判例検索β > 平成20年(う)第1744号
業務上過失致死、道路交通法違反被告事件
事件番号平成20(う)1744
事件名業務上過失致死,道路交通法違反被告事件
裁判年月日平成20年11月18日
法廷名東京高等裁判所
結果破棄自判
判例集等巻・号・頁第61巻4号6頁
原審裁判所名東京地方裁判所
判示事項公判前整理手続を経た後の公判審理の段階でされた訴因変更請求が許されるとされた事例
裁判要旨公判前整理手続において争点となっていなかった事項に関し,公判で証人尋問等を行った結果明らかとなった事実関係に基づいて,訴因を変更する必要が生じたものであり,仮に許可したとしても,必要となる追加的証拠調べはかなり限定されていて,審理計画を大幅に変更しなければならなくなるようなものではなかったなど判示の事情の下においては,公判前整理手続を経た後の公判審理の段階でされた訴因変更請求が許される。
裁判日:西暦2008-11-18
情報公開日2017-10-13 02:04:36
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主文
原判決を破棄する
被告人を懲役8月に処する
原審における未決勾留日数中,その刑期に満つるまでの分をその刑に算入する。
本件公訴事実中,業務上過失致死の点について,被告人は無罪
理由
本件控訴の趣意は,主任弁護人中島信一郎,弁護人青木耕一及び同角田勝政作成の控訴趣意書に記載されたとおりであるから,これを引用する。第1

訴訟手続の法令違反の主張について

論旨は,要するに,本件における公判前整理手続の経過及び公判の審理状況,検察官の訴訟活動等に照らすと,検察官立証が終了して被告人質問に入る直前の段階となった原審第4回公判期日終了後に検察官がした訴因変更請求は,権利の濫用に該当して許されないのに,これを許可した原審には判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反がある,というのである。1
そこで記録を調査して検討すると,本件の審理経過等は,以下のとおり
である。
平成19年1月30日に起訴された本件公訴事実中,業務上過失致死に関する事実(訴因変更前のもの)の要旨は,被告人は,平成18年12月13日午前1時27分ころ,業務として普通乗用自動車を運転し,東京都世田谷区Sa丁目b番先道路を狛江方面から環八通り方面に向かい進行中,進路前方を同方向に進行中の普通乗用自動車を右側から追い越した後,左方に進路変更するに当たり,前方左右を注視し,進路の安全を確認しながら左方に進路変更すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り,前方左右を注視せず,進路の安全確認不十分のまま漫然時速約60キロメートルで左方に進路変更した過失により,折から同車の前方を同方向に進行中のA(当時62年)運転の原動機付自転車右側部に自車左側部を衝突させて同原動機付自転車もろとも同人を路上に転倒させ,よって,同人に硬膜下血腫等の傷害を負わせ,同日午前10時10分ころ,武蔵野市内のM病院において,同人を上記傷害により死亡させたというものである(以下,Aを被害者といい,その死亡原因となった衝突事故を本件交通事故という。)。
本件(前記の業務上過失致死及び道路交通法違反)は,平成19年2月22日,公判前整理手続に付され,同年3月15日から同年10月29日までの間,9回にわたる公判前整理手続が実施された結果,本件の争点が被告人が,本件交通事故を引き起こして逃走した犯人であるかどうかであると確認されるとともに,公判の審理については,第1回ないし第3回公判期日に検察官請求証人7名の取調べ等の検察官立証が,第4回公判期日に弁護人請求証人2名の取調べ等の弁護側立証が,第5回公判期日に被告人質問が,第6回公判期日に論告弁論が,それぞれ行われる予定となった。
なお,争点が前記のとおり整理される過程において弁護人が作成した主張予定書面には,被害者が自損事故により自ら転倒して死亡したか,仮に追い越しを図ろうとした自動車と衝突したため転倒したとしても,被告人以外の第三者の運転する自動車と接触したため転倒したものであり,本件交通事故は被告人によるものではない旨が記載されている。同年11月19日の第1回公判期日において,被告人は,被告事件に対する陳述として,本件交通事故を起こしたのは自分ではない旨述べ,弁護人は,公訴事実については被告人と同様であり無罪を主張する旨述べたが,本件交通事故を起こした運転者の過失の有無に関しては何らの主張もしなかった。そして,同期日から第3回公判期日までの間に,予定された検察官請求証人7名の取調べ等がされ,平成20年1月24日の第4回公判期日において,予定されていた弁護人請求証人のうち1名の取調べがされた(他の1名については出頭せず採用が取り消された。)が,原審は,同期日において,採否を留保していた弁護人請求証人1名の採用を決定し,次回期日に取り調べることとするとともに,当事者に対しこれまでの証拠調べの結果を踏まえた上で,本件交通事故の犯人に過失が認められるかどうかという点についても意識して立証活動をしてほしい旨を促した。原審のこのような対応は,それまでに取り調べた目撃証人の供述等によって認められる本件交通事故の態様が,訴因変更前の公訴事実が前提としているものとは異なっている,という心証に基づくものと推測される。
その後,検察官は,第5回公判期日前の同年2月4日,前記の公訴事実の過失内容について,被告人は,平成18年12月13日午前1時27分ころ,業務として普通乗用自動車を運転し,東京都世田谷区Sa丁目b番先道路を狛江方面から環八通り方面に向かい進行中,進路前方を同方向に進行中のB運転の普通乗用自動車を右側から追い越す際,当時夜間であり,交通量はさほど頻繁ではなかったのに,同車が同所に至るまでの約400メートルの間,時速約30キロメートルの比較的低速度で進行していた上,自車を加速させて前記B運転車両の後方直近に接近させ,いわゆるあおり走行をしたにもかかわらず,同車が速度を上げないで前記速度のまま走行しており,同車の前方には同車が速度を上げることを困難ならしめるような車両等が走行していることもあり得たのであるから,前記B運転車両を右側から追い越して左方に進路変更するに当たり,前方左右を注視し,進路の安全を確認するはもとより,折から同車前方を同方向に進行していたA(当時62年)運転の原動機付自転車の動静を十分注視し,同原動機付自転車との間に安全な側方間隔を保持して同原動機付自転車との安全を確認した上で左方に進路変更すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り,前方左右及び同原動機付自転車の動静を注視せず,進路の安全を確認することもなく,同原動機付自転車との間に安全な側方間隔を保持しないまま漫然時速約60キロメートルで左方に進路変更した過失により,同原動機付自転車右側部に自車左側部を衝突させた,というものに変更する旨の訴因変更請求をした。平成20年2月6日の第5回公判期日において,前回に採用を決定した弁護人請求証人の取調べがされた後,前記の訴因変更請求について,検察官から,前方左右を注視し,進路の安全を確認するはもとよりという部分は,前方左右を注視し,進路の安全を確認することが注意義務に含まれるという趣旨である旨の釈明がされ,他方,弁護人から,公判前整理手続を経たこの段階での訴因変更請求は攻撃防御の点から認められるべきでなく,異議があるとの意見が述べられた。
その後,第6回公判期日までの間に,検察官及び弁護人からそれぞれ,訴因変更請求の適否とこれが許可された場合に追加的に必要となる証拠調べに関する意見書が提出された後,同月29日に打合せが行われた。原審は,打合せの席で,訴因変更は許さざるを得ないが,被告人側の防御を尽くさせる必要があるとして,検察官及び弁護人に対し同年3月6日までに過失の点の立証を検討するように促し,同日,再度の打合せを実施した後,同月10日,第6回公判期日を開いた。
原審は,同期日において,前記の訴因変更請求の許可決定を行った。被告人及び弁護人は,変更後の訴因に対し,従前と同様,本件交通事故を起こしたのは被告人でない旨の意見を述べたものの,その際も,過失の内容については特段の主張をしなかった。その後,第7回及び第8回公判期日において,訴因変更に伴う追加的証拠調べが行われた(ただし,第8回公判期日については,当初は論告弁論が予定されていたものの,第7回公判期日に取調べを予定していた証人のうち1名が同期日に出頭しなかったために,その証人尋問をする必要が生じたものである。)が,検察官立証としては,公判前整理手続においていったん撤回された実況見分調書2通(いずれも検察官請求証人として取調べ済みの目撃者を立会人として実施された事故現場を見分したもの)の取調べ及びその真正立証のための作成者の証人尋問が,弁護側立証としては,本件交通事故ないしその前後の状況の目撃者2名(うち1名は,第3回公判期日において検察官請求証人として取調べがされた者)の証人尋問が,それぞれ実施された。
第9回公判期日において,論告,弁論が行われたが,その際,弁護人は,本件交通事故を起こしたのは被告人ではないとの従前の主張に加え,本件交通事故を起こした自動車の運転者には,訴因変更後の公訴事実記載の各注意義務違反がない旨を具体的に主張した。
2
以上のとおりの審理経過等を踏まえて,本件の訴因変更請求が許される
かどうかを検討する。
公判前整理手続は,当事者双方が公判においてする予定の主張を明らかにし,その証明に用いる証拠の取調べを請求し,証拠を開示し,必要に応じて主張を追加,変更するなどして,事件の争点を明らかにし,証拠を整理することによって,充実した公判の審理を継続的,計画的かつ迅速に行うことができるようにするための制度である。このような公判前整理手続の制度趣旨に照らすと,公判前整理手続を経た後の公判においては,充実した争点整理や審理計画の策定がされた趣旨を没却するような訴因変更請求は許されないものと解される。
これを本件についてみると,公判前整理手続において確認された争点は,被告人が,本件交通事故を引き起こして逃走した犯人であるかどうかという点であり,本件交通事故を起こした犯人ないし被告人に業務上の注意義務違反があったかどうかという点については,弁護人において何ら具体的な主張をしていなかった。なお,弁護人は,公判前整理手続の過程において,被害者が自損事故により自ら転倒して死亡した旨を主張予定書面に記載しているものの,被害者運転の原動機付自転車(以下被害者車両という。)と本件交通事故を起こした自動車(以下犯行車両という。)が接触するという本件交通事故が発生していることを前提に,犯行車両の運転者に業務上の注意義務違反がなかった旨を具体的に主張するものではない。公訴事実の内容である過失を基礎付ける具体的事実,結果を予見して回避する義務の存在,当該義務に違反した具体的事実等に対して,弁護人において具体的な反論をしない限り,争点化されないのであって,実際にも争点とはなっていない。公判前整理手続における応訴態度からみる限り,本件交通事故が発生していることが認定されるのであれば,犯行車両の運転者に公訴事実記載の過失が認められるであろうということを暗黙のうちに前提にしていたと解さざるを得ない。検察官が訴因変更請求後に新たに請求した実況見分調書2通は,公判前整理手続において,当初請求したものの,追って撤回した証拠であって,業務上の注意義務違反の有無が争点とならなかったために,そのような整理がされたものと考えられる。
ところが,公判において,本件交通事故の目撃者等の証拠調べをしてみると,本件交通事故の態様が,訴因変更前の公訴事実が前提としていたものとは異なることが明らかとなったため,検察官は,原審の指摘を受け,前記のとおり,訴因変更請求をした。
そして,その段階でその訴因変更請求を許可したとしても,証拠関係は,大半が既にされた証拠調べの結果に基づくものであって,訴因変更に伴って追加的に必要とされる証拠調べは,検察官立証については前記のとおり極めて限られており,被告人の防御権を考慮して認められた弁護側立証を含めても,1期日で終了し得る程度であった。
3
以上によれば,本件は,公判前整理手続では争点とされていなかった事
項に関し,公判で証人尋問等を行った結果明らかとなった事実関係に基づいて,訴因を変更する必要が生じたものであり,仮に検察官の訴因変更請求を許可したとしても,必要となる追加的証拠調べはかなり限定されていて,審理計画を大幅に変更しなければならなくなるようなものではなかったということができる。そうすると,本件の訴因変更請求は,公判前整理手続における充実した争点整理や審理計画の策定という趣旨を没却するようなものとはいえないし,権利濫用にも当たらないというべきである。検察官の本件の訴因変更請求を許可した原審には,判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反は認められない。
論旨は理由がない。
第2

本件交通事故を起こした自動車に関する事実誤認の主張について

論旨は,要するに,原判示の各事実について,被害者車両に衝突したのは被告人の運転する自動車(以下被告人車両という。)でないのに,被告人車両が被害者車両に衝突したと認定した原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある,というのである。
そこで記録を調査して検討すると,原審で取り調べた関係証拠によれば,被告人車両が被害者車両に衝突した旨の原判決の認定はその争点に対する判断において説示するところを含めて正当として是認することができるから,この点について,原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認は認められない。以下,補足して説明する。
1
所論は,原判決は,犯行車両の特徴を目撃したとされる証人Cの原審公
判における供述について,本件交通事故の前から犯行車両の危険な運転を目の当たりにして意識的にその車両の特徴を観察していたのであるから,信用することができる,としているが,証人Cのいう犯行車両の危険な運転とは,女性客を降ろしたタクシー(犯行車両)が狛江市役所前で急にUターンをしたため,Cの運転していたタクシー(以下C車両という。)が急制動せざるを得なくなったことを指すものの,①狛江市役所前でUターンをした被告人車両に接近し,急制動をかけた自動車があれば,同所で被告人車両を降りた女性客であるDが当然気付くはずであるのに,証人Dは,これに気付かなかったと述べている上,Uターンした時期についても証人Cとは異なる供述をしているから,証人Cの供述は,証人Dの供述と矛盾しており,また,②被告人車両の最小回転半径が5.1メートルであるのに対し,Uターンをした狛江市役所前の道路の幅員は9メートルであるから,同所でUターンをするためには切り返しが必要になることからすると,犯行車両が急にUターンした旨の証人Cの供述は,客観的証拠と矛盾しているし,③証人Cは,原審公判において,当日午前1時10分過ぎに中和泉5丁目で乗客を降ろした後,狛江市役所前を通ったと供述するが,捜査段階においては,午前1時20分ころに中和泉5丁目で乗客を降ろしたと述べ,運行記録紙にも同時刻まで乗客を乗せて走行している旨表示されているのであるから,証人Cの原審公判における供述が誤りであることは明らかであり,Cが午前1時20分ころに中和泉5丁目で乗客を降ろしている以上,同所から狛江市役所前までの所要時間が2分30秒であるので,C車両が狛江市役所前を通過しているのは午前1時22分から23分ころということになり,午前1時20分ころに狛江市役所前を出発した被告人車両と遭遇するはずがなく,また,仮にCが午前1時10分過ぎに中和泉5丁目を出発したとしても,Cが狛江市役所前を通過するのは午前1時12分から13分ころということになるから,やはり,被告人車両と遭遇するはずがなく,結局,以上の①ないし③によれば,証人Cの原審公判における供述は,他の証拠と矛盾していて,信用することができない,という。
まず,①の点について検討すると,Dは,たまたま当日,タクシーである被告人車両に乗車したにすぎず,狛江市役所前で降車した後の被告人車両の動静や周囲の状況等について,正確に認識,記憶していなくても何ら不自然ではない。Dにおいて,Uターンした被告人車両に接近して急制動をかけたタクシーに気付かなかったにしても,C車両がUターンをした犯行車両に接近して急制動をかけた事実がないということにはならない。同様に,女性客を降ろして直ぐに犯行車両がUターンをした旨を述べる証人Cの供述と,タクシーを降りて横断歩道を渡った後に,被告人車両がUターンをした旨を述べる証人Dの供述が一致しないからといって,証人Cの原審公判における供述の信用性は否定されないというべきである。
②の点について検討すると,犯行車両が女性客を降ろした停車位置付近には,左折する道路があり,同道路入口付近をも利用してUターンをすることが可能であるから,Uターンをした道路の幅員及び被告人車両の最小回転半径が所論の指摘するとおりであったとしても,Uターンをするためには,必ず切り返しが必要となるとはいえない。被告人も,原審公判において,狛江市役所前で女性客を降ろした後,切り返しをしないでUターンをした旨述べている。この点に関する証人Cの原審公判における供述が客観的事実に反するとはいえない。
③の点について検討すると,証人Cは,原審公判において,直前の乗客を降ろしたのが午前1時10分過ぎであり,犯行車両を狛江市役所前で見たのは,午前1時17分から20分くらいの間である,と供述している。その供述自体,時刻に幅がある。C車両の運行状況を分単位で正確に確定することはできない。また,運行記録紙上の時間が正確であるともいえない。したがって,C車両が被告人車両に遭遇するはずがないとはいえない。
2
所論は,証人Cの原審公判における供述によれば,①狛江市役所前にお
いて,犯行車両のタクシーの種類がY無線であると分かったというものの,その際のCと犯行車両の距離は50メートルくらいであったというのであるから,その距離でタクシーの種類を特定するのはおよそ不可能であり,②新一の橋交差点で停車した際,その前に停車した犯行車両にV交通のステッカーが貼ってあるのが分かったというものの,自車の前照灯や前車のテールランプによる光の反射等の影響によって前車の視認は困難である上,V交通のステッカーの大きさは縦3センチメートル,横10センチメートルにすぎないことからすると,Cがステッカーを正確に視認したとは考えられず,③世田谷通りを走行している時に犯行車両の速度が遅くなり,その際,その前方を走行している自動車については,そのあんどんを見て,X無線のタクシーであって乗客が乗っていることが分かったというが,夜間において,犯行車両という遮へい物があるのに,その前方の車両を詳細に特定することができたとは考えられず,したがって,証人Cの原審公判における供述は,その内容が不自然であって,信用することができない,という。
①の点を検討すると,証人Cの原審公判における供述によれば,最初に狛江市役所前で犯行車両を見た際,C車両と犯行車両との距離は50メートルくらいであったものの,その後,犯行車両がその場でUターンしたため,犯行車両から2メートル以内まで近付いたというのであるから,犯行車両の色や形,ライン,防犯灯から,自分と同じY無線グループに属するタクシーであることが分かったというのは,何ら不自然,不合理ではない。
②の点を検討すると,証人Cの原審公判における供述によれば,Cは,いちょう通りから世田谷通りに出る新一の橋の交差点で赤信号で停車した際,C車両の前照灯をつけた状態で,前に停まっていた犯行車両を観察して,車両後部に貼ってあるVと記載されたステッカーを見た,というのであるから,所論の指摘するステッカーの大きさ等を踏まえても,Vという文字を認識し得たと考えられる。Cは,当日の仕事終了後,勤務先に対し,ひき逃げがあり,Vがやったのを見たと報告したというのであり,その後の捜査の経緯に照らしても,Cにおいて犯行車両がVと名の付くタクシーであると特定し得たことには疑いがないというべきである。
③の点を検討すると,証人Cの原審公判における供述によれば,Cは,犯行車両の後方を時速60キロメートルくらいで走行しているうちに,時速40キロメートルくらいに減速となったため,犯行車両の前を確認すると,その前を走っている自動車の色が黄色で防犯灯にXの字が見え,その灯火が消えていたことから,犯行車両の前方の車両がX無線タクシーで,客が乗っている状態であることが分かったというのであり,犯行車両が間に入っていても,前記の程度の認識を得るのは可能であると考えられる。加えて,Cは,その後に,犯行車両がX無線タクシーを追い越す場面をも見ているのであるから,Cが前方の車両を前記のとおり認識したのは何ら不自然,不合理ではない。
3
所論は,被告人が狛江市役所前を出発したのは当日午前1時20分ころ
であるから,被告人において,証人Cの供述するとおり,いちょう通りを経由して新一の橋交差点から世田谷通りに入ったとすれば,事故現場までの走行距離が2.15キロメートル,所要時間が4分15秒であり,事故現場を午前1時24分15秒ころに通過することになるし,赤信号による停車時間を考慮しても午前1時25分30秒ころには通過することになる上,被告人の供述するとおり,狛江通りを南下して狛江三差路交差点から世田谷通りに入ったとすれば,事故現場までの走行距離が2.25キロメートル,所要時間が4分55秒であり,事故現場を午前1時24分55秒ころに通過することになるから,いずれにせよ,被告人は,本件交通事故の発生する前に事故現場を通過していることが明らかであり,犯行車両の運転者ではあり得ない,という。
本件交通事故の発生時刻は,午前1時27分ころである一方,被告人車両が狛江市役所前を出発したのは,運行記録紙及び乗務記録報告書で見る限り,午前1時20分ころとなっている。しかし,運行記録紙と実際の時間との誤差は分からない上,乗務記録報告書の時刻はすべて5分または10分単位でしか記載されておらず,被告人車両が狛江市役所前を出発した正確な時刻を特定することはできない。数分のずれがあってもおかしくなく,所論のような前提に立って,被告人が本件交通事故の発生する前に事故現場を通過しているということはできない。
4
所論は,本件交通事故を目撃した証人Bの原審公判における供述によれば,①犯行車両は,Bの運転するX無線タクシー(以下B車両という。)の後ろに付いて時速30キロメートルで走行し,②その後,B車両を追い越して,30メートル離れたBが衝突音を聞き取れるほどの衝撃で,被害者車両に衝突したはずなのに,被告人車両の運行記録紙の解析結果によれば,本件交通事故の前である午前1時25分以降において,被告人車両が時速30キロメートルで走行したという記録がなく,また,事故を起こせばその振動がタコグラフに伝導して乱れた線が残るはずなのに,被告人車両の運行記録紙には異常な線形が認められないから,被告人車両が犯行車両でないことは明らかである,という。
被告人車両の運行記録紙には,急激な加速によって生じたと考えられる時刻の戻り等があって,正確な時刻を特定することはできないものの,瞬間速度の記録としては,減速と加速が繰り返され,最も減速した時には時速約6ないし7キロメートルになっている。そして,減速ないし加速の過程で,一定の速度で走行している時間帯が多少あっても,その詳細な途中経過が運行記録紙上に表れる訳ではないと考えられる。証人Bの原審公判における供述等を検討しても,犯行車両がB車両の後ろに付いていた時間ないし距離は,それほど長くない。被告人車両の運行記録紙から判断して,被告人車両が時速30キロメートルで走行していた間がなかったということはできない。また,被告人車両の運行記録紙には衝突があったことを示すような異常な線形は認められないが,それはタコグラフに伝導して線形に異常が生じるほどの振動が車体に生じなかったことを示しているにすぎない。本件交通事故の態様からすると,タコグラフに異常な線形が生じるほどの衝撃があったはずであるとはいえないから,被告人車両の運行記録紙に異常な線形が残っていないことは,被告人車両が犯行車両であることを否定する事情とはならない。
5
所論は,本件交通事故を目撃したEは,捜査段階及び原審公判において,被害者車両が接触した犯行車両の位置について,タイヤハウスより後ろの左側部分で,テールランプ付近であると一貫して述べているところ,Eの自動車に対する知識,視力,現場の明るさ,視認状況等からすると,その供述は十分信用することができるので,犯行車両には当該部分に痕跡があるはずなのに,被告人車両にはEの指摘する左側後部に何らの接触痕もないのであるから,犯行車両は被告人車両ではない,という。
なるほど,タクシーであるB車両に客として乗車していたEは,所論が指摘するとおりの供述をしている。しかし,B車両は,被害者車両の蛇行運転を見て,約20ないし30メートルの距離を保ちながらその後方を走行していたのであるから,Eは,本件交通事故について,一定の距離のある後方から,犯行車両の側面が十分に見えないまま,一瞬の衝突状況を目撃したにすぎないと考えられる。運転していたBも,被害者車両が犯行車両に衝突した箇所は,側面としか言いようがなく,前輪寄りか後輪寄りかも分からないと述べている。Eの自動車に対する知識,視力等を考慮しても,衝突箇所に関する証人Eの原審公判における供述及びEの検察官調書(抄本)が正確であるとはいえないというべきである。
6
所論は,原判決は,被告人車両が犯行車両であるという根拠の一つとし
て,被告人車両に残されている線状擦過痕の高さが,犯行車両に接触した被害者車両の右バックミラー及び右ブレーキレバー先端球部の高さとおおむね合致している点を指摘しているが,仮にそうであるとすれば,線状擦過痕がいずれも被告人車両のほぼ中央部から始まっている以上,右バックミラー及び右ブレーキレバー先端球部が同時に被告人車両に接触したということになるものの,バックミラー及びブレーキレバー先端球部の位置関係からすると,この二つが被告人車両に同時に接触することは物理的に不可能である,という。
被害者車両の右バックミラーの黒色プラスティック面と右ブレーキレバー先端球部に,被告人車両の左後部ドア後端部から採取したオレンジ色塗膜と同種類の塗膜片が付着している一方で,被告人車両の左後部ドアには,車両前端から約243センチメートル,地上からの高さ約80センチメートルの位置を始端とする線状擦過痕があり,被害者車両の右ブレーキレバー先端球部の高さとほぼ一致し,また,その上方に平行して,車両前端から約242センチメートル,地上からの高さ約98センチメートルの位置を始端とし,被害者車両の右バックミラーの黒色プラスチック素材と同種類の黒色皮膜の付着が伴う線状擦過痕があり,被害者車両の右バックミラー枠と高さがかなり近いことは,原判決が説示するとおりである。
そして,被害者車両がまっすぐな状態で,被告人車両と平行に接触したとすれば,なるほど,右バックミラーと右ブレーキレバー先端球部が同時に被告人車両に接触しないといい得るものの,被害者車両は,蛇行走行をするうち,左から右へとふらつき,中央線寄りを走っていた犯行車両に接触したのであるから,被害者車両の傾き具合やハンドルの角度次第で,右バックミラー及び右ブレーキレバー先端球部により,前記のような2本の線状擦過痕が十分に生じ得るというべきである。
したがって,被害者車両の右バックミラー及び右ブレーキレバー先端球部に,被告人車両と同種類の塗膜片が付着している一方で,被告人車両に残されている2本の線状擦過痕の高さが,犯行車両に接触した被害者車両の右バックミラー及び右ブレーキレバー先端球部の高さとおおむね合致しているという事実は,被告人車両が犯行車両であることを裏付けるものであるということができる。
7
所論は,本件交通事故を目撃したBは,事故直後,犯行車両のタクシー
の特徴について,Z無線で足立ナンバーのものである,同業者なので,Z無線のタクシーであるとすぐに分かったと明確に供述しているのに,原判決が,Bが犯行車両を間近で目撃したのは一瞬であり,捜査官の求めに応じて,目撃者が想像を交えた不確かな情報を捜査官に提供することはあり得るなどとして,この捜査段階の調書の記載を無視しているのは誤っている,という。証人Bは,原審公判において,犯行車両のタクシーの色を見て,自分の営業地域にZ無線が多いことから,Z無線のタクシーではないかと思うとともに,足立ナンバーに荒っぽい運転をする自動車が多いことから,思い込みで,警察官に犯行車両がZ無線で足立ナンバーのタクシーであると説明してしまった,と供述する。
Bの事故当日及びその翌日の各警察官調書を見ても,Z無線であると思った根拠については,タクシーの色,塗装等を指摘しているだけである。乗客としてB車両に乗っていたEの警察官調書をみても,Bが犯行車両の特定について確信を抱いていたとはうかがわれない。Bの供述するとおり,本件交通事故の状況を一瞬見たBにおいて,思い込みから,犯行車両を前記のとおり説明してしまったにしても,不自然,不合理であるとはいえない。8
所論は,原判決は,被告人の原審公判における供述について,捜査段階
から変遷し,その変遷の理由を合理的に説明していないから,信用することができない,というが,被告人は当初から一貫して否認している上,弁護人が選任された後は,具体的供述内容も一貫しているところ,弁護人の助言がないまま突然身柄を拘束された段階では,自分の身を防御するためにいろいろな説明をすることはあり得るのであるから,原判決の指摘する事情だけでその供述の信用性を否定するべきではなく,かえって,証人Dの供述と合致し,その内容も合理的であるから,信用することができる,という。所論の指摘するところを検討しても,被告人の弁解の変遷は,不自然,不合理というべきである。また,被告人は,被告人車両の前記の線状擦過痕について,平成18年12月4日にはそのような擦過痕がなく,5日に別の人が被告人車両に乗った後,6日になってその擦過痕を発見したと述べるものの,そのような場合,会社に報告することが求められているのに,その報告をしていないというのであって,これまた,不自然である。被告人の弁解は,信用することができない。
論旨は理由がない。
第3

過失の有無に関する事実誤認ないし法令適用の誤りの主張について
論旨は,要するに,原判示第1の事実について,本件交通事故は,被害者車両において,幅員5メートルの片道車線を目一杯に蛇行するような常軌を逸脱した危険な走行をしていて,犯行車両の運転者が前方を走行する自動車を追い越した際に被害者車両との間の側方間隔を十分に確保したにもかかわらず,急激に右側にふらついて犯行車両に衝突したことによって生じたものであって,犯行車両の運転者において,被害者車両のこのような走行態様を予見することはできないから,予見義務違反も結果回避義務違反も認められないのに,被告人に業務上の注意義務違反があると認めた原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認ないし法令適用の誤りがある,というのである。
そこで記録を調査して検討すると,原審で取り調べた関係証拠により被告人に業務上の注意義務違反を認めることはできないから,原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認ないし法令適用の誤りがある。以下,その理由を説明する。
1
関係証拠によれば,本件交通事故の発生の経緯等は,以下のとおりであ
ると認められる。
本件の事故現場は,最高速度が毎時40キロメートルに制限され,車道の幅員が約10メートル(片側1車線の幅員が5メートル)の世田谷通り上り車線上である。道路形状は直線路で,見通しが良く,路面はアスファルト舗装され,駐車車両等の障害物は見当たらない。また,道路両側には,縁石,ガードパイプで区分された歩道が設置されている。
被害者は,当日午前1時26分ころ,血中アルコール濃度が1ミリリットル中1.8ミリグラムの状態で,被害者車両を運転し,時速約30ないし40キロメートルで,前記世田谷通り上り車線上を,左に寄った際にはガードレール近くまで接近したり,右に寄った際には中央線付近まで至るような蛇行走行をしていた。
同時刻に世田谷通りを時速約50ないし60キロメートルで走行していたB車両は,事故現場から約400メートル手前で,被害者車両に追い付いたが,被害者車両の前記のような危険な蛇行走行を見て,これを追い越すことをあきらめ,被害者車両から約20ないし30メートルの距離を保ちながら,被害者車両とほぼ同じ速度で,その後方を走行した。
すると,まもなく,時速約60キロメートルで走行していた被告人車両が,B車両に追い付き,いったん時速約30ないし40キロメートルに減速し,B車両にぴったり付き,左右に移動するなどしてB車両をあおった後,時速約50ないし60キロメートルに加速してB車両を追い越した。被告人車両は,B車両を追い越した後,徐々に左側車線に戻り,その右側車輪が中央線に掛かったころ,道路左寄りで,被告人車両からかなり離れた側方を走っていた被害者車両が急に右へと蛇行して,被告人車両の左側面に接触して転倒し,本件交通事故となった。
なお,本件交通事故の際,被告人車両は,被害者車両をも追い越そうとしていたと推測される。そして,その直前にほぼ併走していた際,被告人車両と被害者車両との間の側方間隔がどの程度であったかについては,厳密に特定することができないものの,証人Bは,原審公判において,被告人車両と被害者車両との間隔は,かなり離れていて,おそらく1.5メートル以上離れていたのに,その時点で被害者車両が右へとふらついて被告人車両にぶつかった,と供述している。また,証人Eも,原審公判において,被害者車両が左から右へと寄っていったために被告人車両にぶつかったものであり,被害者車両の走行は尋常でなく,被告人車両の運転者にとっては横から突っ込まれたような感じとなり,非常に気の毒である,と供述している。これらの供述を総合すると,通常の原動機付自転車を前提とする限り,被告人は,被害者車両との間に十分に安全な側方間隔を保持していた,というべきである。2
以上によれば,被告人は,先行するB車両を追い越した上,更に被害者
車両を追い越すに当たり,被害者車両が通常の原動機付自転車であったとすればその間に十分な側方間隔を保持しており,道路の幅員や道路事情等からしても,被害者車両にとって道路左端まで余裕があり,真っ直ぐに進行する上で支障となる物も全くなかったのに,被害者が酒に酔っていたために急に右へと蛇行した結果,被害者車両が被告人車両に接触して転倒し,本件交通事故となったということができる。
通常の原動機付自転車の運転者を前提とすれば,被告人は,被害者車両との間に十分に安全な側方間隔を保持しつつ,これを追い越そうとしているのであるから,その際,側方にいる被害者車両の動静を更に注視しながら進行するべき義務はないといわざるを得ない。そうすると,被害者がしたような異常な急接近行為をあらかじめ予測し得るような特段の事情がない限り,被告人には,被害者車両の動静を十分注視し,その間に安全な側方間隔を保持して被害者車両との安全を確認した上で左方に進路変更するべき業務上の注意義務違反があるとはいえないので,以下,前記の特段の事情の有無について検討する。
3
前記のとおり,B車両は,事故現場から約400メートル手前で,時速
約30ないし40キロメートルで走行していた被害者車両に追い付き,蛇行運転の状況を見て被害者車両を追い越さないこととし,被害者車両から約20ないし30メートルの距離を保ってその後方を走行していた。被告人車両は,まもなく,B車両に追い付き,ぴったり接近し,左右に移動するなどしてB車両をあおった後,B車両を追い越し,被害者車両と接触したものである。そこでまず,被告人車両がB車両の追い越しを始めた以降の状況を検討する。被告人車両は,B車両の追い越しを始めてからまもなく,被害者車両を直接見ることのできる状態となったが,その際,被害者車両が車線の左方向へ寄ったことが認められる(その間,よろよろしながら左方向にいったとまでは認められない。)。結果的にみれば,酒に酔っていたための蛇行運転の一環とも考えられるが,その状況だけからすれば,被害者において,追い越しをしようとして後方から近付いてくる被告人車両に気付いたために左に寄った,と考えても何ら不自然ではない。そうすると,追い越しを開始した以降に,異常な急接近行為を予測し得るような事情は認められないといわざるを得ない。
次に,被告人車両がB車両の追い越しを始める以前の状況をみるに,まず,被告人車両がB車両に追い付いてから追い越しを開始するまでの時間及び距離を検討する。
証人Bの原審公判(原審第7回)における供述によれば,速記録添付の地図Bで被告人車両がB車両に追い越しをかけたとしており,その地点は,事故現場の手前約300メートル付近であるから,被告人車両がB車両の後ろを追走していた距離は,約100メートルということになる。証人Bは,被告人車両の接近に気付いてから被告人車両が追い越しをかけるまでの間隔につき,地図上でみる限り,約80ないし90メートル程度の比較的短い距離を示している。また,証人Eの原審公判における供述によれば,B車両が被害者車両と一定の距離を保ってその後方を追走し始めてから,被告人車両がB車両の追い越しをかけるまでの時間は,5秒から10秒くらいというのであり,B車両の速度と併せて考えると,被告人車両がB車両の後方を追走していた距離は,約40ないし110メートルという計算になる。これらの供述に基づけば,被告人車両がB車両の後方を追走していた距離は,約100メートルとも考えられる。もっとも他方,B車両が被害者車両に追い付いてから,被告人車両がB車両に追い付くまでの時間及び距離は,具体的に特定することができないものの,B及びEにおいてB車両が被害者車両に追い付いたとする地点と,被告人車両を追尾していたCにおいて被告人車両の速度が遅くなったとする地点とは,それほどの距離差があったとは認められないから,前記のとおり,B車両が被害者車両に追い付いてからまもなく,被告人車両がB車両に追い付いたものと考えられる。また,被告人車両がB車両の追い越しを開始した地点から事故現場までの距離についても,厳密に特定することはできないが,事故直後にBの立会いに基づいて作成された実況見分調書によれば,被告人車両がB車両の横に並んだ地点から本件交通事故の衝突地点までは約72.8メートルであるとされている。また,証人Eの原審公判における供述によれば,被告人車両がB車両に追い越しをかけてから,被害者車両が被告人車両に衝突するまでの時間は5ないし6秒くらいであるとしており,被告人車両の速度を併せ考えると,被告人車両がB車両に追い越しをかけてから本件交通事故の衝突地点までは,約70ないし100メートルという計算になる。なお,被害者車両が時速約30ないし40キロメートルで走行し,被告人車両が時速約50ないし60キロメートルで走行していた場合,1秒間に約2.8メートル(それぞれ時速40キロメートルと時速50キロメートルの場合)ないし約8.3メートル(それぞれ時速30キロメートルと時速60キロメートルの場合)の差が生じるため,車間距離が30メートルであったとすれば,被告人車両は,被害者車両に衝突するまでに,約60ないし150メートル走行するという計算になる。これらの事情等を総合すると,被告人車両がB車両の後ろを走っていた距離は,約250ないし300メートルとも考えられる。
これらの数字は,結局のところ,一瞬の事故を目撃した者らの時間感覚,距離感覚に基づいて考察しているものであり,いずれの証人も,意図的に虚偽の供述をしているとは考えられないし,知覚条件等に大きな違いがあったともいい難いから,そのいずれが正しいとは確定することができないというほかない。
そうすると,認定し得る事実は,被告人は,事故現場の約400メートル手前でB車両に追い付き,約100ないし300メートルの間,B車両を追走し,その間,ぴったり接近し,左右に移動するなどしてB車両をあおった後,B車両の追い越しを開始したということになる。
そこで,以上を前提に,被告人車両がB車両を追走していた間に,被害者がしたような異常な急接近行為をあらかじめ予測し得るような特段の事情があったといえるかどうかを検討する。
事故現場の約400メートル手前から事故現場までは,ほぼ直線道路となっている。被告人車両は,B車両に接近して追走しており,運転していた被告人が,B車両に先行する被害者車両の蛇行状況を直接目撃していたと認めるに足りる証拠はない。
もっとも,被告人車両は,約100ないし300メートルの間,B車両を追走し,その間,ぴったり接近し,左右に移動するなどしてB車両をあおったものの,B車両の速度は,時速約30ないし40キロメートルのままであったのであり,深夜という時間帯や道路状況等からすれば,通常のタクシーであれば,制限速度を超えて走行するであろうと考えられるから,被告人において,B車両の前方に,B車両が速度を上げるのを困難ならしめるような車両等が走行していることを予想し得たということができる。そして,B車両を追い越す際,その前方に被害者車両が走行しているのを目撃したはずであるから,その時点で,B車両が速度を上げなかったのは被害者車両のせいである,ということを認識した,と考えられる。
しかしながら,原動機付自転車であれば,約30ないし40キロメートルで走行するのは普通である上,車道の左寄りを走行しない場合もまま見られるところである。そして,例えば原動機付自転車が車道の中央ないし右寄りを走行している場合,後続の車両において,しばらくの間,これを追走しながら様子を見るというのも十分にあり得るところであるから,被告人車両において,約100ないし300メートルの間,B車両を追走し,その間,ぴったり接近し,左右に移動するなどしてB車両をあおったにもかかわらず,B車両が速度を上げなかったからといって,その前を走行する被害者車両がそれまで異常な蛇行運転をしていたことをも推測させるとはいい難い。本件では,被告人は,前記のとおり,一般的に考えれば被害者車両との間に安全といえるような側方間隔を保持していたのであるから,被告人において,被害者車両がそのような側方間隔では不十分なほどに異常な運転をすることを予想し得るような事情が必要となるところ,前記の各事実だけでは,そのような事情には当たらないというべきである。
そうすると,被告人が,被害者車両の動静を注視し,安全な側方間隔を保持するなどの業務上の注意義務に違反した,とはいえないということになる。被告人が,被害者車両の動静に注意を払うことなく,安全な側方間隔を保持するなど安全を確認しないまま,時速約60キロメートルで左方に進路変更するという過失を犯したと判断した原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認ないし法令適用の誤りがあるというべきである。論旨は理由がある。
第4

破棄自判

以上によれば,原判決には,原判示第1の事実について被告人が有罪であるとの証明がないのに,有罪であるとした事実誤認ないし法令適用の誤りがあり,原判決は,原判示第1及び第2の事実を併合罪の関係にあるとして1個の刑を言い渡しているから,その全部について破棄を免れない。よって,刑訴法397条1項,380条,382条により原判決を破棄し,同法400条ただし書を適用して,被告事件につき更に判決する。原判決が認定した原判示第2の事実(ただし,前記日時場所において,前記のとおりAに傷害を負わせる交通事故を起こしたのにとあるのを平成18年12月13日午前1時27分ころ,業務として普通乗用自動車を運転し,東京都世田谷区Sa丁目b番先道路を狛江方面から環八通り方面に向かい進行していた際,自車左側部を同方向に走行中のA(当時62歳)運転の原動機付自転車に接触させ,Aを原動機付自転車もろとも路上に転倒させて硬膜下血腫等の傷害を負わせる交通事故を起こしたのにと改める。)に法令を適用すると,被告人の原判示第2の所為のうち,救護義務違反の点は平成19年法律第90号附則12条により同法による改正前の道路交通法117条,72条1項前段に,報告義務違反の点は,道路交通法119条1項10号,72条1項後段にそれぞれ該当するが,これは1個の行為が2個の罪名に触れる場合であるから,刑法54条1項前段,10条により1罪として重い救護義務違反の罪の刑で処断することとし,所定刑中懲役刑を選択し,その所定刑期の範囲内で被告人を懲役8月に処し,原審における未決勾留日数の算入について同法21条を,原審における訴訟費用を被告人に負担させないことについて刑訴法181条1項ただし書をそれぞれ適用する。
(量刑の理由)
本件は,タクシー運転手であった被告人が,深夜,タクシーを走行させていた際,被害者の運転する原動機付自転車と接触して転倒させ,負傷を負わせる交通事故を起こしたのに,現場から逃走して,救護義務及び報告義務を怠った,という道路交通法違反の事案である。
被告人は,職業運転手であり,事故の状況からすれば,被害者に重大な結果が生じたであろうことが予想し得たのに,事故後全く停止しないで,現場から逃走しており,強い非難に値する。被告人は,交通事故を起こしたことを争い,不自然かつ不合理な弁解をしており,反省の態度がみられない。被告人の刑事責任を軽くみることはできない。そうすると,長期にわたって勾留されていたことなど,被告人のために酌むべき事情を考慮しても,主文掲記の刑が相当である。
(一部無罪の理由)
本件公訴事実中,業務上過失致死の事実(訴因変更後のもの)は被告人は,平成18年12月13日午前1時27分ころ,業務として普通乗用自動車を運転し,東京都世田谷区Sa丁目b番先道路を狛江方面から環八通り方面に向かい進行中,進路前方を同方向に進行中のB運転の普通乗用自動車を右側から追い越す際,当時夜間であり,交通量はさほど頻繁ではなかったのに,同車が同所に至るまでの約400メートルの間,時速約30キロメートルの比較的低速度で進行していた上,自車を加速させて前記B運転車両の後方直近に接近させ,いわゆるあおり走行をしたにもかかわらず,同車が速度を上げないで前記速度のまま走行しており,同車の前方には同車が速度を上げることを困難ならしめるような車両等が走行していることもあり得たのであるから,前記B運転車両を右側から追い越して左方に進路変更するに当たり,前方左右を注視し,進路の安全を確認するはもとより,折から同車前方を同方向に進行していたA(当時62年)運転の原動機付自転車の動静を十分注視し,同原動機付自転車との間に安全な側方間隔を保持して同原動機付自転車との安全を確認した上で左方に進路変更すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り,前方左右及び同原動機付自転車の動静を注視せず,進路の安全を確認することもなく,同原動機付自転車との間に安全な側方間隔を保持しないまま漫然時速約60キロメートルで左方に進路変更した過失により,同原動機付自転車右側部に自車左側部を衝突させて同原動機付自転車もろとも同人を路上に転倒させ,よって,同人に硬膜下血腫等の傷害を負わせ,同日午前10時10分ころ,東京都武蔵野市内M病院において,同人を上記傷害により死亡させたというものであるが,既に判示したとおり,この事実については犯罪の証明がないから,刑訴法336条により,被告人に対し無罪の言渡しをする。よって,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官

阿部文洋

裁判官

吉村典晃
裁判官

堀田眞哉)

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