判例検索β > 平成11年(わ)第178号
傷害、殺人被告
事件番号平成11(わ)178
事件名傷害,殺人被告
裁判年月日平成13年12月18日
裁判所名・部宇都宮地方裁判所
裁判日:西暦2001-12-18
情報公開日2017-10-13 01:48:43
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主 文
被告人を死刑に処する
理 由
(被告人の経歴)
被告人は、父A、母Bの長男として出生し、母は被告人が中学一年のとき病死した。昭和五七年四月、県立高校に進学したが、四、五か月で退学し、その後、県立農業高校に入学したが、三、四か月で同様に退学した。昭和五九年九月二六日陸上自衛隊に入隊したが、性格的に合わないとして昭和六〇年一月二六日付けで除隊し、以後、トラック運転手、工員、店員などの職を転々としていた。
被告人は、昭和五八年八月、宇都宮家庭裁判所栃木支部で道路交通法違反の非行により保護観察に付され、昭和五九年一月、同支部でぐ犯、毒物及び劇物取締法違反の非行により再度の保護観察に付された。再度の保護観察期間中である昭和六一年三月四日、時速約一〇〇キロメートルの高速度で追い越しを開始したが対向車に気付きあわて急ハンドルを切り急ブレーキをかけたため自車を逸走させ道路左側にいた者に対し加療約六か月間を要する傷害を負わせた業務上過失傷害事件を起こし、右保護観察期間経過後である同年一〇月一四日、走行中の普通自動車内で一八歳の少年に対し、タバコの火を腕部に押しつけるとともにタバコのフィルター素材を手背部にのせ点火して、全治約三週間を要する傷害を負わせた事件及び同日被告人の自宅で別の一九歳の少年にタバコのフィルター素材を手背部にのせ、点火して全治約三週間を要する傷害を負わせた事件をそれぞれ起こし、三件の事件を併せて、昭和六二年二月三日宇都宮地方裁判所栃木支部で懲役一年六月、三年間保護観察付き執行猶予に処せられた。
(犯罪事実)
被告人は、
第一 昭和六三年五月ころ、栃木県小山市で知り合ったCと急速に親密度を深め、同年六月、小山市aの自宅を飛び出してきたCと栃木市b町の被告人方で同棲を始め、同年八月三日に両名は婚姻届を提出した。しかし、被告人の仕事ぶり、生活ぶりが不誠実な上、嫉妬(しっと)深くて干渉がましく、果ては暴力に及ぶことからCに見限られて母親Dの住む小山市aの実家に逃げ帰られてしまった。被告人は、数回にわたる電話の末、昭和六三年一一月一九日午後七時ころ、口実を設けCを自動車に乗せて連れ出し、復縁を求めたが、これを拒否されたため、他に男ができたものと確信して憤激し、そのころ、小山市内又はその周辺において、C(当時一八歳)を殺害しようと企て、その頸部を圧迫し、よって、そのころ同所において、同人を窒息のため死亡させ、殺害の目的を遂げ、
第二 昭和六三年九月ころ、東京から栃木工場に出向してきたEと知り合って交際を始めたが、同人が従順で被告人の言いなりになるため、次第に日常生活にも干渉をし、やがて被告人の嗜虐癖の対象として同人を扱うようになり、平成元年一一月ころ、小山市大字cd番地所在のF一〇二号室の浴室及び六畳間において、被告人の度重なる暴行により衰弱していたE(当時二六歳)に対し、同人が死亡するかもしれないと認識しながら、あえてその頭部を手拳で殴打する等の暴行を加え、よって、そのころ同所において同人を右暴行に起因する傷害のため死亡させ、第三 かねて出張ヘルスマッサージ業をiの名称で営み、川崎市川崎区e町f番地G六〇二号をその拠点としていたところ、
1 平成七年一一月下旬ないし一二月上旬ころ、同所において、従業員のH(当時二五歳)に対し、その手の爪や背中にタバコの火を押し付ける等の暴行を加え、よって、同人の爪部及び背部に全治不詳の熱傷を負わせ、
2 平成八年二月上旬ころ、同所において、同人に対し、その顔面等を手拳で殴打したり、その頭部等に熱湯をあびせかける等の暴行を加え、よって、同人の頭部、胸部等に全治不詳の熱傷及び打撲の傷害を負わせ、
3 同年三月上旬ころ、同所において、同人に対し、その両腕部にタバコのフィルターをほぐしたものを置いて、火をつける等の暴行を加え、よって、同人の両腕部に全治不詳の熱傷の傷害を負わせ、
4 同年四月下旬ころ、同所において、同人に対し、その両乳首、両脇の下等をライターの火で焼いたり、その頭部等に熱湯をあびせかける等の暴行を加え、よって、同人の両乳首、両脇の下、頭部等に全治不詳の熱傷等の傷害を負わせ、 5 同年五月七日ころ、同所において、同人に対し、その頭部、両足の甲部等に熱湯をあびせかける等の暴行を加え、よって、同人の頭部、両足の甲部等に全治不詳の熱傷等の傷害を負わせ、

6 同年五月二〇日ころ、同所において、同人に対し、その足部を足蹴にしたり、その頭部等に熱湯をあびせかける暴行を加え、よって、同人の頭部等に全治不詳の熱傷等の傷害を負わせ、
第四 Hと共謀の上、平成七年一二月三〇日ころ、同所において、前記iの従業員I(当時二九歳)に対し、その左手指爪部、背部等にタバコの火を押し付ける等の暴行を加え、よって、同人に全治まで約五か月を要する左手中指・環指及び背部熱傷等の傷害を負わせ
たものである。
(事実認定についての補足説明)(甲乙を付した数字は〔請求者等 検察官〕証拠等関係カード甲乙の証拠番号を示し、職権を付した数字は〔請求者等 職権〕証拠等関係カードの証拠番号を示す。)
第一 本件の経過
被告人は、平成八年五月二一日、川崎市内において、判示第四のI事件で逮捕され、同月二三日勾留されたが、同年六月一一日釈放されると同時に判示第三のH事件で逮捕され、同月一三日勾留され、同月二八日、H事件とI事件で、横浜地方裁判所川崎支部に起訴された。
平成八年五月二八日、川崎市内において、Jが保護されたことから、判示第二のE事件の捜査が進んでいたところ、同年六月一四日から取調べが始まった被告人の父Aの供述により、Aの実家であるgの家の庭にCとEの死体が埋められ、焼却されたことが発覚し、捜索の結果、Cの遺骨が発見されたが、Eの遺体は発見されなかった。被告人は、平成八年七月四日E事件で逮捕され、勾留を経て、同月二五日宇都宮地方裁判所栃木支部に起訴された。更に、被告人は、同年八月一九日判示第一のC事件で逮捕され、勾留を経て、同年九月九日同支部に起訴された。
川崎支部と栃木支部の事件の審判は併合され、平成八年一〇月二九日栃木支部において、第一回公判が開かれた。平成一一年三月一〇日、本件は、当裁判所(宇都宮地方裁判所本庁)に回付され、同年六月二四日当裁判所での最初の公判第二九回公判が開かれ、平成一三年九月二五日の第四八回公判に至って結審した。 被告人は、私選弁護人を選任し、H事件、I事件についてはほぼ認めたが、C事件については、殺害行為を否認し、E事件については、Eに対する度重なる暴行、殺意、因果関係を争った。私選弁護人の選任、辞任について多少の出入りはあるが、平成八年一二月二〇日私選弁護人全員が辞任した。
平成九年三月四日国選弁護人三名が選任され、現在に至っている。その間、被告人が国選弁護人全員に対する懲戒を申し立てるとともに解任も求めたため、国選弁護人らは解任を求めたが、当裁判所は解任しなかった。
被告人は、第三二回公判において、予定されていた弁護人による被告人質問に対し黙秘し、第三五回公判、第三六回公判では、弁護人の被告人質問に応じたが、第三七回公判、第三八回公判と被告人質問に応ずる意思のないことを明確にし、第四一回公判から検察官による被告人質問が始まったが、第四二回公判の審理が終了して、裁判官退席後、法廷出口のガラスを破損し(第四三回公判二〇二五丁以下)、第四三回公判で、検察官による質問中、法廷の窓ガラスを損壊して、退廷命令を受けた。
第二 C事件について
弁護人は、Cが死亡した事実、Cが死亡したとき被告人がその現場にいた事実、被告人が主導したかどうかはともかくとして、被告人がCの死体を遺棄した事実は争わないが、被告人にCを殺害する動機はなく、被告人が殺意をもってCを死亡させた事実の証明はないから、被告人は無罪であると主張する。しかし、当裁判所は、被告人は確定的殺意をもってCを死亡させたものと考えるので、その理由を説明する。一 Cの死体の遺棄
被告人の父Aは、Aの実家であるgの家で被告人からK(有限会社L経営者)、Dの長女であるCの死体を示され、実家の敷地にCの死体を埋めることになった。当時、実家には、Aの父M、母N、Aの長兄O、Oの妻Pがいた。
被告人がCを殺害するのを目撃した者はなく、被告人は殺害を否認している。そこで、弁護人も指摘するとおり、C事件に関係する証拠で最も重要な証拠は被告人の父Aの供述(捜査段階の検察官及び裁判官に対する各供述と公判段階の証言)であり、その信用性の有無が本件の帰趨を決すると言っても過言ではない。当裁判所は、Aの捜査段階の供述に信用性を認める。Aの公判供述に信用性がないことは弁護人も認めるところであるが、弁護人は、Aの公判供述の信用性を失わせるAの問題点は、Aの捜査段階の供述にも存在するとして、Aの捜査段階の供述の信用性も否定する
論理を展開している。
二 Cの殺害(Aの検察官及び裁判官に対する各供述の信用性)
Aの検察官に対する平成八年八月二七日付け供述調書二通(甲二一、甲二二)の内容は、昭和六三年一一月の夕方、b町の家(Aと被告人の住居)に帰ってきた被告人から、至急gまで一緒に行ってくれるようにとただならぬ様子で頼まれたので、用件は分からなかったがとりあえず被告人運転の車でgの実家に行ったところ、被告人が開けたトランクの中にCの死体があり、被告人から

Cは男と関係ができたようだったので首を絞めて殺してしまった。ここに埋めさせてくれるよう、おじちゃん(Mのこと)に頼んでくれないか。

と打ち明けられ、まず、AがAの父Mに対し、gにCの死体を埋めることの承諾を求め、次いで、被告人が、

Cが男と関係したようだったので、頭に来て首を絞めて殺してしまった。

と述べた上で、gの敷地に埋めることを頼み、Mが渋々ながらも了承したので、Aが、Cの死体を花壇に埋めたというものである。 Aは、実の息子の被告人が殺人の大罪を犯したという衝撃的な事実を知るに至った経過とその後の遺棄状況などを具体的に述べ、被告人がCを殺したと言ったこと、首を絞めたと言ったこと、Cに男ができたようだと言ったことは間違いないと明確に断言しているのであり(更に、Aの検察官に対する平成八年七月一六日付け供述調書(検一号、甲一六)でも、被告人は、Cの死体を埋めるとき、はっきりとCを殺してしまったと言っていたと供述している。)、この供述に疑いを差し挟む余地はない。しかも、Aは、その後、C事件の起訴前の平成八年九月三日に栃木簡易裁判所で行われた証人尋問(甲二三)で全く同趣旨の証言をしており、この証人尋問における証言には重みがある。
三 Aの公判証言
ところで、Aの公判証言の大要は、

① 被告人がbの家に来て、「ちょっと来てほしい、ちょっと行ってくれないか。

と言ったので、

じゃあ、gのほうへ行ってくれないか。

と言って、被告人の運転する自動車で一緒にgに行った。用件は聞いていない。② gに着いて、車のトランクが開けられたので中を見るとCの死体があったが、Cの死について被告人に尋ねていないし、被告人からも説明がなかった。死体の顔色は普通だった。③ 父MにCの死体を埋めさせてもらうことを頼むというのは、自分の考えであり、被告人が頼んだことではない。④ 家の外で、死体を埋めることについてMの了解を取った。そのとき、被告人は、遠くにいて、AとMの会話に加わっていない。Mが被告人に説明を求めたこともない。」というものである。
四 弁護人は、Aの公判証言が信用できない理由は、Aが被告人を庇(かば)う姿勢ないし恐れる気持ちを持っているというだけでは説明し尽くせないものであり、Aの公判証言に現れている問題点は、捜査段階での供述の信用性をも失わせるものであると主張する。
弁護人は、Aの公判証言①について被告人はb町に立ち寄っていないから、Aの公判証言は、被告人の主張と対立する。Aの公判証言は、死体遺棄の場所の選択を被告人がしたとして死体遺棄の主たる責任を被告人に押しつけるものである。被告人がb町に立ち寄ったのが事実であるなら、Aと被告人はどのようにして被告人の自動車まで赴いたのか、Aは弁護人の反対尋問に対してまったく答えられていない。Aは存在しない事実を証言しているのであり、誠実性に欠ける。と主張し、公判証言②に関し、Cの顔色についての公判証言には矛盾や意味不明の弁解があり、Aは事実を正確に把握する能力が欠如し、誠実に事実を叙述しようとする姿勢が欠如し、夜間であったから見にくかったということすら正しく伝達できていない表現能力の乏しさがある。と主張し、公判証言④について、被告人はMの了解について見聞していないから、Aの公判証言は被告人と対立する。Aが依頼したというのは架空の事実であり、Mの了解はなかった。Aの公判証言は、責任をMに押しつけ、自分の責任から逃避している。と主張するなどした上、Aの公判証言は、全体として信用性に重大な疑問があることは明らかであるが、A証言の揺れが、単に被告人を庇(かば)ったり、恐れたりするために、被告人を事件から遠ざけるための虚偽の証言に終始している、などと単純に図式化して捉えれば済む範疇(はんちゅう)に収まらないことを理解する必要がある。Aは死体遺棄の主犯であり、責任を回避する傾向があり、事実でないことでも主張する傾向があり、被告人に不利となりかねない、しかも真実でないと強く推定できる幾多の証言があり、こうした事実は、Aが被告人を庇う姿勢ないし恐れる気持ちを持っているというだけでは説明できない事実であり、Aの捜査段階での供述の信用性を失わせる事実である。父親が息子を罪に陥れるような供述をしている以上は、その内容が真実であるはずだとか、被告人に対する恐怖から公判証言が虚偽で捜査段階の供述が信用できるという立論は、説得力を持ち得ない。と主張する。
しかし、Aの公判証言①は、被告人がgを指示したというものではないから、場所を選択した者が、死体遺棄の主たる責任を負うというのであれば、Aはその責任を認めているのである。Aの公判証言②は、被告人に責任を押しつけた証言でも、責任から逃避する心理を示したものでもまったくない。Cの顔色についての証言は、確かに意味不明と言えるが、法廷で混乱したのであり、事実の把握能力に欠けるとは言えない。Aの公判証言③は、Aが、被告人との関係で、死体遺棄の主たる責任を被告人に押しつけようとしているものではない。Aの公判証言④は、gの家で絶対的な力を握っていたMに了解を求めることは不自然ではなく、責任逃避の心理を示すとは言えない。Pは、AがMに対し承諾を求めている場面を目撃したわけではないが、戸主であるMが承諾している以上、Cの死体を埋めることに反対できなかったと証言し(第二六回公判一五〇六丁以下、第二八回公判一五七四丁以下)、Aの証言を裏付けている。 Aが責任を回避するために虚偽証言をしたとは認められず、Aの公判証言が信用できないことから直ちに、Aの捜査段階の供述、証言まで信用できないという論理には賛同できない。
弁護人は、Aの検察官に対する供述調書には信用性がないとして次の論拠を挙げる。
1 Aは、Cが男と関係ができたようだったので首を絞めて殺してしまったと聞いた旨供述するが、この動機についての供述時期は相当遅い。
2 動機といっても右の程度のものであり、ほとんど無内容である。3 Cが浮気をしていたことを物語る客観的周辺状況として、Aは、Cの入籍直後、玄関ドアに穴を開けられたというが、Cが前の男性と別れてから期間が短いからCが嫌がらせを受けるような男性関係ができる状況にない。
4 被告人がMに対し、

b町の家じゃ狭いんで、何とかここに埋めさせて欲しい。

と言ったとされる供述も、なぜ被告人が死体埋没場所としては不自然なgを選択したのか理由の説明になり得ていない。夜間の田園地帯とは言え、gは栃木市と宇都宮市を結ぶ主要県道に面しており、周囲に人家がないという地域ではない。まして、すぐ隣地には駐在所まで存在しているのである。発見の危険性は相当高く、被告人が主導的にgでの死体埋没を選択するわけがない。しかし、1 動機の供述が遅れたからといって、動機が存在しなかったことにはならない。2 動機が無内容といっても、被告人が詳しく説明しなかったからにほかならず、Aの供述に信用性がないことにはならない。3 ドアに穴があったからといって、それだけでCに男関係があったことを第三者に推測させるものではないが、Aは、ドアの穴の件からCの男関係を直感的に想像したに過ぎない。Aは、Cがこそこそと外出していた事実や被告人がCの実家に対して抱いていた不満から、二人は表面は仲良くしているようだが、親の勘として、本当はうまくいっていないのではないかという不安を持っていたことを供述している。4 Aは、

最初から誰か人目に付かない山の中かどこかに死体を隠すという方法もあったのでしょうが、父に頼み込むについて(中略)どういうわけかこのとき被告人がb町の家のこと(「b町の家じゃ狭いんで

と言ったことを指す。)を述べたことに間違いありません。」と供述しており(甲二一)、Aの供述に嘘はないものと考えられる。被告人が身内以外の者に発見される可能性が少なく土地の広いgを選んだことは不自然ではない。現に、本件では、身内以外に死体遺棄の目撃者はいなかった。gを選んだことは、その意味では成功だった。もし、gが発見の可能性の相当高い場所なら、Aが主導してもgを選択しなかったであろう。五 被告人の供述
被告人は、捜査段階から公判にかけ、色々の弁解を試みているが、まず、変遷が著しいこと、個々の弁解自体に疑問があることから、被告人の殺害を否定する供述は信用できない。
被告人は、平成四年六月二二日にCの失踪について警察官から事情聴取された際には、家出の原因はCの男関係で、俺(おれ)と一緒になる前に付き合っていた男と手が切れなかったと思う。男の名前など知らないが、遊びに出て帰ってこなかったり、朝起きるとCが居なかったりするので、昭和六三年一一月一九日午後一〇時ころ、Cに帰れと言って、小山の家近くのたばこ屋の所まで送り降ろしたのが最後である。旨述べていた(甲二四八)。被告人は、E事件で起訴された後、C事件で逮捕される前の任意捜査時には、供述調書の作成を拒否し、事件の核心の追及を始めると机に突っ伏したり、床に横になったり、壁に体をぶつけたりして、机に座らせるのに時間がかかるという状況の中で、Cは家出ということではなく、小山の自宅に帰っていた。Cのところに電話を入れたらCが荷物を取りに行きたいということになって、Cと自宅の近くにあるたばこ屋の前で待ち合わせをした。被告人が乗っていたクラウンで迎えに行き、そこで乗せてbの二階に戻ってシンナーを始めた。Cは紙袋に荷まとめを始めた。被告人がシンナーを始めた後Cにセックスを求めたところ、Cがシンナーを吸ってセックスを求めることを怒って口論になった。Cが被告人に離婚届を届けるからと言ったので、被告人が、Cにティッシュの箱を投げつけたら、Cは、階段を降りて行き、自分はラリっていて、その後ステレオを大きくかけて聞いていたが、しばらくたって階段を降りようとしたら、Cが階段の下で倒れて死んでいた。などと供述をしていた。(Q証言第四二回公判一九八三丁以下)
次いで、被告人は、C事件で逮捕された平成八年八月一九日、

任意取調べの時に自分が話した内容と逮捕事実があまりに相違しているので何も話すことはない。

(乙一九)と述べて、事件についての供述を拒否した。
被告人が私選弁護人(その後解任)に話した内容は、同弁護人によって平成八年一一月二六日付け冒頭陳述の要旨として主張されている(第二九回公判一五九七丁以下)。これによると、

被告人は、昭和六三年一一月一九日ころ、Eと一七歳くらいの女性とドライブをした。同日午後七時ころ、たまたま実家(K方)にいたCに電話をし「遊びに行かないか。

と誘ったところ、Cが承諾したのでK方近所のタバコ屋の前に迎えに行った。被告人ら四名は、R遊園地を過ぎて間もなくの信号を左折したところにあるモーテルに入り、ドラキュラーというシンナー遊びをした。被告人が風呂場をのぞくと、EがCの両足を肩にかけ、Cの上半身を浴槽の湯の中に入れており、Cは死亡していた。被告人らはモーテルを出て、被告人がAにCがシンナーを吸っていて死んだと電話し、Aの指示でgの家に行くと、Aが待機しており、Aが死体を埋めた。」というものである。被告人は、公判で、この内容を虚偽であったとしている(第二九回公判一六〇〇丁)。たしかに、① Cの母Dの証言(第二四回一三〇三丁以下)によれば、Cは、被告人から電話があったあと、近くの喫茶店で被告人と別れ話をすると言って出掛けたまま戻らなかったのであり、遊びのために出掛けたのではない。② Aは、公判でも、捜査段階でも、Cがシンナー遊びで死亡したと被告人から聞いたということを述べていない。しかし、Cが電話があった後出掛けたこと、その日時は、一一月一九日ころの午後七時ころであったということは重要である。
被告人は、裁判所に対し、平成一一年三月一五日付けで上申書(職権五)を提出し、昭和六三年一一月二一日から同年一二月三日までの間に、被告人とCは、R遊園地を過ぎて間もなくの信号を左折したところにある道路左側のモーテルでシンナー遊びをしたあと、Cの首にドライヤーの電気コードを巻いて両腕のところでくくったりして「特殊性行為をし、興奮してしまい、ふんばるような状態になって力が入ってしまい、電気コードを引っ張る形になって、自分は絶頂に達したが、そのとき、Cは死んでいた。」と述べ、公判では検察官の質問に対し、より詳細に、二重か三重にされたコードの輪は、首との間に指一本が入る程度の緩やかさで、Cの首に巻き付け、しかも、そのコードの両端がCの肩の後方を通って両上腕部分で固定されていた。意識してコードを引っ張ったことはない。と供述する(被告人第四一回公判一九二二丁以下)。
しかし、被告人が述べるような電気コードの巻き方で首が締め付けられるには、被告人が故意に電気コードを引っ張る以外になく、そうでないとしても、ある程度の時間、故意に首を絞め続けなければ、窒息死するには至らないから、被告人が弁解するようなCの不慮の死の結果など発生するはずがない。
六 弁護人は、被告人がCを殺害したとされる殺害方法及び態様が明らかでない。Aによれば、死体を注意して見たにもかかわらず、Cの首に扼痕(やっこん)や絞痕を認めていない。論告は、被告人の突発的で激情的な殺害を想定しているようであるが、そのような殺害で、扼痕や絞痕を残さないはずがない。A供述には、防御創ないし抵抗痕があったことも出てこない。Aは、Cの顔面に鬱血(うっけつ)や微細な溢血(いっけつ)点があったことを否定している。と主張する。しかし、頸部を手あるいは腕で圧迫する扼頸によって引き起こされる死亡の場合には、頸部の外表部にほとんど痕跡が残らないこともあり、うっ血は不明瞭となることがあり、うっ血や溢血点の所見はないか、弱いこともある(甲四六八、一三三頁以下)。次に、加害者の手を外そうとして爪痕が残る場合もあろうが、必ずしもあるとは限らないと思われ、加害者と争ったとしても損傷が認められるとは限らない。弁護人の主張は理由がない。
七 C殺害の動機、殺害時期及び殺害場所
1 被告人とCの夫婦関係、C死亡前の状況について、次の事実が認められる。 被告人は、昭和六三年五月ころ、Cと交際を始め、CからDに紹介された。同年六
月ころ、Cは突然、aの家を飛び出し被告人の住むb町の家に住み始め、被告人とCは、同年八月三日に婚姻届を提出した。(D証言第二四回公判一二七五丁以下) 被告人は、同月末それまで勤務していたS株式会社を退職して(甲二七二、甲二七三)、Cと共にKが経営する有限会社Lで勤務することにしたが、被告人の勤務は不規則で意欲がない状態で、実質は同年九月半ばころまでしか勤務せず、同年一〇月一〇日ころ、九月分の給料を受け取ったのを最後に、Lに来なくなった(D証言第二四回公判一二八二丁裏以下)。
被告人は、Lでの仕事は雑役みたいな仕事だとAにこぼしていた。Aは、そのような被告人の不満を聞いたり、Cの行動を見たりして、被告人とCの夫婦仲はうまく行っていないのではないかと不安感を持っていた(甲二一)。
Cは、昭和六三年九月前後ころ、友人のTに対し、電話で、被告人は最初のうちは優しくて、どこに行くにも一緒についてきたが、次第に被告人がついてくること自体が煩わしくなり、電話がかかってくると、男性からかかってくると思うらしくて、誰からかかってきたか追及みたいなことをするので、すごく煩わしいと述べ、

長い棒のようなもので、掃除機の柄のような先のもののようなもので殴られた。

などと、暴力被害を訴えていた。さらに、Cは、昭和六三年秋、Tに電話をしてものすごく小さな声で

暴力を振るわれているので、このままだと私は殺されるから助けてほしい。

などと、切羽詰まったような形で助けを求め、Tが

誰に殺されるの。

などと問い返すと、誰かに電話を切られるような異常な終わり方で電話は切れてしまった。Tは、その異常さからいやな予感がしたが、連絡先のメモを紛失していたため、かけ直すことができなかった。(T証言第二五回公判一三六四丁以下)
Cは、昭和六三年一一月上旬ころ、b町の家を飛び出してaの家に戻り、Dに対して、

もう二度と栃木の家には帰らない。被告人がCの行くところ、いつもついて回る。いつもそばにいてやりきれない。何を言ってもうそばっかりで信用できない。別れる。向こうから電話がきても取り次がないでほしい。

などと言った(D証言第二四回公判一二九〇丁以下)。
被告人は、Cを連れ戻すため、Cがb町の家を出た翌日以降、二、三日おきに合計四回の電話をし、これを受けたDは、二回目の電話まではCの不在を装ったものの、二回目の電話で、被告人がCが車の鍵と現金五〇万円を持って出たので困っていると言ったことから、Cにお金を持ってきていないことを確認した上で、別れるんだったら金のことも含めて自分の口ではっきり言いなさいとCに諭した。被告人からの三回目の電話の際には、Cは、電話に出て、何回も別れたいという話をしたが、被告人はこれに応じなかった。Dは、Cに対し、一応C自身が話したあと、父Kにも話してもらってけじめをつけたほうがよいと助言した。(D証言第二四回公判一二九四丁以下)
被告人は、昭和六三年一一月一九日午後三時から午後五時までの間に、Eとともに宇都宮市内のかつら店に行ってかつらを受け取り、ポラロイド写真を撮影した(甲一九三から甲二二二まで)。
同日午後六時三〇分ころ、被告人は、aの家に四回目の電話をかけ、これから鍵を取りに行くなどと告げ、Cと被告人は、近くの喫茶店で別れ話をすることになった。Dは、

もし話がつかないようだったら、お父さんに話して一緒に行ってもらうから。早く帰ってきなさい。

などとCに言った。(D証言第二四回公判一三〇三丁裏以下) 被告人は、同日午後七時ころ、自動車でaの家に行った。Dが玄関内で応対して、短い髪で上へ立ったようで、床屋へ行って整髪して来たような髪型をしていた被告人と会った。被告人は、Cを同乗させてaの家を出発したが、Cが持って出た所持品はセカンドバッグ一個のみで、当日買い物した下着類等はaの家に置いたままであった。Dが、Cに

余り遠くに行かないで、早く帰ってきなさい。

と声をかけると、Cは

分かったから、大丈夫だよ。

と答えて出掛けた。Dは午後七時四五分ころタクシーで勤めに出かけたが、その後Cを見ることはなかった。(D第二四回公判一三〇五丁裏以下)
2 被告人は、昭和六三年一一月一九日午後七時半ころから八時半ころの間にCを殺害し、Aに対し

Cは男と関係ができたようだったので首を絞めて殺した。

と告白し、Aの協力を得て、gの家の敷地に遺棄した。
被告人は、後に、Jに対し

実は結婚していて離婚したいんだけど、離婚の手続ができない。Cは、男を作って逃げてしまったんだ。

旨話している(J証言第三回公判二七丁)。なお、被告人は、捜査官に対して、Cから離婚届を届けるからと言われて怒りティッシュを投げつけた旨供述したことがある(前出Q証言第四二回公判一九八五丁)。

被告人は、平成三年四月二四日に栃木警察署に二回目の家出人捜索願を出した。その際、被告人は受理者に対し、Cは暴走族風の男と遊び歩くなど異性交際も多かったと述べている。(甲二四六)
3 右に認定した事実によれば、嫉妬(しっと)深い被告人は、Cに復縁を迫ったが、拒絶され、Cに他に男ができたものと確信して憤激し、C殺害に及んだものと認定するのが相当である。
4 被告人がCを連れ出した日にちについて、Dは、会食(昭和六三年一一月二二日、甲二二六から甲二三一まで)の二、三日前と証言するだけであるが(第二四回公判一三一六丁裏、一三五二丁裏)、被告人がかつらを手に入れたのは、昭和六三年一一月一九日午後三時から午後五時までの間であること、被告人が栃木警察署に二度にわたりした家出人捜索願では、Cが所在不明になったのは昭和六三年一一月一九日午後三時としており(甲二三九、甲二四六。もっとも、甲二三九の平成元年二月二七日受理の家出人捜索願受理票は、写しのため、午後の記載がはっきりしない。)、被告人が平成四年六月二二日に警察官の事情聴取に対し述べた内容は、昭和六三年一一月一九日午後一〇時ころ、Cを小山の家近くのたばこ屋の所まで送り降ろしたのが最後であるというものであること(甲二四八)、被告人は、最初、弁護人の冒頭陳述により、Cが死亡したのは昭和六三年一一月一九日ころの夜であると主張していたこと、Aは、死体遺棄の現場であるgの実家に着いたのは午後八時から八時半ころの間であったとして、そのとき死体はまだかなり温かかったと述べていること(甲二一。弁護人も、Aと被告人が接触したのはC死亡直後であることを争わない。)、aの家からb町の家の西側路上まで最短道路を自動車で走行すれば、距離は約一二・八キロメートルで、所要時間は約二八分であり、b町の家からgの家まで距離は約四キロメートルで所要時間は約九分、距離合計約一六・八キロメートル、所要時間約三七分で、b町の家の東側路上を出発地点としても合計約三八分であり、特別の回り道をしても四四分程度で到達できること(甲一九〇)などに照らせば、被告人は、昭和六三年一一月一九日午後七時半から午後八時半ころまでの間に、小山市か栃木市若しくはその近辺で、Cを殺害したものと認められる。
被告人は、事件の日は、Uに二度目に勤務した後の昭和六三年一一月二一日から一二月三日までの間で、同年一一月一九日ではないとし(前記平成一一年三月一五日付け上申書、職権五)、事件の日までにかつらを受け取ったことはなく、事件の日にかつらを装着したこともない(第二九回公判一六一三丁以下)と供述し、C死亡場所については、任意捜査時には、b町の家(Q証言第四二回公判一九八三丁以下)、公判が始まってからは、小山市内のモーテル(右上申書、第二九回公判一六〇〇丁以下、第三六回公判一七六六丁以下、第四一回公判一九四一丁、第四二回公判二〇一二丁裏以下)と供述するが、信用できない。被告人の主張する場所に被告人が主張するようなモーテルがあったことは、捜査しても判明しなかった(甲四五一、甲四五二、甲四四六から甲四五〇まで)。
八 弁護人は、① 被告人とCは、昭和六三年八月三日に入籍したばかりである。② 被告人は、九月からLで勤務するようになるが、給料の支払いや、Kに対するお金の融通などの問題から、被告人はLを退職してしまう。CがLを手伝う関係で、Cだけがaの実家に帰っていたのは事実であるが、夫婦関係が破綻していたということはできない。③ 昭和六三年一〇月から一一月にかけて、被告人とCは、仲人を頼む人物を訪問している(検察官冒頭陳述書一一頁)。昭和六三年一一月八日、被告人とCは旅券の交付を受けている(甲一八一、甲一八二)。C本人が新婚旅行の準備として旅券の交付を受けているのであるから、被告人とCの関係が破綻したとは考えられない。④ 他に、被告人がCを殺害しなければならないような事実は存在しない。以上の事実から、被告人にCを殺害する動機はない。と主張する。なるほど、昭和六三年一一月八日、被告人とCは、旅券の交付を受けていることが認められる(甲一八一から甲一八三まで)。なお、そのころ、被告人とCが仲人を頼む人物(検察官の冒頭陳述書によれば保護司V)を訪問した事実は認定できない。弁護人はVの調書二通(甲一七六、甲一七七)を不同意にしている(Aの調書(甲二一)によると、Aは、Cの死体を埋めたあと、保護司Vから、被告人とCから仲人を頼まれているが、その後どうなったのか尋ねられたと供述している。公判では否定、第一三回公判六二五丁以下)。
しかし、すでに認定した事実によれば、被告人とCの仲は徐々に悪化し、昭和六三年一一月八日以降であるCの家出当時は、Cは被告人を完全に嫌っていたものと優に認められる。

弁護人は、被告人から呼び出されたとき、CもDも強い警戒感を持った形跡がなく、Cが決然として別れるにしては被告人の車の鍵を持ってきたり、結婚指輪を持ってきているのが不自然であり、夫婦関係がCの殺害を予感させるような深刻な危機にあったということは認められないと主張するが、殺害を予感せず、強い警戒感を持たなくても、夫婦関係が危機にあることはいくらでもある。車の鍵は部屋の鍵と一緒でスペアキーがあったので持ってきてしまったに過ぎないと思われ(D証言第二四回公判一二九六丁)、Cの骨片とともにCの指輪(被告人は、第三六回公判で、この指輪は婚約指輪であると供述している、一七九三丁。)が死体埋没場所の土中から発見されているが、Cが被告人に返還するために所持していた可能性も十分にあるから、これをもってCが指輪を装着し、被告人とCとが円満であったと推定はできない。弁護人は、Dは、亡くなったCの母であり、早い時期から被告人がCを殺したのではないかという疑いを有していた。そもそも、両名の結婚には反対していた。このような立場にあるDには、無意識のうちに事実に対する認識や記憶の保持などが変容する危険があるから、被告人とCの婚姻生活が破綻していたというDの証言は割り引いて考える必要がある。と主張するが、被告人が偏執的に男性関係を疑うことは、Jも証言している(第三回公判二〇丁、三四丁裏以下、第六回公判一三六丁裏)し、T証言からも、被告人が嫉妬(しっと)深いことが認められる。Cが被告人を嫌っていたことは、Dの証言とT証言で一致している。その他、Dの証言内容は自然で作為を感じさせず、D証言を疑う余地はない。
弁護人は、T証言は、電話の内容が非常に不明確で電話の時期があいまいである上、Tは、最後の電話の内容が深刻であるというのに、自分の母に話し、Cとの共通の友人に電話連絡しただけで、警察に通報するなどそれ以上に深刻さに相応する客観的行動に出ていないから、T証言は信用できないと主張するが、① T証言にはD証言に符合する部分があり、② 確かに、Tは、最後の電話について、警察に通報したかどうかはっきりしないと証言しているが、Tは最後の電話の内容にものすごく嫌な予感がし、母や友人に話したが、母には相手にされず、自動車の免許がないため、茨城から小山にいるCのところまで行くことができなかったので、それ以上の行動に出なかったというのであり、殺されると言われても、夫婦間の問題である上、母が考えるように、まさか身近で殺人事件が起こるだろうとは容易に思わないのが人の常であり、現に殺されかかっているような具体的な切迫さがない以上、警察に通報することがはばかられてもおかしくない。
弁護人の主張は理由がない。
第三 E事件について
弁護人は、被告人の供述に基づき、被告人はEの死の三日前に六畳間でEに暴行を加えたものの、その後はそのような暴行を加えておらず、風邪と思われる症状で寝込んでいたEが、死の当日、トイレから出て倒れ、死亡したものであり、死の原因が不明であることもあり、被告人には、Eの死についての責任がなく、被告人は無罪であり、被告人の右暴行と風邪等の疾病とが重なって、Eの身体が衰弱し、その結果、死の当日の転倒を引き金としてEが死亡したとしても、被告人には傷害致死罪が成立するに過ぎず、仮に、J証言のように、既にEが衰弱していて、死の当日にもJの証言する被告人の暴行がEに加えられて、その結果、Eが死亡したことが因果関係的に証明されたとしても、被告人には、確定的殺意はもちろん、未必的殺意もなかったのであるから、この場合であっても、被告人には傷害致死罪が成立するにすぎないと主張するが、いずれも理由がない。
これに対し、検察官は、被告人には確定的殺意があったと主張するが、これまた、当裁判所の採用するところではない。
一 被告人とE、Jの関係
被告人は、昭和六三年九月ころ、東京の会社から栃木市内のU株式会社栃木工場に出向してきていたEと知り合った(甲一九四、甲一九七、甲二五〇、甲二七〇、乙一五)。Eは、同年一二月、W製作所に転職し(甲二五〇)、同月一四日に、被告人がEの賃貸借契約の連帯保証人となった栃木市hのX一〇二号室に転居した(甲二五二)。Eは、平成元年三月、W製作所を退職し(甲二五〇)、その後、同年七月まで、三か所(うち一か所では被告人と同じ会社で働いた。)転職し、夏ころ、Xを退去し(甲二五二、甲二七七から甲二七九まで)、同年一〇月五日から同月二〇日までは、被告人とともに、Y株式会社栃木工場に勤務した(甲二八二、甲二八三)。 被告人は、平成元年二月ころ、ナンパして知り合った女性の紹介でJと交際を始めた。Jは二、三か月後から、b町の家の二階に時々泊まるようになり、同年七月初めころから、同所で同棲するようになったが(甲一六、甲一四八)、台所が自由に使えない
ことやEがしばしば訪ねてくるので嫌気がさし、同年七月半ばころから、被告人とともにF一〇二号室(ワンルーム。じゅうたん敷きの六畳間、台所、トイレ付きのユニットバスー以下浴室と言うー。甲二六、甲五一、甲七八)に転居した(甲七八)。Fは、被告人が平成元年五月から勤めていた有限会社Zの社長から紹介されたアパートであった(甲二八〇)。しかしEは、頻繁にFを訪ねるようになった。(J証言第三回公判一一丁裏以下)
Eは、平成元年一一月被告人の暴行で昏倒して死亡した(ここが争点である。)。被告人は、AとともにEの死体をgに運び、Aがgの家の敷地内に埋めた(甲一六、甲一八)。平成二年七月ころ、AとMは、CとEの死体を掘り起こし、Mが焼却した(甲一六、甲一八)。
Eが昏倒したあと、Jは怖くなり、Fから鹿沼市の実家に逃げ帰ったが、二、三日後、被告人にうまく呼び戻された(J証言第三回一〇四丁以下)。被告人とJは、たまにFに寝泊まりしていたが、平成二年二月、Fを退去し(J証言第三回公判一一七丁裏以下)、栃木市、宇都宮市、小山市、前橋市、札幌市、川崎市と転々とし(甲一六一)、Jは、平成八年五月二八日、川崎市で警察に保護され、鹿沼市の実家に帰ることができた(J証言公判準備四六六丁、J証言第七回公判一六〇丁以下)。二 Eの受傷、被告人の暴行など(公判回数は、特に断りのない限りJ証言のものである。)
1 平成元年八月まで
昭和六三年一一月一九日、被告人とEが訪れたかつら店の者は、Eの右こめかみあたりに殴られたような拳ひと握り大の腫れた傷跡を見た。Eは、答えにくそうに転んだ傷ですと言っていた(甲一九七)。後の暴行の事実に照らせば、被告人はこのときすでにEに対し暴行を加えていたものと認められる。
昭和六四年一月二日、Eの母は、Eから、友達の車を傷付けたから今日五万円を送ってくれと頼まれた。電話の背後には誰かいるような気配で、Eはその者と相談しているように感じられたが、Eは、そばに人がいることを否定した。(甲二五〇)同月四日、Eの母は、XでEと会った。その部屋には被告人がいた。Eの話によると、交通事故を起こしたのは被告人のようなので、なぜEが金を払う必要があるのか、母には要領を得なかった。(甲二五〇、甲二五一)
平成元年三月一八日ころ、Eの父がXに行ってみると(Eの父は、三月七日付けで、W製作所の社長に、一度会いたいという手紙を書いている、甲二五五)、

W製作所をやめた理由は手や足(ひざ)が二月の上旬より荒れ始め、いっこうに治らず、ドクターストップかけられたからやめたんだ。

二六才にもなれば彼女のことやプライベートのことをなんで親にいちいち母さんやお父さんにはなさなければならないのかなっとくできません。

などと記載したメモがドアにあった(甲二五〇、甲二五一)。 平成元年三月二八日、Eは顔面全体にわたる一度から二度の凍傷の治療を受けた。Eは、ガスライターのボンベを顔面に吹き付けたと言っていたが、自分の過失で顔面全体に吹きかかることは不自然であるから(甲六六、甲七〇)、人為的な傷害と認められる。被告人は、ライターのボンベのノズルをふざけて外したら、ガスがEの顔に吹きかかったので病院に一緒に行ったと供述するが(乙一六)、信用できず、故意による噴射と認められる。
平成元年七月三日、Eは、右大腿部の熱傷で治療を受けた。直径約一〇センチの円形状に発赤性びらん潰瘍(かいよう)の病変があり、程度は二度であった(甲七一、甲七二、甲七四)。この傷害も被告人によるものと認定して差し支えない。 平成元年七月二六日ころ、被告人は、Eを車のトランクに押し込め、熱射病様の状態にしてしまったが、民家に立ち寄り、顔面蒼白で意識不明のEの全身に水道の水を掛ける程度で病院に連れて行かなかった(甲七五、甲七六、第三回公判三九丁以下、第七回公判二〇九丁裏以下、乙一六)。
Jがb町の家に泊まるようになったころ、Eは年下の被告人から命令をされたり、掃除をさせられたり、被告人から拳骨で殴られたりしていた(第三回公判一八丁裏、第七回公判二〇五丁裏以下)。Fに転居したころ、Eは、Fの駐車場の車の中で寝ていたり、共同洗濯場で腰掛けていた。Jが、被告人にそのことを話すと、やつはああいうことをするのが好きなんだよと言い、Eに対しては、わざと見つかるようにして哀願しているんだろうと言って、拳骨で顔、頭、首、肩を殴り、腹部付近を蹴ったりした(第三回公判三一丁裏以下、第七回公判二〇七丁以下)。EがFにあまり泊まらないころは、Eは台所で寝ていた(第九回公判三八一丁裏以下)。 平成元年七月三一日、Eは両こめかみに黄色の液体の滲出(しんしゅつ)した二度の熱傷で治療を受けた。Eは、医師に対し、花火がきれいなので顔を近づけたら火
傷したと言っていたが、花火での負傷なら顔の前面か片面の負傷になるはずだから、両こめかみ(二か所)に負傷するのは不自然である(甲六七、甲六八、甲七〇)。被告人は、Jに対し、Eのこめかみあたりが黒く皮が乾いた感じの傷について、Eが花火で火傷したと言っているが(第三回公判四九丁裏)、Eの過失による負傷とは認められず、被告人が火傷させたものと認めるのが相当である。 Jは、被告人から、被告人はかつて暴走族に入っていて人の頭にベンジンをかけて火を付けたという話を聞いたことがあり、被告人がb町の家やFでEの顔の近くにライターをちらつかせるのを目撃したが、Eは被告人に抵抗も反抗もせず、Fから足が遠ざかることもなかった(第三回公判四七丁裏以下)。
平成元年夏ころ、被告人は、日差しの強い丙競艇場で、Eに対し、体を焼けと言って、四、五時間日向に座らせた(第三回公判四四丁以下)。弁護人は、被告人とEの位置関係などが明瞭ではなく、他の観客の存在を考えれば、Eがどこで何をしていたかまで正確に分かるはずがないから、J証言は信用できないと主張するが、被告人とEの関係、Eの性格からすれば、十分あり得ることである。 平成元年八月六日、被告人は、信号無視で検挙され、同年一〇月二九日、指定速度違反で検挙された(甲一四九。平成元年初めころ被告人が勤務していた会社の者は、被告人が赤信号の交差点を平気で無視して運転する姿を見たと述べている、甲二七四、甲二七五)。
平成元年夏ころ、① 被告人は、後続のE車両が赤信号で停止すると怒って、車の窓からEの頭を二、三回拳骨で殴ることが何度もあり、② 被告人とEと同乗しているとき、被告人がEの頭や顔あたりを拳骨で殴ることが何度かあり、③ Jも同乗しているとき、赤信号で行っちゃえとか、追い越ししろと命令したり、哀願するなとか言いながら、Eの頭、顔、首、肩などを拳骨で殴ることが数えきれないくらいあった(第三回公判四五丁以下、第九回公判三七九丁)。弁護人は、①について、別々の車に乗りながら窓から殴ることはほとんど不可能であり、②について、後続車両のJが被告人がEを殴っているシルエットを見たといって、それが暴行かどうか明確に述べることはできないはずであり、③について、Eか被告人が運転中に、強く殴れば運転に危険が生ずるから暴行というほどのものではなかったと推測されると主張して、J証言に信用性はないと主張するが、採用できない。
2 平成元年八月の髪切り事件(甲五〇、甲二八〇、第三回公判五〇丁以下、第七回公判二一七丁裏以下、第八回公判二二六丁以下)
平成元年八月二八日ころ、被告人は、Aから借りた六〇万円を持って、J及びEとともに戊職業安定所に行った際、事務所北側公衆電話台上で、現金四〇万円など在中のバッグ(被害届ー甲五〇ーに記載された被害)を置き引きされた。Jは、バッグごとEに渡した私が悪いのなら坊主になると言い、Eは、自分が悪いのなら橋から飛び降りると言った。被告人は、以前、Eに対し、

保険を掛けて橋から飛び降りて死んでもらうか。

と言ったことがあるので、Jは、Eは、被告人に命じられると本当に飛び降りてしまうかもしれないと恐ろしくなり、また、自分の親に盗まれた金の請求をされるのは嫌だなという思いから、被告人が寝たあと、Eに対し、髪を切ってもいいと言った。Jが何度も

切っていい。

と強く言ったので、Eは、Jの髪を五分刈りくらいに切った。翌朝起きてきた被告人は、Jの頭を見てうろたえ、有限会社Zの社長を呼び、同社長の仲介で、EがJにかつら代と二か月分の生活費を支払うことになったが(甲二八〇)、かつらは作られなかった。被告人は、その後、髪切りのことで、お金をどうすんだと言ってEを殴ったりした。
3 髪切り事件以後
Eは、髪切り事件以後、毎日のように、Fに来て、夜も帰らなくなった。Eは、被告人の指示により、台所で寝かされていた。被告人のEに対する暴行は、髪切り事件ののち、激しさを増すとともに頻繁になった。頭を殴るというのは毎日のようにあった。被告人のEに対する暴行の理由は、ぱちんこの玉出しが悪いとか哀願しているという訳の分からないものであった。(第三回公判六二丁裏以下)
浴室での暴行(第三回公判六四丁裏以下)
被告人は、平均して週に一、二度、浴室でEに暴行を加えた。六畳間にいるJにドンドンとかコンコンという身体が壁に当たるような音、被告人の怒鳴り声、Eの悲鳴、被告人の声を出すなという怒鳴り声の後のEの押し殺すような声などがはっきり聞こえて、Jには地獄のように思えた。Jが実際に目で見たのは、E死亡から約一週間以内のときで(第三回公判九二丁以下、六五丁)、このとき、被告人は、仰向けに端のほうに押し寄せられているEの腹部付近を蹴っていた。 弁護人は、J証言について、① F一〇二号室の浴室は、一〇三号室側にあるが、
浴室での音がかなり大きな音であったというにもかかわらず、一〇三号室の入居者をはじめ誰ひとりとして、苦情を言ったものはない(甲七八、第八回公判二六八丁)、② Jは、Eが被告人に押し入れから飛び降りさせられたとき(後記その他の暴行の項参照)の音について近所迷惑だからやめなよと声をかけたことがあるというのに(第三回七三丁裏)、浴室の音については気にしていないのは不自然である、③浴室は非常に狭いので(甲五一、甲四六三)、身長が一・七メートルを超えるE(被告人第四一回公判一九一〇丁裏)が、浴槽と便器の間に横になることはできず、Eがどのような体位であっても、手足を振り上げるなどして思い切り殴ったり蹴ったりすることはかなり難しい、④ J証言は、Jの共犯者意識と自己弁解の問題から、浴室での暴行があったとしても、回数、程度などについて実際とは大きく異なる証言をしている可能性が高いなどと主張してJ証言の信用性を争うが、①②については、Eの所有者庚は、一〇二号室で、男性が怒鳴っているような大声を二、三回聞いている(甲七八)。音に対する敏感さは人により異なることや、他人には干渉したくない世相などに照らせば、苦情を言わなかったことが、音や声がなかったことにはならない。③については、J証人もEが横になったり体を伸ばしたりする余地はないと証言しているが(第三回公判六三丁裏)、便座に座らせたEの腹部を殴るぐらいの空間はあるし、Eが体を丸めれば、床にいることもできる。④については、後に検討する。
浴室などの血痕
Jは、浴室内で血のようなものを見たことがあり、平成元年九月か一〇月ころ(Jが己に勤めていたころ、甲八九)の朝、台所の流し台の壁、その上部の戸棚及び玄関ドアの内側に、血痕を見たことがある(第三回公判六八丁裏以下、甲五一)。 弁護人は、Jは多くの暴行は浴室で行われたと証言し、台所や玄関での暴行を目撃したことは述べていないだけでなく(第三回公判六九丁裏)、検証に当たり台所で指示した場所(甲五一の見取図その二二)は、場所的に高すぎると思われるのであって、その証言は信用できないと主張するが、目撃しない事実は存在しない事実ではないし、場所的に高くても血が飛び散ることはあり得る。
その他の暴行(第三回公判七一丁以下、第八回公判二五二丁裏)
被告人は、① ベルトを鞭(むち)のように振り回してEの頭をねらってたたいた、② スプレー缶でEの頭を殴った、③ 浴室で、Eの肛門に棒を突き入れた、④ フライパンでその底が盛り上がるほど、Eの頭を殴り、Eさんは石頭なんだよと言い、Eの頭を見て、頭にかさぶたができていると言っていた、⑤ 五、六回ばかり、手足を使わずに押し入れの上の段から下に尻から飛び降りさせた。
弁護人は、①は、被告人がふざけてやったことがあるかもしれないと供述しており(被告人第四一回公判一九一一丁裏)、わざと傷付ける目的でしたのではない、②③は、証言が簡単すぎて、どのような状況下で行われたか全く不明であって信用できない、④は、Jは、単にフライパンのへこみを見ただけであって、その時Eの頭の様子を見たわけではないし(第八回公判二五二丁裏以下)、被告人によると、むしろ、フライパンで殴ったのはJであるとの供述(乙一六、被告人第四一回公判一九〇七丁以下)もあるくらいであるから、フライパンによる暴行の事実は証明されていない、⑤は、被告人によると、テレビのコマーシャルを見て忍者の物まねをさせたのであり、自分も試してみたとのことであって(被告人第四一回公判一九一二丁以下)、Jの言うような暴行とか虐待ではないと主張する。
しかし、①は、本人はふざけてやったとしても暴行に変わりはない。②③は、証言が簡単であるからといって信用できないとは言えない。特に③の事実は残虐で印象的な出来事であるはずである。④は、Jは単にフライパンのへこみを見ただけで被告人がEの頭を殴ったと推測したのでないことは、証言自体(第三回公判七二丁裏)から明らかである。⑤も、仮に被告人が述べるとおりであったとしても、そのような行為に痛みが伴わないはずがなく、Eに対する虐待に変わりはない。 4 被告人とEは、平成元年一〇月五日から同月二〇日までYで深夜アルバイトとして働いた(甲二八二)。Eは二〇キログラム位の品物を持つことが出来ないなどの理由で辞めさせられ、被告人は、Eが辞めるなら自分も辞めると言って辞めた(甲二八三)。
被告人は、Eが首になったことを怒り、浴室で暴行を加えた(第三回公判七八丁裏、第九回公判三三九丁、三四二丁)。
Yを辞めるころ、Eは足首が腫(は)れ、足の甲が火傷の跡のように広く皮がむけていて、片足を引きずっていた。被告人は、Yの仕事中けがをしたと言っていたが、Jには、被告人がEをいじめたことにも関係があるのかなとふと思えた(第三回公判
七九丁以下、第九回公判三六一丁以下)。Jの推測は当たっていると言わざるを得ない。
なお、Jは、髪切り事件以後、被告人とEがYに勤める前、「出てって。」と言いながら、Eの肩を両手で二、三回突き飛ばしたり、太腿(ふともも)辺りを一回蹴ったことがある。Eは尻もちをついて転び、すぐ起きあがって、被告人と一緒に出て行った。Jは、被告人のEに対する暴力を見たくも聞きたくもなかったが、被告人に直接注意すると、Eに気があるのかということで叱られ暴力を振るわれるし、

おれとEさんは因果関係があるんだから口を出すな。

と言われる上、Eも被告人から哀願しているのかと言われて更に激しい暴行を受けるので、被告人に注意できず、Eさえ家に来なくなれば解決がつくと思ってやったことであった。Eはしばらく来なくなったが、また、台所でも押し入れでもトイレでもいいですから、泊めてくださいと言って、Fに来るようになった。(第三回公判七四丁裏以下、六八丁)
5 Y退職後の状況(第八回公判第二五九丁、第九回公判三三五丁裏以下) Y退職後、被告人とEとJはぱちんこをしに行くことがあったが、玉出しが悪いと、被告人はEに暴行を加えて、Eに表に出られてはまずいような傷を負わせた。 6 親に対する最後の電話
Eの父が、平成元年一〇月三一日ころ、被告人に対しEとの連絡を依頼したところ、その晩のうちにEから父に電話があり、父が勤務先や連絡先を尋ねると、

彼女に迷惑がかかるから。

と言うばかりであり、らちがあかなかった。同年一一月一日昼ころも、Eから母に電話があり、

彼女に迷惑がかかるから連絡先なんかは言えない。彼女に子供ができたようだ。帰れない。

旨電話があったが、同日午後五時過ぎころ再度あった電話は、

被告人は悪い人だから、もう付き合わないよ。もう被告人とは関係ないから。

というものであった。これがEの最後の音信であった(甲二五〇、甲二五一)。F一〇二号室に電話はなく(第八回公判二六二丁)、Eが外出して電話をかけたものと認められる。
7 給料の受け取り
平成元年一一月初旬ころ、被告人とEは、Yに給料を取りに行った(甲二八三)。8Eの衰弱から死亡を引き起こした被告人の暴行まで(第三回公判八〇丁以下、第八回公判二六六丁以下、第九回公判三三〇丁以下、三四三丁以下) Eは片足を引きずることからけんけんで歩くようになった。Eは、目の辺りが腫(は)れ、顔に痣があったり、口が切れたりし、耳は最初赤い傷が悪化して青黒く腫れ穴が見えず餃子(ぎょうざ)のような感じであった。両手のひらの皮は火傷のように全体的にむけ、肘の内側付近に丸くえぐれたようなどろっとした感じの傷があった。被告人は、オキシドール(甲九二)をかけたり、湿布のようなものをしたり、軟膏を塗ったりした程度で病院には連れて行かなかった。
初めは、Eを押し入れに入れ、被告人が外出するときは押し入れの入口を外からネクタイで縛って出られないようにし(ネクタイで縛ったのは一、二回、第九回公判三八七丁裏)、排泄はごみ袋等でさせたが、もれて汚れることから浴室で寝かせるようになった(第三回公判八二丁裏以下)。
押し入れの血痕
押し入れ内からは、DNA型がEのものと一致する血痕、Eの血液型と一致する多数の血痕が発見されている(甲五二から甲六五まで)。
Eを浴室に押し込めた期間が約二週間、その後六畳間で寝付いてから死亡するまでが約一週間あった(第三回公判八三丁裏、九〇丁裏以下)。
Eは浴室の便座に座っていられる状態から、段々壁に寄りかかるようになり、口数も少なくなり、服が緩くなるほどやせ、のど仏が目立ち、けんけんでも壁に手を当てないとふらつくようになり、普通に排泄もできなくなったため、被告人がおしめをさせた。被告人はEに食事を抜かせたり、逆に三合くらい炊いた米飯をジャーごと全部食べることを強要したりした。(第三回公判八五丁以下)
Eを浴室に寝かすようにしていたとき、Eが夜中に台所で包丁を両手で胸の前に持ち、六畳間に刃先を向けて立っていたことがあった。Jが見付け、被告人を起こすと、被告人は、

何やってるんだ。

と叱り、Eは

出てたのでしまおうとしてたんです。

と弁解した。翌日、Jが被告人に

包丁を持つぐらい恨んでるんじゃないの。もうこういうことはやめたほうがいいよ。

と忠告したが、被告人は、Eを

なんかずるいことを考えているんだろう。

と責め、浴室で暴力を振るい、その暴力は、その後、それ以前にまして激しくなった。(第三回公判八七丁以下)
その一週間後、Eが発熱したため、被告人は、敷き布団一枚と毛布一枚とで布団に寝ることを許した。被告人はドリンク剤や解熱剤を与えたり氷で頭を冷やすなどの
手当をした。
布団で寝かせ始めて二、三日目に、Eは生卵をかけたご飯が食べられるぐらいに回復したが、体力はなかった。被告人は、Eに歩く練習をさせ、

壁に手をつくな。

手を使って起きるな。

病気の振りをするな。

などと言って、Eがふらつくと、最初からやり直させたり、浴室で折檻した。浴室の中でドンドンといういつもよりも大きい音がし浴室のドアがぎしぎし騒がしい音を立てていた。Eの衰弱を知っていたJは、このときはさすがに、浴室に止めに行った。Eは、浴室の中で仰向けで端のほうに押し寄せられ、被告人は、足の裏で腹部を何回も蹴り付け、Eは身動きとれない感じであった。(第三回公判九一丁以下)
Eの状態は更に悪化し、寝たきりになり、粥を口の中に入れても吐き出して全然食べられない状態になった。
弁護人は、Jは、弁護人に対しては、Eが布団に寝かされていた期間は、被告人の暴力はなかったと証言しているし(第九回公判三四八丁)、Eの死の直前の状態についての証言はふらついているところがあるから、信用できない。J証言には、被告人への敵意と共犯者意識に基づく自己責任の回避や被告人への責任の押しつけといったことを考慮の外に置くことができない。被告人は、Eの亡くなる前の状態について「Eさんが亡くなる前の状態というのは寝込んでいて熱がある状態です。と述べ、亡くなった日を入れて四日前に、六畳洋間でEに対し、ぶっ飛ばしたり、間接的な暴力を加えたと述べているから、Eの死の前の状態は、熱が出ていて寝ていたということ(この点は争いがない)と、何らかの意味で暴行が死の数日前にあったこと以外には、何の事実も証明がないものといわなければならない。」と主張するが、まず、Jは、

布団に寝かされてというか寝ていた期間は、暴力はなかったのと違うんですか。

という問いに

布団に寝かされたときはなかったです。

と答えているが、この証言は、Eは布団の上で暴行を受けたことはなかったという趣旨に解されなくもないし、Jはその期間内に浴室で暴行があったことは現にその目で見たと証言しているのであるから、Jが期間という点を意識し重視して答えたとは考えられない。Eの死の直前の証言がふらついているとも思えない。共犯者意識などの問題については後に検討する。
Eの衰弱状態を危惧(きぐ)したJが被告人に対し

病院に連れて行ったほうがいいんじゃないの。

と言ったが、被告人は連れて行かなかった。その二、三日後(第九回公判三五〇丁)の午前中、ぱちんこ仲間の辛が被告人を迎えに来て被告人が外出することになった。被告人が不在のときは浴室に入れることになっていたため、被告人が、Eを抱え起こした。Eは壁づたいにふらふらして力もなく浴室に入って行き、被告人も浴室に入った。すると、浴室の中からゴンゴンという音が五、六回は聞こえた。
その後、Eは、ふらふらした足取りで、手は前に垂れ、つんのめりそうな感じで六畳間に飛び出して来た。被告人は、Eを追って、浴室から出て来て、Eの後ろから肩辺りをつかもうとしたがつかめず、手を軽く伸ばせば届くくらいの距離から拳骨でEの頭か肩、首辺りを一回殴り付けた。Eはよろめいてタンスの方を向き、寄りかかろうとしそうに見えたが寄りかかれず、仰向けに膝も折らず腰も曲げず、尻からつくとか手を先につくとかいうこともなく、棒倒しのように後ろの布団上に倒れた。(ここの二段落につき、第三回公判九五丁以下、第八回公判二七〇丁以下、第九回公判三五三丁以下)
弁護人は、J証言と平成八年六月一四日の検証(甲五一)の際のJの指示説明は、指示説明では、① 被告人がEをつかまえた、② つかまえた手を離した(殴ったとの説明はない)、③ 被害者は洋ダンスに寄りかかったとあるが、証言では、① 被告人はEをつかめず、② 拳骨で殴った、③ タンスには寄りかかれなかったとあり、公訴事実の最も重要な事実に相違がある。この点はEの死の直前の状況の証言であり、確かに記憶しているのであれば、本来、揺るぎないはずのものである。それが、指示説明と五か月後の証言で異なるというのは、証言の信用性に共犯者意識と自己弁解という問題があるからである。と主張する。後で検討する。弁護人は、更に、J証言によれば、Eが死亡したのは午前中と推測されるが、A証言によると、AがFに到着したのが午前六時半ちょっと前ころであるから、少なく見積もっても死後約一八時間は経過しているところ、Aは死体の手を組ませたり、布団と一緒に自動車の後部座席に乗せた(遺体を折り曲げなければ入らないはずである)というのであるから、死後約一八時間でも、遺体に強い死後硬直がなかったことになり、法医学の定説に反するので、J証言は事実に反する疑いが極めて強い、むしろ、被告人が言うように、午後三時以降に動かなくなって死亡したとの供述
の方が、時間的な点では信用性が高いと主張するが、死亡時刻については、専門家の医師が確認したわけではないから、Eが昏倒後しばらく生存していた可能性を否定できない上、死後硬直があっても、時間の経過の多寡によっては、手を組ませることは別としても、後部座席に入れる程度に体を折り曲げることが絶対に不可能であるとは言えないから、弁護人の主張は理由がない。
9 Eが倒れた後の措置(第三回公判一〇二丁以下、第八回公判二七四丁裏以下、第九回公判三五三丁裏以下、三五九丁以下)
Jは、Eに駆け寄り名前を呼び、被告人も慌ててEのそばに座って名前を呼んだり体を揺さぶったり、脈を取ったり、心臓に耳をやったりしたが、Eは目を閉じたまま反応がなかった。Jが

死んじゃったんじゃないの、どうするの。

と尋ねると、被告人は、

夜にならなきゃだめだ、俺は出掛ける約束をしてたので、行かなきゃ変に思うだろう。救急車や警察を呼ぶな、騒ぐな、おとなしく待ってろ。

(第三回公判一〇三丁)

あ、時間が過ぎてる。

(第九回公判三五三丁裏)と言って、Eに毛布を掛けて出ていった。Jは、Eの腹部あたりを注視していたが全然動かないので怖くなり、被告人が出掛けてから約五分後にバッグに自分の荷物を入れて鹿沼の実家に帰った。三 そこで、弁護人がJ証言には全体的に信用性がないとして主張するところを検討する。
弁護人は、次のように主張する。Jと被告人は、つきあって間もない時期に肉体関係ができ、平成元年七月以降から同棲生活が始まり、その後、被告人が逮捕されるまでの間、栃木市、小山市、前橋市、川崎市などにおいて同棲等を継続し、Jの様々な弁解にもかかわらず、七年余にわたり愛憎半ばしながらも実質的内縁関係ともいうべき関係にあった。その間、平成元年一一月、Jが地獄のようだと表現するような経過の中でE事件が発生したが、Jは、前記のとおり、その後も被告人と行動を共にしてきたのである。(1) このような関係にあったJについてまず指摘しなければならないのは、JのEの死に対する共犯者としての意識の存在である。ア Jは、髪切り事件でいっそう深まったEに対する嫌悪感、敵意などがJの自認するEに対する暴力につながり、地獄のようだといった感想を抱きながら警察に通報するなり、他人を呼ぶなり、自分が阻止するなりしないで、Jの言うところの被告人のEに対する暴行・虐待を見過ごし、Eの死亡に至ったのであり、Eに対し抱いていた悪感情や自らも加えたことのある暴行がEの死を導くことにつながったと考えるのは自然である。被告人との間で、Eの死に対する共同責任的な気持ち=共犯者意識が生まれ、そのことが、七年余にもわたり、社会の表から自らを隠す逃亡生活のような時間を過ごさせたのである。共犯者が相手に対し恨みや敵意などを持っていれば、その供述は虚偽を含むものとなりやすい。精神的に共犯者意識を持っていたJの証言の信用性には十分な注意を要する。イ Jの共犯者意識は、Eの死が主に被告人の行為によって発生したものであるとの認識があることから、被告人への責任の集中の意識、Eを救えなかったことからの必要以上の自己弁解の気持ちに発展することは自然であり、七年余の愛憎半ばする内縁的ともいうべき関係が、被告人の逮捕により切断することにより、一気に、被告人と過ごしてきた時間に対する反発や後悔などの念が噴き出し、それが、共犯者である被告人への責任の集中とJの責任の回避の気持ちを生じさせた可能性は高い。その結果、証言が七年前の事件についてのものであることもあって、記憶の変容等をもたらしている可能性は高い。(2) Jは、被告人が逮捕、起訴されることにより、七年余の内縁的ともいえる被告人との生活の中で鬱積(うっせき)していた被告人に対する被害感情が一気に噴き出し、Jの気の強いしたたかな性格とあいまって、被告人に対する必要以上の反発から、その責任を厳しく糾弾しようとする余り、被告人の行為を過大に誇大に証言することになっていはしまいか。
弁護人の主張は難解であるが、要するに、① JはEの死を阻止しえなかったという後悔から精神的に被告人と共犯であるという意識を生じさせ、その意識のもとで、被告人に対する敵意、恨みから被告人に責任を集中している、② Jの気の強い性格と被告人に対する反発が誇大な証言をさせている、③ 七年前の事件であり、記憶に変容が生じているので、証言の信用性には疑問があるというのであろう。 そこで検討すると、確かに、Jは、Eを救命できなかったことから、自分も共犯者であると思っていた。JはEを救命できなかったことを悔やんでいる(第三回公判一〇五丁)。Jは、被告人のEに対する虐待を見ながら見ないふりをし、警察に通報できなかった怯懦(きょうだ)な態度を悔やんでいる。J自身苦しんで来た。そのようなJであるから、JはEの供養になることを願って(第七回公判一六三丁)、事実ありのままを証言したものと認められる。Jの共犯者意識は、道義的あるいは弁護人の言うとおり精神的なものに過ぎない。精神的な共犯者は、刑事責任のある行為を実際にしたわけ
ではないから、自らの行為の責任を他人に押しつけようがない。責任を転嫁しているのは被告人であり、被告人は責任を転嫁できないと分かると、口止めにかかっている。Jは、被告人がJに責任を転嫁するので警察で白黒をはっきりつけようとしたが、被告人から、今にも殺されそうな暴行を受けたり、Jの家族に危害を加えると脅迫された(第三回公判一〇五丁以下、第六回公判一三七丁以下、第八回公判二九七丁以下。被告人も責任の所在でJとけんかしたことは認めている、被告人第四二回公判二〇二一丁以下。)。被告人は、Jに対し、Eが死亡したときのことを口外しない旨の誓約書や念書を書かせた(第六回公判一四四丁以下、公判準備四一九丁以下)。 Jが一面共犯者意識を有していたとしても、Jの証言に信用性があるのは、次の理由による。
① 被告人のEに対する暴行には客観的な裏付けがあるところがある。火傷に対する医師の供述があり、熱射病様の症状に対する准看護婦(熱射病様のEに場所を提供した民家の者)の供述(この件は被告人も認めている、乙一六)がある。被告人の呪縛に囚われていたかのようなEも耐えきれなくなり、平成元年一一月一日には

被告人は悪い人だから、もう付き合わないよ。

と母親に述べている。押し入れの扉や押し入れ内の石膏ボードにはEの血痕が点々と付着していた。被告人とEが行動をともにしているのを見た者は、被告人がEに命令し、Eはおどおどした態度であったと述べている(甲一九七、甲九一、甲二六〇、甲二八三)。② Jは、被告人がEを看病したという被告人に有利なことも証言し(第八回公判二六八丁裏以下、第九回公判三四八丁裏以下)、被告人に対し、Eの印象について変な人だという趣旨をこれよりきつい表現で言ったという不利なことを証言し(第七回公判一七一丁以下)、自らEに暴力を振るったという不利なことを捜査段階から述べ(第九回公判三二三丁以下)、Eを押し入れに入れたとき入口をネクタイで縛ったのは、JがEとふたりきりで留守番をするのは嫌だと言ったことが契機となったというJに不利に働くことまで証言している(第九回公判三八六丁)。公判準備では、不利な事実を詳細に証言している。③ 被告人が浴室でEにけつを出せと言ったあと、被告人が便のようなものがついた棒をJに見せたという事実は強烈であり、Jが虚偽を述べるとは考えられない。④ Jは、被告人が

哀願するな。

と言ったとか

因果関係がある。

と言ったと証言している。かなり独特な言い回しであり、被告人が実際に述べたことと考えられる。これらの点を考慮すれば、Jの証言には信用性が認められる。
Jは七年前の事件の記憶を喚起することに苦労した面があったのは事実と思われるが、Eの死の直前の状況についてのJの証言が、責任を被告人に集中しているとか、Jの同証言はJが責任を回避した結果であるということは、およそ考えられない。当日、実際は被告人の暴行以外の原因(病気、事故など)でEが死んだのに、Eを救命できなかった負い目から、被告人がEに暴行したとありもしないことを証言する必要があろうか。
これに対し、被告人の捜査段階から公判までの否認供述は、多くの変遷を重ね(壬証言第四二回公判一九五八丁以下、乙一二、乙一五、乙一八、被告人第四一回公判一九一三丁)、その中には思わずごくわずかに真実を漏らしたような部分も見受けられないではないが、おおよそ信用できない。
四 殺人の認定
以上に認定した事実経過によって考察すれば、被告人は、Eに対し未必の殺意を持って殴りかかり、その結果、Eが死亡したものと認定するのが相当である。すなわち、被告人は、衰弱したEに対し、おざなりの手当てをしただけで、医師の診察を受けさせることはなかった。当時のEの状態は、自然治癒など期待できる状態ではなかったと見てよいから、そのままEを放置すれば、いつかは死亡する恐れが強かった。被告人は、いずれEは死亡するであろうと予想していたと認定するのが相当である。しかし、Eが死亡すれば、C死亡の時のように死体の処置に窮することは目に見えていたから、すぐにも死を迎えさせることは意図していなかったはずである。被告人はEを飼い殺しの状態に置いていたものである。被告人は、Eがいずれ死ぬかもしれない衰弱状態にあることを知りながら、浴室で暴行を加え、たまりかねたEが浴室からふらふらと逃げ出すと、執ように後を追って殴り付けた。Eが昏倒すると、慌てて心臓の鼓動などを確かめるなどしたものの、外出の時間になると、Jに救急車や警察を呼ぶことを禁止して出掛けてしまった。被告人は、Eの生命に対する配慮などまったくなしにEに暴行を加え、Eが昏倒すると放置した。被告人のEに対する暴行は、Eの死亡を認容した意思のもとでの暴行であり、その結果、Eが死亡したものと認めるべきである。 1 弁護人は、被告人の行為とEの死亡には因果関係がない、Eの死の原因は不明である、Eの死亡は、発熱の原因となった疾病等によるという可能性があり得る、発熱の原因となった疾病等とその以前の被告人の暴行とにつながりがあるとの証明はない、Eが衰弱していたとしても、その衰弱が死の寸前に近いくらいのものであったことの証明も何もない、その衰弱は疾病等による可能性を排除できない。と主張するが採用できない。
Eは、支えなしに便座に座ることができず、おしめをして寝かせられることになったが、回復に向かったとき、被告人から浴室で腹部を蹴られるなどの激しい暴行を受け、被告人を恐れ被告人の暴行を制止するのを控えていたJもさすがに止めに入った。そのあと、Eの衰弱は進行し、寝たきりの状態になって、粥をも吐き出し、Jが病院に連れて行ったほうがよいと考えるほどであったところに、被告人の暴行を受け、Eはその直後に死亡したのであるから、被告人の暴行とEの死亡には因果関係があると認めるのが相当である。
2 弁護人は、被告人は、Eの死亡前、Eを六畳間の布団で寝かせ、療養看護をしており、J自身、Eの死亡を予見しなかったように(第八回公判二七〇丁)、被告人もEの死亡を予見しておらず、死亡の直前には、Jはテレビを見ていたか、音楽を聴いていたというのであるから(第九回公判三五五丁)、その時のEの状態を深刻なものとして認識していなかったことが推測され、JによるとEが仰向けに倒れたとき、被告人もJも周章狼狽していたというのであり、被告人にもJにもEの死亡に対する予見は全くなかったのであって、仮にJの言うように、当日、被告人の暴行があったとしても、被告人がEの死を予見して暴行を加えていたとは言えない。と主張するが、採用できない。
Eの衰弱の程度は、1で述べたとおりであり、Jが被告人に対し、病院に連れて行ったほうがいいのではないかと言ったということは、外見から観察できるEの衰弱状態が、そのまま放置すれば、いずれ回復困難な重大な障害あるいは死の転帰に至る危険性があることを察知したからに他ならないことを示している。被告人らがEを看病した事実はあるが、Eが回復に向かうと、被告人は、激しい暴行を加え、Eの衰弱を進行させているのであるから、被告人の看病は、一時しのぎのものにすぎない。本当にEの回復を願っていたのであれば、医師の診察を受けさせていたであろう。
次に、確かにJは死の恐れを感じなかったと証言しているが、そのくだりは次のとおりである。
熱を出したときに何か手当てをしましたか。
・・・氷のうを作ったことがあると思います。
(中略)
Eさんの体温を測ったことがありますか。
覚えてないです。
そういう発熱でもいいし、けがの具合でもいいんだけれども、病院に連れていくとか、あるいはお医者さんに来てもらうとか、実際に医者の手当てを手配した、頼んだことはありますか。
ないです。
実際、そのときにはEさんがもしかしたら死んでしまうという恐れを感じましたか、感じませんでしたか。
感じませんでした。
これによれば、JはEの発熱のとき(回復に向かう前)のこと、あるいは、Eの身体の負傷状態を念頭に置いて証言しているのであり、死の直前にJが病院行きを勧めたときの状態を念頭に置いて証言したものではないと解される。
Jが音楽を聴いていたかしていたことについても、Jは、浴室のゴンゴンという音を聞いて、Eが衰弱しているのを知っているはずの被告人が何をしているのか分からないと思った瞬間にEが浴室から飛び出してきたのであり(第九回公判三五六丁)、Jは悠長に音楽などを楽しんでいたのではない。
Eが昏倒したとき、被告人があわてた事実は、被告人が未必の殺意を有していたことと矛盾しない。
五 検察官は、論告において、被告人に確定的殺意があったと主張するが、検察官が冒頭陳述においては、未必の殺意を主張していたと解されることはともかく、被告人が確定的殺意を抱いていたと認めるに足る証拠はなく、検察官の論告での確定的殺意の主張は採用できない。
1 事件当時のEの衰弱状態が以前より進行していたことは認められるが、Eは壁を伝って移動することはできたのである上、被告人の本件暴行が、被告人の従来の継続的な暴行に比べて格段に強力なものであったと認めるに足る証拠はない。Jは、
事件当日に聞いた浴室での音は、Jが止めに入ったときの音より小さかったと証言している(第九回公判三五五丁裏)。ただ、衰弱していてすら必死に逃げ出さなければならなかったほどの苦痛を被告人が与えたことは認められる。2 被告人が事件当時、確定的にEを殺害する意図を持つ理由があったとは思われない。事件当時は、被告人の仲間が迎えに来ていた。このようなときに、Eの殺害を企図することは考えられない。被告人は、それまでの日常的な暴行の一環として暴行を加えたものと認められる。
3 Eが、被告人に背後から殴られ、棒のように仰向けに倒れたとき、被告人は慌てて名前を呼んだり脈をとるなどしている。確定的殺意を有するものが慌てるはずがない。死体遺棄をする者はみな確定的殺意を持って殺害に及んだ者であるということもできない。
検察官は、被告人は、Eの深刻な受傷状況が人目を引くことやその衰弱自体から同人を外出させることもはばかるようになってこれを厄介者と感じるようになっていたが、Eの衰弱の度合いが増すに従って、被告人の暴行・虐待行為が露見しないよう、Eの存在自体を抹殺して、Cを殺害したときと同じく死体を土中に隠ぺいし、その後更に焼却して処分してしまうほかないと、Eに対する確定的殺意を抱くに至った。その時期は、遅くとも、被告人が浴室でEに対し腹部などに激しい暴行を加えた時(被告人は、遅くともこの時点ではEの死の可能性をまさに肌で感じて十分認識し、かつこれを意図していたことは明らかである。)以降である。殺害実行の時期については、被告人はEの生殺与奪の権を完全に握っていたが故に、「いずれ必ず殺してしまうほかはない。、

それは今でもいいし、次の機会でもいいが、いずれ必ず殺してしまうほかはない。

と考えていた。」と主張するが、確定的殺意を抱いていたー日ごろから殺害を意図していたということであろうー者が、次の機会に殺せばいいと考えて暴行を加えた場合、それは、確定的殺意に基づく暴行ではない。今殺そうと、実行の時に考えることが刑法上の責任が成立する確定的殺意である。
検察官は、被告人には当日外出予定があり、その相手が付近まで迎えにきていたことがうかがわれるが、被告人はかねてから醸成され確固なものとなっていた殺意を、この日の暴行時に具現化させたものと認められるのであるから、外出予定の事実は、本件が、この日、この時に実行すると予め決めて行われたという意味で、計画的なものではないことを示すものではあっても、被告人の殺意の存在を否定する要素ではなく、むしろ、被告人にとってEの死は、当初から必然あるいは当然のこととして予定されていたものであり、自己の生活上の計画変更に値しないほど軽いものであって、被告人がこれをまさに歯牙にもかけていなかったことの証左であるというべきである。と主張するが、

いずれ必ず殺してしまうほかはないが、それは次の機会でもいい。

と思っていたという者がした本件暴行が、殺害を次の機会に延ばしたものではなく、今殺すと考えた上での暴行であるという論証が、検察官には足りないと言わざるを得ない。
検察官は、Eは、浴室で激しい暴行を受けたのちは、もはや、被告人がこれまで繰り返してきたような暴行・虐待をこれ以上継続すれば、仮にわずかな一撃であっても、即時、死に至る可能性が極めて高い身体状態に陥っていたのであり、Eは、右浴室での暴行を境に、決定的な衰弱の局面に至っていたのであって、自ら手を下した被告人には、そのことがまさに実感として明らかであったのである。と主張するが、検察官は、被告人は、この境の時期以後も激しい暴行を加えていた(第三回公判九四丁)と主張した上、本件起訴は、Eが死亡直前まで衰弱させられていく過程の最終局面に近い時期の被告人の殺意ある暴行のうち、最後の一日の行為を訴因として選択したものであると主張している。しかし、① 事件当日以前に、Eに対するわずかな一撃でも即時、死の危険があったというのであれば、被告人に確定的殺意がなかったとしても、事件当日以前に激しい暴行を受けたEはすでに死亡していたはずである。Eが死亡しなかったのは僥倖(ぎょうこう)と見るべきであると主張するのであろうか。Eは、事件当日、浴室で激しい暴行を受けたときよりも衰弱が進んでいたと見るか(検察官もこのような見方を示してはいる、論告要旨一八五頁。)、事件当時の暴行はわずかな一撃ではなかったと見るのが相当であろう(しかし、検察官は、事件当時の暴行を激しい暴行とは表現していない。)。② Eが決定的衰弱の局面に入ったのち、被告人に継続して確定的殺意があったというのであれば、被告人は、事件当日以前の激しい暴行でEを殺害していたことであろう。(法令の適用)
被告人の判示第一及び判示第二の各行為はいずれも平成七年法律第九一号による
改正前の刑法一九九条に、判示第三の1から6までの各行為はいずれも刑法二〇四条に、判示第四の行為は刑法六〇条、二〇四条にそれぞれ該当するところ、各所定刑中判示第一及び第二の各罪について死刑を、判示第三の1から6まで及び第四の各罪について懲役刑をそれぞれ選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四六条一項本文、一〇条により犯情の重い判示第二の罪(判示第一の罪は確定的殺意に基づく犯行であり、判示第二の罪は未必の殺意に基づく犯行であるが、本件事案においては判示第二の罪のほうが犯情が重いと考える。)の刑で処断し、他の刑を科さないこととして、被告人を死刑に処し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。
なお、弁護人は、死刑制度が憲法一三条、三一条、三六条に違反すると主張するが、憲法三一条は、法律の定める手続により生命が奪われる場合のあることを是認しており、憲法一三条も同一憲法内の規定であるから、死刑制度が容認できることを前提とした規定であるのは当然であり、死刑制度そのものが憲法一三条、三一条、三六条に違反すると解することはできない。
(量刑の理由)
一 本件は、被告人が、当時一八歳の妻Cに復縁を迫って拒否されたため扼殺(やくさつ)し(判示第一)、そのころから付き合いを始めていた年長のEに対し暴力を振るって衰弱させた末、未必の殺意をもって殺害し(判示第二)、E殺害の目撃者の女性を連れて約六年余にわたる逃亡中に、被告人の経営するいかがわしい事業の従業員二名に対し、熱傷等の傷害を負わせた(判示第三及び判示第四)という事案である。判示第一及び第二の犯行は、傷害罪等で保護観察付き執行猶予中の犯行であった。二判示第一の犯行は、動機に酌量の余地がない非道な犯行である。Cは、被告人の本性を見抜き、被告人から逃れようと母親のいる実家に逃げ帰り、被告人からの電話に出ることはもとより、その所在すら教えずにいたところ、被告人は、狡猾(こうかつ)にも、Cの母親に対し、Cが多額の現金を持ち出したなどと難癖をつけ、Cがその弁明と離婚話の決着を付けるため、被告人の呼び出しに応じて被告人の運転する自動車に乗り込むと、復縁を迫り、Cの翻意が得られないとみるや、他に男ができていたものと確信し、嫉妬(しっと)に狂い、破壊感情の赴くまま、残酷な性格をむき出しにし、たやすくC殺害を決意し、時をおかずに頸部圧迫によりCを窒息死させ、殺害したものである。窒息は、被害者の身体をのけぞらせ、けいれんさせるほどに激しい苦悶を与えるもので、それが相当時間継続しないと完全な死亡には至らないから、被告人は、かつて愛したはずの若妻の恐怖、苦悶の表情を目の当たりにしながら、あるいは、背後からその恐怖、苦悶を身体で感じ取りながら、殺害を完遂したと言わざるをえず、被告人の本件C殺害の犯行は、冷酷非情である。
Cは、小山市内の会社の事務員等として稼働しているうちに被告人と知り合い、意気投合して被告人との幸せを夢に抱いて結婚したものの、被告人の嫉妬(しっと)心、猜疑(さいぎ)心、独占欲が異常に強く、これらが暴力的に発現することに耐え切れなくなり、被告人と縁を切ろうとしたが、なお、夫婦として残るわずかな信頼から被告人と話し合いを持ったがゆえに、弱冠一八歳で、突如、命と未来のあらゆる可能性を無残にも奪い去られてしまったものである。Cの希望した夫との離別が、夫の手により恐怖と苦痛のうち生死の境を異にさせられるという形でしか実現できなかったことは不憫としかいいようがなく、Cの落ち度として責められるべき点は全くない。三 判示第二の犯行は、人間の尊厳を踏みにじる残虐な犯行である。被告人は、C殺害の前ころから付き合いを始めていたEが年長ながら被告人に対し従順であったことから、些細な貸借等をEの引け目になるように仕向けて、金を巻き上げ、家族から引き離し、虐待を加え、徐々に身体を衰弱させ、あげくの果てに、未必の故意ながらも、殺害したものである。
被告人は、Eに対し、ライターの火やガスボンベのガス噴射で火傷、凍傷を負わせたり、炎天下、車のトランク内に閉じこめ熱射病様にさせたり、手拳やベルト、スプレー缶、フライパン等で殴打したり、足蹴りを加えたりしたばかりでなく、肛門へ棒を突き入れるような通常考えがたい蛮行をし、浴室では、Jに地獄のようだと表現させる苛烈で無慈悲な暴行を加え続け、絶食と過食の強要などもした。Eは、顔に痣(あざ)ができ、耳は餃子(ぎょうざ)のように腫(は)れ上がり、手のひらの皮が火傷のように全体的にむけ、肘の内側に丸くえぐられたようなどろっとした傷ができ、身体がやせ細り、のど仏が目立ち、歩行も座った姿勢も保てず、垂れ流し状態となっておむつを使用させられた。発熱しても、発熱がおさまりかけると、歩行を強要され、失敗すると激しい折檻を加えられた。Eは、ついに粥さえ喉を通らない極限的な心身の衰弱状態に陥らされた。

Eに対する虐待の数々は常軌を逸している。これらの暴行、虐待は、ある暴行について被告人が端なくも面白半分などと供述しているとおり、従順なEが苦しむのを面白がりながら暴行のための暴行を加えていたと解して初めて理解できる。被告人の犯行の動機や経緯に一点の酌量の余地もない。被告人は、異常に加虐的な危険な性格の持ち主である。
被告人は、Eに対する暴行は死に直結するものであることを認識しながら、Eが生命を落とすのもやむを得ないという意思をもって、浴室内でEを殴打等し、Eが必死になって逃げ出すと、さらに背後から殴打し転倒させて死に至らせ殺害した。Eに対する殺人は、未必の殺意によるものとはいえ、長期にわたり心身に加えた執拗な加虐の果てのなぶり殺しであって、特に、Eが死に至る最後の数日間は、Eの死を認容して、Eの死を平然と日常生活に取り込んだ凶悪、冷酷な心理状態の中において、殺人を犯したものであるから、通常の確定的殺意、計画的殺人の悪質さを超える異常で残虐なものである。
Eは、銀行員の父を中心とする温かい家庭で育まれ、高校卒業後、親元を離れて就職し、信頼される社会人としての役割を担っていたのに、おとなしい性格が災いして被告人に付け入られ、暴力的支配下でなぶり殺しにされ、二六歳の若さにして非業の死を遂げさせられた。Eは、命の灯火がまだ残っている間に、郷里の母親に電話し、被告人とはもう付き合わない旨伝え、ようやく、被告人の呪縛から逃れようとしたがかなわず、深夜に包丁を持って、被告人に奪われる命の最初で最後のはかない抵抗を試みたが、衰弱が過ぎてその力もなく、間もなく、無惨にも殺害されたものである。Eの命の灯火が消える時に瞼(まぶた)をよぎった光景は、ふるさとの青い海、慈愛に満ちあふれる父と母の姿であったろう。Eの無念の情は、筆舌に尽くし難く、心情はまことに哀れというほかはない。
四 被告人は、C、E両名の遺体を、いずれも車でgの家に搬送し、Aに指示してそれぞれ土中に埋没した。その後、嫌がるAを時には小突きながら死体を焼いて処分しろと執ように命じた。Aはやむなく平成二年七月ころ、埋没したCの白骨死体及びEの腐乱死体を掘り出し、Mの協力を得て、死体を焼却した上、破砕して再度埋没した。AがCとEの死体を掘り出したとき、Cはすでにその肉を失い骨だけとなり、その骨はAが触ると人の形からバラバラに崩れていった。Eはまだ肉が付いていて人の形としてつながってはいたものの、その肉は黒く腐り、腐臭を放っていた。両名の死体は、焼かれ、砕かれ、棒でつつかれて、Cの死体は八年近く、Eの死体は七年近くもそれぞれ埋没遺棄され、Cはわずかの骨片と指輪しか発見できず、Eに至っては骨の一片すら発見できないままである。
被告人は、Cが被告人に殺されたのではないかと疑うCの母の目をくらますために、二度にわたって栃木警察署に対しCが男と駆け落ちしたかのような偽りの家出人捜索願を提出し、E殺害後は、目撃者であるJが警察に行こうと言うやお前もお前の家族もばらばらにすると脅迫し殺されるかと思わせるほどの激しい暴行を加えて口を封じ、E生存を偽装するため同人の印鑑登録証明書を入手してE名義の普通乗用自動車を廃車にし、さらにE名義のローンの返済を続けていた。
五 一八歳の若さで愛する娘Cを突然殺害され、八年近くも生死不明のままにされた遺族は、処罰感情を極めて峻烈なものにし、被告人の極刑を望んでいる。 Eの父jは、胃癌、脳梗塞などの大病を患いながらも、息子の死の真相を自分の目で確かめたいという切なる思いに支えられ、千葉県館山市からの遠路に耐え毎回傍聴し、証言台に立っては、背筋を伸ばし、静かな語調で、裁判を見守っている旨語っている。そこには、被告人を激しく罵倒するいかなる言葉よりも、被告人に対する強い怒りが込められており、jも極刑を求めている。
六 若い二名の尊い命が連続して奪われ、犯跡を完全に隠蔽(いんぺい)するため、いったん埋没された遺体が焼損され、一見もの静かな田園地帯の同じ民家の敷地内に長い間埋められていたという事件が、社会に大きな衝撃を与えたであろうことは想像に難くない。
七 判示第三の犯行は、被告人が、出張ヘルス業の従業員となったHに対して、被告人とやくざとの関係を強調して心理的拘束を加えた上、全身に全治不詳の熱傷等を負わせたものである。
被告人はHに対し、絶対と声を掛ければ、服従と言葉を返すよう強要して支配を強め、爪ジュー、背(せな)ジューなどと称して、手の爪や裸の背中に、煙草を吹かしながら火を押しつけたり、手や腕に、煙草のフィルターをほぐしたものを癸(平成八年四月、被告人は有限会社癸コーポレーションという会社を登記している、甲三九八)という漢字を模して乗せて火をつけ燃え尽きるまで置いたり、ライターの火で両
乳首、両脇の下など外皮のうち敏感な部分までを焼いたり、浴槽の中に潜らせHが苦しくなって顔を出すと、沸騰させた熱湯を頭からかけたりした。爪を煙草で焼かれると爪は軟らかくなり、体液が沸騰し音を出して噴き出した。被告人は、これらの暴行を平然と加え、時には

俺は熱いのが好きなんだ。

などと言いながら大笑いすらしていた。同僚のIがHの治療をすると、被告人は、余計なことをするなと言って、包帯をはぎ取ったりした。被告人の虐待により、Hは起き上がることも寝返りもできない状況に追い込まれた。寒気がして震えが止まらないような状態の時、Hは同僚によって救出されたが、僥倖(ぎょうこう)と言ってよい。HがEの二の舞となる可能性も多分にあった。各傷害の加療期間の全治不詳は、被告人が一つの傷害が治癒する前に再び同一か所に暴行を加えて新しい傷害を負わせるという暴行を繰り返していたことなどにより、個々の傷害の治療の期間の長短が不明であるという意味であり、繰り返し加えた暴行の態様は残虐で結果は悲惨である。被告人はHに一〇万円を支払っているが(H証言第三〇回公判一六七三丁)、無きに等しい。Hも

できれば、こういう人間は死刑にしてほしいです。

と述べて、被告人を重く罰することを求めている。八 判示第四の犯行は、被告人が、Hに命じて、Iの手の指の爪に煙草の火を押しつけさせ、背中等に火のついた煙草の先の部分を置かせたものである。Iの被害が判示の程度に止まったのは、Iが平成八年一月初めにからくも事務所から逃走できたためにすぎない。被告人とIとの間に五〇万円の支払で示談が成立した形跡がうかがわれないではないが(弁護人申請の示談書ー検察官不同意ーの立証趣旨)、Iの被害感情にはなお厳しいものがある。
九 E・H・I事件は、いずれも暴行、陵虐を目的とし、暴行、陵虐それ自体を楽しみとした極めて特異な犯行である。C事件は、わずかな結婚生活の後、嫉妬(しっと)にかられて確定的殺意のもとにたやすく妻を殺害したものであり、人命軽視の意思が明らかであること、Cとの結婚生活には被告人の偏執的な独占欲、暴力的傾向、すなわち、暴力的に他人を支配する意思が見られることに照らすと、やはり、C事件も被告人の人間の生命、尊厳をないがしろにした暴力的性癖の発露であると解され、E・H・I事件と根は同じである。
すなわち、被告人の一連の犯行は、身近な弱い人間に心理的拘束を加え、拘束から逃れるものはいとも簡単に殺害し、従順に従うものに対しては日常的に暴行を加えることに愉悦を感じながら虐待を続け、あげくの果てには殺害するという極めて凶悪なものである。
一〇 被告人は、小中学校時からすでに自分勝手で暴力的な性向を示し、暴力をもって他人を意のままに操ろうとする性格の萌芽があり、遅くとも中学校三年ころ以降はAが怯えるほどになっている。二度にわたる高校退学処分はその現れと考えられる。証言台に立ったAはじめ親族らは、一様に、被告人に恐れをなしている。 被告人は、その後、暴走族に加入し、煙草の火を爪・背中・首・頭・へそ・乳首・陰部等に押しつける悪質なリンチの方法を身につけ、昭和六一年一〇月、少年二名に対し腕に煙草の火を押しつけるなどしてそれぞれに対し全治約三週間を要する火傷を負わせる事件を起こし、有罪とされている。右傷害事件は判示第二から第四までのE・H・I事件に相通じるものである。
被告人は中学生のとき、母を失っているが、その余の生育歴においては格別同情すべき事情はない。
一一 被告人は、H・I事件について、概ねこれを認めているものの、C・E事件については、殺害を全面的に否認し、供述を変遷させ、不自然、不合理な供述を続け、被害者やその遺族らに対する真摯(しんし)な反省の情を示していない。 被告人は、当公判や公判の期日間準備において、特殊裁判(訴訟)関係に置かれていると主張し、裁判所、検察官、拘置所職員はもとより、被告人のために最大限の弁護をしている国選弁護人すら非難して審理を空転させ、被告人の犯行により深い精神的痛手を負っている身内まで証言台に立たせようとし、これをいさめる親族をも自らに敵対し通謀していると非難し、自己の主張を貫徹するためには法廷秩序まで乱し、責任逃れのためのなりふりかまわぬ姿勢を示している。
一二 すでに小中学校時代に萌していた被告人の加虐的な暴力的性癖は、二二歳の時にCを殺害することにより歯止めを失い、正常な感覚は鈍磨し、無情な性格を強め、二三歳になってE事件を起こすに至り、逃亡生活を送るなか、二九歳の時に新たにH、Iに対しE事件を彷彿(ほうふつ)とさせる加虐性を露わにした傷害事件を引き起こした。被告人は、重大凶悪な犯罪を犯しながら、いまなお真摯(しんし)な反省のかけらもない。被告人の早い時期からの性格の偏りの発現とそれに起因する犯罪の数々、重大凶悪な殺人罪を二件も犯しながら、否認を続けまったく反省しようとしない態
度は、社会における再犯のおそれを如実に表すものであって、被告人の矯正はもはや不可能と断ぜざるをえない。
一三 以上のような本件各犯行の罪質、動機、態様、結果、被害感情、社会的影響、被告人の前科前歴、捜査公判における被告人の態度等の諸事情、特に、本件が、二年間に、こともあろうに傷害事件の保護観察付き執行猶予期間中に、二名もの者を殺害し、しかもその数年後、先の二件の事件を後悔するどころか先の一件と同様の加虐性を露わにして、二名の若者に対し熱傷等の傷害を負わせた凶悪重大な犯罪であり、被告人の犯罪性向は根深く、殺人事件二件については反省の態度を全く示していないことを考慮すると、死刑が人命を剥奪(はくだつ)する究極の刑罰であってその適用には慎重であるべきことを十分に踏まえた上でも、被告人の罪責は極めて重大であり、罪刑の均衡及び一般予防の見地からも被告人に対しては死刑をもって臨むしかない(求刑 死刑)。
よって、主文のとおり判決する。
平成一三年一二月一八日
宇都宮地方裁判所刑事部
裁判長裁判官 肥留間 健 一

裁判官

伊 藤 正 高

裁判官 小 林 謙 介


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