判例検索β > 平成20年(う)第69号
殺人、傷害被告事件
事件番号平成20(う)69
事件名殺人,傷害被告事件
裁判年月日平成20年10月2日
裁判所名・部広島高等裁判所  第1部
結果破棄差戻
原審裁判所名山口地方裁判所
原審事件番号平成19(わ)49
判示事項の要旨被告人が,自分を襲ってきた男性を殺害し,同人と行動を共にしていた男性に傷害を負わせたという殺人,傷害被告事件において,殺人につき過剰防衛の成立を認めて被告人を懲役4年に処し,傷害につき正当防衛の成立を認めて被告人を無罪とした原判決について,傷害の被害者及び被告人の各供述の信用性判断を誤った結果,事実を誤認し,さらに,刑事訴訟法321条1項2号前段に基づく目撃者の検察官調書の取調請求を却下した原審の訴訟手続には法令違反があり,これら事実誤認及び訴訟手続の法令違反が判決に影響を及ぼすことは明らかであるとして,原判決を破棄し,原裁判所に差し戻した事例
裁判日:西暦2008-10-02
情報公開日2017-10-13 01:37:13
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主文
原判決を破棄する
本件を山口地方裁判所に差し戻す。
理由
検察官の控訴の趣意は検察官柿原和則提出の検察官勝山浩嗣作成の控訴趣意書に,これに対する答弁は弁護人藤田幸夫作成の答弁書に,弁護人の控訴の趣意は同弁護人作成の控訴趣意書にそれぞれ記載されているとおりであるから,これらを引用する。
本件公訴事実(訴因変更後のもの)の要旨は被告人は,①平成19年3月8日午後2時30分ころ,山口県周南市a町b丁目c番地付近において,A(当時43歳)から文化包丁で襲われたことに激高し,同人を殺害しようと企て,所携の折りたたみナイフ(刃体の長さ約7.5センチメートル)でその腰部等を突き刺し,引き続き,同所付近路上に停車中の普通乗用自動車内に逃げ込んだ同人の左側胸部,左上腕部,顔面等を多数回突き刺すなどし,よって,同日午後3時4分ころ,同市d町e番f号のB病院において,同人を背部・顔面・左上腕・左右下肢刺創群等により失血死させて殺害し,②同日午後2時30分ころ,同市a町b丁目c番地付近において,同人と行動を共にしていたC(当時22歳)に対し,上記ナイフでその右手甲および右口腔内を突き刺すなどし,よって,同人に加療約2か月間を要する右手切創,右頬部貫通創等の傷害を負わせたものであるというものであるところ,原判決は,本件殺人について過剰防衛の成立を認め,概要被告人は,Aが文化包丁で突き刺そうとしてきたことに身の危険を感じ,自己の生命および身体を防衛するため,防衛の程度を越え,殺意をもって,同人に対し,折りたたみナイフでその背部,腰部,左側胸部,左上腕部,顔面等を多数回突き刺すなどし,同人を失血死させて殺害した旨認定し,本件傷害については,正当防衛の成立を認めて被告人を無罪とした。
これに対し,検察官の論旨は,①被告人の行為について過剰防衛も正当防衛も成立しないことは明らかであり,本件殺人について,過剰防衛の成立を認めて刑を減軽し,本件傷害について,正当防衛の成立を認めて被告人を無罪とした原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある,②刑事訴訟法321条1項2号前段に基づくDの取調請求を必要性なしとして却下し,同却下決定に対して申し立てた異議も棄却した原審の訴訟手続には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反がある,③仮に原判決の認定した事実を前提としても,被告人を懲役4年に処した原判決の量刑は著しく軽きに失して不当である,というのである(以下,証拠に付したかっこ内の甲乙の数字は原審検察官請求証拠番号である。なお,証拠については,謄本の表示を省略する。原審公判供述のことを公判供述という)。弁護人の論旨は,①被告人にはAに対する殺意がないにもかかわらず,これを認めた原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある,②同人に対する被告人の反撃行為は,防衛行為として相当なものであるから,正当防衛が成立するにもかかわらず,これを否定した原判決は,事実を誤認し,ひいては刑法36条1項の解釈適用を誤っており,これらの誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである,③原判決の量刑は重過ぎて不当である,というのである。
所論にかんがみ記録を調査して検討するに,原判決の事実認定のうち,Aに対する殺意を認めた点は,正当として是認できるものの,原判決は,Cの公判供述および被告人の供述の信用性判断を誤った結果,本件殺人について過剰防衛の成立を認め,本件傷害について正当防衛の成立を認めており,その点に関する原判決の判断を是認することはできない。その理由は,以下に説示するとおりである。
1
Aに対する殺意の有無(弁護人の上記①の主張)について弁護人は,殺意の有無については,致命傷を与えた時点において判断すべ
きであるところ,Aの致命傷である左側胸下部刺創,左胸部血気胸の傷害は,被告人とAとが,上記折りたたみナイフ(以下本件ナイフともいう)を奪い合う中で生じたものであり,被告人は,意識的にAの身体の枢要部を狙って相当な力で突き刺したものではないから,同人に致命傷を与えた時点で,同人が死亡する可能性についての認識認容がなく,殺意がない旨主張する。(1)

しかし,原審で取り調べた関係証拠によれば,原判決の争点に対する判断の項(以下争点判断という)の第2の2で認定説示するとおり,嘱託鑑定書(甲60。以下嘱託鑑定書という)によって認められるAの死体の創傷の数・部位・程度,本件ナイフ(当庁平成20年押第14号の1)の形状等を総合すると,被告人は,至近距離からAの身体の枢要部に本件ナイフを何回も相当な力で突き刺したものであり,同人が死亡する可能性について認識認容していたものであることは,優に認めることができるから,被告人は,同人に対する殺意を有していたというべきである。(2)

弁護人は,殺意の有無については致命傷を与えた時点において判断す
べきである旨主張するので,この点について検討する。

嘱託鑑定書によれば,本件の翌日,Aの死体は医師により解剖され,
その左側胸腔に約20ミリリットルの血液が認められた(左胸部血気胸)こと,左側胸下部すなわち臀裂より上方27センチメートル,左方16センチメートルの部位より,身体の前方に向けて3.6×1センチメートル大の創があり,創洞は7.5センチメートルでほぼ水平方向へ向かい,左胸腔に達しており,左第10第11肋間に3.5×1.5センチメートル大の創を,左横隔膜に4×1センチメートル大の貫通刺創をそれぞれ形成して,これらを貫通し,脾臓の外側部の左上腹部後腹膜に達していた(左側胸下部刺創)こと,同医師は,Aの死因について,背部・顔面・左上腕・左右下肢刺創群による失血で,左血気胸による外傷性ショックが関与するものと検案され,失血は中小血管損傷によるもので,左血気胸による外傷性ショックが大きく関与するものと考えられるほか,Aの致命傷は,左側胸下部刺創・左胸部血気胸と検案されると判断したことが認められる。なお,嘱託鑑定書によれば,明確に特定されてはいないものの,左胸部血気胸の主要因は左側胸下部刺創であると認めるのが相当である。

Aの致命傷となり,左胸部血気胸の主要因であると認められる左側
胸下部刺創が,どのようにして生じたのかを証拠上特定することは困難である。
しかし,左側胸下部刺創の位置(嘱託鑑定書に添付された写真43,46等参照)のほか,後述のとおり,本件当時Aが着ていた長袖シャツおよび長袖トレーナーには,刃物による損傷が認められなかったこと,上記1(2)アの認定事実によれば,左側胸下部刺創は,その創洞の長さが本件ナイフの刃体の長さと一致しており,同ナイフが根元まで刺さったことによって生じたものであり,しかも,左第10第11肋間と左横隔膜を貫通し,左上腹部後腹膜にまで達していたことに照らすと,被告人が供述するような被告人とAとが本件ナイフを取り合ってもみ合う最中に,左側胸下部刺創が生じたとは考え難く,被告人が,本件ナイフを用いて意図的にAを刺して左側胸下部刺創を負わせたものであると認められ,その時点で,被告人は,Aが死亡する可能性を認識しかつ認容していたと認めるのが相当である。
Aの致命傷となった左側胸下部刺創,左胸部血気胸が,本件ナイフを奪い合う中で生じたことを前提とする弁護人の主張を受け入れることはできない。
(3)

以上の次第であり,Aに対する殺意を認めた原判決に事実誤認はない。
弁護人の本論旨は理由がない。
2
本件殺人に関する正当防衛・過剰防衛の成否および本件傷害に関する正
当防衛の成否(検察官の上記①②の主張および弁護人の上記②の主張)について
(1)

原審で取り調べた関係証拠によれば,点判断の第2の1(1)の事実(た争
だし,Aが,被告人に馬乗りになりもみ合っているうちに立ち上がり,被告人が,馬乗りになられた状態を逃れたという事実と,被告人は,Aが取り出した本件ナイフを取合いの末奪い,Aを突き刺すなどしたという事実を除く)が認められるほか,以下の事実が認められる(原判決の認定事実を一部重複して示す)。

被告人およびDが本件当日に食事をした飲食店は,その西側におい
て市道に面しているところ,その市道の両側には歩道が設けられており,車道は片側一車線である。被告人らは,上記飲食店を出た後,同店の南に隣接する駐車場(以下本件駐車場という)に行くため,上記歩道を南に向かって歩いていた。Cは,その運転する普通乗用自動車(以下本件自動車ともいう)の後部座席にAを乗せ,上記市道を南に向かって進行し,本件駐車場前に停止させた。そして,目出し帽を被ったAが,本件自動車から降り,被告人に背後から近づいて所携の文化包丁を突き出したところ,被告人のベルトに当たって刺さらなかった。その後,Aは,仰向けに倒れた被告人の上に馬乗りになり,文化包丁で突き刺そうとして,抵抗する被告人ともみ合っていたところ,文化包丁の刃が地面に当たって根元から折れた。

Aの背面には,腰部上部刺創(第1第2腰椎間の右側基部への刺創)
が認められる。すなわち,Aの腰部の下部の臀裂より上方21センチメートル,右方1.5センチメートルの部位より,内方へ2.5×1.2センチメートル大の創が認められ,接着にて1.8センチメートル長で下方に変曲し1センチメートル長となっている。創洞は上方に向かって6センチメートルであり,第1第2腰椎の右側基部に達している。ウ
Cは,被告人を襲撃した際に,加療約2か月間を要する右手切創,
側手根伸筋損傷,短母指伸筋損傷,長母指外転筋損傷,右頬部貫通創の傷害を負った。右手切創は,Cの右手の甲側の手首に2か所ある。また,Cの右頬部貫通創は,同人の右口角から刺入し,頬筋の間を通って右頬に抜ける貫通創であって,口腔内には創はない。

Aが被告人を襲撃した際に着用していた長袖シャツと長袖トレーナ
ーには,損傷が認められなかった。
(2)

被告人とAまたはCとの間の攻防状況等は,正当防衛や過剰防衛の成
否を判断する前提となる事実であるところ,この点に関するCの公判供述および被告人の供述は,それぞれ概要以下のとおりであり,その内容は大きく食い違っている。

Cの公判供述
Aが包丁を持って車から出て行った後,1分くらい目を離し,Aを見
ると,本件駐車場内で,仰向けの被告人にAが覆い被さるような状態で,もみくちゃの状態になっており,その状態が2ないし3分くらい続いた。周りを窺うため,ちょっと目を離した後,Aは,自分に背中を向け,体育座りのような感じで尻を地面につけて,その上半身の服が肩の辺りまで脱げて顔が隠れる状態になっていた。被告人は,何か出すような感じで,右側の腰の辺りのポケットをごそごそしていた。ナイフを取り出すところをはっきり見ていない。そして,Aの正面にいる被告人は,Aの上から覆い被さるような感じで,右逆手でナイフを振り下ろすような感じで,同人の背中の下の方を刺した。根元まで刺した感じだった。Aを助けるため,車から出て同人のところに行き,脇の下から抱え上げるようにして,同人を車の助手席側の後部座席に乗せた後,被っていた目出し帽を脱いだ。その間,被告人は,車の運転席の方に回り,エンジンキーを抜いた。鍵を渡すから運転席に行くようAに言ったところ,同人は運転席に移動した。被告人がエンジンキーを投げたように思ったので,車の周囲を捜してエンジンキーを拾い上げ,後部座席から乗り込んでAに渡し,同人がエンジンをかけようとしたものの,被告人にエンジンキーを抜かれた。そして,Aは,スペアキーを差してエンジンをかけようとしたが,被告人が,Aの顔,胸,腹辺りをナイフで4回か5回刺した。被告人は,刺しながらおまえ,どこの者かなどと言い,Aは,も
うええじゃないか,やめてくれと言ったり,やめてくれみたいな感じで,体の前方に手を出して払いのけるような感じだった。Aが攻撃されている間にエンジンをかけようと思い,助手席側の後部座席から体を伸ばすような感じで,キーボックスにささっているスペアキーを回してエンジンをかけると,被告人にエンジンを切られるというやり取りが,4回か5回あった。この間,右手を伸ばしているときに,右手の甲側の手首の辺りを被告人にナイフで刺され,右手が使えなくなったので,今度は左手でエンジンをかけようとしたところ,口の右端の辺りを被告人にナイフで刺され,頬に貫通したような感じだった。エンジンをかけるのをあきらめて車を降り,助けを呼ぶためEに電話をかけている最中に警察官が来たので,車の前側を通って,Aのところに行った。Aは,運転席で刺された際,抵抗していなかったし,被告人に対し足で蹴ったり殴りかかったりもしていない。また,自分も,被告人に向かって行ったり攻撃を加えたりしたことはない。

被告人の供述
本件駐車場の前辺りで,いきなり背後から刃物を持った覆面の男(A)
に体当たりするようにぶつかられ,本件駐車場に仰向けに倒れた。Aが,腹の上に馬乗りになり,少なくとも10回以上,顔や胴体を目がけて刃物を突き刺してきた。殺されないように,包丁を持つAの手首をつかんで刺されないようにしたり,包丁を持つ同人の手を振り払ったりし,両足をばたつかせた。そのような攻防を繰り返すうちに,包丁を持つAの手首を両手でつかんだところ,同人は,包丁を持つ手をフックパンチのように回しながら,自分の右脇腹を目がけて突き刺そうとしてきたので,包丁を持つ同人の手首を両手でつかみ,同人も更に力を入れて包丁を突き出してきたので,自分も同人の手首をつかんでいた手に力を入れた。すると,Aは,突然力を抜いて立ち上がった。そのとき,Aが被っていた目出し帽をどちらかの手で脱がせ,同人の眼鏡も一緒に地面に落ちた。立ち上がったAは,腹の前辺りでごそごそしており,ふと自分の右脇腹の辺りを見ると,包丁の刃の部分だけが落ちていた。そして,Aを見ると,同人の手の先にナイフの刃が見えたので,すぐに立ち上がったところ,ナイフを持った同人が,自分の腹に刃先を向けて近づいてきた。ナイフを持つAの手首をつかんで動かしたり振り回したりし,同人は,その手を振り払って刺そうとした。必死だったので,Aからどのようにしてナイフを取り上げたのか覚えていないが,同人の体の前面のどこかにナイフが刺さったりして,ナイフを取り上げることができたと思う。そして,Aがナイフを取り返そうとして,同じようなもみ合いになり,その際にも,同人の体の前面のどこかを刺したりしていると思う。Aの背中を刺した記憶はないが,背中を刺したのは,傷の状況やその場の状況からすれば,自分がナイフを取り上げた後,同人がそれを取り返そうとしてもみ合いになったときだと思う。その後,覆面を被った男(C)が,右側から駆け寄ってきたが,そのときにはAの上着は脱げていた。そして,Cが殴りかかってきたので,Aに加勢して自分を殺そうとしていると思い,殺されまいと,手に持っていたナイフをCの上半身の方に向けて何回か突き出した。実際にCを傷つけたかどうかは分からない。Aは,車の後部座席の方に向かっており,それを見て,別の凶器を取り出すと思った。Cが少しひるんだので,車の方を見ると,Aが,助手席側の後部座席から運転席に移動しており,車で轢き殺されると思ったので,運転席の方に回り,エンジンキーを抜こうとしたが,Aが,殴る蹴るの攻撃をして邪魔してきたので,右手でナイフを持ち,同人の上半身を目がけて何度も突き刺し,抵抗がやんだ隙に,左手でエンジンキーを抜いた。ナイフはAの手や顔等に刺さった。Cを見ると,同人は,車の助手席側の後部座席に乗り込み,Aにスペアキーを渡し,同人がそれを差し込んだので,再び鍵を抜こうとしたが,Aから殴る蹴るの抵抗を受けた。先ほどと同様に防戦していると,警察官が到着したので,助かったと思い,防戦するのをやめた。Aが体育座りをしたことはないし,Cが,Aを抱えて車に乗り込ませたこともない。また,車内にいるCをナイフで突き刺したことはない。
(3)

ところで,原判決は,Cの公判供述および被告人の供述の信用性につ
いて,(あ)本件駐車場内における被告人とAとの攻防の状況等に関するCの公判供述は信用できない(争点判断の第2の1(2)ア),(い)本件ナイフをAから奪ったという被告人の供述を排斥することはできない(同第2の1(2)イ),(う)Cに対する傷害行為の状況に関する同人の公判供述と被告人の供述とでは,証拠上どちらの可能性も否定し難い(同第2の1(2)エ)旨説示した上で,以下のとおり認定判断して,Aに対する過剰防衛およびCに対する正当防衛を認めた。すなわち,被告人は,突然,文化包丁を持ったAに背後から襲われ,その包丁で刺されそうになり,文化包丁が折れた後にも,同人は本件ナイフを取り出した。このようなAの行為は,被告人の生命身体に対する急迫不正の侵害であり,被告人が本件ナイフを奪い取った時点でも,Aが,本件ナイフを奪い返すなどして,更なる侵害行為に出るおそれが高いから,いまだ侵害は継続していた。その後,Cが,Aに近寄った際,被告人に攻撃を加えようとしていたかどうかは不明であるが,そうでなかったとしても,被告人において,目出し帽を被った男が近づいてくれば,Aに加勢するために来たと考えても不合理ではない。そして,被告人が,本件自動車の運転席に座っているAを攻撃した時点では,同人らに被告人を攻撃する意図はなかったとも思われるが,被告人は,Aらが車に戻ったのは,別の凶器を取りに行くためか,車を発進させて被告人を轢き殺すためだと思ったと述べるところ,当時の状況は,そのようなことを疑うに十分である。被告人は,Aが無抵抗になってからも攻撃を継続しているが,生命の危機に立たされた被告人が,驚愕や興奮のため,Aが無抵抗になったことを直ちには認識できなかったとしても,無理からぬところであり,この段階で,少なくとも,正当防衛状況につき誤信があったということができる。以上のとおり,本件駐車場内および本件自動車内での被告人のAに対する刺突行為は,被告人の生命身体に対する急迫不正の侵害が現にあり,またはそのような侵害があると誤信した状況の下での行為であると認められる。しかし,運転席にいたAに対する攻撃については,防衛行為としての相当性を欠いているところ,被告人のAに対する攻撃は,一連一体のものとして評価すべきであるから,全体として過剰防衛になる。また,Cに対する攻撃は,被告人が直面した生命の危機の状況下の行為としては,相当性を欠くとはいえないから,正当防衛が成立する,というのである。
(4)

しかし,以下に説示するところを総合すれば,Cの公判供述および被
告人の供述の信用性についての原判決の判断は,誤っているといわざるを得ず,是認することができない。そうすると,これらの供述に関する上記2(3)の信用性判断を前提として,Aに対する過剰防衛およびCに対する正当防衛の成立を認めた原判決の判断も,是認することはできない。これらの供述の信用性については,Dの検察官調書をも取り調べた上で,十分に吟味されるべきであり,そのような作業を踏まえて認定した事実を前提として,正当防衛,誤想防衛または過剰防衛の成否について検討すべきである。

被告人の供述について


本件駐車場内における被告人とAとの攻防の状況等に関する被告

人の供述は,上記2(1)イのAの受傷状況と整合しないから,そのまま信用することができない。すなわち,被告人の供述を前提にすると,Aの腰部上部刺創については,被告人とAが,本件ナイフを取り合ってもみ合っていた際に生じたことになる。そして,被告人の供述する両者のもみ合いの状況に照らすと,Aが着用していた長袖シャツと長袖トレーナーが,両方とも脱げたり大きくまくれ上がったりした状態になるとは通常考え難い。そして,本件当時にAが着用していた長袖シャツおよび長袖トレーナーには,刃物による損傷がないこと(上記2(1)エ),同人の負った腰部上部刺創の位置および創洞の向き(上記2(1)イ)をも併せ考えると,被告人の供述によって,この刺創の形成機序が合理的に説明されているとはいえない。


Cに対する傷害行為の状況に関する被告人の供述は,以下のとお

り,客観的証拠に反しており到底信用できない。原判決の上記(う)の判断には疑問がある。
(ア)

被告人の供述によれば,被告人が,目出し帽を被って襲って

きたCともみ合った際に,同人に本件ナイフが刺さったことになる。しかし,捜査報告書(甲36)によれば,Cの目出し帽が,刃物により損傷された形跡はないから,被告人の供述を前提にすると,Cは,被っていた目出し帽に損傷がないのに,本件ナイフで顔を刺されて右頬部貫通創の傷害を負ったことになり,不合理極まりない。
(イ)

Cの右頬部貫通創は,上記2(1)ウのとおり,同人の右口角か

ら本件ナイフが刺入し,口腔内を傷つけることなく,頬筋の間を通って右頬に抜けるという,かなり特異な刺さり方をして生じたものであり,被告人が供述するようなCとのもみ合いにおいて,本件ナイフがこのような刺さり方をするのか疑問である。
(ウ)

被告人の供述によれば,Cは,本件ナイフを使用してAを負

傷させた被告人に対し,丸腰の状態で向かって行き,殴りかかったことになるところ,これはかなり無謀な行動であり,あり得ないとはいえないまでも,いささか不自然との感を免れない。


被告人は,背後からAに襲撃され,馬乗りになられてもみ合った

状況については,ある程度具体的に供述しているにもかかわらず,同人から本件ナイフを奪った状況,同人に腰部上部刺創等の傷害を負わせた状況,Cに襲われて同人ともみ合いになり,同人に傷害を負わせた状況等については,曖昧で漠然とした供述をしており,いささか不自然との感を免れない。そして,この曖昧な供述部分には,上記2(4)ア①②のとおり,有罪無罪を左右する重要な点について信用できない内容が含まれていることにも照らすと,本件ナイフをCから奪ったという被告人の供述の信用性については,それと表裏の関係にあるCの公判供述の信用性判断とともに,慎重に検討すべきである。
したがって,この点に関する被告人の供述を排斥できないとした原判決の上記(い)の判断をそのまま是認することはできない。

Cの公判供述について
Cの公判供述については,以下に説示するとおり,供述の信用性を肯
定する方向に働く事情があり,供述の信用性を否定した原判決の判断が合理的であるとはいえない。原判決の上記(あ)の判断もそのまま是認することはできない。


Cの公判供述は,嘱託鑑定書によって認められるAの受傷状況や

本件ナイフの形状のほか,本件当時にAが着用していた長袖シャツおよび長袖トレーナーに損傷がないことと符合しており,特に,上記2(1)イの腰部上部刺創について,その刺創の部位や形状等を含め,形成機序を合理的に説明する内容である。
また,Cの公判供述は,上記2(1)ウのCの受傷状況のほか,Cの被っていた目出し帽が,刃物による損傷のない状態で,本件自動車の後部座席に置かれていたことともよく符合している。特に,特異な形状をしている右頬部貫通創についても,本件自動車の助手席側の後部座席からエンジンキーを回すために,左手を伸ばしていたところ,被告人に本件ナイフで刺された旨のCの公判供述によって,その形成機序を合理的に説明することが可能である。弁護人は,被告人とCの位置関係等に照らし,極めて不自然な傷跡である旨主張するが,Cが,エンジンをかけるため左手を伸ばしていた際に,顔をやや右側に向けていたとすれば,上記のような貫通創が形成されることは十分考えられ,不自然とはいえない。
さらに,Cの公判供述は,血痕の付着状況も含めた本件直後の本件現場付近の状況(写真撮影報告書〔甲3〕,実況見分調書〔甲4〕),本件の6日後に行われた検証時の本件自動車内の状況(検証調書〔甲9〕),同車の外装および車内の血痕の付着状況(捜査報告書〔甲10〕)等の客観的な状況とも符合している。


Cは,被告人が,何か出すような感じでポケットをごそごそして

いた旨供述する一方で,被告人が,本件ナイフを取り出すところをはっきり見ていない旨供述するなど,記憶にあることと記憶にないこととを区別して供述していることが窺われるほか,被告人の行為態様についても,大袈裟に述べるなどの作為的な表現は窺われない。また,Cは,原審公判で,捜査段階および自らを被告人とする裁判においては,後々のことが怖くて,被告人を襲撃したことについて,自らが所属していた暴力団の組長の指示ではなく,Aの指示による犯行である旨虚偽の供述をしていたが,本当のことを話して罪をすべて償いたいなどの気持ちから,同組長の指示による犯行であることを初めて供述した旨供述している。このようなCの供述態度は,その供述の信用性を増強するものであるということができる。


原判決は,本件駐車場内における被告人とAの攻防の態様等に関

するCの公判供述が信用できない理由として,(え)Cは,被告人を襲撃し,反撃されて負傷したことを理由に,被告人に不利な方向で虚偽を述べる動機を持ち得ること,(お)上記攻防の状況等について,被告人が優勢であり,その攻撃が苛烈なものであったことを示す場面を断片的に挙げながらも,その途中経過については,目を離していたなどとして説明しない部分があり,当然見聞きしている筈の状況について,一連の流れを説明できないというのは不自然である旨説示している(争点判断の第2の1(2)ア(イ))。
たしかに,上記(え)の点は,原判決の指摘するとおりであり,Cの公判供述の信用性を判断する際に考慮すべき事情の一つではある。しかし,このことだけを理由として,その信用性を否定できるものではない。
上記(お)の点については,被告人に対する襲撃は,白昼の市街地において行われたものであるところ,Cは,襲撃後,本件自動車を運転して逃走するつもりでいたと考えられ,Aや被告人の動向のほか,周囲の状況や目撃者の有無等についても,相応の注意を払わなければならない立場にあったといえるから,上記攻防の状況等の一部を目撃していなかったとしても,必ずしも不自然であるとはいえない。したがって,原判決の指摘する上記(え)(お)の点は,いずれもCの公判供述の信用性を減殺する事情ではあるものの,上記2(4)ア①②のとおり,被告人の供述には,重要な部分において信用できない内容が含まれていることや,上記2(4)イ①②のとおり,Cの公判供述には信用性を肯定する方向に働く事情があることに照らすと,上記(え)(お)の点のみをもって,その供述の信用性を否定するのは,合理的な判断であるとはいえない。


弁護人は,Cの公判供述について,(ア)Aが被告人に対面する形
で体育座りをし,被告人が本件ナイフを取り出したなどというが,被告人は丸腰であったから,Aは,体育座りの格好のままでいる必然性はなく,すぐ別の行動を取れた筈である,(イ)CがAを抱え上げて本件自動車の後部座席まで連れて行ったというが,本件ナイフを奪い取った被告人が,その間傍観していたなどということはあり得ないなど,常識では考えられない不合理さがあるとして,その供述の信用性を論難する。
しかし,上記(ア)の点については,Cの公判供述によれば,Aは,上着が肩の辺りまで脱げて顔が隠れる状態になっていたというのであり,時間的経過は判然としないものの,Aが体育座りをしてから,被告人が本件ナイフを手にするまでに間がなかったとすれば,必ずしも弁護人のようにいうことはできない。
上記(イ)の点については,Cの公判供述によれば,Cが,Aを抱え上げて本件自動車の後部座席に連れて行っている間,被告人は,同車の運転席の方に回り,エンジンキーを抜くなどしていたことが窺われ,この行動の目的は判然としないものの,その間,被告人が傍観していたわけではないから,弁護人の主張は前提を欠いている。

Dの検察官調書について
原裁判所は,刑事訴訟法321条1項2号前段に基づくDの検察官調
書の取調請求を必要性なしとの理由で却下し,その却下決定に対し検察官が申し立てた異議も棄却しているところ,検察官は,この原審の訴訟手続に法令違反がある旨主張する。
本件記録および捜査報告書(甲70)によれば,Dの検察官調書(甲41。甲69と同一のもの)について不同意の意見が述べられたことから,検察官は,その取調請求を撤回した上,Dの証人尋問を請求して採用されたものの,同人は,証人尋問が行われる予定であった原審第1回公判期日に出頭しなかったこと,同人の証人尋問は原審第3回公判期日に行われることになったところ,同人の居所が判明しないことなどを理由として,2回にわたり,検察官からの請求により,同公判期日が取り消されたこと,その後の捜査機関による所在調査を踏まえても,同人が所在不明であることを受け,原審第4回公判期日において,同人の証人尋問の採用決定が取り消されたことが認められ,これらの事実によれば,Dの検察官調書については,供述者が所在不明のため公判期日において供述することができないときという刑事訴訟法321条1項2号前段の要件を満たしている。
ところで,Dは,本件当時,本件現場付近にいて,被告人とAまたはCとの攻防の状況等を,至近距離から目撃していた人物であり,Dの検察官調書が,本件事案の真相解明のために重要な証拠であることは明らかである。Dは,Aらに被告人の襲撃を指示したEらと通じ,被告人を本件現場に誘い出した人物であることが窺われるから,Dの検察官調書の信用性については,相当慎重に判断すべきであるのは当然としても,この検察官調書が作成されたのは,本件の18日後であり,Dが本件に関与していることが明らかになっていなかった段階のものである可能性が高いことにも照らすと,この検察官調書を取り調べる必要性が認められ,弁護人の主張(答弁書の第2)を十分考慮しても,原裁判所は,この必要性判断において裁量を逸脱した違法があるといわざるを得ない。したがって,検察官による刑事訴訟法321条1項2号前段に基づくDの検察官調書の取調請求を必要性なしとして却下し,その却下決定に対する検察官の異議も棄却した原審の訴訟手続には,同条項の解釈適用を誤った法令違反がある。そして,検察官が控訴趣意書に引用するDの検察官調書の内容によれば,Cの公判供述を裏付ける内容であることが窺われ,この検察官調書に記載された供述については,その供述全体を精査して慎重に信用性を判断すべきであることを十分考慮しても,この訴訟手続の法令違反が,判決に影響を及ぼすことは明らかであるというほかない。
(5)

なお,弁護人は,原判決が,本件を目撃していた証人Fの供述に依拠
して,被告人が,本件自動車の運転席ドアの横に立ち,ぐったりして抵抗できない状態になっていたAに対し,一方的に攻撃を加えていた旨認定した(争点判断の第2の1(2)ウ)ことについて,Fは,(ウ)本件自動車が白色であるのに,黒色と供述した,(エ)被告人は坊主頭ではないのに,運転席の横に立っていた男が坊主頭であるなどと供述した,(オ)Aは,坊主頭であり,顔面や上半身が血だらけになっているのに,坊主頭ではなく,血まみれということもなかったなどと供述しているとして,その供述の信用性を論難するので,この点についても検討する。Fの供述については,原判決が,争点判断の第2の1(2)ウで説示するとおり,目撃したのが数秒程度の短時間であること,供述の細部において事実と異なる部分や曖昧な点があることを十分考慮しても,弁護人が引用する原判決の事実認定に沿う供述の核心部分においては,基本的に信用できるというべきである。
たしかに,Fの供述には,弁護人の指摘するとおり,事実と異なる不正確な点がある。
しかし,Fは,上記2(1)アの市道の本件駐車場とは反対側の歩道上を歩いていた際に,同駐車場前に停止していた自動車の運転席の横に立っていた男が,運転席に座っていた男に対して暴行を加えるのを目撃したのであり,目撃時間が数秒程度と短時間である上,その目撃の態様も,あまり見ると男同士の喧嘩に巻き込まれると怖いため,注意して観察したのではなく,視界に入ってくるのが見えたという程度のものであったことが窺われることも併せ考えると,本件自動車の色,暴行していた人物および暴行されていた人物の特徴を正確に記憶していなかったり,記憶に混同がみられたりしても,ある程度やむを得ない面がある。上記(ウ)ないし(オ)の点は,いずれもFの供述の核心部分の信用性に疑いを生じさせるものとまではいえない。
(6)

以上の次第であるから,原判決は,Cの公判供述および被告人の供述
の信用性判断を誤った結果,正当防衛や誤想防衛等の成否を判断する前提となる事実を誤認しており,その誤った事実を前提として,本件殺人について過剰防衛の成立を認めて刑を減軽し,本件傷害については正当防衛の成立を認めて被告人を無罪としたのであるから,原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるというほかない。また,Dの検察官調書について,検察官による刑事訴訟法321条1項2号前段に基づく取調請求を必要性なしとの理由で却下し,その却下決定に対し検察官が申し立てた異議も棄却した原審の訴訟手続には法令違反があり,これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。検察官の訴訟手続の法令違反および事実誤認の論旨は,この限度で理由がある。
そして,Dの検察官調書をも取り調べた上で,Cの公判供述および被告人の供述の信用性について検討し,そのような作業を踏まえて認定した事実を前提として,正当防衛,誤想防衛または過剰防衛の成否について検討するためには,更に慎重に審理を尽くす必要がある。
3
よって,検察官および弁護人のその余の主張について判断するまでもな
く,刑事訴訟法397条1項,379条,382条により原判決を破棄し,上記の点等につき審理を尽くさせるため,同法400条本文により,本件を原裁判所である山口地方裁判所に差し戻すこととして,主文のとおり判決する。
平成20年10月2日
広島高等裁判所第1部

裁判長裁判官

楢崎康英
裁判官

森脇淳一
裁判官

友重雅

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