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損害賠償請求事件
事件番号平成16(ワ)3505
事件名損害賠償請求事件
裁判年月日平成18年12月21日
裁判所名・部東京地方裁判所  民事第14部
結果棄却
裁判日:西暦2006-12-21
情報公開日2017-10-18 04:09:42
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平成18年12月21日判決言渡
平成16年(ワ)第3505号
口頭弁論終結日

同日原本領収

裁判所書記官

損害賠償請求事件

平成18年8月31日
判決原告A原告B原告C原告D
原告ら訴訟代理人弁護士

池被
医療法人社団碧水会

告原毅
同代表者理事長

E被告F被告G被告和H
被告ら訴訟代理人弁護士

岡古谷和久浅松浩田眞弓島主戸圭輔文1
原告らの請求をいずれも棄却する。

2
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由

第1

請求
被告らは,各自,原告A及び原告Bに対し各金4816万8338円,原告C及び原告Dに対し各金500万円並びにこれらに対する平成15年2月3日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2

事案の概要
本件は,精神疾患のため被告医療法人社団碧水会の開設する病院に入院して治療を受けていた患者が,その病室の通風口にベルトを通して自殺(縊首)したことに関し,その遺族である原告らが,患者が自殺したのは,同病院の担当医師ないし担当看護師において,①病室の安全確保義務(病室の通風口にカバーの設置等をすべき義務)
,②危険物管理義務(患者にベルトを所持させないよう所持品の管理をすべき義務)
,③医原性自殺防止義務(治療者が,患者と
の間で治療のための信頼関係を構築すべく努力し,その言動や治療態度により患者の自殺の危険を高めることのないよう注意すべき義務)を怠ったためであり,また,病室の通風口にカバーの設置等がされていないことは精神科病院の閉鎖病棟の設置又は保存の瑕疵に当たると主張して,上記被告及び担当医師等であるその余の被告らに対し,不法行為ないし債務不履行に基づき,死亡による逸失利益等の損害金及びこれに対する死亡日からの民法所定の割合による遅延損害金の支払を求めている事案である。
なお,
上記入院は平成14年5月23日から平成15年2月3日までであり,以下の月日のうち年の記載のないものは,
5月から12月までは平成14年の,
1月から3月までは平成15年の月日である。

また,以下では,
診療契約上の債務ないし診療上の注意義務を併せて義務
という。
1
前提事実(証拠原因を掲記しない事実は当事者間に争いがない。

(1)

当事者等


原告A,原告B,原告C,原告Dは,それぞれI(昭和48年7月23日生,平成15年2月3日死亡。
)の父,母,姉,兄であって,原告A及
び原告BはIの相続人であり,他にIの相続人はいない。


被告医療法人社団碧水会(以下被告法人という。
)は,冒頭書所在
地において,精神科を主とし他に歯科等を診療科目とする長谷川病院という名称の病院(以下被告病院という。
)を開設し,同病院建物を
所有し,かつ占有している。Iは,後記のとおり,平成14年5月23日から平成15年2月3日まで被告病院に入院した。
被告F,被告G及びJ(以下J医師という。
)は精神科の医師,K

(以下K医師という)は内科の医師,L(以下L歯科医師という。)
は歯科医師,被告H及びM(以下M看護師という。は看護師、N(以)
下Nワーカーという。
)はケースワーカー、O(以下O療法士と
いう。
)は作業療法士であり,いずれも,Iの入院当時、被告病院に勤務していた。
Iが被告病院に入院していた当時,被告G及びNワーカーはIの担当であり,被告Fは被告病院の副院長としてIの治療について被告Gを監督すべき立場にあり,被告HはIの入院していたC3病棟の病棟長,M看護師はIのプライマリーナース(受持看護師)であった(以下,Iの治療,看護や原告らとの面談等に当たった被告病院の医師,看護師,ケースワーカー等を被告Gらと総称する。。

(2)

Iの診療経過等(甲B28,乙A1,2)
Iは,中学生のころから家族への暴力等があり,精神科の通院歴があっ
た。平成14年5月22日ころから,混乱,興奮が激しくなって,噛み合わせがおかしいとの訴えを繰り返しはじめ,同月23日未明に慶應義塾大学病院の歯科及び精神科を受診したところ,被告病院を紹介された。イ
Iは,平成14年5月23日,被告法人との間の診療契約に基づいて被告病院に入院(医療保護入院)し,平成15年2月3日に死亡するまで,その入院を続けた(以下,この入院を本件入院という。。本件入院)
の期間中,噛み合わせが悪く、そのため食物をうまく食べることができず辛い、これを改善するために大学病院の口腔外科を受診して手術を受けたいなどと訴えることがたびたびあり,平成14年に計9回被告病院内の歯科(以下院内歯科という。
)において診療を受けた。しかし,被告G
らは,院内歯科以外の大学病院等の口腔外科の受診は許可せず,平成15年1月以降は院内歯科の受診も許可しなかった。
平成14年12月18日,Iの病室のカーテンレールと天井が一部損壊し,Iの頸部に傷が確認されたという事件(以下カーテンレール事件という。
)があった。


平成15年2月3日,Iは,自室の天井の通風口のブラインド状格子に通したベルトに首を掛けて自殺を図った。午後0時03分に発見され,蘇生措置を施されて蘇生し,救急車で武蔵野赤十字病院に搬送されたが,午後8時55分に死亡が確認された(以下,この自殺(既遂)を本件自殺という。。


(3)

医学的知見
本件で前提となる医学的知見は,以下のとおりである。


統合失調症(乙B27)
米国精神医学会の定めるDSM-Ⅳの基準によれば,統合失調症の特徴的症状として,①妄想,②幻覚,③解体した会話(滅裂),④ひどく解体
した行動,⑤陰性症状(感情の平板化,思考の貧困,意欲欠如)のうち2
つ以上が,1か月間以上ほとんどいつも存在するとされている。

境界性人格障害(甲B6,7)
米国精神医学会の定めるDSM-Ⅳの基準によれば,境界性人格障害の診断基準は,別表1のとおりとされている。


陰性の逆転移(甲B5,10,11,乙B27)
治療者が患者に対し無意識的に陰性感情敵意や嫌悪感)

を抱くことを,
陰性の逆転移という。
治療者にとって,自殺しようとする患者は治療者の全能感を侵害する存在となりうるため,無意識的に陰性感情を抱きかねない。そして,このような陰性感情を意識することは治療者の全能感を二重に侵害することになるため,治療者は,陰性感情を意識するのを回避しようとし始める。治療者が,陰性の逆転移に気付かないと,患者が治療を最も必要としているときに他の治療者に紹介し直したり,患者が病棟の規則に違反する,あるいは,治療に向かないといったさまざまな理由をつけて退院を正当化することさえ起こりうる。


行動化(甲B38)
患者が,自己の記憶,葛藤,感情などを言葉でなく行動で表す現象をいう。行動化の対象は自己及び他者へ向かい,前者は自傷・自殺行為で,後者は暴力,他害行為で表現される。患者がとっさに又は無意識で行ういわゆる衝動行為とは区別される。

2
原告らの主張
(1)

自殺の予見可能性・予見義務


下記①ないし④の点からすれば,Iは自殺の危険が高かったのであり,被告Gらにおいて,その危険を認識するべきであった。


Iは,統合失調症の若年男性患者であり,その性格も,依存的,敵対的,衝動的,孤立的な傾向があり,特に咬合不全の訴えについては強迫
的傾向や病的完全癖が見られた。
また,
面会制限等により家族(原告ら)
の支援を受けにくく孤立した状態にあった。


Iは,咬合不全に苦しみ,希望する口腔外科を受診できず,1月以降は院内歯科の受診も許されずに苦しんでいた。



カーテンレール事件は,客観的状況からして,カーテンを首に巻き付けて首を吊ろうとしたと推認できるし,被告病院の医師や看護師も,これが自殺未遂であることを前提として,原告らに連絡をしたり,看護記録の記載をしたことなどからすれば,
Iが縊首を図ったもの自殺未遂)

と評価されるべきであった。
また,本件入院中,物干台の柵を乗り越えて飛び降りようとしたり,リストカットなどの自傷行為をした背景には,希死念慮が存在した。


カーテンレール事件以降も,特に症状の改善が見られず行動の統制が取れない状況にあり,希死念慮を直接,間接的に語ったり,それが被告Gらに言葉では伝わらないと感じて行動化も起こしたり,自殺の手段となりうる道具(ベルト,電気コード)を準備しようとしていたのであるから,これらは自殺のサインとして捉えられるべきであった。


しかるに,被告Gらは,下記①,②のとおり,自殺の危険性についての評価を怠り,又は誤り,自殺の危険が高いことを認識していなかった。①

被告Gらは,陰性の逆転移による陰性感情に影響されるなどして,カーテンレール事件を単なる自傷行為と判断し,その他のIの希死念慮を示す言動等の評価も誤り,そのために自殺の危険性の評価も誤った。


カーテンレール事件以降,退院や転院を勧め,治療を放棄するような姿勢だった上,1月29日の隔離拘束解除以降,隔離拘束時と比べても症状の改善はなかったにもかかわらず,治療・看護体制は手抜き状態となっていたのであり,自殺の危険性の評価を怠っていた。自殺の危険性の高い自宅への退院を勧めたことは,自殺の危険性を認識していなかっ
たことの現れである。
(2)

被告病院閉鎖病棟の設置又は保存の瑕疵及び病室の安全確保義務違反精神科病院の病室,特に閉鎖病棟においては,患者が自殺する危険があり,通風口に索状物を通して縊首することは,自殺の方法として容易に想定されるものであるから,通風口を崩落構造にするか,通風口にメッシュ状のカバーを設置して通風口に索状物を通すことができないような構造を備えていなければならない。しかるに,Iの病室は,天井やカーテンレールは崩落構造でありながら,通風口については上記の構造を欠いていたのであり,精神科病院の閉鎖病棟の設置又は保存に瑕疵があったというべきである。


また,Iは,上記(1)アのとおり自殺の危険が高く,通風口に索状物を通して縊首することが自殺の方法として容易に想定されたのであるから,被告Gらにおいて,Iの病室の通風口を上記のような構造にして安全を確保すべき義務があった。しかるに,被告Gらは,この義務を怠った。

瑕疵又は義務違反と死亡の結果との間の因果関係
Iの病室の通風口が上記のような構造を備えていれば,Iが通風口にベルトを通して本件自殺に及ぶことはなかった。

(3)

危険物管理義務違反
Iは,上記(1)アのとおり自殺の危険が高く,外出の際にエスケープしたことなどから自殺の道具となりうる危険物を所持している可能性があったのであるから,被告Gらにおいては,所持品の点検をするなどして,自殺の道具となりうる危険物としてベルトを所持させないよう管理すべき義務があった。しかるに,被告Gらは,かかる点検を実施しなかったばかりか,看護室で預かっていたベルトをIに返却した可能性もあるのであり,上記義務を怠った。
被告らは,所持品検査は,患者の人権を損ない,医師や看護師と患者と
の信頼関係を損なって治療の妨げになる旨主張するが,所持品検査による人権に対する干渉の程度は,たびたび実施されていた身体拘束に比べて間接的であるし,患者の同意を得た上で実施したり,病室を移動する際や身体拘束の開始又は解除をした際に確認するなどの方法を取ることができたのであるから,上記義務がなかったとはいえない。

義務違反と死亡の結果との間の因果関係
上記義務が尽くされていれば,Iが本件ベルトを用いて本件自殺に及ぶことはなかった。

(4)

医原性自殺防止義務違反
治療者は,患者との間で治療のための信頼関係を構築すべく努力し,その言動や治療態度により患者の自殺の危険を高めることのないよう注意すべき義務があるところ,Iは,客観的に咬合不全及びう歯や歯周病等の歯科治療を要する状態があった上,統合失調症の妄想的な身体感覚も加わって苦しんでいたのであるから,被告Gらにおいては,Iを絶望させて自殺の危険を高めることのないよう,その苦しみに理解を示して,口腔外科や院内歯科の受診を許すべきであったし,威圧的・虐待的な言動や治療態度を取ってはならない義務があった。
しかるに,被告Gらは,陰性の逆転移により陰性感情にも影響され,被告病院での診療を諦めて転院や退院を勧め,診察や看護も十分実施せず,治療を放棄しており,また,Iの上記の苦しみを理解しようとすることなく,
歯の悩みを解消するような働きかけもせず,
口腔外科の受診を許さず,
1月以降は院内歯科の受診も許さず,院内歯科の受診を拒否したことなどを咎めるように反省を強いるなどして威圧的・虐待的な言動や治療態度を取っていたのであり,患者との間で治療のための信頼関係を構築すべく努力していたとはいえず,上記義務に違反した。


義務違反と本件入院中の精神的苦痛及び死亡の結果との間の因果関係
Iは,本件入院前は,希死念慮や自殺未遂歴のある患者ではなかったのであり,上記義務が尽くされていれば,本件入院中に精神的苦痛を被ることはなく,苦しんだ末に絶望して本件自殺に及ぶこともなかった。(5)

被告らの責任
上記(2)ないし(4)の義務違反はいずれも被告法人の債務不履行を構成す
る。
被告G及び被告Hは,医療チームとして共同してIの診療・看護に携わっていたのであるから,上記(2)ないし(4)の義務違反はいずれも被告G及び被告Hによる共同不法行為(民法709条,719条1項)を構成する。これらの義務違反は,被告法人の事業の執行について行われ,被告Fは被告法人に代わってその事業の執行を監督する者であったから,被告法人は使用者責任(同法715条1項)を,被告Fは代理監督者責任(同法715条2項)を負う。
被告病院の病棟建物の所有者かつ占有者である被告法人は,上記(2)の瑕疵について,工作物責任(同法717条1項)を負う。
(6)

損害
被告らは,上記(5)の各原因に基づき,下記の損害を賠償すべき責任を負
う。

Iに生じた損害
(ア)

逸失利益

3333万6676円

基礎となる収入を年395万2700円(平成13年の賃金センサスによる産業計,高専・短大卒,25∼29歳の年収)
,労働能力喪失期
間を29歳から67歳までの38年(ライプニッツ係数16.8678)
,生活費控除率を50パーセントとして計算した金額。
(イ)

慰謝料

2300万円

入院中の精神的苦痛における慰謝料を300万円,死亡による慰謝料
を2000万円として合計した金額。
(ウ)

原告A及び原告Bは,Iに生じた損害についての賠償請求権を各2
分の1の割合で相続した。

原告ら固有の慰謝料
(ア)

各2000万円

(イ)
3
原告A及び原告B
原告C及び原告D

各500万円

被告らの主張
(1)

上記2(1)(自殺の予見可能性)について


下記①ないし④の点からすれば,Iの治療において自殺防止を主要なテーマとすべき状況にはなかった。


原告らは種々の自殺の危険因子を挙げるが,決定的な因子が科学的に証明されているわけではないし,これらの因子をすべて考慮して治療を行うことは臨床上現実的ではない。



Iには入院前に自殺企図の既往はなく,入院理由も自殺企図,希死念慮ではなかった。入院後は,エスケープと思われる行為(6月25日の物干場の柵を乗り越えようとする行為)
,衝動的な破壊行為(7月25
日に蛍光灯を割った行為)
,軽微な自傷行為(6月27日の左前腕を電
気髭剃り器でこすった行為)などはあったが,明確な希死念慮はなく,むしろ衝動的な行為というべきであった。



カーテンレール事件は,天井やカーテンレールの損傷は軽微で,首の傷も左側のみにわずかな発赤が認められた程度で索痕が認められなかったこと,12月18日の前後に特に深刻な様子も見られず,希死念慮や自傷行為であることすら否定していたことなどからすれば,自殺未遂とは評価されない。



12月18日以降見られた歯へのこだわり等は,基本的には従来から頻繁に認められていた行為であり,これらをもって自殺の危険性が高ま
っていたとはいえない。1月のIの行動も,基本的には従来頻繁に認められていたのと同様の行為であり,これらをもって自殺の危険性が高まっていたとはいえず,
むしろ本件自殺直前のIの状態は落ち着いていた。

被告Gらが陰性の逆転移による陰性感情に影響されていたという事実はない。
被告Gらが退院や転院を勧めたのは,Iにつき,その症状からして長期の療養を要すると考えられたため,原告らがIの現状を受け入れて自宅で生活をさせて症状が悪化した場合に入院させるという方法を取るか,少なくとも,被告病院のような短期入院治療型の環境では焦りが生じてしまうので,
長期療養型の環境で対応していくべきと考えたことによるのであり,治療を放棄したわけではない。
1月29日の隔離拘束解除は,不穏状態が改善したため行われた。そして,被告病院では,医師が毎日診察(回診)し,看護師が1時間に1回巡回していたほか,隔離拘束解除直後の患者に対しては密な観察や巡回をしていた(特段の変化がなかったため,カルテに記載がないにすぎない。。)
したがって,被告Gらの治療・看護体制が手抜き状態になっていたとはいえない。

(2)

上記2(2)(被告病院閉鎖病棟の設置又は保存の瑕疵及び病室の安全確保
義務違反)について

自殺の危険性が切迫している患者は,およそ自殺の手段となりうる物がない保護室等に収容すべきであるが,本件自殺のあった当時,Iには,保護室に収容しなければならないほどの切迫した自殺の危険性はなかった。そして,切迫した自殺の危険性が認められない場合には,精神疾患治療と患者の社会復帰の目的に照らし,できるだけ一般社会生活に近い部屋に収容することが必要とされるのであって,自殺防止のみを考え,通風口に通気をあえて妨げるメッシュ状のカバーを付けるのは,社会復帰という精神
科医療の目的に反する。また,Iの病室の通風口は指先を入れるのがやっとであり,
これが縊首のために使用されることは予測の範囲外であったし,
他の精神科病院でも同様の構造の通風口が設置されている。
したがって,被告病院閉鎖病棟の設置又は保存に瑕疵があるとはいえないし,被告Gらにおいて病室の安全確保義務に違反したともいえない。イ
瑕疵又は義務違反と結果との間の因果関係について
争う。

(3)

上記2(3)(危険物管理義務違反)について
自殺の危険が切迫している患者は保護室に収容すべきであり,その際は当然ベルト等は除去される。しかし,本件自殺があった当時,Iには,保護室に収容しなければならないほどの切迫した自殺の危険性はなかったから,危険物としてベルトを所持させないよう管理すべき義務があったとはいえない。
被告病院では,入院生活を一般社会生活に近づける観点から,普段使用している物品についてはできるだけ預からず,生活の質が落ちないように配慮していたため,Iの病室のあったC3病棟においては,コード,はさみ等の持ち込みは禁じていたが,ベルトについては禁じておらず,多くの入院患者が普段着でベルトを着用していた。
そして,被告病院では,①入院時には,持ち物検査を行い,その時点で危険と判断された物はすべて看護室で預かり,
②外出から帰院した際には,
新しい所持品がないかの申告を求め,③看護師は,危険物には常に注意を払い,患者が持ち込んでいるのを発見した場合,速やかに患者の了解を得た上で看護室で預かるという措置を取っていた。それ以上に,看護師が積極的に捜索にわたるような所持品検査をすることは,
患者の人権を損ない,
医師や看護師と患者との信頼関係を損なって重大な治療の妨げになることから,理由なく行うべきではない。

入院時にIのベルトを預かったのは,入院時に隔離拘束となったためであり,1月27日にIからベルトの返還を求められた看護師がこれを断ったのは,隔離拘束解除の直後であったためである。

義務違反と結果との間の因果関係について
争う。

(4)

上記2(4)(医原性自殺防止義務違反)について
被告Gらは,Iの症状が安定しているときは,十分にコミュニケーションが取れていた。ただ,Iの症状が不安定なときは,精神療法でIの問題点を指摘したり,隔離拘束等の制限を行うなど,治療がIの意思に反することもあったため,Iが被害的な感情を持ったことはあり得るが,反省を強要したり,
威圧的・虐待的な言動や治療態度を取ったという事実はない。
また,陰性の逆転移による陰性感情に影響されたり,治療を放棄したという事実もない(上記(1)イのとおり。。

被告Gらは,薬物療法,個人・集団精神療法,各種活動療法,作業療法,クラブへの参加などあらゆる療法を試み,また,プライマリーナースとしてM看護師を選任した。このような対応の結果,11月から12月上旬にかけて,Iの症状は,咬合不全の訴えが減少し,逸脱行動,衝動行為もほとんど見られなくなるなど改善したのであり,被告Gらの言動や治療がIの自殺の危険性を高めるようなものであったとはいえない。


原告らは,口腔外科の受診を許すべきであった,また,1月以降は院内歯科の受診を許すべきであったと主張するが,以下のとおり,被告Gらの判断に問題はなかった。
被告Gらは,Iの精神状態が落ち着いてきた6月25日ころから歯科診療を受けさせた。そして,咬合不全の訴えは基本的には心気妄想であり,従来,Iは食事を問題なく摂ることができ,咬合不全の訴えは入院直前の5月初旬ころから始まったのであるから,入院直前に離脱した補綴物を修
復したり早期接触を調整するなどの可逆的な治療により,できるだけ咬合する箇所を増やし,従前の咬合状態に近い状態に戻す処置をすることが適切と考えられた。それ以上に,Iの希望するような口腔外科的な手術を行うことは,妄想内容を強化し,不安定なIの精神状態に悪影響を及ぼす危険があったし,また,Iは矯正装置の装着等一連の長期間の治療に耐えられる精神状態ではなかった。
そして,1月の時点では,それまで落ち着いていた咬合不全の訴えが再燃し,精神状態が不安定になっていたこと,また,う歯治療など歯を削る治療も伴う状態であったことから,
被告Gらは,
L歯科医師とも相談の上,
院内歯科での治療も行うべきでないとの判断に至った。

義務違反と結果との間の因果関係について
争う。

(5)

上記2(5)(被告らの責任)及び(6)(損害)について
争う。

第3
1
当裁判所の判断
前記前提事実に証拠(甲B21ないし24,乙A1,2,B28,29,31,34,原告A,同B及び同D各本人,被告G及び同H各本人のほか,各項に掲記したもの)及び弁論の全趣旨を併せると,次の事実が認められる。(1)

本件入院に至るまでのIの生活史,通院歴等(甲B42)
原告Aは東京大学を卒業して大企業に勤め,原告Bは千葉大学を卒業して
薬剤師として働き,両名は,子供に対する教育も熱心であった。
I(昭和48年生)は,原告Aの仕事の関係で小学校高学年時に米国で生活し,中学1年時に帰国したが,日本の中学校になじめず不登校となり,怒りを家族に向けてしばしば暴力を振るっていた。精神科に数回通院したが,通院を嫌がって続かなかった。また,そのころから,ストレスが増すと目の不調を訴え,近医眼科で飛蚊症と診断された。中学,高校は何とか卒業した
ものの,大学へは進学できず,入学した美容師の専門学校も中退し,その後はアルバイトを転々としていた。原告C(昭和41年生)は京都大学を卒業してテレビキャスターになり,原告D(昭和45年生)は東京慈恵会医科大学を卒業して医師になるなど,親の期待どおりの道を進んでいったことなどから,Iは,家族の中で自分だけが能力が低いと思い,コンプレックスを抱いていた。
Iは,平成13年10月からカイロプラクティックの勉強を始めたが,平成14年に入ったころから,勉強のストレスによって目の不調の訴えが再燃したり,暴力も見られるようになり,同年2月15日から九段中野クリニックに通院し始めた。同病院では,疎通性悪く,思考障害,被害妄想,病識欠如が認められたことから,統合失調症の疑いと診断されていた。原告らからは,できるだけがんばってカイロプラクティックの学校に行った方がよいと言われていたが,同病院の担当医師からは,無理に行かなくともよいと言われ,混乱したことがあった。被告病院に入院するまでは,自殺企図,自傷行為の既往はなく,希死的な発言もなかった。
5月17日ころから,勉強のストレスがたまって,目の不調の訴えが増加し,暴力も再び見られるようになり,同月22日ころには,混乱が激しくなって,それまではなかった歯(咬合不全)の訴えが見られるようになり,歯

の調子がおかしい。ヤブ医者に歯をおかしくされた。

と繰り返し,自らペンチで右下6番の補綴物を外してしまい,近医歯科2院を受診したが相手にされず,同日夜には,歯の不調を訴えて自ら119番通報した。同月23日午前3時ころ,対応に限界を感じた原告らに連れられて,慶應義塾大学病院の歯科を救急で受診した。その際,興奮して暴れたため,同病院の精神科を受診し,担当医師により,病識を全く欠き,歯科咬合不全についてのみ会話の成立する状態であって,統合失調症の疑いがあるとの診断を受け,被告病院を紹介された。

なお,平成12年3月9日から平成14年2月18日まで舟久保デンタルオフィスを受診し,開咬症のほか,臼歯部カリエスにより咬合接触部位の少ない状態であると診断されて,臼歯部に補綴治療を施して咬合接触部位を確保することにより咬合状態を改善する治療を受けた後,経過良好のため治療を終了していた。
(2)

本件入院時の状況等(5月23日,24日)
Iが5月23日朝に被告病院に到着すると,被告Fが,診察して,精神運
動興奮状態にあると判断し,境界性人格障害(精神病相当)との診断名で,扶養義務者である原告Cの同意を得て,Iを医療保護入院(精神保健福祉法33条2項)とし(なお,入院の形式は,6月17日,Iの保護者(同
法20条)として選任された原告Aの同意による医療保護入院(同法33条1項1号)に変更された。,不穏を理由に隔離拘束を開始した。5月24)
日,被告GがIの主治医と決まった。
(3)

本件入院当初における被告Gらの治療方法,方針等


本件入院後間もなく,被告G,被告H及びNワーカーの3名が中心となって,Iを担当するチームを組み,
適宜治療方針について検討した。
また,
他の医師や看護師も参加するユニットミーティングが毎週開かれ,その中で,Iの治療について検討されることもあった。さらに,1か月に1回程度,M看護師が,Iの現状を査定し,目標(短期,長期)
,看護計画を立
て,次回に評価をするということを行っていた。


被告Gは,まずは病棟内という限られた場での生活ができるようにすることを目標に(その後は,外出や外泊により,病院外での生活に慣れ,退院を目指す。,具体的には以下の治療等を行った。



薬物療法
精神運動興奮や不穏等の症状を抑えるため,1日4回(朝,昼,夕,就寝前)の定期的な服薬のほか,不穏時や不眠時には頓用薬を使用する
ことを指示した。


隔離拘束
不穏を理由とし,身体安全の確保を目指した。



個人精神療法
医師とIとのやりとりを通じてIの精神的な問題を解決するため,毎週1,2回程度,毎回30分以上の時間をかけて実施した。



家族(原告ら)との調整
原告らに,被告Gらの治療方針を理解してもらい,Iとの関わり方などについて協力してもらうために,1か月に1,2回程度,
面談を持ち,
Iをも含めた面談を行うこともあった。また,主にNワーカーが窓口となって,原告らからの電話連絡に対応した。



通信面会制限
イライラ感が強く落ち着きがないなどの理由により,外部からの刺激を少なくするべく,5月28日以降,通信面会制限(通信は不可,面会は家族とのみ可)を実施した。

(4)

5月23日から7月31日までの状況等
本件入院中続いたIの主な症状について
咬合不全の訴えは,結果的には本件入院期間中続いた。もっとも,訴えの出方には波があり,症状が落ち着いているときは訴えも少なく,興奮状態にあるときは訴えも多く執拗であるという傾向があった。
また,Iは,なぜ入院したかなどを理解できず,口腔外科的手術を受けて咬合不全の問題が解決すればすべての問題が解決されると考えており,病識を著しく欠き,現実検討力や自己の行動を振り返る(反省する)能力が希薄であった。この傾向は本件入院期間中続いた。
薬を服用したと見せかけて吐き出すなど,拒薬傾向もあった。


拘束中の症状の概要

Iは,入院当初は精神運動興奮と不穏が著しく隔離拘束された状態が続き,拘束の解除要求も強かったが,次第に,症状が比較的落ち着いてきたため,拘束は6月4日に,隔離は同月10日にそれぞれ解除された。ウ
咬合不全の訴え及び歯科の受診等について
Iは,

物が食べられない。死んじゃう。(5月28日)「口腔外科に


行かなければ自分は死んでしまう。僕を殺そうとするんですか。(6月」
27日)などと訴えたり,自分の指で口腔内をいじって出血させてしまう(同月24日)など,6月中も咬合不全の訴えは落ち着かなかった。被告Gらは,
本件入院以来,
被告病院外の口腔外科の受診は許可せず本

件入院期間中一貫して許可しなかった。,院内歯科については,当初は)
見送っていたが,同月25日に初めて受診させた。
L歯科医師は,Iを診察し,前歯部の開咬と右下7番の歯の欠損を認めたが,これらの状況は咬合不全の訴えを始める前から存在し,臼歯部で噛んで食物を食べることができていたと判断した。そして,咬合不全の訴えは精神疾患に由来するところが大きく,Iの希望する口腔外科手術は当時の精神疾患の状態では適応はないと判断し,補綴物が外れてしまった箇所(左上7番,右下6番)に仮歯を入れるなどして少しでも咬合する面積を増やしてゆくという方針で治療をすることとした。そして,Iに対し,口腔外科手術の適応はないことと上記の治療方針を説明して,咬合調整をしようとしたが,不安を訴えられて拒否され,7月2日にも予約を入れていたが,受診を拒否された。


Iと原告らとの通信状況等
Iは,通信面会制限のうち家族との通信制限が6月17日に解除されると,原告らに対し頻繁に電話をかけるようになった。
同月20日には,原告らに対し,歯の噛み合わせが悪い,救急車を呼んで口腔外科を受診したいと何度も訴え,被告Gが怖くてうまく言えないか
ら原告らから病院側へ話をしてほしいと求めた(なお,その後更に119番にも何度も電話をかけたため,迷惑行為,不穏,多動を理由に一旦隔離されたが,注射により落ち着いたため,約5分で解除された。。これに)
対して,原告らは個別に,Nワーカーに対し,電話をかけて,Iの訴えを伝えるとともに,Iの話も聞いてほしい旨を求めた。
Iは,被告Gから,咬合不全や口腔外科受診希望の訴えを受け入れてもらえず,精神療法などで問題点を指摘されたような場合,その問題点を考えることができず,被告Gを怖いと感じる傾向があった。そして,原告らに対し,咬合不全や口腔外科受診の希望を訴え,原告らを通じて自己の希望をかなえようとした。原告らとしても,Iには程度の問題はともかく客観的にも咬合不全があることなどから,結果的にはIの訴えに一部取り合ってしまうこともあった。そして,原告らの中でも,Iに対する期待の強さ,治療についての要望,不満である点や程度などに個人差があったことなどから,原告らのIないし被告病院に対する対応は必ずしも統一が取れていない面があった。これに対し,被告Gらは,被告Gらと原告らのメッセージが一貫していないとIの混乱のもととなると考えていた。

自傷行為等(6月25日から7月25日まで)
Iは,6月25日,3階物干台の解放時に,集団散歩が許可されていると嘘をついて勝手に集合し,物干台の柵(高さ約1.35m)を乗り越えようとした。この行為について問われると,不合理な説明をするのみで,その意図は隠していた。なお,この物干台の柵を乗り越えた先には2階の物干台上の庇があり,その庇の端から約1.6m下には1階の患者用の喫茶店のような建物の屋根がある。
同月27日,電気髭剃り器で左手首の10cmほど上部をこすって傷つけ,ナースステーションに見せに来るということがあり,自傷を理由に隔離拘束を開始された(同月28日解除された。。この行為に及んだ理由)

については,話を聞いてくれないからなどと話した。
7月25日,Iは,Nワーカーと原告Aとの面談中,蛍光灯をたたき割り,自傷,不穏,爆発性,衝動行為を理由に隔離拘束を開始された(同月29日解除された。。この行為に及んだ理由について,自分の思い通り)
にならず,父親が理解してくれなかったからであるとか,止痢剤を処方してくれないからなどと話した。なお,その時点で,下痢があったとは確認されておらず,腹部の所見はむしろ下痢があったことに否定的であった。カ
活動療法の開始
被告Gらは,Iが病院での集団生活に慣れ,また自己実現や気分転換が図れるよう,活動療法を勧め,Iは,6月20日からアートセラピー,7月1日からダンスセラピーを始めた。

(5)

8月1日から12月17日までの状況等
統合失調症の診断,プライマリーナースの選定等
8月1日,2日には,臨床心理士による心理テストが実施され,

非常に易刺激的,衝動的であり,思考力や集中力が阻害されている。そして,依存的で退行した状態であるとともに,社会的な未成熟さも目立ち,物事の常識的な判断や理解が困難な面も見られる。また「歯

などに関する心気的訴えについての,文脈や根拠のない確信は妄想に近いものと考えられる。絵画に見られる認知や知覚の歪みもサイコティックなレベルであると考えるのが妥当であろう。
」などと分析されている。
同月2日,P医師は,被告Gの依頼で精神療法を実施し,現実検討力が非常に乏しく,心気妄想は(++)で,歯や下痢の訴えは患者の具象的訴えであるが,現実を取り入れ消化する能力が(↓↓)であると判断し,妄想性障害との印象を受けた。被告Gも,7月ころまでは統合失調症か境界性人格障害かの診断はつけられていなかったが,上記のP医師の判断をも参考にしてIの病態を広い意味での統合失調症(妄想性精神病)と考え,
8月5日からは,Iの拒薬に対して確実な投薬を実施するためデポ剤の使用を開始した。
また,被告Gらは,上記(4)エのとおり,Iが,頻繁に電話をかけ,原告らを通じて口腔外科を受診するという希望をかなえようとしていること,原告らのIに対する期待がIにとってプレッシャーになることなどから,同月6日以降,通信制限に曜日及び相手方等の制限を設け,水曜日は原告Dからの受話のみ可,金曜日は自宅への架電のみ可と変更し,同月20日以降,面会制限に曜日の制限を設け,家族と土曜日又は日曜日のみ可と変更した。
被告Gらは,Iが,自己の感情やストレスを言語化することが困難で,そのために衝動,自傷行為や暴力に及ぶ傾向が認められたため,一対一の関係となるプライマリーナース(受持看護師)を付けた。そのプライマリーナースとなったM看護師は,同月10日,初めてIと面接し,交換日記(甲B34)などを使用しながら1週間から10日に1回程度の割合で面接を実施し,自分の気持ちを言語化したり,自分の精神状態を理解して,ストレスの解消ないしコントロールができるように働きかけるとともに,コミュニケーションを取って信頼関係を構築し,安心感を与え,スタッフに相談しやすい環境を整えてゆくこととした。
被告Gらは,活動療法の一環として,C3セッション(OT(作業療法)クラブ,スポーツ,レクリエーション)を勧め,Iは,これらを同月20日から開始した。

8月,9月の状況等
Iは,院内歯科でよいから受診したい旨を訴えて(7月31日)
,8月
6日に受診を再開し,同月13日,27日,9月3日にも受診した。L歯科医師は,Iの了解を得て,中心位に下顎を移動したときに早期接触を起こしていた親知らず(右下8番)を左側臼歯部が接触するまで少し削って
咬合調整し,また,右上4番の歯を根尖性歯周炎と認めて感染根管処置等を実施した。Iは,8月21日,診療情報書があれば日本歯科大学病院の歯科医師が往診してくれると電話で聞いた旨を話し,同月27日,9月3日には,院内歯科の受診を拒否しようとしたが,看護師らに説得されて渋々受診した。しかし,同月5日,退院してから他の大学病院を受診したいので今はもう呼ばないでほしい,治療をしない場合は歯が駄目になるということも納得しているなどと院内歯科に電話して,以後しばらくは院内歯科を受診しなくなった。同月16日には,歯を治したいと119番通報した。
同月17日,東京都健康局に退院したい旨を電話し,東京都知事に対する退院等の請求(精神保健福祉法38条の4)として受理された(なお,同請求については,10月17日に面接が実施され,11月6日付けで,医療保護入院の継続が適当と思われる旨の審査結果が被告病院管理者宛に通知された。そして,同通知中には,①病識が不十分であり,病識が持てるようになるまで医療保護入院形態での入院継続が適当と思われること,②歯科治療については,今後の専門治療の必要性を含めて医師と保護者で相談の上進めることという付随意見が付されていた。。そして,9月2)
0日,慶応大学病院救急部等様々なところに電話をかけて口腔外科に行きたいとの訴えが収まらない状況で,不穏時用の筋肉注射も拒否したため,不穏,多動を理由に隔離拘束を開始された。Iは,なぜ拘束になったかを理解することができなかった。同月24日,隔離拘束が解除された後も,

これ以上食べれない。死なないですよね。

と訴えていた。ウ
10月の状況等
10月に入ってからは,咬合不全の訴えはあまり聞かれなくなり,ゲーム,キャッチボール,サッカーをして楽しく過ごすことができるようになった。そして,M看護師との定期面接(同月16日)では,
自分は,Mさんとこうしてノートを通して面接することで,楽しさ,人と関わることの楽しさを感じさせてもらっています。ありがとうございます。色々な人と話をすることができるようになったけど,G先生は苦手です。などと笑って話し,困っている様子はなかった。
被告Gらは,同月上旬までにはIの症状が比較的改善したため,中庭面会(同月6日,14日)や外出(同月19日)をさせた。Iは,特に問題も起こさず,楽しかった旨を話した。
同月23日,M看護師が,Iに我慢したり優等生でいたいという状況が見られたため,悩みを打ち明けるように話したところ,Iは,本当は歯科に行きたい,
退院して家族とうまくやっていきたいなどと泣きながら話し,
M看護師に握手を求めた。同月後半から,咬合不全の訴えがひどくなり,

噛み合わせが悪く,辛い。もう死んでしまいたい。(同月25日)「こ


のままご飯が食べられなくなったら死んでしまう。(同月27日)など」
と訴えることもあった。被告Gらは,原告らからも口腔外科を受診させてみてほしいと希望されたが,L歯科医師や原告らとも相談の上,他院の口腔外科は受診させず,院内歯科を受診させることとした。Iは,このことを説明されても理解できなかった。
同月29日のユニットミーティングにおいて,
治療チームとしては親のこういう態度Iの咬合不全の訴えも一部は当たっているのではないか,(一度は口腔外科に連れていってもらえないかなどと言っていること。)が患者の思考言動パターンを強化していると見えてしまう。それでも家族が変わろうとしないのであれば,これ以上治療は難しいと考えてしまう。治療チームが患者の重症さと家族に逆転移を起こしてしまっている。という話がされ,カーデックス情報シートにその旨記載された。

11月,12月上旬の状況等
11月に入ると,Iは,マイペースで落ち着いて過ごせるようになり,
5日には自ら希望して院内歯科を受診し,12日,19日,26日も受診した。11月までの時点で,左上7番と右下6番に加え左上6番の補綴物も外れてしまっていたため,L歯科医師は,右下6番と治療中であった右上4番に早期に仮歯を入れ,右側の咬合接触面積を増やして咬合の安定を図る方針とした。そして,右上4番,左上5番について根尖部の治療を行い,同月19日までに,右上4番,右下6番,左上5番,6番に仮歯を装着し,う歯治療を除いて上記方針による治療を概ね終了した。Iは,同月26日,来院はしたが,口腔外科に行きたいので紹介状を書いてほしいなどと話して受診を拒否し,以後,再び院内歯科を受診しなくなった。被告Gらは,11月に入ってIの症状が改善したため,同月9日,24日,12月1日,8日,15日に原告らと外出をさせた。Iは,外出の際,噛み合わせのことを訴えて口腔外科へ行きたい旨をよく話していた。11月9日の外出は問題なかったが,同月24日の外出から帰院する際,

戻りたくない。

と言い,車が止まるたびに逃げ出しては戻ってくるということが2回ほどあり,3回目は5,6分しても戻って来なかったが,その後すぐに被告病院の方向に歩いているところを発見され,

戻らなきゃいけないんだよね。

と言って車に乗り帰院した。このエスケープについては,東京都に対する退院等の請求の回答文書を自宅に取りに帰って被告Gに見せたかったと話した。12月1日の外出はスムーズに帰院した。同月4日の面接では,被告Gも原告Aも,入院以来一番落ち着いているという認識であった。Iも,途中から面接に加わり,

噛み合わせはなるべく意識しないようにしている。じきに良くなると思ってるので。

と話し,被告Gは,Iに対し,

ここのところ,だいぶ良い。そろそろ自宅への外出のリハビリも試したい。患者のがんばり伝わってくる。お互いに嬉しいこと。

などと評価した。同月8日は,自宅へ外出し,帰院後,帰院したくないとも思ったけれどそれでは振り出しに戻ってしまうと思って帰院した
などと話した。

2度目のエスケープ等
Iは,12月15日の外出時,途中の道路で車を降り,独歩で帰宅してしまった。被告病院には戻りたくない旨を訴えたが,両親の説得等により帰院した。同日のM看護師との面接で,

自分はいい子で我慢してきましたがもう限界です。

などと話し,同月16日の被告Gの精神療法で,

里心がついた。本当は黙っていた。不安で死んじゃうんじゃないかって。良い子ぶっていた。本当は実は困っていてご飯が噛めないんです。

などと話した。被告Gらは,咬合不全の訴えの妄想と不穏が再燃したと判断し,外出及び外泊は一時禁止し,
OTクラブ,
集団散歩も禁止することとした。
被告Gは,今後の治療について,

やるだけのことはやっている気がしているだけなのか。治療を投げるわけではないが,この患者の入院治療も限界か。

と自問自答した。そして,Iの治療には相当長期間かかると考えられる(治らない可能性もある)ところ,被告病院では,急性期の患者が多くて入退院のペースが早く,
Iにとっては落ち着かない環境であるから,
生活の場になるような長期の施設で加療するか,あるいは自宅で何とか暮らしてゆくのがよいのではないかと考え,同月17日の面談で,原告Aに対し,その旨を伝えた(1月20日の原告らとの面談の際にも同様の説明をした。。


(6)

12月18日から2月3日(本件自殺の直前)までの状況等(甲B34)カーテンレール事件及びその後の状況等
12月18日午後0時30分ころ,Iの同室者から看護師に対し,Iが前日夜(消灯前ころ)カーテンを引っ張っていたようで,天井に穴があいたとの連絡があった。Iの病室の入り口ドア付近にあるカーテンレールの端が折れ曲がって垂れ下がり,カーテンの一部が破れ,カーテンレールが取り付けられている天井が壊れかけている状態であったが,落下はしてい
なかった(Iの病室のカーテン及び天井は,約30kgの力がかけられると落下する構造になっており,当時のIの体重は約84kgあった。。)
Iの頸部左側には,別紙図面1のような直線上の傷(発赤)が見られた。Iは,いつ,どのような行為をしたかについて,看護師に問われても,

起きるときにカーテンをつかんだらぐらぐらした。

と説明するのみで要領を得た答えはせず,自傷に関しては一切否定していた。被告Gによる問診の際も,希死念慮をことごとく否定し,

朝起きてちょっと引っかけただけ。

などと答え,理由を問われると,

分からない。傷なんて他にもありますよ,どうってことないじゃないですか。

などと答え,右手のリストカットによる古傷を見せた。被告Gは,首の傷がどのようにしてできたかは分からなかったが,自傷と判断し,同日午後3時35分から,自傷,不穏を理由に隔離拘束を開始した。
M看護師は,同日の交換日記(甲B34)において,カーテンレール事件について,

今迄随分我慢してきたことがよく分かりました。,

今回どんな理由があったとしても,自分の体を傷つけるのは,まずいですね。,

拘束そのものは辛いかもしれませんが,傷つけたり,死んでしまっては,今迄の苦労が生かされません。

などと記載した。これに対し,Iは,

方向性死んで楽になろうではなく,退院して歯を治して食べ物がおいしかったことをとりもどす。

と記載した。J医師は,同日午後8時20分ころ,原告Bに対し,Iがカーテンを破って自殺を図った旨,頸部に傷があり,現在隔離拘束中である旨を電話で伝えた。なお,その後,原告らに対し,自殺未遂ではなく自傷行為にすぎない旨の訂正の連絡がされることはなかった。J医師は,同月19日,診察を行い,不穏で衝動性が高く,自傷のリスクが高いとして,隔離拘束を継続するとの判断をした。その際,Iは,

辛いことはG医師ではなくJ医師に相談していいですか。

と話した。
Iは,同月18日,20日,女性スタッフに対して,交際を申し込むような発言をした。
今回拘束になったことやカーテンレール事件については,

自分が自傷したからです。分かります。(同月21日)「その気はな


かったけどホントにできるかなと思ってやってみた。(同月23日)衝,
動がコントロールできなくて。(同月29日)などと話した。また,持」
ち込み禁止のハサミ(小型)と鏡が自室内に持ち込まれているのが発見され,回収された(同月22日)
。被告Gによる精神療法(同月24日)の
際,カーテンを引っ張って首にかけたという自傷行為を反省しており,もうしないこと,噛み合わせを考えると辛くなって開放(解放)されたいと考えたこと,今後は本を読んで勉強してゆけばよいと考えたことなどを話した。同日,G医師の指示により隔離拘束解除となり,看護師から拘束中考えたことについて問われると,いっぱい考えられた。カーテンのこと。

電球のこと。自分の感情を抑えきれてなかった。

などと話した。M看護師との定期面接(同月28日)では,

つらくてやるせなくてどうしていいか分からないうちに楽になりたかったんです。でもこれからは相談していきたいと思っています。

などと話した。被告Gは,カルテや通信面会制限指示簿等に,カーテンレール事件のことを首吊りという言葉で表現したことが何度かあった。また,12月18日から24日までの隔離拘束について,隔離・拘束指示書(医師が記載。
)の指示内容欄及び理由,状態像欄並びに重点看護記録用紙
の行動制限理由欄には,別紙平成14年12月の隔離・拘束理由等一覧表のとおりの記載がある(その後の看護記録等には,看護師がカーテンレール事件を自殺企図に基づくものと考えていることが窺われる記載はない。。

Iは,カーテンレール事件以降も,噛み合わせが悪くご飯が食べられないことが辛い旨を訴えたり(同月19日,同月20日など)
,食事に約1

時間半かかったり(同月18日夕食)
,ご飯をこぼしたり(同月23日昼
食)などのこともあって,咬合不全の訴えが続いた。

1月以降の症状等
M看護師は,同月初め(年明け)ころ,カーテンレール事件を受けて,Iの当時の状況及び今後どう関わっていったらよいのかについて,Iさんとの関わりについて(プライマリーとして考えていること)という文書を作成し,下記①ないし③のような分析をした。①

Iの当時の状況について,理解力が乏しく認知は歪んでいるため,こちらの意図はなかなか伝わらない,そのため対人関係のスキルもかなり低い状況にある,歯の噛み合わせについて妄想的になっている(以前は飛蚊症)
,トレランスは低くコーピングスキル(適応技能)の選択肢は
殆どないため自分の思うようにならないと衝動的になる。



カーテンレール事件について,原告らとの外出後,外泊が始まるという時期に自傷行為をしたということに大きな意味がある。



Iの歯が噛み合っていないとの訴えは,<ア>自分の能力と親の期待が噛み合っていない,<イ>仕事もできない駄目な自分と立派な,父,兄,姉が噛み合わない,<ウ>父,母,兄,姉の関係が噛み合っていない,<エ>父,母の関係が噛み合わない,<オ>自分と現実の世の中が噛み合わないことについてのこだわりとして表現されているのではないか。これらが少しでも噛み合ってくればよいが,噛み合わない状況がこれからも続くようだと,自己破壊的行動が続くことになると思う。
1月以降,Iは,噛むとき痛くて噛みづらい,院内歯科でよいから受診
したいなどと希望するようになり,
今度はちゃんと受診する旨をも訴えた。
被告Gは,これまでも数回にわたって院内歯科受診を自分から断ったことの理解,それを振り返る(反省する)能力は極めて薄いと考え,院内歯科の受診も認めなかった。
Iは,
その後も頻繁に同様の訴えをするとともに,

同月10日には,L歯科医師に対しても同様の内容の手紙を送付したり電話をかけるなどした。そこで,L歯科医師は,被告Gに対し,Iに院内歯科を受診させるか否かについて検討を依頼し,Iの咬合不全を満足させるような治療を行うことは,被告病院の歯科ではできないし,他の医療機関に紹介状を書いて治療してもらうこともできないこと,う歯治療途中の歯については精神状態が安定したら治療をすることができること,ただ,この治療を行うことでIの症状が悪化する可能性があるのであれば,院内歯科を受診することは避けた方がよいのではないかという意見を伝えた。これに対し,被告Gは,L歯科医師に対し,同月28日,Iに内在している不安や焦りとしての精神症状の象徴が妄想として出てしまうのが咬合不全の訴えであり,精神症状,理解力の低さ,現実検討力の低下からして,う歯治療も含めた歯科診療が難しいと考えていることを伝えた。
Iは,M看護師による定期面接(同月8日)の際,

辛い。もう限界です。死にたいくらい!!G医師は怖い。歯科に行かせてくれない。

と泣き出して,

食事ができない。死を待つばかり。

と話し,M看護師は,Iには強い見捨てられ不安があると判断し,交換日記(甲B34)に看護師は味方であることなどを記入した。
Iは,同月15日,看護室で,ハサミを持ち出そうとした。また,原告らが,面会の際(同月19日)にIがしつこいために早く帰ろうとしたところ,Iは,原告Bの腕を引っ張り,更に頬を殴打した。この行為について,Iは,暴力を振るったことを否定したりごまかしたりした。
Iは,同月15日,M看護師との定期面接を予定していたが,

疲れちゃってとても無理です。

などと話して応じなかった。そのため,M看護師は,衝動行為はしないことを約束させた上,面接を中止とした。その後,
M看護師との定期面接が行われることはなかった。その後も,看護師の巡回や医師の診察は定期的に行われていた。

Iは,ゲンタシン軟膏チューブをボロボロになるまで噛み続け,両手首には発赤及び擦過傷様の傷が見られたため(同月23日)
,被告Gは自傷
を理由に隔離拘束を開始した。Iは,チューブを噛んだことについては,

軟膏がないと食べられない。,

噛んで歯型取れば噛み合わせが治ると思った。

などと話し,手首の傷については,

ただ手首を歯で噛んだだけ。

などと話した。Iは,看護師に対し,同月24日,

自分だけ大馬鹿なんです。父は東大,母は千葉大,兄は医者,姉は京大…。と話した。

被告Gは,
同月27日の診察の際も,
Iがもうしません。

反省してます。


などと言うのみであったため,なかなか深い反省(自己の行為を振り返ること)は得られず,これ以上の隔離拘束に意味はないと判断し,同月27日に隔離拘束を解除した。Iは,同月27日の隔離拘束の解除後,ベルトを返還するよう求めたが,心配なためまだ預からせてほしいと看護師に言われ,了解した。また,同月28日,詰め物が取れた旨を訴えた。同日,被告Gは,Iに対し,結果的に最後となる精神療法を施した。同精神療法後,Iが非常ベル(火災報知器)を押したことから,被告Gは,Iを診察し,
迷惑行為及び不穏を理由に隔離拘束を開始した1月29日,

被告Gは,Iを診察し,隔離拘束を解除した。。Iは,この行為につい)
て,否定したり,ごまかしたり,また,いたずらをした,歯の噛み合わせについてG医師に話を聞いてほしかった(2月1日)などと話した。この隔離拘束の解除後も,本件自殺の当日まで,毎日看護師によるアセスメントが実施されていた。
被告Gは,MRM委員会薬剤科DI室より,精神科処方中抗精神薬が5剤にデポ剤を加えるとCP換算値が5000mgを越えるという連絡を受け,1月31日より一部減薬した。
Iは,同月30日の昼食時はマイペースに過ごしていた。同月31日,

歯に被ってた物が取れたので歯医者に行かせて下さい。

と訴えたが,
看護師に,なぜ歯科にかかれないのか,自分の行動を振り返ってみることと指導された。2月2日は,噛み合わせの訴えはなく,自室でマンガを読んで楽しんでいた。同月3日,午前11時ころ看護師と同日の過ごし方について話し合い,午後2時に個別散歩をし,中庭でキャッチボールをすること,午後3時にゴミを捨てることを約束した。Iは,ロッカーに貼ってあるインドのハンカチの象を見て,日本の象は牙を抜かれてかわいそ「う。」などと話した。また,床頭台の引き出しの中に電気髭剃り器がコード付きのまま入っているのを発見され,回収された。
(7)

本件自殺について(甲B29,33,乙B1,3)
2月3日の午前11時以降,Iは,その病室の天井の通風口のブラインド
状格子に通した自分のベルト(茶色)に首をかけて自殺を図った。病室のドアは開いており,午後0時03分ころ,O療法士に発見され,午後0時04分ころ,職員4名により引き下ろされた。当時は,昼食時ということもあって同室者は不在であった。連絡を受けたK医師が直ちに診察したところ,心肺停止状態で既に瞳孔は散大していたが,直ちに心肺蘇生措置を開始し,挿管,人工呼吸,心臓マッサージ,ボスミンの投与をしたところ,心拍が再開し,武蔵野赤十字病院へ救急搬送された。
Iは,本件自殺の当時,C3病棟326号室に入院していた。この病室の床面及び天井面の平面図は別紙図面2(Iの使用していたベッドは,同図面③のベッドである。
)のとおりであった。
その後,原告らに対し,Iが首を吊り生命が危ない状態であり武蔵野赤十字病院に救急搬送された旨の連絡がなされた
本件自殺後,Iの病室からもう1本の茶色のベルトが発見された。なお,遺書はなかった。
(8)

本件自殺後について
被告病院では,2月4日に緊急の安全管理委員会が開催されて本件自殺に
ついて報告され,その後,C3ないしC6病棟について病室の通風口にカバーを設置するという再発防止策を講じた。
3月5日,東京都健康局医療安全課課務担当係長のQ(医学博士。)らに
より,本件自殺について被告病院の立入検査(精神保健福祉法38条の6,医療法25条1項)が実施され,その際,被告病院の管理者より

自殺に用いられたベルトは本人の持ち物であった。自傷他害のおそれがなかったので本人管理になっていた。

などと報告され,

引き続き精神病棟内での危険物の持ち込みについて適切に管理すること。,

引き続き精神病室の設備について患者の保護のために必要な方策を講じていくこと。

などの指摘指導がなされたが,Iの病室の通風口が崩落構造を備えず,メッシュ状のカバーも設置されていなかったことについての指摘,指導はなかった。
原告Aは,被告法人から,非常ベルの修理代(3000円)とカーテン及びカーテンレールの修理代(3000円)を請求され,3月18日にこれを支払った。
2
Iの精神疾患,自殺の予見可能性について
被告Gらの義務違反の有無を検討する前提として,被告Gらにおいて,Iの本件自殺を予見することが可能であったかどうか,あるいは予見すべきであったかどうかについて,以下検討する。
(1)においてIの精神疾患について検討し,(2)において前提となる医学的知見を検討し,(3)において原告ら主張の自殺を予見すべき事情等につき個別的に検討した上で,(4)において総合衡量をすることとする。
(1)

Iの精神疾患について
咬合不全の訴えについて
Iの咬合不全の訴えは,下記①及び②のとおり,客観的な症状に比して明らかに誇大であって,訂正不能であったことからすると,心気妄想であるといえる(原告らのいわゆる協力医であるR医師(甲B20,25)及
び被告らの協力医であるS医師(乙B27,32)も心気妄想であると判断している。。



Iは,従前から前歯部の開咬と右下7番の歯の欠損があったが,食物を食べることはできており,舟久保デンタルオフィスにおいて,咬合接触部位を確保することにより咬合状態を改善する治療を受け、平成14年2月18日に経過良好のため治療を終了していた。そして,5月22日ころまでは咬合不全の訴えはなかった。ところが,本件入院の直前,噛み合わせが気になり,補綴物をペンチで外してしまうという行動に出た。



院内歯科においても,11月19日までに,補綴物が外れた箇所に仮歯を入れるなどの咬合接触面積を増やす処置を受けた。そして,L歯科医師や被告Gらから,咬合の状態や口腔外科的手術の適応がないことを説明された。しかるに,咬合不全の訴えが本件入院期間中消えることはなく,L歯科医師らの説明も理解できず,口腔外科的手術を受けて咬合不全の問題が解決すればすべての問題が解決されると考えており,119番通報したり,食物が食べられないために死んでしまうと発言するなどした。


Iの精神疾患の病名について
Iは,入院当初は境界性人格障害と診断されていた。しかし,統合失調症の特徴的症状として,<ア>妄想,<イ>幻覚,<ウ>解体した会話(滅裂),
<エ>ひどく解体した行動,<オ>陰性症状(感情の平板化,思考の貧困,意欲欠如)のうち2つ以上が,1か月間以上ほとんどいつも存在するとされている(前提事実(3)ア)ところ,Iの症状は,<ア>心気妄想(咬合不全の訴え)
,<ウ><エ>解体した会話,行動(現実と遊離した多くの言動),<
オ>陰性症状の一部(思考の困難,感情の平板化)に該当し,咬合不全を体感異常と捉えれば<イ>幻覚にも該当する可能性があることからすれば,
Iの精神疾患は統合失調症と捉えるのが妥当である(R医師(甲B20,25)
及びS医師乙B27,

32)
も統合失調症であると判断している。。

(2)

証拠(各項に掲記したもの)及び弁論の全趣旨によれば,自殺の予見に
関し,次の医学的知見が認められる。

自殺の予測や予防について
(ア)

統合失調症患者の自殺は,うつ病患者の自殺に比べて,事前に予測
できないものが少なくない(甲B8,乙B24,25)

(イ)

自殺を100パーセント予防することは不可能であるが,自殺行動
の背景に存在する精神障害を早期に発見するとともに,自殺の危険の高い人の心理を理解し,適切な治療を行えば,予防の余地は十分に残されているとの考えもある(甲B1,3,4(高橋祥友医師の著書)。)
(ウ)

自殺に至る生物学的ないし心理・社会学的な決定的要因がいまだ十
分に明らかにされておらず,疫学的に意味のある危険因子は指摘されてはいるものの,臨床的に十分有用となる程度に自殺を予測しうる指標はいまだにない。
現在行われている自殺未遂者に対する精神医学的介入も,
再自殺の防止効果を実証されるまでには至っていない(乙B23)。

自殺の危険因子として,別表2のようなものが挙げられ,下記のような指摘がされている。
また,
自殺直前に見られる行動の変化(自殺のサイン)
として別表3のような指摘がされている。
(甲B1,9)
(ア)

自殺未遂,自殺企図,自傷行為について(甲B1,3,4,8,2
7)
自殺未遂者の10人に1人(一般人口の数百倍)は,将来再度自殺により命を落とすとされている。
自殺未遂が,救助される可能性の乏しい状況で行われ,また,用いた手段が死につながる危険の高いものであり,その行為により死亡できると確信していたような場合は,将来の自殺の危険が高いものと考えられ
る。
例えばリストカットのように,死の意図が明確ではなく,実際に死ぬ危険も低く,他者を自己の利益のために操作することを目的とした自傷行為のことを,パラ自殺という。しかし,死の意図の有無を判別するのは難しい。パラ自殺患者は,それ以外の患者に比べて,将来自殺企図に基づき自殺に至る患者が多い。
(イ)

精神障害の既往について(甲B6,8,乙B23)
精神障害に罹患した患者の自殺率について,うつ病では9ないし60
パーセント(平均19パーセント)
,約15パーセントなどの報告があ
り,境界性人格障害では約8ないし10パーセントという報告があり,統合失調症では約10パーセント,約10ないし13パーセントなどの報告がある。
(ウ)

統合失調症患者の自殺について(甲B8)
統合失調症患者は,他の精神疾患の患者に比べ,自殺の意図を治療者
に打ち明けずにいる傾向が高いため,非言語的な自殺の徴候に焦点を当てたような臨床評価法が重要になる。幻聴や妄想に支配されての自殺ばかりでなく,慢性の経過中に直面するごく現実的な問題や合併する抑うつ症状も重要な因子になっている。自殺の契機となるストレスについては,統合失調症患者の独特の論理の中で,どのような苦悩を体験しているかを探ることこそが重要である。
統合失調症で自殺した患者の平均年齢は30歳代前半であり,また,女性より男性が圧倒的に多いとされる。
(3)

原告ら主張の自殺を予見すべき事情等について


Iの病態等


統合失調症患者であることは自殺の危険因子の1つとされ,統合失調症で自殺した患者の平均年齢は30代前半であり,また,女性より男性
の方が圧倒的に多いとされている(上記(2)イ(ウ))ところ,本件自殺当時,Iは30歳の統合失調症の男性患者であった。
他方,統合失調症患者の自殺は,うつ病患者の自殺に比べ,事前に予測できないものが少なくないとされている(上記(2)ア(ア))。


原告らは,Iに依存・敵対的,衝動的,強迫的・病的な完全癖,孤立的な性格傾向があったことを自殺を予見すべき事情として主張しており,
このような性格は自殺の危険因子とされている上記(2)イ別表2)(

しかして,Iが,原告らに頻繁に電話をかけていたこと,家族に暴力を振るっていたこと,
多数の衝動行為に及んだこと下記イ⑥ないし⑩)

などからすると,Iには,依存・敵対的あるいは衝動的な性格傾向(あるいはそのような症状が出やすい傾向)はあったものと考えられる(8月1日,2日の心理テストにおいても,依存的,衝動的である旨分析されている。。




原告らは,Iが通信面会制限等により家族(原告ら)の支援を受けにくく孤立した状態にあったとして,これを自殺を予見すべき事情として主張しており,サポートの不足は自殺の危険因子とされている(上記(2)イ別表2)

しかし,Iについては,プライマリーナースのM看護師など被告病院内にも支援を受けることのできる者は存在し,孤立した状態であったとはいえないこと,Iには原告らに対するコンプレックスがあり,原告らが結果的にはIの咬合不全の訴えを一部取り合ってしまうという状況があったことから,通信面会制限は,Iに対する刺激を少なくし,心気妄想(咬合不全の訴え)にとらわれないようにする効果があるものであって,原告らの支援を困難にするものでなく,むしろ原告らの支援をIの病状に合わせるものといえるから,Iにおいて通信面会制限により孤立した状態にあったという原告らの主張は採用できない。



統合失調症患者の自殺につき,
自殺の契機となるストレスについては,
統合失調症患者の独特の論理の中で,どのような苦悩を体験しているかを探ることこそが重要であるとされている(上記(2)イ(ウ))。
しかして,Iは,本件自殺の当時,原告らに対して根深いコンプレックスがあって(自己の無価値感があった(上記(2)イ別表3))。,それ
が自己の精神状態に悪影響を与えているのに,その自覚のないまま,口腔外科を受診して外科的手術を受ければすべての問題が解決すると思っていたところ,それを本件入院中ずっと許されず,12月15日のエスケープ後には外出等も禁止され,1月には希望しても院内歯科の受診を許されなくなってしまったことなどについての苦悩があったということができ,これらが自殺の契機となるストレスとなる可能性は否定できない。


自殺企図や希死念慮を窺わせるIの発言や行動について
自殺企図歴ないし希死念慮を有することは,自殺に及ぶ危険性が高いことを窺わせる事情といえる(上記(2)イ(ア)参照)

また,衝動,自傷行為に及ぶことについても,自殺企図歴ないし希死念慮を有することに比べれば自殺に及ぶ危険性は低いと考えられるが,衝動的な性格が自殺の危険因子とされ,攻撃的・衝動的な行動や自傷行為が自殺のサインとされ,パラ自殺患者は,それ以外の患者に比べ,将来自殺企図に基づき自殺に至る患者が多いとされていること(上記(2)イ(ア))からすると,自殺に及ぶ一定の危険性があることを窺わせる事情といえる。ここで,統合失調症患者は,他の精神疾患の患者に比べ,自殺の意図を治療者に打ち明けずにいる傾向が高いため,非言語的な自殺の徴候(行動化(前提事実(3)エ参照)
)に焦点を当てたような臨床評価法が重要にな
るとされているから,自殺企図や希死念慮を窺わせる発言のみならず,それを窺わせる行動についても検討する。



Iは,
食物が食べられないために死んでしまう,
あるいは死にたい5

月28日,6月27日,9月24日,10月25日,同月27日)旨を訴えることもたびたびあり,特に,同月25日には

噛み合わせが悪く,辛い。もう死んでしまいたい。

と訴え,同月27日には

このままご飯が食べられなくなったら死んでしまう。

と訴えている。そして,1月8日には,M看護師に対し,辛い。もう限界です。死にたいくらい!!

食事ができない。死を待つばかり。,

と訴えている。このうち,少なくとも,死にたいという訴えは,希死念慮を窺わせるものである。



R医師は,物干台の柵を乗り越えた行為(6月25日)について,もし数分気付くのが遅れれば,Iは飛び降りていた旨を指摘する(甲B20)

しかし,物干台の開放時で被告病院スタッフや他の患者がいる状況で行われたこと,この物干台の柵を乗り越えた先には2階の物干台上の庇があり,その庇の端から約1.6m下には1階の患者用の喫茶店のような建物の屋根があったことなどからすれば,この行為は逃走行為か周囲へのアピールであった可能性が高く,柵を乗り越えて一気に地上まで飛び降りて死のうとしていたとは考えがたく,また,衝動性は窺われるとしても,自傷行為とはいえない。



証拠(甲B25,乙B27)によれば,リストカットは,一般に自殺を目的として行われるのではなく,些細な失意,失望,拒絶や離別などを契機として行われる自傷行為として位置づけられ,その目的は死ぬことではなく,感情の開放,内的攻撃性の発露,周囲へのアピールなどの無意識の目的をもった衝動行為ということもできることが認められ,Iのリストカット(6月27日,1月23日)も,自傷,衝動行為と評価される。

もっとも,リストカットをした部位(橈骨動脈等の重要な部位か否か)
,程度(傷の深さ)
,時間,場所,発見状況(発見困難な時間帯,
場所で行ったか否か)
等を勘案して自殺企図が窺われるような場合には,
自殺の具体的な危険性のある患者として判断されるべきである(乙B27,32)が,Iのリストカットについては,電気髭剃り器で左手首の10cmほど上部をこすって傷つける(6月27日)とか発赤及び擦過傷様の傷ができた(1月23日)という程度であって,危険性の低い方法で行われたこと,
ナースステーションに見せに来たこと6月27日)

からすれば,いずれも自殺企図が窺われるとはいえない。


Iは,蛍光灯を損壊した行為(7月25日)
,面会中に原告Bを殴打
した行為,軟膏のチューブを噛んだ行為(1月23日)
,非常ベルを押
す行為(同月28日)に及んだところ,これらの行為は衝動行為と評価される。



なお,R医師は,リストカットは統合失調症では自殺の前兆としてのためらい傷であることの方が多いなどと指摘し,Iのリストカット,蛍光灯を損壊した行為,面会中に原告Bを殴打した行為,軟膏のチューブを噛んだ行為の奥には希死念慮が隠されていたと指摘する(甲B20,25)

しかし,それらの行為については,その客観的な内容から見れば,当時において,希死念慮の発露と判断することは困難であり,自傷,衝動行為であること以上に統合失調症患者のリストカットであるがゆえに自殺の危険性を高く評価すべきであったとはいえないR医師も,

興奮性,
衝動性の高まりと判断することももちろん間違いではないとも指摘している(甲B20)。



カーテンレール事件(12月18日)について
(a)

カーテンレール事件は,カーテンレールの端が折れ曲がって垂れ

下がっていたこと,カーテンの一部が破れていたこと,首という枢要な部位に傷があったことからすると,カーテンを首に巻き付けるなどして首を吊ろうとしたのではないかと推察できなくはない。
現に,Iは,カーテンレール事件のことについて,M看護師との交換日記に

方向性死んで楽になろうではなく,退院して歯を治して食べ物がおいしかったことをとりもどす。(12月18日)と記載

し,その後も,楽になりたかったなどと話している。
(b)

しかし,カーテンレール事件において,カーテンレール及び天井

は約30kg以上の体重がかけられると落下する構造になっていたところ,カーテンレール事件当時のIの体重は約84kgであったにもかかわらず,カーテンレールは折れ曲がったに止まり,天井やカーテンレール自体が落下することはなかったことからすれば,カーテンレールにIの全体重がかかったとは考えにくい。また,首の傷は左側の一部にしかなく全周性のものではないこと,傷の程度も発赤のみであることからすれば,仮に首にカーテン等の索状物が巻き付けられたとしても,
かけられた力はそれほど強い力ではなかったと考えられるも

っとも,Iが自殺企図に基づいてカーテンを首に巻き付け,強い力をかけようとしたところ,カーテンレールが落下構造になっていたためにすぐに天井から外れて折れ曲がってしまい,結果的には強い力がかからなかったにすぎないという可能性も否定はできない。。

また,同室者の説明は必ずしも要領を得ないが,Iは同室者のいる状況でカーテンを引っ張っていたということであり,周囲に容易に発見される状況で行為に及んだことが窺われる。
自殺未遂が,救助される可能性の乏しい状況で行われ,また,用いた手段が死につながる危険の高いものであり,その行為により死亡できると確信していたような場合は,将来の自殺の危険が高いものと考
えられる(上記(2)イ(ア))ところ,以上のように,首にかけられた力は強くはなく,
同室者のいる状況で行為に及んでいたという事情は,
カーテンレール事件において自殺企図がなかったことを窺わせる事情であるとともに,仮に自殺企図があったとしても,抽象的なものに止まり,近い時期での自殺の危険が高いとは評価されないことの根拠となる事情でもある。
そして,Iは,カーテンレール事件について尋ねられた際,

傷なんて他にもありますよ。

などと言って右手の古傷(リストカットによる傷)を見せたり(12月18日)

自分が自傷したからです。,

(同月21日)

衝動がコントロールできなくて。(同月22日),


カーテンのこと。電球のこと。自分の感情を抑えきれてなかった。

(同月28日)などと発言し,カーテンレール事件直後(同月18日,20日)も,女性スタッフに対して交際を申し込むような発言をしているのであって,これらは,カーテンレール事件が希死念慮の現れでないことを窺わせるものである。

本件自殺直前の事情について

自殺の手段を用意することは自殺直前のサインであるとされている(上記(2)イ別表3)ところ,1月27日に看護師に対してベルトの返還を求めた行為,2月3日までに電気髭剃り器をコードつきのまま持ち込んだ行為について被告Gらは把握していた。これらは用法上の凶器にすぎないが,索状物が自殺に用いられる可能性が抽象的にはあるといえるから,その限度で自殺の手段を用意する行為である可能性を考慮する余地はあった。


本件自殺の直前も,1月30日の昼食時はマイペースで過ごしたり,2月2日はマンガを読むのを楽しんだり,同月3日午前11時ころも,看護師と一日の過ごし方について話し合い,午後2時に個別散歩し,中
庭でキャッチボールをすること,午後3時にゴミを捨てることを約束しており,他に明らかに自殺のサインといえるような事情は見当たらない(自殺直前のサイン(上記(2)イ別表3)とされるこれまでの抑うつ的な態度とは打って変わって不自然なほど明るく振る舞う状態であるとも思われない。
)ことは,Iに自殺企図があることを窺うことが困難
であった事情である。

なお,原告Aは,2月2日の面会の際,Iが

死ぬと思うよ。

と話し,首に手をやり,さするように回していた旨供述する。しかし,そのような事実の存否はともかくとして,原告Aは,これを被告Gらに伝えていない旨をも供述しているから,少なくとも,被告Gらにおいて上記のようなIの言動をも踏まえて自殺の危険性を判断すべきであったとはいえない。


また,原告らは,被告Gらにおいて,カーテンレール事件以降,転院や退院を勧め,治療を放棄するような姿勢だった上,1月29日の隔離拘束解除以降,隔離拘束時と比べても症状の改善はなかったにもかかわらず,治療・看護体制は手抜き状態となっていたのであり,自殺の危険性の評価を怠っていた旨を主張する。
しかして,本件入院中,薬物療法等によってもIの心気妄想(咬合不全の訴え)は一貫して消えることはなく,11月から12月上旬までに症状は徐々に改善していたものの,外出をするにつれて,エスケープなどの悪化の兆しが見られ,外泊が始まるという時期に再び悪化したことに鑑みると,Iの治療には相当長期間を要するとの被告Gらの判断は合理的であり,そうすると,①急性期治療中心の被告病院よりも長期療養型の病院の方がより適切であると考えられること,②一般的にも,好転しない精神疾患の患者にとっては,環境の変化が望ましいという面もあると考えられることに照らすと,被告病院において退院や転院を検討す
ることが不適切であったとはいえない(甲B25,乙B27参照)。
そして,1月15日以降M看護師との定期面接が実施されていないという事情は認められるが,前記認定のとおり,看護師の巡回や医師の診察は定期的に実施されていたこと,被告Gは,同月28日には精神療法及び隔離拘束を開始する際の診察を実施し,同月29日にも隔離拘束を解除する際の診察を実施していること,同隔離拘束の解除後から本件自殺当日の2月3日まで毎日看護師によるアセスメントが実施されていることなどからすれば,被告Gらの診察や看護が,医療水準を下回る程度しかなされていなかったとはいえず,自殺を予見するために把握すべきであった事情を把握していなかったということはできない。
(4)

自殺の予見可能性ないし予見義務について
確かに,Iについて,上記(3)の①ないし⑭において検討した事情の中には,カーテンレール事件(⑩)以外にも,統合失調症患者であったこと(①)
,依存・敵対的,衝動的な性格傾向があったこと(②),家族に対
し根深いコンプレックスがあったほか,自己の問題を解決するために必要と信ずる口腔外科の受診を許されないことなどについての苦悩があったこと(④)
,希死念慮を窺わせるような発言もあったこと(⑤),リストカ
ット等の自傷行為や衝動行為があったこと(⑥ないし⑨),ベルトの返還
を求めた行為などの自殺手段の用意である可能性のある行為があったこと(⑪)など,自殺の危険因子とされるものがあり,1月には,口腔外科のみならず院内歯科の受診も許されなくなり,自傷行為,衝動行為や希死的発言も見られた。そして,カーテンレール事件については,自殺企図に基づくもの(自殺未遂)ではないかと窺われる面がないではない。


しかしながら,上記アのうちカーテンレール事件(⑩)及び自殺手段である可能性のある行為(⑪)以外の事情については,10月以前にも見られたものであったが,11月から12月上旬にかけて,咬合不全の訴えも
改善し,自傷行為や衝動行為もなくなるなど,Iの症状は入院以来最も良い状態になったといえるのであり,そうすると,12月中旬以降にこれらと同様の事情があったとしても,自殺の危険を予見することは困難であったと考えられる。
カーテンレール事件についてみても,他方で自殺企図に基づくものではないのではないかと思わせる事情もあるし,仮に自殺企図に基づくものであるとしても,前記のとおり,その態様等からして,近い時期における自殺の危険が高いとは評価されないものであるといえる。
これらの点のほか,本件自殺の直前においてもIに自殺企図があることを窺うことは困難な事情もあったことや,一般に自殺の予防や予見には限界があること(上記(2)ア(イ)(ウ))にも照らすと,上記アのような事情があったからといって,Iにつき,近接した時期の自殺を具体的に予見できたとか,予見すべきであったということはできない。

なお,下記①ないし③のとおり,J医師や一部の看護師は当初はカーテンレール事件が自殺企図に基づくものであったと判断し,又は疑ったことが認められるが,その理由として上記(3)に指摘したもの以外には特段窺われないことからすれば,上記イの判断を左右するものではない。①

J医師は,12月18日に原告Bに電話をかけた際は,カーテンレール事件を自殺未遂と判断していたと考えられる。しかし,同月19日に隔離拘束を継続した際は,自殺企図を理由とせず自傷のリスクが高いことなどを理由としており,
自殺未遂という判断を改めたことが窺われる。



M看護師は,12月18日,交換日記に

傷つけたり,死んでしまっては,今迄の苦労が生かされません。

と記載しており,自傷又は自殺企図の可能性があると判断していた。しかし,1月上旬ころには,Iさんとの関わりについてという文書の中で,カーテンレール事件については単に自傷行為と表現している。



12月21日及び23日に重点看護記録用紙の行動制限理由欄を
記入した看護師は,
Iに自殺企図の可能性もあると判断していた(た
だし,23日は自傷も行動制限理由とされている。。しかし,そ

の後の看護記録等には,看護師がカーテンレール事件が自殺企図に基づくものと考えていることが窺われる記載はない。


また,原告らは,被告Gらが,陰性の逆転移による陰性感情に影響されるなどして,Iの自殺の危険性についての評価を誤り,自殺の危険が高いことを認識していなかったとも主張する。
しかし,上記ウまでに記載したとおり,客観的に検討しても,当時,Iの自殺の具体的危険が高かったとは言い難いから,被告Gらに陰性の逆転移が認められたか否かにかかわらず,
原告らの主張には理由がない。
また,
陰性の逆転移は自覚しない場合に問題がある(前提事実(3)ウ)ところ,本件においては,仮に陰性の逆転移があったとしても10月29日のユニットミーティングでその話が出ていることからすれば,本件においてはその弊害は出にくく,それによって,Iの自殺の危険性についての評価を怠り,
又は誤ることは起こりにくい状態であったといえ,
この点においても,
原告らの主張は理由がない。

3
被告病院閉鎖病棟の設置又は保存の瑕疵,病室の安全確保義務違反及び危険物管理義務違反について
(1)

証拠(各項に掲載したもの)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認
められる。

入院患者の所持品や精神科病室についての基準等
(ア)

下記のような内容のマニュアルを備える精神科病院がある(甲B3
8,40,41)



開放病棟では刃物,針,薬品を預かり,閉鎖病棟では更に洗剤やベルトも預かり,日中に院内の喫煙コーナーに行けない患者には,ライ
ター,タバコは特に厳しく管理する。


私物中に危険物や事故の原因となりうる物もあるため,本人の立会いのもとで荷物を確認し,預かり物品とするか,家族に持ち帰ってもらう。荷物チェック時には患者のプライバシーに十分注意する。



自殺や自傷行為を防止するため,所持品の点検をして危険物の管理を徹底する。



自殺の危険の高い患者の室内では,引っかけるもの,引っかかる構造がないようにする。



病棟内の危険物の持込みは制限する。詰所より危険物の持ち出しがないようにする。
必要に応じて,入院時や外出,
外泊からの帰院時に,
持ち物を患者の同意のもとにチェックする。

(イ)

精神病院建築基準(乙B15)
精神病院建築基準は,旧厚生省公衆衛生局長による各都道府県知

事宛ての通知であって,医療法及び建築基準法等に基づく基準のように拘束力を有するものではないが,
精神病院の設置及び整備に当たっては,
なるべくこの基準によるよう指導すべきものとされている。
同基準においては,一般病室について,生活場所としての雰囲気を出すことが必要であり,例えば,洋室にする場合には,テーブル,椅子,戸棚,ロッカー等を置き,和室の場合には,押入れ,私物入れ場所,縁側等を設けるなどとされている。
(ウ)

病室の通風口につき,ベルトを通せる程度の隙間があってメッシュ
状のカバー等は取り付けられておらず,かつ,崩落構造にもなっていないという精神科病院(閉鎖病棟)も少なくない(乙B4ないし12,17ないし22)

(エ)

閉鎖病棟(一般病室)において,ベルトの所持,使用が許されてい
る精神科病院も少なくない(被告G及び同H各本人)



自殺の方法について
(ア)

自殺一般について(甲B12,13,15,16,19)
自殺の手段は,縊首が最も多い。通風口に索状物を通す方法による自
殺も,本件自殺当時までに複数報道されていた。
(イ)

精神科病院における自殺について(甲B38,39)
日本精神科病院協会の統計によれば,会員病院での医療事故の28パ
ーセントが自殺で,その手段としては縊首が最も多く,自殺の道具としては,①タオル,②衣類,③ひも,コード,シーツ,④ベルト,⑤カーテン,抑制帯の順に多い。
福岡県精神病院協会の調査(昭和47ないし49年)によれば,縊首58例に用いられた道具としては,ひも類47例(うち革製バンド2例)
,衣類6例,寝具類5例(うちシーツ3例)であった。

被告病院における私物管理の状況(乙B29,34,被告H本人)(ア)

閉鎖病棟においては,刃物類,コード,鏡などは所持を禁止され,
電気髭剃り器のコードなどは必要な場合に貸し出す方法がとられていた。また,預かった患者の私物については,私物台帳に記録することになっていた。ベルトについては,7,8割の患者に使用を許していた。(イ)

本件入院時にIのベルトが預けられたという私物台帳の記録がな

い。Iは,本件自殺の当時,本件自殺に使用されたものも含め,2つのベルトを手元に所持していたが,被告Gらは,これらが持ち込まれた経緯については把握していなかった。
(2)

被告病院閉鎖病棟の設置又は保存の瑕疵について
原告らは,
精神科病院の閉鎖病棟においては,
通風口を崩落構造にするか,

通風口にカバーを設置して通風口に索状物を通すことができない構造を備えていなければならないのであり,このような構造(以下原告ら主張構造という。
)を欠いていた被告病院の閉鎖病棟は,その設置又は保存に瑕疵が
あったというべきである旨主張する。
ここで,①統計的に精神科病院の閉鎖病棟に入院している患者には自殺を図る者が少なくないと考えられること,②一般に,自殺の方法として縊首は最も多いとされ,通風口に索状物を通す方法による縊首も報道されていたこと,③通風口にメッシュ状のカバーを設置すれば通風口に索状物を通す方法による縊首を容易に阻止できる(現に,被告病院においては,本件直後にそのような対策を講じた。
)こと,④自殺の危険の高い患者の室内では,引っかかる構造がないようにするという病院もあることなどからすると,原告ら主張構造を備えた方が自殺予防の観点からは望ましいと考えられる。しかし,⑤自殺の危険が(著しく)切迫しているために閉鎖病棟に収容するのでは自殺してしまう可能性が高いと考えられる患者については,隔離ないし拘束をすることにより自殺を防止することが予定されていること,⑥閉鎖病棟の病室内において索状物を引っかけることのできる場所は,通風口に限らず,ドアノブ,ドアクローザー,窓の手すりや柵,エアコンなど様々考えられるのであり,索状物を室内設備に引っかける方法による縊首を物理的に阻止するためには,通風口を含め,これらの物すべてに崩落構造等の対策を講ずる必要があるが,それは容易ではなく現実的でもないこと,⑦精神病院建築基準を含め,精神科病院の閉鎖病棟について原告ら主張構造を備えるべきことを求めた公的な基準やガイドラインがあると認めるに足りる証拠はないこと,⑧東京都健康局医療安全課による立入検査の際にも,原告ら主張構造を欠いていることについての指摘や指導はなかったこと,⑨閉鎖病棟の病室であっても,通風口にベルトを通せる程度の隙間があってメッシュ状のカバー等は取り付けられておらず,かつ崩落構造にもなっていないという精神科病院も少なくないことからすれば,原告ら主張構造を備えることが閉鎖病棟の通常有すべき安全性として求められるとはいえず,被告病院の閉鎖病棟の設置又は保存に瑕疵があったとはいえない。

(3)

病室の安全確保義務違反について
原告らは,Iについては,自殺の危険が高く,通風口に索状物を通して縊
首することが自殺の方法として容易に想定されたのであるから,被告Gらにおいて,Iの病室に原告ら主張構造を備えて安全を確保すべき義務があったと主張する。
しかし,上記2のとおり,本件自殺の当時,被告Gらにおいて,Iが自殺に及ぶことを具体的に予見することができたとか予見すべき義務があったとはいえないから,自殺の危険が切迫しているものとして隔離室に収容すべきであったとはいえないし,上記(2)の⑤ないし⑨も併せ考えると,Iの病室に原告ら主張構造を備えるべき義務があったともいえない。
(4)

危険物管理義務違反について
原告らは,Iについては,自殺の危険が高く,外出の際にエスケープした
ことなどから自殺の道具となりうる危険物を所持している可能性があったのであるから,被告Gらにおいて,所持品の点検をするなどして自殺の道具となりうる危険物としてベルトを所持させないよう管理すべき義務があった旨主張する。
ここで,上記(2)の①,②の点のほか,閉鎖病棟内ではベルトの所持を許していない病院や,自殺の危険の高い患者の室内では引っかけるものがないようにしている病院もあることを併せると,閉鎖病棟の患者にはベルトを所持させない方が自殺予防の観点からは望ましいと考えられる。
しかし,上記2のとおり,本件自殺の当時,被告Gらにおいて,Iが自殺に及ぶことを具体的に予見することができたとか予見すべき義務があったとはいえないから,自殺の危険が切迫しているものとして隔離室に収容すべきであったとはいえないし,①精神科病院において縊首の手段として用いられる道具は,ベルト以外にも,例えば衣類やシーツなど様々な物があり(上記(1)イ(イ)参照)
,これらは用法上の凶器ではあるが,その排除をすること

は社会復帰という観点からはマイナスであること,②他人の所持品を利用する可能性もある(現に,Iは,1月15日に看護室からハサミを持ち出そうとしている。
)から,Iの所持品中からベルトを除去するのみでは自殺を阻
止する効果は限られ,他方,閉鎖病棟の入院患者全体の所持品中からベルトを除去するとなると他患の社会復帰等への影響が大きいこと,
③閉鎖病棟一

般病室)においてベルトの所持,使用が許されている精神科病院も少なくないことも併せ考えると,被告GらにおいてIにベルトを所持させてはならない義務があったとはいえない。
4
医原性自殺防止義務違反
(1)

原告らは,Iは,客観的に咬合不全等の歯科治療を要する状態にあった
上,
統合失調症の妄想的な身体感覚も加わって苦しんでいたにもかかわらず,被告Gらにおいて,その苦しみを理解しようとせず,口腔外科の受診を許すことなく,1月以降は院内歯科の受診も許さず,また,威圧的・虐待的な言動や治療態度を取るなどして,
Iを絶望させて自殺に追い込んだ旨主張する。
(2)

口腔外科,院内歯科の受診について
Iには,程度はともかくとして咬合不全自体はあったこと,1月以降もう歯治療の必要性はあり,同月28日には補綴物が外れたことからして,少なくとも歯科的な治療という観点からすれば,口腔外科を受診させるということも考えられたし,同月以降も院内歯科を受診させることが望ましかったといえる。


ところで,証拠(甲B20,25,乙B27,32)によれば,心気妄想に対しては,否定する,取り合わない,何度も聞きたださないのが基本的対処法であると認められる。
しかして,上記2(1)のとおり,Iの咬合不全の訴えは心気妄想であり,Iが,口腔外科的手術の適応がないことを説明されても理解できず,口腔外科的手術を受ければすべての問題が解決されると考えている点は,その
心気妄想の中核的な部分と考えられる。そうであるとすれば,口腔外科の受診を許さないという被告Gらの対処法は,心気妄想を否定することにつながり,上記の基本的対処法に沿うものであるといえる。
また,院内歯科においてう歯治療を受けさせるというだけであれば,直接的には妄想を肯定することになるとはいえないが,①院内歯科を受診することで口腔外科を受診したいという希望が強くなるという面もあることが窺われること,②Iが院内歯科の受診を希望した理由は咬合不全であるが,同月19日までに咬合の安定を図る治療は概ね終了しているから,1月段階では咬合不全に対して院内歯科において実施すべき治療はなく,そうであるとすれば,Iの納得も得られずに結局受診を拒否される可能性も高いと考えられ,これらの事情に照らすと,同月以降院内歯科を受診させなかったことが不合理であったとはいえない。

したがって,被告Gらが,口腔外科の受診を許さず,1月以降は院内歯科の受診も許さなかったことをもって義務違反に当たるとはいえない。この点,R医師は,強く否定すれば消えるようでは妄想とはいえないこと,妄想に対して薬物療法がほとんど効いておらず,口腔外科受診の希望が叶えられずに興奮してしまい(Iからすれば罰として)隔離拘束をされるということが繰り返され,そのたびごとに医師と患者の関係が悪化していることからすれば,いったんIの言い分(悩み)を受け入れ,やりたいようにやらせてみる,あるいはむしろ希望することにいったん協力することで主治医としての信頼を勝ち取るという迂回路も必要である旨を指摘している(甲B20,25)

しかし,①口腔外科の受診を認めることは,上記イの基本的対処法に反し,妄想を肯定して妄想が強化されかねないと考えられ,また,②大学病院の口腔外科を受診したとしても,Iの希望である外科的手術の適応はないと考えられるところ,慶應義塾大学病院の歯科を受診した際にも興奮し
て暴れた(Iは,

そのとき診察がすぐに終わってしまったことにいきどおりを感じ,さらに3年治るのにかかると言われてびっくりし近くにあった物をはらいおとしてしまった。

と説明している(7月23日))こと。
からすると,外科的手術の適応はないという説明を受けた場合に,Iが混乱状態に陥らず,主治医としての信頼を勝ち取ることにつながるかどうかについては疑問があり,R医師の上記指摘は採用できない。
(3)

威圧的・虐待的な言動や治療態度等について
原告らは,被告Gらは,被告病院での診療を諦めて転院や退院を勧め,診
察や看護も十分実施せず,治療を放棄しており,違法であると主張する。しかし,上記2(3)ウ⑭のとおり,被告病院において退院や転院を検討することが不適切であったとはいえないし,被告Gらの診察や看護が医療水準を下回る程度しかなされていなかったとはいえない。
そして,被告GとIとの間の治療のための信頼関係構築が十分であったとはいえない(甲B20,25,乙B27,32)が,Iの心気妄想は本件入院中一貫して消えることはなかったこと,Iの病識及び現実検討力が低かったことからすれば,結果的に治療のための信頼関係構築が不十分であるというだけで,被告Gに違法と評価されるような威圧的・虐待的な言動や治療態度があったとはいえない。
また,被告Gは,Iが院内歯科の受診を拒否したことにつき理解,反省は極めて薄いことを挙げて1月以降歯科診療を認めなかったり,なかなか深い反省が得られないことを同月27日の隔離拘束の解除の理由としているが,被告Gのいう反省とは自己の行動を振り返ることを意味するところ,そのような反省をするよう働きかけることは,現実検討力や病識が著しく低下していたIの精神疾患の治療においては有益であったと考えられるし,隔離拘束の実施及び解除の時期が不適切であったことを窺わせる証拠はなく(R医師も指摘していない。,上記(2)のとおり口腔外科及び院内歯科の受診に係る)

被告Gらの対応も不合理ではないことからすれば,上記のような反省をするようIに働きかけることをもって違法な行為であると評価することはできない。
被告Gは,Iの主治医として,精神療法を実施し,その中でIの精神的な問題点を指摘したり,病識がなく拒薬傾向にあるIに対して投薬をしたり,必要な場合には隔離拘束をしたり,口腔外科の受診や院内歯科の受診を許さないなどの対応をしたところ,これらは,Iの精神疾患の治療には有益であるが,Iの希望には沿わないという面もあり,それによって被告GとIとの治療のための信頼関係構築が不十分となったとしてもやむをえないというべきである。
そして,Iのために,M看護師をプライマリーナースとしてつけることによって,同看護師との間で信頼関係を構築して悩みやストレスを打ち明けやすくし,人間関係を拡げる手がかりを提供し,現にIが同看護師に対して悩みを打ち明けるなどしていることからすれば,被告GとIとの治療のための信頼関係構築が不十分なために対応しきれない面についても,被告病院全体としては補完のための対応を取っていたということができる。
(4)

以上のとおりであって,被告Gらに原告ら主張のような医原性自殺防止義務違反があったとは認められない。

5
以上の次第で,原告らの請求は,その余の点について判断するまでもなく,いずれも理由がないというべきであるから,これを棄却することとして,主文のとおり判決する。
東京地方裁判所民事第14部

裁判長裁判官

貝阿彌


裁判官

水野

有子

裁判官

井出

正弘

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