判例検索β > 平成16年(ワ)第356号
中国人強制連行強制労働損害賠償等請求事件
事件番号平成16(ワ)356
事件名中国人強制連行強制労働損害賠償等請求事件
裁判年月日平成19年3月26日
裁判所名・部宮崎地方裁判所  民事第一部
結果棄却
裁判日:西暦2007-03-26
情報公開日2017-10-18 04:07:43
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平成19年3月26日判決言渡
平成16年第356号
口頭弁論終結日

原本同日交付

裁判所書記官

中国人強制連行強制労働損害賠償等請求事件

平成18年12月11日

当事者


別紙当事者目録記載のとおり

主文1
原告らの請求をいずれも棄却する。

2
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
《目次》
第1

請求

4
第2

事案の概要

4
第3

前提事実

51
本件の背景となる歴史的事実……………………………………………5

満州事変から太平洋戦争開始までの経緯

5


太平洋戦争開始後の政策

6


戦後における中国人労働者の中国への送還

82
Hについての相続…………………………………………………………10
第4

争点

10

第5

争点に対する当事者の主張

11

1
強制連行・強制労働の事実の有無(争点1)について……………11

11



被告国の認否

40


2
原告らの主張

被告会社の認否・反論

40

被告国が,国賠法施行前の行為につき,不法行為責任を負うか
否か(争点2)について……………………………………………………48


被告国の主張

48



原告らの反論

52

3
民法724条後段の適用の有無(争点3)について………………60

被告国の主張

61



被告会社の主張

64



原告らの反論

66

4
条約による原告らの請求権の放棄の有無(争点4)について……81

被告国の主張

81



被告会社の主張

87



原告らの反論

89

5
安全配慮義務違反の有無(争点5)について………………………94

原告らの主張

94



被告国の反論

107



被告会社の反論

113

6
消滅時効の成否,時効援用の可否(争点6)について…………120

被告会社の主張

120



原告らの反論

121

7
戦後における原状回復義務違反の不法行為ないし保護義務違反
の債務不履行の成否(争点7)について……………………………134

原告らの主張

134



被告国の反論

136



被告会社の反論

138

8
戦後における犯罪行為隠滅,提訴妨害の不法行為の成否(争点
8)について………………………………………………………………138

原告らの主張

139



被告国の反論

140


9
被告会社の反論

141

損害(争点9)について……………………………………………141

原告らの主張

141



被告らの反論

142

第6

当裁判所の判断…………………………………………………………142
1
強制連行・強制労働の事実の有無(争点1)について…………142

中国人労働者移入の全体像(認定事実その1)



槇峰鉱業所における移入・労働状況の概要(認定事実その
2)

142

145



原告Aらの被害状況(認定事実その3)

147



強制連行・強制労働の事実についてのまとめと評価

165



被告会社の反論について

166



被告らの責任(共同不法行為の成立)

169

2
被告国が,国賠法施行前の行為につき,不法行為責任を負うか
否か(争点2)について

………………………………………………169



国家無答責の法理の制定法上の根拠について

170



国家無答責の法理に関する判例について

176



国賠法附則6条について

179



結論

179

3
民法724条後段の適用の有無(争点3)について……………179

179



民法724条後段の期間の起算点について

180



除斥期間の適用制限について

181



国際人道法等を理由とする除斥期間不適用の主張について

186


4
民法724条後段の期間制限の法的性質について

結論

187

安全配慮義務違反の有無(争点5)について……………………187


安全配慮義務について

187



被告会社の安全配慮義務違反の有無

187



被告国の安全配慮義務違反の有無

193

5
消滅時効の成否,時効援用の可否(争点6)について…………202

消滅時効の起算点

202



時効期間の経過及び時効の援用

203



時効援用権の濫用について

204

6
戦後における原状回復義務違反の不法行為ないし保護義務違反
の債務不履行の成否(争点7)について……………………………206

雇用契約ないし雇用契約に準ずる関係に基づく保護義務につ
いて


7
206

先行行為に基づく保護義務について

207

戦後における犯罪行為隠滅,提訴妨害の不法行為の成否(争点
8)について………………………………………………………………207
第7

第1
1
むすび

208

請求
被告らは,原告らに対し,それぞれ別紙謝罪広告目録ア記載の新聞の各朝刊の全国版下段広告欄に,2段抜きで,同目録イ記載の謝罪広告文案の謝罪広告を,見出し及び被告らの名は4号活字をもって,その他は5号活字をもって,1回掲載せよ。

2
被告らは,原告らに対し,連帯して,それぞれ別紙請求額一覧の請求額欄記載の各金員及びこれらに対する被告国については平成16年8月17日から,被告I株式会社については同月18日から,各支払済みまで年5分の割合による各金員を支払え。

第2

事案の概要

本件は,中国の国民である番号1ないし7の各原告及びH(番号8ないし13の各原告はその相続人。以下,番号1ないし7の各原告とHを併せて原告Aらという。)が,昭和19年から昭和20年にかけて,当時の日本政府の
政策に基づき,被告らによって日本へ強制的に連行された上,被告I株式会社(以下被告会社という。
)が経営する宮崎県の槇峰鉱業所において過酷な
労働を強制され,これによって深刻な精神的苦痛を受けたとして,原告らが,被告らに対し,①上記強制連行・強制労働の不法行為,②上記強制連行・強制労働に際しての安全配慮義務違反,③戦後における原状回復義務違反の不法行為ないし保護義務違反の債務不履行,及び④戦後における証拠隠滅・提訴妨害の不法行為に基づき,謝罪広告の掲載並びに別紙請求額一覧の請求額欄記載の各損害賠償金及びこれらに対する訴状送達の日の翌日である被告国については平成16年8月17日から,被告会社については同月18日から,各支払済みまで民法所定の年5分の割合による各遅延損害金の支払を求めている事案である。
第3

前提事実

1
本件の背景となる歴史的事実


満州事変から太平洋戦争開始までの経緯
昭和6年9月18日,関東軍が,奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道爆破事件(柳条湖事件)を起こし,満州事変が始まった。日本軍は,昭和7年1月,上海事変を起こし,同年3月,満州国の建国を宣言させ,同年9月,日本政府は,満州国を承認した。昭和8年3月,日本は,国際連盟からの脱退を通告した。同年5月,日中軍事停戦協定(塘沽停戦協定)が結ばれて満州事変は終わったが,その後も,関東軍は,華北への進出の機会を窺っていた。こうした中,昭和12年7月7日,北京郊外の盧溝橋で日中両国軍の衝突事件が発生し(盧溝橋事件)
,戦線は中国各地に広がっていった。これに対して
中国国民の抗日救国運動が起こり,蔣介石の国民政府は,同年9月末,共産
党と第2次国共合作を行い,抗日民族統一戦線が成立した。日本政府は,昭和13年,

国民政府を対手とせず。,

日満華三国連帯による東亜新秩序の建設が戦争目標である。

とする声明を発し,昭和15年3月には,それまで中国各地に樹立していた中華民国臨時政府,中華民国維新政府等の日本の傀儡政権を統合し,南京に汪兆銘(汪精衛)の新国民政府を樹立させた。また,同月,同政府の管轄下に,華北(河北省,山東省,山西省)における地方政権の性格を有する政府機関として,華北政務委員会が設置された(甲106〔76頁ないし80頁〕
,甲108,甲109,甲115〔17項な
いし20項,25項〕甲116〔2頁ないし6頁〕甲120,証人J,

〔10項〕。

しかし,蔣介石の国民政府はその後も抗戦を続け,日本は中国との全面的な戦争に突入した。そして,昭和16年12月8日,日本は米国及びイギリスに対して宣戦布告し,太平洋戦争が始まった(甲120)



太平洋戦争開始後の政策

日中戦争が長期化し,太平洋戦争が始まり,戦争が拡大していく中,戦争遂行に必要な石炭等のエネルギー資源の確保が日本の至上命題となり,昭和13年4月には国家総動員法が公布され,日本政府は,議会の承認なしに,経済と国民生活全般を統制する権限を得た。昭和14年7月には,国家総動員法に基づき国民徴用令が公布され,一般国民が軍需産業に動員されるようになった。
さらに,日本政府は,同年から労務動員計画中に移入朝鮮人労働者を計上するなどして,朝鮮から日本内地に労務動員をするなど,朝鮮人労働者の確保も図られるようになった。太平洋戦争開始の翌年である昭和17年2月13日,日本政府は朝鮮人労務者活用に関する方策を閣議決定し,多数の朝鮮人労働者が日本内地に移入された。
(以上甲30,甲31〔5
28頁ないし531頁〕
,甲33,甲48,甲51の1)


日本国内の労働力は戦争の拡大とともに枯渇し,特に重筋労働部門における労働力不足が著しくなった。北海道土木工業連合会は,昭和14年7月,厚生大臣及び内務大臣に対し,中国からの中国人労働者の移入の必要性を訴える願書を提出し,その後,土木工業協会も,日本政府に対し中国人労働者の使用を要請した。また,石炭鉱業連合会及び金属鉱業連合会は,昭和16年8月,日本政府に対し鉱山労務根本対策意見書を提出し,中国人労働者移入の積極的な促進を訴えた(甲6,甲7,甲29〔400頁ないし413頁〕
,甲39)

他方,昭和15年3月には,華人労務者移入に関する官民合同協議会が商工省燃料局内に設置され,石炭産業における中国人労働者の移入について官民一体となった協議と対策が図られるようになった。昭和17年には,興亜院により,極秘文書華北労務者の対日供出に関する件が作成された。その骨子は,日本国内における労働力不足の現況にかんがみ,中国人労働者によってその充足を図り,戦時経済の円滑な運営に資するとともに,中国人労働者に対し,将来華北において必要となる労働技術に習熟させることを目的として,募集・輸送・就労中の労務管理の一部並びに帰還を一貫して華北労工協会が行い,供出に要する一切の費用は事業者の負担とし,募集費は一括して華北労工協会に前納するというものであった(甲3)。
同年末,企画院の主催によって,厚生省,大東亜省,内務省,商工省等の各省関係官と,民間から石炭,鉱山,海運,土木の各統制団体及び企業の視察希望者が参加して,華北労働事情視察団が組織され,華北労働事情の調査と関係各団体(北京大使館,華北労工協会,華北運輸会社,北支開発社,華北石炭関係事業主等)との協議が行われた。同使節団の調査及び協議の結果,一部の港湾荷役と石炭山に試験的に少数の集団的移入を行い,その結果,本格的移入をするかどうか決定することとされた(甲9)。


以上のような経緯を踏まえ,日本政府は,同年11月27日,
華人労務者内地移入ニ関スル件と題する閣議決定(以下昭和17年閣議決定という。)を行い,中国人労働者を日本国内に移入して重筋労働部門
における労働力不足を補うという政策を採用し,差し当たり試験的に中国人労働者の移入を行い,その結果を見て漸次本格的実施に移すこととした。同閣議決定に基づき,試験移入として,昭和18年4月から同年11月までの間に,中国人労働者1420人が日本に移入された(甲1〔211頁,216頁,245頁ないし248頁〕。


日本政府は,試験移入の結果が良好であったとして,昭和19年2月28日,華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」と題する次官会議決定(以下「昭和19年次官会議決定という。
)において,中国人労働者を
毎年度の国民動員計画に計上し,本格的な移入を図ることとした。また,日本政府は,これに基づき,
華人労務者内地移入手続と題する中国人
労働者移入の具体的な実施細目を定め,さらに,同年8月16日,昭和十九年度国民動員実施計画策定ニ関スル件との閣議決定において,昭和19年度国民動員計画において3万人の中国人労働者の供給を計上した(甲1〔212頁,213頁,255頁ないし265頁,269頁ないし276頁〕
,甲51の2)

この結果,本格移入として,同年3月から昭和20年5月までの間に3万7515人(試験移入と併せて3万8935人)の中国人労働者が日本内地に移入された(甲1〔217頁〕。




戦後における中国人労働者の中国への送還

日本政府は,昭和20年8月15日,ポツダム宣言を受諾し,太平洋戦争は終結した。日本政府は,同月21日の閣議決定に基づき,戦争遂行のために設置された大東亜省・軍需省を廃止し,日本国内に居住する外国人に関する事務,満州・中国及び南方地域における在留邦人,諸施設に関する事務を主管業務とする外務省管理局を新たに設置した。敗戦直後におい
て,外務省管理局の最大の業務の一つは,在外邦人の引揚げとともに,日本国内に移入されていた中国人や朝鮮人の本国への送還であった。イ
日本政府は,同月17日,内務省主管防諜委員会幹事会を開き,中国人労働者全員を帰国させることを基本方針とする華人労務者の取扱を決定した。同決定は,中国人労働者に対して差し当たり取るべき措置を次のように定めた(甲1〔392頁ないし394頁〕。



作業続行を中止し,現在地において保護収容すること



中国人労働者に対して,契約による賃金・衣食を給し,可及的に処遇改善を図ること



中国人労働者に対する危害・暴行を厳に戒め,傷病者の看護に意を用いること



犯罪容疑をもって留置取調べ中の者は釈放すること
日本政府は,同年9月2日,降伏文書に調印した。同文書には,連合国
が日本帝国政府及び日本帝国大本営に対して,現に日本国の支配下にある一切の連合国俘虜及び被抑留者を直ちに解放すること,並びにその保護,手当,給養及び指示された場所への即時輸送のための措置をとることを命ずるとの記載があった(甲42〔169頁,170頁〕。


昭和17年閣議決定は,中国人労働者の契約期間は原則として2年と定め,同決定を受けて定められた華北労務者内地移入実施要領は,契約期間満了後は,各事業場等において,原則として中国人労働者を集合地まで送還すること,疾病その他の理由により就労を継続することができない中国人労働者についても同様に取り扱う旨定めていた(甲1〔246頁,253頁〕。しかしながら,上記の規定に従い,終戦前に中国へ送還された)
中国人労働者は1180人にとどまり,その他のほとんどの中国人労働者は,終戦後に中国へ送還された(甲1〔234頁,235頁〕。

戦後においては,中国人労働者は,昭和20年10月ころから,新潟,
博多,室蘭,長崎等の港を出発地として,日本船により1万0924人が,米軍の上陸用船艇により1万9686人が,集団で中国に送還され,127人が個人で帰国した(甲1〔234頁ないし237頁〕。

被告会社が受け入れた中国人労働者2697人のうち,中国帰還者は2190人であり,槇峰鉱業所では受入数241人のうち帰還者は174人であった(甲1〔304頁,305頁〕。

2
Hについての相続
Hは,平成14年(2002年)1月6日に死亡したが,原告H1はその妻,原告H2はその第1子,原告H3はその第2子,原告H4はその第3子,原告H5はその第4子,原告H6はその第5子である(甲24,甲137)。
中華人民共和国の相続法では,上記6名がHの相続人であり,上記6名の相続分はそれぞれ6分の1である。

第4

争点

1
被告らが原告Aらに対し強制連行・強制労働を行った事実の有無(争点1)
2
強制連行・強制労働の不法行為に基づく損害賠償請求等に関し


被告国が,国家賠償法(以下国賠法という。
)施行前の行為につき,
不法行為責任を負うか否か(国家無答責の法理の適用の有無。争点2)


民法724条後段の適用の有無(争点3)



条約による原告らの請求権の放棄の有無(争点4)

3
安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求等に関し



消滅時効の成否,時効援用の可否(争点6)


4
安全配慮義務違反の有無(争点5)

上記2に同じ
戦後における原状回復義務の不法行為ないし保護義務違反の債務不履行に基
づく損害賠償請求等に関し,不法行為ないし債務不履行の成否,並びに民法724条後段の期間制限ないし消滅時効の成否(争点7)

5
戦後における証拠隠滅・提訴妨害の不法行為に基づく損害賠償請求等に関し,不法行為の成否(争点8)

6
損害の発生及びその数額(争点9)

第5

争点に対する当事者の主張

1
強制連行・強制労働の事実の有無(争点1)について


原告らの主張

強制連行・強制労働の全体像


供出方法
昭和18年4月から昭和20年5月までの間に,試験移入及び本格移入を併せて,華北地域から3万5778人,華中地域から2137人,満州から1020人,合計3万8935人の中国人労働者が,日本国内に移入,すなわち拉致・強制連行された。
中国人労働者の供出方法には,行政供出,訓練生供出,自由募集及び特別供出の4方法があった。行政供出とは,中国側行政機関の供出命令に基づく募集で,各省,道,県,郷村へと,上級庁から下部機構に対し供出員数を割り当て,責任数の供出を行わせるものである。訓練生供出とは,日本現地軍が作戦により得た俘虜及び帰順兵で,一般良民として釈放しても差し支えないと認められた者,並びに中国側地方法院において釈放した微罪者を,華北労工協会において下渡しを受け,同協会の有する各地の労工訓練所において,一定期間(約3か月)
,渡日に必要な
訓練をさせて供出することである。自由募集とは,主要労工資源地において,条件を示して希望者を募るものである。特別供出とは,現地において,特殊労務に必要な訓練と経験を有する特定機関の在籍労務者を供出するものである。
日本に強制連行された中国人労働者3万8935人のうち,行政供出による者は2万4050人,訓練生供出による者は1万0667人で,
両者を合計すると,全体の90%近くを占めている。


行政供出の実態
華北政務委員会は,中華民国臨時政府の管轄下に昭和15年に設置された,軍事と経済において広範囲の権限を付与された政府機関である。また,華北労工協会は,昭和16年7月,華北政務委員会の下で,華北における労働者の募集,供給等の労務の一元的統制を行うために設立された政府機関である。
しかし,昭和19年に入ると,共産党の八路軍が,連合国の対日反攻にも助けられ,華北で抗日根拠区の拡大に成功し,広大な農村地区を日本から奪還した。華北労工協会は,従来,地区別割当て方式による労働者の徴用を行っていたが,次第に行き詰まりを迎え始めた。そこで,華北労工協会は,同年1月,特定の地域に重点的に割り当てて連行を行うこととしたが,同年に供給した労働者の数は,計画数85万人に対し,44万2000人にとどまった。
日本政府は,同年8月,華北において労務者強制供出体制をとったため,これを受けた華北政務委員会は,傘下の各省,市,道,県に,重要労働力緊急動員の密令を発し,同月から昭和20年3月までを緊急動員期間とした。この期間,華北政務委員会及び各省,市,道,県の行政長官は,自ら率先して労務動員総部を組織し,その責任において労働者強制徴用計画を立て,華北労工協会及び日本軍政当局がこれに協力し,あるいは武力でこれを支援した。行政供出といわれるものの実態は,このような強制徴用であった。



訓練生供出の実態
昭和19年次官会議決定は,中国人労働者の訓練について,中国人労働者の移入に先立って,なるべく一定期間(1か月以内)現地の適当な機関において必要な訓練をさせることと定めており,それに基づき,前
記の手続で供出された中国人労働者は,中国国内の済南・石門・青島・耶邸・塘沽等の訓練地で訓練を受け,日本へ渡航することとされたが,実際には何らの訓練もなされなかった。


事業所への配置事情
昭和17年閣議決定は,中国人労働者の配置に関して,国民動員計画産業中,鉱業・荷役業・国防土木建築業及びその他の工場雑役に使用すべき旨根本方針を定め,試験移入として差し当たって重要な鉱山・荷役及び工場雑役,特に荷役業及び炭鉱に使用すべきこととした。さらに,昭和19年次官会議決定は,本格移入について,これを国民動員計画産業中,鉱山業・荷役業・国防土木建築業及び重要工業,その他特に必要と認めるものに従事させることとした。
上記の方針に基づき,昭和18年4月から試験移入を行って以来,3万8935人の中国人労働者が,35事業者,135事業場に配置された。このうち,被告会社は,9事業場において2709名の中国人労働者の配置を受けた。
中国人労働者を使用する事業場の決定については,事業主が厚生省に華人労務者移入雇傭願を提出し,厚生省が中国人労働者の割当てを決定することにより,中国人労働者の意思にかかわらず,事業主との間に労使関係が生じることとされていた。
また,昭和19年次官会議決定は,中国人労働者の契約期間は原則として2年とし,同一人を継続使用する場合は2年経過後適当な時期に希望によって一時帰国させることと定めている。しかしながら,中国人労働者と事業者との間において,雇用契約が締結されたことはなかった。


中国人労働者が日本に到着した後の手続
華人労務者内地移入手続は,中国人労働者が日本に到着した後の
手続を,次のように定めている。

まず,事業主は,中国人労働者が就業地に到着したときは,地方長官に労働許可証の申請手続をするとともに,国民職業指導所に移入労務者名簿(出身地・氏又は年齢)を提出し,輸送途中の概況を報告し,同報告を受けた国民職業指導所は,到着した中国人労働者数,その到着年月日等を庁府県に報告し,庁府県はこれを厚生省に報告することとされた。また,事業主は,中国人労働者の移動,災害,紛擾その他事件が発生したときは,警察署及び国民職業指導所に報告し,庁府県は,警察署及び国民職業指導所の報告を取りまとめて,厚生省,内務省,大東亜省に報告することとされた。
さらに,事業主は,毎月の中国人労働者の勤労状況を庁府県に報告し,庁府県は,これを業種別に取りまとめて,集計の上,厚生省,大東亜省に報告すること,事業主は,中国人労働者を帰国させるときは,名簿,下船地,予定日等を,国民職業指導所及び警察署を経由して庁府県に報告するとともに,内務省,厚生省,大東亜省に報告することとされた。イ
槇峰鉱業所における強制連行・強制労働


被告会社全体における強制連行・強制労働の概要
三井鉱山と並んで日本における巨大な鉱山会社であった被告会社は,北海道及び九州において炭坑と金属鉱山を経営していた。そのため,被告会社が経営する9つの事業所に合計2697人の中国人労働者が配置された。



槇峰鉱業所への強制連行の実態
原告Aらが配置された槇峰鉱業所は,宮崎県a町所在の,被告会社が経営する銅鉱である。
槇峰鉱業所が受け入れた中国人労働者は,大東亜省,厚生省及び華北労工協会のあっせんにより供出されたとされ,供出機関は華北労工協会,供出方法は行政供出であった。

槇峰鉱業所への中国人労働者の割当数は250人であったが,青島で乗船したのは244人であり,出帆後3名が死亡したため,被告会社は,昭和20年2月1日,241人を受け入れた。
被連行者の出身地はほとんどが中国山東省禹城県(現在の禹城市)及び同省平原県であり,職業は多くが農業,年齢は最高68歳,最低14歳,平均40歳であった。
被連行者のほとんどの者が,日本軍や傀儡軍によって,ある日突然生活の場から拉致・連行された。拉致後,食事も満足に与えられずに監禁され,日本への連行前に既に死者が出た。そして,行き先も告げられないまま,青島港から門司港に船で移送された。
被告会社の社員15名と警察官10名が門司港に引き取りに出向き,槇峰鉱業所まで列車で連れてきた。しかし,この時点で既に病気にかかっていたり,栄養失調のため体調を崩したりする者が多数おり,最終的な死亡率は30.8%に達しており,全国の例から見ても際立って高い。

槇峰鉱業所における強制労働の実態
槇峰鉱業所に強制連行された中国人労働者の,同鉱業所における強制労働の実態は以下のとおりであった。

労働時間
朝7時ころには宿舎を出て鉱山に向かい,午前8時ころから午後6時ころまで,ほとんど休みらしい休みもなく働かされた。休憩時間はほとんど与えられておらず,実労働時間は約9.5時間であった。

労働内容
ほとんどの者が,発破で崩したズリを片付ける作業及び坑内から鉱石を運び出す作業であった。


宿舎
宿舎は,綱の瀬川右岸の斜面を切り開き宅地にした場所にあった。
三方が山と崖,一方は綱の瀬川の谷底,高さ1.8メートルの有刺鉄線が張られた塀に囲まれた木造の長屋であり,入口では日本人看守数人が常時見張っており,中国人労働者が塀の外に出ることは許されなかった。

衣服,寝具等
大半の者は衣服を支給されず,中国から各自着用してきた服を着たきりの状態であった。寝具は,綿のない薄い布様の物が渡されたのみで,これにくるまり,板敷の上で寝る状態だった。


食糧
食事は1日3回であったが,1回につきマントウ様の物が2個程度与えられるのみで,副食はなく,質量ともに不足していたことから,中国人労働者は常時空腹感に苦しんだ。


死亡者
被告会社による受入れ後の死亡者は,疾病による死亡が63人,公傷による死亡が2人とされているが,そのほか,拉致直後に青島で6人,日本へ移動する船中で3人,終戦後帰国するまでの間に3人死亡している。
槇峰鉱業所への中国人労働者の割当ては250人であったが,終戦後の昭和20年12月に中国の塘沽に帰国した者は173人であった。実に,77人が10か月という短い期間に死亡した。死亡率は30.8%に上り,全国平均の17.5%をはるかに上回り,ソ連抑留者の死亡率10%と比較しても異常な高率である。特に,青島で乗船を拒否した6人の若者が銃殺されるなどしており,
募集に応じた移入などではなく,銃剣による強制連行,奴隷的連行であったことを端的に物語っている。
死亡診断書によると,病名のうち最も多く見られるのは呼吸器系の
疾患で,これによる死亡者が26人に達している(肺結核・胸膜炎15人,肺炎・気管支炎9人,感冒2人)
。これらは,槇峰鉱業所が実
際に受け入れた241人の中の11%(全死亡者の中では41%)を占めており,異常に高い数値である。中国人労働者は,厳冬の昭和20年1月下旬に船で中国から搬送され,その際,衣類や寝具がほとんど与えられなかっただけでなく,門司に上陸した直後,いきなり消毒液を頭から大量にかけられるという家畜さながらの仕打ちを受けた。強制連行後の過酷な仕打ちによって被連行者が衰弱していたことから,呼吸器系の疾患によって多くの者の命が奪われた。
次に目立つのが,消化器系の疾患(腸カタル・胃腸炎等)22人であり,槇峰鉱業所が実際に受け入れた241人のうち7%(全死亡者の中では26%)を占めている。消化器系の疾患は,劣悪な栄養状態及び衛生状態が影響していると考えるのが自然である。
また,ビタミン欠乏症も15人(疑い含む)と高い比率である。これは,第一に,栄養状態に起因するものと思われるが,加えて,高温多湿な坑内の作業環境に起因することも統計上明らかになっており,ビタミン欠乏症により15人もの死亡者が出たことは,作業環境の過酷さを物語っている。
以上のほかに,ビタミン欠乏と協働原因となっているが,凍傷を死因とするケースが2人いることが注目される。衰弱している中とはいえ,南国といわれる宮崎にあって,凍傷が死因に挙げられていること自体,異常事態である。

傷病者
死亡にまで至らなくても,健康状態は極めて劣悪であり,槇峰鉱業所が作成した事業場報告書にも,
二目と見られざる衰弱ぶりとの
記載がある。具体的な症状としては,
栄養失調者多数全身疥癬,,手足凍傷,大腸カタル,肺結核,肺炎,膿傷等重患多数という記載があり,労働環境,処遇の劣悪さを示している。
なお,事業場報告書によると,
公傷が4人,うち2人は死亡し,
残り2人が不具者となったとされている。これに対し,
私傷
は105人(うち21人が重傷)とされているが,朝から夕方まで,休日もなく働かされ,鉱山から一歩も外に出られなかった中で,私傷(個人的なけが)が発生することは考えられず,何らかの仕事上の負傷としか考えられない。
これらの重傷者を合わせると23人であり,受入数の10%近くを占める。

原告Aらの強制連行・強制労働の被害状況


原告A(原告番号1)

原告Aは,大正15年(1926年)5月13日,中国山東省平原県《住所略》で生まれた。家は農業に従事し,とうもろこしと麦を作っていた。原告Aは,昭和18年ころ,結婚した。
原告Aは,昭和19年(1944年)10月ころのある日の午前中,平原県の街に白菜を売りに行って1人で家に帰る途中,3,4人の日本兵から銃を突きつけられて拘束され,県城南関の建物に閉じ込められた。建物の中には200人くらいの被連行者がいて,入口には銃を持った2人の日本兵が見張りに立っていたため,外に出ることはできなかった。
翌日,日本兵により平原県北関の鉄道の駅に連れていかれ,更に列車で済南に連れていかれて,倉庫に閉じ込められた。倉庫の窓には鉄の柵があり,中には全部で300から400人くらいの被連行者がいた。
原告Aほかの被連行者は,済南に10日以上拘束された後,日本兵
によって汽車に乗せられ,青島の施設に収容された。入口には,中国人や日本兵が歩哨に立っていた。青島には,1か月以上いた。
原告Aは,家族である,母と2人の弟,1人の妹と,結婚したばかりの妻のことが心配であり,また,日本人が自分たちをどうしようとしているのかも分からず,心配であった。
その後,青島港で船に乗せられ,船倉の中に押し込まれ,7日ほど航行して門司港に着いた。そこから汽車に乗せられ,一晩で,槇峰鉱業所に到着した。到着すると,日本人が被連行者に対して日本刀を見せ,逃げないように威嚇した。

槇峰鉱業所に着いて何日かすると,坑内で作業をさせられた。日本人がダイナマイトで穴を開けて爆破した後,中国人労働者が,鉄製のちりとりのような道具で鉱石をトロッコに積み,トロッコを押して鉱石を運び出す作業をさせられた。毎日,夜が明けるとすぐ起き,朝食後,約1時間歩いて,坑内で作業を始め,休憩もなく,夜宿舎に帰る時には外は暗く,太陽を見ることもできなかった。作業中はけがが多く,指を切断したり,死亡したりした中国人労働者もいた。
食べ物は粗末で,芋の干したものやとうもろこしのマントウ様の物で,まれに米のご飯があった。
原告Aほかの中国人労働者の住んだ建物は,塀で囲まれ,入口には日本人が刀を持って見張りに立っていた。十数人が一部屋に住んでいた。板で張った床にむしろのようなものを敷いたが,布団はなかった。宿舎の床下にも,坑道にも水が流れていたため,原告Aは,皮膚病を患った。さらに,脱腸を患い,中耳炎になった。今でも水が流れ出す音がして,聴力が悪いままである。また,水のある所が多かったため,足や腰が痛くなり,今も,雨の日は足や腰が痛くて,外に出て歩くこともできない。日本人は,中国人労働者を人間扱いせず,原告Aも,
ささいなことで日本人から靴でけられたことがあった。

原告Aは,昭和20年夏,日本が降伏したことを知った。中国人労働者を捜していた中国人に会い,帰国できると聞かされ,皆は大変喜んだ。被告会社からは,1銭の金も衣服も与えられなかった。
船に乗って日本を離れ,5日くらいで天津の塘沽に着き,徒歩で物乞いをしながら,5日かかって平原県に帰り着いた。
家に帰ると,家族が全員いて,原告Aを見るや抱き合って一緒に泣いた。原告Aが既に死んだと思っていた母は,泣いて喜んだ。



原告B(原告番号2)

原告Bは,大正14年(1925年)5月5日に生まれた。家には原告Bのほかその両親がいて,農業に従事していたが,貧困であった。原告Bは,昭和19年(1944年)秋ころ,中国山東省禹城県
《住所略》で畑に出て農作業をしていた時,日本兵とその手先の中国人に脅され,言われるままに連行された。原告Bは,日本兵が銃を持っていたため,全く抵抗できなかった。
原告Bは,そのまま,10キロメートルくらい離れた禹城駅まで連れていかれ,禹城駅から窓のない貨車に載せられ,済南まで連れていかれた。同じ貨車で連行された人は多数いた。
済南では,鉄でできた建物に監禁されたが,そこには貨車の中よりも更に多くの人が監禁されていた。そこで食べ物として与えられたものは,とうもろこしを材料にして蒸したマントウ(窩頭)で,おかずもなく,これを1日に2回,1回に1個食べたが,とても空腹を満たせるものではなかった。寝るときは,布団も敷く物もなかった。被連行者が逃げないよう,日本兵とその手先の中国人が監視していたが,何のために捕まったのか,どこに連れていかれるのかについては何の説明もなく,分からなかった。

その後,原告Bほかの被連行者は,日本兵に銃で脅されながら,窓のない貨車に載せられ,青島の匯泉まで連行された。そこでも監禁状態が続いたが,その状況は済南での状況とほぼ同様であった。
さらに,その後,原告Bほかの被連行者は,日本兵から銃で脅されて乗船させられ,1週間くらい航行して門司港に着き,更に槇峰鉱業所まで連行された。

原告Bは,槇峰鉱業所で,爆破された後の鉱石をトロッコに積んだり,そのトロッコを押したりする作業に従事した。朝早くから夜暗くなるころまで働き,休む時間もなく,休日もなかった。
原告Bほかの中国人労働者は,ぼろの上下の衣服と,作業用のゴム長靴を支給された。日本人が原告Bら中国人労働者を作業場に連れていき,帰りも日本人が連れて帰った。日本人が作業を監視していて,中国人労働者は,作業が遅いと藤の棒で体をたたかれ,原告Bも作業が遅いと殴られたことがあった。
食事は,米に何か加わった物で,古びた白菜やまずい昆布も出たことがあった。1日3食だが量が極めて少なく,とても腹にはたまらず,絶えず空腹だった。腹一杯食べない上,力作業であり,それに殴られ,多くの者が死んでいった。死人はすべて日本人が処理した。
宿舎は,木板で造った家で,何十人かが一部屋に住んでいた。床は古い木板で,1枚の破れた敷物を与えられたが,布団はなく,稲藁を編んで作ったござのようなものを敷いていた。宿舎の入口は1つで,その入口の監視台には日本兵が銃を持って立っており,作業以外で外に出ることはできなかった。
風呂がなく,中国人労働者は,山の冷水で顔や体を洗った。掃除をする者もおらず,湿気が多かったため,多くの者が膿の出る皮膚病を患った。皮膚病の者は薬の入った風呂に入れさせられた。原告Bも,
それまで皮膚病はなかったが,鉱山に来て重い皮膚病を患い,今でも傷跡が残り,痛みが続いている。また,原告Bは,鉱山にいる時病気になり,1か月くらい意識不明の重体になったことがあったが,医者には見せてもらえなかった。

原告Bは,終戦後間もなく,他の被連行者とともに日本の長崎港から船に乗り帰国した。中国の塘沽に着き下船し,天津に行き皆解散した。原告Bは,鉄道に沿い,物乞いをしながら,歩いて家に帰った。家に帰ると,父母は農業をしていて,原告Bが日本兵に捕まって日本へ連行されていたことを初めて知った。原告Bが連行された後,家には労働力がなく,畑造りもできず,更に困窮していた。
日本から帰国してから今日まで,鉱山で初めて罹患した皮膚病がそのまま治らずに痛み,頭がいつもふらふらし,胃も良くないなどの状態が続いている。



原告C(原告番号3)

原告Cは,昭和4年(1929年)6月14日,中国山東省禹城県《住所略》で生まれた。父母を亡くし,弟3人とともに親戚の家に引き取られ,とうもろこし,粟,わずかの小麦を耕作していた。
原告Cは,昭和19年(1944年)10月ころ,
《村名略》の街
を歩いていると,日本兵と傀儡軍に銃を突きつけられ,捕らえられた。腕を縛られ,禹城に連れていかれ,さらに貨車に乗せられ,済南に着いた。大きな倉庫に,数百人が押し詰められた。
原告Cほかの被連行者は,6,7日後,傀儡軍と日本兵によって縛られて汽車に乗せられ,青島に連れていかれた。青島では,塀に囲まれた大きな建物に押し込められた。塀の上には鉄条網が張られ,電気が通してあると言われた。塀の隅4か所には,傀儡軍が,銃を持って監視していた。粗末な食事しか与えられず,逃げようとした被連行者
が捕まり,見せしめに,太い棒でひどく殴られたこともあった。原告Cは,怖くて,逃げられる状態ではなく,生きて帰れるだろうか,どうなるのだろうかと,不安であり,いつも家のことを思って泣いた。青島で1か月くらい過ごした後,貨物船に乗せられた。船で病気の被連行者が死んで,海に投げ込まれたことも聞いた。心配で,どうなるか分からなかった。青島から5,6日間航行して日本に到着し,槇峰鉱業所まで連れていかれた。

原告Cほかの中国人労働者の住まいは狭く,部屋には3段の寝床があったが,1人がやっと横になれる幅で,一部屋に十数人が住んだ。寝床には布団もなく,冬も,暖房の設備もなかった。屋外は2,3メートルの高さの塀で囲まれ,敷地内には,日本の会社の者が見張りをしていた。
坑内では,ダイナマイトでの爆破の後,中国人労働者が鉱石を熊手のようなもので掘り出し,鉄製のちりとりのような道具を使って,鉱石をトロッコに積む作業をした。帰るのは外が暗くなってからで,途中に休憩は全くなく,休日もなかった。
作業の時,日本人がハンマーを持って監督し,何かあると,すぐにハンマーの横腹の部分で小突かれた。
毎日の食べ物は,わずかの米にじゃがいもを交ぜたりしたもので,しかも,量が非常に少なく,とても足りなかった。そのため,病気になったりする者がいた。ある中国人労働者は,空腹で盗み食いし,殴り倒された。中国人労働者が食堂から食料を盗んだことがあり,40人か50人くらいの中国人労働者が一列に並ばされ,誰が盗んだのかと追及されて,全員が太い棒で激しく殴られたことがあった。原告Cも,お尻を殴られた。
風呂がなく,鉱山で働いた期間,風呂に入ったことはなく,水道の
水で顔や手を洗う程度であった。多くの者が皮膚の病気になり,原告Cも,両足にはれ物のようなものができたが,治療はされなかった。右腕も,毎日の重労働のため,とても痛くなった。右腕は,中国に戻って治療したが良くならず,今でも上に上げられず,疲れたり湿気があったりすると非常に痛む状態である。
槇峰鉱業所での生活は非常に苦痛で,いつになったら中国に帰れるのか分からず,このままでは家に帰れないまま死んでしまうのではないかと思うようになった。家のことを思い,涙を流したことが何回もあった。

終戦となり作業がなくなったが,戦争が終わり,日本が負けたということを聞かされたのは1か月くらい後であった。被告会社からは,おわびもお金の支給もなかった。
原告Cほかの中国人労働者は,槇峰鉱業所から港へ行き,船で,中国の天津塘沽港に着いた。お金がなく,貨車につかまって滄州まで行き,滄州から歩いて自宅へ帰った。家に帰って,家族に会えたが,家族は,皆泣いてばかりいた。



原告D(原告番号4)

原告Dは,昭和2年(1927年)7月20日,中国山東省禹城県《住所略》で生まれた。家族は目に障害のある母と弟の3人で,連行当時,17歳の原告Dが中心となって農業をして暮らしていた。
原告Dは,昭和19年(1944年)秋の終わりころ,禹城県《住所略》に住んでいた姉が縫ってくれた服を取りに行き,姉の家から出て大通りに来た時,数人の傀儡兵と日本兵に銃口を突きつけられ,銃で殴られて拘束され,禹城の東関街(県政府の大きな建物)に監禁された。
原告Dを含む約300人の被連行者は,2日後,兵士により,禹城
から窓なし有蓋貨車で済南に送られた後,済南の北崗子という所まで歩かされ,そこの大きな鉄の建物に入れられた。兵士が門に錠をかけ,外に出ることができないので,食事も用便もすべてその中でさせられた。食べ物は1日2回,1回に2個の橡の実のマントウ(窩頭)で,飲み物は隙間からホースで部屋に差し込まれる水であった。橡の実は人が食べるものではなく,ほとんどの者が下痢を起こし,悲惨であった。
原告Dほかの被連行者は,4日くらい後,兵士によって4人1組で綱で縛られて,窓なしの有蓋貨車に乗せられ,済南から青島まで運ばれ,匯泉の高い城壁で囲まれた兵舎に押し込まれた。門には日本兵が銃を構えて歩哨に立っており,高い塀には通電鉄条網が張り巡らされ,逃げようにも逃げられなかった。
原告Dは,ここに約2か月間拘束されていたが,目の不自由な母や幼い弟のことが心配であり,また,日本兵が捕らえた自分たちをどうしようとしているのかも分からず,不安であった。1日2食,1食2個のマントウ(窩頭)では非常に空腹であり,病死したり,家が心配で悩み死んだりした人もいて,原告Dは,死者が人力車で運び出されるのを見た。
原告Dを含む約300人の被連行者は,昭和20年1月ころ,どこに行くとも言われず,日本兵によって貨物船に乗せられた。船は非常に不潔で銑鉄が積んであり,鉄鉱石の上で寝起きさせられた。船の中の食事も1日2食,1食2個のマントウ(窩頭)であり,病気になる者もあり,死亡した者が海に投げ捨てられた話も聞いた。不安でたまらなかった。
約1週間で門司港に着き,下船後,衣服を含め全身消毒されたが,原告Dは銑鉄でお尻の皮膚などを擦りむいていたので,消毒薬で皮膚
が大変痛かった。その後,武装した日本人に列車で槇峰鉱業所に護送された。

原告Dは,槇峰鉱業所に着いた後,2日目からすぐ作業をさせられた。坑内に入り,採石,運搬の作業であった。労働契約書は見たことがなく,工賃の話も全くなかった。作業時,1回だけ長靴(地下足袋)の支給があったが,作業服の支給はなく,宿舎でも作業中でも青島で支給された衣服のままであった。
朝8時から暗くなるまで作業をし,坑内から出てくると,太陽は既に落ちており,休日もなく,外にも出ることはできなかった。
作業の時は,日本人の監視人が約1メートルの長さの鉄のハンマーを持っており,中国人労働者は,作業が遅かったりすると,頭をはじめ体のどこでも殴られた。原告Dも何回か殴られ,ある時左足をたたかれ大けがをしたが,仕事は休まず,布きれで縛って対処した。この傷は現在まで跡があり,歩くときに痛みがある。また,原告Dは,湿気のある坑内の力仕事で,腸のヘルニア(脱腸)になり,現在も患っている。
食事は1日3食,1食2個の黒麺のマントウ(饅頭)だったが,これでは足りず,ほかに食べられる物もなく,栄養失調で多くの病人,死者が出たが,特に高齢者が多かった。
宿舎は,木造の建物で,ノミ,ねずみや南京虫もいた。
旧暦の正月,日本兵が,中国人労働者の故郷を思う気持ちを失わせようと,原告Dの属する班の全員をひざまずかせ,馬乗りになって,一人一人顔を殴り,屈辱を与えた。
原告Dは,人間扱いされないこの坑内から生きて帰れるとは思えず,いつも母や弟のことが思い出され,悔しさと悲しさで胸がふさがれ,耐え難かった。


終戦後,食事などは改善されたが,被告会社の者は,誰も,敗戦したこと,働かなくていいことなどを話してくれず,わびも言わず,被告会社の監督や警察は皆逃げた。原告Dは,昭和20年暮れ,帰国できることになったが,被告会社からはこの間の賃金を1円も支払われなかった。
原告Dは,中国の通訳に連れられて汽車で長崎に着き,そこから,船で塘沽港に着いたものの,天津で国民党の軍隊に捕まった。
原告Dは,何とか逃げ出して徴兵を免れたが,金が全くなかったので,乞食をしながら天津から故郷まで帰った。家に帰ってみると,家には働き手がなく,土地も荒れ,母は失明し物乞いをして暮らしていた。家の者は,原告Dが日本兵に逮捕され連れていかれたことは知っていたが,その行方が分からず,皆泣き暮れていたとのことであった。原告Dは,飢え,強制労働,辱めを受けた苦痛,後遺症のほかに,家族が置かれた苦しみ,悲しみを考えると,今日まで気持ちの晴れることはなかった。



原告E(原告番号5)

原告Eは,大正12年(1923年)3月22日,中国山東省禹城県《住所略》で生まれた。貧しい農家に育ち,連行当時,80歳過ぎの祖母と母,兄夫婦と2人の姉,妹,弟が一緒に暮らしていたが,兄は結核を患っており,弟は8歳であったので,原告Eが唯一の働き手であった。
原告Eは,昭和19年(1944年)旧暦10月ころ,母が織った織布を売りに山東省泰安に出向いたところ,その日の夕方,泰安駅に着いた直後に,棒と銃を持った7,8名の日本兵と傀儡兵に列車から降ろされ,いきなり殴られ,傀儡兵の駐在所のような場所に連行された。部屋に入れられ,すぐに鍵を掛けられた。部屋には他に中国人の
被連行者が大勢詰め込まれており,そこで1夜を過ごしたが,布団も毛布もなく,そのまま土間に寝かされた。
原告Eほかの被連行者は,泰安で1日を過ごした後,一人一人背中に番号を付けられ,2人ずつ腕を縄でくくられたまま,窓のない汽車に乗せられて,済南に移動した。済南では,周囲が鉄で囲まれた大きな鉄房に入れられ,布団も毛布もなく,床にそのまま寝かされた。さらに,数日後,青島に連れていかれたが,鉄条網が付いた壁に囲まれた大きな広場にたくさんの人がいて,門で日本兵が見張りをしていた。
食事は1日2回,とうもろこしで作ったマントウ(窩頭)が2個支給されるのみで,空腹感が続き,また栄養のあるものは一切出されなかった。
原告Eほかの被連行者は,しばらく経ったある日,日本兵と傀儡兵によって船へと押し込まれ,5,6日くらいの航海の後,門司港に着いた。被連行者は多数おり,銑鉄が積んである船底に座り,寝るのもそこで横たわるという状態であった。食事は,とうもろこしのマントウ(窩頭)が配られたが,船の上から食べ物がつるして降ろされ,年寄りや弱った人にはこれを取ることができない人もあり,食べるのも命がけであった。
原告Eは,船上で被連行者が亡くなり,日本兵によって海に投げ込まれたのを見て,胸が締め付けられ,自分も生きて帰れないと思った。被連行者は,門司港で船から降ろされると,寒風吹く中,衣類を着たままホースで冷たい消毒液をかけられた。その後,汽車に乗せられ,数時間乗車した後,さらに鉱山まで数キロメートルを歩かされた。被連行者は,突然拉致され,その後の栄養状態も悪かったことから,明らかに弱っており,やっと歩いている人が大勢いた。


宿舎は,木の塀で囲まれており,銃を持った人間が常時見張りについていた。一部屋に12人から13人詰め込まれ,横になるのがやっとの状態だった。寝る所は板間であり,何も敷かずに布団にくるまるだけだった。着替えも持っていなかったから,夜は裸になり腰に白い布を巻いた状態であり,寒かったので布団の端を縛ってそこに潜り込むようにして寝た。
宿舎で掃除をする人はなく,不衛生と湿気で,原告Eを含め多くの中国人労働者が疥癬にかかった。中国人労働者が入れる風呂はなく,住居の近くに水が流れていて,そこで体を洗うのが中国人労働者にとっての入浴であった。
作業は,坑内で,ダイナマイトで爆発した後の岩石を運び出す作業であった。原告Eの班は12人で構成され,毎朝7時ころに朝食をとり,間もなくこん棒を持った日本人に付いて坑内へ行き,言われるままに岩石を乗せた手押し車を押す作業を繰り返した。
労働時間について説明を受けたことはなく,時計もなかったので何時から何時までという認識はなかったが,朝明るくなる前に起こされ,間もなく鉱山に連れていかれ,昼ころに抗口でマントウ様の物を2個食べ,また日が暮れるまで働くという繰返しであった。休憩といっても,昼食後30分くらいその場に腰を下ろす程度であった。休日もなかった。
日本人が,棒やハンマと呼ばれていた金槌を持って監視してお
り,いつもコエ,コエ
(中国語で早くの意味)と言って,仕
事を急がせていた。ノルマがあり,若い中国人労働者は何とかできていたが,できない人間はハンマで殴られた。
作業服を被告会社から支給されたことはないが,山道でトロッコを押す仕事であることから,地下足袋のような靴は支給された。洗濯は,
時折仕事が終わってから,川の水につけて,泥を洗い流すだけであった。朝になると,まだ湿った服を着て,また仕事に出かけた。
食事は,マントウ様の物と漬物だけで,肉や魚はなかった。1日3度出たが,1回2個だけで,労働の大変さからして全く足りず,常に空腹だった。
給料をもらったことは一度もない。そもそも,給料を要求できるような状況にもなかった。日本から帰る時にもらったこともない。

昭和20年夏,突然働かなくていいと言われ,食事も改善された。しばらくして,日本が降伏したことを知った。
その後,アメリカ人の手配で,長崎の港から船に乗り,塘沽港に着いた。そこから天津まで汽車に乗った。天津に着き,鉄道がなくなっていたため,歩いて家に戻った。
家に帰ると,貧しい生活ながらも家族は生きていた。家族は,原告Eが死んだと思っていたらしく,一様に大変驚き,それから再会を喜び合った。
原告Eがいない間,家族は野草などを食べながら生きながらえていたとのことであり,家族もやせ細っていた。
日本から戻った後,連行時の厳しい生活によって,心臓や胃など体のあちこちが悪くなった。現在でも,いつも心臓病の薬を持ち歩いており,胃が痛くなることもよくある。



原告F(原告番号6)

原告Fは,大正11年(1922年)8月,中国山東省平原県《住所略》で生まれた。
幼名を《幼名略》といったが,強制連行された日本では,通訳から《氏名略》と名付けられ,その名で呼ばれたが,帰国後,
《氏名略》
という名前は良くないとのことで,今のFと名付け,この名前が

正式名称になっている。
当時,父は既に亡く,22歳の原告Fと母とで農業をしていたが,原告Fは,昭和19年(1944年)秋,さつまいもの収穫をしていたところ,傀儡兵と日本兵7名くらいに銃を突きつけられて逮捕され,2人ずつ縛られて平原県まで連行され,林院(科挙の試験場で2階建ての建物)に拘束された。この場所に原告Fの母が聞きつけて布団を差し入れようとしたが,拒否されて持ち帰ったことを後になって聞き,胸が痛み,涙が止まらなかった。
原告Fは,数日後,ここから済南まで,窓も椅子もない貨物列車で運ばれた。済南では鉄でできた大きな建物におよそ100人が監禁されていた。門にもすべて鍵が掛けられ,部屋の外には兵隊が銃を持って監視しており,外に出ることは許されず,食事も用便も睡眠も同じ地面の上でさせられた。
原告Fほかの被連行者は,済南で2日間くらい監禁された後,青島で3か月間働くとのことで,3人ずつ縛られ,建物から駅まで歩かされ,窓のない貨物車に乗せられて青島まで連行された。
青島では数百人の中国人が監禁されており,有刺鉄線や電気の通った鉄線が周囲に張り巡らされ,兵隊が監視していた。この間に病人や死人も出た。どこに何をしに行くのか分からないまま,銃を持った日本人兵と傀儡軍から,船に乗るよう命じられた。
乗船を強制された船は,船倉に銑鉄の固まりが積み込まれている大型の貨物船であり,軍服を着て銃を持った日本兵が監視していた。船内で死んだ人は,日本兵によって,袋にも入れられずそのまま海の中に投げ捨てられた。このころになると,日本に連れていかれることが分かったが,どうすることもできず,とても怖く生きて帰れるのかも分からず,不安でたまらなかった。

海上を約1週間くらい走り,門司港に着き,下船後,全身消毒をされ,嫌なにおいのする薬水に触ると,皮膚は大変痛んだ。消毒後,約1日かかって,槇峰鉱業所に着いた。

鉱山は大きな山の中にあり,着いて3日目から採石,運搬作業をさせられた。坑道の中から掘り出された鉱石を鉄のちりとりのようなスコップで手押し車に積み込み,指定された所まで運送する仕事であった。
日本人が通訳人を通して仕事を配分した。何組かの班に分けられ,日本人が指定した班長が管理した。毎日夜が明けたころから暗くなるまで一日中仕事をした。通常8時間のところ,夕食後更に4時間働かされることがあった。1日少なくとも40回は手押し車で運んだ。同僚が,手押し車を押している時,指がちぎれる事故に遭ったが,その後もまた仕事をさせられた。
宿舎は,木の板でできた小屋で,そこには同様の小屋がいくつかあった。ベッドは木でできた2メートル四方の広さで,横になるのがやっとの所に何人もの人が寝かされていた。
麻袋の切れ端のような黄色い服を1回支給された。靴も,ゴム底の靴下のようなものを1回だけ支給されたが,1か月くらいで破れたので,それ以降は自分で編んだ草履を履いた。麻袋の切れ端のような服は,破れると自分で修理して着た。
食事は,小さなマントウが朝夕2個,昼間3個,合計1日7個出たが,いつも空腹で,栄養失調で病気になる人もいた。住んでいる場所にはねずみがいたし,疥癬で苦しむ人が大勢いた。
賃金のことは,鉱山に来る前も,来てからも,誰からも何も聞いたことはなく,実際1銭の賃金ももらっていない。
鉱山で最も辛かったのは,自分の家のこと,家にいる年老いた母の
ことを思い泣きたくなる時であった。しかし,どうすることもできず,生きて中国に帰ることはできないと思った。

ある時,突然,

仕事を休んでくれ。

と言われ,間もなく中国人労働者を監禁していた日本人がいなくなり,初めて通訳人から日本が降伏したことを聞いた。それからは,食事も良くなり,しばらくして,帰国できることになり,通訳人が宿舎から港まで連れていき,船に乗せた。米軍の船で塘沽に帰り着き,天津に向かった。原告Fは,天津で国民党に徴兵され入隊後南の方に行き,それから7年後の昭和27年(1952年)にやっと郷里に帰ってきた。耕地や家屋もなくなっており,原告Fの母は,原告Fが強制連行されていた時,心配しながら死んだと聞き,悲しくて悔しくて仕方なかった。
原告Fが強制連行で受けた傷は,ずっと心の奥にたまり,今まで晴れることがなかった。



原告G(原告番号7)

原告Gは,大正4年(1915年)3月7日生であり,拉致当時は中国山東省平原県《住所略》に住み,自宅で農業に従事していた。原告Gが拉致されたのは昭和19年(1944年)10月ころであった。日本軍に従属していた当時の村長《氏名略》が,原告Gに対し,

平原県での改修工事に45日間行けば,1日当たり45元を支給した上,1年分の農業税を免除してやる。

と告げた。当時の原告Gの家族は,原告Gのほか,父,妻,6歳の長男,9歳の長女及び1歳の次女という構成で,大変貧しかったため,原告Gは上記村長の勧めに応じた。
村の役人《氏名略》が,原告Gら3名の平原県出身者を平原県《村名略》に連れていき,1軒の大きな平屋の建物に入れた。そこには既に200人ほどの原告G同様の者たちがいた。

翌日,原告Gらは庭の中で突然5人ずつまとめられてひとつの縄で縛られたが,何の抵抗もできなかった。その後平原駅で強制的に汽車に乗せられ,済南まで連行され,全員1軒の鉄製の建物に監禁された。粗末な少量の食事が与えられただけで,飲食もトイレも大きな鉄の部屋の中でさせられ,外には出られず,地面の上に寝かされた。トイレのためにどうしても外に出る必要があるときは衣服を全部脱がされ,当然逃走もできなかった。済南に4,5日間監禁されている間に,少なからぬ人数が死亡した。
その後,日本軍とその配下の中国人が5人1組に縛られた原告Gほかの被連行者を強制的に済南駅から汽車に乗せた。済南から青島へ,その後船で槇峰鉱業所へ強制連行された状況は,前記の全体の状況のとおりである。軍服姿の武装した日本人が,原告Gほか数百人の被連行者を監視し,被連行者が甲板に出ることを禁じ,これに反した被連行者は海に投げ込まれ,殺された。日本に上陸した後は,逃げようとすれば足を切断すると脅された。

槇峰鉱業所に着いた2,3日後,被連行者は12人1組に分けられ,腕立て伏せを命じられた。原告Gらの班の班長である《氏名略》が,原告Gらに対して,

鬼(のような日本人)がやってきたら自分が咳払いをして知らせるので,その時だけ腕立て伏せをすればよい。

と発言したのを,日本人に見られ,全員頭を殴られ血を流した。
1か月ほど経過すると,原告Gらの班は,主に採掘した鉱石をトロッコに積む作業をさせられた。危険かつ厳しい仕事の中で多数の死傷者が出た。原告G自身は,右手の薬指を挟んで切断してしまった。しかし,病人には食事も与えられなかったため,布を巻いて耐えるしかなかった。毎日坑内で10時間以上の労働を強いられ,昼食も坑内でとらされた。休日もなく,病気を理由に休むと食事が与えられないた
め,全く休めなかった。
宿舎は,40人から50人くらいが4班に分かれ,1班に一部屋が割り当てられた。板のベッドに破れた寝具を敷き,1着だけ支給された作業着のままであり,履物も支給された地下足袋1足だけだった。食事は,朝食,昼食とも1個2口程度の小さなマントウのようなもの2個だけであった。昼食は坑内で,朝坑内に入るときに身に付けた竹の筒の水を飲むだけだった。終業が夜遅くなれば,夕食が与えられないこともあった。病人は別の部屋に運ばれ,食事は与えられず,治療も受けられず,当然死者も出た。仕事中に中国人労働者が坑内の危険な場所に行くのを躊躇すると,日本人の監督員が「こら。,」「ばか。」と言って中国人労働者を小突き,突き飛ばして行かせた。鉱山の入口では制服の警察官が監視していた。
賃金は今日まで一切支給されていない。
原告Gは,家族を思うものの,一生生きて中国に帰れないのではないかと絶望していた。当時の原告Gにとって最も辛いことであり,何度も自殺を考えた。

終戦後,原告Gらは作業を免除され,食事等の待遇も良くなり,その後数か月間鉱山にいた後,汽船に乗って中国に帰った。こうして原告Gは,旧暦3月25日にようやく家に帰り着くことができた。



H(原告番号8ないし13関係)

Hは,昭和4年(1929年)8月6日に生まれ,昭和19年(1944年)秋に拉致されたが,当時15歳であった。当時,Hは禹城県において母とともに暮らし,農業の手伝いをしていた。
Hが1人で農作業に出ていたところ,そこに日本軍が来て,Hを捕まえ,手を縛って禹城駅まで連行した。その後,Hは禹城駅から済南に連行され,済南ではガソリンの倉庫のような所に監禁され,4,5
日いた後,青島に連行された。
青島の収容所は,周囲が高い塀で囲まれ,日本兵が厳しく監視していた。そこで,日本に連れていかれ仕事をさせられることを初めて知った。
この収容所では,逃亡しようとして高い塀から飛び降りて死んだ者も何人かいた。また逃亡した中の何人かは連れ戻され,皮ベルトでひどく殴られ,半死半生にされた。青島では,2組に分けられ,壮年者は大連に送られ,残りの大部分である老人と子供が貨物船で日本に送られ,Hも日本に送られた。
日本へ向かう船は貨物船であり,余り大きくはなかった。Hほかの被連行者は船底に閉じ込められたが,そこは真っ暗で昼夜の区別が付かなかった。船底には鉄の塊がたくさん積んであり,その上で寝た。船の中での食事は1回に1椀の薄い粥であったが,大部分の者は船酔いをして全身から力が抜けた状態であった。船の中で人が亡くなり,死体は海の中に捨てられた。
門司港に到着後,貨物列車で運ばれ,駅で降りて歩いて槇峰鉱業所に着いた。

鉱山での宿舎は,1,2,3,4の各号に分けられて入れられた。1,2号は元気な者,3号は少し体調の悪い者,4号は重病者専用であった。
朝食事をして暗いうちから入坑し,太陽が沈んで暗くなってから出坑した。坑内では,3,4人の日本人が中国人労働者を監視,管理した。仕事は,坑内で鉱石を鉄のちりとりのようなもので運んだり,鉱石をスコップでトロッコに乗せ,押したりする作業を,1日繰り返した。坑内は極めて熱く,息苦しい状況であった。
食事の量が少なく,ひどい空腹の状態での仕事であったが,少しで
も仕事の手を緩めると,足で蹴られ,棒で殴られるなどした。
Hは,坑内落石で右腕の骨を折ったが,痛くても休ませることはなかったため,自分で骨折した腕に布を巻き痛みを我慢して作業を続けた。そのため,その後死亡するまで右手肘の骨が変形して麻痺していた。
Hは,15歳で連れてこられたため,文字を覚える機会を奪われた。c
終戦後,Hは,米国の軍船で天津に帰り着き,そこから乞食をしながら2週間くらいかかって禹城に帰り着いた。


強制連行・強制労働の不法行為性
被告らの,原告Aらに対する以上のような強制連行・強制労働(以下原告らの主張において本件強制連行・強制労働という。
)は以下のとお
り,不法行為に当たる。


強制労働禁止条約違反
国際労働機関(ILO)は,昭和5年(1930年)6月,第29号強制労働ニ関スル条約
(以下強制労働禁止条約という。
)を採
択した。日本は昭和7年(1932年)10月15日,同条約を批准し,同年12月6日,これを公布し,同条約は昭和8年(1933年)11月21日に発効した。したがって,同条約は,本件強制連行・強制労働の発生する以前から国際法としてのみならず,国内法としての効力も有していた。
同条約は,2条1項において,強制労働は,

或者が処罰の脅威の下に強要せられ且つ右の者が自ら任意に申出でたるに非ざる一切の労務を謂ふ。

と定義し,1条1項において,

本条約を批准する国際労働機関の各締盟国は能ふ限り最短き期間内に一切の形式に於ける強制労働の使用を廃止することを約す。

と規定するとともに,25条において,

強制労働の不法なる強要は刑事犯罪として処罰せらるべく又法令に依り科せらるる刑罰が真に適当にして且厳格に実施せらるることを確保することは本条約を批准する締盟国の義務たるべし。

と定めている。被告国は,条約上の義務に基づき,本来刑事制裁をもって禁圧すべき立場にある強制労働を,現実には,前述したように,自ら企画立案して被告会社ほかの企業とともに大規模に実行したものであり,こうした国際的犯罪行為により外国人である原告Aらの生命・身体・財産に対して重大な危害を加えた被告らの行為は,あらゆる点で弁明の余地がなく,強制労働禁止条約を真っ向から蹂躙した犯罪行為である。


ハーグ陸戦条約違反
日本政府は,明治44年(1911年)11月6日,陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(以下ハーグ陸戦条約という。
)を批准し,明治45
年(1912年)1月13日,これを公布し,同条約は同年2月12日に発効した。したがって,同条約は,本件強制連行・強制労働の発生以前から,国際法としてのみならず国内法としての効力を有していた。同条約は,占領地において守られるべき規定として,43条において,

占領者は,絶対的の支障のない限り,占領地の現行法律を尊重して,成るべく公共の秩序及生活を回復確保する為施し得べき一切の手段を尽すべし。

とし,46条において,

家の名誉及び権利,個人の生命,私有財産並びに宗教の信仰及其の遵行は尊重すべし。

とし,52条において,
現品徴発及び課役は占領軍の需要の為にするに非ざれば市区町村又は住民に対して之を要求することを得ず。徴発及び課役は地方の資力に相応し且つ人民をして其の本国に対する作戦動作に加るの義務を負はしめざる性質のものたることを要す。としている。また,同条約は,3条において,

前記規則の条項に違反したる交戦当事者は損害あるときは之か賠償の責を負うべきものとす。交戦当事者は其の軍隊を組成する人員の一切の行為に付き責任を負う。

とし,同
条約に違反する行為による損害賠償請求権について定めている。
被告らの原告Aらに対する行為は,これらハーグ陸戦条約の諸規定に明白に違反する。


人道に対する罪
第2次世界大戦後に設置されたニュルンベルク国際軍事裁判所及び極東国際軍事裁判所の条例は,
人道に対する罪を確認し,特に極東国
際軍事裁判所条例によれば,人道に対する罪とは戦前又は戦時中になされたる殺戮,殲滅,奴隷的虐使,追放その他の非人道的行為,もしくは政治的又は人種的理由に基づく迫害行為であって犯行地の国内法違反たると否とを問わず本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として又はこれに関連して為されたるもの(5条1項)をいい,このいずれかを犯さんとする共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に参加せる指導者,組織者,教唆者及び共犯者は,かかる計画の遂行上為されたる一切の行為に付,其の何人に因りて為されたるとを問わず責任を有す(同条2
項)とされている。
上記極東国際軍事裁判所については,日本政府が昭和26年連合国との間で締結した日本国との平和条約(以下サンフランシスコ平和条約という。)において,その判決の正統性が承認されている。
原告Aらに対して行われた被告らによる強制連行と強制労働の実態を見れば,それが前記奴隷的虐使あるいはそれに匹敵する非人道的行為に該当することは明らかである。


まとめ
以上のような重大な違法行為(犯罪行為)が,事件発生当時における民法709条の不法行為の要件に該当することは明らかであるから,被告らが組織として,あるいは被用者らを使って行った不法行為に関しては,同条及び民法715条により損害賠償責任が発生することは明らか
である。
そして,民法719条の規定により,被告らは本件強制連行・強制労働を共同意思の下に企画実行したものとして,共同不法行為責任を負い,連帯して損害賠償責任を負う。


被告国の認否
個々の事実につき認否しないが,争う。



被告会社の認否・反論
原告らの主張ア,イのうち,被告会社に関する部分につき,不知。原告らの主張ウのうち,原告Aらが昭和20年8月の終戦を知ったこと,終戦後は労働をしなくなったこと,その後帰国したことは認め,その余は不知ないし争う。

強制連行の主張について
原告Aらは,中国において行政供出・自由募集の方法によって集められたものであるが,被告会社は,これら供出方法について,一切関与しておらず,強制連行に加担したなどということはそもそもあり得ない。

移入方法について
中国人労働者の日本への移入については,供出期間と雇用期間との契約に基づき行い,就労期間は原則として2年とし,家族を同伴しないこととし,労務管理に関しては中国人の習慣に急激な変化を与えないよう特に留意し,食事は中国人労働者の通常食を供して,労働時間及び賃金は内地の標準とするとされていた。
そして,中国人労働者の供出方法は,行政供出,訓練生供出,自由募集,特別供出の方法がとられたが,これらの供出方法は,その趣旨からすると,法令又は中国人労働者の任意に基づいて行われたものであり,違法な強制連行を意味するものではないと考えられる。



中国人労働者の態度について

戦時中における中国人労働者の態度は,当局の指導,業者の尽力,指導員の努力,中国人労働者自体の自制のため,一般におおむね良好であったとされる。ただ,戦時中のやむを得ない食生活の逼迫,直接接触面での無理解,指導の不適切さ,取扱いの不公正さ,あるいは供出時における反日分子の混入等の事情が,各事業場における逃亡事件の発生,中国人労働者相互のあつれき,事業に対する不満の爆発ないし思想事件,反日陰謀発生の原因となったとされている。
また,終戦後における中国人労働者の態度については,当局の優遇方針に基づく措置にかかわらず悪化し,従来当然として承服していた契約条件等を無視し,あるいは凶器を持って威嚇するなどの態度を示し,暴行,略奪を行うなど各種社会不安を起こし,このような事業場においては,日本人労働者の出勤にも著しく支障を来し,出炭量の極端な低下を招くなど,極めて深刻な影響を与えるに至ったとされている。そして,終戦時,中国人労働者を配置している107事業場は,ほとんど大小事件ないし紛争を起こしたとされているものの,戦時中各般の事情が良好であった事業場,特に中国人労働者に理解ある責任者,指導要員ないし医師がいて熱心かつ公正に取り扱った事業場においては,ほとんど事件を起こしていないものも少なくないとされる。さらに,付属病院,専門医師を有し,健康診断,防疫医療等の行き届いた所も少なくなく,熱心かつ理解ある医師の存在により終戦後の紛争もなく,感謝をもって帰国した者すらいるとされている。
このように,戦時及び戦後の事情を見る限り,強制連行に端を発した紛争はなく,また,医療事情を含め各般の事情が良好である事業場については紛争すらなく,感謝をもって帰国した者もいるということなどからすれば,むしろ,中国人労働者の移入について強制連行の事実はなかったというべきである。



槇峰鉱業所への移入状況について
槇峰鉱業所においては,被告会社職員及び係員15人並びに通訳1人が門司港まで出向き,華北労工協会から引継ぎを受け,既に栄養失調者等衰弱者が多かったものの,小憩・弁当を給付するなどしながら付き添い,また,列車2両を専用として,途中事故がないよう努めた。
槇峰鉱業所では,着山後直ちに身体検査を行った。その結果によれば,ほとんど疲労が限界に達し,栄養失調者が多く,50歳以上の年長者は72人であり,全身疥癬,手足凍傷,大腸カタル,肺結核,肺炎,脳傷等,重病患者が多数であった。そのため,着山当日の昭和20年2月1日から同月末日までを休養期間として,主として栄養に留意し,特に病弱者に対しては牛骨煮沸浸出液療法をするなど鋭意医療を施し,健康回復に努力した。同年3月2日からは,病弱者を除き,その体力健康状態に応じ,徐々に坑内作業・坑外作業に就労させることとなった。
受入れ後は,保健,衛生,団体生活に関して訓練を行った。
また,槇峰鉱業所としては予想以上の人数が到着したため,日本人社宅の応急改造に努力した。若干の附属設備の設置が終わっていなかったが,着山後2,3日して,事務所,通訳室,食堂兼娯楽室,専用浴場,専用病室,診療室,便所,水道,洗面所,洗濯場などを設置した。さらに,食糧は,内地人,朝鮮人なみに支給し,主食のほか,副食,嗜好品についても支給した。華労特配として,肉類,にんにく等を支給したほか,病弱者を考慮し,牛骨煮沸浸出液療法を行った。
作業用品,毛布,タオル,日用品等も社費で買入れの上,無償で支給した。
以上のとおり,移入状況を見ても,中国人労働者に十分配慮し,親切丁寧に看病等の取扱いをしており,移入途中も逃走・犯罪の事故もなく,順調円満に行い,受入れ後も,衣食等に十分配慮し,中国人労働者に特
に不便を感じさせなかったことなどからすれば,原告Aらの移入について強制連行があったなどとは到底いえないことは明らかである。


移入についての被告国と被告会社との共同責任について
戦時下においては,戦争遂行は至上目的であり,国家の一切の資源や機能を戦争遂行に最も有効に活用できるように,それらを統制運用するための国家総動員体制が敷かれ,人,物のすべてが戦争遂行のために戦闘体制の下に編成され,すべての人が徴兵,徴用等により動員され,企業は武器の生産にとどまらず,すべての生産が軍需物資中心となり,戦争の後方支援を担うために国ないし軍の支配を受ける関係となっていくのであり,これは日本に限らず欧州諸国に共通する歴史上の事実である。このような体制の下で,被告会社を含む企業に自由な意思や行動はあり得ない。
日本では,日中戦争勃発直後の昭和12年9月に,軍需工業動員法が発動され,その後の昭和13年に第一次近衛文麿内閣の下で国家総動員法が制定され,同年5月5日施行された。同法は,戦争及びこれに準ずる事変に際し,国防目的達成のため国力を最も有効に発揮することができるよう人的及び物的資源を統制運用するため,国民・企業に対し政府に広範な命令権を認めるもので,これにより,企業の活動は総動員物資の使用,収容,会社の設立,増資,合併や利益処分の制限や禁止,工場・事業場・船舶の管理や収容,設備投資の新設・拡張とその制限・禁止,出版物の記事の制限,さらに,国民登録,技能者養成,物資備蓄,総動員業務の計画,経済の全般的統制など,あらゆる企業活動が同法に基づく勅令と命令によって実行された。昭和14年には賃金統制令と会社利益配当及び賃金融通令,さらに,会社経理統制令,銀行等資金運用令等が次々と制定され,昭和16年3月には,国家総動員法が改正強化され,全面的な戦時産業統制と民需産業の強制廃業とが行われていった。
人に対しても,昭和15年に国民徴用令が施行され,企業活動についても同年大日本産業報国会が組織されて,各業界単位で統制会が設置され,企業の生産活動は事実上政府の管理下に置かれていった。
また,日常経済は,物価統制令によってあらゆるものの価格,家賃等が公定されるとともに配給制となり,情報についても昭和16年に国防保安法と言論出版集会結社等臨時取締法が制定され,政府による言論統制が行われていった。
特に,日本では,本件強制連行・強制労働時とされている昭和18年から終戦までは,最も過酷な国家総動員体制の下にあり,建設関係各社は,軍需工場の建設,兵舎・滑走路等の軍事施設の建設を命じられ,また,金属・鉱山関係各社は金属・石炭等の採掘・採炭について軍需への安定供給を命じられる一方で,生産要員のほとんどは徴兵されて生産現場にはおらず,このようなことから,政府はこれらの生産要員を朝鮮半島からの人員補充(当時は朝鮮半島は日本の統治下にあり,国内扱いであった。
)と中国からの労働力の補給で賄おうとした。
企業は,上記のような体制の下に組み込まれていたのであり,中国からの労働力の補給等の生産体制の確立について企業が任意に行い得るものではないし,企業の意思でこれを自由に決定できる立場になかったことは明白である。
また,中国人労働者の供出方法についても,被告会社は,一切関与しておらず,強制連行に加担したなどということはあり得ない。
以上のとおり,被告会社が原告Aらを強制連行したとの原告らの主張は,事実に反する主張である。

強制労働の主張について


中国人労働者の労働状況一般について

就労方針について

移入した中国人労働者の就労の方針としては,すべて,日本人及び朝鮮人と同等の取扱いをすること,中国人の民族性を考慮し,その習慣に急激な変化を起こさないことを取扱いの基本とし,雇用主は十分な同情と理解をもって使用するよう留意させている。すなわち,事業場到着後十分な休養を取らせ,また,必要な指導訓練を与え,なるべく供出時の編成を利用し,作業に関する命令は,日系指導員及び中国人責任者を通しこれを発し,直接命令をしないこととされ,現地より同行した日系指導員を中国人労働者の直接責任者として連絡・世話に当たらせ,作業中に万一公傷病死等があった場合は,必要な救済手段を講ずるなど,その就労について遺憾ないことを期するとされている。虐待殴打等の行為については,厳に禁じられていた。このように,政府及び被告会社には,各事業場における中国人労働者の就労について,強制的に労働させるという考え方そのものがなかった。
そして,上記方針は,おおむね実行されていたとされ,一般的に,強制労働の事実は存在しなかった。
もっとも,取扱いの末端においては,方針どおり行われず,中国人責任者による私刑,食糧,被服その他支給品の減配,横流し,殴打等の暴力行為などが行われた例は若干はあるとされるが,それは警察当局の取締りや業者の取扱い等に対する反感分子に対し例外的に行われたにすぎないとされ,これをもって,一般的に,原告Aらに対して強制労働がされていたということはできない。

労働内容について
労働については,就労方針において,事業場到着後適当な休養を与え,徐々に普通の労働に服させることとし,労働時間,作業内容等も日本人・朝鮮人と比べ,過激・危険な労務に服させないよう配慮し,衣食住はもちろん医療衛生についても万全を期すよう努めることとさ
れており,関係者は,上記方針に基づき,おおむね誠意と同情をもって取り扱ったとされている。そして,中国人労働者が従事していた各事業場における作業内容も,港湾荷役,採炭採鉱,各種運搬,坑道・隧道の掘進,造船,切土盛土整地,骨材採取,除雪,機械選鉱,農耕,雑役等に大別することができ,そのほとんどが単純な物の運搬であり,頭脳や特殊技術を要しない単純筋肉労働であった。採鉱,掘進といっても,中国人労働者は,切羽や隧道の先端における熟練労働には従事しておらず,日本人・朝鮮人の熟練坑夫に付いて積み下ろし,運搬をしていた。また,造船,選鉱等の作業においても,重点は運搬にあり,機械等の操作は例外的であり,日本人・朝鮮人に比べ,むしろ軽易な作業に就かせたとされている。そして,実労働時間はおおむね7時間以内と推定されている。

食糧事情について
就労方針においては,衣食住について万全を期すよう努めることとされており,特に食事については,中国人労働者の通常食を供し,その量は30トンを下らず,指導命令等も事業場側が直接当たることを避け,理解ある日系指導員又は中国人責任者に当たらせ,旧正月その他中国における休日は,公休として休ませるなどの措置を講じ,衣食住並びに賃金,家族送金,持帰金等の給与待遇についても万全を期するよう配慮されていたとされる。
実際の食糧事情も,1人1日2500カロリー前後と推定されており,戦時における日本人重筋労働者の栄養摂取量と大きな違いはないと考えられている。


被服事情について
被服については,作業衣,地下足袋,手袋,布団等,いずれも事業場において貸与又は無償給与しており,戦時中の実情としては,十分
とはいえないものの,このために特に死亡させたようなことはないものとされている。ただ,例外として,受入れ時期,事業場異動等の関係で布団の用意が不十分であったこと,また,地下足袋の配給が間に合わず,凍傷を起こしたなどの例があるのみであるとされている。e
住居事情について
中国人労働者1人当たりの居住面積は,平均0.63坪であり,敷物は,畳敷45%,アンペラ敷27%,ござ敷18%,板敷1%となっている。暖房は,ストーブ75%,炉9%,その他2%,設備のないもの(いずれも暖かい地方)14%で,事業場の性質上おおむね燃料は豊富に使用したとされている。このように,住居事情は,決して不良とはいえず,むしろ良好であり,ただ,一部,時間的に設備が間に合わず,これによる若干の疾病・死亡者を出し,また,逃亡及び諜報防止のため宿舎の構造が通風・採光上,多少不十分な状態にあったのみであるとされる。


小括
以上のとおり,各事業場は,就労方針に基づき,中国人労働者に対して,過酷な労働を課すことなく,誠実と同情をもって取扱いをしており,衣食住を見ても,各事業場において,中国人労働者が特に劣悪な環境の下で労務を提供していたという事実はない。



槇峰鉱業所における労働状況について
槇峰鉱業所においては,中国人労働者は,坑内運搬夫,雑夫としての農園作業に従事した。槇峰鉱業所は東坑と西坑があり,東坑は鉱量,品質ともに優れていたが,通風が順調ではなく,高温高湿で労働条件は良くなかった。一方,西坑の労働条件は非常に良かった。中国人寮から約500メートルの距離に坑口があり,通勤も便利であった。中国人労働者の坑内職場としては西坑を選び,西坑で稼動中であった日本人・朝鮮
人のほとんどを東坑に配置転換した。また,健康状態を考慮し,1番方にのみ配置して,2番方には配置しなかった。坑内作業不適格者は必ず坑外作業に変え,農耕作業不適格者は必ず休養させ,絶えず職場の移動に留意していた。
坑内作業の労働時間は,午前7時から午後4時30分までであったが,実働時間は,午前3時間,午後2時間,合計5時間であった。坑外作業の労働時間は,午前8時30分から午後4時までであり,途中に昼食1時間,午前・午後それぞれ30分の休憩時間を設け,休憩時間には湯茶を与え,そのため現場に湯沸かし用大釜を設置した。
休日は,毎週1回公休があり,そのほか4大節,旧正月3日間,端午の節句,中秋節,双十節が休みであった。
賃金は,日本人・朝鮮人労働者以上に支払っており,規定どおり,現金で毎月10円程度を内渡しし,残額は契約書に従い貯金させた。食事,宿舎,被服,毛布,地下足袋,手ぬぐい,日用品等,現物給与する物もあった。基本給は日給5円で,隊長,班長,書記,炊事長は基本給の2倍ないし1.4倍の日給・月給であった。
以上のような労働状況からすると,槇峰鉱業所において強制労働があったとは到底いえない。
2
被告国が,国賠法施行前の行為につき,不法行為責任を負うか否か(争点2)について


被告国の主張
原告らの主張する損害は,国家の権力的作用によるものであって,かかる損害について,国賠法施行前においては,国が損害賠償責任を負うことはなかった(国家無答責の法理)

これは,国家の権力的作用に係る行為から発生した損害については,私法たる民法の適用はなく,明治憲法下においては,その他国家の賠償責任を認
める実定法の規定がなかったことを根拠とする実体法上の法理である。ア
立法過程


明治憲法下においては,明治23年6月30日に公布された行政裁判法16条が行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セスと規定しており,行政裁判所へ国家賠償請求訴訟を提起する道はなかった。



明治23年の裁判所構成法制定の際にも,内閣法制局長官井上毅の国家無答責の法理に基づく意見書を受けて,国家責任に関する訴訟を受理する明文の規定が草案から削除されることになった。



ボアソナードの民法草案393条は,国が私人と同様,民法に基づいて使用者責任を負う旨の規定を設けようとしたが,立法の過程において,上記井上毅が反対意見を表明するなど,様々な意見が表明された結果,最終的に,同草案393条の国家責任を定めた部分は削除され,同条に対応する旧民法373条には国家責任が規定されなかった。



以上のような立法がなされた理由は,公権的活動に対しては民法に基づく国家責任を否定しようとする立法者意思によるものであって,行政裁判所法と旧民法が公布された明治23年の時点で,公権力行使についての国家無答責の法理を採用するという基本的法政策が確立した。


現行民法も,公法上の行為には適用されないとの理解の下に制定されたものである。
明治28年10月4日に行われた現行民法の法典調査会における審議の際,起草委員である穂積陳重は,国の事業であっても,私法的関係,すなわち,国の私法上の行為とされる鉄道・バスなどの事業の経営や官庁事務用品の購入など純然たる私経済的作用については,現行民法715条(草案723条)の適用がある旨説明したが,それ以外の公法上の行為については,同条の適用がなく,特別法に譲るという考えを持っていたことが明らかである。

なお,穂積陳重は,特別法がなければ同条が適用されるとの考えを起草委員3人が持っている旨発言しているが,これは,個人的な見解を,希望を込めて述べたものにすぎず,他の起草委員である梅謙次郎及び富井正章は,官吏の職務上の不法行為には民法715条の適用がないとの考えを持っていた。

判例


大審院昭和15年第626号昭和16年2月27日判決・民集20巻2号118頁(以下大審院昭和16年判決という。
)は,およそ
国家又は公共団体の行動のうち統治権に基づく権力的行動については,私法たる民法の規定を適用すべきでない旨判示した。
また,最高裁判所昭和24年第268号昭和25年4月11日第三小法廷判決・裁判集民事3巻225頁(以下最高裁昭和25年判決という。
)も,警察官の防空法に基づく家屋破壊の不法を理由とする国
家賠償請求事件において,
本件家屋の破壊行為が,国の私人と同様の関係に立つ経済的活動の性質を帯びるものでないことは言うまでもない。而して公権力の行使に関しては当然には民法の適用のないこと原判決の説明するとおりであって,旧憲法下においては,一般的に国の賠償責任を認めた法律もなかったのであるから,本件破壊行為について国が賠償責任を負う理由はない。と判示し,権力作用については,公法上の行為として民法の適用は排除され,また,これを規律する法令上の根拠もなかったことから,国の損害賠償責任は認められていなかった。



原告らの指摘する大審院昭和7年8月10日判決は,国の施した井戸掘工事のため,他人の有する温泉利用権を侵害してなおその状態が存続するときに,温泉利用権者が国に対しその除去を請求した事案について,傍論として,不法行為責任を論じたものであり,国の権力的作用について,正面から民法の不法行為責任を認めたものではない。


国家無答責の法理の根拠について
国家無答責の法理の実質的な根拠について,井上毅は,国権は民法上の責任を負担することはなく,官吏の公務は国権の一部であるからである旨明確に述べている。
したがって,国家に賠償責任を負担させることによって行政活動への障害,麻痺が発生する場合にのみ国家無答責の法理が適用されるべきであるとの原告らの主張は,井上の見解を曲解するもので,失当である。

国賠法附則6項
国賠法は,附則6項において,

この法律施行前の行為に基づく損害については,なお従前の例による。

と定めているが,このなお従前の例によるとの法令用語は,法令を改正又は廃止した場合に,改廃直前の法令を含めた法制度をそのままの状態で適用することを意味するものである。すなわち,国賠法施行前の公権力の行使に伴う損害賠償が問題とされる事例においては,国賠法それ自体の遡及適用を否定するのみならず,それまでに採用されていた国家無答責の法理という法制度がそのまま適用されることにより,国又は地方公共団体が責任を負わないことを明らかにする趣旨である。
国会における国賠法の審議の際も,公権力の行使による国家賠償の問題と民法の不法行為責任の問題とは性質が異なり,国賠法1条は公権力の行使による損害につき国家賠償責任を創設した規定であることが明確にされた。
また,最高裁昭和25年判決も,
本件家屋の破壊は日本国憲法施行以前に行われたものであって,国賠法の適用される理由もなく,原判決が同法附則によって従前の例により国に賠償責任なしとして,上告人の請求を容れなかったのは至当であって,論旨に理由はない。と判示しているところである。

このように,国賠法施行前においては,国の公務員がなした権力的作用による損害については,国家無答責の法理が妥当し,国は賠償責任を負わない。

権力的作用の意義
権力的作用とは,行為の性質から,国の統治権に基づく優越的な意思の発動としての強制的・命令的作用をいい,それには,法的義務を課す強制のみならず,相手方の意思を抑圧して物理的力を行使することを含む。原告らが主張する不法行為としての強制連行・強制労働は,第2次世界大戦中,日本政府・軍・企業が,侵略戦争を遂行する過程で国内の深刻化した軍需産業の労働力不足を補うため,中国大陸において農民を中心とした約3万9000人の中国人を拉致し,海を越えて日本に強制連行し,国内135事業所において過酷な労働を強制したというものであるから,原告らの主張から見れば国の権力的作用であることは明らかである。

したがって,不法行為に基づく原告らの被告国に対する請求は,請求権の発生を根拠付ける実体法の規定を欠くものであって,失当である。


原告らの反論
被告国の主張する国家無答責の法理は,実体法に根拠のあるものではなく,大審院判例による民法の解釈の所産にすぎない。

立法過程


行政裁判法16条の規定は,国家賠償訴訟の管轄権を否定したものであることは文言上明らかである。したがって,同条は訴訟手続について定めた規定であって,実体法上の法理の根拠となるものではない。


裁判所構成法も,管轄に関する規定であることは明らかであるから,実体法上の法理の根拠となるものではない。



明治政府は,明治5年11月28日,司法省第46号達を発して,地方官等の違法な命令処分に対し,人民が地方裁判所又は司法省裁判所へ
出訴し得ることを認めていた。また,上記明治5年達により激増した地方官に対する訴訟の対策を講ずるために,明治7年9月2日,司法省第24号達人民ヨリ院省使府県ニ対スル訴訟仮規則が発せられ,行政主体と官吏個人の両責任を区別し,
具状申稟を経た後とはいえ,訴
訟の道を開いていた。
したがって,明治23年以前の段階では,国の賠償責任に関する訴訟が認められており,また地方官に対する数多くの訴訟が提起されていた。

ボアソナードの民法草案393条では,国の賠償責任が明文上認められていた。
同草案は,明治20年11月4日に司法省に設置された法律取調委員会の審議に委ねられた。同委員会では,明治21年2月21日に第1回目の審議を行ったが,同条に賛同する意見が多数を占め,同条は原案どおり可決された。このように,立法者の中には,民法を適用して国の賠償責任を認めるべきであるという意見が根強く存在していた。さらに,その後,ボアソナード民法草案393条は元老院に付議され審議された。その過程で,同条は373条に繰り上がったが,その過程でも公私ノ事務所の責任は明記されていた。
その後,今村和郎が同民法草案(373条)に対する修正案を提案し,審議された。その中で,国の賠償責任を否定する場合には,別に法律をもって定めるとの意見が出された。審議の結果,373条から公私ノ事務所が削除され,総テノ委託者と規定された。この点について,
起案者の意見によれば,国の賠償責任が否定される範囲については,裁判所の判断に委ねられるとしている。



明治28年に行われた現行民法の法典調査会における審議の中で,高木豊三委員は,権力作用に国の賠償責任を認めるか否かという問題について,定まった見解は存在していないと述べている。

また,上記法典調査会における現行民法715条(草案では723条)の審議の際,起草委員である穂積陳重は,穂積八束の質問に対し,政府の事業といっても私法的関係については,他に適用を排除する特別法がない限り同条が適用されると述べ,さらに,政府官吏が職務執行について過失があったときに責任を負うか否かの規定を民法に置くのは不適当であり,もし公益上の理由から責任を負わせない方が良いというのであれば,それは例外であるし公法にも関わることであるから特別法を定めるべきであり,それがない以上賠償責任を負うというのが原則であると述べている。また,土地収用法の補償をめぐり,公法上の職務執行により損害を被った場合についても,特別法がない限り原則として同条を適用すべきであると述べている。
さらに,高木豊三委員が再度説明を求めたのに対し,穂積陳重委員は,穂積陳重,富井政章及び梅謙次郎の3人の起草委員の間で,国の公権力の行使により人民に損害が生じた場合に関して民法典に定めることも検討したが,むしろ特別法に定めるのがふさわしいと考え民法典に定めることをやめた旨,また,特別法がない限り同条を適用するのが当然であるとの考えを起草委員3名全員が持っている旨答えている。
また,法典調査会の横田國臣委員も,特別法がなければ民法を適用するのが当然であるとの考えを述べている。


以上によれば,明治23年の時点で国家無答責の法理が実体法上の法理として確立していたという被告国の主張は根拠がない。


判例


国,公共団体の損害賠償責任を問題にした戦前判決は極めて多数あり,事案も判決の結論もバラエティーに富んでいて,被告国が主張するような一義的な解釈,立場が存在していたとは到底いえない。



第1に,そもそも判例は,必ずしも権力作用という文言・理由で

民法の不法行為規定が適用されないとしていたわけではなく,
公益の増進行政行為権力行為公法上の行為国家警察権の一,,,,作用,すなわち公法上の権力相互対等関係でない公法的行,,為行政機関としての行為,公法上の処分公法上の行為公,,,法上の関係たる行政行為純然たる公権力,別言すれば公法的関,係など,民法不適用の理由に用いられる文言は統一されていない。

第2に,
権力作用あるいはそれと類似する文言を用いた判例を検
討しても,
権力作用の語義は非常にあいまいである。
橋梁・道路改修工事,橋の架設,消防自動車の試運転,印鑑証明事務の執行につき,
権力作用ないし権力行為を理由に民法の適用を
排除する大審院判決,下級審判決があるが,これらが,何ゆえ権力行為であるのか,理解し難い。
また,
強制力を伴うことは権力作用の必然的要素にあらずと判示
する大審院判決があるが,権力作用が強制力を必要条件としないのであれば,権力作用と非権力作用との区別は,いよいよ不明確となる。以上のとおり,
権力作用の語義は極めてあいまいである。



第3に,
権力作用であっても,民法上の不法行為責任を肯定する
ことを前提とする判例も存在する。
まず,陸軍傷病兵療養所用鑿井工事による温泉利用権の侵害に関する大審院昭和7年8月10日判決・法律新聞3453号15頁は,故意又は過失による不法行為について,不法行為の責任はその行為者の何人なるやにより区別しない旨明言している。
次に,違法な行政執行に基づく損害に対する賠償請求事件につき,大審院昭和16年11月26日判決・大民判決全集9輯11号6頁は,行政処分又はその執行が,その範囲を逸脱し,行政処分又は行政執行と目し難い程度に至れば,公法人についても民法上の不法行為責任が認めら
れると判示する。


以上のとおり,国家無答責に関する判例は区々多様であり,かつ転変・動揺し,必ずしも被告国が主張するように確立されていたものではない。
むしろ,公共施設管理の占有関係等に着目し,国,公共団体の民法上の損害賠償責任を導き出す判例(大審院大正4年第826号大正5年6月1日判決・民録22輯1088頁(徳島市遊動円木事件)等)や,当該行為が行政行為であることを前提としつつ,職権濫用,権限逸脱を特別の看過できない理由として公法人の責任を認める判例(前記大審院昭和16年11月26日判決等)
,町長の借入限度額を超える借入れに
ついて民法44条の類推適用を認めた判例(大審院昭和15年2月27日・民集19巻6号441頁)など,国,公共団体の損害賠償責任を導き出す工夫がされている。


国家無答責の法理の根拠について
戦前において国家の権力作用には民法の適用がないとの法令(民法)の解釈を,当時の実定法上の法令から導き出すことはできない。


国家無答責の法理を,公法・私法二元論から説明しようとする考え方もある。しかし,この単純明快な二元論は,公法分野でありながら非権力作用には民法の適用を認めた理由を説明することはできず,なぜ,権力的作用については民法の適用を認めないのかの理由付けにはなっていない。
また,原因行為である国の公権力の行使が公法関係に属するのかという問題と,原因行為(国の公権力の行使)により個人に損害が生じた場合に損害賠償を認めるかという問題は別であり,仮に公法私法二元論を前提としても,国の賠償責任は私法に属するとして民法の不法行為規定を適用することは可能である。

田中二郎教授も,昭和8年の時点では,特別の規定がない限り,民法の類推適用を認めるべきであるとの見解を示し,同教授以外にも,三宅正男教授など,同様の考え方を示す学者が存在した。
そもそも,戦前の学界では,国家無答責の根拠が必ずしも十分に論じられることなく,未発達であった。今日,日本における国家無答責の法理の適用を検討するに当たり,未発達であった戦前の国家賠償責任論に依拠しなければならない理由はない。


国の権力作用に伴う不法行為に基づく損害賠償請求訴訟について,行政裁判所においては,行政裁判事項として認められなかった(行政裁判法16条)
。また,司法裁判所でも,裁判所構成法の制定過程において,
地方裁判所の事物管轄に官吏の公務から生じた国家賠償責任に関する訴訟を置く案が削除されたことや,行政裁判法16条の規定,及び権力作用に起因する損害については,行政行為等公権力の行使の適否,瑕疵の判断が行政裁判所による行政裁判手続によるとされている趣旨などにかんがみ,司法裁判所が判断することができる司法裁判事項ではないとして権利保護適格を否定する解釈により,実体的根拠を論じるまでもなく請求が否定されていたものである。
このように,行政裁判所・司法裁判所ともに裁判事項として認めなかったために,損害賠償請求を法的に実現する方法が閉ざされていただけのことである。
そうであれば,行政裁判所が廃止され,公法,私法関係の訴訟を司法裁判所において審理することが認められる現行憲法及び裁判所法の下においては,国家無答責の法理を適用する余地はない。



以上のとおり,国家無答責の法理を法令の解釈によって導き出す合理的かつ正当な法的理由は見出し難い。
その正当化根拠をどうしても求めるなら,日本においては,井上毅が
旧民法公布後の明治24年に発表した民法初稿第三百七十三条ニ對スル意見において述べたように,公共の安全を保持し人民の幸福を増進するために活動をしている行政機関の活動の麻痺を理由とする,極めて実用的な実質的理由しかない。
しかし,国家無答責の法理が認められる実質的根拠が,権力作用である公務を保護するためのものととらえれば,その法理を適用する対象は,公務として保護すべき権力作用でなければならない。しかし,被告国は,中国人労働者を強制連行し強制労働させる法的根拠もないのに,強制力を事実上行使して本件事案を実行したのであるから,ここには保護されるべき公務の存在しないのは明らかであり,本件強制連行・強制労働には,国家無答責の法理は適用されない。
国家無答責の法理を適用した大審院判例を見ても,違法な租税の徴収・滞納処分,特許法による特許の付与処分,違法な行政執行,印鑑証明事務等というものであって,本件のように国家が当時の国際法にも国内法にも明らかに違反して残虐非道な違法行為を犯し多大の被害を及ぼした事案は全く想定されていなかった。
本件強制連行・強制労働は,加害行為の残虐非道性,被害の甚大さの点でも,通常の国家行政行為を前提としその過程で起こる通常の過失,違法行為ではないという点でも,被害の対象が外国人という点でも,強制労働禁止条約その他の国際法規に明らかに違反しているという点でも,大審院判例の射程外にあるというべきである。

国賠法附則6項の解釈について
被告国は,国賠法附則6項のなお従前の例によるとは,それまでに採用されていたとする国家無答責の法理という法制度を含むと主張する。しかし,この附則6項は,国賠法の遡及的適用を否定したものであり,国賠法制定以前の従前の実体法によるべきことを意味しているにすぎない。
国賠法以前の実体法の解釈については,まず,当時の法体系の枠組みの中でも十分可能な実体法の解釈があり得るのであるから,裁判所は自ら戦前の裁判例や立法事実,学説に当たり,理論上,紛争の解決上妥当な判断,解釈を行っていくべきである。また,法令の解釈は最新の解釈をなすべきであるという解釈の原則に従えば,
国賠法が存在しない従前の実体法
の解釈においては,戦前の判例の解釈に無批判に従う必要はなく,現行の憲法と法律の下で可能な解釈を行うべきであり,端的に民法を適用し民法の解釈に従って判断されるものと解すべきである。
なお,被告国の国賠法附則6項に関する解釈が正しいとしても,その場合,同項は,憲法17条,98条に反するものであって無効であり,仮に同項自体は憲法に反しないものであっても,少なくとも本件に同項が適用される限り憲法17条,98条の違憲のそしりを免れず,同項を根拠に原告Aらが戦前受けた損害についての賠償請求権を否定することはできない。オ
最高裁昭和25年判決について
最高裁昭和25年判決は,仮に警察官が公権力の行使に名をかたり,職権を濫用して本件家屋を破壊したものであるとすれば,警察官が民法上の不法行為の責任を負うことはあるかもしれないが,その場合同行為はもはや国の行為とは見ることはできないのであって,なおさら国が賠償責任を負う理由はない旨判示している。
しかし,同判決のような事案に関しては,いわゆる外形理論により国の賠償責任が認められるに至っているから(最高裁判所昭和29年第774号昭和31年11月30日第二小法廷判決・民集10巻11号1502頁)
,最高裁昭和25年判決の上記判示は,事実上変更されている。
また,同判決は,公権力の行使に関しては当然には民法の適用がないと判示しているが,その理由は不十分である。
さらに,本件強制連行・強制労働は,同判決の事案とは全く異なるので
あり,最近まで問題とされてこなかったことをも考慮すると,同判決は国家無答責の法理についての先例的価値を有しないといえる。

本件の私法関係的側面(本件行為の私法的性格)による国家無答責の法理の不適用
本件強制連行・強制労働は,中国人労働者の内地移入の事業としてなされたものである。その事業は,まさに国家プロジェクトであり,その性格は,民間企業をも巻き込んだ,中国人労働力を日本国家の戦時経済体制の中でいかに効率よく利用するかという官民一体事業であった。この制度設計の上に中国人労働者内地移入の事業が計画されたが,その本来有すべき制度設計が履行されず,強制連行・強制労働という違法行為が犯された。しかも,この違法行為には,国家全体としてすべての国家機関が関与した。すなわち,中国人強制連行・強制労働問題は,国家プロジェクトとしての総合経済問題を土台として起こった国家の犯罪行為である。
本件における原告Aらと被告国との関係は,単純に軍や警察の権力的行為ないし戦闘関連行為と見ることはできず,
募集と運送と使役の全過程を見れば,商工省,厚生省,運輸省,外務省,農商務省等が関与した私的経済的側面から理解できる。それが職務の適正な行使を逸脱したものであったことはいうまでもないが,本質的には労働力不足の補充という経済的性質を持つのである。
この総合的な違法行為を全体として評価すれば,本件強制連行・強制労働は私法的性格を持ち,国家無答責の法理を適用することはできず,加害民間企業が責任を負うと同様に,被告国も不法行為責任を負うべきである。このように,仮に国家無答責の法理が認められるとしても,大審院の判例でも非権力的作用に起因して損害が発生した場合には民法を適用していたところ,本件事案は非権力的作用であるから,民法を適用すべきである。
3
民法724条後段の適用の有無(争点3)について



被告国の主張
原告らの主張に係る加害行為から本件訴訟提起までに既に20年が経過しているから,民法724条後段の除斥期間の経過により,損害賠償請求権は法律上当然に消滅している。

民法724条後段の法的性質
最高裁判所昭和59年第1477号平成元年12月21日第一小法廷判決・民集43巻12号2209頁(以下最高裁平成元年判決という。,最高裁判所平成5年第708号平成10年6月12日第二小法)
廷判決・民集52巻4号1087頁(以下最高裁平成10年判決という。
)は,一貫して,民法724条後段の法的性格が除斥期間であることを明言している。
このように,同条後段の法的性格が除斥期間であることは明らかである。

民法724条後段の期間の起算点について
民法724条後段の期間の起算点である不法行為の時とは,原則として,損害発生の原因となる加害行為が行われた時と解すべきである。

民法719条,720条におけるように,不法行為という文言は,加害行為を意味するのが通例である。これに対し,起算点に権利行使可能性を含ませる場合には,民法166条1項の権利を行使することができる時からのような文言が用いられ,民法724条後段とは明確に区別されている。



また,起算点を権利行使が可能な時と考えることは,除斥期間の制度趣旨に反する。民法724条後段の趣旨は,不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を意図するものであり,被害者側の認識いかんを問わず一定の時の経過によって法律関係を確定させるため請求権の存続期間を画一的に定めたものと解される(最高裁平成元年判決)
。すなわち,民
法724条前段の短期消滅時効のみでは,加害者の法的地位が被害者側
の主観的事情によって浮動的であることにかんがみ,他方において,加害者の法的地位の安定を図るために,請求権を20年で画一的に消滅させることにしたものである。
このような観点から見ると,加害行為の時を起算点とすることは,権利関係を早期に確定することができるだけでなく,それがいつ行われたかについて,被害者だけでなく,加害者にとっても,比較的明確かつ客観的にとらえることが可能となり,合理的である。
これに対し,権利行使が可能な時を起算点とすると,権利行使が可能であったか否かは,基本的には被害者側の事情に係るものであるため,その判断基準が不明確とならざるを得ない。また,20年以上も前の過去の事実に遡って,不法行為の存否や損害発生の有無を審理しなければならないとすると,もともと不法行為に基づく損害は,未知の当事者間において予期しない偶然の事故に基づいて発生することが多く,加害者とされた者にとっても証拠の散逸のため事実関係の解明が極度に困難になる。これでは法律関係の確定を図った民法724条後段の立法趣旨に反することは明らかである。
なお,以上の見解に対しては,事実上権利行使ができないまま加害行為から20年経過すれば,除斥期間が満了することになり不合理であるとの批判があり得るが,除斥期間の制度は,請求権を行使し得ないまま請求権が消滅するという被害者の不利益よりも,長期間不安定な地位に置かれる加害者の不利益,あるいはそれを前提として成立している社会状態を重視して,20年という極めて長い期間の経過を条件として,請求権を画一的に消滅させることにしたものであるから,事実上権利行使ができない場合であっても,請求権を画一的に消滅させることを予定しているというべきである。


判例は,不法行為により発生する損害の性質上,加害行為が終了して
から相当の期間が経過した後に損害が発生する場合には,例外的に,損害の全部又は一部の発生した時を除斥期間の起算点としているが,加害行為が行われた時に損害の全部又は一部が発生する通常の場合には,加害行為の時を除斥期間の起算点としている。
本件は,原告らの主張する不法行為により発生する損害の性質上,加害行為が行われた時に損害の全部又は一部が発生する場合に当たるから,除斥期間の起算点は,加害行為が行われた時である。

除斥期間の適用制限について
原告らの主張する諸事情をもって,民法724条後段の除斥期間の適用を制限することはできない。
最高裁平成10年判決は,不法行為の時から20年を経過する前6か月内において,不法行為を原因として心神喪失の常況にあるのに法定代理人を有しなかった場合において,その後当該被害者が禁治産宣告を受け,後見人に就職した者がその時から6か月以内に損害賠償請求権を行使したなど特段の事情があるときという,極めて限定された要件の下で,時効の停止と同様の期間に限り例外的に除斥期間の適用制限を認めたものである。したがって,最高裁平成10年判決が,一般的に,除斥期間の適用が著しく正義・公平の理念に反する場合に,その適用を排除し得るとしたものでないことは明らかである。
本件の場合,最高裁平成10年判決が指摘する時効の停止等のような除斥期間の適用を制限する根拠となるものは何ら存在しない。原告らの主張は,時効の停止のようなその法意を援用できる制度の存在を問題とすることなく,ただ著しく正義・公平の理念に反する場合には,除斥期間の制度を一般的に適用すべきではないというのであり,適用を制限する根拠についても,その範囲についても,最高裁平成10年判決の判示するところを大きく逸脱するものである。

また,原告らが主張する本件加害行為の悪質性は,そもそも民法158条の法意を及ぼすべき事情とはいえない。
原告らが主張する事情は,従来,信義則違反ないし権利濫用を基礎付ける事情として主張されてきたものであるところ,仮に,信義則違反又は権利濫用を理由に除斥期間の適用が制限されるならば,結局,原告らにおいて訴訟提起の準備ができたとする時点を任意に選択して,権利行使が可能になった時点であるという主張を許すのに等しく,画一的に権利関係を確定する除斥期間の趣旨を著しく没却することになる。

国際人道法を理由とする除斥期間不適用の主張について
人道に対する罪を初めて明文化したニュルンベルク国際軍事裁判所条例や,極東国際軍事裁判所条例の規定は,文言上明らかに違反行為者個人の犯罪構成要件を規定しているものである上,上記各条例が,第2次世界大戦に関連して行われた非人道的行為・迫害行為を行った行為者個人の刑事責任を明らかにし,これを処罰するために設けられたものであることを考慮すると,人道に対する罪の違反行為は,行為者個人の国際刑事責任が追及されるという効果を有するにすぎない。
よって,仮に,原告ら主張のとおり,行為者個人の国際刑事責任である人道に対する罪について時効が適用されないとしても,それをもって,直ちに,当該違反者が所属する国家に対する被害者の損害賠償請求権までもが時効・除斥期間に関する規定の適用を受けないことにはならないから,原告らの主張が失当であることは明らかである。



被告会社の主張
原告ら主張の事実を前提にしても,民法724条後段の除斥期間の規定が適用され,原告Aらが被告会社の事業所における労務提供を終了した昭和20年8月15日から20年を経過した昭和40年8月15日の経過をもって,又は,遅くとも昭和20年の原告Aら各人が帰国した日から20年の経過を
もって,除斥期間が経過したものである。

民法724条後段の法的性質
民法724条後段の法的性格が除斥期間であることは,最高裁判所の確立した判例である(最高裁平成元年判決)



除斥期間の適用制限について
民法724条後段は,被害者の保護と加害者と目される者の利益の調整の上に立って,不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を図ることを意図して,20年という除斥期間を定めたのであるから,原告らが主張するように,広く法の正義・公平の観点から,その適用を制限すべきものと解すべきではない。すなわち,民法は,上記の利益の調整の上に立って,20年という期間を除斥期間として定めることが法の正義・公平に合致するとの立法政策の下に,同条後段の規定を置いたのであるから,このような実定法の規定が存在するにもかかわらず,正義・公平の観点から改めて除斥期間の適用の具体的妥当性を探求すべきであるという見解は,実定法の解釈の域を出るものである。
原告らは,平成7年の銭外相の発言までは,原告Aらによる現実的な権利行使の可能性はなかった旨主張するが,原告らは,原告Aらを取り囲む社会経済情勢が,原告Aらの権利行使を事実上困難ならしめていたことを主張するものであって,原告Aらの権利行使が法的に不可能であったことを主張するものでも,原告らが主張する日本軍等の不法行為に起因して,原告Aらの権利行使が不可能となったとの事情を主張するものでもない。したがって,原告らの主張によっても,例外的に民法724条後段の適用を制限すべき特段の事情があるとはいえない。


消滅時効
仮に,民法724条後段が消滅時効を定めたものであるとされた場合に備え,被告会社は,原告らに対し,平成17年3月4日の本件口頭弁論期
日において,前記労務提供の終了の日又は帰国の日から20年の経過によって完成した消滅時効を援用するとの意思表示をした。


原告らの反論

民法724条後段の法的性質
民法724条後段所定の20年の期間は,時効期間と解すべきである。旧時の民法学説は,民法724条後段の20年期間を時効と解していたが,これは,その沿革に適合し,立法趣旨に合致し,法文の文言にも合致する自然な解釈であった。不法行為責任について二重の期間制限を設けている諸外国の立法例においても,その長期は原則的時効期間に合わせて,かつ時効として立法されているのであり,日本民法も,それにならって長期20年を時効として採用したものである。ただ,民法167条1項が債権ハ十年間之ヲ行ハサルニ因リテ消滅スと規定したところから,20年という期間の性質に疑問を持ち,これを除斥期間と解する学説が主張されるに至った。しかし,民法167条1項の10年の時効は,本来所有権以外の財産権は20年の時効にかかるとした同条草案を,従来の取引上の旧慣・旧法(特に出訴期限規則の長期5年の時効)を顧慮して変更したもので,民法の原則たる20年の時効は,167条2項のほか取消権(126条)
,詐害行為取消権(426条)
,相続回復請求権(884条)等
の規定に残っているのであり,不法行為責任に関する民法724条後段の20年の期間も,この原則的時効期間の採用という点では,同一法系の諸外国立法と異なるところはない。
そして,現実に生起する不法行為の態様は極めて多種多様であり,被害者の権利行使は予期しない外部的事情によって妨げられることが多く,しかも被害者の側においてこれをあらかじめ防御する手段もない。よって,違法な権利侵害を被った被害者の救済を目的とする不法行為に基づく損害賠償請求権に関しては,20年の時効は十分な合理性を有する。したがっ
て,民法724条後段の20年の期間は時効と解するのが正当であって,時効の原則に従って援用を要し,中断・停止も認められると解すべきである。期間経過後の承認や弁済が有効であることも一般の時効と異ならない。イ
民法724条後段の期間の起算点
民法724条後段の不法行為の時からとは,民法166条1項と同様,客観的に権利行使が可能であることが前提となっていると考えられる。判例は,潜在的・進行性被害の場合には,不法行為の時とは,加害行為の時ではなく,損害の全部又は一部が発生した時であるとする(最高裁判所平成13年第1760号平成16年4月27日第三小法廷判決・民集58巻4号1032頁,最高裁判所平成13年第1194号・第1196号・同年第1172号・第1174号平成16年10月15日第二小法廷判決・民集58巻7号1802頁)
。その根拠は,当該不法行為によ
り発生する損害の性質上,加害行為が終了してから相当期間が経過した後に損害が発生する場合,損害の発生を待たずに民法724条の期間の進行を認めることは被害者にとって著しく酷であること,加害者としても,自己の行為により生じ得る損害の性質から見て,相当期間が経過した後に被害者が現れて,損害賠償請求を受けることを予期すべきであることにある。前記のとおり,民法724条後段の期間は時効期間であること,そこでは不法行為の時から20年以内には一般的・客観的に権利行使ができることが前提とされていること,上記判例の立場を総合すれば,民法724条後段の期間は,被害者の主観的・個人的事情を離れて,客観的に権利行使が不可能であった場合は,その期間は進行しないものと解すべきである。本件においては,後記ウのとおり,平成12年ころまでは,被害者である原告Aらが被告らを相手どって,日本の裁判所に提訴して損害賠償請求権を行使することは,客観的にも制度的にも不可能であったから,この期間中は民法724条後段の期間は進行しないと解すべきである。
したがって,原告らが権利行使のための必要不可欠の証拠である事業場報告書を入手した平成15年秋が同条後段の期間の起算点である。ウ
時効援用権の濫用


時効援用権濫用論の根拠
加害者による民法724条の時効援用ないしその結果が,著しく正義・公平に反するときは,その時効援用は権利の濫用に当たるものとして排斥されるべきである。
時効制度は,時間の経過を基礎とし,援用権者の時効援用の結果として,権利者の権利を奪い,義務者の義務を免ずるという強力な効果を生じさせるものである。その存在意義については,真の権利者の権利を確保し,債務者の二重弁済を避けさせるための制度なのか,永続した事実状態をそのまま尊重する制度なのか,諸説が存在するが,いずれの説に立ったとしても,その結果が正義公平の法理にかなうことが要求される点では争いがない。時効が援用権者の援用をまってその効力を生ずると規定したこと(民法145条)も,もたらされる結果が正義と公平にかなうべきであることを法が表明したものであるといえる。
したがって,権利者が権利を行使し得なかったことについて,義務者が加担していた場合,権利を行使しなかったことについて非難することができない場合(権利の上に眠ったと評価されない場合)
,義務者が保
護される適格性を欠く場合,又は時効援用によりもたらされる結果が著しく正義公平に反する場合には,時効の援用は信義則に反し許されない。


権利不行使に対する被告らの加担

被告らによる強制連行・強制労働を裏付ける資料の隠蔽と廃棄処分原告Aら被害者が被告らに対して損害賠償請求権を行使するためには,強制連行・強制労働の実態を知ること,そしてこれを裏付ける資料を入手検討することが必要不可欠であった。原告Aらは,ある日突
然に行き先も告げられないままに日本国内に連行され,本人の意思に全く関わりなく銅鉱の現場へ送りこまれたのである。地理や言葉も分からない原告Aら中国人労働者が,自らに対して行われた被告らによる強制連行・強制労働の正確な事実関係やその全体像を知ることは非常に困難であった。仮に,たまたま,強制連行された日時や強制労働をさせられた事業所名などを正確に記憶している者がいたとしても,これを裏付ける資料なくしては,戦後一貫して強制連行・強制労働の事実を否認してきた被告らを相手どって損害賠償請求権を行使することは事実上不可能であったといえる。
被告らは,戦中から敗戦直後においては,中国人労働者の強制連行・強制労働の実態を記録していた大量の文書を有しており,また,戦後間もなく,外務省は,強制労働の行われた事業所に対してその実態を明らかにする事業場報告書を提出させ,これを基礎資料として外務省報告書を作成した。
これらの文書が保存され,かつこれが公にされていれば,原告Aらをはじめとする中国人労働者の強制連行・強制労働の実態は相当程度に解明されたはずである。特に,外務省の作成した外務省報告書及び被告会社をはじめとする事業所が作成した事業場報告書は,その作成目的が戦犯追及対策であったという限界は有しているものの,強制連行の対象者の人名,日時,場所,人数,強制労働の期間,場所,待遇,死亡者数,傷病者数などの内容に関してかなり正確な記述も存在していた。
ところが,被告らは,このような文書がその責任追及に使われることを恐れ,戦後間もなく廃棄処分してしまった。このような貴重かつ希少な資料が戦後廃棄処分されてしまったために,原告Aらに対する強制連行・強制労働の事実確認と証明が極めて困難となってしまい,
その権利行使の大きな障害となった。
平成5年に外務省報告書や事業場報告書の存在が公となり,その内容を日本人弁護士が確認できたことにより,その名簿を手がかりにようやく強制連行・強制労働の被害者が確認され,弁護士の支援協力を得て各地で裁判を提起することができたのである。しかし,槙峰鉱業所の事業場報告書は,平成5年の東京華僑協会の倉庫には存在しておらず,その後の外交文書の公開の後,ようやく発見されたものであり,平成15年9月になって原告らと支援者,弁護団がその名簿を確認したことが,裁判提起のための第一歩となったのである。

戦後一貫した強制連行・強制労働の事実の否認と責任の否定
被告らは,資料が存在しないことを奇貨として,強制連行・強制労働の事実そのものについてもこれを正式には認めていない。特に,被告国は,戦後一貫して,

事実を明らかにする資料がないので,強制連行・強制労働の事実ははっきりしない。,

中国人の自由な意思による雇用契約であった。

旨の主張を国会において繰り返し行ってきた。被告国は,平成5年に外務省報告書が東京華僑総会に存在することが公表されるに至って初めて外務省報告書の存在を認めるとともに,中国人労働者の日本への移入が半強制的であったことを認めたが,これも半強制的であったとしているだけで,
強制であったこ
とを正式に認めているわけではない。
少なくとも,焼却処分したはずの外務省報告書が存在することが明らかになった平成5年まで,被告国も企業も,中国人労働者に対する強制連行・強制労働に関する大量の資料を焼却処分することによって,中国人労働者に対する強制連行・強制労働の事実そのものを歴史の上から抹殺しようと画策してきたことは明らかである。
さらに,被告国は,戦後自ら強制連行・強制労働の事実を解明し,
これを実行した者を刑事訴追する義務を負っていたにもかかわらず,これらの調査・捜査を一切行わず,これらの義務を怠った。外務省報告書や事業場報告書が処分され,なくなっていたのであれば,戦後再度強制連行・強制労働の実態について被告国と企業が互いに協力し合って調査確認をすべきであった。そうすればかなりの事実を確認することができたはずである。また,被告国や企業がこのような姿勢に立っていたならば,東京華僑総会に保存されていた外務省報告書や事業場報告書ももっと早く公になっていたはずである。ところが,被告らはこのような活動を一切せず,ひたすら

資料がないので事実確認ができない。

として,中国人労働者に対する強制連行・強制労働の事実を強く否認してきた。このようなかたくなな対応が原告Aらの権利行使を困難にしたことは明らかである。外務省報告書や事業場報告書という被告らの争うことのできない客観的な資料を入手して,ようやく権利行使に立ち上がった原告らに対して,もっと早く権利行使すべきであったと主張する被告らの対応は,著しく正義・公平に反するものである。


原告らの権利行使の困難性

戦後原告Aらが置かれていた状況
原告Aらのほとんどは貧しい農民であり,教育も受けておらず,字の読み書きもできず,まして法的知識など皆無であった。原告Aらは,日本と日本の企業が原告Aら中国人労働者に対して行った強制連行・強制労働に関する情報には全く接することはなかったのであり,日本や日本の企業に賃金の支払を含む被害回復のための措置を求める気持ちはあっても,どうすることもできなかった。ましてや,原告Aらが都市部にしかいない弁護士を探し出して訴訟を委任し,日本や日本の企業を訴えるということは最近まで考えられないことであった。

また,強制連行・強制労働の対象となった中国人労働者は,
敵国のために働いた者として必ずしも戦争被害者としての正当な評価をされていないところもあった。そのために文化大革命時に裏切者と言われ,土木作業等の労働に就かされた者もいたという。帰国してしばらくは,敵国日本で働いたということで白い目で見られ,嫌な思いをした者も多い。原告Aら被害者が,日本に強制連行されて強制労働させられた者として名乗りを上げることが困難であったことは,容易に推察できる。
このように,原告Aらが戦後生きてきた生活状況,教育程度,法的知識,社会情勢などを考えると,平成12年ころまでは,原告Aら被害者が被告らに対して訴訟を提起し,その被害回復を求めることは,事実上不可能であったというべきである。

日中関係に基づく権利行使の困難性
また,戦後,日本と中国は国交が断絶しており,日中平和友好条約が締結された昭和53年以前に,原告Aらが被告らに対する損害賠償請求権を行使することは到底できないことであった。特に,昭和47年に調印された日中共同声明の中で

中華人民共和国政府は,中日両国民の友好のために,日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する。

とされていたこともあって,中国国民が直接日本や日本企業に対して戦争賠償を求めることができるか否か,中国国民にとってはっきりしない状態が続いた。そのため,国交回復後も原告Aら被害者が被告らに対する損害賠償請求権を行使することは非常に困難であった。
このような状況が変化したのは平成3年(1991年)3月の全国人民代表大会における童増の

民間人の戦争被害についてはその戦争賠償は放棄していない。

との発言からである。平成7年(1995年)3月に当時の銭其琛外相が

日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって,個人の賠償請求は含まれない。

と発言したことによって,はじめて中国国民が日本による戦争被害について,日本や日本企業に損害賠償請求を行うことが政治的・社会的に可能となったのである。
中国の政治体制の下では,このような政府の発言のないままで,中国国民が日本に対して戦争賠償を求める裁判を提起することなど,実際にはできないことであった。

訴訟そのものの困難性
原告Aらが被告国や被告会社に対して損害賠償請求訴訟を提起するには,様々な障害が存在していた。
まず,中国人被害者の訴訟を支援してくれる弁護士が必要であったが,このような弁護士も平成7年ころ以降になって初めて現れたのであって,それより前にこのような弁護士の支援は期待できなかった。法的な知識が全くなかった原告Aらにとって,日本や企業に対して損害賠償を求める気持はあっても,そのためには,どこに,どのような手続をとればよいか,全く分からなかった。
被告会社の槇峰鉱業所の事業場報告書の存在が明らかになったのは平成15年9月ころであり,その後初めて,この名簿をもとに中国側の弁護士が被害者の確認,事情聴取をすることができた。そして,中国人被害者の提訴の意向を受けて,同年12月ころ宮崎での弁護団体制作りが始まり,平成16年8月には訴訟提起するという段取りができた。
このように,原告らが本件訴訟を提起するためには,中国と日本に,これを支援し,代理人となって活動してくれる弁護士が必要不可欠であったのである。そのような体制ができる前に,原告らが被告らに対して訴訟を提起することは事実上不可能であったといえる。

原告らは,被告会社の槇峰鉱業所の事業場報告書があることが分かった後,それをもとに確認作業がされ,さらに支援体制ができてはじめて提訴が可能となったものであるところ,原告らはその時点から速やかに提訴しており,権利の上に眠っていたと評価することはできない。

小括
このように,戦後原告Aらの置かれていた状況や日中関係に基づく権利行使の困難性,日本の裁判所に対する訴訟提起そのものの困難性を考えると,原告らが平成15年以前に訴訟を提起することは絶対的に不可能であり,中国,日本の両弁護士集団の支援態勢が整う平成16年4月以前の訴訟提起は事実上不可能であった。



被告らの時効による保護の不適格性
時効制度の存在理由を,真の権利者を保護し,債務者の二重弁済を避けるための制度と解する立場に立っても,証拠散逸による証明困難を救済するための制度と解する立場に立ったとしても,その責任が明白であり,かつ被告らが賠償義務を果たしていないことが明白である本件においては,時効によって被告らを保護しなければならない理由は全くない。a
被告らの加害責任の明白性
原告Aらをはじめとする中国人労働者に対してなされた強制連行・強制労働が,被告国と企業が戦時下の日本国内における労働力不足を補うために,中国人を強制的に国内に移入し,労働を強いるために行われたものであることは,今や歴史的事実となっている。
日本企業における労働が人間としての尊厳を否定した待遇下での過酷な労働であったことは,外務省報告書の示す死亡者数,疾病者数からも明らかである。特に原告らの陳述書によると,職場では原告Aら中国人労働者に対して日常的に暴力・虐待が加えられていたこと,食
事も満足に与えられず原告Aらが常に飢えに苦しんでいたこと,原告Aらには一切の自由が与えられず,約束されていた賃金さえも支払われず,まさに牛馬にも劣る非人間的な扱いを受けていたことが明らかである。
以上のような強制連行・強制労働が,当時の日本の法規に照らしても違法なものであることは明白である。
また,被告らは,ポツダム宣言を受諾して降伏したことによって,原告Aらの身柄を保護して本国へ送還すると同時に,未払賃金を支払うほか,強制連行・強制労働によって受けた様々な損害の回復を図る義務が発生した。にもかかわらず,被告らは原告Aらが中国に帰国し,日中両国が国交断絶の関係にあり,かつ強制連行・強制労働を裏付ける資料を自ら廃棄処分した結果,具体的な資料がなくなったことを奇貨として,原告Aら中国人労働者に対して強制連行・強制労働の責任をとるどころか,その事実さえも否認してきたのである。
このような被告らに,原告Aらに対する損害賠償責任のあることは明らかであって,時効期間の経過によって,その責任がなくなるものではない。むしろ長期間にわたってその責任を否認し,何の補償も行わなかった被告らの対応は,むしろますますその責任を増大させている。

立証の困難性の欠如
本件においては,前述のように被告らが原告Aら中国人労働者に対して加害責任を負っていることは明らかである。
そして,被告らが原告Aらに対して戦後一切の補償もしていないことも明らかである。
そもそも,被告らは,原告らの主張にかかる事実に対して認否そのものをなさず,自らは具体的な主張をしない。現在では事業所報告書
も外務省報告書も書証として提出されているのであるから,被告らが具体的な反論をしようと思えばこれらの資料によって十分に主張・立証はできるはずである。にもかかわらず被告らはこのような活動をしようとしない。このような被告らに時効・除斥期間による保護を与える必要は全くない。


時効援用が招く結果の著しい不正義・不公平

加害行為の悪質性
被告らが原告Aらに対してした加害行為は,何の罪もない中国人を,武力を背景にして強制的に日本国内に移入させて,日本国内の企業で過酷な労働に従事させ,しかもこの間賃金も支払わず,食事も満足に与えず,暴力と虐待を加え,一切の自由を認めず,長期にわたってその人間としての尊厳を踏みにじり,心身にわたる苦痛と被害を与えたというものである。しかも,被告らは,戦後においても,被害者に対して一切の謝罪も補償もしていないばかりか,本件訴訟が提起されている今日においても,事実さえ認めようとせず,更に被害者の怒りと苦痛を増大させている。
原告Aらは,当時15歳から29歳までの主として農業に従事していた青少年であったが,被告らは原告Aらを親族から引き離し,行き先も告げずに日本国内に連行し,それまで経験もしていない暗い地底での銅鉱の採掘作業を強いたのである。原告Aらの多くが,職場において,理不尽な暴力・虐待を日常茶飯事として受けた。
このような悪質な加害行為をした被告らが,単に時の経過を理由としてその責任を免れようとすることは,到底許されない。


被害の重大性と救済の必要性
被告らの前記のような加害行為によって原告Aら中国人労働者が受けた被害は限りなく大きい。

その被害は単に日本へ強制連行されて,過酷な労働を強いられたというにとどまらず,人間としての尊厳を根本から否定されたことの屈辱感は今でも忘れ去ることができない。
原告らの,被告国と被告会社に過ちを認めて謝罪してほしいとの気持ちは,50年以上にわたる被害感情を収めるためにどうしても必要であり,このような原告らの切実な要求を時効によって切り捨てることは,著しく正義・公平に反するものである。

被告らの利得
もともと,昭和17年閣議決定によれば,中国人労働者に対しては賃金を支払うこととされていた。したがって,被告会社は,原告Aら中国人労働者に対して,契約書で定めた賃金を支払わなければならなかったのであり,被告国もまた被告会社をはじめとする企業が中国人労働者に対して賃金を支払っているかどうかを調査し,賃金不払いの事実があれば賃金を支払うように命ずるべきであった。
ところが,被告会社は,原告Aら中国人労働者に対して1円の賃金も支払っておらず,多数の中国人労働者を長期にわたってただ働きさせたことになるのであって,少なくとも賃金を支払わなかった分だけ被告会社は不当な利益を手にしていたといえる。
被告国もまた,全体では4万人近くの中国人労働者を戦争遂行のために必要な労働現場に送り込み,過酷な労働を強いたのであって,結果的には他国の労働力を不当に奪い,自らの国家目的のために使役したといえる。
さらに,被告国は,企業に対して,中国人労働者の強制連行・強制労働実施による損失補償として,戦中から敗戦直後にかけて合計
5672万5474円もの巨額の金銭を支払った。そのうち,被告会社は,286万9060円の補償金(現在の貨幣価値に換算すると,
148億円ないし408億円)を得た。
この損失補償は,被告会社が原告Aら中国人労働者に対して賃金や休業手当も支払い,かつ給食をもなしていたことを前提として算定されている。しかし,実際は,定められた賃金は全く支払われていなかったのであるから,これを支払ったこととして,巨額の国家補償を受けた被告会社は,二重に不当な利益を手にしたものである。
このように,被告らは,原告Aらをはじめとする中国人労働者を日本国内に連行し労働を強制したことによって,大きな利益を得たのである。このような被告らが1円の賃金も支払わず,一切の謝罪も補償もしないまま,その責任を免れようとして時効を援用することは,著しく正義・公平に反するものであり,到底許されない。


以上によれば,被告らの時効の援用は,著しく正義・公平に反し,条理にもとるものであって,権利濫用に当たり,許されない。


除斥期間の適用制限
仮に,民法724条後段所定の20年の期間が除斥期間であるとしても,その適用が著しく正義・公平に反し条理にもとるときは,同条後段の規定は適用されるべきではない。
本件において,前記ウのような事情によれば,除斥期間の適用が著しく正義・公平に反し,条理にもとるから,同条後段の規定は適用されない。

国際人道法上の時効・除斥期間の不適用
本件は,国際人道法に違反した行為による被害であり,時効・除斥期間という時の経過をもって加害者を免責することは許されない。


人道に対する罪についての時効不適用
極東国際軍事裁判所憲章によれば,人道に対する罪とは,戦前又は戦時中なされた殺戮,殲滅,奴隷的虐使,追放その他非人道的行為,又は政治的若しくは人種的理由に基づく迫害行為であって,犯行地の国内法
違反たると否とを問わず極東国際軍事裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として又はこれに関連してなされたものをいう。
国際法上,戦争犯罪及び人道に対する罪については,原則として時効は適用されない。
国連総会は,昭和43年(1968年)11月26日,戦争犯罪及び人道に対する罪に対する時効不適用条約(以下時効不適用条約という。
)を採択した。同条約1条は,戦争犯罪及び人道に対する罪の処罰については,その犯行の時期に関係なく,時効は適用されないとする。日本は同条約の採択に当たって棄権し,批准していないが,同条約やその他の国際文書規則,合意を通じて,国際社会は重大な人権侵害においては時効がないという慣習国際法を既に確立している。
そして,この原則は,戦争犯罪と人道に対する罪を根拠としてなされる民事上の損害賠償請求権の時効についても当然適用されるべきである。同条約の趣旨は,結局,かかる犯罪や行為において,刑事的にも民事的にも加害国が免責され,被害者が救済されないことこそ不正義の最たるものであり,加害者の救済を図ることは許されないということの国際的確認であるからである。


被告らの人道に対する罪
極東国際軍事裁判判決によれば,日本は,昭和4年7月27日に調印されたジュネーブ俘虜条約を批准していなかったが,昭和17年6月25日,同条約の適用に同意したとされる。ジュネーブ俘虜条約は,捕虜は敵国の権力内に属し,これを捕らえた個人又は部隊の権力内に属さないと規定し,これらの俘虜を人道的に扱うべきことを定めている。そして,この条約を一般人抑留者に適用することを定めている。
また,日本は,明治45年(1912年)
,捕らわれた非戦闘員も俘
虜として人道的に扱われるべきであるとする陸戦ノ法規慣例ニ関スル規
則を批准した。
したがって,原告Aらは,一般住民として捕らえられ,拉致連行された場合にも,俘虜として人道的に扱われる権利を有していた。
また,強制労働禁止条約は,例外的に強制労働が行われる場合でも,労務を強制される者の保護(報酬の支払,労働時間,休日,労災補償,宿舎の衛生等)を規定し,労務を提供させられる者の保護を図っている。にもかかわらず,被告らは原告Aらに対して奴隷的虐使を行ったものであり,単に強制労働禁止条約が禁止する強制労働に当たるというだけでなく,大正15年(1926年)9月25日国際連盟総会において採択された奴隷禁止条約が禁止する奴隷的労働に当たるのであって,その違法性はナチス・ドイツの行った奴隷的労働政策に匹敵し,戦争犯罪又は人道に対する罪に当たることは明らかである。


刑事訴訟法255条の法意
また,原告Aらがすべて外国である中国に在住していることを考えれば,本件事案を考慮するに当たっては,犯人が日本の行政権の及ばない国外にいる場合は,無条件に公訴時効の進行が停止するとする刑事訴訟法255条の法意を考慮する必要がある。
一般に刑事の公訴時効は,証拠の散逸もさることながら,時間の経過による,犯罪の社会的影響の微弱化にその存在根拠があるとされるが,時効不適用条約の採択は,戦争犯罪や人道に対する罪においては,加害者の規範感情や罪悪感は麻痺・緩和しても,被害者の感情は累増・倍加こそすれ決して宥恕されないことを示しており,国際社会がそれを確認したことを示している。
本件においては,原告Aらは,戦後半世紀以上外国である中国に居住しており,この間,権利行使の機会も条件もなかったのであるから,この場合,刑訴法255条の法意に照らして,20年の期間制限を機械的
に適用して請求権を消滅させるのは正義に反する。


まとめ
本件訴訟は,人道に対する罪を構成する奴隷的虐使を違法原因として提起された損害賠償請求事件であるから,もともと時効・除斥期間が適用されてはならない。

4
条約による原告らの請求権の放棄の有無(争点4)について


被告国の主張
本件のような強制連行問題も含め,第2次世界大戦に係る賠償並びに財産及び請求権の問題については,サンフランシスコ平和条約その他二国間の平和条約及びその他関連する条約等に従って誠実に対応してきているところであり,これら条約等の当事国との間では法的に解決済みであって,第2次世界大戦に係る日本と中国との間の請求権の問題についても,個人の請求権の問題も含めて存在していない。
すなわち,日本国と中華民国との間の平和条約(以下日華平和条約という。
)11条及びサンフランシスコ平和条約14条により,中国国民の日本国及びその国民に対する請求権は,国によって放棄されているのであり,サンフランシスコ平和条約の当事国たる連合国の国民の請求権と同様に,これに基づく請求に応ずる法律上の義務が消滅している。

サンフランシスコ平和条約
そもそも,戦争による被害は,戦争の勝敗とは無関係に,戦争当事国政府のみならず,その当事国相互の国民の広範囲に発生するものであり,特に第1次世界大戦後の近代戦争は,国家間の全面戦争の形態をとり,その被害は全国民が被る結果となっている。
かかる戦争行為によって生じた被害の賠償問題は,戦後の講和条約によって解決が図られるが,一般的に,賠償その他戦争関係から生じた請求権の主体は,国際法上の他の行為より生じた請求権と同様,常に国家であり,
例外的に,条約で,被害者である国民個人に対して請求権者として直接必要な措置をとる方法を設けた場合以外は,国民個人の受けた被害は,国際法的には国家の被害であり,国家が相手国に対して固有の請求権を行使することになる。
第2次世界大戦に関する日本及びその国民と連合国及びその国民との間の賠償並びに財産及び請求権の処理に当たっては,当事国内部の利害を調整した上で,当事国が,国家及びその国民が被った被害を一体としてとらえ,相手国と統一的に交渉することとして賠償問題に最終的な決着を図ることとし,その交渉の結果締結に至る講和条約等は,戦後の国際的枠組みを構築する上で,適正かつ妥当な解決を目指すものと位置付けられ,当事国及びその国民の相互の真の意味での和解の印として,その後の当事国及び相互の国民の友好関係の基盤となることを目的とした。
そのため,このような講和条約の枠組みの下では,戦後賠償は,原則として国家間の直接処理又は求償国内の旧敵国資産による満足の方法によることとして解決が図られ,個々の国民の被害については,原則として,賠償を受けた当該当事国の国内問題として,各国がその国の財政事情等を考慮し,救済立法を行うなどして解決が図られている。
従来から,国家がその国民の他国又はその国民との間の財産及び請求権の問題を解決するために国際約束を締結することは国際法上可能であるとして,各国が実行を積み重ねてきたのであり,戦後の講和条約によって,個々の国民の相手国に対する請求権について国家が法的に処理することは可能である。
サンフランシスコ平和条約は,日本と連合国との間の戦争状態を終了させ,連合国最高司令官の制限の下に置かれた日本の主権を完全に回復するとともに,戦争状態の存在の結果として未解決の問題であった領域,政治,経済並びに請求権及び財産などの問題を最終的に解決するために締結され
たものである。
同条約14条は,
この条約に別段の定めがある場合を除き,連合国は,連合国のすべての賠償請求権,戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事経費に関する連合国の請求権を放棄する。と規定した。サンフランシスコ講和会議におけるオランダ代表と日本代表との交渉経過を見ると,日本代表がオランダ代表に,条約締結の結果,国民は日本国政府又は日本国民に対して追及することはできなくなるとの解釈を提示し,これに対するオランダ代表の意見を踏まえ,最終的には,
日本国政府が自発的に処置することを希望するであろう連合国国民のあるタイプの私的請求権が残るとしても,同条約の効果として,かかる請求権につき満足を得ることはできないとの解釈で決着し,ダレス米国代表も,
救済なき権利として問題を整理していた。
このような条約締結当時の経過からすれば,同条約14条にいう請求権の放棄とは,日本国及び日本国民が連合国国民による国内法上の権利に基づく請求に応じる法律上の義務が消滅したものとして,これを拒絶することができる旨が定められたものと解すべきである。

日華平和条約


日華平和条約締結の経緯
第2次世界大戦後の中国において,1つの国家としての中国を代表する政府として,中華民国政府と中華人民共和国政府が互いに自己の正当性を主張していた。そのような政治的・国際的状況の下,中華人民共和国政府及び中華民国政府のいずれも,サンフランシスコ講和会議に招かれなかったため,日本にとって,いずれの政府と戦後外交関係を結ぶかが問題となり,米国にとっても非常に大きな政治問題となった。昭和26年暮れに,米国ダレス特使が来日し,吉田茂総理大臣に対し,日本が
中華民国政府と平和条約を締結するのでなければ,サンフランシスコ平和条約自体が米国議会の承認を得られないと説得したため,吉田総理もこれに応じ,日本は中華民国政府と平和条約を締結することを約束した。こうして,日本は,中華民国政府をもって,中国を代表する正統政府であるとして,国家としての中国と日本国との戦争状態の終結等の問題を解決するために,同政府との間で,昭和27年(1952年)4月28日,日華平和条約に署名した。
同年までに約25か国が中華民国政府を承認し,20か国が中華人民共和国政府を承認していたといわれ,日華平和条約締結当時の中華民国政府は,国際連合における代表権を有し,国連加盟61か国のうち,中華人民共和国政府を承認していた国は,12か国にすぎなかった。

日華平和条約の意義
日華平和条約の議定書1は,

中華民国は,日本国民に対する寛厚と善意の表徴として,サンフランシスコ平和条約14条1に基づき日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄する。

と規定し,これにより,サンフランシスコ平和条約14条1に規定する賠償請求権を放棄した。
また,中華民国代表と日本国代表との間の同意された議事録4に
より,サンフランシスコ平和条約21条に基づき,中華民国が,同条約14条2に規定された日本国の在外資産についての利益を受ける権利を有することについても確認された。
そして,日華平和条約11条は,

この条約及びこれを補足する文書に別段の定がある場合を除く外,日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は,サンフランシスコ条約の相当規定に従って解決するものとする。

と規定しているところ,ここにいうサンフランシスコ条約の相当規定には,サンフランシスコ平和条約14条
及び19条も含まれるから,この規定に従って,日本国及びその国民と中国及びその国民との間との間の相互の請求権は,上記のサンフランシスコ平和条約14条1に基づく賠償請求権と併せて,同条約14条及び19条の規定により,すべてが放棄されたことになる。

附属交換公文について
日華平和条約の附属交換公文においては,同条約の適用範囲は中華民国政府の支配下に現にあり,又は今後入るすべての領域であるとの規定があるところ,確かに,同条約締結当時,中華民国政府は,中国大陸の実効的支配を失い,台湾・澎湖諸島等の実効的支配をしているにすぎなかった。したがって,通商航海条約(同条約7条)
,民間航空(同
8条)
,漁業協定(同9条)等,条項の内容からして現に支配していな
い地域を対象とすることができない規定が附属交換公文の対象となることは疑いない。
しかし,戦争状態の終結,賠償並びに財産及び請求権の問題の処理といった,国と国との間で最終的に解決すべき処分的な条項は,まさに国家と国家の間の関係として定められるべきものであって,その性質上,適用地域を限定することができないものである。
すなわち,戦争とは,一般的には,国際紛争を解決する最後の手段として,2つの国が対等の立場で国権の発動として武力を行使しあうことをいい,伝統的な国際法の下では認められてきた。このように,戦争は国家と国家との間の関係としてとらえられるべき事柄であり,戦争状態の終了,戦争の処理そのものである戦争に係る賠償並びに財産及び請求権の問題は,国際法上の当事者としての国家間において最終的に処理されるべき事項であって,国家内における適用地域による限定を受ける性質のものではない。
したがって,日華平和条約は,戦争状態の終了と戦争に係る賠償並び
に財産及び請求権の問題に関し,国家としての中国と日本との間で完全かつ最終的に解決したものである。

日中共同声明
日本は,昭和47年(1972年)
,中華人民共和国との間で日中共同
声明に署名した。
日本の立場は,日中間の戦争状態は,日華平和条約により終了したというものであった。これは,戦争状態の終了は,一度限りの処分行為であり,法律的には,当時中国を代表する合法政府であった中華民国政府との間で,国と国との関係を律する事項として処理済みであるという考え方に基づくものであった。これに対して,中華人民共和国は,日華平和条約は当初から無効であるとの立場であり,日本の考え方とは基本的に異なるものであった。日中双方の交渉の結果,日中共同声明1項において,

日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は,この共同声明が発出される日に終了する。

と規定されることとなった。不正常な状態とは,
これまで日本と中華人民共和国との間の国交がなかった状態を指すというのが日本の理解であり,日中間の戦争状態は日華平和条約によって終結しているとの立場と何ら矛盾しない。このような表現によって,日中関係がいかなる意味においても正常化されたという点についての日中双方の認識の一致を図ったものである。
賠償並びに財産及び請求権の問題についても,日本は,一度限りの処分行為であるから,日華平和条約によって法的に処理済みであるという立場であり,日華平和条約の有効性についての中華人民共和国との基本的立場の違いを解決する必要があった。この点についても,日中双方が交渉を重ねた結果,日中共同声明5項において,

中華人民共和国政府は,中日両国国民の友好のために,日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。

旨規定された。日中両国は,互いの立場の違いを十分理解し
た上で,実体としてこの問題の完全かつ最終的な解決を図るべく,このような規定ぶりにつき一致したものであり,その結果は日華平和条約による処理と同じであることを意図したものである。
戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた中国及びその国民の請求権は,法的には上記のとおり,日華平和条約により,国によって放棄されているというのが日本の立場であり,このような立場は日中共同声明によって変更されているわけではない。
このように,日中共同声明5項は日本の立場と相いれるものとして作成されたのであり,日本国及びその国民に,中国国民の国内法上の請求権に基づく請求に応じる義務がないことは明らかである。

政府承認の切替え
そもそも,一国の内部で政府の変動があり,いずれの政府が当該国を代表するかが問題となる場合,当該国自体は第三国との関係で同一性をもって存続する。その際,一国内で2つの政権が革命,内戦により対立抗争し,それぞれ一定の地域を実効的に支配している間に,対立政権が第三国との関係で行った約束その他の行為については,後に全国的支配を確立した新政府が原則としてこれを承継する義務を負う。
そして,昭和47年の日中国交正常化は,国家としての中国を代表する政府の承認の切替えであるから,中華人民共和国は中華民国の締結した日華平和条約を承継する。



被告会社の主張
以下のとおり付加するほか,前記イないしエと同じである。

日中共同声明の解釈
条約の解釈については,ウィーン条約法条約によれば,条約文の用語の自然又は通常の意味内容により客観的に行われるべきであり(31条),
用語の通常の意味を確定するには,条約文全体や,締結の際の,当事国の
関係合意等を参考にして,文脈により行う(同条2項)
。用語の意味が不
明確な場合は,条約締結後に当事国の間で行われた合意や慣行等の後からの実行を考慮して解釈を確定することも認められる(同条3項)。補
足的解釈手段として,条約の準備作業や条約締結時の諸事情を援用することも認められる(32条)

日中共同声明において放棄された戦争賠償は,文言上,当然に民間賠償も含まれているだけでなく,同声明後,長期間が経過したが,中華人民共和国政府から被告会社に対し民間賠償を求める文書が送付されたことは一切ない。これは,同政府が,民間賠償を含めて賠償請求権を放棄したことを自認していたことの証左である。

国家による国民の賠償請求権の放棄の可否
国家は,国民の権利を放棄することが法的に可能であるから,日中共同声明5項によって,国家の権利だけではなく国民の権利を含めて放棄,解決する趣旨であったと考えるべきである(直接効果説)

これに対して,国家は,条約により合意しても国民の権利を消滅させることができないので,請求権放棄は単に国家として自国民についての外交保護権を放棄しただけであるという考え方(外交保護権放棄説)があり,日本国政府は,自国民から損失補償請求されることを避けるため,昭和30年代,このような見解を取るに至ったとされる。
しかし,外交保護権放棄説は,平時の国際関係を前提としたものであり,明らかに妥当性がない。もし戦争賠償の放棄が単に外交保護権の放棄にすぎないとすれば,平和条約などによって戦争状態が解消されたにもかかわらず,民間被害についての紛争を完全に解消することができず,個人と外国及びその国民との紛争が継続することにならざるを得ない。要するに,一切の戦争賠償などの処理は,国家間の政治,外交問題として処理されるべきものであるが,国民の個別被害に対する補償問題は,各国の国内問題
として処理されるべきものである。原告らが主張する中国人労働者に対する強制労働は,日本の戦争遂行に伴う国策に沿って実行されたものであり,戦争賠償・戦争被害に該当するから,まさに国家間で解決されるべき問題であることは明白である。


原告らの反論

サンフランシスコ平和条約について
被告らは,サンフランシスコ平和条約によって,個人の賠償請求権が放棄されたと主張するが,国家が他の国家に対して有する賠償請求権や,自国民の権利に関する外交保護権を条約で放棄することは可能であっても,個人が自国政府を通じることなく直接外国に賠償を請求する権利は個人固有のものであり,国家が条約によって放棄することはできない。
したがって,サンフランシスコ平和条約によって被害者個人の被告らに対する賠償請求権が消滅することはあり得ない。
被告国自身,米国及びトルーマン大統領に対する原爆被害者の損害賠償請求権を日本政府がサンフランシスコ平和条約によって放棄してしまったとして,広島の原爆被爆者らが被告国に補償を求めた訴訟において,個人がその本国政府を通じないでこれとは独立して直接に賠償を求める権利は国家の権利とは異なるから,国家が外国との条約によってこれを放棄することはできず,被告国がサンフランシスコ平和条約で放棄したのは,個人の請求権を基礎とする日本国の賠償請求権,すなわち外交的保護権のみを指す旨主張していた。
しかも,上記訴訟が提起されたのは昭和30年であり,上記主張はサンフランシスコ平和条約締結後,時を経ていない時期の締結当事者による見解である。したがって,仮に一般論として条約により個人の請求権の放棄が許されるとしても,サンフランシスコ平和条約においては,締結当事者の意思解釈として,個人の賠償請求権は放棄されなかったと解すべきであ
る。

日華平和条約について


日中戦争において,日本軍と激しい戦闘を行っていたのは,八路軍や新四軍など,中国共産党の指揮下にあった軍隊と,解放区の人民であった。国民党政府は,日本軍と馴れ合い,抗日戦争よりも八路軍や新四軍との戦いに積極的であった。
したがって,日中戦争での戦いの当事者は中国共産党を中心とする中華人民共和国政府であったから,このような戦争の実態を無視して,国民党の中華民国政府と平和条約を締結したことで日中戦争が終結したというのは無理な擬制である。
また,日本がポツダム宣言を受諾した直後の昭和20年(1945年)8月10日から,蔣介石の国民党と共産党との武力対決が始まった。同年末から戦後新しく生まれた解放区において,共産党は土地革命を行い,地主の土地の没収と農民への分配を指令したことから,半封建的地主勢力を基盤とする国民党との対立は決定的となった。昭和21年(1946年)6月26日,蔣介石は中原解放区への攻撃を命令し,同年7月から全面的な内戦が開始された。昭和22年(1947年)6月末から人民解放軍の反攻が開始し,昭和23年(1948年)に入ると形勢は逆転し,昭和24年(1949年)4月20日,国民党が和平案を拒否すると解放軍が進撃を開始し,同年5月27日には上海を占領し,国民党軍を追って南下を続け,同年12月までに台湾を除くほぼ全土を制圧した。蔣介石は,同月10日,国民党軍が戦後占領していた台湾に50万の軍とともに逃れた。その間の同年10月1日,北京で中華人民共和国の樹立が宣言され,以後,中華人民共和国政府が国家としての中国のほぼ全領域(金門・馬祖の2小島を除く)の実効支配を確立した。したがって,国民党の中華民国政府は,中国の領土と住民を支配して
いないにもかかわらず,自ら代表政府と主張しているにすぎない政権であり,これとの間で平和条約を締結して戦争状態の全面的終結を図ることも,無理な擬制である。
よって,日華平和条約を有効と解することはできない。


また,日華平和条約の附属交換公文においては,同条約の適用範囲は中華民国政府の支配下に現にあり,又は今後入るすべての領域であることが確認されている。
これは,既に中華人民共和国政府が中国大陸を実効支配していたことや,将来的な中華人民共和国政府との関係も踏まえ,大陸にまで中華民国政府の主権を認めることには米国も消極的であったため,むしろ日本政府が中華民国政府の譲歩を求めたものである。そこで,現時点では中華民国政府の実効支配している台湾・澎湖諸島に適用される限定条約であることを認めた上で,将来大陸反攻が成功した場合には,日華平和条約の規定が大陸を含めた全土に及ぶという規定について合意したものである。
前記のとおり,日華平和条約が締結された昭和27年当時には,中華民国政府は既に中国大陸に対する支配を失っており,中国大陸に居住する原告Aらが日華平和条約締結後に中華民国政府の支配下に入ったことはない。
したがって,仮に日華平和条約を有効と解し,サンフランシスコ平和条約が連合国国民個人の賠償請求権を放棄する趣旨であると解したとしても,日華平和条約は原告Aらには適用されず,原告Aらの請求権が日華平和条約により放棄されたと解する余地はない。



なお,日華平和条約締結当時,中華民国政府が国連で代表権を有していたことは,中華民国政府が実質的に中国の代表として国際的に認められていたことを示すものではない。

中華人民共和国の成立宣言以後,国連の場では中国の代表権は中華民国政府が有するのか,それとも中華人民共和国政府が有するのかという深刻な問題が生じていた。そのような状況の下,中華民国政府が国連代表権を有するとされていたのは,国連各機関の手続規則で,信任状について異議申立てを受けた代表は,当該機関がそれについての決定を行うまでは異議申立てを受けていない代表と同じ権利を享有して議席に着くことができるという規定に従っていたにすぎない。


また,国民党政府を承認していた国が多数であったということも,政府の承認に正統性を与える根拠とはならない。
特に,中華民国政府と中華人民共和国政府の関係のように,一国において2つの政権が存在するものの,一方の政府が従前の国家の領土と住民の実効支配を失った事実上の地方政権にすぎない状態になったような場合は,承認国の数で正統性が決まることはあり得ず,実効支配性の有無が最大の基準となるというのが国際法上の原則である。
中華人民共和国政府が既に中国大陸のほぼ全土を実効支配した後も,中華民国政府が国連代表の席から排除されなかったり,約35か国から承認を受けていたのは,米国とそれに従う一部同盟国によって,イデオロギー的に中華民国政府が支持を受けていたということを表しているにすぎない。


日中共同声明について
日中共同声明前文には,日本側は中華人民共和国政府が提起した復交三原則を十分理解する立場に立って国交正常化の実現を図るという見解を再確認する旨明記されている。そして,復交三原則第3項は,日華平和条約は不法であり,無効であって,破棄されなければならないというものである。このような立場に立って中国との国交を回復した被告国が,今になって日華平和条約により原告Aらの請求権が放棄されたと主張することは条
約の解釈として不当であるばかりか,国際信義にも著しく反するものである。
また,日中共同声明5項は,中華人民共和国政府の日本国に対する戦争賠償請求権を放棄したにとどまり,中華人民共和国国民の請求や,日本国国民に対する請求は文言上も放棄されていない。これは,サンフランシスコ平和条約等が国民の請求権を明文で放棄しているのに対し,あえて国民の請求権を放棄するとの文言を置かないことによって,国民の請求権を放棄しないことを明示したものである。
なお,日本は昭和28年,紛争・占領における文民保護について規定したジュネーブ第4条約に加入し,中華人民共和国も昭和31年に同条約を批准した。同条約は,身体若しくは健康に対して故意に重い苦痛を与え,若しくは重大な傷害を与えること,不法に移送し若しくは拘禁することを重大違反行為とし,いかなる特別協定も,同条約で定める被保護者の地位に不利な影響を及ぼし,又はその権利に制限を加えるものであってはならない旨規定する。したがって,仮に日中共同声明が強制連行・強制労働の被害者の権利を放棄するものであるとすれば,同条約に違反することとなるから,日中共同声明が放棄したのは,国家間の賠償金請求権であり,被害者個人の請求権も外交保護権も放棄されなかったと解するのが当事国の合理的な意思解釈である。
平成4年4月7日の参議院内閣委員会においても,加藤紘一内閣官房長官は,日中共同声明によって国家間の賠償請求権は中国側が放棄した,個人の訴権は存在するがそれを中国政府が外交保護権をもって日本側に要求する権利は中国側が放棄した旨答弁した。したがって,少なくとも中国国民の請求権は日中共同声明で消滅するものではないという点において,当事国である日本と中国の政府当局者の見解は一致している。
また,被告国は,国民の請求権を放棄するとの明文のあるサンフランシ
スコ平和条約,日ソ共同宣言,日韓請求権協定について,訴訟における主張においても,国会答弁においても,放棄されたのは個人の請求権ではなく外交保護権であると一貫して説明していた。ところが,被告国は,最近になって,日中共同声明や上記条約等により個人の賠償請求権が消滅したとの主張を行い始めたものである。これは,中国国民等からの請求が現実化したため,責任を回避しようとしているにすぎない。

政府承認の切替えについて
被告国の主張する,新政府が旧政府の行った行為を承継するという原則は,根拠がない。
また,承継を認める学説も,対立政権がまだ実効的支配を確立するに至っていない段階で,事実上の地方政権として行った行為等は承継されないと解している。前記イのとおり,日華平和条約締結当時,旧政権である中華民国政府は中国の領土・住民の支配権をすべて失い,新政権である中華人民共和国政府がほとんど全部に対する実効支配を一般的に確立していたから,事実上の地方政権として行った行為にすぎず,承継されないと解すべきである。

5
安全配慮義務違反の有無(争点5)について


原告らの主張

安全配慮義務について
安全配慮義務は,ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において,当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務であり(最高裁判所昭和48年第383号昭和50年2月25日第三小法廷判決・民集29巻2号143頁。以下最高裁昭和50年判決という。,その成立の要件は,ある)
法律関係の存在と,それに基づく特別な社会的接触の関係の存在である。法律関係は,契約や行政行為によって成立するのが通常であるが,それ
に限らず,生活関係や社会関係,経済関係という事実関係が法の立場から評価されて法律関係とされることもある。
判例も,当事者間には直接の適用関係にない他者間の法律関係を契機として生じた事実であっても,そこでの生活関係や社会関係という事実関係を法の立場から法律関係と評価しているといえる。もっとも,これらの判例については,指揮・監督,支配管理関係や,提供する施設・設備の利用関係が問題とされることが多いが,これらは安全配慮義務が一般的に問題となる雇用契約関係のみを念頭に置いて,雇用契約関係における特別な社会的接触の関係の典型的な関係を例示したものであって,これがなければ特別な社会的接触の関係が認められないというわけではない。

被告国の安全配慮義務違反


国家総動員体制に基づく法律関係の存在
国家総動員法は,昭和13年,
戦時(中略)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルことを目的として制定された。同法は,国家総動員上必要な燃料を総動員物資と定め,総動員物資の生産業務を総動員業務と定めた。国家総動員法に基づいて,多数の勅令・規則が制定されたが,そのうち,工場事業場管理令(昭和13年5月3日勅令第318号)と重要事業場労務管理令(昭和17年2月24日勅令第106号)により,軍需生産業務遂行とそれに当たる労働者の労務提供について,主務大臣は,事業場と労働者に対して命令を発して指揮監督するほか,事業場に監理官を配置して,事業場と労働者に対して直接指揮命令を行うこととなった。
この国家総動員体制の下で,昭和18年10月31日,軍需会社法が制定され,同年11月1日,軍需省が発足した。同法制定の目的は,兵器,航空機,艦船等重要軍需品其ノ他軍需物資ノ生産,加工及修理ヲ為ス事業其ノ他軍需ノ充足上必要ナル事業ニ付経営ノ本義ヲ明ニシ其ノ運営ヲ強力ナラシメ以テ戦力ノ増強ヲ図ルコトとされた(同法1条)経営ノ本義とは,戦力増強の国家要請にこたえ,全力を発揮

し責任を持って軍需事業の遂行に当たることであり(同法3条)
,通常,
軍需会社の国家性,生産命令による国家的生産責任性を指すものとされる。具体的には,政府は,軍需会社に対し,期限,規格,数量その他必要な事項を指定し,軍需物資の生産,加工又は修理を命じるものとされ(同法8条)
,この政府の命令によって軍需会社は総動員業務の遂行に
当たり,総動員物資を生産することになる。
同法6条は,命令の定めるところにより生産責任者及び生産担当者並びに軍需会社の営む軍需事業に従事する者は,国家総動員法により徴用されたものとみなすと定めている。被告会社は,昭和19年4月27日,軍需会社に指定されたから,被告会社で就労させられた原告Aらは,被告国との間で,被徴用労働者の法律関係に立つこととなった。
同法7条は,軍需会社の職員その他の従業者は,その担当業務に従事するにつき,生産責任者及び生産担当者の指揮に従うこととした。この生産責任者及び生産担当者の指揮権は,公法関係上の地位である生産責任者,生産担当者としての指揮権,すなわち公法関係上の指揮権である。したがって,外形上は社長や工場長の業務命令であっても,それは,公法関係上の地位である生産責任者,生産担当者としての指揮命令である。しかも,被告国は,軍需会社に軍需監理官を配置し,軍需監理官によって生産責任者,生産担当者を指揮監督することとした。軍需会社法施行令9条は,主務大臣は,軍需会社に対し,その営む軍需事業に従事する者の使用,解雇,従業,退職,給与その他勤労管理に関し必要な命令をすることができる旨定め,軍需大臣自らが軍需会社の労務に当たる権限を有することを明らかにしている。また,軍需会社法21条は,軍需
会社の職員その他の従業者が故なく生産責任者又は生産担当者の指揮に従わないときは,これに対し譴責又は訓告の懲戒を行うことができること,懲戒は生産責任者又は生産担当者の具状により行うこと,軍需会社は,政府の指示に従い譴責の処分を受け,その情状の重い者に対しては,一定の給与を減じ,一定期間内昇級を停止すべきことを定めた。すなわち,主務大臣が,特定の軍需会社に対して具体的な労務管理としての命令を発したり,政府が従業員の懲戒処分を行ったりすることができるということであり,被告国が労働者の使用や解雇,給与,懲戒などの具体的な労務管理を行う権限を有するということにほかならない。
このように,被告国と企業の労務管理は完全に一体化しており,社長の指揮命令は,被告国の機関である生産責任者としての指揮命令でもあり,事業場所長の指揮命令は,被告国の機関である生産担当者としての指揮命令でもある。
さらに,生産責任者や生産担当者の指揮命令に過不足があるときは,政府は担当官を派遣して臨検させ,これに命令して過不足を改めさせ,あるいは生産責任者や生産担当者を解任して別の者を任命することができる(同法4条2項,6項,10条,15条,16条,18条)

被告国は,このような各種権限を有し,かつ軍需監理官を通じて軍需会社を直接管理していたから,軍需会社に対して,宿舎その他の事業場付属施設について,新設,拡張又は改良を命じることができた。また,配給機構を管理していることから,資材,労力,技術を,他の会社,工場や国民生活に優先してでも,軍需会社に対して補給することができた。さらに,賃金・賞与についての統制を緩めて生産増強に邁進できるようにすることも,軍需会社に対する食糧や衣服の配給を増加させることもできた。
原告Aら中国人労働者との関係でみると,被告国は,業務への就労開
始や終了を決定することができ,日々の就労や就労時間の設定,休憩・休日の指示命令,賃金・賞与の決定や給付の指示命令,宿舎の設置やその構造・設備の決定,食糧の配給や食事の質・量の調整,衣服・寝具の配給,保健衛生の確保や診療の給付,親兄弟との通信の確保など,そのすべてに及ぶ権限を持って原告Aらと法的に関わっていたのである。以上のように,被告国と原告Aらとの間には,国家総動員法関係法令,直接には軍需会社法に基づいた公法関係が存在していた。


被告国と原告Aらとの接触関係

事業場への配置の接触関係
被告国は,昭和17年閣議決定,昭和19年次官会議決定により中国人労働者を国民動員計画に組み込むこととし,大使館,現地軍,傀儡国民政府,華北労工協会との連携により,原告Aらを強制連行して自己の支配下に置いた。以後,厚生省による被告会社への中国人労働者の割当てや,華北労工協会と被告会社との労工使用契約締結を経て,被告国は,大東亜省,軍需省,運輸省,厚生省,内務省の連携により原告Aらを日本国内に移入し,これを被告会社の槇峰鉱業所に配置して国家総動員体制に組み込み,原告Aらと特別の社会的接触の関係に入った。


徴用の接触関係
また,被告国は,被告会社を軍需会社に指定し,原告Aらを徴用工とみなして,軍需会社法に基づく軍需大臣の命令と軍需監理官による現場での指揮・命令・監督の下,総動員物資である銅鉱生産に当たるよう労働を強制するという特別の社会的接触の関係に立った。


警察管理の接触関係
さらに,被告国は,原告Aらが生活する宿舎に警察官を配置して,坑内労働を終えて宿舎に戻ってきた後の原告Aらの起居,行動を監視
させ,日常生活に対する指揮・命令・監督を行い,原告Aらの坑外での日常生活を取り締まるという特別の社会的接触の関係に立った。d
配給管理の接触関係
被告国は,昭和19年次官会議決定において,中国人労働者に対して総動員物資の生産労働を強制していくのに必要な食糧を確保し,給食を行っていくために,農商省を通じて特別の配給措置を行っていくこととした。これは,被告国が,軍需会社法に基づき,原告Aらが総動員物資を生産するのに必要な食糧の確保と給食を行っていくことを確認したもので,原告Aらの生存・生活に直結した特別の社会的接触の関係に立った。


帰還管理の接触関係
その後,被告国は,ポツダム宣言を受諾し,降伏文書に調印したことによって,被抑留者を直ちに解放すること,並びにその保護,手当,給養及び指示された場所への即時輸送のための措置をとることを約束させられた。そこで,被告国は,
華人労務者帰国取扱要領を定め,
原告Aらの帰国に当たり,契約上の各種義務の完全履行及び手当・賞与などの措置を講じることや,死亡者・傷病者に対する扶助を行っていくことなどを決めた。これは,被告国が,ポツダム宣言による法律関係に基づき原告Aらの保護と補償を確認したもので,原告Aらの帰還についての特別の社会的接触の関係を確認したものである。



システム設計から見た被告国の安全配慮義務
以下のような,中国人労働者移入のシステム設計の観点から見ても,被告国には,原告Aらに対する安全配慮義務が発生した。

中国人労働者移入のシステム
中国人労働者の移入に当たって,日本政府が構想したシステムは次のようなものであった。

まず,中国人労働者の募集・取りまとめを行う組織として,華北労工協会が設立され,同協会が,募集した中国人労働者に一定期間の職業訓練を行い,日本での労働を可能にする準備をした上で,各企業の要望に応じた人員を提供することとされた。同協会は,形式的には中国の民間団体ではあるが,要職はすべて日本人が占めており,実質的に日本政府の意を受けて活動する機関であった。
一方,日本の企業は,厚生大臣から華人労務者移入割当を受け
て,華北労工協会と労工使用契約を締結し,同協会から必要な中
国人労働者の供給を受ける。なお,業態によっては,個々の企業が組織する協会ないし組合が契約当事者となることもあった。
上記労工使用契約には,中国人労働者が日本に移入された後のことについては格別の定めはなく,同契約上は企業が中国人労働者に対し直接賃金を支払うこととされていた。
上記労工使用契約については,国が関与して実施細目が取り決められており,その実施細目の内容は,労働時間,休日,作業環境,居住環境,食料,傷病時の支援,衛生設備,給与条件およびその支払方法等,極めて詳細であり,実質的には被告国が労働条件を作成し,企業に対し,この内容での労工使用契約を締結させたといえる。

労働者供給契約類似の関係の存在
被告国及び華北労工協会,被告会社ら企業は,以上のような契約関係のもとで中国人労働者を日本に連れてきて,各作業現場で労働させたのである。このような契約関係から考えると,華北労工協会と被告会社ら企業との間の労工使用契約は,労働者供給契約類似の契約と考えることができるのであり,華北労工協会において管理され,訓練を受けたことになる中国人労働者は,同協会によって派遣される労働者類似の立場と考えることが可能である。

すなわち,被告国及び華北労工協会はいわば派遣元の立場であり,日本の企業は派遣先の立場に立つということができる。
そうすると,労工使用契約の内容が遵守されていないときに,派遣労働者類似の立場にある中国人労働者が,派遣元である華北労工協会及び国に対して,派遣先を改善させるように求める,つまり監督・是正を求めることは当然認められることである。
派遣元と派遣労働者との関には派遣契約のようなものが存在しているのが通常である。そして,派遣労働者が派遣先で労働することで派遣元が利益を得る構造になっている以上,派遣労働者が派遣元に対して上記の監督・是正を求める権利は,契約上当然認められるはずである。
本件の中国人労働者移入の際も,華北労工協会の主要な業務は,日本で働きたい中国人労働者の募集ととりまとめであり,シス
テム設計上は,応募してきた中国人労働者と華北労工協会との間において,派遣類似の合意が想定されていたはずである。
したがって,派遣元である被告国及び華北労工協会は,派遣先である企業が労働契約を遵守せずに派遣労働者である中国人労働者を使用する場合に,企業に対する監督・是正義務を負い,これを怠ったことにより中国人労働者の生命・身体・健康に被害が生じれば,当然,華北労工協会及び国はその義務違反に基づき,労働者に対し損害賠償責任を負うこととなるのである。

中国人労働者移入の実態
以上のような中国人労働者移入のシステムや,国が関与して作成された実施細目は,当初から単なる仮装のものとして作成されたというよりは,その履行を前提としていたと考えられる。
ところが,戦争遂行のための労働力確保が要求され,一定の人員の
確保が至上命令化する中で,システム設計上の労働条件が遵守されることはなく,昭和19年から昭和20年に至ると,人間性さえ否定されるほどの重度の強制連行及び強制労働が行われるようになり,安全配慮義務が果たされることはなかった。


安全配慮義務の内容
被告国は,上記のような特別の社会的接触の関係に基づいて,原告Aらに対し以下のような安全配慮義務を負った。
被告国は,原告Aらの生命・健康を維持するに足りる十分な量と質の食糧を配給するよう配慮し,監督すべき義務を負った。
また,被告国は,原告Aらに対する坑内労働を命令・督励する軍需監理の実施に当たっては,その命令・督励により原告Aらの生命・健康が損なわれることのないように生産目標数値について配慮するとともに,被告会社に対して労務監理を実施するに当たっては,被告国自らが定めた使用条件や,被告会社と華北労工協会との間の労工使用契約が遵守されるように配慮することはもちろん,原告Aらが生命・健康を維持することのできないような過酷な労働を強制されることのないよう配慮する義務を負った。
さらに,被告国は,被告会社に対する労務監理を実施するに当たって,宿舎において原告Aらが十分な休養を得られるように,住環境や衣服その他の衛生状態の確保に配慮するとともに,宿舎に配置した警察官に指示して,被告会社が原告Aらに対して不法な暴行,虐待を行わないように監視するよう配慮する義務を負った。
その後,被告国は,ポツダム宣言受諾に伴い,被告会社に,労工使用契約上の義務の完全履行,手当・賞与の給付を実施させるとともに,傷病者に対する扶助を実施させる義務を負った。



安全配慮義務違反行為

被告国は,上記のような安全配慮義務を負っていたにもかかわらず,十分かつ適切な配給措置を講じず,原告Aらを,非人間的な飢餓状態に置き続けた義務違反がある。それどころか,監督義務を怠ったというよりも,むしろ被告国自らが積極的に原告Aらの生命,健康を侵害したとも評し得る部分もある。
また,被告国は,被告会社が,原告Aらに対して賃金を支払わないばかりか,鉱山労働に必要な給食や日常の生活物資,更には休憩,休日も与えず,暴力と制裁を背景に長時間の労働を強制するのを放置するとともに,原告Aらが過酷な労働や災害,暴力,虐待によって身体・健康を損なうのを放置したばかりか,過重な銅鉱の生産を命令,督励し続けさせた。したがって,被告国は,原告Aらが過酷な労働を強制されることのないよう配慮すべき安全配慮義務に違反した。
さらに,労務監理官・軍需監理官は,過重な銅鉱の生産を命令・督励し続けるだけで,被告国自らが定めた使用条件や被告会社と華北労工協会との間の労工使用契約の遵守についての監督・指導を行わず,まして生産現場ではない宿舎についてはいかなる監督・指導も行わず,逆に,被告国は,宿舎に配置した警察官により原告Aらが被告会社に待遇改善を要求したり,宿舎を出て行ったりすることのないよう監視させて,原告Aらの身体や行動の自由を侵害させ,強制労働を継続させた。むしろ,被告国自らが積極的に中国人労働者の自由や権利を侵害したものと評し得る部分もある。したがって,被告国は,被告会社が原告Aらの労務監理を行うに当たって住環境,衣服,衛生,生活等の面においてその権利を侵害することのないように監視・監督すべき安全配慮義務に違反した。その後,ポツダム宣言受諾後は,被告国は,戦勝国民となった原告Aらを一刻も早く帰還させて戦犯追及から免れることだけを考えて,傷病者に対する扶助どころか,賃金や手当すら被告会社から受領できていな
いのに,原告Aらを身一つで中国に帰還させた安全配慮義務違反がある。ウ
被告会社の安全配慮義務違反


雇用契約関係類似の法律関係の存在
原告Aらは,被告会社との間に雇用契約を締結していない。
しかし,原告Aらが被告会社の槇峰鉱業所に配置されることとなった契機は,被告会社の厚生省に対する中国人労働者割当申請にあり,また,原告Aらは,被告会社と華北労工協会との間の労工使用契約に基づいて槇峰鉱業所に連行され,配置された。すなわち,被告会社は,厚生大臣から中国人労働者移入割当てを受けて,中国人労働者移入の中国側窓口となった華北労工協会との間で,華人労務者対日供出実施細目等を定めて使用条件の細目を定め,華北労工協会の供出する労働者使用についての労工使用契約を交わした。また,この契約の特徴は,中国人労働者を隊組織で派遣して派遣先企業である被告会社の指揮命令の下に置き,派遣先企業の労務に従事させ使用するという点にある。
そして,昭和17年閣議決定及び昭和19年次官会議決定によれば,本来,中国人労働者を受け入れる事業所と労働者の間に雇用契約が締結され,移入された労働者は雇用契約に基づいてその労働力を提供することが予定されていたのに,被告会社はその契約の締結を恣意的に怠った。また,坑内では,商工大臣・厚生大臣・軍需大臣の命令や労務監理官・軍需監理官の現場での指揮・監督があるとはいえ,原告Aらに対する直接の指揮・命令に当たったのは被告会社である。
さらに,被告会社は,坑内労働が終わった後の時間帯も,自ら設置した宿舎に原告Aらを留め置いて,被告国によって配置された警察官とともに原告Aらの自由を拘束し,原告Aらへの給食,衣服・医療の給付も自ら行っていた。
以上によれば,被告会社は,国家総動員体制の下で,厚生省に対する
中国人労働者割当申請と華北労工協会との間の労工使用契約に基づいて配置された原告Aらに対し,賃金を支払うことを条件として労務を提供するように強制したもので,原告Aらの承諾がなく,雇用契約締結に至っていないとはいえ,雇用契約関係類似の法律関係に入ったもので,少なくとも被告会社の側から見れば,自らが原告Aらとの間に雇用契約関係と同一内容の法律関係を設定したものである。
また,被告会社は,雇用契約締結を恣意的に怠ったのであるから,契約締結を欠くことをもって,被告会社の責任を不法行為責任のみに限り,債務不履行責任を否定することは不当である。


システム設計から見た安全配慮義務
前記イのシステム設計の観点から見ても,派遣先である企業が,労工使用契約で定められた労働条件を遵守して,派遣された中国人労働者を使用すべき義務を負うことは,当然のことである。
また,派遣労働者類似の立場にある中国人労働者も,派遣先の直接の指揮・監督を受けて労働している以上,派遣先で労工使用契約の労働条件が遵守されていない場合に,その遵守を要求できることは当然である。したがって,派遣先である企業の労働条件遵守義務の不履行により中国人労働者の生命・身体・健康に被害者が生じれば,当然,企業はその義務違反に基づき,労働者に対し損害賠償責任を負うこととなるのである。



安全配慮義務の内容
被告会社は,上記のような法律関係に基づき,原告Aらに対し,以下のような安全配慮義務を負った。
被告会社は,原告Aらに対し,その生命・健康を維持するに足りる十分な量と質の食事を給付する義務を負った。
また,被告国の定めた華人労務者使用条件や,華北労工協会との間の
労工使用契約を遵守することはもちろん,原告Aらの生命・健康に支障を来すような過酷な労働を強制しない義務を負った。
被告会社は,原告Aらを収容する宿舎において,原告Aらが十分な休養を得られるように,住環境や衣服その他の衛生状態の確保に努めるとともに,不法な暴行,虐待や非人道的制裁によって原告Aらに労働を強制することのないよう努める義務を負った。
被告会社は,原告Aらの帰還に当たり,契約上の義務の完全履行や手当・賞与の給付を行うとともに,傷病者に対する扶助を実施する義務を負った。


安全配慮義務違反行為
被告会社が原告Aらに与えた食事は,1日3食であったが,芋の干したものやとうもろこしの窩頭等で,最高でも200グラム程度で,腹半分にも満たなかった。これ以外にも,米に何かが加わったものや,古びた白菜が出ることもあったという程度で,極めて粗末かつ不十分な量の食事しか与えられず,すべての被連行者が空腹に苦しんだ。したがって,被告会社は,原告Aらの生命・健康を維持するに足りる十分な量と質の食事を給付すべき安全配慮義務に違反した。
被告会社は,原告Aらに対して賃金を支払わなかったばかりか,鉱山労働に必要な給食や日常の生活物資,さらには休憩・休日も与えず,暴力と制裁を背景に長時間の労働を強制するとともに,原告Aらが過酷な労働や災害,暴力,虐待によって身体・健康を損なっても,これを放置して適切な医療も与えない非人間的な対応を続けて,安全配慮義務に違反した。
被告会社は,宿舎を強制労働のための収容施設として,原告Aらの身体・行動の自由を奪い,最低限度の衣食住も給付せずに,原告Aらが疾病で倒れるに任せた。宿舎においても,原告Aらに対する理由のない激
しい暴行,懲罰等が横行し,宿舎には風呂がなく,ノミ,ねずみ,南京虫がわき,不衛生で皮膚病が蔓延していた。このような実態が安全配慮義務に違反することは明らかである。
被告会社は,契約上の義務の完全履行や手当・賞与の給付,傷病者に対する扶助を実施することなく,原告Aらを身一つで帰還させた。これが被告会社の安全配慮義務に違反することは明らかである。

被告らの責任の連帯性
被告国は国策として強制連行・強制労働を行い,被告会社は,それと共同して原告Aらを連行させて事業場に受け入れ,強制労働に就かせたのであるから,一体となって原告Aらに対して安全配慮義務を負っていたというべきところ,ともにその義務を怠り,原告Aらに甚大な損害を生じさせたのであるから,連帯して,原告Aらが受けた損害を賠償する責任を負う。


被告国の反論

安全配慮義務の義務内容の特定
安全配慮義務は,ある法律関係に基づいて特別の社会的接触の関係に入った当事者間において,当該法律関係の付随的義務として当事者の一方ないし双方が相手方に対して負う信義則上の義務である(最高裁昭和50年判決)

安全配慮義務の法的性質は,広い意味での不完全履行の一種と解されているところ,不完全履行とは,一応債務の履行はされたが,その内容に債務の本旨に従わない不完全さ(瑕疵)がある場合であるから,履行の完全でないことが損害賠償請求権の発生要件となる。そうすると,債権者は,まず,履行が不完全であった事実(履行過程に関連する付随的義務の存在)を主張・立証しなければならない。判例もこのことを明らかにしている(最高裁判所昭和54年第903号昭和56年2月16日第二小法廷判決・民集35巻1号56頁)


そして,安全配慮義務違反の成立が問題とされる法律関係は一様ではなく,事故の種類・態様も千差万別であるから,安全配慮義務違反を理由とする損害賠償請求訴訟においては,事故発生の具体的状況等を踏まえて,その義務の内容を特定し,かつ,義務違反に該当する事実を主張・立証する必要がある。
ところで,原告らは,原告Aらに対する関係における被告国の安全配慮義務の具体的な内容を主張せず,被告国が被告会社に対する指揮・命令・監督をすべき義務があったと主張するにとどまっている。しかしながら,被告国において上記のような指揮・命令・監督をすべき義務があるとすれば,それは,国の行政作用としての一般的な労働者保護政策上の責務であって,そのような義務をもって私法上の信義則に基づく安全配慮義務の内容とすることはできない。
そうすると,原告らの安全配慮義務違反の主張は,そもそも必要な要件事実の主張を欠くから,主張自体失当である。

安全配慮義務の前提となる特別な社会的接触関係の意義


雇用契約ないしそれに準ずる法律関係の必要性
安全配慮義務の前提となる特別な社会的接触の関係とは,不法行
為規範が妥当する無限定な社会的な接触関係を意味するものでないことは当然であって,雇用契約ないしこれに準ずる法律関係の介在することが必要であり,このような関係が認められない場合には,安全配慮義務が成立する余地はない。
雇用契約の法的属性は,労働者が,労務に服することを約し,使用者が,これに対して報酬を支払うことを約するところにある(民法623条)
。労務に服するに当たっては,通常の場合,労働者は,使用者の指定した場所に配置され,使用者の供給する設備,器具等を用いて労務の提供を行うものであるから,使用者は,報酬支払義務にとどまらず,労
働者が労務提供のため稼働する場所,設備若しくは器具又は使用者の指示の下に労務を提供する過程において発生する危険から労働者の生命及び身体等を保護するように配慮すべき義務(安全配慮義務)を負うと観念されている。すなわち,安全配慮義務は,労働者の労務に服する義務に対応して,使用者が労務の給付を受け,労働者の労務を支配管理する法律関係に付随する義務として生ずる義務である。
判例も,安全配慮義務が成立するためには当該当事者間に雇用契約ないしこれに準ずる法律関係の介在することが必要であるとするものと理解される(最高裁昭和50年判決,最高裁判所平成元年第516号・第1495号平成3年4月11日第一小法廷判決・裁判集民事162号295頁(以下最高裁平成3年判決という。)
)。
そして,当事者間に直接の雇用契約がない場合にも,これに準ずる法律関係があるというためには,何らかの合意に基づく法律関係が当事者間に存在することを前提として,双方が忠実義務を負う関係にある必要があると解される。
したがって,一方が他方を強制して労働させるような関係は,そもそも不法行為の領域の問題であって,雇用契約に準ずる法律関係に含まれないことは明らかである。


直接具体的な支配管理性の必要性
安全配慮義務は,使用者が被用者に対し,その労務ないし公務遂行に当たって支配管理する人的及び物的環境から生じ得べき危険の防止について信義則上負担するものである(最高裁判所昭和55年第579号昭和58年5月27日第二小法廷判決・民集37巻4号477頁)。
したがって,安全配慮義務の成立が認められるためには,当事者間に事実上の使用関係,支配従属関係,指揮監督関係が成立しており,使用者の設置ないし提供する場所・施設・器具等が用いられ,これらの物的
側面ないし労務の性質が,労働者の生命・健康に危険を及ぼす可能性がある場合等,当該労務に対する直接具体的な支配管理性が認められることが必要である。

原告ら主張の事実について
原告らの主張によれば,被告国と原告Aらとの社会的接触は強制連行という事実行為によって設定されたものであって,法律関係によって設定されたものではなく,また,原告らが主張する事実によっても,被告国と原告Aらとの間に雇用関係ないしこれに準ずる法律関係があるとも,直接具体的な労務の支配管理性が存在する法律関係があるとも認められない。

国家総動員体制(軍需会社法)に基づく法律関係について

原告らは,軍需会社法の規定が特別の社会的接触の根拠となる
旨主張するが,これは国家総動員法や軍需会社法の解釈を誤ったものである。
すなわち,軍需会社法6条は,軍需会社の営む軍需事業に従事する者を国家総動員法により徴用されたものとみなす旨規定しているところ,国家総動員法4条は,政府は戦時に国家総動員上必要のあるときは,
帝国臣民を徴用して総動員業務に従事させることができる旨
規定している。
そもそも,国家総動員とは,戦時に際し,国防目的達成のため,国の全力を最も有効に発揮させるよう,人的・物的資源を統制運用することをいうのであるから(国家総動員法1条)
,徴用が日本国民のみ
を対象として行われるものであることは,性質上当然のことである。したがって,軍需会社法6条により被徴用者とみなされるのも,日本国民に限定されるのは当然であり,外国人である原告Aらに,国家総動員法の適用はない。また,外国国家に対して忠誠を尽くす必要はないのであるから,原告Aらと被告国との関係にその法理が類推され
る余地もない。

また,国民徴用令の規定によれば,徴用の結果生ずる使用関係は,あくまで被徴用者と事業主の間において生じることが予定されており,被告国と被徴用者との間に雇用関係ないしこれに準ずる法律関係や,直接具体的な労務の支配管理性が生じることはない。


さらに,安全配慮義務が発生するためには双方が忠実義務を負う関係にあることが必要であるところ,国民徴用令に基づく徴用は,権力をもって特定人に対し一方的に公法上の勤務を命ずる行為であって,双方の忠実義務が発生する余地はない。


軍需会社法は,私企業の自主的運営を前提とした上で,その経営を強力にして戦力の増強を図ることを目的とするものである。したがって,同法は,軍需会社を国家の一機関とするものではない。
軍需会社法は,軍需会社の生産責任者の選任義務,政府の生産責任者の補充的任命権・解任の認可権・解任権,生産責任者の生産担当者の任命権,政府の生産責任者に対する生産担当者の選任・解任の命令権を規定する。これらの規定は,軍需会社には,本来の営利目的に加えて,国家の要請に応えて軍需事業の遂行に当たるという責務があることを受けて,生産責任者や生産担当者が政府に対して直接公的な責任を負うことを明らかにしたものである。
したがって,軍需会社の従業員が生産責任者らの指揮命令を受けるからといって,その従業員が政府に対する公的な責任を負うことにはならず,従業員と被告国との間に,当然に労働関係やこれに準じた私法上の法律関係が導かれるものではない。


軍需会社法7条は,生産責任者及び生産担当者の従業員に対する指揮権を規定するが,これは,あくまで軍需会社の従業員と生産責任者等との間の関係を規律するものであって,被告国と従業員との間の関
係を規律するものではない。
また,同法10条は,政府の軍需会社に対する勤労管理並びに資金調達及び経理に関する命令権限を規定するが,これは,軍需会社がその従業員に対する労務管理をすることを前提に,軍需会社において同法の目的にかなう簡素で効果的な労務管理がされるよう,政府の軍需会社に対する労務管理の命令権限を認めたものであるから,政府の命令権限の対象は,その従業員ではなく,あくまで軍需会社であり,被告国が,軍需会社と一体になってその従業員の労務管理を行っていたという余地はない。
同法21条は,政府が軍需会社の従業員等に対し懲戒をなし得ることを規定するが,これは,懲戒処分は軍需会社がすべきであるが,一定の処分に限り,政府自ら懲戒処分を行うことにより,制裁に権威を与えて被制裁者に対する心理的効果を与えるものである。そして,政府の行う懲戒処分は,従業員等が生産責任者等の指揮に従わないときに,生産責任者等の具状により行うものであるから,あくまで労務管理の主体である軍需会社の指揮を実効あらしめるために行うものであって,政府が労務管理を行うためのものではない。
また,政府のその他の指揮命令権も,軍需会社に対する命令権限を認めたものにすぎず,被告国が軍需会社と一体になってその従業員の労務管理を行ったものとはいえない。


被告国と原告Aらとの接触関係について

事業場への配置の接触関係について
被告国が中国人労働者を移入し,配置した政策自体,個々の労働者との関係で,直接具体的な労務の支配管理性を基礎付けるものでないことは明らかである。


徴用の接触関係について

前記のとおり,軍需会社法の規定によっては,被告国と原告Aらとの間に直接具体的な労務の支配管理性は基礎付けられない。

警察管理の接触関係について
警察の関与は,当然,治安の維持を目的としたものであって,中国人労働者が警察の設置又は提供する場所・施設・器具等を用いて労務に従事していたわけではないし,警察が中国人労働者の労務の分担や手順に関する指示をしていたわけでもなく,一般に労働者に対して行われる労務管理とは全く異なるものであったことが明らかである。したがって,原告Aらの逃亡防止等のために警察の関与があったとしても,個別の労働者に対する労務の支配管理とは峻別すべきである。

配給管理の接触関係について
配給管理は,個々の労働者の労務を支配管理する手段ではない。


帰還管理の接触関係について
被告国の中国人労働者に対する帰還時の対応が,個々の労働者との間で,直接具体的な労務の支配管理性を基礎付けるものでないことは明らかである。



まとめ
したがって,原告Aらと被告国との間には,安全配慮義務の前提となるある法律関係に基づく特別の社会的接触関係は存在しないから,原告らの主張は理由がない。



被告会社の反論

安全配慮義務の義務内容の特定について
原告らの安全配慮義務の主張は,一般的・抽象的な安全配慮義務の主張にすぎず,被告会社が当時の中国又は日本における生活水準・労働実態からして,どのような内容の安全配慮義務を負担していたかを具体的に特定して主張しているとはいえず,かかる主張自体失当である。


安全配慮義務を発生させる法律関係の有無について
安全配慮義務は,債務不履行規範の適用領域にかかわる問題であり,安全配慮義務は,債務不履行の一態様として,賠償責任が負わされているのであり,この点で,不法行為責任と区別される。すなわち,安全配慮義務を発生させる法律関係は,不法行為規範上の法律関係とは異なるのであり,判例上も,安全配慮義務は,不法行為責任上の義務とは別の性質を有する契約上の義務であると観念されている。
そして,雇用契約が存在する当事者間においては,被用者は,使用者の指揮命令の下に労務を供給する義務を負うのに対し,使用者は,労務給付のための場所,設備,器具,材料等を供給する場合には,被用者が労務を給付する過程において,被用者の生命,健康を損なうことがないように危険から保護し,その安全を保証する義務を負っている。
最高裁平成3年判決は,直接契約関係にない元請企業と下請労働者との間に,安全配慮義務を認めたが,これが認められるのも,間接的にせよ何らかの契約的な関係をもとにして,実質,下請企業の労働者も元請企業の労働者と同様に労務を供給しているという関係が認められることから,元請企業と下請労働者との間には,直接雇用契約が存在する場合と同視し得るような債権債務の関係を観念することができるからである。
判例が,元請企業と下請労働者との間に,直接雇用契約がなくても,当事者間に使用従属の関係にある労働関係雇用関係と同視できる関,係,又は指揮監督関係が存在し,実質的に元請企業の労働者と同様
の作業環境にある場合などには,安全配慮義務が発生するというのも,当事者間に,実質的に雇用関係と同視し得るような債権債務の関係を観念し得ることが,その根拠になっているのであり,このような債権債務を観念する重要な事実として,元請企業・下請企業間の請負契約及び下請企業・下請労働者間の雇用契約の存在が挙げられているのである。

したがって,原告らが主張するような単なる事実上の使用従属関係のみをもって,それが安全配慮義務を発生させる法律関係であると解釈することはできないというべきである。
原告らが主張する事実関係によれば,原告Aらと被告会社との間には何ら契約は存在せず,原告Aらの事業場における労務の給付は,契約とは全く無縁な被告会社ら企業による原告Aらに対する強制連行に端を発した違法な強制によるものであり,原告Aら自らの自由な意思に基づくものではないというのであり,かかる事実関係の下では,原告Aらと被告会社との間に雇用関係と同視し得るような契約上の債権債務の関係などそもそも観念し得ない。
確かに,原告Aらが被告会社の指揮監督の下に労務を給付したという事実があったとすれば,下請労働者と元請企業の関係と同様に,原告Aらと被告会社との間には事実上の使用従属関係があるともいえるかもしれない。しかし,原告らの主張によれば,原告Aらの労務給付そのものが被告会社ら企業の強制によるものであり,原告Aらの自由な意思によるものではないというのであり,原告Aらと被告会社ら企業との間には,間接的に成立した法律関係すら存在せず,元請企業と下請労働者との関係とは全く異なっている。
以上のとおり,原告らが主張する事実関係の下では,原告Aらと被告会社との間には,安全配慮義務を発生させる法律関係は何ら存在しない。ウ
安全配慮義務違反の事実の有無について
本件において,被告会社に安全配慮義務違反があったか否かを判断するに当たっては,原告Aらが就労していた当時の中国あるいは日本における生活水準,労働条件等を前提とすることが必要不可欠である。
中国の当時の一般的な生活水準と日本の当時の生活水準は,以下のとおりであり,戦時中における日本の一般的な生活水準,労働環境は,全体に
おいて極めて厳しいと評価されるものであったものの,中国の当時の生活環境と比べると決して悪いものではなく,また,被告会社の原告Aら中国人労働者に対する処遇事情は,当時の日本の一般的な生活水準と比較しても何ら劣るものではなかったのであり,被告会社には,原告らが主張するような安全配慮義務違反は生じない。


中国の当時の生活状況について
当時の一般的な農家の献立は,粟,高粱,とうもろこし及び甘藷を常主食とし,ごくまれに小麦,肉類等を食べる程度であった。小麦は,中国において最も多量に生産される作物であるが,高価なため売却して現金化するのが原則で,正月,節句,来客時にマントウ等を作って食べる程度であった。肉類・家禽卵等の畜産物及び米等の高級食物は,節句や冠婚葬祭の行事にわずかに食べるほかは,ほとんど口にすることはなかった。これは中流階級以上の場合であって,貧農の場合は,腹一杯に食べられず飢餓状態に追い込まれる状況であった。食事の回数は,農繁期の体力酷使時にはやむを得ず1日3食をとるが,農閑期には2食にとどめた。
衣類は,普通,綿製品の藍色夏衣と綿入れを持つのみで,それもほとんど使用に耐えなくなるまで継ぎ縫いを続け,新しく衣類を購入することを避けていた。外出着や絹物の衣類を持つのは極めて裕福な者に限られた。
一般的な家屋は,土壁造りであって,半分以上が穀物貯蔵庫・農具庫又は厩舎等として用いられており,狭小な部屋に家族が雑居し,単に雨露しのぎにすぎず,保健衛生状況は極めて悪かった。経営が小さくなれば,家屋の構造もより粗末になり,1棟に2家族も住むような狭さであった。
什器の大部分は農具で,純然たる家具類は極めて少なく,炊事道具も
粗末な茶碗,土器製の鉢,土瓶,包丁など,わずかであった。
保健衛生事情も,上記のような食事,住居事情から,病人が出やすいが,病気の軽いうちに治療することはせず,重くなってから加持祈祷をするか,わずかな売薬を使用する程度であり,多くの者が医療費を出すことができない状態であった。さらに,入浴はもちろん,歯を磨く者もなく,洗濯には石けんを使用せず,便所は庭の肥料溜を兼用し,夏は蝿と蚊が発生し,雨季には非常に不衛生になり,シラミ,南京虫が発生した。
以上のような当時の中国の生活事情に照らせば,被告会社の事業場に就労した原告Aら労働者の処遇事情は,必ずしも劣るものではなく,むしろ中国での生活以上の生活を送っていたということも十分いうことができる。


日本の当時の一般的な生活水準・労働環境について
当時の日本においては,昭和18年の厚生省生活局生活課による調査によれば,ほとんどの世帯で配給米が不足しており,60%の世帯が警察応急米によって不足を補っていた。また,米の節約のため,うどん食,粥食,野菜・馬鈴薯との混食をしていた。
燃料は,162世帯中ガスのない世帯が62世帯あり,薪の十分な配給がないため,ガスのない世帯では燃料事情がより切迫しており,親戚等から薪を分けてもらったり,朝早く起きて道路にコークス殻を拾いに行ったり,炭だけでは足りないので木片を拾いに行ったりする状況であった。
住宅は,室数は二間のものが圧倒的に多く,1人当たりの畳数は2.27畳であった。
多くの世帯で病人が出ており,子供には中耳炎,肺炎が多く発生し,麻疹,眼病等も多かった。入浴回数も,大部分は3日に1回入浴すると
いった程度であった。
労働環境については,軍需生産増強のため,労務管理がますます無視され,労働条件の積極的改悪も進行した。昭和18年6月には,戦時行政特例法に基づく工場法戦時特例及び工場終業時間制限例廃止の件が制定され,これによって成年男子労働者の終業時間制限が撤廃されるとともに,女子工員及び16歳未満の男子工員に対する保護規定が緩和された。鉱山労働者についても,厚生省の鉱夫就業扶助規則によって,鉱山監督局長の許可がある場合には,規定以上に就業時間を延長し,休日を廃し,休憩時間を短縮できることとなった。製造業・鉱業における標準的な就業時間は11時間以上12時間未満であった。
以上のとおり,戦時中における日本の一般的な生活水準及び労働者の労働環境は,全体において極めて厳しいものであり,当時の日本としてはやむを得ないものであった。


槇峰鉱業所における処遇状況について
槇峰鉱業所においては,宿泊施設は県の指示及び他の場所の中国人施設を参考にして設置し,係員が整頓,衛生に留意をして,良好な環境を維持した。1人当たりの畳数は約1畳であった。
暖房は,食堂及び事務室に火鉢を設け,常時中国人労働者に開放していた専用病室にも火鉢を設けた。
被服事情は,全国的物資不足のため十分とはいえなかったが,健康保持・作業遂行の上で支障のない程度の支給をし,一般の日本人・朝鮮人に比べ良好であった。中国人労働者分の衣料切符の発行はなかったが,補修用布糸修理品の調達に努力した。
寝具は,毛布,布団,枕を支給し,その他,雑貨としてちり紙,歯ブラシ,石けん,歯磨粉,手ぬぐいを支給した。
食糧は,おおむね一般の日本人・朝鮮人に比べ良好であり,常に栄養
物の摂取に注意した。退山時には,2,3の例外はあるが,平均2貫目体重が増加しており,他の鉱山の労働者より相当健康的であった。食事に関する不平は聞かれなかったのみならず,むしろ感謝されていた。主食はメリケン粉,粟,米粉,芋類をマントウとし,副食は肉類,魚,野菜,調味料は味噌,醤油,食用油,からし等を用い,主にスープとした。また,食用油,椎茸,にんにく,獣肉臓物等を華労特配として優先配給していた。調理は,中国人労働者の嗜好に対して配慮し,中国人労働者の中から調理経験者を選び,この者が調理をした。
医療衛生事情については,中国人労働者は,受入れ時に既に多数の疥癬,下肢浮腫,栄養失調,胃腸疾患,結核,脚気の患者が見られた。そのため,全員1か月の休養を与え,健康回復に全力を傾けたところ,次第に栄養を回復し,体重が増加した。後半期は,特に健康状態が良好で,日本人・朝鮮人と差がないほどになった。医療衛生施設として,直営の病院があり,医療室を設け,中国人医師《氏名略》に病人を監督させ,日本人医師の指示の下に補助者及び看護婦2名が隔日で宿舎に赴いて治療に当たり,医師は週1回必要の都度,往診治療をしていた。中国人労働者の病室は,病院及び医師宿舎から5分以内の場所にあり,急病患者の治療にも不自由はなかった。槇峰鉱業所に到着した昭和20年2月から同年3月までの間に全死亡者の70%が出たことは誠に遺憾ではあるが,他の者は治療が功を奏し,同年4月以降は死者も少なく,一般的には健康回復がされたといえる。
慰安施設には蓄音機,将棋盤を備え,時折中国人労働者のために特に演芸団を招き,演芸会を開催した。
中国人労働者の生活は,すべて隊組織により自治的に行うようになっており,交渉は隊長に対して通訳を通して行い,意思疎通は比較的良好であった。宿舎においても自治的生活をしており,一般的に明るい宿舎
生活をしていた。作業態度は余り熱心ではないように見受けられたが,これは作業に慣れていなかったからであると思われる。
労働期間中も,終戦後も,紛争事件は発生しなかった。
終戦後,当局の指示により送還の準備をし,昭和20年12月3日に槇峰鉱業所を出発した。15日分の食糧を持たせ,長崎県南風崎針尾浜兵団宿舎で米軍に引き継いだ。その後,同月5日,米国船により出帆,帰国した。送還の際は,中国人労働者の求めに応じ,退山慰労金1人当たり1000円を支給し,国民服上下,布団,毛布,タオル,手ぬぐい,靴下,靴べら等を無償支給し,時計,ラジオ,蓄音機,トランク,竹かご,眼鏡等の購入をあっせんした。
以上のとおり,槇峰鉱業所における中国人労働者の処遇状況は,衣食住どれをとっても,当時,原告Aらが居住していた中国の生活水準に比べ,むしろ良いものであり,当時の日本の一般的な生活水準と比べても,何ら劣るものではなかった。したがって,槇峰鉱業所では,原告Aらの生命・健康を保全・維持するための当時における必要十分な措置が講ぜられていた。
6
消滅時効の成否,時効援用の可否(争点6)について


被告会社の主張

時効期間の経過
原告らが主張する債務不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効期間は民法167条1項により10年と解され(最高裁昭和50年判決),同法
166条1項により,損害賠償請求権を行使し得る時から進行する。したがって,仮に,原告Aらに上記損害賠償請求権が発生したとしても,原告Aらが被告会社の事業所における労務提供を終了した昭和20年8月15日から10年を経過した昭和30年8月15日の経過をもって,又は,遅くとも昭和20年の原告Aら各人が帰国した日から10年を経過した昭
和30年の応当日の経過をもって,時効によって消滅した。

時効援用の意思表示
被告会社は,原告らに対し,平成17年3月4日の本件口頭弁論期日において,上記消滅時効をいずれも援用するとの意思表示をした。


時効援用権の濫用について
日本と中華人民共和国との間の国交が断絶していた間は,原告Aらが権利を行使することが社会通念上著しく困難であったと見る余地はあるとしても,原告らは,その主張するその他の事情を含め,原告Aらを取り囲む社会経済情勢が,権利行使を事実上困難ならしめていたことを主張するにすぎず,権利行使が法的に不可能であったとの事情を主張するものではない。
したがって,原告らの主張によっても,消滅時効の成立を妨げる理由にはならない。



原告らの反論

時効の起算点について


消滅時効の起算点である民法166条1項の規定する権利を行使することができる時とは,単にその権利の行使について法律上の障害がないというだけでなく,さらに権利の性質上,その権利行使が現実に期待できるようになった時であるというのが同項の規定の趣旨である(最高裁判所昭和40年(行ツ)第100号昭和45年7月15日大法廷判決・民集24巻7号771頁)
。そして,当時の客観的状況等に照らし,
その権利行使が現実に期待できないような特段の事情が存する場合には,その間は,消滅時効は進行しないものと解すべきである(最高裁判所平成12年第485号平成15年12月11日第一小法廷判決・民集57巻11号2196頁)

この場合,権利者本人を基準とするのではなく,通常人(一般人)あ
るいは当該権利を主張する者全体を基準とすべきである。また,一般の市民感覚や国民生活に照らして,問題となっている権利について具体的な権利行使の可能性が存することが必要であり,権利の性質を判断するに際しては,権利そのものの性質を直接考慮することはもちろん,被害の発生の仕方や当事者が置かれた状況,証拠の有無などを含む客観的状況などを勘案した上で提訴の可能性を考慮すべきである。その際,勝訴の可能性がほとんど期待できない場合は,権利行使を現実に期待することはできないし,勝訴の可能性がある場合であっても,権利の性質から,当事者に権利行使を期待できない場合がある。
特に,本件のような国際的事件においては,被害者である中国人労働者が権利行使を現実に期待できたかどうかが問題となるのであるから,上記にいう通常人(一般人)とは,日本国内の通常人(一般人)ではなく,被害者である中国国内の通常人(一般人)を基準とすべきである。したがって,その判断にあたっては中国国内の法制度や中国人の一般人の法意識,経済状況など中国国内の客観的事情も十分考慮されなければならない。


公民出国入国管理法施行までの権利行使の可能性
日本と中華人民共和国の間では,昭和47年(1972年)の日中共同声明によって,国交を正常化させることが政治的に明らかにされたが,本格的かつ正常な国家関係の基礎が確立されたのは日中平和友好条約が発効した昭和53年(1978年)10月23日以降であった。
しかし,同条約発効後も,中国の一般市民は海外への渡航の自由が認められていたわけではなく,昭和61年(1986年)2月に公民出国入国管理法が施行されてようやく一般的な旅券申請方式が定められ,中国の一般市民にも海外渡航の道が開かれた。したがって,一般の中国人が日本に渡航することは,中国国内においては,このころまで政治上あ
るいは法律上不可能であった。日本に渡航できなければ日本での訴訟活動はできないことは当然であり,それは原告Aらの個別的事情ではなく,中国と日本の国家間の渡航という一般的,社会的障害によるものである。

公民出国入国管理法施行後の権利行使の可能性
しかし,昭和61年2月以降においても,依然として,以下のとおり,中国人被害者が本件損害賠償請求権の行使を現実に期待できないような特段の事情が存在した。これらの事情は,いずれも中国人被害者の個別事情ではなく,すべての被害者に共通する一般的・客観的な事情,障害であり,総合的に見て,権利行使を期待できない特段の事情に当たる。a
中国における法整備状況と法意識
中国では,昭和31年(1956年)以降社会主義国家となり,所有権観念が否定され,公民である個人が,私的な利益に基づき他者に損害賠償を請求すること自体否定されていた。同国においては,人民公社制度が廃止され,個人所有が認められたのは,昭和59年(1984年)のことであり,民法通則が制定され,個人的利益に基づく請求権が法的に確立し,訴訟手続を行う律師の制度が復活したのは,昭和62年(1987年)のことであった。
さらに,本件は,中国人被害者が日常の紛争を自国の裁判所で裁判するというのではなく,中国人被害者が異国で,かつ過去敵国であった日本の国及び企業を相手に,戦時中の行為によって生じた被害の賠償を求めるという極めて特殊な国際的事件であるから,原告らが権利行使を現実に行うことが期待できるようになるには中国の弁護士と日本の弁護士との協力が不可欠な要素であるが,一般市民が弁護士にアクセスできるようになったのは,北京市でいえば公設事務所が設立された平成3年(1991年)ころからである。
中国の一般人を基準にしても,このような私的所有観念が最近まで
否定されていた法制度下においては,個人による損害賠償請求権を行使するという法意識そのものがないのであり,加えて,法的援助をする弁護士が未整備な状態では権利行使を行うことの現実的な期待可能性がない。そして,こうした客観的障害はすべて日本軍及び日本政府が原告Aらを日本国内での強制労働のために中国から日本国本土に連行し,戦後は被告国が原告Aらを中国へ送還したことから生じた障害である。公民出国入国管理法が発効したというだけでは権利行使の現実的期待可能性はなかった。

社会的・政治的状況
平成3年(1991年)3月に行われた第7期全国人民代表大会第4会議において,科学工業部幹部管理学院法学部教員童増が,

日本国が戦争の過程において戦争規則及び人道上の原則に違反し,中国人民及びその財産に対して犯した重大な罪業に関する賠償請求については,中国政府はいかなる状況においても放棄するとは宣言していない。

とする意見書を提出した。しかし,平成4年(1992年)4月,江沢民国家主席は,日中戦争時の民間被害について日本に対して賠償を求める動きが中国で浮上している問題に関し,童増の意見に直接には触れず,対日関係に配慮した発言をした。中国では,民間の市民運動も自由な政治的言論も許されない社会状況が続いていたのであり,一般国民が外交問題に発展しかねないデリケートな問題について,中国政府の意向を配慮せずに訴訟を起こすなどの具体的な権利行使を行うことは期待できなかったのである。
その後,平成7年(1995年)3月7日,全国人民代表大会において,銭其琛外相が,対日戦争賠償問題について,日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって個人の賠償請求は含まないとの見解
を示し,補償の請求は国民の権利であり,政府は干渉すべきではないと述べた。これによって,中国人被害者が日本国政府と企業を相手方とする訴訟を提起する社会的・政治的条件の一つが整い,権利行使の現実的期待可能性が高まったのである。

渡航の困難性
公民出国入国管理法が施行されたからといって,私事による出国について何らの制限がなく旅券の発給を受けることができたわけではない。
同法が施行された昭和61年(1986年)当時,中国政府は,個人が自由に戦争被害の賠償請求権を行使することを国家としては容認していなかった。日中国交回復に伴う日本からの援助で近代化を進めていた中国政府は,対日関係に慎重な配慮をしていた。日本政府や企業に対して戦争被害の損害賠償請求の訴訟を行うことは,対日関係に配慮していた中国政府の外交政策を批判するものとみなされていた。中国国内の政治状況を踏まえると,中国の一般国民が日本に対して提訴するために出国を申請すること自体が考えらないことであるが,仮に,その申請をしたとしても,国家の利益に重大な損失をもたらすおそれがあるとの理由によって申請が許可されなかったのである。平成7年(1995年)3月の銭其琛外相の発言までは,原告らが提訴を目的として日本国へ出国することは政治的,制度的に不可能であったのである。
さらに,旅券の発給を受けるためには,旅行に必要な外貨費用証明が要件となっており,原告らのような高齢で,地方在住の,農業を営む一般の者には,到底高額な渡航費用を負担できなかった。このような経済的事情は,単なる被害者個人の事実上の障害ではなく,中国人被害者ら全体に共通した客観的障害であり,法律上の障害に準ずるも
のである。
中国国民が私事による出国について中国政府の旅券の発給を受けることができても,日本政府が入国査証を発給しなければ,日本に入国することができないことはいうまでもない。入国査証取得には,日本に居住する身元引受人(招聘保証人)が必要であり,また身元引受人が査証申請人に対し,招聘保証書,滞在予定表,身元保証人に関する証明書等の必要書類を送付しなければならない。招聘した中国人の日本国内での滞在費及び帰国費を負担する経済的能力があるかどうかの審査のために,身元引受人の納税証明書(所得証明書)を提出する必要がある。渡航費用も捻出できない原告らの収入状況では,入国から帰国までの滞在費及び帰国費を必要に応じて負担するつもりがなければ招聘人にはなれない。
したがって,日本の弁護士や支援者とのアクセスが全くなかった原告らが,昭和61年2月の時点において,日本の査証を取得することは事実上不可能であったのである。

日本の弁護士等による支援の困難性
中国にいる原告らが権利を行使する上で,同人らが日本に渡航してくることだけではなく,日本の弁護士が中国に渡航して訴訟を受任することも考えられる。また,原告らが裁判のために来日するためには,日本の身元引受人を探す必要がある。そのためには,日本の弁護士や支援者が中国に渡航して原告らと会う必要がある。
中国では,昭和61年(1986年)2月1日,外国人入国出国管理法が施行されたが,同法及び同法実施細則によれば,外国人は,入国,通過及び中国国内居住に際し,中国政府主管機関の許可を受けなければならないとされ,入国に際し中国の国家安全及び利益に危害をもたらすその他の活動をするおそれがあると認められる者については
入国を許可しないとされる。
日本政府や企業を相手方とする戦後補償請求は,平成7年3月の銭其琛外相の発言までは日中関係を悪化させるものと考えられてきた。そのため,訴訟を進める活動を行うために入国することは,中国の利益に危害をもたらす活動をするおそれがあるとの理由で許されなかったといえる。
したがって,日本の弁護士が中国に渡航して原告らから訴訟の委任を受けることは,平成7年3月以降でなければ不可能であった。

原告らの経済的実情
原告らはいずれも高齢のため無収入である。また,日本に強制連行され,過酷な強制労働をさせられたことにより,心身ともに深い傷害を負い,戦後中国に帰国した後も,経済的な回復も遅れ,著しく厳しい生活を強いられた。
また,一般的に見ても,平成7年(1995年)当時の農村家庭の1人当たりの純収入は月額131.47元(1元16円で2103円)
,平成14年(2002年)当時でもその純収入は月額206.
33元(1元16円で3301円)でしかなく,郷里から北京までの旅費,日本への渡航旅費,日本での滞在費等を捻出することはおよそ不可能であり,この点から見ても原告らの権利行使は事実上不可能であった。
本件訴訟では,原告らの日本への渡航費,滞在費,弁護団の中国への渡航費,滞在費等はすべて弁護団及び日本の支援者の資金援助によって賄われている。
そして,この経済的事情は,単なる被害者個人の事実上の障害ではなく,中国人被害者ら全体に共通した客観的障害であり,法律上の障害に準ずるものである。

したがって,上記のような原告らに対する経済的な支援体制が整うまでは,現実問題として原告らが日本の裁判所に本件訴訟を提起することはできなかったのである。

証拠の不存在
原告Aらは日本軍に突然,身柄を拘束され,船で日本に送られてきたのであり,強制連行・強制労働の正確な事実関係やその全体像を知ることは不可能であった。また,中国政府も,戦後の混乱期もあって強制連行・強制労働に関する客観的かつ正確な資料を有していなかった。
提訴の可能性にようやく光明が見えたのは,平成5年5月17日の報道によって,外務省報告書と事業場報告書などの資料の存在が明らかになって一般に公開されてからであって,これらの資料の存在は,原告らが日本で提訴するための前提条件であったといえる。これらの資料によって,初めて本件強制連行・強制労働についての被告国や被告会社の関与の形態,役割分担などが明らかになったのであり,賠償義務者が誰であるのかも明らかになった。つまり,これらの資料は,原告らが権利を行使するために不可欠の証拠であり,権利行使の必要条件ともいうべきものであった。
ただし,外務省報告書に記載されているのは,強制連行・強制労働を行った経緯,被告国や被告会社の関与の形態,強制連行・強制労働された人数等の統計上の数字などであって,これによって強制連行・強制労働の全体像が分かるものの,誰が,どこの事業所に強制連行され,いつからいつまで強制労働させられたのかという被害立証に不可欠の情報は記載されていない。これらは,事業場報告書に記載されているものであり,原告らの権利行使には同報告書が必要不可欠であった。

しかし,被告会社の槇峰鉱業所の事業場報告書は,平成5年5月17日に明らかになった事業場報告書には含まれていなかった。福岡高等裁判所における訴訟の中で外務省に残っていることが明らかになったことから,公開請求を行い,それにより出された文書の中に槇峰鉱業所の事業場報告書が存在したものであり,その報告書を原告弁護団,支援者,原告らが手元に入手したのは平成15年9月である。そしてその名簿等をもとに原告らとの連絡をはじめ中国の弁護士の協力体制ができ,宮崎での弁護団体制ができて中国に渡り原告らと面談した平成16年4月に至り,具体的,現実的に原告らの権利行使が可能となったのである。


まとめ
以上によれば,原告らにおいて現実的に権利行使が期待できるようになったのは,平成7年3月の銭其琛の発言の後,平成15年9月に事業場報告書が入手できた時であり,さらに日中の弁護士による支援協力体制ができた平成16年4月の時点でようやく現実に権利行使が可能となったというべきであり,この時点を安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求の消滅時効の起算点と見るべきである。


時効援用権の濫用
本件において,仮に消滅時効が完成しているように見えても,当事者間の信義則あるいは権利濫用の観点から,消滅時効の援用は許されない。すなわち,債務者側が債権者の権利行使を妨げるような行為に出た場合など,債務者側に帰責事由があるときに限らず,債務発生に至る債務者の行為の内容や結果,債権者と債務者の社会的・経済的地位や能力,その他当該事案における諸般の事実関係に照らして,時効期間の経過を理由に債権を消滅させることが,著しく正義・公平・条理等に反すると認めるべき特段の事情があり,かつ,援用権を行使させないことによって時効制度の
目的に著しく反する事情がない場合には,時効の援用は認められない。そうしたところ,本件においては,以下のような事情がある。


被告らの一体性
本件強制連行・強制労働は,ひとり被告国のみ,あるいは,被告会社のみにおいて,立案・実行されたものではなく,被告らが一体となって準備・実行されたものである。
前記第3の1イのとおり,北海道土木工業連合会,土木工業協会,石炭鉱業連合会及び金属鉱業連合会が日本政府に対し中国人労働者の移入を要請し,これらを受けて,被告国は昭和17年閣議決定を行った。また,華北労働事情視察団には,企画院,内務省,大東亜省,商工省,運輸省の官側関係者と,石炭,鉱山,土建,港運の各統制団体の担当者が同行し,その結果,昭和18年4月から試験移入が,さらに昭和19年以降は本格移入が始まった。
厚生省は,事業主からの生産目標達成に必要な計画人員の届出と事業主からの華人労務者移入雇用願に基づき,中国人労働者の事業主への割当てを決定した。
また,被告国による中国人労働者の日本への連行あるいは事業場への連行に際しては,被告会社の従業員が引渡しを受け,あるいは同行した。被告会社は,原告Aらに対して事実上の雇用主の地位に立っていたが,被告国も,就労条件や取扱基準を定め原告Aらの就労を規定するとともに,被告会社に対して目標量の生産,事業に関する命令を行うとともに,各事業場の管理に当たり,また,そこで働く労働者の労働に関し,被告会社に命じて従業規則を作成させ,労務管理官による生産,事業確保のための指揮命令をこれらの事業所に対して行なった。また,県当局や警察を通じて,具体的な就労に関与した。
このように,被告国と被告会社との一体性は,顕著である。



加害行為の悪質性
本件は,銃剣や詐言で原告Aらを拘束し家族と引き離して,各事業所まで強制連行するという非人道的なものであるが,各事業場での就労や取扱いも過酷かつ非人道的なものであった。
また,被告らは,終戦後,原告Aらに対する未払賃金の支給や衣食,必要物資の給与,帰郷のための費用支給を含む帰還のための措置の保障,傷病に対する手当てや補償,強制連行・強制労働という犯罪行為に対する慰謝の措置,強制連行によって破壊された生活関係の修復のための費用や措置の保障などを行うべき義務があったのに,これを履行することなく原告Aらを中国に送還した。
支払われたとされる賃金やいわゆる持帰金は,原告Aらには支払われなかったばかりか,被告会社は,被告国に対してこの賃金を支払ったとの損失届出を行って,その後国から巨額の損失補償を受け取った。そして,原告Aらは,その後本件訴訟提起に至るまでの間,何らの手がかりもなく,その権利が救済されないままに放置されてきたのである。


権利行使の困難性
原告らは,前記アのとおり,ごく最近まで,権利行使をするための条件が備わっていなかった。



被告らによる証拠隠滅と改ざん
被告らは,もともと,連行した中国人労働者に関する膨大な資料を保有していた。
そして,原告Aら中国人被害者が国や企業に対して損害賠償請求権を行使するためには,強制連行・強制労働の実態を知ること,そしてこれを裏づける資料を入手検討することが必要不可欠であった。
ところが,被告国は,自ら保有する機密文書を焼却するだけでなく,市町村や衆議院などの管轄外の官庁や新聞社など民間機関へも指示し,
被告会社ら企業にも,戦時中の中国人及び朝鮮人に関する統計資料訓令その他重要書類の焼却を命じ,これを受けて被告会社はこれらの文書,資料を焼却・廃棄してしまった。
なお,戦犯裁判を統括する立場にあったGHQなど連合軍側は,再三にわたって公文書やその写し,焼却の事情などの提出を日本政府に求めるとともに,政府と軍による公文書焼却についての本格的な調査を行ったが,日本側の高級軍人や官僚は,重要文書を組織的に,あるいは私的に隠匿・保管していたにもかかわらず,連合軍側の調査に対しては,書類は焼却したとの虚偽の回答をするなどして,その追及を免れてきた。さらに,外務省は,連合国側,特に中国からの戦犯追及を恐れ,これに備えるため,全国135事業場が作成した事業場報告書を基礎に,外務省報告書を作成した。しかし,事業場報告書,外務省報告書ともに,被告らの責任を回避するために虚偽の事実が記載されている。
この外務省報告書も,その後,中国人の強制連行・強制労働問題に対する戦犯追及が花岡事件を含む2件だけに終息したことから,同報告書が戦犯関係資料として使われ,官民双方の関係者に波及するおそれがあるとの理由で,昭和22年ころ焼却された。
その後,被告国は,外務省報告書の存在のみならず,強制連行・強制労働という歴史的事実すら否定し続けてきた。


強制労働による被告会社の利益
中国人労働者は,戦時下の労働力不足を補う目的で,被告会社ら企業の各事業場へ動員され,強制労働に従事させられた。この間も,被告会社は,銅,鉄鉱石などの生産量を維持することができるなど,多大な利益を得ている。しかも,それを基礎として,被告会社は,戦後更なる発展を遂げているのであって,極度の人員不足にもかかわらず政府から増産や建設を求められる中で労働を担った原告Aら中国人労働者が被告会
社ら企業に与えた利益の大きさは計り知れない。
他方で,被告会社は,前記3ウcのとおり,被告国から巨額の補償金を得ている。


国際人道法違反等
前記3オのとおり,本件は,国際人道法に違反した行為による被害であり,時効という時の経過をもって加害者を免責することは許されない。
なお,戦争被害の個人補償の問題は,戦後50年を経て新しい世界の体制を迎えて,ごく最近に問題提起された事柄にほかならない。すなわち,本件強制連行・強制労働の問題は,50年以上前の問題のように思えるが,実は最新の,最先端で起きている問題である。



まとめ
本件においては,被告会社は,被告国と一体となって,原告Aらの強制連行・強制労働を立案・実行し,かつ,安全配慮義務に反してそれぞれの事業所で就労させ,非人道的な待遇によって過酷な労働を強いたこと,しかも,被害者らに対し何らの弁償も補償もしなかったこと,送還された被害者らは,本件強制連行・強制労働により精神的にも肉体的にも破壊され,また,日本に協力したとして中国国内で冷遇・虐待され,結果的に長期間にわたって経済的に困窮したこと,被告らは,保有する書類や資料を,自らの責任を免れるために共同で廃棄し,また,唯一の証拠といってよい,わずかに残っている外務省報告書および事業場報告書においてすら虚偽の事実を記載して自らの罪責を転嫁しようとし,強制連行・強制労働の事実自体を否認して,原告らの訴訟提起を困難にさせたこと,被告らは,自らの罪跡を免れるために故意にあらゆる証拠書類を焼却・廃棄したものであって,被告らには反証が困難であるにしろ,この点を甘受しなければならない面があること,原告らは権利の上に眠
ってきた者とはいえないこと,被害者本人らが重大な被害を受けその後も種々の苦痛を受け続けたのに対し,被告会社は国家補償金の取得により一定の利益を得たことなどの諸事情が存し,本件においては,時効の援用を許さなければ,時効制度の目的に著しく反するという事情はない上,時効期間の徒過を理由に権利を消滅させることが,著しく正義・公平・条理等に反すると認めるべき特段の事情が認められるから,被告会社に,消滅時効を援用して,損害賠償義務を免れさせることは,著しく正義に反し,条理にももとる。したがって,被告会社の消滅時効の援用は権利の濫用として許されない。
7
戦後における原状回復義務違反の不法行為ないし保護義務違反の債務不履行の成否(争点7)について


原告らの主張

原状回復義務ないし保護義務の発生
昭和20年8月14日,日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏し,同年9月2日降伏文書に調印したことにより,被告らは,直ちに強制連行・強制労働を終了させるとともに,原告Aらの被害のすべてを原状回復させる義務が発生した。


雇用契約ないし雇用契約に準ずる関係に基づく保護義務
原告Aら中国人労働者に対する強制連行・強制労働は,これを定めた昭和17年閣議決定及び昭和19年次官会議決定によれば,少なくとも制度上は,原告Aら中国人労働者を被告会社等の企業との間に雇用契約を結んだ労働者として処遇することになっていた。また,日本政府は,戦後,外務省報告書の存在が公になった平成5年まで,中国人労働者の日本への移入はあくまで中国人の自由な意思による雇用契約に基づくものであったと,国会において一貫して答弁してきた。また,被告会社も,原告Aら中国人労働者を,雇用契約に基づく労働者として,賃金等を支
給することとしていた。
したがって,被告国は,原告Aら中国人労働者を,雇用契約上の労働者として募集に当たり,募集者として被告会社の鉱山に配置し,鉱山労働に就かせて,国策目的による軍需生産に当たらせた法律関係,昭和19年4月に被告会社等の企業を軍需会社に指定した後,そこで働く原告Aら中国人労働者を国家要員と位置付けて軍需生産を行わせた軍需会社法上の法律関係,並びに,戦後,日本がポツダム宣言を受諾したことによる連合国,日本政府,被抑留連合国民三者間の法律関係に基づき,信義則上,原告Aらを保護し,連行前の原状に回復すべき法的義務を負った。
また,被告会社も,被告国と共同して原告Aら中国人労働者を軍需生産に当たらせた雇用主の立場から,信義則上,被告国と連帯して原告Aらを保護し,連行前の原状に回復すべき法的義務を負った。


先行行為に基づく保護義務
被告国は,ポツダム宣言受諾及び降伏文書調印に伴い,軍国主義の一掃と戦争犯罪人の厳重処罰,俘虜・被抑留者の解放,保護,手当,給養,送還等の法的義務を負った。
仮に,明治憲法の下での国家無答責の法理を認めるとしても,ポツダム宣言を受諾し,国家賠償制度を定めた日本国憲法を制定した戦後の日本においては,国が自ら犯した強制連行・強制労働という犯罪行為によって生じた原告Aら中国人労働者の被害に対して,その損害の回復を図ることを拒否することはできないというべきである。


原状回復義務ないし保護義務の内容
被告らは,まず,原告Aらが受けた深刻な肉体的・精神的被害を回復するために,強制連行・強制労働の事実を認めて,原告Aらを始めとする中国人労働者に対して謝罪し,相当の慰謝料を支払うとともに,暴行・虐待
や労働災害によって後遺障害を負った者に対して補償をする義務を負った。また,原告Aらの財産的損害を回復するために,長期にわたる過酷な労働に見合う十分な賃金を時価換算して支払い,暴行・虐待や労働災害によって後遺障害を負った者に対しては逸失利益についての生活補償金を支給し,中国に残され働き手を失った原告Aらの家族に対して,失われた生計を時価換算して補償する義務を負った。
さらに,被告らが戦後一貫して強制連行の事実を否定し続けた結果,原告Aらは,戦時下に敵国日本へ働きに出ていた者との誤解を受け,帰国後,故郷で白い目で見られ,中には迫害を受けた者もいたのであるから,このような差別や迫害の被害を回復するためには,被告らが自ら強制連行・強制労働の真実を明らかにし,これを対外的に公表することによって,原告Aらの名誉を回復することが必要である。

原状回復義務ないし保護義務違反
しかしながら,被告らは,就労中のけがや病気,虐待による負傷等により行動自体が不自由な者に対する治療や手当てすら行うことなく,原告Aらを,それぞれの故郷ではなく,塘沽に送還したのみで,それ以外の原状回復義務の履行については,すべて怠って現在に至っている。
また,被告国は,連合国からの戦犯追及をかわすため,中国人労働者を送還するに際し,持帰金という形で賃金を支払ったことにするため,持帰金についての基準を定めた。ところが,原告Aらに渡されるはずであった持帰金は,原告Aらの手に渡ることはなかった。
したがって,被告らは,民法415条,709条,715条,719条に基づき,原告らに対し,連帯して,原状回復義務違反又は保護義務違反による損害賠償責任を負う。



被告国の反論

募集等の法律関係に基づく保護義務の主張について

募集等の法律関係に基づく保護義務についての原告らの主張は,前記5の特別な社会的接触に基づいて,被告国が,戦後においても原告Aらを保護すべき安全配慮義務を負担すると主張するものにすぎない。
被告国と原告Aらとの間に,安全配慮義務の成立の前提となる特別な社会的接触を認めることができないことは前記5のとおりであるから,同様の理由で,戦後における保護義務も認めることはできない。
また,仮に,安全配慮義務を観念するとしても,安全配慮義務は信義則に根拠を置くものであり,その信義則は事件当時の信義則にほかならないから,その内容を認定するに当たっては,敗戦国である日本の社会,経済情勢,技術水準等,当時の諸般の事情を踏まえ,個々の原告ごとの状況を具体的に検討し,当時,日本が信義則上何らかの具体的な対応が容易であり,これを行うことが原告Aら個々人に対して,法的な義務として想定される程度のものであったかが検討されなければならない。
原告らが主張する義務内容は,終戦直後の敗戦国の混乱状況の下における事情を十分検討したものではなく,当時の安全配慮義務に係る主張として失当である。

先行行為に基づく保護義務の主張について
原告らは,強制連行・強制労働があったことから,被告国において,直ちに既発生の法益侵害状態を回復するための原状回復義務が発生すると主張しているにすぎず,なぜ原告らの主張する義務が発生するのか,またなぜそのように一義的な義務になるのかについて,何らその根拠を示していないから,主張自体失当である。
また,被告国の公務員に,原告らが主張するような作為義務を課す法の明文規定はなく,また,かかる作為義務が法令の解釈によって一義的に決まることもない。このような場合,被告国は,公務員の不作為に対し,政治責任を負うにとどまり,国民は,選挙や言論を通じて国政担当者の責任
を問い得るにすぎず,政治責任が法律上の責任に転化することはあり得ない。
そもそも,原告らの損害賠償請求が認められるためには,国賠法上の作為義務が認められる必要があるが,原告らが主張する先行行為当時には国賠法は施行されておらず,国賠法上の作為義務を発生させる余地はない。国賠法施行前になされた先行行為は違法ではなかったにもかかわらず,国賠法施行後,突如として先行行為に基づいて発生した危険を除去しないという不作為が違法な公権力の行使となるというのは,奇異である。ウ
除斥期間
仮に,原告Aらに,先行行為に基づいて損害賠償請求権が発生したとしても,原告らの請求は,その主張する加害行為(被告国の戦前の違法な国家政策が実施された時)から20年が経過した後にされたものであり,その主張する損害の全部又は一部が発生した時からも20年が経過しているから,除斥期間の経過によって既に消滅している。



被告会社の反論
仮に,原告Aらに,原状回復義務違反の不法行為に基づく損害賠償請求権が発生したとしても,原告Aらが被告会社の事業所における労務提供を終了した昭和20年8月15日から20年を経過した昭和40年8月15日の経過をもって,又は,遅くとも昭和20年の原告Aら各人が帰国した日から20年の経過をもって,除斥期間が経過したものである。
また,仮に,原告Aらに,保護義務違反の債務不履行に基づく損害賠償請求権が発生したとしても,上記の労務提供終了又は帰国の日から10年の経過によって消滅時効が完成しており,被告会社は,原告らに対し,平成17年3月4日の本件口頭弁論期日において,上記消滅時効を援用するとの意思表示をした。

8
戦後における犯罪行為隠滅,提訴妨害の不法行為の成否(争点8)について


原告らの主張
強制労働禁止条約25条は,
強制労働ノ不法ナル強要ハ刑事犯罪トシテ処罰セラルベク又法令ニ依リ科セラルル刑罰ガ真ニ適当ニシテ且厳格ニ実施セラルルコトヲ確保スルコトハ本条約ヲ批准スル締約国ノ義務タルベシと定めている。しかるに,被告国は,原告Aらに対し強制労働を強要した被告会社をはじめとする関係者に対し何らの刑事制裁措置もとっておらず,今日に至るもその義務を履行していない。
さらに,被告らは,前記のとおり共同して実行した犯罪行為の被害者であった原告Aらに対する原状回復義務を履行するどころか,逆に,共同して本件強制連行・強制労働に係る証拠資料一切を隠滅し,国会において前述のとおり虚偽の答弁を繰り返し,調査活動を妨害してきた。
すなわち,被告国は,本件強制連行・強制労働が,戦犯事案として追及されることを予想し,連合国側,特に中国調査団への説明に備えるべく,本件強制連行・強制労働の実情を調査し,中国人労働者に対する殺人や虐待といった真相を覆い隠す内容の外務省報告書を作成した。また,被告国は,昭和20年8月16日,戦時中の中国人及び朝鮮人に関する統計資料,訓令その他の重要書類を焼き,中国人労働者の遺骨を収集し寺院に委託して秘匿するなどして,本件強制連行・強制労働の証拠資料を積極的に隠滅した。さらに,被告国の閣僚及び政府委員らは,戦後一貫して外務省報告書の存在を否定し続け,外務省報告書の存在が明らかになっても,本件強制連行・強制労働については半強制というあいまいな表現の答弁に終始し,公的な場において本件強制連行・強制労働の存在を否定し,上記の刑事制裁義務に違反してきた。
こうした被告らにおける上記義務違反行為の継続と無反省な態度自体が,被告らの犯罪行為により被った重大な苦痛と困難を長年月にわたり引きずりながら,何らの慰謝もされることなく年老いていく原告らに対し,今もなお
精神的苦痛を加え続けている。
被告らの戦後におけるこれら一連の行為は,自己の犯罪行為を隠滅する不法行為であるとともに,原告らがその損害賠償請求権を行使することを積極的に妨害するものであるから,原告らに対する新たな不法行為と評価しなければならない。
したがって,被告らは,民法709条,719条により,原告らに対し,連帯して,損害賠償責任を負う。


被告国の反論
強制労働禁止条約によって国が負担する義務は,相手方である締約国に対する国際法上の義務であって,被害者個人に対して負担する義務ではないから,仮に,被告国に原告らの主張するような刑事制裁措置を取らなかった義務違反があったとしても,原告らの権利ないし利益を害するものではなく,不法行為とはならない。
また,原告らが新たな不法行為と評価しなければならないと主張する犯罪行為隠滅・提訴妨害の不法行為については,それが国賠法施行後の公務員の行為を対象として損害賠償を求めるのであれば,国賠法施行後は,公務員の公権力の行使に基づく損害賠償は国賠法の適用領域であり,民法の適用はないから,民法を根拠とする原告らの主張は失当である。
仮に,原告らの請求が国賠法1条1項に基づくものであったとしても,同条同項にいう違法とは,公務員が個別の国民に対し負担する職務上の法的義務に違背することをいうが,このような職務上の義務を発生させる法的根拠は存在しない。そもそも,原告Aらには,被告に対し損害賠償等を請求する法的権利が存在しないのであるから,被告国が原告Aらの損害賠償請求権の行使を積極的に妨害したということはあり得ない。
以上の点をおくとしても,不法行為に基づく損害賠償請求権は,前述のとおり,除斥期間により消滅している。



被告会社の反論
原告らの主張は争う。

9
損害(争点9)について


原告らの主張

原告Aらの多くは山東省の農民で,農業に従事していたところ,ある日突然異国の軍隊の銃剣の下に暴力的に拉致され,あるいは異国の軍隊の手先たちによってだまされ,収容施設に連行された。そして,愛する妻子や親,兄弟と別れるいとまも与えられないまま引き裂かれ,ついには愛する祖国を侵略している敵国に家畜のように連行され,湿気の多い鉱山の坑道で,まるで牛馬のように重筋労働に就かされた。被告らは,自らが進めた侵略戦争が敗戦に終わるその日まで,原告Aらを奴隷同然に扱い,酷使し続けた。
この強制連行・強制労働それ自体に対する原告Aらの怒りや悔しさ,悲しさがどれほど大きいものであるかは,その立場に自らを置き換えてみれば容易に想像がつく。
特にここで考えなければならないことは,愛する祖国からその敵国に連行されて,最愛の妻子や親兄弟を侵略する側の生産活動に従事させられたということの精神的被害の深刻さである。原告Aらは,戦後祖国へ帰ってから現在まで,敵国で侵略戦争のための生産に携わったという,重大な負い目を背負って生活してきた。こうした状況を振り返ってみれば,原告Aらに対する強制連行・強制労働事件は,日本の敗戦をもって終了したとは到底いえず,今もなお原告Aらの怒りや悔しさ,悲しさを増大させ続けている。


以上のような原告Aらの被害の大きさ及び被害の特殊性を考慮するなら,被告らは,まず,原告Aら強制連行・強制労働被害者に誠意ある謝罪を行い,原告Aらの苦痛に対する慰謝の措置を講ずるとともに,金銭賠償によ
る償いを行うべきは当然である。
原告Aらの受けた精神的損害を金銭に見積もると,誠意ある謝罪がなされることを前提にしても,それぞれ2000万円を下らない。
弁護士費用としては,本件が国際関係にわたり,かつ歴史性を帯びたものであることにかんがみれば,それぞれ慰謝料額の15%に当たる300万円が相当である。
なお,原告H1,原告H2,原告H3,原告H4,原告H5及び原告H6については,それぞれ相続分6分の1の範囲内で383万円を請求する。

被告らの反論
争う。

第6

当裁判所の判断

1
強制連行・強制労働の事実の有無(争点1)について


中国人労働者移入の全体像(認定事実その1)
前記第3の1,に加えて,文中ないし各段落末尾に掲げる証拠によれば,以下の事実が認められる。

中国人労働者の供出


供出機関
昭和17年閣議決定及び昭和19年次官会議決定は,中国人労働者の募集及びあっせんには,華北労工協会が,日本大使館及び現地軍とともに当たることとした。そして,昭和17年閣議決定及び昭和19年次官会議決定に基づき,試験移入及び本格移入として,昭和18年4月から昭和20年5月までの間に,華北地域から3万5778人,華中地域から2137人,満州から1020人,合計3万8935名の中国人労働者が日本国内に移入されたが,そのうち3万4717人は華北労工協会が扱ったものであった(甲1〔213頁,217頁,246頁,255頁〕。


一方,日本(軍)は,昭和15年3月12日,日本軍が占領した南京に新国民政府汪政権を樹立する(いわゆる傀儡政権)とともに,華北地区における同政権の地方組織として,新国民政府の委託を受けて対外関係を処理する権限を有する華北政務委員会を発足させた。そして,華北政務委員会は,昭和16年7月,日本の国策会社である北支那開発株式会社と折半で共同出資して半官半民の組織である華北労工協会を設立した。華北労工協会は,華北における労働者の募集,日本に対する供給等を行うこと,すなわち,華北も参戦の実を挙げるべく,各機関と緊密な連携の下に組織的・計画的に労工供出体制を確立して,共栄圏内重要産業に対し円滑な労力の供出を図ることを目的とする機関であり,その設立準備には,日本現地軍及び興亜院が当たった。華北労工協会の理事長は中国人であったが,それ以外の幹部職は日本人が占め,職員の多くも日本人であった。また,華北労工協会は,華北政務委員会及びその他一般の寄附に係る基金を基本財産にし,同委員会が補助金も出すことになっており,さらに,華北労工協会の各地の機関は,各地の日本陸軍特務機関内に置かれた労力統制委員会ないし労務統制委員会の指導を受ける関係にあった(甲8,甲106〔81頁ないし86頁〕
,甲110〔4
24頁,427頁,428頁〕
,甲111の1,2,甲113,甲11
4,甲115〔21項ないし24項〕
,甲116〔6頁ないし20頁〕

証人J〔9項ないし40項〕。



供出方法
中国人労働者の供出方法には,行政供出,訓練生供出,自由募集及び特別供出の4方法があった。行政供出とは,華北政務委員会が,行政命令により,各省,道,県,郷村へと,上部組織から下部組織に至るまで供出人数を割り当て,各組織はその責任において人員を供出するというもの,訓練生供出とは,日本現地軍が作戦によって得た俘虜,帰順兵及
び釈放された微罪者を華北労工協会において引き受けて訓練したもの,自由募集とは,条件を示して希望者を募るもの,特別供出とは,荷役,造船等の経験を有する半熟練工を供出したものであった。華北労工協会の扱った3万4717人の中国人労働者のうち,1万0667人は訓練生供出,2万4050人は行政供出によるものであった(甲1〔215頁ないし217頁〕
,甲110〔424頁,425頁〕。



行政供出の実態
昭和19年度国民動員計画に関する閣議決定がなされた昭和19年8月,華北政務委員会は,同月から昭和20年3月までの間,河北省,山東省,河南省及び淮海省において,華北内,日本,満州及びモンゴルに向けて総計20万人(うち対日供出は5万人)の全面的な行政供出を行うとの戦時重要労働力緊急動員対策要綱を作成し,下部行政組織に対し,現地日本軍,日本大使館等の関係機関と協議して同計画を実行することを命じた。これを受けて,特別市や道には,その行政長官を本部長とする動員本部が設けられた(甲1〔220頁,221頁〕
,甲11
0〔424頁,425頁〕
,甲112,甲118〔731頁ないし73
4頁〕。

しかしながら,行政供出は,他の供出方法と比べ,体力の点でも労働意欲の点でも最も劣っており,昭和17年閣議決定ではおおむね40歳以下の男子で心身健全な者を対象とすることとされ,昭和19年次官会議決定においてもなるべく30歳以下の独身男子を優先的に選抜するよう努力することとされていたのに,実際に行政供出によって供出された中国人労働者の年齢は,最低11歳から最高78歳まで大きな幅があり,40歳以上の中年者・老年者の比率が約22%と高かった(甲1〔221頁,222頁,246頁,255頁,256頁〕。

それにもかかわらず多くを行政供出によらざるを得なかったのは,本
格移入が始まった昭和19年2月ころには他の供出方法による供出が限界に達していたからであった(甲1〔221頁〕。


事業所への配置及び輸送
昭和17年閣議決定及び昭和19年次官会議決定は,移入した中国人労働者を,鉱業,国防土木建築業等の重要産業に使用することとした(甲1〔245頁,256頁〕。

また,昭和19年次官会議決定によれば,中国人労働者を使用する事業場の決定については,関係庁と協議の上,厚生省が選定することとされた。具体的には,厚生省が事業主に対して移入・雇用人数の割当て予定を通知し,通知を受けた事業主は華人労務者移入雇用願を提出することとされ,厚生省の割当てがなくても,事業主が中国人労働者の移入・雇用を希望するときは,同様に移入雇用願を提出することとされた(甲1〔257頁,261頁,262頁〕。

さらに,厚生省が上記のとおり割当てを決定したときは,大東亜省に通知し,大東亜省は中国人労働者の引継ぎ・輸送の日を決定して厚生省に通知することとされた。輸送には,日本・満州・中国の関係機関が当たることとされた(甲1〔259頁,262頁〕。

中国人労働者が就業地に到着したときは,事業主は,地方長官宛に労働許可証申請の手続をし,国民職業指導所に,労働者の出身地,氏名,年齢を記載した名簿を添付して輸送の概況を報告することとされた。また,事業主は,毎月,国民職業指導所に中国人労働者の勤労状況を報告することとされていた。これらの報告は,庁府県を通じて厚生省や大東亜省に伝達されることとなっていた(甲1〔263頁,264頁〕。




槇峰鉱業所における移入・労働状況の概要(認定事実その2)
文中ないし各段落末尾に掲げる証拠によれば,以下の事実が認められる。槇峰鉱業所では,昭和19年後半の時点において,朝鮮半島から移入して
いた労働者が帰国したり,日本人労働者が相次いで召集されたりしたことにより激減した労働力の補充に苦慮し,被告会社本店にその補充を具申しており,本店も厚生省にその旨連絡し,交渉していた。そうしたところ,厚生省は,被告会社本店に対し,槇峰鉱業所の補充用労働者として中国人労働者を割り当てることにした(甲16〔15・075頁〕。

槇峰鉱業所に割り当てられた中国人労働者は,華北労工協会が行政供出によって供出したものであり,主に山東省の出身で,最高年齢は68歳,最低年齢は14歳,平均年齢は40歳程度,職業は主に農業であった(甲1〔363頁〕
,甲16〔15・078頁〕。また,槇峰鉱業所に割り当てられた)
中国人労働者の人数は250人であったが,中国を出発するまでに6人が死亡し,昭和20年1月,青島を出港した際の人数は244人であった。出港後,船中で1人が死亡し,同月31日門司港に上陸した人数は243人であった。さらに,上陸後2人が死亡したため,同年2月1日槇峰鉱業所に到着した人数は241人であった(甲1〔305頁〕。

槇峰鉱業所は,昭和20年1月29日,本店及び門司水上警察署から,中国人労働者が門司港に上陸したとの連絡を受けると,従業員を引取りに向かわせ,従業員が同月31日に中国人労働者の引継ぎを受け,同日夜専用貨車に乗せて翌2月1日に槇峰駅で降車させ,同駅からは徒歩で槇峰鉱業所まで同行した。到着した中国人労働者には,非常に疲労,衰弱した者が多かった(甲14の8,甲16〔15・075頁ないし15・078頁〕。)
槇峰鉱業所において,中国人労働者は,採鉱,運搬,農耕,雑役等に従事し,労働は終戦後の昭和20年8月20日に終了した(甲1〔702頁の後に添付された資料46頁〕。

被告会社が槇峰鉱業所において受け入れた241人の中国人労働者のうち,65人が同年12月3日までに死亡し,同日送還のため槇峰鉱業所を出発した際の人数は176人であった。その後2人が死亡し,同月5日,174人
が長崎県南風崎から米軍上陸用舟艇(LST)に乗船し,送還された(甲1〔233頁,304頁,305頁〕
,甲16〔15・080頁〕。



原告Aらの被害状況(認定事実その3)
文中ないし各段落末尾に掲げる証拠によれば,以下の事実が認められる。ア
原告A(原告番号1)


原告Aは,大正15年(1926年)5月13日,中国山東省平原県《住所略》で生まれ,家は農業に従事し,とうもろこしと麦を作っており,昭和18年ころ,結婚していたものである。
原告Aは,昭和19年(1944年)10月ころのある日の午前中,平原県の街に白菜を売りに行って1人で家に帰る途中,3,4人の日本兵から銃を突きつけられて拘束され,県城南関の建物に閉じ込められた。建物の中には200人くらいの被連行者がいて,入口には銃を持った2人の日本兵が見張りに立っていたため,外に出ることはできなかった。翌日,日本兵により平原県北関の鉄道の駅に連れていかれ,更に列車で済南に連れていかれて,倉庫に閉じ込められた。倉庫の窓には鉄の柵があり,中には全部で300人から400人くらいの被連行者がいた。原告Aほかの被連行者は,済南に10日以上拘束された後,日本兵によって汽車に乗せられ,青島の施設に収容された。入口には,中国人や日本兵が歩哨に立っていた。青島には,1か月以上いた。
原告Aは,家族である,母と2人の弟,1人の妹と,結婚したばかりの妻のことが心配であり,また,日本人が自分たちをどうしようとしているのかも分からず,心配であった。
その後,青島港で船に乗せられ,船倉の中に押し込まれ,7日ほど航行して門司港に着いた。そこから汽車に乗せられ,一晩で槇峰鉱業所に到着した。そこでは,日本人が被連行者に対して日本刀を見せ,逃げないように威嚇した。



槇峰鉱業所に着いて何日かすると,坑内で作業をさせられた。日本人がダイナマイトで穴を開けて爆破した後,中国人労働者が,鉄製のちりとりのような道具で鉱石をトロッコに積み,トロッコを押して鉱石を運び出す作業をさせられた。毎日,夜が明けるとすぐ起き,朝食後,約1時間歩いて,坑内で作業を始め,休憩もなく,夜宿舎に帰る時には外は暗く,太陽を見ることもできなかった。作業中はけがが多く,指を切断したり,死亡したりした中国人労働者もいた。
食べ物は粗末で,芋の干したものやとうもろこしのマントウ様の物で,まれに米のご飯があった。
原告Aほかの中国人労働者の住んだ建物は,塀で囲まれ,入口には日本人が刀を持って見張りに立っていた。十数人が一部屋に住んでいた。板で張った床にむしろのようなものを敷いたが,布団はなかった。宿舎の床下にも,坑道にも水が流れていたため,原告Aは,皮膚病を患った。さらに,脱腸を患い,中耳炎になった。今でも水が流れ出す音がして,聴力が悪いままである。また,水のある所が多かったため,足や腰が痛くなり,今も,雨の日は足や腰が痛くて,外に出て歩くこともできない。日本人は,中国人労働者を人間扱いしておらず,原告Aも,ささいなことで見張りの日本人から靴で蹴られたことがあった。



原告Aは,昭和20年夏,日本が降伏したことを知った。その後,中国人労働者を捜していた中国人に会い,帰国できると聞かされ,皆は大変喜んだ。被告会社からは,1銭の金も衣服も与えられなかった。船に乗って日本を離れ,5日くらいで天津の塘沽に着き,徒歩で物乞いをしながら,5日かかって平原県に帰り着いた。
家に帰ると,家族が全員いて,原告Aを見るや抱き合って一緒に泣いた。原告Aが既に死んだと思っていた母は,泣いて喜んだ。
(以上甲1
6〔15・107頁,15・290頁〕
,甲17)


原告B(原告番号2)


原告Bは,大正14年(1925年)5月5日に生まれた。中国山東省禹城県《住所略》で農業に従事しており,家には原告Bのほかその両親がいたが,貧困であった。
原告Bは,昭和19年(1944年)秋ころ,畑に出て農作業をしていた時,銃を持っていた日本兵とその手先の中国人に脅され,言われるままに連行された。原告Bは,日本兵が銃を持っていたため,全く抵抗できなかった。
原告Bは,そのまま,10キロメートルくらい離れた禹城駅まで連れていかれ,禹城駅から窓のない貨車に載せられ,済南まで連れていかれた。同じ貨車で連行された人は多数いた。
済南では,鉄でできた建物に監禁されたが,そこには貨車の中よりも更に多くの人が監禁されていた。そこで食べ物として与えられたものは,とうもろこしを材料にして蒸したマントウ(窩頭)で,おかずもなく,これを1日に2回,1回に1個食べたが,とても空腹を満たせるものではなかった。寝るときは,布団も敷く物もなかった。被連行者らが逃げないよう,日本兵とその手先の中国人が監視していたが,何のために捕まったのか,どこに連れていかれるのかについては何の説明もなく,分からなかった。
その後,原告Bほかの被連行者は,日本兵に銃で脅されながら,窓のない貨車に載せられ,青島の匯泉まで連行された。そこでも監禁状態が続いたが,その状況は済南での上記状況とほぼ同様であった。
さらに,その後,原告Bほかの被連行者は,日本兵に銃で脅されて乗船させられ,1週間くらい航行して門司港に着き,更に槇峰鉱業所まで連行された。



原告Bは,槇峰鉱業所で,爆破された後の鉱石をトロッコに積んだり,
そのトロッコを押したりする作業に従事した。朝早くから夜暗くなるころまで働き,休む時間もなく,休日もなかった。
原告Bほかの中国人労働者は,ぼろの上下の衣服を支給され,作業用のゴム長靴が支給された。日本人が原告Bら中国人労働者を隊伍で作業場に連れていき,帰りも日本人が連れて帰った。日本人が作業を監視していて,中国人労働者は,作業が遅いと藤の棒で体をたたかれ,原告Bも作業が遅いと殴られたことがあった。
食事は,米に何か加わった物で,古びた白菜やまずい昆布も出たことがあった。1日3食であったが,量が極めて少なく,到底腹にはたまらず,絶えず空腹だった。腹一杯食べない上,力作業であり,それに殴られ,多くの者が死んでいった。死人はすべて日本人が処理した。
宿舎は,木板で造った建物で,何十人かが一部屋に住んでいた。床は古い木板で,1枚の破れた敷物を与えられたが,布団はなく,稲藁を編んで作ったござのようなものを敷いていた。宿舎の入口は1つで,その入口の監視台には日本兵が銃を持って立っており,作業以外で外に出ることはできなかった。
風呂がなく,中国人労働者は,山の冷水で顔や体を洗った。掃除をする者もおらず,湿気が多かったため,多くの者が膿の出る皮膚病を患った。皮膚病の者は薬の入った風呂に入れさせられた。原告Bも,それまで皮膚病はなかったが,鉱山に来て重い皮膚病を患い,今でも傷跡が残り,痛みが続いている。また,原告Bは,鉱山にいる時病気になり,1か月くらい意識不明の重体になったことがあったが,医者には見せてもらえなかった。


原告Bは,終戦後間もなく,他の被連行者とともに日本の長崎港から船に乗り帰国した。中国の塘沽に着き下船し,天津に行き皆解散した。原告Bは,鉄道に沿い,物乞いをしながら,歩いて家に帰った。家に帰
ると,父母は農業をしていて,原告Bが日本兵に捕まって日本へ連行されていたことを初めて知った。原告Bが連行された後,家には労働力がなく,畑造りもできず,更に困窮していた。
日本から帰国してから今日まで,鉱山で初めて罹患した皮膚病がそのまま治らずに痛み,頭がいつもふらふらし,胃も良くない状態が続いている。
(以上甲16〔15・107頁,15・290頁〕
,甲18)

原告C(原告番号3)


原告Cは,昭和4年(1929年)6月14日,中国山東省禹城県《住所略》で生まれた。父母を亡くし,弟3人とともに親戚の家に引き取られ,とうもろこし,粟,わずかの小麦を耕作していた。
原告Cは,昭和19年(1944年)10月ころ,家から出たところで,日本兵と傀儡軍に銃(長い鉄砲)を突きつけられ,捕らえられた。腕を縄で縛られ,銃で脅かされたり,殴られたりしながら禹城に連れていかれ,さらに貨車に乗せられ,済南に着いた。大きな倉庫に,数百人が押し詰められた。
原告Cほかの被連行者は,6,7日後,傀儡軍と日本兵によって縛られて汽車に乗せられ,青島に連れていかれた。青島では,塀に囲まれた大きな建物に押し込められた。塀の上には鉄条網が張られ,電気が通してあると言われた。塀の隅4か所には,傀儡軍が,銃を持って監視していた。粗末な食事しか与えられず,逃げようとした被連行者が捕まり,見せしめに,太い棒でひどく殴られたこともあった。原告Cは,怖くて,逃げられる状態ではなく,生きて帰れるだろうか,どうなるのだろうかと,不安であり,いつも家のことを思って泣いた。
青島で1か月くらい過ごした後,貨物船に乗せられた。船で病気の被連行者が死んで,海に投げ込まれたことも聞いた。心配で,どうなるか分からなかった。青島から5,6日間航行して日本に到着し,槇峰鉱業
所まで連れていかれた。


原告Cほかの中国人労働者の住まいは狭く,部屋には3段の寝床があったが,1人がやっと横になれる幅で,一部屋に十数人が住んだ。寝床には布団もなく,冬も,暖房の設備もなかった。屋外は2,3メートルの高さの塀で囲まれ,敷地内には,日本の会社の者が見張りをしていた。坑内では,ダイナマイトでの爆破の後,中国人労働者が鉱石を熊手のようなもので掘り出し,鉄製のちりとりのような道具を使って,鉱石をトロッコに積む作業をした。帰るのは外が暗くなってからで,途中に昼食休憩のほかは休憩が全くなく,一日中働き詰めで,休日もなかった。作業の時,日本人がハンマー(鉄の金槌)を持って監督し,何かあると,すぐにハンマーの横腹の部分で小突かれた。原告Cも,作業の能率が悪いと,ハンマーでさんざん殴られた。また,日本人の監督は,中国人労働者に向かってしょっちゅう

ばか,ばか。

という言葉を発していた。
毎日の食べ物は,わずかの米にじゃがいもを交ぜたりしたもので,しかも,量が非常に少なく,とても足りなかった。そのため,病気になったりする者がいた。ある中国人労働者は,空腹で盗み食いし,殴り倒された。中国人労働者が食堂から食料を盗んだことがあり,40人か50人くらいの中国人労働者が一列に並ばされ,誰が盗んだのかと追及されて,全員が太い棒で激しく殴られたことがあった。原告Cも,お尻を殴られた。
風呂がなく,鉱山で働いた期間,風呂に入ったことはなく,水道の水で顔や手を洗う程度であった。坑内の湿度が非常に高かったため,多くの者が皮膚の病気になり,原告Cも,両足にはれ物のようなものができたが,治療はされなかった。右腕も,毎日の重労働のため,とても痛くなった。右腕は,中国に戻って治療したが良くならず,今でも上に上げ
られず,疲れたり湿気があったりすると非常に痛む状態である。
槇峰鉱業所での生活は非常に苦痛で,いつになったら中国に帰れるのか分からず,このままでは家に帰れないまま死んでしまうのではないかと思うようになった。家のことを思い,涙を流したことが何回もあった。原告Cは,ずっと逃げ出したい気持ちであったが,見渡す限り三方を山に囲まれ,下方には川が流れており,周囲には見張りもいる上,海をはるばる越えた異境の地にあって,逃げ出すことはかなわず,半ばあきらめていた。


終戦となり作業がなくなったが,戦争が終わり,日本が負けたということを聞かされたのは1か月くらいしてからだった。被告会社からは,おわびもお金の支給もなかった。
原告Cほかの中国人労働者は,槇峰鉱業所から港へ行き,船で,中国の天津塘沽港に着いた。お金がなく,貨車につかまって滄州まで行き,滄州から歩いて自宅へ帰った。家に帰って,家族に会えたが,家族は,皆泣いてばかりいた。
(以上甲16〔15・106頁,15・281頁,
15・289頁〕
,甲19,原告C本人)


原告D(原告番号4)


原告Dは,昭和2年(1927年)7月20日,中国山東省禹城県《住所略》で生まれた。家族は目に障害のある母と弟の3人で,17歳の原告Dが中心となって農業をして暮らしていた。
原告Dは,昭和19年(1944年)秋の終わりころ,禹城県《住所略》に住んでいた姉が縫ってくれた服を取りに行き,姉の家から出て大通りに来た時,数人の傀儡兵と日本兵に銃口を突きつけられ,銃で殴られて拘束され,禹城の東関街(県政府の大きな建物)に監禁された。原告Dら約300人は,2日後,兵士により,禹城から窓なし有蓋貨車で済南に送られた後,済南の北崗子という所まで歩かされ,そこの大
きな鉄の建物に入れられた。兵士が門に錠をかけ,外に出ることができないので,食事も用便もすべてその中でさせられた。食べ物は1日2回,1回に2個の橡の実のマントウ(窩頭)で,飲み物は隙間からホースで部屋に差し込まれる水であった。橡の実は人が食べるものではなく,ほとんどの者が下痢を起こし,悲惨であった。
原告Dほかの被連行者は,4日くらい後,兵士によって4人1組で綱で縛られて,窓なしの有蓋貨車に乗せられ,済南から青島まで運ばれ,匯泉の高い城壁で囲まれた兵舎に押し込まれた。門には日本兵が機銃を構えて歩哨に立っており,高い塀には通電鉄条網が張り巡らされ,逃げようにも逃げられなかった。
原告Dは,ここに約2か月間拘束されていたが,目の不自由な母や幼い弟のことが心配であり,また,日本兵が捕らえた自分たちをどうしようとしているのかも分からず,不安であった。1日2食,1食2個のマントウ(窩頭)では非常に空腹であり,原告Dは,病死したりした人が人力車で運び出されるのを見た。
原告Dほか約300人の被連行者は,昭和20年1月ころ,どこに行くとも言われず,日本兵によって貨物船に乗せられた。船内は非常に不潔で銑鉄が積んであり,船倉の鉄鉱石の上で寝起きさせられた。船の中の食事も1日2食,1食2個のマントウ(窩頭)であり,病気になる者もあり,死亡した者が海に投げ捨てられた話も聞いて,不安でたまらなかった。
約1週間で門司港に着き,下船後,衣服を含め全身消毒されたが,原告Dは銑鉄でお尻の皮膚などを擦りむいていたので,消毒薬で皮膚は非常に痛かった。その後,武装した日本人によって,列車で槇峰鉱業所に護送された。


原告Dは,槇峰鉱業所に着いた後,2日目からすぐ作業をさせられた。
坑内に入り,採石,運搬の作業であった。雇用契約書は見たことがなく,工賃の話も全くなかった。作業時,1回だけ長靴(地下足袋)の支給があったが,作業服の支給はなく,宿舎でも作業中でも青島で支給された衣服のままであった。
朝8時から暗くなるまで作業をし,坑内から出てくると,太陽は既に落ちており,休日もなく,外にも出ることはできなかった。
作業の時は,日本人の監視人が約1メートルの長さの鉄のハンマー(金槌)を持っており,中国人労働者は,作業が遅かったりすると,頭をはじめ体のどこでも殴られ,また,ののしられた。原告Dも何回か殴られ,ある時ハンマーで左足をたたかれ大けがをしたが,仕事は休まず,布きれで縛って対処した。この傷は現在まで跡があり,歩くときに痛みがある。また,原告Dは,湿気のある坑内の力仕事で,腸のヘルニア(脱腸)になり,現在も患っている。
食事は1日3食,1食2個の黒麺のマントウであったが,これでは足りず,ほかに食べられる物もなく,栄養失調のため,特に高齢者に多くの病人や死者が出た。
宿舎は,木造の建物で,ノミ,ねずみや南京虫もいた。
旧暦の正月,日本兵が,あえてこの時期に中国人労働者の故郷を思う気持ちを失わせようと,原告Dの属する班の全員をひざまずかせ,背中に馬乗りになって,一人一人顔を殴り,屈辱を与えた。
原告Dは,人間扱いされないこの坑内から生きて帰れるとは思えず,いつも母や弟のことが思い出され,悔しさと悲しさで胸がふさがれ,耐え難かった。


終戦後,食事などは改善されたが,被告会社の者は,誰も,敗戦したこと,働かなくていいことなどを話してくれず,わびも言わず,被告会社の監督や警察は皆逃げた。原告Dは,昭和20年暮れ,帰国できるこ
とになったが,被告会社からはこの間の賃金を1円も支払われなかった。原告Dは,中国の通訳に連れられて汽車で長崎に着き,そこから,船で塘沽港に着いたものの,天津で国民党の軍隊に捕まった。
原告Dは,何とか逃げ出して徴兵を免れたが,金が全くなかったので,乞食をしながら天津から故郷まで帰った。家に帰ってみると,家には働き手がなく,土地も荒れ,母は失明し物乞いをして暮らしていた。家の者は,原告Dが日本兵に逮捕され連れていかれたことは知っていたが,その行方が分からず,皆泣き暮れていたとのことであった。
(以上甲1
6〔15・106頁,15・289頁〕
,甲20,甲131〔写真④,
⑤〕
,甲142)

原告E(原告番号5)


原告Eは,大正12年(1923年)3月22日,中国山東省禹城県《住所略》で生まれた。貧しい農家に育ち,連行当時,80歳過ぎの祖母と母,兄夫婦と2人の姉,妹,弟が一緒に暮らしていたが,兄は結核を患っており,弟は8歳であったので,原告Eが唯一の働き手であった。原告Eは,昭和19年(1944年)旧暦10月ころ,母が織った織布を売りに山東省泰安に出向いたところ,その日の夕方,泰安駅に着いた直後に,棒と銃を持った7,8名の日本兵と傀儡兵に列車から降ろされ,いきなり殴られ,傀儡兵の駐在所のような場所に連行された。部屋に入れられ,すぐに鍵を掛けられた。部屋には他に中国人が大勢詰め込まれており,そこで一夜を過ごしたが,布団も毛布もなく,そのまま土間に寝かされた。
原告Eほかの被連行者は,泰安で1日を過ごした後,一人一人背中に番号を付けられ,2人ずつ腕を縄でくくられたまま,窓のない汽車に乗せられて,済南に移動した。済南では,周囲が鉄で囲まれた大きな鉄房に入れられ,布団も毛布もなく,床にそのまま寝かされた。

さらに,数日後,青島に連れていかれたが,鉄条網が付いた壁に囲まれた大きな広場にたくさんの人がいて,門で日本兵が見張りをしていた。食事は1日2回,とうもろこしで作ったマントウ(窩頭)が2個支給されるのみで,空腹感が続き,また栄養のあるものは一切出されなかった。
原告Eほかの被連行者は,しばらく経ったある日,日本兵と傀儡兵によって船へと押し込まれ,5,6日くらいの航海の後,門司港に着いた。被連行者は多数おり,銑鉄が積んである船底に座り,寝るのもそこで横たわるという状態であった。食事は,とうもろこしのマントウ(窩頭)が配られたが,船の上から食べ物がつるして降ろされ,年寄りや弱った人にはこれを取ることができない人もあり,食べるのも命がけであった。原告Eは,船上で被連行者が亡くなり,日本兵によって海に投げ込まれたのを見て,胸が締め付けられ,自分も生きて帰れないと思った。被連行者は,門司港で船から降ろされると,寒風吹く中,衣類を着たままホースで冷たい消毒液をかけられた。その後,汽車に乗せられ,数時間乗車した後,さらに鉱山まで数キロメートルを歩かされた。被連行者は,突然拉致され,その後の栄養状態も悪かったことから,明らかに弱っており,やっと歩いている人が大勢いた。


宿舎は,木の塀で囲まれており,銃を持った人間が常時見張りについていた。一部屋に12人から13人詰め込まれ,横になるのがやっとの状態だった。床下に水が流れており,寝る所は板間であり,何も敷かずに布団にくるまるだけだった。着替えも持っていなかったから,夜は裸になり腰に白い布を巻いた状態であり,寒かったので布団の端を縛ってそこに潜り込むようにして寝た。
宿舎で掃除をする人はなく,不衛生と湿気で,原告Eを含め多くの人が疥癬にかかった。しかし,疥癬がさほどひどくなかった原告Eらが入
れる風呂はなく,住居の近くに水が流れていて,そこで体を洗うのが原告Eらの入浴であった。
作業は,坑内で,ダイナマイトで爆発した後の岩石を運び出す作業であった。原告Eの班は12人で構成され,毎朝7時ころに朝食をとり,間もなくこん棒を持った日本人に付いて坑内へ行き,言われるままに岩石(発破で砕かれた後の鉱石混じりのもの)を乗せた手押し車を押す作業を繰り返した。
労働時間について説明を受けたことはなく,時計もなかったので何時から何時までという認識はなかったが,朝明るくなる前に起こされ,間もなく鉱山に連れていかれ,昼ころに抗口でマントウ様の物を2個食べ,また日が暮れるまで働くという繰返しであった。休憩といっても,昼食後30分くらいその場に腰を下ろす程度であり,休日もなかった。日本人が,棒やハンマと呼ばれていた金槌を持って監視しており,いつもコエ,コエ
(中国語で早くの意味)と言って,仕事を急
がせていた。ノルマがあり,若い中国人労働者は何とかできていたが,働きの悪い人間はハンマで殴られた。
作業服を被告会社から支給されたことはないが,山道でトロッコを押す仕事であることから,地下足袋のような靴は支給された。洗濯は,時折仕事が終わってから,川の水につけて,泥を洗い流すだけであり,朝になると,まだ湿った服を着て,また仕事に出かけた。
食事は,マントウ様の物と漬物だけで,肉や魚はなかった。1日3度出たが,1回2個だけで,労働の重さからして全く足りず,常に空腹だった。
給料をもらったことは一度もなかった。


昭和20年夏,突然働かなくていいと言われ,食事も改善された。しばらくして,日本が降伏したことを知った。

その後,アメリカ人の手配で,長崎の港から船に乗り,塘沽港に着いた。そこから天津まで汽車に乗った。天津に着き,鉄道がなくなっていたため,歩いて家に戻った。
家に帰ると,貧しい生活ながらも家族は生きていた。家族は,原告Eが死んだと思っていたらしく,一様に非常に驚き,それから再会を喜び合った。
原告Eがいない間,家族は野草などを食べながら生きながらえていたとのことであり,家族もやせ細っていた。
日本から戻った後,連行時の厳しい生活によって,心臓や胃など体のあちこちが悪くなった。現在でも,いつも心臓病の薬を持ち歩いており,胃が痛くなることもよくある。
(以上甲16〔15・108頁,15・
291頁〕
,甲21,甲163の3)

原告F(原告番号6)


原告Fは,大正11年(1922年)8月,中国山東省平原県《住所略》で生まれた。連行当時,父は既に亡く,22歳の原告Fは,母と農業をしていた。
原告Fは,昭和19年(1944年)秋,さつまいもの収穫をしていたところ,傀儡兵と日本兵7名くらいに銃を突きつけられ,逮捕され,2人ずつ縛られて平原県まで連行され,林院(科挙の試験場で2階建ての建物)に拘束された。
原告Fは,数日後,ここから済南まで,窓も椅子もない貨物列車で運ばれた。済南では鉄でできた大きな建物におよそ100人が監禁されていた。門にもすべて鍵が掛けられ,部屋の外には兵隊が銃を持って監視しており,外に出ることは許されず,食事も用便も睡眠も同じ地面の上でさせられた。
原告Fほかの被連行者は,済南で2日間くらい監禁された後,青島で
3か月間働くとのことで,3人ずつ縛られ,建物から駅まで歩かされ,窓のない貨物車に乗せられて青島まで連行された。
青島では数百人の被連行者が監禁されており,有刺鉄線や電気の通った鉄線が周囲に張り巡らされ,兵隊が監視していた。この間に病人や死人も出た。どこに何をしに行くのか分からないまま,銃を持った日本人と傀儡軍から,船に乗るよう命じられた。
乗船させられた船は,船倉に銑鉄の固まりが積み込まれている大型の貨物船であり,軍服を着て銃を持った日本兵が監視していた。船内で死んだ人は,日本兵によって,袋にも入れられずそのまま海の中に投げ捨てられた。このころになると,日本に連れていかれることが分かったが,どうすることもできず,とても怖く生きて帰れるのかも分からず,不安でたまらなかった。
海上を約1週間くらい航行し,門司港に着いた。下船後,全身消毒をされ,嫌なにおいのする薬水に触ると,皮膚は強く痛んだ。消毒後,約1日かかって,槇峰鉱業所に着いた。


鉱山は大きな山の中にあり,着いて3日目から採石,運搬作業をさせられた。坑道の中から掘り出された鉱石を鉄のちりとりのようなスコップで手押し車に積み込み,指定された所まで運送する仕事であった。日本人が通訳人を通して仕事を配分した。何組かの班に分けられ,日本人が指定した班長が管理した。毎日夜が明けたころから暗くなるまで1日中仕事をした。通常8時間のところ,夕食後更に4時間働かされることがあった。1日少なくとも40回は手押し車で運んだ。同僚が,手押し車を押している時,指がちぎれる事故に遭ったが,その後もまた仕事をさせられた。
宿舎は,木の板でできた小屋で,そこには同様の小屋がいくつかあった。ベッドは木でできた2メートル四方の広さで,4人が横になるのが
やっとの所に何人もの人が寝かされていた。
麻袋の切れ端のような黄色い服を1回支給された。靴も,ゴム底で,靴下のようなものを1回だけ支給されたが,1か月くらいで破れたので,それ以降は自分で編んだ草履を履いた。麻袋の切れ端のような服は,破れると自分で修理して着た。
食事は,小さなマントウが朝夕2個,昼間3個,合計1日7個出たが,いつも空腹で,栄養失調で病気になる人もいた。住んでいる場所にはねずみがいたし,疥癬で苦しむ人が大勢いた。
賃金のことは,鉱山に来る前も,来てからも,誰からも何も聞いたことはなく,実際1銭の賃金ももらっていない。
鉱山で最も辛かったのは,自分の家のこと,家にいる年老いた母のことを思って泣きたくなる時であった。しかし,どうすることもできず,生きて中国に帰ることはできないと思った。


ある時,突然,
仕事を休んでくれと言われ,間もなく原告Fらを
監禁していた日本人がいなくなり,初めて通訳人から日本が降伏したことを聞いた。それからは,食事も良くなり,しばらくして,帰国できることになり,通訳人が宿舎から港まで連れていき,船に乗せた。米軍の船で塘沽に帰り着き,天津に向かった。原告Fは,天津で国民党に徴兵され入隊後南の方に行き,それから7年後の昭和27年(1952年)にやっと郷里に帰ってきた。耕地や家屋もなくなっており,原告Fの母は,原告Fが強制連行されていた時,心配しながら死んだと聞き,悲しくて悔しくて仕方なかった。
(以上甲16〔15・109頁,15・2
91頁〕甲22,甲131〔写真①,②〕甲163の1,証人K,

〔23項ないし25項〕



原告G(原告番号7)


原告Gは,大正4年(1915年)3月7日に生まれ,中国山東省平
原県《住所略》に住んでいた。家族は,原告Gとその父,妻及び3人の子がおり,自宅で農業に従事していたが,貧しかった。
原告Gは1944年(昭和19年)10月ころ,日本軍に従属していた当時の村長《氏名略》から,

平原県での改修工事に45日間行けば,1日当たり45元を支給した上,1年分の農業税を免除してやる。

と言われ,家が非常に貧しかったため,これに応じた。
村の傀儡政権の役人《氏名略》が,原告Gら3名の平原県出身者を平原県《村名略》に連れていき,1軒の大きな平屋の建物に入れた。そこには既に200人ほどの原告G同様の者たちがいた。
翌日,原告Gらは,傀儡軍によって,逃げないように庭の中で突然5人ずつまとめられてひとつの縄で縛られ,何の抵抗もできなかった。その後平原駅で強制的に汽車に乗せられ,済南まで連行され,全員1軒の鉄製の建物に監禁された。粗末な少量の食事が与えられただけで,飲食もトイレも大きな鉄の部屋の中でさせられ,外には出られず,地面の上に寝かされた。トイレのためにどうしても外に出る必要があるときは衣服を全部脱がされ,当然逃走もできなかった。済南に4,5日間監禁されている間に,少なからぬ人数の人が死亡した。
その後,原告Gほかの被連行者は,日本軍とその配下の中国人によって,5人1組に縛られて済南駅から汽車に乗せられた。済南から青島へ,その後船で槇峰鉱業所へ強制連行された状況は,他の原告らと同様であった。軍服を着て銃を身につけた日本人が,原告Gほか数百人の被連行者を監視し,被連行者が甲板に出ることを禁じ,これに反した被連行者は海に投げ込まれ,殺された。日本に上陸した後は,逃げようとすれば足を切断すると脅された。


槇峰鉱業所に着いた2,3日後,原告Gらは12人1組に分けられ,腕立て伏せを命じられた。原告Gらの班の班長である《氏名略》が,原
告Gらに対して,

鬼(のような日本人)がやってきたら自分が咳払いをして知らせるので,その時だけ腕立て伏せをすればよい。

と発言したのを,日本人に見られ,全員頭を殴られて血を流した。
原告Gらの班は,初めの1か月ほどは,掃除などの仕事をしていたが,その後は,主に,採掘した鉱石をトロッコに積む作業をさせられた。危険かつ厳しい仕事の中で多数の死傷者が出た。原告G自身は,右手の薬指を挟んで切断してしまった。しかし,病人には食事も与えられなかったため,布を巻いて耐えるしかなかった。毎日坑内で10時間以上の労働を強いられ,昼食も坑内でとらされた。休日もなく,病気を理由に休むと食事が与えられないため,全く休めなかった。
宿舎は,40人から50人くらいが4班に分かれ,1班に一部屋が割り当てられた。板のベッドに破れた寝具を敷き,1着だけ支給された作業着のままであり,履物も支給された地下足袋1足だけだった。
食事は,朝食,昼食とも1個2口程度の小さなマントウ様の物2個だけであった。昼食は坑内で,朝坑内に入るときに身に付けた竹の筒の水を飲むだけだった。終業が夜遅くなれば,夕食が与えられないこともあった。病人は別の部屋に運ばれ,食事は与えられず,治療も受けられず,当然死者も出た。仕事中に原告Gらが坑内の危険な場所に行くのを躊躇すると,日本人の監督員が「こら。,」「ばか。」と言って原告Gらを小突き,突き飛ばして行かせた。鉱山の入口では制服の警察官が監視していた。
賃金は,今日まで一切支給されていない。
原告Gにとって,最も辛く気がかりであったのは,家族のことであり,一生生きて中国に帰れないのではないかと精神的に追い詰められて絶望し,何度も自殺を考えた。


終戦後,原告Gらは作業を免除され,食事等の待遇も良くなり,その
後数か月間鉱山にいた後,汽船に乗って中国に帰った。こうして原告Gは,旧暦3月25日にようやく家に帰り着くことができた。
(以上甲1
6〔15・111頁,15・294頁〕
,甲23,甲131〔写真③〕

甲163の5,証人K〔16項ないし22項〕


H(原告番号8ないし13関係)


Hは,昭和4年(1929年)8月6日,中国山東省禹城県《住所略》に生まれ,両親と弟とともに暮らし,農業をしていた。
Hは,畑で仕事をしていたところ,傀儡軍に捕らえられ,手を縛られて禹城駅まで連行された。その後,Hは禹城駅から済南に連行され,済南ではガソリンの倉庫のような所に監禁され,さらに,4,5日後,青島の匯泉に連行された。
青島の収容所は,周囲が有刺鉄線の張られた高い塀で囲まれ,日本兵が厳しく監視していた。逃亡しようとして高い塀から飛び降りて死んだ者もいた。また逃亡に失敗して捕まった者は,日本兵に皮ベルトでひどく殴られるなどし,半死半生にされた。
その後,被連行者は2班に分けられ,1班は大連に送られ,Hを含む残りの班は,貨物船の船倉に押し込められて日本に送られた。船の中での食事は1回に1椀の薄い粥と,野菜で丸められたようなものだけであり,水はゴムのホースから飲んだ。大部分の者は船酔いをして全身から力が抜け,衰弱した状態であった。
Hほかの被連行者は,門司港に到着後,貨物列車で運ばれ,駅で降りて歩いて槇峰鉱業所に着いた。



槇峰鉱業所での宿舎は,健康な者,体の弱い者,病人・けが人に分けられ,それぞれ別の,板で造られた部屋が割り当てられた。
早朝明るくなるとすぐ作業に向かい,夜暗くなってからようやく坑内から出ることができた。食事の時以外は休憩がなく,作業中に少しでも
休むと,棍棒を持った監督に蹴られたり殴られたりし,ほとんどの中国人労働者が体中に傷を負っていた。けがをしても治療を受けられず,多くの中国人労働者が過労や病気で死んだ。Hも,鉱石に当たって右腕を骨折したが,休むことができなかったため,板を布でくくりつけて作業を続けた。その後,死亡するまで,右手肘の骨が変形して麻痺していた。食事は,米が出たが,非常に量が少なかった。


終戦後,Hは,米国の軍船で中国に帰国することができた。
しかし,Hは,帰国後も,日本での労働中に負った右腕の後遺症のため,畑で重労働をすることができず,収入も少なかったため,Hとその家族は貧しい生活を強いられた。
(以上甲16〔15・107頁,15
・289頁〕
,甲19〔4頁〕
,甲24,甲101〔10頁,11頁〕

甲136の1,2,甲138,原告H2・原告C各本人)



強制連行・強制労働の事実についてのまとめと評価
以上の事実を総合すれば,原告Aらの日本への移入は,昭和17年閣議決定及び昭和19年次官会議決定等の被告国の国策に基づく行政供出によるものであり,これを担当した華北労工協会は,日本政府の傀儡政権である新国民政府の地方組織である華北政務委員会が共同出資して半官半民で設立し,その人的構成も要職を日本人が占めることにより,日本政府の強い影響下にあった組織であり,移入の実施に当たっても,これまた,日本政府の影響下にあった上記華北政務委員会の下部組織である行政機関や,日本現地軍,日本大使館等の日本政府の機関が組織的に関与して行われたものであって,原告Aら自身の意思に基づくものではなく,暴力や脅迫・欺罔によって原告Aらの意思を制圧し,かつ,身体の自由を奪って行われた強制連行であったといえる(外務省管理局が作成した外務省報告書にも,既に昭和19年前半当時における行政供出の態様が半強制的であった旨の記述が見られるところである。甲1〔221頁〕参照)


また,原告Aらの槇峰鉱業所における労働は,上記のとおり強制的に連行されてきた被告邵らが,被告会社との契約関係なく,昭和17年閣議決定(甲1〔247頁,252頁〕
)で想定されていた賃金の支払も実際には受
けることなく行ったものであって,その労働条件ないし環境(衣・食・住も含む。
)も劣悪・過酷であり,暴言や暴力などにより原告Aらの意思を制圧し,かつ拘禁・監視状態の下で行われた強制労働であったといえる(以下,原告Aらに対する上記強制連行・強制労働を改めて本件強制連行・強制労働という。。)


被告会社の反論について

これに対し,被告会社は,原告Aら中国人労働者の日本への移入は法令又は中国人労働者の任意に基づいて行われたものであって強制連行ではなく,被告会社における労働についても,日本人と同等かそれ以上の待遇をしており,賃金も支払っていたのであって,強制労働ではなかった旨反論する。そして,外務省報告書(甲1〔201頁ないし783頁〕,槇峰)
鉱業所の事業場報告書(甲16)には,一部これに沿う記載がある。しかし,前記の認定に供した原告ら及びHの供述記載(甲17ないし24,甲136の1,2)供述記録(甲142,甲163の1,3,,
5)
,原告H2・原告C各本人の供述等は,約60年以上前の出来事であるとはいえ,突然異境の地に連行され,過酷な労働を強いられたという,比類のない強烈な体験について述べたものであって,その内容も実際に体験しなければ語り得ない具体性・迫真性に富んでいる。また,これらの供述記載等は,その重要な点においておおむね相互に一致しているだけでなく,当時槇峰鉱業所に勤務していた被告会社職員のほか,県警察部特高課巡査ら,槇峰鉱業所において中国人労働者の労働に関与した日本人らの供述記載にもこれと符合する部分が少なからずあり(甲13,甲26,甲27)
,原告Aらが強制労働中に受けた暴行による後遺症の存在は写真等で
裏付けられているなど,基本的な部分で信用性の高いものと評価することができる。
一方,事業場報告書は,外務省管理局が,終戦後,中国人労働者に対する強制連行・強制労働の実態について,対外的な説明,特に近く来日が予想される中国側調査団への説明に備えるための極秘の調査を行うこととし,中国人労働者が就労した各事業場に提出させたものであり,外務省報告書は,これらの事業場報告書及び調査員の現地調査に基づき,その結果をまとめたものである(甲1〔17頁ないし30頁〕
,甲25,甲56)

このような作成の目的に加え,調査員らも,各事業場の事業場報告書には,将来特に問題視されるような項目については,事業場側が故意に事実を隠蔽する傾向が見られ,報告書中最も重要な部分を構成するものと考えられる日本人の中国人労働者に対する不法行為等については,事業場側の報告をもってはその実態を明らかにすることが極めて困難であるとか,戦犯を免れるために汲々として労働条件が良かったということだけを羅列している感があるとまで報告したり,調査員らが現地で見た実態と大きく異なっていたと述べたりしていること(甲1〔52頁,89頁〕甲25,
〔41頁〕
)に照らすと,槇峰鉱業所の事業場報告書のうち,例えば槇峰
鉱業所に到着後,中国人労働者を1か月間休養させて疲労回復に努めたとか,衣食住のほか,保健,衛生,医療,娯楽等の各面で中国人労働者に十分配慮し,むしろ終戦後は感謝されたなど,中国人労働者に対する厚遇を強調している点は,現実を隠蔽するものと見られ,かえって信用性がないといわざるを得ない。また,中国人労働者に1日5円の賃金を支払っていたとする部分も,前記原告らの供述記載等に照らし,信用することができない。
そして,外務省報告書も,前記のような作成の目的に加え,上記のような経緯で作成された事業場報告書に基づいて作成されたこと,調査員らの
現地調査報告もそのまま生かされることなく,対外的な弁明に終始する内容にまとめられたこと(甲25〔43頁,44頁〕
,甲56,証人J〔1
43項〕
)に照らすと,外務省報告書のうち,強制連行の経緯,仕組み等
の概況や関係企業,被連行者に係る統計等の客観的な記述については信頼度が相当高いものと評価することができるのに対し,日本人関係者の中国人労働者に対する具体的な処遇内容や態様に関わる事実,とりわけ,中国人労働者に対する強制的な労務管理や過酷な労働・取扱いを否定しようとする部分は,信用性がないというべきである。
したがって,外務省報告書及び事業場報告書のうち,前記認定事実に反する部分は採用することができず,被告らの上記反論は採用することができない。

また,被告会社は,戦時の国家総動員体制の下においては被告会社を含む企業に自由な意思や行動はあり得ない旨反論する。
確かに,本件では,原告Aらに対する中国からの強制連行自体については,中国本土から門司港に到着するまでの過程において,被告会社がこれに直接関与していたと認めるに足りる的確な証拠はなく,業界団体が政府に対し中国人労働者の移入を陳情し,被告会社も政府に労働力の補充を具申していたなどの事情(前記第3の1イ,第6の1)を考慮しても,被告国との共同実行性を認めることは困難である。ただし,槇峰鉱業所の職員らは,到着した中国人労働者には,非常に疲労,衰弱した者が多いなど,その身体ないし健康状態を目の当たりにしていたのであるから,中国人労働者が少なくとも自己の意思に反して遠い異国に連行されてきたことについては十分認識していたものというべきである。そして,被告会社は,そのような強制的な連行の結果を引き継ぐことによって,その結果を認容した上で,中国人労働者を強制的に労働させたものである。
また,強制労働については,前記第3の1アのような戦時の国家総動
員体制の下,被告会社を含む企業が被告国の統制下に組み込まれていたことは被告会社の反論するとおりであるとしても,それによって,被告会社が,労働力が不足する中,中国人労働者を強制的に労働させ,前記,のような暴言,暴力を含む過酷な取扱いをしたことの責任を免れるものではないから,被告会社のこの点に関する上記反論は採用することができない。


被告らの責任(共同不法行為の成立)
以上によれば,本件強制連行・強制労働は,当時交戦国であった中国の一般市民(農民)に対し,被告国の関係機関が,強権的・優越的な立場に立つものとして,原告Aらを卑劣な手段を用いて遠い異国に無理矢理連行し,もはや逃れられようもない状態に陥らせた上で,同様の立場に立つ被告会社の職員らが,劣悪・過酷な条件ないし環境の下で,しばしば強圧的・侮辱的言動も浴びせながら,これまたその意思に反して無理矢理労働させたものであるところ,これらの行為は,甚だ人道に反し,原告Aらの人格権(人間の尊厳)を著しく侵害するものとして,強度の違法性を有するものというほかない。
そして,被告国は,本件強制連行・強制労働を国策として計画し,その実行の全過程(徴用,輸送,配置,送還等)にわたって主導的に関与したものであり,被告会社は,中国人労働者が強制連行されてきた結果を認識・認容し,被告国と共同して,中国人労働者に対する強制労働を実行したものであるから,被告国及び被告会社の行為は,民法709条,715条,719条の共同不法行為を構成するというべきである(もっとも,被告国にこれらの規定が実際に適用され不法行為責任を負うか否かについては,後記2で検討する。。


2
被告国が,国賠法施行前の行為につき,不法行為責任を負うか否か(争点2)について



国家無答責の法理の制定法上の根拠について

行政裁判法及び裁判所構成法


行政裁判法の制定
大日本帝国憲法(明治22年2月11日公布)61条は,
行政官庁ノ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟ニシテ別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ属スヘキモノハ司法裁判所ニ於テ受理スルノ限ニ在ラスと定めていたところ,行政裁判法(明治23年6月30日公布,同年10月1日施行)16条は,
行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セスと規定した。
したがって,同条の規定によって,行政裁判所に国家責任訴訟を提起することはできなくなった。もっとも,同規定は,司法裁判所に同訴訟を提起することを否定するものとは直ちに解されない。



裁判所構成法の立法過程
裁判所構成法(明治23年2月10日公布,同年11月1日施行)26条に対応する帝国裁判所構成法草案32条の文言は,明治20年11月30日の審議の際,次のとおりであった(甲146〔11頁〕。)
32条第一地方裁判所ハ民事訴訟ニ於テ左ノ事項ニ付裁判権ヲ有ス第一審トシテ区裁判所若クハ特別裁判所ノ権限ニ属スルモノヲ除キ総テノ請求金額若クハ価額ニ拘ハラス政府又ハ官庁ヨリ為シ又ハ之ニ対シテ為ス総テノ請求金額若クハ価額ニ拘ハラス官吏ニ対シテ為ス総テノ請求但其請求公務ヨリ起リタル時ニ限ル第二(省略)
しかし,上記草案に対して,内閣法制局長官井上毅は,
裁判所構成法案ニ対スル意見において,政府に対する訴訟を単純に国に対する訴訟として許した国は存在しないから,国に対する訴訟をもって裁判所の権限内に帰属させたのは当を得ず,また,官吏の公務は国権の一部であって国権は民法上の責任のないものであるからこれに対して要償(損害賠償請求)することはできず,上記草案32条第一は国法の大則に背く旨批判した(甲146〔11頁,12頁〕
,乙A13)

以上の経緯の後に公布された裁判所構成法26条の文言は,次のとおりであり,国家責任に関する訴訟を受理する明文の規定が削除されていた。
26条第一地方裁判所ハ民事訴訟ニ於テ左ノ事項ニ付裁判権ヲ有ス第一審トシテ区裁判所ノ権限又ハ第三十八条ニ定メタル控訴院ノ権限ニ属スルモノヲ除キ其ノ他ノ請求第二(省略)
小括
以上によれば,行政裁判法16条の規定によって,行政裁判所に国家責任訴訟を提起することはできなくなるとともに,裁判所構成法26条においても,司法裁判所においても国家責任訴訟を提起することができるとの明文の規定は存在しないこととなった。
しかし,そもそも,行政裁判法16条及び裁判所構成法26条は裁判所の管轄を定める手続規定にすぎないのであるから,これらの規定を実体法上の国家無答責の法理の根拠とすることはできず,国家無答責の法理については,専ら民法等の実体法の解釈によって判断すべきである(なお,仮に,手続規定が実体法の解釈に影響を及ぼすことがあり得るとしても,これらの手続規定上も国家責任訴訟についての司法裁判所の管轄は明示的に否定されていない上,後記旧民法373条の立法過程等
にかんがみれば,これらの手続規定が国家無答責の法理の根拠となるとは解し難い。。


旧民法373条


旧民法373条の立法過程
旧民法財産編(明治23年4月21日公布,未施行のまま明治31年7月16日廃止)の立案に当たった法律取調委員会は,明治21年10月の段階では,損害賠償の規定について,ボアソナードの作成した次の草案393条に案を決定していた(甲146〔14頁〕甲155の,
2)

393条主人,親方又ハ工事,運送等ノ営業人若クハ公私ノ事務所ハ其使用人,職工,又ハ属員カ受任ノ職務ヲ行フ為メ又ハ之ヲ行フニ際シテ加ヘタル損害ニ付キ其責ニ任スしかし,これに対し,内閣法制局長官井上毅は,明治22年6月22日,同条の起草を担当していた今村和郎報告委員宛に,国権を執行する官吏の処置・怠慢についての国家責任については,各国の裁判例では認められておらず,各国の学説は一致を見ていないとして,上記草案に反対する旨の書簡を送った。また,井上毅は,同月29日,司法大臣山田顕義宛に,上記草案の見直しを求める書簡を送り,さらに,同年8月12日,伊藤博文宛に,山田顕義に対して同条についての意見書を差し出した旨報告した(甲146〔14頁,15頁〕
,乙A15ないし17)

その後,法律取調委員会において,今村和郎報告委員は,上記草案中公私ノを削り,新たに国,府,県,町,村ニモ本条ノ規定ヲ適用ス但法律ヲ以テ特ニ責任ヲ免除スル場合ハ此限ニ在ラスとの1項を設けるとの修正案(条数繰上により373条)を提出した。これに対し,民法では国家の責任を明示せず,特別法をもって明示すべきだとする西委員の意見,民法では公私ノ事務所との明文を掲げず,詳細は学術
上の問題に譲り,裁判官の判断に委ねるべきだとする松岡委員の意見,官吏の非行について国家に責任があるいわれはないとして上記修正案に賛成する磯部報告委員の意見,並びに国家は官吏の非行につき責任を負わないとする法理を見出すことはできないとしてボアソナード草案に特ニ其責任ヲ免除スル場合ハ此限ニ在ラスとの但書を加えるべきだとする井上正一報告委員の意見が提出され,最終的に,同委員会において,
公私ノ事務所の責任を明言せず,単に委託者は受任者の職務に
つき責任を負う旨規定し,いかなる場合に政府官庁が委託者に当たるか否かは司法の判断に委ねるという趣旨で,同条の文言は次のとおり修正された(甲146〔15頁,16頁〕甲148〔18頁ないし22,
頁〕
,甲155の3,乙A14)

373条主人,親方又ハ工事,運送等ノ営業人若クハ総テノ委託者ハ其雇人,使用人,職工又ハ受任者カ受任ノ職務ヲ行フ為メ又ハ之ヲ行フニ際シテ加ヘタル損害ニ付キ其責ニ任スそして,旧民法373条は,上記委員会の修正案のとおり,公布された。


小括
旧民法373条の文理上,国家の権力的作用に限っては同条が適用されないとの解釈を直ちに導くことは困難である。
そして,上記草案の修正の経緯によれば,ボアソナード草案393条の公私ノ事務所との文言が旧民法373条において削除されたのも,官吏の不法行為について国家が賠償責任を負わなくてもよい場合があるが,それはどのような場合かなど,国家の責任については解釈に委ねる趣旨であったと解され,国家責任を否定する内閣法制局長官井上毅の意見がそのまま採用されたものと解することはできないから,上記文言の削除をもって,国家無答責の法理を採用するとの立法者の意思の表れと
見ることはできない。
そうすると,旧民法の公布によって,国家無答責の法理が制定法上確立したということはできない。

現行民法715条


現行民法715条の立法過程
現行民法(第1編ないし第3編明治29年4月27日公布,明治31年7月16日施行)の編纂については,法典調査会で審議が行われた。そのうち,現行民法715条に当たる草案723条については,明治28年10月8日の法典調査会で審議が行われたが,その際の同条1項の文案は次のとおりであった。
723条或事業ノ為メニ他人ヲ使用スル者ハ被用者カ其事業ノ執行ニ付キ第三者ニ加ヘタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス但使用者カ被用者ノ選任及ヒ其事業ノ監督ニ付キ相当ノ注意ヲ加ヘタルトキ又ハ相当ノ注意ヲ加フルモ損害カ生スヘカリシトキハ此限ニ在ラス審議の中で,穂積八束が,起草委員である穂積陳重に対し,政府にも同条が適用されるか否かという質問をしたのに対し,穂積陳重は,政府の官吏が職務執行について過失があったときに責任を負うか否かという箇条を民法に置くのは不適当であり,官吏の職務上のことであるから過失があっても賠償させない方がよいということは例外であって,特別法をもって定めるべきである,特別法がなければ本条が該当するということで,それはなお勘考すべきことである旨説明した。また,高木豊三が,官吏が職務執行について第三者に対して損害を加えた場合に政府がその賠償責任を負うか否かという問題を本条で決めたものだとすれば問題であるとの意見を述べたのに対し,穂積陳重は,他に条文がなければ裁判所では普通の不法行為の条文を適用するであろう,もし官吏の職務執行について政府の賠償責任を否定する必要があれば特別法を定めるべきだ
と説明し,同じく起草委員である梅謙次郎も,この問題は民法草案46条(現行民法44条)の問題であるとした上で,特別法があれば国に適用されないことは明らかになり,もし明文で定めなければ,国も法人であるから民法草案46条の規定が適用されるということは無理からぬところであると述べた。さらに,高木豊三は,ここで問題にしているのは政府の公権の作用に本条が適用されるか否かであって,この問題については日本では決まっておらず,ヨーロッパの法律においても未決の大問題であり,政府の責任を認めた明らかな判決例もないとの意見を述べたのに対し,穂積陳重は,特別法ができるだろうと考えて民法に規定しなかった,もし特別法がなければ本条が当たるであろうという考えは起草委員3名とも持っている旨説明した。以上の審議を経て,同条は原案どおり採決された。
(以上甲146〔17頁ないし21頁〕
,乙A1
9)
その後,現行民法715条1項は,上記文言に若干の修正を加えた上で公布された。


小括
現行民法715条の文理上,国家の権力的作用に限っては同条が適用されないとの解釈を直ちに導くことは困難である。
そして,上記同条の立法過程における審議経過にかんがみると,国に民法715条が適用されるか否か,適用されない場合があるとすればどの範囲かという問題について定まった見解があったとはいえず,特別法がない限り国家の権力的作用についても民法715条が適用されるとの見解も,起草委員によって有力に主張されていたことからすると,民法715条の立法者意思が,国家無答責の法理を採用するというものであったと見ることはできない。
そうすると,現行民法の公布・施行によって,国家無答責の法理が制
定法上確立したということはできない。

まとめ
以上によれば,行政裁判法16条及び裁判所構成法26条の手続規定は,国家無答責の法理を基礎付ける根拠とはならない上,実体法である旧民法及び現行民法の解釈上も,国家無答責の法理を採用したものということはできない。
したがって,国家無答責の法理は,制定法上の根拠を有するものではなかったというべきである。



国家無答責の法理に関する判例について

国家無答責の法理に関する大審院判例
国又は公共団体の権力的作用に関してその不法行為責任を否定した大審院の判例としては,特許の付与等は公法上の関係である行政行為に属するとして民法の適用がないとした大審院昭和4年10月24日判決・法律新聞3073号9頁,消防自動車の試運転は国家警察権の一作用に属し,国家警察権は公法上の権力であるとして,それによる権利侵害(轢殺事故)については国家は賠償責任を負わないとした大審院昭和10年8月31日判決・法律新聞3886号7頁,市の印鑑証明事務は公証行為の一種であり公共団体の支配権に基づく作用,すなわち権力作用たる行政行為であって,市の公法的活動の範囲に属するとして,民法の適用がないとした大審院昭和13年第694号同年12月23日判決・民集17巻24号2689頁などがあった。
その後,大審院昭和16年判決は,およそ国家又は公共団体の行動のうち統治権に基づく権力的行動については,私法たる民法の規定を適用すべきでなく,官吏又は公吏が国家又は公共団体の機関として職務を執行するに当たり,不法に私人の権利を侵害し,これに損害を被らせた場合,その職務行為が統治権に基づく権力行動に属するものであるときは,国家又は
公共団体は被害者に対し民法不法行為上の責任を負わないとの判断を示した上で,町税の滞納処分は,公共団体たる町が国家から付与された統治権に基づく権力行動であるから,町は不法行為責任を負わないと判示した。また,大審院昭和18年9月30日判決・大審院判決全集10輯5号2頁は,大審院昭和16年判決を引用し,官吏又は公吏が国家又は公共団体の機関として職務を執行するに当たり,不法に私人の権利を侵害し,これに損害を被らせた場合,その職務行為が統治権に基づく権力行動に属するものであるときは,国家又は公共団体は被害者に対し民法不法行為上の責任を負わないとの解釈は大審院の判例であるとした上で,当該自動車の差押公売処分の取消し等は,国税徴収法に係る滞納処分として行われたものであり,統治権に基づく権力行動に属するものであるから,市が不法行為責任を負わないとの原審の判断は正当であると判示した。

判例法の形成とその射程範囲について
ところで,日本の民法は成文法主義をとるが,判例が繰り返され,確立することによって,判例法が形成されることがあり,このような判例法は民法の法源となり得ると解される。
そうすると,滞納処分等について,統治権に基づく権力行動であるなどの理由で国又は公共団体の損害賠償責任を否定した大審院判決の判断は,大審院自身によって判例として認識され,複数の大審院判決で繰り返されていることから,遅くとも昭和18年ころまでには判例法として形成されていたものと考えられる。
そして,前記のとおり,民法715条等の制定法の文理解釈としては,上記の場合に民法の適用を排除するとの解釈を直ちに導くことは困難なのであるから,上記判例法は,民法715条の例外法理を創設するものであったというべきである。
しかしながら,判例とは,当該事件の具体的事実を前提としてその法律
的効果を述べるものであるから,その理由付けとされている一般的命題が字句どおり判例としての効果を生ずるものではなく,具体的事実に応じた射程範囲を有するものである。したがって,判例の集積によって形成される判例法もまた,個々の事例の具体的事実に応じた射程範囲を有するものである。
そこで検討すると,国又は公共団体について民法の不法行為法の適用を否定した前記大審院判例は,いずれも法令に基づく行政処分ないし行政行為に関するものであり,法的根拠(権限規範)を有する行政作用の過程で生じた違法性が問題とされている事案である。これに対し,本件強制連行・強制労働は,被告国が国策として遂行した人道に反する犯罪的行為であって,もはや,法令によって権限が付与された行為ではなく,前記大審院判例の事案とは全く異なるものである。また,実質的にみても,本件強制連行・強制労働は,国家無答責の法理によって公務として保護すべき権力作用ではないことは明らかであるから,上記判例法の射程範囲外にあるというべきである。

最高裁昭和25年判決について
最高裁昭和25年判決は,警察官の防空法に基づく家屋の破壊を不法行為とする,国に対する損害賠償請求事件について,公権力の行使に関しては当然には民法の適用がなく,旧憲法下において一般的に国の賠償責任を認めた法律もなかったのであるから,国が賠償責任を負わない旨判示したが,同判決は前記大審院判例と同様,法令に基づく行政処分に関するものであり,本件とは事案を異にするというべきである。


まとめ
以上によれば,国家無答責の法理については,制定法上の根拠を有するものではなく,判例によって形成された例外法理としての判例法が存在するにすぎないところ,本件強制連行・強制労働は,その判例法の射程範囲
外にあるから,国賠法施行前の実体法において,被告国には不法行為に関する民法の規定が適用されると解すべきである。


国賠法附則6条について
国賠法附則6条は,同法施行前の行為に基づく損害については,なお従前の例によると規定するが,これは,同法施行前の実体法が適用されることを意味するものであって,ここにいう実体法には判例法も含まれると解することができるものの,これらと無関係に,およそ国の権力的作用については国は損害賠償責任を負わないという意味での国家無答責の法理が適用されるとの意味に解することはできない。
したがって,本件に民法の規定が適用されるか否かは,専ら戦前の実体法(判例法を含む。
)の解釈によるもの(その解釈については,これまで検討
したとおり。
)であって,国賠法附則6条自体が国家無答責の法理の根拠と
なるものではない。



結論
以上によれば,本件強制連行・強制労働については,国賠法附則6条により,同法施行前の実体法が適用されるが,同法施行前の実体法上,被告国には不法行為に関する民法の規定が適用されると解されるから,被告国は,民法709条,715条に基づき,原告Aらに対して損害賠償責任を負ったというべきである。

3
民法724条後段の適用の有無(争点3)について


民法724条後段の期間制限の法的性質について
原告らは,民法724条後段の規定は消滅時効を定めたものである旨主張する。
しかし,同条後段の規定は,不法行為によって発生した損害賠償請求権の除斥期間を定めたものと解するのが相当である。なぜなら,同条がその前段で3年の短期の時効について規定し,更に同条後段で20年の長期の時効を
規定していると解することは,不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を意図する同条の趣旨に沿わず,むしろ同条前段の3年の時効は損害及び加害者の認識という被害者側の主観的な主張によってその完成が左右されるが,同条後段の20年の期間は被害者側の認識のいかんを問わず一定の時の経過によって法律関係を確定させるため請求権の存続期間を画一的に定めたものと解するのが相当であるからである(最高裁平成元年判決参照)



民法724条後段の期間の起算点について
民法724条後段所定の除斥期間の起算点は,
不法行為の時と規定さ
れており,加害行為が行われた時に損害が発生する不法行為の場合には,加害行為の時がその起算点となると考えられる。ただし,身体に蓄積した場合に人の健康を害することとなる物質による損害や,一定の潜伏期間が経過した後に症状が現れる損害のように,当該不法行為により発生する損害の性質上,加害行為が終了してから相当の期間が経過した後に損害が発生する場合には,当該損害の全部又は一部が発生した時が除斥期間の起算点となると解すべきである(前掲最高裁判所平成16年4月27日判決,最高裁判所平成16年10月15日判決参照)

そこで検討すると,本件強制連行・強制労働の不法行為は,加害行為が行われた時に損害が発生するものであることが明らかであり,不法行為により発生する損害の性質上,加害行為が終了してから相当の期間が経過した後に損害が発生する場合には当たらないから,加害行為の時が除斥期間の起算点となると解すべきである。
これに対し,原告らは,民法724条後段の期間の起算点は客観的に権利行使が可能となった時である旨主張するが,一般的にそのように解することは,前記の同条後段の趣旨に反するものであって,採用することができない。
そうすると,前記1によれば,原告Aらは,終戦の日である昭和20年8
月15日ころ労働を強制されなくなり,同年12月3日槇峰鉱業所を出発し,同月5日,長崎県南風崎から中国に向かって送還され,同年末ころまでには中国に到着したのであるから,遅くともそのころまでには本件強制連行・強制労働の加害行為も終了したものというべきである。したがって,遅くとも原告Aら各人が中国に帰還した同年末ころが除斥期間の起算点となり,20年後である遅くとも昭和40年末ころの応答日の経過によって,除斥期間は経過したものである。


除斥期間の適用制限について

除斥期間の適用制限の可否
原告らは,本件において除斥期間を適用することは著しく正義・公平に反し,条理にもとるとして,除斥期間は適用されない旨主張する。しかし,民法724条後段の規定は,前記のとおり,不法行為による損害賠償請求権の除斥期間を定めたものであり,不法行為による損害賠償を求める訴えが除斥期間の経過後に提起された場合には,裁判所は,当事者からの主張がなくても,除斥期間の経過により同請求権が消滅したものと判断すべきであるから,除斥期間の主張が信義則違反又は権利濫用であるという主張は,主張自体失当である(最高裁平成元年判決参照)。
もっとも,例えば,不法行為の被害者が不法行為の時から20年を経過する前6か月内において当該不法行為を原因として心神喪失の常況にあるのに法定代理人を有しなかった場合において,その後当該被害者が禁治産宣告を受け,後見人に就職した者がその時から6か月内に上記損害賠償請求権を行使したなど特段の事情があるときは,民法158条の法意に照らし,民法724条後段の効果は生じないものと解するのが相当である(最高裁平成10年判決参照)

ただし,前記の民法724条後段の趣旨及び最高裁平成10年判決の趣旨に照らせば,上記特段の事情が認められるためには,少なくとも,不
法行為に起因して,時効の停止の規定が想定するのと同程度に権利行使が不可能又は著しく困難な事由があって,除斥期間の経過により請求権が消滅したものとすることが著しく正義・公平の理念に反するものとなり,かつ,その事由が終了した後,これらの規定が想定するのと同程度の期間内に権利行使を行ったことが必要であると解するのが相当である。
そこで,本件訴訟提起に至る経緯に照らし,上記特段の事情が認められるか否かについて検討することとする。

本件訴訟提起に至る経緯


日中の国交回復と渡航の可能性
戦後,日本と中国(中華人民共和国)は国交が断絶した状態にあり,昭和47年9月29日の日中共同声明によって初めて国交が正常化した。そして,日本と中国が,昭和53年10月23日,日中平和友好条約を締結したことにより,本格的な国家関係が成立した(甲64〔9頁,10頁〕。

その後も,中国の国民は海外への渡航の自由が認められておらず,昭和60年11月22日に制定され,昭和61年2月1日に施行された公民出国入国管理法,及び同年12月26日に公布・施行された同法実施細則によって,初めて中国国民の海外への渡航の手続が定められた。同法5条によれば,私事による出国は,市,県又は公安機関に申請するものとされ,同法8条の場合を除き,すべて許可を取得することができるものとされた。そして,同法8条によれば,刑事事件の被告人,被疑者等のほか,国務院の関係主管機関が,出国後,国家の安全に危害をもたらし,又は国家の利益に重大な損失をもたらすおそれがあると認定した者に対しては出国を許可しないこととされた。また,同法実施細則2条2項によれば,私事とは,定住,親族訪問,友人訪問,財産相続,留学,就職,観光その他の公務外の活動をいうものとされ,同細則3条,4条
によれば,出国して親族又は友人を訪問する場合は親族又は友人の招請証明を,観光の場合は旅行に必要な外貨費用証明を,それぞれ申請の際に提出しなければならないこととされた(甲74の1,2)

他方,日本の外務省の定める手続によれば,中国人が日本に短期滞在するための査証を取得するには,日本側の招聘人ないし身元保証人が,渡航者の滞在費及び帰国旅費を負担するなどとした招聘保証書ないし身元保証書,並びに詳細な滞在予定表等を提出しなければならなかった(甲75,甲76の1,2,甲78の1,2,甲135の2)



損害賠償請求に関する中国政府の姿勢
ところで,日中共同声明によって中国国民個人の日本とその企業に対する損害賠償請求権が放棄されたかについて,中国政府は,当初明確な態度をとっていなかった。法学研究者の童増が,平成3年,全国人民代表大会に,中国は日中共同声明によって政府の損害賠償を放棄したにとどまり,民間個人の損害賠償は放棄していないとの論文を提出したが,この段階では,銭其琛外相(外交部長)や江沢民総書記は,民間賠償問題について明言を避けていた(甲79,甲121〔800頁,801頁〕。

その後,平成7年3月に初めて,銭其琛外相が,日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償請求権であって,個人の賠償請求権は含まれないとして,民間賠償を求める中国国民の動きを阻止しない旨発言した(甲85の1,2,甲122)




外務省報告書及び事業場報告書の発見
外務省管理局は,終戦後,中国人労働者に対する強制連行・強制労働の実態について,対外的な説明,特に近く来日が予想される中国側調査団への説明に備えるための極秘の調査を行うこととした。そして,中国人労働者の就労した各事業場に,その就労状況についての報告書(事業
場報告書)を提出させるとともに,調査員を派遣して現地調査を行い,昭和21年,その結果をまとめた報告書(外務省報告書。甲1〔201頁ないし783頁〕
)を作成した(甲1〔17頁ないし30頁〕
,甲2
5,甲56)

しかし,被告国は,その後一貫して,国会において,外務省報告書は全部焼却したため残っていない旨答弁していた(甲25)

平成5年5月,NHKの報道によって初めて,東京華僑総会に外務省報告書及び各事業場の作成した事業場報告書が保管されていることが明らかになり,被告国も,これを受けて,外務省報告書の存在を認めた(甲25)

しかし,この時明らかになった事業場報告書には一部の事業場のものが含まれておらず,被告国は,その他の事業場報告書については存在を確認できないとの立場をとり続けた。槇峰鉱業所の事業場報告書も,この時には発見されなかった。もっとも,その一部のみは宮崎県に保管されており,その死亡者名簿に禹城県(現在の禹城市)出身者が含まれていたことから,宮崎の市民団体が禹城市を訪れ,平成10年11月,槇峰鉱業所からの生存者とされる原告E,原告B及びHと面会して事情を聴き取った。また,平成12年にはHが宮崎を訪れるなどした。しかし,支援者らは,事業場報告書の就労者名簿がないことから,提訴は困難であると考えていた。ところが,平成15年7月18日,外務省が地下書庫に保管されていた事業場報告書の存在を公表し,その中に槇峰鉱業所の事業場報告書(甲16)も含まれていた。その就労者名簿をもとに,他の原告らの存在も明らかになり,同年10月,原告ら代理人らが弁護団を結成し,現地調査の後,平成16年8月10日,本件訴訟を提起した(甲13,甲101,甲105,甲129の1,甲184)



原告Aらの生活状況等

なお,原告Aらは,いずれも経済的に貧困な農民であって,読み書きのできない者が多く,本件訴訟提起に当たって支援を受けるまで,前記銭其琛外相の発言等についての知識はなく,日本に渡航する十分な経済力も有していなかった(甲17ないし甲24,甲145の2,証人K〔86項,87項〕
,原告H2本人〔159項ないし167項〕
,原告
C本人〔137項ないし140項〕。


まとめ
以上によれば,確かに,中国で公民出国入国管理法及び同法実施細則が施行された昭和61年ころまでは,原告Aらが提訴のため日本に出国することは中国の国内法上ほぼ不可能であったといえるから,時効の停止の規定が想定するのと同程度に権利行使が著しく困難であったと見る余地がある。
一方,それ以降の事情のうち,まず,原告Aらの生活状況・教育程度・法的知識,社会情勢,渡航手続上の制約,支援体制の未整備等の理由で,原告Aらの権利行使が事実上困難であったことは十分理解することができるものである。しかしながら,これらの事情は,なお事実上の障害にとどまるといわざるを得ないものであるし,被害者である原告Aら側の固有の事情に属するものであって,加害者である被告らが不法行為を加えた相手方が中国人である原告Aらであったということに端を発するものではあるけれども,このことをもって,本件不法行為ないし被告らの責めに帰すべき事情によって,原告Aらの権利行使を困難にしていたものと評価することはできない。
また,外務省報告書や事業場報告書は,原告Aらに係る本件強制連行・強制労働の立証にとって有力な裏付け証拠となり得ることは事実であるものの,これらの報告書がなければ,原告Aらが被告らを相手に責任を追及する訴えを提起したり,被害事実の立証をしたりすることがおよそ不可能
とまではいえず,上記報告書の発見が遅れたことにつき,被告らにつき強い非難に値する事情が認められることをもって,原告Aらの権利行使が遅くなったこと自体の帰責事由と評価することはできないといわざるを得ない。
したがって,上記の諸事情をもって,時効の停止の規定が想定するのと同程度に権利行使を著しい困難に至らしめる事情であって,除斥期間の経過により請求権が消滅したものとすることが著しく正義・公平の理念に反するものとまで認めることはできない。
そうすると,仮に上記昭和61年ころから起算しても,本件訴訟提起まで約18年が経過しているのであるから,時効の停止の規定が想定するのと同程度の期間内に権利行使をしたとはいい難く,本件について前記特段の事情を認めることはできない。
よって,原告らの主張は採用することができないといわざるを得ない。

国際人道法等を理由とする除斥期間不適用の主張について
原告らは,時効不適用条約等の国際人道法上,戦争犯罪及び人道に対する罪については,時効・除斥期間は適用されない旨主張する。
しかし,戦争犯罪及び人道に対する罪について定めたニュルンベルク国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判所条例の規定は,個人の国際的な刑事責任を明らかにするものであり,時効不適用条約も,上記刑事責任についての公訴時効に関して定めたものであることが明らかであるから,これらをもって,直ちに民事上の損害賠償請求権について時効ないし除斥期間の適用を排除する根拠とすることはできない。
また,原告らは,刑事訴訟法255条の法意に照らし,時効・除斥期間は適用されない旨主張するが,同条は刑事上の公訴時効に関する定めであって,これをもって,これまた直ちに民事上の損害賠償請求権について時効ないし除斥期間の適用を排除する根拠とすることはできない。

よって,原告らの主張はいずれも採用することができない。


結論
以上によれば,本件強制連行・強制労働の不法行為に基づく原告らの被告らに対する損害賠償請求権は,いずれも本件訴訟提起前に既に除斥期間の経過によって消滅したものであるといわざるを得ない。

4
安全配慮義務違反の有無(争点5)について


安全配慮義務について
使用者は,労働者が,労務提供のため設置する場所,設備若しくは器具等を使用し,又は使用者の指示の下に労務を提供する過程において,労働者の生命及び身体等を危険から保護するよう配慮すべき義務(安全配慮義務)を負っているものと解するのが相当である。この義務は,ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において,当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるべきものである(最高裁昭和50年判決,最高裁判所昭和58年第152号昭和59年4月10日第三小法廷判決・民集38巻6号557頁参照)

前記1によれば,原告Aらは,中国から強制的に連行されてきた上,被告会社の槇峰鉱業所で強制的に労働させられたのであって,原告Aらと被告らとの間には,雇用契約等の契約関係は存在しない。
しかし,安全配慮義務の発生が認められるためには,必ずしも使用者と労働者との間に雇用契約等,直接の契約関係が存在することを必要とするものではなく,雇用契約に準ずる法律関係が存在すれば足りると解される(最高裁平成3年判決参照)




被告会社の安全配慮義務違反の有無

原告Aらと被告会社との法律関係・社会的接触関係


昭和17年閣議決定等が想定していた法律関係

昭和17年閣議決定は,中国人労働者の契約期間は原則として2年とすること,労働者の所得は中国で通常支払われるべき賃金を標準とし,残留家族に対する送金も考慮して決めることなどを定めていた。また,昭和19年次官会議決定も,昭和17年閣議決定と同様の定めをした上,移入や帰還時の輸送に要する経費は労働者の賃金から控除しないことなどを定めていた(甲1〔245頁ないし248頁,255頁ないし260頁〕。

このように,昭和17年閣議決定及び昭和19年次官会議決定においては,中国人労働者に対して契約に基づき賃金を支払うことは当然の前提とされていたといえる。
ところで,槇峰鉱業所が原告Aら中国人労働者を受け入れるに先立ち,鉱山統制会九州支部から,槇峰鉱業所に対し,
契約書及び華人労務者対日供出実施細目等の書類が送付された。このうち契約書とは,華北労工協会が企業に対し中国人労働者を供出する際の使用期間を2年と定め,中国人労働者の使用条件については華人労務者対日供出実施細目のとおりとする旨の,華北労工協会と受入企業との間の契約書であった。また,上記華人労務者対日供出実施細目とは,華北労工協会と受入企業との間で供出・輸送方法,使用条件等を詳細に定めるものであり,その中では,受入企業が,中国人労働者に対し,1か月の訓練期間中は1日2円,その後は1日5円及び出来高払いの賃金(食事付き)を支払うこととされ,1日2円を積立金として賃金から控除して各人の郵便貯金とし,残金を各人に支払うとされていた。さらに,時間外割増賃金や賞与についても定められていた(甲16〔15・092頁ないし15・101頁〕。

もっとも,槇峰鉱業所に送付された上記契約書は,受入企業名の欄が空欄にされたままの書式様のものであり,被告会社の名称を記入した契
約書が実際に作成されたか否かは明らかでない。しかし,被告会社は,戦後,外務省に提出した槇峰鉱業所の事業場報告書において,移入状況の概要として,上記華北労工協会との契約書を参照として掲げて,移入契約との記述をしていること,また,契約及び当局の指示に基づき,訓練期間中は1日2円,その後は1日5円の賃金を支払ったと報告していることに照らすと,被告会社は,少なくとも,上記契約書書式に沿った内容で華北労工協会との契約を締結しており,同契約に基づき,中国人労働者に対して賃金を支払うべき義務を負っているとの認識を持っていたものと認めるのが相当である(甲16〔15・084頁,15・093頁〕
,証人J〔83項ないし86項〕
。以下この契約を労工使用契約といい,上記華人労務者対日供出実施細目を契約実施細目という。。

以上によれば,昭和17年閣議決定等に基づく制度上も,労工使用契約上も,被告会社が中国人労働者に対し労務提供の対価として賃金を支払うこと,すなわち雇用契約の締結が想定されており,被告会社もこれを十分認識していたものといえる。
しかし,実際には,前記1のとおり,原告Aらと被告会社との間には雇用契約等の契約は締結されず,賃金も支払われなかったが,これは被告会社が原告Aらに対する契約締結や賃金の支払を一方的に怠ったにすぎないというべきである。


物的・人的支配
昭和17年閣議決定及び昭和19年次官会議決定は,中国人労働者の食事は米食とせず,中国人労働者の通常食を供すること,住宅は湿気の予防に留意し,朝鮮人労働者の住宅とは接近しないように区別して設置すること,事業場には現地から同行した日本人指導員を責任者として,中国人労働者の連絡・世話役に当たらせること,中国人労働者の使用に
当たってはできるだけ供出時の編成を利用し,作業に関する命令は日本人指導員又は中国人指導員を通して行うようにすること,就労時間は内地の例によること,4大節等は公休とすることなどを定めていた(甲1〔245頁ないし248頁,255頁ないし260頁〕。

また,契約実施細目は,作業用具は受入企業の負担とし,作業衣等は第1回に限り受入企業の負担とすること,宿舎施設は日本人・朝鮮人労働者とは隔離収容する施設とし,宿舎費等は受入企業の負担とすることのほか,必要物資の調達,風呂,衛生施設,作業組織,就労時間,公休,訓練についても定めていた(甲16〔15・095頁ないし15・101頁〕。

以上のとおり,中国人労働者は,昭和17年閣議決定等及び労工使用契約上,被告会社の提供する設備・作業用具等を使用し,指導員を介するなどして被告会社の指揮・監督の下に労務を提供することが想定されていたということができる。
そして,実際にも,前記1の認定事実その3によれば,原告Aらは,被告会社の提供する宿舎等の設備や作業用具を使用し,被告会社から食事の給付を受けながら,被告会社の指揮・監督の下に,継続的に銅鉱の採掘作業に従事していたことが認められる。


小括
以上のとおり,原告Aらと被告会社との間には雇用契約等の契約関係はないものの,昭和17年閣議決定等に基づく制度上も,労工使用契約上も,原告Aらと被告会社との間に雇用契約が締結されることが想定され,被告会社もこれを十分認識していたにもかかわらず,被告会社がこれを一方的に怠ったにすぎないこと,原告Aらが槇峰鉱業所で労務の提供をするに当たっては,被告会社の管理する設備,工具等を用い,被告会社の指揮,監督を受けて継続的に稼働していたことにかんがみると,
原告Aらと被告会社は,実質的には,雇用契約に準ずる法律関係に基づいて,特別な社会的接触の関係に入ったものと評価することができる。そして,被告会社は,作業場所,設備,器具等の支配管理又は作業上の指示を通して,原告Aらの生命・健康に支障をきたさないよう労働条件ないし環境(衣・食・住も含む。
)に配慮することが可能であり,か
つ,昭和17年閣議決定等に基づく制度や労工使用契約に照らして,信義則上,上記配慮をすることが要請されていたといえるから,被告会社は,原告Aらが労務を提供する過程において,原告Aらに対し安全配慮義務を負うに至っていたと解するのが相当である。


被告会社の反論について
これに対し,被告会社は,安全配慮義務は,債務不履行規範の適用領域にかかわる問題であって,不法行為責任とは区別されるから,単なる事実上の使用従属関係のみをもって,安全配慮義務を発生させる法律関係と解釈することはできない旨反論する。
しかし,不法行為責任と安全配慮義務違反に基づく責任とは併存し得るもの(いわゆる請求権競合)であって,当事者間に安全配慮義務を発生させる特別な社会的接触が存在する以上,それが同時に不法行為をも構成するからといって,安全配慮義務違反に基づく責任が発生しないことにはならない。すなわち,労働自体が労働者の意思に基づかない強制労働であったとしても,使用者は,最低限,労働者の生命・健康に支障をきたさないよう労働条件ないし環境に配慮すべき信義則上の義務を負うのであって,使用者が一方的に契約締結を怠ったために,かえって使用者が上記信義則上の義務を免れると解することは相当でないというべきである。
したがって,被告会社の上記反論は採用することができない。


安全配慮義務の内容

被告会社は,前記のような法律関係に基づき,原告Aらに対し,その生命・健康に支障を来すような過酷な労働を強制することなく,また,不法な暴行,虐待を行わないことはもちろん,その生命・健康を維持するに足りる十分な量と質の食事を給付し,住環境や衣服その他の衛生状態の確保に努めるべき安全配慮義務を負っていたというべきである。
これに対し,被告会社は,原告らの主張する安全配慮義務の内容は具体的に特定されておらず,主張自体失当である旨反論するが,一回的な事故等についての責任が問題となっているのではなく,恒常的な処遇の態様,とりわけその過酷さが問題となっている本件においては,上記安全配慮義務の内容は十分特定されているといえ,この点に関する被告会社の上記反論は採用することができない。

被告会社の安全配慮義務違反行為
前記1によれば,被告会社は,原告Aらを,劣悪・過酷な労働条件ないし環境(衣・食・住も含む。
)に置き,暴言を浴びせたり,時には暴力に
よって後遺症が残るほどの傷害を負わせるなどし,拘禁・監視状態の下,労働を強制したことが認められるから,被告会社は,前記安全配慮義務に違反したというべきである。
これに対し,被告会社は,当時の中国あるいは日本における生活水準,労働条件等を前提とすると,被告会社の原告Aら中国人労働者に対する処遇事情は,劣悪なものではなく,むしろ中国の生活水準に比べて良かった旨反論する。
確かに,当時の中国には零細な農家が多く,農業収入も低廉であり,食費,被服費,住居光熱費等の家計費を切り詰めて生活しており,保健衛生,教育,娯楽等に対する支出はわずかであるなど,生活水準が低かったこと,主食は粟,高粱,とうもろこし等であり,食生活も豊かではなかったことが認められる(乙B2,4ないし8)


また,当時の日本においても,太平洋戦争末期の段階になって,米をはじめとする食糧が不足する中,政府による配給統制が行われ,国家総動員体制の下,労働時間等の労働条件も悪化するなど,国民生活全体が窮乏していたことが認められる(乙B1,13,14)

しかし,前記1によれば,原告Aらは,極めて劣悪な環境下で過酷な労働を強いられ,支給される食事も労働による空腹を補うことさえできないもので,風呂などの衛生設備や医療も与えられなかった上,後遺症を負うほどの暴行や,暴言を加えられたものである。このことは,槇峰鉱業所が受け入れた中国人労働者241人のうち,約27%に当たる65人が昭和20年2月1日から同年12月3日までに死亡したこと(前記1)からも窺われるのであって,受け入れた中国人労働者に高齢者が多かったこと,受入れの当時既に多くの者が衰弱していたことを考慮してもその死亡率は高い割合を示しているものである。
これらの事情に照らせば,当時の戦況,中国あるいは日本における生活水準,労働条件等を前提としても,なお,原告Aらに対する取扱いは過酷かつ劣悪なものであったといわざるを得ず,被告会社の上記反論は採用することができない。

まとめ
以上によれば,被告会社は,原告Aらに対し,安全配慮義務違反に基づき,損害賠償責任を負ったと解すべきである。



被告国の安全配慮義務違反の有無

原告Aらと被告国との法律関係・社会的接触関係


国家総動員法,軍需会社法に基づく法律関係

国家総動員法に基づく法律関係
国家総動員法は,昭和13年4月1日,
戦時(中略)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルことを目的として制定された(同法1条)。同法は,
国家総動員上必要な燃料を総動員物資の1つと定め,総動員物資の生産業務を総動員業務の1つと定めた(同法2条,3条)(甲48)。
同法13条1項に基づいて制定された工場事業場管理令(昭和13年5月3日勅令第318号)は,主務大臣が,その管理する工場・事業場における総動員物資の生産等に関し事業主を指揮監督すること(同令6条)
,工場・事業場に監理官を置いて業務を監督させること
(同令7条)を定めた(甲54)
。また,同法6条,7条に基づいて
制定された重要事業場労務管理令(昭和17年2月24日勅令第106号)は,厚生大臣が,重要事業場に庁府県及び鉱山監督局の高等官の中から労務監理官を配置して,従業者の使用,従業,賃金,給料等,労務管理に関する事項に関し事業主及び従業者を監督指導させること(20条)
,厚生大臣が重要事業場の労務管理の状況に関し事業主か
ら報告を徴し,又は官吏を臨検させて帳簿書類を検査させることができること(21条)を定めた(甲49)

以上のとおり,国家総動員法及び同法に基づく勅令は,被告国の,事業場等に対する強力な指揮監督権限を規定するものではあるが,原告Aら従業者と被告国との間に直接的な法律関係を設定するものではない。確かに,重要事業場労務管理令は,事業場に労務監理官を配置して,労務管理に関して事業主及び従業者に対する監督指導をさせることとしているが,事業主である被告会社を排除して被告国が自ら労務管理を行うとしたものと解することはできず,これをもって直ちに原告Aらと被告国との間に雇用契約に準ずる法律関係が発生したということはできない。

軍需会社法に基づく法律関係


軍需会社法は,昭和18年10月31日,
兵器,航空機,艦船等重要軍需品其ノ他軍需物資ノ生産,加工及修理ヲ為ス事業其ノ他軍需ノ充足上必要ナル事業ニ付経営ノ本義ヲ明ニシ其ノ運営ヲ強力ナラシメ以テ戦力ノ増強ヲ図ルコトを目的として制定された(同法1条)
。同法は,軍需会社は生産責任者を選任しなければならず,
軍需会社が生産責任者を選任しないときは政府がこれを任命すること,生産責任者は政府に対し軍需会社の責務遂行に関し会社を代表して責任を負うこと(同法4条)
,生産責任者が任命した生産担当
者も政府に対し生産責任者の指揮に従って担当業務を遂行する責任を負うこと(同法5条)
,生産責任者及び生産担当者並びに軍需会
社の営む軍需事業に従事する者は,国家総動員法により徴用されたものとみなすこと(同法6条)
,軍需会社の従業者は生産責任者及
び生産担当者の指揮に従うべきこと(同法7条)
,従業者が生産責
任者又は生産担当者の指揮に従わないときは,政府は,生産責任者又は生産担当者の具状により,譴責又は訓告の懲戒を行うことができること(同法21条)を定めた(甲41)

同法施行令(昭和18年12月16日勅令第928号)は,軍需
大臣が,軍需会社に対し,従業者の使用,解雇,従業,退職,給与その他労務管理に関し必要な命令をすることができることを定めた(同令9条,32条)
。また,軍需部内臨時職員等設置制(昭和1
8年11月1日勅令第825号)は,軍需省に,所管企業の工場事業場における事務を掌る軍需監理官を置くことを定め(同勅令1
条)
,軍需監理官が軍需省所管の重要工場事業場に配置され,現場
において生産遂行の状況を考査するとともに,援助,指導,監督をすることとなった(甲11〔14頁,15頁〕。

そして,被告会社は,昭和19年4月27日,軍需会社の指定を
受けた(甲53)




以上を前提として,原告らは,まず,被告会社で就労させられた
原告Aらが,被告国との間で,被徴用労働者の法律関係に立つこととなった旨主張する。
確かに,原告Aらは,軍需会社である被告会社において軍需事業
に従事したことで,軍需会社法6条により,国家総動員法によって徴用されたものとみなされたものといえる。これに対し,被告国は,外国人である原告Aらについては国家総動員法は適用されない旨反論するが,軍需会社法6条が対象を帝国臣民に限定していないこと,日本政府自身,前記第3の1エのように国民動員計画に中国人労働者を計上していたことに照らし,上記反論を採用することはできない。
ところで,軍需会社法は,太平洋戦争後半期において,戦局の苛
烈化に伴う軍需生産の大拡充が緊急に要請される中,国力を挙げて軍需生産の急速な増強を図るための緊急方途の一つとして,重要企業の国家性を経営上更に明確にし,生産責任制を確立させるために制定されたものである。そして,同法における軍需会社は,国家が既設の軍需事業会社を指定して国家的生産を担当させ,国家がその能力不足を補給するとともに,その活動を指導監督する企業形態であるとされている。
(甲11〔2頁,16頁〕

そうすると,同法6条の趣旨も,軍需事業に従事する者の勤労の
国家性を明確にすることにあると解されるところ(甲11〔9頁〕参照)
,国家総動員法4条に基づいて制定された国民徴用令(昭和
14年7月8日勅令第451号)も,被徴用者は総動員業務を行う管理工場又は指定工場の事業主の指示に従うべき旨を規定しており(同令17条)
,被告国の指揮を受けることとしているわけではな
いから,これをもって,事業主である被告会社を排除して,直ちに
原告Aらと被告国との間に雇用契約に準ずる法律関係が発生したということはできない。


また,原告らは,被告国が軍需監理官を配置して指揮監督を行っ
ていたこと,軍需大臣の命令権,政府の従業者に対する懲戒権(軍需会社法21条)等を根拠として,被告国と企業の労務管理が完全に一体化していたとし,生産責任者及び生産担当者の指揮権は,公法上の地位に基づく公法関係上の指揮権であり,被告国の機関としての指揮権である旨主張する。
しかし,軍需大臣の命令権や,軍需監理官の指導監督は,前記
の軍需会社法の立法趣旨に沿って,軍需会社の活動を円滑にさせるために,国家がこれを指導し,また国家の要請に違背しないように監督し,個々の経営経済について直接監理を行うために制度化されたものである(甲11〔8頁〕
)から,あくまで軍需会社に対する
ものであって,従業者に対し,その労務の提供について指揮命令するものと認めることはできない。同じく,軍需会社法21条も,軍需会社の生産責任者及び生産担当者が指揮権を有していることを前提として,その懲戒権の行使に実効性を与えようとする規定であると解され,被告国が直接従業者の指揮監督ないし労務管理を行う趣旨の規定であると解することはできない。したがって,軍需会社法の下においても,中国人労働者に対し指揮監督ないし労務管理を行っていたのは,従前どおり被告会社であったといえるから,被告国と被告会社の労務管理が完全に一体化していたと評価することはできない。
そして,軍需会社法の前記立法趣旨に加えて,同法は,政府が軍
需会社に対して各種の指揮監督を行うことによって,軍需事業の運営の強化を図っていること,同法において生産責任者及び生産担当
者の責任と権限が規定されたのは,自主創意をもって生産に邁進させ,その際,生産責任者に強力な事業遂行権限を与える趣旨であると解されること(甲11〔9頁ないし11頁〕参照)に照らすと,被告国が,従業者の労務の提供について直接指揮監督することは想定されていなかったといってよい。したがって,生産責任者及び生産担当者の地位が公法上の位置付けを有するからといって,その指揮権の行使を直ちに被告国の指揮権の行使と同視することはできないというべきである。

小括
以上によれば,国家総動員法及び軍需会社法は,事業場ないし軍需会社に対する被告国の強力な指揮監督権限を定めるものではあるが,原告Aら従業者は,事実上被告会社の指揮監督の下,被告会社に労務を提供したのであって,被告国の指揮監督を受けて被告国に労務を提供したものとはいえないから,これらの規定をもって,原告Aらと被告国との間に雇用契約に準ずる法律関係が成立したということはできない。



原告Aらと被告国との接触関係について

事業場への配置の接触関係について
原告らは,被告国が,原告Aらを日本国内に移入し,被告会社の槇峰鉱業所に配置したことによって,原告Aらと特別の社会的接触関係に入った旨主張する。
しかし,移入及び配置の過程で,原告Aらと被告国との間で雇用契約等の契約が締結されたわけでも,その締結が想定されていたわけでもないから,雇用契約に準ずる法律関係に基づいて,特別な社会的接触の関係に入ったものと評価することはできず,上記主張を採用することはできない。


徴用の接触関係について
原告らは,被告国が,原告Aらを徴用工とみなして労働を強制したことによって,原告Aらと特別の社会的接触関係に入った旨主張する。しかし,原告Aらと被告国が,国家総動員法及び軍需会社法上,雇用契約に準ずる法律関係に基づいて,特別な社会的接触の関係に入ったということができないことは,前記のとおりである。


警察管理の接触関係について
原告らは,被告国が,宿舎に警察官を配置し,原告Aらの日常生活を取り締まらせたことによって,原告Aらと特別の社会的接触の関係に入った旨主張する。
確かに,原告Aらの宿舎の近くには警察官の宿舎が設置され,警察官が中国人労働者の監視に当たっていたことが認められる(甲16〔15・281頁〕
,甲26〔29頁ないし34頁〕。

しかし,警察官が逃亡防止等の治安維持の目的を超えて,原告Aら中国人労働者の労務提供についての指揮監督ないし労務管理を行い,又は労務の提供を受けていたとは認められないから,上記主張を採用することはできない。


配給管理の接触関係について
原告らは,被告国が,中国人労働者に対して食糧の確保と給食を行っていくことを確認したことによって,原告Aらと特別の社会的接触の関係に入った旨主張する。
しかし,食糧の配給管理は,労働者に対する指揮監督ないし労務管理とは異なるものであるから,上記主張を採用することはできない。

帰還管理の接触関係について
原告らは,被告国が,ポツダム宣言受諾に伴い,原告Aらの帰還についての特別の社会的接触の関係に入った旨主張する。

しかし,このような労務提供終了後の事情をもって,労務提供に際しての安全配慮義務の発生を基礎付けることはできないから,上記主張を採用することはできない。


システム設計から見た被告国の安全配慮義務について
原告らは,中国人労働者移入のシステム設計の観点から見て,被告国に,原告Aらに対する安全配慮義務が発生した旨主張する。
しかし,移入及び配置の過程で,原告Aらと被告国との間で雇用契約等の契約が締結されたわけでも,その締結が想定されていたわけでもないことは,前記aのとおりである。すなわち,日本政府の傀儡政権であるとはいえ,新国民政府汪政権の地方組織である華北政務委員会の下に置かれた政府機関の華北労工協会を,直ちに被告国と同視することはできないし,なお,仮にこれを同視するとしても,原告Aらは行政供出によって華北労工協会に徴用されたのであって,原告Aらと華北労工協会との間に雇用契約等の契約が締結されたわけでも,その締結が想定されていたわけでもない。
また,労工使用契約は,受入企業との間で,労働者の使用期間を定めるとともに,労働者の使用条件を契約実施細目のとおりとする旨合意するものであるところ,この契約実施細目も,供出・輸送の方法を定める部分以外は,専ら受入企業における労働者の使用条件を受入企業と労働者との間の法律関係(あるべき合意内容)として定められている。これに対し,労工使用契約上,華北労工協会が受入企業に対して中国人労働者を供出した後は,華北労工協会と中国人労働者の間には何らの法律関係も存在しないし,華北労工協会と受入企業との間にも格別の約定はない(甲16〔15・092頁ないし15・101頁〕。したがって,)
受入企業が中国人労働者を受け入れた後には,華北労工協会が受入企業に対して労働条件等の改善を求めることも想定されていないといえる。
もっとも,労工使用契約上,華北労工協会が受入企業に駐在員を派遣して中国人労働者の指導に当たることとされていた(甲16〔15・77頁,15・100頁〕
)ところ,現に,槇峰鉱業所にも,華北労工協
会から駐在員1名が派遣されており,被告会社職員は,当時,職制に関して,県派遣常駐係官及び華北労工協会職員の管理の下に,現場職員が中国人労働者の世話に当たるものとの意識も有していたことが窺われる(甲26〔25頁,30頁〕。しかしながら,駐在員といっても,労)
工使用契約上,身分関係は,華北労工協会所属とされながらも,同時に受入企業の監督官庁の嘱託ともされていて,必ずしも駐在員の指導の結果が華北労工協会に還元される仕組みになっているものとは認められない(甲16〔15・100頁〕。しかも,労工使用契約上,おおむね)
労働者500名に対し日系駐在所長1名,中国系駐在員1名を付することが予定されており(甲16〔15・100頁〕,本件でも,241)
人の中国人労働者に対し,1名が派遣されてきたが,当時槇峰鉱業所で中国人労働者に関わった日本人関係者の供述記載(甲26)によれば,現場で日々中国人労働者と接し,実際の労務管理に当たっていたのは専ら被告会社職員らであって,上記職制に関する職員の認識も,現実には建前でしかなかったことが窺われる。そうすると,華北労工協会を直ちに被告国と同視することはできないことは前述したとおりである上,なお,仮にこれを同視するとしても,このような駐在員の派遣をもって,中国人労働者が受入企業で働く間においても,華北労工協会が中国人労働者に対し,直接何らかの法律関係(雇用契約や労働者派遣契約及びそれらに準ずる法律関係も含む。
)に基づいて指導監督ないし労務管理を
行う地位にあったものと評価することはできないというべきである。したがって,いずれにせよ,中国人労働者移入のシステム設計が,被告国を派遣元とする労働者供給契約に類似するとして,原告Aらと被告
国が,雇用契約に準ずる法律関係に基づいて,特別な社会的接触の関係に入ったものと評価することはできないから,原告らの上記主張を採用することはできない。

まとめ
以上によれば,被告国の安全配慮義務違反に関する原告らの主張は理由がないというべきである。

5
消滅時効の成否,時効援用の可否(争点6)について


消滅時効の起算点
民法166条1項は,消滅時効の起算点につき,
権利を行使することができる時と定めているところ,これは,単にその権利の行使について法律上の障害がないというだけではなく,さらに権利の性質上,その権利行使が現実に期待することができるようになった時をいうと解するのが相当である(前掲最高裁判所昭和45年7月15日判決参照)

そして,一般に,安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権は,その損害が発生した時点で成立し,同時にその権利を行使することが法律上可能となる(最高裁判所平成元年第1667号平成6年2月22日第三小法廷判決・民集48巻2号441頁)だけでなく,現実にも権利行使が期待できるものというべきであるが,当時の客観的状況等に照らし,権利の性質上,その時からの権利行使が現実に期待できないような特段の事情があるときは,その権利行使が現実に期待することができるようになった時から消滅時効が進行するものと解される(前掲最高裁判所平成15年12月11日判決参照)。
そこで,前記1,3イで認定した事実に基づいて検討すると,原告Aらは,終戦の日である昭和20年8月15日ころ労働を強制されなくなり,同年12月3日槇峰鉱業所を出発し,同月5日,長崎県南風崎から中国に向かって送還され,同年末ころまでには中国に到着したのであるから,遅くともそのころまでには被告会社の安全配慮義務違反に基づく損害が発生し,同時
に損害賠償請求権を行使することが法律上可能となったというべきである。もっとも,中国で公民出国入国管理法及び同法実施細則が施行された昭和61年ころまでは,原告Aらが提訴のため日本に出国することは中国の国内法上ほぼ不可能であったといえるから,その間,原告Aらの権利行使が現実に期待できない特段の事情があったと見る余地がある。
しかしながら,それ以降の事情のうち,原告Aらの生活状況・教育程度・法的知識,社会情勢,渡航手続上の制約,支援体制の未整備等の理由によって,原告Aらの権利行使が困難であったことは確かであるとしても,これらの事情は原告Aら側の主観的事情ないし内部的事情で事実上の障害に属するものであって,当時の客観的状況等に照らし,権利の性質上,原告Aらの権利行使が現実に期待できない特段の事情があったとまでは評価することができない。
また,外務省報告書や事業場報告書がなければ,原告Aらが,被告会社に対し,責任を追及する訴えを提起したり,被害事実の立証をしたりすることがおよそ不可能であったとまではいえない。
したがって,昭和61年ころ以降,当時の客観的状況等に照らし,原告Aらの権利行使が現実に期待できない特段の事情があったとまで認めることはできないから,原告Aらの被告会社に対する安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の消滅時効は,遅くとも昭和61年ころから進行するというべきである。


時効期間の経過及び時効の援用
安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の消滅時効期間は,民法167条1項により10年と解すべきところ(最高裁昭和50年判決参照),仮に
前記のとおり昭和61年ころから起算しても,平成16年8月10日の本件訴訟提起までに既に10年が経過したこと,被告会社が,原告らに対し,平成17年3月4日の本件口頭弁論期日において,上記消滅時効をいずれも
援用するとの意思表示をしたことは,当裁判所に顕著である。


時効援用権の濫用について
原告らは,被告会社による時効の援用が,信義則に反し,権利濫用に当たるから許されない旨主張する。
そこで,既に認定した事実を前提として検討すると,被告会社は,原告Aらを,劣悪・過酷な労働条件ないし環境に置き,暴言,暴力により後遺症が残るほどの傷害を負わせるなどし,拘禁・監視状態の下,労働を強制したものであって(前記1,4ウ)
,被告会社の安全配慮義務違反行為は,強度
の違法性を有するということができる。また,被告国は,終戦後,外務省報告書の作成時期までの間に,受入企業からの報告に基づき,中国人労働者の労働の成果を総額5397万7466円と推定し,これに対する受入企業の終戦までの経費を総額1億2397万2638円(うち移入費4444万7336円,管理費2642万5137円,給食費791万3519円,賃金4518万6606円)
,終戦後の経費を総額6967万3004円(うち
休業手当1621万8072円,管理費2600万1930円,不当要求等1683万5030円,送還費1061万7972円)と算出し,損失が総額1億3966万8176円となるとして,受入企業に対し,総額5672万5474円の補償金を支払った。そのうち,被告会社が受領した補償金は,286万9060円であった(甲1〔705頁,709頁〕。そうすると,)
被告会社が原告Aらに対し賃金等を支払っていなかったにもかかわらず(前記1)
,上記補償金を受領していた点は非難されてしかるべきであるといえる。しかしながら,法定の時効期間の経過によって,一律に権利が消滅するとした消滅時効の制度の趣旨に照らせば,債務不履行の違法性が重大であることや被告会社に利得があることをもって,原告Aらが権利行使をしなかったことについての被告会社の責めに帰すべき事情と評価することはできないのはもちろんのこと,これらの事情があるからといって,被告会社が時効を
援用することが直ちに信義則違反ないし権利濫用に当たるとまで評価することはできないといわざるを得ない。
もっとも,債務者が,債権者の権利行使その他の時効中断行為を妨げたなど,債権者が権利行使その他の時効中断行為をしなかったことにつき債務者の責めに帰すべき事情がある場合は,債務者による時効の援用が,信義則違反又は権利濫用により許されない場合もあると解するのが相当である(最高裁判所昭和37年第1316号昭和41年4月20日大法廷判決・民集20巻4号702頁,最高裁判所昭和50年第1051号昭和51年5月25日第三小法廷判決・民集30巻4号554頁,最高裁判所昭和53年第728号昭和57年7月15日第一小法廷判決・民集36巻6号1113頁,最高裁判所平成18年(行ヒ)第136号平成19年2月6日第三小法廷判決・裁判所時報1429号43頁参照)

これを本件について見ると,原告Aらは,中国で公民出国入国管理法及び同法実施細則が施行された昭和61年ころ以降も,その生活状況・教育程度・法的知識,社会情勢,渡航手続上の制約,支援体制の未整備等の事情のため,被告会社に対して責任を追及する訴えを提起することが,事実上困難な事情があったということができるものの(前記3イ)
,これらの事情自体,
いずれも原告Aら側の固有の事情であって,被告会社の責めに帰すべきものであると評価することはできない。
また,原告Aらの被害の事実を裏付ける証拠である外務省報告書の存在が平成5年5月に初めて明らかになり,槇峰鉱業所の事業場報告書の存在が平成15年7月18日に公表されるなど,証拠の発見が遅れたことも,結果的に原告Aらないし原告らの権利を行使するのが遅くなった一つの事由になっ,被告会社が,積極的に外務
たということができるとしても(前記3イ)
省報告書及び事業場報告書の隠匿又は破棄に関与し,原告Aらの権利行使を妨げたと認めるに足りる的確な証拠はない。

以上によれば,被告会社による時効の援用が,信義則違反又は権利濫用により許されないとまでいうことはできず,原告らの前記主張は,採用することができない。
なお,原告らは,本件強制連行・強制労働は,国際人道法に違反するものであるから,時の経過をもって加害者を免責することは許されない旨主張するけれども,前記3のとおり,国際人道法違反をもって,直ちに民事上の損害賠償請求権について時効の適用を排除する根拠とすることはできないから,原告らの上記主張も採用することができない。
6
戦後における原状回復義務違反の不法行為ないし保護義務違反の債務不履行の成否(争点7)について


雇用契約ないし雇用契約に準ずる関係に基づく保護義務について
原告らは,被告らが,原告Aらとの間の雇用契約ないしこれに準ずる関係に基づき,またポツダム宣言の受諾に伴って,原告Aらを保護し,相当の補償をするとともに名誉回復の措置を講ずべき義務を負ったにもかかわらず,これを怠った旨主張する。
しかしながら,原告らの主張する被告らの上記義務のうち,原告Aらに対する補償義務は,本件強制連行・強制労働に係る不法行為又は安全配慮義務違反に基づく損害賠償義務として発生するものであり,被告らが戦後これを怠ることが,これまで検討した前記1,4の本件強制連行・強制労働に係る上記各法律構成による損害賠償請求権とは別に,新たな損害賠償請求権の発生原因となるものということはできない。
また,原告らの主張するその余の義務も,結局,本件強制連行・強制労働に係る不法行為又は安全配慮義務違反に基づいて発生する旨主張されているものと解されるから,仮にそのような義務が発生したとしても,被告らが戦後これらの義務を怠ることが,これまで検討した上記各損害賠償請求権とは別個の新たな損害賠償請求権の発生原因となるものということはできない。
したがって,原告らの上記主張は採用することができない。


先行行為に基づく保護義務について
原告らは,ポツダム宣言受諾及び降伏文書調印に伴い,軍国主義の一掃と戦争犯罪人の厳重処罰,俘虜・被抑留者の解放,保護,手当,給養,送還等をすべき法的義務を負ったにもかかわらず,これを怠った旨主張する。しかしながら,原告らの主張する上記義務のうち,軍国主義の一掃,戦争犯罪人の厳重処罰,及び俘虜・被抑留者一般に対する措置をいう部分は,被告らが,原告らに対し,これらの義務を法的な義務として負うに至る具体的な根拠が十分に主張されているとはいい難いし,これを怠ることが直ちに原告Aらに対する権利の侵害ないし義務の不履行となり,原告Aら個人の損害賠償請求権を発生させるものということもできない。
一方,上記義務のうち,原告Aら個人に対する解放,保護,手当,給養,送還等の措置をいう部分は,結局,本件強制連行・強制労働の不法行為又は安全配慮義務違反に基づいて発生する旨主張されているものと解されるから,仮にそのような義務が発生し,かつ,被告らがこれらの義務を怠っていたといえる部分があるとしても,被告らがこれらの義務を怠ることが,新たな損害賠償請求権の発生原因となるものということはできない。
したがって,原告らのこの点に関する主張も採用することができない。
7
戦後における犯罪行為隠滅,提訴妨害の不法行為の成否(争点8)について原告らは,被告国が,強制労働禁止条約に基づき,被告会社をはじめとする本件強制連行・強制労働の関係者に対し刑事制裁措置をとるべきであるのに,これを行っていないこと,並びに被告らが本件強制連行・強制労働に係る証拠を隠滅し,原告Aらないし原告らの権利行使を妨害してきたことが,原告Aらないし原告らに対する不法行為となる旨主張する。
しかし,強制労働禁止条約に基づく国の義務は,他の締約国に対して負担する国際法上の義務であって,被害者個人との関係で負担するものではないから,
仮に,被告国が,本件強制連行・強制労働に関与した者に対して刑事制裁措置をとるべき同条約上の義務を負い,これを怠ったとしても,そのことが直ちに原告Aらないし原告らに対する権利の侵害となり,原告Aらないし原告ら個人の損害賠償請求権を発生させるものということはできない。
また,仮に,被告らが,終戦後間もなくの時期に,本件強制連行・強制労働に係る証拠を焼却,隠匿するなどの行為をし,これが原告Aらに対する不法行為となるとしても,前記3に検討したのと同様,上記不法行為に基づく損害賠償請求権は除斥期間の経過によって消滅したというべきである。さらに,その後,外務省報告書及び事業場報告書の発見が遅れたことについては,これが,被告らの故意又は過失に基づくものであると認めるに足りる的確な証拠はないし,これまた,そのことが直接原告Aらないし原告らに対する権利の侵害となって,原告Aらないし原告ら個人の損害賠償請求権を発生させるものということはできない。
したがって,原告らのこの点に関する主張は採用することができない。第7

むすび
当裁判所は,本件訴訟において,中国人強制連行・強制労働という極めて重い事象を審理対象として,これまで約2年数か月かけて当事者双方の主張を尽くさせるとともに,槇峰鉱業所跡に臨場して現地検分を行った上で,証人・本人尋問を実施し,ビデオテープを取り調べたりするなど,事実審理を行ってきた。
その結果,当裁判所は,被告らが先の第二次世界大戦末期において,労働力不足を補うべく,被告国が国策として中国山東省から原告Aらを強制連行し,被告会社がその結果を認識・認容して,槇峰鉱業所において,原告Aらをして,劣悪な条件の下で過酷な強制労働をさせたという歴史的事実を認定したが,被告らの共同不法行為については除斥期間の経過により,被告会社の安全配慮義務違反に基づく債務不履行責任については時効期間の経過により,いずれも法
的責任については消滅したという判断をするに至ったものである。このように,被告らの法的責任は時の経過により消滅したといわざるを得ないものであるが,当裁判所の審理を通じて明らかになった本件強制連行・強制労働の事実自体は,永久に消え去るものではなく,祖国や家族らと遠く離れた異国宮崎の地で原告Aらが当時心身に被った深刻な苦痛や悲しみ,この歴史的事実の重みや悲惨さを決して忘れてはならないと考える。そして,当裁判所の認定した本件強制連行・強制労働の事実にかんがみると,道義的責任あるいは人道的な責任という観点から,この歴史的事実を真摯に受け止め,犠牲になった中国人労働者についての問題を解決するよう努力していくべきものであることを付言する。
以上の次第で,その余の点について判断するまでもなく,原告らの請求はいずれも理由がないから,これを棄却することとし,訴訟費用の負担につき民訴法61条,65条1項本文を適用して,主文のとおり判決する。
宮崎地方裁判所民事第1部

裁判長裁判官

德岡由
裁判官

小池明善
裁判官

伊藤拓也
(別紙)当事者目録《省略》
(別紙)謝罪広告目録《省略》

美子
(別紙)

番号

求額一
原告名


請求額

1A
2300万円

2B
2300万円

3C
2300万円

4D
2300万円

5E
2300万円

6F
2300万円

7G
2300万円

8
H1

383万円

9
H2

383万円

H3

383万円

H4

383万円

H5

383万円

H6

383万円

合計
1億8398万円

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