判例検索β > 平成15年(ワ)第2636号
損害賠償
事件番号平成15(ワ)2636
事件名損害賠償
裁判年月日平成19年6月15日
裁判所名・部札幌地方裁判所  民事第5部
結果棄却
裁判日:西暦2007-06-15
情報公開日2017-10-18 04:04:43
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判示事項の要旨
本件は,日中戦争終了前後の混乱期に,中国(現在の中華人民共和国)の東北部(現在の黒竜江省,吉林省,遼寧省及び内蒙古自治区にまたがる地域)において肉親等と離別して残留し,いわゆる中国残留孤児(ないし中国残留婦人)となった原告らが,被告は,原告らを速やかに日本に帰国させる義務や帰国後に普通の日本人として自立した生活ができるよう支援する義務があるのにこれらを怠ったことにより,原告らに全人格的な被害を与えたなどとして,被告に対し,国賠法1条1項に基づき,損害賠償を求めた事案で,被告の行為に違法性はないなどとして原告らの請求を棄却したものである。

(略称表)

1
本判決における略称等は下記各表の左欄のとおりとする。

略称

名称

憲法

日本国憲法

国賠法

国家賠償法

厚生省設置法

厚生省設置法(昭和24年法律第151号)

旧外務省設置法

外務省設置法(昭和24年法律第135号)

入管法

出入国管理及び難民認定法

援護法

未帰還者留守家族援護法

特別措置法

未帰還者に関する特別措置法

自立支援法

中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自
立の支援に関する法律

拉致被害者支援法

北朝鮮当局によって拉致された被害者等の支援に関する
法律

旧国籍法

国籍法(明治32年法律第66号)

国籍法

国籍法(昭和25年法律第147号)

文民条約

戦時における文民の保護に関する千九百四十九年八月十
二日のジュネーブ条約サンフランシスコ日本国との平和条約及び関係文書平和条約
自由権規約

市民的及び政治的権利に関する国際規約

社会権規約

経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約

日ソ中立条約

大日本帝國及ソヴィエト社會主義共和國聯邦間中立
條約

2
本判決における下記表左欄の用語は,右欄の意味を有するものとする。
用語

意味

(中国)残留邦人

中国の地域における昭和20年(1945年)8月9日
以後の混乱等の状況の下で本邦に引き揚げることなく同
年9月2日以前から引き続き中国の地域に居住している
者であって同日において日本国民として本邦に本籍を有
していたもの及びこれらの者を両親として同月3日以後
中国の地域で出生し,引き続き中国の地域に居住してい
る者(自立支援法2条1項1号参照)

(中国)残留孤児

残留邦人のうち,日本人を両親として出生し,昭和20
年(1945年)8月9日以降の混乱により保護者と生
別又は死別した,終戦当時の年齢が概ね13歳未満で,
本人が自己の身元を知らず,当時から引き続き中国に残
留し,成長した者(乙総25,106,125。乙総3
2参照)

(中国)残留婦人

残留邦人のうち,残留孤児以外の,終戦時の年齢が概ね
13歳以上の女性

文化大革命

昭和41年(1966年)に始まり,昭和52年(19
77年)に終結が宣言された,中国国内の毛沢東らによ
る革命

永住帰国

日本に永住する目的で,日本に帰国すること

一時帰国

親族の訪問等の目的で,日本に短期間滞在するために,
日本に帰国すること

入管局

法務省入国管理局
主文1
原告らの請求をいずれも棄却する。

2
訴訟費用は原告らの負担とする。

第1
1実
請求
原告ら
(1)

被告は,原告番号19の1ないし5を除く第1事件原告らに対し,それ
ぞれ3300万円,原告番号19の1ないし4の第1事件原告らに対し,それぞれ412万5000円,原告番号19の5の原告に対し,1650万円及びこれに対する平成15年12月9日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(2)

被告は,第2事件原告らに対し,それぞれ3300万円及びこれに対す
る平成16年6月4日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。(3)
(4)
2
訴訟費用は被告の負担とする。
仮執行宣言

被告
(1)

主文同旨

(2)

仮執行の宣言は相当ではないが,仮に仮執行宣言を付する場合は,担保
を条件とする仮執行免脱宣言及びその執行開始時期を判決が被告に送達された後14日経過した時とすることを求める。
第2

事案の概要
本件は,日中戦争終了前後の混乱期に,中国(現在の中華人民共和国)の東北部(現在の黒竜江省,吉林省,遼寧省及び内蒙古自治区にまたがる地域。以下旧満州又は満州という。)において肉親等と離別して残留し,いわゆる中国残留孤児(ないし中国残留婦人)となった原告ら(原告番号1ないし18及び20ないし85の原告ら並びに原告番号19の1ないし5の原告らの被承継人であるX19をいう。)が,被告は,原告らを速やかに日本に帰国させる義務(早期帰国実現義務),帰国後に普通の日本人として自立した生活ができるよう支援する義務(自立支援義務)があるのにこれらを怠ったことにより,原告らに全人格的な被害を与えたなどとして,被告に対し,国賠法1条1項に基づき,損害賠償(一律3300万円)を求めた事案である。本件における争点は次のとおりである。
12
早期帰国実現義務違反の存否

3
自立支援義務違反の存否

4
損害

5
戦争損害論

6
国家無答責の法理

7
除斥期間の経過

8
第3

被侵害権利又は被侵害利益の存否

消滅時効
当事者の主張
別紙2(原告らの主張)及び別紙3(被告の主張)記載のとおり。理
第1


事実認定
公知の事実並びに証拠(甲総1ないし8,11ないし23,26ないし28,30,31の2,32,33の1,2,甲総40の1ないし3,甲総43,49の1,2,甲総53,55,57,71,83,86,91ないし93,109の1,2,甲総110,115ないし119,124,130,134の2,8,甲総138,157,160の1ないし10,甲総167,A2の1,2,4,A3の5,A4の15,18,92,A5の7,60,A6の1,3ないし9,70,79,86,A13の1,2,A14の1,2,B10,D1の2ないし5,7ないし9,47,48,D11,E3,13,24,F1,2,4,5,3,44,甲1ないし85(枝番のあるものは枝番を含む。),乙総3ないし18,21ないし25,28ないし50,52ないし90,91の1,2,乙総92の1,2,乙総93ないし103,104の1,2,乙総105ないし110,113,120,122,137,142,143の1ないし4,乙総152,153,156,157,159の1ないし5,乙総165,166,168の1ないし8,乙総180,181,185ないし189,193ないし195,196の1ないし4,乙総200,201の1ないし3,乙総204,205,207,208,213,乙3の4,乙11の3,乙17の1,乙33の1,乙37の1ないし3,乙44,47の1,乙66の1,乙69の1,乙70の1,2,乙82の1,乙83の1,乙84の1,証人B,原告X5,原告X17,原告X33,原告X37,原告X44,原告X47,原告X66,原告X69,原告X70,原告X82,原告X84。ただし,後記認定に反する部分を除く。)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められ,これを覆すに足りる証拠はない(括弧内の証拠番号等は,掲記事実を認めた主要証拠等である。)。なお,引用文は現代語表記に改めるなどした部分がある。
1
残留孤児の発生に至る経緯等
(1)満州国の建国等

日本の大陸進出政策と満州事変

(ア)日本は,明治27年,28年(1894年,1895年)の日清戦争に勝利した後,欧米列強にならって大陸進出の政策をとり,明治33年(1900年)の北清事変及び明治37年,38年(1904年,1905年)の日露戦争の勝利により,関東州と名付けた遼東半島南部におけるロシアの租借権に加え,長春から旅順間の鉄道及びその支線並びにこれに付属する一切の権利,特権及び財産を継承し(日露講話条約6条),具体的な大陸進出の足がかりを築いた。日本は,上記鉄道の経営のために明治39年(1906年)8月に南満州鉄道株式会社(以下満鉄という。)を設立し,同年9月に満鉄付属地の保護監督と関東州内の行政を行う関東都督府を置き,さらに関東州と満鉄の保護警備のために軍隊(大正8年(1919年)に関東軍に改組)を置いたが,満鉄付属地の概念が曖昧であったため,広大な鉄道沿線の行政権も有するようになった。
日本は,大正3年(1914年)から第1次世界大戦が始まって欧米列強の目がヨーロッパに向いていることを利用し,大正4年(1915年)1月に中国(袁世凱による中華民国政府)にいわゆる対華21か条要求をするなどして中国への進出を図り,これにより中国政府に日本国民が南満州において商工業上の建物建設や農業経営の必要な土地を商租(借用)できることなどを認めさせ,満州への進出を進めた。(甲総1,110,167,A3の5)
(イ)中国においては,孫文らによる辛亥革命(明治44年(1911年))の起きた清朝末期から中華民国の建国(大正元年(1912年))の初期にかけ,各地に軍閥が割拠していて中央政府の統制が全土に及んでおらず,孫文及びその後の国民党の指導者蒋介石は,大正11年(1922年)から国民政府軍による北伐(軍閥権力に対する軍事行動)を継続していた。
満州は,かつての清朝の本拠地で長城外にあり,第1次世界大戦が終了した大正7年(1918年)ころには張作霖が事実上支配していた。日本は,張作霖と手を結んで満州を支配することを企図したが,張作霖は,中国政界への進出を望み,北伐軍との抗争を繰り返したため治安が悪化し,満州に戦火が及ぶおそれがあった。
田中義一首相は,昭和2年(1927年)に国民政府軍の北伐に対処するために開かれた東方会議において,対支政策要綱を示し,満蒙(満州及び内蒙古)に内戦の影響が波及した場合は,中国の領土的主権を排しても関東軍が満蒙の防衛に当たることを宣言した。そこで,関東軍は,張作霖を暗殺することで満州を混乱に陥れ,その機に乗じて軍隊を出動させて満州全域を支配しようと企て,昭和3年(1928年),張作霖爆殺事件(満州某重大事件)を引き起こした。
しかし,同事件後も満州に混乱は起こらず,張作霖の後を引き継いだ張学良は,国民政府の意向に従って日本の満州支配に抵抗した。このため,関東軍は,軍事力による満州の支配を企図し,昭和6年(1931年)9月18日,奉天郊外の満鉄線を自ら爆破する柳条湖事件を引き起こして軍隊を出動させ,満州全域の支配を開始し,これによって満州事変が始まった。(甲総1,110)

満州国の建国

(ア)日本は,満州事変後,関東軍による満州全域の支配を認め,この成果を利用し,清朝の皇帝であった愛新覚羅溥儀を擁立して満州を独立させて傀儡国家とする政策をとった。(甲総109の1)
(イ)満州国は,昭和7年(1932年)3月1日に建国宣言がされた。満州国は,溥儀が執政となり,首都が新京(長春)に置かれ,その支配地域は中国の東北地方(現在の吉林省,黒竜江省,遼寧省と内蒙古自治区の一部)とされた。
溥儀は,同月10日,関東軍司令官に対する書簡により,①満州国は,国防及び治安維持を日本に委託し,その経費を満州国が負担する,②満州国は,日本軍隊が国防上必要とする鉄道,港湾,水路,航空路等の管理及び新路の敷設,開設を日本又は日本が指定する機関に委託する,③満州国は,日本軍隊が必要とする各種の施設を極力援助する,④達識名望ある日本人を満州国参議に任じ,その他の中央,地方の官署にも日本人を任用し,その選任,解職には関東軍司令官の推薦,同意を要件とするとの申出を行った。その結果,満州国においては,実質的には内閣総理大臣に当たる内閣総務長官や重要な部署の長等に日本人が任命され,中国人の大臣は実権を有しないことになった。
日本は,同年9月15日,満州国を承認し,かつ,満州国が日本の満州における一切の権益を承認し,日本軍の無条件駐屯を認めるという内容の満日間議定書(日満議定書)を締結した。(甲総1,3,4,110,134の2,甲総167)
(ウ)国際連盟は,柳条湖事件直後の中国からの提訴に基づきリットン調査団による調査を行い,昭和8年(1933年)2月24日,同調査団の報告書を採択し,満州国を不承認とする決議をした。
日本は,これを不服として,同年3月27日,国際連盟を脱退した。なお,満州国は,昭和9年(1934年)3月から満州帝国とされ,溥儀が皇帝に即位した。(甲総A2の1)
(2)満州への移民政策等

日本の移民政策と試験移民等

(ア)日本は,より実質的に満州国における日本人優位の立場を確立し,また,日本における農村の過剰な生産人口に農耕地等の生産の場を与えるため,満州国への移民政策をとり,昭和7年(1932年)8月の国会において,拓務省の作成した満州移民案が承認された。
これにより,同年10月に試験移民として約500名が吉林省樺川県チャムス(佳木斯)に派遣され,その後,昭和10年(1935年)までにさらに4つの開拓団が移民として送られ,その総数は約1800人に上ったが,これらの移民には中国人から半強制的に安い価格で買い上げた土地が提供された。(甲総2,109の1,甲総134の8)(イ)関東軍は,昭和11年(1936年)5月,日本政府に対し,満州開拓にはより大規模な移民が必要となるとして,満州農業移民百万戸移住計画を策定し,20年間に100万戸(500万人)の移民を送るよう進言した。
同年2月26日のいわゆる2.26事件後に発足した広田弘毅内閣は,同年8月,これを容れ,対満重要政策の確立-移民政策および投資の助長策等を七大国策の1つとし,満州移民計画を大規模な国家事業として位置づけて,当時約3000万人であった満州国の人口が20年後に約5000万人に増加することを想定し,その1割を日本人が占めるようにするため,昭和12年(1937年)以降の20年間を5年ごとの4期に分けて合計100万戸(第1期10万戸,第2期20万戸,第3期30万戸,第4期40万戸),500万人の移民を送出する大綱を定め,同年から第1期5か年計画が実施された。(甲総2,5,A2の2)

青年義勇隊等

(ア)満州への移民は,上記のように試験移民から開始され,当初は在郷軍人を中心とする武装移民団であったが,待遇面の不満などから2ないし4割の脱退者がいた。そこで,関東軍は,青少年の入植を計画し,日本国民高等学校長らに青少年の推薦を依頼し,昭和9年(1934年)9月に15ないし21歳の14名が吉林省に移住して最初の青少年開拓団となり,その後も何個かの青少年開拓団が続いた。(甲総6)
(イ)日本政府は,昭和12年(1937年)7月からの日中戦争によって壮年者への召集が増加し,家族ぐるみの移民が順調に進まなくなったことなどから,農家の二男,三男などの青少年の移民の推進を図り,同年12月に満洲青年移民実施要綱,昭和13年(1938年)1月に昭和十三年度満洲青年移民(青少年義勇軍)募集要綱を発した。
この募集に応じて同年3月上旬までに約6500人の青少年が満州に渡り,終戦時までに満州開拓青年義勇隊(義勇軍)は約10万人に及んだ。(甲総6,109の1,A2の2)ウ
その後の移民政策の実施等

(ア)満州への移民は,日中戦争の全面戦争化に伴い,より積極的に満州を開拓するために日本人を送り込むという性格付けがされるようになり,政府は,昭和14年(1939年)12月に満州開拓政策基本要綱を策定した。
この要綱は,基本方針として,満州開拓政策は日満両国の一体的重要国策として東亜的秩序建設のための道義的新大陸政策の拠点を培養確立するを目途とし,特に日本内地人開拓農民を中核として各種開拓民ならびに原住民等の調和を図り日満不可分関係の鞏化,民族協和の達成,国防力の増強および産業の振興を期し兼て農村の更生発展に資するをもって目的とすと定め,外国への移民ではなく,日本と満州は一体であり,満州の開拓を行うとの姿勢を強調するものであった。(甲総2,7,A2の2)
(イ)昭和12年(1937年)から始まった上記大綱に基づく大量移民計画の第1期は昭和16年(1941年)に終了し,昭和17年(1942年)から満州開拓第2期5か年計画が開始された。
第2期計画は,満州の日本人化を促進するため,5年間に一般開拓民と義勇隊開拓民を含め22万戸(110万人),青年義勇隊を13万人を入植させるものとして策定され,満州開拓政策第二期五か年計画は東亜共栄圏内における大和民族の配分布置の基本国策に照応し二十か年百万戸計画の開拓政策基本要綱に則りさらに第一期五か年計画の実績に鑑み現下の戦時態勢に即応し日満両国一体的の重要国策たる使命をさらに昂揚し,特に日本内地人開拓民を中核とする民族協和の確立達成,東亜防衛における北方拠点の強化,満洲農業の改良発達および増産促進に重点を指向してこれが策定をなすものとすとされた。(甲総8)(ウ)以上のような日本の移民政策により,昭和20年(1945年)5月時点における開拓民の総数(外務省調べ)は,①一般開拓民が団員5万2428人,家族16万7829人,②義勇隊開拓民が隊員6万9457人,家族1万0422人,③義勇隊(訓練中)が2万1738人の合計32万1874人であった。(甲総2)
(3)ソ連の参戦と終戦前後の状況等

ソ連参戦までの経緯等

(ア)日本は,昭和16年(1941年)12月8日にハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入したが,これに先立つ同年4月,ソ連との間で日ソ中立条約(大日本帝國及ソヴィエト社會主義共和國聯邦間中立條約。同月30日公布)を締結した。同条約の期限満了は昭和21年(1946年)4月と定められ,同条約締結と同時にされた日ソ間の声明書では,ソ連による満州国の領土保全及び不可侵が定められた。ソ連は,昭和20年(1945年)8月8日,日本に対して宣戦布告し,同月9日にソ連軍が満州等に侵攻したが,この間の経緯等は以下のとおりである。(乙総4)
(イ)満州に駐屯していた関東軍は,昭和18年(1943年)初めには,師団14,戦車師団2を基幹とした約80万人の兵力であった。しかし,同年後期になると,太平洋戦域の戦況が急迫し,この方面に増援として師団11,戦車師団1,その他多数の部隊が転用されて兵力が激減したため,昭和19年(1944年)9月に長期持久作戦に転換した。関東軍は,満州に残置した人員と他の在満部隊から引き抜いた人員により,昭和20年(1945年)2月までに師団14,独立混成旅団4を新設したが,その兵力は従来の3分の1程度となり,同年3月には対米本土決戦が予期されるようになったため,在来師団全部(師団3,戦車師団1を基幹)が日本内地へ,新設3師団が朝鮮半島南部に転用された。(乙総6)(ウ)ソ連は,昭和19年(1944年)11月7日の革命記念日における首相スターリンの演説で日本を侵略国と規定し,同年12月4日に関東軍が傍受したソ連軍警備隊の無線においても日本を敵国と表現した。関東軍の秦彦三郎参謀次長は,小磯国昭首相に対し,ソ連は日ソ中立条約を破棄するであろうし,条約があっても安心できないとしてソ連侵攻の危惧を述べ,満州においては,ソ連に対する攻撃力も防衛力も不十分であるがそれを補強できないと報告し,日本政府は,このころからソ連軍侵攻の可能性が高いことを認識した。
関東軍は,昭和20年(1945年)1月17日,関東軍作戦計画を作成し,その中で関東軍が満州のほぼ全域から朝鮮国境地帯へ撤退し,通化を中心とする山岳地帯で持久するとの作戦計画を立てる一方,ソ連国境地帯の居留民の引揚げに反対した。(甲総11,12,A2の4)
(エ)米国,英国及びソ連の3か国は,昭和20年(1945年)2月,ソ連領クリミア半島のヤルタで開催した首脳会談(ヤルタ会談)の秘密協定において,ドイツ第三帝国降伏後2ないし3か月後にソ連が対日参戦すること,その見返りとしてソ連が日本領である南樺太(サハリン)の返還等を受けることを決定した。
ソ連は,ヤルタ会談の秘密協定に従い,同年4月6日,日本に対し,日ソ中立条約を期限満了(昭和21年(1946年)4月)後に延長しない旨を通告する一方,同会談直後から満州侵攻作戦のための部隊や軍需品の東送を始め,昭和20年(1945年)8月までに対日戦の総兵力として一般軍11,戦車軍1,兵員157万人,砲迫2万6000門,戦車自走砲5550両,航空機3446機を準備した。ソ連軍の満州侵攻計画は,3正面から求心的にその中心部に向けて突進するという挟撃作戦であった。(甲総13,E3,乙総8,9)(オ)大本営は,ソ連による日ソ中立条約の不延長通告,ソ連軍の兵力東送の活発化及び同年5月上旬のドイツ降伏等により,ソ連の対日参戦の時期切迫を予想し,同年5月30日,関東軍に対し,満鮮方面対ソ作戦計画要領により,図們-新京-大連以東の要域を確保するよう指示し,第3方面軍司令部はチチハルから奉天へ,第4軍司令部は孫呉からチチハルへ移動し,第1方面軍司令部は戦時においては,牡丹江から敦化へ移動することとされた。上記指示は,朝鮮国境に近い一部を除いて満州の4分の3は放棄しても,通化を中心とする東辺道地帯にたてこもって,持久戦によりそこにソ連軍を釘付けにせよという意味であり,放棄が予定される地域の防衛と開拓移民を含む日本人居留民の保護はしないとする作戦であったが,関東軍は国境地域の開拓民の後方への引揚げに反対してこれを行わせなかった。
その後もソ連軍は満州の国境付近に集結し続け,同年6月ころには在ソ連チタ総領事館員も同年8月のソ連の侵攻開始を予測していたが,関東軍は,同年7月25日の全満防衛会議において,辺境の開拓民の安全対策は考慮できない旨を示した。
しかし,大本営及び関東軍は,関東軍の後方への移動(撤退)を知られてソ連側を刺激しないよう北方静謐作戦をとり,上記撤退方針を満州在住の在留民に知らせなかったのみならず,関東軍報道部長は,同年8月2日,新京放送局から

関東軍ハ盤石ノ安キニアル。邦人,トクニ国境開拓団ノ諸君ハ安ンジテ生業ニ励ムガヨロシイ…

とラジオで放送した。(甲総1,12,13,15,23,乙総6,7)
(カ)関東軍は,上記部隊転用等によって極度に弱化し,これを強化するため,同年6月には,支那派遣軍から師団4,朝鮮軍から朝鮮半島北部にある師団1,要塞守備隊2等を関東軍に増加し,独立混成旅団2を師団に編成替えし,さらに,同年7月には,在満者のいわゆる根こそぎ動員(行政,治安維持,交通通信,戦時産業等のために絶対に必要な人員15万人を除き,日本人適齢男子約25万人の動員計画に基づく動員。この結果,ソ連軍侵攻時に満州に残されたのは老幼婦女子がほとんどとなった。)を行い,師団8,独立混成旅団7,戦車旅団1,砲兵連隊5,その他の部隊の新設や既設部隊の補強をした。その結果,関東軍は,師団24,独立混成旅団9を基幹とする約60万人の兵力となったが,訓練,装備等は不良で,近代戦に不可欠な戦車,砲兵,防空部隊等の主力は他の地域に転用され,航空部隊も辛うじてゲリラ的に使用できる程度であった。
以上のような状況において,関東軍は,ソ連の進攻に際しては,満州国内の地形を利用してその進入を阻止し,やむを得ない場合は南満,北鮮の山岳地帯を確保して抗戦を続けるとの方針に基づき,国境付近の各部隊を一部駐屯地に残して未教育兵の教育に当たらせ,主力の多くは駐屯地から遠隔した地点における陣地構築に着手し,また,一部の部隊は新駐屯地に移動中にソ連参戦を迎えた。(甲総13,14,乙総6,7,9)
(キ)米国トルーマン大統領,中華民国政府蒋介石主席及び英国チャーチル首相は,同年7月26日,いわゆるポツダム宣言により,日本政府に対して,直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言することなどを要求した(ソ連は,後記対日宣戦布告の時に同宣言に加わった。)。
関東軍は,同年8月5日,ソ連軍が満州東部の国境監視隊を攻撃する事件(虎頭事件)があったため,各部隊に厳戒を指示した。
ソ連は,同月8日に日本に対して宣戦布告し,ソ連軍は,同月9日午前0時過ぎから満州の東部国境にある虎頭,綏芬河,琿春東南側の陣地への攻撃を始めて侵攻し,満州国内の各地を航空機で爆撃し,日本のポツダム宣言受諾の有無にかかわらず北海道の北部を占領する計画の下に南樺太及び千島列島等への侵攻も開始した。
関東軍は,各部隊に対し,作戦計画に基づいてソ連軍の攻撃を撃破するように命じ,両軍は全面戦闘に突入したが,開戦時における日本軍等の配置は別紙図1及び2のとおりであり,その後の両軍の戦闘経過の概要は別紙図3のとおりである。
この戦闘において,ソ連軍の主力は満州東部の牡丹江東方地区から,一部は孫呉,ハイラル(海拉爾),阿爾山,琿春等の各方面から,それぞれ強力な戦車部隊の支援の下に満州及び朝鮮半島北部に侵攻した。関東軍の主力部隊は,①東正面では会寧北側-図們東側-羅子溝-穆稜-七星の線で,②北正面では孫呉東西の線で,③西正面ではハイラル-五叉溝の線で,それぞれソ連軍阻止に努めたが,戦力差が大きく,陣地も未完成であったことなどから大きな損害を受け,後方に撤退した。特に西正面のソ連軍の機甲軍は,同月14,15日ころには関東軍総司令部のある新京付近に到達する勢いであった。大本営は,同月10日,朝鮮は最後の一線として絶対的に保衛するを要するも,満州全土は前進陣地として止むを得ざれば,又之を放棄するも可なりとの命令を関東軍に伝え,満州の防衛放棄を宣言した。関東軍は,同月11日に総司令部をいったん新京から通化に移転し,軍の主力を南方へ移動させた。ソ連軍は,同月12日正午ころ,牡丹江街道地区を突破し,関東軍第4軍司令部は,チチハルからハルピンへ移動した。ソ連軍の攻撃により,関東軍第5軍の抵抗線であった穆稜陣地が同月13日夕に陥落し,同月14日の時点において,第1方面軍は敦化,第3軍は間島,第5軍は掖河,第4軍はハルピン,第3方面軍は奉天に所在しており,同月15日には富錦南側陣地に駐屯していた第1方面軍直轄の第134師団が方正本面に後退し,他方,関東軍総司令部は新京に復帰したが,同日夜,第5軍第126,第135両師団は,牡丹江西岸地区へ移動した。関東軍第4軍司令部は,同月16日,ハルピンから梅河口へ向かったが,翌17日ハルピンへ復帰し,同日夕,第5軍主力は横道河子へ移動した。(甲総13,16ないし18,30,109の2,甲総F5,乙総5ないし7,9ないし13,25)

終戦とその直後の状況等

(ア)ソ連の参戦に前後して,米国は,同月6日に広島,同月9日に長崎に原子爆弾を投下した。日本は,同月14日,日本国の利益代表国であるスイスを通じて,米国,中国,英国及びソ連の4か国に対し,ポツダム宣言を受諾する意思を通告した。
天皇は,同月15日,終戦の詔書を発して自らがラジオで放送(玉音放送)し,参謀総長を通じて,陸軍の各方面司令官に対して,各軍ハ別ニ命令スル迄各々現任務ヲ續行スヘシ但シ積極進攻作戦ヲ中止スヘシとの命令(大陸命第1381号)を発したが,米国政府及び連合国最高司令官から旧日本軍の戦闘行動停止を命ずる通告を受け,同月16日,全陸海軍部隊に対し,やむを得ざる自衛のための戦闘行動以外の戦闘行動を停止することを命ずる停戦命令を発令した。なお,日本政府は,同月15日に終戦対策処理委員会を設置した。(甲総109の2,乙総7,9,13,14ないし16)
(イ)大本営は,同月16日,大陸命第1382号に基づき,関東軍に対し,戦闘行動停止のためソ軍に対する局地停戦交渉及び武器の引渡等を実施することを得と指示し,支那派遣軍及び第5方面軍にも同様の示達をした。
関東軍は,同月17日早朝,指揮部隊に対し,一必謹,挙軍一途,万策を尽くして停戦を期する。二総司令官は承詔各軍司令官(部隊長)は左に準拠せよ。(一)速やかに戦闘行為を停止し,おおむね現在地付近に軍隊を集結。大都市にあってはソ連の進駐以前に郊外の適地に移動。(二)ソ軍の進駐に際しては,各地ごとに極力直接交渉によりその要求するところに基づき武器その他を引き渡す。(中略)(六)満州側とも連係し極力居留民を保護。などと指示し,同月18日,各方面軍及びその他直属軍の参謀長を集め,停戦及び武装解除に関する命令を伝達した。しかし,移動中あるいは戦闘中の部隊又は連絡のできない部隊に対する命令の伝達は困難を極め,同月下旬に至ってようやく終戦を知った部隊もあった。また,上記命令は,将兵に大きな衝撃を与え,敗戦の事態を憂い責任を痛感して自決する幹部や火砲とともに自爆する将兵等も少なくなく,ソ連軍に降伏するのを潔しとせず部隊から脱退する者も数多くいた。(乙総6,9,15)
(ウ)関東軍は,同月19日,秦彦三郎総参謀長を代表として,ソ連軍対日作戦軍総司令官(極東最高司令官)ワシレフスキー元帥と停戦交渉を行い,両者間で,①武装解除に際し,都市等の権力も一切ソ連軍に引き渡す,②後方補給のため,局地的のものを除き,軍隊,軍需品の大なる移動は行わない,③満州内の要地に対しては,ソ連軍進駐まで旧日本軍が警備を担当し,ソ連軍の進出後旧日本軍は武装を解除する,④関東軍総司令部は武装解除後解体するなどとする停戦及び武装解除等についての協定が成立した。
関東軍は,同月19日,各部隊に対し,上記協定において満鮮居留民ノ保護ニ就テハ赤軍ニ於テ十分留意スることが合意された旨通知し,同月20日11時までに一切の戦闘を停止し,武器を交付するように指示した。しかし,ソ連軍は,上記協定にもかかわらず各方面とも無統制に武装解除を実施し,交通通信を寸断し,かつ,関東軍各編成部隊の指揮組織を破壊した。このため,関東軍は,秩序ある停戦及び武装解除が不可能となり,部隊の掌握さえ困難となった。ソ連軍管区司令官カバリヨフ大将は,同月20日,関東軍総司令部において,山田乙三総司令官や秦総参謀長から停戦全般の状況と居留民の状況について説明を受けたが,同人らは特に越冬準備ができていない事情を指摘してソ連軍側の善処協力を要請したので,同大将は,これに応諾の意を示した。
ソ連軍極東総司令官ワシレフスキー元帥は,同年9月3日に新京に入り,山田総司令官から満州における全軍の概況,特に停戦・武装解除の進捗状況について報告を受けた。山田総司令官は,この機会に

一般居留民に対しては国際法規による保護も与えられず,この点いろいろな面における懸念が大である。しかも冬季を間近に控えている。特にソ連側の好意ある取り扱い,措置を切望してやまぬ

と懇請し,同元帥は理解のある態度を示したが,その後これに対応した措置は何もとられなかった。(乙総9,17)
(エ)日本国政府代表重光葵,大本営代表梅津美治郎参謀総長は,同年9月2日,東京湾内の戦艦ミズーリ艦上において,米・英・中・ソ連を含む9か国の代表及び連合国最高司令官との間で,降伏文書に調印した。これにより,日本軍の連合国に対する無条件降伏と敵対行為の終止が合意され,日本は連合国によって占領されることになった。
GHQ(GeneralHeadquarters

連合国軍最高司令部)は,同日,指

令第1号(陸海軍一般命令第1号)を発し,日本軍部隊は,それぞれの地区の連合軍司令官のもとに降伏して,各外国軍隊の支配下に入り,旧満州地区はソ連軍管理地域とされた。(乙総3,7,18)
(4)残留孤児の発生

ソ連参戦に伴う在留邦人の避難等
満州在留邦人は,上記のとおり,北方静謐作戦によって関東軍の撤退方針を知らされず,ラジオでも関東軍は盤石なので生業に励むようにと放送されていたところ,昭和20年(1945年)8月9日,ソ連軍の不意の侵攻を迎えた。このため,国境近くにいた邦人は,退避のいとまさえなくソ連軍の攻撃を受け,所在の軍隊とともにその戦闘に参加して多くの者が死亡し,また,混乱の中に避難を開始した邦人のうち,鉄道沿線の都市にいた者は,列車によって満州中部,南部まで避難できたが,大部分の邦人は徒歩で避難を開始し,ソ連軍の砲火により随所で犠牲になった(飢餓病苦等によるものを合わせ,犠牲者は3万人以上と推定された。)。特に辺境地域に入植していた開拓団の多くは,男子が根こそぎ動員等によって兵員となっており,ほとんど老幼婦女子だけという状況であったため,その避難行動は困難を極め,ソ連軍の辱めを受けるのを潔しとしないで自決する者や,足手まといとなる幼児を現地民に託して避難する者がいるなど悲惨な状況が発生した。また,満州中部以南の浜江省や竜江省においても,ソ連軍の攻撃や暴徒等に襲われるなどして多くの在留邦人が死亡した。このような満州在留邦人の避難状況の概略は,別紙図4のとおりである。(乙総6,9)

満州における越冬等
満州,朝鮮半島北部地域における戦闘による混乱は昭和20年(1945年)10月ころ収まったが,多くの在留邦人は難民状態となった。満州在留邦人は,大部分は満州中部,南部の都市に集結し,一部は辺境に留まり,別紙図5の各地点において,それぞれ冬を迎えることとなった。その後の約半年にわたる越冬では,食糧や医薬が不足し,宿舎も狭あいで,各地に発疹チフスなどの伝染病が発生し,昭和21年(1946年)5月までに,満州における邦人の死亡者総数約17万人の大部分に当たる約13万人が栄養失調症や伝染病などによって死亡した。(乙総6)

中国残留邦人等
以上のような昭和20年(1945年)8月9日のソ連参戦後の混乱等の状況下における困難を極める避難や越冬に際し,肉親等と生別又は死別した相当多数の在留邦人の婦女子が,生活あるいは生存のため,現地住民に救いを求め,その使用人や妻となり,あるいは現地住民に預けられ,中国残留邦人となった。
中国残留邦人のうち,現地住民に救いを求め,あるいはその妻等となった者は約4000人と推定され,また,両親を失った孤児及び養育ができないため親が現地住民に託した子供は総数2500人以上と推定されている。
なお,日本政府は,昭和25年(1950年)5月の時点で,満州における未帰還者のうち,生存資料のある者が5万3948人,生死不明者が2万6492人いることを把握し,さらに,それらの中に孤児がいることを認識し,昭和29年(1954年)4月の時点で,中国地域で両親を失った孤児や養育ができないため親が現地住民に託した子供が約2500人いると推定し,昭和30年7月の時点で,約2100名の国際結婚者,中国人に預けられた孤児の存在を把握していた。また,昭和22年(1947年)10月30日の新聞記事に満州に孤児が約5000人いる,あるいは,昭和24年(1949年)9月17日の新聞記事に中共地区に孤児が約8000人いるとの報道がされていた。(甲総31の2,A4の15,18,A5の60,乙総3,6,25)

原告ら
原告らは,中国残留邦人(原告X5及び原告X68は,中国残留婦人,その他の原告らは中国残留孤児)であり,その生年月日(一部は推定),満州における生活及び中国に残留するに至った経緯等は,別紙4(個別表)記載のとおりである。

2
日中国交回復までの帰国の経緯等
(1)前期集団引揚以前の経緯等ア

ソ連軍の満州占領
旧満州地区は,昭和20年(1945年)8月9日から侵攻したソ連軍に占領されたが,同年9月2日のGHQ指令第1号(陸海軍一般命令第1号)に基づいてソ連軍管理地域とされた。この状態は昭和21年(1946年)4月のソ連軍の撤退まで継続したが,後記のとおり,この間,ソ連軍は,満州在留邦人の本国送還について何らの措置もとらなかった。(乙総3)


中国の内戦と中華人民共和国の成立等
中国では,中国共産党軍(八路軍)が昭和20年(1945年)8月のソ連軍参戦のころから満州南部の錦州,安東,奉天の各省に進出し,逐次,長春(新京),ハルピン,チチハル方面及び通化,吉林,牡丹江,佳木斯方面に勢力を拡張した。これに対し,国民党軍(蒋介石軍)は,一部が同年8月末に既に長春に進駐し,主力が同年11月から昭和21年(1946年)5月にかけて満州南部地区から長春,ハルピンに進出し,満州南部から順次中国共産党軍を駆逐した。しかし,中国共産党軍は,同年末ころから勢力を回復し,昭和22年(1947年)6月に安東,昭和23年(1948年)10月には長春,奉天及び錦州を奪回し,同年末には満州全域をその勢力下に収め,その後,華北以南の中国本土を制し,昭和24年(1949年)10月,中華人民共和国を樹立した。
日本は,昭和27年(1952年)4月のサンフランシスコ平和条約発効により主権を回復したが,当時の米国の中国敵視政策に同調して台湾の国民党政権と,日本国と中華民国との間の平和条約(日華条約)を締結し,中国とは正式の外交関係を持たなかった。その後,日本と中国は,昭和47年(1972年)9月の国交回復まで断絶状態が続いた。
また,中国においては,国交回復前の昭和41年(1966年)から回復後の昭和52年(1977年)まで,いわゆる文化大革命が行われた。(甲総32,F4,乙総6,10)ウ
被告の外交機能停止等
被告は,上記のとおり,昭和20年(1945年)8月15日にポツダム宣言を受諾して無条件降伏し,同年9月2日に降伏文書に調印したが,スイス及びスウェーデン等の6中立国との外交又は領事関係はポツダム宣言受諾後も継続しており,中立国との関係維持はポツダム宣言の条項履行に反しないとする解釈をとっていた。しかし,GHQは,日本の占領政策を始め,同年10月25日,日本の占領及び管理と両立しないとして,外交及び領事機関の財産及び文書の移管方に関する覚書等によって被告の外交機能を全面的に停止し,外国との交渉はすべてGHQを通じて行うか,あるいはGHQが日本に代わって行うこととした。
被告の外交機能停止状態は,昭和27年(1952年)4月のサンフランシスコ平和条約の発効によって日本が連合国から独立するまで続いた。(乙総10)


現地定着方針

(ア)被告は,終戦直前の昭和20年(1945年)8月14日,居留民ハ出来得ル限リ定着ノ方針ヲ執ルとの外務大臣訓令を在外公館に発し,終戦後の同月26日には,外地在住内地人ノ人心安定策として,
在留内地人ニ対シテハ徒ニ早期且無秩序ニ引揚ヲ決定セシムルコトナク当分冷静ノ態度ヲ維持セシムル様徹底指導スルことを在外公館に通達した。(甲総19,109の2)
(イ)また,大本営参謀は,同月26日付けの関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告における全般概況で満鮮方面対ソ停戦は,ソ側の絶大なる好意と関東軍総司令部の努力とにより極めて順調に進捗し,8月26日現在,安東,錦州を除く全満及び北緯38度以北の朝鮮における停戦並びに武装解除は完了したとし,関東軍の現況について満内治安の状況は急遽なる情勢の変転のため局所においては一部具合の悪き処あるも,全般的には良好平静にして,鉄道,交通,通信,工業施設その他諸文化施設はほとんど破壊せらるることなくそれぞれ機能を発揮しつつありとしたうえ,内地の食糧事情等からすれば既定方針どおり在留邦人はソ連の庇護下に満州及び朝鮮に土着させて生活を営むようソ連側に依頼するのがよいとする方針を示した。関東軍の秦総参謀長は,これに全般的に同意したが,居留民の実状は衣食住とも極めて深刻で,冬季を控え楽観を許さないので,大本営は至急連合国軍最高司令部とも話し合って措置すべきであるとの考えを伝えた。(甲総20ないし23)

被告の認識と実際の対応等

(ア)被告(政府あるいは大本営)は,上記のほか,満州の在留邦人の状況等につき,現地から次のような報告を受けた。(甲総25,乙総9)a
同年8月23日の関東軍総参謀長から参謀次長への電報
ソ軍首脳筋は日本軍・邦人に対する無謀行為を戒めあるも,現実には理不尽の発砲・略奪・強姦・使用中の車両奪取等頻々たり……今や日本軍に武力なく加うるに滿軍警・滿鮮人の反日侮日の事態の推移等,将兵の忍苦真に涙なくして見るを得ず……願わくば将兵今日の忍苦をして水泡に帰せしめざるよう善処を切望してやまず

同月30日の駐満州大使(山田乙三関東軍総司令官)から外務大臣への電報
現在全滿に推定五〇万の避難民あり。わずかな手回り品すら略奪され,着のみ着のままにて食事すら事欠き数日絶食の者さえあり……目下食糧状況悪化,採暖用石炭の輸送は認可されず,冬季用衣糧住宅等を徴発略奪され,冬に入れば飢餓者凍死者の続出が憂慮される。……本件当地ソ軍首脳の内意をただしたが,右は東京において取り決めらるべしとのことにて,当地ソ連側及び支那側においても何らの措置を講ぜず,当方としては全く手のつけようなし。ついては,連合軍側と在外邦人措置全般に関し取り計らうに当たり,国内の実情を御了察のうえ在滿婦女子病人を先にし,帰国を要する者(推定約80万人)を可能な限り速やかに内地送還をなし得るよう至急御補助相煩わしたく懇願す。c
同年,9月6日の総参謀長から参謀次長への電報
在大陸二〇〇万軍隊の処理もさることながら邦人の被害の深刻なること言語に絶す……右に関し關東軍より再三ソ側に申し入れ,ソ軍の上層筋においては改善に努力中のごときも,元来対日参戦の動機よりするもソ支合作して対日圧迫を加うるは当然なるのみならず,ソ軍首脳部の意図は容易に末端まで徹底せず,かつ滿鮮人の対日感情悪化し暴状あくなき現状のおりから,一方ソ軍の特性上現地交渉には限度あり,重大な案件はモスクワを動かさずして解決は到底不可能と考えらる。なおこの種問題処理にあたりては,モスクワ及び東ソ軍最高指揮官の立場をも十分尊重し機微なる感情問題を考慮するにあらざれば逆効果を生ずる虞もあり
(イ)被告は,同月15日の降伏当日に陸海軍軍人軍属の復員と一般邦人の引揚げに伴うその受入援護等の諸問題について緊急に対処するため終戦対策処理委員会を設置し,邦人の速やかな帰国方策の検討に着手し,同月21日に海外在留一般邦人の引揚げについての計画立案を内閣調査局と内務省管理局が担当することとした。
被告は,一般邦人の内地引揚げに対処するため,同月30日の次官会議において

外地(樺太を含む。)及び外国在留邦人引揚者応急援護措置要綱

を決定し,同年9月7日の閣議において外征部隊及び居留民帰還輸送等に関する実施要領を了解し,悲惨な状況にある外地居留民について内地民生上の必要を犠牲にしても優先的に引揚輸送を行うこと,GHQに対し輸送について特に協力を要請することなどとして,海外残留一般邦人の保護及び引揚者の受け容れ援護等に関する基本事項を定め,その後も同年9月20日に引揚民事務所設置に関する件,同年10月4日に海外部隊及び海外邦人に対する食糧,衣料,衛生材料其の他所要物資の補給並に宿営施設に関する件などを定め,これらにより,引揚者の受入機関,上陸地における収容施設,食糧,衣料等の所要物資の調達準備等についての具体的施策を定め,その後,速やかな引揚げを図るため,GHQに対し船舶の貸与を要請した。(乙総3,21)(ウ)被告は,一方で,同年8月31日に戦争終結に伴う在外邦人に関する善後措置要領において,過去統治の成果に顧み将来にそなえでき得る限り現地において共存親和の実を挙げるため忍苦努力するをもって第一義とするとして現地定着方針を維持し(ただし,その要領(二)には,在外邦人にしてやむを得ず引き揚げる者に対しては,速やかに連合国と折衝の上,輸送や携行金品その他につき十分な便宜を与え,敏速かつ円滑に引き揚げさせるとの記載がある。),同年9月24日の次官会議決定海外部隊並びに海外帰還邦人に関する件においてもその方針を確認した。
なお,満州在住実業家の高碕達之助は,同年9月1日,長春に東北地方日本人居留民救済総会を設立し,中国残留邦人の苦境を訴えて救済を求める密書(同月22日付け)を被告に送った。この密書は同年10月10日ごろに到着したが,被告からの応答はなかった。(甲総26ないし28,B10)

被告の対外交渉等

(ア)被告は,前記のように関東軍からソ連軍に対し満州在留邦人の保護等について協力を要請していたほか,同年8月27日ころからは,当時マニラにあったGHQに対し,ソ連政府の好意ある善処等を求めてくれるよう要請した。(乙総21)
(イ)被告は,降伏文書調印後の同年9月9日と同月16日に終戦連絡中央事務局(占領軍と日本政府との間の連絡機関として設けられた外務省外局)から,同月13日には外務大臣から,GHQに対し,覚書を提出して満州等の在留邦人の保護と引揚げについて申し入れた。
同月13日の覚書は,重光葵外務大臣がサザランド参謀長との面会の際に持参したもので,終戦による事態の急転換に伴い,従来日本の支配下にありし外地に於ける多数日本人の生命財産の安危は,帝国政府の最も大きな関心を有する所なるが,信ずべき情報によれば,特に満州,北鮮(朝鮮半島北部),樺太および千島等における事態,日に窮迫し,極めて憂慮に堪えざるものあるに付いては,今後の更に事態の悪化を防止するため,至急措置を要請するとして,満州に関し,①東京・新京(長春)間の無電連絡,空輸連絡の再開,②満州の日本在外公館の官吏を釈放して,在留民の保護と引揚げの任に当たらせること,③日本居留民の食糧その他生活必需品の購入を可能にするため,その地域の通貨を供与してほしい(その金額は日本政府が返済する。)こと,④引揚げを容易にするため,満州,朝鮮直通列車の運行,38度線において遮断された鉄道打開,列車運行のための石炭補給,羅清,清津,元山,大連,鎮南浦(いずれも港)への配船を認めることを要請するものであった。また,同月16日の覚書は,GHQを通ずる途がソ連当局に対する残された唯一の経路であるとして,ソ連との間のあっせんを懇願し,在留邦人の窮状を,飢餓に直面し居る模様なり。……彼ら(在留邦人)の大部分は身にまとう夏衣以外,ほとんど所持品を持たざる婦女子なり。……多数の者は辛うじて持出したる所持品を掠奪され,数日間食事もせざるものもあり。……露天に眠りおるものも多数なり。……すでに迫りつつある厳冬に,寒さ,飢えをしのぎ得ざるに至るべしと憂慮せらる。上記二百万日本人の中,約八〇万の婦女子は直ちに引揚げしむるを要す……と訴えるものであった。その後の吉田茂外務大臣も同月29日にサザランド参謀長を訪ね,満州等の在留邦人の窮状を訴えてその保護を要請するなど,日本政府のGHQに対する要請や陳情は続けられたが,GHQ側の回答は,その要請は外交ルートを通じてモスクワに伝えてある,それ以上のことはできないという繰り返しであった。(乙総21)
(ウ)被告は,ソ連に働きかけるため,同年9月1日,在東京スウェーデン公使を通じ,在京ソ連大使に対してソ連占領下の邦人保護につきソ連政府に伝達するように申し入れたが,ソ連大使はその権限がないとしてこれを拒否した。また,在スウェーデン日本公使は,同月5日,スウェーデン政府に対しソ連軍占領下の在留邦人の保護についてソ連政府に伝達するよう要請したが,ソ連の回答は,日本の降伏による日本と連合国間の敵対関係の終了は,日本の国際的地位を完全に変更し,相互の利益保護に関し全然新たなる事態を招来せり。日本におけるソ連の利益に関するすべての問題は在日連合軍最高司令部により処理せらるべし。右の理由により,ソ連政府はソ連における(日本の)利益保護に関する問題は根拠を失えるものなりとの見解を有し,従ってソ連に在住する日本人の地位は一方的に処理せらるべし。というものであった。(乙総21)
(エ)被告は,同月1日,在スイス公使から赤十字国際委員会に対して人道的見地からできる限りの尽力を要請したが,同委員会の見解は,

赤十字国際委員会とソ連とはもともと何の連絡もなく,当方としてはソ連に然るべき影響を与えることはできないから,むしろ日本赤十字社代表をして米英の連合軍当局に接触させる方が得策であろう。

というものであった。(乙総21)(オ)被告は,在東京ローマ法王庁使節に対しても援助を要請し,ローマ法王庁もこのために必要な経費をそれぞれの司教に送付したが,ソ連占領地区の司教に対しては連絡をつけることができなかった。(乙総21)キ
その余の経緯等

(ア)上記のとおり,被告は,終戦後,悲惨な状況にある外地居留民を優先的に引揚輸送を行うことなどを決定するなどしていたが,引揚援護業務も日本政府独自の業務としてではなく,占領政策の一環としてGHQの管理下に行われ,日本側のとるべき措置もGHQの個別の指令に従うべきとされ,日本の100トン以上の船舶も全部その管理下に置かれ,昭和20年(1945年)10月18日に厚生省はGHQの指示によって引揚げに関する中央責任官庁に指定されたが,同月25日,被告の外交機能は全面的に停止された。(乙総3,22)
(イ)GHQは,被告に対して昭和21年(1946年)3月16日に上記個別の指令を統合し,海外在留邦人の引揚げに関する基本的大綱となる引揚に関する基本指令を発する一方,GHQないし米国は,各国政府等と邦人の引揚げについて交渉し,また,被告の要請により速やかな引揚げを図るため,米国のリバテー輸送船100隻,LST輸送船85隻,病院船6隻を引揚用輸送船として貸与するなどし,その結果,中国国民党軍管理地域については,蒋介石総統の暴をもって暴に報ゆるなかれの精神の徹底もあり,250万人の邦人の引揚げが1年数か月で完了した。なお,上記基本指令は,同年5月7日,同年9月10日,昭和24年(1949年)3月9日に修正がされた。(乙総3,22)(ウ)これに対し,ソ連は,GHQの方針を受諾せず,このため満州を含むソ連軍管理地域の引揚げは進まなかった。
ソ連は,昭和21年(1946年)11月にようやく仮協定を締結し,次いで同年12月19日のソ連地區引揚に關する米ソ協定において毎月5万人の送還に同意し,これによってソ連領及びソ連軍占領地域からの引揚げがはじめて実現したが,その後も旧満州地区を含め引揚げは遅々として進まなかった(上記協定に基づき同年末から昭和25年(1950年)4月まで断続的に行われた集団送還によるソ連軍管理地域からの帰国者は約63万4000人で,集団送還は昭和28年(1953年)12月に再開された。)。(乙総3,6,22,23)
(2)前期集団引揚げ
旧満州地区の管理は,上記のとおり昭和21年(1946年)4月ころソ連軍が撤退した後,国民政府軍(国民党軍)の中国東北保安司令官に引き継がれたが,同年5月11日に同司令官と米軍代表との間で旧満州地区に在留する日本人の送還に関する協定が成立し,同年8月には中国共産党軍側とも同様の協定が成立した。
これらの協定に基づき,旧満州地区から,昭和23年(1948年)8月までの間に4期にわたる大規模な集団引揚げが実施され,これにより約104万5000人の日本人が帰国した。
しかし,その後,中国における国民政府軍と中国共産党軍の内戦の激化,中華人民共和国の成立等の事情により,集団引揚げは中断されることとなった。(乙総3)
(3)後期集団引揚げ等

後期集団引揚げ

(ア)被告は,昭和27年(1952年)4月28日のサンフランシスコ平和条約の発効により主権を回復し,GHQの引揚げに関する基本指令が失効するため,同年3月18日に海外邦人の引揚に関する件を閣議決定し,これに基づき自主的事業として,海外邦人の引揚援護を行うこととした。しかし,被告は,主権回復後も中国(中華人民共和国)と正式の外交関係を持たず,中国残留邦人の引揚問題を通常の外交ルートによって解決することが困難であったため,その後の引揚げは人道上の問題として国際的性格を担う赤十字機関の仲介により実施されることになった。(乙総3)
(イ)北京放送は,同年12月1日,新華社通信が中国(北京政府)関係筋から得た情報であるとして,現在中国には約3万人の日本人がおり,帰国を希望する日本人に対し北京政府は帰国を援助してきたが,船便欠乏のため帰国が中断された。今後船の問題が解決できるならば,中国政府と人民は帰国希望者を援助する。船の問題と日本人の帰国の問題について日本側の適当な機関又は人民団体が代表を派遣して中国紅十字会と具体的な話し合いをして解決することができる。と放送した。日本赤十字社は,この放送後直ちに中国紅十字会に連絡して代表団の編成その他引揚げに関する具体的問題の打ち合わせをしたところ,中国紅十字会は,同月22日,日本赤十字社,日中友好協会及び日本平和連絡会(以下引揚三団体という。)に対し,共同代表団を組織して北京に派遣するように連絡した。
引揚三団体の共同代表団は,昭和28年(1953年)1月末に共同代表団が北京を訪ね,その後数回の会議を経て,同年3月5日,中国紅十字会代表団との間で,北京協定(日本人居留民帰国問題に関する共同コミュニケ)に調印し,これに基づき,再び中国地域からの集団引揚げ(いわゆる後記集団引揚げ)が開始され,同年10月までの第1次ないし第7次の引揚げにより約2万6000人が帰国した。
しかし,中国紅十字会は,同年11月,引揚三団体に対して集団引揚げの打ち切りを通告し,引揚げは中断された。(甲総33の1,乙総3)(ウ)引揚三団体は,残留邦人の引揚を進めるのに必要な中国紅十字会の協力を得るため,同会の会長を日本に招待することを求め,昭和29年(1954年)3月に日本赤十字社が会長招待を決議し,同年5月には国会も同様の決議をし,被告は,同年8月に中国紅十字会代表団の入国を許可した。
その後,同年11月3日に中国紅十字会会長らの代表団が来日し,引揚三団体代表との間で帰国問題に関する懇談の覚書を確認し,さらに昭和31年(1956年)6月28日に訪中した引揚三団体代表と中国紅十字会代表との間で天津協定が調印され,これらに基づき,昭和33年(1958年)7月の第21次に至るまで集団引揚げが実施された。以上のような後期集団引揚げにより合計約3万3000人の日本人が帰国した。(甲総33の2,甲総E13,F36,乙総3)
(エ)しかし,一方で,岸信介首相が昭和32年(1957年)6月3日に台湾(国民政府の中華民国)において蒋介石総統と懇談し,

共産主義が日本を浸透するには,ソ連からよりも中国からの方が恐ろしいともいえる。(国府が)大陸を回復するとすれば,私としては非常に結構である。

などと述べたことや,昭和33年(1958年)5月2日には中国切手展示会場で中国国旗が引きずりおろされた事件(長崎国旗事件)をめぐる日本政府の対応(外国国旗損壊罪とはせず,軽犯罪法違反としたこと等)に中国側の不満を募らせるようになった。
中国紅十字会は,同年7月,引揚三団体代表に対し,集団引揚げを打ち切る旨を通告し,これ以後は個別引揚げだけが行われるようになった(個別引揚げに対する被告の支援策については後記のとおりである。)。(甲総A4の92,E24,F1,2,乙総3,13)

中国側との直接交渉

(ア)ジュネーブにおける日中政府間交渉a

第1次ジュネーブ交渉
上記認定のとおり,昭和28年(1953年)3月から後期集団引揚げは断続的に行われていた。この間,在ジュネーブ日本総領事は,引揚げ問題は政治を超えた人道上の問題であるので中国政府と直接交渉するとの閣議了解に基づき,昭和30年(1955年)7月,在ジュネーブ中国総領事に対し,現在中国に残留している日本人のうち帰国を希望している者の帰国援助と消息不明となっている日本人の状況調査について直接交渉を申し入れた(第1次ジュネーブ交渉)。
これに対し,中国総領事は,同年8月,既に中国側が明らかにしている以外の行方不明の日本人といったものはおらず,両国の国交正常化が先決であり,状況不明者の消息は中国政府の責任ではない,日本人居留民の問題は両国の人民団体によって解決されているとし,日本政府が本当に誠意をもって両国関係正常化を求めるのであれば,貿易の発展や両国民の往来を促進すること等が先決問題であるなどとして,日本側の申入れを拒否した。(乙総3)


第2次ジュネーブ交渉
日本総領事は,同年9月にジュネーブにおいて開催された国際赤十字連盟執行委員会の会合における中国紅十字会代表の約200人の日本人の帰国について準備をしている旨の発言等を受け,同年10月,中国総領事に対し,事実関係の確認と,事実であればそれらの帰国者を政府又は日本赤十字社で受け入れる用意のあることを申し入れた(第2次ジュネーブ交渉)。
これに対し,中国総領事は,同年11月,国交正常化に言及し,中国政府の第1次交渉と同様の見解を述べるにすぎなかった。(乙総3)


第3次ジュネーブ交渉日本総領事は,昭和32年(1957年)5月,在ジュネーブ中国総領事に対し,中国地域の未帰還者に係る名簿を手交し,生死確認や現状に係る調査を申し入れた(第3次ジュネーブ交渉)。
これに対し,中国側は,同年7月,第1次交渉と同様の見解を述べ,さらに,中国政府は何回も日本政府に両国の関係正常化を促進する問題について交渉を開くよう申し入れてきたが,日本政府は岸首相が中国をけなす一連の発言をし,台湾に行って蒋介石勢力と会談するなど,日中関係正常化の問題に対し,中国と正反対の行動をとっており,行方不明の日本人の問題をもちかけてきた目的は日本人民の目をごまかし,両人民の友好関係を阻み,それを破壊し,日中関係正常化に対する日本人民の声をおさえることにあるのは明らかで,日本政府のこうした態度とやり方は,中国政府と人民が絶対に同意できないところである旨回答をし,その協力を得ることはできなかった。
なお,その後,昭和33年(1958年)5月に長崎国旗事件があり,同年7月に後期集団引揚げが打ち切られたことは上記のとおりである。(甲総F44,乙総3)
(イ)民間団体を通じての情報入手
政府は,昭和29年(1954年)以降数次にわたり,中国側(中国紅十字会)に対して,日本赤十字社や留守家族団体等民間団体を通じて未帰還者の消息調査を依頼し,留守家族等が直接中国側に消息調査を依頼したものも含めて,一部について回答を得た。(乙総3)
(ウ)衆議院海外同胞引揚特別委員長らの訪中申入れ
衆議院海外同胞引揚特別委員会委員長は,昭和32年(1957年)6月,中国首相及び中国紅十字会会長に対し,中国に残留している日本人の帰国の促進,未帰還者の調査等の問題について委員会として中国側に懇請するため,委員長ほか委員3名及び若干名の政府職員の訪中を申し入れた。これに対し,中国側は,同年7月,中国紅十字会会長名の書簡により引揚三団体あて訪中を拒否する回答をした。(乙総3,113)
(4)未帰国者に対する被告の調査等

援護法
日本の主権回復(昭和27年(1952年))後,未帰還者問題が国民の関心を呼ぶようになり,従前の未復員者給与法及び特別未帰還者給与法を廃止し,未帰還者の留守家族そのものを対象とし,より実情に即した援護を行うため,援護法が制定され,昭和28年(1953年)8月1日に施行された。
援護法は,未帰還者が置かれている特別の状態に鑑み,国が未帰還者の帰還について重大な責務を有するので,未帰還者の留守家族についても援護の責任を負うことを前提として,被告の責任において,その留守家族に対して手当を支給するとともに,未帰還者が帰還した場合において帰郷旅費の支給等を行い,もってこれらの者を援護することを目的とし(同法1条),未復員者及び一般未帰還者(自己の意思により帰還しないと認められる者等を除く。)を適用対象とし(同法2条),その留守家族に留守家族手当(同法5条)を支給することとする一方で,その支給期間を一定期間に限定している(同法13条。当初,施行後3年を経過した日以後においては,過去7年以内に生存していたと認めるに足りる資料がない未帰還者の留守家族には,同手当を支給しないこととされており,その後,支給期間を延長するために順次改正された。)。そして,同法29条は,

国は,未帰還者の状況について調査究明をするとともに,その帰還の促進に努めなければならない。

と規定している。この趣旨に基づき,昭和29年(1954年)4月,厚生省設置法の一部改正により,厚生省内に未帰還調査部が新設され,別個の帰還で行っていた未復員者の調査と一般未引揚邦人の調査とを統合し,一元的に調査業務を実施することとなった。(乙総3,25)

特別措置法

(ア)特別措置法の制定経緯等

集団引揚等によって未帰還者は逐次減少したが,昭和32年(1957年)10月1日現在の未帰還者数は4万6650人で,その大部分は,終戦前後の混乱期にその消息を絶った者であり,戦後10年以上にわたる調査究明によってもその状況を明らかにすることができず,生存の期待の持てないものではないかと推測され,留守家族団体から調査の徹底,特に国の十分な措置を伴った未帰還者の最終的処理等についての要望が起こりはじめた。
一方,援護法により被告から未帰還者の留守家族に対する援護措置として支給される留守家族手当は,昭和34年(1959年)8月1日以降は過去7年以内に生存していると認めるに足りる資料がない未帰還者の留守家族に対しては支給されないこととされていたので,同年7月末までに未帰還者の調査究明を完結することが望ましく,必要でもあったが,事実上不可能に近かったことから,未帰還者の最終処理について特別な措置を講ずることが必要であると考えられた。従来,未帰還者の死亡処理は,戸籍法89条(事変による死亡)の規定に基づく取調官公署による死亡の報告によって行われていた
が,この死亡報告は,死亡を確認するに足りる資料があって,四囲ノ状況ニ照シ万生存ノ疑ヒナキトキに限定されており,死亡推定可能であっても,生存不明者である限りは,これに該当しないため,この死亡報告制度で,未帰還者の全部を処理することは不可能であり,生死不明者の死亡処理は民法30条の失踪宣告制度以外にはなか
った。しかし,この失踪宣告の請求ができる者は不在者の利害関係人に限られ,被告は請求できないが,これは遺族が帰還を待っているのに,国家が失踪宣告を請求するのは不適当だという理由によるものとされており,被告がこれを請求することができるようにするには,留守家族の希望を考慮した上で特別の立法措置が必要であった。(乙総24,106)

被告は,このような事情から,同年12月17日に厚生省試案を公表したが,引揚同胞対策審議会において留守家族団体代表者からこれに対する反対意見が出され,さらに検討されることとなった。
被告は,このような留守家族団体側の動きの真意につき,戦後10年以上も経過してなお生死が分明でない未帰還者の大部分は死亡したものと推測されるから,その処理について何らかの特別な措置を必要とすることは承認しながら,死亡推定の法制化に伴って,未帰還者の調査が打ち切られることを懸念する一方,長期にわたって待たされたことに対する十分な慰謝と,一般邦人で恩給や遺族年金の支給を受けられなくなる者に対する処遇問題を解決してほしいということにあると考えた。(乙総24)


未帰還問題解決促進全国留守家族大会は,昭和33年(1958
年)3月20日,①未帰還者の調査に全力を尽くし,引揚げを促進すること,②留守家族の心情に即して,未帰還者の最終処理を急ぐこと,③留守家族の援護をよくし,死亡処理した未帰還者の家族に特別な弔慰と慰霊の措置を講ずることを求める決議をした。これを受けて,被告は,同年5月2日,第2回未帰還者問題処理閣僚懇談会において,未帰還者に関する措置方針を定めた。これは,厚生省試案に比べて,未帰還調査を徹底的に行う,留守家族に対して弔慰の意を表する,昭和34年(1959年)8月以降も留守家族手当の支給を考慮する等の点において,留守家族団体の従来の要望に沿うものであった。また,上記厚生省試案では,民法の失踪宣告制度と別に,死亡推定措置を考えていたのに対して,この取扱いは民法の失踪
宣告制度により,その手続の大部分を司法機関(家庭裁判所)に委ねようとするものであった。(乙総24)

被告は,未帰還者に対する特別措置方針に基づく調査究明の促進を図るため,各種の手段を尽くして現に外地に残留している者を把握するとともに,状況不明な未帰還者について極力その消息資料を収集する目的で,昭和33年(1958年)12月,広く国内及び国外にわたる未帰還者の一斉特別調査を実施した。
この調査は,国と都道府県が140万人の帰還者及び外地残留者に対して一斉に通信調査を行い,1170万円の予算を充当し,広報機関や関係各種団体も協力するという大規模なものであった。具体的には,厚生省は未帰還者の名簿を作って帰還者約46万名を指定し,これを都道府県に送付し,都道府県は自己管内の未帰還者の名簿とともに,これを厚生省の指定した者及び自ら選定した管内の帰還者に対し,同年11月末から12月末までの間に発送した。各都道府県とも各市区町村の協力のもとに,主として未帰還者連名簿発送の前後に自己の機関誌やポスター,広報車等を利用して,特別調査の趣旨についての広報宣伝に努めたほか,広く新聞,ラジオ,関係諸団体の協力を得,また,ほとんど全部の都道府県は,新聞に未帰還者の氏名,消息等を発表して,直接帰還者に呼びかけ協力を求めた。被告は,このような国内調査に併行して,国外調査も地域ごとに特性に応じて実施したが,中共地域については,国交がなく日中両国政府間の交渉による未
帰還者の消息調査は未だ実現していないなどの関係から,名簿等を現地残留者に対して一斉に発送して調査することは見合わせ,同年10月,日本赤十字社から中国紅十字会に対して現地残留者の内地向け通信に協力方を申し入れるにとどめたが,その結果を知ることはできなかった。(乙総3,24)

上記一斉調査を踏まえ,厚生省は,同年12月17日,引揚同胞対策審議会に要綱案を諮問し,同審議会は,厚生省案に原則的に賛意を表する決議をした。この決議後,海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会は,未帰還者に関する特別措置法案起草小委員会を設置し,法律案の起草,国会審議を経て,特別措置法(昭和34年法律第7号)が制定され,昭和34年(1959年)4月1日から施行された。
その提案理由は,未帰還者に関しましては,最終的戸籍処理を国が,裁判手続によって行うことが妥当であると考えられ,また留守家族の希望に添うことでもあると思われますので,この際国が所要の手続を講じ,その結果死亡したものとみなされる者の遺族には,できる限りの援護がなさるべき(ママ)であると考え,この法案を提出することとした次第であります。と説明されていた。なお,被告は,戦時死亡宣告制度を創設するに当たり,主要国の制度を調査し,フランスでは,戦時中に失踪した者については,利害関係人のほか,検察官も不在の申告をすることができるという制度があることが判明した。(乙総24,25)

(イ)特別措置法の施行等

未帰還者特別措置法の施行に当たっては,戦時死亡宣告を受ける者の名誉を尊重し,その留守家族(遺族)の心情を十分斟酌する必要があることから,①同法2条1項各号に規定する戦時死亡宣告申立該当者の決定については,厚生省保有の資料により,これに該当すると認められる未帰還者について,あらかじめ該当予定者として,都道
府県を通じて留守家族に通知し,当該留守家族が戦時死亡宣告の申立てに同意した後に該当決定とすることとし,②都道府県においては,厚生省から通知された該当予定者について,その留守家族(少なくとも配偶者,子,父母程度)の意向を調査(通信調査のみでは不十分で,直接,間接に面接する必要がある。)し,戦時死亡宣告の申立てに同意する場合は,同意書の提出を求めた後,厚生省に報告して,該当決定の通知を受け,当該未帰還者の消息資料を整理して添付のうえ,知事名で,当該都道府県庁の所在地にある家庭裁判所に対し,戦時死亡宣告を申し立てることとされた。
そして,家庭裁判所は,同法2条1項各号に該当する未帰還者であるかどうか,留守家族が真に申立てに同意しているかどうか等について審査した後,6か月以上の期間を定めて,官報に公示催告をし,同期間の満了後に審判を行い,2週間後に同審判が確定し,これにより当該未帰還者は,最終消息のあったときから7年又は危難が去ったときから3年を経過する日に死亡したものとみなされることとなる。なお,戦時死亡宣告の審判が確定した遺族に対しては,政府として弔慰の意を厚くするため,内閣総理大臣の弔詞を交付し,同遺族から希望があるときは霊璽を交付することとされた。さらに,同宣告による処理がされた者の遺族に対しては弔慰金が支払われる(同法3条)。(甲総40の1ないし3,乙総3,24,25)

被告は,上記のように特別措置法が施行された後も,都道府県と連携して戦時死亡宣告確定者を含む未帰還者の調査を続け,国内においては,帰還者全員に対する上陸地における聞取り調査,厚生省や都道府県の職員による未帰還者の情報を持っていると思われる帰還者に対する通信による未帰還者に関する既得資料の確認・調査や帰還者の招致もしくは帰還者宅への訪問による未帰還者の消息に関する情報収集等を実施するとともに,国外においては,被告は中国(中華人民共和国)政府と当時外交関係を有しておらず,外交ルートによる実施が困難であったため,日本赤十字社ルートや留守家族団体ルートにより安否確認を実施した。
また,戦時死亡宣告審判確定者等死亡を確認していない者の諸資料は他の処理済者の諸資料と区分して整理保管し機会あるごとに死亡時期,場所,死因ならびに遺骨等について調査するものとするとされ,被告は,戦時死亡宣告確定者を含む未帰還者についての調査を続け,戦時死亡宣告確定者の生存の事実が判明するなど,戦時死亡宣告の取消しを行うべき事態が生じたときは,厚生省引揚援護局長通知特別措置法の施行に関連する未帰還者の資料通報要領について
(昭和34年(1959年)4月28日付け援発第10008号)別冊特別措置法の施行に関連する未帰還者の資料通報要領に定める
事務処理を行なうこととしていた。具体的には,利害関係人が存在する場合には,都道府県が利害関係人に対し民法の規定に基づく失踪宣告(戦時死亡宣告)の取消審判申立てを行うよう指導し,利害関係人が申立てを行わない場合は,都道府県からの通知を受け,厚生大臣が戦時死亡宣告の取消請求を行い,裁判所による審判確定後においては,本籍地市区町村に戸籍の処理について依頼するとともに,都道府県を通じ利害関係人に戦時死亡宣告の取消しについて通知することとしていた。
なお,厚生大臣が裁判所に対して戦時死亡宣告の請求をする際には,一定の期間消息情報がないことのほか,戦時死亡宣告の請求前に必ず親族に調査状況を詳細に説明し同意を得るという手続を経ている。(乙総3,28ないし32)

未帰還者調査等について

(ア)昭和29年(1954年)ころまで昭和23年(1948年)ないし昭和25年(1950年)ころ,南方諸地域及び中国本土からの引揚げは既にその大部分が終わったものの,なお生死不明の多くの未帰還者のあることが明らかとなった。特に,旧満州地区等からの引揚者数は,GHQ代表と対日理事会ソ連代表とによって結ばれたソ連地区引揚米ソ協定によるソ連邦及びソ連軍支配下の領土よりの日本人引揚者数は月5万名とする協定をはるかに下回る状況であり,ソ連関係の引揚げは米ソ間の政治問題の具にされ,占領下の各種の制約と終戦後の国内情勢の混乱等のため,調査業務の実施に困難を来した。
外務省は,このような状況下で未引揚邦人届の収集,帰還者から覚書を収集して行う消息不明者の個人究明,現地からの通信の収集,各地域における終戦以降引揚げまでの状況資料の整備,残留者の状況に関する各般の調査,満州開拓団に関する調査等の業務を行った。そして,昭和24年(1949年)3月,留守家族から未引揚邦人届の提出を受け,また,開拓団,在外商社等にも広く呼びかけて関係資料の提出を求めて未帰還者の掌握に努め,昭和25年(1950年)4月から6月の間には,各都道府県を通じて留守宅に対する一斉調査を行って個人究明の促進を図り,同年10月実施された全国国勢調査の際には調査員に未引揚者の調査を依頼し,さらに,引揚者から上陸地において残留者又は死亡者に関する情報を取得するとともに,帰郷後にも通信調査や合同調査などにより現地の残留者の動態資料を入手することに努め,未引揚邦人の調査をした。(乙総3)
(イ)昭和30年(1955年)ころ以降
未引揚一般邦人に関する調査業務は,昭和29年(1954年)4月以降,厚生省に設置された未帰還調査部において,軍人軍属の未帰還者に係る調査業務と一元的に実施されることとなった。中国残留邦人に係る消息調査は,被告が中国(中華人民共和国)と当時外交関係がなく,現地に赴いて調査を行うことが困難な状況であったが,被告としては,保有資料の分析や引揚者等からの情報収集をはじめとする国内調査を中心として調査を進め,現地に対する通信調査等を実施し,また,中国側の協力を得るため政府間の直接交渉を実施するなどして,その消息の調査究明に努めた。(乙総3,6)

国内調査の実施
旧満州地区の一般邦人及び開拓団員の調査は,日ソ開戦前における職域,隣組及び開拓団等ごとにその人員,人名を把握し,次いで行動群調査によりその足取りを追い,この間に発生した事件及び死亡者の状況を明らかにし,未引揚邦人の個人ごとの最終消息をもとにして個人究明を行い,生死の判定のよりどころを求めることを重視するものであった。この際,引揚上陸地における帰還者に対する聴取調査,帰還者に対する通信調査,招致調査及び探訪調査,留守家族等からの資料収集等を実施し,各種情報の収集を行った。(乙総3)


国外調査の実施
被告は,中国との国交がない中で留守宅への通信等により現地住所が明らかな者に対し,通信調査を実施するなどして,未帰還者の状況について調査究明を進めた。
被告は,昭和33年(1958年)及び昭和35年(1960年)において,未帰還者の消息の調査究明の徹底を図るため,中国地域に残留しその現地住所の明らかな者の名簿を作成し,これを都道府県に配付し,留守家族と協力して現地に対する通信調査を実施した。(乙総3)


一斉特別調査の実施
政府は,前記のとおり,昭和33年(1958年)12月,未帰還者の調査究明促進に関する特別措置について(昭和33年(1958年)7月29日第3回未帰還者問題処理閣僚懇談会申合せ事項)に基づき,各種の手段により現に外地に残留している者を把握するとともに,状況不明な未帰還者についてその消息資料を収集する目的で,一斉特別調査を実施した。
3
日中国交回復後の帰国の経緯等
(1)日中国交回復
田中角栄首相は,昭和47年(1972年)9月29日,北京において,日中共同声明を発表し,これによって日本と中国の国交は回復(正常化)し,それぞれの大使館が開設され,中国残留邦人問題についても外交ルートでの交渉が可能になった。
(2)未帰還者調査
被告は,昭和48年(1973年)3月,未帰還者,戦時死亡宣告により除籍された者及び自己の意思により帰還しないと認められ未帰還者から除かれた者の名簿を,在北京日本大使館に送付し,これに基づく現地調査を行うとともに,調査担当官を同大使館に派遣して,中国における未帰還者の調査を行った。(乙総3)
(3)中国残留孤児に係る身元調査
被告は,留守家族から届出のあった状況不明の孤児及び現地に残留している孤児等の身元について,従来から都道府県と連携して調査を行っていたが,日中国交回復を契機として,在中国大使館への調査依頼,中国からの引揚者や一時帰国者が急激に増大し,また,中国に残留している者からの日本国内への通信が活発化したことに伴い,中国残留孤児についての多くの情報が寄せられるようになった。
そこで,被告は,保有資料による調査,昭和50年(1975年)以降の報道機関の協力の下での公開調査,昭和56年(1981年)以降の肉親捜しのための訪日調査,平成12年(2000年)度以降の訪日対面調査と,中国残留孤児の身元調査を順次実施してきた。

保有資料による調査
被告は,日中国交回復以後,当初は,中国残留孤児やその養父母等から寄せられた手掛り資料を基に,未帰還調査などにより収集整理された各種資料を照合して該当者と思われる者を抽出し,都道府県を通じて家族に確認を求めるなどの方法による調査を実施した。(乙総3,25)


公開調査
幼いころ肉親と離別した中国残留孤児は,自分や両親の氏名,居住地や離別状況等の手掛かりを覚えていない,あるいは記憶が曖昧であることなどが多く,また,養父母が中国残留孤児の身元の状況についての資料を有していない場合も多く,保有資料による調査のみでは身元の解明が困難なケースが生じた。
このため,被告は,昭和49年(1974年)ころ,ボランティアによる残留孤児の肉親捜しに連動して,朝日新聞が中国からの便りを新聞で報道したことが反響を呼んだことを参考にしつつ,昭和50年(1975年)に新たな調査方法として公開調査を開始した。そして,公開調査の実施に当たっては,各報道機関の協力を得て,国から積極的に,広く国民一般に対して,孤児の顔写真,特徴,肉親と離別した時の事柄などを新聞,テレビ等に公開して孤児の情報等を周知することにより,身元調査を進めた。
公開調査は,昭和50年(1975年)3月から昭和56年(1981年)1月まで計9回実施され,329人が公開され,その結果,延べ166人の孤児の身元が確認された。(乙総3,25,33ないし39,106)


訪日調査(ア)経緯と概要
被告は,手掛かり資料の乏しい中国残留孤児については身元の解明が困難であり,また,実際に孤児と対面して顔を見,声を聞き,身体的な特徴,孤児が覚えている手掛かりを確認したいとの在日親族からの要望を踏まえ,中国残留孤児の身元調査をさらに進め,昭和56年(1981年)3月以降,身元が確認できない中国残留孤児について,一定期間日本へ招き,報道機関の協力を得て肉親捜しを行う訪日調査を実施した。訪日人数は,昭和58年(1983年)度に計105人(訪日調査を年2回実施),昭和59年(1984年)度に計140人(同,年2回実施),昭和60年(1985年)度に計360人(同,年3回実施),昭和61年(1986年)度に672人(同,年5回実施)と拡大し,訪日調査は,昭和56年(1981年)3月から平成11年(1999年)11月まで計30回実施され,計2116名の参加者のうち,670名の身元が確認された。(甲総43,A6の1,3ないし9,70,79,86,乙総25,40,120,137,142,)
(イ)調査の手順等
訪日調査は,手掛かり資料等に基づき日中両国政府が中国残留孤児と確認した者を対象者とした。
被告は,訪日期間中の調査効率を高めるため,訪日前に保有資料の調査により肉親関係者の抽出を行い,報道機関の協力により手掛かり資料を公表し,肉親関係者の名乗り出や情報の提供を求める公開調査等を行った。また,訪日後は,まず,手掛かり資料の正確を期するため,調査担当官による本人からの聞き取り調査(面接調査)を行い,その結果新たに把握されたり,修正された手掛かり資料については,直ちに報道機関を通じて公開した。また,報道機関の協力により,孤児自らが,テレビに出演し,全国に身元の手掛かりを訴え,ルーツを求める呼びかけを行った。そして,肉親関係者が名乗り出た場合は,孤児と直接対面し,身元の確認を行った(対面調査)。
被告は,訪日調査開始当初から,孤児本人及び肉親関係者に対し,科学的な方法による血液鑑定を行って肉親関係の確認のための参考とすることができる旨を周知し,対面調査によって,孤児・肉親の双方が身元確認について明確に判断できない場合や,一人の孤児に対して複数の関係者が名乗り出た場合などは,当事者双方の希望により,血液鑑定(平成2年(1990年)以降はDNA鑑定)を実施したが,血液鑑定は,最終的に当事者の判断に委ねられていた。
血液鑑定の費用は,中国残留孤児本人の分は全額国庫負担とし,肉親関係者の分は本人負担を原則としていたが,経済的な事情から負担が困難と認められる者の血液鑑定料を被告は国庫負担としていた。(乙総25,41ないし43,106,108,143の1ないし4)
(ウ)調査上の問題
昭和47年(1972年)9月に日中の国交が回復したものの,当時,中国国内はいわゆる文化大革命(昭和41年(1966年)ないし昭和52年(1977年))の最中であったため,被告は,文化大革命終息後,中国政府との間で,訪日調査実現に向けて外交交渉を行うことになった。また,当時,中国公民として生活していた残留孤児を肉親調査のために訪日させることについては,我が子として養育してきた中国国内の養父母からの反対があり,中国の公安当局も戦後30年余り経て残留孤児を帰国させることに難色を示した。訪日調査の実現には,こうした問題を解決しなければならず,被告は中国政府と度重なる交渉をすることを余儀なくされた。
さらに,訪日調査が日中両国をまたぐ調査であり,両国とも初めての試みであったことなどから,両国政府において,訪日対象者の確認,本人への連絡(中国国内の通信事情等により数か月を要することもあった。),受入れ態勢の整備,残留孤児の手掛りの調査結果の取りまとめ等解決すべき事項が多岐にわたり,両国政府の間の外交交渉にも相当程度の時間を要した。例えば,訪日調査に至る前の両国政府でされる調査や両国間のやりとりについては,①まず,孤児から郵送あるいは帰国者に託すなどの方法で在中国日本大使館あるいは厚生省等に寄せられた身元調査の依頼に基づき,日本政府はその手掛り等と厚生省の保管資料等とを照合し,孤児と確認された者を孤児対象者名簿に登載して中国政府に送付することが必要で,②これを受けて,中国政府において当人が孤児か否かを確認し,その結果を外交ルートを通じて再度厚生省に連絡することによって,日中両国政府において孤児の認定をし,③その後,厚生省から再び外交ルートにより中国政府に連絡し,中国政府を通じて対象孤児に対して調査結果を伝え,認定孤児には訪日調査に参加して欲しい旨の連絡をするなどしており,この他にも様々なやりとりや調査等を行う必要があった。これらは,すべて外交上の文書で行われるため,かなりの時間を要し,各年に開催できる訪日調査の頻度や訪日調査者数も自ずと制限された。
また,上記のように,訪日調査の実施に当たっては,中国政府側でも残留孤児であることの確認等を行う必要があった。しかし,中国政府には残留孤児を扱う専門の部署がなく,中央では公安部出入境管理局,地方では各省公安局出入境管理処が窓口となって行っていたが,これらの機関は必ずしも円滑に機能していなかったため,本人への連絡等の準備にも相当の時間を要し,一度に多くの残留孤児を訪日させることは難しかった。他方,被告側でも,訪日調査の実効性を少しでも上げるため,個々の孤児について少ない手掛りの中から肉親につながる情報を蓄積し,整理するなど非常に入念な作業と綿密な調査が必要であり,個々の孤児の調査に時間を要した。中国残留日本人孤児問題懇談会(以下懇談会という。)は,昭和
57年(1982年)8月26日,厚生大臣に対し,中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策についてと題する報告書を提出し,その報告書には,残留孤児の肉親探しにつき,一度に多人数の者を訪日させても,成果をあげることは困難であり,また,中国側との名簿の確認等調査の準備のための期間を考えれば,中国政府の全面的な協力が得られたとしても,当面,一回の訪日調査対象孤児は60人程度,訪日調査の回数も年3回が限度であると考えられる。との記載があった。また,中国側も,訪日調査については省,地区ごとに30人以内で行うことを求めており,これらの事情があって,当初の訪日調査数は余り多くならなかった。(乙総44,66,106,107)

訪中調査

(ア)身体等の障害を有する残留孤児の調査
被告は,訪日調査の対象者ではあるが身体等の障害により訪日調査に参加することが困難な中国残留孤児の肉親調査を促進するため,平成3年(1991年)度及び平成4年(1992年)度に,厚生省の職員による訪中調査が実施された。これは,職員が孤児の住所地まで赴き,中国政府の担当官の立会いの下,当該孤児から肉親等の離別状況や日本の家族構成等に関して直接聞取り調査を行い,その様子をビデオ撮影し,報道機関を通じて世間一般に広く情報提供することを目的とするものであった。(乙総45)
(イ)未確定者の調査
被告は,中国残留孤児調査を促進するため,日中両国政府のいずれかが中国残留孤児と確認できない者について,平成6年(1994年)度以降,調査担当官を中国へ派遣し,中国政府の協力の下,中国現地での残留孤児等との面接調査や手掛かり資料の収集等を実施し,中国残留孤児である蓋然性が高いと判断した者については,訪日調査に参加させた。平成11年(1999年)度までに53名が訪日調査に参加し,4名の身元が確認された。(乙総25)

訪日対面調査
被告は,手掛かり資料の減少や,中国残留孤児の高齢化を踏まえ,孤児の訪日に伴う精神的・身体的負担の軽減を図りつつ,早期の帰国希望に応えるため,平成12年(2000年)度以降,訪日調査に代えて,次のような訪日対面調査等を実施した。すなわち,①被告は,調査担当官を中国に派遣し,孤児等との面接調査を日中政府共同で行い(共同調査),②日中両国政府で中国残留孤児と確認された者について,日本で顔写真,身体的特徴,肉親との離別の状況等の情報を孤児名簿として公開して肉親情報を収集し(情報公開調査),③肉親情報のあった者を訪日させ,肉親と思われる者との対面調査(訪日対面調査)を実施した。
このような調査により,同年度から平成14年(2002年)度末までの間に46名が中国残留孤児と認定され,うち8名の身元が確認された。なお,訪日対面調査においては,事前の中国現地における共同調査に基づき日中両国間で中国残留孤児と確認された者については,肉親情報がない等により訪日対面調査に至らない場合でも,中国残留孤児として日本に帰国できることとしている。(乙総46)


キャラバン調査等
被告は,訪日調査に参加したが身元を確認することができなかった身元未判明孤児の肉親調査を促進するため,昭和62年(1987年)度から3か年計画で全国的規模での情報収集等に取り組む,いわゆるキャラバン調査を実施した。
これは,同年8月24日に元開拓団等の代表者による身元未判明孤児肉親調査委員会を開催したうえ,各都道府県に肉親捜し調査班(同調査員及び厚生省職員)を派遣し,肉親関係者や開拓団関係者等の協力を得て,ブロック単位で国内における未帰還者及び孤児に関する情報の収集等を行うもので平成元年(1989年)度の間に延べ25回(各10日間)実施し,15人の孤児について有力情報を得た。このうち12人は中国政府の協力により再度訪日調査に参加し,その結果,8人の身元が確認された。(乙総25,47,48)

孤児名鑑の発行
被告は,昭和58年(1983年)3月,中国残留孤児に関する情報収集を促進するため,肉親探しの手掛りを求めている中国残留日本人孤児(3分冊)を作成し,各都道府県及び市町村等に配付し,広く一般に公開して孤児に関する情報の提供を求めた。
被告は,昭和62年(1987年)のキャラバン調査を機にこれを改めて編纂し直したまだ見ぬ肉親を求めて・身元未判明中国残留日本人孤児名鑑(いわゆる孤児名鑑)を作成し,その後も適宜情報を更新し,一般からの情報の提供を求めている。(乙総25)


身元未判明孤児肉親調査事業
被告は,平成2年(1990年)度以降,キャラバン調査の成果を踏まえ,引き続き国内における肉親調査を全国規模で実施するため,元開拓団関係者等当時の事情に精通した者を身元未判明孤児肉親調査員として都道府県に配置し,肉親関係者等からの情報収集等を行い,肉親調査を行っている。(乙総25)

(4)帰国障害の緩和除去のための方策等

帰国旅費の国庫負担

(ア)制度の内容
被告は,中国残留邦人の帰国援護の一環として,昭和27年(1952年)3月1日以降,個別に引き揚げる者の帰国に要する船運賃を帰国旅費として国庫負担制度を実施し,その帰国促進を図っている。
これは,当時被告が中国(中華人民共和国)と外交関係を有しておらず,容易に集団引揚げを実施できないという中国地域の特殊事情に鑑み,個別に引き揚げる者の経済的負担を軽減し,引揚げの促進を図るためのものである。
その後,個別に引き揚げる者の中国国内の居住地から出港地までの旅費についても,被告が負担することとし,外交ルートによる実施が困難であったため,この取扱いを日本赤十字社に委託し,昭和37年(1962年)6月1日から実施した。(乙総3)
(イ)帰国旅費等
被告は,日中国交回復後も中国残留邦人が中国から日本へ引き揚げる際の居住地から出港地までの旅費及び船運賃を引き続き支給しており,また,昭和49年(1974年)9月に日中航空協定により東京・大阪と北京・上海間に航空機の相互乗入れが実現したこと等に伴い,昭和48年(1973年)10月以降,航空機により帰国した場合の運賃についても支給している。
また,被告は,帰国旅費の国庫負担については,昭和28年(1953年)の援護開始当初から,中国残留邦人本人のみならず,同行する配偶者や未成年の子等の扶養親族についても実施しており,これに加えて,平成4年(1992年)度以降は身体等に障害を有する中国残留邦人を扶養するために同行する成年の子1世帯について,また,平成6年(1994年)度以降は高齢(65歳以上)の中国残留邦人を扶養するために同行する成年の子1世帯についても実施している。(乙総3,25,200,201の1ないし3)
(ウ)帰国旅費申請の手続帰国旅費の支給申請に際して帰国希望者が行うことは,留守家族に帰国を希望する旨の通信をするのみで足りた。
また,昭和48年(1973年)10月には,引揚希望者の戸籍の謄本又は抄本(引揚希望者が元日本人の場合は除籍の謄本又は抄本)を帰国旅費国庫負担申請書に新たに添付することとされた。
さらに,昭和59年(1984年)3月17日に日中両政府間で中国残留日本人孤児問題の解決に関する口上書が交換され,昭和60年(1985年)の身元未判明孤児の帰国開始以降,身元未判明孤児については,日本永住帰国希望等調査票と日本永住帰国のための旅費申請書を在中国日本大使館に送付するのみで足り,他方,身元未判明帰国孤児以外については,帰国希望者が永住を目的として帰国を希望している旨の申立書(通信文で可),中国に残る親族がいる場合は新たな離別を避けるため帰国希望者が永住の目的で帰国することに中国に残る親族が同意している旨を明らかにする書面を在日親族等に送付するのみで足りるとされた。(乙総45,52ないし54,189)
(エ)帰国旅費の国庫負担制度の周知
本籍地都道府県は,未帰還者等の調査について,留守家族に対して適時未帰還者等の調査の現況等を連絡するとともに,絶えず留守家族の実情の把握に努めることとされており,その結果,国←→都道府県←→留守家族←→未帰還者等という連絡の経路が築かれていた。帰国旅費の国庫負担制度の周知についても,こうした連絡経路が予定されていた。また,帰国希望者が残留邦人本人であることを確認するためには,親族間にしか分からない事情等を知る留守家族が帰国旅費の申請を行う必要があった。
このようなことから,帰国旅費の国庫負担制度の周知方法としては,留守家族を経由した通信による方法を採用した。(乙総50)(オ)帰国旅費の国庫負担制度の実施状況等日中国交回復後,国から帰国旅費の支給を受けて帰国した世帯は6242世帯である。また,中国残留邦人のうち,自己の身元を知っている者を含めた永住帰国者全体の数は,昭和48年(1973年)が70世帯143人,翌年は182世帯383人,制度施行後5年を経過した昭和53年(1978年)においては100世帯280人であった。(乙総49)

養父母の扶養費の支給
被告は,永住帰国した中国残留孤児が中国に残る養父母等を扶養することは極めて困難であることに鑑み,昭和58年(1983年)4月の閣議了解中国残留孤児の養父母等の扶養に関する援助等について等に基づき,中国残留孤児の養父母の扶養費として,中国側と取り決めた一定金額を,国民の浄財により設立された財団法人中国残留孤児援護基金と2分の1ずつの負担により,支払っている。(乙総25,165,166)

帰国手続等

(ア)一般的入国手続

外国人について

(a)一般的に,外国人の入国の要件は,有効な旅券又は乗員手帳を所持し,かつ,正規の手続に従い入国審査官から上陸の許可を受けて日本に上陸しようとする者であることであり(入管法3条1項),外国人の上陸の要件は,原則として有効な旅券で日本国領事館等の査証を受けたものの所持,及び,その者が上陸しようとする出入国港において,法務省令で定める手続により,入国審査官による上陸のための審査を受け,その許可を受けることである(入管法6条以下)。これら入管法の定める要件に関する処理は,査証発給事務をつかさどる外務省(外務省設置法(平成11年法律第94号)4条13号)が行っている。外国人が上陸のための審査を受けるに当たっては,身元保証書の
提出を要することとされている(平成2年法務省令第15号改正前の入管法施行規則6条9号)から,例えば中国旅券を所持して日本に上陸しようとする外国人は,あらかじめ査証申請の際に身元保証書を提出しておくことが必要となる。
(b)身元保証書を提出した者,すなわち,身元保証人の資格は,日本人又は在留期間3年以上の在留資格を有し現に日本に在留する外国人に広く認められており,また,保証事項は,滞在費,帰国旅費及び法令の遵守等である。これらの事項を保証させる趣旨は,事実上,滞在費や帰国旅費を外国人が支弁できない場合に保証人が代わって支弁することや日常生活における法令の遵守につき助言,指導等を行うことを期待する点にあるとされており,法的拘束力はない。
(c)なお,本邦に在留する外国人は,①本邦に入ったときは,その上陸の日から90日(昭和55年法律第64号による改正前の外国人登録法では60日)以内に,②本邦において外国人となったときや,③出生したときなどはそれらの事由が生じた日から60日(同改正前の外国人登録法では30日)以内に,市区町村の長に対し,登録の申請をしなければならない(外国人登録法3条1項)。申請期間は,市区町村の長において,やむを得ない事由があると認めるときは,これを60日延長することができる(同法3条3項)。

日本人について
日本人の帰国に際しては,本邦外の地域から帰国する日本人は,有効な旅券(有効な旅券を所持することができないときは,日本国籍を有することを証する文書)を所持し,その者が上陸する出入国港において,法務省令で定める手続により,入国審査官から帰国の確認を受けなければならないとされており(入管法61条),帰国の手続は,法第61条に規定する帰国の確認は,旅券に別記第72号様式による帰国の証印をすることによつて行うものとする。ただし,旅券を所持していない者については,別記第73号様式による帰国証明書の交付によつて行うものとする。(入管法施行規則54条)とされるのみで,細部は実務の運用に委ねられている。実務の運用では,日本人の帰国の手続は,入国審査官が,帰国する者本人に直接面接し,その者が日本国籍を有することを確認することとされ,その者が日本国籍を有することは,通常,入管法61条所定の有効な日本旅券等により確認され,これらの文書は所持しないものの日本国籍を有することを確実な資料に基づき確認できる者についても,日本人の帰国の手続をさせるが,確認できない場合は,入国審査官は,外国人の上陸の手続をさせることとされている。
(イ)残留孤児にかかる手続
a(a)日中国交回復前について
国交回復前の帰(入)国(以下帰国等という。)手続は,下
記のとおりであった。


帰国等希望者の留守家族が戸籍謄本等を添付して証明書下付願
を都道府県主管課経由で厚生省に提出する。



厚生省は,帰国等希望者が引揚者又は引揚者に準ずる者である
ことを確認の上,法務省入管局に証明書下付願を送付する。



入管局入国審査課において,戸籍謄本等により,帰国等希望者
の国籍,身元等を調査し,a日本国籍を有する者,b元日本国籍
を有していた者,c引揚者等に同伴帰国する妻又は未成年の子に
ついて,帰国等に関する証明書を作成し,申請の時の逆の経路で
帰国等希望者に送付する。なお,留守家族がいない等の理由により,帰国等希望者から直接日本赤十字社(以下日赤という。)あて申請があった場合は,日赤が証明書下付申請手続を代
行して書類を整備の上,厚生省に提出すれば上記の方法により証
明書が発給される。


帰国等希望者は,この証明書を居住地の中国政府公安局に提示
すると出境証が下付され,適宜の便船で出発することができる。



上陸港において,入国審査官は,aの者については,日本人の
帰国として帰国証明書を発給する。



b,cの者については,入国証明書を発行し,上陸許可証印を
押捺して交付する。

(b)

日中国交回復後について
残留邦人の場合の日本国籍の取得の事実は戸籍の記載等により
確認されるが,身元が判明していない者は,帰国時に戸籍の記載
がないため確認ができないことが多く,また,仮に戸籍上日本国
籍の取得の事実が確認されたとしても,中国からの旅券の発給を
受けた者は中国国籍を有する者で,このような者については,旧
国籍法(明治32年法律第66号,大正5年法律第27号により
改正後のもの)の下で婚姻や認知等により中国国籍を取得したこ
とに伴い日本国籍を喪失したものと考えられ(旧国籍法18条,
23条),自己の志望により中国国籍を取得し,日本国籍を喪失
している可能性を否定できないとされ(国籍法11条,昭和59
年法律第45号による改正前の同法8条,旧国籍法20条),日
本人であることを確認できない残留邦人は,外国人としての取扱
いに従って,帰国手続がされた。(乙総185,186)


残留孤児にかかる通知等
(ⅰ)厚生省は,昭和35年(1960年)10月25日厚生省援護局通知中共地域からの個別引揚手続等についてを出した。同通知により,個別引揚者の日本帰国は,日本国籍を有する残
留孤児の留守家族が残留孤児の帰国を要請し,被告は留守家族
に帰(入)国に関する証明書を送付し,留守家族が残留孤
児に同証明書を送付し,残留孤児は同証明書を添付して中国政
府に対して出国証明書(外僑出境証)の発行を申請し,残留孤
児は同出国証明書を提示して日本に帰還するという手順を踏む
こととされた。(乙総24)
(ⅱ)厚生省は,昭和48年(1973年)10月6日援護局庶務課長通知中国からの引揚手続きについてを出した。同通知
は,中国との国交回復に伴い,従来の法務省発給の帰(入)国証明書をとりやめ,日本国籍を有する者に対しては在中国大使館で帰国のための渡航書を発給し,中国国籍を有する
者は中国旅券に査証をするとの内容であった。(乙総122)
(ⅲ)入管局は,昭和50年(1975年)11月22日付けの法務省通知を行った。この通知は,中国残留邦人のうち,中国旅
券等を所持して帰(入)国している者について,日本国籍の有
無について疑義があることから,該当する者の外国人登録につ
いて,法務局等に対して日本国籍有無の照会を実施し,その結
果,日本国籍を有する旨の回答を得た場合,登録の無効措置を
とるべきとの内容であった。
入管局は,昭和57年(1982年)1月23日,上記通知
の取扱いを変更する通知を行った。同通知は,中国旅券を所持
して入(帰)国する中国残留邦人について,最終的に日本国籍
を有することが確認される事例が多数に上っていることから,
上記通知による取扱いを改め,該当する者について,法務局等に対して日本国籍有無の照会を実施し,これに対する回答が得られる見込みがないときは,やむを得ない事由があるとして申
請期間を延長して差し支えなく,日本国籍を有する旨の回答を
得た場合,その者が既に外国人登録を受けているときは,登録
の無効措置をとるべき旨の内容であった。(甲総49の1,2,
乙総187,188)

中国残留邦人については,当初は前記の規定等に基づき,身元保証書の提出を要求した事例があった。
しかし,身元未判明の中国残留日本人孤児の査証取扱い(昭和
60年5月11日付け領査合第2134号。以下昭和60年外務省通達という。)は,中国残留孤児と厚生省が認定した者で,同省の実施した肉親調査で来日したが身元が判明しなかった者(身元未判明孤児)並びにこれに同伴する家族で①配偶者,②未成年の子で配偶者のない者,③養父母及び成年の子で未婚の者のうち,身元未判明孤児と扶養関係にある者,④その他身元未判明孤児に同伴して帰(入)国することが真にやむを得ないと認められる者で,国費による帰(入)国旅費負担が承認された者を対象とし,査証申請に当たっては該当事実関係を立証する資料を提出させ,確認することとし,提出すべき資料として,①婚姻,親子又はその他家族関係を証する公文書,②家族関係一覧表,③帰国旅費国庫負担承認通知書等を挙げている。このように,昭和60年(1985年)以降,身元未判明孤児及びその被扶養家族等で,国費による帰(入)国旅費負担が承認された者は,承認に係る事実関係を立証すれば査証を受給することができ,身元保証書の提出は必要としない取扱いとなっている。
また,

終戦前渡中者(残留孤児を含む。)のうち,現に日本戸籍を有する者及びその家族の査証取扱いについて(通達)

(昭和61年10月2日付け領査合第4219号。以下昭和61年外務省通達という。)は,終戦前に日本から中国本土に渡航し,その後も引き続き同地に居住している者(残留孤児を含む。)のうち,査証申請時に日本戸籍の存在が確認され,又は新たに日本戸籍への就籍が許可されている者及びこれらの者と中国において生計を一にし,かつ,同伴して入国する家族で,①親(養親及び配偶者の実親を含む。),②配偶者,③子(成年の養子を除く。),④子の配偶者,⑤未成年の孫で配偶者のない者(養子を除く。)を対象とし,査証申請に当たっては事実関係を立証する資料を提出させ,確認することとし,提出すべき資料として,①在日関係者からの招へい理由書のほか,②戸籍謄本(抄本)又は就籍許可を証する公的文書の写し,③親族関係を証する公的資料等を挙げている。このうち,在日関係者からの招へい理由書は,身元保証書と異なり,帰国の際,申請人との連絡,世話をしてくれる人物がいることを確認するために提出を求めるもので,身元未判明孤児とその同伴家族が定着促進センターに入所する場合は,本人作成の帰国理由書をもって,これに代えることができるとされている。このように,昭和61年(1986年)以降,終戦前に日本から中国本土に渡航し,その後も引き続き同地に居住している者(残留孤児を含む。)のうち,査証申請時に日本戸籍の存在が確認され,又は新たに日本戸籍への就籍が許可されている者及びその被扶養家族等は,上記の事実関係を立証すれば,査証を受給することができ,身元保証書の提出は必要としない取扱いがされている。(乙総180,181)
(ウ)身元未判明孤児に対する援護
前記のように,身元未判明孤児については,日本の戸籍の確認ができず,中国旅券で帰国することとなるため,入管法上外国人として取り扱われることとなり,当初,帰国する場合には身元保証人が必要とされていた。しかし,身元未判明孤児については,在日親族や知人がいないことや身元保証人を捜す手段や連絡方法もないことから,身元保証人を立てて帰国することが困難な状況にあった。
身元未判明孤児及びその家族の帰国を促進するため,昭和60年(1985年)度以降,身元保証人の代替措置として,帰国旅費国庫負担承認書及び定着促進センターへの入所通知(平成6年(1994年)以降は帰国旅費支給決定通知書)をもって,身元保証人なしで入国査証を発給することとし,帰国後,定着促進センターに入所中に身元保証人に代る身元引受人をあっせんすることとした。
また,平成12年(2000年)度以降,肉親調査の方法を集団訪日調査から訪日対面調査に改めたが,孤児の集団訪日に伴う精神的・身体的負担の軽減を図りつつ,早期の帰国希望に応えるため,事前の中国現地における共同調査に基づき日中両国間で中国残留孤児と確認された者については,肉親情報がない等により訪日対面調査に至らない場合でも,中国残留孤児として日本に帰国できることとしている。(乙総25,46)
(5)

中国帰国者の帰国状況
日中国交回復後の中国からの帰国者の年度別帰国状況は,別紙表1(中国
帰国者の年度別帰国状況(日中国交回復後))のとおりである。(甲総94)
4
帰国した中国残留邦人の生活の自立を支援する施策等について
(1)自立支度金の支給
被告は,昭和28年(1953年)3月以降,中国残留邦人を含む引揚者に対して,帰国時の当面の生活資金に充てる性格を有する帰還手当を支給してきたが,昭和62年(1987年)度以降は,名称を自立支度金に改め,少人数の世帯について一定の金額を加算して支給している。平成15年(2003年)度における自立支度金の額は,大人1人につき16万0400円であり(小人半額),例えば,大人4人,小人1人世帯の場合,72万1800円となっている。(甲総53,57,乙総55ないし57)(2)オリエンテーション
被告は,昭和54年(1979年)以降,中国残留邦人及び同伴帰国者(以下中国帰国者という。)については,中国から帰国直後に,帰国後の援護の内容,各種行政機関窓口,生活習慣の相違等帰国後直ちに必要となる事項についてのオリエンテーションを実施している。(乙総58)(3)中国帰国者定着促進センター

中国帰国孤児定着促進センターの開設
被告は,昭和21年(1946年)4月25日の次官会議において,戦後海外に残留する者に対し,国が引揚援護を,地方自治体が帰国後の定着地における定着自立支援を担当することとする定着地に於ける海外引揚者援護要綱を定めた。これに基づき,定着自立支援策については,各地方自治体が帰国者向け一時宿泊施設を設置し,日本語教育を行うなどして主体的な役割を担い,被告は,補助的に,引揚者生活指導員による支援や語学教材の配布などを行っていた。
被告は,昭和56年(1981年)3月に第1回訪日調査が実施されて中国帰国者が増加し,帰国者の定着自立支援策を強化する必要を認め,昭和58年(1983年)度予算で定着促進センターの設置を要求し,昭和59年(1984年)2月以降,中国帰国孤児定着促進センター(平成6年(1994年)4月に中国帰国者定着促進センターに名称変更。以下定着促進センターという。)を全国各地に順次開設し,帰国後の一定期間,入所形式による日本語教育・生活指導等の援護を行っている。なお,懇談会は,昭和57年(1982年)の報告書において,定着促進センターのような施設の設置を提言していた。なお,定着促進センターへの入所対象者は,当初は国費により帰国した孤児であることが要件とされていたが,自費帰国者であっても入所の申出があれば同センターへの入所を認めた例もあり,また,平成7年(1995年)からは,自費帰国者であっても入所を希望する者には入所資格が認められることが明文化された。(乙総25,59,60,110,194,195,196の1ないし4)

定着促進センターの展開と変遷
定着促進センターは,まず,昭和59年(1984年)2月に埼玉県所
沢市にいわゆる所沢センターが開設されたが,その後の帰国希望者数の増加に伴い,昭和62年(1987年)度に,新たに,北海道,福島県,愛知県,大阪府及び福岡県の5か所に増設された。
被告は,その後の帰国者の漸減により平成3年(1991年)度に北海道,福島県及び愛知県の3か所を閉所したが,平成6年(1994年)度の援護対象者の拡大(高齢の中国残留邦人を扶養するため同伴帰国する子1世帯への援護)により帰国者の世帯員数の増加が見込まれたことに伴い,平成6年(1994年)度に所沢センターの分室を山形県及び長野県に開設し,平成7年(1995年)度には宮城県,岐阜県及び広島県に定着促進センターを新たに開設した。
その後の帰国者数の減少に伴い,これらを順次閉所し,現在は,埼玉県,大阪府及び福岡県の3か所が運営されている。(乙総25,61ないし65,193)

定着促進センターにおける援護の内容
定着促進センターの入所期間は帰国後4か月程度であり,この間,宿泊施設を提供して生活援助費を支給し,帰国後の日常生活に必要な次のような研修及び指導を行っている。なお,上記期間は,昭和57年(1982年)開催の中国残留日本人孤児問題懇談会における,日本に帰国した孤児をあまり長い期間一般社会から遠ざけておくことは好ましくないので,標準的な入所期間は4か月程度にとどめることが適当であるとの提言を踏まえて決定された。また,日本語教育の専門家による,合宿での集中学習は,授業が終われば家族や仲間で小中国社会を作るだけで,日本語の学習効果という点で不十分であり,早く日本人社会の間で生の日本語の交流を行うほうが語学習得には適しているとの意見が出されていた。(乙総25,66,194,195)
(ア)基礎的日本語の研修
年齢構成や日本語学習歴,学歴等を勘案したクラス編成が行われ,日本社会に定着する上で必要な初歩的な日常会話レベルの日本語研修が行われている。(乙総25)
(イ)基本的生活習慣の指導
日本で生活していく上で必要な知識や守るべき規則等についての指導が,日常生活,対人関係,制度・法律等の分野に分けて,買物や交通機関の利用等の実習を取り入れつつ,個別の指導目標を定め,実施されている。(乙総25)

その他
個別の就職相談・指導をはじめ,職業についての講話,公共職業安定所や職業訓練校の見学,職場体験実習,地域体験実習等が実施されている。また,身元が判明していない中国残留孤児に対しては,就籍手続の説明・指導を実施している。(乙総25)

(4)身元引受人制度

制度の概要と変遷
身元未判明孤児は,在日親族がおらず,定着自立の面から,肉親に代わって相談相手となる者が求められた(なお,懇談会からもそのような提言がされた。)そこで,被告は,身元未判明孤児の日本社会への早期定着及び自立促進を図ることを目的として,昭和60年(1985年)に身元引受人制度を創設し,身元未判明孤児の身元を引き受けて相談相手となる身元引受人をあらかじめ登録し,身元未判明孤児に対し,定着促進センター入所中に身元引受人をあっせんすることとした。
また,在日親族の死亡や高齢化等により親族による受入れが困難であった身元判明孤児や中国残留婦人等の帰国,日本社会への早期定着及び自立促進を図るため,被告は,帰国手続や帰国後の受入れを伴う特別身元引受人制度を創設し,身元判明孤児について平成元年(1989年)7月から,中国残留婦人等について平成3年(1991年)度から実施している。その後,被告は,特別身元引受人が行うこととされていた帰国手続を平成6年(1994年)1月以降は直接政府が行うこととし,身元引受人と特別身元引受人の役割等が同様になったことから,平成7年(1995年)2月からは両制度を一本化した身元引受人制度が実施されている。(甲総83,86,乙総25,66ないし69,152,153)イ
身元引受人の役割及び期間
身元引受人の役割は,中国残留邦人の身元を引き受け,その世帯の身近
にあって,一日も早く自立して生活を営めるよう日常生活上の諸問題の相談に応じ,自立に必要な助言・指導を行うことである。
身元引受の期間は,中国残留邦人世帯が定着促進センターを退所した日から3年以内とされている。(乙総25,70)

身元引受人の資格
身元引受人の資格は,中国残留邦人世帯及びその肉親の置かれている立
場に理解を有し,かつ,社会的人望が厚く,同世帯構成員の日本社会への早期定着自立のための指導に熱意をもって当たることができる者とされており,個人のほか,昭和60年(1985年)11月以降は企業等法人についても,平成元年(1989年)度以降はボランティア等任意団体についても身元引受人登録の対象とされている。
さらに,身元引受人の上記役割に鑑み,その選定に当たっては,身元引受人希望者から身元引受人希望申請書を居住地の都道府県援護担当課に提出させ,当該都道府県民生主管部局長が必要に応じて身元引受人希望者と面接し,市区町村長等の意見を聴取するなどの調査を行い,身元引受人となるにふさわしい者を各都道府県知事から厚生省援護局長に推薦することとし,さらに,平成元年(1989年)度以降は,身元引受人を対象とした身元引受人会議を毎年開催し,新たな行政知識の付与及び資質の向上を図っている。(乙総25,70ないし74)

身元引受人の数
日中国交回復後,平成8年(1996年)には最も身元引受人があっせ
んされたが,同年の被あっせん者264人に対し,身元引受人の登録者は2102人であり,平成14年(2002年)においても,被あっせん者29人に対し,登録者は1670人で,身元引受人となる登録者数は確保されていた。(乙総75)
(5)定着地のあっせん
被告は,中国帰国者の帰国後の定着地について,身元判明孤児や中国残留婦人等については,事前に本人の希望を聞き,公営住宅の空き状況等を勘案し,関係都道府県との調整を行いながら,可能な限り本人の希望に沿った定着先をあっせんしている。
また,身元未判明孤児については,身元引受人の近隣に定住させることが望ましいため,身元引受人のあっせんの際には本人の定住希望地も考慮し,可能な限り本人の希望に沿った定着地をあっせんしている。
具体的には,残留孤児が帰国を希望する場合,被告は残留孤児から事前に居住地の希望を聞き,当該居住地に登録のある身元引受人との面談をした後に,本人の了解を得た上で身元引受人をあっせんし,昭和61年(1986年)以降は本人の希望に応じて,定住地訪問も行った上で,本人の承諾を得てあっせんしている。(乙総25,76ないし78)
(6)中国帰国者自立研修センター

概要と変遷
被告は,昭和63年(1988年)度以降,定着促進センター修了後の
中国帰国者の地域社会における定着自立を促進するため,中国帰国者自立研修センター(以下自立研修センターという。)を全国各地に設置し,中国帰国者に対し,一定期間の通所形式による日本語研修,生活相談・指導,就労相談・指導等を行っている。
設置都道府県は,昭和63年(1988年)度は山形県,埼玉県,千葉県,東京都,神奈川県,長野県,愛知県,京都府,大阪府,兵庫県,広島県,高知県,福岡県,長崎県及び鹿児島県の15か所であったが,平成7年(1995年)度には,北海道,岩手県,福島県,東京都武蔵野市及び静岡県の5か所を新設した。その後,帰国者数の減少に伴い,平成11年(1999年)に1か所(高知県),平成12年(2000年)に3か所(長崎県,静岡県,兵庫県),平成13年(2001年)に1か所(岩手県),平成14年(2002年)に3か所(東京武蔵野市,福島県,鹿児島県)を閉所し,現在12か所が運営されている。(甲総A7の62,D4,乙総25,79ないし81,156)

自立研修センターにおける援護の内容
自立研修センターでは,原則8か月程度(ただし,病気等やむを得ない
事情がある場合には,4か月の延長が可能。また,日本語の再研修については2年以内。)の期間,通所形式により,次のような研修や相談等が行われている。(乙総82)
(ア)日本語研修入所時の日本語習得の状況に応じて,2ないし4教室にクラス分けを行い,1日2.5時間,1週12.5時間を基準として,8か月412時間のカリキュラムを組んで研修を実施している。
また,平成8年(1996年)度以降,帰国後5年以内で,日本語習得が不十分である者又はより高度な日本語習得を希望する者を対象に,1週7時間を基準として,自立研修センター退所後2年以内の日本語の再研修を実施している。これらの研修は,就労する通所者の利便も勘案し,平日昼間のほか夜間や土・日曜日にも実施している。(乙総25,83,84)
(イ)生活相談・指導
地域社会での生活において生じた諸問題についての相談に応じ,必要な指導を行っている。(乙総25)
(ウ)就労相談・指導

就労相談員の配置
就労を促進するため,専門的な知識を有する就労相談員を配置し,
就労に関する相談に応じ,中国帰国者の個々の実情を踏まえて就労に向け,日本の労働事情及び雇用慣行並びに地域固有の職業事情についての説明を行い,個々の事情に合った職業を選択して指導し,公共職業安定所,公共職業訓練施設,企業等への集団見学を行うとともに,就労指導のために,公共職業安定所や企業等へ個別に引率している。さらに,地域の企業等の雇用主等に対し帰国者の置かれている状況について説明し,職場開拓を行うことにも努めている。(乙総25,109,157)

就労安定化事業
早期離職を防止し,安定した就労を促すことを目的として,平成4
年(1992年)度以降,通所中あるいは修了後1年以内に就労した中国帰国者を対象に,就労相談員が一定期間,定期的に職場を訪問して,事業主に帰国者の職業意識・慣習等を説明し,認識を深めてもらうとともに,帰国者の勤務状況を把握し,指導を行うことにより,相互の調整を実施している。(乙総25)

就職促進のオリエンテーション事業
就労していない者に対し,日本における就労の意義や実態を紹介し,
理解してもらうことにより,就労意欲の向上を図ることを目的として,平成9年(1997年)度以降,日本の雇用システム,職業能力の習得方法,職業選択の実態や中国との相違点などに関する講演,既に職業能力開発校を卒業し就労している帰国者による体験発表等の交流会,職業能力開発校等の見学等を実施している。(乙総83,84)
(エ)大学進学準備課程
日本と中国との学制の相違により日本の大学の入学に必要な12年の就学年限を満たしていない中国帰国者について,定着促進センターにおける4か月の研修及び自立研修センターにおける8か月の研修を修了することで大学入学に必要な就学年限を満たすものとされている。このため,全国10か所の自立研修センター(千葉県,埼玉県,東京都,神奈川県,愛知県,京都府,大阪府,兵庫県(平成12年(2000年)閉所),広島県,福岡県)に専任講師を配置し,該当する通所者に対し,英語,数学,理科及び社会の一般科目について210時限(1時限50分)の講義を行っている。なお,自立研修センターの通所期間は原則8か月であり,病気等やむを得ない事情がある場合は4か月の延長を可能としているが,一般科目の受講者でこれを修了することができない者についてはさらに4か月の延長を可能としている。(乙総25,83,84,106)
(オ)地域住民との交流中国帰国者と地域住民との交流を図るため,関係機関と連携して盆踊り,餃子作り,花見,社会見学等地域住民が気軽に参加できる行事を企画・実施し,帰国者の地域の諸行事への積極的な参加を図り,帰国者に対する住民の理解を深めるための啓発広報活動を行っている。(乙総25)
(カ)その他
このほか,被告は,就籍の相談等,中国帰国者の定着自立の促進に資する事業を実施している。(乙総25)
(7)自立指導員制度

概要
中国帰国者が長期にわたる海外生活のため言葉や生活習慣等の相違から地域社会に定着し自立していく上で種々の困難に遭遇している中国帰国者の状況に鑑み,被告は,昭和52年(1977年)度以降,定着自立に必要な助言,指導等を行う引揚者生活指導員(昭和62年(1987年)度からは自立指導員に名称を変更。)を支援を必要とする中国帰国者の家庭へ派遣している。
自立指導員の役割や派遣期間,派遣日数等は,中国帰国者の状況に合わせて拡大しており,制度創設当初は帰国後1年間のうちで24日とされていたが,派遣期間は昭和62年(1987年)度に定着後2年間,昭和63年(1988年)度に定着後3年間と延長され,また,派遣回数も適宜増加され,平成15年(2003年)度現在,自立指導員は,定着後3年間,1年目が84日以内(同伴帰国した子世帯等と同居している場合等は120日以内),2年目が12日以内(都道府県知事が必要と認める場合は72日以内),3年目が12日以内とされている。(乙総85ないし87)


自立指導員の業務等自立指導員は,中国語が理解でき,中国帰国者に深い関心と理解を持ち,日本社会への定着・自立に向けて積極的に協力できる民間の篤志家の中から選任される。
自立指導員の業務は,①中国帰国者の日常生活等における諸問題に関する相談に応じ,必要な助言・指導を行うこと,②市区町村,福祉事務所等の公的機関と緊密な連絡を保ち,必要に応じて帰国者等をこれらの窓口に同行して仲介すること,③帰国者に対する日本語の指導,日本語教室等,日本語補講についての相談及び手続の介助を行うこと(昭和61年(1986年)度以降),④職業訓練施設で受講している帰国者の相談に応じ,必要な助言・指導を行うとともに,円滑かつ効果的な職業訓練が行われるよう,援護措置を講じ,もって技能習得後の雇用安定が図られるよう配慮すること(昭和55年(1980年)度に設置された職業訓練校協力生活指導員の業務で,昭和62年(1987年)度より自立指導員の業務として加えられた。)である。(乙総25)
(8)中国帰国者支援・交流センター

概要
被告は,中国残留邦人やその家族の地域社会における定着・自立を中長期的,継続的に支援していくため,平成13年(2001年)11月,東京都及び大阪府の2か所に,中国帰国者支援・交流センター(以下支援・交流センターという。)を開設した。また,平成16年(2004年)6月には,福岡県にも開設した。
支援交流センターにおいては,自立研修センターや自立指導員による援護を終えた者をも対象として,地方公共団体との連携の下,民間ボランティアや地域住民の協力を得ながら,日本語学習支援事業,相談事業,中国帰国者相互及び地域住民との交流事業(ボランティアの活動情報の収集と提供を含む。),中国残留邦人問題の普及啓発事業等が行われている。(乙総88,89,159の1,2,5,乙総204)イ
支援・交流センターにおける援護の内容

(ア)日本語学習支援
高齢者や中国残留邦人の子・孫の増加等により多様化した中国帰国者のニーズに対応するため,進度別,目的別の日本語学習コースが開講され,中国残留邦人とその家族に対する通所形式による日本語教育が行われている。
また,いつでもどこでも日本語が学べるよう遠隔学習(通信教育)も実施されており,遠隔学習の場合は,補完授業として,各都道府県の協力の下,スクーリング(月1回の対面方式による学習機会)が実施されている。(乙総90,159の3,4)
(イ)相談事業等
相談窓口が開設され,対面相談に応じるほか,電話や手紙,Eメールにより,全国各地の中国帰国者の相談に対し,専門機関,行政機関等と連携して対応している。また,高齢帰国者の引きこもり防止対策として,平成15年(2003年)度から,日本語会話が不自由な高齢単身者等に対し,支援・交流センターから中国語で電話連絡を行う友愛電話事業,必要に応じてボランティア等が対象者宅を訪問する友愛訪問事業が実施されている。(乙総91の1,2)
(ウ)交流事業等
高齢者を対象に常設サロンを提供する談話室を設置し,また,日本語学習用教室を中国帰国者・ボランティア団体・サークル等の利用に供し,中国帰国者相互間や地域住民,ボランティアとの交流・コミュニケーションの場を提供している。
また,ボランティアの活動情報等各種情報を収集し,ホームページを開設し,ボランティア団体や帰国者が現に参加しているサークル等の情報提供を行うほか,情報誌を発行し,中国帰国者が必要な生活情報の提供を行っている。さらに,各地域の支援者やボランティア等を対象に研修会を開催し,交流の場を提供するとともに,中国帰国者支援に必要な情報提供等を行い,支援者の拡大,育成を図っている。
なお,帰国者の経済面,精神面両面における自立の達成のためには,定着先における地域住民の中国残留邦人問題に対する認識が不可欠であることから,被告は,自立研修センターや支援・交流センターを拠点として中国残留邦人問題の普及啓発を図っている。また,平成7年(1995年)以降,厚生省及び援護基金の主催により,中国残留邦人問題への理解を深める中央大会を3回開催し,広く国民に対して中国残留邦人問題について普及啓発を行った(乙総25,89,92の1,2)(9)自立支援通訳制度
被告は,日本語の会話が不自由な中国帰国者について,医療機関における適切な受診を確保するとともに,関係行政機関等での助言,指導及び援助を受けやすくするため,平成元年(1989年)度以降,定着促進センター修了後(入所しない者については帰国後)3年以内の者に対し,日中両国の通訳の能力を有し,中国帰国者の援護に理解と熱意を有する自立支援通訳を派遣している。派遣が認められるのは,①巡回健康相談事業により,健康相談医の助言,指導を受ける場合,②医療機関で受診する場合,③福祉事務所等の関係行政機関から助言,指導又は援助を受ける場合,④小中学校,高等学校に通学する子等の学校生活上生じた問題について,又は中学校に通学する子等の進路について相談する場合,⑤介護保険制度による要介護認定の申請,介護サービス計画の利用及び介護サービスの利用を行う場合(平成14年(2002年)度以降)等で,都道府県が派遣を必要と認める場合である。なお,②及び⑤の場合は,平成15年(2003年)度以降定着促進センター修了後(入所しない者については帰国後)4年目の帰国者も対象者とされている。なお,②又は⑤の場合において,平成17年(2005年)4月以降は,真に必要とされる場合は5年目以降も対象者とされている。(甲総115ないし119,乙総25,93,94,109,205,証人B)(10)巡回健康相談事業
被告は,日本と中国の医療事情や食生活等には違いがあることから,平成元年(1989年)度以降,定着促進センター修了後1年以内の中国帰国者世帯に対して医療・保健衛生面における生活指導を行うことを目的として,都道府県知事が選任した医師(健康相談医)を派遣して健康相談を実施し,必要な助言・指導を行っている。(乙総25,95,96,106)(11)就籍に関する支援
身元未判明孤児は,戸籍が特定できず,本籍も不明であるため,家庭裁判所に就籍申立てをし,許可の審判を得ることで,初めて日本において本籍及び戸籍を得ることとなる。
被告は,就籍手続を円滑・容易にするため,定着促進センターにおいて該当者に対して最高裁判所による説明会を開催するとともに,手続開始後は,家庭裁判所からの要請に対して孤児調査関係資料や帰国旅費申請に係る資料等を提供するなど,積極的に支援している。
費用面では,昭和61年(1986年)から財団法人法律扶助協会が財団法人日本船舶振興会の補助を受け審判費用を負担し,孤児本人に経済的負担が及ばないよう措置しており,その補助金申請に際しては,確実に交付されるよう厚生省が副申している。さらに平成7年(1995年)度以降は,印紙代,通信費,交通費,中国から持ち帰った資料の翻訳や弁護士への委任のための費用等,就籍手続に要する経費についての国庫負担が開始されている。(甲総55,乙総25,97ないし99,)
(12)住居に関する支援
被告は,公営住宅法(昭和26年法律第193号)に基づき,財政措置を講じ,公営住宅の事業主体である地方公共団体と協力して,住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃の住宅を供給しており,中国残留邦人もその施策対象者とするとともに,入居者選考及び決定において優先的な取扱いをしている。
平成7年(1995年)度以降,中国帰国者が帰国後(定着促進センター退所後)最初に居住する場合において,公営住宅優先入居の募集選考時期,地域要件又は当該住宅に空きがない等のため,やむを得ず民間住宅に入居する場合,当該中国帰国者に対し,礼金等入居時に要する費用の一部を生活保護の基準に準じて支給している。(乙総25,100,101)
(13)就労に関する支援
永住帰国者に対し,昭和57年(1982年)度から職業転換金給付制度(訓練手当,広域求職活動費,移転費,職場適応訓練費の支給)を適用し,昭和59年(1984年)度から中国帰国者を雇い入れる事業者に対し,特定求職者雇用開発助成金を支給して,その雇用の促進を図っている。また,昭和62年(1987年)度からは,定着促進センター等に設置した職業相談員による職業相談等の業務を実施するなど援助の充実を図っている。(乙総25)
(14)教育に関する支援

日本語教育に関する支援
被告は,昭和54年(1979年)1月ころから,昭和52年(1977年)4月以降に帰国した中国残留邦人に対し,日本語習得のための語学教材として,カセットレコーダー,カセットテープ及びテキストを帰国直後に支給してきた。
また,被告は,昭和59年(1984年)度以降,日本語教師用の指導参考資料の開発・作成を実施している。(乙総102,103)


子の教育に関する支援被告は,就学の円滑化や教育の充実のため,①各教育委員会や学校に対し,受入手続や配慮事項等について周知・指導,②中国等帰国子女日本語指導教材の作成・配布,③中国等帰国子女教育研究協力校の指定等の施策を行ってきた。
さらに,被告は,中国等帰国児童生徒を含む日本語指導を必要とする児童生徒が速やかに我が国の学校に適応できるよう,①日本語指導等に対応した教員の加配,②母語の分かる教育相談員の派遣,③担当教員等の研修会の開催,④日本語指導教材及び指導資料の作成・配布,⑤日本語指導と教科指導を統合した学校教育におけるJSL(Japaneseasasecondlanguage[第二外国語としての日本語]の略)カリキュラムの開発等受入体制強化のための諸施策を実施している。(乙総104の1,2)
(15)国民年金に関する支援
被告は,中国残留邦人等が帰国時には高齢を迎えているため年金への加入期間が短く,受給額が低額か又は受給できない事態が生じていたことから,平成8年(1996年)に特例措置を講じた。
すなわち,国民年金制度が創設された昭和36年(1961年)4月1日から永住帰国するまでの期間(20歳以上60歳未満に限る。)は保険料免除期間とみなされ,この期間については保険料を納付した場合の3分の1相当額(国庫負担相当額)が年金額に反映される。また,保険料免除期間とみなされた期間については保険料の追納ができ,追納した場合は,この期間について全額が年金額に反映される(通常は,直近の10年分の保険料についてのみ追納が認められるが,中国残留邦人等の場合は昭和36年(1961年)4月1日から永住帰国するまでの期間の追納が可能である。)。なお,保険料を追納する場合は,生活福祉資金の貸付制度を利用でき,その場合,償還期限が特別長期となるほか,生活保護受給者については,貸付金が収入認定から除外され,この償還に充てる費用も世帯収入から控除している。(甲総D1の47,48,乙総25,106)(16)一時帰国援護
被告は,中国残留婦人等を中心に日本への一時帰国を希望する者が存在する状況を踏まえ,昭和48年(1973年)度以降,親族訪問,墓参等を目的として中国から日本への一時帰国を希望する者に対し,中国の居住地から日本の落着先までの往復の旅費を支給している。
一時帰国旅費の援護については,当初一度限りの支給が想定されていたが,昭和62年(1987年)度以降随時その要件を改正し,平成7年(1995年)度以降は前回帰国から1年経過すれば帰国できることとしている。なお,身元未判明孤児については,在日親族が明らかでないため,親族訪問,墓参等を目的とすることはできないが,祖国訪問との位置付けにより,平成6年(1994年)度以降,一時帰国旅費の援護が実施されている。(甲総A5の7,乙総25)
(17)自立支援法
平成5年(1993年)9月5日には,内閣総理大臣に対する永住帰国を訴える陳情書を携えた中国残留婦人12人が,身元引受人がないまま突然成田空港に帰国するなどの事件(強行帰国事件)が発生した。
同事件を契機として,残留邦人の問題についての関心が高まったこともあり,与野党の議員立法によって,自立支援法が,平成6年(1994年)4月6日に制定され,同年10月1日,施行された。
自立支援法は,今次の大戦に起因して生じた混乱等により,本邦に引き揚げることができず,引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされた中国残留邦人等の置かれている事情に鑑み,これらの者の円滑な帰国を促進するとともに,永住帰国した者の自立の支援を行うことを目的とし(同法1条),国は,日本への帰国を希望する中国残留邦人等の円滑な帰国を促進するため,必要な施策を講ずるものとし(同法3条),国及び地方公共団体は,永住帰国した中国残留邦人等の地域社会における早期の自立の促進及び永住帰国後の自立の支援のための施策を有機的連携の下に総合的に,策定し,実施するものとしている(同法5条)。同法は,具体的な施策として,中国残留邦人等が永住帰国する場合における国の永住帰国旅費の支給等(同法6条),永住帰国した中国残留邦人等及びその親族等の生活基盤の確立に資するために必要な資金(自立支度金)の支給(同法7条),生活相談等(同法8条),公営住宅の供給の促進(同法9条),雇用の機会の確保(同法10条),教育の機会の確保(同法11条),就籍等の手続に係る便宜の供与(同法12条),国民年金の特例(同法13条),一時帰国旅費の支給等(同法14条)について規定している。(甲総A14の1,2,D1の2ないし5,7ないし9,乙総25,213)
5
原告らを含む中国残留邦人等の現状等

(1)

被告は,中国帰国者世帯の定着地における生活の実態を把握し,今後の自立促進対策の充実を図るための基礎資料とするため,昭和59年(1984年)から平成16年(2004年)までの9回にわたり中国帰国者に対する生活実態調査を実施したが,その主な内容は,以下のとおりである。(甲総71,91ないし93,124,D11,乙総105,168の1ないし8)

生活保護受給率について

(ア)生活保護の受給状況は,平成7年(1995年)3月1日基準日の中国帰国者生活実態調査(以下平成7年(1995年)調査とい
う。)では孤児世帯で38.5パーセント,平成11年(1999年)12月1日基準日の同調査(以下平成11年調査という。)では65.5パーセント,平成15年(2003年)4月1日基準日の同調査(以下平成15年(2003年)調査という。)では,61.4パーセントであった。(甲総71,93,124)(イ)原告らの受給率は,82.3パーセントであった(85人中70人)。(甲総160の1ないし10,甲84の1)
(ウ)平成15年(2003年)度の日本人全体の生活保護受給率は,1.05パーセントであった。(甲総138)

日本語能力について

(ア)買物や交通機関,郵便局,銀行等において1人で用事を済ませることができるレベルの日本語しか習得できていない,片言の挨拶程度,全くできないと答えている孤児の合計が昭和62年(1987年)11月30日基準日の上記調査(以下昭和62年(1987年)調査とい
う。)で66.1パーセント,平成元年(1989年)11月30日基準日の同調査(以下平成元年調査という。)で61.6パーセント,平成5年(1993年)1月1日基準日の同調査(以下平成5年調査という。)で64.4パーセント,平成7年調査で65.9パーセント,平成15年(2003年)4月1日基準日の同調査(以下平成16年調査という。)で82.4パーセントであった。(甲総124,乙総168の3,4,6,7)
(イ)昭和62年(1987年)調査によれば,帰国後1年未満で買物や交通機関の利用等日常生活において自分1人で用事を済ますことができたのは,孤児のうち48.7パーセント,家族全体で55.9パーセント,平成元年調査では,孤児のうち45.5パーセント,家族全体で55.9パーセント,平成5年調査によれば孤児のうち48.9パーセント,家族全体で59.4パーセント,平成7年調査によれば孤児のうち26.3パーセント,家族全体で35.9パーセントであり,平成11年調査では孤児のうち27.4パーセントであった。
また,平成11年調査において,日本語の会話能力が未修得と答えた者は,孤児で32.7パーセント,中国残留婦人等で32.3パーセントであった。(乙総168の3,4,6ないし8)ウ
就労率について
孤児の就労率は,平成7年調査において51.2パーセント,平成11年調査において29.2パーセントであった。また,平成7年調査における孤児の世帯の平均値は66.1パーセント,平成11年調査においては60.6パーセントであった。平成15年調査においては帰国者本人の就労状況は現在就労しているが13.9パーセント,就労したことがないが44.2パーセントであり,世帯別に観察すると,帰国者のみの就労世帯が8.8パーセント,配偶者のみが6.0パーセント,両方とも就労していないが,80.1パーセントであった。(甲総71,93,124)


感想等
帰国後の感想として良かったまあ良かったと回答するものの比
率は,平成7年調査時点で孤児65パーセントであったが,平成11年の調査では孤児53パーセント,婦人等69.1パーセントであり,後悔しているやや後悔しているの合計は孤児で11.8パーセントであった。(甲総71,93)

(2)平成16年(2004年)8月以降,関東地方における本件と同様のいわゆる中国残留孤児訴訟の原告ら及び2,3世帯グループが中心となった,中国残留孤児アンケート調査委員会は,全国12地方裁判所で国家賠償請求訴訟を提起している中国残留孤児訴訟の原告ら1846名に対し,生活実態等に関する全国アンケートを実施した(回答数1692)。このアンケート調査中間報告(平成16年(2004年)11月15日まとめ)によると,日本語の修得度についての回答は,日本語が全く不自由がないが1パーセント未満,聴いて半分しか分からないが18パーセント,少し話せるが会話ができない59パーセント,聴いて半分くらい分かるが日本語は話せない18パーセントという結果だった。帰国後に職を変えた理由につき,35パーセントの人が日本語ができないため転職をしたと回答し,その他日本語が全くできないため希望職に就けなかったが56パーセント,専門的技能を活かすには日本語能力が不十分であったが21パーセントという結果だった。
日本語で現在も困っていることについて,言葉ができないから日本人の友人ができないが46パーセント,近所づきあいができないが52パーセント,困ったとき日本人と相談できないが58パーセント(複数回答)であった。生活文化については,日本の週刊誌,月刊誌を全く読んでいないが64パーセント,日本の新聞を読んでいないが83パーセント,日本人との交流が少ない及び全くないの両者を併せて約90パーセントという結果であった。(甲総71,93,A13の1,2)
(3)原告らの個別事情
原告ら各人の性別,生年月日,帰国年月日,生活保護受給の有無,満州での生活,帰国後の生活等については,別紙4(個別表)のとおりである。6
その他
(1)言語習得について(甲総157)
通常,子供は出生後,家庭環境の中で一つの言葉を自然と身に付け,これが母語となる。母語の習得の過程は,以下のとおりである。生後1年ころに言葉によって要求を相手に伝えたり,相手の要求の理解をはじめ,さらなる発達に伴い,自分の経験を伝えたり,相手の経験の理解をするようになり,小学校入学のころには,言葉での論理的な思考の展開ができるようになる。なお,母語の習得において,生活言語(具体的な思考と基本的コミュニケーションの手段としての言語)は,意識的に教え,学ぶことなく身に付くが,学習言語(抽象的な思考と高度なコミュニケーションの手段としての言語)は,教育の場等で意識的に学ぶ必要がある。一方,母語以外の第二の言語(第二言語)の習得は,以下の理由から母語に比べて困難となる。
発音については,乳児は生まれたばかりのころは,あらゆる言語に含まれる発音とその弁別が可能だが,やがてそれが母語で使用される音に限定されていき,その他を容易に発音することも弁別することもできなくなる。語彙については,個々の単語は異なる言語間で大体共通する意味を持つ単語を持ち,翻訳が可能であるが,一件同じものを指すように思われる単語の意味が実際は微妙に,あるいは場合によって極端に異なることがある。文法面についても,言語構造の違いがある場合がある。さらに語用論的転移(社会言語学的転移)という,対人関係上の文化の違いに基づくものがある(例えば,日本語における敬語の使い分けなど)。
さらに,言語の学習に適した時期(臨界期ないし敏感期という。)が存在する考えがあり,臨界期として2歳から12歳ころまでであるとする説や,20歳くらいまでであるとする説等があるが,母語レベルまでの言語習得の成否を分ける基本的な条件の一つとして年齢があり,年齢が上がるほど習得が困難となるという認識は,研究者の間でも共有されている。
以上より,母語の習得は,対面的な音声的コミュニケーションのレベルでは,子供時代の日常生活の中で,特に意識的な教育をせずに獲得される一方,母語として獲得されていない第二言語の習得については,意識的で長期かつ継続的な教育,学習が不可欠となる。したがって,第二言語の習得は,母語において学校教育を受けた経験のない成人の場合には,さらに困難が存在することとなる。(甲総157)
(2)残留孤児ではない中国人が残留孤児になりすまして日本に入国しようとした事例があったことが,平成5年(1993年)11月ころ判明した。(乙総207,208)
第2

当裁判所の判断1

被侵害権利又は被侵害利益の存否(争点1)について
(1)本件は,原告らが国賠法1条1項に基づき被告である国に対し損害賠償を請求するものであるが,同法に基づく国の損害賠償責任は民法上の不法行為による損害賠償責任と実質的に同じ性質を有する。そして,不法行為に基づく損害賠償請求権の発生のためには,不法行為法上の保護に値する被侵害権利(又は被侵害利益)の存在が必要であるが,それは財産的権利に限られるものではなく,人格的な権利ないし利益もその対象となり,これが侵害されることによって生じた精神的苦痛についても,それが社会通念上一定の限度を超えるものには法的保護が与えられる(民法710条参照)。
本件において,前記認定のとおり,原告らは,いずれも終戦前後の混乱の中で,多くは幼いうちに満州地区等において肉親と死別又は離別してそこに取り残され,日本人であるが故に差別等を受け,又は被差別意識に耐えながら生活をすることを余儀なくされ,日本への帰国後も日本語能力の不足等により日本での生活に不自由を来すなどして,精神的苦痛を受けたことが認められる(前記認定によれば,原告ら全員が,上記のような精神的苦痛のすべてを必ずしも受けているものではないが,それぞれいくつかの精神的苦痛を受けている。また,原告らの中には,日本語を話すことができる者もいるが,それは幼少時から日本にいて日本語を自然に身に付けた場合と異なり,日本に帰国後の生活を営むため一定の努力をして習得した,あるいは中国において日本語を忘れないように努力をしていた(原告X5参照)ために可能となったものであり,趣味や教養等のために外国語を学ぶのと異なり,一定の精神的苦痛があるといえる。)。これらの精神的苦痛は,特に他国に取り残されたことに起因して生じたもので,それ自体は社会通念上一定の限度を超えた苦痛であるといえ,不法行為法上の保護に値するものである。
そして,上記のような原告らが受けた精神的苦痛は,戦闘行為による生命,身体,財産の侵害といった戦争中あるいは戦後の占領時代における非常事態中の出来事から直接的に生じたものばかりではなく,そのすべてがいわゆる戦争損害論により解消されるものとすることはできない。
そこで,以下においては,原告らの上記精神的苦痛がその権利を違法に侵害されたことによって生じたといえるか否かについて検討する。
(2)以上に関し,原告らは,普通の日本人として人間らしく生きる権利が被侵害権利であり,その権利は,憲法13条及び自然権に淵源を有するなどと主張する。しかし,その内容は,人格形成のために良好な環境を享受する権利,居住移転の自由,国籍国で不自由なく生活する能力を奪われないことといった,極めて多岐にわたる概念であり,抽象的かつ不明確であって,それ自体が具体的権利として憲法上保護されている権利であるということはできず,不法行為法上の被侵害権利又は被侵害利益とは認められない。
2
早期帰国実現義務違反の存否(争点2)について
(1)法的根拠について
原告らが主張する早期帰国実現義務の法的根拠に対する判断は,以下のとおりである。

憲法上の義務について

(ア)憲法13条について
憲法13条前段は,個人の尊厳,すなわち個人の平等かつ独立の人格価値を尊重するという個人主義原理を表明したものであり,同条前段により,被告に法的義務を課すことはできない。
また,憲法13条後段は,同条前段と結びついていわゆる幸福追求権を宣言しており,具体的権利性を有すると解し得るが,その幸福追求権は,憲法の歴史的意義や憲法25条が別個に存在することなどからすれば,性質上自由権を内容とするものと解され,憲法13条後段を根拠に,被告に原告らの主張する早期帰国実現義務が発生すると解することはできない。なお,仮に同条後段が社会権をもその内容として含むと解しても,後記(ウ)同様,認めることはできない。(イ)憲法14条について
憲法14条が規定する平等は,関係概念であり,それ自体としては無内容ないし無定形であり,平等を権利と捉えても,具体的権利性はなく,同条を根拠に原告らの主張する早期帰国実現義務が発生すると解することはできない。
(ウ)憲法25条,26条について
憲法25条,26条は,直接国民に対して具体的権利を付与したものではない。したがって,これらの規定を根拠に原告らの主張する早期帰国実現義務が発生すると解することはできない。
原告らは,憲法25条の裁判規範としての効力は行政権の発動としての政策にも及ぶと主張する。しかし,具体化された立法がないまま,政策に同条の裁判規範としての効力が直接に及ぶとする根拠は不明であり,原告らの主張を採用することはできない。
(エ)憲法22条について

原告らは,憲法22条には,国民の帰国の自由が含まれ,海外からの帰国が困難である場合,国に積極的に帰国を実現すべき施策をとるべき義務を課していると主張する。
確かに,同条において帰国の自由(権利)は保障されているが,それは性質上自由権を内容とするものと解され,同条を根拠に被告に原告らの主張する早期帰国実現義務が発生すると解することはできない。

原告らは,被告の原告らに対する対応は,原告らが国籍国である日本へ入国する自由を積極的に妨害した行為であるから,同条に違反すると主張する。
原告らの主張するとおり,被告に原告らの日本への入国に対する妨害行為が認められれば,同条の違反を考えることができるが,後記(2)オのとおり,上記妨害行為があったとは認められないから,原告らの上記主張を採用することはできない。

国際法上の義務について
条約は,天皇の公布により国内法としての効力をもつことになると解される(憲法7条1号参照)が,それだけで内容的にそのまま国内法として実施されるものではない。また,条約は,国家間又は国家と国際機関との間の文書による合意で,これによって相互の間に国際法上の法律関係が設定され,変更され,又は,廃止されるものをいう(条約法に関するウィーン条約2条1項(a)参照)ところ,条約の多くは,国家相互間の権利義務を定めるのが通例であり,国内法上の効果として国民の権利義務に直接かかわるものは少ない。
本件において原告らが主張する文民条約24条,26条,サンフランシスコ平和条約6条(b),児童の権利に関する条約8条以下は,いずれもその内容や文言からして,当該条約の締結国家相互間において国家における義務を定めたものであり,これらが締結国国民に対する具体的義務を負わせるものとみることはできない。
また,自由権規約,社会権規約については,これらの規約の内容からすれば,原告らが主張するような義務が発生するとはいえない。


法令上の義務について

(ア)厚生省設置法及び旧外務省設置法について
これらの法律は,いわゆる行政組織法として各行政機関(厚生省や外務省)相互間の機能の分担及び各行政主体相互間の権限分配に関する組織規範を定めたものであり,これらの行政組織法から具体的な行政機関の国民に対する義務が導かれることにはならない。
したがって,これらの法律を根拠に原告らの主張する早期帰国実現義務が発生するとはいえない。(イ)援護法について
同法29条は,

国は,未帰還者の状況について調査究明をするとともに,その帰還の促進に努めなければならない。

と規定するが,その文言自体及び同法の目的に照らして,同条が努力目標を掲げた訓示規定であることは明らかであり,被告に法的義務を課すものとは解されない。したがって,同法を根拠に早期帰国実現の法的義務が発生すると解することはできない。

先行行為に基づく作為義務について
原告らは,本件は,作為起因性の不作為事案であり,その場合の作為義務成立には,①国家機関ないし公務員による一定の重大な法益侵害の何らかの危険をはらんだ先行行為の存在,②先行行為に起因する損害発生についての予見可能性,③結果回避可能性が認められることが必要であると主張する。
そこで,以下,原告らの主張する上記各要件につき順次検討する。
(ア)先行行為の存否

原告らは,早期帰国実現義務違反に係る先行行為として,被告が,①昭和7年(1932年)8月の閣議決定以来,満州各地へ開拓団を送り,昭和11年(1936年)8月に七大国策の1つとして対満重要策の確立-移民政策及び投資の助長策を掲げ,20年間に500万人,100万戸を送出する大綱を確定し,昭和20年(1945年)8月までに合計32万人以上の移民を送出したこと,②昭和20年(1945年)5月30日,本土防衛のための満鮮方面対ソ作戦計画要綱を策定し,満州の4分の3を放棄し,持久戦のための戦場とすることを決定したにもかかわらず,民間人保護策を何ら講じなかったことなどを中心とする政策決定を含む一連の行為により,国策による満州地区への入植,国防政策の遂行をしたこと,③昭和19年(1944年)末から昭和20年(1945年)8月までの間,在満邦人に対する避難勧告や避難準備等をせずに放置したことなどを主張する。

そこで,まず,原告らが先行行為として主張する事実の存否につき検討する。

(a)①の行為について
前記認定によれば,日本政府は,明治維新以来の大陸進出の構想
に従って,満州を実質的支配下に収め,満州における日本人優位の立場を確立し,また,日本の過剰な生産人口に農耕地等の生産の場を与えるため,満州国への移民政策を立案し,まず昭和7年(1932年)8月ころ満州移民案が承認され,試験移民として約500人を同年10月にチャムスに派遣したのを皮切りに,昭和10年
(1935年)までに約1800名の日本人開拓団を満州に移民として送り,その後策定した満州農業移民百万戸計画に基づき昭
和20年5月時点において32万人以上の移民を行ったことからすれば,①の行為が存在したといえる。
(b)②,③の行為について
前記認定によれば,日本政府及び関東軍は,昭和19年(194
4年)末からの情勢判断により,ソ連軍侵攻の可能性が高いことを認識する一方,関東軍は,国境地帯の居留民の引揚げに反対し,昭和20年(1945年)7月の全満防衛会議で辺境の開拓民の安全対策は考慮できない旨の方針を決めたが,この方針を満州在住の居留民に知らせず,かえって,国境開拓団は安んじて生業に励むようにとの放送をしたこと,同年5月30日に満鮮方面対ソ作戦計画要綱を策定したことなどからすれば,②,③の行為が存在したといえる。c

上記のとおり,先行行為として原告らが主張する事実自体は若干の相違点を除いて存在する。
しかし,上記先行行為①は,戦前の日本国による国策としての移民である。また,同②,③は,ソ連軍との関係で,ソ連軍を釘付けにしてソ連軍の満州への侵攻を抑えるための行為又はそれに関連した行為である。これは,当時の自国(満州は形式的には他国であったが,日本の支配を及ぼしている点で自国である日本と同視し得る。)を防衛し,支配を維持するための戦略の一環として自軍に有利な戦場を定めるといった,戦局に直接関連する作戦の要素を含むものであり,その作戦いかんによっては局地的戦闘の勝敗,ひいては戦争そのものの勝敗を決する意味をもつものである。
このように,同①ないし③は,他国への移民やこれによる支配あるいは戦争における作戦としての要素を含んだ,当時の日本を取り巻く状況を含めた大局的かつ国際的な考慮が必要とされる高度に政治的な判断に基づく行為であり,司法判断が及ばないと考えられる。
ところで,先行行為に基づく作為義務により責任を問う場合には,当該先行行為は司法判断が可能な行為であることが必要であると解される。なぜなら,当該先行行為がこれに当たらない行為である場合,これを先行行為として作為義務を認めて責任を問うことは,結局,当該先行行為に司法判断を及ぼすこととなるからである。
したがって,上記先行行為は,被告に作為義務を認めるための先行行為とはいえず,原告らが主張する被告の作為義務の発生をもたらすものではない(なお,上記①ないし③は,いずれも国賠法施行前の行為であるから,これらに基づく作為義務を認めて責任を問うことは,国賠法附則6項の趣旨に反することにもなる。)。

(イ)予見可能性の存否前記認定によれば,日本政府は,①満州への移民政策を行っていたこと,②昭和25年(1950年)5月の時点で,満州における未帰還者のうち,生存資料のある者が5万3948人,生死不明者が2万6492人いることを把握し,さらに,それらの中に孤児がいることを認識していたこと,③昭和29年(1954年)4月の時点で,中国地域で両親を失った孤児や養育ができないため親が現地住民に託した子供が約2500人いると推定していたこと,④昭和30年(1955年)7月の時点で,約2100名の国際結婚者,中国人に預けられた孤児の存在を把握していたことが認められる。そして,昭和22年(1947年)10月30日の新聞記事に満州に孤児が約5000人いる,あるいは,昭和24年(1949年)9月17日の新聞記事に中共地区に孤児が約8000人いるとの報道がされていたことなどからすれば,被告は,正確な人数は不明であっても,遅くとも昭和29年(1954年)には,中国残留孤児が多数存在することを認識していたといえる。
そして,被告は,上記認識等を前提とすれば,幼少時に中国に取り残された残留孤児が早期に日本に帰国できず,その多くが中国人に養育されるなどして,中国における生活を続けることにより,日本語を忘れ,また,中国の生活様式や文化になじみ,これを身に付けるようになること,したがって孤児となった原告らが日本語を話せず,日本に帰国しても,その生活様式になじめず,そのために日本に帰国しても社会生活に困難を来し,精神的苦痛による損害が発生することについての予見可能性はあったといえる。
(ウ)結果回避可能性の存否
この点については,以下のように,時期を分けて考察するのが相当である。

戦後から日本の主権回復までこの間においては,前記認定のとおり,①被告は,昭和20年(1945年)10月に外交機能が全面的に停止され,この状態は,昭和27年(1952年)4月のサンフランシスコ平和条約発効による日本の主権回復まで続いたこと,②引揚者の輸送は,GHQの立案する引揚計画に従って実施されたこと,③日本は,GHQを通じ,ソ連政府に対して好意ある善処を要請したが,特段の返答はなかったこと,④日本は,昭和20年(1945年)9月,ソ連大使に対してソ連占領下の邦人保護をソ連政府に伝達するように申し入れたが,大使はその権限がないとして拒否したこと,⑤ソ連は,日本のスウェーデン政府を介したソ連軍占領下の在留邦人の保護についての要請に対し,ソ連軍占領下に在住する日本人の地位は一方的に処理されたい旨の回答したこと,⑥日本は,在スイス公使から赤十字国際委員会に対して,ソ連との関係につき人道的見地からの尽力を要請したところ,同委員会が,日本赤十字社代表をして米英の連合軍当局に接触させる方が得策であろうという見解を出したが,ソ連は,日本の外務省職員のソ連占領軍当局との折衝も拒否したこと,⑦日本は,在東京ローマ法王庁使節に対して援助を要請したが,ローマ法王庁もソ連地区の司教に対する連絡をとれなかったこと,⑧満州を含むソ連軍管理地域の引揚げについて,ソ連軍は,在満邦人の本国送還につき関心がなく,結局,何らの措置もとらないまま昭和21年(1946年)4月ころ満州から撤退したこと,⑨中国では,昭和20年(1945年)から昭和24年(1949年)の中華人民共和国の樹立時期にかけて,共産党軍と国民党軍の内戦があったから,それらの時期においては,中国国内では内戦に伴う混乱があり,中国側でも残留孤児について配慮することは困難であったと考えられることなどの事情が認められる。
これらの事情からすれば,被告は,外交機能が全面的に停止された前後を通じ,利用し得た数少ない方法を最大限に用いて,できるだけ残留孤児の引揚げの進展を図ろうとしていたということができ,上記以上の早期帰国実現に向けた施策を実行することはできなかったといえる。
したがって,上記期間について,被告に結果回避可能性がなかった。b
主権回復から日中国交回復前までについて
前記認定のとおり,①日本は,昭和27年(1952年)4月28日,サンフランシスコ平和条約の発効により主権を回復したが,これに先立つ同年3月18日には,海外邦人の引揚に関する件を閣議
決定して海外邦人の引揚援護を行うとしたこと,②日本は,当時中国(中華人民共和国)と外交関係を有していなかったため,外交ルートによる旧満州地区からの引揚げが困難であったこと,③日本は,第1次ないし第3次ジュネーブ交渉を行ったが,中国は国交回復等に言及するだけでその協力は得られなかったこと,④衆議院海外同胞引揚特別委員会委員長が中国首相や中国紅十字会会長に対して政府職員の訪中を申し入れたが,中国側から拒否されたこと,⑤このような中で,被告は,昭和27年(1952年)3月1日から個別の引揚者の帰国に要する船運賃を負担することとしたこと,⑥被告は,未帰還者について,昭和29年(1954年)ころまでは留守家族からの未引揚邦人の届の提出や都道府県を通じた留守宅に対する一斉調査等の調査を行い,昭和30年(1955年)ころからは国内調査,通信調査による国外調査,一斉特別調査等を行ったことなどからすれば,被告は,中国と国交がなく外交ルートによる引揚げが困難な中で,できる限りの交渉や調査等をしていたといえる。
したがって,上記期間について,被告に結果回避可能性はなかった。

日中国交回復後について被告は,前記認定のとおり,昭和47年(1972年)9月29日の日中共同宣言による国交回復後において,①帰国援護として孤児が帰国した場合の航空運賃等の支給をし,②保有資料による調査,公開調査,訪日対面調査等の身元調査をしてきたこと等からすれば,被告において結果回避可能性を認めることはできない。

以上より,原告らの主張に基づく要件に従って先行行為に基づく作為義務の有無を検討したとしても,その要件中の結果回避可能性はないといえる。

(エ)小括
よって,原告らの主張する被告の先行行為に基づく作為義務を認めることはできない。

条理に基づく作為義務について
原告らは,被告が国策として満州移民政策を実施し戦争を遂行したことにより,条理上の作為義務を負っているのに,それに違反したと主張する。条理とは社会生活において相当多数の人々が承認している物事の道理,筋道のことをいうところ,条理に基づいて作為義務が発生することはあり得る。しかし,原告らの主張する被告の国策の実施遂行は,既に前記先行行為に基づく作為義務違反の存否において検討したとおり,被告の作為義務発生の根拠となるものではない。
また,国民は国家の重要な要素であり,国家は,自国民がその意に反して自国からの離脱を強制させられたり,あるいは在外自国民にとっての不可抗力というべき事態の発生により,その意に反して国外に残留を余儀なくされたりした場合,自国民保護のための措置を講じるべきである。しかし,近代国家における国家と国民の関係の基本は国家からの自由であり,国家が国民に対する義務を負う場面は限定されており,個人の生命,財産等の保護はその所在地,すなわち外国にあっては当該国の国内法で与えられるのが本来であり,自国民がその外国の国内法上の手続によって救済されない場合に,国が当該外国に対して適切な救済を与えるよう外交手段によって請求する権利(外交的保護権)は国家に属し,個人の権利あるいは,個人の利益のために国家が行う義務としての性格は有していない。これらのことからすれば,上記のような国が自国民保護のための措置を講じるべき責務は,直ちに国の法的義務であるとはいえない(なお,仮に,法的義務であるといえるとしても,本件においては,義務違反の要件としての結果回避可能性が認められないことは前記のとおりである。)。
したがって,原告らの主張する条理に基づく作為義務を認めることはできない。
(2)義務違反の存否について
以上に検討したとおり,被告には原告らの主張する早期帰国実現義務を負うべき法的根拠はなく,したがってその義務違反もないというべきであるが,原告らは,被告のとった施策等が原告らの帰国を妨害する行為であったなどとも主張するので,以下,この主張について検討する。

現地定着方針について
原告らは,被告が現地定着方針をとったことが原告ら残留孤児の発生をもたらしたと主張する。
前記認定のとおり,外務大臣による昭和20年(1945年)8月14日の居留民定着方針をとるとの訓令や同年9月の次官会議決定(海外部隊並びに海外邦人帰還に関する件)等からすれば,当時の日本政府が現地定着方針をとり,これを実施しようとしたことは明らかである。
しかし,上記のような現地定着方針が現実に実施されたことを認めるべき証拠はない。また,前記認定のとおり,同年8月26日付けの関東軍方面停戦状況に関する実施報告には内地における食糧事情を考慮する記載があり,上記次官会議決定も居留地における生活の安定を考慮するもので,引揚者(帰還する者)には速やかに必要な措置を講じるとしていたこと,関東軍総司令官でもある山田乙三駐満大使も婦女子病人ら帰国を要する推定約80万人を可能な限り速やかに帰国させるべきことを要請していること,同月30日の政府が決めた措置要領においても,できる限り現地における共存親和を図るべきとする一方,引揚者には十分な便宜を与えて円滑に引き揚げさせることとしていることからすれば,上記方針が満州在留邦人を放棄する意図をもって行われたとか,その方針自体が徹底されていたとみることはできない。

国交回復前の中国との関係等について

(ア)原告らは,中国側は一貫して日本人の帰国に協力的であり,民間三団体のルートが成立していたから,被告が孤児の帰国に対する特別の配慮を申し入れることは容易であったと主張する。
確かに,中国は,昭和27年(1952年)12月の北京放送等において日本人の帰国につき協力する考えがあることを示していた。しかし,一方で,中国は,昭和30年(1955年)ないし昭和32年(1957年)の第1次ないし第3次ジュネーブ交渉における日本からの要請にも,特段の協力をしなかったのであって,原告らが主張するような特別の配慮を得ることが容易であったとはいえない。
(イ)原告らは,昭和32年(1957年)の岸首相の発言に見られるように日本政府の中国(中華人民共和国)に対する敵対的な外交姿勢が早期帰国実現の妨げとなった旨主張する
しかし,上記発言を含む当時の日本の中国への対応等は,当時の中国,台湾,米国と日本との国際的関係を背景とした政治的判断に基づくものであって,残留孤児問題だけを念頭に置いたものでないことは明らかであり,その当否等を司法権が判断すべきものではなく,これを本件における結果回避可能性の判断要素とすることはできない。ウ

特別措置法について
原告らは,被告が特別措置法による戦時死亡宣告制度を設け,昭和34年(1959年)以降,被告がすべての残留孤児を事実上死者として扱い,その生存を前提とする身元調査,所在場所の捜索,帰国援助等の政策を放棄し,早期帰国が妨害される要因となったなどと主張する。
しかし,前記認定のとおり,①特別措置法は,留守家族団体の決議を踏まえ,その要望を取り入れて制定されたこと,②一斉特別調査がされた後に制定されたものであること,③国が,戦時死亡宣告の申請をできる制度は他国にも例があること,④特別措置法における戦時死亡宣告制度は,留守家族の同意を要し,さらに,家庭裁判所によって審査した後に宣告に関する審判がされるもので,内容的にも特段の問題はないこと,⑤同制度創設後も被告が通信調査や帰還者宅への訪問調査等を含めた身元調査,あるいは所在場所の捜索,帰国援助等の政策を放棄したとすべき事実は認められないこと等からすれば,特別措置法の制定が,帰国妨害になるとの原告らの主張を採用することはできない。
なお,原告らは,原告X2,原告X29,原告X36及び原告X52を含む多数の孤児につき,被告による留守家族に対する強引な説得があり,戦時死亡宣告を受けることとなったと主張するが,上記原告を含め,その留守家族に対し強引な説得がされたことを認めるに足りる証拠はない。

国交回復後の被告の対応等について

(ア)訪日調査の実施等について
原告らは,被告が,中国政府に対し,国交回復後直ちに外交ルートを通じて残留孤児に関する情報を提供し,その所在調査と肉親探し及び帰国実現のための協議を申し入れ,訪日調査を速やかに開始することが可能であったのに,実施された訪日調査では1回当たりの訪日人員枠が少なく,多くの孤児が早期にこれに参加できなかったため,訪日調査が長期化し,調査方法も血液鑑定等の科学的調査の利用に消極的であって不十分であったなどと主張する。
しかし,上記認定の事実によれば,①中国は,国交回復時当時,文化大革命(昭和41年(1966年)ないし昭和52年(1977年))の最中であり,少なからぬ混乱があったと考えられ,②原告らの帰国には中国の養父母からの反対があり,中国の公安当局も戦後30年余り経て中国公民として生活している残留孤児の帰国に難色を示しており,③訪日調査は,両国をまたぐ調査で,はじめての試みでもあって,解決すべき事項が多岐にわたり,外交交渉にも相当程度の時間を要し,④訪日人数についても,中国側は地区ごとに30人を超えない人数とするよう求めており,⑤また,日本で詳細な面接調査を行うから,時間的な制限もあり,⑥血液鑑定については,当事者の選択に委ねられており(甲総A6の95,96),技術的限界もあり,また,原告らが希望したのに,被告がこれを拒否をしたなどとはいえず,⑦中国政府は残留孤児を扱う専門の部署がなく,窓口機関も円滑に機能しておらず,準備期間に相当の時間を要するとともに一度に多くの孤児を訪日させることは困難であったと認められる。
このような事情からすれば,訪日調査の頻度や人数は制限を受けざるを得ず,調査の方法も不適切な点があったとはいえない。
(イ)情報の公開について
原告らは,日本国内においても,残留孤児や家族から殺到した身元調査依頼に関する情報を直ちに公開し,肉親探しを積極的に進めることが可能であったと主張する。
しかし,殺到した生の情報を,真偽や裏付けの有無も確認せず,整理しないまま公開すれば,それがかえって肉親探しに無用の混乱を招く結果となる可能性があるから,これをある程度整理した上で公開する方が相当と考えられ,直ちに公開をすることが必ずしも適当であったとはいえない。
(ウ)養父母の老後保障等について
原告らは,被告は残留孤児が安心して帰国を決断できるように中国の養父母の老後を保障するなど帰国の妨げとなる事情を除去することが可能であったのに,これを行わなかったと主張する。
しかし,帰国するか否かは結局は孤児自身の問題であり,養父母の老後の保障等は,その家族や中国政府における政策が関係する問題であり,残留孤児が養父母の老後を案じることが帰国を思いとどまらせる要因となっていたとしても,それは日本政府が独自に財政的措置をとることによって解消されるべき問題とはいえず,上記保障等を被告がしなかったことをもって被告の帰国妨害行為であったなどとすることはできない(なお,養父母の扶養については,前記認定のとおり,支援がされるようになっている。)。

入国管理行政上の措置等について
原告らは,被告は残留孤児の肉親が判明しない場合や,判明しても親族が帰国に同意しない場合であっても,その帰国に障害が生じないように出入国管理行政上適切な措置をとり,帰国旅費国庫負担制度の円滑な運用に努め,帰国を希望する者が直ちに帰国できる措置を講ずるべきであったのに,被告の通知や制度等から,残留孤児は自由に帰国することができなくなったなどとして,被告による帰国妨害行為があったなどと主張するので,この点につき検討する。

(ア)身元未判明孤児に対する取扱等について
原告らは,被告が昭和35年(1960年)10月25日に発出した厚生省援護局通知中共地域からの個別引揚手続等についてにより,日本国籍を有するものであることが判明しない身元未判明の残留孤児は,帰(入)国に関する証明書の発行を求めるすべがなくなり,実質上帰国の途が閉ざされたと主張する。
しかし,入管法は,日本にとって好ましくないと考えられる外国人を排除することを目的の一つとしており(同法1条,5条1項参照),日本への入国を求める者が外国人か日本人かの判別は慎重に行われるべきで,日本人であることが確認されない者は日本人の帰国の手続によることはできない。
これらは,日本に上陸しようとする者が中国残留邦人であっても異ならない。すなわち,入管法上,外国人とは,日本の国籍を有しない者をいい(同法2条2号),また,国籍法は,すべての者に効力が及び,同法によりその者の日本国籍の有無が決定されるから当然残留邦人にも適用があり,したがって,残留邦人につき日本国籍を有することが確認されるためには,日本国籍取得の事実があり,かつ,その喪失の事実がないと判断されることが必要である。残留邦人の場合の日本国籍取得の事実は戸籍の記載等により確認されるが,身元が判明していない者は,帰国時に戸籍の記載がないため確認ができないことが多く,また,仮に戸籍上日本国籍取得の事実が確認されたとしても,中国から旅券の発給を受けた者は中国国籍を有するもので,このような者については,旧国籍法の下で婚姻や認知等により中国国籍を取得したことに伴い日本国籍を喪失したものと考えられるし(旧国籍法18条,23条),さらには自己の志望により中国国籍を取得し,日本国籍を喪失している可能性を否定できない(国籍法11条,昭和59年法律第45号による改正前の同法8条,旧国籍法20条。乙総185,186)のであって,日本人であることを確認できない残留邦人は,前記の入管法の目的に鑑み,外国人としての取扱いをせざるを得ない。また,前記認定のとおり,残留孤児ではない中国人が残留孤児になりすまして日本に入国しようとする事例も過去にはあったことからすれば,上記のような取扱いも不当とはいえない。
以上のように,残留孤児につき日本国籍を有することにつき確実な資料に基づき確認できない場合,外国人の上陸の手続をとることになるのは違法ということはできない。
(イ)身元保証人制度について
原告らは,昭和48年(1973年)10月6日厚生省援護局庶務課長通知により,残留孤児の日本への引揚げは入管法上の入国手続へと変化して,帰国が著しく困難になり,さらに,昭和50年(1975年)11月22日付け法務省通知により,中国旅券を所持して帰還した残留孤児は外国人として扱われ,外国人登録申請を余儀なくされたが,昭和57年(1982年)の通知でも残留孤児を原則外国人として扱うことは同じであり,これらは,中国旅券を所持して帰国する者が極めて多い残留孤児に対して,身元保証人を要求するもので,多くの残留孤児の帰国を妨げるものであったと主張する。
しかし,前記認定のように,国交回復前は,中国からの出国(境)のための申請書の添付資料として,中国政府が日本政府による帰国等に関する証明書の提示を要求していたことや,外国籍の同伴家族の有する旅券が未承認国である中国のものであるため有効な旅券とは認められなかったこと等により,容易に帰国できない状況にあったことから,未承認国である中国からの日本人引揚げを可能にするため,入管局入国審査課長が帰国等に関する証明書を発行していた。これは,未承認国からの引揚げ又は帰国の促進という目的のためにやむを得ずとってきた措置であって,日中国交回復に伴い,中国が未承認国でなくなった以上,そのような証明書を発行しなくとも帰国等が可能となったことから,原則に戻り,一般の手続をとるに至った。したがって,国交回復前は,①日本国籍を有する者,②元日本国籍を有していた者,③引揚者等に同伴帰国する配偶者又は未成年の子のいずれについても,身元保証書は要求されていなかったところ,国交回復後は,日本国籍を有しない②及び③の者については,入管法令に基づき身元保証書が要求されることとなった。
また,前記昭和50年(1975年)の通知や昭和57年(1982年)の通知は,日本に入(帰)国した残留邦人のうち,中国旅券又は在中国日本大使館が発給する渡航証明書を所持して日本に上陸した者については,日本国籍の有無について疑義があることから,原則として外国人登録の対象とした上で,法務局等に照会してその有無を確認し,日本国籍を有することが確認できれば,登録を抹消するという取扱いを定めたものであるから,中国旅券又は渡航証明書を有している者すべてを外国人として取り扱うことを定めたものではない。
以上のように,被告のとってきた措置において違法とされるべきものはない。
(ウ)身元引受人制度について
原告らは,身元未判明の残留孤児は被告が施行した身元引受人制度を利用できたが,身元が判明していながら身元保証人がいない残留孤児は同制度を利用できず,身元が判明すると帰国することができないという矛盾を生み,身元判明孤児の帰国が妨害されたなどと主張する。
確かに,原告らが主張するような事態が生じていたが,それは,永住帰国をしようとする身元判明孤児については,日本社会への早期定着や自立促進のために親族から身元引受をするのが適切であるとの考えに基づき,身元未判明孤児とは異なった取扱いを続けた結果であり,上記のような考え方は必ずしも不合理ということはできない。また,被告は,身元引受人制度の創設から約3年後の平成元年(1989年)7月には,親族側の事情等によって帰国することができなかった身元判明孤児についても,その永住帰国を促進するため身元判明孤児についても特別身元引受人制度を設けているのであって,長期間にわたり上記事態を放置していたものではなく,被告の施策によって原告らの帰国が妨害されたとはいえない。
(3)まとめ
以上により,原告らが主張する被告の早期帰国実現義務については,その根拠が認められないか,あるいはその義務の違反を考えることはできない。3
自立支援義務違反の存否(争点3)について
(1)法的根拠について
原告らが主張する自立支援義務の法的根拠に対する判断は,以下のとおりである。

憲法上の義務について

(ア)憲法13条について
前記のように,憲法13条前段により被告に法的義務を課すことはできないし,同条後段を根拠に,被告に原告らの主張する自立支援義務違反が発生すると解することはできない。
(イ)憲法25条,26条について
憲法25条,26条が直接国民に対して具体的権利を付与したものではないことは,前記のとおりであり,これらの規定を根拠に原告らの主張する自立支援義務が発生すると解することはできない。

自立支援法について
自立支援法4条1項は,被告の責務として国及び地方公共団体は,永住帰国した中国残留邦人等の地域社会における早期の自立の促進及び生活の安定を図るため,必要な施策を講ずるものとすると定めているが,その文言自体及び他に具体的な措置を定める規定がないことからすれば,同項は抽象的な義務を定めたにすぎず,同項に基づいて被告が原告らの主張する具体的な自立支援義務を負うとは解されない。

先行行為に基づく作為義務について

(ア)先行行為の存否

原告らは,原告らの帰国を阻害ないし遅延させることになった行為が先行行為であり,具体的には,(ⅰ)昭和33年(1958年)までについては,①ソ連の参戦前及び参戦後終戦までの間,被告が開拓団に対して故意に誤った情報を流して日本に帰国する機会を与えず,開拓団に対して十分な保護の施策をとらなかったこと,②昭和20年(1945年)8月26日,外地在住内地人ノ人心安定策として
在外公館に通達をし,開拓民の日本への帰還を遅らせる措置をとり,同月31日,改めて開拓民に対し現地に残留する旨の政府決定をしたこと,③昭和33年(1958年)までの間,専ら民間を通じた引揚げに頼り,十分な引揚政策をとろうとしなかったことを,(ⅱ)昭和34年(1959年)時については,④同年3月3日,多くの日本人が中国に残留していることを認識しながら特別措置法を制定し,すべての残留孤児を死者として扱い,その生存を前提とする身元調査,所在場所の確認,帰国援助等の政策を一切放棄したことを,(ⅲ)昭和34年(1959年)以降については,⑤特別措置法制定以降,一切の帰還事務を放棄したこと,⑥昭和50年(1975年)11月22日,入管局が中国帰国者の入国に関しては,原則として外国人と扱う
との通達をし,また,これ以降も不合理な制度を導入するなど,帰国制限という阻害行為ともいうべき政策を継続したことなどをもって,先行行為に該当する旨主張する。


そこで,まず,原告らの主張する行為の存否を検討する。
①については,前記認定のとおり,大本営は,昭和20年(1945年)5月30日,満州の4分の3を放棄し,日本人居留民の保護を放棄する作戦を計画したが,関東軍は,国境地域の開拓民の後方への引揚げを行わせず,同年7月25日の全満防衛会議で辺境の開拓民の安全対策は考慮できない旨の方針をとりながら,これを満州在住の在留民に知らせず,同年8月2日に関東軍ハ磐石ノ安キニアル邦人,特ニ国境開拓団ノ諸君ハ安ンジテ生業ニ励ムガヨロシイと放送したことからすれば,ソ連の参戦前及び参戦後終戦までの間,被告が開拓団に対して故意に誤った情報を流して日本に帰国する機会を与えず,開拓団に対して十分な保護の施策をとらなかったという行為が存在したといえる。
②については,前記認定のとおり,同年8月26日,外地在住内地人ノ人心安定策として在外公館に通達をし,開拓民の日本への帰還を遅らせる措置をとり,同月31日,改めて開拓民に対し現地に残留する旨の政府決定をしたとの行為が存在したといえる。
③については,前記認定のとおり,終戦後,占領軍の日本進駐とともに,引揚援護業務は日本政府独自の業務としてではなく,占領政策の一環としてGHQの管理下に行われることとなり,同年10月25日,日本政府の外交機能が全面的に停止されたこと,昭和28年(1953年)3月の北京協定や昭和31年(1956年)6月の天津協定に基づき,後期集団引揚げが引揚三団体によりされたこと,昭和47年(1972年)9月まで日中の国交はなかったこと等からすれば,民間を通じた引揚げが行われていたということができる。
④及び⑤については,前記認定のとおり,特別措置法が昭和34年(1959年)4月1日に施行されたこと,被告は,同法制定後も保有資料の調査,通信調査,帰還者宅への訪問調査等未帰還者の調査を続けたことなどが認められるのであって,被告に特別措置法制定以降,一切の帰還事務を放棄したとの行為は存在しない。⑥については,前記認定のとおり,法務省入管局は,昭和50年(1975年)11月22日,中国帰国者の入国に関しては,原則として外国人と扱うとの通達をしたのであり,⑥に該当する行為自体が存在したといえる。

次に,上記存在が認められる被告の行為につき,それが作為義務を発生させる先行行為となるかにつき検討する。
①及び②については,昭和20年(1945年)8月15日のポツダム宣言受諾前後の行為であり,かつ,大本営等が自軍の状況と敵であったソ連軍の状況等を総合的に考慮して,自軍を有利にするための戦闘や軍の行動についての作戦を含む方針によるもので,その方針如何によっては,自軍が破れ,戦争の勝敗にも影響する行為であることからすれば,高度に政治的な判断が必要な行為として,司法判断の対象とされるべき行為ではないといえる。
その後の被告の行為については,戦後の行為であり,引揚政策は戦後に立法された法律等に則って行われた制度の運用にかかわる行為であること,国内の政策であり国際的な面の考慮は特段必要と考えられないことなどからすれば,司法判断が及ばない行為ではないから,これらは,作為義務を発生させる先行行為として存在した。

(イ)予見可能性,結果回避可能性の存否
以上のとおり,原告らが作為義務を発生させる根拠となる先行行為に該当すると主張する被告の行為の一部は存在すると認められるところ,自立支援義務の内容とされる施策等は残留孤児の帰国後における国内の政策等の問題であるから,被告において,一定の施策を講じること又は講じないことによる結果を予見し,かつ,これを回避することが一般的に可能であると考えられ,その意味で予見可能性及び結果回避可能性の存在もまた肯定できる。(2)義務違反の存否について

判断の基準等
上記のように,被告には一定範囲で先行行為に基づく作為義務があるといえるが,被告の不作為ないし作為(本件において原告らが作為義務違反として主張する被告の行為は必ずしも不作為だけに限られない。)が国賠法上の違法な行為となるためには,それが国の行政機関として被告の有する裁量の範囲を逸脱したものであることが必要であり,裁量の範囲内にとどまる限り違法であるとすることはできない。
この点,原告らは,本件は作為起因性の不作為事案であるから,行政裁量に配慮する必要はなく,仮に配慮するとしても,裁量逸脱の有無は,厳格な基準によって判断されるべきであると主張する。
しかし,作為起因性の不作為事案であったとしても,複雑多様な行政需要に対応するため,また,高度に専門的な問題に対応するため,行政庁の知識と判断能力に期待する方が結果的に妥当な場合が多いためという行政裁量を認める理由は妥当するところ,同事案においても行政裁量が生じないとする理由はなく,同様に行政裁量逸脱の有無が厳格な基準によるとする理由はない。原告らのかかる主張を採用することはできない。
以下,本件における被告の行為(作為又は不作為)が裁量の範囲内かどうかを検討する。


被告の施策等についての検討

(ア)日本語習得支援に関する制度

被告が実施した施策等とその評価
前記認定によれば,被告は,残留孤児の日本語習得支援に関し,①昭和54年(1979年)1月,昭和52年(1977年)4月以降の引揚者に対し,日本語習得のための語学教材を帰国直後に個別に支給する通達を発して,同通達に基づく支給をし,②昭和59年(1984年)2月からは定着促進センターの設置に伴い,同センターにおいて4か月程度の間(なお,この期間は,昭和57年(1982年)開催の中国残留日本人孤児問題懇談会において,日本に帰国した孤児をあまり長い期間一般社会から遠ざけておくことは好ましくないとの提言がされたことや,日本語教育の専門家からの,合宿での集中学習は,授業が終われば家族や仲間で小中国社会を作るだけで,日本
語の学習効果という点で不十分であり,早く日本人社会の間で生の日本語の交流を行う方が語学習得には適しているとの意見があったことから定められた。),年齢構成,日本語学習歴,学歴等が勘案されたクラス編成に基づき,日本社会に定着する上で初歩的な日常会話レベルの基礎的日本語研修を行い,③昭和63年(1988年)度における自立研修センターの設置に伴い,同センターにおいて中国帰国者及びその同伴家族に対し,入所時の日本語習得状況に応じたクラス分けに基づき,8か月間の日本語研修を行い,また,平成8年(1996年)度以降は,帰国後5年以内の者で日本語の習得が不十分である者,又はより高度な日本語の習得を希望する者を対象に2年以内の再研修を実施し,④平成13年(2001年)の支援・交流センターの設置に伴い,進度別,目的別の日本語学習コースを開講している。
上記のように,被告は,孤児の日本語習得につき,一定の施策をとっている。そして,これらの制度は,例えば平成11年(1999年)度調査において日本語の会話能力(簡単な日常会話ができる能力)が未修得と答えた者が32.7パーセントである(乙総168の8)一方,それ以外の者は修得をしていると考えられることからすれば,被告の制度や措置がまったく成果の上がらないものではなかったと考えられる。さらに,定着促進センターについても,昭和50年(1975年)から昭和54年(1979年)までは,帰国する孤児が少なく,一定期間の集合学習をすることが効率的でなかったことから個別に教材を支給することとしていたところ,昭和55年(1980年)以降帰国する孤児が毎年100名を超えるようになったため,懇談会による定着促進センター設置の提言等を受けて昭和59年(1984年)に同センターを開設するに至ったのであり,政府が,昭和57年(1982年)には同センター設置のための予算を要求していたことからしても,昭和59年(1984年)まで設置がされなかったことに著しく不合理な点もない。
以上からすれば,上記制度設置等に著しく不合理な点はない(これを覆すに足りる証拠はない。)。

原告らの主張について
原告らは,被告の日本語習得支援制度につき,十分なコミュニケーション能力,機会を確保するための施策ではないなどと主張する。確かに,原告らは,概して日本語能力が低く,そのため就労もままならず,就労しても職場内のコミュニケーション不足等に陥って,退職をしたり,就労できないことから生活保護を受けざるを得ない状況になっている者がいたり,病気になっても自己の症状を医師等に説明できない場合があることからすれば,被告による制度や措置が全面的に妥当なものであったとはいうことはできない。
しかし,原告らのように幼少期に他国に取り残されたため,母語である日本語を話すことができなくなった非常に多くの孤児に対し日本語を教育するということは,被告にとって経験がないことであり,それらの孤児(しかも,ある程度の年齢を重ねており,言語の習得については幼少期とは異なる学習方法をとらなければならず,かつ,単純化して考えれば,帰国者の平均年齢は毎年1歳ずつ高くなっていき,さらに学習者全体の年齢構成や学習適正も変わってくる(甲総D4,乙総110参照)。)に対し,どのようにして,日本語を習得させるかは極めて困難な問題であり,手探りで制度を構築していかなければならない部分も広いと考えられ,著しく不合理な制度を創設するなどしない限り,裁量の範囲内の行為として適法であると考えられる(仮に,各帰国者のレベル等に合わせた指導をするのであれば,上記のように孤児の能力や学習適正が幅広いことに鑑み,個別指導で,かつ,長期間の指導とならざるを得ないこととなるが,そのような方法をとることは,孤児が多数いることから,人的,金銭的な側面からして実現が困難であるといえる。)。したがって,孤児の現状のみを見て,法的に被告の行為が違法であるということはできず,原告らの主張を採用することはできない。
(イ)就職支援制度

被告が実施した施策等とその評価
前記認定のとおり,被告は,①定着促進センターにおける個別の就職相談,指導,②自立研修センターにおける,就労相談員の配置,就労安定化事業,就職促進のオリエンテーション事業,③自立指導員による就職等に関する助言,指導,④永住帰国者に対する昭和57年(1982年)度からの職業転換金給付制度の適用,昭和59年(1984年)度からの特定求職者雇用開発助成金の適用等を行っている。被告は,上記のように就労相談員による人的な支援に加え,金銭的なものを含む複数の面からの支援制度を逐次実施しており,これらの制度が著しく不合理なものと認めるに足りる証拠はない。


原告らの主張について
原告らは,上記各制度は,求職者一般に対する支援であって,孤児の状態を踏まえて制定されたものではないなどと主張し,主に,原告らの日本語習得及び孤児が中国で取得した技能や資格が日本でも通用できるようにするなどの特別措置制度等による支援を求めている。しかし,自立研修センターにおける就労相談員の配置等が,孤児の状況を踏まえて設置されたものであることは,前記認定から明らかである。
そして,日本語能力の習得の点は,既に検討したとおり,被告の策定した制度等が著しく不合理なものとはいえない。また,中国において取得した技能や資格は中国国内における社会生活や産業等に基づくものであるから,それが伝統的あるいは先進的なものであっても,また,その取得が困難なものであっても,それらがそのまま生活様式や産業構造等の異なる日本国内においても需要がある有用なものとして通用するとは限らず,原告らが求める特別措置を講じることは現実問題として困難であるといわざるを得ない。原告らの主張を採用することはできない。
(ウ)金銭面における生活支援のための制度

被告が実施した施策等とその評価
前記認定のとおり,被告は,①昭和28年(1953年)3月以降,中国残留邦人を含む引揚者に対して,自立支度金(昭和28年(1953年)3月から昭和61年(1986年)度までの名称は帰還手当)を支給し,②国民年金について,平成8年(1996年)から特例措置を講じている。
自立支度金は,その前身であった帰還手当が引揚者の当座の生活資金として支給されていたことからすれば,当座の生活資金として支払われるとの性格をも有すると考えられるところ,昭和62年(1987年)度では少人数世帯加算を含め最低27万6600円,平成15年(2003年)度では同32万円支給されている(乙総56,57)が,このような支給額について,それが少額にすぎて著しく不合理であるとはいえない。また,年金についての特例措置も原告らの利益を図るための制度であって,その合理性が否定されるべき事情はない(なお,拉致被害者支援法に基づく制度と原告らにおける制度については,後記のとおりである。)。

原告らの主張について
原告らは,自立支度金は引揚援護策の延長線上のもので残留孤児の特殊性を考慮した制度ではなく,また,国民年金については,その支給開始が平成8年(1996年)まで遅れた上,生活保護を受給した場合には,年金支給額の3分の1相当額が生活保護費から差し引かれるため,生活保護受給者にとっては無意味であるなどと主張する。しかし,特に国民に対する生活のための金銭の支給等については,国の全体的な社会福祉政策や予算等に基づく多岐にわたる検討を踏まえた立法等によって決められるべきことであり,例えば,原告らについて年金を受給した場合であっても生活保護費を減額しないなど,他の国民と異なった扱いすべきか否かも上記検討に基づいて決せられるべきであって,現行制度が直ちに違法であるなどとはいえず,原告らの主張を採用することはできない。

(エ)社会生活面における支援のための制度等

被告が実施した施策等とその評価
前記認定のとおり,被告は,原告ら中国帰国者に対し,①昭和54年(1979年)以降,帰国後直ちに必要となる事項のオリエンテーションを実施し,②定着促進センターにおいて基本生活習慣の指導をし,③身元引受人による助言や指導がされるようにし,④本人の希望を聞いた上で帰国後の定着地のあっせんをし,⑤自立研修センターにおいて生活相談や指導を行い,⑥昭和52年(1977年)度以降,定着自立に必要な助言や指導等を行う自立指導員制度を設け(昭和62年(1987年)度までの名称は引揚者生活指導員。なお,自立指導員についてはその派遣期間や派遣回数は適宜延長,拡大されてきた。),⑦支援・交流センターにおいて,相談事業,中国帰国者同士,中国帰国者と地域住民との間の交流に関する事業をしている。
これらの制度は,著しく不合理なものとはいえない(これを覆すに足りる証拠はない。)。

原告らの主張について
原告らは,被告は帰国した残留孤児の精神的ケアを図り,日本社会との交流を図る施策を何らしておらず,かえって,身元引受人をあっせんされた孤児に身元引受人の近隣に居住することを義務づけ,日本における定着地を強制し,孤児の自立を阻害したと主張する。
しかし,前記認定のとおり,定着地については,孤児の多くが希望した大都市部においては住宅の空きがないなど,物理的に残留孤児の希望に添うことができない場合もあった。このような場合に希望をかなえるためには,大都市に住宅を新築する等の措置が必要となるが(甲総A9の4参照),大都市部においては一般的に土地の供給は少なく,その価格も相当高額であり,希望者数に応じた住宅の新築等を行うとすれば,そのための土地の確保を含め相当多額の予算が必要となることは明らかであり,それにもかかわらず,孤児の希望があるといった一事から上記措置をとることが合理的な政策であったなどとはいえない。また,多くの帰国した孤児が1箇所に集中すると,自立指導員や福祉事務所等の人的側面からの支援の不足も生じ,自治体の支援策にも財政面等での影響が及ぶことが考えられるところ,そのような政策をとらなかったことが不合理であったとはいえない(乙総25,109参照)。)。孤児の相談の相手となる身元引受人のそばにいることが必ず孤児の不利益になるということはいえない。また,被告は,上記のように,孤児の精神的ケアを図り,日本社会との交流を図る施策をしていた。したがって,原告らの主張を採用することはできない。(オ)その他の施策等
前記認定によれば,被告は,上記の各制度のほかに,①定着促進センターにおける就籍手続の説明,指導,②身元引受人の質の確保,③自立研修センターにおける大学進学準備過程としての講義の開催や地域住民との交流活動,就籍の相談,子女の就学についての情報提供等の事業,④自立指導員制度や同制度の派遣期間,派遣日数の逐次の拡大,⑤支援・交流センターにおける残留邦人問題の普及啓発事業,⑥自立支援通訳制度の創設,⑦巡回健康相談事業,⑧上記掲記以外の就籍に関する支援(審判に関する費用の負担等),⑨住居に関する支援,⑩子の教育に関する支援,⑪一時帰国援護,⑫養父母の扶養費の支給,⑬中国帰国者生活実態調査の実施,⑭中国残留邦人問題の普及啓発等を行ってきた。これらは,いずれも著しく不合理な制度とはいえない(これを覆すに足りる証拠はない。)。
なお,自立支援通訳の派遣制度について,その周知の仕方に多少問題があったことは認められるが(甲総A13の1,乙総111),そのことのみをもって制度,政策自体が著しく不合理であったとはいえない。(カ)拉致被害者などに対する施策等との比較について
原告らは,被告の原告ら中国残留孤児に対する施策と,北朝鮮拉致被害者,インドシナ難民に対する施策とを対比し,あるいは原告ら残留孤児は社会的な障害者であるとして,原告らに対する施策を障害者基本法に基づく施策と対比し,原告らに対する施策が不十分で違法である旨主張する。確かに,拉致被害者支援法においては,帰国被害者等が永住帰国する場合は,5年を限度に単身者で17万円,2人世帯で24万円の拉致被害者等給付金を支給し,拉致された日以降の一定期間を国民年金の被保険者期間とみなし,国がその期間に係る保険料に相当する費用を負担する(同法5条1項,11条及び同法施行令)などの措置がとられている。また,ベトナム戦争が終結した昭和50年(1975年)ころから,インドシナ半島出身のいわゆるボートピープルが祖国を出国し,日本を含めた近隣諸国に漂着するといういわゆるインドシナ難民問題が起こったが,被告は同問題顕在化直後の昭和52年(1977年)に基本方針を確定し,昭和53年(1978年)には難民の定住許可方針を出し,昭和54年(1979年)には定住許可条件の緩和,アジア諸国に一時滞在中のインドシナ難民の本邦定住受け入れのための調査団の派遣,定住枠の拡大等を行うなどの施策をとった(甲総B45)。
そして,既に述べたとおり,原告らは,終戦前後の混乱の中で,多くは幼いうちに他国である中国(満州地区等)において,肉親と死別又は離別してそこに取り残され,それぞれ日本人であるが故に差別を受けたり,被差別意識に耐えながら生活することを余儀なくされたり,あるいは母国である日本に帰国した後も,日本語の能力が不足していたり,日本の生活様式を受け入れられなかったり,さらにそれらに起因して職に就くことができず,生活保護を受給したりしているものであり,それらには自助努力のみではいかんともし難く,解消できない部分がある。そして,このような原告らの状況は,原告らと同様に他国(北朝鮮)において長年月を過ごすことを余儀なくされて帰国した北朝鮮拉致被害者と共通する面があり,後者に立法及び行政に基づく施策が行われるのであれば,原告らにも同等の施策が行われるべきであるとする原告らの主張を理由のないものであるとして否定し去ることはできない。しかし,原告らと北朝鮮拉致被害者との間には相違する点(例えば,その原因となる移動が戦時か,平時か,それが自己又は親族の意思に基づくのか否か,国の施策が関係しているのか否か,他国での生活の期間の長短等)もあるのであって,それらの事情をどのように勘案し,拉致被害者と同等とするのか異なるものとするかを含め,どのような施策を講ずるかは立法権あるいは行政権の裁量に基づく判断に委ねられており(この点は,インドシナ難民に対する施策などについても同様である。),本件において被告がその裁量権を逸脱した違法があるとはいえない。
したがって,原告らの主張は採用の限りでない。
(3)まとめ
以上,検討したとおり,被告は,原告ら残留孤児について,自立支援を含め種々の側面からの施策等を策定し,実施してきた。これらの各施策を策定あるいは実施するには,様々な側面からの検討や配慮が必要であり,その施策に関する知識や情報を収集して分析し,必要かつ可能な施策を立案し,さらに必要な財源を確保するための予算措置を講ずるといった作業を行わなければならないことは自明である。したがって,策定され,実施された施策が最良のものでなかったとしても,そのことから直ちに当該施策が不合理であるなどとすることはできない。よって,被告に裁量逸脱はなく,裁量の範囲内である。
したがって,被告に自立支援義務違反はない。
第3

結論
よって,被告の行為に違法があるとはいえないから,その余の点を論ずるまでもなく,原告らの請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし,訴訟費用の負担について民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。(口頭弁論終結の日

平成19年1月26日)

札幌地方裁判所民事第5部

裁判長裁判官

笠井勝彦
裁判官

馬場純夫
裁判官

矢澤雅

別紙1
当事者目録
(略)
別紙2(原告らの主張)

1
被侵害権利又は被侵害利益(争点1)
以下のように,原告らにおいては,被侵害権利又は被侵害利益がある。(1)原告らは,被告により,普通の日本人として人間らしく生きる権利を侵害された。上記権利は,従前から認められている憲法13条の人間の尊厳及び幸福追求権並びにその基礎をなす自然権に淵源を有する人格権として,日本人ならば当然に享受すべき諸権利を総称するものである。終戦時に保護者と離れ,帰属する社会集団から遺棄され,母国が戦争で蹂躙した外国に一人取り残され,その後,中国人社会の中で侵略国の出身者として扱われ過酷な人生を送らざるを得ない運命に置かれた原告らが,早期に母国に帰国し,母国において平穏に暮らしたいと切望する要求は,原告らの個人の尊厳を実現し,その人格的利益保護のために守られるべき当然の法益であり,憲法全体を貫く基本的人権尊重の価値基準からして,同権利は憲法上保護に値する権利である。
そして,同権利は,抽象的レベルでは,何人も主体となり,原告らに限らず,満州移民,戸籍の抹消等の被告の施策による日本社会からの隔離が生じ,日本に相互依存的同化が必要な者に対しては,直ちに具体化する。(2)上記被侵害権利(被侵害利益)の内容及び侵害態様は,以下のとおりである。

人格形成の利益について
人間が人間らしく生きるためには自己の人格形成が重要であり,この観点から,およそ人は人格形成のために良好な環境を享受する権利を有する。原告らは,幼少期に国籍国ではない中国へ長期間放置されたことによって,人格形成にとって極めて重要な時期を喪失し,人格形成の利益を侵害された。

居住移転の自由
居住移転の自由は,憲法上保障されており,とりわけ近代国家は自国民保護を存在理由とするから,国家による保護を受けられ,人格形成発展に適した地である国籍国へ帰還する自由は強く保障される。
原告らは,単独では居住移転の能力を有しない幼少期に国籍国ではない中国へ長期間放置され,国籍国への帰国方法すら知ることができない状況に置かれたことにより,さらに,帰国条件として身元判明や親族の引受を要求されたことにより,国籍国たる日本への居住移転の自由を侵害された。

国籍国で不自由なく生活する能力
現代社会において,人間が人間らしく生きていくためには,最低限国籍国で不自由なく生活する能力が必要である。
原告らは,幼少期に国籍国ではない中国へ長期間放置され,国籍国の文化や言語を学ぶといった国籍国に接する機会を奪われ続け,国籍国で不自由なく生活する能力を奪われた。

2
早期帰国実現義務違反の存否(争点2)
(1)法的根拠
被告は,以下のような根拠に基づき,原告らを日本に帰還させるべき法的義務を負っていたが,これを怠った。

憲法上の義務

(ア)憲法13条
原告らが日本で普通の日本人として生活したいという希望は,憲法13条で実現されるべきものである。
原告らのように,中国に取り残され,日本において日本人として生活することを否定された場合,原告らの個人の尊厳を回復し,幸福追求権を確保するため,被告は,原告らを速やかに日本に帰還させるべき義務を負っていた。また,戦前における被告の行為(国策としての移民や終戦時の棄民等)が原告らの人格権侵害の直接原因であることからすれば,被告には,その侵害を除去し,原告らの人格権実現のための総合的な政策を立案,実行する義務がある。
被告は,原告らの普通の日本人として人間らしく生きる権利という人格権を保護する一般的義務を負い,この義務内容が,厚生大臣及び外務大臣が,未帰還者の引揚げ及び援護のための総合的政策を立案,実行するに当たり,その内容,範囲を画定する根拠となる。
(イ)憲法14条
被告は,戦地における在留邦人の引揚事務に関し,満州に取り残された原告らのみを不当に取り扱うことは許されず,原告らを他の戦地の在留邦人と差別することなく,帰還させなければならない。
また,被告は,原告ら残留孤児の帰還を阻害するような差別的取扱いをすることは許されない。
(ウ)憲法25条,26条
原告らは,敗戦国国民の子として,幼くして敵地となった領土に留め置かれ,かつ,敵国民となった中国人の社会の中で成育することを余儀なくされた。また,原告らが日本国民として健康で文化的な最低限度の生活を営み,日本語教育を含む日本人としての教育を受けるためには,日本に帰還することが不可欠であった。したがって,被告は,憲法25条,26条により,原告らを日本に帰還させるという一義的な義務を負っている。原告らは,日本に帰還できない間,日本国民として健康で文化的な最低限度の生活を営む機会を奪われ,日本社会において日本人として生きていくための教育の機会を奪われたのであるから,被告は,原告らのこれらの権利侵害の発生を防止し,回復する義務を負っている。判例は,憲法25条の生存権を具体化する法律の合憲性が争われた場合に同条の裁判規範としての効力を肯定しており,この理は,立法権に対してだけではなく,行政権の発動としての政策にも及ぶ。
平成6年(1994年)10月施行の自立支援法以前にも,終戦以来の援護政策と称されるものが継続してあり,これらの政策又は政策の欠如の違法性判断の規範として憲法25条が根拠規定となることは明らかである。
(エ)憲法22条
憲法22条には,国民が海外から日本へ帰国する権利が含まれている。同条は,国に対し,国民の海外からの帰国を合理的理由なく制限しないとの義務を課しているのみならず,海外からの帰国が困難である場合,積極的に帰国を実現すべき施策をとるべき義務を課している。
原告らは,中国に遺棄され,その後長きにわたり帰国の途を閉ざされ,その権利を侵害された状態に置かれ続けたのであり,被告はそのような侵害状態を除去し,原告らの帰国する権利を実現すべく具体的な措置を講ずる憲法上の義務を負っていた。
原告らの帰国する権利が原告らの人身の自由及び人格形成権保障の観点からして憲法22条による保障の範疇に入ることは明らかであり,同条は,厚生大臣及び外務大臣が未帰還者の引揚げ及び援護のための総合的政策を立案,実行するに当たり,その尽くすべき義務の内容及び範囲を画定するものになる。
原告らが経験した極めて特殊な時代的,社会的状況を前提とすれば,これに対する被告のあらゆる対応(作為及び不作為を含む。)は,原告らが国籍国へ入国する自由を積極的に阻害した行為であると評価できるから,これを積極的に排除,是正しなかった被告の行為は憲法22条に反する。(オ)憲法13条,14条,25条,26条についての補足
日本人として生まれた者が,日本における日本の言語,文化,習慣のもとで,他の日本人と同様に暮らしていく機会を保障されるべき利益ないし権利は可及的に平等に取り扱われるべきであり,これらは,憲法13条,14条で保障されており,それらの条項により国家は差別的扱いを禁止されている。
国家が重大かつ決定的な差別的取扱いをした場合には,故意ある作為と同視でき,禁止規範を定める憲法13条,14条違反が生じる。また,国家が重大かつ決定的な差別的取扱状態を放置した場合には,憲法13条,14条,25条,26条に基づいて,その差別的取扱いを解消する作為義務があり,その作為をせずに,さらなる重大かつ深刻な結果を招いたような場合には,差別的取扱いの結果として生じた差異を解消すべき作為義務があり,これらの作為義務は,少なくとも国賠法における違法性を基礎付ける限度で法的効力を有する。
その義務の具体的内容は,①被害者を日本の言語,文化,習慣等を享受し,身に付けることのできる時期までに帰還させる義務,②後記のように,①の時期までに帰還させることができなかった場合には,可及的に,他の日本人と同様に日本の言語,文化,習慣等を享受し得る環境を整える施策,措置を講ずべき義務である。
国家の重大かつ決定的な差別的取扱いは,結果の重大性が量を超えて質的なものに至っていること(他の日本人と比較して,生活保護受給率,日本語能力,日本社会における社会集団,公的集団への所属率等において極端な差があること)から明らかである。

国際法上の義務

(ア)文民条約文民条約24条における必要な措置には,戦争の結果,児童が遺棄された場合に児童をその状態から回復する方策,すなわち,そのような状態に置かれた児童を探索し,早期に自国に帰国できる方策をとることが含まれる。したがって,被告は,同条により,原告らを探索し,早期に帰国できる方策をとるべき作為義務を負っていた。
被告は,文民条約26条条の団体を通じて原告らを原状に回復す
るための活動を行うべきであった。
なお,千九百四十九年八月十二日のジュネーブ諸条約の国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関するに追加される議定書は,文民条約を含む戦争犠牲者の保護に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーブ諸条約を補完し,同議定書において,諸条約及び議定書の適用時期につき,保護の対象となる戦争犠牲者の最終的な解放,送還又は居住地の設定が,軍事行動が全般的に終了し,又は占領が終了した後であっても,その最終的な解放,送還又は居住地の設定の時まで諸条約及び同議定書の関連規定の利益を引き続き受けると定めている。日本は,同議定書を承認していなかったが,同議定書の解釈条項が文民条約の解釈,適用に当たり参考とされることは当然であり,これらのことからすれば,日本が文民条約を批准した昭和28年(1953年)以降も上記の諸義務は存在していた。
(イ)サンフランシスコ平和条約
サンフランシスコ平和条約6条(b),ポツダム宣言9項により,被告は,軍人や軍属等軍隊関係のみならず,一般邦人の引揚者についても,国際的,国内的に帰還させる義務を負っていると解される。したがって,被告は,原告らの家庭から引き裂かれた状態を解消し,家庭に復帰させるべき作為義務を負っていた。
(ウ)自由権規約被告は自由権規約を昭和54年(1979年)に批准しているが,自由権規約12条が世界人権宣言13条2項を具体化したものであることを勘案すれば,被告は,自由権規約批准以前から帰国の権利を確立した国際慣行として遵守する義務を負っており,帰国の権利の侵害が自国の行為に起因するような場合は,この権利を侵害しないという消極的義務にとどまらず,帰国の権利を実現する積極的施策をとる義務を負っていた。
(エ)社会権規約
被告は,原告らの有する①自己及びその家族のための相当な食糧,衣類及び住居を内容とする相当な生活水準について並びに生活条件の不断の改善についての権利(社会権規約11条),②文化的な生活に参加する権利(同15条),③日本語の取得を含めた基礎教育を受ける権利(同13条)を侵害する原因を作り出したものとして,原告らの権利を実質的に保障する措置をとる義務を負担している。
なお,被告は,社会権規約の批准前から同規約が規定する上記の権利の保障に関する義務を負っていたことは上記(ウ)と同様である。(オ)児童の権利に関する条約
同条約は,国際的法規範を子供の側の権利にまで高めたものであり,同条約8条以下の規定は,普遍的な法規範性が確認されたものである。したがって,被告は,同法規範に基づき,原告らに対し,実父母を知らせてその養育を受けさせるため,積極的に捜索活動を行ってその氏名や家族関係を明らかにし,積極的に帰国させる義務を負っていた。
(カ)日本では,条約をはじめとする国際法は,編入措置をとることなく,直ちに国内法としての効力を有し,国内法として国家を拘束する。したがって,被告は,国際法上の個人の法主体性問題を挙げて,国内における個人の国際法に基づく主張を否定することはできない。ウ

法令上の義務

(ア)厚生省設置法
厚生省は,同法4条2項1号により引揚援護を任務とすることと
され,内地以外の地域からの引揚者の援護,未帰還者の状況調査,中国残留邦人等の帰国推進,永住帰国後の自立援助等の全般が所掌事務と定められた(同法5条101号,105号,108号の2)。厚生省は,これにより,原告らの探索及び引揚援護に関する事務を行う具体的義務を負った。
(イ)旧外務省設置法
外務省は,同法3条8号により海外における邦人の保護を任務とすることとされ,海外における邦人の生命,身体及び財産を保護するため外国官憲と交渉すること(同法4条17号),邦人の引揚げに関する事務を行うこと(同条26号)が所掌事務と定められた。外務省は,これにより原告らの探索及び引揚援護に関する事務を行う具体的義務を負った。(ウ)援護法
同法が昭和28年に施行され,同法29条は,未帰還者の調査究明及び帰国促進につき,被告に努力義務を課しているから,法令上の根拠となる。

先行行為に基づく作為義務

(ア)要件等
本件における先行行為は,後記のように,被告の積極的な政策により被告が主体となった行為であり,国が直接の積極的加害行為を行ったという作為責任の事案に近い。すなわち,行政が原因を作出した上で,そこから結果としての損害が発生することを防止しなかった不作為責任であるという作為起因性の不作為事案ということができる。
作為起因性の不作為事案は,直接的全面的な賠償義務を負うべき第1次的責任主体がいるケースではない(したがって,被告が挙げる不作為の違法が問題となる類型と異なる。)から,国が2次的責任を負えば足り,危険の発生が予測できる場合,期待可能性(行政が有効かつ適切な措置を採ることができ,また,それが期待できる場合),補充性(被害者自らの力では危険を回避できないこと)等の要件を付加する必要はない。また,被侵害利益の重大性の要件については,本件では被侵害利益が重大であることは当然であるから要件として論じる意味はなく,違法な先行行為の存在の要件については,適法な行政の行為によって作為義務が生じることもあり得るから不要である。危険性及び切迫性の存在の要件は,予見可能性の程度の問題に帰着するから,独立の要件としては不要である。
したがって,作為起因性の不作為事案における作為義務成立には,①先行行為(ただし,何らかの危険をはらんだ行為であることは必要である。),②先行行為に起因する損害発生についての予見可能性,③結果回避可能性が認められれば十分である。
なお,原告らは,本件訴訟において,請求原因として昭和34年以降の被告の早期帰国実現義務違反についての違法性を主張するが,それ以前に義務違反がなかったと考えてはいない。すなわち,原告らは,被告の早期帰国実現義務は終戦直後に成立し,同時に義務違反も始まり,時の経過とともに義務違反の懈怠の程度が徐々に高まり,その懈怠の程度が看過し難いほど重大になり,違法性が決定的に顕著となったのが昭和34年(1959年)であると考えている。
(イ)本件への当てはめ

先行行為
被告の先行行為は,特に中心的なものとして,①昭和7年(1932年)8月16日の閣議決定以来,満州各地へ開拓団を送り,昭和11年(1936年)8月25日に七大国策の1つとして対満重要策の確立-移民政策及び投資の助長策を掲げ,20年間に500万人,100万戸を送出する大綱を確定し,昭和20年(1945年)8月8日までに合計32万人以上の移民を送出したこと,②同年5月30日,本土防衛のための満鮮方面対ソ作戦計画要綱を策定し,満州
の4分の3を放棄し,持久戦のための戦場とすることを決定したにもかかわらず,民間人保護策を何ら講じなかったこと等を中心とした一連の行為(政策決定を含む。)による国策による満州地区への入植,国防政策の遂行であり,さらに,③上記②において掲げた,民間人保護策を講じなかったことを含んだ,昭和19年(1944年)末から昭和20年(1945年)8月までの間,在満邦人に対する避難勧告,避難準備等をせずに放置したことである。
このような先行行為に当たり,①被告は,関東軍による満州事変,満州国建国を経て,昭和7年(1932年)9月15日,満州国を承認し,満州国を不承認とした国際連盟を脱退した後,廬溝橋事件,日中戦争を経て昭和16年(1941年)12月8日に太平洋戦争を開始したものであり,②満州への移民政策は,日本における農村過剰人口対策以上に,満州の日本人人口を増加させることによる満州支配の確立と,日露戦争,シベリア出兵,ノモンハン事件等を経て軍事的緊張関係が続き,満州と陸続きであるソ連との戦争への備えという,国防政策の一環たる重要な役割が与えられていたのであって,③それゆえ,当初から満州移民は現地人から脅威とみなされ,日本軍が劣勢となったときには戦乱に巻き込まれて難民化する危険性が高かったうえ,④昭和19年(1944年)秋からソ連参戦の前兆が種々観察され,満州へのソ連軍侵攻は十分に予測できる状況になっていたのであり,被告は,どんなに遅くともソ連が日ソ中立条約不延長の通告をした昭和20年(1945年)4月5日には,ごく近い将来のソ連参戦を予測していた。これらの事情を合わせて考えれば,上記一連の先行行為は,当然にソ連軍が侵攻してきた場合,根こそぎ動員等により老幼婦女子だけとなっている開拓団の避難行動は困難を極め,逃避行の過程で,ソ連軍の攻撃,飢餓,疾病,集団自決等によって多くの犠牲者を出し,昭和20年(1945年)の越冬生活,栄養失調,伝染病の流行等のために多くの死亡者を出し,さらにその後の混乱などによって多数の子供が孤児となり,あるいは親が養育できないなどの事情によって現地住民に託されるなどの危険性を有する行為であった。

予見可能性
終戦当時,原告らのような残留孤児の存在が認識されていたとすれば,中国に残された未成年者の自力での帰国が極めて困難であり,国が何らかの措置をとらなければそのまま中国に長期にわたり残留することになること,その残留が長期に及ぶほど日本で日本人らしく生きる能力や機会を喪失してゆくであろうことは,当然に予見し得る。したがって,被告は先行行為に起因する損害発生について遅くとも昭和21年(1946年)に予見し得た。
その他の具体的な予見可能性については以下のとおりである。

(a)主権回復時の予見可能性
いわゆる前期集団引揚げの終了後も中国に日本人孤児が多数取り
残されていたこと,孤児はほとんど日本語を忘れ,日本人と判別することが困難であったこと,中国人の家庭に入り奴隷的に酷使されるなど悲惨な状況に置かれている者がいたこと,帰国の希望はあっても本人の自由意思による帰国はほとんど不可能であったこと等は,当時の新聞報道や引揚者からの情報で明らかにされており,被告は,これらの事情を十分に知っていた。しかも,被告は,昭和27年(1952年)のサンフランシスコ平和条約の発効と同時に台湾政府との間で日本国と中華民国との間の平和条約(日華条約)を締結し,中国を国家として承認しないという政治選択をした。これにより,日中間に国交がなく両国国民が自由に往来できない状態が確定し,放置すれば孤児がいつまでも帰国できない状態が続くことが予見可能であった。
(b)後期集団引揚時の予見可能性
いわゆる後期集団引揚げの際にも,原告らは,肉親と離別した当
時,子供であり,日本語を忘れ,中国人養父母の家庭に深く入り込んで養育されていたのであるから,被告は,孤児の実情に配慮した特別の対策をとらなければ帰国できないことが十分予見可能であった。
(c)未帰還者名簿作成時の予見可能性
後期集団引揚げによって帰国した孤児は,昭和31年(1956
年)には1人もおらず,未帰還者名簿が作成された昭和32年(1957年)当時,同引揚げという方法を用意するだけでは孤児の帰国は不可能であることが予見可能であった。
(d)国交回復に至るまでの予見可能性
前記のとおり,被告は,後期集団引揚げに当たり,孤児の帰国に
関して何らその特殊性に配慮した特別の政策を持たなかった。その結果,孤児はほとんど帰国できなかったから,放置すれば孤児の帰国はほとんど実現しないことは決定的に明らかになっていた。しかも,被告は取り残された日本人が帰国への思いを抱きながら中国で生活していることを十分に認識していた。

結果回避可能性

(a)主権回復時の結果回避可能性サンフランシスコ平和条約による主権回復により,それまでGHQの管理下に置かれていた引揚援護業務は被告の自主的業務となり,停止されていた外交権能も復活した。したがって,この時点から,被告は,独立した立場で海外に残留する自国民の帰国援護政策を立案実行することが可能となった。
(b)後期集団引揚時の結果回避可能性
後期集団引揚げが中国側の提案で始まったことにも見られるよう
に,中国側は一貫して日本人の帰国に協力的であったし,民間3団体ルートが成立していたから,被告が孤児の帰国に対する特別の配慮を申し入れることは容易であった。
(c)未帰還者名簿作成時の結果回避可能性
中国側の協力的姿勢に変更はなく,未帰還者名簿に基づく孤児の
消息調査について中国側の協力を得られる可能性はあった。また,日中関係に配慮した要請をすること,孤児について特別の配慮をすること,要請を継続することも可能であった。
(d)国交回復に至るまでの結果回避可能性
中国政府は,日華条約が締結された昭和27年(1952年)か
ら,日本との友好関係を築くことで将来の国交正常化を目指すという基本的な対日政策を有しており,日本政府及び日本国民が望む限り,日本人の帰国問題に協力し,対話によって懸案事項を解決していくことは上記政策に合致していた。したがって,被告が,昭和34年(1959年)以降も残留孤児の早期帰国実現を徹底的に追求する施策をもって中国側に協力を要請すれば,中国側の協力を得られた可能性はあった。特に,池田隼人内閣時代には日中間に連絡調整ルートが確立されており,同ルートに残留孤児調査と帰国協力の要請を乗せることが可能であった。仮に,残留孤児の所在調査や帰国意思の確認等につき中国側の協力が得られない場合でも,被告が孤児の帰国を実現する政策を持ち,国内でできる限りの調査や帰国援助を尽くしていれば,昭和34年(1959年)から国交回復前の段階でも,個別引揚げの方法によって相当数の孤児の帰国が実現できた。
(e)国交回復後の結果回避可能性
被告と中国は,昭和47年(1972年)9月に国交を回復し,
正式な外交ルートができた。したがって,①被告は,国交回復後直ちに,中国政府に対し,外交ルートを通じて残留孤児に関する情報を提供し,その所在調査と肉親探し及び帰国実現のための協議を申し入れ,訪日調査を速やかに開始することが可能であった。すなわち,最も基本的な残留孤児の帰還ルートは,残留孤児が名乗りを上げ,中国政府がその氏名,身元,写真等の資料を日本政府に提供し,日本政府が当該残留孤児について調査をする方法であるところ,既に日中で正式な国交が樹立されたのであるから,日本政府が中国政府に対して把握している資料の提示を求めるとともに,広く中国国内に残留孤児が存在しないかという調査を求めることは十分可能であった。そして,次に必要な作業は,中国政府から提供された資料に基づき国内で親族を探すことであり,その作業で最も効果的なのは訪日調査であり,それを国交回復後直ちに着手することに何ら支障はなかった。
②また,被告は,国内においても,残留孤児や家族から殺到した身元調査依頼に関する情報を直ちに公開し,肉親探しを積極的に進めることが可能であった。すなわち,上記の帰還ルートのほかに日本国内の親族が残留孤児になっている肉親を求め,日本政府がその情報を中国政府に提供し,中国政府が中国国内において当該残留孤児を探すというものが考えられる。これは国交回復前から可能な事務であり,被告が収集した情報を中国政府に提供するという具体的措置を見据えれば,被告は,国交回復後はより切実かつ積極的にその事務を行うべきであり,国内において残留孤児の肉親を積極的に探し出すような事務を行い,その結果得られた情報を中国政府に提供することが可能であった。
③さらに,被告には,残留孤児が安心して帰国を決断することができるように中国の養父母の老後を保障したり,孤児たちの日本での受入環境を整備する義務があった。すなわち,残留孤児は,中国で戦後30年近く生活し,ほとんどの孤児が中国内に生活の基盤を有していたから,日本に帰還した場合,経済的にどのような生活が可能かについて不安を持つのが通常である。また,日本において日本語をしっかりと習得する環境,就業できる環境,住宅が整っているかなどについても不安を持っている。したがって,残留孤児の帰還希望を叶えることは必然的にそれらの諸条件を整備するとの義務が内包されている。また,残留孤児の具体的事情として,養父母に育てられた経緯から,養父母を置いて日本に帰還した場合に中国に残した養父母のことが心配で日本に帰還できないという心情を持つ者が多く,中国に残された養父母に対する手当も必要とされる。これらの措置は,専ら財政的,手続的な事柄であり,被告は,それらの事務を十分に行える人的,資金的資源を有しており,残留孤児の上記のような帰国の妨げとなる事情を除去することが可能であった。④そして,被告は,肉親が判明しない場合や,判明しても親族が帰国に同意しない場合であっても,孤児らの帰国に障害が生じないように,出入国管理行政上適切な措置をとることや,帰国旅費国庫負担制度の円滑な運用に努め,帰国を希望する者が直ちに帰国できる措置を講ずるべきであった。すなわち,残留孤児の中には既に日本に肉親が存在しない者も多く,存在しているとしても,事情があって残留孤児の帰還を望まない者が存在することも当然予想される。しかし,日本において肉親等の身元引受人がいないからといって残留孤児の帰還を妨げてはならない。なぜなら,残留孤児は日本に帰還するという自らの権利を有しており,それは身元引受人の存在,不存在に左右されないからである。これは被告の入国管理にかかわる手続的な事柄であり,立法化や通達,通告等により,残留孤児が円滑に日本に帰還できる措置をとること,あるいは残留孤児の帰還を阻害するような措置をとらないことは十分可能であった。

補足主張

(a)なお,前記のように先行行為の違法性は考慮しなくともよく,そもそも原告らは,被告の先行行為を違法とは指摘していない。
満州へ移民を送り出し,その受入れを行い,開拓民に保護の期待
を抱かせたのは,被告や関東軍である。そして,被告は,ソ連軍侵攻により開拓民が危機に陥った際,できる限り開拓民を祖国に帰還させなければならないとの作為義務を負った。本件における先行行為は,国家の存立のために必要であり,あるいは必要であるとして満州開拓民の移住を奨励し,その受入態勢を作り,その開拓民の安全は関東軍が保障すると宣言した,あるいはそのような期待を抱かせた行為である。
したがって,違法な先行行為の存在を前提とした被告の主張は失
当である。
(b)被告は,原告らの主張につき,原告らの作為義務の内実は既発生の法益侵害状態を回復するための原状回復義務であって,先行行為に基づき発生するとされる将来の損害発生防止のための結果回避義務ではないとまとめている。しかし,原告らが主張する被告の作為義務の対象は,義務発生時
点において将来発生することが予想された結果,すなわち原告らに生じる被害を事前に回避すべき厚生大臣及び外務大臣の具体的義務である。そして,原告らの場合に字義どおり原状の回復を求めることなどは不可能であるから,これらの義務の内容が,原告らが中国に置き去りにされたことによって被った被害について原状回復を求めるものではなく,原告らの人生の特定の時点以降の将来に生ずることが予想された損害の回避を内容とするものであることは明らかである。また,本件で原告らが主張している被害が,これまで原告らに実際に発生した損害のすべてを意味するものではない。
原告らは,現実に生じた被害すべてを救済の対象としていないし,被害の発生時点に遡って戦争被害一般について被告の賠償義務を論じているのではないから,原告らの主張を原状回復義務であるとする被告の主張は的外れである。

条理
被告の義務は,上記の個別具体的な根拠に基づくのみならず,それらの根底にある条理そのものによっても直接規定される。
被告は,国策として満州移民政策を策定し,戦争を遂行したものであって,原告らが置かれた境遇及び国に対する期待の正当性等の事情に鑑みた場合,原告らに対し,条理上も,原告らを探索し,早期に帰国を実現する方策をとる義務を負担していた。
なお,各法令施行時期以前については,条理や先行行為に基づく作為義務が被告の作為義務の根拠となる。

(2)義務違反の内容

具体的義務内容(ア)主体
上記根拠に基づき,原告らが帰国するための援助をすべき作為義務の具体的な主体は,厚生省設置法及び旧外務省設置法において被告の組織上帰還事務を行うべきとされた厚生大臣及び外務大臣である。
(イ)内容

中国との国交回復前
中国との国交回復前における被告の義務は,国際赤十字委員会,国際連合,連合軍等を通じて中国における原告らの所在調査を行い,帰国の機会を提供し,帰国を容易にするための財政やその他の措置を講ずるなどの総合的政策を立案し,実行する義務がその具体的内容である。


中国との国交回復後
国交回復後の被告の義務は,①直ちに外交ルートを通じて中国政府に対し,残留孤児に対する情報を提供し,その所在調査と肉親探し及び帰国実現のための協議を申し入れ,訪日調査を速やかに開始すべき義務,②国内において,孤児や家族から殺到した身元調査依頼に関する情報を直ちに公開し,肉親探しを積極的に進める義務,③孤児らが安心して帰国を決断することができるように中国の養父母の老後を保障したり,孤児らの日本での受入環境を整備する義務,④肉親が判明しない場合や,判明しても親族が帰国に同意しない場合でも,孤児らの帰国に障害が生じないように,出入国管理行政上適切な措置をとることや,帰国旅費国庫負担制度の円滑な運用に努め,帰国を希望する以上,直ちに帰国できる措置を講じるべき義務である。


義務違反行為

(ア)昭和33年(1958年)まで
被告には,以下の義務違反があった。すなわち,被告は,①ソ連参戦前及び参戦後終戦までの間,開拓団らに対して日本に帰還する準備を与えなかったどころか,故意に誤った情報を流して帰還の機会を与えず,②昭和20年(1945年)8月26日,外地在住内地人ノ人心安定策を在外公館に通達して,開拓民の日本への帰還を遅らせる措置をとり,同月31日,改めて開拓民を現地に残留する旨の決定をするなど,後記のように現地土着政策をとり,③開拓団らに対して十分な保護の施策をとらず,④終戦後昭和33年(1958年)までの間,専ら民間を通じた引揚げに頼り,十分な引揚政策をとろうとしなかった(これらの政策により残留邦人らは厳冬の旧満州で越冬せざるを得ず,33万人もの死者が出た。)。被告は,前期集団引揚中断後,満州を実効支配下に置いた中国共産党や中国政府と引揚げに関して何らかの交渉を自らあるいはGHQを通じて行うことはなく,主権回復後においては,民間3団体による後期集団引揚げを援護するどころかこれを妨害し,自ら帰国意思を表明し難い孤児の年齢層に配慮した調査,引揚げについての交渉を中国側と行わなかった。その結果,孤児の多くは後期集団引揚げに参加することができなかった。また,被告のジュネーブにおける中国政府との交渉は,交渉中に首相が大陸反攻支持発言を行ったり,調査困難である戦死者を多く含む名簿を,中国側が調査困難を表明しても執拗に突きつけるなど,日中関係への配慮を全く欠くものであった。しかも,中国側がこれに反発しつつも,生存日本人に関する調査は拒んでいないのに,被告は交渉を打ち切ってしまい,後期集団引揚げが長崎国旗事件で中断した後も,再開への努力を一切行わず,その後の中国側からの北京放送による再開呼びかけも無視した。その結果,大規模な引揚げは昭和47年(1972年)以降,国交回復に至るまで一切行われなかった。さらに,被告は,積極的な個人情報入手を行わず,個別の帰国援護にも積極的でなかった。(イ)特別措置法制定(昭和34年(1959年))から国交回復までの間について
被告は,当時の新聞による報道や昭和33年(1958年)の残留孤児に関する調査によって,中国に2万2187名の日本人が遺棄されていたことを認識していた。
それにもかかわらず,被告は,援護法に基づき支給されていた留守家族手当を打ち切るため,昭和33年(1958年)12月に留守家族の反発を抑える目的の未帰還者の特別一斉調査を行い,昭和34年(1959年)3月に特別措置法を成立させた。
しかも,戦時死亡宣告制度は,あくまで死亡を擬制するにすぎず,留守家族に対する手当の支給と未帰還者の調査究明は別個の問題であり,後者は国家の責務として解明に至るまで継続されるべきものであるから,被告は,同法成立後も,残留孤児が生存している可能性が高いことを重視し,消息調査と早期帰国実現のための施策を継続すべきであった。しかし,被告は,同法制定後は,残留孤児について専ら戦時死亡宣告の請求を行うだけで(同法により1万2000人余りについて戦時死亡宣告が行われ,その戸籍が抹消された。),戦時死亡宣告が確定した残留孤児については,死者とみなして何ら調査をしなかっただけではなく,家族の意思によって戦時死亡宣告がされなかった残留孤児についても,何らの措置もとらず,昭和34年(1959年)以降,すべての残留孤児を事実上死者として扱い,その生存を前提とする身元調査,所在場所の探索,帰国援助等の政策を放棄した。しかも,戦時死亡宣告制度は留守家族の意向を十分に尊重して行われず,原告X2,原告X29,原告X36及び原告X52を含む多数の孤児につき,被告による留守家族に対する強引な説得がされた。以上のように,被告の義務違反は,遅くとも昭和34年(1959年)の時点で明白に認められる。また,被告が前記の時点で消息調査及び帰国援護の施策を打ち切ったことは,国交回復後も消息調査や帰国実現のための施策がなかなか着手されず,訪日調査の開始までに9年間もの年月を要し,原告らの帰国が大幅に遅れた原因となった。
(ウ)国交回復以降

昭和47年(1972年)に国交回復後,被告は,中国政府と開通した正式の外交ルートを用いて,残留孤児の帰還に向けてしかるべき措置を講じるべきところ,その義務を十分に履践しなかった。
そもそも,被告は,国交回復から12年もの間,残留孤児の多数を占める戦時死亡宣告者を主要な調査及び帰国援護対象とはとらえず,従来からの未帰還者調査の延長としてしか調査活動を行っていなかった。しかも,身元判明後は,永住帰国は国が関与しない各人の問題という姿勢をとった。
かかる被告の姿勢は,実際に残留孤児が中国から訪問し,直接様々な資料を公開することで残留孤児も在日親族も自分の肉親であるとの判断をしやすい点,また,残留孤児が訪日することにより社会的関心が高まり,情報収集がされやすくなる点で身元調査において最も重要かつ効果的な調査であった訪日調査が,下記のとおり適切に行われなかったこと等に現れている。

(a)開始時期の遅れ
被告は,国交が回復した昭和47年(1972年)9月ころから
中国残留邦人の日本国内への通信が活発に行われ,残留孤児からの調査依頼が在北京日本国大使館,厚生省,都道府県等に多く寄せられたことにより,同月以降残留孤児の身元調査の必要性を認識していたにもかかわらず,第1回の訪日調査の実施時期は昭和56年
(1981年)3月と,国交回復後9年が経過しており,時機に後れている。訪日調査の開始時期の遅れは,残留孤児及び在日親族の高齢化を
招き,生きて親族に再会できなかったり,記憶の減退や身元解明の手がかり散逸等によって,身元解明が一層困難になるといった状況を生じさせ,原告らにその後の損害を生じさせる大きな要因となった。
(b)訪日調査の長期化
訪日調査は,昭和56年(1981年)3月から平成7年(19
95年)11月までの約15年間もかかり,長期化した。昭和56年(1981年)の時点で,残留孤児は少なくとも約3000人おり,残留孤児及び在日親族が高齢化して,記憶の減退,手がかり資料の散逸を免れない状態であったことからすれば,被告は1回当たりの訪日人員枠をできるだけ拡大し,より多くの残留孤児が早期に訪日調査に参加できるようにすべきであった。
(c)調査方法の不十分さ
訪日調査は,原則として被告や残留孤児が保有している資料に基
づく対面調査により行われたが,資料の散逸等があり,このような調査のやり方自体が調査方法として不十分であった。被告は,当事者の希望があれば直ちに科学的調査方法である血液鑑定やDNA鑑定を利用できるよう措置すべきだったにもかかわらず,昭和60年(1985年)度の予算において,血液鑑定料を20人分しか計上しないなど,科学的な調査方法の利用に消極的であり,漫然と原始的な調査方法をとり続けた。

その他,被告の保有資料による調査は十分にされておらず,また,公開調査は被告が行ったものとはいえない。さらに,訪中調査,キャラバン調査,訪日対面調査等の調査により身元が判明した残留孤児の数は少なく,被告は,粗雑な調査しか行わなかった。c
また,被告が積極的に日本における肉親に対して情報提供を呼びかけていたとは評価できない。


被告は,残留孤児の多くが,日本帰還に当たり,中国に残す養父母の今後の生活を心配していることを十分に理解し得る立場にあったが,その点について何ら措置を講じていない。

(エ)帰国妨害行為等

被告は,満州に残留する日本人の帰国に積極的でなかったばかりか,以下のとおり,それを阻害するような行動をとった。
すなわち,被告は①外務大臣が昭和20年(1945年)8月14日,居留民に対する措置として居留民ハ出来得ル限リ定着ノ方針ヲ執ルとの訓令を在外公館に発し,②前記のとおり,同月26日の外地在住内地ノ人心安定策を在外公館へ通達し,③在満州大使は,同月30日,電報で在留邦人の流民化と死者続出の見通しを伝え,婦女子病人ヲ先ニシ帰國ヲ要スル者(推定約八〇万人)ヲ能フ限リ速カニ内地送還することを政府に懇願したが,政府は方針を変更せず,同月31日,改めて過去統治ノ成果ニ顧ミ将来ニ稽ヘ出来得ル限リ現地ニ於テ共存親和ノ實ヲ擧クヘク忍苦努力スルヲ以テ第一義タラシムルことを政府決定とし,④実業家であった高碕達之助は,昭和20年(1945年)9月22日,中国残留邦人の状況を踏まえ日本政府の方針は不可能である旨の密書を日本政府に送り,同密書は同年10月10日に日本政府に到着したが,日本政府は何ら対応をせず,⑤次官会議決定である海外部隊並に海外邦人帰還に関する件において,同年9月24日,在留邦人の現地定着方針を確認するなどした。

被告は,残留孤児の帰国に関する出入国管理行政上の措置や,帰国旅費国庫負担制度について,以下のとおりの政策や措置をとり,極めて不当な帰国妨害行為を行った。(a)日中国交回復前において,残留孤児の日本帰還に際してその国籍が問題となることはなく,原告らは日本人として自由に日本に帰還していた。
しかし,厚生省は,昭和35年(1960年)10月25日厚生
省援護局通知中共地域からの個別引揚手続等についてを出した。
同通知により,個別引揚者の日本帰国は,日本国籍を有する残留孤児の留守家族が残留孤児の帰国を要請し,被告は留守家族に帰(入)国に関する証明書を送付し,留守家族が残留孤児に同証明書を送付し,残留孤児は同証明書を添付して中共政府に対して出国証明書(外僑出境証)の発行を申請し,残留孤児は同出国証明書を提示して日本に帰還するという手順を踏むこととされた。その結果,身元未判明の残留孤児は,帰(入)国に関する証明書の発行を求めるすべがなく,実質上帰国の途が閉ざされることとなった。
(b)厚生省は,昭和48年(1973年)10月6日援護局庶務課長通知中国からの引揚手続きについてを出した。同通知は,従来
の法務省発給の証明書をやめ,日本国籍を有する者に対しては
在中国大使館で帰国のための渡航書を発給し,中国国籍を有す
る者は中国旅券に査証をすることとした。これにより引揚者で日本国籍を有する者は,大使館に帰国のための渡航書発給申請書を送付し,戸籍謄本等を添付することとしたが,引揚同伴者の中国国籍を有する者には,留守家族の身元保証が必要とされることとなった。また,元日本人で中国国籍を有する者に対して,大使館で中国旅券に査証し,除籍謄本と身元保証を要求した。したがって,同通知により,残留孤児の日本への引揚げは入管法上の入国手続へと変化し,帰還が著しく困難になった。(c)さらに,被告は,昭和50年(1975年)11月22日付けの法務省通知を行い,この通知により,中国旅券を所持して帰還した残留孤児は,外国人として取り扱われ,外国人登録申請を余儀なくされた。
被告は,昭和57年(1982年),同通知の取扱いを変更する
通知を行ったが,同通知でも,残留孤児を原則として外国人として扱うことは同じで,単に外国人登録申請の期限を外国人登録法3条3項に則って60日に限り延長して差し支えないとするにすぎないものであった。
以上の2つの通知は,中国旅券を所持して帰国する者が圧倒的に
多い残留孤児に対して,身元保証人を要求するもので,多くの残留孤児の帰還を妨げた。そして,身元保証人を何とか確保して日本に帰還した残留孤児に,外国人登録を事実上強制するものであった。(d)被告は,昭和60年(1985年),身元未判明のため身元保証人がいない残留孤児のために,身元引受人制度を導入し,同制度は,昭和61年(1986年)10月15日から実施された。その時点で既に日中国交回復から10年以上もの期間が経過していた。
しかし,この制度は身元未判明の残留孤児は同制度を利用できた
が,身元が判明していながら,身元保証人がいない残留孤児は同制度を利用できず,身元が判明すると帰国できないという新たな矛盾を生み出した。この措置は被告の義務違反と評価されるべきである。(e)平成元年(1989年)に至って,身元未判明孤児にも特別身元引受人制度が導入されたが,被告はその制度の適用に消極的で,広報も不十分であったため,同制度はほとんど利用されない状況であった。
被告が特別身元引受人あっせんを迅速化する措置をとったのは平成5年(1993年)であり,既に国交回復から20年以上経過していた。
(f)被告は,平成6年(1994年)10月1日に自立支援法が施行されたことに伴い,これまでの制度を廃止し,身元未判明孤児に対する身元引受人制度,身元判明孤児に対する特別身元引受人制度を一本化した。このように,残留孤児の帰国手続のうち,身元保証
(身元引受)に関して一応の制度が整ったのは,平成7年であった。(g)帰国旅費については,日本と中国の経済格差から,帰国旅費援護は帰国に必要不可欠なものであるところ,被告の施策により帰国旅費を受け得る者は限定され,支給要件に該当する者がいたとしても,申請できることすら知らない者が大半であり,手続も困難であったから,原告らが実際に旅費を受給することは不可能であり,残留孤児は事実上帰国が実現できなくなった。

補足主張

(ア)行政の不作為が,原告らに憲法上その他の実定法上及び先行行為に基づく作為義務から保障されている早期に祖国に帰国する措置を求める権利を侵害していることが明白で,その権利侵害を解消するための措置をとるために所要の政策を立案,実行することが不可欠であり,それが明白であるにもかかわらず,厚生大臣その他の担当部局が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合は国賠法上の違法の評価がされる。特に先行行為に基づく作為義務を根拠とする観点からすれば,被告は,昭和19年(1944年)末から昭和20年(1945年)8月9日に至るまで,国策として自らの手で送り出し,当時の日本の存立を支えていたともいえる満州残留の移民(開拓団の居留民達)に対し,その生命,身体,財産等に重大な危機が迫り,その危機を回避し得る施策(避難勧告あるいは避難準備態勢の確立)を実施し得たにもかかわらず,あえてそれらの施策を行わず,移民にあたかも満州の防衛に問題がないかのような幻影を抱かしめ,避難させる機会を失わせ,またその妨害を行った。すなわち,①昭和20年(1945年)2月,ヨーロッパ戦線からソ連東部へのソ連軍の兵力増強の事実の確認時,②同年4月5日の日ソ中立条約不延長通告時,③同年5月7日のドイツ敗戦時,④同年5月30日の大本営が関東軍に対して満鮮方面対ソ作戦計画要綱を与えた時などの移民の避難を決断すべき時点があったが,被告は,これらの時点において,移民の安全を図るための施策を1つとして行わず,同年6月から同年7月の根こそぎ動員や同年8月になっても移民を満州各地に送るという移民の生命,身体に迫った危険を拡大させる施策を行った。
被告は,このように移民に対して非人道的な背信行為を行ったのであるから,終戦後は可及的速やかに,最大限のあらゆる手段を用いて,満州に残された日本人を引き揚げさせるべき義務があった(このように終戦後の被告の引揚義務はかなり加重されたものとなる。)。
(イ)被告は,被告が被害発生の危険を生ぜしめたものではないと主張する。しかし,日本政府及び関東軍は,昭和19年(1944年)末から昭和20年(1945年)初頭にかけて,既にソ連軍の満州侵攻の可能性が高いことを認識しており,関東軍は,国境地帯の居留民の引揚げに反対し,その避難の時期を失わせた。これは,情勢分析の甘さによって居留民の避難の機会を失わせたとの意味を有するのみではなく,故意で居留民を放置したに等しい。
また,彼我の戦力比から,既に昭和19年(1944年)末には,関東軍が敗残し,居留民保護を期待するのは無理であることは明らかになっており,そのころから,あるいは昭和20年(1945年)初頭からの居留民避難が行われてしかるべきであったが,日本政府及び関東軍は,情報漏れを防ぐなどの理由で居留民への情報提供も避難指示も行わなかったのであり,そのことによって生じた責任を帰せられる。したがって,ソ連軍の暴行略奪等による被害の拡大は存在したとしても,それ以前の日本政府及び関東軍の責任は,免れ得るものではない。3
自立支援義務違反の存否(争点3)

(1)

法的根拠

憲法上の義務

(ア)憲法13条
原告らを含む多くの残留孤児は,日本語を話せず,日本語を解する残留孤児も日本の文化,風習に習熟していないばかりか,日本で生活するすべもない。被告が残留孤児に対して日本で自立するための必要な施策をとらなければ,残留孤児の個人の尊厳は回復されず,幸福追求権は実現できない。憲法13条は,残留孤児が日本人として自立するための施策を国に義務付けている具体的規範である。
(イ)憲法25条
原告らが日本において自立した生活をすることこそが健康で文化的な最低限度の生活をする基盤となり,帰国後の原告らに対して自立支援すべきことは憲法25条の要請である。
同条は単に経済的給付を行う救貧施策(同条1項)や防貧施策(同条2項)のみを意味するのではなく,健康で文化的な最低限度の生活をすることを保障しているのであり,その射程範囲は広く,原告らのような残留孤児に対して国が自立支援をすべき根拠規定となる。
(ウ)憲法26条
原告らは,日本語を十分に解さないまま日本に帰還したため,日本語を習得する教育を受ける必要があるが,それは憲法26条により保障された権利である。
すなわち,原告らは,自らの責任と意思によらず,学齢期において本来当然受けるべきであった日本人としての最低限度の教育を受ける機会を失ったが,その最大の原因は被告の行為にあるから,憲法26条により本来原告らの日本人として学習する機会を充足すべき責務を有していた被告は,改めて,原告らの帰国後にその責務を果たすべき義務がある。イ
自立支援法の制定
自立支援法4条等には,被告の自立支援義務の存在が規定されており,被告の自立支援義務の存在が明確になった。


先行行為に基づく作為義務

(ア)自立支援法施行前
前記のとおり,本件は,被告の行為をその発端とする作為起因性の不作為の事案であり,①先行行為,②予見可能性,③結果回避可能性が認められ,被告は,先行行為に基づく作為義務に違反している。

先行行為
被告は,遅くとも昭和34年(1959年)までに原告らを日本に帰還させるべき義務が発生していたにもかかわらず,これを怠ってきた。このような被告による帰還事務懈怠は,原告らが帰国後に国籍国たる日本で社会的に自立することができず,日本人として日本人らしく生きる能力や機会を喪失していく危険性を有する先行行為である。帰還事務懈怠の具体的内容は以下のとおりである。なお,帰還事務懈怠は,被告が原告らに対し行うべきであった原告らを帰還させるための措置を行わなかったという不作為のほか,被告が行った原告らの帰還を遅らせる措置(作為)全般をも含むものである。すなわち,帰還事務懈怠とは作為,不作為を問わず,原告らの帰還を阻害ないし遅延させることとなった一切の行為を意味する。

(a)昭和33年(1958年)まで
①ソ連参戦前及び参戦後終戦までの間,被告が移民(開拓団の居留民達)に対して故意に誤った情報を流して日本に帰還する機会を与えず,移民に対して十分な保護の施策をとらなかったこと,②昭和20年(1945年)8月26日,外地在住内地人ノ人心安定策として在外公館に通達をし,移民の日本への帰還を遅らせる措置をとり,同月31日,改めて移民に対し現地に残留する旨の政府決定をしたこと,③昭和33年(1958年)までの間,専ら民間を通じた引揚げに頼り,十分な引揚政策をとろうとしなかったこと(b)昭和34年(1959年)
昭和34年(1959年)3月3日,未だ多くの日本人が中国に
残留していることを認識しながら,特別措置法を立法し,すべての残留孤児を事実上の死者として扱い,その生存を前提とする身元調査,所在場所の探索,帰国援助等の政策を一切放棄したこと
(c)昭和34年(1959年)以降
①特別措置法制定以後,一切の帰還事務を放棄したこと,②昭和50年(1975年)11月22日,入管局が,中国帰国者の入国に関しては,原則として外国人として扱うとの通達を出し,また,これ以降も不合理な制度を導入するなど,帰国制限という阻害行為ともいうべき政策を継続したこと

予見可能性
被告は,昭和21年(1946年)から開始された前期集団引揚げによる帰国者からの情報によって,残留孤児の置かれている状況について認識でき,残留期間が長期に及ぶほど帰国後に日本で日本人らしく生きていくのに必要な支援がより高度なものとなることも容易に想像がつき,先行行為に起因する損害発生を遅くとも昭和21年(1946年)に予見し得た。また,終戦後,期間が経過することにより,日本へ帰国する残留孤児が増加するに従って,残留孤児の置かれた状況も,国会,マスコミ,各種要望,各種調査等でより詳細に明らかになっていったのであるから,被告は,各種調査等の時点において,原告らに発生している損害について,具体的に認識していたか,少なくとも予見し得た。

結果回避可能性
日本社会への適応ができない状況下に置かれた残留孤児の損害発生を回避するためには,(ⅰ)十分なコミュニケーション能力,機会の確保や,(ⅱ)自己の能力と志望に応じた職業を選択できる状況の確保,(ⅲ)生活支援,年金政策等により残留孤児が社会的自立を実現するのに必要最低限の所得を保障する施策の実現,(ⅳ)家族の分断を回避するための措置を講じること,(ⅴ)精神的ケアを図り日本社会との交流を図る措置を講じること等を,総合的施策の観点から行うことが必要であった。しかも,前記のとおり,被告は原告らに発生している損害について具体的に認識していたか,少なくとも予見し得たうえ,残留孤児に対する自立支援の問題は,あくまでも国内における問題であり,被告の関与が及ばないような外交上の障害はなかったから,被告が支援をする気さえあれば,原告らに対する必要な施策の実現は極めて容易であった。

(イ)自立支援法施行後
日中国交回復から22年経過後の平成6年(1994年)10月1日に自立支援法が施行されたが,これまでの間,原告らに対する被告の自立支援の懈怠が継続し,また,年金制度を享受できた他の日本人との不平等状態が拡大し,残留孤児が日本での生活基盤を築けない事実が明白となって国による支援以外に頼ることができなくなるなど,自助努力の一層の期待ができない状況となり,それにもかかわらず被告は残留孤児の悲惨な生活状況を意図的に放置してきたなどの事情が生じたから,被告による原告らに対する自立支援義務の内容はさらに高度化した。また,自立支援法の制定は,被告が原告らに対する自立支援の必要性を確定的に認識し,それを宣言したものと評価することができ,同法の制定及び施行という事実から,被告が原告らの置かれた状況や原告らの損害の内容等について十分認識していたことが明らかである。
(2)

義務違反の存否


具体的義務内容

(ア)主体
主体は被告であるが,具体的には,国民の生活に関連した政策を実現すべき厚生大臣あるいは厚生労働大臣である。
(イ)内容
①残留孤児は,日本語が全く解せないか,不十分にしか解せず,②残留孤児の多くは中高年であり,これまで属していた地域的コミュニティーから離脱しており,日本において就業するすべがなく,③経済的環境が劣悪であり,④原告らは,中国で幼くして父母と離別させられ,そのまま取り残され,中国人養父母によって養育され,普通の日本人として人間らしく生きることができず,自己の人生を中国人として生きざるを得ず,日本に帰還しても周囲から中国人であるという見方をされることが多く,精神的ダメージを感じているという状況に鑑みると,被告の具体的義務は以下のとおりである。

日本語,日本文化の教育及び通訳支援
被告は,原告らが居住する地域や職場において円滑な社会生活が可能になる程度(最低限義務教育終了レベル)まで日本語を習得させるための物的,人的な援助を行い,財政措置をとる義務があり,その中で長期間中国で生活してきた原告らに対して就業に必要な社会的ルールや生活習慣等を学ぶ機会を保障する義務がある。同時に,原告らが日本語を理解できないハンディキャップを補うための制度,とりわけ病院や役所に同行する通訳を確保するなど,原告らをサポートするための体制を作る施策を講じる義務がある。

職業訓練及び就職のあっせん
原告らの最終的な自立のためには職を持ち,収入を得ることが必要であり,被告には,原告らに対して就職先のあっせん,残留孤児を就業させる事業所に適当な優遇措置を与えて就業を促進するための措置をとること,その他原告らの就業を被告の責任で確保し,仕事を継続するための支援措置を講ずる義務がある。


自立支援金
原告らが自立して生活するまで相当の時間を要するので,被告は,原告らに対して必要な自立支援金を給付する義務がある。


年金等の保障
高齢化した原告らが,日本社会において生活していくための基盤を確保し,自己実現の機会を保障され,日本人としてのアイデンティティを確立するため,被告には,原告らに対し,生活保護法による扶助とは異なる特別な措置をとり,そのための財政的措置を講ずる義務がある。


家族の分断を回避するための措置
被告には,原告らがその家族と日本で生活することを望む場合,家族の日本への呼び寄せ又は家族が日本で永住するために必要な費用及び国籍の取得等の援助をする措置を講じる義務がある。これは,原告らが日本社会において人間らしく生活し,真の意味で自立を果たすためには家族の支えが不可欠であることから生じる義務である。


精神的ケアを図り日本社会との交流を図る措置
原告らは,帰国後周囲から日本人として見られず,付き合いの狭い,不自由な環境での生活を余儀なくされている。したがって,被告は,原告らの相談に応じ,助言を行い,日本人として社会生活を営むために必要な事柄について,精神的ケアを行う義務がある。

義務違反

(ア)作為容易性
以下のように,上記作為義務を実現することは容易である。

日本語教育の学習機会の提供は,その方法と内容において困難な要素は考えられない。


就職のあっせん,自立支援金の支給,年金の優遇措置については,拉致被害者支援法が制定され,同法により拉致被害者に対して自立支援及び生活基盤の再建,構築のために給付金が支給されること,国民年金の特例措置がとられていること等の保護が行われていることに鑑みれば,原告らに対しても少なくとも同程度の保障をすることは容易である。


精神的ケアについては,原告らの悩みに迅速に対応するシステムを作ることが行政当局が通常行っている業務に比較して特別に困難な点は認められない。

(イ)義務違反行為

上記のように作為義務の実現は容易であるにもかかわらず,被告はこれらの義務に反し,①日本語教育に関し,原告らに日本語を十分に習得させるための施策を行わず(残留孤児の現状からすれば,被告の日本語教育に関する施策が不十分であることは明らかである。),②必要な自立支援金を給付せず,③必要な就職あっせん措置を講じず,④必要な年金支給についての措置を十分に講ぜず,⑤十分な精神的ケアを行わなかった。具体的には以下のとおりである。
(a)日本語習得支援や通訳確保により,十分なコミュニケーション能力,機会を確保するための施策がされていないこと
被告は,昭和51年(1976年)まで残留孤児に対して何ら措
置をとらず,定着促進センター開設以前に帰国した208世帯についてはカセットテープ等を支給したのみで放置した。定着促進センターが昭和59年(1984年)に開設されたが,年間数百世帯の残留孤児の帰国が継続していたにもかかわらず,昭和62年(1987年)まで同センターは全国でわずか1か所のみであった。自立研修センター設立までの間に帰国した522世帯については,わずか4か月間の教育しか受けさせなかった。
また,被告は,昭和63年(1988年)に自立研修センターを
設立し,同センターにおいて8か月間の日本語教育を実施するようになったが,時間的,地理的制約から,現実に通所できる者は稀であった。さらに,帰国2年目以降の残留孤児に対する日本語再教育も平成8年(1996年)まで行われず,2年間の期間制限が設けられていた。
自立研修センターにおける諸施策についても,被告は,制度の改
善点等について照会を行うこともなく,同センターからの要望に対して回答しないなど,問題点の改善がされることはなかった。また,定着促進センター及び自立研修センターの両者を通じた一貫した教育カリキュラムは用意されていなかったし,自立研修センターでは,学習者の格差を無視して同一クラスに編成しているため,孤児の日本語習得レベルに応じたきめ細やかな教育がされておらず,教材も孤児の日本語能力と乖離したものを利用していた。また,講師の中には,中国語のできない者もいた。さらに,十分なコミュニケーション能力を有しない残留孤児は,専ら自立指導員及び自立支援通訳のみに頼る状況であったが,これらの者の中国語能力が担保されていたわけではなく,残留孤児にとって頼れる存在ではなかった。
(b)自己の能力と志望に応じた職業の選択を可能とする施策がされていないこと
被告が行ったのは,定着促進センターや自立研修センターにおけ
る個別相談やオリエンテーション,公共職業安定所の見学,職業転換給付や特定求職者雇用開発助成金の支給等であるが,雇用対策法中の職業転換給付は,求職者一般に対する支援であって,残留孤児の状態を踏まえて制定されたものではないし,相談や施設見学,公共職業安定所や企業への引率等は,公共職業安定所における一般的な職業紹介と大差はなく,これらは,残留孤児に対する支援といえない。残留孤児は幼少時から数十年間中国社会で生活し,中国社会で通用していた技能や資格を有し,また,ほとんどの孤児は日本語を全く理解できない状態で帰国しているから,これらの特殊性を踏まえた就労支援が講じられるべきである。
(c)最低限の所得を保障する支援といえるようなものはないこと被告は,自立支度金(帰還手当)の支給や国民年金の支給を行っ
たが,自立支度金は,終戦直後の引揚援護施策の延長線上のものであり,残留孤児の特殊性を考慮した制度ではなく,国民年金についても,支給開始は平成8年(1996年)まで遅れたうえ,支給額は保険料を納付した場合の3分の1,月額2万円余りにすぎなかった。しかも,生活保護を受給した場合には,その年金支給額の3分の1相当額が生活保護費から差し引かれるため,生活保護受給者にとっては全く無意味であった。なお,拉致被害者支援法11条では,拉致被害者に対しては保険料の追納不要で年金が満額支給されている。
(d)家族の分断を回避する施策がされていないこと
被告は,当初,帰国費用の援助対象を残留孤児本人以外では配偶
者と未成年の子のみに限定していた。
また,被告の主張する支援策は,そのほとんどすべてが残留孤児
本人と同伴帰国者(被告のいう中国帰国者)だけが対象とされていた。
加えて,被告が日本で残留孤児を受け入れる側の親族らに対する
説明を怠ったため,親族らの数多くの誤解を招き,その結果,当該親族らは身元保証人になることを敬遠したり,帰国後の良好な関係を築けないなど,残留孤児が孤立する一因となった。
さらに,生活保護以外の制度を創設しなかったことにより,生活
保護を受給している原告は,中国の養父母に会いに行くための旅費を得られず,養父母と隔離されることとなった。
(e)精神的ケアを図り,日本社会との交流を図る施策がされていないこと
被告は,この観点では,何らの方策を行っていない。
むしろ,身元引受人をあっせんされた残留孤児に身元引受人の近
隣に居住することを義務付け,日本における定着地を強制し,かえって残留孤児の自立を阻害したばかりか,地域社会との交流のための方策もとらなかったため,残留孤児は日本の地域社会からも孤立することとなった。
b(a)自立支援策の根本的問題としては,①残留孤児の引揚げが終戦直後の引揚援護の延長と考えられていること,②各種政策導入の大幅な遅れ,③総合的取組の欠如,④制度さえ作ればよいとしたこと,⑤専ら経済的側面から見た自立を目標としたこと,⑥高齢化した残留孤児を生活保護に閉じこめたこと,⑦援護対象を基本的に残留孤児に限定していることがある。
(b)残留孤児は,日本社会で生きていく上でいわば社会的な障害を持っていると評価できるところ,拉致被害者支援法等による支援策,インドシナ難民支援策,障害者基本法等による施策の対象者と残留孤児の根本的違いは,前者の対象者が特別な施策の対象とされる理由がいずれも被告とは別の原因によってもたらされたものであるのに対し,残留孤児については,孤児を生み出した原因が被告の行為によるという点であり,したがって,残留孤児に対する施策は,上記各施策と比較して同等もしくはそれ以上に手厚いものでなければならない。
(ウ)自立支援策の破綻原因
原告らを含む残留孤児の状況は,生活保護受給率が高く,就労状況,日本語習得状況が悪い。このように,被告の自立支援策は破綻しているが,その原因は,残留孤児の帰国が大幅に遅れたこと,残留孤児問題を残留孤児とその家族が自助努力で解決すべき問題と位置づけ,総合的支援策を立てず,援護の対象を本人,配偶者,未成年の子に限定し,残留孤児の自立を生活保護からの脱却,すなわち形だけの経済的自立のみに重点を置いたことにある。

裁量権の濫用,逸脱

(ア)本件は作為起因性の不作為事案であり,原告らの被害は,日本で生活する基盤と能力を喪失させられるという他の戦争被害者にみられない特異性を有し,これを回復するには,原告らのみの努力ではどうにもならないのであって,本件において行政裁量に配慮しなければならない事情は全くない。被告は,補償措置の要否やあり方について,立法府ないし行政府の広範な裁量判断に委ねられているなどと主張するが,原告らの損害は,被告が早期に原告らを日本に帰還させなかったという重大な違法行為によってもたらされ,しかも,どの程度の侵害状態にあるのかは,他の日本人と比較することによって容易に認識し得るものであり,いかなる程度までに回復すべきかというあるべき結論は明らかである。したがって,侵害者が被侵害者の侵害をどの程度までに回復すべきかという点についての裁量権が認められるというのは自己矛盾である。
(イ)仮に,行政裁量に配慮しなければならないとしても,裁量逸脱の有無は,厳格な基準によって判断されるべきである。
そして,本件と異なる規制権限不行使の場合ですら,具体的事情の下において,その不行使が許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認められるときは,その不行使により被害を受けた者との関連において違法となるとされているのであるから,本件のような作為起因性の不作為事案では,行政裁量の範囲を判断するに当たっては,上記の場合以上に厳格な基準で判断すべきである。
自立支援法は,制定時において原告らの自立が不十分であり,かつ,原告らの自立に対する被告からの十分な支援がされていないという事実を前提として制定されたもので,同法施行時においても原告らは社会的自立を果たしていなかった。したがって,同法に基づく適切な権限行使というためには,原告らが国籍国たる日本で社会的に自立し,日本人として日本人らしく生きていくことを実現するために孤児の適用状況に応じた様々な支援を継続的に行うことが必要であったというべきであり,これが行われていなかったのであれば,許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠く。
被告は,継続的支援の観点を欠落させたその場しのぎの施策しか行わず,各施策の実効性も検証せずに漫然と従前の不十分な施策を続けたため,孤児の自立実現への効果は極めて薄かった。
したがって,被告の対応は,許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くから,これにより被害を受けた原告らとの関連において,違法となる。
4
損害(争点4)
原告らが被った損害等は以下のとおりである。
(1)被害の本質,特徴
原告らの被害の本質は,日本人として生まれながら普通の日本人が当然に享受する日本人として当たり前の生活を,その生活史から数十年という長期間奪われ,現在も奪われ続けている点にある。
そして,原告らの被害の特徴は以下の点にある。
まず,原告らの被害は,異国の,かつ,戦争状態にあった中国の地でその意に反して肉親と離別させられたことを原点としたものであること,その被害が帰国の遅れと被告による貧弱な施策により拡大,深刻化され現在も継続中であること,このようにして原告らがいずれも被告によって普通の日本人として人間らしく生きる権利を侵害され続けたことにおいて共通性を有する。また,原告らの被害は,終戦前後においてその意に反して,中国に残されたことを原点とし,その後被告の違法な不作為の継続によって累積拡大していったもので,被告による帰国政策の遅れは,必然的に原告らに日本語及び日本文化習得の困難性という問題を発生させ,それは就職の著しい困難及び著しい低収入等の問題につながっている。そして,被告は,原告らの状況を配慮せず,これを配慮しない年金施策は全く改善されず放置され,その結果,残留孤児の多くは現在生活保護を受給しており,今後その数は増大することが予想されている。このように原告らの被害は,帰国後においても累積,継続し,現在も拡大し続けているという累積性,現在性,拡大性を有する。さらに,原告らの被害は,戦後約58年間に及ぶ長期間にわたるもので,原告らの望郷の念,肉親との再会を望む思いは長年にわたり踏みにじられ,養父母を中核とする中国での人間関係からは遠ざかり,母語である日本語もできないまま日本人の友人もできず,日本での人間関係の形成もままならず,日本社会からは外国人と見られて差別され,日本社会の片隅で孤立した生活を強いられている。このように,原告らの被害は,原告らの人間性と尊厳が踏みにじられたという性格を有し,人間性の根源にかかわる全人格的なものであるという包括性,全面性という特徴を有する。
(2)具体的損害

原告らは,①家族の絆を引き裂かれる(これは幼少時における別離にとどまらず,長らく異国の地で生死不明のまま経過したことにより再会後も肉親の情が湧かないという形でも現れる。),②暴力,飢えにさらされる,③養父母より虐待を受ける,④教育を受けられない,⑤日本の経済発展を享受できず,日本では考えられない非文化的,極貧の生活を送る,⑥日本人であるためいじめを受ける,⑦日本人であるため様々な差別,迫害を受ける,又はそれらを回避するための不自由,⑧帰国できない,また,帰国するために犠牲を払う,⑨日本語が話せない,そのためあらゆる社会生活に困難を来たし,疎外される,⑩十分な年金を得られず,老後は生活保護に追い込まれるといった被害を受けた。
そして,原告らは,日本人としての言語,文化を身につけるという日本社会において幸福を追求するのに不可欠な能力を身につける機会を失い(憲法13条,26条),親の庇護の下に生育する権利(世界人権宣言25条,児童の権利条約7ないし11条参照)を侵害された。また,日本人である個人として尊重される権利(憲法13条)を侵害され,参政権の行使(憲法15条)は不可能であったし,日本国民の水準としての健康で文化的な最低限度の生活を送ること(憲法25条)もできなかった。原告らが日本人である自分を誇りとすることができ,日本人として幸福を追求でき,民族差別を受けずに暮らせる(憲法14条)と考えた社会である日本社会に参加する前提となる権利,すなわち帰国の権利(憲法22条2項)は,長年にわたり侵害された。
さらに,帰国を実現した原告らは,日本社会参加に必要な能力を有していなかった,すなわち,日本社会への参加に必要な日本語力,教養,文化や,生活の基盤を欠いていた。しかし,その能力を補充する機会も与えられずに放置されたため,日本社会に参加することができない状況が続いているのであり,幸福追求権の侵害は,継続,蓄積している。

その他,原告らの個別の損害に関する主張は,別紙4(個人表)記載のとおりである。

(3)損害額の評価

包括一律請求
原告らの被った被害は,一人一人異なる内容を含むものであるが,幼くして中国の地に実親と離別して取り残され,中国において成長し,日本人であるがゆえの幾多の辛酸を嘗め,帰国後も被告の十分な援助を受けられないために様々な苦悩を背負わされてきたという共通性を有している。そして,これら被害により原告らの被った精神的損害は,幼少時から継続,累積し,終戦後58年を経過した現在もなお拡大を続けており,また,その損害は人間らしく生きる権利を長年にわたって踏みにじられたという意味において,精神的,社会的,経済的損害の総体を包括する全人格的なものである。


慰謝料

(ア)被告は,原告らが普通の日本人として人間らしく生きることという人間の基本的権利を長い年月にわたり蹂躙し続けており,被告の違法性及び責任は重大であり,また,原告らは,被告により普通の日本人として人間らしく生きることを長年にわたり侵害され続け,原告らは幼少時代から現在まで筆舌に尽くしがたい精神的苦痛を被り続けてきた。
以上に鑑みれば,原告らの精神的損害は金銭で償えるものではないが,あえて金銭的に評価すれば,いずれの原告においても,3000万円を下回らない。
(イ)被告は,原告ら全員の共通被害があるか疑わしい旨主張するが,上記のような権利侵害を受けてきた者は日本国内で生活してきた者の中には見当たらず,原告らは明らかに普通の日本人とは異なる人生を送ってきており,上記の権利侵害を受けていない原告は存在しない。確かに,必ずしもすべての種類の権利侵害をすべての原告が受けたわけではないが,本件訴訟では,その権利侵害の程度が最小の者であっても,その損害額は3000万円を下らない。

弁護士費用
また,原告らは本訴の提起及び遂行を原告ら訴訟代理人弁護士に委任したので,前記損害額の10パーセントに相当する300万円の弁護士費用については相当因果関係のある損害である。

5
戦争損害論について(争点5)
被告は,いわゆる戦争損害論について主張する。しかし,原告らの損害は,被告が行った満州への移民政策に端を発する,被告の行為に基づく特別な損害であり,空襲にあったなどの戦争によって発生する一般的な被害ではない。また,原告らが請求の根拠とする被告の行為は,昭和34年(1959年)から現在に至るまでの被告の作為及び不作為をいうのであって,戦争により原告らが被った被害一般の補償を求めているわけではない。原告らの請求する損害は,戦争によって国民が被った損害ではなく,被告の植民政策によって特殊な立場に置かれた国民である原告らが被告の行為により後年に被った新たな損害であり,戦争被害一般論に解消されるべき問題ではない。6

国家無答責の法理について(争点6)
被告は,国家無答責の法理の主張をする。しかし,以下のとおり,同法理の適用は,問題とならない。
国賠法附則6項の行為とは,同法1条1項の違法行為を指すのが最も自然な文理解釈である。原告らが主張する国賠法上の違法行為は,すべて国賠法施行後である昭和34年(1959年)以降の行為に限られている(原告らは国賠法施行前の行為を違法行為と主張していない。)。したがって,国賠法附則6項の適用が問題となる余地はなく,国家無答責の法理の適用が問題となる余地もない。
また,国民主権及び基本的人権の尊重を基本原理とし,憲法13条において個人の尊厳を規定し,これを受けて憲法17条において国民の国家賠償請求権を基本的人権として保障している憲法下においては,国家無答責の法理は,これらの基本原理及び規定に著しく反し,合理性,正当性を有さない。そして,憲法が国の最高法規(憲法98条)である以上,いかなる法令といえども,憲法の趣旨に反する解釈は許されず,国家無答責の法理が憲法の基本原理たる基本的人権の尊重に照らし,合理性,正当性がない以上,国家無答責の法理を現行の法令である国賠法附則6項の趣旨に含まれると考えることは憲法の趣旨に反する解釈であり,許されない。

7
除斥期間の経過について(争点7)
被告は,除斥期間の経過を主張するが,以下のとおり妥当でない。(1)民法724条後段は,その文言,立法者意思,立法の沿革に鑑み,消滅時効を定めたものである。したがって,同条後段を除斥期間であるとして,原告らの請求を棄却することはできない。
(2)仮に同条後段が除斥期間であるとしても,以下のとおり被告の主張は失当である。

被告が負うべき作為義務とは,原告らに対する早期帰国実現義務及び自立支援義務であり,かかる義務の不履行(不作為)が被告の違法行為の実質である。満州国建国に始まる被告が行った戦前における国家施策は,被告の負う義務,とりわけ早期帰国実現義務を導くための先行行為であり,原告らは,これ自体を国賠法上の違法行為として位置づけているわけではない。すなわち,原告らは,少なくとも昭和34年(1959年)以降の被告の違法行為(不作為)によって発生した被害を問題とし,しかも,被告の不作為は現在まで継続し,それにより原告らの被害も現在においても不断に発生し,累積,拡大しているから,本件においては除斥期間の経過が問題となる余地はない。
原告らの被害は,日常生活を送ることができるだけの言語,風俗,習慣の習得を果たすことができるまでの期間,継続して発生している。そして,この期間を高校までの就学期間と並行的に捉えるとすれば12年間は必要であり,同期間内は早期帰国実現義務違反の除斥期間を考えることはできない。
また,原告らは,その期間内に十分な自立支援が得られず,それ故に現在まで,自立して社会共同生活を送ることができないという被害状態に止まっている。したがって,被告は,自らの不作為を原因として,原告らが自立するために支援する義務を現在も負担しており,その自立支援義務が果たされていない以上,現在においても自立支援義務違反行為に関する除斥期間の起算点を考えることはできない。

不法行為法の趣旨が損害の公平な分担にあることからすれば,①加害行為が悪質で,②被害が甚大であり,③被害者に権利行使を期待することが困難である場合には,加害者が損害賠償義務を免れる結果となることが著しく正義,公平の理念に反する場合として,除斥期間の適用が制限される。本件では,①国策としての満州移民に始まる被告の先行行為があり,それに引き続いて中国大陸への放置という結果が生じ,国家が負うべき自国民保護の義務からすればそのような状態を除去せねばならぬのにこれを怠り,そのような放置によって生じた日本社会での生活能力の欠如を補うため帰国後の自立支援を十全に行うべきであったのにこれを怠ったという政府の所為が問題とされ,これらの所為は,それ自体不当で多くの被害を生じさせており,悪質である。また,②原告らは,日本語習得の機会がなく,日本の風俗,習慣を身につけることもできず,社会生活を送る上で障害(通訳人をはじめとする他人の援助が不可欠な状態)を有しており,被害は深刻かつ甚大である。③原告らは長きにわたって中国に放置された結果,日本社会への適応に問題がある。また,帰国後も自立支援は十分ではなく,日本語能力の不十分さ,異なる風俗,習慣を有していることから日本社会の中での異文化集団という偏見を持たれるなどの困難を有しており,その結果,経済生活の上でも困難を抱え,日々の生活に追われていた。このため,裁判を受ける権利は実質的に保障されていたとはいえず,経済的に困窮している原告らが権利行使をすべく国を相手に国家賠償請求訴訟の代理を弁護士に依頼することは極めて困難であり,原告らの弁護団に巡り会うことなしにはできなかった。したがって,除斥期間の適用は正義公正に反し許されない。
8
消滅時効について(争点8)
被告は,消滅時効の主張をするが,以下のとおり妥当ではない。

(1)ア

不法行為に基づく損害賠償請求の場合,損害及び加害者を知った時が消滅時効の起算点とされており(民法724条前段),この意味は被害者において加害者に対する賠償請求が事実上可能な状況の下に,その可能な程度においてこれらを知ったことである(最高裁判所第2小法廷昭和48年11月16日判決・民集27巻10号1374頁,同第3小法廷平成14年1月29日・民集56巻1号218頁)。さらに,加害行為の違法性の認識も必要とされている。すなわち,上記の要件からすれば,消滅時効の起算点は,訴訟提起が実際に可能となった時である。イ
原告らが帰国してまず思ったのは,帰国できてよかったということであり,なぜ自分たちが中国に残らざるを得なかったか,帰国できなかったかということではなく,また,国の政策を知らなかったのだから,帰国の遅れの責任が国にあったかを判断できるはずもない。被告は原告らに対し帰国の遅れについての説明もせず,原告らに日本語を話せる者はほとんどいなかったから,原告らが被告の施策に関する情報を収集し,帰国の遅れが被告の施策によるものであり,それが違法であるとの認識を持つことはあり得ず,これらのことからすれば,原告らが加害者を知ったなどとはいえない。


原告らは,日常生活の上で様々な苦痛を味わっており,こうした精神的苦痛は,原告らが早期に帰国できていれば被ることのなかった,又は,回復できた損害である。この損害は,帰国時に直ちに発生し,認識されるものではなく,帰国後の生活の中で徐々に発生し,認識されるもので,日々拡大してきたものである。したがって,帰国時において,原告らの損害は顕在化しておらず,損害を知ったとはいえない。


また,原告らの被った損害は,なお継続して発生し,消滅時効にかからない。


被告は,本件訴訟後においても責任の所在が不明確であったように主張していたにもかかわらず,原告らが加害者を知っていたと主張しているから,被告の主張は矛盾しており失当である。

(2)被告は,原告らの人生を狂わせる不法行為を行い,日本社会で生きる基礎能力を失わせ,訴訟による責任追及等を困難な状況に追い込んだのであり,そのような被告が形式的な消滅時効の援用により責任を免れようとすることは正義に反し,権利濫用,信義則違反である。
別紙3(被告の主張)

1
被侵害権利又は被侵害利益(争点1)について
原告らにおいては,被侵害権利又は被侵害利益は存在しない。
原告らの主張する普通の日本人として人間らしく生きる権利とは,その概念そのものが抽象的かつ不明確であるばかりでなく,具体的な権利内容,根拠規定,主体,成立要件が一義性に欠け,その外延を画することができない極めて曖昧なものであり,国賠法上保護された法益と認めることはできない。また,原告らの主張は,原告ら全員に共通するものではなく,原告らの主張する被侵害利益のうち,原告ら全員に共通しない部分を控除していくと,共通に受けた特徴的な被害ないし侵害された権利利益として残るものがあるかは極めて疑わしく,結局,原告ら全員が共通して侵害された権利利益を想定することは困難である。

2
早期帰国実現義務違反及び自立支援義務違反の存否(争点2及び3)について
(1)法的根拠

憲法上の義務について

(ア)憲法13条について
憲法13条の幸福追求権は,実質的には自由権を主たる内容とする権利である。また,同条が人格権を保障しているからといって,それだけで国家に対し一定の作為を求めることを根拠付けることはできない。原告らの主張は,被告に対する積極的な請求権の存在を前提とするところ,このような請求権は憲法上の権利として認められる段階に達しておらず,自由権を主たる内容とする幸福追求権により認められる根拠も乏しい。また,ある利益が同条で保護されるとしても,そのことが直ちにその利益保護のための措置をとるように国に要求できることを意味しない。(イ)憲法14条について
平等は関係概念であって,実体を有しないから,平等を権利と捉えても,財産権のような実体的権利ではあり得ない。そうすると,ある利益が被侵害利益であるか否かが問題とされている場合に,同条によってその被侵害利益性を根拠付けることはできない。また,平等原則違反の救済は差別を解消することによってされるが,これをどのように具体化するかは平等原則自体からは出てこないのであって,社会権や国務請求権のような分野においては,真の救済のためには国による立法措置が必要であり,それは立法府の判断に委ねられることになる。したがって,同条から被告の原告らを帰還させる義務を根拠付ける原告らの主張は失当である。
(ウ)憲法25条,26条について
憲法25条1項は,直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではなく,同条2項は,1項の趣旨を実現するために努力義務を課しているにすぎない。
また,憲法26条は,国に対して法律の定めるところにより権利を確保する必要な措置を講ずることを要請しているにすぎない。同条2項で国の責務として憲法上予定されていることは,義務教育制度を設置し,その費用を負担することであって,原告らが主張する各義務が憲法26条から生じる余地はない。
(エ)憲法22条について
憲法22条は,自由権を保障した規定であり,原告らの主張する義務は,国に対する積極的な請求権の存在を前提としたものであり,このような義務を同条から導くことはできない。

国際法について国際法は,基本的に国家と国家の関係を規律する法であり,国際法が個人の生活関係,権利義務を対象とする規定を置いたことから直ちに個人に国際法上の権利義務が認められるものではなく,これによって個人が直接国際法上何らかの請求の主体となるものでもない。
また,原告らの指摘する条約等は,前記義務を一義的な義務として規定していない。

法令について

(ア)厚生省設置法,旧外務省設置法について
厚生省設置法や旧外務省設置法という行政組織法の規定は,ある行為を根拠付ける根拠規範ではなく,行政機関の行為の限界を画するものにすぎず,行政組織法の規定は個別の国民に対する職務上の法的義務の根拠とはならない。
(イ)自立支援法について
同法4条は,国の一般的,抽象的な努力義務又は行政上の指針を規定したものにすぎず,個別の国民に対する職務上の法的義務,それも一義的義務を負う根拠となり得るものではなく,具体的職務権限を定めてもいない。
同法8条以下も,抽象的,一般的な規定にすぎず,同様である。
(ウ)援護法29条について
同条は,その文言からみても,国の一般的,抽象的な努力義務又は行政上の指針を規定したものにすぎず,個別の国民に対する職務上の法的義務,それも一般的義務を負う根拠となり得るものではなく,具体的な職務権限を定めてもいない。

先行行為に基づく作為義務について

(ア)国賠法上,不作為の違法が問題となる類型は,①公務員の作為義務が法令の明文をもって規定されているか,法令の解釈によって一義的に決まる場合,②法令によって公務員に権限が与えられているが,その権限行使が公務員の裁量に委ねられている場合,③公務員の作為権限が法令によって具体的に規定されていない場合に分けられるが,上記のように,本件は①には当たらず,②に当たるために必要な,より具体的な実定法上の権限規定もない。本件は③に該当するが,この場合は,原則的に国等は政治責任を負うにとどまり,国賠法上の責任の前提となる法的作為義務が生じることはない。
(イ)公務員の作為義務が特定されていないこと

国賠法1条1項は,国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が,個別の国民等に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を与えたときは,国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずることを規定する。したがって,原告らが,同項に基づき損害賠償を求めるには,いかなる公務員が,いかなる法令の根拠に基づいて,原告らに対し,いかなる職務上の法的義務を負っていたとするか,そして,当該公務員のいかなる行為が,その職務上の法的義務に違背するかを特定しない限り,要件事実の主張が尽くされたといえない。そして,公務員の不作為による違法行為を主張する場合は,公務員が個別の国民に対して職務上の法的義務として作為義務を負っており,この作為義務を尽くさなかったことが違法行為として主張されるべきである。しかし,原告らの主張においては,被告の公務員が負担する作為義務が具体的に特定されていないうえ,公務員がその作為義務を負う法的根拠も主張されておらず,主張自体失当である。


帰還させる義務について

(a)日中国交回復以前における帰還させるべき義務について
原告らは,厚生大臣及び外務大臣は日中国交回復以前において,
国際赤十字委員会,国際連合,連合軍等を通じて中国における残留邦人の所在調査を行い,帰国の機会を提供し,帰国を容易にするための財政やその他の措置を講ずるなど総合的政策を立案し,実行する義務を負うと主張する。
しかし,具体的にどのような方法による原告らの所在調査を行う
べきであったか,国際赤十字委員会,国際連合,連合軍に対して,具体的にどのような内容の提案ないし要請をし,交渉をすべきであったかが不明である。また,中国(中華人民共和国)政府との外交関係を有しなかった状況で,被告公務員が帰国の機会を提供する措置として具体的にどのような措置をすべきであったか,帰国を容易にするための財政やその他の措置とは何を指すかが不明であり,何をもって総合的政策の立案というかも不明である。
したがって,原告らの主張する上記義務は特定を欠き,主張自体
失当である。
(b)日中国交回復後における帰還させるべき義務について
原告らは,厚生大臣及び外務大臣において,中国との国交回復後
には,即時に適切な予算措置を講じ,原告らの所在調査を行い,日本への永住帰国を望む者に対する国籍回復等の身分的措置や帰国のための財政やその他の措置を講ずるなど総合的政策を立案し,実行する義務を負う旨主張する。
しかし,具体的にどのような方法による原告らの所在調査を行う
べきであったか,帰国のための財政やその他の措置をとるとは具体的にどのようなものであったか,適切な予算措置とはいかなる規模,内容のものかが不明である。
したがって,原告らの主張する上記義務は,特定を欠き,主張自
体失当である。

帰還後の義務について(a)日本語教育に関する義務について
原告らの主張では,いかなる人的,物的施設によるいかなる内容,期間の教育を必要とするか不明であり,このためにいかなる措置を講ずべきかも不明である。したがって,特定を欠き,主張自体失当である。
(b)帰国後の職業訓練及び就職のあっせんに関する義務について原告らの主張では,具体的に厚生大臣はどのようなことをすべき
義務があるというのか不明である。したがって,特定を欠き,主張自体失当である。
(c)帰国後の自立支援金に関する義務について
原告らの主張では,必要なあるいは十分な自立支援金とは具体的
にいかなる金額をいうのか不明である。したがって,特定を欠き主張自体失当である。
(d)帰国後の年金等の保障に関する義務について
原告らの主張では,本来であれば受給できたであろう年金あるい
は十分な年金保障とは具体的に誰に対するいかなる金額をいうのか不明である。したがって,特定を欠き,主張自体失当である。
(e)帰国後の精神的ケアに関する義務について
原告らの主張では,日本人として社会生活を営むために必要な事
柄とは,具体的にいかなる内容を意味し,厚生大臣は具体的にどのようなことをすべき義務があるのか不明である。したがって,特定を欠き,主張自体失当である。
(ウ)原告らは,作為起因性の不作為責任という類型を設けているが,作為起因性の不作為論なるものが,いわゆる先行行為に基づく作為義務とどのような関係にあるか,後者においても先行行為とは自己の違法な作為を指すから,その意味で原告らの主張する作為起因性の不作為論と重なるのではないか,作為起因性の不作為についてそれを独立の不作為類型と認める必要性ないし意義がどこにあるか,両者が異なるとすれば,いかなる点が異なっていて,その差異が作為義務成立要件との関係で具体的にどのように現れるのか,作為起因性の不作為論がいかなる根拠によって許容されるかなどについて判然としない。作為起因性の不作為の類型は,結局当初の作為の違法性を問題とすべき事案であり,あえて不作為の類型を設ける必要はない。
(エ)先行行為に基づく作為義務の発生について原告らの主張する違法な先行行為が認められないこと

原告らは,先行行為に基づく作為義務の前提として,被告が現地土着政策をとったことを主張するようである。
しかし,日本政府は,とり得る限りの手段を尽くして,旧満州地区の残留邦人の帰国に向けた努力をしたのであり,日本政府が終戦直後から原告らの主張する棄民政策を実施した事実はない。
在留邦人の引揚げが他の地域に比べて大幅に遅れた理由は,日本政府の外交機能が全面的に停止されていた中で,旧満州地区をその管理下に置いたソ連軍が在留邦人の本国送還に関心がなく,GHQの方針を受諾しなかったためである。


移民政策について
原告らは満州開拓のための移民政策を違法な先行行為として主張するようである。
しかし,原告らが家族と離別し,その後の混乱状態の中で孤児として中国に残留するに至ったとしても,後記カのように,その直接の原因は,ソ連軍が日ソ中立条約締結の際に発せられた声明を無視して旧満州地区に侵攻したことによって発生した極度の混乱状態及びそれに引き続く越冬によるものである。そうすると,原告らのいう移民政策がとられたとしても,そのことから直ちに原告らが家族と離別し,残留孤児となる危険が発生したとはいえず,また,移民のときに,原告らが家族と離別し残留孤児となることを予見し,かつ,その結果を回避することができたとも認められないから,移民政策を違法な先行行為とする原告らの主張は失当である。

特別措置法について

(a)原告らは,特別措置法制定以降,被告は残留孤児の帰還事務を放棄したと主張し,また,同法の制定をもって帰還後必要な施策をとるべき義務を導く先行行為であると主張する。
しかし,特別措置法の趣旨,目的,立法経緯,具体的運用は,以
下のとおりであり,何らの違法もない。
戦時死亡宣告制度を含む特別措置法は,①それまでの集団引揚げ等によって未帰還者の数は逐次減少してきていたが,それでも昭和32年(1957年)10月1日現在でその数は4万6650人であり,②これらの未帰還者の大部分は終戦前後の混乱期にその消息を絶った者であり,戦後10年以上にわたる調査究明によってもその状況を明らかにすることができず,生存の期待が持てないのではないかと推測され,③これらの情勢に基づき,留守家族団体から未帰還調査の徹底,特に国の十分な措置を伴った未帰還者の最終的処理についての要望が起こりはじめ,④一方,未帰還者の留守家族に対する国の援護措置として,援護法によって支給されている留守家族手当は,昭和34年(1959年)8月1日以降においては,過去7年以内に生存していると認めるに足りる資料がない未帰還者の留守家族に対しては支給しない建前であったから,昭和34年(1959年)7月末までに未帰還者の調査究明を完結することが必要で望ましかったが,事実上不可能に近く,したがって未帰還者の最終処理について何か特別な措置を講ずることが必要であると考えられ,⑤従来の戸籍法89条の規定に基づく取調公署による死亡報告制度による未帰還者の死亡処理では,未帰還者の全部を処理しきることは不可能であって,特に生死不明者の死亡処理は民法30条の失踪宣告制度以外なかったが,失踪宣告の請求ができる利害関係人に国は含まれておらず,国が失踪宣告を請求できるようにするためには特別の立法措置が必要であったため制定された。
そして,その施行に当たっては,戦時死亡宣告を受ける者の名誉
を尊重し,その留守家族(遺族)の心情を十分斟酌する必要があるとされており,そのような運用をしている。
(b)なお,特別措置法施行後も,国内では,帰還者全員に対する上陸地における聞取り調査,厚生省や都道府県の職員による未帰還者に関する既得資料の確認,調査や帰還者の招致もしくは帰還者宅への訪問による未帰還者の消息に関する情報収集等を実施するとともに,国外においては,日本赤十字ルートや留守家族団体ルートにより安否情報を実施した。また,被告は,戦時死亡宣告確定者を含む未帰還者につき調査を続けており,日中国交回復以後,戦時死亡宣告により除籍された者,自己の意思により帰還しないと認められた者の名簿を在北京日本大使館に送付し,これに基づく現地調査を行うこととし,調査担当者を同大使館に派遣して中国における未帰還者の調査を促進することとした。他方,戦時死亡宣告確定者の生存の事実が判明するなど戦時死亡宣告の取消しを行うべき事態が生じたときは,事務処理を迅速に行うこととしていた。
(オ)原告らは,早期帰国実現義務に係る先行行為として,①昭和7年(1932年)8月16日の閣議決定以来,満州各地へ開拓団を送り,昭和11年(1936年)8月25日には七大国策の1つとして対満重要策の確立・移民政策及び投資の助長策を掲げ,20年間に500万人,100万戸を送出する大綱を確定し,昭和20年(1945年)8月8日までに合計32万人以上の移民を送出したこと,②同年5月30日,本土防衛のための満鮮方面対ソ作戦計画要綱を策定し,満州の4分の3を放棄し,持久戦のための戦場とすることを決定したにもかかわらず,民間人保護策を何ら講じなかったこと等を中心とした一連の先行行為(政策決定も含む)による国策による満州地区への入植,国防施策の遂行を主張している。
しかし,①については,後記カのように原告らの中国への残留の直接の原因は,ソ連軍が日ソ中立条約締結の際に発せられた声明を無視して旧満州地区に侵攻したことによって発生した極度の混乱状態及びそれに引き続く越冬による。
そうすると,満州国が建国され,移民政策がとられたとしても,これらの事実から直ちに,日本が敗戦し,原告らが家族と離別して残留孤児となる危険が発生したとはいえず,また,満州国建国や移民のときに,原告らが家族と離別し残留孤児となることを予見し,かつ,その結果を回避することができたとはいえないから,移民政策を違法な先行行為とする原告らの主張は失当である。
②については,戦争という国家存亡にかかわる非常事態において軍のとった作戦行動の当否をいうものであり,当時の戦局等を抜きにして評価することはできないし,原告らの被害との間に相当因果関係は認められない。
(カ)被告が原告らのいう作為義務を負う法的根拠はないこと
原告らのいう作為義務の内実は,既発生の法益侵害状態を回復するための原状回復義務であって,先行行為に基づき発生するとされる将来の損害発生防止のための結果回避義務ではない。本件は,そもそも先行行為に基づく作為義務が問議されるべき事案ではなく,先行行為に基づく作為義務として,原告らのいう作為義務(原状回復義務)が発生するものではない。
そして,原告らのいう被告の違法な国家政策は,いずれも国賠法が施行された昭和22年(1947年)10月27日より前の事実であるところ,後記6のように同法施行前においては,国家無答責の法理により,被告がこれを原因として原告らに被害を生じさせたとしても,損害賠償義務を負う法的根拠を欠いていた。また,被告が違法行為の法的効果として,損害賠償義務ではなく,原告らの被害を回復する義務を負ったとすることも根拠を欠く。したがって,仮に違法な国家政策による被害発生の事実があったとしても,そのために,被告が原告らの被害を回復する義務を負ったとすることはできない。
(キ)原告らは,自立支援義務の発生根拠として,早期帰国実現義務の懈怠も挙げる。
しかし,上記主張は,いかなる法的枠組みに基づくか不明である。仮に,先行行為に基づく作為義務を主張するものと解しても,そこにいう先行行為はその性質上作為でなければならないところ,早期帰国実現義務の懈怠とは不作為をいうから,主張自体失当である。また,被告は,早期帰国実現義務を負わず,その義務違反も成立しないから,これが成立することを前提とした自立支援義務なるものが発生することはない。オ
条理について
条理は,その内容の抽象性,多義性,相対性のため,裁判規範として限界があり,法や契約の解釈の基準となり,あるいはこれによって不完全な法が補充されることがあっても,成文法に全く基づかず,条理それ自体を根拠として何らかの具体的な請求権を根拠付けることはできない。また,どのような方法,程度において,前記義務を負うかを条理から導き出すことは不可能である。カ
補足主張
原告らの主張する孤児として中国に残留することを余儀なくされたとの被害を生じさせたことの直接の原因は,被告の行為によるものではなく,他の原因による。
すなわち,被告は,昭和16年(1941年)4月,ソ連との間で日ソ中立条約を締結し,同条約の締結に伴い,ソ連が満州国の領土の保全及び不可侵を尊重することを約する旨の声明が出されていた。ところが,ソ連は,昭和20年(1945年)4月5日,被告に対し,日ソ中立条約の期限満了(昭和21年(1946年)4月)後は同条約を延長しない旨を一方的に通告し,昭和20年(1945年)8月8日には,わが国に対し宣戦を布告するとともに,満州に侵攻した。そして,不意のソ連参戦に伴う在留邦人の避難行動の過程で生じた極度の混乱,それに引き続く昭和20年(1945年)冬の半年にわたる難民としての越冬生活及びいわゆる国共内戦による混乱等により,肉親等と死別又は生別した婦女子のうち,自活の手段を失った者はやむを得ず現地住民に救いを求め,あるいはその妻等となり,また,多数の子供が両親を失って孤児となり,あるいは親が養育できないために現地住民に託されるなどして,在留邦人は,中国の地域に残留することを余儀なくされた。
このように,原告らが家族と離別して孤児となったことを被害ととらえるとしても,その直接の原因は,ソ連軍が満州に侵攻したこと等によって発生した極度の混乱状態とそれに引き続く半年にわたる越冬生活にあり,被告が,かかる被害発生の危険を生じさせたものではない。また,関東軍が在留邦人を保護するいとまもなくソ連軍に敗退したことをもって,被告が上記危険を生じさせたとすることもできない。

(2)早期帰国実現のための措置被告は,中国残留邦人を日本に帰国させるための措置及び帰還後の中国残留邦人の生活の自立を援助する措置をとってきた。

早期に帰国させるための措置について

(ア)日中国交回復以前

引揚げ・帰国支援について
中国東北地区(旧満州地区)(以下旧満州地区という。)から
の引揚げについては,戦後わが国がGHQの管理下にあった時代においては,連合国軍最高司令官の引揚に関する基本指令に基づき,
また,サンフランシスコ平和条約発効後は,海外邦人の引揚に関する件に基づき,ソ連軍の駐留,中国における内戦の激化や日本が中国(中華人民共和国)と当時外交関係を有していなかった状況の中で,国として可能な限り実施した。具体的には以下のとおりである。

(a)集団引揚げの実施
昭和22年(1947年)10月から昭和23年(1948年)
8月までの間に4期にわたり,約104万5000人の日本人が帰国した前期集団引揚げ,及び,昭和28年(1953年)3月から昭和33年(1958年)7月までの間に21次にわたり約3万3000人の日本人が帰国した後期集団引揚げが実施された。
(b)中国側との直接交渉
被告は,昭和27年(1952年)4月の主権回復以降,上記の
集団引揚げが実施される中で,被告が中国(中華人民共和国)と当時外交関係を有しておらず,外交ルートによる引揚げの実施が困難な状況において,ジュネーブにおける日中政府間交渉や衆議院海外同胞引揚特別委員長以下の訪中申入れ等,中国側に対して可能な限りの申入れ等を行い,中国残留邦人の帰国援護に努めた。
(c)帰国旅費の国庫負担被告は,中国残留邦人の帰国援護の一環として,昭和27年(1952年)以降(なお,それ以前は引揚船の配船による集団引揚
げ),帰国旅費の国庫負担制度を実施し,その帰国促進を図った。b
未帰還者調査について

(a)昭和29年(1954年)ころまで
被告は,消息不明者の個人究明,現地からの通信の収集,各地域
における終戦以降引揚げまでの状況資料の整備,残留者の状況に関する各調査等の業務を行った。また,留守家族から未引揚邦人の届けを提出させるなど未帰還者の掌握に努めた。
(b)昭和30年(1955年)ころ以降
援護法の趣旨に基づき,昭和29年(1954年)4月以降,未
引揚一般邦人に関する調査業務は,厚生省に設置した未帰還調査部において,軍人軍属の未帰還者に係る調査業務と一元的に実施することとされた。中国残留邦人に係る消息調査については,被告は中国(中華人民共和国)と当時外交関係を有していなかったことから現地に赴いて調査を行うことが困難な状況であったが,保有資料の分析や引揚者等からの情報収集をはじめとする国内調査を中心として調査を進めつつ,現地に対する通信調査等を実施し,また,中国側の協力を得るため政府間の直接交渉を実施するなどして,可能な限りその消息の調査究明に努めた。
(c)特別措置法施行後の調査について
特別措置法が昭和34年(1959年)3月3日に制定され,同
年4月1日から施行されたが,同法の制定,施行は未帰還者調査に何ら影響を与えるものではなく,被告は,同法施行後も,都道府県と連携して戦時死亡宣告確定者を含む未帰還者の調査を続けていた。(イ)日中国交回復以後a

被告は,日中国交回復以後も,中国残留邦人について,帰国旅費の国庫負担等の援護を行い,その帰国を促進するとともに,北京の日本大使館を基点として現地調査を行うなど,未帰還者の消息調査に努めてきた。また,中国残留邦人の中で自己の身元を知らない者(中国残留孤児)については,報道機関の協力の下での公開調査や肉親探しのための訪日調査,訪中調査,訪日対面調査等の手法により身元調査を行い,その身元の判明と帰国の促進に努めてきた。
原告らの批判に対して特に反論すべき点は,以下のとおりである。
(a)訪日調査について

第1回訪日調査の実施時期が遅れていないこと
日中国交回復は昭和47年(1972年)9月に実現したもの
の,当時中国国内は文化大革命(昭和41年(1966年)から
昭和52年(1977年))の最中であり,文化大革命の終息後,被告は中国政府との間で訪日調査実現に向けて外交交渉を行った
が,その交渉には相当の時間を要した。他方,当時,中国公民と
して生活していた残留孤児を肉親調査のために訪日させることに
ついて,我が子を手放したくない中国国内の養父母から反対があ
り,また,中国の公安当局も戦後30年余りを経て中国公民とし
て生活している残留孤児を帰国させることに難色を示した。さら
に,訪日調査が日中両国をまたぐ調査であり,両国とも初めての
試みであったことなどから,両国政府において,訪日対象者の確
認,本人への連絡,受入れ態勢の整備,残留孤児の手がかりの調
査結果の取りまとめ等解決すべき事項が多岐にわたり,両国政府
の間の外交交渉にも相当程度の時間を要した。
このように,訪日調査は,日中両国の努力により様々な障害を
乗り越えて実現したものであり,このための時間の経過をもって,訪日調査が遅れたなどということはできない。ⅱ
訪日人数枠が少ないとはいえないこと
訪日調査の実施に当たっては,中国政府側でも残留孤児である
ことの確認等を行う必要があったが,中国政府には,残留孤児を
扱う専門の部署がなく,中央では公安部出入境管理局,地方では
各省公安局出入境管理処が窓口となっていた。しかし,これらの
機関は円滑に機能していなかったため,本人への連絡等準備期間
に相当の時間を要するとともに,一度に多くの残留孤児を訪日さ
せることは難しかった。また,被告側でも,訪日調査の実効性を
少しでも上げるために,個々の孤児について,少ない手がかりの
中から肉親につながる情報を蓄積し,整理するなど非常に丹念な
作業と綿密な調査が必要であり,そのための時間を要した。訪日
調査は,日中両国をまたぐ国際的な調査であり,実施に当たって
は毎回,外交上の交渉が必要であり,外交文書のやりとり等にも
相当の時間を要し,1年間の訪日調査の開催頻度も自ずと制限さ
れた。
このようなことからすれば,訪日調査の参加人数がある程度制
限されざるを得なかった。


訪日調査において被告は血液鑑定等の科学的調査に消極的では
なかったこと
被告は,訪日調査開始当初から血液鑑定(平成2年(1990
年)以降はDNA鑑定)を実施するとともに,孤児本人及び肉親
関係者に対し,血液鑑定をすることができる旨を周知していた。
血液鑑定をするか否かは,人権上の問題から当事者の選択に委ね
る以外になく,被告は,血液鑑定等の科学的調査に消極的であっ
たわけではない。(b)帰国旅費について
帰国旅費の国庫負担制度の申請手続において原告らがすべきこと
は限られており,申請手続は困難ではなかった。また,被告は,昭和37年(1962年)から支給が開始された出境地までの帰国旅費支給についての各都道府県知事宛ての通知をもって,留守家族及び帰国希望者に対する周知の徹底に努めるよう,各都道府県知事に対して依頼していた。そして,帰国を希望する中国残留邦人は,近隣に住む残留邦人やその知人からの情報提供を契機として,自ら在外公館に通信ないし訪問して照会することができたうえ,中国国内の機関である公安局や外事弁公室に対しても照会することができた。しかも,身元が判明している孤児は,その在日親族からの手紙により帰国に関する情報の提供を受けることができた。さらに,厚生省は,昭和60年(1985年)度から,援護基金及び厚生省による訪中説明会を実施し,中国国内において帰国希望者に対する情報提供を行った。原告らの主張は,帰国旅費支給制度につき誤った理解に基づくものである。
(c)身元保証人制度

日本国籍を有することを確実な資料に基づき確認できない場合,
入国審査官は,外国人の上陸の手続をさせることとなり,これは
入管法の運用上当然のことである。入管法は,主として,外国人
の入国,上陸及び在留の管理にかかわる法令であり,日本への入
国が禁止される外国人が日本の領域内に入った場合に必要な措置
をとること(同法27条以下),日本に上陸しようとする外国人
の身分事項,入国目的等を審査し,一定の基準に基づき上陸許可
又は退去命令の処分を行うこと(同法45条以下),日本に在留
する外国人の在留状況を審査し,その在留期間の更新等の許可又は不許可の処分を行うことなどを定めている(同法19条以下)のであって,我が国にとって好ましくないと認められる外国人を
排除することを重要な目的の一つとするから,ある者について我
が国への上陸を認めるか否かに際しては,その者が日本人か外国
人かの判別を慎重に行わざるを得ず,日本人であることの確認が
できない者は,日本人の帰国の手続によることはできない。
このことは,我が国に上陸しようとする者が中国残留邦人であ
っても異ならない。入管法上,外国人と日本人は明確に区別され
ており,外国人とは,単に日本の国籍を有しない者をいう(同法
2条2号)とされるのみで,中国残留邦人であっても日本人であ
ることの確認ができない者は,日本国籍を有しない者として外国
人の取扱いをせざるを得ない。

国籍法は,日本国内,国外のすべての人に効力があり,同法に
よってその人の日本国籍の有無が決定されるから,中国残留邦人
に対しても適用がある。中国残留邦人について,日本国籍を有す
ることが確認されるためには,日本国籍取得の事実があり,かつ,その喪失の事実がないと認定判断されることが必要である。
日本国籍取得の事実は,通常,戸籍の記載により確認し得るが,
帰国時に身元が判明していない者については,帰国時に戸籍の記
載がないため,その確認ができないことが通例である。また,仮
に戸籍上,日本国籍取得の事実が確認されたとしても,中国から
旅券の発給を受けた者は中国国籍を有する者であり,このような
者は,旧国籍法(昭和25年6月30日以前)の下で婚姻や認知
等により中国国籍を取得したことにより日本国籍を喪失し(旧国
籍法18条,23条),あるいは自己の志望によって中国国籍を
取得したことにより日本国籍を喪失している可能性が高い(国籍法11条1項,昭和59年法律第45号による改正前の同法8条,旧国籍法20条)。
このように,中国旅券で我が国に上陸しようとする中国残留邦
人のうちには,帰国時において,日本国籍を取得した事実すら確
認できない者のほか,これを喪失した事実が疑われる者がいる。
入国審査官が日本国籍を有することを確実な資料に基づき確認で
きない者について,外国人の上陸の手続をさせることは,入管法
上当然の取扱いであり,中国残留邦人とそれ以外の者とで取扱い
を異にすべき理由はない。したがって,中国残留邦人について,
日本国籍を有することを確認できないとして外国人の上陸の手続
をさせることは違法ではない。
なお,中国残留邦人については,当初は上記の規定に基づき身
元保証書の提出を要求した事例があったが,その後,以下のとお
り,一定の要件を充たせば,外国人の上陸の手続自体は必要であ
るが,査証受給のために身元保証書を提出することを必要としな
い取扱いがされている。
すなわち,昭和60年(1985年)以降,中国残留日本人孤
児と厚生省が認定した者で,同省の実施した集団肉親調査で来日
したが身元が判明しなかった者及びその被扶養家族等で,国費に
よる帰(入)国旅費負担が承認された者は,承認に係る事実関係
を立証すれば査証を受給することができ,身元保証書の提出は必
要としない取扱いがされている。また,昭和61年(1986
年)以降,終戦前に日本から中国本土に渡航し,その後も引き続
き同地に居住している者(残留孤児を含む。)のうち,査証申請
時に日本戸籍の存在が確認され,又は,新たに日本戸籍への就籍
が許可されている者及びその被扶養家族等は,該当事実関係を立証すれば査証を受給することができ,身元保証書の提出は必要としない取扱いがされている。

このように,原告らの主張は,入管法の規定を正解しないもの
であり,失当である。


原告らは,被告が日中国交回復前には,戸籍謄本という形での国籍証明があれば,後は,日本政府の帰(入)国に関する証明書の発給を受けて容易に帰国できたのに,国交回復後は,中国残留孤児を外国人として扱い,その帰国に際して,身元保証書の提出等の外国人としての入国手続を課して帰国条件を厳しくし,帰国を妨害したと主張するようである。
しかし,国交回復に伴い,中国が未承認国でなくなった以上,証明書を発行しなくても帰(入)国が可能となったことから,原則に立ち返り,一般の手続をとるに至ったのであり,違法とされるべきものではない。また,国交回復前には孤児の身元が確認されなければ当該孤児が日本国籍を有する者かどうかすら確認できなかったのであり,そうである以上,日本人として入国が認められないことは当然であって違法ではない。そもそも身元未判明孤児とは,日中両国政府で日本人孤児と認められた者で,調査しても身元が判明していない孤児を指すところ,国交回復前における被告による調査は,留守家族等の届出や未帰還者名簿等に基づき,特定の孤児の消息調査をしていたものであり,一般的に中国残留孤児の調査をしていたものではないし,そのような調査は不可能であった。そして,身元の判明していない孤児について,中国側から情報がもたらされたこともなく,孤児本人からの身元調査の依頼自体がほとんどなかったから,身元保証が要求されたために帰国が不可能となった孤児が存在したかどうか自体疑問であるし,それによって適正に行われた入管行政は違法ではない。(3)自立支援のための措置ア
受入援護(帰国直後の援護)について(日中国交回復以後)
被告は,言語,生活様式,生活習慣等多くの面で日本とは異なる中国で幼いころから生活し,生活の基盤がない日本に帰国した中国残留邦人に対しては,帰国旅費の国庫負担の援護を受けて同伴して帰国する親族等(以下同伴帰国者という。)とともに,帰国直後から,本邦到着時におけるオリエンテーションの実施,中国帰国者定着促進センターにおける一定期間の入所形式による日本語教育を含む生活指導等の実施,同センター退所後の定着先のあっせん,自立支度金の支給等,受入援護のための各種施策を実施している。
また,肉親の判明しない身元未判明孤児や,在日親族の死亡及び高齢化等により親族による受入れが困難となっている中国残留邦人のため,身元引受人制度を発足させ,これらの者の帰国,日本社会への早期定着,自立促進を図っている。
具体的には,以下のとおりである。

(ア)自立支度金の支給
被告は,昭和28年(1953年)3月以降,中国残留邦人を含む引揚者に対し,帰還手当を支給してきた。昭和62年(1987年)以降は,名称を自立支度金に改め,少人数の世帯について一定の金額を加算して支給している。
(イ)オリエンテーション
被告は,昭和54年(1979年)以降,中国残留邦人及び同伴帰国者(以下,併せて中国帰国者という。)につき,中国からの帰国直後,帰国後の援護の内容,各種行政機関窓口,生活習慣の相違等の帰国後直ちに必要となる事項についてオリエンテーションを実施している。(ウ)中国帰国者定着促進センター被告は,中国帰国者の定着自立支援を強化する見地から,昭和59年(1984年)2月以降,中国帰国孤児定着促進センター(平成6年(1994年)4月に中国帰国者定着促進センターに名称変更。以下定着促進センターという。)を全国各地に順次開設し,入所形式による日本語教育,生活指導等の援護を行っている。
定着促進センターの入所期間は帰国後4か月程度であり,この間,被告は,宿泊施設の提供,生活援助費の支給を行いながら,日常生活に必要な基礎的日本語研修と基本的生活習慣等の指導を行っている。その他,個別の就職相談,指導をはじめ,職業についての講話,公共職業安定所や職業訓練校の見学,職場体験実習,地域体験実習等を実施している。また,身元が判明していない残留孤児については,就籍手続の説明,指導を実施している。
(エ)身元引受人制度
身元未判明孤児は,在日親族がおらず,定着自立の面から肉親に代わり相談相手となる者が求められた。そこで,被告は,昭和60年(1985年)に身元引受人制度を創設し,身元未判明孤児の身元を引き受けて相談相手となる身元引受人をあらかじめ登録し,身元未判明孤児に対し,定着促進センター入所中に,身元引受人をあっせんすることとした。また,在日親族の死亡や高齢化等により親族による受入れが困難となっている中国残留邦人のうち,身元が判明している者(以下身元判明孤児という。)や中国残留婦人等の帰国,日本社会への早期定着,自立促進を図るため,帰国手続や帰国後の受入れを伴う特別身元引受人制度を創設し,身元判明孤児について平成元年(1989年)7月から,中国残留婦人等について平成3年(1991年)度から実施している。平成6年(1994年)1月以降は,特別身元引受人が行うこととされていた帰国手続を直接政府が行うこととし,平成7年(1995年)2月以降,身元引受人制度と特別身元引受人制度を一本化した身元引受人制度を実施している。
身元引受人の役割は,中国残留邦人の身元を引き受け,その世帯の身近にあって,一日も早く自立して生活を営めるよう日常生活の諸問題の相談に応じ,自立に必要な助言,指導を行うことである。
身元引受期間は,中国残留邦人世帯が定着促進センターを退所した日から3年以内とされている。
身元引受人の資格は,中国残留邦人世帯及びその肉親が置かれている立場に理解を有し,かつ,社会的人望が厚く,中国残留邦人世帯構成員の日本社会への早期定着自立のための指導に熱意を持って当たることのできる者とされており,個人のほか,昭和60年(1985年)11月以降は企業等法人についても,平成元年(1989年)以降は任意団体についても身元引受人の登録対象としている。
(オ)定着地のあっせん
中国残留邦人のうち,身元判明孤児や中国残留婦人等については,事前に本人の希望を聴き,可能な限り本人の希望に沿った定着先をあっせんしている。
また,身元未判明孤児については,身元引受人の近隣に定住させることが望ましいため,本人の定住希望地も考慮し,可能な限り本人の希望に沿った定着地をあっせんしている。

定着自立援護について(日中国交回復以後)
被告は,言語,生活様式,生活習慣等多くの面で日本とは異なる中国で幼いころから生活し,生活の基盤がない日本に帰国した中国残留邦人に対しては,同伴帰国者とともに,日本における定着自立を支援するため,中国帰国者自立研修センターや中国帰国者支援・交流センターにおける日本語教育,就労支援等各種支援,自立指導員等の派遣等を行うとともに,住居,就労,教育,年金等様々な面において,各種施策を実施している。具体的には,以下のとおりである。
(ア)中国帰国者自立研修センター
被告は,定着促進センター修了後の中国帰国者の地域社会における定着自立を促進するため,昭和63年(1988年)以降,中国帰国者自立研修センター(以下自立研修センターという。)を全国各地に設置し,中国帰国者を対象として,原則8か月程度(やむを得ない事情がある場合には4か月の延長が可能。また,日本語の再研修については2年以内。)の期間,通所形式により,日本語研修,地域の実情を踏まえた生活相談・指導,就労相談員による就労相談・指導,大学進学準備課程,地域住民との交流事業等を行っている。その他,就籍の相談,子女の就学についての情報提供等,中国帰国者の定着自立促進に資する事業を実施している。
(イ)自立指導員制度
被告は,昭和52年(1977年)度以降,定着自立に必要な助言,指導等を行う引揚者生活指導員(昭和62年(1987年)度から自立指導員に名称を変更)を支援を必要とする中国帰国者の家庭へ派遣している。
自立指導員の業務内容は,①中国帰国者の日常生活等における諸問題に関する相談に応じ,必要な助言,指導を行うこと,②市区町村,福祉事務所等の公的機関と緊密な連絡を保ち,必要に応じて帰国者等をこれらの窓口に同行して仲介すること,③中国帰国者に対する日本語の指導,日本語教室等,日本語補講についての相談及び手続の介助を行うこと(昭和61年(1986年)以降),④職業訓練施設で受講している中国帰国者の相談に応じ,必要な助言,指導を行うとともに,円滑かつ効果的な職業訓練が行われるよう援護措置を講じ,もって技能習得後の雇用安定が図られるよう配慮することである。(ウ)中国帰国者支援・交流センター
被告は,平成13年(2001年)11月,中国残留邦人やその家族の地域社会における定着,自立を中長期的,継続的に支援していくため,中国帰国者支援・交流センターを開設した。同センターにおいては,自立研修センターや自立指導員による援護を終えた者も対象として,地方公共団体との連携のもと,民間ボランティアや地域住民の協力を得ながら,日本語学習支援,相談事業,中国帰国者相互及び地域住民との交流事業,ボランティアの活動情報の収集と提供,中国残留邦人問題の普及啓発事業等を行っている。
(エ)その他の支援

自立支援通訳制度
被告は,日本語の会話が不自由な中国帰国者につき,医療機関における適切な受診を確保するとともに,関係行政機関等での助言,指導及び援助を受けやすくするため,平成元年(1989年)度以降,定着促進センター修了後(入所しない者については帰国後)3年以内の者に対して,一定の要件のもと,日中両国の通訳の能力を有し,中国帰国者の援護に理解と熱意を有する自立支援通訳の派遣を行っている。

巡回健康相談事業
被告は,中国残留邦人に対して医療,保健衛生面における生活指導を行うことを目的として,平成元年(1989年)度以降,定着促進センター修了後1年以内の中国帰国者世帯に対し,健康相談医を派遣し,健康相談を実施するとともに,必要な助言,指導を行っている。

就籍に関する支援
被告は,就籍手続を円滑,容易にするため,定着促進センターにおいて該当者に対して最高裁判所による説明会を開催するとともに,手続開始後は,家庭裁判所からの要請に対して孤児調査関係資料や帰国旅費申請に係る資料等を提供するなど,積極的に支援している。
費用面でも,昭和61年(1986年)から財団法人法律扶助協会が財団法人日本船舶振興会の補助を受け審判費用を負担し,孤児本人に経済的負担が及ばないよう措置しており,補助金申請に際しては,確実に交付されるよう厚生省が副申している。平成7年(1995年)度以降は,就籍手続に要する経費についての国庫負担を開始している。

住居に関する支援
被告は,公営住宅法(昭和26年法律第193号)に基づき,財政措置を講じ,公営住宅の事業主体である地方公共団体と協力して,住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃の住宅を供給しており,中国残留邦人もその施策対象者とするとともに,入居者選考及び決定において優先的な取扱いを講じている。
被告は,平成7年(1995年)度以降,中国帰国者が,帰国後
(定着促進センター退所後)最初に居住する場合において,公営住宅優先入居の募集選考時期や地域要件又は当該住宅に空きがないなどのため,やむを得ず民間住宅に入居するときは,当該中国帰国者に対し,礼金等入居時に要する費用の一部を生活保護の基準に準じて支給している。


就労に関する支援
被告は,永住帰国者に対し,昭和57年(1982年)度から職業転換金給付制度(訓練手当,広域求職活動費,移転費,職場適応訓練費の支給)を適用するとともに,昭和59年(1984年)度から中国帰国者を雇い入れる事業者に対し,特定求職者雇用開発助成金を支給してその雇用の促進を図っている。また,昭和62年(1987年)度からは,定着促進センター等に設置した職業相談員による職業相談等の業務を実施するなど援助の充実を図っている。

教育に関する支援

(a)日本語教育に関する支援
被告は,昭和52年(1977年)度以降,中国残留邦人に対し,日本語習得のための語学教材として,カセットレコーダー,カセットテープ及びテキストを帰国直後に支給してきた。また,昭和59年(1984年)度以降,日本語教師用の指導参考資料の開発・作成を実施している。
(b)子の教育に関する支援
被告は,就学の円滑化や教育の充実のため,①各教育委員会や学校に対し,受入手続や配慮事項等について周知・指導,②中国等帰国子女日本語指導教材の作成・配布,③中国等帰国子女教育研究協力校の指定等の施策を行っている。さらに,中国等帰国児童生徒を含む日本語指導を必要とする児童生徒が速やかに日本の学校に適応できるよう,①日本語指導等に対応した教員の加配,②母語の分かる教育相談員の派遣,③担当教員等の研修会の開催,④日本語指導教材及び指導資料の作成・配布,⑤日本語指導と教科指導を統合した学校教育におけるJSL(Japaneseasasecondlanguage[第二外国語としての日本語]の略)カリキュラムの開発等受入体制強化のための諸施策を実施している。

国民年金に関する支援
被告は,中国残留邦人等が,帰国時には高齢を迎えているため年金への加入期間が短く,受給額が低額か又は受給できない事態が生じていたことから,平成8年(1996年)に特例措置を講じた。
すなわち,国民年金制度が創設された昭和36年(1961年)4月1日から永住帰国するまでの期間(20歳以上60歳未満に限る。)は保険料免除期間とみなされ,この期間については保険料を納付した場合の3分の1相当額(国庫負担相当額)が年金額に反映される。また,保険料免除期間とみなされた期間については保険料の追納ができ,追納した場合は,この期間について全額が年金額に反映される(通常は,直近の10年分の保険料についてのみ追納が認められるが,中国残留邦人等の場合は昭和36年(1961年)4月1日から永住帰国するまでの期間の追納が可能である。)。
なお,保険料を追納する場合は,生活福祉資金の貸付制度を利用でき,その場合,償還期限が特別長期となるほか,生活保護受給者については,貸付金を収入認定から除外し,この償還に充てる費用も世帯収入から控除している。

一時帰国援護
中国残留婦人等を中心として,日本への一時帰国を希望する者が存在する状況を踏まえ,昭和48年(1973年)度以降,親族訪問,墓参等を目的として中国から日本への一時帰国を希望する者に対し,中国の居住地から日本の落着先までの往復の旅費を支給している。一時帰国旅費の援護は,当初は一度限りの支給を想定していたが,昭和62年(1987年)度以降随時その要件を改正し,平成7年(1995年)度以降は前回帰国から1年経過すれば帰国できることとしている。
なお,身元未判明孤児については,在日親族が明らかでないため,親族訪問,墓参等を目的とすることはできないが,祖国訪問との位置付けにより,平成6年(1994年)度以降,一時帰国旅費の援護を実施している。


養父母の扶養費の支給永住帰国する中国残留孤児の中国に残された養父母の扶養については,本来孤児本人の問題であるが,現実に永住帰国した孤児が中国に残る家族を扶養することは極めて困難であることに鑑み,中国残留孤児の養父母の扶養費として,中国側と取り決めた一定金額を,国民の浄財により設立された財団法人中国残留孤児援護基金(以下援護基金という。)と2分の1ずつの負担により,支払っている。j
中国帰国者生活実態調査の実施
中国帰国者世帯の定着地における生活の実態を把握し,今後の自立促進対策の充実を図るための基礎資料とするため,昭和59年(1984年)以降,不定期的に中国帰国者の帰国後の生活状態実態調査を実施している。
なお,生活保護制度は,生活に困窮する者が,その利用し得る資産,能力その他あらゆるものを活用しても,なお最低限度の生活を維持できない場合に適用されるものであり(生活保護法4条1項),厚生労働大臣の定める基準により測定した要保護者の需要を基とし,そのうち,その者の金銭又は物品で満たすことのできない不足分を補う程度において行われるものであるから,生活保護受給者が年金を受給することとなった場合,その金額分,生活保護費が減額されることになる。

中国残留邦人問題の普及啓発
帰国者の経済面,精神面両面における自立の達成のためには,定着先における地域住民の中国残留邦人問題に対する認識が不可欠であることから,政府としては,自立研修センターや支援・交流センターを拠点として中国残留邦人問題の普及啓発を図っている。また,平成7年(1995年)以降,厚生省及び援護基金の主催により,中国残留邦人問題への理解を深める中央大会を3回開催し,広く国民に対して中国残留邦人問題について普及啓発を行った。(4)補足主張後記5の戦争損害論のほか,次の観点からも,原告らの主張する政策の実施の要否及び内容については,立法府又は行政府の広範な裁量的判断に委ねられている。すなわち,原告らの主張する政策は,①原告らを早期に帰還させるためにとられるべき各種の施策についての政策に関するものと,②帰還した原告らに対してとられるべき各種の施策についての政策に関するものに分けられるが,いずれも総合的,抽象的政策であり,政府がこのような総合的あるいは抽象的政策を立案し,具体的措置を施行するためには,国際情勢や国家財政,国内の経済社会情勢を勘案しなければならず,政府においてその時々における内外の情勢のもとで具体的にいかなる措置をとるべきかは,その性質上専ら政府の裁量的な政策判断に委ねられている事柄とみるべきものであって,仮に一定の目標を達成することができず,又はこれに反する結果を招いたとしても,これについて政府の政治的責任が問われるのは格別,法律上の義務違反ないし違法行為として国賠法上の損害賠償責任の問題を生ずるものとすることはできない。
4
損害(争点4)について
原告らは,各原告に発生した損害は各自個別であるとしながら,他方で原告らの損害の中核的部分では各原告の損害内容は共通していると主張して,共通に受けたとする特徴的な被害を主張立証するにとどまり,個別の原告らの被害実態は不明である。

5
戦争損害論(争点5)
原告らの請求の実質は,戦争損害に対する補償を求めるもので,憲法の予想しないところである。
原告らの主張は,被告が原告らに対して行った何らかの作為から直接発生した被害をもって損害とするのではなく,終戦時に中国にいた原告らが終戦間際ないし直後の混乱の中で帰国を果たすことができず,長期間にわたり中国で生活せざるを得ない状態になったということから直接発生し,又はその間日本で生活できなかったことに伴って発生した各種の不利益を挙げ,これを除去する内容の政策を被告において立案,実施すべきであったとするものであるが,これは,戦争により中国に残留を余儀なくされたという異常な事態に起因する戦争損害に対して,広範な補償措置を講ずべきであったのにこれをしなかったことをもって,国賠法上の違法とするものに帰着する。
しかし,原告らに中国での残留を余儀なくされたことによる各種不利益が発生したとしても,第2次世界大戦によりほとんどすべての国民が様々な被害を受けたこと,その態様は多種多様であって,その程度において極めて深刻なものが少なくないことは公知のことであり,戦中から戦後にかけての国の存亡にかかわる非常事態にあっては,国民のすべてが多かれ少なかれその生命,身体,財産の犠牲を堪え忍ぶことを余儀なくされていたのであって,原告らのみが犠牲を強いられたものではない。そして,このような犠牲は,いずれも戦争犠牲ないし戦争損害として,国民が等しく受忍しなければならなかったのであり,これに対する補償は憲法の予想するところではなく,その補償措置の要否及びあり方は,事柄の性質上,財政,経済,社会政策等の国政全般にわたる総合的政策判断を待って初めて決し得るものであって,原告らが主張するように,これを一義的に決することは不可能である。結局,このような補償措置の要否及びあり方については,国家財政,社会経済,戦争によって国民が被った被害の内容,程度等に関する資料を基礎とする立法府ないし行政府の広範な裁量的判断に委ねられている。
6
国家無答責の法理(争点6)
(1)不作為は,外形上は何もない状態であるから,国賠法上の公権力の行使及び違法性が認められるためには,国賠法上の作為義務が認められる必要がある。そして,その作為義務が認められるためには,法令の定めがあるか,これがなくとも,これに準ずるような法律関係(それがある場合には国賠法上の作為義務が当然に発生するという関係)が必要である。本件において,原告らが主張する先行行為当時,国賠法は施行されておらず,国賠法上の作為義務を発生させる余地はない。すなわち,国賠法施行前においては,国又は公共団体の権力的作用については,私法である民法の適用はなく,損害賠償責任は否定されていた。
そして,国賠法附則6項によれば,国賠法施行前の公権力の行使に伴う損害賠償が問題とされる事例については,国賠法それ自体の遡及適用を否定するのみならず,それまでに採用されていた国家無答責の法理という法制度がそのまま適用されることにより,国又は地方公共団体が責任を負わないことを明らかにする趣旨をも有する。
(2)原告らは,先行行為として,移民政策及び現地土着政策を主張するようであるが,原告らの主張する先行行為は,遅くとも国賠法が施行された昭和22年(1947年)10月27日より前に行われたものであり,国家無答責の法理が支配していた時期の行為であるから,かかる行為については,同法理により民法も適用されず,違法と評価する根拠となる法令も存在しない。(3)以上のように,国は国賠法施行前の行為により国賠法施行後に損害が発生した場合には損害賠償責任を負わないとしているのに,被告に国賠法施行前の行為によって発生した危険性のある状態を国賠法施行後に解消する義務を負わせ,その不作為につき国賠法の適用を認めれば,結局,国賠法施行以前の行為について賠償責任を負わせることになって国賠法附則6項の趣旨に反することは明らかである。
7
除斥期間の経過(争点7)
(1)民法724条後段の法的性格と起算点
民法724条後段は,20年の除斥期間を定めたものであり,その起算点は,原則として損害発生の原因となる加害行為が行われたときである。(2)除斥期間の経過による損害賠償請求権の消滅原告らのいう作為義務の内実は,先行行為に基づき発生するとされる結果回避義務ではなく,違法な国家政策により発生させた被害に対する原状回復義務としての損害賠償義務であり,そうすると,原告らの請求の実態は,被告が違法な国家政策により原告らに被害を発生させたとして,その賠償を求めるものである。したがって,本件は,当該不法行為により発生する損害の性質上,加害行為が行われたときに損害の全部又は一部が発生する場合に当たるから,除斥期間の起算点は,損害発生の原因となる加害行為が行われたときである。
原告らの請求は,その主張する加害行為の時(被告の戦前の違法な国家政策が実施された時)から50年間以上が経過した後にされたものであり,その主張する損害の全部又は一部が発生した時(終戦間際ないし直後の混乱の中で帰国を果たすことができず,長期間にわたり中国で生活せざるを得ない状態になった時)からでも,同様に50年間以上が経過している。すなわち,原告らの被告に対する損害賠償請求権は,仮にそれが発生したとしても,既に消滅している。
8
消滅時効(争点8)
民法724条前段の3年の消滅時効の起算点は,被害者が損害及び加害者を知った時である。
本件において,原告らが主張するとおり,公務員の早期帰国実現義務違反によって原告らが損害を被ったとしても,早期帰国実現義務は,その性質上,原告らが帰国した時点で終了しており,かつ,原告らは,遅くともその時点で損害及び加害者を知った。そうすると,早期帰国実現義務違反を理由とする損害賠償請求権の消滅時効の起算点は,遅くとも各原告らの帰国時であり,原告X57を除く原告らについては,いずれも帰国時から3年以上を経過して本件訴えが提起されているから,消滅時効が完成している。
被告は,平成19年(2007年)1月26日の本件口頭弁論期日において,上記消滅時効を援用するとの意思表示をした。別紙4

個別表


生年月日は,一部推定を含む。



原告番号19X19は,原告番号19の1ないし5の原告らの被承継人である。原告番号

1
昭和15年(1940年)

X1

平成

5月

2年(1990年)12月

身元判明


1日生

戦時死亡宣告


6日永住帰国(当時50歳)
生活保護受給


証拠(甲1の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X1は,終戦時に,ソ連兵に襲われ,母親とはぐれ,中国人に保護された。
②中国での生活状況等
子供のころは日本人であるためいじめられ,共産党下部組織の社会主義青年団に加入できなかったが,高級中学課程は卒業した。卒業後,機械修理工となり,工場長まで昇進したが,文化大革命時には溶接工に降格させられ,さらに日本のスパイとの濡れ衣を着せられ投獄された。また,日本人の子となれば子供の将来も暗いとして離婚させられた。後に脱獄し,身を隠してトラック運転手をしていた。昭和46年(1971年)には罪を追及されることはなくなり,昭和49年(1974年)に結婚し,4女をもうけた。昭和58年(1983年)に文化大革命時の罪はでっちあげであったとして名誉を回復したが,その後,自ら声を上げて帰国する方法を探すことはできないでいた。
③帰国前後の状況等
昭和60年(1985年)に公安局の誘いで訪日調査のことを知り,昭和61年(1986年)の訪日調査に参加した。日本で身元は判明しなかったが,親族が見付からなくとも永住帰国できると知り,永住帰国をしたいと思ったが,妻が日本に対する不安を持っていたことや妻の母親が中国で健在であったために4年後に帰国した。帰国時,当做日本人(日本人とみなされた者)とされ,納得がいかず,すっきりとしなかった。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,日本語を勉強したが,当時50歳で記憶力が衰えていたため,50音図を暗唱することもできなかった。自立研修センターでの勉強も合わせると1年近く勉強したが,単語を覚えることが,いくつかできただけだった。言葉が通じないため職場で冷たくされ,文句を言われ,いじめられ,いづらくなった。生活保護で生活をしているが,生活を切りつめて僅かなお金を貯めるのも違法だと言われるのは,おかしいと感じている。原告番号
2
昭和18年(1943年)
昭和63年(1988年)

X2

1月19日生
8月

身元判明


戦時死亡宣告


3日永住帰国(当時45歳)
生活保護受給


証拠(甲2の1,2,甲総160の1)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X2は,両親が昭和16年(1941年)に渡満した後に生まれたが,農業をしていた同原告の父は徴兵され,シベリアに抑留された。同原告は,母が病に倒れたため養父母に預けられ,母が帰国する際に養父母に引き取られた。②中国での生活状況等
学校では日本鬼子等と言われていじめられ,何か問題があるとやっぱり中国人ではない等と言われた。その後,中等専門学校を卒業し,紡績工場で染色技術員として働いていた。日本人であるため共産党にも入党できなかった。また,25歳のときに結婚して子供が生まれたが,子供もいじめられ,どんなに努力をしても日本人である限り駄目だと思っていた。
③帰国前後の状況等
日本に帰りたいと口にすれば災難が降りかかるかもしれないので,昭和59年(1984年)に出入国管理部門の誘いがあるまで動かなかった。昭和61年(1986年)訪日調査に参加したが,訪日調査後に養父が亡くなり,残された養母の世話の問題があり,帰国が2年遅れることとなった。昭和40年(1965年)5月23日,戦時死亡宣告を受けていたが,父は,日本政府に言われて手続をしたと述べていた。
④帰国後の生活状況等
帰国までの2年間は,中国でも勉強していたので,現在では日本語の日常会話はできるようになったが,十分ではない。機械の名前が覚えられず,仕事を辞めた。兄弟は昭和21年(1946年)という早期に帰国しているので日本語に不自由はない。家族の中では息子が一番日本語が上達している。生活保護を受けたこともあるが,中国に行くことも,少しでも高い物を買うことも厳しく注意されるなど制約が多く,自由がない。また,恥ずかしい思いをしなくてはならないと感じている。生活保護を受けていないときには低賃金で病院にかかることもできない状況だった。原告番号

3
昭和13年(1938年)
平成11年(1999年)

X3

3月27日生

2月10日永住帰国(当時60歳)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

有有
証拠(甲3の1,2,乙3の4)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X3は,両親と共に,昭和16年(1941年)に渡満した。その後,父は徴兵され,シベリアに抑留された。ソ連侵攻後の逃避行中に,妹1人が亡くなった。同原告は長春で母が亡くなる前に養父母に預けられ,妹(原告X4)も,その隣家に預けられた。
②中国での生活状況等
小学校ではいじめられたため,小学2年で中退したので,中国語の読み書きはできない。昭和35年(1960年)に結婚し,1女3男をもうけた。③帰国前後の状況等
昭和61年(1986年)6月の肉親調査に妹と共に参加し,日本での身元は判明したが,親族の身元保証はなかった。妹の帰国後に情報を得て,夫と二男と共に帰国し,その後,他の子供らも自費で帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国し,定着促進センターに入所して1か月後に脳溢血で21日間入院し,その後も体調が悪く日本語を勉強できなかった。今でも何とか買物ができる程度の日本語力であり,日本語が通じないため,中国帰国者と親族以外に日本人との交際はない。生活保護には自由がないと感じている。早く帰国した兄は会社員として働き,現在は年金で普通に暮らしている。
原告番号

4
昭和16年(1941年)
平成

X4

8月29日生

3月19日永住帰国(当時54歳)

8年(1996年)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

有有
証拠(甲4の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X4は,両親が昭和16年(1941年)に開拓団員として渡満した後に生まれたが,父は徴兵され,シベリアに抑留された。ソ連侵攻後の逃避行中に,妹は亡くなった。同原告は母(帰国せずに死亡)らと長春の収容所にいたが食糧難のため養父母に預けられた。姉(原告X3)も,その隣家に預けられた。②中国での生活状況等
印刷関係の専門学校を昭和32年(1957年)に卒業した。昭和38年(1963年)に結婚した。同原告の夫は,建築工程大学の副学長になったが,文化大革命時に迫害された。
③帰国前後の状況等
昭和56年(1981年)に帰国しようとして公安局に申込みをしたが,訪日調査の参加手続が分からなかったことなどから,昭和61年(1986年)になってしまった。親族の身元保証はなく,身元引受人のあっせんを受けて夫と2人で帰国し,その後3人の子が夫婦で帰国した。
④帰国後の生活状況等
何とか買物ができる程度の日本語力である。研修期間は能力に合わせて欲しいと考えている。昭和21年(1946年)に帰国した兄は会社員として働いて,現在は年金で暮らしている。娘は,同原告より日本語が上達した。生活保護を帰国以降受給しているが,平成10年(1998年)に姉の家族を迎えるために中国へ旅行することを市役所に知らせたところ生活保護を打ち切られ,後に住宅費の返還も求められたので,その後は養父母の墓参のために中国に旅行することができないでいる。日本人との交流はない。中国人扱いされ,精神的に貧しく孤独を感じている。
原告番号

5
昭和


3月18日生

平成

X5

7年(1932年)
6年(1994年)

6月

身元判明


戦時死亡宣告


6日永住帰国(当時62歳)
生活保護受給


証拠(甲5の2,甲総130,甲総160の3)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X5は,昭和20年(1945年)に,開拓団員だった両親と共に渡満した。同原告の祖母はソ連兵に殺された。また,満州の人に財産を略奪された。その後歩いてハルピンへ逃避行した。また,その途中でソ連兵に強姦されて気が触れた人も見た。収容所では発疹チフスが流行して多くの人が亡くなった。遺体は凍り付き,廊下や空き部屋に並べられた。同原告も病気になったが一命を取り留めた。亡くなったり,さらわれた妹らがいた。同原告は,日本に無事帰れるか分からないからと養父母に預けられた。
②中国での生活状況等
子供時代は農村で暮らし,貧しかった。昭和24年(1949年)に養父の息子と結婚した。仕事に就いてからは何度も表彰を受けたが,日本人なので最初から共産党入党はあきらめていた。同原告が日本人であるため,夫は党での地位を抑えられ,昇進のためには妻を日本に帰せなどと言われ,さらに,文化大革命時は批判大会にかけられたり,短期間拘束されたりした。同原告は,批判を受けたが大きな被害はなかった。ただ,身を守るために日本の物はすべて焼かねばならなかった。
③帰国前後の状況等
昭和27年(1952年)ころから日本の家族と文通していた。昭和49年(1974年)に一時帰国した。望郷の念はずっとあったが,中国での生活もあるので永住帰国はしなかった。しかし,夫と子供が亡くなったので,弟の勧めもあり,平成6年(1994年)に帰国した。
④帰国後の生活状況等
日本語は忘れないようにしていたし,日中国交回復後は勉強をしていたので,日本語はほぼ不自由がない。平成7年(1995年)9月までは生活保護を受けていたが,北海道中国帰国者自立研修センターに職を得て生活保護を受けなくなった。しかし,平成17年3月に同センターを退職し,現在は再び生活保護を受給している。原告番号

6
昭和19年(1944年)
平成12年(2000年)

X6

1月

6月13日永住帰国(当時56歳)

身元判明


1日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲6の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X6は,父親が変圧器工場の組立工として働くために,両親が渡満した後の昭和19年(1944年)に生れた。終戦前に母親が亡くなり,終戦時の混乱のために,父親が工場の同僚であった養父に,同原告を預けた。
②中国での生活状況等
近所の子供と喧嘩をすると,小日本人と呼ばれるので,同原告は自分が日本人であることは知っていた。養父が昭和28年(1953年)に亡くなり,養母には仕事がなかったため生活は苦しかった。小学校は卒業したが,中学校へは進学せず,変圧器を作る工場に勤めた。最後は工場の変電所長になった。この間,結婚し1男1女をもうけた。
③帰国前後の状況等
帰国したいと思っていたが,方法が分からなかった。公安局に声を掛けられ,昭和61年(1986年)に訪日調査に参加した結果,身元が判明し,昭和63年(1988年)に一時帰国した際,父に永住希望を伝えたが,身元保証を拒否されたため永住帰国できなかった。平成3年(1991年)にも親族訪問のために来日したが,父との関係は冷たいものとなっており,身元保証の話をすることはできなかった。中国に帰国後も東京の友人を通じて父に身元保証人になってくれるよう説得を頼んだが,父の気持ちは変わらなかった。そこで,身元引受人のあっせんを受けることになり,平成7年(1995年)に永住帰国の申請をした。戸籍もあり父もいる大阪を希望したが,大阪なら帰国が遅くなると言われ,仕方なく札幌を選択し,平成12年(2000年)に妻及び2人の子供と永住帰国した。身元保証の制度があるために,父との仲が険悪になってしまった。そのため,帰国後は父と会っていないし,音信もない。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで,4か月の研修を受けたが全く身に付かなかった。造園の仕事に就いたが,日本語が理解できないため雇い主の指示が理解できず,19日間で辞めさせられ,その後,仕事を探したが,日本語ができないために就職できず,生活保護を受給せざるを得なかった。生活は苦しく,安い物を求めて自転車で遠くまで買物に行く状況である。中国に行くと生活保護は停止され,再申請は難しいと聞いているので,中国には帰りたくても帰れない。長男と嫁は印刷会社に就職したが,低賃金の上職場でいじめられたため退職し,現在は長男が土木作業員をしているが,生活は苦しい。原告番号

7
昭和13年(1938年)
平成

X7

4月25日生

6月17日永住帰国(当時54歳)

4年(1992年)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲7の1,2,甲総160の2)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X7は,開拓団員だった両親と渡満した。父は徴兵され,終戦後,母と襲撃を受けないように山道などを逃げる途中で,弟は亡くなった。逃げる途中で中国の部隊に襲撃されハルピンの日本人集中営に入れられ,そこで母が亡くなり,叔母に引き取られた。叔母は養父と結婚したが,1年ほどで亡くなった。②中国での生活状況等
同原告は,養父に労働力として扱われ,殴られることもあった。電気はなく,土壁に藁葺きの家に住んでいた。ひもじい思いをした。当初は日本語を話すことができたが,養父に引き取られたときに,叔母から日本語を話さないように言われ,日本語を話すことはなかった。9歳から12歳まで学校に行った。中国語は読むことはできるが,書けるのは自分の名前だけである。ずっと農民として生活をしていた。25歳のとき結婚し,3人の子をもうけた。仕事中に牛の角に突かれたことがあり,その後遺症がある。
③帰国前後の状況等
40歳のころ(昭和53年(1978年)ころ),肉親探しに訪日できるとの話を聞き,公安局に登録して,平成2年(1990年)訪日調査に参加した。平成4年(1992年)に妻と息子と一緒に帰国した。身元保証人には義理の兄弟(父の再婚相手の子)がなってくれた。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間の日本語学習をし,3年間生活指導員から指導を受けた。自分でもテキストやテレビ,子供との会話で日本語を勉強した。日本語はひらがなとカタカナは読めるが,書くことはできず,簡単なあいさつや買物ができる程度で,周りの人と普通の付き合いができないことがある。子供はかなり日本語ができるようになり,日本語で苦労することはない。6年間くらいクリーニング屋で働き,年金も少し出ているが,今は生活保護を受けている。生活保護について制度の仕組みはよく理解できていない部分もあるが,車を保持できないのは不便であると考えている。原告番号

8
昭和14年(1939年)12月21日生

X8

昭和63年(1988年)

身元判明


戦時死亡宣告


4月11日永住帰国(当時48歳)
生活保護受給


証拠(甲8の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X8は,中国で生まれ育てられたものと思われるが,実の両親は見付かっていないので,はっきりしない。生年月日も養父母が決めてくれたもので,本当のところは不明である。終戦時に,日本に帰るために,集団で貨車に乗り込み奉天に着いたことをかすかに覚えている。難民収容所で養父母の依頼を受けた警官に引き取られ,その後養父母に預けられた。
②中国での生活状況等
養家は都市部の中流家庭で,養父母は同原告を宝物のようにかわいがってくれた。しかし,同原告を引き取って1年後に養父が亡くなって,養母や同原告に相続が認められなかったため,貧乏になり,コーリャンと漬物しか食べられない日が続いた。子供のころは,小日本と言われ,いじめられた。同原告が14歳のときに養母も亡くなり,養父の甥に引き取られてからは,商売の手伝いやくずひろいをさせられた。その後,養母の娘に引き取られて北京に行った。17歳のとき奨学金を受けて技術学校に入った。北京に来たときから日本人であることを周囲に隠し通した(妻にも隠していた。)。文化大革命時には,そのことが発覚しないか不安な日々を送った。軍事関係の職場で電気工として働いていた。妻と結婚し,2男1女をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和57年(1982年)ころに肉親探しの新聞記事を読み,手続を知り,昭和60年(1985年)の訪日調査に参加した。身元未判明だったが,中国に戻って家族と相談し,全員で帰国することとし,昭和62年(1987年)に就籍のため来日し,昭和63年(1988年)に帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間の日本語の研修を受け,追加の研修も4か月受けた。電気工として就職し,日本語が分からず苦労したが,会社の先輩の助けで定年まで働いた。日本語の日常会話は何とか可能であるが,思うように使えず,特に病院へ行くときに困っている。同原告と共に帰国した子供の日本語能力はほぼ問題がない。年金が月額5万円くらいしか出ないので,生活保護を受けている。妻と中国に里帰りをしたくても,中国へ行くと生活保護が打ち切られるので,もっと安定して生活できるようにしてほしいと感じている。原告番号
9
昭和10年(1935年)11月25日生

X9

平成

3年(1991年)10月

身元判明


戦時死亡宣告


7日永住帰国(当時55歳)
生活保護受給


証拠(甲9の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X9は,開拓団だった両親と渡満した。その後,父は,徴兵され,シベリアに抑留された。同原告と母,弟は,収容所で暮らしたが,収容所では草の上で眠り,食糧も少なく,伝染病が流行して多くの人が死んでいった。母も昭和21年(1946年)に亡くなった。母の死後,誰かに連れられて1人目の養父母に引き取られ,弟も別の中国人に引き取られた。しかし,同原告の1人目の養父母も貧しかったので,間もなく2人目の養父母に引き取られた。
②中国での生活状況等
養父母は,同原告を,お手伝いさん代わりの働き手として引き取った。遊ぶことを禁じられ,一日中働かされ,学校へは行っておらず,中国語の読み書きはできない。ずっと貧しい農民だった。土壁の1部屋しかない家に住み,昭和49年(1974年)まで電気もなかった。同原告は,3年生まで,日本人学校に通っていて日本語を話せたが,その後,日本語を話すことはなくなり,日本語を忘れていった。同原告は,20歳のときに養父母の長男と結婚した。夫は妻が日本人であるという理由で共産党に入党できなかった。子は6人いたが成人したのは4人である。
③帰国前後の状況等
他の残留孤児の助けで,母の弟,父の兄の子2人が見付かり,父もシベリアから帰国して再婚していることが分かった。昭和51年(1976年)に一時帰国したが,身元引受人になってもらう人が見付からず,民間団体に身元引受人を紹介されて,平成3年(1991年)にようやく帰国した。帰国は自費だった。④帰国後の生活状況等
帰国後は,身元引受人の地元である岩手県に住み,身元引受人の経営する会社で工事現場の作業員として4年間働いた。当時,岩手県に定着促進センターはなく,日本語の研修を受けていない。日本語はほとんどできず困っている。夫も日本語ができず,職場で怒鳴られるなどして日本での生活が嫌になり中国へ帰ってしまった。同原告も夫を追って中国へ戻ったが,同原告は日本人であり日本に住みたいということで,夫を説得し再来日した。現在,生活保護を受けているが,1人目の養父に会いに中国に帰ることや,子供たちが残っている岩手県に行くことについて不自由があると感じている。原告番号10

昭和12年(1937年)

5月

X10

昭和54年(1979年)

7月14日永住帰国(当時42歳)


身元判明


5日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲10の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X10は,開拓団員だった両親と渡満した。終戦時に,日本人収容所に家族と共に連れて行かれたが,収容所では食料がなく,昭和21年(1946年)1月に養父母に預けられた。
②中国での生活状況等
養父母は同原告をわが子同様にかわいがってくれたが,貧しい家庭で服も1着しかなく,学校へ行けなかった。中国語の読み書きはできない。市場で白菜の切れ端を拾っていた。12歳のときからずっと撚糸工場の工員だった。周囲に日本人であることは知られていたが,目立たないように生きてきたため,日本人であるための差別を受けたことはない。19歳のとき結婚し,4人の子をもうけた。③帰国前後の状況等
姉が残留婦人で,一時帰国の手続をしてくれ,昭和49年(1974年)に来日した。永住帰国をしたかったが,夫が母親を残していくことはできないと言ったため,母親が亡くなった後である昭和54年(1979年)に,夫と下の2人の子と永住帰国した。日本にいた2番目の兄が身元保証人になってくれた。北海道に居住したのは兄が居住していたからである。兄は帰国の手続や費用を援助してくれ,現在も会ったり連絡を取り合ったりしている。
④帰国後の生活状況等
市役所が日本語教師を付けてくれ,1週間に2回ほどの研修を1年間にわたって受けた。日常会話ができる程度の日本語能力はあるが,込み入った話はできない。簡単な文字は読めるが新聞の内容は分からない。医者の話もよく分からない。二男の日本語は高校に進学できる程度のもので,日本人と変わりがないくらいである。長男は学校に進学しなかったため,日本語が上手に話せず,仕事をする上で苦労している。早期に帰国した兄弟と同原告との間には日本語能力に差があり,早期帰国していれば同原告も同じように生活ができたと考えている。夫が中華料理店を開いて生計を立てていたが(同原告はたまに手伝っていた程度),夫が体調を崩し二男に譲った。平成15年(2003年)より生活保護を受けている。日本社会にとけ込めていないと感じている。原告番号11

昭和18年(1943年)11月

X11

平成

7年(1995年)

身元判明

1日生

戦時死亡宣告


2月13日永住帰国(当時51歳)


生活保護受給


証拠(甲11の1ないし3,乙11の3)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X11は,両親と兄が技術者の父の仕事の関係で渡満し,中国で生まれた。父は徴兵され終戦前に戦死し,母は同原告を養母に託した後の昭和21年(1946年)1月ころ病死した。
②中国での生活状況等
養父母には実子と同じように育ててもらった。養家は中国では比較的裕福な家庭であった。9歳から7年間,芸術専門学校で京劇を選択して学んだ。昭和42年(1967年)に劇団員であった夫と結婚し2男をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和59年(1984年)の訪日調査に参加し,身元が判明した。親族は同原告の戸籍訂正(第三者による死亡届)の手続には協力をしてくれたが,身元保証人にはなってくれなかったので,日中友好協会の人が身元引受人になってくれた平成7年(1995年)まで帰国できなかった。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,日中協会(日本語教室)で8か月間の日本語の研修を受けた。日本語は買物ができる程度である。日本人との交際はあるが少ない。孤独を感じている。中国に養母(88歳)が生存しているが,中国へ行くと生活保護を切られるのが納得できないでいる。
原告番号12

昭和18年(1943年)

5月10日生

X12

昭和63年(1988年)

8月


身元判明


戦時死亡宣告


3日永住帰国(当時45歳)
生活保護受給


証拠(甲12の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X12の両親は開拓団員だった。実父は徴兵され消息は分からない。生年月日も養父母が届け出たもので,実際のところは不明である。終戦後,母と弟と3人で収容所に入れられたが,その後,引き取られた先で母と弟は病死し,同原告は養父母に引き取られた。なお,これらはいずれも地元の中国人から教えてもらったことである。
②中国での生活状況等
養家は貧しく,13歳のときから2年間だけ小学校に行き,中国語は読めるが書くことはほとんどできない。子供のころから農作業の手伝いをしていた。養父母は,同原告が日本人であることを周囲の人に隠していたが,公安局は把握しているようだった。結婚してから養父母に出自を教えられた。ずっと貧しい農民だった。土壁の家に住み,電気もなかった。昭和41年(1966年)に結婚し,3男1女をもうけた。
③帰国前後の状況等
帰国したいと思っていたが,機会がなく,昭和61年(1986年)に公安局に声を掛けられ,肉親探しのことを知り,訪日調査に参加したが,身元は判明しなかった。しかし,昭和63年(1998年)に妻と4人の子と帰国した。④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間の日本語教育を受けた。その後,1か月間,自立研修センターに通って日本語を学んだ。日本語は買物や道を尋ねることができる程度で,それ以上の会話は難しい。読み書きは全くできない。日本語が使えないため,できる仕事の範囲が肉体労働に限られてしまうのが辛いと感じている。妻の日本語能力は同原告と同程度だが,共に帰国した子供たちはほぼ不自由なく日本語を使うことができ,仕事に就いている。日本語を修得した子供に付いてきてもらわないと外出もままならない。建設会社で働いたが,リストラされ,生活保護で暮らしている。生活保護は中国渡航(養父母の墓参り)や買物に制限があり困ると感じている。原告番号13

昭和18年(1943年)

9月

7日生

X13

昭和54年(1979年)

4月

5日永住帰国(当時35歳)


身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無無
証拠(甲13の1の2,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X13の両親は,昭和15年(1940年)から昭和16年(1941年)ころ開拓団員として渡満した。父は農業指導員だった。父は終戦直前に召集され,母は生活に困り当時2歳前後であった同原告を養父に預けた。②中国での生活状況等
養父は,共産党の幹部であり,また,同原告を再婚前はかわいがってくれたが,養母にはよく殴られた。養父母が,同原告が9歳のころに離婚したため,同原告は養父の親戚を転々とし,その後,養父の両親に預けられた。そこで学校に4年間だけ通った。中国語の読み書きは簡単なものしかできない。日本人を悪く書いた本や映画を見て肩身が狭く感じた。その後再婚した養父に引き取られたが,再婚相手との間に実子が生まれたためか,家政婦扱いされた。21歳のときから紡績工場で検査員として働いた。日本人なので出世もできず,共産党への入党をあきらめていた。昭和39年(1964年)に母から手紙が来たが,文化大革命時は音信が途絶えていた。昭和47年(1972年)に職場の同僚と結婚した。夫は結婚時に日本人と結婚しないほうがいいと言われていた。夫も地主の子であり,文化大革命時は2人とも細心の注意を払っていた。夫との間に2人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
日中国交回復後の昭和49年(1974年)ころに残留婦人に訪日方法を教えてもらい,母と連絡がつき,昭和50年(1975年)に一時帰国した。この機会を逃すと二度と行けないと思い,妊娠中絶して渡航した。昭和54年(1979年)に家族で永住帰国した。夫が来日するためには,就職先が決まっていることが必要で,母の再婚相手の協力がなければ帰国できなかった。帰国後も母の再婚相手には世話になり自宅も建ててくれた。母の再婚相手には感謝をしている。④帰国後の生活状況等
同原告家族が帰国したときには,日本語研修について日本政府からの援助は受けなかった。民間団体の講習を受けたことなどで日本語の日常会話はほぼできるが,まだ上手く思いを伝えられない。夫は中国で肉体労働をしたことがなかったが,日本では肉体労働しか仕事がなく,腰を悪くした。その後,中古車販売店に就職し,さらにその後,中華料理店を開いたが,病気でやめた。同原告には,自分を捨てた母に対する根深い恨みがある。早く帰国した兄たちは運転手や小さな会社の経営をしている。娘に養ってもらい,生活の苦しさを感じている。原告番号14
昭和16年(1941年)10月15日生

X14

平成

6年(1994年)

身元判明


戦時死亡宣告


6月10日永住帰国(当時52歳)
生活保護受給


証拠(甲14の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X14は北朝鮮で生まれ,そこで母と2人の兄,1人の姉と住んでいた。2番目の兄と満州の親戚宅に滞在していたときに終戦を迎え,混乱の中,吉林省汪清で養父に預けられたと聞いている。
②中国での生活状況等
都市部で,普通の暮らしをしていた。子供のころは小日本鬼子といじめられた。18歳で中学校を卒業し,印刷工場に勤務した。日本人のため青年団に加入できなかった。昭和38年(1963年)に職場の同僚と結婚し,1男1女をもうけた。
③帰国前後の状況等
自分自身のことを知りたいと思っていたが,どうしてよいか分からなかった。昭和56年(1981年)に日本領事館に手紙を出し,同年に兄が見付かったという連絡が来て,母と兄が中国を訪れ,実の母と再会した。同原告の家族は日本に帰ることに賛成してくれたが,母は高齢であり,他の親族も身元保証人になることを拒否したため,特別身元引受人の制度ができる平成6年(1994年)まで帰国できなかった。帰国したときは夫と2人であり,子供は18歳を越えていたため同行できなかった。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間の日本語研修を受けた。しかし,日本語はほとんどできない。病院で症状の説明ができずに困っている。近所付き合いもなく,日本人との交際はない。夫も同原告も仕事が見付からず,ずっと生活保護を受けている。中国へ行くと生活保護が切られて困ると感じている。日本人として扱われていない感じをもっている。自費で帰国した息子は職場で中国人はだめだと言われたことがあった。原告番号15

昭和16年(1941年)

2月24日生

X15

平成

6月10日永住帰国(当時53歳)


6年(1994年)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲15の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X15の父は,満州鉄道の関係者で終戦時まで鉄道の仕事をしていたようだった。事情はよく分からないが,四,五歳のころ,養父母に預けられた。②中国での生活状況等
都市部だったが,養父母は畑をもっており,子供のころから畑仕事や家族の1日分の水くみなどをさせられた。中学1年まで学校へ行った。一緒に預けられた実姉とも差別され,子供のころはいじめられた。大人になってからも日本人であることを理由にいろいろな差別,嫌がらせを受け,結婚してからも小日本と言われており,辛くて,詳しいことは言葉にできないほどである。息子も小日本と言われた。近所には日本軍の虐待を受けた人もおり,日本の侵略行為を恥ずかしく思った。町では中流の生活をしていた。昭和32年(1957年)に就職し,石炭掘,鋳物工場などで働いた。昭和39年(1964年)に結婚し,3男をもうけた。
③帰国前後の状況等
養母から死の間際に実父母の名前,住所が書かれた紙を渡された。昭和55年(1980年)に訪日し,親族訪問をした。しかし,永住帰国に当たっては親族がなかなか身元保証人になってくれず,永住帰国したのは平成6年(1994年)であった。帰国時は既に結婚していた長男と二男を連れてくることができず,当初は,夫と三男の3人で帰国した。その後,長男家族,二男家族を自費帰国させた。
④帰国後の生活状況等
自立研修センターで六,七か月間,日本語研修を受けたが,日本語はほとんどできるようにならなかった。病院で自分の病状を説明をできず,医師から日本人扱いされず馬鹿にされていた。20歳で帰国した三男は,ほぼ不自由なく会話ができるのに対して,53歳で帰国した同原告は簡単なあいさつ,自己紹介ができる程度である。同原告が兄と話をするときは,三男を通じている。長男と二男は,言葉が不十分で就職に苦労している。日本人との交際はない。中国に行きたいが,生活保護を切られるので困ると感じている。また,病弱で動けないのに,市の職員から働けなどと言われた。原告番号16

昭和12年(1937年)

3月

3日生

X16

平成

4月

9日永住帰国(当時53歳)


2年(1990年)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲16の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X16は,貨車に乗り,母,兄2人及び弟とチチハルに来た。母が多くの子供を育てるのが難しかったことから,同原告は,中国人のCさんに預けられ,その後,隣人のDさんが養女として育ててくれた。
②中国での生活状況等
養父は働き手として,同原告を養女に望んだのではないかと思っている。当時,生活が大変苦しく,学校へ行けなかった。勉強したくてもできなかったのはとても辛かった。学歴は全くなく,中国語の読み書きもできない。日本人であることは絶対に言わないようにしていたが,周りの子供たちには,日本人であることを理由によくいじめられた。養父に棒で殴られ,それ以降,右耳が聞こえなくなった。中国での生活はすべてが辛かった。昭和31年(1956年)に結婚し,2男2女をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和61年(1986年)の肉親調査に参加し,平成2年(1990年)に日本に帰国した。当初は,同原告,夫,二女の3人で帰国した。その後,長男,長女,二男も帰国した。
④帰国後の生活状況等
合計で8か月間の日本語教育を受けたが,今でも日本語はほとんど分からないままである。二女は日本語が上手になったが,夫も全く日本語を理解することはできない。現在は夫と2人で暮らしている。帰国後仕事を探し,飲食店の洗い場の仕事を見付けたが,怪我をして数か月で辞めざるを得なくなり,その後は就職できなかったため,現在は生活保護を受けている。子供たちも就職で苦労している。中国に里帰りする際には,生活保護を一旦打ち切られることは知っていたが,懐かしい人たちに会いたくて里帰りした。里帰りの際に生活保護を打ち切るなどの措置をするのはひどいと思っている。原告番号17

昭和20年(1945年)
平成10年(1998年)

X17

6月12日生

3月10日永住帰国(当時52歳)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲17の1,乙17の1,原告X17)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X17の父親は開拓団で大工の仕事をしていたが徴兵された。母は28歳のときに亡くなった。生後4か月後から養父母に育てられた。
②中国での生活状況等
養家は貧しく,養母は5歳のころに亡くなり,10歳から16歳までは小学校に行くことができたが,仕事もあり,学校でしか学べなかったので,中国語は書けない。同年齢の子供からは,小日本人鬼子と言われていじめられていた。遅れた農村で,電気,水道はなかった。1980年代後半にようやく農業機械が導入された。文化大革命時には,人が嫌がることを率先してやり,スパイ容疑をかけられないようにした。昭和42年(1967年)に結婚したが,妻の実家に同原告が日本人であることが分かり,離婚させられた。昭和44年(1969年)に再婚して1男1女が生まれた。
③帰国前後の状況等
兄は4歳で帰国した。同原告は昭和58年(1983年)に一時帰国して兄に会えた。妻の親族が反対していたので,永住帰国は遅れた。帰国直後に妻が行方不明になったことがある。帰国に際し,肉親は援助してくれたが,戸籍は抹消されていた。先妻との子もその後帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後は,仙台の定着促進センターで4か月間,札幌の自立研修センターで8か月間,日本語を学んだが,日本語は全く話せない。仙台にいる間に急性肝炎で入院し,治療を終えた後も日本語が分からないので就職できなかった。18歳で帰国した娘は中学,高校,大学に進学し,日本語には問題がなく,同原告の通訳をしていたが,大学卒業後は名古屋に就職した。帰国後,生活保護を受けているが,生活費が足りず,娘の進学でも費用のことで苦労した。養父母の墓参りと中国の親戚へのお礼のために中国へ行きたいが,生活保護を打ち切られるため行くことができない。妻は知的障害があるが,日本国籍ではないので,障害年金が受けられない。帰国して後悔はしていないが,生活がこんなに苦しいとは思わなかった。普通の日本人と同じように扱って欲しいと考えている。原告番号18
昭和18年(1943年)

1月17日生

X18

昭和55年(1980年)

9月


身元判明


戦時死亡宣告


3日永住帰国(当時37歳)
生活保護受給


証拠(甲18の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X18の父は開拓団で農鉱業の仕事に従事していたが,終戦前に軍隊に召集され,母は収容所で生活していたらしい。母が発疹チフスで重体となったため,母の妹が同原告を養父母に預けた。母は一命を取り留め,帰国し,父もシベリア抑留後に帰国した。
②中国での生活状況等
養父は同原告が子供のころ亡くなり,養母は再婚した。いずれの養父母からも実子同様に育てられた。養父母は農家で,子供のころは,目が悪い養母の手伝いをしていた。周囲の人は皆同原告が日本人であることを知っており,子供たちは喧嘩をすると日本鬼子,小日本と馬鹿にした。10歳から3年間学校に通った。十二,三歳のころ,同じ年くらいの子供たちに引っかかれたり,蹴られたりしたことがある。18歳のときに,養父母の決めた相手と結婚した。5人の子をもうけたが,1人は5歳で亡くなった。
③帰国前後の状況等
昭和53年(1978年)ころ,両親と連絡をとることができ,昭和55年(1980年)父が身元保証人となり,家族5人で帰国することができた。④帰国後の生活状況等
日本語教育については,カセットテープと本をもらったが,他には何も教育を受けなかった。日本語が分からないのが一番の苦しみである。早期に帰国した兄妹,帰国後に生まれた兄弟は日本語も分かるし,大学に行っており,もっと早く帰国できれば,兄弟と同じような人生を送ることができたのにと思っている。夫は職場でいじめられた。病気等で同原告も夫も働くことができなくなり,生活保護を受けていたが,母の所有していた土地が買収され,その代金を受け取ったので,生活保護が打ち切られ,中国を訪問し,養父母の墓参りをした。しかし,やはり,働くことができず,再び生活保護を受けている。原告番号19
昭和19年(1944年)

9月30日生

X19

平成

8月


2年(1990年)

身元判明


戦時死亡宣告


6日永住帰国(当時45歳)
生活保護受給


証拠(甲19の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
亡X19の両親がいつ中国に渡ったか,なぜ離散したかは分からない。亡X19が,林の中に置き去りにされていたところを養母の姉が連れ帰った(当時9か月くらいの乳児だった。)。
②中国での生活状況等
養父は雑貨屋を経営しており,養母は主婦だった。小さいころは,日本人であることを理由にいじめを受けたことはなかった。亡X19が日本人であることは10歳のころに分かった。中学卒業前に養父が病気になり,貧しかったので中学を2年で修了した。中国語の読み書きはできた。学校を修了した後は,旋盤工として働いた。昭和43年(1968年)に結婚し,1男2女をもうけた。③帰国前後の状況等
日本政府から帰国以前は援助を受けていなかったが,帰国時の交通費は援助してもらった。帰国時に養父は亡くなっており,養母には亡X19しか家族がいなかったので,養母を日本に連れて帰りたかったが,日本政府に駄目だと言われ,亡X19と妻,長男と二女の4名で帰国した。長女は,養母の面倒をみる必要があり,4か月後に帰国した。なお,養母は現在も健在であり,80歳になっている。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,自立研修センターで6か月間,日本語の研修を受けた。しかし,言葉で苦労した。日本語は簡単なあいさつ,自己紹介ができる程度であった。子供は読み書きができる。アパートに居住していたため,市営住宅に変わりたいと希望していたが実現されなかった。帰国後,就籍許可の審判を受けた。生活保護を受けるため,車を処分しなければならなかった。また,生活保護を受けていると養母に会いに自由に中国に帰ることができないなど,行動が束縛されると感じていた。
亡X19は,平成17年(2005年)9月18日に亡くなった。原告番号20
昭和13年(1938年)10月10日生

X20

昭和51年(1976年)12月14日永住帰国(当時38歳)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

有無
証拠(甲20の1ないし3)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X20の実父は日本で亡くなり,叔父と実母が再婚して中国に渡ったと聞いていた。叔父は終戦前に軍隊に召集され,シベリアに抑留されていた。開拓村から逃げるとき,母に手を引かれていたが,逃避行中に母は衰弱して亡くなり,姉と2人で残された。とても寒く,食べ物はなかった。母親が亡くなってから一,二週間後に養父母に引き取られた。
②中国での生活状況等
養父母は,実子がいなかったため,同原告を大切にしてくれた。小さいころから日本人であることを知っていたが,そのことは言わなかった。生活は貧しく,学校には三,四か月しか行っていない。13歳から畑仕事を始め,朝から太陽が沈むまで働いた。姉も同じ村の人に引き取られていた。友達に日本人であることを知られてからは,喧嘩をすると日本人に絡めたことを言われるようになった。昭和35年(1960年),親が決めた結婚相手(原告X21)と結婚し,6人の子をもうけた(うち1人は帰国後に出生)。
③帰国前後の状況等
昭和42年(1967年)ころ,日本にいる叔父と手紙のやりとりをはじめた。戦時死亡宣告がされていたが,叔父が取消しの手続をとってくれた。実際の帰国手続が進み始めたのは日中国交回復後であり,手続は叔父がやってくれた。昭和51年(1976年)12月に妻と子と一緒に帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後,日本政府から日本語教育を受けたことは全くなかった。自分で覚えようとがんばった。現在,日本語の会話はできるし,書くことも少しならできるが,中国語の方が楽である。子供たちは,日本語に関しては全く問題がない。北海道の招待で養父母と妻の養母が北海道に来たことがある。帰国後に土木関係の仕事に就き,働いていたため,月額7万円の年金をもらっているが,生活が苦しいため中国になかなか帰ることができない。病気になったらという不安を感じている。原告番号21

昭和18年(1943年)

X21

昭和51年(1976年)12月14日永住帰国(当時33歳)

身元判明

9月


3日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

無無
証拠(甲21の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X21は,離散当時2歳であり,記憶はほとんどない。実父は東北地方の学校の校長だったが,軍隊に召集されてシベリアに渡り,終戦から4年後に帰国したと聞いている。終戦後,母は病死し,3人の姉妹はバラバラに中国人に引き取られた。当時,同原告は死にそうで,日本語も中国語も話せなかったため,なかなか引き取り手が見付からなかった。
②中国での生活状況等
養父母は,引き取られた当初は我が子のようにかわいがってくれた。実子が3人生まれた後は,家が貧しかったため,小さいときから子守りや家事,農業に従事し,学校に行きたかったが通ったことはない。中国語の読み書きはできない。同原告が日本人であることを知ったのは10歳の時だが,それまでも周りの子供から日本人の子と言って叩かれたりしたことはあり,なぜそのようにいじめられるかは分からなかった。養父母は体が弱かったので,結婚するまではほとんど1人で畑仕事をしていた。昭和35年(1960年)に夫(原告X20)と結婚し,中国で5人の子が生まれ,帰国後1人の子が生まれた。
③帰国前後の状況等
昭和51年(1976年),33歳で帰国した。手続はすべて父が進めてくれたらしく,再会を心待ちにしていたが,帰国時,日本語が全く話せなかったので気まずくなり,その後はあまり交流がなかった。
④帰国後の生活状況等
帰国後は日本語教育について日本政府からの援助は受けなかった。帰国直後は言葉が通じないのが嫌で引きこもっていたが,近所の人たちから日本語を教えてもらい,働きたいという気持ちが強かったこともあり,何とか話せるようになった。しかし,完璧にこなせるわけではないので,今でも中国人と言われることが多く,悲しい思いをしている。また,読み書きができないので,職場で書類を書くように言われても自分で書くことができない。日本語を上手く話せないことで,日本人扱いされず,最低限の生活をせざるを得ないことに不満をもっている。年をとって働けなくなり,夫と合わせて月額10万7000円の年金で生活を維持している。原告番号22

昭和18年(1943年)

1月

1日生

X22

平成

4月

9日永住帰国(当時47歳)


2年(1990年)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

有有
証拠(甲22の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X22は,家族と共に開拓団員として渡満し,父は終戦前に徴兵され,シベリアに抑留された後,帰国した。終戦後,母は7人の子供を連れてソ連軍を避けるため逃げたが,難民となって収容所に入った。そこで病気になったため,5人の子供を中国人に預け,間もなく亡くなった。
②中国での生活状況等
養父母には子供がなく,同原告は実子として育てられた。高校卒業後,財務会計専門学校に入り,1年間勉強した。昭和43年(1968年)に結婚し,25年間財務会計職に就いていた。養父母は,同原告が日本人であることをずっと隠していた。夫の父が戸籍関係の公務員で,同原告の出自を調べており,夫に同原告が日本人であることを告げ,同原告は,自らが日本人であることを知った。③帰国前後の状況等
日中国交回復後も養父母のことが心配で肉親探しをする気がなかった。昭和61年(1986年),夫が仕事で日本に行ったとき,肉親探しに帰国した残留孤児の報道を見て,肉親探しをすることを勧めてくれ,夫と共に以前住んでいた地域の人に調べてもらって姉と兄の住所が判明した。昭和63年(1988年),日本に肉親探しに行ったところ,先に姉が一時帰国して長兄と会っており,一時帰国の手続は,姉と兄がとってくれた。平成2年(1990年)に同原告は夫,養母,息子と共に永住帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後,4か月間の日本語学習期間を経て就職し,平成8年(1996年)に夫と中華料理店を開業したが,2人とも体力的に疲れてやっていけなくなり閉店し,その後は生活保護を受けている。同原告は簡単な日本語しか話せないが,21歳で帰国した子供は公務員をしている。原告番号23

昭和16年(1941年)12月

9日生

X23

平成

7日永住帰国(当時47歳)


元年(1989年)12月

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲23の1ないし3)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X23は,父が軍隊にとられて渡満し,その父を追って,母,姉と3人で渡満した。終戦時に父と離散し,母と姉と同原告の3人で養父に引き取られた。その後,母と姉が病死し,養父と2人で生活していた。
②中国での生活状況等
養父は,同原告を労働力として見ており,同原告は養父から,よく殴られた。貧しかったので,学校に通うことができず,小学校3年で中退して,養父の農作業を手伝った。昭和36年(1961年)に結婚し,2男2女をもうけた。③帰国前後の状況等
子供のころから自分は日本人であると分かっていたので,昭和60年(1985年),肉親探しの申請をして,平成元年(1989年)に,妻と下の2人の子と4人で帰国した。上の2人の子は,後に自費で帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センター等で合計1年間日本語を学んだが,何とか買物ができる程度の能力しかない。生活保護費を受給しているが,身体の調子が悪く,働くのが困難であったのに,仕事をするように言われるなどしたことがあった。また,中国を訪問すると,保護費を削られるなどと言われているので,墓参りもできないでいる。病気になったときのことをとても心配している。老後の生活と年金問題について,日本政府の同情と理解が得られることを願っている。
原告番号24

昭和16年(1941年)

X24

平成

2月23日生

戦時死亡宣告


9年(1997年)11月8日永住帰国(当時56歳)

身元判明


生活保護受給


証拠(甲24の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X24は,両親と兄と共に渡満し,終戦時4歳だった。父は終戦直前に召集されて入隊した。その2日後,村の人たちと一緒に帰国するため村を離れることになったが,母が病身だったため途中で集団に付いていけなくなり,母,兄と3人で取り残された。中国人の農園にたどり着き,養父の家に世話になることになったが,母は間もなく病死した。
②中国での生活状況等
養父は,母が亡くなった後も,兄と同原告を我が子同様に育ててくれた。8歳から小学校に行かせてもらったが,とても貧しかったので10歳くらいから家事や農業の手伝いをして1日10時間くらい働いた。冬も裸足だったので,近所の人が見かねて靴を作ってくれたが,とても高価なものだったので,マイナス30度にならなければ履かせてもらえなかった。16歳のときに養父が決めた人と結婚し,1男4女をもうけた。夫はインテリで地位もあったが,妻である同原告が日本人であるため共産党に入党できなかった。四女が大学に進学する際,同原告が日本人であるため推薦を受けられなかった。
③帰国前後の状況等
兄は残留孤児である日本人と結婚し,昭和48年(1973年)に養父が亡くなったので,昭和49年(1974年)に帰国した。平成3年(1991年)に先に帰国した兄に会うために来日し,帰国の手続をとり,平成9年(1997年)に二女家族と帰国した。身元引受人は日本政府が探してくれた。夫が平成10年(1998年)に,長女と三女が平成11年(1999年)に,長男が平成13年(2001年)に自費で帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間の日本語研修を受けた。その後,7か月間の日本語研修も受けた。同原告は56歳で帰国したので,日本語がなかなか上達せず,簡単なあいさつ,自己紹介しかできないまま,研修が終わった。37歳で帰国した二女は日本語が話せる。それ以外の家族は研修を受ける機会がなく,日本語は話せない。日本語ができないため,外出すら躊躇している。原告番号25
昭和17年(1942年)

4月

X25

昭和52年(1977年)

9月27日永住帰国(当時35歳)


身元判明


7日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

無無
証拠(甲25の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X25は,両親が開拓団員として渡満した。その後,同原告が生まれた。家族は両親と5人兄弟で,1番上の兄は,戦争中に帰国していた。2番目の兄と父は中国で亡くなり,姉は母と帰国する船の中で亡くなった。同原告には7歳(昭和24年(1949年))ころからの記憶があるが,そのころは,既に養父母に育てられていた。
②中国での生活状況等
養父が中国語を教えてくれた。周りの子供たちから日本人といじめられて,自分が日本人であることが分かった。隣の中国人の子供に殴られ,爪が刺さって左目を失明した。養父母は同原告を単なる労働力として扱い,虐待された。生活は非常に苦しく,食べるにも着るにも事欠いて,幼いころから働かされていた。養母は特に厳しくて,夜中に仕事をさせられた。学校には全く行っていないので,中国語の読み書きもできない。17歳から炭鉱で働き,その後パイプ工場で働いた。28歳くらいで養父母の決めた相手と結婚したが,子供ができないため離婚し,再度,養父母が決めた相手と結婚し,2人の子供をもうけた。③帰国前後の状況等
子供のときから日本に帰りたいと思っていたが,生きてこられたのは養父母のおかげなので,養父母が亡くなったら帰国しようと思っていた。昭和50年(1975年)に養母が,半年ほどして養父が亡くなったので,昭和52年(1977年),妻,息子,娘と共に帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後,兄の経営する会社を手伝った。その後,職業安定所に行って転職した。日本語学習については,新生日中友好協会に参加して1年半くらい勉強し,簡単な言葉は話せるようになった。しかし,覚えたことをすぐ忘れてしまい難しかった。妻は耳が不自由なので日本語は覚えられなかった。子供たちは日本語を普通に話すことができる。日本語ができないため,疎外感をもっている。現在,障害年金で生活しているが,経済面では苦しいことがある。早期に帰国した兄たちは,普通に日本語を話し日本の社会で立派になっている。原告番号26
昭和16年(1941年)

4月17日生

X26

平成

1月10日永住帰国(当時53歳)


7年(1995年)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲26の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X26は,両親が開拓団員として渡満し,両親は同原告が4歳の時に,同原告を養父母に預けたと,養父母から聞いた。詳しい状況は覚えていない。②中国での生活状況等
養父母は,実の子供同様に育ててくれた。養父母に勧められて8歳から10歳まで学校に通った。中国語の読み書きは簡単なものしかできない。養父母は農村に住んでいたので朝6時から夕方まで家の手伝いをした。昭和34年(1959年),19歳で結婚し,5人の子供が生まれたが,結婚後も農村で生活していた。結婚後,病気がちで外出しなくなったので,日本人であることを理由とした差別や迫害は受けていない。
③帰国前後の状況等
実母の姉が中国にいて,肉親を探し出してくれ,昭和50年(1975年)ころ,日本に一時帰国し,肉親と再会した。母は,帰国して欲しいとの手紙はくれたが,身元保証人にはなってくれなかった。その後,身元引受人を紹介され,平成5年(1993年)に帰国の手続をとり,平成7年(1995年)に夫と2人で帰国した。その後,5人の子は自費で帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後,山形で4か月間,日本語を学び,札幌に来て4か月間研修を受けたが,頭痛などの病気であまり受けられなかった。日本語は買物ができる程度しかできない。これに対して終戦後帰国した姉は日本語を話すことができる。夫は日本語が全く話せない。子供たちは,肉体労働の仕事に就いたが,他の日本人がやりたがらないような辛い仕事をさせられることがある。老後の生活について,生活保護費では足りないと感じ,また,やっとの思いで帰国したのに,日本国民として認めてもらえないと感じている。
原告番号27

昭和12年(1937年)10月15日生

X27

昭和57年(1982年)

身元判明


戦時死亡宣告


4月30日永住帰国(当時44歳)
生活保護受給


証拠(甲27の1,2,甲総160の4)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X27は,開拓団員の両親と渡満した。父は徴兵された。母と離れた状況はよく覚えていない。自分が日本人であることは分かっていた。
②中国での生活状況等
養父母は我が子同様にかわいがってくれたが,子供のころは他の子供たちから小日本鬼子と言われた。小学校を卒業し,専門学校に通った。中国語の読み書きはできる。卒業後,溶接と機械修理の仕事をしたが,日本人であるため出世できなかった。結婚し,2女をもうけたが,離婚し,長女は妻が引き取った。③帰国前後の状況等
日中国交回復後,同じ県に住んでいた日本人が帰国し,叔母を見付けてくれ,昭和52年(1977年)に一時帰国し,昭和57年(1982年),叔母が身元保証人となり,二女と永住帰国した。
④帰国後の生活状況等
当初は叔母のいるY町に住んだが,日本語の学習テープをもらっただけで,日本語を勉強するところはなかった。札幌にある友愛日本語学校を知り,札幌に引っ越して,そこに通った。溶接工場で10年働いたが,職場での事故で働けなくなり解雇された。現在は,脳梗塞になり障害年金を受給しており,また,帰国後に再婚した妻が仕事を辞めたので生活保護を受給している。病気をしているので,生活保護では老後の生活が不安である。
原告番号28

昭和18年(1943年)11月23日生

X28

昭和63年(1988年)12月

身元判明


戦時死亡宣告


8日永住帰国(当時45歳)
生活保護受給


証拠(甲28の1,2,甲総160の5)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
終戦直後に,原告X28の母が5人の子供を抱えて収容所のような所にいたときに,子供がいない中国人夫妻が同原告を引き取った,また,父は開拓団員であったが終戦時にソ連軍によってシベリアに連れて行かれたと養母から聞いている。
②中国での生活状況等
子供のとき,近所の子に鬼子と呼ばれ,自分は日本人かも知れないと思った。9歳のときに養父が戦死したことが判明したので,養母が働き,2人で支え合ってきた。養母が日本人である同原告を養っていることを隠していたため,他の者より遅れて11歳の時に小学校に入学したが,学校でいじめられたことや,養母が身体が弱くて生活が苦しかったことから,中学校は18歳の時に1年で中退した。その後工員として働いた。中国にいても,周囲は同原告を日本人として見るため,孤独な思いをしていたので,実父母,兄妹の消息は不明だが,ずっと日本に帰りたいと思い続けてきた。昭和42年(1967年)に結婚し,3人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和61年(1986年)に訪日調査に参加し,昭和63年(1988年)12月,夫,長男,二女と共に帰国し,その後長女と養母も来日したが,養母は1年で中国に戻り,平成5年(1993年)に亡くなった。
④帰国後の生活状況等
帰国後,定着促進センターで4か月間,日本語を勉強したが,簡単なあいさつ程度しか話せない。言葉が通じないため,職場や周囲の日本人となじめず,孤独な思いをし,疎外感を感じている。子供たちも学校でいじめられ,いたずら電話がかかってきたこともある。現在の生活はまあまあだと考えているが,夫もリストラで解雇され,同原告も膝と腰を痛めて働けず,生活保護を受給するようになり,老後の保障はなく,自由がないと感じ,また,生活を続けていくのに不安を感じている。原告番号29

昭和

X29

平成12年(2000年)

9年(1934年)10月

身元判明

9日生

戦時死亡宣告


6月13日永住帰国(当時65歳)


生活保護受給


証拠(甲29の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X29は,開拓団員であった両親と渡満した。終戦後,母と姉,妹と逃避行中,母は負傷して病院に搬送され,そのまま生き別れた。その後,父や次兄と出会い,父と共に収容所に入れられたが,父は間もなく病死し,夫の家族(養父母)に売られた。
②中国での生活状況等
養父母は,農業を営んでいたが,同原告は単なる労働力とされ,様々な虐待を受けた。養父は,同原告にとって主人であって養父ではなかった。毎日罵られ,殴られ,働かされて,睡眠時間は五,六時間しか許されなかった。学校には行っていない。中国語の読み書きはできない。昭和27年(1952年)に,養父母の二男と結婚し,2男1女をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和60年(1985年)に残留孤児の肉親探しが始まったことを知り,中国語も日本語もできないため大変苦労したが,公安局に届け出た。昭和61年(1986年)に訪日調査で一時帰国し,兄2人と姉と再会した。平成12年(2000年)に長兄が身元保証人となってくれ,娘家族と永住帰国した。戸籍は抹消されていた。2年後に夫や長男,二男の家族が帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,自立研修センターで8か月間,日本語を学んだが,簡単な買物や伝言ができる程度しか日本語を話すことはできない。早期に帰国した兄2人と姉は日本語で不自由なく会話ができる。日本で就職したことはなく,生活保護を受けて生活しているが,買いたい物がなかなか買えず,やりくりが大変である。中国に帰ると,その間生活保護が止められ,家賃も出してもらえないと聞いている。そのため,夫の両親の墓参りや,親戚との交流もあきらめている。子供たちが職場で外国人扱いされて邪険にされ,嫌がらせを受けるので,仕事が長続きしない。残留孤児になったのは自ら選んだ結果ではなく,中国に置き去りにされ,長年放置された上,やっと帰国できても人間らしい生活ができないと感じている。原告番号30

昭和20年(1945年)

4月11日生

X30

平成

1月17日永住帰国(当時49歳)


7年(1995年)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲30の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X30の両親は,昭和17年(1942年)ころ,兄と姉をつれて開拓団員として渡満した。父はシベリア抑留中に亡くなり,昭和21年(1946年)5月ころ,母と同原告が養父に引き取られた。姉は行方不明となり,兄は養父の兄の養子となった。母は昭和22年(1947年)の冬に亡くなった。②中国での生活状況等
養父は実の子のようにかわいがってくれた。貧しい暮らしで土壁の一部屋の共同住宅(流しとトイレは共用で,電気も水道もない。)に住んでいた。とうもろこしとわずかな野菜の食事で,肉や魚はほとんど口にできなかった。小学校は8歳から2年間行ったが,10歳からは養父の農作業を手伝った。時折,同原告を日本人だと罵って物を投げたりする人がいたので,自分のことは日本人だと思っていた。19歳のときに養父は亡くなった。養父が残した農園で農業をしていた。23歳の時に結婚し,2男1女をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和57年(1982年)に兄が帰国した。兄から帰国を勧められたが,経済的負担を掛けると思い,また,急激な生活環境が子供たちに与える影響を考え,帰国を躊躇していたが,平成7年(1995年)に兄が身元保証人になってくれ,帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後,日中友好センターの日本語教室と,自立研修センターで合計約1年間日本語教育を受けたが,日本語は満足に習得できなかった。帰国できたことはうれしいが言葉ができないことが残念である。子供たちは日常生活に支障がない程度に日本語を習得している。土木作業の仕事に就いたが,日本語の指示がよく分からなかったことが原因で事故に遭い,足を骨折し,仕事ができなくなった。生活保護を受給しているが,額が少なく十分な生活ができない。怪我をして仕事を辞めた後は,怪我の状態があまりよくないのに,早く仕事を探すように言われるなどした。中国に里帰りする際には生活保護が打ち切られるのは知っていたが,息子の結婚式のために里帰りしたことがある。費用はすべて子供たちから出してもらった。原告番号31

昭和19年(1944年)11月23日生

X31

昭和63年(1988年)

身元判明


8月

戦時死亡宣告


3日永住帰国(当時43歳)
生活保護受給


証拠(甲31の1ないし3,甲総160の6)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X31の両親は現在の内蒙古自治区に入植した。父は召集され,フィリピンで戦死した。母は掃除婦として働いていたが発疹チフスに罹り追い出された。養父が,母と同原告を家に連れ帰った。その後,母は養母の兄と再婚し,同原告は養父母に引きとられた。
②中国での生活状況等
養父母は同原告の子供のようにかわいがってくれた。小学校(6年間),初級中学校(3年間)を卒業し,高級中学1年のときに中退して,自動車の運転手,運輸隊の仕事に就いた。周りの人に日本人とは知られていなかったので,日本人であるということで何か差別を受けたことはなかった。昭和46年(1971年)に結婚し,1男1女をもうけた。養母は昭和51年(1976年)に亡くなったが,養父は現在90歳で中国にいる。
③帰国前後の状況等
義父が亡くなったので,母は昭和51年(1976年)に一時帰国し,同原告も昭和52年(1977年)に一時帰国した。母は昭和54年(1979年)ころに永住帰国した。母は仕事がなく身元保証人になることができず,同原告は,叔父に頼んだが難色を示され,手紙を出すなどして,ようやく11年後に叔父が身元保証人になってくれ,昭和63年(1988年)8月に家族全員で永住帰国した。
④帰国後の生活状況等
定住促進センターで4か月,北海道で1年間,日本語を勉強したが,買物やあいさつをするなどの簡単な会話しかできない。平成2年(1990年)に札幌高等技術専門学院で溶接の技術を学んだ。平成5年(1993年)に溶接工として就職し,平成15年(2003年)まで働いた。中国で25年,日本で約10年の職歴があるのに,十分な年金が支給されていないと感じている。現在は生活保護を受給している。5年前に養父に会いに中国に行き,また,行きたいと考えているが,その費用はない。原告番号32

昭和11年(1936年)

1月

X32

平成

6月27日永住帰国(当時60歳)


8年(1996年)

身元判明


2日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

有有
証拠(甲32の1ないし3)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X32は,昭和14年(1939年),両親及び妹の4人と共に黒竜江省に入植した。その後母は病死した。父は再婚し,召集された。昭和20年(1945年)8月,継母,妹,弟,妹の5人で避難し,難民収容所に入った。避難中に弟は病死した。継母は収容所に同原告らを残して帰国した。下の妹は収容所で行方不明となった。同原告と上の妹は昭和20年(1945年)冬,それぞれの養父母に引き取られた。
②中国での生活状況等
養父母は貧しい農民だったが,将来,同原告を息子の嫁にするつもりであったため,普通にかわいがってくれた。子供時代は家の手伝いばかりで学校に通ったことはなく,中国語の読み書きはできない。昭和32年(1957年)養父母の息子と結婚し,5人の子をもうけた。文化大革命の影響で,同原告が日本人であるため,同原告ら夫婦は,人民公社で重要な仕事に就くことができず,幹部からは,日本の鬼などと言われた。
③帰国前後の状況等
妹は同じ残留孤児の日本人と結婚しており,その関係で昭和50年(1975年)に帰国した。妹の帰国後,父が秋田にいることが分かり,妹は父と再会することができた。昭和52年(1977年)に父が病死し,同原告は父と再会できなかった。昭和53年(1978年)ころ一時帰国した。身元保証人がおらず,また,60歳を過ぎないと子供を連れて帰れないと言われ,平成8年(1996年)に,夫と二男の3人で永住帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後に日本語研修を受けたが,日本語は夫婦2人でやっと買物ができる程度の能力である。生活保護を受けているが,中国に2回墓参りに行った。その際,事前に市の保護課に申請し,帰国したときも声を掛けねばならず,保護費はカットされた。子供たちは一度も中国に帰っていない。生活保護を受けているが,今の生活は苦しくて不自由であると感じている。原告番号33

昭和14年(1939年)

7月23日生

X33

平成

9月15日永住帰国(当時56歳)


7年(1995年)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲33の1,乙33の1,原告X33)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X33は,昭和14年(1939年)に現在の川上郡S町で生まれ,昭和20年(1945年)5月,両親,兄,数人の姉,2人の弟と共に開拓団の一員として渡満した。同じ開拓団に原告X5がいた。終戦後,瀋陽にたどり着いた。家族の多くが病気になり,ある日,同原告は父に最初の養父母に預けられた。預けられた先の家に子供が生まれたため,女中のようにこき使われた。その後,2番目の養父母に売られた。
②中国での生活状況等
X5が養父母の元を訪ねて来た際,同原告は両親が帰国したことを知った。その後,養父母は養父の兄嫁に同原告を預けた。そこは地方の農村で,食べるものはほとんどなく,ぼろぼろの衣服しか着られず農作業と家事に酷使され,いつも殴られていた。3年ほどして養母に売られたが,1年ほどして養父に買い戻された。養父に肉体関係を強要され,養父の妻にさせられて8人の子供を産んだ。③帰国前後の状況等
昭和52年(1977年)養父が亡くなると,ようやく自由の身となった。その後,兄弟が帰国していたことを知った。昭和54年(1979年)に一時帰国し,永住帰国したいと思ったが,親族は身元保証人になってくれなかった。原告X5の援助で,身元引受人が見付かり,平成7年(1995年)に一番下の息子と永住帰国した。その後,他の子供たちも自費で帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月日本語研修を受け,その後,自立研修センターで8か月の研修を受ける予定であったが,2か月たったころ入院して,そこで終わっている。日本語は簡単なあいさつや自己紹介ができるくらいで,一番日本語が上達した一番下の娘に通訳をしてもらっている。帰国してから,ずっと生活保護を受けている。生活保護は,金額が少なく,入院すると減額され,子供と同居できず,子供の収入を調査されるなどの点で,不自由を感じている。
原告番号34
X34

昭和14年(1939年)7月25日生戦時死亡宣告無
平成6年(1994年)6月10日永住帰国(当時54歳)
男身元判明有
生活保護受給有
証拠(甲34の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X34の父は,昭和13年(1938年)に,吉林省にわたり,その後,昭和15年(1940年)に,母,3人の兄,姉,同原告の6人が後を追う形で移住し,現地で妹が生まれた。父は建築会社で働いていた。昭和19年(1944年)に父が病死した。昭和20年(1945年)の終戦とともに収容所生活となった。母は収容所で病死した。昭和21年(1946年)に帰国が認められるようになったが,帰国したのは長兄,次兄,姉の3人だけであり,3番目の兄,同原告及び妹は栄養失調だったため帰国のための船の長旅に耐えられないということで,それぞれ中国人養父母に預けられた。ただし,妹はどこに預けられたか不明で,現在も行方不明である。
②中国での生活状況等
養父母は,食堂経営をしており,同原告は実子のように育ててもらった。昭和22年(1947年),小学校に入学し,中等専業まで進学したが,昭和33年(1958年)に,養父が病気で働けなくなったため,中退した。その後,鋳造技師,品質検査員として働いた。養父は昭和34年(1959年)に,養母は昭和55年(1980年)に亡くなった。昭和34年(1959年)に結婚し1男4女をもうけた。子供のころは,小日本鬼といじめられた。文化大革命時,日本人である旨の自白を強要され,7日間の停職処分を受けた。
③帰国前後の状況等
昭和52年(1977年)ころから日本大使館に手紙を4回ほど出したが,昭和54年(1979年)になって,受け付けられた。昭和58年(1983年)に身元が判明し,一時帰国した。永住帰国を考えたが,身元保証人が必要だと言われ,当初は親族に拒否されたが,平成6年(1994年)になって兄が身元保証人になってくれ,同原告ら夫婦と四女が永住帰国した。その後,ほかの4人の子供たちも帰国した。帰国が遅くなると日本社会に溶け込めなくなるのではないかと心配だった。
④帰国後の生活状況等
帰国後,定着促進センターで4か月間,自立研修センターで8か月間,日本語研修を受けたが,年齢のため,日本語能力は簡単なあいさつや買物ができる程度にしか上達しなかった。年齢と日本語が話せないことから就職できず,生活保護を受給している。生活保護を受けていると,食べたいものも食べられず,中国の養父母の墓参りも行けない。平成7年(1995年)に中国に墓参りに帰ったときは,その費用を生活保護費から差し引かれた。中国で働いてきた35年間と同じだけ日本で働いていれば,日本で年金が受け取れたはずであると考えている。原告番号35
昭和20年(1945年)

3月20日生

X35

平成

4月


2年(1990年)

身元判明


戦時死亡宣告


9日永住帰国(当時45歳)
生活保護受給


証拠(甲35の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X35は,両親が渡満した事情,両親の職業,どこに住んでいたか,両親と別れたときの状況などについて記憶がない。両親の帰国に当たり生後5か月で養父母に預けられたと養父母から聞いている。
②中国での生活状況等
養父母は同原告を実子と同様に養育してくれた。小学校に8歳から14歳まで通ったので,中国語の読み書きはできる。子供のころは,中国人の子供にいじめられた。昭和40年(1965年)に結婚して3人の子をもうけた。大人になってからは,日本人であるための差別や,いやがらせを受けたことはなかった。③帰国前後の状況等
昭和61年(1986年)に夫が亡くなってから,帰国の手続をとった。昭和63年(1988年)の肉親探しに参加したが,身元は判明しなかった。国から身元引受人を紹介され,平成2年(1990年)に,二女と長男と共に帰国した。平成4年(1992年)に,長女家族も帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで日本語の勉強をしたが,同原告は,簡単なあいさつ,自己紹介しかできない。子供たちはパソコンの専門学校に行き,日本語ができる。食堂の皿洗いの仕事に就いたが,他の従業員には昼食の弁当が出るのに,同原告には出ないという差別を受けた。次にビル清掃の仕事をしたが,日本語が通じず,辞めることとなった。そこでは,同僚が清掃に使う洗剤を自宅に持ち帰っていたことが判明したときに,同原告のせいにされたということがあった。現在は生活保護を受けており,中国訪問をすると保護費が減額されるため,中国の養父母の墓参りができない状況である。原告番号36

昭和17年(1942年)

X36

昭和56年(1981年)11月

身元判明


2月28日生

戦時死亡宣告


6日永住帰国(当時39歳)
生活保護受給


証拠(甲36の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X36の両親,2人の兄は昭和14年(1939年)に開拓団員として渡満した。同原告は,昭和17年(1942年)に生まれた。父はその1か月前に召集され,帰国した。長兄は昭和19年(1944年)に進学のために帰国した。終戦時,母,次兄,同原告は収容所に入った。母は,昭和21年(1946年)に収容所で病死した。同原告は,母が病死する直前に養父母に預けられた。②中国での生活状況等
次兄は帰国した。養父もその後,八路軍に殺され,養母は再婚することになり,養父の兄に育てられた。子供のころいじめられたこともあった。着るものにも食べるものにも事欠く生活をした。奨学金をもらって,中学校,高校に通った。日本人であるため,大学の受験も止めるように学校から言われたが,色々な人に頼んで,昭和40年(1965年)教員養成の専門学校に入学し,昭和42年(1967年)に卒業して教員になった。教員になってからも担任クラスが何度も優秀クラスになっても,表彰されないなどの差別を受けた。昭和45年(1970年)に結婚し,1男1女をもうけた。
③帰国前後の状況等
日中国交回復後,昭和50年(1975年)に一時帰国した同じ開拓団の残留婦人に父を見付けてもらい,昭和54年(1979年)に一時帰国した。長兄に身元保証人になってもらい,昭和56年(1981年)家族4人で永住帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後,市役所で50時間の日本語研修を受けたが,全く話せるようにはならなかった。妻は,友愛日本語学校を開設していた医師の病院に就職でき,看護師の資格を取得した。同原告は,帰国後は,病院のリネン室の仕事や,中華料理店,酒造工場,建築や道路修理をする会社で働いた。中国での職歴を活かせなかった。日本語ができないことで中国人扱いされた。帰国後14年間働いたが,年金は年額30万円ほどである。老後の年金制度を求めたいと思っている。金額は生活保護程度でもかまわないが,乞食にものを与えるような制度はいやだと感じている。原告番号37

昭和14年(1939年)

6月28日生

X37

昭和61年(1986年)

3月20日永住帰国(当時46歳)


身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無無
証拠(甲37の1ないし10,乙37の1ないし3,原告X37)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X37は,昭和16年(1941年),両親,姉と共に吉林省に移住し,弟(原告X38)と妹は中国で生まれた。父は昭和19年(1944年)に召集され,戦後の昭和20年(1945年)8月に妹が亡くなり,同年12月には母が栄養失調と過労で亡くなった。3人の兄弟が残され,物乞いをして暮らしたが,昭和21年7月には姉が亡くなった。同原告と弟は別々に中国人の養父母に引き取られた。
②中国での生活状況等
養父は炭鉱夫で,同原告を農業高等技術学校まで行かせてくれた。小学校のころは,当初は日本語しか話せず,また,家で覚えた山東訛りの中国語が通じずに本当に苦労した。昭和36年(1961年)に同技術学校を卒業後,中国の技術吏員になった。昭和37年(1962年)に結婚し,1男3女をもうけた。文化大革命のときは日本人であるために,日本と連絡をとっていないか調べられ,自白を強要され,首にわたしはスパイですという看板をぶら下げて歩かされるなど,日本のスパイとして迫害された。冊外戸籍に入っており,戦時には最初に処刑される人間として分類されていた。後日,養父母が公安に,同原告が日本人であることを話していたことを知った。
③帰国前後の状況等
昭和60年(1985年)に肉親探しに参加し,父と会うことができた。昭和61年(1986年)に,妻と4人の子と帰国した。このとき,同原告と未成年の2人の子の旅費は日本政府が負担してくれた。
④帰国後の生活状況等
友愛日本語学校で6か月間,日本語を勉強したが,現在でもごく簡単な日本語の会話ができる程度しか話せない。帰国後,自動車の洗車や,屎尿処理施設で働いた。現在は年金で生活している。年金は夫婦合わせて月額11万2000円で,暮らしていくのが非常に大変であると感じている。中国では高学歴で,技術指導を行う役人をしていたが,日本では肉体労働しかなく,精神的にも肉体的にも辛かった。原告番号38

昭和16年(1941年)

X38

平成11年(1999年)10月13日永住帰国(当時58歳)

身元判明


9月16日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

有有
証拠(甲38の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X38は,原告X37の弟である。同原告の父は,昭和19年(1944年)に召集された。昭和20年(1945年)8月に妹が亡くなり,同年12月には母も亡くなった。兄弟3人で生活をしていたとき,姉が亡くなった。兄と同原告は別々の養父母に引き取られた。
②中国での生活状況等
養父母は地主だったが,その後全財産を没収された。同原告が9歳のとき,養父が亡くなり,13歳から農夫として働きだした。とても貧しく惨めな生活だった。養父の出自や同原告が日本人であることのため,人民公社に勤めていたとき,社長にはなれず,副社長にしかなれなかった。土木建築業に職業を変えたが,基建科の副科長にしかなれなかった。人の糞を集めて回るような仕事を割り当てられた。共産党に入党できなかった。日本人であるということで殴られたり,罵られたりすることがあった。文化大革命時にはスパイ容疑を掛けられないように言動に気を付けていた。30歳から58歳まで炭鉱夫として働いた。養父母が貧しかったので,学校には1年半しか行っていない。23歳のとき結婚し,4人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
平成10年(1998年)に,友達から多くの残留孤児が帰国していることを聞き,厚生省に手紙を書き,肉親探しのために一時帰国し,先に帰国していた兄と再会した。平成11年(1999年)に兄が身元保証人になってくれ,同原告夫婦,長男夫婦,孫1人と4女の6人で帰国した。4女の渡航費は国から出なかった。長女の家族は後に自費で帰国した。二女は中国に残った。戸籍は抹消されており,回復のために裁判手続をしなければならなかった。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,日本語研修を受けた。その後,旭川にある日本語訓練校に通いたかったが,市役所では交通費を出してくれなかったため行っていない。日本語は簡単なあいさつ,自己紹介しかできない。生活保護を受けていると,妻の里帰りや養父母の墓参りができない。二女が中国にいるが,会うこともできない。旅行にも行けないし,土産を買うお金や冠婚葬祭の費用もないので,親戚のところに遊びに行くこともできない。保護費が少ないので,日本に来てから着るものや靴は買ったことがない。担当のケースワーカーからは,日本語ができず,高齢で,健康状態がよくないのに,なぜ働かないかなどと言われる。原告番号39
昭和15年(1940年)

1月20日生

X39

昭和63年(1988年)

4月11日永住帰国(当時48歳)


身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲39の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X39の父は職業軍人だった。父はシベリアに抑留され,母はハルピン市で働きだし,同原告を養父母に預けた。その後,昭和25年(1950年)ころに母は1人で帰国した。
②中国での生活状況等
養父母には,我が子同様に育てられ,大変かわいがられた。7歳のころ,実母の姉(伯母)に引き取られた。伯母は何人かの中国人と結婚したが,実子はいなかった。伯母夫婦から虐待を受けた。服も夏冬各1着しかなかった。14歳のとき,伯母の夫に強姦され妊娠した。村の者から白い目で見られながら,生まれた子は自分の子として育てた。日本人であることを隠したことはない。17歳のとき,現在の夫と結婚し,7人の子をもうけた。生活のため,工場の食堂で働いた。
③帰国前後の状況等
日中国交回復後,昭和47年(1972年)に,伯母が日本政府に手紙を出し,母が見付かり身元が判明した。伯母は昭和50年(1975年)に帰国した。母が身元保証人になかなかなってくれず,帰国が遅れ,昭和61年(1986年)に,里帰り帰国をした。昭和63年(1988年)に同原告が永住帰国し,その後,家族は3回に分けて帰国した。
④帰国後の生活状況等
同原告は定着促進センターで4か月間,日本語研修を受けたが,簡単なあいさつ,自己紹介しかできない。子供は学校等で日本語を身に付けた。経済的理由から下の子供以外は高校へ通わせることができなかった。生活保護を受けているため,中国に墓参りに行けないのが非常に辛いと感じている。経済的にぎりぎりの生活をしている。身体の調子が悪く仕事ができないのに,市の職員からは,働けなどと言われる。原告番号40

昭和11年(1936年)

7月

X40

昭和50年(1975年)

4月13日永住帰国(当時39歳)


身元判明


1日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

無無
証拠(甲40の1ないし3)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X40は,両親,兄2人,姉2人,妹1人と共に8人で渡満した。兄2人は軍隊に召集された。昭和20年(1945年)に姉,母と妹が,翌年に姉と父が亡くなり,同原告だけが残った。同じ開拓団の人に面倒をみてもらっていたが,昭和21年(1946年)養父母に預けられた。
②中国での生活状況等
養父母には3人の娘がいたが,同原告を自分の子として育ててくれた。日本人であることは周囲のみんなが知っていて,小日本と呼ばれることがあった。養父母が貧しかったので,正規の学校に行かずに働いたが,夜間学校に行ったことがあるので,中国語の読み書きに困るということはない。25歳のときに一度目の結婚をしたが死別した。その後,現在の妻と結婚し,3人の子をもうけた。③帰国前後の状況等
昭和50年(1975年)に,家族5人で帰国した。帰国費用はすべて日本政府が負担してくれた。身元保証人には兄がなってくれた。
④帰国後の生活状況等
帰国後に日本語研修を受けたことはなかった。片言の日本語は話せたので,職業訓練校に通ったり,仕事をする中で日本語を覚えた。日常生活に困らない程度に日本語はでき,新聞を読むこともできるが,手紙を書くのは得意ではない。日本語のレベルは,残留孤児の中では高い方かもしれないが,日本で育った人と比較すると相当劣っている。職業訓練校に通っていたときは生活保護を受けていたが,その後は,自分で稼いだお金で生活をしている。昭和60年(1985年)には運転免許を自費で取得した。帰国後20年以上仕事をしてきたが,年金は年額85万円程度と少なく,生活は楽でないが,生活保護ではなく,自分の力で生活をしたいと考えている。また,人並みの年金をもらえるようにして欲しいと考えている。原告番号41

昭和17年(1942年)

X41

昭和62年(1987年)11月20日永住帰国(当時45歳)

身元判明


7月14日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

無無
証拠(甲41の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X41の両親は,昭和15年(1940年)に渡満した。母が収容所にいるとき,子供に恵まれなかった養父母に出会い,帰国する際,4人の子全員を連れ帰るのは難しい状況だったので,同原告のみを養父母に預けたと聞いている。②中国での生活状況等
養父母は同原告を高校まで出してくれた。大学に進学したかったが,養父が地主出身で出自が悪いためあきらめた。同原告は,子供のころ,近所の子供たちから小日本と罵られたり殴られたりした。養父は,文化大革命のころ,元地主だった上,日本人である同原告を育てたという理由で,毎日職場で厳しい尋問や暴行を受けたり,日本のスパイだと非難されたりし,半年以上監禁され,精神的に参ってしまい,昭和42年(1967年),職場で自殺してしまった。同原告は,高校卒業後,化学工場で働き,26歳のとき同僚と結婚し,4人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和51年(1976年)ころから,肉親探しを始め,昭和54年(1979年)ころ母親が見付かった。昭和59年(1984年)に一時帰国した。昭和62年(1987年)に姉に身元保証人になってもらい,三男を預けて他の家族と養母を連れて永住帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで3か月間日本語研修を受けたが,養母の世話をしなければならず自立研修センターの研修は受けられなかった。同原告は簡単なあいさつができる程度の日本語しか身に付かなかった。子供は不自由なく話すことができる。日本語が話せないことが一番辛いと感じている。また,老後の生活を心配している。
原告番号42

昭和17年(1942年)11月14日生

X42

平成12年(2000年)

身元判明

戦時死亡宣告


6月13日永住帰国(当時57歳)


生活保護受給


証拠(甲42の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X42は,自己の出生地,生年月日は分からない。道端で泣いていた同原告を養父の親しい友人が拾ってきた話を聞いた養父が育てることになり,養母の連れ子である姉が,家に連れ帰ったと聞いている。
②中国での生活状況等
学校に上がるときから小日本と呼ばれており,日本人であることは知っていた。養父の体が悪かったので,家の手伝いのため小学校に6年間しか行っていない。子供のころから家業の農業の手伝いをした。昭和33年(1958年)に結婚し,5人の子をもうけた。昭和45年(1970年)に妻が亡くなり,翌年に再婚した。昭和35年(1960年)に国営のトラクターステーションに勤め,その後,学校に通うことができた。卒業後,政府機関の職員となった。特に文化大革命後は,細心の注意をはらって生活した。そこで,幹部になった。③帰国前後の状況等
昭和61年(1986年)に訪日調査に参加したが,肉親は見付からなかった。妻と子供1人だけしか連れ帰ることができないということだったので,その後,子供が大きくなるのを待って,平成7年(1995年)に,帰国を申請した。身元保証人がいなくて,すぐには帰国できなかった。平成12年(2000年)になって,身元引受人が見付かり,妻と娘の家族と共に帰国できた。④帰国後の生活状況等
日本語研修を受けたが,日本語は簡単なあいさつができる程度しか話せない。妻が統合失調症に罹っている。言葉ができないので近所付き合いができない。中国では60歳になれば,それなりの年金をもらうことができたはずであるが,生活保護を受けており,生活保護では食べ物も,着る物も我慢しなければならないし,旅行にも行けないと感じている。原告番号43

昭和18年(1943年)

4月

8日生

X43

平成

8月

6日永住帰国(当時47歳)


2年(1990年)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲43の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X43は,昭和20年(1945年)ハルピンでEという中国人がF機械製作所という名前の付いた建物で同原告を見付け連れてきたことと,その後転々としてGという人から養父が同原告を引き取ったということを養父の弟から聞いている。なお,日本名が分からないのでF機械製作所から名前をとってX43とした。
②中国での生活状況等
養父母の家は貧しかったが,非常に優しく,実の子と分け隔てをすることなく同原告を育ててくれた。子供のころ小日本と言われたことがあった。養父は同原告を引き取って1年半後に亡くなった。9歳から15歳まで小学校に通い,その後中学校に進学したが2年で中退した。中国語の読み書きは十分できる。16歳のとき,織物工場で働きだした。19歳のとき同僚の男性と結婚し,4人の子をもうけた。就職先では,日本人であるため,幹部になることができなかった。
③帰国前後の状況等
夫の母が亡くなった昭和61年(1986年)から,帰国の手続をとった。昭和63年(1988年)に肉親探しに参加したが,身元は判明しなかった。平成2年(1990年)に夫と2人で帰国した。その後長男家族,二女家族,三女家族が帰国した。身元引受人は日本政府が用意し,同原告が探す必要はなかった。④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,自立研修として8か月間の日本語研修があったが,日本語は簡単なあいさつができるに程度で,読み書きはほとんどできない。職場でも役に立たったとは思えなかった。日本語ができないため職場でいじめられたりした。成人した子供も日本語で苦労している。現在は生活保護を受けているが,中国の養父母の墓参りをする度に保護費を差し引かれ,また,健康状態が悪く働くのが困難なのに,市の職員からは,仕事に就けなどと言われるなど自由がないと感じている。原告番号44

昭和14年(1939年)12月

X44

平成

9年(1997年)

身元判明

8日生

戦時死亡宣告


1月10日永住帰国(当時57歳)


生活保護受給


証拠(甲44の1ないし3,乙44,原告X44)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X44は,中国に渡った事情はよく分からない。両親と弟の4人で生活していた。昭和19年(1944年)に父が召集された。母が生活のためたばこを売りに出かけている間に,大連の自宅前で誘拐され,養父母に売られた。②中国での生活状況等
養母が生きている間は優しくされたが,昭和25年(1950年)に養母が亡くなり,昭和26年(1951年)に養父が再婚すると,再婚相手である継母にいじめられた(継母の連れ子と差別され,家事労働をさせられた。)。昭和35年(1960年)に養父が亡くなると,継母に家を追い出された。同年代の子供たちから日本鬼子と罵られた。また,中国共産主義青年団に加入できなかった。昭和36年(1961年)に結婚した。結婚後は,同原告が日本人であるが故に,夫は減給され,昇進できず,共産党にも入党できなかった。日本人ゆえ,トラブルを起こさないよう気を遣って生活をした。
③帰国前後の状況等
昭和53年(1978年)ころから日本赤十字社に手紙を出すなどしていたが,昭和55年(1980年)に身元が判明した。戸籍は抹消されていたが,母が回復してくれた。同年に一時帰国したが,実母に身元保証人にはなってもらえず,平成9年(1997年)になって,日本政府が身元引受人を探してくれて帰国した。平成6年(1994年)に夫が亡くなっていたので,1人で帰国した。その後,息子家族と娘の家族が自費で帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,自立研修センターにも8か月間通ったが,日本語を覚えることはできなかった。帰国後,母と母が帰国後に産んだ弟に会ったが,侮辱的発言を受けた。実家にも呼んでもらえていない。言葉が通じないため,様々な点で苦労をした。日本語ができないことと年齢のせいで,就職ができなかった。日本人は優しい人もいるが冷たい人もいると感じている。生活の不安,言葉の不安がある。生活保護を受けているが,中国に帰国したときはパスポートのコピーを渡し,保護費も減額されるなど,自由がないと感じている。原告番号45
昭和18年(1943年)

1月25日生

X45

昭和53年(1978年)

7月14日永住帰国(当時35歳)


身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲45の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X45の両親は,昭和18年(1943年)に渡満し,父は満州鉄道の職員をしていた。両親,兄2人,姉3人と同原告の8人で暮らし,同原告は幼少で病弱だったため,終戦後の帰国時に両親が養父に預けた。肉親7人中姉3人は帰国途中で亡くなり,父,兄1人も帰国後すぐ亡くなった。
②中国での生活状況等
生活環境が悪かったため小児麻痺になった。養父母は身元を隠してくれたが,周囲から小日本と言われたので,うすうす日本人かもしれないと感じていた。文化大革命時に,共産党への入党拒否により日本人だと分かった。養父母は実子と同じようにかわいがってくれ,家計をやりくりして高校まで通わせてくれた。成績は良かったが,日本人ゆえ不合格になるかもしれないと思い,大学へは進学しなかった。小学校の教員として3年間,工場の技師として8年間働いた。昭和47年(1972年)に結婚し,娘1人が生まれた。
③帰国前後の状況等
実母も同原告のことを探しており,比較的早く身元が判明し,昭和53年(1978年)妻と娘の3人で永住帰国した。
④帰国後の生活状況等
実母も実兄も様々な援助をしてくれた。帰国当初は生活保護を受けていた。職業訓練に通い写植を勉強し,自動車の運転免許も取得した。出版社に20年近く勤務したが,写植の仕事がなくなり,日本語の発音が正確でなく,ワープロを早く打つことができないため退職した。その後は再び生活保護を受けている。帰国時当初は日本語がほとんど分からなかったが,札幌の日中協会で1年間くらい日本語を勉強した。また,職業訓練校の中での生活や,同原告より早く日本語を覚えた妻や子供たちとの会話を通じて,日本語を身に付けていった。孤児の中では日本語ができる方だが,日本語を使うことの不自由さは否定できない。原告番号46
昭和19年(1944年)

7月26日生

X46

平成

8月


2年(1990年)

身元判明


戦時死亡宣告


6日永住帰国(当時46歳)
生活保護受給


証拠(甲46の1,2,甲総160の7)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X46は,物心がついたときから,養父母に育てられていた。終戦後,ソ連軍に追われて難民になった母が1歳くらいの同原告を中国人に託し,その後,人の手を介して養父母に引き取られたと養母から聞いた。
②中国での生活状況等
養父母に子はなく,同原告をとてもかわいがってくれた。病弱だったため,養父母は苦労を重ねて育ててくれた。小学生のころ,小日本鬼子と言われたが,養母には実の子供だと説明された。16歳で小学校を卒業した。体調が悪いために専門学校を中退し,地元で農業を営む組合で働いた。20歳のとき結婚し,2男2女をもうけた。結婚後に養母に同原告が日本人であると打ち明けられた。
③帰国前後の状況等
昭和58年(1983年)に市の職員に帰国を勧められたが,養父母への思いから一旦は断った。しかし,養母が亡くなり,養父や夫の勧めもあり昭和60年(1985年)に訪日調査のため一時帰国したが,身元は判明しなかった。その後,養父も亡くなったので,平成2年(1990年)に夫と娘2人の4人で永住帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間過ごし,その後は市営住宅に住むことになった。帰国後1年間のみ生活保護を受給したが,その後は夫婦で食品加工会社に勤めた。日本語ができないというだけで,生活上も仕事上も困難にぶつかった。上司の指示をよく理解できない。日本人との交際はできない。日本人と比べて給与が低いように感じている。養父母の墓参りをするための渡航費用も出ない。普通の日本人と同じような生活を保障してほしいと考えている。原告番号47
昭和11年(1936年)

2月17日生

X47

平成

4月


元年(1989年)

身元判明


戦時死亡宣告


5日永住帰国(当時53歳)
生活保護受給


証拠(甲47の1,乙47の1,原告X47)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X47は,昭和17年(1942年)開拓団員の両親と長兄,次兄,妹の6人で渡満した。終戦後,逃避行し,病気に罹りながらも長距離を歩いた。開拓団が集まっているところに避難したが食べ物はなく,そのままでは病死,餓死などするのが必至だっため,同原告は命を守るために養父に引き取られた。②中国での生活状況等
養父は同原告にとてもよく接してくれ,同原告は,ずっと,我が子同様に育てられた。終戦時9歳だったので,日本人であることは知っていた。周囲の子供には日本の鬼といじめられたので,日本人だと知られるたびに養父は引越をし,いじめを避けるため日本人と登録しないようになった。最終学歴は大学卒業である。鉱山,政府,労働局等の管理職になったが,日本人だと知られてからは差別を受けるようになった。文化大革命時,批判,追究され鉱山に下放され,厳しく辛い環境のもとで生活した。昭和38年(1963年)に結婚し,1男3女をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和53年(1978年)ころ公安局から身元調査が来たが,迫害を恐れて日本人ではないとして調査を断った。養父が昭和57年(1982年)に亡くなったことや,文化大革命後の中国の政治の方向も固まってきたこともあり,昭和59年(1984年)ころから日本の親族を探し始めた。昭和60年(1985年)に肉親が判明した。昭和61年(1986年)に一時帰国し,平成元年(1989年),妻,二女,長男と共に永住帰国した。長女家族と三女は,その後,自費で帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後,定着促進センターで4か月間,自立研修センターで8か月間,日本語の研修を受けたが,高齢で帰国した同原告や妻にとっては不十分だった。同原告は帰国後9年間日中貿易にかかわる仕事をして,簡単な通訳をしたので,ある程度日本語が分かるようになった。考え方や文化についても違いが大きく,コミュニケーションがとれず,外国人扱いをされ,馬鹿にされている感じだった。日本では中国での職歴等を全く認めてくれず,仕事上も評価が低いと感じている。人間としての尊厳を返してほしいと考えている。原告番号48

昭和11年(1936年)

3月31日生

X48

平成

3月


2年(1990年)

身元判明


戦時死亡宣告


8日永住帰国(当時53歳)
生活保護受給


証拠(甲48の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X48の母は,種々の事情から内縁の夫と渡満した。母は,終戦時に,収容所に収容されたが,内縁の夫を徴兵されて,頼る者がいなかったので,生活のために中国人と結婚した。再婚相手はアヘンを吸ったり服役をしたりしていた男で,同原告を虐待した。その後,同原告は伝染病に罹り,その病気が治りきらないうちに,母のいない隙を狙って養父母に売られた。
②中国での生活状況等
養父母はわが子同様に同原告を育ててくれた。周囲は,同原告が日本人であることを知っていた。子供のころから小日本と言われた。いじめが原因で小学校を退学した。中国語を読むことはできるが,書くことはできない。昭和27年(1952年)に結婚した。4人の子供をもうけたが,長女は病気に罹ったがお金がなくて病院に行くのが遅れ,亡くなってしまった。結婚後の生活は最低水準だった。同原告が日本人だったため,夫も息子も共産党に入れなかった。日本人なので余り目立たないように慎重に生活していた。
③帰国前後の状況等
日中国交回復後の昭和51年(1976年)に一時帰国した。その後,平成2年(1990年)に夫と長男夫婦と孫の5人で永住帰国した。その後,二男家族と二女家族も帰国した。帰国費用は同原告ら夫婦の分しか出ず,子供らの帰国費用には,自立支度金を充てるなどした。身元保証人は母が探してくれた。④帰国後の生活状況等
帰国後,定着促進センターの研修は受けなかった。日中友好センターの日本語講座に8か月間通ったが,高齢のため覚えられず,簡単な会話程度しかできない。言葉が分からないことと経済的に苦しいことが辛いと感じている。生活保護は打ち切られたが,子供たちの支援で中国に墓参りをしたことがある。自由と老後の生活保障を求めたいと考えている。原告番号49

昭和17年(1942年)

X49

平成

3月

2年(1990年)12月

身元判明


8日生

戦時死亡宣告


6日永住帰国(当時48歳)
生活保護受給


証拠(甲49の1ないし3)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X49は,鉄鉱所を経営していた父と,母,兄3人,姉2人及び同原告の8人家族で生活をしていた。終戦後,母は逃げているときに中国の人から殴られ,同原告は母が意識を失っている間に,養父母に引き取られた。1年後実母に見付けてもらったが,養父母は同原告を引き渡さなかった。
②中国での生活状況等
生活は苦しかったので,養父の死後,養母の負担を軽くするため,中学卒業後に就職した。周囲の人が同原告を日本人として差別したりすることはあったが,養母が激しく抗議をしてくれた。日本人であることを理由に共産主義青年同盟に加入できなかった。昭和36年(1961年),結婚して,2人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和55年(1980年)ころから,帰国の手続をとりはじめ,昭和60年(1985年)に訪日調査のため来日し,母親が見付かった。平成2年(1990年)に夫,二男と共に永住帰国した。身元保証人には長兄がなってくれたが,頼まれて嫌々引き受けたようだった。長男夫婦はその後,自費で帰国した。④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,自立研修センターで半年間,日本語研修を受けたが,日本語は簡単なあいさつ程度しか話せないので,仕事上コミュニケーションがとれず,肉親にも気持ちが伝えられない。これに対して子供たちは日本人と普通に会話もできるし,新聞や雑誌を読むこともできる。肉親とは年一,二回,年賀状,中元の付き合いをするくらいである。長兄は戦後すぐに帰国したため,日本語には問題がない。周囲の日本人に理解されず,中国人だと思われている。職場で同原告に対し誰が仕事を教えるかがなかなか決まらなかったり,同原告が仕事の上で失敗をしても誰も教えてくれなかったりしたときには,悔しくて夜一人で泣いたこともあった。生活保護を受けていると,養父母の墓参りができないなど,不自由なことが多いと感じている。原告番号50

昭和20年(1945年)

X50

昭和63年(1988年)12月

身元判明

4月11日生


戦時死亡宣告


8日永住帰国(当時43歳)
生活保護受給


証拠(甲50の1)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X50は,両親が渡満した事情や,どんな仕事をしていたか,離散時の状況などを覚えていない。2歳のころ,撫順の孤児院にいたところを養父母に引き取られた。
②中国での生活状況等
養父母は農業をしており,義理の姉が3人いたが,同原告を本当の子と同じように育ててくれた。日本人であることは隠していたが,近所の人は知っていた。通学していたころ,同級生に日本鬼子とか小日本とか呼ばれていじめられた。8歳か9歳くらいから小学校に通い,体が弱く,休みがちであったため16歳のとき卒業した。卒業後は農作業に従事した。日本人故に共産党に入れず,仕事の評価も低い扱いを受けた。攻撃を受けないようにひっそりと生活していた。昭和41年(1966年)に結婚し,3人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和50年(1975年)ころには,日本に帰りたいという気持ちもあったが,農村部で情報が入らず方法が分からなかった。昭和59年(1984年)になり,中国の役人から帰る方法を聞き,日本人であることを登録してもらった。昭和61年(1986年),肉親調査に参加し,昭和63年(1988年),妻と子の3人の家族全員で帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後,4か月間,定着促進センターで日本語を学んだ。その後,日中協会で1年間日本語を勉強した。しかし,年をとっていたため覚えられず,簡単なあいさつや自己紹介,買物や簡単な伝言くらいしかできない。帰国後,就職先で言葉ができず,上司の指示も分からず,解雇された。日本人なのに中国人の扱いを受けている。帰国してからずっと生活保護を受けている。中国に訪問すると保護費をその間打ち切られるとは言われていたが,子供たちに援助してもらって一度中国を訪問した。また,体調がすぐれないのに,市の職員から仕事をさがしなさいと言われるなど,自由がないと感じている。原告番号51
昭和16年(1941年)10月

3日生

X51

昭和62年(1987年)10月

6日永住帰国(当時46歳)


身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲51の1ないし3)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X51は,家族が中国に渡った状況や,家族との生活については,ほとんど記憶がない。養父母に預けられた状況についても記憶がない。母は養父母の近所に住んでいて仲が良かったと聞いている。
②中国での生活状況等
養父は国民党下で区役所の区長をしていた。学校については8歳から小学校に通い,中学校を卒業するくらい(16歳くらい)まで通った。養父母から日本人だと聞かされたが,父の区長という社会的立場からそのことを隠していた。養父は,同原告が十五,六歳のとき捕まり牢屋へ入られた。同原告も反革命子女と書かれた看板をもって道路脇に立たされたりした。養父は重い病気のため銃殺を免れ解放されたが,その後,1年足らずで亡くなった。同原告は,その後,建築会社の放送係,鉄道の乗務員として働いた。昭和41年(1966年)ころ,25歳くらいで結婚し,4人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
日中国交回復後,肉親探しの手続が分からずにいたが,昭和58年(1983年)に申請の手続をし,昭和61年(1986年)に訪日調査に参加したが,身元は判明しなかった。翌年に夫と2人の子と4人で帰国した。その後,結婚していた2人の子も帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後,定着促進センターで4か月間,自立研修センターで8か月間,日本語研修を受けたが,日本語は相手の話していることが20パーセントくらい分かる程度である。日本語が上手く話せず,高齢で,病弱のため仕事にも就けない。他の日本人との交流はない。中国人扱いをされたことがある。日本語が分からないのが苦痛である。日本語教育の専門施設が欲しいと考えている。生活保護と障害者年金で生活しているが,生活保護は自由がないと考えている。原告番号52
昭和15年(1940年)

X52

昭和59年(1984年)10月19日永住帰国(当時44歳)

身元判明

9月23日生


戦時死亡宣告

生活保護受給

有有
証拠(甲52の1ないし3の2)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X52の父は,開拓団の一員として渡満した。父は,終戦後,ソ連に連行され,母は,悲嘆にくれ,弟と妹と共に自殺したと聞いている。同原告は収容所に連れて行かれ,そこで2年間生活した。知り合いがいなかったので,餓死寸前だった。知人の日本人の紹介で中国人の養子となった。
②中国での生活状況等
養父母からはよく殴られた。養母が亡くなった後,養父の兄の家に行ったが,養父の兄の嫁から虐待を受けた。養父と共に家を出たものの,養父は仕事で不在がちだったため,一人で生活していた。養父は何度も同原告を売ろうとしたが村長がそのたびに説得してくれた。学校には12歳のころから2年間くらい通った。中国語は簡単なものを読むことはできるが,書くことについては自分の名前と住所を書けるくらいである。学校では小日本鬼子と罵られた。14歳のころ,養父に乱暴を受け,妊娠をした。養父から引き離すために養父の妹夫婦が今の夫との結婚を勧めた。結婚する際,養父は夫に金を要求し,夫に売られて,15歳のとき養父の子を妊娠したまま結婚し,6人の子をもうけたが2人は亡くなった。日本人故に共産党に入党しなかった。
③帰国前後の状況等
昭和55年(1980年),公安局から連絡があり,昭和56年(1981年)に一時帰国し,その後,昭和59年(1984年),長女夫婦,二男,三男と帰国した。夫は長男夫婦と中国に残ったが,その後,夫と長男も自費で永住帰国した。帰国したとき戸籍は抹消されていて悲しかった。自分は生きているのに,なぜ死亡したことになっているのかと思った。
④帰国後の生活状況等
帰国後,区役所,日中友好協会で日本語を学んだ。日本語のカセットテープをもらったが,不識字のため教材が読めなかった。日本語は買物や簡単な伝言ができる程度で,読み書きは全くできない。日本語もできず,体の状態も良くないので,仕事ができない。これに対して,子供たちは仕事をしながら日本語を覚え,長女以外は日本語が上手である。生活の中では,子供たちが同原告の通訳をしている。生活保護は中国へ帰国する際,減額されること,医療証明書が必要なこと等の点で不便であると感じている。拉致被害者と同様の補償を受けたいと考えている。原告番号53

昭和12年(1937年)12月

X53

平成

4年(1992年)

身元判明


7日生

戦時死亡宣告


6月12日永住帰国(当時54歳)
生活保護受給


証拠(甲53の1ないし3)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X53は,開拓団の一員として,両親,兄2人,弟2人の7人で渡満した。終戦後,家族全員が収容所へ行った。1番下の弟は栄養失調で亡くなった。収容所では,たくさんの人が栄養失調や伝染病で死んでいった。生きていけるようにと,両親から中国人養父母に預けられたが,同原告もそうしないと生きていけないと思った。両親と長兄は収容所で亡くなったと聞いている。②中国での生活状況等
養父母は,本当によくしてくれ,同原告を自分の本当の子のように扱ってくれた。養父は昭和21年(1946年)に亡くなった。養母は専業主婦だったので実家に戻り,農業で生計をたてた。生活は苦しかったが,養母は苦しい家計をやりくりして,学校に通わせてくれ,技術学校を卒業した。戸籍上中国人として登録されたが,周囲は,同原告が日本人であることを知っており,子供のころは仲間はずれにされたり殴られたりした。小日本と言われた。文化大革命のときは日本人であるために村のリーダーから下ろされた。昭和42年(1967年),結婚し,2女をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和61年(1986年)に訪日調査で来日し,次兄と再会した。戸籍は抹消されていてショックだったが,次兄が復活してくれた。平成2年(1990年)に一時帰国し,平成4年(1992年)に家族4人で永住帰国した。④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,自立研修センターで8か月間,日本語研修を受けたが,簡単なあいさつや自己紹介ができ,相手の日本語も簡単なことなら分かる程度である。子供たちは何の問題もない。ワイシャツ工場で働いたが,日本語ができないため,就職後は給料や待遇で差別を受けた。同僚からは冷たい目で見られてきた。退職後,生活保護を受けているが,中国に帰る際の手続のことや車が持てない点で不自由を感じている。老後の保障と生活の自由を確保したいと考えている。原告番号54

昭和14年(1939年)

5月

X54

昭和63年(1988年)

4月11日永住帰国(当時48歳)


身元判明


8日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

有有
証拠(甲54の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X54は,開拓団の一員として,両親,姉3人,妹(原告X56)と7人で満州にいた。父は,終戦前に召集されていた。終戦後,開拓団で避難していたとき,海林県道林村の学校の校庭で,母の不在のときに開拓団の通訳の朝鮮人によって妹と共に中国人養父に売られた。
②中国での生活状況等
養父は農業とともに飲食店もやっていた。最初の養母は優しかったが亡くなった。継母は,同原告と妹を酷使し,何度も叩かれた。冬になっても防寒着はなく,靴は自分で草で編んだものを履いた。近所の子に小日本と言われ,いじめられた。養父母の反対で学校に通えなかった。同原告の様子を見て,役所の職員が余りに可哀想であると思ってか,服を買ってくれたこともあった。役所の紹介で幼稚園で働いた。また,夜学に行き,中国語の読み書きを覚えた。昭和32年(1957年),結婚し,4人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和58年(1983年)に肉親探しに来日し,母が見付かった。母が身元保証人になってくれ,昭和63年(1988年)に家族で帰国した。戸籍は抹消されていたが,母が回復の手続をとってくれた。
④帰国後の生活状況等
帰国後,定着促進センターで4か月間日本語を学習したが,あいさつ以外は簡単な話を除いては話すことも相手の話を理解することもできない。就職したが,日本語が分からないため,職場で毎日怒鳴られ,仕事を辞めた。生活保護を受けているが,友人の葬儀で中国に行くときにも生活保護が減額されるのはおかしいと感じている。原告番号55

昭和17年(1942年)

9月

7日生

X55

平成

4月

5日永住帰国(当時46歳)


元年(1989年)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲55の1,2,甲総160の8)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X55は,家族や家族と離散した状況は覚えていない。終戦後,肺病や凍傷に罹り重体になったため,養父に預けられた。1年後に実姉が同原告を引き取りに来たが,養父母は,渡さなかったと聞いている。
②中国での生活状況等
養父母は,同原告を中国人だと言っていたが,近所の人に小日本と罵られたので日本人であるかもしれないと思っていた。養父母との生活は苦しかった。野草や木の皮を食べたこともあった。学校から帰ると仕事を手伝った。中学校は卒業しているので中国語の読み書きはできる。卒業後工員として働いた。昭和42年(1967年),結婚し,3人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
自分が日本人であることを疑っていた同原告は,日中国交回復後の,昭和54年(1979年)か昭和55年(1980年)はじめころに,関係者を調査し,また,養父から聞いて自分が日本人であることを知った。昭和60年(1985年)一時帰国したが肉親は見付からなかった。家族と相談し,平成元年(1989年)に長男と三男の3人で永住帰国した。妻と二男は後で帰国した。④帰国後の生活状況等
帰国後,定着促進センターで4か月間,日中協会で1年間余り日本語を勉強したが,同原告は,簡単なあいさつ,自己紹介ができる程度にしか日本語ができるようにならなかった。障害者の二男を除いた子供たちは通常の会話ができる。造園会社等で1年間ほど働いたが,日本語が十分できないため,辞めた。他の日本人からは中国人と言われる。現在は生活保護を受けている。老後の生活の保障をしてほしいと考えている。原告番号56

昭和16年(1941年)10月30日生

X56

平成

戦時死亡宣告


5年(1993年)10月12日永住帰国(当時51歳)

身元判明


生活保護受給


証拠(甲56の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X56は,原告X54の妹であり,開拓団の一員として,両親,姉4人と満州にいた。終戦前に父が召集された。終戦後,開拓団で避難中,海林県道林村の学校の校庭で,開拓団の通訳の朝鮮人によって中国人養父母に売られた。②中国での生活状況等
最初の養母が亡くなった後,継母から姉と共にいじめられ,労働力として朝から晩まで酷使された。子供のころ頭に怪我をしたが,治療を受けさせてもらえなかった。姉が頼んでくれたおかげで小学校は4年まで行けたので,中国語の読み書きには不自由はない。養父から日本人であることは隠すように言われていたが,周囲の人は知っており,近所の子供たちには小日本と言われていじめられた。14歳のとき製紙工場に就職した。昭和38年(1963年)に結婚し,5人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
養父が亡くなった昭和53年(1978年)ころ,公安局に帰国希望を述べた。昭和58年(1983年)に,姉が肉親探しに行き,母が見付かった。姉は母が身元保証人になって帰国することができたが,同原告は母に身元保証人になってもらえなかった。平成5年(1993年)に,先に帰国した姉の保証でもよいことになり,家族で帰国した。このようなことがあり,母とは疎遠である。戸籍回復の手続は姉がしてくれた。
④帰国後の生活状況等
1年間余り日本語の勉強をしたが,簡単なあいさつ程度しかできない。肉親との交流はない。区役所の職員に毎月

仕事を探して下さい。就職しないなら保護は打ち切る。

などと言われている。しかし,日本語が不自由なので就職の面接をしても断られる。また,養父母の墓参りに行きたいと思っているが,中国に行く旅費が保護費から出ない。過去2回中国に帰ったが,市役所の人から

帰国旅費はどこから出したのか。保護費を削る。

などと言われた。原告番号57

昭和

X57

平成13年(2001年)

9年(1934年)

身元判明


8月25日生
6月

戦時死亡宣告


4日永住帰国(当時66歳)
生活保護受給


証拠(甲57の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X57は,開拓団の一員として,祖父,両親,兄,姉,弟の7人で渡満した。満州で妹が生まれた。終戦前に父は徴兵された。終戦時,襲撃を受けて牡丹江市に向かった際,山の中を40日間もさまよい,家族とはぐれた。日本人の知人に紹介され,養父母に引き取られた。
②中国での生活状況等
養父母には,労働力として扱われ,就職するまで家の手伝いをしていた。昭和23年(1948年)から農閑期に開設された夜間学校に昭和29年(1954年)まで通って,中国語の読み書きを身に付けた。養父母から虐待されたことはないが,養父母の二男には叩かれるなどのいじめを受けた。日本人であることを知っていたし,周囲にも隠さなかった。子供のころは,近所の子供に日本鬼子だと鞭で叩かれた。昭和31年(1956年),製紙工場に就職してからは昇給できなかった。日本人であるため結婚を断られたこともあった。文化大革命の時日本のスパイと言われた。
③帰国前後の状況等
昭和61年(1986年)に訪日調査に参加し,叔父に会うことができた。このとき帰国したいと思ったが,叔父に身元引受を拒否されたこともあり,一時,帰国をあきらめた。平成12年(2000年)に二男が勤めていた会社がつぶれたのを機に,平成13年(2001年)に妻と二男家族と共に帰国した。身元引受人は紹介してもらった。戸籍は抹消されており(通常の失踪宣告),平成15年(2003年)になって回復できた。
④帰国後の生活状況等
帰国後,定着促進センターで3か月間,自立研修センターで9か月間,日本語の勉強をしたが,年齢等から簡単な日本語しかできない。言葉が不自由なこと,中国に訪問すると生活保護を打ち切られるのがつらいと感じている。言葉が不自由なので中国人として扱われる。今の生活水準で構わないので,自由がほしいと考えている。原告番号58

昭和12年(1937年)

9月

X58

平成

6月12日永住帰国(当時59歳)


9年(1997年)

身元判明


9日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

有有
証拠(甲58の1ないし4)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X58は,父の職業は詳しく分からない。父が先に渡満し,その後,母,兄,弟の4人で渡満した。それがいつか,どこに住んでいたかは覚えていない。終戦後,難民収容所に行き,母は病気で亡くなった。同原告は中国人の仲介で養父母に引きとられた。
②中国での生活状況等
養父母にかわいがられたという記憶はなく,いつもいじめられていた。養父母の実の子からもいじめられていた。養父母は,同原告を労働力として,また,将来結婚するときに相手の家からお金をもらう目的で引き取った。家族の世話をさせられた。学校に行ったことはない。学校に行かせてもらえなかったので,中国語の読み書きもできず,仕事も野良仕事しかできず,中国人とのコミュニケーションもできない。近所の人は,同原告が日本人であることを知っていた。近くに住む子供たちには小日本と言われていじめられた。昭和39年(1964年),結婚したが,このときも養父は夫にお金を払えと言い,同原告と喧嘩になった。結婚後,2男1女をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和53年(1983年)に,帰国のための手続を始めた。昭和55年(1980年)に,先に帰国していた兄が見付かった。昭和56年(1981年)に一時帰国した。永住帰国を希望したが,日本の親族がなかなか身元保証人になってくれなかった。平成9年(1997年)になって,兄が身元保証人になってもらい,二男家族と永住帰国した。なお,夫は平成2年(1990年)に病死した。その後,長男と長女も帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,自立研修センターで8か月間,日本語研修を受けたが,日本語は書けないし,読めないし,話もできない。言葉が分からなくて救急車を呼べなかったことがある。心臓に持病があり,働けないので生活保護を受けている。自立研修センターの研修も病気でほとんど通えなかった。生活保護は監視をされているようだと感じている。帰国して,とても酷いと思っている。日本政府の責任で中国に残されたのに,拉致された人たちに対する態度との差を感じている。本当の日本人になるための環境を整えてほしいと思っている。原告番号59
昭和13年(1938年)

6月22日生

X59

平成10年(1998年)

2月12日永住帰国(当時59歳)


身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲59の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X59の父は中国で映画館を経営していた。家族は両親と2人の兄の5人家族だった。父は,昭和20年(1945年)に召集され,シベリアに抑留された後,帰国したと聞いている。終戦後,母と兄弟3人は難民収容所に入った。収容所で母が亡くなり,同原告は病気になったため,兄たちは養父母に同原告を預けた。
②中国での生活状況等
最初の養父母のところから,亡夫の遺産で生活している女性に預けられたが,共産党政府になり,財産を没収された。その後,その女性の亡夫の友人の男性に預けられた。その男性は同原告を親切に扱ってくれ,小学校にも行かせてくれた。男性のところから,一旦,女性のところに行き,学校に通うため奨学金を要請したが日本人なので断られた。また男性のところに戻り,小学校に編入して卒業した。卒業後は,農業に従事した。通信員の仕事を得たが,労働局の許可がないため職を失った。農業に従事した後,人民公社の会計の仕事をしたこともあったが,文化大革命のときに日本人であることを理由に仕事を失った。その後,パイプ工場などで働いた。中国は政治運動が多く,攻撃対象にならないよう目立たないように生活していた。昭和36年(1961年)に結婚し,3男3女をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和55年(1980年)ころ帰国のための手続を始めたが,それより先に兄が同原告を見付けてくれた。しかし,兄は身元保証人にはなってくれず,平成10年(1998年)に,身元引受人の紹介を受けて,長男家族と三男と帰国した。その後,妻と他の子供も自費で帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,自立研修センターで9か月間,日本語研修を受けたが,日本語は少しもできず,簡単なあいさつができる程度である。子供たちは皆日本語ができるようになった。帰国してからは健康上の問題もあり,働いたことはなく,収入は専ら生活保護に頼っている。生活保護は,中国を訪問するときに止められてしまい,不自由であると感じている。それでも三男の結婚式のときには子供たちに援助してもらって中国訪問をした。生活保護と別な形で老後の保障をしてほしいと考えている。原告番号60

昭和14年(1939年)10月11日生

X60

平成

4年(1992年)

身元判明


戦時死亡宣告


1月28日永住帰国(当時52歳)
生活保護受給


証拠(甲60の1,2,甲総160の9)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X60は,3歳のときに,祖父母,両親,姉3人の8人で渡満した。父は商工会に勤めていた。父親は徴兵され,シベリアに抑留された後に,帰国した。終戦時に,家族はバラバラになり,同原告は3番目の姉と一緒に,収容所へ行った。そこで火事があり,同原告は怪我をして病院に行った。その病院の医師が同原告を養父母に預けた。
②中国での生活状況等
養父母はよくしてくれて,吉林芸術学院美術科を卒業し,出版社に就職した。周囲には同原告が日本人であることは秘密にしていた。しかし,文化大革命のときに,周囲から日本人だと摘発されたら大変なことになると思い,自分から日本人だと名乗った。そのことにより,共産党への入党を拒否された。27歳のときに結婚し,2人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和37年(1962年)には,紋別市に身内がいることは分かっていた。昭和51年(1976年),昭和59年(1984年)の2度にわたり日本に親族訪問をした。養父が亡くなったこともあり,平成4年(1992年)に両親が身元保証人になり,永住帰国した。戸籍が抹消されそうになったが,姉が弟は生きていると言ってくれたので抹消されずに済んだと聞いた。同原告は,日本政府に,養母に扶養費を出すように要望書を出したが,これに対する日本政府の連絡があったのは1年半後であり,そのときには既に養母は亡くなっていた。④帰国後の生活状況等
帰国後,定着促進センターで4か月間,その後も自立研修センターで日本語研修を受けたが,教える人が中国語を知らなかったので,教え方がよくなかったと思っている。日常会話をできる程度には日本語ができる。子供たちは日本語が話せる。大学で美術を教える仕事を得たが,日本語の聞き間違いで苦労した。老後の生活の安定が一番大事である考え,このことをいつも不安に思っている。原告番号61
昭和14年(1939年)

2月

7日生

X61

昭和55年(1980年)

2月

3日永住帰国(当時40歳)


身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無無
証拠(甲61の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X61の父はH株式会社の吉林支店長として中国に赴任していた。同原告が2歳のころ,母,姉1人,兄3人と共に吉林に行き,吉林で生活した。終戦後,生活に困窮して,酒をつくって売ったりしていたが,生活ができなかった。弟と共に父の知り合いに預けられた。そこから養父母に預けられた。②中国での生活状況等
養父母は同原告を実子と同様に育て,中学校まで卒業させてくれた。その後,働きながら高校に行き,夜間大学を卒業した。大学卒業後,石油製造会社で設計・製図の責任者として働いた。昭和37年(1962年)に結婚し,3人の子をもうけた。転勤で周囲には同原告が日本人であることは知られないようになった。文化大革命のときに上の人間による調査で同原告が日本人であることが知られ,妻の勤務先でなぜ日本人と結婚したと壁新聞に書かれた。同原告は,普通の人より高収入だった。中国語の読み書きはできる。
③帰国前後の状況等
昭和48年(1973年)に一時帰国する残留婦人の息子に,親族を探すように頼み,兄と姉が見付かった。昭和50年(1975年)に一時帰国した。妻や子は永住帰国に賛成してくれたが,養父母は帰国を認めなかったので,中国の裁判所で,養父母に同原告の退職金から生活費を渡すことで帰国が認められた。昭和55年(1980年),妻と3人の子と永住帰国した。費用は全額自費で,養父母の生活費と合わせると退職金はほぼなくなってしまった。
④帰国後の生活状況等
帰国当初は日本語に苦労し,そのために就職にも苦労した。職場で差別を受け中国へ帰れと言われたりした。祖国に帰ってきたことは良かったが,嫌な思いをたくさんした。現在は2か月で12万円の年金を得ている。生活保護は中国に行くことができなくなったり,車が持てなくなると考え,申請を取り止めた。帰国の際に,日本政府が何ら手助けをしてくれなかったこと,帰国後仕事と生活の世話を日本政府は見てくれなかったこと,老後の年金不足と今後の生活の困難があることなどに関して,国家賠償やまとまった生活費の支給を保障してほしいと考えている。原告番号62

昭和17年(1942年)12月11日生

X62

平成10年(1998年)11月13日永住帰国(当時55歳)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲62の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X62は,家族や家族と別れた時の状況はよく覚えていない。収容所にいたときに母と2人で中国人に引き取られた。その後,母は病死し,同原告は養父母に引き取られた。
②中国での生活状況等
養父母のもとで小学校は卒業した。中国語の読み書きはできる。養父が働いて学校へ行かせてくれていたが,養父が亡くなり,生活のために中学校への進学をあきらめ就職した。23歳のころ結婚し,3人の子をもうけた。仕事は順調で生活は中流だった。日本人であることを理由とする差別,いやがらせはなかった。③帰国前後の状況等
昭和53年(1978年)ころ,養母から実母が病気で亡くなったときのことを知らされ,帰国して,家族を探したくなった。大使館に手紙を書き,昭和58年(1983年)に訪日調査で来日したが,肉親は見付からなかった。中国開放政策の下で工場を立ち上げるなど仕事に精力をつぎ込んだこともあり,平成10年(1988年)に長男家族と共に5人で帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間で日本語研修を受け,その後,日中友好センターや自立研修センターでも日本語研修を受けたが,日本語は簡単なあいさつや自己紹介をできる程度にしかならなかった。一緒に帰国した子供たちは日本語に不自由していない。一番苦労したのは言葉の問題である。日本では病気のため仕事に就けない。不景気なので生活保護費がもらえなくなるのではないかとの不安がある。老後の生活の保障をしてほしいと考えている。中国の墓参りに行くときに旅費を支給し,留守の間も生活保護費を支給してほしいと考えている。原告番号63
昭和10年(1935年)

X63

平成

8月13日生

8年(1996年)11月

身元判明


戦時死亡宣告


8日永住帰国(当時61歳)
生活保護受給


証拠(甲63の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X63の両親は,昭和8年(1933年)ころ渡満した。同原告は中国で生まれた。生後間もなく母が亡くなり,しばらくして父が再婚した。9歳のとき父が亡くなった。継母が,昭和21年(1946年),同原告のことを養父母に売った。
②中国での生活状況等
同原告は皮膚病に罹っており,皆がいやがり,預けられた先が転々と変わったことがある。また,物乞いをさせられたこともあった。養父母は貧しかったので,学校には通っていない。夜間学校のようなところで教えてもらったので,中国語の読み書きはできる。中国政府によって日本人として登録されており,周囲の人も同原告が日本人であることは知っていたので,いじめや差別を受けたことはいろいろあるが,思い出すのも辛くて,余り話したくはないと考えている。昭和27年(1952年)に結婚して2人の子をもうけた。その後に,日本人であるため困難に直面したことがある。
③帰国前後の状況等
昭和53年(1978年)に肉親探しの申請をし,昭和61年(1986年)に訪日調査のために来日した。身元は判明したが親族は帰国に反対した。平成8年(1996年)に帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,自立研修センターで8か月間,日本語の研修を受けたが,日本語は買物や簡単な伝言がやっとできる程度で,読み書きは全くできない。帰国したときは既に高齢で仕事はしておらず,生活保護を受けている。生活保護は不自由であると感じている。寂しくても出歩くお金がない。楽しみたくてもお金がなく精神的なストレスが溜まる。生活程度は北京にいたときの方が良かった。日本に来て一番辛かったのは,息子が日本語ができないために,心身ともに疲労していたにもかかわらず,治療の機会を失い,来日して1年半後に亡くなったことである。中国では日本人,日本では中国人という差別的な見方を改めてもらいたいと思っている。原告番号64

昭和14年(1939年)

X64

昭和51年(1976年)11月24日永住帰国(当時37歳)

身元判明


1月20日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

無無
証拠(甲64の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X64の父は,農業指導員として満州へ渡った。両親と3人の兄妹と暮らしていた。父は昭和18年(1943年)ころ召集され戦死した。昭和21年(1946年)ころ,母は同原告たちをつれて中国人と再婚したが,1年ほどで発疹チフスで亡くなった。2年くらいの間に同原告以外の兄妹も発疹チフスで亡くなった。
②中国での生活状況等
養父は,母が亡くなってから六,七年して再婚し,養母には3人の連れ子があり,結婚後3人の子が生まれたが,実子と同様にかわいがってくれた。小学校に5年半通った。進学したかったが,貧しくてできなかった。中国語の読み書きはできる。日本人として登録されていたので,同原告が日本人であることは,近所の人は皆知っていた。
③帰国前後の状況等
日中国交回復を知り,帰国のための手続をした。日本に住む父の兄から手紙が来て身元が判明した。親族が協力してくれ,昭和51年(1976年)に帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国したとき,日本語研修はなかった。仕事をしたりするうちに少しずつ思い出し,現在は日常生活を送るのに困らない程度にはなったが,難しい話や込み入った話をすることはできない。土木関係や公園の管理の仕事をしたが,生活していけるだけの収入が得られなかったので,生活保護を受給した。現在の年金では生活費に足らず,現役時代の貯金を取り崩しており,いずれ生活保護を受けるしかなくなりそうだと感じている。生活していくために裁判に参加した。原告番号65
昭和13年(1938年)

2月26日生

X65

平成

1月10日永住帰国(当時56歳)


7年(1995年)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲65の1)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X65は,3歳のころ,開拓団の一員として両親と渡満した。終戦時,父,兄,姉は家におらず,母と2人で避難中,母が養父母に同原告を託した。②中国での生活状況等
養父母は実子のように大事に育ててくれた。9歳くらいで小学校に入学し卒業するまで通った。中国語の読み書きには苦労しない。手紙も書けるし,新聞も読むことができる。卒業後,でんぷん加工工場などで働いた。自分が日本人であることは知っていた。友達とけんかしたときなどに,お前は日本人だと言われたことがある。昭和33年(1958年),結婚した。
③帰国前後の状況等
日中国交回復後,帰国を考えるようになった。昭和59年(1984年)ころ手続をとった。昭和61年(1986年),訪日調査に参加し,実姉や叔母と再会した。平成2年(1990年)に一時帰国したが,親族が身元保証人になってくれず,永住帰国が遅れた。身元引受人が見付かり,平成7年(19995年)に妻と2人で永住帰国した。
④帰国後の生活状況等
定住促進センターで4か月間,自立研修センターで8か月間,日本語研修を受けたが,日本語は簡単なあいさつや自己紹介がやっとできる程度である。日本語が使えないことや年齢のことで,仕事が見付からないのが一番辛い。生活保護は,中国に養父母の墓参りに行くと受給できなくなることが不自由であると感じている。そのほか,日本語ができないことや老後の生活が不安である。安定した老後の生活を送りたいと思っている。残留孤児の待遇改善と老後の生活保障を求めて裁判をした。原告番号66

昭和16年(1941年)

X66

平成

8月25日生

元年(1989年)12月

身元判明


戦時死亡宣告


7日永住帰国(当時48歳)
生活保護受給


証拠(甲66の1ないし3,乙66の1,原告X66)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X66は,渡満した事情,家族の状況などの記憶はない。終戦当時ソ連軍が住宅を焼き,両足に火傷の跡や,障害が残った。両親が山の中に同原告を捨てたところを,養父に拾われた。
②中国での生活状況等
養父は実子同様に養育してくれた。家は貧しかった。小学校では罵られるだけではなく,叩かれるなどいじめられ,病気になってしまった。いじめから逃れるために引っ越しまでしたが,転校先でも担任の先生に日本人であることを確認され,やはり,いじめを受けた。引っ越した先でも貧しさは変わらず,養父と共に物乞いをしたこともあった。中学に合格したが,貧しくて進学できず,生産隊の一員として農業をして働くことになった。中国語は読めるが書くことは難しい。17歳のとき結婚した。経済的な理由を主とする不幸な結婚だった。5人の子をもうけた。養父は昭和42年(1967年),養母は昭和61年(1986年)に亡くなった。
③帰国前後の状況等
昭和61年(1986年),訪日調査に参加したが,身元は判明しなかった。平成元年(1989年)に日本政府が身元引受人を探してくれ,四男と一緒に帰国した。他の4人の子は,その後,自費で帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,自立研修センターで8か月間,日本語研修を受けたが,日本語はほとんどできない。買物や簡単な伝言ができる程度である。生活保護を受けており,障害があるのに早く働けと役所の人から言われて就労したが障害がさらに悪化した。日本語での意思疎通が上手くいかない。治療の時にも言葉が通じず,痛い目にあった。娘婿が言葉ができない中で就労せざるを得ず,いじめにあい自殺した。生活保護は,中国に墓参りに行けず,所持品も制限され,拾ってきたタンスを捨てさせられるなど監視されているように感じる。自由もなく,老後も不安定であると思っている。日本人と同じような老後の生活の保障を望みたい。
原告番号67

昭和14年(1939年)

8月30日生

X67

平成

4月


元年(1989年)

身元判明


戦時死亡宣告


5日永住帰国(当時49歳)
生活保護受給


証拠(甲67の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X67の両親は開拓団員として渡満し,その後,弟が生まれた。同原告が7歳のころ,知らない人が父を連行し,母子3人は奉天,安東へ行った。同原告は,そこで皮膚病に罹り生命が危険な状態であっため,養父母に引き取られた。②中国での生活状況等
同原告が引き取られた翌年,養父母は離婚し,母方の祖母と一緒に暮らすようになった。祖母は貧しくて,一緒に物乞いをしたのが一番辛い出来事だった。小学校3年までしか行けなかった。中国語を読むことはでき,簡単な手紙なら書ける。子供のときは小日本鬼子などと言われ,いじめられていた。祖母も周りの人に自分さえ食べていけないのに,日本人の子供の面倒までみていると笑われた。昭和29年(1954年)結婚し,3人の子をもうけたが,その後,夫とは死別した。昭和47年(1972年),現在の夫と再婚した。③帰国前後の状況等
昭和61年(1986年),訪日調査で来日したが,親戚が亡くなっていることが判明した。平成元年(1989年),夫と2人で帰国した。成人している子供たちは連れて来られなかった。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,日本語研修を受けたが,日本語は簡単な会話ができる程度で,読み書きはできない。同原告と一緒に帰国した夫は全く日本語ができない。病院,役所の手続等で日本語ができないので苦労した。平成3年(1991年)に帰国した二女は,日本語が上達し,日本で会社を興した。働いていないと子供を呼べないと役所に言われたので,体調を崩しても働き続けた。帰国後,すぐに生活保護を受給した。生活保護は自由がなく,周囲の人からさげすまれていると感じている。同原告が生きているのは中国の養父母のおかげなのに,養母に会いに中国に行くと,保護費を削られた。帰国して良かったと思えない。日本人なのに帰国してから言葉のハンディのため仕事も見付からない。日本人と同じような生活をしたいし,老後の保障をしてほしいと考えている。原告番号68

昭和

X68

昭和57年(1982年)10月26日永住帰国(当時52歳)

5年(1930年)

身元判明


9月28日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

有有
証拠(甲68の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X68は,昭和19年(1944年)に家族(両親,姉,弟,妹)と渡満した。終戦当時は,看護婦養成学校の生徒だったが,終戦時に寮を追い出され,難民収容所に行った。母は収容所で亡くなった。その後,家族とはぐれてしまい,日本人の紹介で養父母に引き取られた。
②中国での生活状況等
養父母により,豚と引き替えに夫と結婚させられた。子供は5人もうけたが,1人は病気で亡くなった。引揚船が出るというので,いったん夫のところから逃げ出したが,見つかり,山奥にある夫の姉のもとに連れて行かれた。中国語の読み書きは生活の中で覚えた。6年経過し,引揚船も出なくなったところ,夫のもとに戻された。町で先に帰国した父からの手紙を預かった日本人に会った。父とは数回隠れて手紙のやりとりをしたが,文化大革命が起きて,できなくなった。親が日本人であるため,子供がいじめられることが多く,不登校にもなった。娘が社会主義青年団に加入できず,中国籍になってくれと頼まれたこともあった。③帰国前後の状況等
終戦直後から帰国したかったが,40年間怖くて誰にも言えなかった。日中国交回復後,昭和50年(1975年),一時帰国した。しかし,中国人の夫と成人した子は雇用証明がないと来日できなかったので,同原告が末の子と昭和57年(1982年),先に永住帰国して夫の就職先を探した。入国管理局が本当に就職をするのかについて調べに来た。自立支度金は家族を呼ぶために取っておいて,ゴミを拾って家具をそろえた。
④帰国後の生活状況等
日本語を忘れないようにしていてたし,記憶が残っていたので,帰国後日本語をどうにか覚えることができた。それでも先に帰国した弟が日本社会に溶け込んでいるのに対して,同原告にはその実感がない。生活保護は肩身が狭く,役所の人に,いつまでも受けられると思うな,子供たちに養ってもらえなどと言われた。ぎりぎりの額なので自由がないと感じている。電子レンジも買ってはいけないなどと言われた。軍人はさっさと帰国して恩給をもらっているのに,どうして残留孤児は永らく帰国させてもらえず,帰国しても肩身の狭い思いをさせられるのかと思っている。昔の日本と違う点で心配があり,神経が疲れるし,特に老後が心配と考えている。原告番号69

昭和10年(1935年)11月24日生

X69

平成

8年(1996年)

身元判明

7月


戦時死亡宣告


3日永住帰国(当時60歳)
生活保護受給


証拠(甲69の1,乙69の1,原告X69)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X69は,昭和19年(1944年)に家族(両親,姉2人,兄)と渡満した。終戦時に家族と共に収容所に入った。収容所から働きに行った先から帰れなくなり,そのときに養父に引き取られた。
②中国での生活状況等
養父母は,同原告を実子同様に育ててくれた。小学校は行かずに塾のようなところで勉強し,試験を受けて中学校に入り,卒業後,自動車製造学校に通った。中国語の読み書きはできる。卒業後は公務員として働いた。昭和37年(1962年)に結婚し1男2女をもうけた。日本人であることを隠すのが辛かった。中でも,一番辛かったのは,文化大革命の3年間である。いつ自分が日本人であることが分かってしまうのではないかと思い,毎日が恐怖との戦いで,精神崩壊の瀬戸際だった。
③帰国前後の状況等
養父母も既に亡くなり,子供たちも成人したので,平成4年(1992年)に退職した後,帰国の手続をとった。平成6年(1994年)に里帰りし,平成8年(1996年)に夫と長男夫婦と共に永住帰国した。戸籍上は死亡した扱いになっていたことを知ったときはショックだった。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,自立研修センターで8か月間,日本語教育を受けたが,ほとんど日本語は話せない。日本語が分からないので就職先がない。長男は日本語が達者になり,日本で就職している。孫は全く日本語に不自由していない。姉2人も残留孤児であるが,早期に帰国したので日本語が使え,同原告より日本の生活に溶け込んでいるようである。生活保護は些細と思えることでも区役所の担当者に報告しなければならないし,長年生活をしてきたため中国訪問の機会が必然的に生じるにもかかわらず,中国訪問すると保護費がでないという不自由があると考えている。言葉が分からないので何事をするにも困難であり,精神的圧力が大きく,いつも軽蔑されているような感じがしている。日本人と同様の生活,制限のない自由な生活を保障してほしいと考えている。原告番号70
昭和16年(1941年)

1月12日生

X70

平成

2月12日永住帰国(当時52歳)


5年(1993年)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲70の1ないし5,乙70の1,2,原告X70)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X70の両親は開拓団の一員として昭和12年(1937年)に渡満した。父は徴兵されシベリアに抑留された後,帰国した。同原告は,終戦後,母や妹と共に収容所に入れられた。母と妹は収容所で亡くなった。収容所で養子にする子を探しに来た養母に引き取られた。
②中国での生活状況等
養父母は同原告を自分の子供のように育ててくれた。引き取られた当初は貧しかったが,養父が炭坑で働くようになり,生活が安定した。小学校は卒業した。進学をしたかったが,養父母は女の子に学問はあまり必要でないという考えをもっており,かなわかった。中国語の読み書きはできる。幼稚園で3年勤務した後,工員として働いた。文化大革命時には,日本人である同原告を育てたことで養父母の家が捜索を受け,家中の物をすべて持って行かれたのみならず,養母は殴られ,町中を引きずり回された。同原告も職場の壁新聞で日本人と暴露され,誹謗中傷を書かれ,辛い思いをした。
③帰国前後の状況等
昭和61年(1986年)に訪日調査で来日し,父と再会できたが,翌年に父が亡くなってしまい,父の後妻たちは,身元保証人になってくれず,同原告が父の戸籍に入ることにも反対した。特別身元引受人のあっせんを受けて,平成5年(1993年)に夫と帰国した。その際,帰国後肉親と紛争を起こさないことなどを確約する確約書を書いた。④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,自立研修センターで4か月間,日本語を勉強した。しかし,日本語の能力は簡単なあいさつや自己紹介,買物や電話ができる程度である。テレビを聞き取ることは難しい。帰国前は熟練した技術労働者だったが,帰国後はビル清掃の仕事くらいしかない。職場では十分日本語がしゃべれず,また,差別を受けたり屈辱的な扱いを受けたり,知らないうちに正社員からパートに降格されたりといったことがあった。生活保護は,中国への里帰り,旅行の自由がなく,最低限度の暮らししかできず,突然役所の人間が来訪するなど制約が多いと感じ,自分の国に帰ったのに精神的ストレスが溜まる生活を余儀なくされる。普通の日本国民の生活,老後の生活の保障が欲しいと考えている。また,老後の年金は生活保護費から控除しないで欲しいと考えている。原告番号71
昭和21年(1946年)

X71

昭和62年(1987年)10月

身元判明

3月12日生


戦時死亡宣告


6日永住帰国(当時41歳)
生活保護受給


証拠(甲71の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X71は,中国に行ったときのことや,家族のこと,家族と別れた状況などは覚えていない。養父母に預けられたときに病気を患っていたと聞いている。②中国での生活状況等
養父母は実子のように育ててくれた。生活は苦しかったが,8歳から小学校に通い,中学を卒業した。中国語の読み書きはできる。会社で働きはじめ,共産党の入党を勧められたが,日本人なので無理だと思い,また,申請すると日本人であることが周囲に分かってしまうと考え,申請しなかった。その後,会社で同原告が日本人であることを知られたが,洋裁の優れた技術があったため,差別やいじめは受けなかった。
③帰国前後の状況等
会社が倒産し,生活できない状況になり,養父母が帰国を勧めた。昭和61年(1986年)に訪日調査で来日したが,身元は判明しなかった。翌年に妻と子供2人と共に帰国した。身元引受人は訪日調査で知り合った人になってもらった。その後,もう1人の子供が自費で帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,その後も日中友好センターなどで日本語を勉強したが,簡単なあいさつや自己紹介程度しかできず,読み書きは全くできない。妻も同原告と同じ程度である。子供たちは日本語に不自由していない。日本語ができないので,職場でいじめられて辞めることが2回ほどあった。生活保護を受けているが,中国に戻るともらえなくなるので不自由であると感じている。市の職員が早く働けと執拗に繰り返して気分が悪かった。日本語が不十分なので,良い仕事に就けず,生活を向上させることができない。日本に帰って来て,これといって良いことがあったとは思えない。日本人と認めてもらっていると思えないのが一番辛い。訴訟に参加したのは,生活の自由,老後の生活問題を解決したいためである。
原告番号72

昭和18年(1943年)

X72

平成

5月25日生

2年(1990年)12月

身元判明


戦時死亡宣告


6日永住帰国(当時47歳)
生活保護受給


証拠(甲72の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X72は,両親のことは覚えていない。終戦時,日本人の警察官が,両親が同じ工場に勤めていた養父母に預けたらしい。
②中国での生活状況等
養父母はすでに4人の子供がいたが,同原告を実子のように育ててくれた。中学校を卒業し,高校に進学したが,1年で中退した。中国語の読み書きはできる。19歳のとき結婚し,4人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
養母から日本人であることを教えられたが,夫の仕事の関係や子供がいたため,帰国はできない状態だった。昭和61年(1986年)に夫が亡くなり,子供3人は自立していたので日本に帰ることにした。昭和63年(1988年)に訪日調査で来日したが,身元は判明しなかった。平成2年(1990年)に子供2人を連れて帰国した。その際,友人のいる東京を希望したが,札幌に定住することになった。その後,他の2人の子も帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,自立研修センターで8か月間,日本語研修を受けたが,やっと買物ができる程度の日本語能力しかない。日本語ができないため,中国人として扱われることが辛い。職場の人と意思疎通ができないため,仕事が長続きしない。日本語ができないため仕事がなく,生活保護を受けている。帰国者以外の日本人の友人もいない。平成10年(1998年)に中国にいた養母が亡くなったが,病床にあった養母を見舞う際や,葬儀に参列した際に,生活保護費からいろいろ控除され,とても苦労した。また,日本語ができないために仕事が見付からないのに,働いて自立するように指導される。日本での生活は本当に辛いと感じている。老後安心して暮らせるようにして欲しいと考えている。原告番号73
昭和13年(1938年)

8月

X73

昭和50年(1975年)

7月25日永住帰国(当時36歳)


身元判明


5日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

有無
証拠(甲73の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X73の両親は,開拓団員で,昭和14年(1939年)に満州に渡った。母は病死し,終戦まで継母(日本人)に育てられた。父は終戦直前に徴兵され,ソ連の捕虜となり,後に帰国した。終戦後開拓団の人と共に逃避行する際,継母,弟,妹とはぐれた。ハルピンで姉とも別れた。ハルピン駅の職員だった養父にもらわれた。
②中国での生活状況等
同原告は,養母に家政婦のように扱われ,家事の一切をやらされて,何かにつけて怒られ,毎日一,二回叩かれた。食事も養父母と一緒に食べさせてもらえず,別の食卓でわずかな量の食事をした。いつもお腹を空かせていた。外へほとんど出してもらえず,学校にも行かせてもらえなかったため,中国語の読み書きもできない。子供時代はとても辛かった。19歳のとき,原告X74と結婚し,その後は人並みの生活ができるようになった。3人の子をもうけたが,二男が帰国する前の年に白血病で亡くした。
③帰国前後の状況等
夫の叔父の世話で,昭和50年(1975年)に家族全員で帰国した。戸籍は抹消されていたが,父が秋田に帰って来ていたので,戸籍を元に戻してくれた。④帰国後の生活状況等
日本語は,日常会話はできるが,難しい話はできない。帰国後の日本語研修を全く受けなかった。読み書きは全くできない。帰国後,平成12年(2000年)まで工場に勤め,今は夫と合わせて月額20万円弱くらいの年金で暮らしている。これまでの苦労について責任をとって欲しいと考え,この裁判に参加した。原告番号74

昭和

X74

昭和50年(1975年)

6年(1931年)

身元判明


3月

2日生

戦時死亡宣告


7月25日永住帰国(当時44歳)
生活保護受給


証拠(甲74の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X74の父は昭和14年(1939年)に土木関係の仕事で渡満し,昭和15年(1940年)に母,姉,同原告を呼び寄せた。昭和17年(1942年)に母が病死し,昭和19年(1944年)に父も病死した。その後は姉と一緒に暮らしていたが,終戦時に姉と一緒にハルピンへ逃げてきた。姉は中国人の床屋と結婚した。養父母はいない。
②中国での生活状況等
帰国するまでハルピンの工場に25年間勤務した。日本人なので仕事が見付けにくかったし,給料が安かった。また,同僚の中国人から小日本などと悪口を言われ,辛かった。工場の夜間学校で中国語を習い,読むことはできるようになったが,書くことはできない。昭和32年(1957年),原告X73と結婚した。3人の子をもうけたが,二男を帰国する前の年に白血病で亡くした。③帰国前後の状況等
姉から帰国できるとの話を聞き,手続を始めたところ,叔父が見付かった。叔父の世話で昭和50年(1975年)に家族全員で帰国することができた。帰国すると戸籍が抹消されており,戸籍を戻すのは大変だった。
④帰国後の生活状況等
日本語はある程度覚えていたので,日常会話と読むことはできるが,書くことは難しい。帰国後平成12年(2000年)まで工場で働き,今は妻の分と合わせて月額20万円弱の年金で暮らしている。残留孤児が辛い思いをしてきたことを日本政府に分かってもらい,その償いをしてほしいと考えている。原告番号75

昭和12年(1937年)

2月

3日生

X75

昭和55年(1980年)

3月

4日永住帰国(当時43歳)


身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無無
証拠(甲75の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X75の両親は開拓団の一員として,昭和14年(1939年)か昭和15年(1940年)ころに満州に渡った。父は昭和19年(1944年)ころ徴兵された。終戦後,瀋陽へ向かったが,その途中,襲撃を受けて亡くなった人もいた。2か月以上かけて瀋陽に着いた。瀋陽の収容所では同原告が乞食をして母と弟を食べさせていた。収容所では飢えと寒さでたくさんの日本人が亡くなった。ある日物乞いをしているときに養父にさらわれた。母と弟は中国で亡くなったらしい。
②中国での生活状況等
養父母は瀋陽市内で住んでおり,実の子がなかったため,同原告は実子のように育てられた。子供のころ小日本鬼と言われていじめられた。学校で日本の侵略についての授業を受け,侵略者の血を引く同原告が罪を背負っているような気がし,また,憎しみの視線を感じた。大学で物理学を勉強し,国立研究所の職員になった。日本人であるため,希望する大学に進学できず,社会主義青年同盟,共産党に入れず,出世できず,結婚を断られるなどの差別があった。文化大革命時,実父との文通が見つかり,日本のスパイだと疑われ,104日間逮捕監禁され,拷問され,筆舌に尽くしがたい苦労を味わった。34歳のときに結婚し,2人の子をもうけたが,1人はすぐに亡くなった。
③帰国前後の状況等
このまま中国で暮らしていたら息子の身にも災難が降りかかると思い,日本に帰りたいと思うようになった。日中国交回復後,すぐに日本に帰りたかったが,方法がよく分からなかった。中国政府や日本領事館に手紙を出したりして手探りで手続を進め,昭和55年(1980年)に家族3人で帰国できた。④帰国後の生活状況等
帰国後,日本語の研修はカセットテープの配布のみで,ないよりましという程度だったが,自治体の充実した支援や同原告自身の努力で,会話,読み書きとも不自由しない程度の日本語力を身につけ,現在は人並みの生活を送っている。原告番号76

昭和13年(1938年)

X76

昭和57年(1982年)10月26日永住帰国(当時44歳)

身元判明


8月15日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

無無
証拠(甲76の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X76の父は満州国警備隊に勤務していた。終戦後,延吉市へ向かい,収容所に避難した。父はそこで行方不明となり,母が貧しさに耐えかねて同原告を養父母に預けた。妹2人も預けられた。父母や妹と別れたことがとても辛かった。母は中国人と再婚した。
②中国での生活状況等
師範学校を卒業し,昭和33年(1958年),小中学校の教員になった。昭和35年(1960年),日本人だということを隠すために結婚をした。4人の子をもうけた。しかし,日本人と発覚し,降格され,共産党員にもなれなかった。
③帰国前後の状況等
ずっと帰国したいと思っていた。昭和57年(1982年),叔父の支援で帰国できた。戸籍の回復(錯誤による死亡の記載)では出生証明書が必要だということで苦労した。
④帰国後の生活状況等
日本語の研修はなく,古いカセットテープの配布を受けただけだった。函館で高校の先生から日本語を習ったこと,帰国者相談員という仕事がら日本語を使う機会が多いことから,今では会話,読み書きともに日本語には困らない。ただ,帰国後数年は言葉で非常に苦労した。子供たちの方が日本語が上手で,もっと早く帰って来ていれば,言葉で苦労することはなかったと思っている。安定した老後の生活を保障してほしいと考えている。原告番号77

昭和18年(1943年)10月

8日生

X77

平成

7日永住帰国(当時45歳)


元年(1989年)

身元判明


8月

戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲77の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X77の父は,終戦後,避難中に共産党の軍隊に襲われて亡くなった。養母の弟がその軍隊におり,生き残っていた同原告を拾い,養母に預けたと聞いている。
②中国での生活状況等
養父母は,同原告を実の子として育ててくれたが,生活は苦しく,小さいころから家畜の放牧等の仕事をしなければならなかった。冬でも防寒服も靴もなく,辛かった。貧しくて学校へ行けず,中国語の読み書きはできない。29歳のころ結婚し,3人の子をもうけた。日本人であるためにいじめられることはなかったが,共産党への入党は無理だと思い,入党は考えなかった。
③帰国前後の状況等
昭和60年(1985年)ころ,中国へ残留孤児の調査団が来て,肉親探しに日本に行けることを知った。翌年,肉親探しに来日したが,身元は判明しなかった。平成元年(1989年)に妻と子供たちと帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後,定着促進センターで4か月間,自立研修センターで8か月間,日本語研修を受けたが,未だに簡単なあいさつ程度の日本語しか話せない。仕事をする上で指示されたことが分からず,非常に苦労した。妻も同様である。子供たちは日本語が話せるようになった。帰国後定年まで働き,平成16年(2004年)4月から生活保護を受けている。生活保護は制約が多いと感じており,妻の里帰りもできない。老後の生活を心配している。原告番号78

昭和17年(1942年)

5月20日生

X78

平成

8月


元年(1989年)

身元判明


戦時死亡宣告


7日永住帰国(当時47歳)
生活保護受給


証拠(甲78の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X78の両親のことは,不明である。開拓団のあったところに,1人で取り残されていたところを養父母に拾われたと聞いている。
②中国での生活状況等
養父母は同原告をかわいがってくれたが,学校は小学校までしか通えなかった。中国語の読み書きはできる。小学校卒業後は農業の手伝いをし,18歳で結婚し,8人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
昭和59年(1984年)に訪日調査に参加したが,身元は判明しなかった。その後,家族や親族を説得し,平成元年(1989年)に夫と下の子3人とで帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,日本語研修を受けた。子供に障害があって世話をする必要があり,それ以上は勉強できなかった。日本語は簡単なあいさつ程度しか話せない。日本語が不自由で苦労している。病院にはいつも子供に付いてきてもらっている。夫は就職したが,日本語ができないため,いじめられて退職した。その後,再度就職したが,病気で退職した。生活保護を受けているが,保護費が少なくて生活が大変である。また,病気で退職した夫に役所の人から働くようなどと何度も言われたことがあった。十分な年金が支給されないのはおかしいと思っている。
原告番号79

昭和15年(1940年)

3月30日生

X79

平成

4月27日永住帰国(当時49歳)


元年(1989年)

身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲79の1ないし3)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X79の両親は,開拓団員として同原告と妹を連れて満州に渡った。終戦前後に父が行方不明になった。終戦後,母は原告と妹を連れて農家をしていた養父と再婚した。妹はすぐ病死した。
②中国での生活状況等
養父と母との間に5人の子が生まれ,それから養父は同原告をかわいがらなくなり,よく同原告を殴った。生活は貧しく,食べ物も着る物も十分ではなかった。貧しかったので学校も小学校4年生までしか通えず,中国語の読み書きはできない。小学校4年生以降は弟や妹の世話をしなければならなかった。昭和32年(1957年)に結婚し,6人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
日中国交回復により,日本との間で連絡がとれるようになり,いとこから手紙が来たことを機に,昭和57年(1982年)ころ,母は一時帰国した。母は昭和61年(1986年)に5男を連れて再度帰国し,永住の手続をとった。その後,一旦,他の子供を呼び寄せるために中国に戻ったが,昭和63年(1988年)に中国で亡くなった。同原告は,平成元年(1989年)に中国に残していた家族全員で帰国した。
④帰国後の生活状況等
定着促進センターで4か月間,日本語研修を受けたが,今でも簡単なあいさつ程度しか話せない。日本語ができないので,日常生活が大変不便で,就職もできなかった。日本人と交流することもできない。二女が中学で差別を受け,暴力も受けたので,転校せざるを得ないということがあった。生活保護費はとても少ないと思っている。老後を安心して暮らせるようにして欲しいと考えている。原告番号80
昭和12年(1937年)

2月13日生

X80

昭和59年(1984年)

4月24日永住帰国(当時47歳)


身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲80の1,2)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X80の家族は,昭和17年(1942年)に渡満した。父は日本人学校の教師をしていた。父は終戦間近に徴兵され,終戦後,シベリアに抑留され,4年後に帰国した。母は終戦の翌年病死した。3人の妹がいたが,同原告と3人の妹は,それぞれ中国人の養子となった。
②中国での生活状況等
同原告の養父母の家は農家で生活は苦しく,子供時代は子守と農業の手伝いをし,学校は14歳のとき,小学校に1年通わせてもらっただけだった。義理の妹たちは小学校に通っていた。中国語は簡単な内容なら読むことができる。17歳のとき結婚したが,結婚後も貧しく,山菜や木の皮を食べて飢えをしのいだこともある。5人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
実父は,同原告らを探したらしく,昭和41年(1966年)に手紙が来た。昭和51年(1976年)に一時帰国した。その後,家族を説得し,昭和59年(1984年)に夫と5人の子と永住帰国した。
④帰国後の生活状況等
国による日本語研修を受けず,日本語のできる中国人に個人的に習ったりしたが,基礎教育を受けていないせいもあってか,今でも簡単なあいさつができる程度しか日本語が話せない。子供たちや早く帰国した2人の妹は,上手に日本語を話せる。日本語が話せないこと,生活保護費が少ないこと及び中国に行ったら生活保護を切られてしまうと聞いており,また,旅費を捻出できないため,親戚に会いに中国へ行くことができないことが辛いと感じている。原告番号81
昭和24年(1949年)

8月12日生

X81

平成

3月


2年(1990年)

身元判明


戦時死亡宣告


1日永住帰国(当時40歳)
生活保護受給


証拠(甲81の1)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X81の父は炭坑の技術者だった。終戦後の避難中,実父は先妻を亡くし,実母と結婚した。実母は同原告を出産後,6か月で亡くなった。実父はやむなく養父母に同原告を預けた。最初の養父母は仕事が忙しく,2番目の養父母に同原告を預けた。同原告は,2番目の養父母の下で育った。父と姉は昭和28年(1953年)に帰国した。
②中国での生活状況等
養父母と義兄は,同原告によくしてくれた。小学校時代,小日本鬼といじめられたことがあった。師範学校卒業後,教員になった。昭和48年(1973年),結婚したが,同原告が日本人であるため,夫の親族には結婚を反対された。結婚後,夫共々入党差別,昇進差別があった。2人の子をもうけたが,子供たちは学校で小鬼子といじめられた。文化大革命時は,日本人である同原告を育てたため,義兄が会社で監禁されたりしたので,同原告は進んで遠隔地の農村へ行った。昭和54年(1979年)に一時帰国したが,中国に戻ったときにスパイ容疑をかけられ,夫と共に取調べを受けた。
③帰国前後の状況等
子供たちが日本人の子であることを理由にいじめられたりしたことや,世話になった義兄が亡くなったことなどから,平成2年(1990年)に夫と2人の子と共に帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後,定着促進センターで4か月間,自立研修センターで5か月間,日本語研修を受けた。現在は日常会話は話せるが,それまで6年かかった。夫は今でも日本語が不自由で,そのため職場で差別を受け続けた。5年前から生活保護を受けているが,生活保護での生活は,毎月の収入を報告させられたり,中国に帰国したらその間の家賃は生活保護から出さないと言われるなど不自由すぎると感じている。自由な生活ができる日本人になりたいと考えている。父と姉は昭和28年(1953年)に帰国した。姉と同じ時期に帰国できていれば,このような苦労はしなかったはずであると考えている。原告番号82

昭和15年(1940年)

X82

昭和51年(1976年)12月21日永住帰国(当時36歳)

身元判明


4月

1日生

戦時死亡宣告

生活保護受給

有無
証拠(甲82の1ないし6,乙82の1,原告X82)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X82の両親は開拓団員で,3人の兄と同原告を連れて,昭和17(1942年)に渡満した。渡満した年に父が亡くなった。終戦後,難民収容所に入ったが,そこで母が餓死した。3人の兄は昭和22年(1947年)に帰国した。同原告は中国人にさらわれて捨てられたが,養父母に拾われた。
②中国での生活状況等
養父母は,同原告の面倒をみなかったので,養父母の両親(祖父母)と生活をしていた。都市で育った。子供時代,日本人だということで他の子供に殴られたことがある。学校で日本軍の虐殺,略奪等の歴史を教えられ,その度に他の生徒から非難するような態度を示されていた。大学まで進学したが,途中で養祖父と養父が相次いで亡くなり,中退せざるを得ず,電業局で働きはじめた。大学時代に,共産党の青年団には日本人であることを理由に入団を拒否された。勤務先では,日本人であるために大事な役職から遠ざけられた。文化大革命時には,現行反革命分子だとされ,強制労働をさせられた。昭和38年(1963年)に結婚し,3人の子をもうけた。
③帰国前後の状況等
自分で日本人を訪ねて身元を調べていたところ,日中孤児問題連合会の人と知り合い,その人が一時帰国した際に,同原告の兄を探してくれた。昭和51年(1976年),兄に身元保証人になってもらい,妻と3人の子と帰国した。④帰国後の生活状況等
帰国後,日本語を習う機会がなく,非常に苦労して日本語を自学自習した。日本語は日常会話には不自由しないが,言いたいことを十分に相手に伝えられるまでには至っていない。帰国後しばらくは兄と親交があったが,言葉や習慣等のせいで,徐々に疎遠になった。親しい友人はいない。帰国後28年間仕事をしたのに,年金は月額3万円しか支給されないので,預貯金を生活費に充てている状態である。老後を安心して暮らせるようになりたいと考えている。
原告番号83

昭和15年(1940年)

8月19日生

X83

昭和61年(1986年)

4月


身元判明


戦時死亡宣告


4日永住帰国(当時45歳)
生活保護受給


証拠(甲83の1,乙83の1)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X83の父は,I株式会社の電気技師だった。父は終戦直前に徴兵され,ソ連の捕虜になり,昭和23年(1948年)ころ帰国した。同原告は,母と一緒に逃避行しているときに,母共々養父に助けられた。弟は逃避行の際に亡くなった。母は,昭和23年(1948年)ころ,養父の家で病死した。②中国での生活状況等
養父は同原告を実子のように育ててくれた。同原告は,養父と共に長春に住んでいたが,八路軍の攻撃を受けた際,食料が不足し,餓死しそうになった。その後,養父と一緒にチチハルに逃げた。養父はそこで養母と結婚した。同原告は大学を卒業し,機械工場の技師として就職したが,日本人であるために昇進や昇級面で差別を受けた。昭和40年(1965年)に結婚し,4人の子をもうけた。③帰国前後の状況等
帰国方法が分からなかったが,訪日調査のことを知り,昭和59年(1984年)に訪日調査で一時帰国したとき,実父が見つかり,昭和61年(1986年)に家族6人で永住帰国した。戸籍が抹消されていることを知り,大変驚き,悲しい思いをした。
④帰国後の生活状況等
帰国後,定着促進センターで3か月間,その後,1人で東京に行き,拓殖大学で1年間,日本語を学んだが,高齢のため十分日本語を身に付けることができなかった。日本語が不十分なため仕事が見付からず,見付かった仕事も言葉の問題で長続きしなかった。現在でも日本語では簡単な会話しかできず,他方で中国語も忘れてきており,言葉が話せなくなるのではないかという不安を感じている。年金は2か月で5万0566円もらえるが,その分は生活保護費から差し引かれる。生活保護を受けているが,帰国後,中国へ養父の墓参りに行ったとき,その間の保護費が止められて困ったことがある。生活保護ではない別な制度で老後の生活を保障して欲しいと考えている。原告番号84

昭和14年(1939年)

5月15日生

X84

昭和51年(1976年)

8月31日永住帰国(当時37歳)


身元判明


戦時死亡宣告

生活保護受給

無有
証拠(甲84の1,乙84の1,原告X84)及び弁論の全趣旨による認定事実①両親等と別れたときの状況等
原告X84の両親は,昭和19年(1944年),同原告と妹を連れて開拓団員として渡満した。終戦後,ハルピンで父母,妹は餓死した。両親が亡くなってから,同原告は6歳のころに最初の養父母に引きとられた。1年くらいして,2番目の養父母に預けられた。10歳くらいのときに3番目の養父母に預けられ,やっと定住できた。
②中国での生活状況等
いずれの養父母にも,一日中農作業や家事をさせられた。10歳からは大人と同じように働かされた。学校には行かせてもらえず,農閑期のみ夜学に行き,簡単な中国語の読み書きはできるようになった。子供のころ,日本鬼子と呼ばれ,いじめられた。18歳のとき,養父母から毛布1枚と食事をわずかに与えられ,家を出ていくように言われた。18歳から26歳まで,昼間は仕事をして,夜は豚小屋で寝泊まりする生活をした。26歳のとき結婚し,2人の子をもうけたが,妻に別の男性ができて離婚した。子供は1人ずつ引きとった。③帰国前後の状況等
日中国交回復後に,残留婦人の人に帰国できることを聞き,その人に協力してもらって,叔父が見付かった。裁判をして妻の引きとった子も日本に連れて帰るようにした。昭和51年(1976年)に2人の子と帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後,日本語教室に通ったが,なかなか話せるようにならず,一,二か月で行かなくなった。就職,子育てなど,日常生活全般で大変苦労した。現在の日本語能力は簡単な会話ができる程度で,早口や難しいことを話されると分からない。現在住んでいるところには中国語を話す人がいないので中国語もどんどん忘れていっている。老後の生活保障を求めたいと考えている原告番号85
昭和20年(1945年)

6月28日生

X85

平成

4月


元年(1989年)

身元判明


戦時死亡宣告


5日永住帰国(当時43歳)
生活保護受給


証拠(甲85の1)及び弁論の全趣旨による認定事実
①両親等と別れたときの状況等
原告X85の父は,撫順で郵便局員をしていた。終戦時,生まれたばかりの同原告を日本に連れて帰ることは難しいと考え,友人だった養父母に同原告を預けた。
②中国での生活状況等
養父は大工をしていたが,生活は苦しく,同原告は8歳から小学校に通ったが,十二,三歳のころまでしか行けなかった。中国語を読むことはできるが,書くことはできない。子供のころ,日本人だという理由でいじめられたことがあるが,養父母は同原告が日本人であることを周囲には隠していた。後で聞いた話だが,文化大革命時は,養父母は日本人を育てたということを問題にされ,苦労したということだった。家で牛の世話をし,その後に,農業に従事していたが,昭和50年(1975年)に電機会社に就職した。就職する直前に結婚した。③帰国前後の状況等
昭和55年(1980年)に,自分が日本人であることを知り,昭和62年(1987年),訪日調査のために一時帰国したが,肉親は見付からなかった。平成元年(1989年)に帰国した。
④帰国後の生活状況等
帰国後は,学問がないことと日本語が話せないことで大変な苦労をしている。定着促進センターで4か月間,その後も4か月間,日本語研修を受けたが,やさしい日常会話はできるが,それ以上は難しい。日本語ができないために仕事がなかなか見付からず,見付かっても言葉が通じず苦労した。生活保護は5年間くらいの間,受給したりしなかったりを繰り返した。生活保護を受けていると,子供を幼稚園に入園させることができない,中国の養父母を訪ねることができないなど生活に制約が多いと感じている。老後は安定した生活ができるようにして欲しいと考えている。別紙表1(中国帰国者の年度別帰国状況(日中国交回復後))
区分

永住帰国者

一時帰国者

うち残留孤児
年度

世帯

人員

世帯

人員

うち残留婦人等
世帯

人員

うち残留孤児
世帯

人員

世帯

うち残留婦人等

人員

世帯

人員

S47

S48

S49

S50

S51

S52

S53

S54

S55

S56

S57

S58

S59

S60

S61

S62

S63

H元

H2

H3

H4

H5

H6

H7

H8

H9

H10

H11

H12

H13

H14

H15


注1

帰国者のうち残留孤児2467世帯の中には,孤児夫婦が3世帯いるので,孤児の帰国総数は2470人である。

注2

一時帰国者の中には,再一時帰国者1145人(うち孤児267人)が含まれている。
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