国家間の権利義務関係を定立することを主眼とするものであるから,条約が直接国内法上の効果を期待し,国民に権利を与え義務を課すことをも目的とする場合には,原則として立法機関が法律を制定し,行政機関が法令に基づきその権限内にある事項について行政措置を執ることになる。したがって,条約の内容が私人相互間又は私人と国家間の法律関係に適用可能なものとして裁判所等の国家機関を拘束するためには,原則として上記のような国内措置による補完が必要であり,現にそのような国内法が多数制定されている。
例外的に条約の規定がそのままの形で国内法として直接適用可能となる場合があり得るとしても,いかなる規定がこれに該当するかについては,当該条約の個々の規定の目的,内容及び文言並びに関連する諸法規の内容等を勘案しながら,具体的場合に応じて判断されなければならない。
そして,上記の判断に際しては,第1に主観的要件として,私人の権利義務を定め,直接に国内裁判所で適用可能な内容のものにするという締結国の意思が確認できること,第2に客観的要件として,私人の権利義務が明白,確定的,完全かつ詳細に定められていて,その内容を具体化する法令を待つまでもなく,国内での直接適用が可能であることなどの要件を充たす必要があり,かかる要件充足の有無を考慮した上で条約の自動的執行力の有無を認定することとなる。
したがって,そうした検討を経ることなく,条約一般が直ちに国内において直接適用可能であると解することは正しい法解釈とはいえない。とりわけ,国家に一定の作為義務を課したり,国費の支出を伴うような場合には,事柄の性質上,権利の発生等に関する実体的要件,権利の行使等に関する手続的要件等が明確であることが強く要請される。
このように,国際法規の直接適用可能性は,上記の主観的要件及び客観的要件を具備して初めて認められるものである。


本件において,原告らは,個人として,加害国家であるとする被告に対して損害賠償を請求しているのであるから,これが認められるためには,原告らにおいて,個人の加害国家に対する損害賠償請求権を根拠付ける条約の条項を指摘するなどして,前記の主観的要件及び客観的要件を具備していることの主張,立証をする必要がある。しかしながら,上記のとおり,ヘーグ陸戦条約には,3条を含め,そのような請求権を根拠付ける条項は存在しないし,そのほか,原告らにおいて前記の主観的要件及び客観的要件を具備しているとの主張はされていないことからすると,原告らの主張はそれ自体失当であるといわざるを得ない。

4以上によれば,原告らの国際法に基づく請求は,およそ理由がない。以上

別紙7不法行為責任の成否1

中華民国民法

第1原告らの主張
1中華民国民法に基づく請求


法例11条1項は,
事務管理,不当利得又ハ不法行為ニ因リテ生スル債権ノ成立及ヒ効力ハ其原因タル事実ノ発生シタル地ノ法律ニ依ルと規定している。
また,1931年(昭和6年)に全面的に施行された中華民国民法は,184条1項前段において,
故意又は過失によって不法に他人の権利を侵害した者は,損害賠償の責任を負う,同法185条1項において,

数人共同して他人の権利を侵害した者は,連帯して損害賠償の責任を負う。加害を為した者がいずれか知ることができない場合もまた同じ

,同法186条は,
公務員が第三者に対する職務を執行するに応じ,故意違背により,第三者が損害を受けたときは,賠償の責任を負う,同法188条は,
雇人の職務の執行により,不法に他人の権利を侵害した場合は,雇用人は行為人と連帯して損害賠償の責任を負う,とそれぞれ規定している。



被告が,中国大陸において,日本国内の労働力を確保する国策として,本件被害者らを拉致連行した行為は,
法例11条1項の
不法行為
に当たるから,
被告は,かかる行為につき,当時の中華民国民法184条1項前段,185条1項,186条,188条により,不法行為責任を負う。

2被告の主張に対する反論


公権力の行使に対する損害賠償請求についても法例11条が適用されるこ

被告は,本件で原告らが主張する加害行為は,公権力行使に伴う法律関係であるから,国際私法の適用対象外であると主張する。
被告による拉致・連行行為は,国家の公権力の行使である権力的作用という側面を有することは否定できず,一見すると,国際私法の適用範囲外のように思われる。しかし,法例の適用は,実質法の性質を公法か私法かのいずれかに区別するかによって決まるのではなく,問題となっている法律関係が抵触規則の定めるどの単位法律関係に該当するかどうかによって決定されるものである。
そして,
法律関係の側からみたとき,
国家賠償は,
違法な行為によって他人に損害を与えた者をしてその損害を賠償せしめる制度であって,損害の公平な分担を目的とするものという点で不法行為責任の定義に当てはまる。したがって,
公権力の行使に対する損害賠償請求の法的性質は不法行為責任
に当てはまるのであるから,国際私法の守備範囲から除外することは相当ではなく,法例11条が適用されるべきである。


拉致・連行行為は不法行為概念に含まれること

被告は,公権力行使に伴う国家賠償の法律関係は,法例11条にいう不法行為概念に包摂されないと主張する。しかし,法律関係の性質決定は,抵触規則の解釈規則であり,日本の国際私法の体系の中で決められ,個々の抵触規則の解釈を行うことで,規定に含まれる事項的概念の適用範囲がおのずと確定されるのであり,本件拉致・連行行為による国家賠償は,上記のとおり,法例11条1項の不法行為責任に該当する法律関係である。


また,被告は,アメリカや中華人民共和国において,一般不法行為と公権力に伴う不法行為とが異なる扱いがされていると主張する。
しかし,被告が主張する比較法的観点からみても,アメリカ合衆国においては,1946年(昭和21年)以前であっても,外国におけるアメリカ軍の不法行為については,
軍事長官は,外国居住者の財産,人体,生命に対する損害の賠償請求について,かかる損害が陸軍,海軍,海兵隊または,これらの構成員により惹起された場合,これを審査等を行うための請求権委員会を任命する権限を有するとされており,外国におけるアメリカ軍の不法行為については,請求権委員会を設置して,損害賠償を支払うことが認められていた。また,中華人民共和国において相互保証主義が採用されているということが,直ちに国の利害に直接関係する領域を構成し,民法の領域と異なることになるということには根拠がない。例えば,相互保証主義を採る立法例には,特許法25条,実用新案法2条の5第3項,意匠法68条3項,商標法77条3項等があるが,これらは典型的な私法的権利の問題である。ウ
以上により,本件拉致・連行行為は,法例11条1項の不法行為概念に包摂される。



法例11条2項の類推適用による国家無答責の法理の適用がないこと被告は,不法行為の成立及び効果には法例11条2項,3項により日本法が累積適用され,国家無答責の法理が妥当すると主張するが,別紙11記載の原告らの主張のとおり,同法理自体が妥当でなく,そうでないとしても,本件においては適用されるべきではない。
また,法例11条2項の日本法の累積適用とは,相異なった複数の法律の角度から同一の事実を評価することであり,評価の対象となる同一の事実は,法例11条2項では外国ニ於テ発生シタル事実であるから,本件では,外国である中国において,日本軍が外国人である中国人を拉致・連行した事実である。この事実について日本法を累積適用する場合,不法行為の対象となる権利の存否は,いわゆる先決問題として,その権利自体の準拠法(本件においては中国法。によることになり,

中国で中国人の権利を侵害する行為が,
準拠法た
る中国法によって不法行為となる以上,これに日本法を累積的に適用しても不法行為となる。
したがって,いずれにしても,日本の国家無答責の法理は適用されない。


法例11条3項の適用により除斥期間が適用されることはないこと被告は,法例11条3項,日本国民法の724条後段により,原告らの請求権は既に消滅していると主張する。
しかし,
法例11条3項は,
損害賠償其他ノ処分
についてのみ日本法の累
積適用を認めているのであるから,その文言から,あくまで不法行為の直接的な効力である損害賠償法の方法及び額について,日本法の累積適用を定めたものにすぎず,時効ないし除斥期間について累積適用が行われるものではない。したがって,法例11条3項により,不法行為債権の消滅時効等に関する日本国民法724条が適用されることはないから,原告らの請求権は消滅していない。
仮に除斥期間が適用される余地があるとしても,本件において除斥期間を理由に原告らの請求権が消滅しないことは,別紙12記載のとおりである。第2被告の主張
原告らの主張は争う。
1本件に法例11条は適用されないこと


原告らが主張する被告の加害行為については国際私法(抵触法)たる法例11条は適用されないこと

そもそも,本件で原告らが主張する被告の加害行為は,
本件被害者らに対する拉致・連行行為は,被告の政策立案に基づくものであり,かつ,被告の機関または官吏ないし公務員たる日本軍もしくは憲兵隊によって,また被告の指示のもと活動を行っていた華北労工協会によって行われたなどというものであり,かかる主張を前提とすれば,上記行為は正に国家の公権力の行使である権力的作用であり,極めて公法的色彩の強い行為であって,国家の利害から切り離して考えることができないから,かかる行為について私法の適用を認め,私法規定の抵触の問題と捉えた上で,一般抵触法規である法例を適用することはできない。
公権力行使に伴う国家賠償という法律関係については,日本国の国家利益が直接反映される法律関係ということができ,国際私法の適用対象とはならないと考えるのが正当である。
したがって,
法例11条の適用があることを前提に中華民国民法に基づく
請求権があるとする原告らの主張は,その前提において失当である。以下,詳述する。
現代の国際私法においては,国家と市民社会とは切り離すことが可能であり,市民社会には特定の国家法を超えた普遍的な価値に基づく私法が妥当しており,これはどこの国でも相互に適用可能なものであるとの考えが国際私法の前提にある。
確かに,私法の領域でも国によって法の在り方が異なることはいうまでもない。しかし,一般的性格に着目すれば,私法の領域では,国家利益に直接関係しないことから,一般に法の互換性が高く,このような私法の領域においては,連結点を介して準拠法を定めることに合理性がある。これに対して,国家の利益が直接反映され,場合によっては処罰で裏打ちされることもある公法の領域については,国家間の利益が相対立し,特定の国家利益を超えた普遍的価値に基づく国家法なるものを想定することが困難であるため,特定の国家法を相互に適用可能とすることはできない。法の抵触という問題は,公法の領域についても生ずるが,上記で述べたとおり,一般的な法の互換性を前提とする私法の領域とは,その性質が大いに異なることから,公法の領域は国際私法の守備範囲から除外されることになる。
上記で述べたところからすると,国際私法が対象とする法律関係は,一般に法の互換性が高く,国家の利益に直接関係しない領域に属する法律関係(以下私法的法律関係という。
)にとどまるといわなければならな
い。そして,国家の利益が直接反映される法律関係(以下公法的法律関係という。)は,国際私法の関係からは,公法の領域に属するものとし
て取り扱われることとなり,国際私法の対象外に置かれるものといわなければならない。
前記の観点から,公権力の行使につき国家が賠償責任を負うか否かという法律関係を検討すると,このような法律関係は,公権力の行使の適否が判断の対象となるという意味で,公法的法律関係の側面を有することは明らかである。すなわち,公権力の行使の適否に関する判断が,その後の国の行政権,立法権の行使,さらには,国民生活に対する国の機関の権限行使の在り方にも重大な影響を与えるものであって,当該国家の利益と密接な関係を有することは明らかであり,また,その適否が問題とされている公権力の行使について,当該国家の法律とは異なる適法要件を定める他国の法律によって,その違法性の有無が判断されるようなことは,当該国家の利益に反することも明らかである。
これに加え,国家賠償法制定前の日本の法体系をも考慮に入れる必要がある。すなわち,大日本帝国憲法下においては,国又は公共団体の権力的作用については,私法である民法の適用はないとされ,これに基づく国の損害賠償責任が否定されていた(国家無答責の法理)
。このように,国
の権力的作用について一般私法である民法の適用が否定されるとする当時の法制度をみても,公権力の行使に伴う不法行為については,日本の法政策上,国家利益が直接反映され,一般私法と異なる領域に属する法律関係として理解されていたことが明らかである。
以上にみたところからすると,公権力行使に伴う国家賠償という法律関係については,日本の国家利益が直接反映される法律関係ということができ,国際私法においては,公法の領域に属する法律関係として取り扱われることになるため,国際私法の適用対象とはならないと解するのが正当である。


原告らが主張する被告の加害行為は法例11条にいう不法行為概念に包摂されないこと

次に,法例11条適用の有無を検討するに当たっては,同条にいう不法行為という法律概念が,原告らが主張する法律関係(国の公権力の行使による国家賠償関係)を包摂するかどうかが検討されなければならない。換言すれば,同条にいう不法行為という法律概念が上記のような法律関係を対象としていないのであれば,同条を適用する余地はない。
法例11条の不法行為という法律概念の事項的適用範囲を画定することは,国際私法における法律関係の性質決定の問題であるが,この問題は,
不法行為という国際私法規定の解釈問題であって,具体的には,各国際私法規定の精神・目的ないし趣旨とされるところに従い,各国実質法の比較検討等を通じて決定される事項である。
そして,その際には,前述の現代の国際私法が国家利益に直接反映される公法の領域を扱わず,私法の領域のみをその対象としているという国際私法固有の考え方を十分に考慮すべきである。

そこで,比較法的な観点から各国の実質法等を検討してみると,本件のような公権力の行使に伴う不法行為については,次のように,一般不法行為とは異なる取扱いがされている。
アメリカでは,1946年(昭和21年)に連邦不法行為請求権法が成立するまでは,主権免責の法理により連邦が責任を負うことはなく,それ以降も,同法2680条において正当な注意を払った法令執行行為あるいは裁量権能の行使・不行使,郵便関係,租税・関税の賦課徴収,海事事件,敵国通商規制,検疫,暴行・殴打・違法拘禁・違法逮捕・悪意ある訴追・訴訟手続の濫用(以上の6種については警察官等によるものを除く)および名誉毀損・不実表示・詐欺・契約上の権利に対する干渉等,国庫の運営あるいは金融機関の規制,戦時の軍隊の戦闘行為,外国における事件,テネシー渓谷公社の活動,パナマ運河会社の活動,連邦土地銀行等の活動については,1346条(b)と本章の規定は適用されず,連邦政府は責任を負わない。とされている。中華人民共和国では,1994年(平成6年)に国家賠償制度が全面的に確立されたが,中華人民共和国国家賠償法(1994年(平成6年)5月12日公布,1995年(平成7年)1月1日施行)33条(2012年(平成24年)10月26日改正後の40条も同じ。
)は,①外国人,外国企業及び組織が中華人民共和国の領域内において中華人民共和国の国家賠償(同法7条によれば,正確には国ではなく賠償義務機関となる。)を請求する場合には,この法律を適用する。,②「外国人,外国企業及び組織の所属国が中華人民共和国の公民,法人その他組織の当該国の国家賠償請求の権利につきこれを保護せず,又は制限している場合には,中華人民共和国は,当該外国人,外国企業及び組織の所属国と対等原則を実行する。
」と規定し,相互保証主義を採用している。
大韓民国においては,従前,日本の国家賠償法と同じ内容の国家賠償法が制定されていたが,新しい国家賠償法(1967年(昭和42年)法律第1899号)は,9条において,陪審審議会の賠償金支給の決定を経た後でなければ損害賠償の訴訟を提起することができないとして,陪審審議会前置主義を採用しているとされる。
イギリスにおいては,1947年(昭和22年)に制定された国王訴追法があるが(それ以前は主権免責の法理により国は責任を負わなかった。,その例外として,司法権の行使による損害については責任を負わ)
ず,軍隊の行動による損害については,極めて責任を負う場合が制限されているほか,国王大権としての免責があるとされ,また,国に対し損害賠償認容判決は執行できないとされている。
スイスにおいては,1959年(昭和34年)に発効した連邦責任法があるが,同法においては,軍隊に所属する者による損害は,同法の適用はなく,損害が平時の軍事演習中又は現役の時に生じた限りにおいて別の法令の定めに従って連邦が責任を負うとされているほか,連邦責任法上の請求は,公法上の請求とされ,まず,大蔵関税省へ請求し,同省が,請求を却下するか,3か月以内に処理しない場合,行政庁の却下宣言から6か月以内に,行政裁判所としての連邦裁判所に提訴できるとされている。このように,諸外国の国家賠償制度をみても,相互保証主義,行政機関への前置主義等各国独自の国家利益を反映した法制度が採用されていることがうかがわれ,一般の私法と異なる取扱いがされていること,及びその結果として一般的な法の互換性が存在しないことが明らかである。ウ
また,国家賠償に関する諸外国の裁判例をみても,旧西ドイツでは,内国公務員の国外における職務違反に基づく請求等については,ドイツ国際不法行為法の一般原則ではなく,常に西ドイツ法の適用があるとされ,この点は,フランス,イタリア及びオーストリアの各最高裁でも同様とされている。


そして,日本の公権力行使に起因する損害賠償に関する法体系については,上記で述べたとおりであるが,前記の比較法的視点をも併せ検討すれば,法律関係の性質決定として,公権力行使に伴う国家賠償の法律関係は,法例11条にいう不法行為概念に包摂されないものといわざるを得ず,この点においても,本件に法例11条が適用される余地はないというべきである。



小括
以上述べたところからすれば,本件で原告らが主張する被告の行為については,法例11条の適用も,これを前提とする中華民国国内法の適用もない。
したがって,中華民国民法を根拠とする原告らの請求は,本来適用されない法令に基づく請求であり,法的根拠を欠くものとして棄却を免れない。
2日本法の累積適用によりいずれにしても原告らの請求は棄却を免れないこと⑴

累積適用の内容について

前記1で述べたとおり,原告らの各請求については,法例11条の適用も,これを前提とする中華民国国内法の適用もないため,日本法に基づいてその根拠たる要件事実が主張,立証されるべきであるが,仮に原告らの主張するように法例11条の適用があることを前提としたとしても,以下に述べるとおり,不法行為の成立及び効果には同条2項,3項により日本法が累積適用されるから,いずれにしても日本法の要件事実の主張,立証を欠くことができないことをなお念のため指摘する。


すなわち,法例11条1項は,
…不法行為ニ因リテ生スル債権ノ成立及ヒ効力ハ其原因タル事実ノ発生シタル地ノ法律ニ依ルと定め,不法行為の成立及び効力に関する全ての問題に不法行為地法を適用するとしている。一方,同条2項は,
前項ノ規定ハ不法行為ニ付テハ外国ニ於テ発生シタル事実カ日本ノ法律ニ依レハ不法ナラサルトキハ之ヲ適用セスと定め,不法行為の成立について法廷地法である日本法の適用を規定する。このように,法例11条が不法行為の成立につき,1項において不法行為地主義を採りながら2項を置き,法廷地法主義との折衷主義を採ったのは,内国公序の立場から,日本法に照らせば不法行為に該当しない行為まで不法行為と認めて救済を与える必要がないとするものである。すなわち,法例の規定は,不法行為地法と日本法との一般的な累積適用を認めたものとして,両者の要件を共に具備しなければ不法行為が成立しないとするものである。


また,上記のように,法例11条1項は,効力に関わる全ての問題についても不法行為地法によるとしている。これら効力に関する問題としては,損害賠償請求権を取得する者の範囲,損害賠償の範囲及び方法といった事項はもとより,発生した損害賠償請求権の譲渡性,相続性,時効等の問題等がある。しかし,効力の問題についても,同条3項は,
…被害者ハ日本ノ法律カ認メタル損害賠償其他ノ処分ニ非サレハ之ヲ請求スルコトヲ得スと規定し,不法行為の効力の問題全般について,日本法を累積的に適用するものとしている。そして,このような規定を置いた法例の趣旨は,結局,日本の裁判所が日本法上不法行為であると認め,日本法の認める範囲内においてのみ不法行為による救済に助力するということにほかならない。

以上のとおり,法例11条1項を根拠とする原告らの各請求については,同条2項,3項が適用されることにより,不法行為の成立及び効果の双方について,不法行為地法と法廷地法とが累積的に適用されることになる。


したがって,原告らは,その主張する行為が損害賠償請求権の発生根拠としての不法行為に該当するというためには,当該行為に係る日本法の要件事実についても主張立証しなければならない。



日本法の累積適用により原告らの請求は棄却を免れないこと

前記のとおり,仮に原告らが主張するように本件に法例11条1項の適
用があり,中華民国民法が適用されるとしても,同条2項及び3項により,原告らの各請求が認められるためには,日本法の要件も充足する必要がある。

すなわち,法例11条2項により,不法行為の成立について日本法が累
積適用されることになるが,別紙11で詳述するとおり,原告らが主張する旧日本軍人らの行為は,国家の公権力の行使である権力的作用であって,日本の国家賠償法施行前においては,国の公権力の行使については民法の不法行為法(709条以下)の適用は排除され,国の損害賠償責任が否定されていた(国家無答責の法理)
。そして,その後,日本国憲法17条に基づき制
定された国家賠償法附則6項の

この法律施行前の行為に基づく損害については,なお従前の例による。

との定めが国家無答責の法理を指すことは,最高裁昭和25年判決が明確に判示しているところである。したがって,国家賠償法施行前の旧日本軍人の行為に関する損害賠償請求等は,その法的根拠を欠くものというほかない。
ウまた,法例11条3項の適用により,不法行為の効力についても日本法が累積適用されるところ,原告らの各請求は,別紙12記載のとおり,その主張に係る不法行為の時から既に20年以上が経過した後にされたものであるから,仮に原告らの請求権が発生したことが認められるとしても,日本の民法724条後段によりその請求権は既に消滅している。

したがって,いずれにしても,法例11条の適用を前提とする中華民国
民法に基づく原告らの請求には理由がない。
3小括
以上から明らかなとおり,本件で原告らが主張する被告の行為については,法例11条の適用も,これを前提とする中華民国国内法の適用もない。また,仮に法例11条の適用があると解する余地があったとしても,日本法が累積適用される結果,国家無答責の法理(別紙11)及び除斥期間(別紙12)の経過により,結局のところ中華民国民法を根拠とする原告らの各請求はいずれにしても棄却を免れない。
以上

別紙8不法行為責任の成否2

日本国民法

第1原告らの主張
1戦時中の行為


強制連行,引渡行為
昭和17年閣議決定及び昭和19年次官会議決定に基づき,日本の軍隊,憲兵らが,本件被害者らを日本に連行し,鹿島組花岡事業場や大阪の各事業場に引き渡したことは,それ自体が不法行為に該当し,被告は,民法709条,715条1項前段,719条1項により,不法行為責任を負う。



強制労働に従事させた行為
別紙5記載のとおり,被告は,本件被害者らを日本において強制労働させた上,本件被害者らの労働条件をより悪化させるような指導を行い,鹿島組花岡事業場においては,憲兵隊等を用いて本件被害者らに対する拷問,弾圧行為を行ったものであるから,
民法709条,
715条1項前段及び719条により,
不法行為責任を負う。



先行行為に基づく保護義務違反
被告は,本件被害者らを日本に連行し,鹿島組花岡事業場や大阪の各事業場に引き渡したという先行行為に基づき,事業場における本件被害者らを保護すべき義務があるのにこれを怠った作為義務違反があるから,民法709条,715条1項前段により,不法行為責任を負う。



国際法及び国際慣習法違反
被告は,戦時中において,下記のとおり国際法及び国際慣習法に反する行為を行っており,民法709条,715条1項前段及び719条に基づき,不法行為責任を負う。

ヘーグ陸戦条約及び同規則違反
ヘーグ陸戦条約及びヘーグ陸戦規則は,別紙6記載のとおり,国内法としての効力を有する。
ヘーグ陸戦条約1条違反
ヘーグ陸戦条約1条は,締結国はその陸軍軍隊に対し,本条約に付属する陸戦の法規慣例に関する規則に適合する訓令を発することと定め,被告に対し,
日本陸軍に向けてヘーグ陸戦規則に適合する訓令を発することを
義務付けているところ,被告はこれを作成しなかったものであり,被告のかかる行為は,ヘーグ陸戦条約1条に反するものである。
ヘーグ陸戦規則4条違反
別紙6記載のとおり。
ヘーグ陸戦規則16条及び46条違反
別紙6記載のとおり。
ヘーグ陸戦規則19条違反
別紙6記載のとおり。
ヘーグ陸戦規則21条違反
別紙6記載のとおり。

強制労働条約4条違反
1930年(昭和5年)6月28日,国際労働機構(ILO)第14回総会で強制労働条約が採択され,同条約は,1932年(昭和7年)5月1日発効し,
日本国政府は,
同年11月21日に,
同条約を批准したものであり,
強制労働条約は,国内法的効力を有する。
強制労働条約2条は,
本条約に於て『強制労働』と称するは或者が処罰の脅威の下に強要せられ且右の者が自ら任意に申し出たるに非ざる一切の労務を謂うと定め,4条は,権限ある機関は私の個人,会社又は団体の利益の為強制労働を課し又は課することを許可することを得ずと定めている。それにもかかわらず,被告は,別紙5記載のとおり,本件被害者らを強制労働に従事させていたものであり,このような被告の行為は,強制労働条約4条に違反するものである。

俘虜条約違反
1929年(昭和4年)7月27日,ジュネーヴで締結された俘虜の待遇に関する条約は,日本国政府も署名したが,軍部の反対により批准しなかった。しかし,1942年(昭和17年)1月29日,日本国政府は,適当な変更を加えて,同条約による意思があるとの声明を発した。
同条約は,俘虜の待遇に関する国際的な議論の中で,国際慣習法として成立していたものであり,国内法的効力を有する。
同条約は,1949年(昭和24年)に全面改正され,
俘虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約となった(以下第三条約という。

なお,別紙6記載のとおり,本件被害者らは,任意の意思で雇用契約を締結したものではなく,日本陸軍などによって拉致,逮捕,連行されたものであり,国際人道法上の俘虜に当たる。
俘虜条約2条及び3条違反
俘虜条約2条及び3条には,別紙6記載のヘーグ陸戦規則4条と同様の定めが置かれているところ,被告は,これに反し,別紙5記載のとおり,本件被害者らを私企業たる事業場の支配に委ね,強制労働に従事させた上,非人道的な取扱いを行った。このような被告の行為は俘虜条約2条及び3条に違反するものである。
俘虜条約3条及び76条違反
俘虜条約3条は,
俘虜は其の人格及名誉を尊重せらるべき権利を有す
と定め,
同76条は,
交戦者は,拘束中死亡したる俘虜が鄭重に埋葬せらるる様及墳墓が有用なる一切の表示を有し,尊敬せられ且相応に維持せらるる様注意すべしと規定している。
それにもかかわらず,鹿島組花岡事業場では,本件被害者らの人格や名誉に配慮されることのないまま死体が火葬されていたのであり,このような被告の行為は,俘虜条約3条及び76条に違反する。
俘虜条約8条及び36条違反
俘虜条約8条及び36条には信書に関する定めが置かれており,俘虜が家族との通信の保証を受けていることを前提としているところ,本件被害者らは,逮捕されてから解放されるまで,家族らとの通信は認められていなかったのであり,このような被告の行為は,俘虜条約8条及び36条に反する。
俘虜条約10条ないし15条違反
俘虜条約10条は,
俘虜は衛生及保健に付出来得る限りの保障ある建物又は仮建物内に宿泊せらるべし該宿泊所は全然湿気を避け,必要の,程度に保温且照明せらるべし火災の危険に対しては一切の予防法講ぜらるべし寝室(総面積,最小器容,寝具の設備及材料)に関しては捕獲,国の補充部隊に対すると同一条件たるべしと定め,同11条は俘虜の食糧は其の量及び質に於て補充部隊のものと同一たるべし,同12条は,
被服,下着及靴は捕獲国に依り俘虜に支給せらるべし此等用品の交換及修理は規則的に為さるべし,同13条は交戦者は収容所の清潔及衛生を確保し且伝染病予防の為必要なる一切の衛生的措置を執る義務あるべし,
俘虜は生理的法則に適い且常に清潔に保持せられたる設備を日夜供せらるべし右の外収容所が出来得る限り設備すべき浴場及灌水浴場の,外に俘虜は身体の清潔を保つ為充分なる水を供給せらるべし俘虜は運,動を為し及外気に当たる機会を与えらるべし,同14条は各収容所は医務室を備え俘虜が其の必要とすることあるべき有らゆる性質の手当を受くることを得べし必要に応じ隔離室は伝染病患者の用に供せらるべし,
同15条は
俘虜の医学的検査は少なくも月に一回為さるべし該検査は一般の健康状態及び清潔状態の監督並に伝染病特に結核及花柳病疾患の検出を目的とすと定めている。それにもかかわらず,本件被害者らは,別紙5記載のとおり,疾病や疫病に苦しみ,死に至るような状態であっても,医師の診察や治療をまともに受けることもできなかったのであって,このような被告の行為は,俘虜条約10条ないし15条に反する。
俘虜条約29条違反
俘虜条約29条は,

俘虜は何人と雖も肉体的に不適当なる労働に使役せらるることなかるべし。と定めているところ,

別紙5記載のとおり,

告は本件被害者らを強制的な労働に従事させていたのであって,このような被告の行為は,俘虜条約29条に違反する。
2戦後の行為


国際法及び国際慣習法違反
被告は,戦後において,下記のとおり,国際法及び国際慣習法に反する行為を行っており,民法709条,715条1項前段及び719条に基づき,不法行為責任を負う。

俘虜条約68条等,ポツダム宣言,降伏文書違反(処遇改善義務違反)処遇改善義務の存在
1929年
(昭和4年)
の俘虜条約69条1項は,
戦争開始後直に交戦者は混成医員会を構成する為協定すべし同会は三名の委員より成り中二名は中立国に属し一名は捕獲国の指名する者たるべし中立国医師の中一名を以て委員長とす同会は俘虜にして病者又は傷者たる者を診察し且之に対し有用なる一切の決定を為すべしと定める。これは休戦条約の前後を問わず,俘虜に対する医療体制を整備することを要求するものである。1945年(昭和20年)8月14日,日本国政府が受諾したポツダム宣言10項は,
我々の意志は日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではないが,日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本国政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し,これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり,言論,宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。と,特に捕虜虐待に言及した。1945年(昭和20年)9月2日,東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの甲板上で,
天皇及び日本国政府を代表する重光葵外務大臣と大本営を代
表する梅津美治郎参謀総長が署名し,またダグラス・マッカーサー連合国最高司令長官が4連合国(アメリカ,イギリス,ソ連,中国)を代表するとともに日本国と戦争状態にある他の連合国のために署名し,その後,各国代表が署名した,大日本帝国と連合国との間の休戦協定であり,ポツダム宣言を外交文書として固定する
降伏文書
の第7項には,
下名ハ茲ニ日本帝国政府及日本帝国大本営ニ対シ現ニ日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ聯合国俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト竝ニ其ノ保護,手当,給養及指示セラレタル場所ヘノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ズとある。これは,
日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ聯合国俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト其ノ保護,手当,給養及指示セラレタル場所ヘノ即時輸送ノ為,ノ措置ヲ執ルコトを日本国政府に課すものである。以上からすれば,被告は,戦後,本件被害者らの処遇を改善する義務を負っていたことが認められる。
被告の義務違反行為
中国人労働者は,1929年(昭和4年)の俘虜条約の俘虜に当たるとともに,ポツダム宣言及び降伏文書の連合国の捕虜に当たる。したがって,被告は,強制労働に従事させられている中国人労働者を直ちに解放するとともに,その保護,手当,給養を行い,
中国人労働者の指示する場所へ即時に輸送すべき措置をとる義務を履行しなければならなかった。
しかし,終戦後も,鹿島組花岡事業場における死亡者は発生し続けており,アメリカ軍や秋田県内政部衛生課地方技師による報告書においても,1945年(昭和20年)10月時点での中山寮の衛生状態,医療体制は極めて劣悪であったことが記載されている。
以上からすれば,中国人労働者は,終戦後も,衛生状態の改善や十分な食糧を受けるなどの処遇の改善を受けていなかったものと認められ,これが1929年(昭和4年)の俘虜条約75条やポツダム宣言及び降伏文書に違反することが明らかである。

俘虜条約75条違反(早期送還義務違反)
早期送還義務の存在
1929年
(昭和4年)
の俘虜条約75条は,
交戦者が休戦条約を締結せんとするときは右交戦者は原則として俘虜の送還に関する規定を設くべし此の点に関する規定が右条約に挿入せられ得ざりし場含と雖も交戦者は成るべく速に之が為連絡をとるべし一切の場合に於て俘虜の送還は平和克復後成るべく速に行はるべしと定めている。また,同条約68条1項は,
交戦者は重病者及重傷者たる俘虜が移送せられ得る状態に至りたる後階級及数に関係なく之を其の本国に送還する義務あるべしと定める。
これらは,休戦条約の前後を問わず,重病者及び重傷者である俘虜については,
移送できる状態になった場合に本国に送還する義務を負うとする
ものである。
さらに同条約71条本文は,
俘虜にして労働災害の罹災者と為りたる者は送還又は必要に応じ中立国に於ける收容に関し同一の規定の利益を享有せしめらるべしと定める。これは休戦条約の前後を問わず労働災害の罹災者となった俘虜については本国に送還しなければならないとするものである。
被告の義務違反行為
中国人労働者の帰国は当初の計画よりも遅れた。それは,中国側の交通事情の悪化,中国人労働者の持帰金問題,帰国後の中国人労働者が悪宣伝するのではないかという日本側の猜疑心があったからであり,また,帰国後の中国人が,極東国際軍事法廷などで多くの日本の軍人,民間人に対する厳格な処罰を求める活動をすることを極度に恐れてもいた。種々の事情により中国人労働者の送還が迅速にされなかったとはいえ,強制的に連行したときには迅速になしたことからすると,送還の遅れは日本国政府が早期送還の義務を怠ったからであるということができるのであり,被告のかかる行為は,上記早期送還義務に反するものである。⑵

先行行為に基づく戦後の保護義務,救護義務違反
被告は,本件被害者らを日本に連行し,生命,身体,名誉,財産に対する権利を侵害したものであるから,かかる先行行為に基づき,被告は,戦後,強制労働期間中に受けた健康被害や障害等の後遺症により満足に仕事ができなくなった本件被害者ら,そのために十分な扶養を受けることができなかった本件被害者らの妻,子,孫らの遺族に対し,保護し,救護すべき義務を負う。しかるに,被告は,現在に至るまでかかる保護義務及び救護義務を怠っているから,民法709条,715条1項前段及び719条に基づき,不法行為責任を負う。



資料の焼却,隠蔽による名誉ないし名誉感情の侵害

重要書類の焼却
被告は,事業者に,戦時中の中国人及び朝鮮人に関する統計資料,訓令その他重要書類を焼却するよう命じ,1945年(昭和20年)8月16日,焼却が実行された。かかる行為により,本件被害者らが,その意思に反して強制的に日本に連行され,強制労働に従事させられたという実態が隠蔽された。それにより,本件被害者らが自発的に日本企業に協力したとの風説が流布され,本件被害者らが自国において生活を再建する上で大きな支障が生じることになった。

外務省報告書における事実歪曲と隠蔽
外務省管理局は,中国人労働者の強制連行の状況を調査した上で,1946年(昭和21年)
,外務省報告書を作成した。しかし,この外務省報告
書は,強制連行された中国人労働者が俘虜であることを隠蔽し,
契約労働者であることを強調していた。また,1960年(昭和35年)5月3日の日米安全保障条約等特別委員会において,外務省アジア局長は,外務省報告書の所在について,

全部焼却いたしたそうでありまして,現在外務省としては,そうした資料を一部も持っておらない次第でございます。

と答弁し,その内容を明らかにしなかった。その後,同年6月6日の岸信介首相の答弁等,政府は一貫して外務省報告書の存在を明言せず,また,その内容も明らかにしなかった。


以上のような対応によって,本件被害者らは,
契約労働者であるかの
ように言われ,日本においても,自国においても,自らの意思で日本の事業場で労働に従事したかのように思われ,その名誉ないし名誉感情はさらに侵害されたものであるから,被告は,不法行為に基づき,損害の賠償及び名誉回復の責任を負う。



国会答弁による名誉毀損行為
被告は,別紙5の原告らの主張4⑸で主張したとおり,本件被害者ら及び原告らの名誉権を侵害する行為を行ったものであり,不法行為に基づき,損害の賠償及び名誉回復の責任を負う。

各答弁が本件被害者らに関する見解表明であること
被告は,上記各答弁について,いずれも,本件被害者らを対象として言及したものではなく,移入に係る中国人労働者についての一般的・抽象的な見解,あるいは,F氏についての見解を述べたものにすぎないと主張する。
しかしながら,各答弁が,本件被害者らを含めた中国人労働者に関する被告の見解を表明したものであることは明らかである。
名誉毀損の成立要件については,事実の摘示が特定人を指したものかどうかが問題となる場合,被害者が特定人であることを認識し得る者が不特定又は多数であるか否かが判断の基準とされるところ,本件においては,本件被害者らの氏名に言及がなくても,
戦時中日本に連行され,労働に従事させられた中国人という限度で特定されており,かかる要件に該当する人物は戦後日本においてもまた戦後中国においても,人口割合からいえば僅かな比率しか占めていない以上,周囲の不特定又は多数人にとって,上記各答弁が本件被害者らを対象とした見解表明であることは十分に認識しうる。従って,上記各答弁は本件被害者らを含めた特定人を名宛人(被害者)としたものといえ,名誉毀損の加害行為として十分である。そもそも名誉毀損に関する事実摘示については,摘示の相手方が単独である必要はなく,複数人に関する事実の摘示もありうるのであり,一定の範囲に属する複数人を対象として集合的名称を用いて事実を摘示することも名誉毀損に当たる。本件のような戦時中日本に連行され,労働に従事させられた中国人という集団は,前提となる被害事実の重大さ,特異さからしても十分に具体的な集団であり,漠然としたものではない。さらに,別紙5の第1の4⑸ウの答弁については,確かにF事件に関して述べられたものであるが,全体を通じて,F氏のみに限定した趣旨ではなく,強制連行の被害者となった中国人労働者全体についての見解を述べていることは明らかであり,本件被害者らを含む中国人労働者全員に対する名誉毀損に該当する。
従って,上記各答弁は,本件被害者らに対する名誉毀損となるものであり,被告の反論は失当である。

各答弁が本件被害者ら及び原告らの社会的評価を低下させること
被告は,上記各答弁により本件被害者らが自らの意思で日本の事業場で労働に従事したという事実が摘示されたとしても,その事実自体が本件被害者ら及び原告らの社会的評価を低下させるものとは認められないとする。
そもそも,日本に強制連行された後,戦後に中国に帰還した中国人労働者若しくはその遺族は,
自ら進んで日本に渡り,日本の軍国主義に協力したスパイである旨の誤解を受け,生まれ育った社会から迫害を受けることが常であった。そのような状況の中で,戦後,日本国政府により,強制連行の事実が認められ,自身が自ら進んで日本国に協力したのではなくむしろ強制的に拉致連行され,警察官や軍隊の監視のもと日本に連れられ,劣悪な環境に閉じこめられた上で奴隷労働に従事させられたとの事実が公表されることにより,自身の名誉が回復されることが,従来の社会に受け入れられ,平穏な生活を取り戻す上で必須であったといえる。
かかる状況で,日本国政府が,
自由の身柄で来た雇用契約の形でみ,な日本に来ておりますなどと説明することは,中国人労働者があたかも自発的に,自らの意思で来日し,労働に従事していたかのような誤解をさらに強化するものであり,それ自体,原告ら及び本件被害者らの社会的評価を低下させるものと言える。
また,

強制して連れてきたのか,あるいは本人が承諾して来たのか,これを確かめるすべがございません。

との説明,

中国人労務者が国際法上捕虜に該当するものであつたか否かについては,当時の詳細な事情が必ずしも判明していないので,いずれも断定し得ない。

との説明は,いずれも,
中国人労働者は自主的に日本に協力したとの中国社会において当時流布されていた風説と相まって,本件被害者ら及び原告らの社会的評価を低下させるものである。
さらに,外務省報告書の存在について全部焼却したと虚偽の説明をすることは,消極的な形態ながらも,上記中国社会における風説を強化するものであり,原告ら及び本件被害者らの社会的評価を低下させたといえる。


名誉回復義務違反
日本国政府は,自ら国際人道法違反の行為によって,本件被害者らの名誉を侵害したのであるから,これを回復する措置を講ずる義務がある。しかし,被告は,戦後になっても名誉を侵害する答弁をさらに繰り返していたのである。現時点においては,戦前の名誉侵害を回復する措置を講ずる義務があるばかりでなく,戦後に行った名誉侵害を回復する措置を講ずる義務をも有するというべきである。それにもかかわらず,被告は現在においても上記義務を履行していないのであって,かかる被告の行為は先行行為に基づく作為義務としての名誉回復義務に反するものであり,被告は,不法行為責任を負う。

第2被告の主張
原告らの主張は争う。
1本件で原告らが不法行為規定が適用されると主張する行為のうち,戦時中の行為については,
いずれも国家の公権力の行使である権力的作用に係る行為である。国家の公権力に係る行為から生じた損害については,私法である民法の不法行為責任規定の適用はなく,国家賠償法施行前は,国家の賠償責任を認める実定法の規定もなかったことから,およそ国が損害賠償責任を負うことはない(国家無答責の法理)ことは別紙11記載のとおりである。
2戦時中及び戦後の先行行為に基づく作為義務違反については,独立した不法行為と解する余地はない。
3原告らの主張する名誉毀損に係る答弁は,いずれも国家賠償法施行後の行為であり,同法施行後の国の公務員の公権力の行使に係る行為から生じた損害賠償は,国家賠償法の適用領域であり,民法の不法行為規定の適用はない。4したがって,
原告らが主張する被告の加害行為には民法の不法行為規定の適用
はなく,原告らの主張は法律上の根拠を欠く。
以上

別紙9国家賠償法に基づく責任の成否
第1原告らの主張
1国家賠償法に基づく責任
日本国民法に基づく請求(別紙8)に記載した義務違反行為のうち,国家賠償法が施行された1947年(昭和22年)10月27日以降の公務員による加害行為について,被告は,国家賠償法1条1項に基づく責任を負う。2相互保証の主張に対する反論
被告は,本件について相互保証の要件が満たされているということはできず,原告らの主張が失当であるとする。


国家賠償法6条は違憲であること
相互保証に基づき外国人に対し日本人と異なる扱いをすることは,憲法17条が

何人も,公務員の不法行為により,損害を受けたときは,法律の定めるところにより,国又は公共団体に,その賠償を求めることができる。と規定し

ていることに照らし違憲であるから,相互保証を要求する国家賠償法6条は違憲であり,本件において適用することはできない。



国家賠償法6条の規定は制限的に適用されるべきであること
仮に,国家賠償法6条の規定が違憲でないとしても,当該規定は憲法17
条に照らして,妥当性に疑義があるから,その適用については,外国人による権利行使を拡大するよう弾力的に解釈すべきである。そして,弾力的な解釈の一環として,相互保証は,必ずしも不法行為時に存在することが必要ではなく,請求権行使時に存在すれば足りると解すべきである。
本件では,原告らが属する中華人民共和国は,1994年(平成6年)5月12日に国家賠償法を制定し,1995年(平成7年)1月1日から施行されているのであり,本件の訴訟提起時には相互保証の要件は充足されている。第2被告の主張
1総論
原告らの主張する行為のうち,政府答弁による名誉毀損については,かかる答弁により本件被害者らの名誉権が侵害されたとは認められず,先行行為に基づく義務違反行為については,実質的には,国家賠償法施行前の行為による被害を内容とするもので,別紙11記載のとおり,国家無答責の法理が適用されるから,かかる原状回復義務が認められる余地はない。
2政府答弁による名誉権侵害が認められないこと


原告らは,①1954年(昭和29年)9月6日の外務省アジア局長答弁,②1958年(昭和33年)3月25日の同局長答弁,③同年4月9日の岸信介首相答弁,④1960年(昭和35年)5月3日の外務省アジア局長答弁及び⑤同月6日の岸信介首相答弁が名誉毀損に当たると主張する。


不法行為法上保護に値する被侵害利益としての名誉(民法710条,723条)とは,
人の品性,徳行,名声,信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価のことであり,名誉毀損とは,この客観的な社会的評価を低下させる行為のことをいうものと解されている。そのため,特定の個々人を対象として言及したのでなく,一般的,抽象的な存在についての見解ないし意見を表明したにすぎないものは,そのことによって直ちに特定の個人の社会的評価を低下させたと評価できるものではないから,名誉毀損行為には当たらない。しかるに,本件では,一般人の普通の注意と聞き方で各答弁内容を聞いた場合,
前記①,
②及び⑤の答弁については,
戦時中に中国から日本へ来て働いた労務者一般を対象とするものにすぎず,その中に本件被害者ら及び原告らがいることまでが分かるものではなく,また,前記③の答弁については,戦後に保護されたFを対象とする答弁であって,それ以外の者を対象として述べられたものではないし,さらに,前記④の答弁については,人を対象として述べ
られたものですらないことは明らかである。
なお,原告らは,前記③の答弁について,
全体を通じて,F氏のみに限定した趣旨ではなく,強制連行の被害者となった中国人全体についての見解を述べていることは明らかであると主張するが,当該答弁は,質問者がまずF君の身分の問題でありますがこのF君の身分でありますがと繰り返し述べ,
ているとおり,
その答弁がF氏に限定して述べられたものであることは明らか
であり,なぜ全体を通じて本件被害者ら及び原告らのことを述べたことになるのか全く不明である。
一般人の普通の注意と聞き方で各答弁内容を聞いた場合,前記①及び②の答弁については,
捕虜の身分で来たのではなくて,自由の身柄の人として来た

俘虜ではございません。,

雇用契約の形でみな日本にきております。

などと述べるのみで,
自発的に,自らの意思で来日し,労働に従事していたとは
述べられていないし,仮に自発的に,自らの意思で来日し,労働に従事していたという事実が摘示されたとしても,その事実自体が本件被害者ら及び原告らの社会的評価を低下させるものではない。
前記③ないし⑤の答弁については,外務省報告書の存在ないし内容を明らかにしなかったもので,そのことが,なぜ本件被害者ら及び原告らの社会的評価を低下させることになるのか全く不明である。
さらに付言すれば,原告らが主張するように『中国人労働者は自主的に日本に協力した』との中国社会において当時流布されていた風説が既に存在していたのであれば,
前記①ないし⑤の各答弁が本件被害者ら及び原告らの社会的評価を低下させたという因果関係は認められない。


各答弁が名誉感情を侵害するものともいえないこと
原告らは,前記①ないし⑤の各答弁により,本件被害者ら及び原告らの名誉感情も侵害されたと主張するもののようである。
名誉感情とは,人が自己自身の人格的価値について有する主観的な評価をいい,法律上保護される被侵害利益としての名誉には含まれない。その理由として,名誉感情の社会生活上における重要性は,社会的名誉のそれほど高くなく,名誉感情を侵害するにとどまる行為は,社会的名誉を侵害する行為に比して,違法性が低いこと,名誉感情には個人差があり,名誉感情は社会の普通人に対する規範としての法の保護に適しないものであることなどが挙げられている。したがって,名誉感情は,基本的には法的保護の対象とされないというべきである。
仮に,名誉感情が法的保護の対象となる場合があり得るとしても,極めて例外的な場合に限られるというべきであり,そのように判断されるのは,社会通念上許される限度を超える侮辱行為であると認められる場合に限られる。
しかるに,本件の場合,前記①ないし⑤の各答弁が,社会通念上許される限度を超える侮辱行為であるとは到底認められないから,これら各答弁が本件被害者ら及び原告らの名誉感情を侵害するとの主張は失当である。⑷

各答弁が国家賠償法上違法の評価を受けるものではないこと
前記①ないし⑤の各答弁が本件被害者ら及び原告らの名誉や名誉感情を侵害するものであるとはいえないが,仮にこれらの侵害が認められるとしても,前記①ないし⑤の各答弁は,いずれも,国家賠償法上違法の評価を受けるものではない。以下,詳述する。

国家賠償法1条1項の違法とは,公務員が個別の国民に対し負担する職務上の法的義務に違背することをいう。
そして,公権力の行使は,国民の権利に対する侵害を当然に内包し,法の定める一定の要件と手続の下で国民の権利を侵害することが許容されているから,権利侵害があることをもって公権力の行使を直ちに違法とすることができないのはもちろん,権利侵害の程度が大きいからといって,違法性の有無・程度の判断が左右されることも不合理であるから,当該公権力の行使が違法となるか否かは,公務員の職務上の法的義務(公権力の行使に当たって遵守すべき行為規範)に違背するか否かによって判断される(職務行為基準説)

この個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背するか否かは,権利ないし法的利益を侵害された当該個別の国民に対する関係において,その損害につき国に賠償責任を負わせるのが妥当かどうかという観点から,行為規範違背があるか否かによって判断され,職務上の法的義務であっても,専ら公益目的のものや,行政の内部的な義務等,個別の国民に対して負担する義務でないものに違背しても,国家賠償法上違法の評価を受けることにはならないのである。
以上より,公務員の職務行為は,その職務行為時を基準として,当該公務員が職務上通常尽くすべき注意義務を果たすことなく,漫然と当該行為をしたと認め得るような事情がある場合に限り,違法の評価を受けるものである。

本件において加害行為であるとされている各答弁は,いずれも衆議院若しくは参議院の委員会又は衆議院の本会議において内閣総理大臣ないし政府参考人である外務省アジア局長が行ったものである。
この点,国会議員が国会で行った質疑等については,最高裁平成9年判決が国会議員が国会で行った質疑等において,個別の国民の名誉や信用を低下させる発言があったとしても,これによって当然に国家賠償法1条1項の規定にいう違法な行為があったものとして国の損害賠償責任が生ずるものではなく,右責任が肯定されるためには,当該国会議員が,その職務とはかかわりなく違法又は不当な目的をもって事実を摘示し,あるいは,虚偽であることを知りながらあえてその事実を摘示するなど,国会議員がその付与された権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使したものと認め得るような特別の事情があることを必要とすると解するのが相当である。と判示している。最高裁平成9年判決は,
質疑等は,多数決原理による統一的な国家意思の形成に密接に関連し,これに影響を及ぼすべきものであり,国民の間に存する多元的な意見及び諸々の利益を反映させるべく,あらゆる面から質疑等を尽くすことも国会議員の職務ないし使命に属するものであるから,質疑等においてどのような問題を取り上げ,どのような形でこれを行うかは,国会議員の政治的判断を含む広範な裁量にゆだねられている事柄とみるべきであって,たとえ質疑等によって結果的に個別の国民の権利等が侵害されることになったとしても,直ちに当該国会議員がその職務上の法的義務に違背したとはいえないと解すべきである。ことを理由とし,日本国憲法51条で免責特権が規定されていることも考慮した上で,前記のとおり判示したものである。
また,内閣総理大臣としての答弁ないし政府参考人の答弁に関しては,免責特権の保障が及ばないとしても,答弁内容に個別の国民の名誉や信用を低下させる発言が含まれていたからといって,直ちに職務上の法的義務違背があるとして国家賠償法上違法の評価を受けるものとすれば,かえって不正確な答弁を強いることとなったり,答弁を躊躇するあまり,不十分な内容の答弁しかできなかったりするなどの萎縮効果が生じ,その結果,最高裁平成9年判決がいう多数決原理による統一的な国家意思の形成に密接に関連し,これに影響を及ぼすべきものであり,国民の間に存する多元的な意見及び諸々の利益を反映させるべき質疑等を尽くすことができないこととなるから,内閣総理大臣としての答弁ないし政府参考人の答弁についても,最高裁平成9年判決の趣旨が妥当するというべきである。したがって,内閣総理大臣としての答弁ないし政府参考人の答弁が個別の国民の名誉や信用を低下させることがあったとしても,当該答弁は,原則として国家賠償法上違法とならず,例外的に,その発言が違法・不当な目的に基づくものであったり,答弁の目的・範囲を著しく逸脱するとき,又は,答弁の方法が甚だしく不当であるなど特別の事情がある場合に限り,国家賠償法上違法の評価を受けるものというべきである。
そして,本件についてこれをみると,内閣総理大臣ないし外務省アジア局長が個々の原告らに対する関係でいかなる法的義務を負担するか判然としないものの,その点をおくとしても,前記①ないし⑤の各答弁について,かかる特別の事情が存在することの主張,立証は全くなく,かかる特別の事情が認められるものでもない。
3先行行為に基づく名誉回復等の義務違反について


原告らは,
昭和17年閣議決定及び昭和19年次官会議決定に基づく政策に
より強制連行を実行し,強制労働に従事させたという先行行為に基づき,戦後は名誉回復及び生命,身体,財産に対する侵害の回復を速やかに行うべき義務があったにもかかわらずこれをしなかったことが,国家賠償法1条1項の適用上違法であると主張するものと思われる。



しかしながら,原告らが主張するところは,実質的には国家賠償法施行前の行為による被害であって,これと独立した作為義務を観念する余地はない。そして,上記の国家賠償法施行前の行為は,正に権力的作用であり,国家無答責の法理により,被告は賠償責任を負うことがない。



したがって,被告の公務員の違法な先行行為に基づく作為義務の違反を理由とする原告らの主張は理由がない。
なお,原告らは,
戦前の名誉侵害を回復する措置を講ずる義務のみなら
ず,被告が戦後になっても名誉を侵害する答弁をさらに繰り返していたとして,
戦後に行った名誉侵害を回復する措置を講ずる義務をも有すると
主張するが,上記のとおり,そもそも内閣総理大臣らの答弁は本件被害者ら及び原告らに対する名誉毀損行為となり得ないから,原告らの上記主張は,前提において失当である。

4相互保障の不存在


本件について,相互保証の要件が満たされているということはできず,原告
らの主張は失当である。

国家賠償法6条は,

この法律は,外国人が被害者である場合には,相互の保証があるときに限り,これを適用する。

と規定し,外国人が日本国内において,国家賠償法1条又は2条に規定する損害を受けた場合,その外国人の本国で日本人が同様の損害を受けたときに,被害者である日本人がその国又は公共団体に対して損害賠償を請求する権利が認められているときに限り,その外国人に対して国又は公共団体が同法1条又は2条に規定する損害賠償責任を負う(相互保証主義)旨を明らかにしている。ところで,国家賠償法1条及び2条は,賠償請求権の取得に関する規定であり,賠償請求権の保持,行使,処分等に関わる規定ではないから,同法6条がこれを適用すると規定するのも,その規定ぶりからして,賠償請求権の取得のみに関わっていると解するのが素直である。したがって,同条の相互保証は,権利取得の要件を規定したもの,すなわち外国人につき権利取得の要件を加重したものと解するのが相当であるから,相互保証は,不法行為時に存在することが必要であると解すべきである。

この点,中華人民共和国は1949年(昭和24年)に成立し,中国民法通則は1987年(昭和62年)1月1日に施行され,中華人民共和国では1995年(平成7年)1月1日に国家賠償法が施行された。すなわち,中華人民共和国では,中華民国の法秩序が1949年(昭和24年)以降全く継承されず,民法を含む諸基本法や裁判制度が容赦なく廃止される運命となり,最初の憲法である1954年(昭和29年)憲法97条には,
国家機関の公務員によって,公民の権利を侵害され,そのため損害を受けた者は,賠償を得る権利を有するという規定が設けられた。かかる条文からは,誰を相手にして賠償を得られるのかが不明ではあるものの,一応国家が代位責任を負うと解釈できないでもないという条項である。国民党政府による広範な人民大衆を支配した道具としての六法全書及び全ての司法制度を廃止した中華人民共和国では,その代わりとなる新しい基本的法典は作られず,国家賠償法を含む行政救済関係諸法はもちろん,民法や刑法などでさえ存在しなかった。そのため,憲法97条が国家の代位責任を(仮に)認めたものの,それ自体はあくまで直接効力をもたないいわゆるプログラム規定にすぎず,実際には国家賠償責任制度が確立するに至らず,人民の国家と人民との利益が一致するという理論から演繹的に導かれた国家無責任の法理を理論的根拠とし,1975年(昭和50年)と1978年(昭和53年)の両憲法には,1954年(昭和29年)憲法97条の規定が削除され,1980年代初頭まで,中国では,名実ともに国家無責任の状態が支配し,1982年(昭和57年)に改正された憲法41条3項には国家機関または国家公務員が公民の権利を侵害したために損害を受けた者は,法律の定めるところにより,賠償を受ける権利を有すると規定されたものの,条文の中の法律の定めるところによりという表現からして,賠償を定める法律がなければ,それ自体は,直接に効力をもたないプログラム規定であったのである。ウ
そして,
民法通則の執行の貫徹に係る若干の問題に関する意見(試行)(1988年(昭和63年)1月26日最高人民法院裁判委員会討論採択)196条では「1987年1月1日以後に受理する事件について,民事行為が1987年以前に発生している場合は,民事行為発生時の法律及び政策を適用する。当時の法律及び政策に具体的規定のない場合は,民法通則に照らして処理することができる。とし,民事行為発生時の法律及び政策が存在する場合には,法律の不遡及が原則とされているところ,前記イで述べたとおり,1987年(昭和62年)に中国民法通則が施行される以前は,中華人民共和国において政策として国家無答責の法理が存在した。


しかるに,本件では,原告らが主張する被告による戦後の加害行為は,最も新しいものでも,1960年(昭和35年)5月6日の岸信介首相の答弁であり,当該時点までに,中華人民共和国には国家賠償を認める法的根拠は存在しなかったのであるから,相互保証の要件を欠くことは明らかである。

以上のとおりであるから,被告と中華人民共和国との間には国家賠償につき相互保証はなく,原告らの主張は失当である。



国家賠償法6条が違憲であるとの主張について
原告らは,
憲法17条において
何人も
と規定されていることに照らして,
相互保障を規定する国家賠償法6条が違憲であると主張する。
憲法17条は,
何人もと規定する一方,
法律の定めるところにより
損害賠償を請求できる旨規定しており,このような同条の文言からすれば,同条に基づいて具体的な賠償請求権が生じるものではないと解され,また,外国人による国家賠償請求について,必ずしも日本国民による国家賠償請求と同一の保障をしなければならないことを要請するものではなく,外国人による国家賠償請求について,日本国民による国家賠償請求とは異なる事情が認められる場合に,法律により特別の定めを設けて制約を加えることも,その内容が不合理なものでない限り,同条の規定に反しないと解すべきである。そして,国家賠償法6条の立法趣旨は,日本国民に保護を与えない国の国民に我が国が積極的に保護を与える必要がないという衡平の観念に基づくものと解されること,外国人による国家賠償請求について相互の保証を必要とすることにより外国における日本国民の救済を拡充することにも資すると考えられることからすると,国家賠償法6条による相互保証の規定に合理性が認められることは明らかである。したがって,国家賠償法6条は憲法17条に反するものではない。さらに,実質的にみても,日本人が受けた被害について,その外国を相手に損害賠償請求ができない場合にまで,日本国が当該外国の外国人の被害に対して損害賠償責任を負わなければならない理由はないというべきである,このような観点からしても,国家賠償法6条には合理性があり,憲法17条に反するものとはいえない。
以上

別紙10損害
第1原告らの主張
1本件被害者らの損害
⑴逮捕(拉致)
・収容・連行・強制労働による損害
被告は,
中国人労働者の拉致・連行政策を立案し,
本件被害者らを中国におい
て拉致連行し,その結果,本件被害者らに,以下のような損害を与えた。ア家族と引き離されたことによる精神的苦痛による損害
本件被害者らは,自宅にいる際,あるいは,仕事に出ている最中,ある日突然,日本軍によって拉致され,又は日本軍の手先である漢奸に騙されて,異国である日本に強制的に連行され,長期にわたり家族との関係を引き裂かれ,著しい精神的苦痛を被った。
a1は,家に押し入ってきた私服の漢奸に連れ出され,a9は,保定城内で紙を売り終えたての帰宅後に鉄橋を通過していた際,
日本軍と傀儡軍に捕らえられ
た。a12は,行商に行った際に捕らえられ,a6は,原告A6の母や兄が泣き叫ぶ中,漢奸に捕らえられた。
そして,本件被害者らは,日本での強制労働の最中,家族と一切の連絡をとることはできず,a1やa9は,花岡で死亡したため,再び家族に会うことはできなかった。
イ俘虜収容所における訓練過程の肉体的,精神的苦痛による損害
本件被害者らは,まず,俘虜収容所等に送られた。俘虜収容所等では,食料も不足する中で,
過酷な訓練が行われ,
従わない者や逃亡を疑われた者は,

行・拷問を受けたりするなど著しい肉体的,精神的苦痛を被った。a3,
a4,
a8,
a9,
a10,a13らは,石門俘虜収容所に送られた。
a13は着ている服をすべて脱がされ,代わりに着古された短いズボンに着替えさせられ,消毒といって高圧の水をかけられた。毎日隊列訓練を強いられ,大東亜共栄と叫ばされた。食事は1日2食で,1食につき1両の高梁飯が与えられた。数十人の中国人労働者が小さな小屋に押し込まれ,伝染病が流行しても,死体は埋葬されることなく放置され,小屋の中はダニやノミであふれていた。寝るときも話をしてはならず,隊列を組むときは直立不動を強いられた。飢えで腰を伸ばせない者がたくさんいたが,日本兵に警棒で殴られた。少しでも不服従があれば,全く日が射さない水牢に入れられた。毎日7,80人が死亡し,病人が出ても治療を受けさせてもらえず,働けなくなった中国人労働者は,まだ息があるうちから万人坑に投げ込まれた。
a14は,洛陽西宮営房で,50人余りの中国人労働者とともに2つの部屋に押し込まれた。そして,この部屋の中で大小便を強いられ,外に出ることも許されず,
毎日生のトウモロコシと汚れた水を与えられるだけで20日余り監禁され,その間に多くの中国人労働者が飢えや病気で死亡した。死体は,建物の近くにあった井戸の中に投げ込まれた。
a12は,山東省済南市新華院で1か月余り苦役に就かされたが,毎日粗末な食事と,まともな衣服もない状態で,日本軍の監視員から暴行を受け続けた。ウ輸送過程における肉体的,精神的苦痛による損害
本件被害者らは,飲料水や食糧も足りないまま,貨物船に詰め込まれて輸送されたため,船内は劣悪な環境となり,著しい肉体的,精神的苦痛を被った。
a6は船底の船倉に押し込められた。船倉内は窒息しそうなほどむせかえっており,食事は,粟の飯を湯呑みほどの器で1膳しか与えられず,水も極めて僅かな量しか与えられなかった。
a8は,鉄鉱石を積載した貨物船に詰め込まれた。
a14も一面の鉱石が積まれた船倉に詰め込まれて,数百人の中国人労働者とともに鉱石の上に座らされた。
⑵強制労働中の日本における損害
被告は,日本に連行された本件被害者らが,各事業場において強制労働に従事させられた際,その健康管理や保護を怠り,劣悪な労働環境を作出し,その結果,本件被害者らに,以下のような損害を与えた。
ア過酷な労働と食料不足による肉体的,精神的苦痛による損害
鹿島組花岡事業場や港運大阪築港事業場における労働実態は,その過酷な労働内容と食料不足のため,本件被害者らにとって苛烈を極め,被告は,かかる労働状況を自ら作出し,そのことを把握しながら何の保護措置も執らず,本件被害者らに,著しい肉体的,精神的苦痛を与えた。
a5,a6は,鹿島組花岡事業場において,暗渠を掘り,堤防を修築する工事につかされ,長時間にわたり,石や砂を運び,あるいは手押し車で数百キログラムもある石や砂を運ばされた。満足な食べ物を与えられなかったばかりか,作業中も日本人補導員から暴行を受け続けた。
a8は,暗渠の改修作業を毎日十三,四時間以上させられながら,食べ物はどんぐり粉と漬け物だけであった。冬になると,寒風大雪の中でも草鞋履きで,凍りつく水に入ったまま作業をすることを強いられた。寒さに耐えきれず,セメント袋を身にまとったが,補導員に見つかると,怒鳴られてセメント袋を捨てさせられた。
a4は,1944年(昭和19年)の冬の間は,セメントの作業をしたり,河床を掘ったり,トロッコを押したりしていたが,積雪量が2メートルの中でも,透けて見えるほど薄い衣服しか与えられず,草鞋で作業したため,凍傷で足は腫れあがった。
a9は,過労と飢えによって倒れたため,病舎に収容されたが,満足な治療も医薬品も与えられず,逆に食事の量を半分に減らされ,補導員から激しく殴打され,ついには死亡した。
港運大阪築港事業場においても,a13は,食べ物にも事欠き,身体にぼろ毛布を羽織り,つま先が露出したぼろ靴を拾って履いていた。冬も一重の服で,板張りのみすぼらしい小屋には火もなく,まるで氷穴の中にいるようであった。海辺で貨物船での荷役を毎日13時間もさせられ,少しでも動作が鈍いと監督に散々殴られた。
a14やa12は,
鉄の塊や石炭を毎日,
数十時間も運ばされながら,
食事は,
朝昼晩それぞれ,マントウ1個と1碗のかゆだけ,おにぎり一つだけなどとごく僅かであった。
被告は,このような過酷な労働を放置したばかりか,むしろそれを助長した。イ暴行虐待拷問を受け続けたことによる肉体的,精神的苦痛による損害本件被害者らは,日常的に,仕事が遅い,言葉が通じない,ミスをしたなどのささいな理由で,補導員から暴行虐待を受け続けた。
中でも,鹿島組花岡事業場における,花岡事件後の暴行虐待はすさまじく,本件被害者らは,帰国後も残存するほどの肉体的,精神的苦痛を被った。a2,a3,a4,a5,a6,a7,a8,a10は花岡事件に参加したが,全員捕らえられ,花岡中山寮共楽館広場で,3日間,飲まず食わずで,砂利石だらけの広場にひざまずかされた。日中は強い日ざしにさらされ,一日目の夜は大雨にさらされ,加えて,暴行虐待が行われた。
a3は,
かかる暴行,
虐待を受けた結果,
1945年
(昭和20年)
7月7日,
死亡した。
a4やa8は,その後も執拗に拷問を受けた。
a4は,警察官から,棍棒で殴りつけられ,両親指をひもで体の後ろで縛られた状態にされてはしごにくくり付けられ,天井に引き上げられて,棒で背中や上肢,下肢を殴られ,胃が一杯に膨れ上がるまでやかんで口から水を注がれ,吐き出すまで腹を踏みつけられるなどの拷問を受けた。
a8も警察署に連行され,肉が焼けるほど脚に炭火を押し付けられたり,手の関節を木の棒で打ち砕かれるという激しい拷問にさらされた。
被告は,このような暴行,拷問及び虐待を禁止すべき立場にあったにもかかわらず,これを放置し,むしろ助長した。
⑶帰国後も継続した後遺症による損害
被告が中国人労働者を強制連行し,保護義務を怠ったことにより生じた上記の肉体的,精神的苦痛は,帰国後も残存して,本件被害者らを苦しめ続けた。a2は,
花岡での苦しみを家族にも話さず,
一人で抱え込んで死亡し,
a5は,

本での苦難と身内が日本兵に殺されていた精神的なショックのため,帰国後,胃潰瘍を患い,精神錯乱にも陥った。
a6は,花岡で罹患した気管支炎,胃潰瘍に苦しんだ。
a7は,手の震えが後遺症として残り,60年以上にわたって,農業に支障が生じた。
a13は,日本での過酷な状況による精神的なショックに加え,体中に疥癬の痕が醜く残ってしまったことから勃起障害となり,帰国後,子ができなかった。a12は,大阪での石炭荷役の影響で肺結核と肺気腫に罹患し,働くことができなくなったほか,家族はその治療費,薬代を調達するために借金を重ねることになった。
⑷戦後の保護義務・救護義務違反,新たな加害による損害被告は,ポツダム宣言を受諾後,本件被害者らが,強制連行による損害を回復できないまま生活に困窮していた際に,何らの補償もせずに救護義務を怠り,本件被害者らに謝罪しないばかりか名誉回復を妨害したことによって,本件被害者らに以下のような損害を与えた。
ア生活困窮による財産的損害
強制連行された本件被害者らは,
皆一家の稼ぎ頭であったため,
長期にわたる連
行により,家族は困窮した。
それにもかかわらず,被告は,ポツダム宣言受諾後も何らの補償もしなかったため,本件被害者らは,帰国しても,その後遺症から十分に働けない,日本に強制連行されたことで裏切り者扱いされ職にも就けないなどの理由で,生活が困窮し,多大な財産的な損害を被った。
a8は,祖国に戻った後,日本に連行されたことを理由にスパイであると疑われ,軍(武装部)においても昇進がないなど苦労を重ねた。
a14は,1960年代に,日本で労工をしていたことが原因で復員軍人鋼鉄工場を解雇され,1967年(昭和42年)頃,
裏切り者として,故郷に帰さ
れた。
a11は,人民解放軍の第四野戦軍に編入され,中国農業銀行に勤務したが,1970年(昭和45年)になると日本に連行されたことを白状しろと問い詰められ,売国奴とつるし上げられ,同銀行を解雇されたため,一家は,生活に困窮することとなった。
イ名誉侵害による精神的損害
被告は,
本件被害者らに謝罪しないばかりか,
俘虜であることを隠蔽し,
契約労
働者であるなどとしたため,
本件被害者らは,
自らの意思で,
日本の事業所で労働
に従事したかのように扱われた。
本件被害者らは,
愛する祖国から敵国に連行され,
侵略する側の生産活動に従事させられたという重大な負い目を持って生活せざるを得なかった上,
上記のとおり裏切り者扱いをされ続け,
勤務先において不当に解
雇されたり,
昇進もままならなかったりするなど,
その名誉ないし名誉感情は侵害
され続けている。
2遺族固有の損害
原告らのうち,
本件被害者らの子ないし孫である者については,
父ないし祖父がある
日突然,
日本に強制連行され,
強制労働の結果死亡したことによる悲しみは著しく,

た,
父ないし祖父が死亡したことで,
それまでの暮らしが没落し一家離散となり,
経済
的にも困窮を極めているのであって,
かかる精神的苦痛及び財産的損害については,

族固有の損害として認められるべきである。
原告A1の一家は,
父a1を失ったことで,
日々の食事にさえ困るほどに生活に困窮
し,
兄とともに方々に物乞いをしたり出稼ぎにいったり,
姉は幼くして嫁がざるを得ず,
一家はばらばらになった。
a3の家庭は,
もともと裕福であったにもかかわらず,
a3の死によって,
一気に生
活に困窮し,
家族にも次々と不幸が訪れ,
生き残ったのはBNと原告A3だけであった。
6損害額並びに謝罪文及び謝罪広告の必要性
⑴損害額
ア以上のような被告の行為によって生じた,
本件被害者らの肉体的,
精神的苦痛,
財産的損害を慰謝料として金額に評価すれば,
一人当たり5000万円を下らず,
原告らのうち本件被害者らの遺族である者については,これを相続分に応じて相続すること,遺族固有の慰謝料請求権も加わることも勘案して,一部請求として以下のとおり請求する。
原告A1,原告A2,原告A3,原告A4,原告A5,原告A6,原告A11,原告A12,原告A15,原告A16,原告A17,原告A18,原告A19一人当たり500万円
原告A7,原告A8,原告A9及び原告A10一人当たり125万円原告A13及び原告A14一人当たり250万円
イまた,
原告らは,
本件訴訟の提起及び追行に当たっては,
原告代理人ら弁護士に
訴訟遂行を依頼せざるを得なかったため,弁護士費用についても,相当因果関係がある損害であり,その額は以下のとおりである。
原告A1,原告A2,原告A3,原告A4,原告A5,原告A6,原告A11,原告A12,原告A15,原告A16,原告A17,原告A18,原告A19一人当たり50万円
原告A7,原告A8,原告A9及び原告A10一人当たり12万5000円原告A13及び原告A14一人当たり25万円
⑵謝罪文及び謝罪広告の必要性
被告の行為によって原告ら及び本件被害者らの名誉が侵害され続けていること,被害の大きさ,
被害の特殊性に鑑み,
原告らの精神的苦痛を慰謝するためには,
被告
の誠意ある謝罪が必須であることから,請求の趣旨のとおりの謝罪文の交付及び謝罪広告の掲示を求める。
第2被告の主張
原告らの主張は争う。
以上

別紙11国家無答責の法理の適否
第1被告の主張
1
大日本帝国憲法下においては国家無答責の法理が基本的法政策として確立し
ていたこと


行政裁判法16条及び旧民法373条の制定において,国家の公権力の行使に係る行為から発生した損害の賠償責任を認める規定が設けられなかったこと
国家無答責の法理とは,国家の公権力の行使に係る行為から発生した損害については,私法である民法の適用はなく,大日本帝国憲法下においては,その他国家の賠償責任を認める実定法の規定がなかったことを根拠とする実体法上の法理である。
すなわち,大日本帝国憲法は,行政裁判制度に関し,行政裁判を司法裁判より分離し,行政訴訟を審理するために司法裁判所とは別に行政裁判所を設けること及びその構成は法律をもって定むべきものとする原則を掲げた(61条)
。そして,1890年(明治23年)6月30日に公布された行政裁判法16条は,
行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セスと規定し,行政裁判
所は国家に対する損害賠償請求訴訟を受理しないものとされていた。このように,国家の公権力の行使に係る行為から発生した損害については,司法裁判所及び行政裁判所のいずれもが受理しないこととされていた。
また,実体法である旧民法においても,制定過程では,ボアソナードの民法草案393条に,
主人及ヒ棟梁,工業及ヒ運送ノ起作人又ハ其他ノ者,公ケ及ヒ私ノ管理所ハ彼レ等ノ僕婢,職工,傭員又ハ使用人ニ因リ引起サレタル損害ノ責ニ任スヘクアル,彼レ等ニ委託セラレテアル所ノ職務ノ執行ニ於テ又ハ其効果ニ於テと定められ,国が私人と同様,民法に基づいて使用者責任を負う旨が規定されていたが,最終的には,同草案393条の国家責任を定めた部分は旧民法373条において削除され,国家の賠償責任は規定されなかった。
このような立法がされた理由は,立法者が公権的活動に対しては民法に基づく国家責任を否定する意思を有していたことによるのであって,行政裁判法と旧民法が公布された1890年(明治23年)の時点で,公権力の行使について国家無答責の法理を採用するという基本的法政策が確立したのである。


現行民法715条は公法上の行為には適用されないものとして制定されたこと
現行民法(明治29年法律第89号)も,国家無答責の法理を前提として制定されたものである。
この点については,現行民法の起草者の一人である梅謙次郎が,現行民法制定後の文献において,立法論としては国の損害賠償責任を規定した方がよいとの見解を述べつつ,現行民法715条(草案723条)の解釈としては,
國ニ付テ何等ノ規定ガナイカラト云ッテ,民715ヲ適用スルコトハ出来ヌ,寧ロ國ニハ不法行為ノ責任ナシト論決セネバナラヌと明確に述べ,同じく起草者の一人である富井政章も,民法制定後の文献において,やはり立法論としては国の損害賠償責任を肯定すべきであるとしつつ,現行民法715条(草案723条)の解釈としては,
官吏ノ加害行為ニ對スル国家ノ責任モ民法715条ニヨリテ規定シ居ルモノナランカ余ハコノ場合ニ適用スヘキ規定ニアラスト思フ,民法ハ此ノ問題ノ決定ヲ行政法規ニ譲ル考ナリシカト思ハル(中略)余ノ解スル所ニヨレハ特別ノ明文アル若干ノ場合ヲ除ク外一般原則トシテハ国家ニ賠償ノ義務ナシト云フ仕組ニナリ居ルト思フと明確に述べているところである。



国家賠償法が国家無答責の法理を前提として制定されたこと

公権力の行使による国家賠償の問題と民法の不法行為責任の問題とは性質が異なること,及び国家賠償法1条は公権力の行使による損害につき国家賠償責任を創設した規定であることについては,1947年(昭和22年)7月16日の第1回国会衆議院司法委員会において,国家賠償法案を審議する際に,CW政府委員により,
從來國家公権力行使についての不法行爲の場合においては,國家は賠償責任がないという理論が判例,学説で大体確立されておりますので,今度憲法の規定によって國家が賠償責任があるというそういう立法をすべきことを憲法で要請されておりますので,すなわちこの法律によって初めて國家が賠償の義務あることを明らかにいたしたものと考えております。旨説明され,明確にされている。民法と国家賠償法の関係について,立法者は,一般法と特別法の関係ではなく,別個の法体系に属するものと考えて,国家賠償法案を作成したのである。そして,CW政府委員は,1947年(昭和22年)7月29日の同国会衆議院司法委員会において,

本法案が國家賠償の一般法になり,さらに特別法があればその特別法によるという建前が5條であります。

旨説明し,国家賠償法が,新たに創設された国家賠償制度における一般法であることも明言している。

また,国家賠償法案の国会への提出は,GHQの認可を経てなされたものであるが,国家賠償法案についてのGHQとの折衝は,1947年(昭和22年)5月から6月にかけて,10回にわたって行われた。そのGHQとの折衝の際に,日本国政府は,①国又は公共団体の公権力の行使による損害については,民法上の責任はない,②国又は公共団体の純然たる私経済活動については,民法の規定で責任を負う,③その中間の場合,即ち,公権力の行使は伴わないが民法が働くか否か疑問の場合は2条で救済するという考えを示した。これに対し,公法私法二元論をとらないアメリカにとって,両者の区別を前提とした日本側の説明は理解に苦しむものであったようであるが,最終的には,日米両法制の基本的構造の相違ということで納得して,公権力の行使による損害について民法上の責任がないという日本国政府の説明を了承している。

以上の審議内容及びGHQとの折衝過程から明らかなように,戦前及び戦後を通じて,公権力の行使による損害については,公法関係の問題として,私法関係を規律する民法の不法行為規定の適用がないことを前提に,戦前は,公権力の行使による損害については,賠償責任を認める一般的規定はなく,原則として賠償責任を認めず,個別の行政分野について,例外的に特別法によって賠償責任を認めるにとどめていた。これに対し,戦後は,国家賠償法の制定により,違法な公権力の行使による損害については,原則として賠償責任を負わせることとしたが,国家賠償法5条により,個別の分野において,合理性がある限り,その例外を設けたり,国家賠償法1条とは異なった要件を設けることを許容した。すなわち,戦前は,公権力の行使という公法関係の分野において,国家賠償責任を認める法律がなかったことがいわば一般法として位置づけられ,戦後は,逆に,一般的に国家賠償責任を認める国家賠償法がいわば一般法として位置づけられることとなったのである。


そして,上記の理解の下,国家賠償法は,附則6項において,

この法律施行前の行為に基づく損害については,なお従前の例による。

と定めている。このなお従前の例によるとの法令用語は,法令を改正又は廃止した場合に,改廃直前の法令を含めた法制度をそのままの状態で適用することを意味するものである。すなわち,国家賠償法施行前の公権力の行使に伴う損害賠償が問題とされる事案については,国家賠償法それ自体の遡及適用を否定するのみならず,それまでに採用されていた国家無答責の法理という法制度がそのまま適用されることにより,国又は地方公共団体が責任を負わないことを明らかにする趣旨である。
この点,国家賠償法案を審議した第1回国会の衆議院本会議(1947年(昭和22年)8月7日開催)において,司法委員長松永義雄は,司法委員会における同法案の審議経過の報告として,

本法案施行前の行為に基き施行後に発生した損害に対する処置いかんとの質疑がなされたのに対し,国または公共団体に賠償責任なしとの政府の答弁でありました。

と述べており,その後本会議で討議が行われ,可決されているところである。この答弁は,国家賠償法施行前の行為に基づき同法施行前に発生した損害について,国又は公共団体が賠償責任を負うことがないことを当然の前提とした上で,国家賠償法の立法者意思として,同法施行前の公権力の行使については,その損害の発生が同法施行前か施行後かにかかわらず,一律に国又は公共団体は賠償責任を負わないとしていることを示し,
従前の例が国家賠償法施行前に適用されていた国家無答責の法理であることを明らかにしている。


小括
以上のとおり,行政裁判法,旧民法,現行民法及び国家賠償法の規定振り及びその立法者意思によれば,大日本帝国憲法下においては,国家の公権力の行使に係る行為から発生した損害については,私法である民法の適用はなく,その他国家の賠償責任を認める実定法の規定も設けなかったことを根拠とする実体法上の法理である国家無答責の法理が基本的法政策として確立していたことは明らかである。

2国家無答責の法理が適用されていたことは判例上も確立していること大日本帝国憲法下において,国家の公権力の行使に係る行為から発生した損害について,民法の適用がなく,国の賠償責任が認められる余地のないことは,大審院及び最高裁の確立した判例でもある(大審院昭和16年判決,最高裁昭和25年判決)

このように,判例は,少なくとも現行民法制定後においては,公権力の行使について,一貫して,法律に特別の規定がない限り民法の不法行為法の適用がない(民法は対等な私人間の法律関係に関する法であり,国と私人との権力的関係に本来適用されるものではない。
)ものとして,国の損害賠償責任を否定してきた
のである。
3
原告らが民法の不法行為規定が適用されると主張する被告の加害行為が公権
力の行使である権力的作用に該当すること


国の権力的作用とは,行為の性質上,
国の統治権に基づく優越的な意思の発動としての強制的・命令的作用国家が個人に対して命令し服従を強制,する作用をいい,それには,法的義務を課す強制のみならず,相手方の意思を抑圧して物理的力を行使することを含むとされている。
原告らが民法の不法行為規定が適用されると主張する被告の加害行為のうち,昭和17年閣議決定及び昭和19年次官会議決定に基づき,
日本の軍隊,憲兵らが,本件被害者らを日本に連行し,鹿島組花岡事業場や大阪の各事業場に引き渡した内務省の官吏などは,事業場における中国人労働者,の処遇をより過酷なものにするよう指示しているといった作為に係る行為は,国家行政の最高意思決定である閣議決定等に基づく戦時下における日本国内の労働力を確保するという政策の遂行として,国の公務員である旧日本軍等によって強制的に行われた拉致,連行行為や,中国人に強制労働を強いている私企業に対する指示といったものであり,行為の性質上,国の主権に基づく権力的作用であることが明らかであるから,民法709条及び715条等が適用される余地はない。
また,原告らは,先行行為に基づく不法行為責任を掲げているが,その実質は,国家賠償法施行前の行為による被害を内容とするものであって,独立した不法行為を構成するものとはいえない。そもそも,上記で述べたとおり,国家賠償法附則6項は,同法施行前の行為に基づき施行後に発生した損害について国は賠償責任を負わないとしているところ,同法施行前の行為によって発生した損害について同法施行後に原状回復の義務を負わせ,その不作為につき同法の適用を認めれば,結局,同法施行前の行為について賠償責任を負わせることになるから,同法附則6項の趣旨に反するのであって,かかる点からも,原告らが主張するような作為義務を観念する余地はない。⑵

これに対し,原告らは,
強制連行・強制労働の契機となった昭和17年閣議決定及び昭和19年次官会議決定は,日本の私企業の労働力確保に関するものであり,私経済作用の性質を有しているから,官吏らによる加害行為による損害については,民法が適用される。旨主張する。しかしながら,原告らの上記主張は,国の公務員のいかなる行為が,本件被害者らとの関係においてどのような意味で私経済作用の性質を有していると主張するものか具体的な主張がないため,主張自体失当であるというほかない。
なお,原告らのいう日本の私企業の労働力確保について,私企業で本件被害者らが労働するという点を私人間の雇用関係として私経済的な作用ととらえる余地があるとしても,国と本件被害者らとの間には雇用又はこれに準じるような法律関係が存在するわけではないから,国との関係についてまで直ちに私経済作用と認めることはできない。また,上記のとおり,原告らが民法の不法行為規定が適用されると主張する被告の加害行為のうち戦時中の作為に係る行為は,原告らの主張を前提とすれば,行為の性質上,当然に権力的作用と認められるものであるところ,これが私企業の労働力確保を目的とするものであったとしても,あるいは,仮に,その行為の一部分に私経済的な面を認め得る余地があるとしても,当該行為の強制的・命令的作用が否定されない限り,権力的作用であることが否定されるものではない。したがって,いずれにしても,民法の不法行為規定が適用されるとの原告らの前記主張は失当である。

第2原告らの主張
1被告は,行政裁判所法16条及び旧民法373条の制定において,国家の公権力の行使に係る行為から発生した損害の賠償責任を認める規定が設けられず,現行民法715条及び国家賠償法も,国家無答責の法理を前提として制定されたと主張する。
しかし,大日本帝国憲法は国家賠償を否定する規定を置いておらず,行政裁判所法16条は,行政処分に対する不服の訴訟はもちろん,行政処分に起因する損害賠償請求事件や損失補償請求事件,すなわち行政裁判法の規定に基づいて行政裁判所の管轄事件とすべき訴訟を司法裁判所の管轄外としたものにすぎず,国家無答責の法理を当然の前提として,行政裁判所の損害賠償請求事件に係る事物管轄の範囲を定めたものではない。また,裁判所構成法や,旧民法373条の立法過程においても,公権力の行使に伴う賠償責任が否定されてはいなかった。そして,現行民法及び国家賠償法も,その立法過程に照らし,国家無答責の法理を前提として制定されたものとはいえない。
また被告は,大日本帝国憲法下において,国家の公権力の行使に係る行為から発生した損害について,民法の適用がなく,国の賠償責任が認められる余地のないことは,大審院及び最高裁の確立した判例であると主張する。
しかし,
大審院が国家無答責の法理について一貫した立場をとっていたなどという事実はなく,その内容は動揺しており,法源性は認められない。そして,戦前の立法者意思,裁判例の変遷,学説状況等から見ると,
国家無答責の法理な
るものは,法理論上は極めて脆弱なもので,常に変容し得る可能性を秘めたものであったのであり,戦前の法令の解釈をし直し,究極的には個人の幸福追求権の尊重(憲法13条,民法2条)という価値原理に則って法令の解釈適用を行わなければならない現代において,これを堅持する必要は全くない。
このように,国家無答責の法理は,法令ではないことはもちろんのこと,実定法上の根拠を持つ法理でもなく,判例法理にすぎないから,日本国憲法を前提とする現在の価値観により,
国家無答責の法理の判例法理としての妥当性は否定さ
れるべきである。
2被告の加害行為が公権力の行使である権力的作用に該当しないこと仮に国家無答責の法理を適用する余地があるとしても,本件における被告の加害行為は,公権力の行使である権力的作用には当たらず,国家無答責の法理は適用されない。
公権力の行使
国の権力的作用
に当たるためには,
以下の3つの要件が必
要である。
第1に,
加害行為が実質的に強制力ないし権力の行使といえる性質のものであることが必要である。すなわち,法行為であれば相手方である私人の権利・自由を一方的に制限し,事実行為であれば身体・財産に強制を加える性質のものでなければならない。
第2に,
適法に行使すれば適法な公権力の行使と評価されるような授権が与えられていることが必要である。
そもそも,
適法に公権力を行使する権限
が与え
られてこそ,初めて違法に公権力を行使する権限があり得るのである。それに対して,
適法に公権力を行使する権限なくして行われた公務員の実力行使
は,単なる裸の暴力にすぎず,国家無答責の法理が妥当する前提となるべき公権力の行使に当たらない。
第3に,
加害行為が国の統治権ないし主権に服する者に対する行為であることが必要である。これは,日本国の主権ないし統治権が,他国ないし他国の国民に対して及ばないことから導かれる当然の要件である。
原告らが民法の不法行為規定が適用されると主張する被告の加害行為は,いずれも,
第1の要件は充足するものの,
第2及び第3の要件を充足していないから,
国家無答責の法理が適用されず,民法の不法行為規定が適用される。以上

別紙12除斥期間による請求権の消滅の成否
第1被告の主張
1総論
仮に,中華民国民法(別紙7)
,不法行為(別紙8)又は国家賠償法(別紙9)
に基づく損害賠償請求権が発生したとしても,原告らの主張する被告の加害行為のうち,先行行為に基づく保護義務違反以外の行為は,民法724条後段の除斥期間の経過により,その損害賠償請求権は法律上消滅している。
すなわち,原告らが主張する加害行為のうち,連行政策を立案した上で,本件被害者らを中国において拉致し,連行した行為,及び,日本に連行された本件被害者らが,各企業において強制労働に従事させられる際,劣悪な労働環境を作出した行為は,戦前における行為であり,名誉毀損等(国家賠償法)については,原告らが指摘する国会の答弁ないし被告の戦前の違法な国家政策が実施されてから20年以上経過してから権利主張をしたものであるから,民法724条後段の除斥期間の経過により,その損害賠償請求権は消滅している。なお,先行行為に基づく保護義務違反については,独立した法的主張と解する余地はない。2除斥期間の適用制限がないこと


除斥期間の適用が制限されるためには,①時効の停止等その根拠となる規定があり,かつ,②除斥期間を適用することが著しく正義・公平に反する事情があるという2つの要素が必要である。

⑵ア

①につき,本件の事案においては,法定代理人の不存在や相続人未確定等による民法上の時効の停止(民法158条,160条等)のような,除斥期間の適用を制限する実体法上の規定はない。


この点につき原告らは,刑訴法255条が根拠条文になると主張する。刑訴法255条が,
㋐犯人が国外に逃亡している場合又は㋑逃げ隠れてい
るため有効に起訴状の謄本の送達若しくは略式命令の告知ができなかった場合において,公訴時効が停止する旨を規定している趣旨は,㋐の場合については,
起訴状謄本の送達が困難であること及び犯人が国外にいる場合に捜査権が及ばないことにあるとされ,㋑の場合については,訴追を免れるために逃げ隠れしている者に時効の利益を与えるのは不合理であるとの趣旨であるとされている。
本件においては,原告らが主張する被告の加害行為(中国における拉致・連行行為,強制労働時における保護義務違反行為及び積極的加害行為,戦後における救護義務違反行為及び積極的加害行為)について,原告らが被告を相手方として損害賠償訴訟を提起するに当たり,訴状送達が困難であったり,訴訟提起のための資料の収集が不可能になっていたり,被告が訴訟提起を免れるために逃げ隠れしていたという事情はない。
原告らは,原告らが一民間人であるにすぎないから,提訴が困難であることも根拠として,
刑訴法255条の法意が本件に妥当すると主張しているも
のと解される。しかし,同条は,被訴追者が国外にいるとか,被訴追者が逃げ隠れしていることなど,飽くまで被訴追者側の事情によって起訴等が困難になる場合について公訴時効の停止を認める趣旨の規定なのであって,被訴追者側の事情とは関係がない訴追者側の属性に基づいて公訴時効の停止を認めるものではない。よって,一民間人にすぎないという原告側の属性は,刑訴法255条の法意が本件に妥当するか否かに関して影響するものではない。
さらに,原告らは,被告が組織的に事実の隠滅隠蔽を図ったことからしても,刑訴法255条の法意が本件に妥当すると主張する。原告らがいかなる意味において被告が組織的に事実の証拠隠滅を図ったと主張するのかは明確でないが,
仮に原告らの主張する戦後の政府答弁を指すのであるとしても,
上記答弁は,答弁当時の調査状況等に基づいてなされたものであって,殊更虚偽が述べられたというものではない。
そうすると,本件について,刑訴法255条が上記㋐及び㋑の場合について公訴時効の停止を規定している趣旨が妥当するとはいえず,同条は,除斥期間の適用を制限することの根拠にはならない。


②についてみても,原告らが主張する内容は,加害行為の悪質性を強調するのみで,
最高裁平成10年判決や最高裁平成21年判決の事案におけるような,被害者の権利行使が客観的に不可能な状況があり,かつ,それが加害者の不法行為に起因するという事情はない。
すなわち,原告らは,加害行為の内容として,連行政策を立案した上で,本件被害者らを中国において拉致し,
連行を行った行為
(加害行為①)日本に連

行された本件被害者らが,各企業において強制労働に従事させられる際,本件被害者らの健康管理や保護を怠った行為(加害行為②),日本に連行された本
件被害者らが,各企業において強制労働に従事させられる際,劣悪な労働環境を作出した行為(加害行為③)
,戦後,本件被害者ら及び原告らが,強制連行に
よる損害を回復できないまま生活に困窮していた際に,救護義務を怠った行為(加害行為④)
,戦後,中国人労働者らの被害の事実を積極的に隠蔽する答弁
を行い,
本件被害者ら及び原告らの名誉を毀損し,
名誉回復を妨害した行為
(加
害行為⑤)を主張するものの,これらは,原告らの視点で加害行為の悪質性を強調するものにすぎず,
これらの行為に起因して損害賠償請求権の行使が客観
的に不可能になったという事情ではない。
原告らは,権利行使の可能性がなかった事情をるる主張するが,本件被害者ら及び原告らにおいて,
被告による加害行為及びこれによる被害を認識し得た
以上,損害賠償請求をすることは可能であり,日本の裁判所への提訴は日本への渡航を法的要件とするものではないし,除斥期間の性質とその法意に照らせば,本件被害者ら及び原告らの経済状況,あるいは中国国内における政策的な事情はもとより,国交正常化がなされていなかった等の事情についても,除斥期間の進行を妨げる理由になるものではない。
この点,原告らは,被告が殺人や虐待を覆い隠す内容の外務省報告書を作成し,その後,これを焼却した上,国会において虚偽答弁をしたなどとして,被告は,加害者の立場でありながら,被害者が,事実を知り得ない状況を殊更に作出し,そのために被害者は権利行使をすることができず,除斥期間が経過してしまったと主張するが,仮にこれらの事情があったとしても,本件被害者ら及び原告らは,
その主張する加害行為及びこれによる被害を認識し得たこと
には変わりはなく,原告らの当該主張は,結局のところ,法的に損害賠償請求が可能であることを前提にして,証拠資料の収集等の訴訟提起の準備が整わなかったことを述べるものにすぎない。
よって,除斥期間を適用することが,著しく正義・公平に反するとはいえない。
第2原告らの主張
被告の除斥期間の主張は争う。
原告らは,被告の加害行為を,連行政策を立案した上で,本件被害者らを中国において拉致し,
連行を行った行為
(加害行為①)日本に連行された本件被害者

らが,各企業において強制労働に従事させられる際,本件被害者らの健康管理や保護を怠った行為
(加害行為②)日本に連行された本件被害者らが,,
各企業にお
いて強制労働に従事させられる際,
劣悪な労働環境を作出した行為
(加害行為③)

戦後,本件被害者ら若しくはその遺族である原告らが,強制連行による損害を回復できないまま生活に困窮していた際に,
救護義務を行った行為
(加害行為④)

戦後,中国人労働者らの被害の事実を積極的に隠蔽する答弁を行い,原告ら及び本件被害者らの名誉を毀損し,名誉回復を妨害した行為(加害行為⑤)に分けて主張しているが,いずれについても除斥期間が適用される余地はない。1加害行為①について
加害行為①については,法例11条1項の不法行為に該当するから,行為地法主義の原則により,当時の中国法(中華民国民法184条1項前段,188条1項前段,195条1項)が適用される。
したがって,除斥期間を定めた民法724条後段の適用はない。
2加害行為①,②,③,⑤について⑴

総論
加害行為②,③,⑤については,民法724条後段の除斥期間の適用は制限されるべきである。また,仮に,上記①の行為について,法例11条3項によって,民法724条後段が累積適用されるとしても,除斥期間の適用は制限されるべきである。
すなわち,民法724条後段は,法律関係を速やかに確定し法的安定性を維持するという公益性の観点から,
不法行為の時から20年で不法行為に基
づく損害賠償請求権が消滅するとして,除斥期間を定めたものである。したがって,著しく正義・公平に反し,条理にもとるような特段の事情がある場合には,時の経過の一事によって権利を消滅させる公益性に乏しいから,除斥期間の適用を制限しなければならない。そして,特段の事情の判断に当たっては,加害行為の悪質性,
被害の重大性,
除斥期間経過前の権利行使の客観的可能性,
その他加害者に損害賠償義務を免れさせることが相当でないような事情の有無を検討するべきである。



加害行為の悪質性,被害の重大性
本件は,被告による中国に対する全面的侵略戦争下において行われた,大規模な残虐非道な中国人の強制連行であって,何の罪もない本件被害者らを強制的に日本国内に移入させ,過酷な労働に従事させ,賃金は全く支払わず,食事も満足に与えず,暴力虐待を繰り返し,人間としての尊厳を踏みにじったものであり,重大な国際法違反である。
また,加害行為⑤についても,中国人労働者は,故郷である中国において,戦後,
日本軍に自発的に協力した

日本軍のスパイ
として差別を受ける対
象になっており,被告の政府答弁の内容は,かかる差別を助長し,本件被害者らの生活の立て直しを著しく困難にさせた。本件被害者らの中には,戦後昇進等において差別を受け,自殺をした者さえ存在するのである。
かかる加害行為の悪質性を無視して,原告らの請求を,除斥期間を理由に切り捨てることは,著しく正義,公平の原則に反する。


被告による隠蔽行為
既述のとおり,被告は,強制連行という悪質極まりない行為によって,原告らに多大な被害を与えてきたのであり,かかる先行行為をした被告には,真実を解明し,被害者に賠償する義務がある。
ところが,被告は,戦犯事案として追及されることに備えるため,実情調査を開始しながら,
中国人労働者に対する殺人や虐待を覆い隠す内容の外務省報
告書を作成した。
そして,
戦犯事案として追及されるおそれがなくなるや否や,
関係者に命じて外務省報告書及び事業場報告書を焼却させた。
そして,国会においては,1954年(昭和29年)9月6日以降,強制連行・強制労働の事実はなかった,中国人労働者は自由な意思による雇用契約に基づくものであったなどという虚偽の政府答弁を繰り返し,事実の解明を妨害し,事実を隠蔽した。
このように,被告は,加害者の立場でありながら,被害者が,事実を知り得ない状況を殊更に作出し,そのために被害者は権利行使をすることができず,除斥期間が経過してしまったのであり,かかる場合にも,被害者は一切の権利行使をすることが許されず,原因を作った加害者は損害賠償義務を免れるということは,著しく正義・公平の理念に反する。



権利行使の客観的可能性がなかったこと
強制連行・強制労働の対象となった中国人労働者は,
敵国のために働いた者という扱いを受け,名乗りを上げるのが困難な状況であった。また,日本国と中華人民共和国は,1972年(昭和47年)に発出された日中共同声明によって国交が正常化し,1978年(昭和53年)の日中平和友好条約により,正常な国家関係の基礎が確立された。もっとも,日中共同声明の中において日本国に対する戦争賠償の請求を放棄するとされていたことから,中国人(中華人民共和国の国民。以下同じ。
)にとっては,被告に対し
て損害賠償請求をすることができるのかが明らかではなかった。
中華人民共和国の一般市民に海外渡航の道が開かれたのは,1986年(昭和61年)2月に公民出入国管理法が施行されてからである。しかも,旅券の発給を受けるためには,旅行に必要な外貨費用証明が要件となっており,原告ら及び本件被害者らにとって,高額の渡航費用は負担できなかった。また,中国政府の旅券の発給を受けたとしても,日本国政府が入国査証を発給しなければ,日本に入国することはできず,原告ら及び本件被害者らの経済状況では到底不可能であった。
公民出入国管理法の施行後も,中華人民共和国は,かつて,国家主席が対日関係に配慮した発言をしていたため,民間の市民運動や政治的活動の許されない社会状況が続き,中国人労働者が,中華人民共和国政府の意向を無視して,日本に渡航し,
訴訟を起こすなどして権利行使をすることは,
不可能であった。
その後,銭中国副首相兼外交部長が,1995年(平成7年)3月,日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって,個人の賠償は含まれないと発言したことにより,
初めて,
中国人が被告に損害賠償請求を行うことが政治的,
社会的に可能となった。さらに,1995年(平成7年)頃から,強制連行の被害者の訴訟支援を行う日本の弁護士もようやく現れたのであり,原告らによる権利行使が可能になったのは,日本の弁護士と出会った時期のことである。かかる被害者が置かれた状況を無視し,時の経過を理由にして一切の権利行使をすることが許されず,加害者は損害賠償義務を免れるということは,著しく正義・公平の理念に反する。


まとめ
以上のように,
原告らの損害賠償請求権が除斥期間の経過によって消滅した
と解することは,著しく正義・公平の理念に反するものであることが明白であって,除斥期間の適用は制限されるべきである。
3加害行為④
加害行為④は,継続的な不作為であり,本件被害者らが帰国し,強制連行を脱した時に開始しており,現在でも,終了していない。
すなわち,被告は,戦時中,強制連行という悪質極まりない行為によって,本件被害者らに多大な被害を与えてきたのであり,かかる先行行為をした被告には,真実を明らかにし,本件被害者らが被った損害を賠償する義務がある。ところが,被告は,戦犯事案として追及されることに備えるため,実情調査を開始しながら,
殺人や虐待を覆い隠す内容で,
外務省報告書を作成した。
そして,
被告は,戦犯追及のおそれがなくなるや否や,強制連行の関係者に命じて,外務省報告書及び事業場報告書を焼却させた。国会においては,強制連行・強制労働の事実はなかったなどと,虚偽の答弁を繰り返し,事実の解明を妨害し,事実を隠蔽した。さらに,被告は,現在に至るまでの間,加害企業に対して何ら刑事制裁を加えなかったばかりか,手厚い国家補償までなしている。
かかる被告の行為自体が,真実を明らかにし,本件被害者らが被った損害を賠償する義務に違反しているのであって,本件被害者らに対して,新たな違法行為を構成するのであって,
被告の違法行為は現在まで継続しているというべきであ
る。
継続的な不作為という違法行為の特質,違法行為終了時において,人生の被害を全体として評価しなければ,損害額の適正な算定ができないという本件における損害の特質からは,除斥期間の起算点である不法行為の時は,違法行為終了時と解するべきであって,除斥期間の規定により,損害賠償請求権は消滅しない。
したがって,加害行為④は終了しておらず,除斥期間の規定は適用されない。4被告の反論について


被告は,除斥期間の適用が制限されるためには,時効の停止等その他根拠となる規定があり,除斥期間を適用することが著しく正義・公平に反する事情があるという2つの要素が必要であると反論する。


そもそも,除斥期間の適用が制限されるためには,時効の停止等その他根拠となる規定が必要とはいえないが,仮に必要であるとしても,本件においては刑事訴訟法255条の規定が根拠規定となる。
刑事訴訟法255条は

犯人が国外にいる場合又は犯人が逃げ隠れているため有効に起訴状の謄本の送達若しくは略式命令の告知が出来なかった場合には,時効は,その国外にいる期間又は逃げ隠れている期間はその進行を停止する。として,

権利行使が困難でその期待可能性がない期間は,
時効は進行しな
いことを定めている。これは,犯人が国外に逃亡している又は逃げ隠れしているために有効に公訴提起等ができないことから,国外にいる間又は逃げ隠れしている間は公訴時効の進行自体を停止することを定めているものである。本件は,被告という国家が犯した行為の責任を追及する訴訟であり,原告らが被告を訴追する立場にあるといえる。日本国外にいる中国人の原告らが,被告を相手にその責任を追及する裁判を起こすのであるから,刑事訴訟法の時効の停止の規定の趣旨は,本件においても共通の基盤を有する。のみならず,刑事訴訟法は,国家権力である捜査機関,訴追機関がその強力な権限を駆使してもなお,犯人が国外にいる場合や逃げ隠れている場合は,公訴提起等の期待可能性がないとして時効が停止すると規定しているのである。本件では,証拠を収集し提訴するのは,
国家権力とはおよそ無縁の一民間人である個人の中国人
にすぎない。
しかも訴える相手は組織的に事実の隠滅隠蔽を図った被告という
外国の国家権力である。
原告ら及び本件被害者らの権利行使が不可能であった
ことは,
刑事訴訟法255条が予定する起訴の困難性,
不可能性の比ではない。
同条の法意によって,本件において除斥期間の適用は制限されるべきである。以上

別紙13請求権放棄による請求権の消滅の成否
第1被告の主張
1請求権の放棄により法的義務が消滅していること


別紙6ないし9,11及び12記載のとおり,原告らの請求にはいずれも法的根拠がないが,仮に原告らの主張する被告の加害行為によって,本件被害者ら及び原告らが被告に対し損害賠償請求権等を取得したと解する余地があるとしても,いわゆる請求権放棄の抗弁により,原告らの請求は棄却されるほかない。

サン・フランシスコ平和条約について
日本国は,1951年(昭和26年)9月8日,サン・フランシスコ市において,連合国48か国との間でサン・フランシスコ平和条約を締結した。サン・フランシスコ平和条約は,第二次世界大戦後における日本国の戦後処理の骨格を定めたものであるところ,同条約の14条(b)において,戦争賠償
(講和に際し敗戦国が戦勝国に対して提供する金銭その他の給付をいう。)
及び請求権の処理等に関し,
この条約に別段の定がある場合を除き,連合国は,連合国のすべての賠償請求権,戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する。と規定され,明文上,
同条約の
当事国政府の有する日本国及びその国民に対する請求権のみならず,当事国の国民の有する日本国及びその国民に対する同条項所定の請求権も含めて放棄することが明示的に規定されている。
ここにいう請求権とは,サン・フランシスコ平和条約14条(b)が戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた請求権と定めているとおり,戦争の遂行中に生じた請求権に限られるものではない。また,ここにいう請求権の放棄とは,当該請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせることを意味するものと解される。
サン・フランシスコ平和条約の締結後,日本国政府と同条約の当事国政府又は同条約の当事国とならなかった諸国又は地域との間で二国間の平和条約及びその他関連する条約等を締結するなどして,戦争賠償及び請求権の処理を行ってきたところであり,これらの諸国又は地域との間の条約等においても,
相手国及びその国民の日本国又はその国民に対する請求権の放棄が明示的に規定されている。

日華平和条約及び日中共同声明について
中華民国は,上記サン・フランシスコ平和条約の当事国ではなく,日中両国及びその国民の間の戦争賠償及び財産並びに請求権の処理等については,二国間条約において規定されている。
すなわち,日本国政府は,1952年(昭和27年)4月28日,中華民国政府を,中国を代表する正統政府であるとして,国家としての中国との間で日華平和条約に署名した。日華平和条約11条は,

この条約及びこれを補足する文書に別段の定がある場合を除く外,日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は,サン・フランシスコ条約の相当規定に従って解決するものとする。

と規定しているところ,この規定にいうサン・フランシスコ条約の相当規定には,14条(b)及び19条(a)も含まれることから,この規定に従って,日本国及びその国民と中国及びその国民との間の相互の請求権は,サン・フランシスコ平和条約14条(a)1に基づく賠償請求権と併せて,同条約14条(b)及び19条(a)の規定により,全てが放棄されたことになる。
その上,日本国政府は,いわゆる日中国交正常化交渉を経て,1972年(昭和47年)9月29日,中華人民共和国政府とともに日中共同声明に署名した。
日中共同声明5項においては,

中華人民共和国政府は,中日両国国民の友好のために,日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。

と述べられている。日中両国は,互いの立場の違いを十分理解した上で,実体としてこの問題の完全かつ最終的な解決を図るべく,このような規定ぶりにつき一致したものであり,その結果は日華平和条約による処理と同じであることを意図したものである。すなわち,戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた中国及びその国民の請求権は,法的には前述のとおり,日華平和条約により,国によって放棄されているというのが日本国の立場であり,
このような立場は日中共同声明によって変更されている
わけではない。
以上に述べたところによれば,このような中国国民の請求権については,サン・フランシスコ平和条約の当事国たる連合国の国民の請求権と同様,裁判上訴求する権能を失ったというべきであり,その請求は棄却されるべきである。


しかるところ,原告らの請求のうち,戦前の被告の行為を直接の原因とする請求はもとより,
戦後の名誉毀損行為や保護義務違反を原因とする請求につい
ても,
その実質は戦前の被告の加害行為によって生じたとする損害ないし被害状態を前提として,
これを増加させ又はその回復を懈怠したというものである
から,いずれについても,
戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた(中略)請求権に該当することは明らかである。したがって,
原告らの請求権は全体として
放棄
されており,
これにより,
原告らは裁判上訴求する権能を失ったというべきであるから,原告らの裁判上の請求が認容される余地はない。

2原告らの主張が失当であること


原告らは,いわゆる請求権放棄に関する被告の前記主張のみならず,最高裁平成19年判決に対しても,るる反論する。
しかしながら,日本国である被告が,日華平和条約11条,サン・フランシスコ平和条約14条(b)及び日中共同声明5項を踏まえた請求権放棄の抗弁を主張した場合に,
日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の日本国又はその国民若しくは法人に対する請求権に基づく裁判上の請求が棄却を免れないとの最高裁平成19年判決の法理は,確立した判例であって,本件における原告らの損害賠償請求等がいかなる理由によっても認容される余地がないことは明らかである。
したがって,原告らの主張は失当である。


アクセス権侵害の主張は理由がないこと
原告らは,B規約2条3項が効果的な救済を受ける権利を保証するものとし,
B規約14条が
公正な裁判を受ける権利
を保証するものとした上で,
両者を併せて
司法へのアクセス権
と構成し,
最高裁平成19年判決がサン・
フランシスコ平和条約の枠組みを日中共同声明にあてはめて原告らの裁判上訴求する権能を喪失させる判断をしたことは,
司法へのアクセス権を侵害
する重大な人権侵害である旨主張する。
しかし,日本国は,日本国憲法の秩序においてB規約を批准したものであって,B規約2条3項や14条の規定が存在したとしても,それらの規定が保障する内容は,
裁判を受ける権利を保障した憲法32条において十分保証されて
いる。
そして,最高裁平成19年判決は,日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の請求権について,裁判上請求する権能を失ったというにすぎず,原告らが裁判を受けること自体については何ら否定されていないのであるから,同判決の判断は,
憲法32条の保障する裁判を受ける権利を侵害するものでは
ないし,B規約2条3項や14条の規定にも違反しない。
したがって,
最高裁平成19年判決が原告らの裁判上訴求する権能を失った
と判断したことは,
司法へのアクセス権を侵害する重大な人権侵害である
と主張する原告らの主張はおよそ理由がない。

第2原告らの主張
被告の請求権放棄の主張は争う。請求権放棄の抗弁を認めた最高裁平成19年判決の判断には誤りがある。
1条約解釈の基準と日中共同声明5項の解釈について
条約の解釈は,ウィーン条約法条約がその定めを置いており,文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い,誠実に解釈し(同条約31条1項)
,これにより得られた意味を確認ないし決定するため,条
約の準備作業及び条約締結の際の事情に依拠することになる(同条約32条)。
また本件は,
中国人労働者及びその遺族による戦争遂行過程における重大な違法行為を理由とする損害賠償請求権に関する裁判であるから,これに加え,人権保護の国際基準や,戦争責任,戦後賠償に関する国際法の発展と判断基準にも依拠する必要がある。


文言解釈
日中共同声明5項は,
中華人民共和国政府は,中日両国国民の友好のために,日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言すると規定しているが,放棄の対象となる請求の主体が明示されておらず,国家間のいわゆる戦争賠償のほかに請求権の処理を含む趣旨かどうか,また,請求権の趣旨を含むとしても,中華人民共和国の国民が個人として有する請求権の放棄を含む趣旨かどうかが必ずしも明らかではない。
したがって,文言解釈によった場合,日中共同声明5項により個人の損害賠償請求権が放棄されたと解釈することはできない。


国家の対人主権に関する不当な拡大解釈
最高裁平成19年判決は,
国家は,
戦争の終結に伴う講和条約の締結に際し,

対人主権に基づき,個人の請求権を含む請求権の処理を行い得ると判示する。しかし,一般論として国家は対人主権に基づく個人の損害賠償請求権の放棄ができるとしても,人権保護の国際法整備・発展に照らすと,明文にない個人の権利制限を導く拡大解釈はいかなるものも許されるものではなく,上記判示は誤りである。


日中共同声明の発出に至る過程及び発出後の中華人民共和国の対応ア
日中共同声明の発出に至る過程における日本国と中華人民共和国におけるやりとりは,以下のとおりである。
1972年(昭和47年)7月29日,周恩来国務院総理は,訪中した竹入義勝公明党委員長と会談し,共同声明に関する中国側の草案を示した。その第7項には,
中日両国人民の友誼のため,中華人民共和国政府は,日本国に対する戦争賠償の請求権を放棄すると記載されていた。1972年(昭和47年)9月26日午前,北京で行われた姫鵬飛外交部長と大平正芳外相との第1回日中外相会談で,日本側の共同声明に関する草案が示され,
その第7項には,

中華人民共和国政府は,日中両国人民の友好のため,日本国に対し,両国間の戦争に関連したいかなる賠償の請求も行わないことを宣言する。

と記載されていた。また同会談で,
高島益郎条約局長が共同声明について日本側案の対中説
明を行い,次のように発言した。

賠償の問題に関する第7項は,本来わが方提案すべき性質の事項ではないので,括弧内に含めてある。その内容は,中国側の「大綱

第7項とその趣旨において変わりがないが,若干の表現上の修正が行われている。すなわち,日本政府は,わが国に対して賠償を求めないとの中華人民共和国政府の(2字欠落)を率直に評価するものであるが,他方,第1項の戦争状態終結の問題と全く同様に,日本が台湾との間に結んだ平和条約が当初から無効であったことを明白に意味する結果となるような表現が共同声明の中で用いられることは同意できない。日本側提案のような法律的ではない表現であれば,日中双方の基本的立場を害することなく,問題を処理しうると考えるので,この点について中国側の配慮を期待したい。」
1972年(昭和47年)9月26日,北京で行われた周恩来国務院総理と田中角栄首相との第1回日中首脳会談で,周総理は高島発言に対して,次のように反論した。
……蒋が賠償を放棄したから,中国はこれを放棄する必要がないという外務省の考え方を聞いて驚いた。蒋が台湾に逃げていった後で,しかも桑港条約の後で,日本に賠償放棄を行った。他人のもので,自分の面子を立てることはできない。戦争の損害は大陸が受けたものである。我々は賠償の苦しみを知っている。この苦しみを日本人民になめさせたくない。……日中両国人民の友好のために,賠償放棄を考えた。しかし,蒋介石が放棄したから,もういいのだという考え方は我々には受け入れられない。これは我々に対する侮辱である。……1972年(昭和47年)9月27日,北京で行われた第3回日中外相会談で,
両外相は次のように日中共同声明草案5項に対する確認を行った。大平大臣

賠償請求については中国側の案を受け入れることが出来る。従って,賠償の部分については,『中華人民共和国政府は,日中両国人民の友好のため日本国に対し戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。』との表現を採ると理解してよいか。姫外交部長

その通りである。



日中共同声明発出後における中華人民共和国政府の対応は以下のとおりである。
1992年(平成4年)4月1日,江沢民中国共産党総書記兼国家主席は,訪日前に,日本人記者団のインタビューに対して次のように答えている。
日本軍国主義が起こした中国侵略戦争は中国人民に巨大な損害を与えた。戦争が残したいくつかの問題に関して,われわれは一貫して事実に基づいて真実を求める,厳粛に対処するという原則を主張し,相互に協議してこれらの問題について条理にかなう形で妥当に解決すべきだ,と主張してきた。このようにすることが,われわれ両国の友好協力,共同発展及び両国人民の友好増進に有利である。戦争賠償問題に関しては,中国政府はすでに1972年に発表した『中日共同声明』で自らの立場を明らかに述べており,この立場は変わらない。同発言は,読売新聞が報道したように,中国当局として民間賠償要求の動きを黙認する考えを示唆している。
1995年(平成7年)3月7日,銭其琛中国副首相兼外交部長は,全国人民代表大会の台湾省分科会で,劉彩品代表の質問に対して,次のように答えた。
1972年『中日共同声明』で放棄したのは国家間の賠償であり,中には個人の賠償請求は含まれていない。強制連行強制労働の被害者が日本の企業へ賠償を求めることについて,中国政府は干渉も阻止もしない態度である。1995年(平成7年)5月3日,陳健中国外交部新聞司長は記者のインタビューに対して,次のように答えた。
賠償問題はすでに解決している。この問題に関するわれわれの立場に変化はない。もちろん日本の侵略戦争はいまだ問題を残しており,これらの問題は今に至っても関係する中国人に精神的に損害を残している。これらの問題について日本側は真剣に対応し,善処し,必要なことを行うよう希望する。朝日新聞はこれに対して,『民間賠償が必要』中国外務省立場変え踏み込む
という見出しで,
中国はこれまで,国家間の賠償問題は決着しており,民間賠償については,基本的には日本政府と中国国民の関係であるとの,第三者的な立場に立っていた。今回の発言は,対日民間賠償に対する中国政府の立場の変化を示した。と報道している。日中共同声明5項には民間賠償を含まないという中国政府の立場は,前述のように1990年代に既に表明され,かつこの立場を基礎にして,民間賠償要求運動を容認または支持をするようになっている。
2005年(平成17年)7月29日,中国法律援助基金会のもとで,中国民間対日賠償請求法律援助専用基金が設立された。同基金は中国民間対日賠償請求法律援助活動に専用し,中国人戦争被害者の権利救済の手助けを目的とするものである。
2007年(平成19年)4月26日,劉健超中国外交部報道官は定例の記者会見で記者のインタビューに対して,次のように答えた。
『中日共同声明』は中日両国政府が調印した厳粛な政治外交文書であり,戦後の中日関係の回復と発展の政治的基礎を成しており,どちら側も文書で述べられた重要な原則と事項について,司法解釈を含め,一方的に解釈を行うべきではない。日本の裁判所が明日下そうとする判決について,日本側が上述のような原則に従って関連する問題を処理するようわれわれは求めている。強制連行・強制労働は,日本軍国主義が中国侵略中に犯した重大な犯罪行為である。日本政府は,誠実な姿勢で責任を負い,同問題を真剣に対処しかつ妥当に処理しなければならない。最高裁平成19年判決があった当日,劉報道官は次のように同判決を非難した。
『中日共同声明』で日本への賠償請求権を放棄したのは,両国人民の友好と共存に着眼して行った政治判断である。中国側が再三にわたって行った厳正な申し入れを顧みず,この条項を恣意的に解釈した日本最高裁判所の行為に我々は強く反対する。日本最高裁判所が『中日共同声明』について行った解釈は違法なものであり,無効である。中国側の関心に真剣に対処し,この問題を善処するよう我々は日本政府に求めている。日本は中国侵略中に,中国国民を強制連行し,奴隷のように扱った。これは日本軍国主義が中国人民に対して犯した重大な犯罪行為であり,かつ今も妥当に処理されていない現存している重大な人権問題でもある。中国側は既に,歴史に責任を負う姿勢で同問題を善処するよう日本側に求めている。2008年(平成20年)9月18日,姜瑜中国外交部報道官は記者のインタビューに対して,次のように答えた。
強制連行・強制労働は,日本軍国主義が中国侵略中に中国人民に対して犯した重大な犯罪行為である。日本政府は誠実に対応し,妥当に処理するようわれわれが一貫して求めている。日本側は強制連行・強制労働の中国人被害者の正当な要求を真剣に対処するよう希望する。ウ
以上のとおり,日中共同声明の発出に至る過程において,個人の請求権が明白に放棄されているものとは認められない。
また,
日中共同声明発出後は,
中華人民共和国政府側による国民の請求権の放棄に関する言動は存在していないどころか,1990年代に日中共同声明5項に民間賠償を含まないという立場も表明されているし,最高裁平成19年判決前後に,さらに重大な戦争犯罪行為を理由に同問題の善処を求めるように自らの主張を強めてきているのである。



したがって,
日中共同声明5項を中華人民共和国の国民の個人の請求権が放

棄されたと解釈することは,文言,発出に至る過程,発出後の経緯など,ウィーン条約法条約に基づく解釈としても,人権保護や戦後賠償に関する国際法の基準の発展等に照らした解釈としても,誤りである。
2サン・フランシスコ平和条約の枠組みによる解釈の誤り


サン・フランシスコ平和条約の第三国拘束力

条約の効力が及ぶ範囲は,条約の締結に参加した当事国の間のみに限られ,第三国には及ばず,
締約国でない第三国は条約上の権利を有し義務を負うこ
とはない。
ウィーン条約法条約の34条においても,
条約は,第三国の義務又は権利を当該第三国の同意なしに創設することはないとの基本原則が確認されており,同35条は,条約が第三国に義務を課す場合には,締約国がそれを意図し,
当該第三国が書面によってそれに明示的に同意することを求
めている。
これを本件についてみるに,サン・フランシスコ平和条約には,第三国である中国と朝鮮への利益付与について定める規定
(第21条)
は存在するが,
第三国に対していずれかの義務を課す規定は存せず,そのような意図を推認できる事情も存しない。
また,
中華人民共和国が書面によって明示的にサン・
フランシスコ平和条約に基づくいずれかの義務を引き受けたという事実もない。

サン・フランシスコ平和条約締結後,日本国と中華民国とは,日華平和条約を締結し,同条約11条においては,

この条約及びこれを補足する文書に別段の定がある場合を除くほか,日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は,サン・フランシスコ条約の相当規定に従って解決するものとする。

と規定している。さらに日華平和条約の交換公文第1号は,

この条約の条項が,中華民国に関しては,中華民国政府の支配下に現にあり,又は今後に入る全ての領域に適用がある。

と規定している。しかし,その後,日本国政府は,中華人民共和国政府と日中共同声明を発出し,中華人民共和国を,中国を代表する唯一の合法政府として承認し,日中共同声明5項では,戦争賠償について別途規定を設けている。また,日中共同声明の発出に至る過程において,日本側と中華人民共和国側は日華平和条約の処理を巡って対立していたが,最終的に日本側は,日華平和条約が不法,無効であり,廃棄されなければならないという中国側の主張を受け入れないが,
日中共同声明の全文で
十分理解する
という方法で妥協している。
これらの事情に照らせば,
サン・フランシスコ平和条約と日中共同声明は,
政府承継に基づく日華平和条約を介した関係もないのであって,日中共同声明は,サン・フランシスコ平和条約とは何の関係もない。


そもそも,中華人民共和国政府は,以下のとおり,サン・フランシスコ平和条約は国際協定に違反するものであると断定し,根本的な批判のもと,その不法と無効を主張し続けている。
1950年(昭和25年)12月4日,周恩来外交部長は対日講和問題に関して,
対日講和条約の準備と起草に中華人民共和国の参加がなかったなら,その内容と結果の如何にかかわらず,中央人民政府は,それが不法であり,従って無効であると断じた上で,①できる限り短い期間に共同して対日講和条約を締結して,日本国との戦争状態を早期に終決せしめること,②対日講和の主要な基礎はカイロ宣言ヤルタ協定ポツ,,ダム宣言及び1947年(昭和22年)6月19日に極東委員会で採択された降伏後の対日基本政策との4つの国際的文書に置かれるべきこと,③台湾,澎湖諸島等の領土問題は既に解決されており,改めて討議する必要は一切ないこと,④外国の占領軍は日本から撤退すべきであること,⑤日本を再武装してはならないこと,
を骨子とする
対日講和8項目原則
を発表した。
1951年(昭和26年)8月15日,周恩来外交部長は,中国を除外する
アメリカ,イギリス草案は,全面的に国際協定を覆すものであり

アメリカ政府とその衛星国が一緒になって追求している唯一の中心目標は,アジアにおける侵略戦争を持続して拡大し,かつ新たな世界戦争準備を強化するために,日本を再武装することである。それゆえ,この平和条約草案は,中国人民と,かつて日本の侵略を蒙ったアジアの人民の絶対に受け入れられないものであると痛論した上で,
対日平和条約の準備,起草及び署名に中華人民共和国の参加がなければ,その内容と結果の如何にかかわらず,中央人民政府はこれをすべて不法であり,それゆえ無効であると考えるものであると厳重に抗議し,対日賠償請求する権利を保留することを宣言した。
1951年(昭和26年)9月8日,中国代表を除外し,アメリカが主導する単独対日講和のサン・フランシスコ平和条約と日米安全保障条約が調印された。
1951年(昭和26年)9月18日,周恩来外交部長は,対日平和条約調印に関して,

サン・フランシスコ対日平和条約は,中華人民共和国の参加なくして準備され,起草され,調印されるものであるゆえに,中央人民政府はこれを不法・無効と考える。従って絶対に承認することはできない

と,同条約の無効性を主張し,サン・フランシスコ平和条約の全ての取決めに,中華人民共和国はいささかも拘束されないと厳粛に声明した。1952年(昭和27年)5月5日,周恩来外交部長は,
アメリカ政府は,自ら署名した1942年(昭和17年)1月1日の連合国宣言,カイロ宣言,ヤルタ協定,ポツダム宣言及び協定,1945年(昭和20年)のモスクワ外相会議における連合国対日理事会設置に関する決定,並びに降伏後の日本に対する基本政策に関する極東理事会の決議等,日本問題を巡る国際協定を無視して,自分で一手に請け負い,不法にでっちあげた単独対日平和条約が発効したと勝手に言い放ち,さらに独断で極東委員会と連合国対日理事会を解散させてしまったが,こうした一方的措置は,全く不法であり,全く根拠のないものである中華人民共和国中央人民政府,は,重ねて次の点を声明する必要を認める。すなわち,我々はあらゆる占領軍が日本から撤退すべきこと,アメリカが発効したと宣告する不法な単独対日平和条約に絶対に承認できないものがあること,中国人民を公然と侮辱し,敵視する吉田,蒋介石の『平和条約』については,断固反対する態度を堅持するものであると声明した。エ
したがって,中華人民共和国は,サン・フランシスコ平和条約の枠組みに拘束されず,
中華人民共和国が当事国となっている日中共同声明の解釈にお
いてサン・フランシスコ平和条約の枠組みが影響するものではない。


国際法上のユース・コーゲンスとの関係
ユース・コーゲンス(強行法規)は,任意法規に対する観念である。任意法規の場合には,
国家がそれと内容を異にする条約を締結しても当事国相互の関
係においては有効である。しかし,ユース・コーゲンスの場合には,そのようなことは認められない。当事国相互の関係においても,合意によってそれから離脱することは許されない,というのがユース・コーゲンスの特徴である。国際法においては,
一般に
特別法は一般法を破る
という原則が認められ,
一般国際法に反する内容の条約を締結しても,少なくとも当事国間においては,条約としての効力を認められるのが通常であった。しかし,国内法において,公序良俗の原則が認められ,契約自由の原則がある程度制限されているように,国際法においても,国際関係が緊密となるにつれ,国際公序の観念を認め,そして国際公序を形作っているユース・コーゲンスの性質をもつ一般国際法に反する内容の条約の効力を否定しようという傾向がある。
ウィーン条約法条約も,そうした考え方の基調に立って,
締結の時に一般国際法の強行規範に抵触する条約は,無効である
(第53条)としている。し
かし,具体的に何が一般国際法の強行規範であるかについては,ウィーン条約法条約は明示せず,
一般国際法の強行規範とは,いかなる逸脱も許されない規範として,また,後に成立する同一の性質を有する一般国際法の規範によってのみ変更することができる規範として,国により構成されている国際社会全体が受け入れ,かつ,認める規範をいうと規定している。以上の国際法におけるユース・コーゲンスの理論から判断しても,サン・フランシスコ平和条約は強行法規ではありえず,中華人民共和国が同条約の枠組みに拘束されることはない。⑶

客観的制度の法理との関係
中華人民共和国が当事国でないサン・フランシスコ平和条約のいわゆる枠組みをもって日中共同声明5項に対する解釈を行い,これを通じて,中華人民共和国政府がその国民の請求権を放棄するという効力を与え,放棄の範囲と性質に関して,中華人民共和国が当事国でないサン・フランシスコ平和条約によって拘束されるように解釈するという枠組み論は,客観的制度の法理によって日中共同声明5項を解釈したとの評価を免れ得ない。しかし,その枠組み論は,客観的制度でいわれた非武装化の制度,国際水路の制度及び機構を創設する制度などを内容とするものではなく,当然対世的性格を有してはいない。しかも,
国際法委員会においても客観的制度論が激しい論争の的となってきたが,非当事国に対する条約の効果に関する同概念は,結局,実定法上認められてはいない。
このように,個人の損害賠償請求権にかかわる条約解釈を拡大解釈へ導き,個人の権利を著しく不合理に制限する判断をすることは許されない。3請求権放棄の抗弁は司法にアクセスする権利を侵害するものであること⑴

司法にアクセスする権利の保障と国際人権法

B規約第2項3項に規定される効果的な救済を受ける権利と同規約第14条1項の第2文に規定される公正な裁判を受ける権利を主要素として構成される司法にアクセスする権利は,国際人権法において,民主社会における法の支配の要と位置づけられている。
アメリカ大陸およびカリブ海地
域に妥当する米州人権条約の履行を監視する同裁判所は,
侵害された実体的
権利が強行規範である場合には,
司法へのアクセス権もまた強行規範として
の性格を帯びることを確認しており,
B規約の履行を監視するために設置さ
れた同規約委員会も,
同規約第14条の解釈指針を示した一般的意見32に
おいて,公正な裁判の保障が,公の緊急事態においても義務の免脱を認められない権利の保護を妨げるような免脱措置の対象にはなり得ないとし,公正な裁判の基本的諸原則からの逸脱は,いかなる時にあっても禁止されると明言する。
B規約の締約国である日本の管轄下にある本件原告らにも当然にその保障が及んでいる。


日本も締約国であるジュネーヴ第4条約は,殺人,拷問若しくは非人道的待遇,身体若しくは健康に対して故意に重い苦痛を与え,若しくは重大な傷害を与えること,
軍事上の必要によって正当化されない不法かつ恣意的な財
産の広範な破壊若しくは徴発を行うことなどの重大な違反行為について,締
約国は,自国が負うべき責任を免れ,又は他の締約国をしてその国が負うべき責任から免れさせてはならないと規定し,さらに,いかなる特別協定も,同条約で与えられた保護の水準を下げることは許容されない旨を定めている。国際人道法の根幹をなすこれらの規定の意味は,国家は個人の権利水準を低下させ,
あるいは重大な国際人道法の違反にかかる自国の責任を免れる
ような合意をなすことができないということである。そして,ジュネーヴ第4条約の上記の規定は,
従前の諸条約に内在していたものを具現化させたも
のであり,
第二次世界大戦後に新設されたものではないというべきであるし,仮に同条約に遡及効の規定がないことを考慮するとしても,
条約締結前に生
じた当該条約違反行為による人権侵害の状態が当該条約発効後にも引き続いている場合,すなわち継続的状態の場合は,条約違反の犠牲であることを主張し得るとするのが,確定した国際人権基準である。


最高裁平成19年判決による司法へのアクセス権の制限
請求権の問題を事後的個別的な民事裁判上の権利行使による解決にゆだねるのを避けるという点にあることに鑑みると,ここでいう請求権の『放棄』とは,請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく,当該請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるにとどまるものとする最高裁平成19年判決は,
日中戦争中の戦争法ないし人道法及び人権侵害違反行為に
よる被害者個人の損害賠償請求権の存在そのものを否定してはいないが,司法的救済への道を遮断するものであり,司法へのアクセス権に対する制限にほかならない。
このような制限が合理的であるかどうかは,第1に,当該制限が正当な目的を追求するものであるか
(目的の正当性)第2に,

手段が当該目的と比例して
いるか(比例原則)
,という点の審査を通して判断されなければならない。
まず,最高裁平成19年判決によれば,裁判上訴求する権能が失われる理由は,
この枠組みが定められたのは,平和条約を締結しておきながら戦争の遂行中に生じた種々の請求権に関する問題を,事後的個別的な民事裁判上の権利行使をもって解決するという処理にゆだねたならば,将来,どちらの国家又は国民に対しても,平和条約締結時には予測困難な過大な負担を負わせ,混乱を生じさせることとなるおそれがあり,平和条約の目的達成の妨げとなるとの考えによるものと解されるとしており,国際法秩序にあって平和条約の果たしてきた役割に鑑みるに,この目的の正当性について,全てを否定するものではないとしても,
そのために採用される裁判上訴求する権能の喪失が上記目的と
比例するものではない。
本件で問題となっているのは,日中戦争中の日本国による強制連行,強制労働という重大な人道に対する罪に相当する重大な国際人道法違反,人権侵害により生じた損害の救済であるが,日本国政府による原告ら及び本件被害者らへの賠償措置は,現在まで全く執られておらず,裁判以外の方法による将来的な賠償の手当の見込みもないのであり,上記⑴イに照らせば,条約違反行為による人権侵害は継続的状態にある。
日本国政府によって何らの代替措置も執られず,かつ,執られる見込みもない中で,
過大な負担
が事後的に被告に発生することを憂慮して,
重大な国際
人道法違反,人権侵害の被害者の裁判上訴求する権能を喪失させることは,目的とその手段との均衡を欠くものである上,国際人権法の基本的要請を体現するジュネーヴ第4条約等にも違反するもので,司法にアクセスする権利のまさしく本質を侵害する重大なる人権侵害である。そうすると,最高裁平成19年判決の請求権の放棄を裁判上訴求する権能の喪失と解する判断は,日本を拘束している条約上の義務に違背する深刻な事態を引き起こすものであり,誤りというべきである。


被告の主張への反論
被告は,
原告らの司法にアクセスする権利と最高裁平成19年判決の判断の誤りに関する主張に対して,最高裁平成19年判決は,日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の請求権について,裁判上訴求する権能を失ったというにすぎず,原告らが裁判を受けること自体については,何ら否定されていない,憲法32条の保障する裁判を受ける権利を侵害するものではないし,B規約2条3項や14条の規定にも違反しないなどと主張する。
日本国憲法第32条は,
何人も,裁判所において裁判を受ける権利を奪われないとする。ここでいう裁判所による裁判は,人々の権利・自由の保障に仕えるものである。そうであれば,裁判を受ける権利は,権利・利益の侵害に対して,裁判所による救済の途を確保しておくことが不可欠である。しかるに,最高裁平成19年判決は,
請求権に基づく裁判上の請求に対して,請求権放棄の抗弁が主張されたときは,当該請求は棄却を免れないこととなると判示しているのであり,裁判を受ける権利の本質部分である,適正な裁判手続のもとで適正かつ公正に救済を受ける権利自体を否定する。かかる判
断は,憲法32条の解釈を誤るものであり,さらに,前記のとおり国際人権法が保障した司法にアクセスする権利を侵害するものである。
以上

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